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第116回目(2020年12月)の課題本


12月課題図書

 

「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考


今年もたくさんの面白い本に出逢ったのですが、この本はその中でもトップクラスの面白

さです。アートとは、芸術とは何か?という問いに、20世紀の現代アートをぶつけること

で回答しようという試みはユニークで、しかもこの回答が膝を打つというか、目からウロ

コというか、

 

 

  ● アートってそういうことなのか!!

 

 

と驚くこと必至です。私は前衛芸術とか、現代アートの面白さが全く分からなかったんで

すが、本書で解説されたキーワードを理解したら猛烈に興味が湧いてきました。

アートの歴史を学びながら、アート思考を身に付けて下さい。

 【しょ~おんコメント】

12月優秀賞

 

先月は新しい投稿者が増えまして、元旦からじっくりと読み込みました。そして今月の一次突

破をした人は、sarusuberi49さん、masa3843さん、vastos2000さんの3名で、優秀賞は

masa3843さんに差し上げます。ここのところこの方、やたらと文章が上手になりまして連続

受賞も止むなしという感じです。

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、ものの見方を変えて、自分だけの答えを見つけるという事がどれほど大切であるかという事を感じました。

普段の美術館や博物館の作品鑑賞でも、解説文にばかり目を向け、作品の意図や作者を理解したような気分になりがちであったという事に気づきました。

鑑賞する際に、作品名と作品サイズ、作品が作られた時代にばかり目を向けて、作品について考えて、見て楽しむという事から離れてしまってしたのではないかと考えるようになりました。

本書で紹介されている初級編のアウトプット鑑賞でさえも、中学生になってからは、ほとんど行っていなかったと思います。

その理由についても、13歳という図工が美術になる時期と重なり、考えられて納得しました。13歳前後というと、ちょうど中学校に入りたてぐらいの年齢になるかと思います。そこでの美術の授業として依然として行われているのは、「絵を描く」「ものをつくる」「作品の知識を得る」という技術や知識に偏ったものの考え方です。

本書でそのようなそれを特に表しているのが、『「正解を見つける力」から「答えをつくる力」へ』(P46)という言葉です。

今までの世界で圧倒的に支持されてきたのは数学的なものを理蘇整然と考える能力でした。しかし、「今のままではまずい」ということに、世の中が気づき始めています。

その背景になっているのが、「VUCAワールド」と形容される現代社会の潮流です。
「Volatility=変動」「Uncertainty=不確実」「Complexity=複雑」「Ambiguity=曖昧」の頭文字をとった造語で、あらゆる変化の幅も速さも方向もバラバラで、世界の見通しがきかなくなって来たのです。

敷かれたレールに従ってさえいれば成功できる、という常識が通用しない時代になり、ここ10年ほどは、時代の変化にいち早く対応しながら新しい正解を見つけようと、声高に叫ばれていました。

ところが現代のようなVUCAの時代にあっては、そのやり方すら役立たないものになりつつあります。

それだけ、世の中の変動が目まぐるしくなり、世界が変化する度に新たな正解を見つけていくのはもはや不可能で、無意味でもあるということです。

それは大人も子供も同じで、これさえやっておけば大丈夫、これこそが正しい、と言えるような正解はほとんど期待できません。むしろ、人生のさまざまな局面で、自分なりの答えを作っていく力が問われて来ているのです。

今後、求められるのは批評家や批判家ではなく、新しい視点で物事を考えられる創造者です。

改めて自分のことに当て嵌めて考えてみると、美術館や博物館で見る楽茶碗や志野茶碗は、歴史的価値のある美術品ですが、もし使ってみるとしたら、赤色や黒色の茶碗と白色の茶碗どれで抹茶を飲んでみたいか、という事を想像して楽しむこともできます。

展示されている作品を、自分が使うという行為に近づけてみれば、様々な作品が身近なものとして考えられます。

そこから、自分だけの考え方で発想し、自分はどうするかという未来の行動も考えられると本書を読んで感じました。
投稿者 akiko3 日時 
自分の人生を生きることができれば、人は皆、アーティスト!
アーティストは一部のプロを表す言葉であり、才能と言う技術とセットであり、特別な人・領域のことと思っていた。
だが、アーティスト(花職人ではない)の探求の根をはり、オリジナルのアートを創造する“アート思考”をインストールすれば、我々一般人にとっても“幸せな人生”にできる、人生の大切な土台だと思った。
ちなみに、花職人とサラリーマンは似ている。会社から与えられたゴールに、課題に向かって頑張る。それも経験値になり、達成感を得られるが期間限定だ。その期間も社会情勢により短縮されたりなくなったりする。
実際に、2020年は想定外の現実を体験せざるを得なかった。
秋ぐらいから、価値観や仕組みも大きく変わる“時代の転換期”だという情報を見聞きするようになった。時代にあわせ、新しい価値観が必要になると!
まさに、アートの城壁がなくなった時のように、既存の仕組みがなくなりフラットになって、目の前に“自由”が現れた。で、自分はどうしたい?
そうなのだ!これまで読んだ課題本では、探求の根をひろげ、自分の表現の花を咲かせた人達の話が多かった。だが、その著者達は眩しくて、正直、自分とは違う人種のように感じるところがあった。
それが、これからの時代は個がそれぞれに探求していいし、その個と個がつながり、思いがけない表現の花が咲くかもしれない、そんな環境が準備されている。
時代がアート思考をバックアップしているのだ。前例なんて問われない、すごいチャンスだと思えてきた。制限を外し、思いっきり自由に描いていい時代なのだ!
と、気持ちは盛り上がってくるのだが、半世紀刷り込まれた価値観、思考の枠はそう簡単には広がらない。そんな現実に不安がなくもない。実際には城壁跡地から離れてないかもしれない…。だって、著書の問い「窓を見てください」に対し、素直に“景色を見た”一般人の自分。言うは易し、行なうは難し。アート思考は一日にしてならず。訓練していかないと!!

それにしても、この本の出版のいきさつからも時代の変化とスピードを感じた。
この初出版は、美術教師としての表現の花であり、それは咲かせようとしたものではなく、個のネットワークの力で育て、花を咲かせた感じがした。
もちろん、著者の興味のタネが独創的で、探求の根が十分育っていたから一気に開花させられたのだが。一人の選ばれた天才でなく、一個人がなしうる証明のようにも思える。
一個人の著者は、天才と言われたジョブズ氏の言葉、“自分の愛すること”を探求することで道が開けてくると引用し、『点と点は自分の興味に向き合っていれば必ずつながる』と確信している。
ここで、ふと、個々人いろいろな入口から登り始めても、頂上から見える景色は同じなんだなと思いながら、この言葉には勇気づけられた。

最後に、個の時代とはいえ一人で生きていくのは味気ない。アートもインタラクティブなものが生じないとただの物質だ。興味のタネを育て、探求の根をはる過程で、刺激や栄養を受取れる場が大切であり、いつの間にか咲いた表現の花を喜んで見てくれる人達がいれば、それは幸せの分かち合いになるだろう。
一人一人の色とりどりの表現の花が沢山咲く2021年となりますように!
 
投稿者 charonao 日時 
 本書では、本来の美術とは「自分のものの見方」を持つための授業であるという事が書かれていますが、そこから更に「自分のものの見方」を通して、「自分の愛することを」を見つけ、心から満たされる人生を送るためには?という内容につなげている事が面白いと感じました。また本書では「アーティスト」「花職人」という表現を使い、「アーティスト」は自分のものの見方を持っており、自分なりの探求をし続ける事ができる人、「花職人」は人が用意した正解を求める人としています。私たちは、もちろん「アーティスト」を目指すべきだと思いますが、美術の授業に関し「技術」と「知識」に重点を置いた授業の影響で、子供の頃に持っていた興味・好奇心・疑問が影を潜めてしまい、「花職人」が大量生産されているのではないかと感じました。また美術に限らず、他の教科においても暗記を強いられたり、更にテストでも複数の選択肢から選び出すといった解答方式が多いことから、「用意された問いに対して、必ず正解がある」という認識が身につき、人が用意した正解を探す思考が無意識のうちに刷り込まれてしまい、「花職人」になっていくのではないかと考えます。

 では、それらの思考を変えて「アーティスト」を目指すためにはどうするか。その方法に関しては本書で著者が学生に都度おこなっている、「問い」の投げかけが重要だと考えます。筆者は本書のクラス3のカンディンスキーの絵で、「どこからそう思う?」「そこからどう思う?」という「問い」の投げかけを行っています。ここではアート作品の「見方」について言及をしており、作品に対してどこをどう見ればいいのかわからない…という多くの人が持つ疑問に対しての「問い」の投げ方の一例を提示しています。この「問い」の投げ方を知ることで、何が描かれているのかわからない絵を漠然と見るだけだったのが、わからないなりに気になる箇所について意見をして、その意見がどこから生まれたのかを、はっきり意識出来るようになっています。つまり「問い」の投げ方を知ることで具体的なアウトプットが出来るようになることから、「問い」の投げ方について意識的に学んでいく必要があると考えます。

 また「問い」の投げ方を教わったあとにも、継続した訓練が必要であると考えます。実際、本書では各クラスごとで必ず「問い」の投げかけを行っています。また、継続する必要があるからこそ、中学校の必須科目の美術に、その役割を担う必要性があるのではないかと感じました。

 更に「問い」を投げかけることで思考に深みを持たせるためにも、土台に膨大な経験は必要であると考えます。ダ・ビンチは完全に仕上げた9点の絵画作品の背景には、7000ページ以上にも及ぶスケッチや研究があったこと、またマティスは元々法律事務所に勤めていましたが、アートに目覚めてから美術学校で学び直し、数々の作品を世に送り出していることや、カンディエンスキーに関しては、クラシック音楽を幼少の頃から親しんできたなど、思考に深みを持たせるための経験の積み重ねがあったのだと思います。これらのことから、興味の持った分野に対し、知識や経験を積み重ねていく過程で、適切な「問い」の投げかけを継続していくことで、「探求の根」を伸ばすことが出来るのだと感じました。

 最後に、本書で一番印象に残ったのは、「アート思考の教室」を終えたあと「この授業を受けていなかったら、アートの面白さを知ることはなかったと思います。」や「授業を受ける前、僕はアートにほとんど興味を持っていませんでした。(中略)他の人とアート作品について話したりしたのがとても面白かったです」といった学生のコメントでした。元々アートに興味がなかったにも関わらず、この授業を受け終わった後にアートは面白いと、考え方が変わっている点が驚きでした。自分に対する「問い」の投げかけにより思考を深めることで、元々興味がなかったことも含め、様々なことに対し興味を持つことができるのだなと思いました。もしかすると、「アートというものがわからなくなってしまったが、もっと考えてみたい」といったようなコメントもあったことから、思考を深めること自体が面白い行為だということに、気づいたのかもしれないとも思いました。

 今まさに、このコロナ禍の流動的で常識が通じなくなっている時に、今までの常識に疑問を持つための「問い」の投げかけをしてみる事が必要だと思います。このような時期だからこそ、本書をより生かせるのではないかと感じました。
 
投稿者 tarohei 日時 
 これまでずっと現場業務を通して、ビジネスはアートたれ、と教えられ指導され続けてきていたが、いまいちその意味を図り兼ねていた。しかし、本書を読了してその意味がやっと理解できるようになったと同時にアートに対する考え方が一変してしまった。
本書を読んで感じた、アートとは?芸術とは?アート思考とは?について、自分の心の内に目を向けて、自分なりの答えを述べていきたい。

 まず、本書は芸術についての知識を深めるような本ではなく、アートを通して「自分の興味」、「自分の考え方」、「自分なりの答えの導き方」を身につけるものとなっている。アートとは、うまく描写したり、美しい彫刻を制作したり、名画や工芸品などの知識を語れるようになることではなく、
『①「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
 ②「自分なりの答え」を生み出し、
 ③それによって「新たな問い」を生み出す』
ものであり、
『「アート思考」とは、まさにこうした思考プロセスであり、「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだすための作法です』
と書かれている。
つまり、学校の授業で学ぶべきことは、制作のやり方や技能ではなく、アート的なものの考え方こそがアート思考であり、それが学校教育の真の役割だと本書では言っている。そして、大人が最優先で学び直すべきものだと主張している。

では、アート思考とはなにか?本書では、『単純化していえば、アート思考というのは、アートという植物のうちの地中部分、つまり「興味のタネ」から「探究の根」にあたります。ちょっとかしこまった定義をするなら、アート思考とは「自分の内側にある興味をもとに自分のものの見方で世界をとらえ、自分なりの探究をし続けること」だといえるでしょう。』と書かれている。言い換えれば、アート思考はプロの芸術家やクリエイターの仕事のする人たちだけのものではなく、ビジネスマンだろうが研究者だろうが、自分自身のものの見方ができれば、アート思考により努力の結果を手に入れ幸せを実現できるのである。
つまり、アート思考は"自分のものの見方"や"自分なりの答え"を手に入れるための考え方だということである。

これを読んだ時、ビジネスはアートたれ、という言葉が腑に落ち、目から鱗の思いがした。
正に現代のビジネスマンにとってアート思考はぴったりの思考である。


 次に、本書ではこれからはVUCA時代と呼ばれ、変化のスピードが速すぎてその方向性も複雑なものとなり、世界の見通しがきかなくなる時代になると言う。
昭和の頃までは、敷かれたレールに乗っかっていれば大丈夫、という常識があったが、平成・令和の時代ではその常識は通用しなくなり、時代の変化に追従しながらく対応しながら正解を見つけることがうたわれた。ところがVUCAにおいては、そのような常識や成功方程式は成立しなくなったのである。

世の中が流動的に変わっていく中で、この変化に追いつこうと常に変化し続ける見通しのきかない世界で、そのたびに正解を見い出していくことは不可能なことであろう。それは世代に関係なく、これさえやっておけば大丈夫とか、言われたことをやっていれば成功すると言えるようなものはなくなってしまったことを意味する。

それゆえに、人生の局所局所で自分なりの答えを作り出すことが必要になってくる。アートのように自分なりに問題点を探し出し、自分でそれに対する答えを見出していくことが重要であり、アート思考というのはこれからの時代に必要不可欠な思考方法だと言っても過言ではないと感じた。

