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第31回目(2014年9月)の課題本


9月課題図書

 

アンベードカルの生涯


あのガンジーに「あなたは間違っている」と言い切ったインドの政治家の生涯からあ
なたは何を感じ取りますか。
しかもこの方、不可触民というスゴい差別を受けて育ったんですよね。こっちの文化
的、歴史的側面も強烈です。

【しょ~おんコメント】

9月優秀賞


今月はみなさん(と言ってもカキコした人だけですが)文章が練られていました。

単純な「良い、悪い」という論で終わりにせず、しっかりと思考した形跡がみな

さんに見られて読んでいて楽しくなりました。


こういう文章をビジネスの場で書けるようになると、おのずと評価は上がってく

ると思います。その分、書いてくれた人がガクッと減ったのは残念でしたがね。


文章というのは書けば書くほど、場数を踏めば踏むほど出来が良くなって来るモ

ノですから、課題図書を読んだのならチャンとアウトプットをしなきゃダメです

よ。特に速読編セミナーを受講した人はやって下さい。やらないと頭は良くなり

ませんから。頭が良くならなければ速読は出来るようになりません。これはひと

つの鎖のようなモノなんですからね。


という事で、今回はどなたに差し上げても良いようなレベルだったのですが、熟

慮の結果、sakurouさんに差し上げる事にしました。

理由はいくつもあるんですが、アンベードカルの改宗について言及したところと、

その背景、理由を推察したところがポイントでした。

【頂いたコメント】

投稿者 munetaku 日時 2014年9月22日


■ガンジーは不可触民
ガンジーとアンベードカルの違いはなんだろうか?
思いついたのは現実主義と理想主義。
これはヒンズー教(カースト制度)に対する考え方に現れている。

アンベードカルはヒンズー教の有り方そのものを問う。
ヒンズー教の教義であるカースト制度自体を否定し、本質的に何が正しいかを追求した。
そのためには仏教に改宗することさえ厭わない意思の強さを持った理想主義者である。

一方、ガンジーは不平等に異を唱えるが、カースト制度自体は認めてしまう。
ヒンズー教への信仰心からヒンズー教の教義を変えたくないのかもしれないが、
カースト制度そのものをいきなりなくすことは困難であるので、実現できそうな不平等撤廃を
訴えたのではないか、とも思える。
そこにあるのは、「まあしょうがない」というような諦めであり、本質を疑ったり変えようとしない
不可触民的な精神なのではないだろうか。

■日本に根付く仏教
アンベードカルは仏教の友愛を礼賛していた。
そこで感じたのは、普段意識していないが日本人には仏教が根付いていること。
東北大震災において互いに助けあう姿、他国が震災に見舞われたときの援助などは
まさに友愛そのものであり、仏教の教えが日本人に深く根付いているからと考える。
これは食事作法(例えば、箸渡し)や普段何気なく使っている言葉(例えば、極楽)などの
日常生活にも垣間見える。
ふとこの事実に気付き、日本人であることを誇りに思うと同時に、仏教の素晴らしさを感じ、
仏教を勉強してみようかと思った。

■平等社会の不可触民
アンベードカルが不可触民に対して、不可触民だからしょうがないと考えるのはやめなさい、
服装や意識を変えなさい、と説き続ける部分を読んで感じたのは、
自分達も同じような考え方をしているのではないか、ということだった。

カースト制度は生まれながらにして存在する身分制度であり、決して変えられないもの、
という考え方が不可触民には染み付いてしまっている。
身分制度に疑問を持ったとしても自分の力ではどうにもならない、どうしようもない、という諦めがある。
転じて、自分達はどうだろうか。憲法により平等が謳われており、そこには身分制度や差別はない。
また、日本は民主主義であり国民の意思によって政治は変えられる。

しかし、実際は?
身分による格差はないが、収入の格差は広がり続け、将来への希望を持てず、職につけない人や
自ら望んで働くことを放棄している人が増えている。
さらに、親の収入や学歴が子の収入や学歴に影響を与える調査結果も発表されており、
資本主義による格差が生じている。
本来は、国家がこの格差を埋めるべく努力することが理想なのだろうが
日本においては、国民は政治に対する不信感を募らせ、政治なんて変えることは出来ない、
投票に行っても無駄という若者は多く、無力感を抱えている。
そこで生じる、どうせ政治は変わらない、格差はどうにもらならない、仕事についてもしょうがない、
という諦めは不可触民の精神構造と同様ではないだろうか。
平等が謳われている社会においてそのような精神構造に陥っているのは悲しいことである。

日常的に自分もそういった精神状態になっていると気付かされる。
政治で決まったから、会社の上層部が決めたことだから、などと諦めてしまう。
しかし、個人の声で簡単に変わることではないが、声をあげなければ変わらないし
気持ちの上で諦めが入ってしまっては変わるものも変わらない。
この本を読んで改めて自分の持っている諦めの気持ちが浮き彫りになった。

■最後に。
アンベードカルの言葉にあった、「教育より品性」が心に残った。
カースト制度も現状の日本も、トップに立つ人達の品性が足りないからこそ
自分達の利権を守ることに汲々として社会を良くしようという意思が見られない。
どんなに知識が高くても品性がマイナスに働いたら意味がない、というのはしょうおんさんも仰っていることである。

小泉純一郎が登場した時は日本国民は政治改革に非常に期待したが、尻すぼみで終わってしまった。
アンベードカルのような本物のヒーローはそう簡単には現れないのだからいつまでもヒーローを待っていてはいけない。
投票率が高く政治意識が高い国は、個人が政治に対して真剣に向き合っており、
自分達の力で政治や社会は変えられるとの信念がある。
結局、国家や社会を成すのは個人であり、個人が変わらないことにはどんなヒーローが現れても社会が変わることはない。
世界を変えるにはまず自分から、を再確認した本でした。
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投稿者 jorryjorry55 日時 2014年9月25日


「アンベードカルの生涯」を読んで
カースト制度というのは勿論知っていて、ハイカーストとローカーストでは差別が甚だしいというのも知っていましたが、不可触民という言葉は恥ずかしながら初めて知りました。
その不可触民であったアンベードカルはどんな気持ちで成長していったのでしょうか。
同じ人間なのに、物凄く忌み嫌われ、人として扱ってもらえない環境というのが想像出来ないのですが、それでも決して負ける事なく、ひるむ事なく、自分で道を切り開きガンジーとも対決してインドの独立に多大なる貢献をした事には非常に感銘を受けました。

ここまではありきたりの感想に過ぎませんが、個人的に、この本を読んで思い出した事があります。今の嫁さんとは違いますが、当時付き合っていた人とそろそろ結婚しようと思い、私の親に紹介したところ、母親が特に否定的。何かと難癖を付けて首を縦に振らず。当時の私は今以上にヘタレだったため、駆け落ちまで至らずその話は流れてしまいました。その時、親に言われてショックだったのが、その人の親の職業が肉屋なのが気に入らないと。どういう事か当時の私は理解出来なかったのですが、要は昔は肉屋をやる人はえた、ひにん(最近は漢字表記しないんですね)がやっていたので、家柄が釣り合わないと。今時(20年程前ですが)そんなことを言う人がいるとは、ましてや身内でそんなことを言う人がいるとは非常にショックだった事を覚えています。ふと、その事を思い出し、本を読みながらますます怒りのエネルギーをガンジーに向けるようになりました。そのため、完全に色眼鏡がかかった状態ですが、この本を読むまではガンジーは偉人との認識を持っていましたが、実際はそんな事はなく、自分の面子のみを重視するただのええかっこしいにすぎない小物であった事に衝撃を受けました。何故故にこんなにも神格化されているのか理解に苦しみます。

