ログイン | 新規登録

第3回目(2011年7月)の課題本

 

 下流思考

 

現在の停滞している日本経済、そして日に日に増加しつつある無気力な若者たち。


日本はどこで舵取りを誤ってしまったのだろう?という長年の私の疑問に、閃光を浴びせるかのような鋭い
 指摘をしてくれたのが本書です。 勉強をしない事、働かない事が彼らにとって利益になるという構図が、逆説的なのですがとっても説得力 を持っています。

これを読んで、「こんなアホにはなりたくない」と思うのは簡単なのですが、ここは一個人としての視点だけ ではなく、日本全体をマクロに見つめる視点も持って読み込んで頂きたいと思います。


著者の本は20冊くらい読んでいますが、私のこころに最もインパクトを与えたのは本書です。

【しょ~おんコメント】

7月分の課題図書の優秀賞を発表します。


今回は、Akiko3さんに差し上げる事にしました。


今回に限らないのですが、みなさんご自分の意見、感想と言うよりは、著書の要約が大半を占める中で、

Akiko3さんはご自身の考え、意見をちゃんと文字にしようという意志を感じられたのが受賞の理由です。


いつものように、Amazon5000円分の商品券をお送りしますのでお待ち下さい。

この「下流指向」学ぶとか成長すると言う事を目指している人には、とても参考になる本だと思いますので、

まだ読まれていない方にはお奨めします。

頂いたコメント】

---------------------------------------------------------------------------------------------------------

投稿者 ganchan58 日時

 

1.はじめに 学ばない子供達、働かない若者達が生み出されてきた背景

戦後、日本国憲法がまだ発布されていない1946年にアメリカ主導で教育基本法が定められた。教育はいうまでもなくその国の未来を担う人材を育てる重要な機能である。 戦時中、アメリカはアジアの人々を黄色い猿と読んで馬鹿にしていた。人間ではなくて猿に見えるんだね。しかし、その人間ではないはずのアジア人の中で、唯一日本にだけは苦しめられ、日本国民の強さに舌を巻いた。

誰の目から見ても日本が敗戦国となると分かっていたが、アメリカは日本に2発の原子爆弾を落とし大量虐殺をした。その理由の第一は黄色人種を人間以下の動物であると考えていたゆえに、放射能による人体実験をしても心は痛まなかった。第二には怖い国だった日本を完膚なきまでに叩きのめし、二度と逆らう気持ちをなくすというものだった。日本はアメリカにとって脅威の存在だったのだ。
 戦後政策の目的は日本を属国の地位に甘んじさせ、継続して日本から利益を得るというものである。その為の教育政策であった。日本の脅威的な強さの基盤である共同体性を解体することが最も重要な教育政策の目的だった。
共同体の中に生きる個人ではなく、共同体から独立した「個人の尊厳」を重んじ、真理と平和を希求し、個性豊かな文化を創造するという名の元に教育政策は成功を納めていく。
真理と平和を希求する憲法の元で日本は、軍備に頼らず勤勉に経済復興に励み、高度経済成長を成し遂げた。それが新しい日本のアイデンティティとして日本人に自信を与えたはずだ。
しかし、それは急激な日本の産業構造の変化をもたらし、地方から都会へ人は集中するようになり、地方の第一次産業は衰退の道を辿っていく。同時に大家族は核家族化と少子化を辿ることとなった。
高度経済成長の途上、日本人のアイデンティティは一生懸命働き貧しさから抜け出す事から、沢山のお金を手に入れることにより何でも手に入る生活がで目的となっていった。
足るを知るという言葉を皆が人生訓として生きていれば、違う道もあったかもしれないが、沢山のお金を持つ事が豊かさのアイデンティティとなってしまった。

 貧しいながらも、3世代が同居して仕事を継承していく時代は終わった。都会に移り住んだ子供世代は、子供に十分な教育と物を与える豊かな生活を手に入れる事が働く目的となった。
それはどうしようもない事だったかもしれない。なぜならば、戦前の歴史を全て否定され、子供たちの教科書は自虐的で歪められたものとなった日本人のアイデンティティは彷徨っていたのだ。