ではどうすればアート思考が身につくのか。それは、まずアートを見るときは、自分自身の心の目で作品をよく見る「アウトプット鑑賞」をしてみる、そこで感じ取ったことを言語化する、そこから「どこからそう思う?」、「そこからどう思う?」という問いかけを自分自身に対して行い、思考を深めていくことが重要であることを学んだ。
  

 最後にまとめ。学校では美術や図画工作などの授業がある。そこでは手や頭を使ってなにかを作りだす、答えのないことを考えることをやってきた。しかし受験勉強やビジネスマンとしてやってきたことは決められたレールに乗っかり、言われたことを黙々とこなし、決められたルールや手順に従い業務をこなしてきた。

このようななかで、無意識に根付いてしまった常識、だれかに押しつけられた価値基準ではなく、自分自身で考えたこと、自分の感性に基づいて感じたことを大事にし、自分の心の機微について振り返り、向き合っていこうと決意を新たにした。

以上、アート思考について考えを深め、薄っぺらながら自分なりの答えを見つけ出すことができた、気づきの多い一冊となった。
 
投稿者 kenzo2020 日時 
「自分だけの答え」が見つかる
13歳からのアート思考

アートといえば、少し前にデザイン思考の本を読んだことがあった。また、だいぶ前に東京藝術大学の本を読んだことがあった。ともに自分の思いや考えを表出することがポイントだということを理解していた。

しかし、いきなり本書のはじめでつまずいた。作品よりも一生懸命説明文を読んでいる自分がいた。作品自体をじっくりと味わうことが欠けていた。

本書を読んで考えたことは2点ある。
1つはやはり自分が主役であること。もう1つは探究するということである。

なぜ自分が主役であることを考えたかというと、本書で登場するいくつかの作品の作成者が自分の内なる思いや考えを作品としてぶつけていたからである。おそらく周りから酷評されるだろうと予想しても、そんなことを気にもしていないのであろう。自分の考えから生まれた。ただそれだけで、周りからとやかく言われる筋合いはない、といったもので、堂々としている。

ただ注意しなければならないのは、闇雲に自分のやりたいようにやればよい、ということではないのだろう。守破離という言葉のように、だれかに教えてもらうなどして基礎をつくり、自分のものとし、さらにそれを自分が壊し、オリジナルなものをつくることが大事なのではと考えた。

だがしかし、ビジネスとして作品を作る場合にはこれが当てはまるのか疑問に思った。大多数が好むのではないか、ということを考えないと売れないし、儲けが出ないからである。

しかし、今は先の見えない時代。大多数が好むもの、つまり正解が何であるか見えにくい時代。そのため、たくさん売れるのかどうか不安だが、開き直って、たくさん失敗して経験を積めば良いのではないかとも思った。

2点目の探究についてなぜ考えたかというと、自分のものの見方で興味を持ち、関心がある点について掘り下げることが強調されていたためである。作品は氷山の一角のようであり、その背後には膨大な探究が含まれている。

いかにその作品が生まれたのか、なぜその筆づかいなのか、なぜその色合いなのか、鑑賞者は思いを巡らす。しかし、正解はない。そういったさまざまな考えが膨らむ作品がよい作品なのではないか。

ただ美しい、きれいということだけでは表面的で、すっとあわのように消えてしまい、鑑賞者の心に響かない。

本にしても、映画にしても、音楽にしてもその背景となる作者の思いについて、じっくりと考え、作品と向き合いたいと思うようになった。

近頃は激動の時代、今までの常識が通用しなくなった時代といわれる。そのようなときだからこそ、基礎をしっかりと学び、それを超えて自分の思い・考えを掘り下げることで探究し、自分オリジナルの人生を歩みたいと考えた。
 
投稿者 soji0329 日時 
「13歳からのアート思考」末永幸歩著を読んで


私は美術という科目が大嫌いでした。幼い頃は絵を描くことが大好きだったのに、です。なぜ嫌いになってしまったのだろう。本著を読み、まずはそこから考えさせられました。

一番いやだったのは、描きたくもない絵を描かされることです。そして飽きても仕上げるのを強要されること。さらに描いた絵を上手、下手と批評されることでした。今から思えば、幼稚園までは自由に描かせてくれたのに、小学校では図工、中学校では美術と名を変え、それこそ私に苦行を与え続けました。今でも美術の言葉にはアレルギーを感じます。

一方、3年前に亡くなった義母の趣味は油絵でした。美大を卒業し、結婚後も自宅にアトリエを作るほどの凝りよう。数々の展示会にも出展していたくらいです。晩年、義母は抽象画ばかり描き続けました。具象画も得意なはずなのに。本著を読んで思うに、これこそが20世紀アートなのでしょう。時おり感想を求められました。今になって思えば私もモネの絵の中にカエルを見つけたというような、ちょっとトンチンカンな話をしたかもしれません。

こんな美術嫌いの私も就職後、カタログやポスターなどの販促物や食品パッケージなどのデザインに携わった頃があります。デザイナーを指揮してデザインを作らせる。それこそ「花職人」の仕事でした。ユーザーや消費者にとって分かりやすい、手に取りやすいもの。クライアントの求める答えはそれでした。答えさえ示してくれればさほど苦にならないことに私は気づきました。商業デザインはアートと関係が無い。アーティストになる必要はないと考えていたほどです。

振り返ると、学校教育で出される問題は、常に答えがありました。それも一つだけ。正解の他は全て間違いでした。そんな教育を受けてきた私は、常に問題は他から提示されるもの、そして必ず答えが一つだけあるものとの既成概念にとらわれていたと、本著を読んで感じました。86ページ『答えがないのに、なぜ考えるのか?』を読み、今後、自分の持つ概念は限界が来ると示されたように思います。

本著に挙げられた様々なアート作品。マティス、ピカソ、ワシリー・カンディンスキー。さらにマルセル・デュシャンやジャクソン・ポロック。そしてアンディ・ウォーホルに至っては、もはや理解の域を超えていました。ただここで言う「理解」とは、前述したように、「問題としてとらえ、そこにたった一つの答えを探す」思考回路に他なりません。アンディ・ウォーホルによってアートと非アートの城壁まで失くされてしまった現在、MoMAによる『「自分たちのものの見方」によって「本当にすぐれたもの」を選び出そうとしている』という記述はつまり、「アートとは、誰に強要されるのではなく、自分で審美眼を磨いていく行為そのもの」とおぼろげながら感じた次第です。

「誰にも強要されない」と自分で述べましたが、本著の中のエクササイズ、5分間ラクガキをせよと言われ、実は何も描けませんでした。自主的に描きたいものが見つからないのです。何かしらテーマを与えられるとスタートできたかもしれません。例えば犬を描けとか、今食べたいものを描けとか。ところが何でもいいと言われた途端、描きたいものが思い浮かばない自分に気づきました。

そう感じて、あらためて印象に残ったのは、246ページの絵です。著者が2歳の時に描いたとされる作品です。これこそまさに、私が幼稚園に上がるまでに描いていた絵のように思います。著者は、お母様の話を受けて、当時の自分の考え方を想像し説明していますが、私も何かしら楽しかった原点を見た気がしました。大人になった現在、こんな風に自分を解放できたら、どんなに素敵でしょうか。『絵のとらえ方はほかにも無数にあり、私たちがまだ気がついていないだけ』とあるように、自分ならではの絵のとらえ方に挑戦してきた人たちは、先ほど挙げたアーティストたちであり、他人からの酷評にも屈せず、自分を貫いてきた人たちでしょう。私は知らぬうちに、下手な絵をけなされたくないと、自分にブレーキを踏むようになってしまったようです。

本著はこのように指摘します。常識や正解にとらわれるなと。自分の内側にある興味をもとに考えよと。私が私自身を変えるべき行動は、まずはここなのだと感じました。不遇に落ちながらも見事復活を遂げたスティーブ・ジョブス。その『自分の愛すること』を軸にする。そして『自分なりの探求』をし続けることがアート思考だとの指摘に、大いに納得した次第です。

あらためて亡くなる直前まで巨大なキャンパスを前に絵筆をふるっていた義母を思い出します。筆を置いた途端、あっと言う間に逝ってしまいました。作品の横にちょっと恥ずかしそうに立つ義母の姿が遺影となりました。アトリエにはまだ、作品がたくさん残されています。自分を愛し、自分なりの探求をするのはこういうことだと教えてくれそうな気がします。

コロナ禍の苦しい日々に負けないよう、アート思考にチャレンジするべきだと教えられました。今回も名著をご紹介いただき、ありがとうございました。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「正解の弊害」を教えてくれた1冊!

本書は自分にとって今年読んだ本の中でベストの1冊であった。それは本を読んだというより、アート思考の「体験」が出来たと感じたからだ。自分もアート、特に絵画鑑賞が好きだが、これまで鑑賞時に意識していたのは、作者は誰で、何が描かれていて、どんな印象か?という点で、まさに「作品情報と実物を照らし合わせる確認作業」であった。鑑賞後には「フムフム、なるほど〜」と芸術を味わった気分に浸っていたが、現時点では「ナニがなるほどなん?」とツッコミたくなる。では本書の「体験」により、自分に何が起きたのか?と言えば、

これまでの価値観をブチ壊された

というのが正直な感想だ。特に衝撃が大きかったのは「ナンバー1A」と「泉」である。物質としての絵そのもの?作者は何もしてない?何なんそれ!20世紀のアートがこのように進化した背景には、本書にある通りカメラの登場が大きい。それまでの肖像画、風景画、つまり目に映るまま描かれている絵画(それも「まま」ではないと本書にあるが)の存在意義が落ち、「絵画は死んだ」となるのがフツーだと思うが、20世紀のアーティストたちはそれに屈しなかった。彼らは「それ以上にアートが出来る事」を思考し、追求し、自分なりの表現に挑んだ。その姿勢、心意気には感銘を受ける。故に自分は各作品に「そういう事だったのか!」とイチイチ唸った。そして最終的に突き付けられた結論。

『世の中に正解がある』というのが、そもそも幻想

本書に「日本の教育が『探求の根』を伸ばすことをないがしろにしてきた」とあるが、確かに学校で教わったのは「正解」の導き方だった。それは明確に〇と×で振り分ける採点法が前提の教育だったからかもしれないが、その教育を受けた自分にも確実にその影響はあると思う。どんな鑑賞の仕方が正しい?何が正解?逆に何が不正解?何をやってはイケナイの?と、何をするにもビクビクとそれらを気にする姿勢。だが、本書で突き付けられるのは「そんなものは無いよ」という真実なのだ。それはアートに限らず、全てに通じると思う。

本書の「他人に定められたゴールに向かって手を動かす『花職人』」とは、主に流れ作業の工場労働者や指示を受けた仕事しか出来ないサラリーマンを比喩していると思うのだが、それは「自分のものの見方」以前に、前提として「正解」が存在し、それが何かを気にしながら物事を進める姿勢ではなかろうか。その姿勢が絶対的に悪い訳ではないが、これ以降はアートに限らずビジネスにおいても「花職人」では立ち行かなくなると感じるのだ。

具定例を挙げてみよう。自分の母親は約1年前から携帯電話からスマホに変えたのだが、ドコモが主催する「スマホ教室」がコロナで中止となったため「電話機能以外は分からない」と言う。80代の母親にとってのその感覚は理解できるし、スマホ教室に通う事はボケ防止や他者とのコミュニケーションにもなるから、それも良いと思うのだが、一方、自分の大学生と高校生の息子たちはスマホのマニュアルは読んだ事がない筈だ。そもそもiPhoneのマニュアルなんて存在しないのだから。が、彼らは人並み以上に使えている。つまり「正解」(正しい使用方法)がある、という前提の人間とそうでない人間の差はここで生じてしまうのではなかろうか?

思い返してみればiPhone登場前は日本は携帯大国だった。各社から様々な携帯電話が発売されたが必ず製品に付属されていたのが分厚いマニュアルだった。当時はそれがメーカとしての正しい姿勢だったのだろうが、iPhoneユーザはマニュアルの無い事など気にせず、楽しいから、面白いから購入した。「正解」の操作方法など存在せず、ユーザが使いたいように使えば良いのだ。これは他の例で言えば英語の習得にも当てはまるのではないか。確かにスペルや文法の○×はある。だが、その○×ばかり気にして英語が喋れない日本人が多いのは「正解」に重きを置き過ぎるからではなかろうか?いや、その姿勢は重んじるというより、「正解」を頼っているだけで、突き詰めると「自分は間違いたくない」というプライドの表れかもしれない。確かに英語を喋らなければ間違いは起こさないし恥もかかない。その代わり英語を習得する事は一生出来ない。

逆である。英語は間違えれば間違えるほど恥をかいて習得できるし、スマホはマニュアルなど無くても面白ければユーザが勝手に操作方法を習得するのだ。その意味で本書は「正解の弊害」を教えてくれた1冊でもあった。「正解」など無い。ではあなたはどう使う?あなたはどう楽しむ?「正解」が無いのだから「不正解」も無い。それこそが本書で最も重視する「自分なりの見方」に通じるのではなかろうか。

追伸
今年も多くの良書をご紹介頂いたお陰で優雅な読書タイムを過ごす事が出来ました。
誠に有難うございました!
 