同じ人間なのに何故こうも差別というのはおこるのでしょうか。肌の色の違い、宗教の違い、生まれた家、職業の違い、その他色々とあるでしょうが、その人が他人と違うのは当たり前の事。どうしてそういった当たり前の事が受け入れられないのか。この地球上で人間が一番そういった意味で醜いのではないだろうか。

私が苦境に立たされた場合、アンベードカルの精神を思い出し、彼に比べたらずっと恵まれた状況である事を思い出し、負けずに立ち向かっていけたら良いなと思った次第です。

ありがとうございます。

投稿者 t1100967 日時 2014年9月28日


■差別とは何か。

アンベードカルがその生涯を賭して戦った”差別”とは、いったい何なのだろうか。
そんなことをこの本を読んで考えてみた。

ちょっと考えてみると、世の中には差別がありふれている。

学校での差別は「いじめ」として、ごくごくありふれたものである。
ちょっと身なりが違う、話し方が違う、考え方が違う、
というだけで、簡単に差別が発生する。

会社でも差別はよくあることである。
部署の違い、年齢の違い、入社年度の違い、中途かプロパーか、正社員か派遣か、などなど、
ありとあらゆる違いで差別は発生する。

性別、出身、血液型、星座から、
宗教、支持政党、はたまた応援している野球チームなどでも、
簡単に差別的な考えが生まれる。

例えば、「あいつはB型だから、ちょっとわがままなんだよね」とか、
「女性はすぐ感情的になるからなあ」とか、
「○○だから、××なのだ(だから嫌いだ)」という決め付けは、
全て差別に該当すると思う。

ある人間と人間における、何らかの違いを、一方が劣ったものだとみなすこと。
これが差別の最も根本ではないだろうか。

ここで重要なのは、
一対一で面と向かって発言する場合は、
それは対立であり、差別にはならない、ということである。

必ず差別というのは、集団対集団、または集団対個人という構図になる。

また、多くの場合、差別される側がマイノリティである。


ある集団において、AさんがBさんのことを嫌いだと感じる。
ここまでは単なる感情である。

しかし、Aさんがその嫌いだという感情をCさんに話し、共感を得たとする。
その時点で、AさんCさん対Bさんという構図での差別が生じる。

自分だけが嫌っているのではなく、
他の人も同様に嫌っていると確認することで、
その人が自分達よりも劣っていることが立証できたと、
勘違いをするのだと思われる。

要するに差別とは、「共有された嫌悪感情」であると思う。


ではなぜこのようなことが起こるのであろうか。

恐らく”気分が良い”からであろう。
他人よりも自分が上であると感じられるのが、
人間にとって非常に快楽だからである。

これを為政者が利用し、民衆の不満の捌け口として、
制度的に被差別階層を設けているのは周知の事実である。
インドの不可触民もこれにあたる。


さて、差別を無くすためにはどうすれば良いだろうか?

一つは、他人のことを評価しないということである。
他人に対して何らかの価値判断をするから差別が起こるのである。

次に、個人的な嫌悪感情を他人に話さないということである。
感情を無くすのが難しければ、それを自分の胸のうちにしまっておけば、
それ以上発展せず、差別にはならない。

以上。

投稿者 dukka23 日時 2014年9月30日


【 アンベードカルの生涯を読んで】

アンベードカルとガンジーでは白人との戦い方が根本から異なる。

ガンジーは自分が白人から受けた有色人種差別と戦っている。
インドを独立させ、成長させることで、対等な一つの国、
その国の人間として認めさせることで有色人種の差別を無くそうとした。

一方、アンベードカルは、アーリア人の侵略から続く、
「白人による有色人種の支配」と戦ったと私は理解する。

もちろん不可触民差別の撤廃も頭にはあっただろうが、
不可触民代表を選ぶ分離選挙を最後まで主張し、
白人であるアーリア人が作ったカースト制度自体を
一度壊すことを頑なに主張していたことから、
何のための差別撤廃かを最後まで拘ったように思える。

差別撤廃の目的は単に不可触民だけを見ていたのではない。
アーリア人の作った「人為的な」差別である支配構造である
カースト制度を見ていたと思う。
白人が作った制度に心を支配されているインド国民全体を目覚めさせ、
何千年も続く、「知らず知らずに白人支配されている」構造を
リセットすることを最終目標に、インド独立のあるべき姿を描き、
主張し続けたのではないだろうか。

その意味では、目の前の有色人種差別としか戦っていない
ガンジーは視座が一段低い。
言うならば、ガンジーもアーリア人の作ったカースト制度に
支配されているため、カースト内での既得権益が捨てられない。

このようなカースト制度を残したままインドを独立させても、
白人の作った土俵で戦うことには変わりない。

それであれば、白人の作ったものはすべての壊した上で、
白人の持ち得ない思想であり理想=「支配、被支配のない国家・社会」
でもって戦おうとしたのではないか。

そのような社会が、
実は、長らく続く白人の作った社会構造を
ひっくり返すだけの力があると信じていたのではないだろうか。

それであれば、日本の教科書に
アンベードカルが載っていないことも分かる。

差別民の解放なぞ、日教組が好きそうなテーマではある。
しかし被支配者層が二度と立ち上がらないよう、
大東亜戦争などと同様にしっかりと米国が情報制限をかけて掲載が
できないようにしているのであろうか。

その意味では、裕福で差別主義者であったガンジーを、
あえてみすぼらしい姿の写真を載せ、
非暴力を訴えた聖者として扱う方がよほど都合が良いのだろう。

こういったインド人自身(カースト教徒)が
「カースト制度はインド人が作った」と思っていることを
すべて壊そうという清々しいほどの理想を持ち続けたアンベードカルは、
最後の最後で死の断食をおこなうガンジーを許し、包み込んだ。

不可触民の真の解放はアーリア人到来以前に
戻らなければ意味がないという真実を見抜く聡明さと同時に、
最後の最後には「包み込む愛情」を持つアンベードカルだからこそ、
これだけのことを成し遂げ、人々がついて行ったのかと思う。

投稿者 sumio 日時 2014年9月30日


アンベードカルの生涯  ダナンジャイ・キール 山際素男訳 感想 

のどが渇いても自分の意志で水を飲むことができないなんて。
不可触民制は、2500年以上に渡る差別。
25世紀以上も続いていた制度は、疑問持たずに容認しがちになります。

アンベードカル氏の知の力と、学問がそれ自体内包する批判的精神が、
絶望的な25世紀以上続く悪弊を粉砕しました。

到達した彼のレベルは、各国の閣僚、トップクラスの面々と堂々と渡り合い、
相手を感服させてしまう程。

超人的克己奮闘、学習の姿勢。
頭脳明晰、博学、知性の使い方とはこのことを言うのでしょう。

アンベードカル氏の精神力、意志の力。
少年時代からひどい差別の環境に直面していたので、めげたり、くじけたりはしません。

それぞれの立場立場の勝手な言い分を、ロジックで説き伏せ、
なで切りにするアンベードカル氏の政敵との攻防、やりとりの鮮やかさ。

・宗教は、まず人々の繁栄と向上、次いで救済。
・自立、自尊、自覚のみが自らを救う道。
・不可触民制は、奴隷制の別名。
・政治の究極的目的は、基本的人権を擁護すること。

アンベードカル氏の存在そのものが、天の采配、奇跡です。
ここまでできたんだ、できるんだ、と思いました。

・人間は誰でも身分に関係なく、衣食住の権利を生まれながらにして持っているもの。
まともな生活を送ろうと思うなら最大の助けは、”自立自存”の精神であることを忘れてはいけません。

