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第125回目(2021年9月)の課題本


9月課題図書

 

実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

ここ最近、ルッキズム(外見によって人を差別すること)関係について考える

ことが多くて、そもそも差別ってどういうこと?能力ってどういうこと?能力によって優

遇されるのは、ある種の差別にならないの?障碍者って、どういう定義なの?みたいなこ

とを考えています。

 

そうした時に、本書を手に取りまして、能力って多分に運の要素が影響する、かなりえげ

つない競争であって、決してフェアなモノではないよねという、私の考えをかなり補強し

てくれました。

 

本好きの方は、参考図書として

 

 

無理ゲー社会

 

 

を合わせて読むと、この問題に関する理解が深まると思います。

 【しょ~おんコメント】

9月優秀賞

 

今回はなかなかキツい選考になりまして、月ごとのクオリティーのバラツキの大きさに圧

倒されました。そこで一次審査を突破したのが、tsubaki.yuki1229さん、sarusuberi49さ

ん、akiko3さんで、優秀賞はtsubaki.yuki1229さんに差し上げます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 mkse22 日時 
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を読んで

人間は平等ではない。生まれ持った才能に違いがある。
そして、才能の有無によって、選択可能な職業が変わってしまう。
野球のセンスのない人がプロ野球選手になれないように。

さらに、高い才能が求められる職業は年収も高くなる傾向にある。
プロ野球選手や芸能人は、サラリーマンの平均的な生涯年収を
数年で稼いでしまう。

ここに、能力主義が加わると、高い社会的地位にいるものは、
その地位を獲得できた理由を自身の才能と努力の結果だと見做してしまい、
そうでないものは才能もしくは努力が不足していたと考えるようになる。
これが理由で、前者は周囲から称賛され、後者は見下される。

ここから、才能があり努力をすれば、それ相応のお金や名誉を得ることが出来ると考え、
だから才能がほしいという考えに至ることになるだろう。

ただ、この考えは才能を持つことのプラス面に注目しすぎており
マイナス面を見落としている気がする。

才能を持つことのマイナス面、それは才能を持つものは
それを生かすことができるのかという重圧に苦しむことである。
なぜなら、才能をもってうまれてきたとしてもそれを開花させなければ意味がないからだ。
もし、才能が中途半端に開花したり開花しなかった場合は、
その人の人生は、才能がない人のそれよりも厳しいものとなる可能性がある。

よい例は二軍のプロ野球選手だ。
彼らは決して野球の才能がないわけではない。むしろ一般人と比較してはるかに才能がある。
しかし、一流のそれではないかもしれないし、たとえ一流のものだったとしても
中途半端に開花した状況だ。
二軍の選手の年棒は決して高いものではないうえに選手生命も短い。
さらに引退後の就職先探しも困難なケースが多い。
こうなると、二軍の選手の生涯年収は、普通のサラリーマンより低いかもしれない。

それでは才能を開花させるのに必要なものは何か。それは運だろう。
もちろん、一流の才能を持って生まれることや努力することは必要だが、それだけでは足りない。
例えば、野球でいえば、自分の才能を伸ばしてくれる指導者との出会いだろうか。

さらに言えば、才能を持って生まれてくることにも運が必要だし、努力することにも運が必要かもしれない。
例えば、いくら野球の才能があっても、貧困であれば、生活のために野球以外の仕事に就かざるを得ないからだ。
こうなると野球の練習ができないため、プロ野球選手にはなれない可能性が高くなる。

このように能力主義が根付いたとしても、成功者が自身の成功は運がよかっただけと考えることができれば、そうでないものを努力不足といった形で見下すことはしにくくなるだろう。

ただ、すべては運で決まるという考え方が根付いてしまうと、
今度は運(と一流の才能)を持つ人だけが努力するが、それ以外は何もしない社会が誕生してしまう。
たとえるなら、ごく少数のエリートと大多数の出世に見込みがないため
無気力となってしまった大企業の40代サラリーマンのみで構成される会社のようなものだ。
こうなると社会全体の活力が失われてしまうだろう。

この無気力社会を回避するためには、才能が乏しい人でも努力する仕組みが必要だ。
そこで、この仕組みを組み込むように能力主義を次のように再解釈してみた。
「能力主義とは、才能の乏しい人でも努力に応じた社会的地位に就くことができる考え」

才能や運は自身でコントロール不可だが、努力はコントロール可能なため、
努力した分だけでも社会的地位に反映することができるなら、
才能が乏しい人でも努力するインセンティブが生まれる。
さらにうまくいかなかったとしても、それは才能がなかったからだという言い訳もすることが出来る。

このように、能力主義は、社会的地位を向上させるために手段(努力)と失敗時の言い訳(才能)とセットになった考え方と見做すことができれば、才能が乏しいものにとっても小さな希望となる考え方となると思う。

本書では、ヘンリー・アーロンの例を通じて、能力主義は差別の存在が前提となっていることから
本来あるべき社会では相応しくない考え方だと記載されている。確かにその通りだ。
しかし、生まれ持った能力に違いのあることはコントロールできないため、能力による差別がなくなることは考えにくい。
さらに、著者の主張する条件の下での平等が根付いた社会が成立するまでには、まだまだ時間を要する感じだ。
従って、能力主義は才能が乏しいものを救済するための考え方という位置づけで暫定的に活用することができるのではと思った。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
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投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
 『実力も運のうち』を読んで、最近注目していた2つの社会現象の裏の意味が理解できた。その2つの学びを書きたいと思う。

1.車上生活をするホームレスの人達が、全員白人の理由

 今年の4月『ノマドランド』がオスカーで最優秀作品賞を受賞した。この映画は、生活苦で住む家を失い、車上生活をするアメリカ人達を取材した(一部フィクションを含む)ドキュメンタリーである。
 アメリカの貧困層といえば有色人種を想像していたのに、この映画に登場するノマド達は全員白人だったので、不思議に思った。最優秀監督賞も受賞したジャオ監督は中国系移民の女性であり、人種的マイノリティの視点を持たないとは考えられない。映画だけでなく、原作小説も「ノマド達の中に有色人種は見当たらない」と言及している。

 理由は、少し考えればすぐに分かった。10年以上前、サブプライムローンのカモにされたのは、全員白人だったのだ。貧困層の有色人種は、はなから金融業者達に貸付相手として見込まれなかった。また、有色人種はトレーラーさえ買えないほど貧しいという事情も推察される。

 だが『実力も運のうち』から、更に深い本質が見えてきた。本書全体を通して、強い存在感を持って描かれているのが
「私達は特権階級で、移民や有色人種に比べて恵まれている」
という、アメリカ白人達の強い自負心である。金融会社は、彼らのその「見栄を張りたい心理」につけこんだ。「あなたのような立派な白人は、こんな良い家に住むのに値しますよ。なぁに、ローンなどすぐに返せますから」と甘い言葉で彼らを罠に陥れ、債務不履行となった彼らは自信を喪失した。

 確かに、移民や有色人種が、差別や迫害という大変な苦労と戦ってきたことは事実だ。だが、人生が上手く行かない時、「人種」を言い訳にできる彼らと異なり、白人男性達には「言い訳にできる(目に見える)障害」がない。「白人男性なら、成功して当然」という社会的プレッシャーと常に隣り合せだ。本書P.170で著者は「能力主義で最下層の人々は、『自分の恵まれない状況は自ら招いたもの』という考えに捉われる」と指摘する。グローバル化に取り残された貧困層の白人男性達は、こう思っているはずだ。「私達は裏切られた。本来なら、もっと良い人生に値するはずだったのに」

 「値する」(deserve)-この言葉は戦後の米国・英国で、企業や政治家達が人間の自尊心をくすぐる言葉として戦略的に使ってきたと、著者は指摘する。人間なら誰もが「あなたはこれくらい立派な人間だから、人生でこのくらいの褒賞に値します」と誰かに言われたい。その心理を巧みに利用し、セールスマン達は商品を売ろうとし、政治家達は自分の支持者を増やそうとしてきた。そのメカニズムが、本書を読むと手にとるように分かる。

 映画『ノマドランド』に有名な台詞がある。「私はハウスレスよ。ホームレスじゃないわ」-この言葉は、主人公の女性が「家」を持たないものの、友人や家族に囲まれ、「孤独でも不幸でもない」という心理を表すように思い、彼女の逞しさに最初は感銘を受けた。だが本書を読み終えた今感じるのは、自分達をどうにかして「特権階級で恵まれている」と周りに思わせたいがため、車上生活を楽しんでいるように見せかけ、外に見栄を張ろうとする、彼らの最後の意地である。
 人を幸福にするのはお金ではない。自尊心、あるいは周囲からの敬意だと改めて感じた。


2. Amazonが従業員の学費を負担する理由

 今月9日、アマゾン社は時間給の従業員75万人を対象に大学の授業料を全額支払うと発表した。これを聞いて「アマゾンは社会に貢献している」と好意的に思った。ところが本書を読み、このニュースの見方が180°変わった。

 恐らくアマゾンの経営者達は、企業のイメージアップの狙いからこの戦略を打ち出したのだろう。高額で有名なアメリカの大学の授業料を、雇用主が代わりに支払うという善行で、彼らも間違いなく「良い気分」になるはずだ。だがそれは「高学歴の者達が、学歴のない人達を『上から目線』で憐れんでいるだけの、自己満足に過ぎない」と、本書は教えてくれる。

 アメリカの大学進学率は3割。国民の過半数が高卒なのに、「全国民が大学に行くべきだ」と為政者が押し付けることは傲慢であり、「大学へ行かなかった人々が受けるべき社会的敬意を蝕む」と著者は指摘する。(P.132)

 オバマ大統領を始めとする米国の指導者達が、大学進学の必要性を主張することは、「競争を勝ち抜き富裕層トップ1~2%に入れ。私に出来たのだから、君達にもできるはずだ。出来ないのは怠慢が原因だ」と主張するに等しい。(そもそも全員が1~2%に入れない時点で論理が破綻している)