投稿者 H.J 日時 
結論から書くと、アート思考は汎用性が高い思考法だと思った。

まず、本書を読む前は「アート」思考と言うぐらいだから、アートに対する思考だと思っていたが、本書を読みアート思考に触れてからは「アート」に対するという限定的な枠付けは相応しくない様に感じた。
なぜならば、CLASS1~6迄で体験した通り、対象に対して1つの限定した視点ではなく様々な視点でものを見ることが大事だからだ。
同時に「アート」=美術作品という今まで疑問に思わなかった「アートという枠組み」の認識の誤解に気づかされた。
何が「アート」で、何が「アート」じゃないか。
「アート」の定義の正解を見つけるのではなく、答えを創っていく思考へ。
それは物事を自分のモノサシで測り、自分で判断し、答えを創っていくものだということ。
10人いれば10通りの答えの可能性、100人いれば100通りの答えの可能性がある。
別の人の答えを聞いて、さらに新しいものが見つかる可能性もある。
「アート」という言葉一つの表面を取っても、ここまで深い話になるとは、とても面白い。

続いて、なぜアート思考が汎用性の高い思考法だという結論に至ったかに言及すると、様々な場面で応用が可能だからだ。
アート思考の基本定義が
1「自分だけのものの見方」で世界をみつめ
2「自分なりの答え」を生み出し
3「新たな問い」を生み出す
ということだから、これを当てはめてしまえば、様々な場面で応用できる。
抽象的なので、具体への転用もしやすい。

例えば、読書感想文にも応用が可能だ。
読書感想文もアート思考を用いれば、「新たな問い」を生み出せそうだ。
私の感覚では読書も正解を見つけるというよりは答えを創っていく方が近い。
もちろん、正解を見つける読書も時には必要ではあるが、感想文を書く以上は正解を見つけるというよりは答えを創っていく方に近い。
なぜならば、感想文とはその名の通り、感じて想ったことを文章化したものであり、感じて想ったこととは書き手の主観である。
その主観に対して、他人が正解や不正解の決断はできない。
主観に正解や不正解などなく、その人の価値観や見方によるものだからだである。
もちろん、主観なので人それぞれ答えがある。(言論の自由を規制している某国であれば、主観に対する正解や不正解の決断が可能だという例外もあるけども・・・)
10人いれば10通りの答えの可能性、100人いれば100通りの答えの可能性がある。
そう考えると「自分なりの答え」を創っていく方が近いのである。
ただし、「自分なりの答え」のみでは、文章化した際の説得力に欠ける。
上記の主張通り、書き手の主観なので読んだ人全員が納得できるかは別の話だからだ。
そこで客観的な意見を考えることが「新たな問い」につながるのではないか?と思う。
なぜならば、客観的な意見とは主観にはなかった答えが隠れてる可能性があるからだ。
この客観的意見の探し方だが、私は著者が記述している様に『「感じた意見」に対しては「発見した事実」を、そして「事実」に対しては「意見」をアウトプットするというのが、基本的なルールです。(P145)』であると感じた。
「意見」と「事実」を行き来すると、矛盾や疑問点が浮かぶことがあるからだ。
更に言えば、この課題図書ページの様に多数の人の感想を読めることは、新しい発見や問いが生まれることもある。
読書をして、「自分だけのものの見方」から「自分なりの答え」を見つける。
どこからそう思う?そこからどう思う?の問いで「自分なりの答え」を深め「新たな問い」を生み出していく。
さらには、他の人の答えに触れても「新たな問い」を生まれる。
とは言っても、アート思考を用いるのは答えを創り新たな問いを生み出すところまでである。
読書感想文では、その後の文章化で人に伝えられるかどうかが私にとっては課題だ。

以上の様に当感想文では、身近な感想文で具体例を出したが、仕事から育児や私生活等の人生の様々な場面でアート思考は効力を発揮する様に思う。
考えてみれば、人生に正解はないのだから、答え(人生)を創っていくという方が腑に落ちる。
だとすれば、やっぱりアート思考は汎用性が高い思考法である様に感じる。
 
投稿者 msykmt 日時 
アート思考とは、ものごとに対して、従来の考え方や他者の判断からいったん距離を置いた上で、自分の五感や思考を通じて主体的に課題を見出し、課題に対する思索を自らが深めようとする態度、姿勢、生き方である。アート思考を深めることで、人生の味わいを深められる。アート思考は、アート作品の鑑賞にとどまらず、その他の趣味や仕事など、あらゆる体験に転用できる。

たとえば、ワインを味わう場面で考えてみた。カリフォルニアのナパバレーでつくられる、オーパス・ワンという高級な赤ワインがある。数年前、はじめて口に含んだとき、自分の口の中で「蜘蛛の子を散らす」かのような感覚が立ち上がった。当時はなぜそう感じたのか、漠然としたまま、記憶にしまい込んだままだった。本書をきっかけに、どこからそう思ったのか、という問いを自らに発し、意見から事実を導き出すよう、具体化してみようと考えた。どこからそう思ったのか、次に言語化してみる。そのワインを口に含んだとき、非常に細かいものの、ツブを感じられるくらいの旨味の粒子が口の中、具体的にいうと、歯と歯のすき間を八の字にグルグルとかけまわるようだった。だから、そのように形容したのだった。ワインに限らず、味覚、触覚でそのように感じたことは、それまでになかった。

もう一つ、他のワインで例示してみる。フランスのボルドーでつくられるシャトー・モンペラという赤ワインがある。味の割に価格が手頃だったこともあり、愛飲していた時期があった。そのワインが喉元を通ると、葉加瀬太郎のバイオリン曲「Dolce  Vita」が、私の体の中で共鳴する感覚を味わえた。あたかも、自分が偉大なものになったかのような感覚を味わえた。どこからそう思ったのか。そのワインの味が、当時飲んでいた他のワインと比べて、旨味が太いのにもかかわず、雑味が少なかったから、そう感じたのだろう。当時、葉加瀬太郎と宮本笑里のバイオリン曲を好んで聴いていた。宮本笑里の奏でる細く繊細な音よりも、葉加瀬太郎の奏でる太く野性的な音が、そのワインの味に近いと感じていたのだろう。

以上、ワインの事例より、事実を導き出すまでには至らないものの、具体化についてはある程度、深められる手応えがあった。一方で、そこからどう思うか、の問いを自らに発し、事実から意見を導く、言うなれば抽象化する力が私には不足している。その力があれば、データ分析、仮設立案など、仕事の現場で主体性を発揮できるであろう。逆にその力がないと、本書でいうところの花職人に落ち着くのが必至であろう。実際、いまの仕事の現場で、私は顧客や親会社、協力会社といった利害関係者の要望に振り回されている状態、反応的な状態、仕事のイニシアティブというか仕事の手綱をにぎれていない状態にあるのを日々感じている。以前、アート・アンド・ブレインという団体の、「脳の右側で描け」のメソッド、「5ディ」のワークショップに参加したことがある。そこで思い知ったのは、私は描こうとしているものを観ているようで、まったく観ていないことだった。そこから、自分の興味のタネと探究の根が伸びるのに従い、ヌードデッサンの会に通うなどの体験を経て、ものをありのままに観ることを学んだつもりだ。しかし、事実を観てそこからどう思うか、その問いを発して自分なりに答えを導く力は発展途上のままであったようだ。

仕事や趣味を問わず、環境や他者に振り回されずに、主体的に味わい深い生き方をしたい。いまの仕事においても、花職人から脱却し、本書でいうところのアーティストでありたい。そのために、自分の五感でインプットしたことを元に、課題を見出し、思索を深め、アウトプットした上で、他者と共有する。主体性を取り戻すために、抽象化する力を伸ばす。その実践の場として、この課題図書の感想文の投稿を含む、文章力養成講座をやりとげたいと思う。私自身が書くことに意味のある文章を書けるようになりたい。
 
投稿者 str 日時 
13歳からのアート思考 末永幸歩

成長するにつれ、物事や自身の感情を言語化したり表現することが容易になる。
もしくはアウトプットしない方が良いと判断し、表に出さない術を覚えていく。

出来ることが増えた分、仕事で使うための図を描いたり、何かを組み立てるといった意味を成すものではなく、ただ単純に表現を目的とした絵を描く・何かを造形するなどの行為をしなくなっていくのだろう。
当時なにを考えていたか・何を表現したかったかなど覚えていないが、確かに子供の頃は家の箪笥や襖など紙以外の場所にも、とにかく何か落書きしていたように思う。

本書では著名人の作だとか、高価なものだから”とにかく素晴らしいもの”という先入観で思考停止するのではなく、何をイメージしたのか?何を伝えたいのか?そもそもこれは一体何なんだ?そういった子供でも抱くことができる疑問から、どこを見てそう感じたのか・そう思ったのか。という自分なりの解釈に結び付けていくためのコツが書かれている。
日常生活の中では、客観的に捉えた意見、事実に基づいた意見を求められることの方が多く、言ってみれば自分勝手な、主観的な意見を発言できる状況というのは少ないのかもしれない。しかし、実際に自身が直面する問題事の多くは、正解のないものの方が多いのではないかとも思う。正解のないものから、自分なりに答えを創り上げていけるモノの見方・捉え方は発想に繋がり、決して無駄なことにはならない、寧ろ生きていく上で必要な考え方なのだと感じた。

既に正解があるものから逆算して道筋を辿っていくのではなく、
”どこからそう思ったのか””そこからどう考えたのか”
その過程を重要視しながら自分なりの答えを見つけ、言語化に繋げていきたい。
 
投稿者 daniel3 日時 
「13歳からのアート思考」を読んで

■初めに
 アート関連では、2018年の課題図書で『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?(山口周著)』を読みました。この本を通して、サイエンス偏重の既存の枠組では、変化の早いビジネス環境には対応していけないことを理論として理解することができました。ただ、タイトルに「世界のエリート」とある通り、私を含めた一般人にとって、いざ実践するには「じゃあ、どうすればいいのか?」と悩んだ記憶があります。実際に話題の展示会に行くことも試してみましたが、本書にもあった通り「絵よりも解説文を見ている時間の方が長く」アートは難しいという思いを抱きました。(どの展示会でも解説文に人だかりができている様子から、きっと私だけではないでしょう。)

 そんな非常に共感できる書き出しから始まり、実際の著名なアーティストの作品鑑賞を通して、多くの迷える大人に具体的な方針を示してくれています。内容はまさに中学生でも取り組める平易なものですが、自分だけのかえる(答え)を見つけられなくなってしまった大人のためのアートやり直し本といえるでしょう。

 本書では目から鱗を随所で体験することできますが、その中で私は以下の2点に注目しました。
 ・「観る」ことについて
 ・「答えが変化することを前提に考える」


■「観る」ことについて
 まずCLASS1で、アンリ・マティスの「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」の鑑賞を通して、現代アートとの向き合い方を学びました。私のように特にアートの素養のない大人であれば、奇抜な色合いで、悪く言えば「雑に」描かれたの婦人の肖像にしか見えないことでしょう。しかし本書の中で紹介されるアウトプット鑑賞を通して改めて作品に向き合ってみると、自分は「ぼんやりとしか物事を見れていなかったのか!」ということを体験することができました。それまでアート作品を、まるでテレビやTwitterを見るかのごとく受動的に眺めているだけだったのでした。アウトプット鑑賞をすることで、夫人の左右の顔を別のタッチで描き分けたマティスのアート思考にアクセスできるようになりました。「どうしてこうしたの?」、「何のために?」こうした疑問なしに見るだけでは、表層的な理解で終わってしまいます。これは正に、日々の感染者数の変動や各著名人の発言に右往左往している私たちに必要な視点だと思いました。

以上の過程を通して、帯にあった山口周氏の『「考える」の前に「観る」がある。「観る」がなければ、「考える」もない』という言葉が心に刺さりました。

■「答えが変化することを前提に考える」
 この言葉自体はP.88で登場しましたが、これを実感したのは、CLASS2ピカソの「アビニヨンの娘たち」でした。それまでのアートは遠近法という正解をいかに正確に表現するかに、各花職人がしのぎを削っていました。そんな中、写真という現実を圧倒的に正確に写し撮る存在が発明され、アートの存在意義が問われることになりました。ピカソはアート思考での探究を続けることで、自分だけのかえる(答え)を「アビニヨンの娘たち」という花で問題提起しました。

 こうした探究と問題提起は、まさに2020年という激動の年を経験した私たちに重なります。昨年までの私たちは、より多くの人に同じ行動を促したり、集客することで効率的に資本主義社会が求める花を作り続けてきました。しかしそれまでは推奨された行動をすることを制限された私たちは混乱し、不満を抱いたり、非難することを繰り返しています。環境が変われば、答えも変わるはずなのに、変化に対応出来ず、かつての当たり前にとらわれる2020年の私たちにこそ、アート思考が必要だと考えるきっかけにならました。


■終わりに
 美術館での鑑賞さえままならない日々が続きますが、アート思考を続けることでこの状況にも新しい答えを見つけることが理解できました。正しく「観る」ことが出来れば、「考える」ことが出来、答えが変わり続ける中でもその過程を改めて「観る」アート思考が、今の大人にこそ必要なのだと思いました。
 
投稿者 gizumo 日時 
「13歳からのアート思考」末永幸歩著を読んで

子供の頃から大きな美術展や展覧会があれば、両親につれられ画集を買ってもらっていました。"絵"を観たと言う記憶はあまりなく、「人混みが凄かった」という感想しか子供心にはないのですが…。それでも、人混みになるほどすごい作品だったのだろうなと、手元に今もある画集を時々眺めていたりします。高校でも迷うことなく美術を専攻し、そこそこの成績を頂いていました。旅行先での著名な美術館へは足を伸ばす時間を取り、美術館が目的の旅行も楽しみました。また、叔母も子育てが終わってから、本格的に絵画教室に通い楽しんでいました。それなりに"アート"に恵まれて暮らしていると思っていましたが、それが「思考」に応用できるとは考えたことがなかったです。確かに美術に関わっている方々の、考え方や思考は柔軟だなという感想は持っていたのですが…。そういった一過性で、いわゆる"点"と"点"を繋げることができないのは自分の欠点であると反省、文字通り新しい視点を気づかせてもらえました。
学生時代から「なぜ"美"術なんだろう…??」という疑問は持っていたんですよね。「芸術はキレイなばかりではないのに…」と生意気にも感じていました。しかしながら楽曲や日常的なものであっても、また数式などでも"完璧"なものには"美"が存在するとは思ったりしていました。やはり生きていくなかで「アート」は不可欠です。さらにそれを"思考"に応用することでますます世界が広がることは間違いなく、新しい年にはそれを心がけて過ごしたいと考えています。
 