歴史の教科書だけではなく、テレビ、新聞などのマスコミもアメリカの政策に加担し、「個性尊重」「個人主義」「自己決定の原則」などの心地よい言葉が真の素晴らしい人間に生まれ変われるかのように日本国民の心をくすぐった。徐々に「お互い様だから」という共同体の意識は薄れ「個人主義」=「自分のしたい事を優先させる」という考え方が日本の隅々に浸透していった。
 子供には沢山の小遣いが与えられ、小さな頃から好きな物が買って貰えたし、子供が喜ぶ物を買い与える事が親の愛情だと誰も疑わなかった。
3歳、4歳の子供が一万円札を握りしめ、玩具やゲームソフトを買う。子供にとっての社会デビューはこの消費活動から始まる。少子化に加えて家事は電化され子供達は手伝う事もなくなりとにかく勉強することが子供の役割だと誰もが信じている。社会との最初の接触において、子供である自分を尊重して大人がお辞儀をし丁寧な言葉を使う。お金を持てば大人と対等なのだという意識が芽生える。お金という物は額に汗して働いて稼ぐもの。その労働の結晶としてのお金。子供はそれを知る事もなく、大金を消費していく。内田氏の言う「労働ではなく最初に消費活動する」ことは、子供にお金は楽には稼げないということも教えず、すぐに欲しい物が手に入り、大人さえ自分の気持ち一つで操れるという経験となる。瞬時に物事は解決し、子供に全能感が生まれる。
継続的な地道な努力などしなくても、今ここにお金さえあれば「何でもできるし、手に入る。」そのような便利なお金をすぐに手に入れたい。これを強力に押し進めたのはデジタル化、IT化である。
ボタンを押せば缶ジュースが出てくる。一々店に行って煩わしい会話をしなくてもボタンを押しさえすれば目的は達せられるのだ。マウスをクリックするだけで、敵を倒せるし、株でお金を稼ぐ事もできる。
何も額に汗して、叱られて精一杯働いてわずかな給金を貰う生活に比べれば、煩わしさもないし、即時に目的が達せられる。鍛錬をしなくても目の前の敵が倒せる快感。これは強烈な体験だろう。
このような生活で確実に言語能力は失われ、人との関係性は薄れ、共同体は崩壊しつつある。
マスコミ特にテレビについては、ある評論家が一億総白痴化と言ったように、悪ふざけのお笑い番組や、大食い選手権、売り上げを狙って編成された二流の歌手達の番組を流し続け、視聴者に考えさせないしそれを変だとも思わない。世の中で起こっている重要な事も一面的な見方だけを報道したり、敢えて放送しないことが多すぎる。視聴者はテレビで言ってたから本当だと批評精神のかけらすら無い現状。  

2「学ばない子供達」「働かない若者達」への対策

テレビ番組で初めてのお使いというものがある。あれは「お使い」という労働をして「自己の有用性」を承認される喜びを知るという番組だ。消費行動をするにしても、時間の流れの内に予期せぬ事を沢山経験し、幼い子供が成功体験を得るという番組のような事を、地域あげて取り組んでみる。

コミュニティの復活が必要だ。人は関係性の中で一人前の人間となる。人であろうとも、オオカミの中で育てば人間にはなれない。その関係性はおそらく多様性を認める緩いものが必要だろう。つまりどんな自分であっても受け入れてくれる居心地が良いもの。苦手な人がいても居心地の良い人もいる。笑い合うことばかりではない、時には喧嘩もあるし、ののしり合うこともある。ただそれを本気の付き合いでできる場というものが必要だ。今の学校にそれを望むのはまだ無理かもしれない。
 心ある人達が、師となり核となる。子供達に向き合い何かに打ち込み完成させる経験をさせる。師となれる人の条件は学ぶ喜びや働く喜びを体験しているという事で良い。それは、体を使う物で、時間がかかるもので、自らの創意工夫が必要な物。そして結果については誰も他の子供を非難しない。何だっていい。野菜作りでも、山小屋作りでも、無人島生活でも、武道で黒帯をとるまで頑張るなど。あるいは楽器演奏で一曲でも演奏ができるように練習するなどプログラムは無限にある。ただし大人が手を出すのはある基準まで。大事なのは小さな成功体験をいくつも積み重ねるような援助をすること。そしてその結果を発表して、周囲から褒められる経験をするということ。認められて嬉しいという喜びを経験すれば子供達は変わるはずだ。
できれば、義務教育において、このような経験を何度も体験させる体制ができないものか。

