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第144回目(2023年4月)の課題本


4月課題図書

 

黒い海 船は突然、深海へ消えた

 

この本、やたらと年末にSNSで紹介されまして、そのあまりの高評価につい手に取ってみ

たわけですが、この筆致のスピード感はただ者じゃありません。本好きの人は、読み終わ

るまでの時間を確保して、他に予定を入れないようにしてからページをめくりましょう。

なぜなら、読み始めたら途中で止めることはできないと思いますから。

 

千葉県沖で漁船が突然沈没し、17名が帰らぬ人となります。沈没の理由が全く分からず、

海難史上最大規模の未解決事件となります。この遭難事件の真相を著者が手探りで、繙い

ていくのですが、捜査権を持たない一般人が良くここまで深いところにメスを入れたなと

いう驚きと、暴かれる事実、そこから推測できる真相に、身の毛がよだつ思いがします。

 

さわやかな読後感ではありませんが、読み応えのある面白い本でした。

 

 【しょ~おんコメント】

4月分投票結果

 

4月分の結果は、LifeCanBeRichさんが4票、cocona1さんと、masa3843さんが3票、1992

んと、msykmtさんが各1票でした。

 

その結果、第一回の総合一位は、masa3843さんとLifeCanBeRichさんが両者譲らず15pts

同率一位となりました。第三位はcocona1さんが13ptsで肉薄したんですが、あと一歩届か

ずでした。

 

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、ある決定をする際には決定の根拠となる情報を開示し、お互いの理解と認識を深めていくのは必要な過程であると、改めて感じました。


疑問に思ったのは、国の運輸安全委員会が事故の原因は波の影響であるという、公表報告の根拠となった資料の開示が今も行われていないのはなぜなのか、という事です。


事故の報告書を作成するために使用した関係資料の公開も拒んでいては、実際に事故に遭った方達や遺族も、事故の原因とした根拠が開示されなければ、納得する事は出来ません。


彼らが事故の原因について納得できない理由が、事故に遭い生き残った3人船員や、救助に駆けつけた同僚らの体験した証言が、運輸安全委員会の報告内容と矛盾しているという点です。


事故から生還した豊田の証言によると、第58寿和丸は転覆前に右舷前方で2度の衝撃を受けたと証言しています。


3人が船員室を飛び出して甲板へ駆け上がった時には、船上はどこも海水をかぶっていないが、海面が異様に近くにあり、右舷船底から大量の海水が流入し、船全体が沈下を始めていました。さらに、豊田は脱出時に船首が前のめりで、右舷側に傾いていた、とも証言しています。


本書に書かれている通り、波や大型生物のクジラとの接触により船が損傷したとは考えにくく、著者が考察したように、潜水艦との接触があった上で沈没したと考えられます。


しかし、国の運輸安全委員会が出した報告書では、『大波を右舷前方の舷側に受けて右舷中央付近から海水が打ち込み、船首甲板に滞留して船首が沈下するとともに右傾斜が増大し、右舷船首の乾舷が減少した状態となり、右舷舷側から波が連続して打ち込んで更に傾斜が増大し、右舷端が没水して復原することなく転覆したことにより発生した可能性があると考えられる。』(運輸安全委員会HP 報告書番号:MA2011-4 事故等名:漁船第五十八寿和丸沈没 より)と記載しています。


実際に事故を体験した何かに接触した揺れについての記述は一切なく、事故を調査した委員会の報告書の内容とは明らかに異なっているのに、報告書を作成する際に参考にした資料の開示は行われないままとなっています。


そのような状態で、国側の資料の開示が成されないという事に、事故を経験した生還者や、遺族の方々や、漁業の同僚の方は納得できるものではありません。


双方の理解は進まず、何か隠さなければいけない理由や意図があるのではないか、と著者のように疑問を持ち、取材しながら事実を追求しようとする今のような状態にもなります。


もしも、潜水艦との接触したのであれば、国は潜水艦を所有する関係機関や、他国へ調査協力を求めれば良かったのだと考えます。


調査を行えたなら、接触の原因は潜水艦なのかが判断できますし、もしも調査拒否をされたなら、遺族や関係者だけではなく、多くの国民を巻き込んだ、調査協力要請への大きな運動へと繋げることが出来ます。


一方的に意見を通そうとすれば、他の意見を持つ人は必ず不満を持ちます。相手への丁寧な説明と納得いくまで付き合っていく、という忍耐が必要なのです。


誰でも平等に情報へのアクセスができるようになった現在、情報の発信や開示は、自分の為にも他人の為にも成るのです。


疑いや不信を抱かれる事はあるかも知れませんが、それでも一方が決めた事だという一辺倒な意見の押し付けだけでは、他方の人達は納得しません。

もしも、自分が他の人達にも影響を与える決定を行うという場合には、多くの人達から意見を聞いた上で、なぜそのような結論となったのか、という理由を相手に理解してもらえるように説明をしなければ、全ての人達から気持ちの良い了承を得る事は出来ない、という事を十分に理解した上で、考えて行動するようにします。
 
投稿者 buttercup1 日時 
この本は理不尽な状況に置かれた時に人はどう振る舞うかというテーマを描写していると思う。

本の著者がこの本の中で船が沈没した原因を調査をする箇所は推理小説のように続きが気になって一気に読んでしまった。この話が推理小説であれば、おそらく米軍の軍艦による当て逃げにより船が沈没したということが暴露されてすっきりした気分で私は本を読み終えることができただろうと思う。

しかし、現実は理不尽なもので結局船の沈没の原因ははっきりと究明することができなかった。また、船の沈没の原因は高波にあると真実を捻じ曲げた報告書が書かれた理由は、陰謀を隠蔽するためではなく単に人手不足のためと、再発防止のためになんらかの原因を報告しなければならない建前のためである。