投稿者 ZVL03103T 日時 
美術は、私にとってよくわからない教科だった。学校で上手だなと思う作品を制作した生徒が表彰されたり賞をもらうのは何となく理解できたが、現代アートや抽象画となるとさっぱり理解ができなかった。美しいと思えないそれらの作品が、世界でなぜそのような高い評価が得ているのか、少しもわからなかった。しかし、この本を読んでその理由がわかった。評価されるには理由があったのだ。賞の決定権のある人がなんとなく良いと思ったとか、お金持ちの大多数が快く思うからとか、そんな理由ではなかった。私はその理由に気づけなかった。しかしこの本を読み、その評価された理由を知り、心から納得した。作品がなぜ評価されているのかを知ることで目の前が開け、新しい世界に足を踏み入れたように感じた。その世界で第一人者と言われる人がどのような方法により作品を評価するのかを理解することの大切さに気づいた。そして同時にその良さや素晴らしさを理解して納得してもらうためには主観的な感覚ではなく、客観的な基準や方法で伝えることが大切なのだと思った。美しさや見栄えの良さが第一に求められ、感覚優位と思っていた美術でさえ、明確な評価の方法を示されると、その評価がたとえ自分と異なっているものであっても理解できると納得できるのだ。その方法を知らなければ、人に説明することも、人を納得させることもできない。この本を読んでその高い評価を得た理由を理解した後で改めてピカソやマティスの絵を見ると、やはり美しいとは思えないけれど、がぜん興味が湧いてきた。

また、この美術の作品を理解するための方法は、人の生き方を考える時にも応用できるのではないかと感じた。人は様々な興味のタネ、探求の根を持っていて、それらが複数組み合わさって私という1人の人間を形作っているのではないか。違うのは、その作品は複数のタネが集まって花が咲いていること、また死ぬまで終わりなく変化していくことではないか。

私は今、自分を変えたいと思っている。自分自身も1つの表現の花だと考えたとき、私は4つのことを進めたい。
1つ目は、なんとなく蒔いている興味のタネを大きく立派なものに育てたい。今まではただ何となく蒔いただけて探求の根が立派に育っていなかった。頭を使って考えることがとても少なかった。だからこれからはしっかりと根を張り私と言う作品をしっかりと支えられるように頭を使い、根を張る訓練をしたい。
2つ目は、自分でも気づかないうちに無意識のうちに蒔いてしまったタネを取り除きたい。例えば、仕事、人間関係、男性について。苦手意識、間違った認識、世間で言われる一般常識。知らぬ間に何度も何度も考えてしっかりとした根ができてしまっている。望まぬそれらをきれいに取り除きたい。そして正しい認識のもと幸せになるためのタネを蒔きたい。
3つ目は、蒔いたタネの中身をきちんと認識したい。私はタンポポのタネをまいて育てているのに、薔薇ではないと言って残念がっているのかもしれない。私がカッコいいと思い、憧れるのは華やかでスマートなキャリアウーマンだ。しかし、それは本当に望んでいることなのか?私に合っているのだろうか?周りに流され素敵だと思うだけで、本当に自分が興味を持っているものだろうか?それを改めて考えたい。そして4つ目として、出来るなら周りの人に、心地よい感動を与えたい。私にはデュシャンのように確固たる自分の信念のもと、周りの人の意見を気にしない強さはまだない。出来れは周りが私のそばに来ると幸せを感じられるような花を咲かせたい。

人は生きていく中で様々な興味のタネを蒔いたり、表現の花を咲かせたりしていくのだと思う。アーティストとしての側面もあれば、花職人としての一面もあると思う。その一つ一つの側面が私らしさを形作っていく。ある時は決められたゴールを目指して生きる方が楽なこともあるかもしれない。誰かのために生きる方が喜びを感じることがあるかもしれない。しかし、私という作品を最終的に評価するのは私自身だと思う。この人生を終える時、自分が表現したかったものが表現しきれているように、またしっかりと根の張ったタネから自分が納得出来る表現の花が咲いているように、それを目指して生きていきたい。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書ではアート思考により思考の枠が取り払われ、目から鱗が落ちるような事例が幾つも書かれている。例えば、「リアルでなければならない」という思い込みを「リアルでなくてもOK」へ変えた作品や、「美しくなければならない」という固定観念を「美しくなくてもよい」へと変えた作品などである。発表当初は酷評されていた作品が、なぜアートと認められるに至ったのか?その根拠も丁寧に説明されている。あたかもページをめくるごとに脳内の価値基準がアップデートされてゆくようであり、興奮しながら読み終えて豊かな気持ちになったのである。しかし、「そこからどう思う?」と自分自身に問いかけた時に出てきた私の答えは、意外にも「アート思考に偏らず、論理思考もバランスよく使いこなしたい」というものであった。では一体、「どこからそう思う?」について、以下に述べてゆきたい。

まず、アート思考と論理思考について考察する。論理思考とは、意見を収束させる思考である。演算すればみんなの答えが同じになる思考であり、会社で働く上で役に立つ。会社では一人で全ての仕事を進めることは難しく、社内外の人との合意形成が重要になるからである。もし経理や法務などの管理部門で、人によって解釈が異なる判断をしていては業務が滞ってしまう。同一ルールを守り、共通認識をもつからこそ、全員で目標に向かって進んでゆけるのである。それに対してアート思考とは、意見を発展させる思考である。決められたルール通りに回答するのではなく、自分自身の内なる声を聞き、感じたことをありのままに表現するからである。そのため、既存の枠組みを破壊し、思い込みを解き放ち、多様性を尊重することができる。私には、論理思考による共通の価値観を、アート思考によって柔軟に発展させることが、これからの社会人においてはますます重要になってくると思えるのである。なぜならば、技術革新の著しい現代社会では、これまで良いと思われてきた考え方が通用しなくなっていくことが想定されており、新しい考え方やものの見方が求められているからである。ゆえに、アート思考と論理思考は対立するものではなく、思考の両輪としてどちらも同じように磨いてゆくべきであると考える。

次に、私がこのように感じるきっかけとなったエピソードを紹介する。私は人事部で新卒採用を担当しているが、当社に応募してくる学生は、いわゆるソツの無い人が多い。それは裏を返せば、没個性で普通に見えてしまうということである。私の推察では、学生達はテストなどで良い成績を取ることが評価されていたので、いざ就職活動をすることになり、突然「個性を持ちましょう」などと言われ、どうして良いか分からなくなっているように思われる。提出されたエントリーシートを読んでいても、本心ではなく、内定が取れそうな志望動機を予想して述べているように感じられるのだ。「そこからどう思う?」と自分自身に問いかけた時に出てきた私の答えは、彼らは内定欲しさに嘘をついているのではなく、どうすればよいのか分からないので、とりあえず正解に最も近そうな行動を選択し、「花職人」として体裁を整えているということである。採用面接で、そんな「花職人」の作品である志望理由を聞いていても、どれも似通っていて誰の話なのかも解らなかったりする。それゆえ本書にあった通り、学生に対して「どこからそう思う?」「そこからどう思う?」と問いかけてゆくこととなるのだが、想定とは全く違う話が出てきて驚くことがしばしばである。平凡な学生だと思っていたのに、国体での入賞経験があったり、アメリカをレンタカーで縦断していたりするのである。このように、アート思考の質問を投げかけることにより、採用面接において「花職人」の皮を被った「アーティスト」が発見されることがある。そんな学生たちは考える力がないのではなく、アート思考を教わってこなかっただけではないだろうか。もし彼らがアート思考と論理思考の両輪を自在に使いこなせれば、これからの人生で大いに役立つと考えるのである。

しかしこのようなアート思考の欠如は、学生だけに限った話だろうか?おそらく本人にしか語れないユニークな体験やストーリーは、誰にでもあるはずだ。しかしそのことに本人が気付いていないことが散見され、残念に思われる。「そこからどう思う?」と自分自身に問いかけた時に出てきた私の答えは、このような現状を打破するために、普段からアート思考を活用して思考の枠や思い込みを外したいということである。「どこからそう思う?」「そこからどう思う?」この2つの問いかけを用いて、これまでとは違った考え方で自分や周囲について考えることが、益々大切になってくるのではないだろうか。ゆえに私は、アート思考を磨き、論理思考とバランスよく使いこなしてゆきたいと考えるのである。
 
投稿者 Terucchi 日時 
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート 末永幸歩著 を読んで

私のこの本を読んだ感想を端的にまとめると、

アートとは、「美術=美の技術でなく、=自分の考え」であり、そして、その考えは「自由」である。
また、アートは「自分の考えを深く考えることであり、一つの表現方法」なのだと学んだ。

今回、以下の3点で自分なりに考えた。
①この本から学んだこと
②少し深く考えてみたこと
③自分のことに置き換えて考えてみたこと
これらの視点で、以下に書いてみる。

①この本から学んだこと

アートの訳をネットで探してみたところ、芸術・美術であり、私もそのように解釈していた。しかし、作者がここで言うアートは違う。この本の中で、一般的な例で書いてある解釈と同じく、私自身も今まで学校で習ってきた名画、それが芸術なのだ、と思っていたが、それはどうも違うとのことである。どうやら、それは目に見えている一部であるとしている。目に見える部分は表現の一部であり、花に例えると咲いている花の部分が見えているだけ。しかし、花の部分だけでなく、葉っぱや茎もあり、更に地面の中の根の部分は見えないが、もっと大きく貴重な存在。それをどこまで深く掘り下げるか、しっかりした根があるため、地面の上で咲いている花になる。絵で例えると、絵は見えるところで表現されているが、表現されていない見えない奥深く掘り下げたものがあって、それが目に見える表現に繋がっているとのことである。如何に深く掘り下げたものがあるか、それが表面では所謂味わいになるのであろう。私自身、アートに対して浅はかな解釈であり、如何に表面しか見ていなかったと思った。見る視点、考える視点によって、こんなにも変わり、そして奥の深さにビックリした。今回この本で、ちょっとしたキッカケをもらうと、見方、考え方が変わるものだと思った。

②少し深く考えてみたこと
ところで、アート= 芸術と考えていたため、作者が例に上げていたように、私も絵とはリアルなものが良いと思っていた。しかし、今回読んでみて、奥を考えてみた。人はリアルに見ていても、考える脳の中では必ずしもリアルではない。例えとして、マンガ絵を取り上げてみる。マンガは実際のリアルからはズレている。しかし、その方がわかることも多い。むしろ、頭の中はリアルな現実よりも抽象的なものの方がわかる場合やしっくりくることがよくある。それが、マティスやピカソの絵であろう。その方が感覚にしっくり来るのであろう。
ところで、カメラによって肖像画のようなリアルな絵を描く職人の仕事が奪われたとあったが、現在の産業の歴史も似たところがある。産業革命によって、動力が機械になり、人力が奪われた。次に、計算機ができ、PCができ、経理の仕事が奪われた。ATMやオンラインにより金額処理の仕事も奪われた。更に、次はAIによって、様々な仕事も奪われていくであろう。しかし、本当に何もかもの仕事が奪われていくのだろうか。今回のアートのように、何らかの生き残ることがあるのであろう。それがマンガ絵のような抽象的な域であり、イメージをして繋いでいく人間の脳の力だと思う。

③自分のことに置き換えて考えてみたこと
次に、普段の私の生活にアートを当てはめてみた。
考えてみると、今の私がやっている仕事もアートなのであろう。しょ〜おん先生のセミナーでも、仕事をアートに考えること、とあった。どうやって表現するか。何も絵画のキャンパスだけが、表現するキャンパスだけではない。仕事の場も同じキャンパス。どうやって自分を表現するかである。テレビでダルビッシュが表現方法が変化球と言っていた。この言葉が私にとって、とてもしっくりきた。自分の場合は、どうなのであろうか。表現の場と思っているのだろうか。楽して、お金を得ることが、得だと思っているのではないだろうか。まだまだ深く考えることができるのではないか。アートにできることはないだろうか。
私の仕事は、もう少し具体的に言うと、工場の生産性を上げる仕事に携わっている。人のやっている仕事を改善したり、合理化することにより、生産性を上げることが仕事である。工場の生産性を上げる具体的なは自動化したり、ロボットを使ったりして、人のやる仕事を削減している。人のやる仕事を減らすことが、正であるのであるが、本当にゼロにはできない。ここで今回のアートの観点で考えてみると、工場の生産性を無機物として考えるのでなく、アート=考え、として捉えると、まだまだ人間の仕事なのであろう。そう、工場もアートとして考えることができるはず。それを考えていくこと、見続けることができるのが、私の使命なのだと思った。そして、私らしさを考えて、自分の仕事の表現につなげていきたい。

以上、しょ〜おん先生には、今回も良い本を紹介して頂き、そして考える機会を与えて頂き、ありがとうございました。
 
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投稿者 lazurite8lazward 日時 
著者が国公立の中学・高校の美術教師であること、好きな科目の調査結果が日本の小・中学生対象であると文脈から推測できる事から、本書の内容は“日本人”の問題点や課題に対する提言が前提になっていると考えられる。従って著者が主張する『美術はいま大人が最優先で学び直す科目である』という点、これからの未来を担う子供達がアート思考を身に付ける必要があるという点
は“日本人の大人・子供”へのメッセージと捉えられる。私自身もアート思考の不足が昨今の日本の競争力鈍化の1つの要因になっていると考えているため著者の主張には非常に共感した。
一方で、本書を読んだ全国の日本人の方の中には、共感できなかったり、なぜ“日本人”にフォーカスされているのか、アート思考はどう使うのか咀嚼しきれなかった方も少なくないのではないだろうか。

本書に記載の「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」という考え方を意識してアート思考で美術に向き合うことは確かに重要であり有益である。しかしながら、これだけでは“日本人“には理解し難い部分があると考える。本書を読んでも日本人がアート思考の領域を深く・正しく理解し難いと思われる理由は2点ある。

1点目は用語のゆらぎである。本書では美術とアートが対となって使われている箇所があるが、欧米的な理解では美術はFine artと対になるべきもので、Fine artとArtは別のことを指す。英英辞典を読むと分かるが“美しい”という要素はFine artにしかなくArtは造形物を指している。この用語のゆらぎが正しいアート思考の理解への障害の1つになっていると考える。