 第二に、そういった個別の喜びの経験をしたら、次は社会の中で他人の役に立つという経験をさせたい。多少抵抗があっても、まずはやってみるという事がどれだけ大事なことか分かるだろう。
人はお互いに支え合って生きている。一人では生きられない。お互い様だからという経験を、次世代あるいは次次世代に継承していく。
家族間だけではなく、共同体の中で支え合って生きていくという意識を醸成するには、今が好機だと思う。東日本大震災と津波被害、原発事故による放射能汚染の広がり、更なる大震災が起こると予想されている今、新たに共同体を築き直す必要があるだろう。一度崩壊しないと再生しないという所まで突き進んでしまった。「学ぶ子供達」「働く若者達」を作り出す機会はやってきている。
学ぶ事は時間をかけるからこそ楽しい、働く事は他の人のために働くという意味に気づき、お金は額に汗して手に入れるしか無くなる世の中がそこまで来ているような気がする。

岩本和久



---------------------------------------------------------------------------------------------------------

投稿者 wapooh日時

 

下流志向を読んで

本書のタイトルを見た時、「最近の若者の学力低下と労働意欲の低下」を取り上げたものだと感じたのだが、実際は違っていました。
本書の主題は、文中にあるのですが「子供達の『学びからの逃走・労働からの逃走』について考察したものです。
現在、日本は経済的にも技術的にも高い水準にあり平和な環境にあり、教育を受ける子供の権利は確実に守られているのに、子供の側が自ら努力して学ぼうとしない。
これは、近年議論されている「ゆとり教育」に始まった事ではなく、氏の調査によれば、日本が現在のような自らが積極的に学ばない・働かない若者を生み出す社会になったのは、80年代から90年代にかけて、ちょうど生活の隅々まで経済(お金)が入り込む社会になった頃から始まっているといいます。『等価交換』がキーワードとなり教育とそれを受ける若者の立場を紐解いていきます。『等価交換』の理屈では勉強をすることが何かの役に立たつことが即、明確に分からなくてはならない、ちょうどお金を払うと商品が即座に得られるキャッシュオンデリバリーの感覚(先日のメルマガ)です。しかしながら、教育は時間が経たなければ役に立つかどうかは分からないし、全てが反映されるわけでもなく、直接的に認識できるわけでもない。子供は、そのことに関して、「勉強する価値無し」と判断してしまう。
現代は、子供にまで経済中心の社会が入り込み、子供達は成長する過程で労働を経験する前に、消費を経験してしまう世の中だと書かれています。消費主体の感覚が染みついた結果、目の前に出された商品をその価値が理解出来ないにもかかわらず、価値を判断して選択をする。
子供達が労働より前に消費を経験する背景には、家事労働(お手伝い)が少なくなったという環境もあります。子供は、家事労働のような生産性の高くない仕事を負担する事により親に対してささやかな貢献をすると言う実感を得られず、むしろ何もしない事が是とされて、まず消費を体験する。『オレ様化する子供』という言葉も紹介されています。
時間をかけて、今価値があるか有用性があるか分からないもの=教育を受ける事、身近な家族をはじめ誰かに貢献する労働をする事、そう言った概念が薄れている中で、まだ何も判断の出来ないはずの子供があたかも消費主体として教育・労働の価値を値踏みして、結果自らが学ばず・ニート化する。消費主体としての子供だけではなく大人も含めた立場は、どこか値踏みをしているからか『不満』気です。
 役に立たないことはしない、と言う思想は、役に立たない人間に価値無し、とまでは書いてありませんが、弱者が助けもなしに孤立してしまう社会をも生み出しているのではないか、と氏は書いており、やがてくるニートの高齢化についても心配をしています。お互い様、互助会的な社会について触れられてもいました。

