第20回目(2012年12月)の課題本
12月の課題本は。。。
捕食者なき世界
この地球上の生きとし生けるものは、人間を除いて食物連鎖というヒエラル
キーの中で生きています。
捕食者とは、そんな食物連鎖の下位にいる生き物を食べる、上位の存在です。
つまり、植物にとっては昆虫や芋虫などの幼虫が捕食者であり、芋虫にとって
は鳥は捕食者になるわけです。
人類がここまで知恵をつける前は、人間もそんな食物連鎖の環の中にいたので
すが、そうすると人間にとって都合の悪い生物が出て来るわけですよ。
たとえば森の中にいる熊。
これは、私が尊敬する作家である吉村昭氏が
羆嵐(くまあらし)
というノンフィクションで書いたように、一時人間の上位に立つ捕食者だった
んですね。これを人類は殲滅させようとしたわけです。
実際に殲滅されてしまったのが狼(おおかみ)です。
もう100年以上前に日本では狼という捕食者は、人間によって絶滅させられてし
まったのです。
その結果、森の中ではどういう事が起こったのか?
果たして捕食者がいなくなった結果、森には平和が訪れたのか?
『地獄への道は善意という石で敷き詰められている』というとってもブラック
な名言があるんですが、人間が善意でやった事が地球の生態系にこれだけの影
響を及ぼしていると知る事は重要です。
過去我々が正しいと考えてきた事、そう教わってきた事が実は全然正しくなか
ったと知った時のショックは大きいです。
そう、まだまだ我々人類は生き物という存在を良く知っていないのです。
そういう謙虚さを無くしてしまってはいけないのですよ。
【しょ~おんコメント】
今回はまれに見るデッドヒートで、候補となる方が3名も出て来ました。
ああいう厚めで難しめの本というのは、過去にどれだけの読書をしているか、
知識を蓄えているかで表現力に格段の違いが生まれるんですよね。
その中で、私が選んだのは、『minoru』さんです。おめでとうございます。
【頂いたコメント】
投稿者 takuro2411 日時 2012年12月20日
捕食者なき世界とは、食物連鎖の頂点に位置する捕食者がいなくなり、生態系のバランスが崩れ、生物の多様性が極端に減少し、被捕食者である草食動物や限られた植物が異常に繁殖した世界である。そして、バランスを失っている世界では繁殖し過ぎた草食動物も、いずれ食糧が枯渇し全滅してしまう。なぜそのような世界が生まれてしまったのか。それは、我々人類が利己的な思考のもと食物連鎖の頂点にいる捕食者であるオオカミ、クマ、ピューマ等の大型肉食動物を全滅させたことに起因している。それら全滅させられた捕食者は、草食動物の増殖を抑制し、さらに下位の被捕食者たちを間接的に保全し、生物の多様性、生態系のバランスを維持するという重要な役割を担っていた。そのことも知らずに、人類にとって都合の良い身勝手な行動が捕食者なき世界をつくりだしてしまった。日本でも、オオカミがいなくなり、シカが異常に増殖し食糧である食物が枯渇し、その結果、農作物を食い荒らすなどの食害を引き起こしている。身から出た錆ではないが、正に自然界から竹箆返しをくらっている状況である。最近、シカの食害対策として罠をしかけ、シカを捕まえているようだが、その罠にかかったシカが死んでその死肉をクマが食べあさっているという記事を目にした。なんとも不自然な食物連鎖と感じざるを得ない。地球上に人類の祖先が誕生したのは200~300万年前、被捕食者の立場であった人類が一気に食物連鎖の頂点に位置することになった。人類は、生態系のバランスをいとも簡単に破壊することができる立場にいることを充分自覚しなければいけないと思う。そして、我々は生物の世界についてまだまだ、無知であることを認識し、敬虔な姿勢で向き合う必要があると感じた。最後に、同じ時期に「ローマ法王に米を食べさせた男」という本を読んでいて、著書の中で、「奇跡のリンゴ」や「無農薬の自然栽培稲作」の話があり、その中に地球上に存在するものは全て必要なもので、不要なものはないという考え方が著述されていた。害虫も生態系の中では被捕食者で上位捕食者であるカエルの食糧となる。カエルもまた上位捕食者の食糧となり食物連鎖が成立する。また、微生物は土壌を肥沃にし、農作物の栄養を作り出してくれる。さらに、農薬などを使用しない水田はフナ、ドジョウなども生育し、生物の多様性、を維持しているという。ということは、農薬、化学肥料、除草剤などを使用して栽培する行為そのものが、実は生態系のバランスを崩し、生物の多様性を極端に減少させ、捕食者なき世界をつくりだしている要因ではないかと感じた。生態系のバランスを崩して栽培した農作物と生態系のバランスを維持しながら栽培した農作物どちらが、人間にとって良いかは火を見るより明らかである。我々人類は食物連鎖の頂点に位置しているが、あくまでも生態系の一部であり、全てではないことを十分理解し、謙虚な姿勢で自然界と接していく必要があると強く感じた。ありがとうございました。
投稿者 nakajirou 日時 2012年12月23日
この本を読んだ直後あたりに見たテレビのある番組の特集で、来年から日本で流通する蟹の量が激減する特集を見ました。日本で流通する蟹の約7割が海外からの輸入品。7割のうち約4割がロシア産の蟹だそうです。そのロシア産の蟹の大半は密漁で獲得された蟹だそうで、一向に減らない密漁に業を煮やしたロシア漁業庁が、日本と協定を結び密漁蟹を徹底的に取り締まる事にしたそうです。その結果ロシア産の蟹が減る事で日本で流通する蟹の価格は2倍~3倍になる事が予想され、日本の水産業界は大きく影響を受けるとの内容の番組でした。番組のコメンテーターの方は漁業が儲かる産業になってきたので影響力を強めたいロシア政府の意向があるとのコメントを残していましたが、私は本心で蟹資源を本当に守りたい思いもあったのではと思いました。何故なら、ロシアの漁業庁によると、オホーツク海のタラバガニは、密漁が本格化する前の10年前と比較し1/17に激減したそうです。北海道の市場関係者の中にも昔と比べリ流通する蟹の大きさが明らかに小さくなっているとのコメントもありました。蟹が成長する間もなく捕獲しているからの要因で、結果的には市場で高く売れる事が出来ず、より多くの量を売りさばかざるえず、乱獲が止まらないとの悪循環に入っていることは間違いないかと思います。本書で書かれたイエローストーン国立公園やアリューシャン列島と同じ例は、すぐ目の前でも行われていることを改めて理解しました。この本を読んで思ったのは、自然とうまく付き合いたいのであれば我々は必要以上に物欲を求めない事だと思いました。人間は自然の恵みなしには生きていく事は出来ません。その本質を忘れ自らのエゴに埋没しようとする、行為は一歩間違うと両刃の剣になりかねない。そんな本質を教えてくれた本に思えました。安いからといって、ものを買い込んでしまい廃棄してしまうような無駄は避ける。必要以上に贅沢な食事は行わない。大量消費の産物であるファーストフードの食事も避ける。小さい事かもしれませんが、そうした自然の恵みを無駄にしない心掛けを持つ事が、この本から学んだ事を生かす術ではないか。私にはそのように思いました。
投稿者 akiko3 日時 2012年12月28日
