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第37回目(2014年5月)の課題本

 

5月課題図書は・・

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観


これは南アメリカのアマゾン流域に暮らす400人という少数民族の生態と文明を

追いかけたドキュメントです。彼らを30年間調べ、彼らの文化や言語の概念が

どういうものなのか、それが我々西欧のそれとどう異なっているのかを読みや

すく時にユーモアを交えて解説しています。彼らには右左の概念もなく、数の

概念、色を示す名詞すらないのですが、そんな彼らがどうやってコミュニケー

ションをとっているのか。言語を超える哲学とは何か?


知的好奇心という意味では、この本はトップクラスの情報を与えてくれます。

人間ってここまで多様な認識能力を持っているのかと驚く事必至です。

 

【しょ~おんコメント】

5月優秀賞

 

今月は言語学者の書いた本で、とっつきにくく、分厚くてしかもちょっとお高

いという事で、この1年で最も投稿者が少ない月となりました。


なかなか分かりやすくて面白いなあと思います。

逆にこういう月に投稿される人のコメントはなかなか深みがあって、選考する

側としてはとても参考になりました。


じっくりと読んだ結果、ken2さん、BruceLeeさん、magurockさん、jawakumaさ

んの4名が最終選考へ。この本を読んだ人は、彼らの書評を読むと良いですよ。

お一人おひとり良く書けていると思います。


そしてこの4名の中でどなたにしようかと再読。本書を最初にサラッと読んだ時

に感じた気分を上手く表現していたken2さんに差し上げる事にしました。

 

 驚きが素直に文章になっていて共感出来ました。


【頂いたコメント】

投稿者 NobuhiroIida5 日時 2014年5月21日


「今をただひたすら生きることで見えてくるもの」(『ピダハン--「言語本能」を超える文化と世界観』)

ピダハンには見えて、我々には見えないような物があるとすれば(冒頭の精霊(イガガイー)のように)、それは今をただひたすら生きる上で彼らが今現在を極限まで掘り下げた結果得ることが出来た能力なのだと思います。
未来を描くよりも一日一日をあるがままに楽しむピダハンには、文字がありません。何かの物事を恒久的に残す必要性を感じていないからでしょう。彼らにとっては今この瞬間が全てで、環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じきっていて、その結果、何が来ようと楽しむことが出来るのです。
これは楽に得られる能力ではありません。ピダハンの社会では、子供も一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値があります。故にまだ小さいうちから、毎日が修行のような生活を送り、それがいつしか当たり前になることで、今を生きる為の様々な能力を得ることに繋がるのだと思います。
ピダハンにとっては死もさほど特別なことではありません。人は強くあらねばならず、困難は自分で切り抜けなければならないと信じているが故に、川での難産の末、死にゆく女性に手を差し伸べずに見殺しにすることもあるのです。

ピダハンは、眠っている間にみる夢と、実際に起きている間の出来事の両方を直接的な体験として扱います。故にピダハンは、我々にとってはどう見ても空想や宗教の領域でしかない信仰や精霊という存在を、直接体験として扱うことが出来ると言います。つまり、彼らはもはや眠ってはいない、いや、眠っている間のこの瞬間ですら何かを体験していることになるのです。

ピダハンは今を楽しんで生きることに必要のないことは一切受け入れません。それはブラジル製のカヌーのような文明だけでなく、文字も不要、「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「ごめんなさい」のような言葉ですら不要です。更には「心配する」という感覚すらないほど、日々を一生懸命生き、神様すら入ってくる余地がありません。

僕はここに「幸せ」の極意があると思います。今この瞬間を生きることだけに意識を研ぎすませた結果、「心配」という概念は生まれもせず、そこに存在するのは「笑顔」なのです。困難や苦悩ですら、彼らは「笑顔」に変えてしまうのです。
そんな彼らには精霊が見えます。正確にいえば「見える」かどうかは重要ではなく、「認識することができる」のです。
それはかすかな草木のざわめきだったのかもしれません。川から流れてくる湿った空気なのかもしれませんし、仲間の誰かの夢の中に現れた存在なのかもしれません。いつもとかすかに何かが異なることから感じた胸騒ぎのようなものなのかもしれません。五感を超えた第六感も、彼らにとってはデフォルトで使用する認識能力なのだと思います。
我々はピダハンのように精霊を認識する能力を身につけることは出来ないでしょう。少なくとも30年以上掛かることは確かなようです。
ただ彼らの生き方から「幸せ」を掴む極意を学ぶことが出来ると思います。地球が創世されてからほんのわずかな間しか存在していない科学のみで物事を捉えることは愚かです。そこにはずっと昔から変わらず繰り返してきた研ぎすまされた生き方がある。まだ「不幸せ」という概念が存在しなかった頃から引き継がれてきた生き方がある。
今この瞬間をただひたすら一生懸命楽しむことのみに専念することが大切です。眠っている間ですら。。。

投稿者 jorryjorry55 日時 2014年5月25日


「ピダパン」を読んで。

最初、一人でオーストラリアに出張に行ったことを思い出しました。今から考えても、かなり無謀な出張でした。というのも、当時TOEICの点数はジャスト600点。まあ、私より点数が低くても、不自由なく仕事で英語を使っていた上司という例外はありましたが、普通に考えれば、仕事に耐えられる点数ではありません。それは自分でもわかっていましたが、上司にどう?と聞かれたので、この機会を逃すのは勿体ないでしょう。ということで、1週間オーストラリアに行ったものの、準備段階も含め、会話がまったく理解出来ないことのほうが多く、非常に苦労したことを覚えています。

この本を読み進めながら、上記の事をふと思い出すとともに、作者の苦労は私以上に相当大変だっただろうなと。

ところが読み進めていくうちに、非常に違和感を覚えました。
というのも、作者の使命はキリスト教の布教であり、いわば、西洋文明の押し付け。西洋人のほうが当然上であり、未開人たちを教育してあげるよという驕り以外の何物でもない。自分の信じていることは絶対であり、みんなの役に立つはずだという思い込み。信じる者は救われる、とばかりに自分たちは非常に良いことをしていると思い込んでいる。まあ、宗教の布教活動は全部同じですが。自分たちだけの世界で完結させればよいものを、勢力拡大をして利益をむさぼらんとするからこそ余計な摩擦がおこり、私から言わせれば無駄な宗教戦争が起こるのであって、押し売り以外の何物でもない。
営々と受け継がれてきたその土地の文化があるのであって、それを蹂躙する必要はないと思う。

地球上から消滅する危機にある言語がかなりある、とのくだりでも結局西洋人の論理を振りかざしている。自然淘汰されるのであればそれはそれでしょうがないと思うのであるが、守るためには色々と調査の必要があるといっているが、よけいに異文化に触れることになり、消滅スピードを速めるのではないだろうか。

ピダパンは自分たちが信じるもの以外一切受け入れないという文化を守ってきたからこそピダパン語が残っているのであり、余計な事をする必要がないのではないだろうか。

あと違和感を持ったのは、認知、文法、文化の関係のところで、フィールドワークなしに、机上の空論で最初学説が唱えられていた事である。実際に訪れたことがないのにその土地の事が何故わかるのだろうか?それが長い間当然のように受け入れられていた事も驚きであった。
「人間は人間の環境に育つから人間になるのであって、脳が人間でもオオカミに育てられればオオカミになる。」という言葉をどこかで聞いた記憶があるが、その人の性格や土地柄というのは育った環境に大きく影響されるのは想像に難くないと私は思っている。英語圏で生まれ育てば当然英語が堪能になるし、そうでなければ私のように苦労するのはごく当たり前と思ったからである。筆者も書いているが、その環境の文化を知らなければ分かり合えることは相当に厳しいのであり、ましてや異文化の宗教を受け入れることなんて厳しいだろう。しかも実際にあったことのない人の教えなんて。

すでに十分幸せに生活しているところに無理やり異文化の宗教を布教する事の必要性が私にはわかりません。

幸いというか、筆者はその違和感というか幻想に気づき、ピダパン文化を受け入れた結果、今までの現実世界から脱しましたが。私もそのうち、何かに打ち込んで筆者みたいに幻想から脱することができるのかな?と本気で思った次第です。

ありがとうございます。

投稿者 Bizuayeu 日時 2014年5月28日


ピダハンの世界観では、直接体験こそが真実であるから、
文字が無くても、再帰表現が無くても、困らない。
居住区の外に未知の世界が広がっていることは知っていても、
自分たちの生活には必要の無いものだから、興味を持たない。