<まとめ>

 英単語のfortuneは「幸運」と「財産」の2つの意味を持つ。同じ単語になぜ別の2つの意味が存在するか、ずっと疑問に思ってきた。『実力も運のうち』を読んで、初めて「富は(努力のみならず)運によって築くもの」という哲学が、この単語の裏に見えてきた。(辞書によればローマ神話の女神フォルトゥナに由来するようだ)

 ビジネス雑誌Fortuneのタイトルの由来を調べた所、興味深い歴史が分かった。
 TIME創始者ヘンリー・ルースが、富裕層向けビジネス雑誌Fortune創刊の構想をしたのは1929年2月。例のウォール街の株価の大暴落は同年10月に起き、そして正式なFortune創刊号は翌年2月に出版された。
 世界恐慌が始まった頃に、Fortuneという名の雑誌を出版した背景として、「富豪でも、何かのきっかけで一瞬にして財を失うことがある」と、ルースが悟っていた気がしてならない。

 『実力は運のうち』の主題を一言で表すなら、「成功者は驕るな」だと思う。誰もが自分の努力だけを過信せず、幸運と周囲の支えに感謝を捧げ、謙虚に生きることを必要としている。知性でもお金でもなく、人生で何が一番大切か、支え合う人達と対話をし、より良い生き方を追求したい。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで成功するのは、自分に能力があるからだと自惚れるのではなく、周囲の人達の協力や支持があるおかげであり、敬意や感謝を払うべきだと感じました。


能力主義とは、能力がある人達がその能力に見合った行動や責務を果たし、高い地位に就き、後進の育成を行ったり、業務のより良い改革を行ったりして、その働きに見合った収入や報酬を受ける事が望ましいです。特殊な技能が必要という職業は、医師などがそれに該当すると考えます。


しかし、本書で著者がタイトルに書いている通り、『能力主義は正義か』を問いています。


能力主義は確かに、能力のある人達が正当に評価されるものですが、評価を得ている能力主義で成功した人達の姿勢が、能力を持たない人達へ差別意識を持ち、勝者と敗者の間で分断が深まっている事への警鐘なのです。


なぜ、能力主義の中で地位を得た人や、多くのお金を得て成功した人達の考え方が、増長してしまったのかというと、成功した人達は自分の成功は自分だけの功績だと考え、周囲から得られた幸運にも助けられたのだ、という謙虚な姿勢を忘れてしまうのです。


それが成功した人が、成功しない人へ横暴に振る舞うようになった原因です。そして、皆での団結や結束といった社会的な結びつきが、失われてしまう要因になってしまいます。


それが浮き彫りになった原因が、新型コロナウイルスによるパンデミックの影響によるものです。パンデミックの当初は、メディアでは「苦しいからこそ皆で一緒に頑張ろう」という言葉が聞かれました。


海外では外出制限や、店舗での外食や飲食が制限され、日本国内でも県外への移動が制限され、皆で苦しい状況を一緒に耐えよう、という考え方が出てきました。


しかし、時間が経つにつれて、その認識は間違っている事に気づかされたのです。


確かに店舗や飲食店、イベントには営業の時短や自粛の要請が出されたため、失業したり、医療従事者が感染防止対策をしながら、過酷な状況で働かなければいけないという事になりました。


その反面、在宅勤務でも普段の仕事ができる人達もいます。リモートで自宅や自覚以外の場所からでも仕事を行い、通勤せずに以前よりも快適な場所で、働くことが出来るという事も出来るようになりました。


新型コロナウィルスのパンデミックは、過酷な状況で失われる仕事や、そうでない人が従事する仕事の格差を浮き彫りにしたのです。


今回のパンデミックで表れた職業の格差は、自分だけの能力に因るだけではなく、運によっても左右された事です。


今、自分の職場ではマスクを着けて、パンデミックの以前と同じように働いていますが、もし、飲食店や店舗で働いていたらどうなっていたか分かりません。その他にも、今までの人生を振り返ってみて、運が良かったのだと思える事は多くあります。


また、パンデミックが起きたことで、私達が普段の生活で見過ごしがちな人々の仕事に、どれだけ依存しているのか、という事について認識が広がったと思います。


病院で新型コロナ患者の治療をしている人だけでなく、宅配や配達をする人、スーパーマーケットの店員、物流で働く人やトラック運転手、在宅の介護士や託児所で働く人などです。


パンデミックが起きたことで、この人達の仕事が社会では必要不可欠なものであると、気づいたのです。このような人達は、エッセンシャルワーカーや、キーワーカーと呼ばれるようになりました。


それと同じように、成功があるのは、自分の能力の為だけではなく、周囲の人達の協力や働きによるものだという事を認識し、それに感謝や敬意を払わなければいけません。


もし、それを怠れば、周囲の人達へ傲慢な態度を取るようになり、差別意識へと変わってしまいます。


自分を助けてくれる周囲の人達への敬意を忘れず、感謝を伝えていくようにします。
投稿者 charonao 日時 
 本書を読んでまず最初に驚いたのは、子供に学歴をつけたいが為に、多額の金額を支払い、裏口入学させる理由です。それは所得格差が増すアメリカの社会において、経済的な不安なしに生きていく為だと思っていましたが、単にそれだけではなく、子供に自分自身で成功を勝ち取ったという自信を与える為であるという点です。その事を知ったときは複雑な気持ちになりました。本人は努力を一応はしているものの、親や、教師など周りの環境への幸運があり、その幸運で自信まで手に入れることができるという事が理不尽であると感じました。また、そのような幸運があることだけでも、能力主義が前提としている平等な競争はそもそも不可能だと思いました。しかし筆者は、能力主義はこれらのような環境面での平等ではなく、生まれ育った環境がどうであれ、努力することで成功できるという機会の平等であり、更にそれでも能力主義は間違っているという事を主張しています。日本はアメリカと比較し、貧富の差はまだ激しくはない方ですが、「自己責任論」は強まっている感じがします。それは、公的年金制度に加えて確定拠出年金制度が加わった時点や、ホームレスに対する扱いなどにおいて、そのように思います。自分自身も、生まれた時の環境の不平等はあるにせよ、日本に生まれたのであれば、限りなく機会の平等はあるのだと考えていた為、努力しないで現状に不満ばかり述べているのは自己責任だと考えていました。さらに本書の中では、生まれ育った環境と同様に、自分がどんな才能をもって生まれてくるかを選ぶことができないと書かれていますが、それに対しても、選べないのは当たり前であり、しかしこれは自分自身で解決できる問題だと考えていました。なぜならば、自分がどんな才能を持っているかは、自分で探していくことであり、見つけた才能に対して努力をし、磨くことによって、誰もがある程度の成功はできるのではないかと考えていたからです。

 しかし、この考えについては「無理ゲー社会」を読んで間違っていることに気づきました。それはこの本に「努力できるかどうかまで遺伝である」ことが書かれていたからです。つまり努力したくても、できない人が世の中にはいるのです。そもそも努力ができるかどうかは、自分のやり方次第だと思っていたのですが、それも遺伝ということであるならば、例えば音痴な人が、優秀なボイストレーナーにつくことで、ある程度音程は取れるようになるものの、プロの歌手になるのはかなり難しいのと同様に、やり方によってはある程度の努力ができ、本人にとってはかなり努力をしたと思っていても、努力が得意な人にとっては、それは成功するまでの努力とみなされないレベルなのだと思います。音痴だと遺伝だね、で終わりそうですが、努力は遺伝だと認識されていないため、このことを成功者に理解させることはもちろん難しく、成功者以外も、成功者の努力のレベルと比較し、自己肯定感を下げてしまうことは憂慮すべき問題なのだと思います。このように、「努力する」という能力が人びとに平等に備わっていないのであれば、能力主義は完全に否定されるべきものだと、私は考えを改めました。

 また、もう一点気づいた事としては、世の中一般的に成功を勝ち取ったと言われる人びとがいる限り、成功者への妬みや恨みなどは、あって当たり前のものだと感じています。この点については、本書に成功を勝ち取った人はどのように配慮していくべきなのかも書かれています。一生懸命努力し、成功したとしても、その才能を認めてくれた社会に生まれてきた幸運のおかげであり、自分の手柄ではないことを認めることで、謙虚さが生まれ、そうすることで、能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれると本書は締めくくられています。この一文を読んだときに、成功者が、努力しても成功できなかった人に恨まれることで引き起こされる事態はなにか、を考えたときに、真っ先に治安の悪化が思い浮かびました。ホームレスを支援することは、治安の維持につながることと同様に、成功者が成功できなかった人をフォローすることの重要性はここに尽きると考えます。成功者以外の成功できなかった理由を、努力しなかったから、だけで終わらせるのではなく、その理由について知る機会を能動的に作っていくことが重要であり、努力したくても、様々な理由において努力できない人がいることを知ってもらうことで、「自己責任論」ではなく、各々の不得意分野を補っていく社会を創り上げていくことが理想なのだと考えました。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書を読み終えてまず感じたことは、なんかしっくりこないなぁ、モヤモヤするなぁ、このモヤモヤ感はなに?、どこからくるの?ってことだ。

 本書では、人生に成功した者は実は自分の努力や実力だけで成功したわけではなく運が良かっただけかもしれないのに敗者を見下すようになる、失敗した者は自分自身の不遇な状況は自分の努力不足であり自ら招いた結果と自分を責める、その結果、勝者には驕りを生み、敗者には屈辱を生み出すこととなる、そんな社会は本当に善い社会と言えるか、その解決のために共通善を目指すべき、賢明な世界よりも正しい世界を作っていくべき・・・、確かに言っていることはわかる。
 だが、なんか納得いかない。生まれた時の親の収入、財産、社会的地位、周囲の環境などで違いはあるかもしれないけど、恵まれた環境を活かすも殺すも本人の努力次第ではと思う。ハーバード大や東大とまでは言わないが、人一倍努力している人で低学歴の人はほとんどいないように思う。本人が努力をするかしないかの意思決定でさえ、既に生まれた環境で決まってしまうというのなら、まあ納得なのだがそういうことでもあるまい。