 私は本書を読みながら自分を振り返りました。本書の内容は、現在若者ではないけれども、他人事ではないな。と。お受験にどっぷり浸かり学歴偏重の価値観をすっかり染み込ませて来た自分。両親はもののない地方から就職により、モノと文化にあふれた都市に出てきて核家族で会社同然の社宅での生活でした。両親とも、自分たちは誰にも助けを借りず自分だけで生きて行くのだと、自負をしていました。 勉強をして大学を出て努めてお金を稼ぐ事が立派な人なのだ、という本書にある典型的な家族像。大学を卒業していない人の労働はお給料も低く生産性も低く価値が低いのだという実体を伴わないイメージの定着。。
(結果としては、父は難病にかかり療養型の病院生活。母一人では何とも出来ず、医療機関、ヘルパーさん、地域のネットワークもろもろの助けを借りながら、唯一肉親の子供からの助けは極力借りずに(と言う意味で自立して)退職後の時間を過ごしています。この事は私にとって人の命の重さ、家族について考え直させられる機会でした。父は動けなくても寝ているだけでも、命ある限り私達家族にとって無くてはならない尊い存在なのです。家族はお互いに危害を与えるような理由がない限り、何があっても最後まで見捨てることなんてできないのです。)
実社会に出て、現実との違いに挫折と困惑の連続で今だ立ち直れずにきた自分。人よりも早く行動出来ない、気働きの出来ない自分。にも関わらず、プライドが高く諦められず少しの努力で勉強は出来るけれども、社会に貢献するためではなく自分の今の価値を上げるため、評価を得たいがための勉強で空回りする自分。。。人の気持ちの分からない、対人関係でなんとなく偉そうに振る舞ってしまい、どこかにずれを感じて、修正どころを探している自分。。。
すべての解がここにある訳ではないのですが、その心の持ち様のずれが消費主体と同じ前提にあったような気がして少し合点がいきました。まず、謙虚さが全くなかった。。。
もう十分に育ってしまった今、自分は自分で育てる時点にいます。時間をかけて取り組んでみる、謙虚に結果を求めでもなく、本書の家事や雪かき仕事のように貢献出来る仕事もおろそかにせずまた、認識する。佐藤先生のブログのコメントが以前よりも少し違って聞こえるようになりました。

以上、とりとめのない感想文になってしまいましたが、投稿させて頂きます。
本書を紹介下さり有り難うございました。
くさふみぷー



---------------------------------------------------------------------------------------------------------

medal1-icon.gif投稿者 akiko3 日時

 

「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」を読んで

 本書の副題“働かない若者たち”に、一瞬、ぎくっとした。が、すぐに(世代に)入ってない、入ってないと自分でつっこんだ。実は、今春退職し、働かない人になっていたからだ。忙しく仕事に追われていた頃は、どこか、自分の殻に閉じこもり自分の世界に浸っていられるニートを羨ましく思う部分があった。ニートとは何か?働かないことを選択した私はニートと似た部分があるのか?

 学ばない子供たちについて
 学級崩壊という言葉は聞いていたが、これでは先生方が病気になるのも仕方がないような気がした。小学1年でひらがなを学ぶことの意義を問う教室って、どうよ、と驚き、自分とは違う別世界のことと本能的に線引きしてしまった。
 自慢ではないが、小学1年でひらがなが読めていなかった。母は、家庭訪問で担任の先生から「本を読んであげてください」と言われ、兄は教えなくても覚えていたので幼稚園で習うと思っていたから慌てた。(かすかに、幼稚園でお遊戯しながら、“し~”はおサルの尻尾の”し“と手を右にくねっとやった記憶はあるなー)早速、母は、夜寝る前に本の読み聞かせを開始。兄と弟は母のそばで川の字になり、熱心に聞いていたが、肝心の主は…「見てみて~」とうさぎ跳びや逆立ちをして全然聞いてなかったらしい。ちなみに、げた箱や机は、位置で覚えていたというサル知恵。
 こんな私だからか、勉強は嫌いで宿題は追い込み型。外で遊んだり、TVやマンガは楽しむが、じっと座って…は苦手だった。TVを見ていたら、親から「子供は勉強が仕事!部屋で宿題!」とよく怒られたものだ。