「捕食者なき世界」を読んで この本を読みながら、ずっと頭の片隅に浮かんでいたのが、白銀の世界。天は青く澄み渡り、地上に低く白い雪と氷の表面が広がり、そこに白熊だけがたたずんでいる。人間の存在が当たり前の現代なのに、その世界には人間の気配さえ感じられない。その白銀の世界で生きていける生物のみが存在し、お互いの命をつないでいく。かつては、人間もその中にいて、同じ言葉を理解していたのだが…。“生まれ変わっていくいのちたち“白熊はアザラシを食べ、アザラシは魚たちを追い、魚たちは海の中の小さな生きものを口にふくむ”“われわれは、みな、大地の一部。”“いつの日か、氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでもよいのだ” 星野道夫さんの「ナヌークの贈りもの」に描かれている世界だ。星野道夫さんの他の写真集「星野道夫の仕事」は、まさに彼そのもの。彼の人格の崇高さ、自然感がアラスカの大自然へと導き、自然は彼を受け入れ、その一部を写真に写し撮ることを許した。そのアラスカの大自然には息をのむほどの美しさ、偉大さ、そして静けさがあり、全てが調和されている。足を踏み入れがたい、そんな自然界の一部として生きている少数民族の存在にもおののく。慣れない田舎の闇夜でさえもなんだか恐ろしく感じてしまう自分にとって、アラスカの透明な大自然は遠い遠い憧れの世界として写真越しにそっと覗くだけだ。子供時代に見た世界が初めて見た世界として基準、今さら大自然には戻れない。それに、熊が減ろうが、生活には関係ない。と思っていたら、タダだと思っていた水にお金を払っている現実、熊がいない森は生態系が崩れ、やがて水も枯れると知って驚く。かつて人間は里山を大切にしながら野生と共存し、豊かな森、水を守っていたのだ。日本にも一人の教師が生徒と一緒に、専門家から知識を学び、自分達で調べて、未来を見据え、今できることをしようと熊のいる森を守ろうと活動している団体がある。間接的にだが、そんな彼らの活動から現実を学び、支持をしていきたいと思う。それから、なんとか自分の生活を少しは自然に近づけてみよう。物を選ぶ時の判断基準は自然か不自然か、自分の生活に取り入れるもの、出していくものはどこからきてどこにいくのか?取り込みすぎではないか?日常のほんの一部だが昭和に戻りつつある。でも、一度覚えた血の味は忘れられない捕食動物のように、便利さは容易には手放せない。あの大自然の中で謙虚に自然の一部として生きる民族にはなれないが、水も空気も光も自然はタダではないと肝に銘じ、月明かりを楽しみ、太陽の暖かさや風の冷たさを感じ、雨音に耳を澄ませて生きよう。最後に、生きることは食べること。でも、人間には脳みそがあり、感情もある。ただ食べて生きるだけでなく、どう生きるかが大切になってくる。やはり生き様が試される。過去の課題本でも教えられてきたように、今回も、より真実に近づこうと地道な研究をする専門家達がいたことに刺激を受けた。すぐに答えがでずとも、後に過去に出した答えを反省することがあっても、自分の力を出し切り、オーバーアチーブした部分を社会に還元していく。それが、絶望の中でもかすかな希望となる。そのおかげで未来が守られる。世の中、どこでも、無意味な攻撃、肝心要の問題が論じられず、問題の核心から遠いところで騒ぐことが多い現実がある。地球温暖化、原発、エネルギー問題などなど山積みだ。自分の知識では何が正しいかわからないことが多いが、“どう生きるか”を常に自分に突きつけた上で、短期的な結果のみで判断せず、今後に続く命にとって、長期的に見れば益となるように、情報収集をし、その都度、良心に従って判断していこう。まだまだ勉強不足なので、Inputは引き続き行いつつ、2013年はOutputも意識していこうと思う。今年一年、このような自己鍛錬の場を与えて下さいまして、ありがとうございました。皆様、よいお年をお迎え下さい。来年もどうぞ宜しくお願い致します。
投稿者 take0125 日時 2012年12月28日
今回の課題図書から様々な生態系において、頂点捕食者の消失がもたらした驚くべき事例を垣間見つつ、個人的には日本の頂点捕食者の消失の例って、何だろうと考えながら読んでいたのですが、最後の巻末のところで「日本の頂点捕食者を考える」と題して、高槻成紀さんの解説が数ページに渡って、日本での事例を紹介されていましたが、それを読んでも私的には納得感が得られるものではありませんでした。実は私が腑に落ちなかった事というのは、頂点捕食者の消失をもたらした欧米人と日本人とではそもそも価値観、世界観、宗教観、歴史観が異なっているわけで、結果的に、同じ過ちを犯したとしても、そこに行き着くまでのプロセスは違うのではないのかなと思った次第です。今回、課題図書の他にたまたま読んだ地政学.戦略学者の奥山真司さんの著書である「世界を変えたいなら一度"武器"を捨ててしまおう」でも記載されていたのですが、欧米人は環境を作り出す(環境を変える)という発想をするが、日本人は環境を受け入れるという発想を持つのだそうです。とすると、前者の方々の方が頂点捕食者を消失させてしまう可能性って、高いんじゃないの?って、思えてならないんですよね~そんなことを考えながら、色々な切り口で思考することが出来てきたのも、少しは本を読む習慣がついたからでしょうか。また、来年も課題図書で読書の幅を拡げていきたいと思います。今年一年間、ありがとうございました。
投稿者 spicy 日時 2012年12月29日
スーパーマーケットの周りの植栽に、連れてきたペットをつないでおいて買い物を済ませる人っていますよね。先日も、また犬がいると思ったのですが、様子がおかしいのでよく見てみると、ヤギでした。珍しいものを見たので、一瞬興奮しましたが、そのヤギが低めの植栽の葉をムシャムシャと勢いよく食べているのを見て、「その植栽はヤギのものでは無いのに!」と腹立たしい感情を覚えました。非常に小さな世界観の中ですが、これが最上位捕食者である人間の身勝手さかと感じたのでした。身勝手といえば、人間は狼や熊という捕食者を追いやり、自分達の住みよい環境に変えただけで満足せず、動植物、海洋生物の種を人工的に増減させようとする身勝手さもこの本の新たな章に移るたびに感じました。とは言え、この捕食関係を研究として一生懸命に取り組んでいる学者の姿勢には何も責めるところは無く、そのおかげで、こうして最上位捕食者人間の傲慢さ、身勝手さについて知ることが出来たわけです。人間も他の動物の例に漏れず、上位捕食者がいなくなると増殖するという道をたどっています。世界の人口はどこまで増えるのか?遺伝子医療が進み死ななくなったり。「21世紀知の挑戦」に遺伝子の研究、技術が進んで、人間の良い遺伝子だけを取り出して新たな人間を作ったり、直したりする事を繰り返したら、いずれ人間にもあらたな種が生まれ、種の違う人間同士は交尾しても子供が出来なくなるのではというくだりがあったのを思い出しました。増えすぎた人間は自分達の手で、新たな人間という上位捕食者を作り出して自ら調整を行ってしまうというシナリオもあるかもしれません。
投稿者 ntotheg8 日時 2012年12月29日