僕は、同様の世界観を持っている人々が、
日本でも最近認知されるようになってきたと考えている。
マイルドヤンキーと言われている人々だ。
さすがに文字も再起表現もあるが、語彙が多いわけではない。
地元に友人もイオンもあるから、外に出る気はしない。
おおらかな性行動と相対的な多産の傾向も似ていると思う。
彼らが直接体験に重きを置く人種であろうことは想像に難くない。

では何故、マイルドヤンキーがピダハン的な
世界観を持つに至ったのか。僕の仮説はこうだ。
群れとしての生存可能性がある程度以上担保され、
かつ期待される社会的な役割が一定化した場合、
直接体験に重きを置いた世界観を持つ人間の方が、
肉体的にも精神的にも生き残り易かった。
つまり、おそらくバブル崩壊以後から、
少なくともマイルドヤンキーが観測され易い地域では、
社会階層の固定化が進んでいるのではないだろうか。

ピダハン的な世界観で生きることは、
環境と穏やかに共生するという文脈では一つの解になるだろう。
しかしながら、環境とは本来は荒々しく動的なものだ。
デジタル化、グローバル化、戦争、気候変動、生態系の変化、
何が我々を撹乱するのかは定かではないが、事が起きた際に
生き残るためには、他の世界観も構築しておくべきだ。
でなければ、今後のピダハンと同じ運命を辿るだろう。

2014年現在、ピダハンの村にはブラジル政府の支援で
学校が建設されており、そこではポルトガル語が教えられている。
他の部族の文化や言語が失われたように、
今後50年の間にはピダハンの文化や言語も失われ、
幸せなピダハンは貧しいブラジル人と変わる可能性が高い。

投稿者 kd1036 日時 2014年5月29日


言語学者とはどんな事をしているのか、全く予備知識も何もない状態で読み始めてしまいました。本書を読み進めるとその困難さに圧倒されます。これは取り扱っているのがピダハン語だからなのかもしれませんが。
ウィキペディアでは、
言語学ではヒトが話す言語(ことば)を取り扱う。そこで、「ヒトが話す言語」とは何かを明確にする必要があるが、学者らによる「言語」の定義の問題は未だに決着していない。
と書かれています。未だ定義は決着していないんですね。

全体を通して改めて感じさせられたのは、思考は言語でするのだなという事です。それは根本的な成り立ちの部分、いわゆるその社会での当たり前の行動様式・生活様式に端を発します。その中での情報伝達手段としての言葉があるのなら、異なる言語間での翻訳は殊更に難しそうですが、そんな事は無いというのが今まで持っていた考えです。確かにパっと頭に浮かぶ世界各地の言語は、ごく少数の人が使用しているものでは無く、国や地域といった広範な場で使用されているものです。なので、常識の違いなどコミュニケーションを難しくする要因はあるにせよ翻訳が不可能という事はないのかもしれません。しかしピダハンは本書での情報のみで判断する限り当たり前として生活していることが、著者とはあまりにも違いすぎます。
終わり近くに、ピダハンには創世神話があったと言って、調査結果のテープを持ち込んだ研究者の話は、ここまで本書を読み進めてきた者から見るとひどく滑稽に思えますが、彼のアプローチが極めて普通なのだと思います。まさかテープレコーダーというものが全く理解されておらず、通訳が自分の意図する所を全く解していないとは夢にも思わないでしょう。

日常、相手の立場に立って考えなさいという事は頻繁に言ったり言われたりするものです。至極当たり前なのですが、どうしても気を抜くと自分の常識というフィルターから通して考えてしまう気がします。自分が情報を発する時も情報を受け取る時も、理解した理解してくれたと判断するには相当に深く考えなければいけなさそうです。とはいえ、実際の生活でにっちもさっちもいかないような困り方をしている訳ではないのですから、本書から吸収できた事を生かして思考してみます。

正直、言語の解説の部分は自分には非常に難しかったと思います。ただ紹介されなければ自ら手に取る事はなかったかもしれない書籍なので、一度無理やりにでも頭に叩き込んだのはいい経験になったと思います。

投稿者 akiko3 日時 2014年5月29日


「ピダハン‐“言語本能”を超える文化と世界観」を読んで

 シカカイ石けん
 パッと見、脳は“鹿(君)やい、石けんかい?”と変換。宮沢賢治の童話に鹿踊り(ししおどり)のはじまりってあったな、栃もちぜんざいって、東北の方では日常食だろうか…と取り留めなく巡り、ひらがな覚えたての子供のように、一字ずつ読んでも意味が繋がらず(しかもシャンプーバーとも書かれていた。今は液体が主流だからバー?とますます認識困難)。で、考えてわからない時は、グーグル先生!やっと理解した。
が、シカカイ石けん=鹿君がニッとほほ笑む図が浮かぶ右脳人間。インドのアーユルヴエーダー通は一発でわかるだろうし、歯科に通っている人だったら、歯科医が進める石けんか?と思うか?

言葉は、伝達ツールであり、言葉には背景や知識、習慣、文化がおのずと浸み込んでいて、使う人の価値観や性格も影響する。言葉をどう受け止めるかは相手の問題であるが、文章に人格がでるのは隠せない。浅田次郎著「プリズンホテル」に、真面目な文章を書く人は、結構、根が不真面目で、不真面目な文章を書く人の方が、実は根が真面目だとあった。

さて、誤解が解けたところで、本についての本題に入るとしよう。
まず、驚いたのが、ジャングルに入ってまで、なんで布教するのか?幼い子供まで連れて、蛇や毒蜘蛛がいるところで生活するなんて信じられない。しかも何十年も。人の入れ替わりがあったということは、そんな任務に就くことに抵抗を感じない人達がいたというその価値観が理解できなかった。聖書の翻訳をする為に、現地語を覚えるという地道な活動。何年かかるかわからないことに、サバイバルしないと生きていけない中でも躊躇わない、突き動かすものが、精神があることに驚きを隠せない。のちに、無宗教になることで、家庭崩壊することもいささか理解できないが…(赴任後に病気で生死をさまよう中、献身的に助け、その後も共に苦労を分かち合っていても、それらの月日よりも、精神の柱が違うだけで共に暮らせないものなのだろうか?人生いろいろあるよね…の深みがわかるには、もう少し年をとらねば理解できぬか?)。また、ジャングルの川の美しさがいくら描写されていても、イメージできない。蛇がどこからともなく現れる恐怖にさらされる、(蚊に刺されやすいタイプなので)ぼこぼこに刺されることの不快感なら、逆に簡単にイメージでき、嫌悪感がぬぐえなかった。
そんな自分からしたら、絶対に無理!ということを淡々と体験し、冷静に分析した著者には、珍しい世界を垣間見せてくれたことに、心より感謝する。また、ピダハンの日常生活を通して言葉を学ぶ著者のおかげで言葉について、改めて考えられた。物の見方の違い、川を起点に現在地を判断するなんて、方向音痴の自分は、数少ないピダハンへの親近感!
ピダハンは外の世界の知識、習慣を取り入れないとあったが、外からの人が増え、便利さを目の前で見せられても本当に変わらないのだろうか?今度来るとき買ってきてくれとか、便利なものは取り入れているではないか?ピストルを使ったのはどうしてだ?
ピダハンを理解しようと人が入ってくることや、もっと最悪に、ジャングルの恵みを盗みに入る文明人達に騙され、ピダハンの生活は徐々に変化せざるを得なくなるだろう。貪欲にジャングルに入ってくる人達から守る為に、囲うことは、ピダハンの自由を限定することだし、ジャングルの生態系が壊れ、恵みが得られなくなると、ピダハン村は過疎化にまっしぐら。それでも、ピダハン達は今を楽しみ、笑顔を絶やさないでいられるのだろうか?人類の進化とそれに伴う崩壊を思うとなんとなく憂えてしまう。