・人間は遅かれ早かれいつかは死ぬものです。
だからこそ、われわれは命を賭してでも自尊の思想を燃やし、人生を価値あるものとするため戦わねばならないのです。

まさに、一人の人間の大英雄譚です。

ありがとうございました。

投稿者 penandmusic 日時 2014年9月30日


 本書を読んだが、正直、詳細なことはわからなかった。「アンベードカルは○○に反対した」「アンベードカルは、不可触民のために○○と言った」などの表現はあるが、その理由が詳しく語られておらず、ストンと腹に落ちてこない。
 アンベードカルの意志の強さはよくわかった。彼をここまで動かしたものは、使命感、同士愛、そして自国および自己の宗教に対する反発とその裏腹にある悲しみだろう。
 そこを掘り下げて書くこともできるが、現代社会に通じる「差別」について書いてみたいと思う。
近代社会でも根拠のない差別がある。本書に書かれている不可触民ほどひどい例はないが、黒人差別、女性差別、障害による差別、病気による差別などだ。
 いずれも法整備はされ、その後改正も行われているが、いまだに差別は続いている。
 女性差別も、いわゆる男女雇用機会均等法が1986年に施行され、わたしが就職した後の1997年に全面改正をされたものの、いまだに女性差別はなくなっていない。体の良い寿退社の話もよく聞くし、女性役職者比率の世界との比率を見ればよくわかる。
障害者差別も、憲法で保障されている移動の自由を阻害するものを取り除く、バリアフリーは、障害者以外にも対象を増やした「ユニバーサルデザイン」としてある程度普及してきたものの、まだエレベーター、エスカレーターのない駅階段は多く、就職に至っては、障害者の法定雇用を満たしていない企業は山ほどある。
 そもそも法整備が遅いという例もある。ハンセン病などは、国際的に隔離政策の破棄が謳われてから、日本で法改正されるまで38年掛かっている。
 なぜそうなるのだろうか。
 そこには、現代にも通じるシステムの固定化がある。
 差別ではないかもしれないが、ブラック企業で働く従業員にも同じことが言える。
 経営者・支配者側にとって都合がよい仕組みを作った場合、それを壊すには理由がないのだ。得がないといってもよい。現状のままで都合がよく、利益が上がる(または不利益がない)のならばそれでよいではないか、ということだ。しかも非使用者などの声は小さいか抑えていられれば問題はない。そうして制度は慣性力を持つようになる。非使用者なども無理やりかもしれないが、境遇に甘んじ、ある種の慣れが生じるようになる。
 現時点で、差別はなくなっていないが、縮小されている例もある。先出の例では、女性の参画がそうだろう。ではなぜ差別が少なくなり、女性の進出が進んでいるのか、なぜ社会はそれを認めているのか。アンベードカルのような政治や政治運動によるところも大いにあるが、主な理由は、社会が女性の価値を認めたからだとわたしは考える。“女性の価値”とは、2種類の意味がある。商品を生み出す側としての“プランナーとしての価値”と商品を買う側としての“マーケットとしての価値”である。「女性目線で作れば物が売れる」「女性をメインターゲットにする」は、一時期は大いに流行り、いまでもコンサルタントなどの一部では、呪文のように言われている。女性によく見られる、勤勉さ、気配りの細やかさ、当たりのやわらかさなども“価値”として捉えられるようになってきた。
 利益を産まない文句は聞き入れてもらえないが、利益を生む文句は聞き入れてもらえるということだ。「人は利によって動く」は竜馬がゆくで坂本龍馬が言った言葉だ。その根底には教育があるとわたしは思う。福沢諭吉の「学問のすすめ」である。言うは易しかもしれないが、職場で理由もなく下の仕事をしている人もいるだろう。職場に利をもたらせるような提言ができるように学問をすることが必要ではないだろうか。アンベードカルも学校を作るなど、教育には力を入れていたようだ。
 そして教育は意識改革ももたらすだろう。不可触民にアパートを提供しても、それを又貸しして自分はストリートに寝泊まりするといったコラムを読んだことがある。ストリートのほうが縛りがなくて自由なんだそうだ。働くよりも家庭にいて、旦那の給料で生活したほうが楽と思っている女性もいる。自分で考えることで、自分で働くことで、もっとよい世界があることも、学問によって学ばなければならない。

投稿者 akiko3 日時 2014年9月30日


「アンベードガルの生涯」を読んで

  無知は罪だと改めて思った。偉大な非暴力の人、ガンジーのイメージは崩れ去った。情報操作にまんまと洗脳されていた。まず、教養を身に着ける為に、事実を読書により得る体験ができたことに感謝した。その上で、インドで底辺から這い上がって国を正しく導こうとした人がいたという偉大さに言葉が出なかった。
  インドのカースト制は、カルマの為に、魂の成長の為にあると聞いたことがあるが、炎天下で水さえも飲めない一生を送ることが本当に成長の為なのだろうか?と説得力がないことに気づいた。実態を知らないから、他人事として無関心でいられたのだ。目を合わせることも許されない、人間扱いされない、いじめの世界ではないか?普通の人だと、“する”側であっても居心地の悪さを感じるように思う。でも、それが当たり前の価値観で成り立っている社会なのだ。
そんな動かしがたい社会の中で、学校に行け、留学でき、少しずつ、少しずつ岩場から一滴の水が染み出るぐらいの変化で、それこそ血の滲む努力で岩場を素手で砕いていったのがアンベードガル。アンタッチャブルであることから目をそらさず、わき目もふらず、現実的に学問や仕事に邁進し続けたが、その原動力となっていたのは差別され続ける悔しさ以外に、これらの奇跡から神を感じていたのだろうか?(自身をモーゼとダブらせていたので、学問や仕事を通して閃きや腑に落ちる体験がそれなのかと推測したり…)

社会の底辺で見放されていたから、他に依存することなく、自分で立ち上がるしかないと身をもって理解したのだろうか?でも、宗教はなくてはならないもの、自分の行為の規範となり、自己の向上と幸せを考えさせる最も深い掲示と、宗教の大切さを語ってはいる。(ヒンズー社会にカスタマイズされた宗教は宗教と見なしていない。)また、教育により自己の可能性を広げていったが、教育より品性が大切だと説き、自らの内にある良きものを発揮させ、社会に役立っているという宗教的感情が必要だと言っている。
  アンタッチャブルのアンベードガルは、なぜ卑屈にならず、内にある良きものを発露させようとしたのだろうか?才能を見出され、教育が与えられ、身に着けた教養のおかげだろうか?底辺にいる自分という幻を崩し、人として自尊心と自立心を養えたからか?そして、先見の明があるから、カーストと言う足の引っ張り合いをしている間に、資本主義社会に国ごと踏みにじられると危惧でき、屈辱が全身に刻みつけられているがゆえに、阻止しようと具体的に行動に移せたのだろうか?
  自己保身に走らず、アンタッチャブルの自由の為に、人生をかけられるのは、偉大としか表現できない。それこそ、頭脳、行動力、鋭く真を問う雄弁さ、その上、相手が誰であれ、自己を屈しない強さ、素晴らしすぎる。愛国心でなく、自分の良心に恥じないように生きる。でも、あれだけ頑なな現実に何度も挫折を感じながら、なぜ立ち上がれたのだろうか?踏みにじられ続け、身にしみた悲しみ分だけ、広い心、深い慈悲を得られたのだろうか?