 最近の流行語として親ガチャという言葉がネット上で流行っているが、本書で言っていることは正に親ガチャのことであろう。今、成功している人たちは親ガチャに恵まれただけということである。しかし、親が金持ちだったり、周りが勉強や教養を身につける環境にあったりして、そういった親ガチャに恵まれれば果たして幸せな人生を送れるのであろうか。残念ながら、必ずしもそうとは限らないと思う。
 なぜならば、本書でも述べられているように、実社会で成功するためには一流大学・ランクの高い大学つまり偏差値の高い大学を卒業することが最も重要な条件として挙げられている。学力が親の収入と相関関係にあることは、多くの調査で明らかになっている。例えば、東大の学生生活実態調査などでは、東大生の親の6割以上は年収950万円以上、というデータも出ている。
 生まれた家庭が金持ちで親も教育に協力的で勉強する環境も整っていれば学力をつけ得やすい。一方、親が貧乏で本も読まないような家庭では子供も本を読まず学校の成績も悪いというのは、ありがちなことである。
 例えば、学生時代の友人に実家が大金持ちの同級生がいたのだが、子供の時から母親の言いなりに勉強や部活をこなし、成績も優秀だしスポーツもそこそこできた所謂優等生で、人生の成功に向けて一直線、に見えたのだが、自分で何かを考えて行動することができず、何をどうすればいいのか決められず、履修カリキュラムも満足に組めず、結局単位が足らず留年、その後なんとか卒業するも・・・
 一見、親ガチャで大当たりしたように見えるが、これでは決して幸せな人生とは言えないだろう。それでも、親の経済力をうまく利用すれば人生一発逆転もあり得るかもしれないが、そもそもそういった思考ができなし、今の世の中、一度レールから外れた者が復活することは容易ではない。
 そしてどんなに裕福な友人でも、異口同音に言うには、もっと金持ちの家に生まれたかったと言うのである。こちらから見れば、良い幼稚園、良い小学校、良い中学校、良い高校を卒業し、それなりの家柄でそこそこの金持ちなのにである。どんな裕福な家庭で育っても親ガチャの呪縛からは逃れられないのである。
 要するに、良いにつけ悪いにつけ親は選べないのである。隣の芝生は青いというが他人の境遇の方が良く見えるものである。自分の不遇な境遇を嘆いても意味などなく、どこかで折り合いをつけていくしかない。自分なんか親ガチャに外れたと思っていても、親ガチャ大当たりの人たちに接してその悩みを目のあたりにすると、自分の心の持ち方次第で、どうとでもなる、自分の意思と決断次第でいくらでも生きる道を探すことはできると思った。余談だが、大卒とか高卒とかそんなものは関係なく真の実力主義であれば、いくら良い大学を卒業していても使えない奴は使えない、親ガチャ大当たりでもダメや奴はダメ、で割り切れるのだと思う。

 結局、なにが言いたいかと言うと、どんな家庭環境の元に生まれようと五体満足で今の時代の日本に生まれれば、それだけで勝ち組、後は自分の努力次第(尤も今の日本に生まれたことが運に恵まれていると言えばその通りなのだが)、ということではなかろうか。

 ということで、アメリカと日本では様々な差別や経済格差などお国事情が違うので、このことをアメリカに当て嵌めることはできないが、そのあたりの考え方の違い(日米の各個人に置かれた境遇の違い)がモヤモヤ感の根源ではなかろうかと思う次第である。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、行き過ぎた能力主義がもたらした社会の分断について、警鐘を鳴らした本である。著者は、ハーバード大学で教鞭をとり、数多くの学生から意見を聞く中で、ハーバード大生のある変化を感じたという。それは、自身の成功は自分の手柄であり、他ならぬ自分が努力した結果として成功を手にすることができた、という信念を持つ学生が増えてきたという点である。彼らは、ハーバード大学への入学資格を得るために懸命に努力したという事実があり、自分達がエリートとして遇されることは当然だと主張する。しかしながら、ハーバード大生の三分の二は所得規模で上位五分の一にあたる家庭の出身であるため、学生本人の努力よりも家庭環境の方が大きな要因だと考えることも可能なのだ。本稿では、名門大の学生が、なぜ成功を自分達の手柄だと感じるようになったのか、その理由について考察しながら、行き過ぎた能力主義が生んだ学歴偏重主義から脱却し、エリート達の傲慢さを是正する方法について考えてみたい。

本書の中では、難関大学の学生の中で能力主義の気運が高まっている理由について、難関大学入学の困難さが増している点が指摘されている。一流大学の合格を目指す子供の青春時代は、すさまじい努力の戦場と化しているのだ。この傾向はアメリカだけでなく、日本でも同様である。日本でよく言われるのは、中学受験の過熱ぶりだ。私自身、25年以上前に中学受験を経験したが、当時は小学5年生から受験勉強を開始するのが一般的で、小学6年生から勉強を始めても遅すぎるということはなかった。しかし現在は、小学3年生の2月から受験勉強を開始するのがベストだという。大学受験に置き換えて考えてみると、高校入学前から受験勉強を開始するようなものだ。たとえ難関中学への入学が一流大学の合格に直結したとしても、この過熱ぶりは異常である。このようにして、幼少期から勉強に多くの時間を割いてきた若者は、犠牲にしてきたものの大きさに対して見返りを求めるように、自身の成功を自分の手柄だと考えるのだ。すなわち、払ってきたコストに見合うだけの代償を得られるのは、当然だと思ってしまうのである。

それでは、能力主義と学歴偏重主義により、過熱した受験戦争を沈静化させるため、本書ではどのような解決策が提示されているのか。著者は、人生での成功が四年制大学の学位の有無に左右される度合いを減らすべきだとしたうえで、抽選入試の導入を提案している。具体的には、大学での勉強についていけない出願者のみを振るい落としたうえで、一定の学力を保持する学生を対象にくじ引きを行い、入学者を決めるのだ。私は、抽選入試が学歴偏重主義を是正するとは到底思えず、この解決策は的外れだと考える。その理由は、抽選入試が競争をさらに激化させてしまうからだ。具体的に考えてみよう。2,500人の定員に対し、10,000人が受験する大学があったとする。今までは、成績上位者2,500人が入学し、その倍率は4倍だったことになる。この大学に抽選入試を導入すると、まず成績上位者5,000人が選抜され、この5,000人に対して確率50%のくじ引きをさせることになる。すると、成績上位2,500人のうち半数の1,250人は入学することができず、本来入学するはずだった上位2,500人にとっての倍率は8倍になってしまうのだ。つまり、本来不合格になるはずだった1,250人に入学する権利を譲り渡したことで、成績上位グループにとっての倍率は上がってしまうのである。これによって、成績上位者達は他の難関大学を受けざるを得なくなり、競争はさらに激化することになる。つまり、大学受験全体では、無駄な競争が増えてしまう事態を生むのだ。

私も、著者が主張するように、難関大学の学位が持つ特別な意味をなくすことについては賛成だ。しかしながら、そのためにやるべきことは、大学の入口に介入することではなく、出口に介入することだと考える。すなわち、就職試験において履歴書に大学名を記入することを禁止するのである。既に導入している企業もあり、面接官に余計なバイアスを与えないことを目的に、採用過程の一部で実施するところもある。これを、全ての公務組織及び企業で一律に導入するのだ。大手企業では、学歴フィルターによって学生を選別していると言われるが、その理由は採用工数の削減によるコスト圧縮が最大の目的だ。大学というスクリーニング基準を作っておくことで、面接可能な人数まで絞り込む手間を最小限にしているのである。しかし、新型コロナの影響もあってオンライン面接やAI面接が登場し、Webテストなどの代替手段も存在する中で、学歴によってスクリーニングするメリットは小さくなってきている。国主導で就職試験における学歴確認をなくすことで、難関大の学位が就職時に特別な意味を持たなくなり、学歴偏重主義は衰退して大学入試における過度な競争は緩和されていくと考えられる。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 str 日時 
実力も運のうち 能力主義は正義か?

本書のタイトル、『実力も運のうち』である。“運も実力のうち”とはよく言うが、実力の中に運という要素が含まれており、まるで運がオマケのような扱いの表現となっている。本書はその逆、実力なんて運のオマケでしょ。という意味合いに感じ取れた。

能力主義の社会において成功を収めたとして、100%全てが自分の“実力“だと言えるのか?勿論、本人の努力なくしては不可能に近いと言えるだろう。しかし、成功者になれたということは、最低でも自分以外に、自身の能力を評価してくれた人が一人以上は必ずいるということだ。そういう人に出逢えたこと、そういう人の目に留まったことに関しても「一切運の要素はなかった」と言えるのだろうか?近頃よく耳にするようになった”親ガチャ“なんて造語があるように、恵まれた環境やコネクション。周囲の人たちの応援や助力。何より身についた能力が、日の目を見ることの出来る環境にあった時点で、運という要素は切り離せないもののように思えた。

もう一つの『能力主義は正義か?』についても同様。如何にオンラインが世界的に普及しようと、ネット環境や機器のスペックまで平等なわけではない。個人としての能力が全く同じ人がいたとしても、環境一つ違うだけで何一つ評価されることのない人もいるだろう。勿論、如何に環境に恵まれていたとしても、能力主義の社会で成功するには本人の努力が不可欠。決してそれが悪だとは思わないが、フェアだとも言い難いのが正直な感想だった。

本書を通して感じたのは、才能や能力が認められ、評価される社会に生まれたのは運がよかっただけ。成功や手柄を自分一人の実力だと過信せず、数多の支えがあって成り立っていることを自覚し、感謝をすること。