ピダハンの狩りのコミュニケーションで思い出したのは、象が空に鼻を高く伸ばし、ジャングルの中で何が起こっているか知ることだ。ジャングルの中で仲間の死骸を見つけたら、真っ先に牙を隠すらしい。牙を狙って密猟されている事実を、その場を見てもいないのに知っているという。言語以外の伝達ツールを持っているのだ。人間だって、昔の人は虫の知らせというテレパシーが使えていた。進化の過程で、崩壊した能力がある自分の現実を、まずは憂うべきではないか!
言葉の捉え方も、すでに崩壊している。“日本語は日本人の美意識、文化を示す言葉で、五官のすべてを動員して全体に触れようとする”と新聞のコラムにあった。そして、“にほひ”とは、かすかなものが華やかに見えるという視覚に及ぶ言葉で、“風鈴の音”が涼しいのは、聴覚が皮膚感覚に及んでいるとも。高齢者の方達が、いい香り、においを“にほひ”と書かれたことを思い出し、教育の違いかと単純に思ったが、失っている五官、スピードに囚われ、言葉が単なる記号になってしまっているからではと危惧した。例えば、葉山蓮子様風に「あのお方は、この場の雰囲気というものを、まったくもって理解はしていらっしゃらないのだわ」と怒りに震えハンケチを噛むより、「って、あいつKY」の方が、てっとり早く伝わる。そうして、大した意味もない会話をテンポよく重ね、時を過ごす。
しかし、もう超若者でもないし、五官を磨いて、大人の、味のある会話が楽しみたい。そして、ピダハンとは違って、本や人から聞いた話でも、新しい知識は吸収し、自分の中で必要、不要を選別した上で、使い、楽しもうと思う。“今を楽しむ”理解不能なピダハンの生き方から、唯一さっそく取り入れたいと思ったことを反芻し、摩訶不思議な世界旅行の幕を閉じよう。ごきげんよう、さようなら。

投稿者 omieakanat 日時 2014年5月30日


☆ ダンさんとピダハン教

私もアメリカとタイに住んだ経験があり、始めは英語もタイ語も全く話せない
状態だった。現地では非常に苦労しながら覚えた経験があり、著者のダンさん
の苦労が良く分かる。

ただダンさんの場合は単一言語環境、声調言語という特殊性極まりない環境で、
このような環境で言葉を覚えていくのはとても信じられない。

本人が言語学者であり、調査の手法があったとはいえ、普通はこの条件と環境
下で調査を全うすることは不可能(挫折する人がほとんど)だと思う。

そう考えるとダンさんは超マジメだが、相当な”変わり者”だろう。

実はそんなマジメな性格で何者にも頼らず、努力で全ての困難を退けようとす
る辺りが、隠れ無神論者たる資質があったのではないか。

一方、お相手のピダハンは情熱を隠さないし、我慢しない。喜怒哀楽全ての感
情がチャクラ全開で開放されている。

さらに五感がハイレベルに研ぎ澄まされ、ノーマル状態で精霊も見える。

よって、こんな所に言語学者のような左脳を酷使している人が行ったら、それ
までの生活に比べてすごく楽だろうし、すごく楽しいだろうし、ブラジル以上
に開放的なわけだから、おかしくなってしまうのではないか。

法律も無く、倫理感も異なり、弱肉強食的で半野生的な人達に初めは恐れを抱
くが、慣れれば一般人は自我が開放され過ぎて頭がのぼせてしまうと思う。
(これは編成意識状態と同じだと思う)

そして、何故自分がアメリカに居た時宗教が必要だったのか、ピダハンのよう
に特に救いも文化の変化も求めていない人達には宗教は必要なのか、というこ
とに対して思考停止になってしまうのではないか。

ダンさんは、自分の信じていたものが揺らいで宗教を捨ててしまったが、ピダ
ハンといる時は、編成意識状態であり、宗教が必要無いと考えただけであり、
またアメリカの生活(下界)に戻れば宗教が必要だと気付くのではないだろう
か。

それとも、アメリカの生活に戻っても全く宗教が必要ないのだろうか?
(だとしたら大発見ではないか!?・・・「ピダハン教」が生まれそうだが)

その辺をダンさんがその後の人生でどう感じているのか知りたい思った。

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投稿者 ken2 日時 2014年5月31日


「ピダハン~「言語本能」を超える文化と世界観」 を読んで

一番衝撃だったのは、ピダハンとの邂逅が、布教活動が本分である宣教師をして無神論者に転換させてしまった、という事実だ。
ピダハンの生活、文化に根ざした世界観、哲学が著者にコペルニクス的転回をさせてしまった。

そこまでの衝撃を与えたのは何なのか?何故なのか?
言語を超える哲学はいかに醸成されたのか。

その端的な答えはピダハンは常に「いま、ここ」に生きているということ。
過去も未来もなく、常に現在にフォーカスし続けていること。
それにより、精神生活がとても充実して幸福で満ち足りた生活を送っていることということになろうか。

「いま、ここ」は「直接体験の原則」すなわち「実証主義」に裏打ちされている。
ピダハンの人々は、ジャングルで、とても原始的な生活を営んでいるが「実証主義」で目に見える証拠がなければ信用しない。
伝聞形式で伝える宗教も神様もまるで意味をなさない。

「いま、ここ」に生き続けるピダハンに、「始めに言葉ありき」で始まる聖書の言葉はまったく響かない。

過去も未来もない、あるのはただただ現在の連続。
目の前にあるのが世界のすべて。
今日の糧をどう得るか、ヘビや毒蜘蛛などからいかに身を守るか。

原題である「Don't sleep, there are snakes」
「眠るな、ヘビがいるぞ」ということばが「おやすみ」の代わりになるという。

つまり、命の危険と常に隣合わせという厳しい住環境で暮らすピダハンはそこで生き抜くためには一瞬一瞬が選択の連続であり、生きるか死ぬかというオン・ザ・エッジを綱渡りしているようである、それも楽しみながら。

アドレナリン出まくりのチャクラ開きっぱなしの体験の連続なのだろうか。
真に「いま、ここ」に生きるとはそういうことか。

そして、子供も乳離れしたとたん、一人前の人間同様に扱われる。
我々の社会に当てはめると、「幼稚園児」が「新卒社会人くらいの扱い」をされるといったニュアンスだろうか。
泣こうがわめこうが、脱落は即、死を意味し、そういう意識で必死にサバイバルしないと生きていけない、淘汰されるということだ。

子供が包丁で遊んだりしていても親は注意しない、究極の自己責任。
出産の仕方にも驚かされた。
病院もなければ助産婦さんもいないピダハンの世界では、
女性は川で子供を産み落とし、難産であれば自らも命を落とす。。。

胆力が違うなあ、圧倒的に。

罪の意識もなければ、死への恐怖もない。
外部に神を求めるのでなく、かれらが信じるのは自分自身、神という言葉を使うとすれば、自分が神ということなんだろう。
おおよその物事はあるがままに受け入れられる。

ジャングルで生活するというのは自分にはイメージできないがピダハンの物事に対する捉え方はとても参考になった。

この本を読んだことによる気づき、学びとしては、
「いまここ、に生きること」・・・感性が研ぎ澄まされる
「未知の環境に飛び込んだり、未知の体験をしてみること」・・・自分のなかでコペルニクス的転回が訪れるかもしれない
「本を読み続けること」・・・自分の世界を広げるため
です。

今月もありがとうございました!

投稿者 ktera1123 日時 2014年5月31日


「ピダハン『言語本能』を超える文化と世界観」

はじめに、本を手にとって感じたこと。
「言葉」ではなく、「以心伝心」「テレパシー」等の言葉を使わない意志の伝達手段を書かれている本ではないかと。

さすがにそんな本の内容ではなかった。語彙は少ないが「言葉」はある。ただし「今、目の前にあること」、「自分が体験したこと」しか伝えられない。伝えられないのはなぜか。それは今、目の前にあること。自分が体験したこと。以外は必要ないと判断しているから。

世界の情勢をみるのに、日本のなに時代か過去の時代にあてはめて考えてみる方法がある。10年くらい前の、学生闘争が盛んだったころの韓国は「60年代安保」のころかな。アフガニスタンは、織田信長のころの戦国時代ではないかな。そんな考え方をピダハンに当てはめてみると「縄文時代!」になってしまう。
「縄文時代」には、「文字」はないので記録には残っていない。ただし、意志伝達の手段として「言葉」はあったにちがいない。その貴重な生き残りが「ピダハン語」なのではないかと。