2点目は用語の定義と背景情報の理解が足りない点である。1点目の用語のゆらぎとも関連するが、Artという定義の説明に不足がある。日本語のアートは和訳の過程で複数の要素を合算したと思われるため、アートという言葉を複数の意味で便利に使い回すことは間違いではないが、日本人に限定した場合Artの意味とその背景情報を正しく理解できていない人が多数いるためアート思考が根付き難いという点は知っておく必要があるように感じる。欧米におけるArtの定義はThings human madeであり、Artの反対にあるものはNature=Things God madeとなる。つまり世界は大きく二分して捉えられており、一方は「人間が造ったものの領域=Art」でありもう一方は「人間以外が創った領域=神が創った領域=Nature」として欧米では整理されKindergartenの頃から教えられている。つまり本書にある「表現の花」はArtの領域で起こるものであり、「興味のタネ」と「探究の根」はNatureの領域で起こるものになる。欧米のビジネスエリートが美術館に通ったり、美術品のディスカッションプログラムに参加する情報が日本にも入ってきているが、彼らがこのような美術品に向き合うのは、Artの領域にある既に完成した「表現の花」から「興味のタネ」「探究の根」をどう繋げたのかというプロセスを思考し蓄積させることで、その蓄積を今度はビジネスの領域で、Natureの領域にある「探究の根」から「興味のタネ」を見つけ、Output or Deliverableである「表現の花」の生成に応用しようとしているからである。つまりアート思考には2種類あり、既に完成品として存在する「表現の花」からその経緯を辿っていく思考と、その思考を応用して不確実性が高く常に変化しているNatureの領域から「自分のものの見方」を使ってArtの領域に造形物や結果や製品を引き出してくるプロセスが存在する。

日本人がアート思考できない本質は根深い。日本と欧米の小学生の算数の問題の違いで、日本は「5+5=□」のような問題が多いが欧米では「□+□=10」のような問題が多いという例が取り上げられる事がある。これもアート思考のベースとなるArtとNatureの考え方があるかどうかに起因する。不確実性の高いNatureの領域で算数を考えれば自ずと答えは無限にあるため「□+□=10」という問題が生まれ、「Nature=
人間以外が創った領域」で算数を解くという発想そのものが存在しない日本では「5+5=□」という結果が固定された発想しか生まれてこない。日本以外の全ての欧米諸国がArtとNatureの考え方を持っている訳ではないが教育体系の基礎にリベラルアーツを持つ国では宗教などに寄らずこのArtとNatureの考え方が理解できる。

恐らく著者はArtとNatureという世界を二分する考え方が分かった上で本書を執筆したと思うが、美術嫌いの日本の子供達が美術に力点を置くようになったり、今まで美術に見向きもしなかった日本の多数の大人たちが劇的に美術に目を向けて行くためには本書の1段下のレイヤーに欧米のスタンダードであるArtとNatureの考え方を言語化して記載した方がよりアート思考の重要性と理解度が深まるのではないかと感じた次第。
 
投稿者 lazurite8lazward 日時 
著者が国公立の中学・高校の美術教師であること、好きな科目の調査結果が日本の小・中学生対象であると文脈から推測できる事から、本書の内容は“日本人”の問題点や課題に対する提言が前提になっていると考えられる。従って著者が主張する『美術はいま大人が最優先で学び直す科目である』という点、これからの未来を担う子供達がアート思考を身に付ける必要があるという点
は“日本人の大人・子供”へのメッセージと捉えられる。私自身もアート思考の不足が昨今の日本の競争力鈍化の1つの要因になっていると考えているため著者の主張には非常に共感した。
一方で、本書を読んだ全国の日本人の方の中には、共感できなかったり、なぜ“日本人”にフォーカスされているのか、アート思考はどう使うのか咀嚼しきれなかった方も少なくないのではないだろうか。

本書に記載の「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」という考え方を意識してアート思考で美術に向き合うことは確かに重要であり有益である。しかしながら、これだけでは“日本人“には理解し難い部分があると考える。本書を読んでも日本人がアート思考の領域を深く・正しく理解し難いと思われる理由は2点ある。

1点目は用語のゆらぎである。本書では美術とアートが対となって使われている箇所があるが、欧米的な理解では美術はFine artと対になるべきもので、Fine artとArtは別のことを指す。英英辞典を読むと分かるが“美しい”という要素はFine artにしかなくArtは造形物を指している。この用語のゆらぎが正しいアート思考の理解への障害の1つになっていると考える。

2点目は用語の定義と背景情報の理解が足りない点である。1点目の用語のゆらぎとも関連するが、Artという定義の説明に不足がある。日本語のアートは和訳の過程で複数の要素を合算したと思われるため、アートという言葉を複数の意味で便利に使い回すことは間違いではないが、日本人に限定した場合Artの意味とその背景情報を正しく理解できていない人が多数いるためアート思考が根付き難いという点は知っておく必要があるように感じる。欧米におけるArtの定義はThings human madeであり、Artの反対にあるものはNature=Things God madeとなる。つまり世界は大きく二分して捉えられており、一方は「人間が造ったものの領域=Art」でありもう一方は「人間以外が創った領域=神が創った領域=Nature」として欧米では整理されKindergartenの頃から教えられている。つまり本書にある「表現の花」はArtの領域で起こるものであり、「興味のタネ」と「探究の根」はNatureの領域で起こるものになる。欧米のビジネスエリートが美術館に通ったり、美術品のディスカッションプログラムに参加する情報が日本にも入ってきているが、彼らがこのような美術品に向き合うのは、Artの領域にある既に完成した「表現の花」から「興味のタネ」「探究の根」をどう繋げたのかというプロセスを思考し蓄積させることで、その蓄積を今度はビジネスの領域で、Natureの領域にある「探究の根」から「興味のタネ」を見つけ、Output or Deliverableである「表現の花」の生成に応用しようとしているからである。つまりアート思考には2種類あり、既に完成品として存在する「表現の花」からその経緯を辿っていく思考と、その思考を応用して不確実性が高く常に変化しているNatureの領域から「自分のものの見方」を使ってArtの領域に造形物や結果や製品を引き出してくるプロセスが存在する。

日本人がアート思考できない本質は根深い。日本と欧米の小学生の算数の問題の違いで、日本は「5+5=□」のような問題が多いが欧米では「□+□=10」のような問題が多いという例が取り上げられる事がある。これもアート思考のベースとなるArtとNatureの考え方があるかどうかに起因する。不確実性の高いNatureの領域で算数を考えれば自ずと答えは無限にあるため「□+□=10」という問題が生まれ、「Nature=
人間以外が創った領域」で算数を解くという発想そのものが存在しない日本では「5+5=□」という結果が固定された発想しか生まれてこない。日本以外の全ての欧米諸国がArtとNatureの考え方を持っている訳ではないが教育体系の基礎にリベラルアーツを持つ国では宗教などに寄らずこのArtとNatureの考え方が理解できる。

恐らく著者はArtとNatureという世界を二分する考え方が分かった上で本書を執筆したと思うが、美術嫌いの日本の子供達が美術に力点を置くようになったり、今まで美術に見向きもしなかった日本の多数の大人たちが劇的に美術に目を向けて行くためには本書の1段下のレイヤーに欧米のスタンダードであるArtとNatureの考え方を言語化して記載した方がよりアート思考の重要性と理解度が深まるのではないかと感じた次第。
 
投稿者 vastos2000 日時 
本書を読み、もしかしたら5,6年後、大学入試において、芸術系学部以外で入試科目に「美術」を課す大学が出てくるのではないか?と思った。例えば、ある作品の写真を提示し、その感想を書かせる。あるいはテーマを決めて絵を描かせ、なぜその絵を描いたかのプレゼンテーションを行うなど。

なぜそう思うに至ったかというと、大学の教育内容は多少なりとも社会の要請を受ける部分があり、入試はそれを反映し、今後日本の社会でもアート思考が求められるケースが増えてくるのではないかと感じたからだ。
その先駆けとなるかもしれない事例が今年度(2021年度)入試で行われる。その入試は学科試験に加え、レポートが組み込まれているが、レポートを書くにあたり、スマホやタブレットの使用をOKにしている。その意図として、従来の知識を測るのだけではなく、『知識や経験を「活用・応用する思考力」』を測ることを目的にしている。

本書でも「VUCA」という言葉が出てくるが、それに関連して、論理性以外の感性に関係するような言葉の露出が増えているように感じる。
昨年から今年の課題図書でも「アート・クラフト・サイエンス」や「真・善・美」といった言葉が出てくるものがあり、amazonを覗くとここ2年ほどで「アート」や「西洋美術」といった単語を書名に用いている書籍が増えている。
逆に10年ほど前は書店で多く見かけたロジカルシンキングやクリティカルシンキングといった言葉は、目にする機会が減ったように感じる。
これは、スマホの登場とAIの発達によって、すぐに最適解や正解が求められる状況になっているのが影響しているためでないかと思う。

今回の課題図書では、アート思考がテーマだが、アート思考を『「自分だけの答え」が見つかる』ものとして、その説明に6点の20世紀の現代アートを用いている。それぞれがそれまでの常識だった「遠近法的なものの見方」や「具象物を書くこと」といったものを乗り越えている。
私は「アヴィニョンの娘たち」と「泉」は知っていたが、この作品が当時のアート界に与えた影響とその意味は知らなかったので、今回はその点が(他の4作品もふくめ)学びになった。
おそらく私自身、多くの読者と同じように、「アート」と聞くと西洋絵画や彫刻を思い浮かべ、その作品を製作する技巧面に意識が向くことが多かったので、本書を読むことでアートに対して新たな見方をすることができるようになったように感じる。(読後、箱根の森美術館を訪れ、作品名や説明よりも作品自体をじっくりと味わってきた)


著者は20世紀のアーティスト達が従来の常識にとらわれない作品を作ろうとした動機として、写真の登場を挙げているが、今のビジネスマンにおいて、AIが写真に相当するのではないか。
チェスや将棋といった、差し手が限定されるゲームにおいてはすでに人間に勝つところまできている。RPAという言葉もちょくちょく目にするようになり、今後は製造業の現場だけでなく、オフィスワークの現場にも機械(プログラム)が入ってくるだろう。

写真の登場によって、「人間にできることはなにか?」と問いを立てたアーティストのように、ビジネスマンも同じ問いを自らに課さねばならないようだ。
そのための手段としてのアート思考は確かに有効だと思う。
論理思考やデザイン思考は、すでに問われていることに対する正解を導き出すには有効だろうが、「そもそもその問いで良いの?」というテーマにはなじまない。
逆にアート思考はルールの縛りがきつく、なおかつ簡単にルール変更できない時(例えば簿記会計)には生かしづらい。
アートとサイエンス、あるいは感性と論理は思考の両輪であり、それぞれ得意な分野が異なるので、どちらかが欠落していて今の時代に求められる問題解決はできないだろう。

本書の内容を踏まえて私自身のことを振り返ると、2020年は特定分野(外食産業、健康、サッカー)に偏った読書だったので、「探求の根」が同じ方向ばかりに伸びていたかもしれない。別にバランス良く全方位に伸ばす必要もないとは思うが、2021年は月ごとにテーマを変えて選書しようと考えている。いつ「表現の花」を咲かせるかはわからないが、淡々と「探求の根」を伸ばし続けて生きたい。
その理由は、今の仕事が会計・経理の仕事であることが一つ(会計処理とアート思考はなじまない)。
そして、おそらくはアート思考は即効性を期待するものではないということが一つ。31ページの図では「探求の根」に対して「表現の花」はそのボリュームが小さい。
そして305ページでは、『「常識」や「正解」にとらわれず、「自分の内側にある興味」をもとに、「自分のものの見方」で世界をとらえ、「自分なりの探求」をし続けることが欠かせません。』とある。
本書で紹介されたアーティスト6名も(少なくともピカソは)突然これらの作品を生み出せたわけでなく、それまでの下積みとなるものがあってエポックメイキングな作品を世に出せたのだと思う(デュシャンは展覧会の選考委員になるほどの地位を得たから「泉」を世に出せた)。様々な経験や思考の積み重ねが必要だろう。
くり返しになるが、「興味のタネ」から広く深く「探求の根」を張ることで「表現の花」を咲かせることができると理解したので、すぐには結果を求めずに(まずは)引き続き読書に励みたい。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
本書は、これまでの美術史において問題提起をしてきた6つの作品を主に説明しながら、それぞれの作品が当時の価値観をどのように揺さぶり、新しい価値観をどう押し広げていったか、その遍歴を解説している。当時のアートの目標は、写実的に、実物を忠実に描くことがゴールとされていた。しかし、カメラが登場してからは、カメラがアートの役割を代替するようになり、アートのそれまでの目的が失われてしまった。当時の芸術家たちはきっと戦々恐々としたことだろう。なぜならば、芸術家たちの仕事がカメラに奪われていったからである。そんな状況をじっと眺めるだけではなく、自分なりの考えと自分なりの表現に使って、アートの常識を覆す作品を生み出していった芸術家たちがいた。そういった芸術家たちの行った、アートの当たり前を壊していった格闘の歴史は刺激的だった。それと同時に、当時の芸術家たちの不安は、サラリーマンの私には他人事には思えなかった。なぜならば、現代のサラリーマンの状況が、当時の芸術家の状況に近しいように思うからだ。

サラリーマンの目的はこれまで、サラリーマンになることがゴールであったように思う。サラリーマンになれば、終身雇用で守れらながら、1つの会社に勤め続けていれば最低でも課長、少し頑張れば部長になり、役職定年になったときには、十分な退職金と年金で豊かな生活が送れたことだろう。だから、できるだけ大きな会社に就職して、そこで安泰に勤め上げることがゴールとされていたと想像する。しかし、世の中はどんどん変化しており、サラリーマンの置かれている状況も変わってきている。たとえば、トヨタの社長は、「終身雇用を続けることは難しくなってきている」といった発言が話題になった。また、東芝やシャープといった大企業が経営難に陥り、身売りをしている。また、これまで退職金は会社がすべて保証していたが、iDeCoなどを使って自己責任で運用する方針になってきている。こうした変化は、会社が、自分の身は自分で守れるようになるべきというシグナルを発信しているのではないと思う。また、極めつけは、AIの進歩によって今後10〜20年後には約半数の仕事がAIに奪われる可能性があるといった研究結果が出てきている。そうした社会的な変化やテクノロジーの進歩によって、これまで良しとされていた価値観が崩れ始めて、サラリーマンとしての仕事がなくなってしまうのではないと思う。こうした社会やテクノロジーの変化により、だんだんと肩身が狭い思いをし始めているサラリーマンが、20世紀の芸術家たちと現代のサラリーマンがとても重複するように思えてならないのだ。だから芸術家に必要とされていたアート思考が、現代のサラリーマンにも必要なのだと思うのである。