  アンベードガルは、人生哲学をもつべきだと説き、それは自由と平等を謳う宗教に根差していると説いた。宗教と友愛は、尊敬すべき神聖なものであり、神や霊魂では社会を救えないと言っていたが、アンベードガル自身は、どんな逆境にあっても“自分の良心”に従って、切り開いてきた。ただ教育を与えるだけでは品格が育たない、よりよく生きる柱となるものを一人一人に植えつける為に、宗教が必須だと実感したから、自分の信条に合う1つを選んだのだろうと思った。アンベードガルが宗教を学び、選んでいるあたりで、頭の片隅にある言葉がちらちらと思い出された。
  “傷ついた小鳥がいたら、宗教は傷を癒し、その籠の中で生かすが、信仰は傷を癒し、自由に羽ばたかせる”
  自由を求めて、自分の為、仲間の為に邁進したアンベードガルは、ちゃんと信仰があったのだと思う。(もし、早世しなければ、仏教でもアンベードガルの宗派に育てるぐらいしていたのではないかと思う)

  釈迦もアンベードガルも悟った人なのだ。それは〇〇教とか他に見せるものではなく、自分の内で理解するもの。生きざまからその理解が確信に変わるようなものなのだろうかとも想像する。周りがそれを見えるものにしようとしているだけではないか?
  生き方というか、生きていく上で自分の中心に柱を築くというか育てるというか、ここ数か月の課題本でも問われてきたように感じる。
  これが、読書を通し学ぶ面白さ。もっと“感じる”為の感度を精密にする為に、質の良いInputを大事にしたい。いずれ、これらが熟成されて、Outputになればいいと妄想もしている。

  最後に、悲しいかな理不尽は世の常。理不尽さの中にある矛盾は、正論で切り崩すしかない。素晴らしい生き方から、学ぶ目的、学んだことの活かし方も学べた良書に深く感謝します。

投稿者 BruceLee 日時 2014年9月30日


「不可触民は必要悪?」

本書を読みながら最も不思議に感じたのはアンベードカルとガンジーの間で確執が生じた事
である。ガンジーも差別に抵抗した人であるのに、同じ差別からの解放を目指すアンベードカル
と軋轢が生じるのは妙な気がしたのだ。実際、動物以下の酷い扱いを受ける不可触民を救いたい
というアンベードカルの思いは、第三者の我々からしても同じ人間として非常に自然で理解出来る。
ところが、ガンジーは頑なに不可触民をそのまま維持しようとする。差別される側の辛酸を把握
している筈のガンジーが何故不可触民に対しては冷酷なのか?ここに我々第三者には理解し難い
ポイントが隠されているのでは無いか?そこで以前読んだ「不可触民―もうひとつのインド」
において最も印象に残った一文を思い出した。

「ブラーミンが『神人』と敬まわれておるのも、この『浄』を司る力が与えられておる唯一
の存在として信じられておるからこそじゃ。不可触民というものは、この『浄』なる存在を、
存在させるために是非とも必要なんじゃ」

つまり不可触民が差別される真の理由は、穢れなどの不可触民の側にあるのではなく、不可触民
以外の人々、つまり差別する側の人々の為にあるのではないか?カースト自体、階層による徹底
した身分制度で知られるが、結果的に下層の人ほど差別による苦しさがある筈だ。そのような
カーストの身分の低い人々、生活が苦しい人々たちも「それでもまだ不可触民よりはマシだ」と、
たとえ僅かでも優越感を感じ、自尊心を維持のための制度なのではないか。それにより全体の
鬱憤を緩和し大暴動を防いでいるのでは?つまりカースト制度、そして結果的にはヒンズー全体の
「バランス」を保つための「必要悪」というのが不可触民の実際の位置付けなのではなかろうか。

このような人民の怒りを全体に広めないために、中央が作為的に怒りの目をはぐらかす政策は
他にもある。現代の中国や朝鮮では貧困にあえぐ人民の鬱憤が中央へ向かわないよう策が講じ
られ「日本」が悪役としてしばしば活用される。不可触民に関して言えば、不可触民以外の
人々、特に中央でヒンズー全体のバランス維持を考える立場の人々からすれば、不可触民という
最下層の存在はなくてはならない必要悪であり、その上にこそヒンズー全体の安定があるのでは
なかろうか。それを裏付けるガンジーの一言が登場する。

「あなたは生まれながらにして不可触民だが、私は自ら不可触民を名乗ったものだ。お互い
ひとつなのだよ。どんなことをしてでもヒンズー社会を分裂させたくはないのだ」

ガンジーが差別からの解放を目指して闘った相手はイギリスでありインド(ヒンズー)以外の
世界であった。まずは他国に自国を認めさせる必要があり、その為にはどうしてもヒンズーの
一致団結が必要であった。結果、その団結を支えるカースト制度のバランス崩壊につながるよう
な行動は押さえ込みたかったのではないか。するとどうしてもアンベードカルに対しては冷酷な
対応を取らざるを得なくなる。本書はアンベードガルを主人公とし、彼の視点にて話が進む。
よってアンベードガルの目的を阻害する相手は全て敵視されて描かれるが故、ガンジーも同じく
理解を示さない敵として描かれる。だがアンベードガルは、宗教は人間のためにあるとの確信
から不可触民の解放に必死だったが、その一方のガンジーはヒンズー全体を守るために必死で
闘っていたのだ。結果的にその2つの活動において重きを置かれた部分に差は生じたが、
これはつまり二人の立場や世界観の相違による確執なのだろう。どちらかの側の視点で物事を
見ていくと、それに反対する側はどうしても敵となる。日本の幕末を例に取れば、坂本竜馬の
視点では新選組は敵となるが、新選組の視点では開国派の坂本竜馬は敵となる。実際、新撰組
を主人公としてヒーロー視する物語は幾らでもある。つまり、どちらの視点で見るかにより
物事の解釈に大きな相違が生じるのだ。結果、この1冊はアンベードカルの理解を助けるが、
ガンジーをも理解するのは側面的過ぎる気もする。やはりガンジーを理解するには彼の視点での
理解に努めねばフェアではないだろう。

勿論、仮に不可触民が必要悪だとしても差別があって良い訳ではない。がしかし、これは実際
難しい問題で、個人的な意見としては、完全に無くす事は難しいと感じている。それは言って
みればヤクザや暴力団が悪とされつつ、その存在が無くなる事は決して無いのと同じ類の話
だと思うのだ。が、その話を始めると別の展開になるのでここでは控えたい。何れにせよ物事
を見る視点は決して一方向からではない、という事を改めて感じた1冊であった。

投稿者 magurock 日時 2014年9月30日


『アンベードカルの生涯』を読んで

水も自由に飲めない、命すら脅かされる激しい差別が存在するなんて!と驚きの連続だった。
現在の日本にいては想像もできない過酷さに戦慄した。
その差別と戦い続けたアンベードカルの勇気と知己、そしてバイタリティに深く感動した。

そんな中で、アンベードカルとガンジーの確執をとても興味深く読んだ。
え?ガンジーって偉人として崇められているすごく高尚な人なんじゃないの!?
そう疑問に思った私は、ガンジーがあまりにも有名すぎるがゆえに、ガンジーのことをすっかりわかっている気になっていたが、実はよくわかっていないことに気づいた。
そこで、あわててガンジーについて書かれた本をいろいろめくってみた。
ガンジー本はやはりガンジー礼賛で書かれているものが多く、カースト制度や不可触民制度を無くすべく活動していた、と書かれていたり、非暴力運動の上等な抗議方法としての断食を褒めたたえている。
だが本書を読む限りでは、自分の思い通りにならないと「では自分は降りる」とヘソを曲げたという山本五十六のように、気に入らないことに決まりそうだから断食、と断食を脅迫の手段として使っていたという印象だ。
先月の『日本海軍 400時間の証言』でも、抱いていた海軍のイメージとのギャップに驚かされたが、勝手に抱いていたり、または意図的に刷り込まされたりした印象ほどあてにならないものはない。
偉大なる魂という尊称に隠された、ガンジーの政治家としての狡猾さが垣間見え、自分の中のガンジーの聖なるイメージが崩れていく…