そのように考えてみると「ピダハン」の世界観がなんとなくわかってくる。熱帯地帯のため、ジャングルで食べれる、食べれないの判断がつけば食べ物には困らない。ただし、虫、獣(ジャガーなどの肉食獣含む)などと共存しないと生きていけないし、食べ物は自分で自己責任で調達、交換しない。まるで昔テレビアニメでやっていた「ギャートルズ」の世界だ。

そんな世界で暮らしてみると判明したことがある。今、現代社会で「死、苦、辛」などのネガティブな問題があるが、「ピダハン」の世界ではそのようなことは発生していない。なぜか。対応する言葉がないからだ。言葉とは考えを表す。それを考えるとなにげなく使っている、聞いている「言葉」の恐ろしさを感じました。

何気なく使っている「言葉」「言霊」の恐ろしさを改めて感じさせてくれありがとうございました。

以上

投稿者 dukka23 日時 2014年5月31日


もしかしたら人類が言語を発達させた時点から
人類の不幸が生み出されているのかもしれない。

言語を発達させたおかげで、
一日を大切にしなくなり、
直感で感じることが少なくなり、
人の幸福を聞き、それを妬み、
また妬むという不幸も
大きく勝手に増幅させているのかもしれない。

これらは「言語」があるからこそ、
情報を仕入れ、頭で考え、無駄に増幅してしまう、
「人の頭によって作られる不幸」なのではないか。

この書を読むとそう感じてしまう。

とはいえ、一方で、
言語の発達によって人類や社会が受ける恩恵は大きい。
例えばピダハンにはないリカージョン(入れ子構造)は、
現在の普遍的な言語に存在する。
そのリカージョンによって複雑な話を創作することも、
体験を他人に伝達することもできる。
そして、私がこの本を読んで学習したことも、
「言語」が発達しているからこそ
著者が体験したことを(ほんの一部だけではあるが)
疑似体験することはできたのだ。

しかしそれでも、
リカージョンに代表される構文と呼ばれるものが、
作られ発達したおかけで、
人がもつ恐怖や不安、恐れといったものが作られる
といった悪い作用が目についてしまう。
特にピダハンの生活ぶりや文化と比較するとなおさらだ。

一般的には言語の発達によって自分が体験していないことを、
より正確に他人から聞くことが可能になった。
そしてその聞いたことは、(自分が体験していないにも関わらず)
自らの頭のなかで、余計な自分の考えや推測が付加された状態で、
ビジュアライゼーションされていってしまう。

これは、一方では独創性や創造性とも呼ばれるが、
ほとんどの場合は、

「あいつのあの幸せな状況が妬ましい、羨ましい」
「あいつだけ、なんであんないいコトがあるんだ」
「いいなあ、良い思いをしている人がいて。
   自分なんか、良いことなんてちっともないや」

とネガティブな方向に向かってしまうものが曲者だ。
少なくとも、かつて私がそうだった時もある体験から、
上記のような考えは違和感なく受け入れてしまう。

ではどうしたら良いか、ということだ。
今すぐに私の生活圏でピダハンのような文化を取り入れ、
生活をすることが理想なのかもしれないが、
急に始められるかといえば、非常に難しいだろう。
いわゆる世捨て人のようになれば良いのだろうが、
家族もあり、生活コストも掛かり、
といった現実との折り合いを見つけることが先決だろう。

また、個人の興味として(たとえ結果的に虚しいことであっても)
神や真実を探求することは捨て難い。
それは、キリストやブッダのように悟りを開いた結果、
人類に大きなプラスを与えられるのであれば、
その範囲や影響度は狭くなるかもしれないが、
私個人の人生の目的に十分に値すると考えているからだ。

そんな中で、本書からは何を学び、取り入れるか?
私なりの答えは「自分の世界観を作ること」だ。

ピダハンはむやみに外界からの刺激や文化を拒否しているわけでも、
孤立した種族として生きようとしているわけではない。
ブラジル人と交易もすれば、町の医薬品も欲しがる。

しかし、直接体験の原則であったり、無暗に物質を欲しがらないといった
ピダハン特有の文化+世界観がしっかりし、それが生活に根ざしているがために
外界からの刺激を必要最低限にしか欲しないのだと考える。

ということは、私自身の世界観を
ピダハンと同じレベルでつくり上げることが出来れば、

外界のことを無暗に羨ましがらない
=外界を自分たちとは別の世界だと認識している

ピダハンのように、
不安や恐れなどを、不必要に思わない生活が出来るのではないだろうか。

「世界観」---
・自分の生き方はこうだ、コンセプトはこうだ
・自分の人生の中で、優先すべきはこれだ
・逆に捨てるべきものはこれだ

言うは易し行うは難しで、上記については
まだまだ語れるレベルではないが、
これから試行錯誤をしながら結局は「どうやって死ぬか」を考えることになると思う。
そしてそれは、ピダハンが持つ価値観である「死ぬときは死ぬんだよ」
と(我々には)冷淡に見える赤ん坊や小さいこどもの危険を、
そのままにしておく、適者生存の死生観に行き着くのかも知れない。

投稿者 BruceLee 日時 2014年5月31日


「宗教の敗北」

人の世界観は様々であるから、1冊の本の解釈の仕方も様々で良いのだ!と半ば強引
ではあるが、私なりの本書のテーマを表現するとすれば、それは「宗教の敗北」という
事になる。宗教、いや信仰そのものが受け入れられず、それがキッカケで一人の
キリスト教伝道師が無神論者になってしまうという衝撃の事実、それが本書の隠された
テーマなのだ!これが私の解釈だ。

どういうことか?

正直、最初は本書の意図が全く分からなかった。大きく「生活」と「言語」に分かれ
ピダハンとの交流が描かれるが、テーマは未開人の生活様式?価値観の多様性?言語学
のと文法?と幾つか浮かぶものの、どれも今ひとつ響いて来ない。そもそも著者が30年
に及び彼らと関わりを持つようになった目的はキリスト教の伝道である。そのために
彼らと生活を共にし、言葉を覚えながら彼らと交流する姿が描かれるが、それと同時に
妻や子供達との愛情溢れるエピソードも多く描かれている。

しかし、最後の「結び」で明らかなように、結果的にこの本来の目的は失敗に終わり、
そればかりか、サラッと一言で書かれているが「家族は崩壊」した。キリスト教の伝道師
が無神論者になるという事は、ある意味それまでの人生を全否定する事に近い衝撃ではない
か。周囲にキリストの教えを説いて来た男が「隠れ無神論者」となり、自分が信仰してない
信仰を説き続ける後ろめたさ、それはそれでからい辛いだろうと思われるが、それを告白
した時、やはり全てが変わったしまったのだろう。このカミングアウトをゲイの告白に近い
と言ってるが、インパクト的にはそんなレベルでなく、まして周囲から批判、非難は相当
なものであった筈だ。信仰という人間の芯の部分の全否定であり、信用・信頼の総崩れ
だった筈だから。そして結果的に「家族は崩壊」した。 ピダハンにキリスト教を伝えられ
なかった事で、著者は職業と、家族と、そして人間にとって最も重要なアイディンティティ
を失ったのだ。

では何故こうなってしまったのか?それは、端的に言えばピダハンが宗教を受付なかった
からだが、突き詰めると彼らは「不安や恐れ、絶望」という概念自体を持っていなかった
からと言えるのではないか。著者の継母の自殺を話すと爆笑され、見た事もないイエス
の話を説いても無視され、挙句の果てにイエスを装い女たちに性交を迫る始末。
根本の価値観が違うため、暖簾に腕押し、糠に釘。

ただ、ここでふと考えてみる。もしそうであるならば「そもそも宗教は何故存在するのか?」
論理的に考えれば、それは「人間が不安や恐れ、絶望を持つからだ、」という結論に
至るのではないか?だから宗教のテーマは「救い」なのではないか。そして本書の最後に
こう書かれている。「そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか」
と。それはつまり宗教が不要となる文化を指してる事になる。

本書の冒頭に「この本は過去の出来事を記している」とあり、この本を(今の)妻である
「リンダ」に捧げるとある。それはジャングルで生活を共にした元妻のケレンでは無く、
本書に登場する3人の子供たちとも現在は離れ離れなのだろう。その意味では本書を世に
出す事自体、著者にとって相当勇気が要ったであろうと想像する。