 サルだったから、もとい、本能の部分で楽しいことを求め、何の為とか自分が何をしているかも意識しないまま、親の庇護の下、“わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい”世代の子として育った自分と、現代の学ばない子供たちの違いは何なのだろう。
 著者は、子供たちが幼少の頃から、お金を使う人間の立場を経験することで、社会的活動をスタートさせ、消費主体としてお金の全能性、つまり、年齢や識見や社会的能力などの属人的要素を問われないことを体験してきている。その為、子供たちが学びの場でも、消費主体として、消費活動(=等価交換)としての学びに価値がないと判断し、学びを無視していると指摘している。

 かつてのサルも群れの競争社会でもまれ、人並みの知識と秩序を身につけていく中で、高校生の時、英語がしゃべれることへの憧れから、苦手だった英語に取り組み始め、苦手意識を克服した経験から、学ぶ楽しさに目覚めることが出来た。と、同時に頑張れば頑張った世界があり、自分の属している群れとは違うもっと広い社会には階層があることにも気づいた。その頃から、勉強し始め、出来ないことがあれば出来るように、知らないことがあれば知ろうという態度に変わった。
 特に、社会人になってからは、どうして学生時代に勉強しなかったのかと大いに後悔した。それは、仕事を通して“嫌い”、“出来ない”、“わからない”では済まないことに多々出くわしたからだ。やるしかないと追い詰められる過程で、学ぶことの楽しさ、出来ないことが出来るようになる楽しさも味わえた。
 学生時代には、“こんなことしてなんの意味があるのか?”とか、新入社員時代には”こんな仕事…“と思っていたことが、学びの内容よりも、仕事自体よりも、それを身につけていく過程、その仕事から何を得るかが、とても大切だということに気づけた。それらの体験こそが、自分の可能性をどんどん広げてくれていたのだ。

 著者は、学びは時間がかかることだと言っている。だから、時間が存在しない等価交換の消費活動とはまったく性質が違うのに、子供たちは、幼い頃に刷り込まれた消費活動にしか学びを当てはめられない為に、学びの中に価値を見出せず、学びは価値のない商品だから興味はないという態度をとり、そんな不要なサービス(教え)に対し不満だと、教室で一生懸命不快さを示している現実を危惧している。
 また、学ぶということは、違う自分に出会うことなのに、学びから逃避している子供たちは、成長変化できないでいる。社会は、子供たちに外界の変化に即応して自らを変えられる能力がないのに、自分さがしの旅をさせ、その旅で自分に出会うのではなく、これまでの外部評価をリセットしているだけではないかとも指摘している。社会に対しての個という認識が生まれないまま、いつまでたっても自分という個にしか興味がもてない子供たちの行く末はどうなるのだろうか?
 このような子供たちが育まれた背景に家庭があり、家庭をとりまく社会がある。その社会は、これからもこのような子供たち(いずれ社会的弱者となる可能性が高い)を育み、二極化を進ませたリスク社会になる。そんな社会でいかに生き延びるかは自己責任であると、個人主義的に切られているが、リスク社会で生き残る術は、かつて親の世代のように、相互扶助的な集団に属することではないかと著者は述べている。
 学ぶことを知らず、社会と自分の関係もわからないまま、そんな社会の二極化の弱者となりうる子供たちの未来の姿と、現にニートとして存在している若者たちの姿とがダブって見えてきたが、著者はニートについて、学びから逃走する子供たちとの関連性にも言及している。

 働かない若者たちについて
 著者は、子供たちが学びの場で示す「不快」は、社会で流通している「貨幣」にあたることを家庭で学んでいるのではと述べ、子供たちは、家庭の両親の間で行われる取引を見て、「他人のもたらす不快に耐えること」=貨幣として等価交換の原則を認知した。家族はそれぞれの役割に伴う苦労の部分が見えない為に、互いに家庭で「疲れた」という不快感を示しあうことで、家庭への貢献度を示し、覇権争奪戦に熱中しているではないかと言う。
 幼い頃から消費者として自己決定をしてきた若者たちは、自分のことは自分で決めるポリシーを持っている。そんな若者たちだから、働いた結果を自己評価し、偏った結果をだしがちである。なぜなら、働くことは公共的行為なのに、個にばかり興味をもち、自己利益を追求するだけの若者たちには“はたを楽にする”労働の重要性がわかっていないからだ。若者たちは、自分を変えずに周りを変えることで変化を期待しているが、現実は思い通りには決してならない、結果、身動きできなくなり、ニートになる構図が浮かび上がってくる。
 つまり、労働が他人を楽にし、評価されることで、自分と他者を含むネットワークが変化する、その時、時間も流れている、そういう感覚が理解できない若者たちは、学ぶことを知らず逃走した子供たち同様、労働から逃走するという著者の話しには大いに説得させられた。
 働くことを辞めた私の中で、自分の労働と評価を天秤にかけた部分は否定出来ない。若い頃、自分探しをして、転職を考えたこともあったし、社会に対してよりも“いかに自分が楽に、得できるか”しか考えていなかったことも事実である。
 だが、ニートと違うのは、刷り込まれている価値観の部分が違うからだ。学びのスタート地点にちゃんと立たせてもらったおかげだとしみじみ感謝した。