と、ここまで考えて、自分は定説や常識が実はこうだった、という意外な裏話的なもののほうをより信じたくなる悪いクセがあることを思い出す。
そうだ、アンベードカルと確執があったからといって、ガンジーの偉大な足跡のすべてを否定するものでもない。
この本も、アンベードカル側から書かれている以上、ひとつの演出もない、ととるのは早とちりだ。
アンベードカルにはアンベードカルの、ガンジーにはガンジーの正義があったはずだ。
いろんな角度から書かれた本を読んで、自分の頭で考えてみたいと思う。
(ウィキペディアは中立的)

アンベードカルは、その頭脳、行動力、信念の強さともにずば抜けた人物だ。
できればタイムマシーンに乗って、ナマのアンベードカルやガンジーに会ってみたいと思う。
自分はこの二人から、どんなパワーを受けとるか?どんなオーラを感じるか?
書く人のフィルターを介した伝記のイメージとの違いを、ぜひとも実際に味わってみたいと願う。

投稿者 ktera1123 日時 2014年9月30日


アンベードカルの生涯

世の中で一番恐ろしいものはなにかという問いがある。
日本では「地震、雷、火事、親父」と自然現象と過失、人間関係?となっている。

世界ではどうか。
世界史の本を読んでみると、宗教関係が戦争のもとになっていることが多いことに気づく。
最近は宗教+経済の複合要因になっているものもあるが、大体の原因はそうだ。
「アンベードカルの生涯」の舞台インドでは、ヒンズー教徒が大部分を占めている。英領インドの時代には、現在のパキスタン、バングラデシュも含まれていたが、イスラム教徒が多かったのが原因で分離、分割している。(バングラデシュは昔は東パキスタンと言われたこともあり○○スタンは大体はイスラム教徒の多い国)
ヒンズー教徒はプラーミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、そして不可触民に分離されている。え、日本も士農工商と分離されていた過去もあったがが江戸時代の約300年間だけだし、実際には養子縁組等で身分の変更は実際は可能だったし、名字帯刀の許された農民(名主)もいたし、実績をあげて幕府に雇用(武士扱い)された例もある。まあいろいろここには書けないことも続いているらしいが。ところがインドでは約3000年間もつづいている。諸説色々あるが日本が皇紀表示では今年は2674年なので伝聞が正しいとすれば日本ができる前から続いていることになる。

昔あるところで聞こえてきた話になるが、某大手電機会社の社員が「中国とインド、赴任するならどっちがいい?」とあったように、インドも混沌が続いているような印象を受ける。

周辺がどうのこうの言っても、実際は本人に変わる意志がなければ人は変われないのと同じように集団が変わるのには、集団の中から変わっていくしかない。時勢や環境、理解してくれる藩主がいたからこそ「アンベードカル」は、身分制度の解放をインド憲法として取りまとめれたのではないか。

自分のできる最大のことをやり、理解してくれた藩主がいたから出来たのではとも思えるが、日本人である段階で世界の中では上位5%~10%以内に入ることになるので、実際よく考えてみると「アンベードカル」に比べるとはるかに条件的には恵まれている。実際自分がなにができるのかは今だ謎なところはあるのだけど。

最終的にはアンベードカルもヒンズー教から仏教に宗派替えするのだけど。

以上

投稿者 morgensonne 日時 2014年9月30日


『アンベードカルの生涯』を読んで

先月の課題図書ではいかにして海軍幹部たちが組織を守ったかということが
テーマになっていましたが、それとは対称的にこの本のアンベードカルは
いかに体制を変えるかに尽力した内容であり、この二冊を読むことで、
人間の強さと弱さの両面を感じることができたと思います。


アンベードカルについては、この本で初めて知りました。学生の時に学んだ歴史
で出てきたかもしれませんが、記憶に残っていない状態です。もっと取り上げら
れるべき人物であると思います。

何千年も続いて常識になっていたカースト制に疑問を呈し、それを崩すべく
行動を起こすのも相当な意思が必要かと思いますが、
それにも増してガンジーに対しても妥協せず自分の信念を貫いたのは、
本当に不可触民の将来の自立を考えての行動であったと思います。

現代の日本の政治においては、そのような信念をもって行動している人は
ほとんどいないと思います。逆に言うとそのような必要性がないとも
言えるかもしれません。

また、身近な世界である会社においては、過去の慣習に従ったり、
上司の意見に従ったりすることが自分も同僚も多いです。
自分の意見を持っているつもりでも、無難なほうへ流されることが
あるのも否定できません。
最近異動となりましたが、幸い現在の上司は社内では珍しく
上に反対しても自分の正しいと思う行動を起こす方なので、
見習えるところは見習いたいと思います。

そして自分の正しいと思う方向性に進み、正しくも、先進的な考えを持って、
行動を実践していけるようにしていきたいと思います。
また、そのような考えを少しでも周囲に広め、周囲に影響を与えて
いけるような存在になるべく、様々な知識を吸収し、経験を
積み重ねていきたいと感じました。

ありがとうございました。

投稿者 nkatani 日時 2014年9月30日


アンベードカルの生涯を読んで

不可触民であるが為、人間としても扱われず、
あらゆる妨害にあいながらも、不可触民制度を廃止させた、
彼のただならぬ努力と意志の強さ、エネルギーにはただただ感服させられました。
歴史にあまり見ないほどの苦境・逆境にありながら偉業を成し遂げた彼が、
世界史においてあまり大きく取り上げられえていないのは残念に思います。

ところで、この本を読み進めてカースト制度による差別や不可触民への酷い扱いを知っていくうちに、
「差別はいけない、人間は平等であるべき」であったり、
これに近い気持ちがムクムクと湧いてくると思いますが、
ここで一度立ち止まって考えてみたいことがあります。


「すべてが平等なのは本当に良いことなのか」ということと、
「自分たちが本当に平等を望んでいるのか」ということです。


「すべてが平等なのは本当に良いことなのか」と言う事についてですが、、
確かに、生まれによっては人間として扱ってもらえないだとか、
不当な扱いを受けるということはあってはいけないと思います。
しかし、ある程度の差別はあってしかるべきだと思います。
というのも、言いがかりのようになりますが、
すべてを平等に扱うということは、偉業を成し遂げた人も、
凶悪な犯罪を犯した犯罪者も同列に扱う必要がある事を意味します。
個人的には、偉業をなした人は称賛されるべきだと思いますし、
倫理や社会に反する事をした人は、糾弾・軽蔑されるべきだと思います。
ということは、すべてが平等なのは本当に良いとは言い難いです。

また、「自分たちが本当に平等を望んでいるのか」という事についてですが、
少し前には「勝ち組」「負け組」等という表現が横行していた事からもあるように、
自分(達?)は何かにつけて人と比べ、場合によってはその優劣を元に人を蔑んだりする事さえあります。
自分たちが本当に平等を望んでいるのであれば、
「勝ち組」「負け組」等と人をより分けようとしないはずです。
#これは日本独特の傾向なのかもしれませんが。
ということは、実は自分たちが本当に平等を望んでいるとは言い難いと思います。


上記から、差別について、ある程度は必要で、自分たちも求めている事ではないかと思います。
しかし、その元になるものが生まれや血縁ではなく、その人がなした事によるべきです。