思い出話になるんですけど、僕が高校ぐらいまではビーバップハイスクール全盛期でクラスには標準装備で番長タイプの人がいまして、その下に子分格の取り巻いていてわれわれ草食系がちょっとでもいきがって行動をとろうものなら、「なんじゃコラ」と鉄拳制裁を喰らったりという風景が日常的にありました。その後、大学に入りまして、時はバブルがはじけた時期ではあったのですが飲みに行ったりしますと、やんちゃなサラリーマンが喧嘩したりしているのやあからさまに道を極めている感じの人が肩で風を切っているのをよく見かけたものです。この本を読んでふと思ったことは、「上位捕食者を激減させ、下位捕食者を激増したことによって様々な問題が発生しているのだ」というのは、人間社会にもあてはまるんじゃないのかということでした。いろんな組織の上位捕食者的な人たちは、コンプライアンスだとか暴対法だとかで、どんどん牙を抜かれて隅に追いやられ、結果、下位捕食者的な人や、草食系の人たちがのびのびと暮らせる世の中になりまして、私個人としても、昔よりも平和になったような気がしていたのですが、反面、いじめとか格差といった問題は深刻化の度合いを深めている状況です。また、捕食者がいなくなった地域の草食動物は、狼のおしっこの臭いがしても警戒しなくなるといった話もありましたが、振り込め詐欺とかで被害にあったといったケースも、そういった草食動物の状態と通じるものがあるように思います。といったことをおもいながら、この本を読み終えまして、もしかすると、人間社会も上位捕食者的人材をもう一度社会復帰させることで、この閉塞感を打開できる可能性はあるのではないでしょうか。
投稿者 sakai 日時 2012年12月29日
人類は食物連鎖の頂点に君臨する特権を使い、都合のいいことをしすぎた結果、地球が疲弊しています。本書を読み、人類がこんなにも多くの動物を死滅させていたことを知り愕然としました。やりすぎです。しかし、オオカミを絶滅させた結果、オオカミのありがたみを学習したことは、人類にとって、大きなプラスになったと思います。自然の営みは、本当に偉大です。何一つ無駄がないように感じます。そんな自然の中で生かされている人類が、捕食動物を絶滅に追い込み、生態系を大きく崩すことは、本来許されるべきではありません。人類は捕食者としての頂点を極めていますが、その前に地球に住んでいる動物の一員であることを認識し、もっと謙虚に生きるべきです。しかし、世界に住む人々の状況を鑑みると、生きることが精一杯でそんなことは言っていられません。焼畑農業だって何だってやります。本書を通して、「捕食者はなくてはならないもの」と言うことは理解しましたが、捕食者の頂点である人類は、地球にとって必要でしょうか?人類がいなくなったら、何か困ることが起こるのでしょうか?困るどころか、地球は動植物の楽園となるでしょう。そう考えると、地球のためになんの役に立っていない人類が、何のために地球上に生息しているのかと言う疑問がわきます。逆に考えると、人類が生きていくために、人類以外のすべてのものがあるのではないか・・・。そんな気がします。
投稿者 omieakanat 日時 2012年12月30日
捕食者なき世界を読んだ感想私の率直な感想として、感情面では人間の恐ろしさと愚かさを、実際問題として人間の存続への危機感を感じました。本のタイトルを見た時、捕食者がいなければ、草食系にとって居心地の良い、争いの無い世界になって、平和じゃないだろか、ハッピーでしょ!と思っていました。しかし、その平和な世界が生態系のバランスを崩すキッカケとなり、その影響が動植物全体に及ぶことには想像が及ばず驚きました。更に上位からのコントロールしている捕食者がいなくなることで、逆に下位からのコントロールがはじまることを、具体的な島の例を見せられて、トゲだらけの恐ろしい世界になってしまうことにもゾッとしました。しかし、これらが自然界で起こっていることであれば、いずれも私が人間として勝手に感じた感情ですので、ある意味どうでもいいことです。問題は、これらの状況が人の手によって、過剰にコントロールされた結果起こったケースです。私の感じた感情面での人間の恐ろしさ、愚かさは、自分にとって危険な捕食者を強制排除しておきながら、「自然のバランスが崩れました、きれいな花が消えました、だから捕食者を戻してバランスを取りましょう」という非常に身勝手な行為に対して起こったものです。そもそも人間がいなければ、元々自然は壊されていなかったんだ、と思います。しかし一方で自分で壊した自然を元に戻そうという感覚があるだけ、まだマシかとも思います。人間を嫌悪してみたり、弁護してみたり考えが堂々巡りになってしまいますが、結局これが人間なんだと思うこととしてみました。人間も地球にとっては動植物の一つだし、こういうことをやっているのも自然の一つかもしれません。また、人間の存続へ感じたの危機ですが、人類にとっての全ての捕食者を駆逐した結果、頂点捕食者の地位に立って心地よく生きる人間は、爆発的に人口が増え続けております。イエローストーンのワピチと同じで、ワピチが食べ尽くした川辺の草と同様に、人間は森林やエネルギー、鉱物など地球上の資産を浪費し続けていますから、このままだと人口が増え続けていずれ大量餓死するかもしれません。もしくは新たな頂点捕食者が現れて管理されるのか。それが新種の動物か、細菌の類なのか。宇宙生物か。つい先日見たアナザースカイで生物学者の長沼毅さんが、「生命は進化するか絶滅するかしかないんですよ」と言っていた事を思い出しました。人間は、生き残る為に進化するかもしれません。
投稿者 sumio 日時 2012年12月30日
「捕食者なき世界」感想文「訓練を積んだ観察者の目」に感動しました。正しく分析、発表すること、証拠を引き出すことの労力と情熱。人を正しく導くこと、同意を取り付けることの難しさ。時空を超えた、構想力、想像力の魅力。研究者の方々のエネルギー、バイタリティーに感謝です。トップ・プレデターの役割=自然あるいは神の采配、と思いました。窮極のトップ・プレデターである人間が、自然界のトップ・プレデターを人工的にターミネート(排除)。結果として生態系のバランスを崩し、とんでもないことになっています。「風が吹けば桶屋が儲かる」のごとく、トップ・プレデター亡き後の序列No.2以下がのさばると様々な悪影響が出て、不具合、不都合のオンパレート。全世界的に観察され、今も発生、進行中です。旧約聖書に書いてあります。1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。1:29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。1:30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。(旧約聖書 創世記1章28~30)旧約聖書に直接、間接に影響される民族には、「生物の多様性」を破壊するよう刷り込みがなされていたのです。彼らがいろいろな面で「人工」に走る性向の理由も、なるほどです。そして、旧約聖書の影響下にない我が国でさえ、頂点捕食者の行いを見つけることができます。自然界での捕食者排除と同じことを、自分自身の文化の方面でやっちゃってました。それは、明治の近代化の名の下に排除した文化面での「多様性」。皆さんお気づきのことと思います。明治維新から今現在までの歴史を見ると1000年続いた神仏習合は、明治維新を境に仏は廃仏。神様もまとめられ、神と仏の仲介である修験道は禁止となりました。天皇は神となり、はじめて一神教の社会となりました。戦後表向きは改まっているように見えますが、まだ明治の残像はあります。例えば、皇室では仏教色は無くされたまま、御位牌は御所から御寺である泉桶寺に移され念持仏の習慣も失ったままです。神の側も伊勢神宮を頂点とした体制が維持され、総理の新年参拝の地であり続けてます。本来、八百万の神々は平等で、自然は我々皆の衆と同じ目線のはずですが。その結果が、明治の「富国挙兵」、戦後の「大量生産と消費」。国として、ある方向に極端から極端へ流れていく危うさ。そして今現在の政治課題のあんなことやこんなこと。「多様性」を強制排除したために、今現在の「生きにくさ」が発生しています。機械の部品を戻せば元通りになるような単純な話ではないですが、オオカミを再度飼育するように、我が国に「多様性」のタネを再び蒔き、育て、ひろめることがひとつの解決策かもしれません。「生物多様性」を上下左右そして立体的に観る視点をいただきました。ありがとうございました。