要は「成功したからといって調子に乗らず、謙虚な心、豊かな心を忘れちゃだめよ」ということなのだろう。
投稿者 daniel3 日時 
 本書では「メリトクラシー」、日本語訳で「能力主義」について、マイケル・サンデル教授が様々な角度から問題点を指摘しています。成功の機会は平等ではなく運に依存する要素があったり、敗者がより絶望感を抱きやすいなど、いくつかの問題点が挙げられていますが、能力主義が、過去200年ほどの社会を劇的に発展させる原動力となってきたことは間違いないと思います。「能力主義」以前の身分階級制度の社会では、ごく一部の権力者が地域を統治し、ある程度の平和を確保する代償として、社会全体の発展は微々たるものでした。しかし人材活用手段として能力主義を採用することで、優れた才能を有する人に資本を持つ者が投資し、それによって数多くのイノベーションを生み出してきました。一例を挙げれば、熱機関や電気を動力とする機械群の発明、バイオテクノロジーや医療技術の発達、近年ではIT関連の発展など数え切れないほどの技術革新が、このたった200年ほどの間に起こりました。
つまり能力主義は、資本主義と夫婦のように寄り添いながら、人類全体を豊かしてきたと言えると思います。その意味で、能力ある者に機会を与える制度は、これからの社会にも必要な要素と言えます。

 一方で「光が強ければ影もまた濃い」とはゲーテの言葉であったかと思いますが、才能ある人が社会全体を豊かにし成功を手に入れるほど、社会において重宝される才能を有していない人の問題も、鮮明となってきているのが現代と言えると思います。本書の中では、オバマ大統領の在職時代からその片鱗が見られ、トランプ大統領の劇的な当選により表面化したと主張しています。その起源をたどれば、「フラット化する世界」でも述べられているように、ベルリンの壁崩壊によるグローバル化の推進とインターネットの発展により、国際競争力で劣る先進国労働者の問題として予見されていました。

 こうした能力主義の本質として、その能力の重要性は、参加している「市場」からの評価によって決まるということが言えると思います。主に必要とされる能力は知性であることが多いと思いますが、各種芸術や、スポーツ競技での運動能力、容姿などもあります。そして、能力主義の社会が発展し、勝者と敗者の格差が開けば開くほど、能力主義を支える土台となっている市場自体が崩壊してしまうというところに、能力主義のジレンマがあると思います。すなわち、市場から評価されていない人が貧困と社会からの罵りに絶望し、能力主義のゲームに参加することを放棄しつつあるということです。それは例えば、十数年前の秋葉原通り魔事件頃から社会に認知され始め、今では社会で冷遇されている人々が、「無敵の人」として能力主義ゲームを離脱し始めています。

 こうした背景から、能力主義社会の勝者に必要なのは、みんなが参加することで能力主義というゲームが成り立っていることを強く認識することだと思います。このことに気づいているのであれば、某インフルエンサーのように、「ホームレスはいらない」という発言をすることもないかと思います。みんながゲームに参加し続けるために必要な要素としては、敗者復活と、勝者にならなくても豊かに暮らせる要素を強化することが重要だと考えています。それは例えば、正規雇用/非正規雇用の流動性を確保したり、何かしらの理由で継続的な労働から一時的に離脱してしまったとしても、再度復帰するまでの足掛かりを整備することだと思います。(そういう支援団体がある場合は、是非募金して支援しましょう!)これは政府が主導となっていくことがベストですが、IT技術の発展はそれを後押ししてくれると思います。例えば、ウーバーイーツやママワークなどのクラウドサービスの活用で、正規雇用が厳しい状況でも、時間単位で労働することで生活を維持し、次のステップへとつなげていくことが容易になりつつあります。また不幸中の幸いとして、社会の方向性は現在のコロナ騒動によって。一極集中型から分散型へと変化しつつあります。そのため生活維持費の安い地域へと移住し、上記のようなクラウドサービスを活躍することを併用すれば、「年収150万円で自由に生きる」ということも、インフルエンサーの単なる宣伝文句ではなくなりつつあります。

 以上のように能力主義の発展とこれからの能力主義について私見を述べてきました。能力主義の良い点は生かしつつ、勝者でなくても能力主義ゲームに楽しく参加し続けられるようにすることが、ポスト能力主義社会へと移行していくために必要ではないかと考えた読書の秋でした。
 
投稿者 Terucchi 日時 
今の能力主義は進化の途中であり、個人の価値観が多様化して行く。

私はこの本を読んで、このように思ったのであるが、以下にその説明をする。
この本で、著者は現在の能力主義が貧富の差を引き起こして、勝者と敗者に分断したと述べている(p29)。また、能力主義は全ての人に成功できる可能性はあるが、生まれた環境が金持ちか貧乏かどうかによって、大きく差が出てしまう。例えば、もし金持ちの家庭に生まれれば、勝者となる可能性が高いが、貧乏に生まれれば、成功も難しいと述べている。また、勝者にとっては、競争の果てに、自分で勝ち取ったという驕り、敗者にとっては自分の責任だという屈辱となり、それが社会的な軋轢を引き起こしているとのことである(p48)。

確かに、今の能力主義では著者が言う通りかも知れないが、私は今が能力主義のあるべき最終形ではなく、途中段階だと考える。なぜなら、時代は必ずしも問題がそのままではなく、問題に対して取り組み、紆余曲折しながら、進化する方向へ向かうと考えるからだ。今のこの能力主義の問題についても、このままではなく、次のステップに移っていくのだと私は考える。そもそも、昔のような貴族社会に問題があったから、現代のこのような形になったのである。昔の貴族社会においては、生まれた環境によって、例えば、どれだけ能力があっても、農民であれば農民のままで、貴族にはなれなかった。しかし、現代の能力社会であれば、貧乏な家庭に生まれたとしても、成功する可能性はある。確かに、この本で書かれているように貧乏に生まれてしまうと、可能性が低くくなることは確かかも知れないが、昔の貴族社会よりも成功する可能性はある。ただ、現代のような能力主義は未だ中途半端な形であると考えるのだ。では、どうなると考えるのか。

まず、私は能力主義はこれからも続くと考える。なぜなら、やはり能力面の差を考えると、その優劣が生じるものであり、人は優良な方を選びたいからだ。本書の中でも、能力に基づくのは普通のことだとある。本の例(p50)では、もしトイレを直すには腕のいい配管工を探し、歯の治療のためには、最適な歯科医を見つけようとする、と著者は言っている。私も同様に最適なものを選びたい。

これらを含めて、私はこの最適が何かという価値観が、今後益々多様化に進むと考える。なぜなら、人はそれぞれの価値観が違うからだ。例えば、レストランで料理を食べることを想像してみる。もし、どこのレストランでも、料理の値段が同じであると仮定すると、人は美味しい料理を出してくれるレストランで食べるであろう。せっかくお金を出して食べるのであれば、美味しいに越したことはない。では、美味しいところが高く、美味しくないところが安ければ、どうであろう。例えば、有機素材を使って1万円の美味しいコースと、素材も味も普通だが、千円であった場合は、どちらを食べるであろう。高い値段を出してでも美味しいものを食べたい人にとっては、1万円の料理の方かも知れない。しかし、料理に興味がなく、他の物を購入したい人にとっては、料理に1万円をかけずに、他の欲しいと思う方にお金をかけるであろう。そもそも、人にとっては何にお金をかけたいのかは、人それぞれである。私としては、そもそも、人それぞれが最適だと思う価値観が、更にそれぞれ違う方向に進むと考える。確かに、今でもそうではあるが、今後益々その方向に進むと考える。

ところで、私が問題点考えるのは、この本でも取り上げている「尊厳」である。仕事の内容によって、人が評価され、人としての尊厳が傷付けられてしまうということだ(p282)。そもそも、勝ち負けについて、お金を稼いでいるかどうかによって、人の優劣が決まるのであろうか?本書では、清掃作業員も医者と同じくらい大切であり、どんな労働にも尊厳がある(p299) 、とキング牧師の言葉を取り上げている。金持ちが勝者であって、貧乏は敗者なのであろうか?お金を多く儲けても、忙しくて自由な時間を持っていなかったとしたら、果たしてそれは成功であるのであろうか?

ここで、著者はみんなが共通する善(共通善)を合わせることが大切(p317)だと言っている。ただし、著者も難しいと考えている。私は、共通善するに越したことはないが、むしろ、お互いに「善の多様化を認めること」が大切だと考える。なぜなら、万人に共通する善を合わせることは難しいからだ。そして、現代社会において、多様な人種、宗教、文化の中で、それを合わせた共通善は難しいが、実はどれも必ずしも間違いではなく、それぞれで正しいと考えるからだ。それぞれの価値観の合う人の中で、正しいのであればそれで良いと考え、それが多様化の形だと、私は考える。例えば、身体障害者のパラリンピックにおいても、昔は健常者だけのオリンピックであったものが、パラリンピックでは身体障害者の中で、それに合わせたルールができて、その中で競い合っている。最近のLGBTの世の中もその流れであろうと考える。それぞれの価値観の中で、それぞれの尺度を持った世の中になっていけば良いと考えるのだ。

ところで、能力主義による分断はそのままではないかという意見もある。確かに変わっていないかも知れない。しかし、多様化によって、そもそも金持ちになることが成功という価値観も、多様化されると考える。本当に大金持ちだけが成功者でなく、それ以外でも成功である価値観が出て来ると考える。お金に縛られないような価値観がもっともっと出て来るはずだと考えるのである。例えば、お金持ちを目指さず、田舎暮らしで、生きていくだけのお金があれば十分という人も、お金持ちを目指すのではなく、お金以外の多様化した価値観の例であろう。

最後に、私は、この能力主義と個人の価値観の多様化は、相反するものではなく、更に両立した方向に進んでいくのだと、考えるのである。
 
投稿者 2345678 日時 
実力も運のうち 能力主義は正義か?

本書では、人はその能力・努力により報われることは、それ自体は悪いことではないが、
現在の能力把握方法では、経済的に恵まれている家庭でないと「能力」を獲得できなくなっている。

成功者は、自分の努力によってその成果を獲得しているのだから成功は当然の帰結で、
非成功者は努力が足りないと蔑視している。非成功者は、自分の責任で望ましくない状況に置かれていることにやり場のない無力感を感じ、
「絶望死」も増加している。
また、他に責任を転嫁しようとする(「移民のせい」とか)。

能力至上主義による平等を達成したかに見えるアメリカで、新たな不平等が生じている。
アメリカの後追いをしている日本でも同様のことが考えられる。

これをどう解決するのか?