ついつい思考停止して「平等であるべき」と言ってしまいがちですが、
本当にそうなのかは時々点検する必要があると思いました。

投稿者 satokei 日時 2014年9月30日


2014年9月課題図書 アンベードカルの生涯

2回目ですが、課題図書への投稿はすごいシステムだと思います。
投稿する、と決めることで
*期限を切り
*難しい本、今まで選んでこなかった本を読みこみ
*人に読まれる前提で文章を書く。
という勉強ができます。


本文です。
アンベードカルの前には、ガンジーすら俗物に見える
水を手にすることすらできない、井戸に触ったら惨殺される危険のある民の前には、男女差別や、学歴差別など、ほんのお遊びに見える
その精力的な学びと活動の前には、畏敬の念しか今は持てない。

それでも、彼の求めたものは、彼の生涯の中でのみならず、いまなお、おそらく実現されていないのだから、自分の今の少々の努力で、物事がなかなか変わらないなどと、不平を垂れるのは甘すぎなのだ。

まず、そう教えられた。

そして仏教というもののイメージが変わった。
彼の説く仏教は、人はどうあるべきかを追求してゆくもので、教えの前には一切が平等である。生まれながらに階級、運命が決まっているカーストとの対局にある。
また、王の家柄に生まれ、容姿と才能に恵まれながら、何不自由ない生活を捨てて、悟りの道に入るブッダ姿は、生まれながらのカーストをよりどころに、既得権にしがみつき、そのために同じ神を信じる人間を人間でなく扱うハイカーストと正反対だ。
何かを信じることが宗教だと思っていたが、ブッダの教えは違う。

彼は、不可触民が権利を得ることを望んだのではなく、不可触民という存在自体をなくすことを必須とした。人間の究極の尊厳を求めたのだ。

アンベードカルの答えは、ブッダの教えの中にあった。
彼は彼の信ずるところを貫き、生き抜いた。
私は、この本から、使命を持って生き抜くことを学んだ。
そして、仏教について自分が何も知らないに等しいことを知り、これから学ぼうと思う。
(インド仏教の代表的な僧が日本人だったことも、今まで何も知らなかった)

投稿者 kikukikuyuyu 日時 2014年9月30日


差別は悪か?

何度読み返しても個人名称の難しさ、ヒンズー世界の不可解さが本書のみでは理解が進まず…結局「不可触民と現代インド」を併せ読んでみた結果、インドでの長きにわたる徹底した差別の伝統は、ヨーロッパ種のアーリア人が征服した先住民族に対する優位性を維持する為のシステムであるという説が、最も腑に落ちた次第である。「歴史は繰り返す」の言をひくまでもなく、現代にも“常に自分達に有利なルールを作り続ける白色人種と、そのコロコロ変わるルールに一生懸命転がされている近代以降の日本人”という形で、その類似性は現代においても見事に継承されているんではないか!と感じ、実に空恐ろしい読後感となった。
ただ、アンベードカル博士の戦いは実に「不当な差別」と「既成概念」に対する戦いであった様に思うし、支配層にある英国人が作ったルールでさえ上手く活用して戦う姿勢にこそ、現代日本人が見習うべき精神要素があると感じた。

ただ、現代の常識に生きる我々日本人が、当時(というか現在も)のインド(その他の地域もだけど)の価値観を、一方的に「悪」と断罪し、非人間的で野蛮な制度として唾棄する行為が本当に「正しいのか?」という疑問が強く残る。
現在進行形のウクライナ問題、チベット・ウイグル問題、イスラエルのガザ地区侵攻問題やイスラム国の勢力拡大の問題等、我々日本国民がそれぞれ次元の違いこそあれ、インドから搾取して食いつないでいた大英帝国の善良な一般国民の様に、その非人間的な圧政に意識的・無意識的に協力しているのではないかという自戒の念が、本書を読み進める過程でどうしても私の脳裏を過ぎった。「差別は悪である」の様な、一見反論のしようが無さそうに感じる意見を盲信する結果こそが、不可触民の様な本当に悲惨な現実を生み出すもとであると私は考える。
自らの知識・経験・価値観からのみ事象を観て「善」・「悪」と判断するのではなく、先ずはそのまま受け止め、何でそうなったの?何でこんななの?と問い質す態度を如何に貫けるか。それが本書、自らの生涯を掛けて差別と戦ったアンベードカル博士の生き様から、私が学んだ生きる態度である。

今月も読み応えのある良書に触れ、考える機会を頂いて有り難うございました。

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投稿者 sakurou 日時 2014年9月30日


「アンベードカルの生涯」を読んで

アンベードカルは不可触民出身でありながら、2つの博士号を取得し、大臣として、またインド憲法作成を通じて不可触民の解放運動に貢献した人物である。
恥ずかしながら、アンベードカルや不可触民解放運動をこの本で初めて知った。
歴史の授業ではガンジーの独立運動しか触れていなかったように思うが、その(不可触民出身でない)ガンジーと論争を重ね、インド憲法を作成したのに、日本であまり知られていないのは非常に残念である。

アンベードカルは不可触民出身ゆえの差別に耐えながら、まさに反骨精神、不撓不屈の精神で活動していたことに非常に感銘を受けたのだが、最後まで読んで意外に感じたのは、(冒頭にある写真の通り)アンベードカルは最終的に仏教に改宗するのだが、長年悩み苦しみ、最終的には65歳で改宗した点である。

カースト制はヒンズー教に基づく身分制度なので、改宗すれば解放されるように安易に考えていた。しかし、そのような考えは、特に現代日本のように、多くは仏教のお墓を持つものの、無宗教と言ってよいほど生活に深く根差した生活をしていないからそう思えるのであって、インドのように宗教に深く根差した生活をしている国では、住む場所やコミュニティ等、生きていく基盤と宗教が深く密接に関連しており、単純に改宗すればよいというものではない事に気づかされた。

不可触民はヒンズー教徒でありながら、寺に入ることさえ許されない。それでもヒンズー教を崇拝しないと生きていけない、というのは私の想像を絶することである。

日本にも江戸時代の穢多非人、アメリカでの奴隷制度、また南アフリカのアパルトヘイト等、同様の人種差別制度があったが、それらは政策により作られたものであり、カースト制と比較すると宗教的要素は薄いように思える。

アンベードカルはインド憲法制定にあたり、不可触民制廃止を盛り込むことに成功した。それはあくまでも政策的に廃止されただけであり、その後も池の水が汚されるという理由から、池の水が供給されない、職業差別といった不可触民への差別は続いた。

アンベードカルの仏教改宗はその苦悩の末、最終手段としての行為だと思う。
宗教を捨てるということは、生まれ育った土地やコミュニティを失うことになる。
改宗式には家財一切を売りはたいて汽車の切符を買って参加した者もいたという。
彼らにとって改宗するということはそれほど重いことなのだ。

人種差別政策により奴隷が廃止されたアメリカでも、今でなお、先日起こったアメリカでの白人警官による黒人少年射殺に端を発した抗議運動など、人種差別は起こっている。
まして宗教と密接に関連しているカースト制は政策的には廃止されても宗教的、メンタリティとしては今でも深く根ざしているのではないか。それは日本人では計り知れない世界に思えてならない。

日本では宗教紛争が話題に上ることはないが、最近、Jリーグファンによる人種差別的行動が問題となった。

そういうのを見て、「人種差別はよくないね」では単なる思考停止である。

アンベードカルは生涯を通じて、深い知識を基に不可触民解放のために、理論的に糾弾を続けた。

Jリーグの事例を見て、例えば「じゃあヘイトスピーチはOKなのか?」等、人種差別を巡るトピックに対して視野を広げて思考を深めなければならないことを本書は教えてくれる。