では、そんなアート思考を実践するために何をしたらいいかを私の考えをお伝えしたい。それは、最近のメルマガで紹介されていたことだが、本屋に行って書籍のタイトルをずっと眺め続けることが良いと考える。なぜ良いというと、自分の知識の幅の狭さに気付かされるからである。いかに知った気になっていたかを痛感させられるからである。そうして知らないことがたくさんあることを知ると、私の体験では、好奇心を掻き立てられて、どれかを極めてみたいと思ったのである。それはまさに、興味のタネをきっかけに探求の根を広げようとするアート思考の入り口に立ったと言えないだろうか。私は実際に、池袋の大型書店に行って、そこで、数時間ほどタイトルだけずっと確認した。そのとき新鮮な発見があった。それは、ひとつのジャンルをとってみても、より細かいサブジャンルが多数あることに気付いたのである。たとえば、自動車だと、粒度はさまざまだが、プラモデル、サスペンション、エンジン、カーナビ、歴史、スーパーカー、F1、有名人の自伝、アイルトン・セナ、タイヤ、キャンプ、レース、漫画などさまざまあったのだ。幅広いサブジャンルがあることが分かったときに、もっとそれぞれを知りたいと好奇心が掻き立てられたのである。どれかひとつでいいから、そのジャンルを深めたいと思ったのである。深めることによって、どうなるかは分からない。しかし、自分の興味に従って、思うがままに深めてみたいと思ったのである。その体験は本書の言葉を借りれば、アート思考をしたいと思った状況に近いのではないだろうか。その体験はアート思考の入口にたったことだったのではないかと思っているのだ。だから、アート思考の体験の入り口として、本書に行くことをおすすめする。
 
投稿者 jawakuma 日時 
「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考 末永幸歩 を読んで

 本著の帯に“大人たちもいま熱狂的に受けたい授業!!”というコメントがあるがアート=美術がなぜ大人に?と疑問が湧いた。大人に受けているということは仕事でつかえるスキルや思考法が身につくということなのであろうか?美術といえば感覚をつかさどる右脳を使う教科であり、論理をつかさどる左脳が重視される仕事には体育の次くらいに関係が薄い教科に思われるのだが…どういうことなのだろう?

 その疑問に対しては一応、本を開いてすぐの袖の部分に書かれている。「自分のものの見方を持てる人こそが結果を出せる」というものだ。果たしてそうだろうか?確かに巻末に登場するスティーブ・ジョブスのような企業の経営者や組織の上層部に属するエグゼクティブ層には、自分なりの答えから方針を決定し、結果を生み出すことが多いだろう。

 しかし、新入社員や組織の構成員などのルーチンワークに従事する人の場合、職種にもよるだろうが「自分のものの見方」はまず求められないだろう。むしろ逆に上長へ業務報告をする際には、いかに事実ベースで報告を行えるかが非常に重要である。

 私も部下からの報告を受ける際にはどこまでが事実で、どこからが報告者の意見なのかを必ず確認するようにしている。現にマッキンゼーをはじめとする大手コンサル会社では入社してしばらくはファクトベースの報告ができるよう徹底的に指導されるそうだ。実際それができないビジネスパーソンが多いように感じる。「事実」と「意見」を混同した報告を受けると事実誤認からの判断ミスや、状況の再確認に時間がかかることで初動の遅れが発生してしまったりするのだ。

 つまり、そのレベルの社会人に対してはアート思考での「自分のものの見方」の前に「事実」を「事実」としてしっかり捉え認識する能力が求められているのだ。だから、本書の帯書きで山口周氏も“「考える」の前に「観る」がある。「観る」がなければ「考える」もない。” というコメントを寄せているのだろう。「自分だけの答え」を出すべく考える前に、「事実」をしっかり「事実」として認識できるように観察が必要だということを暗に伝えているのである。

 なお、その「観る」の質を高める有効な方法が本書で紹介されていたアプトプット鑑賞である。この手法は絵画の鑑賞の質が高まるだけでなく、さまざまなワークショップ等でのレビューの作業でも同じやり方が取り入れられている。自分の気づきと他の人の気づきから事実を多面的にとらえることができるのでより事実把握の質が高まるのだ。

 そして、「事実」把握の先にはじめて機能するのが、自分が主観的に感じる「意見」なのだ。事実に基づいていない「意見」「判断」には残念ながら価値は求められない。ただの感覚でしかないからである。そんな困った業務報告ばかり上げがちなビジネスパーソンに対する処方箋がP144の“2つの問いかけ”だ。これは「事実」と「意見」の確認作業を行えるシンプルながらも強力なクエスチョンだ。

 今一度ここで紹介しておくと、以下の2つである。

   どこからそう思うのか?➡主観的に感じた「意見」の根拠となる「事実」を問う
   そこからどう思うのか?➡作品内の「事実」から主観的に感じた「意見」を問う

 これを繰り返していくと、業務上の報告や意思決定の際も、どこまでが「事実」でどこからが「意見」なのかを自ら認識できるようになる。

 本書の主題である、“興味のタネから発生させた、探求の根を伸ばし、表現の花を咲かせる、アート思考”は非常に重要だが、仕事のキホンのキで求められるのは上記の「事実」把握の能力とそこから意見を導き出す力なのである。


今月も良書を紹介いただきありがとうございました。
 
投稿者 mkse22 日時 
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考を読んで

本書は、アート思考を説明した本ではある。
アート思考とは『自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだすための作法(Kindle の位置No.103)である。
本書ではその説明をアートに対する既成概念を一つずつ丁寧に壊しながら行っているため、
読了後には、あたかも推理小説を読んでいるような爽快感がある。

私にとって印象的だったのは、アート思考は①自己との対話を通じて世界をみることで、②その思考を深めるためには他人の力が必要であることだ。
以下、この観点からアート思考について検討してみたい。

①については、アート思考ではまず、自身の興味や好奇心や疑問を出発点として世界を見る。
世界を見る方法として、2つの問いかけ「どこからそう思う?」「そこからどう思う?」の有効性が説明されている。

ポイントは、自分が世界を見ているのかを考えることにある。ここでは、他人がどのように見ているのかは考慮の対象外である。あくまでも自分を中心にひたすら自問自答するのである。

さらに、ここでいう世界を見るとは、視覚を通じて世界を見るという意味ではない。
五感すべてを通じて世界を見るというべきだろう。なぜなら、アート思考のアートの定義できないからだ。アートが定義できない以上、アートの対象を限定することができず、したがって、対象は世界をせざるをえず、さらに、アートの対象を把握する方法も限定することができないため、五感とせざるをえないからだ。

本書の中でアートの定義が都度提示されるが、読み進めていくうちに、それらがどんどん壊されていく。
例えば、アートとはリアルさであるという考えが、ヨハネス・フェルメールの牛乳を注ぐ女や
ヘダ・ブィレム・クラースのアビニヨンの娘たちに、視覚的な美しさであるという考えが、デュシヤンの「泉」に、そしてイメージの具体化であるという考えがポロックの「ナンバー1A」により、それぞれ壊されてしまった。

以上より、アート思考とは、自分の五感を通して感じたことを自らの言葉で世界を表現することである。
そこには自分しかできない経験を言語化しているため、オリジナリティがあり、さらに自分の言葉で表現しなおしている意味で世界を自ら再構築しているともいえる。

ここまでで、アート思考を実践するには、他人は必要のような不要のように見える。
アート思考の特徴は自問自答のため、一人で実施可能な気がするが、
本当に他人は不要なのだろうか。

ここで②である。
私はアート思考を実践するためには他人が必要と考える。
なぜなら、一人で自問自答を続けることは困難だとおもうからだ。
どうしても自分の思い込みや知識不足により、すぐに自問自答が止まってしまうからだ。

自身の思い込みや知識不足を解消するためには、どうしても他人との議論が必要である。

ただ、ここでいう議論とは、相手を言い負かすような類のものではない。
自分自身の間違いや思い込みに気づき、それらを修正するための場である。
したがって、いわばディベートのような白熱したものにはならず、淡々と自分の意見を言って
それに対して、どのように感じているのかをフィードバックしてもらうような場になるだろう。

このような場を用意するためには、少なくとも、参加者には、相手がどんな意見を言ったとしても
否定することは許されないといったルールを飲んでもらう必要があるだろう。
どんな意見でも主張することが許される場があって、初めて、自身の本音の意見が言えるからだ。

このように考えてみると、アート思考を実践するには、高いハードルがあるように思う。
現実の社会で実際におこなうことはなかなか難しいだろう。

だからこそ、本書にあるとおり、自身の愛することを見つけ出し、それを軸にして
アート思考を実践する必要がある。
愛するものであれば、他人から否定されようが、それだけではそれを簡単に手放すことはないからだ。

愛するものをみつける。
やはり最終的にはこれが最も重要な点になることを改めて感じてしまった。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
『アーティスト』か『花職人』か、今の私が、どちらなのかと問われれば、『花職人』だと答える。本書によると、『アーティスト』とは自分だけのものの見方で自分なりの答えを生み出す人を指し、一方で、『花職人』とは他人が定めたゴールに向かって進んで行く人を指す。また、『アーティスト』と『花職人』の大きく違う点は、自身が持った興味や好奇心、疑問に忠実であるかどうかである。私は自身の持った興味や疑問に忠実ではないし、自分だけのものの見方や答えを持っているわけでもない。故に、私は自身を『花職人』だと思うのだ。しかし、本書を読んで私は思った。今後私は、『アーティスト』になりたいと。なぜならば、自身の興味に忠実な『アーティスト』の生き方のほうが、驚きや感動が多く、断然に楽しそうに見えるからだ。

まず、私は自身の持った興味や好奇心、疑問を放置するタイプである。私は本書を読んで過去に起きたある印象的な出来事を思い出した。それは、昨年上野の国立西洋美術館で、ある写実的に描かれた絵を見た時の事だ。題名こそ忘れたが、その絵は一見写真と見間違える程に写実性の高い作品であった。私は最初にその作品を見た時、目を疑うように驚いたが、次の瞬間にふとある疑問が浮かび上がったのだ。それは、“何で絵にするのだろう?写真で良いのでは?”というものだ。その理由は、本書を読んですぐに分かった。ただ単に、その絵は未だカメラが、世の中に普及する前に描かれたものだったのだ。私がここで言いたいのは、無知が世界を狭くするというようなことではない。私が言いたいのは、なぜ今でも思い出すくらいに印象に残っていた疑問を今まで放置していたのかということである。本書で言えば、“何で絵にするのだろう?写真で良いのでは?”という自分の中に芽生えた疑問や好奇心は、『興味のタネ』に他ならないはずである。そして、『アーティスト』はこのような『興味のタネ』を大切にするのであろう。ただここで、普通はそんな小さな疑問をわざわざ追いかけたりしないのでは?と、思う人もいるだろう。しかし、それが『花職人』の考え方だと思うのだ。なぜならば、“普通”とは一般的、常識などの意味を含む言葉であり、前提に囚われていることを意味するからだ。もしも、今後私が『アーティスト』になるのであれば、“普通”などの前提に囚われることなく、いかに小さくとも自身の持った興味、好奇心、疑問に忠実になるべきだ。想像してみよう。もしも、“何で絵にするのだろう?写真で良いのでは?”を深堀し、カメラの普及と写実画の関係を自ら突き止めていたらどうなっていたか。間違いなく、本書でその事実を知った時以上に、驚き、感動したはずだ。

次に、私が『花職人』だと自身のことを思うのは、『アーティスト』が持つ、自分だけのものの見方で自分なりの答えを生み出すタイプではないからだ。このことが明確に分かったのが、CLASS1「『すばらしい作品』ってどんなもの」を私のやり方にアレンジして実践した時である。私のやり方とは、『すばらしい作品』を“すばらしい自分”に置き換えて、「“すばらしい自分”ってどんなもの」にして考えたのである(ちなみに、ここでの“自分”とは客体として見たモノである)。そもそもなぜ、『作品』と“自分(客体)”を置き換えたかと言うと、これら2つには、目に見える部分と目に見えない部分があるという共通点があり、自分自身が『アーティスト』なのか『花職人』かを判断する上で有効だと考えたからだ。まず、本書によれば『作品』には目に見える部分と目に見えない部分がある。目に見える部分とは、作品そのものであり、姿、形、色使い、画材等の部分である。一方で、『作品』の目に見えない部分とは、『作品』ができるまでの過程にあたり、『作品』の背景にある、どのようにアイデアを得て、どのようにコンセプトを考えたかという所謂アート思考である。次に、“自分(客体)”にも目に見える部分と目に見えない部分があると私は考える。目に見える部分とは、その人の、容姿、年収、健康、人間関係等の表面的、具体的、客観的、一時的に確認できる部分である。他方で、“自分(客体)”の目に見えない部分とは、ある時点までの“自分(客体)”を形成した過程であり、どのような価値観や思想の変遷を経てきたのか、そこに辿り着くまでにどのような行動習慣を重ねてきたか等である。『アーティスト』であるマティスは、CLASS1「『すばらしい作品』ってどんなもの」の中で、目に見えない部分であるアイデアやコンセプトを重視して、自分だけのものの見方で自分なりの答えを生み出して、結果として斬新な『作品』、《緑のすじのあるマティス夫人の肖像画》を描いた。一方で、私が「“すばらしい自分”ってどんなもの」と考えた時に出てくるのは、目に見える部分である容姿、年収、健康、人間関係等ばかりなのだ。これら目に見える部分が、確固たる価値観や思想、行動習慣という目に見えない部分の上にあるのならば良いのだが、私の場合はそうとは言えず、世間体に良い容姿、世間で言われる良い年収等を基準にしてしまっているのである。要するに、自分だけのものの見方で自分なりの答えを生み出していないのだ。もしも、今後私が『アーティスト』を目指すのであれば、自分の見えない部分である価値観や思想、行動習慣にもっと意識を向けるべきだろう。