筆者は、あるべき社会の共通善として人間が根本的に必要とするのは、
生活を共にする人びとから必要とされることである(貢献的正義)。

社会で必要とするすべての労働の尊厳を認めるようにすることも必要としている。

労働という側面から考察すると、かって協働生産者の応援と顧客向けのイベントとして、
各産地に収穫の手伝いをしたことが思い出されます。宮崎・静岡・仙台と多い時には、
30人ほどのメンバーで2泊3日の工程で農作業を行った。短期間の滞在ですが、
労働で得たものを時間がたった後で楽しむ、享受することで労働の成果の価値は一層高まる。

 物を作って、売って、お金を稼ぐことばかりではなく、
自然と過去からの授かり未来に引継ぐべき資産を大切に保護し管理することに従事する。
自分以外すべてのものに謙虚に向き合い自分を絶対視しない、独善に陥らない、
客観的に距離を置いて自分を観ることが出来た実感があります。

これを継続的に実行するにはどうするのか?
本書は大きなテーマを与えてくれました。ありがとうございます。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“能力主義の時代を生きる上で大事なこと”

能力主義とは、個人の持っている能力が、その者の地位を決め、そして能力の高いものが統治する社会を目指すという原則や思想である。能力主義(Meritocracy)という単語を造り出したイギリスの社会学者マイケル・ヤングは、MeritocracyのMerit(能力)を、『Intelligence(知能)+effort(努力)=Merit(能力)』と明確に定義する。本書を読むまで、持っている能力と努力を積み重ねることで報いが得られる世の中の在り方や価値観に、私は至極公平さを感じていた。しかし、私には見落としていた点があった。それは、知能というものは意志や努力などの能動的な態度、行動によって得たものではなく、生得的、受動的に与えられた部分が多くあるという点である。今回、私がこの点に気づけたことは、自身の中に謙虚さを芽生えさせたという点で重要な意味を持つ。そして、本書は更に重要なことを教えてくれる。それは、能力主義の負の側面についてである。能力主義は能力あるものに多くの活躍の場を与え、世の中の進歩を促進するという側面はあるものの、他方で能力主義は、『結果の不平等』、所謂所得格差による深刻な分断を国民間に生み出していると著者は言うのだ。以下では、これからさらに進むであろう能力主義の時代を生きる上で、大事な心構えについて考察する。

能力主義は、能力を持つ者、努力できる者に富や地位、名誉を与える。一方で、能力を持たない者、努力ができない者を貧困に追い込み、屈辱を焼き付け、そして社会の隅に追いやっていく。その様相は、本書を読むとつぶさに分かる。そして、深刻なのはこの取り残された人たちが怒りにより暴動を起こしたり、また自暴自棄になり厭世的な生活を送ったりするところにある。例えば、昨年の米国大統領選挙において、一部のトランプ大統領支持者(取り残された人びと)が各地で暴動を起こした。これは、能力主義の浸透が『結果の不平等』を招き、そして割を食った人びとの怒りが沸点に達したことにより起こったのだろう。また、米国では、自殺、薬物やアルコールの過剰摂取性による死亡が増加しているという。これは、社会で自身の居場所が見つけられない人びとが、人生を諦め、放り出した結果の『絶望死』だと本書は説明する。このような現実を目の当たりにし、著者は能力主義を放置すれば、米国社会は更なる分断に向かうと警鐘を鳴らす。ただ、私は正直本書を読んでいる最中、米国が抱えるこの難儀な社会問題をかなり他人事のように見ていた。なぜなら、純度の面で最も進んだ資本主義、富の再分配方法、宗教的な信仰、人種問題など米国特有の社会システムが能力主義と相俟って生まれた『結果の不平等』は、米国固有の現象だと思えたからだ。が、現実はそうではないようだ。

米国で起きていることは対岸の火事ではない!と私が身震いをさせられたのが、今回参考図書として紹介された「無理ゲー社会」を読んだ時である。本中の“はじめに”の部分では、日本で貧困に苦しむ若者たちの切実なる嘆きが描かれているが、その内容は脳が振盪する程だ。なぜなら、今年の1月に自民党の参議院員が、SNSで現在抱える不安について訊いたところ、『早く死にたい』、『生きる意味がわからない』、『苦しまずに自殺する権利を法制化してほしい』などの厭世的な意見が、実施期間5日間で1741名から届いたというのだから…。そして、生きることを諦める理由は、主に極端に低い収入からくる生き辛さだという。こうして見ると、日本でも、『結果の不平等』を起因とした『絶望死』を選択する人たちが、今後増えていく可能性は決して低いとは言えないと思うようになった。また、送られてきた意見の中には、『失うものがないので、なにをしてもよいような京都アニメーション事件の犯人の気持ちは、わからないではない』という恐ろしいものまであった。この2019年にアニメ制作会社、京都アニメーションで起きた無差別放火殺人事件の犯人は、就労せずに生活保護を受ける身で、人生に絶望を感じて犯行に及んだのだという。だとすると、上述した窮地に追い込まれた人びとは、日本の治安を激しく揺さぶる凶悪事件を起こしかねない。そして、「無理ゲー社会」の著者は、現在の日本社会の問題の原因の一旦は、『結果の不平等』を生み出す能力主義が担っていると指摘する。

では、『結果の不平等』を生み出す能力主義を正すことはできるのであろうか?私は、平等よりも公平さが重んじられる現代の価値観では難しいと考える。上述した「無理ゲー社会」から分かりやすい説明を引用する。

“「公平」とは、子供たちが全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることだ。しかし足の速さにちがいがあるので、順位がついて結果は「平等」にならない。それに対して、足の遅い子どもを前から、速い子どもを後ろからスタートさせて全員が同時にゴールすれば結果は「平等」になるが、「公平」ではなくなる。ここからわかるように、能力(足の速さ)に差がある場合、「公平」と「平等」は原理的に両立しない。”

そう、公平さを主張する能力主義を重んじる限り、結果は平等にはならないのである。そして私は、これら2つのケースを見比べ時、私は前者をより好ましいと感じ、後者にある種の理不尽さを感じるのである。そして、おそらく私の意見と異にする人たちは、そう多くないと推測する。

それでは、これからの能力主義時代を生きる上で、我々はどのように考え、どのような行動をしていけばよいのだろうか?その答えは、著者の本書の中の主たるメッセージである“謙虚になれ!”なのだろう。なぜならば、著者が言うように、「たまたま社会が評価してくれる才能を持っていることは、自分の手柄ではなく、道徳的には偶然のことであり、運の問題」(P.188)と思えれば、偶然にも能力を持たない人たち、やむを得ない事情で努力ができない人たちがいることを認知することができるからだ。そして、その謙虚な態度による認知が、能力主義により侮辱され、怒りを覚えた人たちの苛立ちを静めることにつながると心より思うのだ。


~終わり~
投稿者 vastos2000 日時 
学校法人で働く身として、本書の第4章や第6章はうなずける話だった。日本はアメリカに比べれば学歴による分断が緩やかであると感じるが、学歴は収入や社会的地位に影響を及ぼすというのはうなずける。

大学を例に取ると、現状、一部の例外はあるものの、新卒採用市場において学歴は大きくモノを言う。最近、中途採用に関わるようになったが、やはり学歴は気になる。こちらが欲しいスキルや経験にぴったりとマッチする人材を採用するのが難しいと承知しているので、経験とならんで、どの高校、どの大学を出ているのかという点は大きなポイントなっている。面接を行える人数はせいぜい5人と言ったところなので、書類審査で多くを不合格とすることになるが、中途採用でもこの状況なので、都会の大企業では学歴フィルタをかけなければ人事部の仕事は回らないだろうと想像する。
多く新卒者がエントリーするような人気企業は給料が高い可能性が高く、これもまた格差の再生産に寄与しているだろう。つまり、高給取りの家庭に生まれた子どもは教育に金をかけられている可能性が高く、学歴も高くなる可能性高いからだ。学力もある程度は遺伝するし、育つ環境も学力には影響するからだ。

上でも書いたが、それでも日本はアメリカに比べればまだマシだと思っている。その理由は大学入試の制度の違いだ。日本は昨年度の大学入試改革を経ても、1点刻みの筆記試験が最も多くの入学定員に当てられていることに変わりは無い。これは、人格や高校での課外活動は関係なく、入試本番でこう得点すれば合格できるという点でフェアだ。もし、筆記試験以外の要素、例えば高校での課外活動も評価の対象とするのであれば、それはあらかじめ募集要項にその旨を書き、合否判定の際は点数化することが求められる。

それに対して、アメリカでは各大学がその大学が取りたい学生を合格させることが社会的に認められている。もちろんSAT(日本におけるかつてのセンター試験のようなもの)の最低得点などで学力は評価するが、それは主に足切りに使われ、重視されるのはエッセイや面接、調査書(内申書)などだ。例えば、高校で「フットボール部のキャプテンだった」「社会貢献活動を行っていた」などの勉強面以外の点も大きなポイントになる。
アメリカはそのような入試制度であるので、当然裕福な家庭の生徒が大学入試においては有利な位置に立てる。経済的に余裕がなければ課外活動をやるよりはアルバイトをして家計を助けなければならないといった事態に陥りやすいからだ。

そして日本でもアメリカでも、難関と言われる大学に入るような者は多くが似たような境遇で育ってきているだろうから、本書のように指摘されなければ、「自分の努力のおかげで高い学歴を手に入れた」思ってしまうだろう。
私自身は、職場の先輩に同じ高校の出身者がいて、その先輩から高校受験の際のエピソードを聞いて、自分の置かれた環境が恵まれたものだったと実感できた。私の父親は大学を出ていたこともあり、大学まで行くのは当たり前という価値観を持って育った(実際兄弟はみな大学か大学院を出ている)。高校受験を控えた中3の時は塾に行かせてもらえたおかげで、偏差値的には15くらい上がった経験も持っている。私がそのようなお膳立てのもとに入学した高校に、上述の先輩は完全に独学で合格していた。その先輩の父親は中卒で職業は大工とのこと。学歴は大して重要ではないと考えていたようで、学習机すらない家庭だったとのことだった。そんな家庭において先輩は将棋盤を学習机代わりにして勉強していたと言うから頭が下がる。私はその話を聞いてからは、自分の学力は親に与えてもらった部分が大きく、自分の努力は大したものではなかったと思うようになった。
それゆえ、私が勤めている大学を受ける受験生がとんでもない作文を書いたり、面接試験でトンチンカンな受け答えをしても、「ああ、この子は環境に恵まれなかったのだな」と思えるようになり、驚くことはあってもバカにしたり、見下したりすることはなかった。