投稿者 yokoyayayuki 日時 2012年12月31日
人間は自分と家畜を守るために捕食動物を壊滅に向かわせ、その結果生態系のバランスが崩れた例がたくさん紹介されていました。これに対し筆者は人間にもともと備わっている「バイオフィリア」をもって、肩身を狭くしている生き物に「手を差し延べよう」と言っているように思われます。微妙なバランスのを保っている自然を元に戻すために、人間の「同情」だけでは不十分なのは、みなよく分かっていることだと思います。私は、人間はそろそろそろそろあきらめないといけないと思います。人間が「自己都合」を追い求める限り、生態系に迷惑をかけることは必ず起こるからです。・もっとおいしいものを安く食べたい・家畜は一切襲われたくない・でも自然は守りたい・資源をがんがん取って、がんがん使いたいもどんどんあきらめるか、別な対処方法を見つけなくては行けないと思います。人間には知恵があるので、今までの失敗の歴史から学んで、生態系との正しい関わり方を全世界で行っていくべきだと思いました。
投稿者 BruceLee 日時 2012年12月31日
「捕食者なき世界」における姿勢とは?本書を読み終え、天井を睨みながら思案すること暫し。。。が、何も閃かず。で、同時に紹介されていた「羆嵐」を読み、その凄まじい興奮が落ち着き始めた頃、混沌とした頭の中が少し整理され、見えてきたポイントは以下2点。1)自然に人の手が加わると不自然になる2)人類数千年程度の叡智では適わない自然の力がある。と、両者とも笑ってしまうほど当たり前なこと。が、本書を読まなければ改めて考えもしなかったこと。ヒントを貰った一文がある。「訳者あとがき」の一文だ。「結局のところ、狼とワピチの知恵比べが緑を蘇らせたのです。食うものと食われるものが常にピリピリと神経を張り巡らせている、それが自然本来の姿なのでしょう」この「常にピリピリと神経を張り巡らせている」とは、言ってみれば「緊張感」のことだ。勿論、オオカミがワピチを襲い、物理的にワピチは減ったのだろう。しかしそれ以上に重要なのは、オオカミという上位者の存在を知覚したワピチが、襲われる脅威を認識し、緊張感を持って自ら思考・行動を変え始めた結果、自然界でのバランスが生まれたのだ。まさに自然に生まれた調和であり、これもまた自然の偉大な力なのだ。「恐怖」を持った生き物はどういう思考・行動をとるのか?人間世界での具体例は「羆嵐」に赤裸々に描かれている。食うものと食われるものの緊張感、これが自然には必要なのだろう。実際、日本ではどうか?確かに人間が優先されオオカミは殲滅されたかも知れない。だが仮にオオカミが優先されていたら?「羆嵐」には及ばないだろうが、恐らく毎年何人かの日本人がオオカミにより死傷する事件が発生していたであろう。が、それはやはり現実問題として受け入れがたい状態である。だからと言って「人間は万物の霊長」という言葉を過信し驕るとどうなるか? 人間の都合と現時点で明確になっている科学的根拠で何でもやって良いのだ、という姿勢では自然にしっぺ返しを食らう。その具体例を本書は示しているし、教訓的な古いSF映画もある。人間の叡智を結集した核戦争の結果、人類が猿人という上位者に支配される驚愕の世界、そう「猿の惑星」だ。また上位者は動物だけに限らない。それを我々日本人は1年前に経験している。人間の叡智である原発が地震と津波という大いなる自然の前に屈したケース。そしてその本当の人体への影響は今日時点で確認出来ていないだけで、数年いや数十年後に目の当たりにするかも知れない。少なくともその脅威と緊張感を我々は体験しているのだ。では、我々はどうすればよいのか?自然に対し人間は大それた事を考えてはいけないし現段階で確実な正解など無い。が、誰にでも直ぐに出来ることがある。それは「自然界に思いを馳せる」ことだ。自然界を人間の都合に合わせ気安く変えてしまおう、などと傲慢な態度は取らず、思いを馳せ、自然の神秘を認め、神聖視し、畏敬の念を忘れない、まずはその姿勢が重要だと思うのだ。何故なら我々は自然界に「生きている」のではなく、「生かされている」から。一見、人間の捕食者や上位者は存在していないように思えるけれども、それは人間に見えていないだけ、見ようとしていないだけで、確実に「ある」し「いる」のだ。人類はその姿勢を持てるはずなのだ。何故ならそれは宗教に対する姿勢と同じだから。目に見えなくとも、その尊い存在を信じ、思いを馳せ、日々敬う姿勢。。。まさに宗教ではないか!ならば、それと同じ姿勢を大自然にも持てるはずだ。私自身が本書を読んで当たり前なことを改めて考えたように、もっと自然に興味を持ち、学ぶために更に本を読んだり、ドキュメンタリーを観ることで何かを得るかもしれない。その姿勢を持つことが意識に影響し、意識が思考となり、思考が行動を変えるのだ。それはほんの小さな一歩だろう。しかし、この地球上における人間と自然の調和への貴重な一歩にもなりうる、と思うのだ。
投稿者 sishida 日時 2012年12月31日
捕食者なき世界を読んで「恐怖」一個体としてその渦中におかれることは不幸な結果になることもありますが、すべての生き物が全体でバランスよくこの感情を持ち合わせていないと、とんでもない形でしっぺ返しがくるものだと痛感しました。オオカミやクマなどを排除した人間は、恐怖心を克服したと考えつつも、これは人間自身を生きにくくさせている行為に感じてなりません。もちろん、他の生き物にとっても。頂点捕食者として人間が行動することで意識するしないに関わらず、容易に自然への影響を及ぼしてしまうところまで来てしまいました。孤独な人間はこれからどう振る舞えばいいのでしょうか。以前、捕鯨で有名な和歌山県太地町に伺ったときに奇妙な光景を目にしました。というのは、クジラは狩猟の対象として取り扱われるので、当然、人間には恐怖を感じるはずなのですが、何と海水浴場に自らの意志で遊びに来ていたのです。クジラにとってあの場所はどのような場所なのでしょうか。一つ考えられるのは、自然に対する感謝、畏敬の念が町全体から発せられているために人間とクジラの共生が成り立っているのではないかと言うことでした。全人類がこのような考えを持つのは難しいかもしれませんが、人間が孤立せず、豊富な自然を維持するためのヒントはこのあたりにあるのかもしれません。ありがとうございました。
投稿者 nagi1123 日時 2012年12月31日