~終わり~
 
投稿者 keiji0707 日時 
ハンドルネーム:keiji0707

 この作品は、私に自分のものの見方を持つことの大切さを考えるきっかけを与えてくれるとともに、苦い学生生活を思い出させた。
 学生時代、私はテストで良い点数を取ること、受験に勝つことが社会で認められる最重要の評価基準であると考えていた。一方、答えがはっきりしない美術は受験勉強に不要で、時間の無駄だと切り捨てた。
 また、周囲と異なる考え方や行動は、数奇な目で見られるとの不安や恐れから、周囲に歩調を合わせて生きてきた。このような均質的な生き方に何の違和感や疑問を抱かない状況は大学生活も続いた。
 自ら課題を設定し解決する学びの場の大学に身を置きながら、答えのある課題に慣れ切った私は、その枠組みから外に出ることができなかった。単位を取得することが目的となり、大学での4年間が過ぎ去ってしまった。
 本作品で説く『自分だけのものの見方で世界を見つめ、自分だけの答えを生み出し、それによって新たな問いを生み出す』という一連の作業は、これまでの私の人生において、無意識に避けてきた取り組みである。
 自分だけのものの見方を身につけるためには、自分と向き合わなければならない。これまで深く自問自答したことがない私にとって、真正面から自分と向き合うことは恐怖であり孤独である。
 鬱々とした考えを巡らす中で、自分と向き合わず、安穏とした人生を過ごしていてはまずいという思いが、この1年で強く沸き起こった。このような思いに至った原因は、様々な方向に急速に変化する情報化社会と新型コロナウイルス感染症の拡大をきっかけとした働き方の変化によるものだ。
 情報化社会の進展により、世界中のあらゆる出来事や情報が即座に入手することができるようになったし、情報端末を片手に24時間いつでもどこでも手に入れることが可能となった。確かに便利になったが、その半面、習得すべき知識や情報量が膨大になってしまった。習得したと思ったら、半年後や1年後には、さらに新しい知識や情報が登場する。学生時代に学んだ知識は過去の遺物となり、さらに新しい知識を詰め込まなければならない。加速度的に登場する知識や情報を詰め込むことは、もはや不可能である。
 このような変化の激しい社会では、自分の内面としっかり向き合い、情報に左右されないぶれない根っこを育てる必要がある。そして、自身の内面から発出されたものを創造していくことが求められるだろう。時間は掛かるであろうが、自分の根っこをしっかりと大きく育てていくことが肝要である。また、知識をどのように活用するか応用するかが重要となってくる。
 今年は、新型コロナウイルス感染拡大をきっかけに、在宅ワークでの働き方に切り替える企業が増えた。在宅勤務を経験して、仕事は、必ずしも会社でする必要がないことが分かってきた。
 働き方改革を進める企業にとって、新型コロナウイルス感染拡大が終息した後も、在宅ワークに一定の割合で切り替えるのではないだろうか。 
 在宅ワークが導入されると、個人の成果がより一層顕著に表れる。一定期間ごとに取り組んだ成果物を会社に提出することが求められる。個々人により、成果物の完成度や精度の差がより一層際立ってしまい、能力の差が客観的に判断されてしまうからだ。
 これからの社会では、特色のない成果物は評価されなくなるだろう。特色のない成果物はすぐに代替されてしまうからだ。そうならないためにも、いかに自分の根っこをしっかりと育てるか、自分の内面に向き合っていくことが大切だ。根っこを大きく育てられれば、自分しか創造できない成果物を創出することができるのだ。
 私にとって、答えが見つかるかどうか分からない根っこを探すことは、答えがない問題に取り組むようなものだ。途中で挫折したり、模索を繰り返すことになるだろう。しかし、変わることにこそ意味があり、変わることを恐れてはいけない。
 私は、この作品から勇気づけるメッセージをたくさん頂いた。得た知識をどう活かすか、あとは行動あるのみだ。
 
投稿者 lazurite8lazward 日時 
著者が国公立の中学・高校の美術教師であること、好きな科目の調査結果が日本の小・中学生対象であると文脈から推測できる事から、本書の内容は“日本人”の問題点や課題に対する提言が前提になっていると考えられる。従って著者が主張する『美術はいま大人が最優先で学び直す科目である』という点、これからの未来を担う子供達がアート思考を身に付ける必要があるという点
は“日本人の大人・子供”へのメッセージと捉えられる。私自身もアート思考の不足が昨今の日本の競争力鈍化の1つの要因になっていると考えているため著者の主張には非常に共感した。
一方で、本書を読んだ全国の日本人の方の中には、共感できなかったり、なぜ“日本人”にフォーカスされているのか、アート思考はどう使うのか咀嚼しきれなかった方も少なくないのではないだろうか。

本書に記載の「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」という考え方を意識してアート思考で美術に向き合うことは確かに重要であり有益である。しかしながら、これだけでは“日本人“には理解し難い部分があると考える。本書を読んでも日本人がアート思考の領域を深く・正しく理解し難いと思われる理由は2点ある。

1点目は用語のゆらぎである。本書では美術とアートが対となって使われている箇所があるが、欧米的な理解では美術はFine artと対になるべきもので、Fine artとArtは別のことを指す。英英辞典を読むと分かるが“美しい”という要素はFine artにしかなくArtは造形物を指している。この用語のゆらぎが正しいアート思考の理解への障害の1つになっていると考える。

2点目は用語の定義と背景情報の理解が足りない点である。1点目の用語のゆらぎとも関連するが、Artという定義の説明に不足がある。日本語のアートは和訳の過程で複数の要素を合算したと思われるため、アートという言葉を複数の意味で便利に使い回すことは間違いではないが、日本人に限定した場合Artの意味とその背景情報を正しく理解できていない人が多数いるためアート思考が根付き難いという点は知っておく必要があるように感じる。欧米におけるArtの定義はThings human madeであり、Artの反対にあるものはNature=Things God madeとなる。つまり世界は大きく二分して捉えられており、一方は「人間が造ったものの領域=Art」でありもう一方は「人間以外が創った領域=神が創った領域=Nature」として欧米では整理されKindergartenの頃から教えられている。つまり本書にある「表現の花」はArtの領域で起こるものであり、「興味のタネ」と「探究の根」はNatureの領域で起こるものになる。欧米のビジネスエリートが美術館に通ったり、美術品のディスカッションプログラムに参加する情報が日本にも入ってきているが、彼らがこのような美術品に向き合うのは、Artの領域にある既に完成した「表現の花」から「興味のタネ」「探究の根」をどう繋げたのかというプロセスを思考し蓄積させることで、その蓄積を今度はビジネスの領域で、Natureの領域にある「探究の根」から「興味のタネ」を見つけ、Output or Deliverableである「表現の花」の生成に応用しようとしているからである。つまりアート思考には2種類あり、既に完成品として存在する「表現の花」からその経緯を辿っていく思考と、その思考を応用して不確実性が高く常に変化しているNatureの領域から「自分のものの見方」を使ってArtの領域に造形物や結果や製品を引き出してくるプロセスが存在する。

日本人がアート思考できない本質は根深い。日本と欧米の小学生の算数の問題の違いで、日本は「5+5=□」のような問題が多いが欧米では「□+□=10」のような問題が多いという例が取り上げられる事がある。これもアート思考のベースとなるArtとNatureの考え方があるかどうかに起因する。不確実性の高いNatureの領域で算数を考えれば自ずと答えは無限にあるため「□+□=10」という問題が生まれ、「Nature=
人間以外が創った領域」で算数を解くという発想そのものが存在しない日本では「5+5=□」という結果が固定された発想しか生まれてこない。日本以外の全ての欧米諸国がArtとNatureの考え方を持っている訳ではないが教育体系の基礎にリベラルアーツを持つ国では宗教などに寄らずこのArtとNatureの考え方が理解できる。

恐らく著者はArtとNatureという世界を二分する考え方が分かった上で本書を執筆したと思うが、美術嫌いの日本の子供達が美術に力点を置くようになったり、今まで美術に見向きもしなかった日本の多数の大人たちが劇的に美術に目を向けて行くためには本書の1段下のレイヤーに欧米のスタンダードであるArtとNatureの考え方を言語化して記載した方がよりアート思考の重要性と理解度が深まるのではないかと感じた次第。
 
投稿者 lazurite8lazward 日時 
著者が国公立の中学・高校の美術教師であること、好きな科目の調査結果が日本の小・中学生対象であると文脈から推測できる事から、本書の内容は“日本人”の問題点や課題に対する提言が前提になっていると考えられる。従って著者が主張する『美術はいま大人が最優先で学び直す科目である』という点、これからの未来を担う子供達がアート思考を身に付ける必要があるという点
は“日本人の大人・子供”へのメッセージと捉えられる。私自身もアート思考の不足が昨今の日本の競争力鈍化の1つの要因になっていると考えているため著者の主張には非常に共感した。
一方で、本書を読んだ全国の日本人の方の中には、共感できなかったり、なぜ“日本人”にフォーカスされているのか、アート思考はどう使うのか咀嚼しきれなかった方も少なくないのではないだろうか。

本書に記載の「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」という考え方を意識してアート思考で美術に向き合うことは確かに重要であり有益である。しかしながら、これだけでは“日本人“には理解し難い部分があると考える。本書を読んでも日本人がアート思考の領域を深く・正しく理解し難いと思われる理由は2点ある。

1点目は用語のゆらぎである。本書では美術とアートが対となって使われている箇所があるが、欧米的な理解では美術はFine artと対になるべきもので、Fine artとArtは別のことを指す。英英辞典を読むと分かるが“美しい”という要素はFine artにしかなくArtは造形物を指している。この用語のゆらぎが正しいアート思考の理解への障害の1つになっていると考える。

2点目は用語の定義と背景情報の理解が足りない点である。1点目の用語のゆらぎとも関連するが、Artという定義の説明に不足がある。日本語のアートは和訳の過程で複数の要素を合算したと思われるため、アートという言葉を複数の意味で便利に使い回すことは間違いではないが、日本人に限定した場合Artの意味とその背景情報を正しく理解できていない人が多数いるためアート思考が根付き難いという点は知っておく必要があるように感じる。欧米におけるArtの定義はThings human madeであり、Artの反対にあるものはNature=Things God madeとなる。つまり世界は大きく二分して捉えられており、一方は「人間が造ったものの領域=Art」でありもう一方は「人間以外が創った領域=神が創った領域=Nature」として欧米では整理されKindergartenの頃から教えられている。つまり本書にある「表現の花」はArtの領域で起こるものであり、「興味のタネ」と「探究の根」はNatureの領域で起こるものになる。欧米のビジネスエリートが美術館に通ったり、美術品のディスカッションプログラムに参加する情報が日本にも入ってきているが、彼らがこのような美術品に向き合うのは、Artの領域にある既に完成した「表現の花」から「興味のタネ」「探究の根」をどう繋げたのかというプロセスを思考し蓄積させることで、その蓄積を今度はビジネスの領域で、Natureの領域にある「探究の根」から「興味のタネ」を見つけ、Output or Deliverableである「表現の花」の生成に応用しようとしているからである。つまりアート思考には2種類あり、既に完成品として存在する「表現の花」からその経緯を辿っていく思考と、その思考を応用して不確実性が高く常に変化しているNatureの領域から「自分のものの見方」を使ってArtの領域に造形物や結果や製品を引き出してくるプロセスが存在する。

日本人がアート思考できない本質は根深い。日本と欧米の小学生の算数の問題の違いで、日本は「5+5=□」のような問題が多いが欧米では「□+□=10」のような問題が多いという例が取り上げられる事がある。これもアート思考のベースとなるArtとNatureの考え方があるかどうかに起因する。不確実性の高いNatureの領域で算数を考えれば自ずと答えは無限にあるため「□+□=10」という問題が生まれ、「Nature=
人間以外が創った領域」で算数を解くという発想そのものが存在しない日本では「5+5=□」という結果が固定された発想しか生まれてこない。日本以外の全ての欧米諸国がArtとNatureの考え方を持っている訳ではないが教育体系の基礎にリベラルアーツを持つ国では宗教などに寄らずこのArtとNatureの考え方が理解できる。

恐らく著者はArtとNatureという世界を二分する考え方が分かった上で本書を執筆したと思うが、美術嫌いの日本の子供達が美術に力点を置くようになったり、今まで美術に見向きもしなかった日本の多数の大人たちが劇的に美術に目を向けて行くためには本書の1段下のレイヤーに欧米のスタンダードであるArtとNatureの考え方を言語化して記載した方がよりアート思考の重要性と理解度が深まるのではないかと感じた次第。
 
投稿者 Terucchi 日時 
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート 末永幸歩著 を読んで

私のこの本を読んだ感想を端的にまとめると、

アートとは、「美術=美の技術でなく、=自分の考え」であり、そして、その考えは「自由」である。
また、アートは「自分の考えを深く考えることであり、一つの表現方法」なのだと学んだ。

今回、以下の3点で自分なりに考えた。
①この本から学んだこと
②少し深く考えてみたこと
③自分のことに置き換えて考えてみたこと
これらの視点で、以下に書いてみる。

①この本から学んだこと

アートの訳をネットで探してみたところ、芸術・美術であり、私もそのように解釈していた。しかし、作者がここで言うアートは違う。この本の中で、一般的な例で書いてある解釈と同じく、私自身も今まで学校で習ってきた名画、それが芸術なのだ、と思っていたが、それはどうも違うとのことである。どうやら、それは目に見えている一部であるとしている。目に見える部分は表現の一部であり、花に例えると咲いている花の部分が見えているだけ。しかし、花の部分だけでなく、葉っぱや茎もあり、更に地面の中の根の部分は見えないが、もっと大きく貴重な存在。それをどこまで深く掘り下げるか、しっかりした根があるため、地面の上で咲いている花になる。絵で例えると、絵は見えるところで表現されているが、表現されていない見えない奥深く掘り下げたものがあって、それが目に見える表現に繋がっているとのことである。如何に深く掘り下げたものがあるか、それが表面では所謂味わいになるのであろう。私自身、アートに対して浅はかな解釈であり、如何に表面しか見ていなかったと思った。見る視点、考える視点によって、こんなにも変わり、そして奥の深さにビックリした。今回この本で、ちょっとしたキッカケをもらうと、見方、考え方が変わるものだと思った。