そして冒頭のメッセージは「しかし人生は今と、そして未来へと続く」とある。
「過去の出来事」の「過去」とは自分がキリスト教を信仰し伝道師として周囲に影響を
与えていた頃の「昔の人生」の事であり、今と未来は、その信仰とは別れて歩み始めた
「新たな人生」という事ではなかろうか。その間には相当重く長い葛藤があったと
思われるが、本書では何も触れられてない。だからこそ勝手な想像でしかないが、
そこには過去の事実を受け入れた一人の人間の大いなる決断と行動があったであろうし、
宗教を乗り越え、人生に立ち向かう生身の人間としての、著者の前向きな姿勢と力強さ
を感るのだ。これが私なりの本書の解釈である。

投稿者 magurock 日時 2014年5月31日


『ピダハン』について

アマゾン奥地に暮らす、言語も認知世界も唯一無二な少数民族のピダハン。
そこに言語学者として、またキリスト宣教師として赴いたダニエル・L・エヴェレット氏の悪戦苦闘記である本書は、言語学の詳しいところはわからないまでも、先進国に暮らす我々の価値観を揺さぶる不思議な本だ。

読み進むうち、揺さぶられた脳みそからいろんな疑問が湧いてきた。

●幸せってなんだろう?
物質的に豊かに暮らす私たちは、毎日イライラの連続。
そして常に命の危険性にさらされているピダハンは、笑みを絶やさず暮らしている。
便利さ=幸せではないのか?
じゃあ、我々が今の生活を捨てて、ピダハンのように暮らすと幸せになれるのか?
たぶん、それは無理だろう。
生まれたときから物が溢れた便利さを味わってきた者は、なかなかそれを捨てられない。
ピダハンに尊敬の念を抱いている著者も、行ったり来たりの期間限定つきだからこそ暮らせているのではないだろうか。
一時だけ都会の刺激と便利さを楽しんだイプウーギとアホービシも、村に戻って元通りの生活を続けているのだろう。
我々は我々の、彼らは彼らの、慣れ親しんだ居心地がある。
それを乗り越えた幸せというものにはなかなか到達できないのではないか?
ならば、我々もピダハンのように、元々の居場所で笑みを絶やさず生きるすべを探していくべきなのでは?
それが一番簡単で一番難しいことなのだが。

●穏やかなのは環境のせいか?生まれつきか?
世界で一番幸せそうに暮らしているピダハン。
仲間や家族を大事にする美しい民族だ。
兄弟に自分の犬を殺されたときでさえ、深く悲しみながらも兄弟には怒りも恨みもぶつけず、相手を理解しようとする。
赦す、というのではなく、最初から兄弟に報復する、という選択肢がないようだ。
もし、酒に酔った兄弟が自分のペットを殺したら、自分はどうするだろう?
きっと怒りをあらわにするだろうし、絶対に赦せないと思う。
では、もし自分がそこで暮らしているピダハンだったら?
無理やり考えてみたところ、きっとカアプーギーのようにするだろう、と理屈では思う。
他にしようがないのだから。
でも、そんな自分がどうしても明確に想像できないでいる。
もし都会育ちのピダハンがいたとしたら、こんなときはいったいどう対処するのだろう?

●死を悟ることについて
母親が病死したため衰弱した赤ん坊をダン夫婦が看病し、快復の兆しが訪れる。
安心した矢先に、父親の手によって安楽死させられる。
このエピソードによって受ける衝撃は、医学が発達した社会での行き過ぎた延命や不妊治療、胎児の選別に違和感を感じながらも、徐々にそれらに慣れつつある我々への戒めでもあるように感じる。
たとえその赤ん坊が快復たとしても、過酷なピダハン生活の中で生き延びられるかどうかは確かに疑問だ。
とはいえ、実際のところ我々はそこまで迷い無くクールに対処できない。
迷いが無いのは、ピダハンには確信を持って死を悟る能力があるということだろう。
それはどうやって見抜くのか、それとも感じるのか、はたまた精霊が教えてくれるのか…
こういった確信を持って対処できるほどの能力を、ピダハン全員が持っているのだとしたら、そりゃあ語彙が少なくても充分コミュニケーションは図れるよなぁ、と納得。
一度ピダハンに生まれかわってこの感覚を体験してみたいものだ。

●無神論の謎
ピダハンへの敬意から、やがて宣教師であるダンも無神論者へ変わっていく。
20年の逡巡の末、カミングアウトし家族は崩壊する、とあるのだが…
ちょっと待てよ、家族も一緒にピダハンと暮らしていたのに、なぜダンだけ?
(元)奥さんの信仰は少しも揺るがなかったのか?
脳みそが柔軟な小さな頃からピダハンに馴染んで育ってきた子どもたちは、宗教についてどんな印象を抱いているのか?
両親の離婚をどう感じたのだろうか?

訳者によれば、著者の一般向けに書かれた著作はこれが初めてだそうだ。
もしダニエル・L・エヴェレット氏が再び一般向けの本を書くことがあったら、ぜひとも読んでみたい。
そこに謎解きのヒントが書かれていたら嬉しいのだが。

投稿者 gizumo 日時 2014年5月31日


「ピダハン‐“言語本能”を超える文化と世界観」を読んで

今回の本もいつも通り、自分では選ばない本であり、先月と同様に「研究者の本か・・・」とちょっとブルーに。
何しろ、やたらとカタカナが多く、しかも長音記号「-」の連続で読むのも突っかかりがち(苦手意識があります)。
アマゾンの気候や大自然も、それはそれは過酷で気分が悪くなるほど・・・。

しかし、その中でピダパンの人たちが幸せそうに暮らしていることにただただびっくり。
自分が尺度として持っている“価値観”とは大きく違い、物質的には豊かでないもののそのこと自体は全く持ってマイナス要件にはなっていない。

最低限の道具を持ち込み始めは「宣教師」としての任務のために、言語学者として村に滞在する著者だがその溶け込みぶりは驚くものがある。

前半は、家族の危機に「宣教師」らしからぬ部分も見られたが、徐々に癒され変化していく著者が興味深かった。
もっとも、最後の「家族も宗教も捨てる」ことになる大逆転は想像もできなかったが・・・。

この部分でも、物もない、宗教らしいものもない、でも十分に幸せに暮らしているというピダパンは本物だと思った。
自分を振り返ると、本当に欲しいものは何か?幸せは何か?、さらにはやりたいこと夢を見ることもできなくなっていることに気づかされた。

世界にピダパンのような人々がどれくらい残っているのか?、また、こちらの勝手で価値観を押し付け、本当は無意味な物質世界へ引き込まれる危機に際している人々は多いのだと思われる。

改めて、「幸せ」とは何かを考えさせられるきっかけとなった本であり、その答えを求めて彷徨う事となった。

投稿者 morgensonne 日時 2014年5月31日


『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観 』 を読んで


著者は、布教のためとはいえ、言葉の通じない場所へ長期にわたり、
家族全員を連れて滞在するのは、熱意、覚悟の賜物であろうと感じました。

この本を通じて、“しあわせ”とは何かを改めて考えさせられました。

  一日一日を仲間と共に楽しく過ごす
   ⇒仲間とは家族、友人、隣人、周りの動物、植物、そして精霊

そのような中で、毎日を大切に生き、ある意味で自分中心に生きているから、
ストレスがなく、楽しくも厳しく、充実した生活が送れているのでしょう。

数字や色がなく、宗教などの信仰がないというのは、
何かを抽象化する必要がないということだろうと思います。
それが、直接見聞きした事しか信じないということにつながるのでしょう。
自然の原理に従って、今を生きるために、自分のことは自分で守るという
本来の生物の世界に近い生き方をしているのだろうと思います。

これは私たち日本人には厳しい環境といえるが、合理的な世界であるでしょう。
そして、厳しいからこそ、今を大切に生き、笑顔が絶えない、
そして自立した幸福な生活ができると感じました。

彼らのことを真似するのは難しいが、将来のことを心配ばかりするのではなく、
今を大切に、NOWの現実を直視して、その時のベストを尽くすという姿勢を
大切にしたいと思いました。