投稿者 senumishima 日時 2014年9月30日


アンベードカルの生涯

ヒンズーの不可触民として生まれ育ち、仏教徒として生涯を終えた人生。
彼の人生を通して、カースト制の凄まじさと、生きるということの強さを知りました。

まず、この本を読んだ率直な感想として、アンベードカルの生きた人生はとにかく濃く普通の人間の何倍もの密度であると思った。
さらに人間のあらゆる社会の問題を凝縮していると感じた。

人間のために、人間と戦う。そして彼が苦しむのは人間としての尊厳を傷つけられたときだ。
どんなに逞しくても、知性があっても、やはり社会の中で他人との関わりが生きるということなのか。

今の日本の社会ではカースト制のような制度は無いし、本人の強い意志があればいくらでも教養を身につけることできる。
かなり恵まれている環境にある。しかし、全く別世界の話でもない。

数人で集まり一緒に過ごしていると、どうしても相性の良し悪しが出てくる。
それが1対多数であれば、多数派が強くなり1人は弱者となってしまう。
表面の言葉ではきれいに表現をしているけれども、明らかに過去の言動と矛盾したことを謳う会社の経営陣。
個人の人間でいえば、そういう例はさらにいくらでもある。

人間の環境は生まれながらに様々であり、つまり良くも悪くも平等ではない。
さらに現代社会においても地球上すべての国々で差別や格差はある。
これは組織が意図して行われてるものもあれば、そこにいる人間が作り出したものもある。

人間が生きて生活していれば波風だらけだ。
その波風と向き合い、向上していくための向かい風にするには、アンベードカルのような強い軸が必要である。
「自由・平等・友愛」
彼は虐げられている人を助けるために人生を歩いてきた。
そのために大きな視野を持ち、目の前のことを全力でこなしていった。
そして不可触民でありながら学位を取り、弁護士になり、さらには大臣になり憲法までつくっていった。

インド社会・宗教のしくみを変えるためで、その立場にいる人間を変えるわけではなかった。

誰の心にもいろいろなものが凝縮されている。人間立場が変われば…とよく言われる。
人間の心が社会をつくっているのか、社会が人間の心をつくっているのか。
今までは前者だと思っていたが、もう少し日常生活で周りの人と自分の心を観察してみようと思う。

投稿者 gizumo 日時 2014年9月30日


「アンベードカル」の生涯を読んで

インドのことはほとんど知識がなく、ガンジー・タージマハル・インダス川・カースト・ガネーシャ・インド式算数・・・程度の知識しかありませんでした。
世界史の選択だったので、最初の「四大文明」は熱心に勉強するものの、大戦あたりはさわりだけといったところでした。

そんな自分が、インド独立時に活躍した不可触民出身の政治家「アンベードカル」氏を存じ上げるはずもなく、大変な苦労をされたんだろうな・・・程度の興味でした。

レポートを書くにあたり、「インドとは」とネットで調べてみると
2011年の人口12億1000万人で世界第2位、GDPは2013年度世界第10位、1947年8月15日イギリスより独立(1858年から植民地)、有権者8億人を持つ世界最大の民主主義国、仏教・ジャナイ教・ヒンドゥー教の発祥の地、現在「BRICS」と呼ばれる経済発展の著しい国、などがわかった。

その歴史、大きさ、時代背景など壮絶なものがあったのだと驚き、それに果敢に立ち向かったアンベードカルは不可触民のヒーローだったろうと。
今の日本では感じられない、宗教的背景はここまで過酷なのかと。調べると、法的には認められていないがやはりカースト制は色濃く残っているとのこと。人間の弱さを見る気がします。
その出身がゆえに苦労を重ね、幸運にも恵まれ、憲法を制定し初代の法務大臣となったのがアンベードカルである。
ガンジーとのやり取りは痛烈であるが、時に周りの者に見せる子供らしさは彼個人の人間性を感じられどこか手の届く偉人の雰囲気がある。
ガンジーにとってもアンベードカルの存在は、不可欠のものであったのかもしれない。

今回、印象に残ったのは、「物事は全体を見なければいけない」という事である。インドと言えば、ガンジーやネールのサイドからのことが多く知られているが、実はアンベードカルの存在もあったのだと。
課題図書にならなければインドに興味を持つこともなかっただろうし、この物事の両面性にも気づけなかったと思う。

また、今のどこか冷めた日本がちょっとさびしいなと、直近でいえば「イングランドの独立投票」や「香港のストライキ」など国のため、自分たちの未来のために日常生活以外での関心を持てることが少しうらやましくも思える。
やはり今の現状は多くの人の努力・行動の上に成り立っており、自分を振り返るとなにかできているのか意思表示をしているのか疑問にも思え、ただただ目の前にとらわれ流されている自分を反省できた読後でありました。

調べた中で、現在日本人の方が正式なアンベードカルの後継者として任命されていることや、意外な親日国であることもわかりインドにますます興味がわいてきたことも今回の収穫でした。

投稿者 ken2 日時 2014年9月30日


『アンベードカルの生涯』 を読んで

自分の不勉強が強烈に身に沁みました。
アンベードカルの名前は、えっ誰?という程度でしたし、ガンジーについても「非暴力、不服従」でインドの独立に尽力した偉人ということくらいの知識。

イギリスの植民地統治下のインドで、同時期に活躍したガンジーとアンベードカル。
ガンジーがイギリスからの独立に主眼が向いていたのに対し、アンベードカルは2500年も虐げられてきた不可触民を救おうということに命を賭けた。

カースト制度と不可触民の歴史が2500年も続いてるということが想像を絶する。言葉ではわかってもにわかには信じがたい。
あわせて読んだ「不可触民」の本にあったエピソードで、人を車ではねてしまっても「ああ、不可触民だからいいや」で済まされてしまう世界。想像を超えた世界です。
アンベードカルは不撓不屈の精神力で貫けたのも、そんな負の歴史の重みを覆す、という信念があったと思う。

「分割して統治せよ」、とは政治でよく使われる手法ですが、アーリア人がインドに攻め入った2500年前からカースト制度で支配したり、もちろんイギリスのインド統治にしてもあてはまります。

インド独立に際し、世界のマスコミは、ガンジーのことは大々的に報じても、アンベードカルのことは報じないといったメディアのあり方、というか情報操作というものがあったのかという点も気になりました。
学校で習っただけで止まっている知識に新たな光をあててみる。 様々な視点から物事をみて、考察を深めていくことが大切だと再認識し、実践していきます。

今月もありがとうございました!

投稿者 tadanobuueno 日時 2014年10月1日


この本を読んでガンジーに対する見方がかわった人は多いと思う。
自分もそうだ。
ただ、政治家として憲法草案を完成させた後のアンベトカールですら裏切られ、理解されず、貶されという経験をしている。
物事をどう見るか?正しいとは何か?
アンベトカールが正しいか?との議論をするつもりは当然ない。
世で偉人と言われるガンジーと壮絶な争いをしてきたアンベトカールから何を学ぶのか?
想いを持って自分の信念、直感に基づき全力で生きること、なのだと思う。

先月課題図書の海軍将校反省会を読んで、戦争に関する様々な見方、考え、思いがまだまだあることを知った。
そして考えたのは、組織の中でどうすれば自分は本意な巻き込まれ方をしないか。
自分の結論は自分の信念を持って生き、一つの集団に過度にとらわれないこと。

アンベトカールはまさに、信念に基づき、一つの集団に囚われすぎることがなかったから偉業を成し遂げてきたのではないか。
ヒンズー教徒からは言うまでもなく、不可触民からも、改宗した仏教徒からも、貶されてきたことは、一つの集団にとらわれすぎていないことの現れなのだと思う。