いわば学歴による差別のようなものだが、薄い可能性ではあるのだけど、超人的な努力をすれば、厳しい家庭環境でも難関大学へ入学することはできるし、また、そういったレアケースをマスコミは取り上げたりするので、「努力すればだれでも(経済的に)成功できる」というような自己責任論がはびこったり、高学歴者とそうでない者の間に分断が生まれるのだろう。
ホームレスにしても、そうなったのは自己責任だという論調が強いように感じているが、いつ自分がその立場になるかはわからない。例えば、会社員だったとして、会社の経営陣がつるんで不祥事隠しをしていたり、粉飾決算をしていたら、それに気が付くことは難しい。それがある時発覚した結果、会社が倒産し、職と住処を失ってしまう。
そんな人に対しても自己責任だと突き放すのか?
 究極的には職業選択の自由があるので自己責任と言えるのかもしれないが、実際問題として、われわれ凡人がそれを避けることが可能だろうか?運の要素が強いのではないだろうか。

このような格差と分断を解決する方法として、本書では共通善を尊重することを提案しているが、私は皆が皆、その考えに共感するとも思えない。
以前の英国のようなハッキリとした階級社会ではないにせよ、税のかけ方などで、高学歴・高所得者がより重い社会的責任を負うような社会にしなければますます格差の再生産が進むのではないかと感じている。
私はたまたま自分が恵まれていたことに気づくきっかけを得られたが、それがなければ本書を読むまで自己責任論に陥っていたかもしれない。
本書の結論に対してすっきり感を得ることはできないが、今までなんとなく感じていた学歴による差別のような感覚の出所を言語化することができ、また一つ良い人間になれた気がする。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
【より豊かになりたいなら、為政者の意図を見抜くべきだ】

本書によれば、アメリカでは行き過ぎた能力主義により、富裕層は傲慢になって貧困層を見下し、労働者階級には怒りと諦めが蔓延し絶望死が増えているという。これは日本にとっても他人事ではない。例えば2018年に東京大学が実施した「学生生活実態調査の結果」によれば、東大生の約60%が世帯年収950万円以上であり、これは厚生労働省が実施した「国民生活基礎調査」の、児童のいる世帯の平均所得700万円を大幅に上回っている。つまり日本においても、裕福な家庭に生まれたという運と高収入には相関があり、不平等への怨嗟は拡大しつつある。

私がそのことを実感したのは2021年8月、十数人を無差別に刃物で刺して社会を震撼させた「小田急線刺傷事件」である。容疑者は良い仕事に就けず、相談する相手もおらず、格差社会の中で他責思考を強め、「幸せそうな女を見ると殺したかった」「勝ち組が憎かった」と供述している。彼のように社会的に失うものを持たず、そのため凶悪な犯罪行為にためらいなく及ぶ人々はネット上で「無敵の人」と呼ばれている。為政者の立場からすれば彼らは脅威であるはずだ。なぜなら彼らの犯罪によって社会が不安定になるばかりでなく、人々が格差社会に疑問を持ち始めるからである。為政者に対する世間の怒りが高まれば、民衆が暴動を起こしたフランス革命のように、既得権益が脅かされないとも限らない。加えて2020年の日本国内自殺者数は2万1081人であり、リーマンショック直後の2009年以来、11年ぶりに増加に転じた。これはすなわち、人生に絶望し幸せそうな他人に殺意を抱く「無敵の人」予備軍の増加とも言い換えられる。

このような社会の危機に対し、サンデル氏は大学入試のくじ引き制度や低賃金労働者への賃金補償を提案しているが、楽観的すぎではないだろうか。なぜなら社会のルールを作っている為政者は学歴競争を勝ち抜いた能力主義者だからである。自らが享受している特権を子に引き継げるかどうかがくじ引きで決まるようなルール改定に、彼らが応じるとは思えない。彼らこそ、自分達に有利なように法制度を作り変えてきた張本人であり、一旦上位階層から転落したら、上昇するのが容易でないことを知っている。賃金補償についても効果には疑問が残る。なぜなら労働者が真に望んでいるのは金銭ではなく尊厳であるからだ。彼らが正当な努力で良い仕事に就けない限り、その怒りは鎮まらないであろう。では、格差が拡大しつつある社会を安定化するために、為政者達はどんな青写真を描くのだろうか。私が予想するのはITを活用した、便利で安全な監視社会への移行である。そして、その流れは既に始まっていると考える。

私がそう考える理由は2つある。一つは、2021年2月に内閣府に設けられた「孤独・孤立問題の対策室」である。政府は、孤独・孤立対策担当大臣(坂本哲志氏)を任命し、具体的な支援策の議論を開始した。いずれ自殺防止や高齢者の見守りなど、関係府省にまたがる政策を束ねる司令塔になるとされている。これにより、「無敵の人」を生み出さないよう、早期に対処できる仕組みが整う。興味深いのは、坂本氏にロシア、スペイン、韓国、アメリカなど海外メディアからの取材が相次いでいることであろう。坂本氏はNHKの取材に応じ、「やはり共通していることは、みんなが殻にこもりだして内向きになって、それが閉塞感になり心理的な悪影響が全世界に何かの形で広がっていることだ。」と述べている。孤独や孤立は今や世界共通の課題であり、その根底には世界のグローバル化による競争激化と格差の拡大があることの表れと言えよう。

もう一つが、2021年9月に発足した「デジタル庁」である。これは、データ資源の活用や社会全体のDX(デジタル・トランスフォーメーション)を推進し、官民のインフラを整えることを目指すものである。これにより国民の監視が容易になる。実際に、孤独・孤立対策担当大臣の坂本氏も、心の悩み相談を行うNPOが持つ、相談内容を分類したデータ利用に意欲を見せている。また国交省担当者も、小田急線刺傷事件の再発防止策として「防犯カメラの増設や、駅員・警備員による駅構内の巡回などは鉄道各社が実施することになるが、国としても最新技術の活用状況の共有などは、各事業者と連携して取り組んでいきたい」と、監視強化に前向きな姿勢を示している。

以上のような政府の動きから、為政者達はサンデル氏が提唱する「選別装置の解体」よりも、自分達が痛みを伴わない「監視強化」へ舵を切る可能性が高いと思われる。たとえ監視が強化されたとしても、真っ当に生きていれば困りはしない。しかし監視強化によって社会が安定化すれば、為政者にとって都合の良い能力主義社会の寿命が延びることとなる。そうなれば、今後ますます富裕層に有利なルールが作られて、昔の貴族社会のような世襲化が強まってゆくだろう。故に今を生きる私達は、政治の動きに興味関心を持ち、為政者の意図を汲んで未来に備えるべきであると考える。
 
投稿者 msykmt 日時 
"分断を阻止するために、ないものについてあることを期待しない"

本書は、アメリカにおける能力主義の勝者であるエリート階層と、敗者である非エリート階層が、いかなる経緯で分断の一途をたどっているのか。そして、その分断に対して、どのように対策していくべきかを説くものである。本書は、アメリカを中心に書かれたものであるものの、日本で暮らす我々にも学ぶべき点が多々ある。

私が本書から学びとったもののうち、その最たるものは、長い時間かけても熟練しないこと、つまり不得意なことについて、それを続けていれば、いつかそれが得意な人のようにできるようになる、とは考えず、どこかで見切りをつけること、熟練することを期待しないことが重要である、ということだ。これは、自分がそれをする立場である場合もそうだし、他の人がそれをする立場である場合でもそうだ。つまり、能力主義が是とする、やればできる、というようには考えない。それができる人というのは、そのことに対する素養や熟練するまで努力する才能が、たまたまその人にあったからできるようになっただけなのだ、と考えるのだ。そのように考えることが、アメリカで起きている分断、それはつまり同じアメリカという共同体に属していながら、エリート階層が非エリート階層を見下すことにより、多数派である非エリート階層が本書でいうところの労働の尊厳を損ない続けた結果、おたがいがリスペクトしあわずに、それぞれが孤立していく状況を食いとめるカギになるのと同様に、日本でも顕在化しつつある、富める者と貧しき者との分断を食いとめるカギになるだろう。

一方で、なにごともやればできるのだ、できないのは単にやれるようになるまでやらないからできないままなのだ、という主張もあるだろう。しかし、これは本書にあるとおり、やれるようになるまでやるという努力ができることも、素養と同様に、先天的に決まる要素が多分にあるから、そのような主張は乱暴で、差別的であるから、承服できない。なぜ差別的であるのかというと、本人が選択することのできない属性、それは国籍、性別、年齢といったもので選別や判断することを差別というように、一般的に本人の努力しだいで本人が選択できるとされている、学歴、経歴、資格といったもので選別や判断するということも、本質的には差別に値するからだ。

たとえば、仕事の現場において、自分は自分を律しながら、仕事の時間は仕事に集中するよう努めているのに、その横にいる同僚が、自分の仕事よりも単純な仕事がその同僚には割り当てられているにもかからず、頻繁に虚空をみつめながらあきらかに上の空になっていたり、頻繁にスマホいじりをしたりすることによって、いらだたしく感じる状況は、私だけではなく、現場で同僚と一緒に働いている人ならば、だれでも似たような経験があるのではないだろうか。この例でも、その同僚がその仕事をやるにあたって必要な、素養なり、熟練するまで努力するといった才能など、なんらか先天的に決まっている要素が欠落していることによるものかもしれないのだ。そう考えてみると、感じていたいらだたしさも、いくぶんかやわらぐだろう。