また、この本を読んで、知識の幅が少し広まったような気がしました。

ありがとうございました。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2014年5月31日


本書を読んで考えた事は、幸せとはなんなのか?ピダハンが世界で一番幸せな人々だとすればそのエッセンスをどうやったら我々の人生に取り入れる事が出来るのか?ということです。
本書を読む限りでは、どう考えてもピダハンの暮らしている環境は過酷すぎて、そこで暮らしているだけでとても幸せだなんて思えないのですが、ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だと筆者は述べています。その理由はピダハンには自分達の身におこる全ての事を受けいれ、子供であっても共同体に対して責任を負うという文化があるため、精神的に自立していて、心配や不安に苛まれる事無く笑顔で幸せに暮らしているのだと思いました。
 我々が生きていく上で、ポジティブな出来事は簡単に受け入れる事は出来ても、ネガティブな出来事というのは、そう簡単に受け入れることが出来ないのが普通の状態だと思います。(しょ~おん塾生は色々な修行をし、多様な価値観を学んでいるので他の方々と比べると器の大きさかなり違うと思いますが。)それでも、自分の人生で起こるどんな出来事に対しても受け入れる気持ちを持って日々を過ごし、日々やり残しの無いよう全力で楽しむことが少しでも幸せに近づく方法なのではないかと感じました。

投稿者 tractoronly 日時 2014年5月31日


ピダハン を読んで

主に2つのことについて感じたことを書きます。

・ピダハンの生き方
ピダハンは全員楽観的に生きていて、セルフイメージが高く、自分たちの文化が最高だと感じていること。それがマラリアやアマゾンの猛獣たちからの脅威にさらされた、死と隣合わせの厳しい環境下でそれが行われているのが私には驚くべき部分でした。
これはよく言われる「悲観的に考え、楽観的に行動する」を地で行く生き方だと思いました。尤もピダハンが悲観的になることは考えにくいですが、警戒などがそれに該当するように思います。
そして、あるピダハンが死ぬとそのピダハンのことはほぼ話題にならなくなる。直接体験も突き詰めると少し寂しいような悲しいような気がしますが、それも今を重視するピダハン流の幸せに生きる方法なのかなと思ったりもします。

・ピダハンの世界
「精霊が見える」というピダハンですが、もし本当に見えているとしたら・・・
我々と比べてあまり食べない、寝ない、インドの聖人のような生活をしているし、「ビギー」「オイー」のような広大な宇宙観(?)、果ては研ぎ澄まされた5感。
もしかしてピダハンの世界はこの世とあの世の間に存在しているのではないかと思わざるを得ませんでした。
だからあの世が身近な分、死も恐れないし、宗教も必要ない。よって直接体験が尊重される。そんな風に思いを巡らせてみると面白かったです。

今回の本は興味深く読めました。
ありがとうございました。

投稿者 kenken 日時 2014年5月31日


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観を読んで

まず、命をかけて30年という長い年月をピダハン族とともに暮らし、
研究し続けたこと、そして、書籍化してくれたことにとてもありがたく思います。

この本を読むことで今まで学んできたことが根底から覆されました。

それは、脳科学者であるポール・マクリーンの仮説。
ヒトが直立二足歩行になったことで、「三つの脳」
1、人をやっつけたい、攻撃したいという本能をもった残忍な「ワニの脳」
2、自分だけは得したい、ずるく立ち回りたいというずるがしこく、狡猾な「ネズミの脳」
3、そして、1、2をコントロールしている理性的な「人の脳」
という矛盾した脳を持つという考えです。
この「3つの脳」を人がもつことで、
「ワニの脳」、「ネズミの脳」である欲望や煩悩を抑えるため、理性のコントロールとの矛盾をどうしていけばよいかを考えていくことで、宗教が生まれました。
そして、文化が出来上がってきたと学んでました。
文化の発展が、現在の私たちの生活基盤を作り、
恩恵を授かっていると思っていました。


しかし、ピダハンには、この考えが当てはまらない。
宗教や信仰を持っていないのです。
宗教が広まるためには「物語」が必要になるのに、その「物語」を持たず、そして、面白いことに「物語」を伝えても、全く受け入れず。


宗教が生まれたことで文化が出来上がるというのは、
どうも違っていたようです。

ピダハンは、
次の日の食事を考えない。
自分たちが知らないことは心配しない。
他者の知識や回答を欲しがらない。
見えないものは信じない。

といった、価値観を持ち、
あるがままに持つもの(考え)を極力少なく、
「今」にのみ注力した生活を送っています。

このような価値観で、現存まで生き残り続けています。
文化の発展は、見受けられませんが、宗教を介さずに、文化を作り上げたわけです。

私たちは、仮説をもとに、そうだろうという考えで生きています。
宗教を介さなくても、文化が出来上がるというのは、
はじめからそんなことはないと捉えていました。

この部分は、大きな学びとなりました。


今後の生活として、大きなヒントになったことがあります。
次の日の食事を考えないという価値観は、
「継続する」ためのヒントになりました。
恐らく、ピダハンにとっては、
次の一日がくれば、その一日は、その日生まれてきたかのような
全く新しい一日と捉えているのかと思いました。

全く新しい一日であるから、その日の食事をするために
狩りに出かける。これは新鮮味があるから延々と繰り返していけるのでは、と思いました。
これは「継続」のポイントとして、やることに対して、
その日生まれてきたかのような全く新しい一日と捉えて
やることが新鮮味を失わずに続けるヒントになるなぁと思いました。

投稿者 jawakuma 日時 2014年5月31日


ピダハンを読んで

●左右がない民族
そんな原住民どうやってコミュニケーションをしているのだろうか?数の概念、色を表す名詞もないってサルかよ?こういった話にありがちな、“でも自然の中で幸せに暮らしていますよ~”というウルルン的な話なのだろうと高を括って本を開いた。
プロテスタント系のキリスト教の伝道を目的にピダハンとともにアマゾンのジャングルで暮らすこととなったダン。まったく言葉が通じない地域への伝道がいかに行われているのかを初めて知った。現在もそのように伝道のために人生を捧げている人がいると思うと胸を打たれる。その地域に赴きまずは言葉をおぼえ、文法を正しく理解し、辞書を作れるくらいまでのレベルに高めた後、新約聖書の翻訳をする。ピダハンのように文字がない民族へは翻訳された言葉をテープに吹き込んで聞かせる。気の遠くなるような作業だ。実際著者のダンは彼の半生をこのピダハンへの伝道に費やした挙句、伝道は果たせなかったうえ、無神論者へ改心させられ、伝道者を両親に持つ妻と家族と子供と別れることとなる・・・。それでもダンは「失うことができないもの」を得たのだという。

●ピダハンは精霊を認識できる
私がこの本であらためて知らしめられたのは、「その人の認識により世界の見え方は全く異なる」と
いうことだ。しょ~おん先生から何度となく聞かされている言葉だ。どういう知識、認識、価値観を持っているかによって、目の前に映る景色=そこから得られる情報はまったく異なるのである。結局、人間は自分が観たいものしか見えていないのだ。同じ景色を見ても世界の見え方、捉え方がまるでちがう。ピダハンには見えている精霊がダンと家族にはまったく認識できないということは本当に起こり得ることなのだ。私たちの日常生活でも程度の差こそあれ同様の状況が起こっているのである。どういう知識をインストールするかが非常に重要だとあらためて認識することができた。

●文化、価値観、が最上位の概念
この言葉もメルマガなどで何度も紹介されている言葉だ。人が話す内容や思考はその言語と影響している文化の範疇を出ることはできないのだ。また本書では言語学の観点から、言語に対する文化の影響、認知と文法の関係性についても掘り下げられていた。言葉が文化を表すということが専門的に書かれていたが、この章は理解しながら読むとかなりの時間がかかってしまった。たまにはこういった専門的な文章を読むのもよい頭の体操になった。

●言語を習得するということ
言語を習得するということはどういうことなのだろうか?サラダを食べるダンにピダハンが語り掛けた「ピダハンは葉っぱをたべない。だからお前はピダハン語が上手くならないんだ」という言葉は、なるほどと思わされた。ことわざでいうならば「郷に入っては郷に従え」だが言語の習得にもこれは当てはまるのかと。日本はかなり欧米化しているため、英語の習得ではそこまで意識はしないが、中国語などの馴染みのない文化圏の言語習得はその場へ行かないと本当の理解はできないのだろうということが分かった。以前の課題図書だった、『累犯障害者』でろうあ者が語っていた健常者は手話を話せるようにならない、健常者が使う手話はろうあ者の手話とは全くの別物だということも思い出された、つまり本来の言語習得のためにはその環境に身をおくことが大切だということだ。これはたまたま先週TVで見た、クリス・ハートがj‐POPを歌うために、雪景色や沖縄をわざわざ訪れているということもオーバーラップした。言語としては理解できるが歌として気持ちを込めて歌うにはその場所に行き、身体をもって感じないことには歌声に心が乗らないのだろう。その番組では何にでもテリヤキソースをかけるだけで和食の看板を出す、一度も日本を訪れたことのないアメリカの日本食店のことがひきあいに出されていた。何事も本物を求めるならばフィールドワークは切っても切れないのだ。よく考えるとジャンルはまるで異なるがこれで3か月連続フィールドワークの課題図書だった。