「捕食者なき世界」生物の多様性については、私自身、海の緑化再生に関する仕事に携わっているということもあり、非常に興味のあるテーマです。実際に日本の沿岸の海でも、生物の多様性が失われて石灰藻とウニに占拠された“磯焼け”という現象が起こっています。磯焼けに関しては、近年の宅地造成による里山の消失により、腐植物質(腐葉土などの有機成分と考えて下さい)が河川を経て海へ供給されなくなることによる鉄の欠乏が原因とされています。鉄は生物の呼吸系を司る必須元素であり、海の一次生産者(植物プランクトンなど)の増殖のトリガー因子です。鉄は地殻で5番目に多量に存在する元素ですが、海水中では水酸化物を形成して不溶化し、生物に利用されにくい状態となります。実際に海水中に溶存している鉄の殆どは、腐植酸などの有機配位子との錯形成によるものです。従って、里山の消失 → 腐植物質の供給遮断 → 鉄の欠乏 → 一次生産者の減少 → 生物多様性の単一化 → 磯焼け、に繋がると考えられています。つまり、生物ピラミッドの底辺の縮小が生物多様性の単一化に繋がるとの考え方であり、本書の生物ピラミッドの頂点(トッププレデター)の消失が原因という考え方はまさに目からウロコの視点でした。思えば、磯焼けに限らず、近年の日本沿岸域において、オニヒトデの大量発生による珊瑚礁の壊滅的被害やエチゼンクラゲの大量発生など、生物の多様性が著しく失われている現象をダイバーとして目の当たりにしてきました。これらの現象を、近年の気候変動という理由で片付けようとする人たちも多いですが、私は本来自然が持っている自浄作用や緩衝作用を、人間活動の環境改造の作用が上回ってしまった結果だと思っています。人類は、豊かさを求めるがゆえに、利便性を追求し、身の回りの環境を自分たちに都合よく改造し、生物の多様性を排除してきました。野生の生き物を排除し、家畜と農作物に造り変え、コンクリートで塗り固めた人工物だらけの街を形成しました。そこには野生の生物の入り込む余地は少なく、その周りの地域も次第に多様性が失われつつあります。これが本当の豊かさなのでしょうか?岡山の田舎に引っ越して大地に根ざした生活を営み、太陽の恵みを直接感じておられるしょうおんさんのツイートを見るたび、本当の「豊かさ」についての答えを教えられた気がしています。コンビニエンスストアやファーストフードの食べ物に太陽の恵みを感じられないのは、自分の意識が向いていないのと同時に、食材自体も加工されすぎて生命の息吹きが消失してしまっているのでしょう。人には本来バイオフィリアが備わっているがゆえに、どこかで自然を求めているのだと思います。私が週末の多くをスキューバダイビングで自然の海の中で過ごすのも、年間3回も4回も沖縄の長閑な離島へ旅立たずには居れないのも、自然を求めているからなのでしょう。しかし、人間には「環境適応性」が備わっています。生まれたときから東京の都会で暮らし、「利便性=豊かさ」という価値観に染まってしまっている私には、田舎の自然の空気は濃度が濃すぎるのです。いくら自然に癒されるといっても、おびただしい数の虫を見ただけで都会に帰りたいと思うことでしょう。自然との共存はイメージとしては理想的ですが、実行するとなるとその苦労は並大抵ではないと思います。それでもやはり、私には自然が必要です。自然とは生物の多様性であり、人間の都合で造られたものではありません。人類は科学の力で夢を実現させてきました。しかし、『アミ 小さな宇宙人(エンリケ・バリオス著)』の言葉を借りるなら「今の地球は、科学と愛のバランスが科学の方に異常に傾きすぎている。こういった文明はいずれ自滅してしまう。地球はその変換点にある」ということでしょう。アメリカの大規模農家では、上空から除草剤を撒き散らし、薬剤耐性の遺伝子組み換え作物以外の一切の生物を手軽に駆除しています。実は、すでに私たち人間もこのような思想で、まるで遺伝子組み換え作物のように生活しているのではないでしょうか?遺伝子を組み換える代わりに、「価値観」が染め変えられているのではないでしょうか?「価値観」を本来の姿に戻すための意識改革として、少しずつ身の回りの「西洋医学」的発想を、「東洋医学」的発想へ転換していきたいと思います。「西洋医学」的発想とは、利害の一致しないものを排除する考え方です。癌になったら切除したり、薬剤や放射線を当てて徹底的に撲滅する。人間の都合だけで他者を排除し、結局はその力で自分自身が苦しみます。対して「東洋医学」的発想とは、人間本来の力を呼び覚ます考え方です。癌になったら、免疫力を高めて発症を抑えながら上手に共存していく。人間が自然の一員であることを認識できたとき、人間本来の能力も再認識できるのだと思います。だから人生は「遺伝子組み換え作物」より「自然農法」でありたい。苦労も多いが、味のあるオイシイ人生だと思うんですよね。そういった意味で、やはり常に私たちの十歩前を行くしょうおんさんは、いつもお手本を指し示し、私が机上の空論で求めていた答えを、すでに実践されていたのだと気付きました。ありがとうございます。
投稿者 shima 日時 2012年12月31日
捕食者なき世界を読んでみなさまの感想文も合わせて読ませていただき、自分の思考、知識の浅さ、狭さを改めて認識しています。逆にそれが知ることができてよかったのかな、とも思います。今回の本は、どのような意図で課題図書となったのか。それを考えることもできず、ひたすら内容のおもしろさにのめりこみました。知らないことを知っていく、その喜びに触れることができました。なかでも登場してくる学者たちの観察する能力に感心してしまいます。今見えている景色から、疑問、問題を見つける能力。これはビジネスの上でも重要と考えています。また私個人の課題でもあります。物事の見方を変える、当たり前に感じてしまっていることに疑問を持つ。そのことはビジネス面だけでなく学術分野でも通用することなのだな、と再認識しました。今はまだこの本から他の塾生の方々のように思考を展開することはできていませんが少しずつでも自分なりの考えを展開できるような能力と読解力を養っていきたいと思います。ありがとうございました。
投稿者 minoru 日時 2012年12月31日
「捕食者なき世界」を読んで
私がこの本を読み興味を持ったのは、恐怖や欲望などの「本能」が与える影響、
そして本能に突き動かされた行動についてである。
自然の生態系を維持しているのは、トッププレデターの「狩り」による
被捕食者数の増加抑制だけでなく、「恐怖」を介した行動範囲の限局化にあった。
被捕食者の行動は、「恐怖」と「食欲」という二つの「本能」のせめぎ合いの結果、選択される。
トッププレデターがいなくなると「恐怖」がなくなり「食欲」が常に行動を支配し、
ついには「欲望」のままに植物を貪ることで自らの首を絞め、最後には飢餓で絶滅してしまう。
常に安心して暮らしたいと願う一方、本当に安全な暮らしを手に入れた結果、
自滅していくとはなんとも皮肉な結果である。
この悲惨な結果を知った時、私はふと「我々人間も同じような道を歩んでいるのではないか?」
と考えてしまった。
「今」という時代を楽しく生きるために、限りある資源を貪る人類。
さらには、原子力のような「負の遺産」を子孫に押し付け、電気という「快楽」を享受する。
私たち人間も、一時の楽園を謳歌したシカのように悲惨な運命を辿るのではないかと不安がよぎる。
それでは、我々はどうすればよいのか?