そして、もう少し想像をはたらかせてみると、自分と先の同僚とが、たとえば、仕事の現場ではなく、社内運動会といった肉体を使う場面では、自分は運動が不得意だけれども、その同僚は運動が得意である、といった場合、立場が逆転することもあるだろう。つまり、その同僚と比べれば、自分は仕事に集中できるのは、たまたま、その仕事が自分にあっていたから、にすぎないのだ。つまり何が言いたいのかというと、ひとたび、うまれた時代や場所がちがっていれば、たとえば、もし頭脳労働が主流ではなく、肉体労働が主流の時代にうまれていたならば、自分はその同僚のようであったかもしないのだ。また、その同僚は自分のようであったのかもしれないのだ。

したがって、自分が得意だからといって、他の人が不得意なことについて、他の人が得意になるよう期待するのはやめよう。逆に、他の人が得意だからといって、自分が不得意なことについても、自分が得意になるよう自分に期待するのもやめよう。そして、同じ共同体に属するもの同士、おたがいをリスペクトしあうことにより、自分と他の人との労働の尊厳は保たれる。そして、そのことが、アメリカと同様、日本でも顕在化しつつある、富める者と貧しき者との分断を食いとめることに寄与するのだ。
投稿者 3338 日時 
この本の主題でもある能力主義には、公平なイメージがあった。ところがそれは上部だけのイメージで、現状を見る時、能力主義には大きな2つの問題があった。
一つは自分自身の努力だけで、高い地位を得たと思い込んでいるエリート層が、自分たちのように努力できなかった、労働階級の白人たちを見下すようになり、白人同士の分断が起こっていること。

今一つは常に競争を強いられ、勝ち抜いて来た若者が不幸であるということ。ほとんどの学生が精神的ストレスに晒され、アルコール・薬物中毒などに頼り、精神障害や自殺者も増えている。

サンデル氏は日常的にこのような若者たちと接していた。現状を憂いて、その原因を探った結果がこの本に書かれている。我が子を幸せにする道を履き違えた親たちが、能力主義を蔓延らせ、本来の良きアメリカを変えてしまったことが語られている。その過程はあまりにも切ない。素直に伸びて行く木を、折り曲げて歪めてしまったようにしか感じられない。 

p256から語られる富裕層の若者たちの姿は、目を背けたくなるものがある。裕福であるが故に、大学に進学することが幸せにつながると決めつけられ、追い詰められても、そこから逃れることができない若者たち。それほどまでに追い詰められている我が子を見ても、大学に進学することが幸せだと追い立てる両親の思考が不可解である。価値観の違いと言えばそれまでだが、そこに子供の幸せを考える両親の姿はない。裕福かも知れないが、親が子供を追い詰めている現状は不幸だと思った。
 
もう、10年以上も前にいじめで自殺した子供が話題になった時、たまたま欧米のいじめの特集を見る機会があった。そこで語られていたのは、高校生が日常的に課外活動や稽古事で追い詰められ、追い詰められた子供たち同士でいじめが発生し、いじめが原因の家出と自殺者が多発している事実だった。その当時で、イギリスで2万人という数字が印象に残っている。

この番組を見て、学歴社会とは言え、まだ日本の方が教育に余裕があることにホッとした。そして、日本は多分アメリカのようにはならないと考えた。

なぜ私はそう考えたのだろうか? 
確かに能力主義は日本でも堂々とまかり通っている。
ただ、その危うさを日本人は知っている。「頭が良ければいいってもんじゃない」最終的に能力主義に対して、私たち日本人はそう反論する。

ハイコンテクスト文化であるが故に、私たち日本人は人の気持ちを読むことを良しとする。本も行間を読むことを良しとする。そして、それができる人を尊敬し、信頼して上に立てる習慣がある。「和を持って貴しとなす」聖徳太子が言ったことを知らなくても、私たち日本人はこの考えを元々持っている。争わず協調することを何よりも上策だと知っている。これは決して、「なぁなぁ、まぁまぁ」でお茶に濁すということではない。

調子を合わせるのではなく、お互いに納得いくまでしっかり話し合うという意味がある。「相手の立場や気持ちを汲んだ上で落とし所を探る」こともできるし、上下関係が良好で、礼儀を守った議論であれば、道理が自然と通じる。よく話し合うというあたりと、大事な物事を決める時ほど独断で決めてはいけない、のあたりが抜けているが、この気持ちがある限り、日本はアメリカのようにはならないと思える。

ちなみに最近ワクチンを打つ派と、打たない派の分裂を目論んでいるという陰謀論を聞いて吹き出した。そこにめくじらを立てるのがすごい。意見が違うのが当たり前だから、相手を調伏できるわけがない。せめて、なぜを分かってもらいたいけど、分かってもらえなければ、それはそれで仕方がない。

サンデル氏は、アメリカの白人同士の断絶に危機を覚え、謙虚になれと警鐘を鳴らしている。このまま、今の社会の評価軸を変えなければ、断絶は益々深まって行く。取り返しがつかなくなる前に、そこに気づいて気持ちを切り替えてほしい。目線を変えれば、見えてくるものが違う。ほんの少し、目線を変えるだけで社会が変わって行くことを、この本から読み取ってほしいと思う。
 
投稿者 msykmt 日時 
"分断を阻止するために、ないものについてあることを期待しない"

本書は、アメリカにおける能力主義の勝者であるエリート階層と、敗者である非エリート階層が、いかなる経緯で分断の一途をたどっているのか。そして、その分断に対して、どのように対策していくべきかを説くものである。本書は、アメリカを中心に書かれたものであるものの、日本で暮らす我々にも学ぶべき点が多々ある。

私が本書から学びとったもののうち、その最たるものは、長い時間かけても熟練しないこと、つまり不得意なことについて、それを続けていれば、いつかそれが得意な人のようにできるようになる、とは考えず、どこかで見切りをつけること、熟練することを期待しないことが重要である、ということだ。これは、自分がそれをする立場である場合もそうだし、他の人がそれをする立場である場合でもそうだ。つまり、能力主義が是とする、やればできる、というようには考えない。それができる人というのは、そのことに対する素養や熟練するまで努力する才能が、たまたまその人にあったからできるようになっただけなのだ、と考えるのだ。そのように考えることが、アメリカで起きている分断、それはつまり同じアメリカという共同体に属していながら、エリート階層が非エリート階層を見下すことにより、多数派である非エリート階層が本書でいうところの労働の尊厳を損ない続けた結果、おたがいがリスペクトしあわずに、それぞれが孤立していく状況を食いとめるカギになるのと同様に、日本でも顕在化しつつある、富める者と貧しき者との分断を食いとめるカギになるだろう。

一方で、なにごともやればできるのだ、できないのは単にやれるようになるまでやらないからできないままなのだ、という主張もあるだろう。しかし、これは本書にあるとおり、やれるようになるまでやるという努力ができることも、素養と同様に、先天的に決まる要素が多分にあるから、そのような主張は乱暴で、差別的であるから、承服できない。なぜ差別的であるのかというと、本人が選択することのできない属性、それは国籍、性別、年齢といったもので選別や判断することを差別というように、一般的に本人の努力しだいで本人が選択できるとされている、学歴、経歴、資格といったもので選別や判断するということも、本質的には差別に値するからだ。

たとえば、仕事の現場において、自分は自分を律しながら、仕事の時間は仕事に集中するよう努めているのに、その横にいる同僚が、自分の仕事よりも単純な仕事がその同僚には割り当てられているにもかからず、頻繁に虚空をみつめながらあきらかに上の空になっていたり、頻繁にスマホいじりをしたりすることによって、いらだたしく感じる状況は、私だけではなく、現場で同僚と一緒に働いている人ならば、だれでも似たような経験があるのではないだろうか。この例でも、その同僚がその仕事をやるにあたって必要な、素養なり、熟練するまで努力するといった才能など、なんらか先天的に決まっている要素が欠落していることによるものかもしれないのだ。そう考えてみると、感じていたいらだたしさも、いくぶんかやわらぐだろう。

そして、もう少し想像をはたらかせてみると、自分と先の同僚とが、たとえば、仕事の現場ではなく、社内運動会といった肉体を使う場面では、自分は運動が不得意だけれども、その同僚は運動が得意である、といった場合、立場が逆転することもあるだろう。つまり、その同僚と比べれば、自分は仕事に集中できるのは、たまたま、その仕事が自分にあっていたから、にすぎないのだ。つまり何が言いたいのかというと、ひとたび、うまれた時代や場所がちがっていれば、たとえば、もし頭脳労働が主流ではなく、肉体労働が主流の時代にうまれていたならば、自分はその同僚のようであったかもしないのだ。また、その同僚は自分のようであったのかもしれないのだ。

したがって、自分が得意だからといって、他の人が不得意なことについて、他の人が得意になるよう期待するのはやめよう。逆に、他の人が得意だからといって、自分が不得意なことについても、自分が得意になるよう自分に期待するのもやめよう。そして、同じ共同体に属するもの同士、おたがいをリスペクトしあうことにより、自分と他の人との労働の尊厳は保たれる。そして、そのことが、アメリカと同様、日本でも顕在化しつつある、富める者と貧しき者との分断を食いとめることに寄与するのだ。
投稿者 akiko3 日時 
以前ラジオで、通訳者が学生指導で「運も実力のうちだから」と言い聞かせていると話していた。
いざ、「やってみない?」と声をかけられた時に「はい」と言えるか否かは日頃の努力次第だからという内容だったので、そうか、やはり地道な努力の上に、チャンスという運が巡ってくるのかと納得したものだった。


だが、この本のタイトルは「実力も運のうち」
あれ?と思ったが、時に、富裕層の子息が貧困層の子息より学力や才能が劣っていても、親の財力により運がいい土俵に押し込める現実があることを知り、この場合、実力も運のうちなんだと納得した。
そして、アメリカでは、子息間の問題ではなく、社会全体がそのような富裕層と貧困層との軋轢や対立を生み、不平等が叫ばれているのだと知った。


読みながら、アメリカが個人主義だから、個人が得るものはその実力ゆえ、当然の権利と自己アピールする発想になるのかな?と思ったが、長年、富と権力を持つ上流階級が都合の良いように作った社会構造なのだなと、自分には大きすぎる異国の問題だと思っていた。
それにしても、「全ては自分の実力」とよく言い切れるなと、その自信はどこから来るのか?不思議だった。
例えば、かつて勤めていた会社が外資の力が強くなった時、人事評価で自己アピールが求められた。
それまでは、全体主義の組織の1歯車であり、役割分担にのっとった貢献、アウトプットはチームのものという考えがあったので、非常に言葉を選んでアピールしたような?してないような?感じだった。


そもそも、何かを成した時、自分のおかげと思うのはとても傲慢な感じがする。
やはり、「おかげ様」だと思うのだ。
また、立派な人は『実るほど頭が下がる稲穂かな』という謙虚な人を言うと、小学生の時に習った賜物か?