今月もよい本をありがとうございました。

投稿者 kikukikuyuyu 日時 2014年5月31日


この書は「古きピダハンの墓碑銘」となるか。

本書を読み進め、先ず思い浮かべたのが「逝きし世の面影」の序章にある、明治初頭の日本に訪れたチェンバレンの箴言であった。彼は「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活総体のありようである。」とし、日本近代が前代の滅亡の上にうち立てられたのだと指摘しつつ「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。」と自著「日本事物誌」を、古き良き日本の「墓碑銘」として記した。
自分たちの文明の決定的な優位性について揺るぎない確信を抱くが、西欧文明とまったく基準を異にする、極東の島国の文明ー個人が共同体のために犠牲になる日本ーで、男も女もこどももみんな幸福で満足そうに見える、驚くべき事実
白人から見た他人種・それも未知な相手への印象として、明治初頭までの日本人とピダハンは環境も暮らしぶりこそ大きく異なるが、「競い合うように幸せそうな雰囲気を醸し出す」という一点に関しては、共通して自らの文化・価値観に対して揺るぎない愛着と誇りを保っている証左であろう。

著者はプロテスタントの見本の様に、“未開の部族”(作中での表現は“先住民”としているが)を教化するという目的のために、困難も厭わずにピダハン達の生きるアマゾンの奥地へ。数ある言語の中でもひと際特殊といわれるピダハン語の壁も、家族の危機も乗り越え、ただひたすら聖書をピダハン語に翻訳しようと生活も苦楽もピダハン達と共にして彼等の風俗の理解に努めるわけだが…
ピダハン達の風俗・文化を余すところなく紹介する下りでは、ピダハン達の生活にも著者の鋭い観察眼に対しても、私自身新鮮な驚きを禁じ得なかった。他の異なる文明に対して自らの価値観で優劣をつける愚を注意深く避けようとする著者の真摯な努力と、その過ぎ去った日々へピダハンのようにサラリと処して、“今”を生き抜いてることがひしひしと伝わって来る筆致には脱帽である。

本書を読み、現代の深刻な危機もそう悲観するとこは無いと思えたのが大きな収穫である(かと言って、楽観も出来ないのだが…それは何時の世も変わらないのだろう)。
とある本のあとがきに、邪悪なものを“世界を単一に塗りつぶそうとすること”と定義されてるのを読み、正鵠を射た一言であると感じた。「グローバリズム」という衣を纏い、市場原理主義を振りかざし伝統文化を駆逐して世界を席巻しようとする金融資本支配体制は、現代人を捕らえ続ける自我のマトリックスと大の仲良し♫いつも“こうあらねばならぬ”的な価値観を押し付け、巧妙に西欧文明化された世界の人々を金と情報で支配しているわけであるが、ピダハンの直接体験の原則と自分たちの必要の無い文明は受け付けないという逞しさに見習うべきところを感じた。
西欧が「破壊する力」、ピダハンを「変わらない強さ」とすると、日本には「作り変える力」があるではないか!と勇気付けられたのである。遠藤周作氏がかつて「沈黙」の中で伴天連の苦悩として「日本人には正しく“神”が伝わらない」と言わしめたように、明治以降西洋化した食文化でカレーパンなんて作ってさも当たり前のように食してみたり、我々日本人には物質と精神のバランスを保ち、独自に日本化する力があったはず。
本書から伝統という民族の“集合知”の力を思い知らされた次第である。ピダハンの振り見て、大和魂を磨こうと。

今月も良書に触れる機会を下さって、ありがとうございました!

投稿者 chaccha64 日時 2014年6月1日


『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』を読んで

ピダハン語、特殊な言語である。数がない、色がない、文法にはリカージョンがない等、他の言語には普通あるものがない。それは、ピダハンが、その生活にそれらを必要としていないということ。
ピダハンにも心配事はあるはずで、アマゾンの生活は大変で決して便利だとは思えないし、獰猛な爬虫類はいるし、命を脅かす病気もある。それなのに、今を楽しんでいるというのが感じられる。すごくシンプルに生きている。
これは共同体の文化、人生観がそうさせていると思われます。文化=言語、どちらが先なのかはよくわかりませんが、言葉(文化)にないものは、考えることもしない(できない)ということ。このようなことができている、文化として成り立っていることに、驚きを感じます。
通常、別の文化と接触すると、その影響を受け、自分の良かった文化をなくしてしまい、良い文化だけでなく悪い文化を受け入れてしまいます。ピダハンには、それを冷静に必要なものと不要なものを判断し、それを実践することができる強さがあります。この原因が、文法にリカージョンがない、単文である等のピダハン語のシンプルさにあるという気がします。言語が考え方をあらわしているということです。そのため、生活は貧しそうですが、幸せそうです。
ピダハンの生活は、イエスが言った「今日を思い煩うなかれ」ということを、そのまま実践しています。それが、伝道が失敗することにつながったのであり、著者が無神論へ導かれた原因だと思います。

投稿者 koro 日時 2014年6月1日


本人が直接体験した事でないと話す事が出来ない言語構造によって、
思考や意識までもが体験した事のみに限定されている。

”文化や価値観”が、使用する”言語”によって作られた、
いや、むしろ”言語”が、”文化や価値観”によって作られた?
とにかく”文化や価値観”と”言語”が密接な関係にあるという事を再認識した。

思考は言語の限界を超えられない、取り組む課題によっては有利になったり、不利になったりするという話は、
個人的にはソフトウェア開発のプログラミングになぞらえると理解しやすかった。
ソフトウェアを作る際は、開発言語が限定されたプラットフォームでない限り、
基本的にソースコードは、どのプログラミング言語で書いても問題は無いのだけれど、
組込みソフトであればC言語、WindowsアプリであればC#、WEBアプリであればPHPなど、
開発対象によって言語を使い分けて、効率的に開発を行うのと同じ事なのだと思う。

単純な言語を使う事によって、今現在を生きている人間と、
応用力の高い言語を使う事によって、過去を悔やみ、未来を思い煩う人間、
”悟り”というのは、使用している言語に思考を縛られていない状態なのかもしれない。

ピダハンを改宗させるつもりで現地に入ったダニエルとケレン。
ダニエルのみが最終的にある意味、ピダハンに改宗させられてしまったというのは、
ダニエルのみがピダハンの言語に本気で向き合った証拠なのだと思う。

投稿者 takeda 日時 2014年6月1日


ピダハン をよんで

著者が、布教活動をピダハンにするために、アマゾンの中にピダハンと共に何年も生活するのだが、ピダハンの考え方・文化・行動に影響され、最終的には、自分は隠れ無神論者だと悟り、長年悩んだ末、周囲に公表したが、結果家族と離ればなれになってしまった、というストーリーなのだが、

ピダハンのコミュニケーションについて。
・名前について
 雰囲気が似ている人から、同じ名前を採ったり、精霊から名前をもらったりする。
 あまりこだわりは無い感じがしました。

・死について。
 病気になっても生きる活力があれは、助けるが、ピダハンがみる手遅れの状態・死に掛けの状態では、 手助けはない。
 ここは、死に掛けの状態だと、生きることではなく、死んで楽にさせるという価値観の方が上回ってい て驚きました。私が考える、生きていることのほうが良いという考えが圧倒的に多数であり、身内に関 してはことさらに高確率で生きている状態がベストと考えると思うが、あらためて、それで本当によい のか?という疑問があるが、私は自分の価値観ではなく、やはり本人の意思・生きたいのか?死にたい のか?を絶対視することのほうがよいと思いました。

