投稿者 mkse22 日時 2021年9月30日
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を読んで
人間は平等ではない。生まれ持った才能に違いがある。
そして、才能の有無によって、選択可能な職業が変わってしまう。
野球のセンスのない人がプロ野球選手になれないように。
さらに、高い才能が求められる職業は年収も高くなる傾向にある。
プロ野球選手や芸能人は、サラリーマンの平均的な生涯年収を
数年で稼いでしまう。
ここに、能力主義が加わると、高い社会的地位にいるものは、
その地位を獲得できた理由を自身の才能と努力の結果だと見做してしまい、
そうでないものは才能もしくは努力が不足していたと考えるようになる。
これが理由で、前者は周囲から称賛され、後者は見下される。
ここから、才能があり努力をすれば、それ相応のお金や名誉を得ることが出来ると考え、
だから才能がほしいという考えに至ることになるだろう。
ただ、この考えは才能を持つことのプラス面に注目しすぎており
マイナス面を見落としている気がする。
才能を持つことのマイナス面、それは才能を持つものは
それを生かすことができるのかという重圧に苦しむことである。
なぜなら、才能をもってうまれてきたとしてもそれを開花させなければ意味がないからだ。
もし、才能が中途半端に開花したり開花しなかった場合は、
その人の人生は、才能がない人のそれよりも厳しいものとなる可能性がある。
よい例は二軍のプロ野球選手だ。
彼らは決して野球の才能がないわけではない。むしろ一般人と比較してはるかに才能がある。
しかし、一流のそれではないかもしれないし、たとえ一流のものだったとしても
中途半端に開花した状況だ。
二軍の選手の年棒は決して高いものではないうえに選手生命も短い。
さらに引退後の就職先探しも困難なケースが多い。
こうなると、二軍の選手の生涯年収は、普通のサラリーマンより低いかもしれない。
それでは才能を開花させるのに必要なものは何か。それは運だろう。
もちろん、一流の才能を持って生まれることや努力することは必要だが、それだけでは足りない。
例えば、野球でいえば、自分の才能を伸ばしてくれる指導者との出会いだろうか。
さらに言えば、才能を持って生まれてくることにも運が必要だし、努力することにも運が必要かもしれない。
例えば、いくら野球の才能があっても、貧困であれば、生活のために野球以外の仕事に就かざるを得ないからだ。
こうなると野球の練習ができないため、プロ野球選手にはなれない可能性が高くなる。
このように能力主義が根付いたとしても、成功者が自身の成功は運がよかっただけと考えることができれば、そうでないものを努力不足といった形で見下すことはしにくくなるだろう。
ただ、すべては運で決まるという考え方が根付いてしまうと、
今度は運(と一流の才能)を持つ人だけが努力するが、それ以外は何もしない社会が誕生してしまう。
たとえるなら、ごく少数のエリートと大多数の出世に見込みがないため
無気力となってしまった大企業の40代サラリーマンのみで構成される会社のようなものだ。
こうなると社会全体の活力が失われてしまうだろう。
この無気力社会を回避するためには、才能が乏しい人でも努力する仕組みが必要だ。
そこで、この仕組みを組み込むように能力主義を次のように再解釈してみた。
「能力主義とは、才能の乏しい人でも努力に応じた社会的地位に就くことができる考え」
才能や運は自身でコントロール不可だが、努力はコントロール可能なため、
努力した分だけでも社会的地位に反映することができるなら、
才能が乏しい人でも努力するインセンティブが生まれる。
さらにうまくいかなかったとしても、それは才能がなかったからだという言い訳もすることが出来る。
このように、能力主義は、社会的地位を向上させるために手段(努力)と失敗時の言い訳(才能)とセットになった考え方と見做すことができれば、才能が乏しいものにとっても小さな希望となる考え方となると思う。
本書では、ヘンリー・アーロンの例を通じて、能力主義は差別の存在が前提となっていることから
本来あるべき社会では相応しくない考え方だと記載されている。確かにその通りだ。
しかし、生まれ持った能力に違いのあることはコントロールできないため、能力による差別がなくなることは考えにくい。
さらに、著者の主張する条件の下での平等が根付いた社会が成立するまでには、まだまだ時間を要する感じだ。
従って、能力主義は才能が乏しいものを救済するための考え方という位置づけで暫定的に活用することができるのではと思った。
今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。