アンベトカールが経てきた様々なものとの出会い。
それにより彼の独自の信念がつくられ、彼独自の不可触民への解放が行われた。

自分自身、仕事を通し、子育てを通し、様々な出会いを得ている。
それにより自分の信念がつくられてきていることを感じている。
自分が子育てを、地域を、自分の人生自体を楽しみたいと考え、いろいろな行動を行っており、それが更なる出会いを生んでいる。

今後とも様々な出会いを通してより多くのことを学び、世に還元していきたい。
人との出会いでは感じ得ない感覚を読書を通じて与えて戴いているしょうおんさん、本当にありがとうございます。

投稿者 kd1036 日時 2014年10月1日


思わずマジですか?と言いたくなってしまいました。何が?って、自分が思っている所の、一人の人間が一生で実行する事が可能だと思う分量を遥かに超えた事をやってきた人がいるという事です。人間はここまで何でも出来るんですね。自分で無意識に築いていた限界の存在を痛感させられました。

不可触民やインドについての知識は、お恥ずかしい話ですが本書を手にするまでほとんどなかったので、ガンジーがそういう感じだったのは初めて知りました。インドの独立に貢献した人くらいの認識でしかなかったのですが、カーストと不可触民の制度に対する態度は、かなり残念な感じです。しかし、ガンジーの立場からすれば、それも当然と言える気がします。
アンベードカルとガンジーの立場は、前者が不可触民でありその解放を真剣に実行しているのに対し、後者は支配階級としてインドを考え階級制度は維持する事で安泰を得るというものです。ものすごく単純にしていますが。

アンベードカルの活動は、当事者でない自分の立場から見たら、正しくて素晴らしい事だと迷いなく感じます。では、何故そんな素晴らしい事を行うのに、これほど多くの困難が付きまとわなければいけないのでしょうか。この辺りの事を考えてみようかと思います。

カースト制度は、本当に明確でわかりやすい定義づけです。その定義の枠組みの中で社会が成り立っていて、誰も異を唱えなければ、何の問題も無さそうです。アンベードカルの困難はここに一つあったのではないかと思います。
下位カーストは教育の機会も与えられず、当たり前のように非人間的に扱われ、希望も意志も持てないように仕組まれています。
アンベードカルは知っています。全ての人間は、人権を守られ、それぞれの人生をいきていいのだという事を。
我々が不可触民として扱われるのはおかしい、カーストで生まれた時から人間の良し悪しまで含む全てが決められている制度はおかしい。だからこんな制度はこうして、ああして、こうすればいい。とアンベードカルは考えたでしょうし、実際に行動していきます。その時に、解放されるべき人々がアンベードカルのやろうとしている事を理解できないような状況があり、時間をかけて広く浸透させていく必要がありました。
また、支配階層からしたら、そんな事をやられてしまったら一大事だと、何が何でも阻止するように力を行使してきます。こちらの側はアンベードカルのやろうとしている事を理解していて、それは自分達の権益に反するものだという認識がしっかりしていたように思います。

カースト制度は、イギリスの植民地となる前から続いている制度です。支配階層には都合のいい、非常によく出来た制度であり、イギリスにとっては植民地としてインドの地を治めて我が国の利益を得る事が目的です。アンベードカルのやる事は、人道的に正しい事ではあるけれども、インドの国内においては支配階層の利益に反するものです。また、イギリスからしてみれば、おっしゃる事は確かにその通りなのですが・・・、正直インドからは利益を上げる(ここでも搾取という事なのですが)事が出来ればいいのであって、不可触民の事はどうでもいい(声を大にしては言わないでしょうが)事柄であったと思います。
アンベードカルの主張もやろうとしている事も正しい。だからといって、今既得権益を持っているグループの人間がその権益を失う事を厭わず、諸手を挙げて賛同の意を示し協力するでしょうか。本当に当たり前の話ですが、この辺りにも、アンベードカルの進む道の険しさがあります。

ところで、正しいって何でしょうか?
私は、アンベードカルは正しい事をしようとしていて、実際にそのように行動したとして感想を書いています。しかし、正しい正しくないはどこで判断されるのでしょう?
分かりやすいのは、ルールに則っているかいないかですかね。これは我々の身近にも法律や条例・地域やコミュニティのローカルといったものもあります。しかしこれとて不変のものではなく、適宜変更されていきますよね。昨日までOKだった事も今はNGとなってしまったり。
正義などとして語られる事は、強者の理論で語られているような気がします。大きな枠組みで言えば、戦勝国と敗戦国といったものもそうでしょうし、国という枠組みやすごく小さいコミュニティのルール作りにしてもそうだと思います。これはあまりにも大雑把にすぎる言葉では、もちろんありますが。
アンベードカルは、不可触民の解放は力で勝ち取る・戦いも辞さないという姿勢で臨んでいます。その事は、きれいごとではなく、本気で成し遂げる意志の現れであり、真剣に取り組んでいる姿勢として、感銘を受けました。ただその道は、非常に困難を伴う険しい道だったと思います。

それにしても、凄い人はいるんですね。おそらくアンベードカルは、自分の理想とした場所までは生きているうちには到達しなかったと思います。そして今現在もそこまでは到っていないかもしれませんが、彼がいた事によって、成した事によって、いわば種を撒いた事により、世界は少しづつ変わっていってると思います。最初の一歩を踏み出す人間は常に困難と向き合う事になりますが、それが生きる事の一つの意味なのかなと思います。アンベードカルのような大きな事でなくても、私達の身の回りには色々な事が転がっています。それらの事に、そういうものだからとか、それはそうだけど難しいしね~とか言わずに、自分の考えを持って行動する存在でありたいと思います。あとは、そういう人の足を引っ張らず、応援をしてあげられるようにありたいと思います。

感想文を書いていて、アンベードカルさんは敬称抜きで書いていましたが、本当は大先生とお呼びしたい位です。そこに通じる道が全くない状況だとしても、徒手空拳だとしても、出来ない事はないんです。何でもできる、その事を改めて認識出来た事はいい糧になりました。
インドについては、歴史と宗教と労働力の世界への供給を中心に、これから勉強していきます。

投稿者 haruharu 日時 2014年10月1日


アンべードカルの生涯を読んで

2,500年。そこまでの長い間神様の采配が他になかったんだろうかと思った。
あまりにも長くて苦しくなった。

ガンジーに対して間違ってると言い切った。言えたということは、並の心臓や言葉では言えない。
ガンジー独特のやり方に平常心を保っていられるかどうか。
不可触民として忌み嫌われた時代を送り、血と汗による一つ一つの経験が彼を育てたのではないか
若い時から 不可触民解放運動のことを考えてきたアンベードカル。
高い志を持つことによって必要な教育と必要な人たちと引き合っていったかのようにも思われる。

例えば、新入社員の時に目の前の仕事や部署を視るのと管理職になった時に会社全体を視るのと、
社長になった時に業界や日本全体を視るのとでは入ってくる情報や人脈が違うように、
アンベードカルは早い時から全体を視、必要な人格や人脈も引き寄せていったようにおもう。

読みながら田中角栄を思い出した。
ありとあらゆり職業をやったお陰で、総理になった暁には自分でいろいろ計算しながら
(例えば保険や土地絡みの計算)直接交渉できたからだ。

本書で印象に残った言葉は、心に矜持を持って生活するよう努力していく。

今日でも多かれ少なかれ差別を見かけたり受けたりするけれども、志高く、来るべき時に備えて
自分と闘いやるべきことをやらなきゃと思いました。

といいつつ、速読を受けたからにはアウトプット必須だと思いながら時間外の投稿になってしまいました。
来月は守りまーす。