・責任について。
 赤ん坊(乳のみ乳幼児)は母親に保護されているが、次の出産が始まった瞬間から、一人前の人間・何 歳であっても同等とみなされる。3歳であっても、乳離れしたら大人と同等の行動をしなければならな い。
 日本では、18歳になるまで、子供の責任は親の責任という考え方が通例だと思われるが、これは低収 入かつ親としての低い意識だと、ピダハンと同じ、またそれ以下になる様に思えます。日本とアマゾン を比べるのは、あまりにも背景が違いすぎる為、比較することは出来ませんが、違いのひとつに、たと えばナイフ、日本では持っているだけですぐに怒られたり・とりあげられますが、ピダハンの母親達は
 すぐにはとりあげず怒らず、怪我をしたりするまで、放置するという考えには驚きました。
 何事にも経験、ということですが、これには、言葉として未来をあらわす言葉や仮定を表すような言葉
 を使用していないあたりが関係しているのでは?と一つ思いました。

・結婚について
 何事も自然の流れにそって、しきたりも書類もなく、さりげなくおこなわれている。なんとなく、と言 う言葉がちょうど当てはまるような感じがします。

・精霊について
 ピダハンにとって、どこにでもいる様な存在。上に見るような存在とは、少し違っていて、自分の仲間 のような感じに捕らえているような感じ。
 自分的には、ピダハンの宗教のような気がしました。


読み終わって、自分の責任は自分でもつ、というところは、同感しましたが、やはり他のところは同感しずらいところがありました。自分にとって、笑って楽しそうにしているのは、すごくよいところだと思いましたが、それは幸せの十分条件にはならない、と感じているので、ピダハンの生き方も勉強になりますが、よいところを自分の生活に取り入れ、自分なりの納得できる生を遂げたいと、強く思わされました。

投稿者 wapooh 日時 2014年6月1日


201405【ピダハン】を読んで
 本書の内容が多岐にわたりすぎ、エピソード一つ一つが深く濃く興味深すぎて、まとまりのない感想文しか書けませんでした。
始めは、ダンと家族がコミュニケーションおよび生活環境に関してピダハン社会に溶け込む過程と困難が紹介され、読みながら、宣教のプロセスを知り、『神を信じることが世界中の人々を幸せにする』信仰による使命感によって、これほどの苦労を厭わず人を駆り立たせるキリスト教の凄さと人間の強さを改めて感じた。ザビエルから始まる戦国時代の日本の中においても、他国においても、個人のレベルでは、宣教師は自分たちの暮らしとはかけ離れ、自然や環境の異なる酷地の中を命がけで、普及活動を行ってきたのだ。西洋文化のシステム化(マニュアル化?)の周到な普遍化も凄い、一通り効率よく段取りし、任地での環境の中に早期に自らを順応させ、また、沢山の食料や資材、ライフラインを運びこむ。これらパイプラインは被布教者に対して、物質による人間の欲望をかりたて、憧れや満足から時に、洗礼への扉を開く道具になることもあるのだった。宣教活動では、宣教師は、現地の言語を調査し人々の言葉を理解して、聖書を翻訳する。言語学者としての立場も有している。彼らの言葉の聖書で理解させ、信心へと導く。だが、ピダハンを取り巻くアマゾンの自然とピダハンの文化や彼らの思想の前提や人生への幸福感とダンのそれらとの相違が、ダンの使命の障壁となる。単にピダハンの言語を理解しコミュニケーションを成り立たせ、翻訳した聖書を語っても、キリスト教は受容れてもらえず、ピダハンはダンの持ち物全てに憧れるようなこともなかった。キリスト教以外の周辺の民族カボクロに対しても同様のため、ピダハン文化は独自に守られてきた強固さ。
「自分で自分の始末を付けられないものは、生き延びることができない」自然の厳しさの成り行きだけではなく、村の人々の手によっても寿命を迎えるピダハン社会の中で、「死はいつでもやってくる」「一人で死ぬことも、悲しみもあるが、本人の生命力の限度が過ぎれば、諦めて、またピダハン社会ルールとして受容れなければならないときもある」ため、死の不安に対して、現代人のようにあがくことが感じられにくい。宗教のよりどころの一部である死や病気と物質の貧しさに対する強い不安が小さく、現実に満足して運命と受容れているならば、外界からの刺激に対して反応も憧れも薄く、結果宗教も文明もピダハンの村に丸ごと取り入れられることはないのではないか。自分たちで道具を作り出そうともしない。種子島で銃を見て、銃を作り、黒船を見て造船し、コンクリの建物を作り、車を製造し、着物を洋服に変えたり、箸をフォークとスプーンに持ち替えたり、肉食やドレッシングがけサラダを食べるなど、文化と経済を発展させた日本人の事情とは違う。これまで自分が描いていた「人間なら西洋式現代社会に憧れて当然」から得られる幸せと、彼らの幸せは異なることをダンの経験を通して現実話で知ると軽くショックを受ける。
後半章では、言語研究から文化、思想について語られる。『言語とは何か』『言語とは文化である』『話者の世界観がその人の言語を形成する』etc。言語とは意味と文法の成り立ち、また文法は文化から生じる。よって、多言語を習得するにはその言語圏と人々の文化を知らなくてはならない。文化には限界があり、認識は限界内の世界しか見えない。と。(たとえ話の西洋文化(西洋宗教)によって、相対性理論ができた、チョムスキーの文法理論ができたが本質ではない、と言うのも印象的だった。いずれ「思想実験」による物。だが、言語を用いて理論的に科学を説明する価値ある研究文献である。)なんとなく、この課題図書や良書リストの根底に通じる気がした。
ここ3ヶ月、課題図書では「フィールド研究」による論文に纏わる著作を読んできた。その中で感じることは、各著者の調査対象への広範な情報吸収力、人々への深く愛情深い理解力と環境への溶け込み力がある。「なんとかなる」と言いながら、丸ごと身を投じる姿勢。セミナーでよく自分の世界観にないことを学ぶ際は『エポケー』と言われるが、こういう姿勢なのだろうか。
ダンの言語への歴史的解釈比較などの考察を読んでいると、「表紙のカラー写真も、本文中のモノクロの写真もどれも何故だか美しさを感じてきたが、アマゾンの自然を感じ、森林のぬかるみや、想像しても仕切れない虫や爬虫類、病原菌の恐怖を思い、一冊を通してまるでアマゾンをずっと旅をしたような気分に浸った物の、本文を追いながら想像しているその世界は、私がテレビの映像や自分の経験の中で得た限界のある感覚から味わっている物なのだ」と、まざまざと考えさせられる。では自分は、彼らのどこを投影すればいいのだろうと考えながら、結論も得ず最後のページまで行き着いてしまった。この塾の世界を学ぶために浸れるのに必要なもの。素直に聞く、それには「心が大切なのだ」と、聞いた記憶もあるのだが、分かっていない。

 読後、明日からの自分の生活にどう活かすか、考えてみた。サラリーマンとして活動していくために必要なこと、市場は国内外にあるのだから、自分の世界を広げるために、認識する世界を広くするために、現地に足を運びたいが早々出来ないから、まずは本を読もう、となる。幸福な人生のためには、ピダハンのように今に目を向けて、見えない不安を駆り立てることなく、むやみやたらに物質の豊かさを追わず、さりとて異文化に好奇心を持ちまわりを楽しみの目で見て、自分のことは自分でけりが着けられる意識で自立して物事に取り組もう、家族や仲間とのふれあいを大事にし、「笑顔」の時間を多くしよう、漠然とした手段しか思いつかない。
ダンの布教をはねのけたピダハンの独自の世界、満足感、これらに諸手を挙げて賛同することは、現代のこの日本で生きていては出来ない。ピダハンらの少数民族にない、現代社会の我々の複雑な言語。こちらが優れている訳でもなく、複雑で広範さをもってピダハンの世界を全て説明することも出来ないが、この複雑さゆえに、ダンはピダハンの世界を詳細に、読者に開示することが可能であり、翻訳されて、私は日本語で学ぶことができるのは一つの幸せかもと感じてもいる。
 最後に、「本好きを語りながら『みすず書房』を知らないなんて」と言うのは、ある日のしょうおんさんのメルマガに書いてあった一言だ。その他にも指摘はいくつもあったが、『みすず書房』の一語がずっと頭の隅で引っかかっていた。Amazonから、届いた荷を解き、この本を手に取った初めての思いは、だから「おぉ!これがみすず書房!」というどうでもいいことだったのだが、みすず書房のこの一冊は、とても読み応えのある一冊でした。今月も読書の機会を頂き有難うございました。