もし、もっと若い頃にこの本を読み、自分がまだ競争社会の中で”持たざる者”として戦わないといけない状況だったら、感じ方は違っていたかもしれない。
もっと人から優遇され、丁重に扱われ、人から羨ましがられる、そんな優越感に浸れる自分であることに必死になったかもしれない。
でも、今は”成功=幸せ”という単純なものではないことを知っている。
”人と比べることで不幸は生まれる”と聞いたことがあるが、この能力主義の競争社会は、不平等な価値観や環境に翻弄され、比較し続けられる。一瞬の成功を得ても、入学時にすでに疲弊していた学生のように、疲弊していてもさらに上昇、最低でも維持し続けないといけない。そんな外部環境に依存する成功を追い続けられるのだろうか?

ふと、アンタッチャブルのアンベードガルの話が思い出された。
あのカーストの底辺から這い上がるのは、並大抵の努力ではなかったのになぜ這い上がり続けられたのだろうか?
それは、インドが分断していては、イギリスから独立できないという、自分の為だけではなかったからだ。
自分よりももっと大きなインドの為だったから、それに見合う英知やパワーを得て成し遂げられたのだろう。

そして、社会に不平等はあっても、命は平等に与えられていると気づいた。
この命は、誰がコントロールしているのかはわからないが、自分が決めて選んで生まれ、寿命が来たら死んでいくという考えには共感している。
さらに、この思いを強くしたのが、母が急逝した2日前に見た夢だった。
それは、私が走っていると何か長いものとすれ違い、その際、ぴとーっとくっついてきて、ぎょぎょっと思い振り返ると、その長いものは振り返りもせず、先を急いで立ち去って行ったという内容で、あとからあれは巳年生まれの母だったのかと、母が自分で決めて天寿を全うしたんだなとの思いになった。


いずれ死ぬ命、どう生かすか?どんな生き方をしたいか?
競争で達成感を得るのも人それぞれの価値観だが、このコロナ禍で世界は共生する大切さを感じているようにも思う。共生社会は、”おかげ様”と支え合い、人々のさまざまな能力が発揮されている社会だと想像する。
そして、自分も生まれ持った才能を育て、生かし、楽しむ人生を歩みたい。
いつか来る最後の時に、未練なく清く行けるように。
 
投稿者 M.takahashi 日時 
本書ではメリトクラシーの弊害として、社会的勝者の傲りと敗者への見下しに焦点が当てられ、勝者は自らの受けた恩恵を自覚して謙虚になるべきだという論が繰り返し張られている。その根拠としてサンデル氏は、生まれ持った才能や家庭環境、生まれた時代の市場において重宝されるものが何かなど、成功につながる要素は全て運であり本人の道徳的な功績ではない、という論を張っている。一見理屈の通った正論のようだが、成功者の功績をここまで徹底的に否定することは本当に正しいのだろうか?この命題を検証していきたい。

第一に、サンデル氏の主張は統計として全体をひとまとめにした時には正しくても、個別のケースに当てはめると必ずしも正しいとは限らないように思われる。確かにデータとしてみれば、富裕層の子が恵まれた教育環境で育って有名大学へ入って収入の高い職業に就く、というパターンは典型的であり、貧困層から富裕層への仕上がるものの割合はわずかであることは確かである。しかし、ここで注目すべきは階層をのし上がっている例外的なケースの方だ。日本でも立身出世の物語が人気だが、明らかに恵まれない環境にいても尋常でない努力をして富裕層へ浮かび上がる人間もごく少数ながらいるのだ。このようなケースにおいても、努力できる強靭な精神力を持っていたことは幸運であって本人の功績ではないと言って、努力それ自体の道徳的価値は認められないのだろうか?もしそうであれば、「運が良いから成功した」のではなく「成功したのだから運が良かった」と言っているようなものであり、結果と原因が逆転しているように思われる。もちろん、多くの成功者は幸運によってその地位にいることは間違いないだろうし、階層間の流動性が低い状態も是正すべきではあるとは思うが、全てのケースにおいて成功者の功績を否定すべきだとは思えないのだ。


第二に、もし成功が本人の功績ではないのなら、所得が低いのも本人の過失や落ち度ではないということになるだろうし、この考えを徹底すれば、ホームレスになるのも、犯罪に走るのも、生活習慣病になるのも、道徳的観点からはその人間の責任では無いということになるだろう。努力したくてもできない脳を持っているのも、少し先の未来を想像できないがために目先の欲を抑えられないのも本人の遺伝子や生まれ育った環境などの結果であり、本人の落ち度ではないからだ。遺伝子や生まれた環境は道徳的観点からは恣意的であり、それらに導かれて起きた結果も同様に道徳的な功績や落ち度とはならないはずだ。このように、成功における功績を否定して運のおかげとすることは、理論的には失敗に対する自己責任の要素を否定して、その原因を不運に帰結させることに直結するのだ。近年の日本で見られるような生活保護受給者やホームレスへの自己責任論は行き過ぎているようには思われるが、その境遇に陥ったことに対する本人の責任を完全に否定することは現実的ではないだろう。当然、中には本人の落ち度はほとんどなくても不運によって転落した人も大勢いるだろうし、偏見を持つことは厳に慎むべきことである。しかし、成功者が皆が皆幸運に恵まれて成功したとは限らないのと同様、全ての困窮者が自らの努力でどうしようもないような不運によってその苦境に落ちたとは限らないのだ。

最後に、プラクティカルな問題として、成功者が恩恵に感謝することは望ましいことだが、成功していないものが自らの責任を否定して環境や生まれのせいにすることは多くの弊害につながるだろう。家が貧しいから、学歴がないから、根性がないから、など生まれのみならず自らの性質までもを理由に自分は成功できないと信じこめば、「できると思っても、できないと思っても、どちらも正しい」と言うヘンリーフォードの言葉のようにその信念は自己実現的に達成される可能性が高いのだ。

このような道徳的功績には正しくとも、プラクティカルには応用できない問題はいくらでもあるだろうが、自分で考えて哲学することの重要性を教えられた一冊だった。
 
投稿者 H.J 日時 
結局、著者は何が言いたかったのだろう。
本書を読み終えた後の率直な感想を包み隠さず書くと、この通りである。
しかし、この感想で終わってしまうと本書を読了した意味もないので、タイトル等から考えてみる。
まず、「運」というものが本書のテーマであることは、”実力も運のうち”というタイトルから見ても間違いないだろう。
ここで面白いのが、”運も実力のうち”ではなく、”実力も運のうち”としていることだと思う。
運も実力のうちであれば、聞きなれてることもあり、実力が上位概念でその中の下位概念で運があるんだなと腑に落ちる。
しかし、今回は逆なのである。
運が上位概念でその中の下位概念が実力なのだ。
最初、中々腑に落ちなかったが、サブタイトルの”能力主義は正義か?”という疑問と合わせて考えると腑に落ちた。
この疑問は”能力主義は正義である”という論に対して、本当にそうなの?という疑問である。
P317~318でヘンリー・アーロンのエピソードを基に書かれていることを引用すると
『その考えからは、正義にかなう社会とは能力主義社会であり、自分の才能と努力の許すかぎり出世できる平等な機会が誰にでもある社会だという結論に至るまで、ほんの一歩である。だが、それは間違っている。』
とハッキリと能力主義は正義ではないと否定していることからも、著者は”能力主義は正義ではないよ”と言っている。
では、何が正義なの?と言った時に出てくるのが、メインタイトルである”実力も運のうち”である。
つまり、著者は”運”こそが実力であると言いたいのではないだろうか。

そう考えると、能力主義で成功してきた人々に対して、”君たちの成功は運なんだよ。勘違いするなよ”という痛烈なメッセージにもとれる。
事実、本書内で能力主義者たちを結局否定している場面も度々見る。
実力=才能や努力の証という現代社会の暗黙の了解に対して切り込んでいると考えると凄い本だ。
そう言った意味では、将来成功した時に傲慢にならないためには良い本だなと感じる。

他方で運というものに関して考えると、立場や考え方によっても変わる様な気もする。
本書では、能力主義である現代において”努力や才能で誰でも成功できる”という論に対して、「それは産まれた家庭により難易度が変わるよね」という事実を所謂レガシーの優遇や不正入学させた事実等で説明している。
日本でも親ガチャという言葉をよく聞くが、良い環境に産まれ、良い環境で育ち、良い環境で学べば知識社会において実力を示す「学力」を手に入れることができる。
学力があって社会に出るのと、学力がないまま社会に出るのでは、社会人のスタートとしてはハンデがあるというのは間違いないだろう。
たとえ、学力が無かったとしても親が権力を持っていればコネ入学ならぬコネ入社だって可能な社会だ。
とある宗教家の息子がyoutubeで、とある上場企業にコネ入社していた事実を実名で暴露していたことからも日本でもコネ入社が行われてることは間違いないだろう。(例えとして出しただけで、この息子の学力がない訳ではないが・・・)
しかし、親が権力を持っていたところで上場企業に入れて、幸せかというとそうでもなくて、自分のやりたいことが出来ないという不自由もある。
逆に思考停止で困らない程度に生きていきたい人にとっては幸運以外の何物でもないだろう。
なので、親が権力を持ってるから運が良いかと言うと一概にはそう言えないのである。
結局、自分の生き方に沿った運を引き寄せるのが一番なんだろうなぁと感じた。