②少し深く考えてみたこと
ところで、アート= 芸術と考えていたため、作者が例に上げていたように、私も絵とはリアルなものが良いと思っていた。しかし、今回読んでみて、奥を考えてみた。人はリアルに見ていても、考える脳の中では必ずしもリアルではない。例えとして、マンガ絵を取り上げてみる。マンガは実際のリアルからはズレている。しかし、その方がわかることも多い。むしろ、頭の中はリアルな現実よりも抽象的なものの方がわかる場合やしっくりくることがよくある。それが、マティスやピカソの絵であろう。その方が感覚にしっくり来るのであろう。
ところで、カメラによって肖像画のようなリアルな絵を描く職人の仕事が奪われたとあったが、現在の産業の歴史も似たところがある。産業革命によって、動力が機械になり、人力が奪われた。次に、計算機ができ、PCができ、経理の仕事が奪われた。ATMやオンラインにより金額処理の仕事も奪われた。更に、次はAIによって、様々な仕事も奪われていくであろう。しかし、本当に何もかもの仕事が奪われていくのだろうか。今回のアートのように、何らかの生き残ることがあるのであろう。それがマンガ絵のような抽象的な域であり、イメージをして繋いでいく人間の脳の力だと思う。

③自分のことに置き換えて考えてみたこと
次に、普段の私の生活にアートを当てはめてみた。
考えてみると、今の私がやっている仕事もアートなのであろう。しょ〜おん先生のセミナーでも、仕事をアートに考えること、とあった。どうやって表現するか。何も絵画のキャンパスだけが、表現するキャンパスだけではない。仕事の場も同じキャンパス。どうやって自分を表現するかである。テレビでダルビッシュが表現方法が変化球と言っていた。この言葉が私にとって、とてもしっくりきた。自分の場合は、どうなのであろうか。表現の場と思っているのだろうか。楽して、お金を得ることが、得だと思っているのではないだろうか。まだまだ深く考えることができるのではないか。アートにできることはないだろうか。
私の仕事は、もう少し具体的に言うと、工場の生産性を上げる仕事に携わっている。人のやっている仕事を改善したり、合理化することにより、生産性を上げることが仕事である。工場の生産性を上げる具体的なは自動化したり、ロボットを使ったりして、人のやる仕事を削減している。人のやる仕事を減らすことが、正であるのであるが、本当にゼロにはできない。ここで今回のアートの観点で考えてみると、工場の生産性を無機物として考えるのでなく、アート=考え、として捉えると、まだまだ人間の仕事なのであろう。そう、工場もアートとして考えることができるはず。それを考えていくこと、見続けることができるのが、私の使命なのだと思った。そして、私らしさを考えて、自分の仕事の表現につなげていきたい。

以上、しょ〜おん先生には、今回も良い本を紹介して頂き、そして考える機会を与えて頂き、ありがとうございました。
 
投稿者 Terucchi 日時 
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート 末永幸歩著 を読んで

私のこの本を読んだ感想を端的にまとめると、

アートとは、「美術=美の技術でなく、=自分の考え」であり、そして、その考えは「自由」である。
また、アートは「自分の考えを深く考えることであり、一つの表現方法」なのだと学んだ。

今回、以下の3点で自分なりに考えた。
①この本から学んだこと
②少し深く考えてみたこと
③自分のことに置き換えて考えてみたこと
これらの視点で、以下に書いてみる。

①この本から学んだこと

アートの訳をネットで探してみたところ、芸術・美術であり、私もそのように解釈していた。しかし、作者がここで言うアートは違う。この本の中で、一般的な例で書いてある解釈と同じく、私自身も今まで学校で習ってきた名画、それが芸術なのだ、と思っていたが、それはどうも違うとのことである。どうやら、それは目に見えている一部であるとしている。目に見える部分は表現の一部であり、花に例えると咲いている花の部分が見えているだけ。しかし、花の部分だけでなく、葉っぱや茎もあり、更に地面の中の根の部分は見えないが、もっと大きく貴重な存在。それをどこまで深く掘り下げるか、しっかりした根があるため、地面の上で咲いている花になる。絵で例えると、絵は見えるところで表現されているが、表現されていない見えない奥深く掘り下げたものがあって、それが目に見える表現に繋がっているとのことである。如何に深く掘り下げたものがあるか、それが表面では所謂味わいになるのであろう。私自身、アートに対して浅はかな解釈であり、如何に表面しか見ていなかったと思った。見る視点、考える視点によって、こんなにも変わり、そして奥の深さにビックリした。今回この本で、ちょっとしたキッカケをもらうと、見方、考え方が変わるものだと思った。

②少し深く考えてみたこと
ところで、アート= 芸術と考えていたため、作者が例に上げていたように、私も絵とはリアルなものが良いと思っていた。しかし、今回読んでみて、奥を考えてみた。人はリアルに見ていても、考える脳の中では必ずしもリアルではない。例えとして、マンガ絵を取り上げてみる。マンガは実際のリアルからはズレている。しかし、その方がわかることも多い。むしろ、頭の中はリアルな現実よりも抽象的なものの方がわかる場合やしっくりくることがよくある。それが、マティスやピカソの絵であろう。その方が感覚にしっくり来るのであろう。
ところで、カメラによって肖像画のようなリアルな絵を描く職人の仕事が奪われたとあったが、現在の産業の歴史も似たところがある。産業革命によって、動力が機械になり、人力が奪われた。次に、計算機ができ、PCができ、経理の仕事が奪われた。ATMやオンラインにより金額処理の仕事も奪われた。更に、次はAIによって、様々な仕事も奪われていくであろう。しかし、本当に何もかもの仕事が奪われていくのだろうか。今回のアートのように、何らかの生き残ることがあるのであろう。それがマンガ絵のような抽象的な域であり、イメージをして繋いでいく人間の脳の力だと思う。

③自分のことに置き換えて考えてみたこと
次に、普段の私の生活にアートを当てはめてみた。
考えてみると、今の私がやっている仕事もアートなのであろう。しょ〜おん先生のセミナーでも、仕事をアートに考えること、とあった。どうやって表現するか。何も絵画のキャンパスだけが、表現するキャンパスだけではない。仕事の場も同じキャンパス。どうやって自分を表現するかである。テレビでダルビッシュが表現方法が変化球と言っていた。この言葉が私にとって、とてもしっくりきた。自分の場合は、どうなのであろうか。表現の場と思っているのだろうか。楽して、お金を得ることが、得だと思っているのではないだろうか。まだまだ深く考えることができるのではないか。アートにできることはないだろうか。
私の仕事は、もう少し具体的に言うと、工場の生産性を上げる仕事に携わっている。人のやっている仕事を改善したり、合理化することにより、生産性を上げることが仕事である。工場の生産性を上げる具体的なは自動化したり、ロボットを使ったりして、人のやる仕事を削減している。人のやる仕事を減らすことが、正であるのであるが、本当にゼロにはできない。ここで今回のアートの観点で考えてみると、工場の生産性を無機物として考えるのでなく、アート=考え、として捉えると、まだまだ人間の仕事なのであろう。そう、工場もアートとして考えることができるはず。それを考えていくこと、見続けることができるのが、私の使命なのだと思った。そして、私らしさを考えて、自分の仕事の表現につなげていきたい。

以上、しょ〜おん先生には、今回も良い本を紹介して頂き、そして考える機会を与えて頂き、ありがとうございました。
 
投稿者 Terucchi 日時 
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート 末永幸歩著 を読んで

私のこの本を読んだ感想を端的にまとめると、

アートとは、「美術=美の技術でなく、=自分の考え」であり、そして、その考えは「自由」である。
また、アートは「自分の考えを深く考えることであり、一つの表現方法」なのだと学んだ。

今回、以下の3点で自分なりに考えた。
①この本から学んだこと
②少し深く考えてみたこと
③自分のことに置き換えて考えてみたこと
これらの視点で、以下に書いてみる。

①この本から学んだこと

アートの訳をネットで探してみたところ、芸術・美術であり、私もそのように解釈していた。しかし、作者がここで言うアートは違う。この本の中で、一般的な例で書いてある解釈と同じく、私自身も今まで学校で習ってきた名画、それが芸術なのだ、と思っていたが、それはどうも違うとのことである。どうやら、それは目に見えている一部であるとしている。目に見える部分は表現の一部であり、花に例えると咲いている花の部分が見えているだけ。しかし、花の部分だけでなく、葉っぱや茎もあり、更に地面の中の根の部分は見えないが、もっと大きく貴重な存在。それをどこまで深く掘り下げるか、しっかりした根があるため、地面の上で咲いている花になる。絵で例えると、絵は見えるところで表現されているが、表現されていない見えない奥深く掘り下げたものがあって、それが目に見える表現に繋がっているとのことである。如何に深く掘り下げたものがあるか、それが表面では所謂味わいになるのであろう。私自身、アートに対して浅はかな解釈であり、如何に表面しか見ていなかったと思った。見る視点、考える視点によって、こんなにも変わり、そして奥の深さにビックリした。今回この本で、ちょっとしたキッカケをもらうと、見方、考え方が変わるものだと思った。

②少し深く考えてみたこと
ところで、アート= 芸術と考えていたため、作者が例に上げていたように、私も絵とはリアルなものが良いと思っていた。しかし、今回読んでみて、奥を考えてみた。人はリアルに見ていても、考える脳の中では必ずしもリアルではない。例えとして、マンガ絵を取り上げてみる。マンガは実際のリアルからはズレている。しかし、その方がわかることも多い。むしろ、頭の中はリアルな現実よりも抽象的なものの方がわかる場合やしっくりくることがよくある。それが、マティスやピカソの絵であろう。その方が感覚にしっくり来るのであろう。
ところで、カメラによって肖像画のようなリアルな絵を描く職人の仕事が奪われたとあったが、現在の産業の歴史も似たところがある。産業革命によって、動力が機械になり、人力が奪われた。次に、計算機ができ、PCができ、経理の仕事が奪われた。ATMやオンラインにより金額処理の仕事も奪われた。更に、次はAIによって、様々な仕事も奪われていくであろう。しかし、本当に何もかもの仕事が奪われていくのだろうか。今回のアートのように、何らかの生き残ることがあるのであろう。それがマンガ絵のような抽象的な域であり、イメージをして繋いでいく人間の脳の力だと思う。

③自分のことに置き換えて考えてみたこと
次に、普段の私の生活にアートを当てはめてみた。
考えてみると、今の私がやっている仕事もアートなのであろう。しょ〜おん先生のセミナーでも、仕事をアートに考えること、とあった。どうやって表現するか。何も絵画のキャンパスだけが、表現するキャンパスだけではない。仕事の場も同じキャンパス。どうやって自分を表現するかである。テレビでダルビッシュが表現方法が変化球と言っていた。この言葉が私にとって、とてもしっくりきた。自分の場合は、どうなのであろうか。表現の場と思っているのだろうか。楽して、お金を得ることが、得だと思っているのではないだろうか。まだまだ深く考えることができるのではないか。アートにできることはないだろうか。
私の仕事は、もう少し具体的に言うと、工場の生産性を上げる仕事に携わっている。人のやっている仕事を改善したり、合理化することにより、生産性を上げることが仕事である。工場の生産性を上げる具体的なは自動化したり、ロボットを使ったりして、人のやる仕事を削減している。人のやる仕事を減らすことが、正であるのであるが、本当にゼロにはできない。ここで今回のアートの観点で考えてみると、工場の生産性を無機物として考えるのでなく、アート=考え、として捉えると、まだまだ人間の仕事なのであろう。そう、工場もアートとして考えることができるはず。それを考えていくこと、見続けることができるのが、私の使命なのだと思った。そして、私らしさを考えて、自分の仕事の表現につなげていきたい。

以上、しょ〜おん先生には、今回も良い本を紹介して頂き、そして考える機会を与えて頂き、ありがとうございました。
 
投稿者 2727 日時 
「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考 末永幸歩 を読んで

私は美術館に行くのが好きですが、著者の
「「鑑賞」のためというよりも作品情報と実物を照らし合わせる「確認作業」のために美術館に行っていたようなもの」という言葉にはっとさせられました。

かつて理由はよくわからないけれど、鳥肌がたつほどの感動や、その場で吸い込まれるように動けなくなる作品に出合うことがありましたが、
「上面だけを撫でてわかった気になり、大事なことを素通りしてしまっている」
自分がいたように思います。

そしてせっかく貴重な震えるほどの感動を味わえても、うまく表現できないし深堀して自分だけの答えを見つけるまでには至っていませんでした。


この本を読んで、今まで私に身についていなかった思考アーティストになりたい自分を再認識しました。
「「興味のタネ」を自分の中に見つけ、「探求の根」をじっくりと伸ばし、ある時に独自の「表現の花」を咲かせる人。」

事前に自身が持ち合わせた情報や、一方方向からの視点、に頼るのではなく、
事前情報や常識にとらわれない思考。
多方向、上下など空間的思考。
そして粘り強く探求心の根を張ること。

振り返るとこれまでの私は仕事で花職人を目指してしまうことばかりでした。
というより、それが当たり前だとさえ思っていました。

会社で与えてもらった種をもらい、管理された環境下で、枯れないように咲かせることに迷いも不安も躊躇もありませんでした。

それが良いのか悪いのかは人それぞれ。
どちらの立場で花を咲かせたいのかは自身で選ぶことができるのです。

私は人生の転機を迎えるタイミングで、運よくこの本に出会いました。
「自分のものの見方」「自分なりの答え」を深堀する「アート思考」という思考法はこれから身に着けたい習慣の1つです。今から実践して私という花を楽しみに根を張っていきたいと思います。