生物の多様性を取り戻すために科学者たちは、トッププレデターを自然に戻す取り組みを
行おうとしている。しかし、それを阻むのは我々がもつトッププレデターに対する「恐怖」。
この本を読み、頭では理解してもやはり、
「じゃあ来月から近くの森にオオカミを100頭放し飼いにします。」と言われれば、
「ちょっと待ってくれ!」と言ってしまうだろう。
これは、やはりトッププレデターに対する「恐怖」であり、この「恐怖」が取り除けない限り、
トッププレデター復活による自然再生は実現不可能である。
我々人間にも「恐怖」という名の本能は刻まれており、
この感情が未来を見据えた冷静な判断を鈍らせることになる気がする。
保全生物学の科学者が目指す世界の実現に、個人が寄与するのは難しいが、
この本を読んでの教訓として、「真実を紐解く思考」を身につけたいと思いました。
・「今」を楽しく生きるだけでなく、長い視点で考え、本当に幸せな生活を送るにはどうしたらよいか?
・「原子力」のように、一部の利益享受者の扇動によって、存在しても問題ないかのように、
我々の感覚が麻痺しているものはないか?
・人生において発生する様々な問題(仕事、家庭など)の真因はどこにあるのか?
・良かれと思ってしてきた何気ない行動が問題を引き起こしていないか?
など物事の本質を見つけ、できるだけ多くの人が幸せになれるような判断を
していきたいと思う。すぐにはできなくとも、本質を見つけるために
「視線を高く」することを意識するだけでも少しずつ「個人」や「人類」の未来が
好転するのではないかと思います。
特に、「本能」を刺激された行動を取る際は、冷静な判断をしづらい傾向があるため、
より慎重に判断する必要があると思いました。
単純にオオカミが「怖い」から、拒絶するのではなく、未来に対するメリット、デメリットを冷静に判断し、デメリット(恐怖)を少しでも少なくする対策を考える。
実際に行動するのは難しくても、少なくとも頭ではそうありたいと思います。
ありがとうございました。
投稿者 yunyunpanda 日時 2012年12月31日
熊嵐では人間が熊を退治することと、熊に人間が喰われるという構図が鮮明に描き出されていましたが、捕食者なき世界を読んで人間は捕食者であると同時に非捕食者でもあるのだなということを改めて理解できました。また、現代で人間が捕食者となる一番の理由は「恐怖」からくるのだなと納得しました。
投稿者 whockey51 日時 2012年12月31日
動物社会も人間社会もピラミッドによって構成されていることがわかる。ピラミッドの頂点に立つ、捕食者によって下のものが食われていることが随所に理解できる。ずっと昔から、世の中の道理は変わっていないことが見て取れる。捕食者が変わった世界が決して美しくなかったことが、述べられているがこれは今の日本を見ればそのことが感じ取れる。3年3ヶ月前の衆議院選挙によって民主党が政権をとったが、捕捉者が逆転した世界がどういったものだったが、我々自身が経験したことで述べられる。ただ、長い目で見れば有害だと思っていたことも、有益に考えられる。民主党政権によって、何が正しくて何が正しくないかが見ることができたからだ。この本で学んだことは、自分が捕捉者となるべき位置にいること。または、その位置が逆転しても、死なないようなすべを身に着けることがあげられる。2013年はそのことを意識して、行動をしていきたい。
投稿者 gizumo 日時 2012年12月31日
捕食者なき世界を読んで課題本を読みながら子どもの頃に楽しみにしていたテレビ番組をふと思い出しました。雄大な自然と繰り広げられる死闘。食べられる「弱い」小動物と攻撃する「強い」肉食動物、の構造に「悪者」肉食獣のイメージは強く残っていました。海の世界でも同様に、小さな魚は大きな魚に食べられる。そしてさらに大きな魚に食べられる事を繰り返して行く。「かわいそうに…食べれれなければもっといろいろ楽しい事もあったろう…」と同情さえしていました。大人になって多少なりとも「世の中の仕組み」を理解してわかってはいるものの、依然「かわいそう…」のイメージをもったままこの本を読み進んでしまっていました。自己啓発本をなどで「人生に必要でないことは起こらない」などと言われますが、これは自然においても同じなんだ…と。さらに、その中で「人間にはどんな役割があるのか?」「その自然を破壊している人間はどうすべきか?」等、考えこんでしまいました。「かわいそう」なんて“人間のエゴ”でしかないんですよね。この本では事実の追求に、長いスパンで丁寧に観察を続ける研究者という仕事も興味が湧きました。利害関係の多い社会の中で事実のために仕事する困難と戦う姿勢に憧れます。また、全く興味を持てなかった「化石」「恐竜」などや動物の進化などもなるべくしてなったという、不可欠な事実の解明が非常に楽しめた本でもありました。
投稿者 chapon1st 日時 2012年12月31日
「捕食者なき世界」を読んで地球上のさまざまな生態系において、捕食ピラミッドの頂点捕食者の存在が生態系の多様性維持に大きな影響を持っているという事が、本書では詳しく解説されています。各章に登場する生物のエピソードは、学者や研究者の野生動物に対する想いを感じずにはいられないほど、非常に読みごたえがありました。本書の中でひとつの論点となっている「頂点捕食者を生態系に戻すべきかどうか」ですが、イエローストーン国立公園のような成功例は喜ばしいと思うものの、人間と野生動物との共存に深く関わる問題であるため、野生動物を身近に感じるような生活を送っていない私には、軽率に是非を論じられません。論じたところで、単なる自己満足になってしまう気がします。本書の解説では、日本のシカやヤギの例の事象が紹介されており、不勉強な自分を恥ずかしいと思いましたが、本書のエピローグにあった「シフティング・ベースライン・シンドローム」という考え方は十分に共感できるものでした。私は昭和四十年代生まれですが、世代の違う親や子供は考え方の基準ももちろん違います。自然環境の問題も含め「これはこうあるべき」というレベルに差がある事は否めません。そんな生活基盤の中にある自分ができる事って一体なんだろう、と考えたところ、自然との関わりを積極的に持ち、家族にも持たせ、なおかつ子供が「ビデオフィリア」にならないよう努める事はできるのではないかと思いました。海や山に繰り出すとか、キャンプに行くとか、まったく大した事ではないんですが、人間も生態系に属している事を認識するためには、やはりアウトドアからですよね。「自然に思いを馳せる」とか良くいいますが、こういう文句ってすごく抽象的に感じてしまいます。具体的な行動に落とし込めないもどかしさがあるというか。私はしょ~おん先生の良書リストもまだ未消化なので、課題図書のコメント投稿は初めてです。ですが、本書で提起されているような問題を身近なものとして捉えるには、具体的な行動レベルで考える必要があると感じました。考えても実践できる事ばかりでもありませんし。本年はしょ~おん先生とご縁があり感謝しております。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