   何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく中で、生きていくスキルを身につけ、こんなに多くのものに囲まれ、何不自由なく生きていられるのは、小さな社会の出発点であった両親のおかげ。まずは、両親にお返しをしたいし、社会的にも自立し、そのことで安心もしてもらいたい。
 今は人生の夏休みと称して働くことを辞めているが、働くことによって得た学び、労働を通して自己拡大できていたことを思うと、労働も大切だし、著者が述べているように、労働は本質的にオーバーアチーブであり、生み出された余計分が共同体への「贈り物」と考えると、自分の快楽に浸っているだけでは、自分という個の存在意義が薄れてしまう。
 今回の働かないという選択が正しいか否かはわからない。文中にあった“社会での問題解決方法が、正しいソリューションではないかもしれない。際立って利益を得る人がいないソリューションに落とし込む”的に、人生にはあきらめも必要という選択だったのかもしれない。

   子供の頃、夏休みは“やった~遊べる!”としか考えていなかったが、親としてはせっかくの長い休みだから、何か1つ成長させたい、出来ないことに時間をかけて克服させたいという思いを込めて、習い事やキャンプに行かせてくれていたのでは…と気づいた。
 今度は、自分で選択した人生の夏休みでもあるし、8月31日頃に全力を出すのではなく、今、ここでベストを尽くし、自分を成長させて、また社会に出て多くのオーバーアチーブを生み出せるように、一生ものの学びを強化しようと決心した。
 それは、単に外部からいいこと知った~と自分に取り込むことで終らない学び。真似て自分を改造していくことを意識した学びである。
 両親のみならず、社会に育ててもらった社会人としても、子供たち、若者たちに対して、直接一人ひとりをどうこうすることは出来ないが、一人の社会人として、全体の中の個を意識しながら自分の人生を一生懸命生きることで、共存していきたいと思う。  
 社会の変化は、社会を構成する一人ひとりの変化の上で起こりうることだと私も思うからだ。



---------------------------------------------------------------------------------------------------------

投稿者 koro 日時

 

義務教育の「義務」は、
子供達に掛かっているのではく、
親達に掛かっている。
という事に改めて気付かされました。

もし、日本で積極的安楽死を認めた場合、
消費主体として育った彼らは死を選ぶのではないか、と思えてなりません。
それが、この国とっていい事なのか、悪い事なのかはわかりませんが。

自分がココにコメントを残しても、
商品券を頂く事は、なかなか難しいと思います。
が、これからもコメントを残していこうと思いました。


---------------------------------------------------------------------------------------------------------

投稿者 minoru 日時

 

「下流志向(著:内田樹)」「学力を問い直す(著:佐藤学)」「希望格差社会(山田昌弘)」の三冊を読み、近代日本の教育と労働について整理し、考察したいと思います。

キーワードは「消費主体としての子ども(若者)、生活のリスク化と二極化、将来に対する希望の格差」だと感じました。

<消費主体としての子ども(若者)>
学校が「労働主体」としての自立の意味を説く前に、すでに子供たちは「消費主体」としての自己を確立している。そして、消費主体である子ども達は、「等価交換」というシステムが思考の根幹にあり、目の前に出された物がたとえ学校の教育でさえ、商品として品定めしている。小学校一年生の教室で、「先生、これは何の役に立つんですか?」と問う小学生。「忍耐や不快」という「貨幣」を教師に対して支払う感覚を持ち、それに対してどのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを問う。この忍耐や不快が貨幣として流通するという、等価交換の原則は、家庭の中で人生のきわめて早い時期に習得している。このことは、経済合理性が進んだ近代社会のひずみの一端であることは、著者らと同様、私も感じています。というもの社会人となった私も無意識に「不快」を貨幣として使用していることがあるからです。

これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは政府や世間が推進してきた「自己決定・自己責任論」。そして、これが捨て値で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出している。子どもが消費主体となった結果、何を学ぶ(購入する)かの判断は子どもにゆだねられている。しかしながら、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、すぐには分からない。そのため、教育の価値を理解できないままその場の「快・不快」の感情で判断しようとする。そして、この最初の判断を境に、二極化が進行していく。最初の判断に影響するものは、親からの無言有言含めたメッセージであり、後に述べる希望の格差だと思います。

<リスク化と二極化>
現代日本社会では、生活の各領域でリスク化、二極化が生じ、生活が不安定になりつつある。職業の分野では、ニューエコノミーという新しい経済システムが浸透し、雇用が不安定化している。教育の分野では、パイプラインシステムに亀裂が入り、漏れが拡大して、学校をでることが将来の生活の保障にならなくなり、青少年のやる気をなくしている。

教育は、子ども(とその親)にとっては、何より「階層上昇(もしくは維持)の手段」であり、社会にとっては「職業分配の道具」である。この二つの機能が危機に瀕している事が、現在の教育問題の根幹にある。言い換えれば職業リスク低減装置として機能していたのが、戦後日本のパイプライン・システム。このパイプラインの漏れが日本の教育問題の根幹となっている。これは、優れた能力を持たない多くの青少年に「将来不安」と「過大な期待」と「やる気の喪失」をもたらす。その結果、青少年が教育に対して寄せる希望に格差が生じる。さらに、このような状況は、経済生活の不安定化という外面的問題を発生させるだけではなく、人々の心理や意識といった内面的なものにも大きな影響を及ぼす。

<将来に対する希望の格差>
社会心理学者ランドルフ・ネッセの希望論に「希望という感情は、努力(苦労やつらさに耐えること)が報われるという見通しがある時に生じ、絶望は、努力をしてもしなくても同じとしか思えない時に生じる。希望とは、心が未来に向かい、現在の行動とつながっている時に生じる感情と言える。」
近代日本の最も問題となっているのはこの「希望」の喪失だと私は思います。
そして、「学びからの逃走」や「労働からの逃走」の根源もこの「希望」の喪失にあると考えています。

<学びからの逃走>
上層家庭の子どもは学力が高い。「努力の差」ではなく、「努力についての動機づけの差」「学力についての信憑の差」であると著者らは述べる。日本のある社会集団の中には、すでに「学校でよい成績を取ることは人間の価値と関係ない」という学校神話への否定から「学校で悪い成績を取ることは人間の価値を高める」という反—学校神話へのシフトが起こりつつあり、これが「階層下降することから達成感を引き出す子どもたちの出現」となって現れている。

学力の低下は子どもの側の怠惰や注意散漫の結果ではなく、一定数の子ども達が学びを放棄し、学びから逃走することから自己有能感や達成感を得ているため、教育技術やカリキュラムの改訂というテクニカルなレベルでは解決できない。

<労働からの逃走>
日本人は骨の髄まで集団志向。「自己決定すること自体がよいことである」という思想を「みんな」が共有する事を求められているという矛盾が生じている。その結果、自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わないという、ある種の「自己決定フェティシズム」に陥る若者が増えている。これらの若者は選択を強制されていながら、選択したことの責任は自分でかぶることを強いられているという不条理に気づいていない。

強者は、むしろ自己決定を放棄し、共同体の中での役割を演じることで、集団で利益を集め共有している。日本では、多くの社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。

<「学びからの逃走」「労働からの逃走」に共通する問題点。>
・ 時間の勘定に入れ忘れている
消費主体は他者からの承認に先立って貨幣を手にした時点ですでに主体性を確保し終えている。つまり消費主体である若者は時間を勘定に入れ忘れている。
知性とは、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れること。無知とは、時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のこと。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望である。