投稿者 yamag 日時 2012年12月31日
私は、人間の可能性を信じています。無限の可能性について言えば、この世界に、富という考え方を通貨をもちいて作り出し、一見有限な世界の中に、ニーズという心の満足に基準を見出し、豊かさを今もなお生み出しています。しかし、食料や空間という現実に根をはる対象に根ざすものには、有限を感じます。より美味しく、より手軽に、手に入るもの求め、より安全で、快適な空間のために、人はあらゆることを続けてきました。それこそ、ワンホールのケーキの取り分を争うように。その結果どういう結果になったのか、どういう未来が待っているのかを、本書は警告している気がします。その主張を受けて、「ハチはなぜ大量死したのか」の時には、ここまで悩みませんでした。私の田舎では、カモシカやクマが、たまに村里に出没し、事件を起こしていきます。カモシカなら、まだ微笑ましいかもしれませんが、クマの場合には、そうはいきません。近所のおじさんが、襲われて重体をおった時があります。また、私自身も車に乗車中に遭遇したことがあります。あれが遮るものがなく対峙していたら・・・だからこそ、綺麗ごとではないと思います。その時のことを考えると、真剣に考えれば、安全性は欲しいです。そして、安全を担保するのであれば、私たち人間と違う異質の存在に恐怖などの「偏見」も致し方ない部分もあるのではないのかと思います。しかし、その事実も踏まえつつ、筆者は捕食者の回復を前面に、訴えているように思えます。ですが、私は思います。今の自然の現状を回復をするには、勇気がいります。そして、その回復というのは、どこまでが必要なのでしょうか。日本の原風景を里山だという思想に対し、里山とは人間が人為的に作り出した、人間に都合のいい結果だという話があります。「基準推移症候群」で言及されている事象は、今に始まったことなのでしょうか。野生の基準が下がっているのは、若者だけなのでしょうか。今の自分たちから見た若者への感覚は、遠い先祖からみたら、自分らも感じられているのではないか、そんなふうに思うのです。そして、今、山間部まで道路で切り開き、動物たちもろくにいない状況から、どこまで回復させるのでしょうか。世界を求める前に、身近な国内から考えた場合、もとめるレベルは何か、この不自然をどこまで、自然に回復させるのか、考えなければ、いけません。私は、捕食者に恐れを抱きつつも、本書を読んで、現状のまま推移することの問題点も考えてしまいました。その中で考える理想は、現状を受け入れた上で、「人間の可能性を模索しながら」、「傲慢にならず、自然に畏敬の念を持ち」、現状を改善していくことです。つまり、現状の自然は、「人がいる限り」、おそらく太古に回帰することはないことを踏まえ、その状況の中でできる「人から自然への思いやり」を想像力の限り行う。それは、移送や交配も含め、″不自然さ″を拭えないでしょうが、大切なのは目的です。そして、自然を、人に対しての相手と考えるなら、「畏敬の念を持った相手をどうにかしよう」と思うでしょうか、大切なのはお互いを尊重しつつも、こちらから変わっていくことなのだと思います。心境としては、すべてを手放し、自然に対して優位に、原点回帰などと単純に思えませんが、現状を打開する必要性も十二分に感じています。まずは、国内の、しかも自分の故郷の環境で起きていることから、改善を測っていきたいと思います。まずは、自分の身近な現状を知り、そこでできることをやっていきます。今後も、考え、考え、行動し、自然と人間の間のより良い関係を模索していきたいと思います。本年も、良書との出会いをありがとうございます。今後とも精進してまいります。
投稿者 takizawametal 日時 2012年12月31日
人間が壊したのは、公害や開発で自然環境を壊したに限らず生態系もこんな理由で壊していたのが、ショックでした。人間がコントロールし出した自然の驚異は、これから人類が払わなくてはならない、膨大なツケの中に含まれる物である事は間違いないと思う。目の前の自分たちの脅威を取り除いた事が、将来の自分や子孫達にツケを払わせる。皮肉な結果ですが、身につまされる物がありました。
投稿者 kakki 日時 2012年12月31日
人間にとって危険な動物は、絶滅しよう草食動物は、弱くて可愛そうだから助けよう絶滅しそうな種類の動植物は、保護しよう増えすぎた動植物は減らそうと単純に答えを、出すべきではないんだという事を学びました。著者をはじめ、学者達の研究により生態系への影響が少しずつ分かってきていることも知りました。人間だけが真の捕食者として、頂点に君臨していますが天変地異や生態系の異常は、人間がもたらしているのではないかと思ってしまいます。勝ち組、負け組という言葉があるように強いものが弱いものを制圧するのは、人間の間にも広がっています。2013年は、他者に負けない武器を持つ知恵を身につける仲間と連携する危険を予測するアンテナを張る天敵のいない場所に移動する等、本書を読んで自分の出来る生き残る方法を模索する年にしていこうと思います。来年も宜しくお願い致します。
投稿者 YOSHIKAWA 日時 2012年12月31日
子供のアレルギー性疾患は先進国のほうが発生割合が高い。その理由として、先進国はより清潔であり、下水が整備され飲み水も安全になったため、病気を発生させるバクテリアやウィルス、これら微生物の作る物質にさらされる機会が大幅に減少したため、免疫系が鍛えられず、本来無害な侵入者に対してさえ過剰に反応するようになってしまったためという説がある。オオカミがいなくなったことで、シカの頭数が増え、植物種の絶滅をもたらすほどに生態系に影響を与えているが、実態を調査した学者は、その手から餌を食べるシカを見て、捕食者がいなくなったことでシカが心理的に大胆になったことに気付く。生態系が全体として繁栄するためには、食物連鎖の頂点に立つ捕食者による適切な「管理」が必要ではないかという。外敵との間に緊張関係があって初めて、系は全体として繁栄することができる。しかし系全体の繁栄があるべきすがたかといえば、それも一つの見方でしかない。私は、という話ならば、視力も体力も人より劣り、猛獣の脅威や細菌・ウィルスへの対抗手段が未発達な環境では永らえることができない。自然科学者へのあこがれはあるけれど、この本に書かれた多くの科学者のように密林に分け入って多様な生態を観察することはできない。他人の能力に守られることが、生き延びるための前提になっている。その一方で、仕事や趣味の世界では時にリーダーとして人の先頭に立つことを求められる。その時に求められるのは、ある面で人より多くの時間と熱意を注ぎ込んで獲得した自分の知見だ。目に浮かぶのは「手をつないで輪になって、みんなで補い合って幸せになろうよう」というイメージだ。来年もよろしくお願いします。
投稿者 maetetsu 日時 2012年12月31日
捕食者であり、被捕食者である人間。壮大な食物連鎖を、まざまざと感じたひと時だった。人類が上位捕食者を駆逐していくことで、安心と安全を手に入れることが可能になった。しかし現代では、当たり前すぎて有難さを感じることすら無くなってしまった。生きるか死ぬかという危険を、常に感じながら生きていくなんて、想像しただけでもぞっとする。しかし、試しに生活の傍らに「死」を据えてみる。いつもの朝食。眠い頭で、ボーっとしながら、充分に味わう事もなく、ただ体に入れていた。その傍らに「死」をポンと置いてみると、ひとくち一口が、いとおしく思えた。
投稿者 wapooh 日時 2013年1月1日
「捕食者なき世界」を読んで本書の中に、『人間という生命が被食者としての恐怖と対峙する過程で獲得したものとして「言語」と「計画」があった』とされているが、いま言語を用いて感想文を書く自分の計画性は低く、進化を無駄にしていると感じる。(23:30)「もうこんな一年はうんざりだ、来年は一回でも早く締め切り前に計画的に投稿するぞ』しょ~おんさんの紹介文を読み、捕食者による恐怖から逃れどのくらい愚行を重ねているのか、という観点から読み進めていた。オオカミの不在による鹿、ヒトデから解放されたイガイ、ラッコの不在による海の森の荒廃、大型動物捕食者の絶滅による自然の壊滅、有毒有棘植物の殺伐とした世界・・・すべての負の結果に、現生を重ねる。近代化による環境破壊、資源の枯渇、食糧の不足、増え続ける人口、身近なところでは、3.11後の原発による土壌・海洋の汚染、ニホンカモシカ、野生化しきれないトキ、クマ、イノシシ、サルが人を襲う事件・・・。ページを読み進むにつれて、そんな自分の視点の狭さでは想像できない事実が紹介される。最後の一撃。古代マンモスも大型恐竜も、『アウストラロピテクス』『ホモサピエンス』、、、人間の祖先がこの世に発生した同時期に絶滅をするという説。捕食者の不在と、被食者による欲望のままの過剰摂取によって、世界は荒廃する。人間の過剰摂取は食糧、資源、環境・・・他の動植物以上のあらゆるものに及んでいる。捕食者のいない島で増え続け、最後には絶滅する鹿の様に自らの存在を絶やさぬためには、我々はどうすればよいのか?この(科学的)な事実を解釈し改善するのは、我々の美意識による、とある。キーとなるのは『想像力』『バイオフィリア=生命愛』と。人間は、現実を見て自らの無力さを改めて悟り、謙虚になるととともに、プロングホーンのように恐怖心を失わず、現在の情緒と美しさをもってもう一度、豊かな世界を取り戻すことができるのではないか。そうして、どうにか生き延びれたことに誇りと喜びを感じられるのだ、と。以上のように、本書の内容をとらえたのですが、日々自分の生活において、今回の読書をどのように生かせばいいものか。いくつかの言葉から考え、今月以降の課題としたい。『過ぎたるは及ばざるがごとし』自分の欲望・欲求のままに思考・行動せぬように心がけること。人間の心が暴走し、モンスターと化して、悪魔となり、孤立する、と一文があったが、最近の友人の一言を思い出す。「日本語の聖書の『悪魔』って英語では『ego』なんだよ」って。そのまんま。資源や時間の過剰摂取をやめること=今より少しでも計画的に生きること。心のままにスマフォをいじってエゴを大きくしないこと。電力と時間を浪費しないこと。。『ビデオフィリア』インターネット、ビデオなどを通して、画面の向こうの世界を見続けることは、人間の目を曇らせ、おろかにする、とある。安全なところに身を置いて、戦争や惨状を見ているようなもの。日々、五感を感情を鈍化させることなく、現実の社会で今を生きること。ちゃんと人と出会い声を聴き、喜びも痛みも持って成長すること。体を動かすこと、季節の移ろいを感じ、美味しいご飯を食べ香りを感じ、音を感じ喜んで生きること。『not Aの世界』A=今、科学的なアプローチにより分かっている世界が絶対ではないこと。本書の「捕食者が被食者や環境を制御している」という見解に至るまでに、学界では真逆の説が信じられていた。それが一人、または数人の研究者の視点の変換により、見えない世界が次々と見え発表され自然界の機能が解明されている。科学は移ろうもの。技術屋の自分の生活に思う。視点を狭くしないこと。視野を広く持ち、色々な世界からのアプローチを学ぶことで、見えてくる世界がある。自分の仕事のテーマに関して、その分野のメガネでルールで見つめないこと、かつ日々絶えずよく観察すること。しかし、長年の経験年数に固執して、頭を膠着させないこと。本書を読みながら、いくつかの良書リストのタイトルとしょうおんさんのコメントが次々と浮かんでつながってきた。それらを、一つ一つ必ず読んでいこう。数か月、心について学んできたのですが、今月は自分という存在について自然環境の中で考えました。科学的だと思われた本書が最後には、『すべては自己判断』『人間の心』が決めること、といいます。心。この課題図書を読む、という行動やしょうおんさんのメルマガ,講座を通して学んだこと後日の経験、仲間との出会いや交流を通して学ぶ誠実なこころの存在。新しい年は一つでも多く真摯に心を持って人・物・事に向き合えるように、大事に行動できる自分になりたいです。感じる心を養う機会をくださって有難うございました。
投稿者 MRiver 日時 2013年1月1日
なぜ人間が食物連鎖のトップに立つことができたのか?それは、脳が大きくなったからなのだが、どうしてそんなことが起きたのか、ただの偶然なのか、などと考えながらこの本を読んだ。高度に発達した脳を持つヒトの行動基準は、「喰うか喰われるか」「損か得か」「便利か不便か」という判断だけではないはずだ。科学的なデータを元に展開されてきたこの本の終盤に、「人間が自然に対して行動を決める基準は、美意識なのだ」という一文があった。人が持つ「美しい」という基準に合致した行動が他の動物や環境にプラスならば、トッププレデターが保ってきた自然を、人も守っていくことができるのではないか。そのためには、現状の悲惨さを訴えるこのような本をもっと多くの人に知ってもらうことが必要なのだろう。
投稿者 koro 日時 2013年1月1日
新年明けまして、おめでとうございます。なぜ、生物多様性が必要なのか?多様な生物が生存している世界が美しいと感じるのはなぜか?人類が活動も自然の流れの一部と考えるなら、恐竜が絶滅した原因と考えられている隕石の衝突と同じようなものであって人類の活動によって生物のバランスが崩れる事は一時的な擾乱ともみれる。中期的には、現存する生物が全て死滅する可能性もあるかもしれないが、長い年月が立てば、また新たなバランスをとるヒエラルキーが生まれるのではないだろうか。はたまた、人類が擾乱を起こす前のバランスを保つ為に知性というものが存在するのだろうか。バランスを保つ為に上位捕食者を環境に戻すという行為が、変化を恐れた行為と考えられなくもない。その考え自体に善し悪しを付けることはできませんが。