<ストレスからの逃走>
元来、適度なストレスは人間を含めた生物を強く進化させることに貢献してきたと私は考えています。しかし、今の若者に起きているのは、このストレスからの逃走ではないでしょうか。二極化の進行により俗にいう「勝ち組」「負け組」に二極化する社会。それぞれの親からのメッセージが子どもにダイレクトに伝わり、希望の格差と二極化の進行を加速させる。勝ち組の親に育てられた子どもは、ストレスから逃走せず立ち向かう事で将来が開かれていると信じている。この内田氏が述べていた「努力についての動機づけの差」という点が、学びや労働に真摯に取り組むために必要だと思います。

<<今後日本はどうすべきか?>>
<キャリアカウンセリング>
山田氏が述べているように、古き良き時代の労働主体に戻る事は困難であると思います。経済原理が浸透した今、教育システムを改善し対抗するしかない。そのためには、山田氏や村上龍氏が提案する対策「子どもに対するキャリアカウンセリング事業」が、最も効果があるのではないかと考えています。教育を受ける時点でその価値を判断しようとする子どもに、教育を受ける意味を正しく感じてもらう。「自分のためである」という認識を持ってもらうことが重要であると思います。

<正しい自立を目指すカウンセリング機能>
二極化した結果生まれる、親からのメッセージの差。特に小さな子どもは、親を絶対的な存在であると感じ、従っている。そして成長するとともに、親の姿を自分の姿を重ね自分の限界を無意識に決めてしまう。子どもにとって、無意識に親と自分を重ねる者、親を超えてはいけないという感情が芽生える者、「親は親、自分は自分」と自己を確立できる者の差が成長していく中で、大きく影響してくるのではないでしょうか。自己の確立は、一種の「親の生き方の否定」を伴う場合があり、間違った方向に進めば、親への反抗や非行などに進む危険性もはらんでいるが、子どもの可能性を拡げる上では、この意識改革が重要だと思います。前近代では親族(祖父母など)や地域社会がカウンセリングの機能を果たしていたが、その関係が崩壊してしまった今、政府・教育自治体・学校がその機能を担う必要があるかと思います。日本では、そのような学校や職場でのカウンセリング機能がほとんど機能していないため、なじむには時間がかかるかもしれません。しかし、今までのように「自己決定・自己責任・自由競争」で社会がうまく機能していくとは考えらないため、なるべく早く手を打つ必要があると思います。

<受験について>
佐藤学氏は高校入試の廃止を提言し、山田昌弘氏や和田秀樹氏は、むしろ受験がもつプラスの面を支持する。私の意見としては、受験は推進したほうがよいと思います。それは、先述した「パイプラインシステムの役割」は社会を維持するためには重要であり、「受験がもつプラスの面」、つまり「小さな成功体験」は成長において必要だと思うからです。ランドルフ・ネッセの「苦労の免疫理論」にあるように『社会に出る前に、「小さな苦労」に出会い、その苦労が報われるという経験をしておくと、苦労に対する免疫ができ、社会に出てからも大きな苦労に対し、希望をもって対処できる。』という考えに賛同しています。「努力が報われない人がかわいそう」という意見もありますが、そちらに併せていては、日本自体の成長が止まり、国家として立ち行かなくなると思います。

努力が報われなかった人々に対しては、セーフティネットの構築で対応するしかないと思います。また、カウンセリングによりそれぞれの生き方を見つける手助けをすることも重要でしょう。日本人は、人の眼を気にするあまり、みんながイメージする成功に向かってしまう傾向があると思います。しかし、それだけではないという事を自分との対話を認識することが大切だと思います。

<教育に関する本を読んで>
私の友人にも教師が多数おり話には聞いていましたが、本書を読み進めるにつれ、驚愕するとともに、日本の将来がさらに不安になりました。日本の行く末は、教育にかかっているのですが、この状況では。。。と言葉を失ってしまいます。始めて教育関連本を読みましたが、考えさせられるものが多く大変刺激になりました。現在、議論されている資本主義やアメリカンモデルの限界が教育という観点からも見て取れる気がします。今の状況から脱却するにはどうすればよいか。今後も関連本を読み、じっくり考えていきたいと思います。そして、まずは教育について友人の教師に話をしてみたいと思います。

minoru