その後地震、津波の被害、原子力発電所の事故など漁業を営む人にとっては耐えがい試練が続く。特に野崎社長は船が沈没した後会社を立て直そうとして凄まじい努力をした結果やっと目処が立ってきたこのタイミングで震災に襲われたのである。このような状況で原子力発電所の汚染水の処理の問題に突き当たった。

この著者はそれぞれに置かれた立場の人に丁寧に話を聞き、その人の視点から様々な事柄について書いていると思う。そしてそれぞれの異なる事情がわかるにつれ、私はますます理不尽さを感じぜずにはいられなかった。誰が悪いかはっきりしていれば、少なくともその人を非難し、怒りの気持ちをぶつけることができるからだ。誰が悪いか白黒つけられるなら気持ちもすっきりするだろうが、実際はそんな単純なものでない。

例えば東京電力に働いている人は近所の人にたくさんいて、その人たちを恨むこともできない。このような状況で、誰も恨まずに前を向いて進んでいけるのだろうか?野崎社長は起こってしまったことを「良い悪い」ではなく、ただある現状として受け止めているように思える。
船が沈んでしまったことも原子力発電の汚水を海に捨てなければならないことも「仕方がなかった」で片付けられるだろうか?私が野崎社長の立場にいたとすれば、おそらく彼のように物事を対処することができなかっただろうと思う。私なら誰かを責めずにいられなかったかもしれない。それ以外に心のバランスを保つことができないと思う。
 
投稿者 Cocona1 日時 
私は本書を読み、著者の圧倒的な取材力に驚いた。なぜなら著者は、一見不可能に思える聞き取りでも、守秘義務を課せられた関係者や要人たちから、実に多くの重要な証言を引き出しているからだ。そのいきさつがこの本の魅力であり、早く続きが知りたいとどんどん引き込まれていった。

著者の見事な「聞き取る力」はどこから来るのか。私は、そのもとになっているのが、「相手を悪にしない姿勢」だと考えた。

著者は早い時期から、事故の原因として潜水艦を考えていた。波を原因だとする事故報告調査書とは意見が対立している。しかも、事故報告調査書には説明がつかない点が多く、明らかに「間違っている」ように感じる。一般的に人は、対立した意見に対して、自論の正しさを訴えがちだ。今回で言えば、「波は間違っている、潜水艦が正しい」ことを証明しようと行動してしまうのだ。ところが、もし今回、著者がこのような態度で取材をしていたら、果たしてここまで重要な証言を聞き出せたかと考えると、私は難しかっただろうと思う。

著者の「相手を悪にしない姿勢」は、質問の言葉によく表れていた。例として次の3つを挙げてみる。
「可能性としてどんなことを考えましたか。」(P168)
「物事には必ず二面あり、ご本人の取材を抜きに批判的な声のみを取り上げることは極力したくありません」(P181)
「第58寿和丸の事故は当時の状況から潜水艦との衝突が原因としか考えられない。それを突き詰めることは可能だと思うか」(P234)

このような、相手を否定しない質問の仕方から、ただひたすら「真実を知りたい」と行動していることがよく分かる。それが相手に伝わったからこそ、守秘義務を課せられた人から「個人的な見解」を聞き出せたのだろう。さらに、「個人的な見解」として聞くことで、発言者が「守秘義務を破った悪」となることも避けている。これも著者の「相手を悪にしない姿勢」の一環だと考える。上記の質問の中で、私は特に3つ目に著者のジャーナリズムを感じた。自分の意見を主張しつつも、あくまで「突き詰めることの可能性」について質問しているからだ。

本書の最後で著者は、「断片的に散らばったままの事実と記憶を丁寧に拾い集め、全体像を浮かび上がらせていく」(P295)と、自分の思いを書いている。そこには著者の意見、対立する意見、どちらの善悪も、入っていない。

さらにこの「相手を悪にしない姿勢」は、野崎社長の「不条理との向き合い方」にも通じるものがあった。本書で野崎社長は、「白なら白と主張していくだけでいいのか。」と語っている。野崎社長は、自社の事故や福島の原発問題で国や東電などの不条理と向き合う中で、世の中『白か黒か』ではないことを再認識させられた。本当はきっと、不条理に放り込まれているからこそ、自分の正しさを訴えたいはずだ。それでも野崎社長は、「誰も悪にならない道」を探して進もうとしている。一方で、「(汚染水の)放出の是非を福島の漁業者に迫らないでほしい」(P270)という野崎社長の訴えは、せめて自分たちを悪にしないでほしいという要望だろうと想像する。

私は著者と野崎社長から、自分の意見を持つことと、それが正しいと主張することは別だと学んだ。というのも、自論の正しさだけを訴えれば、反対意見を持つ相手は否定されたと感じるからだ。つまり、自論を「正」とすると、相手は「悪」となってしまう。その結果、自分も相手も前に進まないことは多い。特に本書のように相手が国や大きな組織などの場合、不条理なことを突き付けられて諦めるしかなくなってしまいがちだ。違う意見を持つ相手と一緒に前に進むには、著者や野崎社長のような「相手を悪にしない姿勢」が大切である。

しかし、身の周りを見ると、自論の正しさを主張する会話があふれている。自分のコミュニケーションを振り返っても、まるでディベート大会のように、自論の善悪を競い、勝ち負けで考えていることに気づいてハッとした。自論を持つことは大事だが、その正しさを証明するための会話は対立となり、前に進めない。さらに相手が大きくなるほど不条理が生まれ、自論がどれだけ正しくても諦めるしかなくなる。しかし、不条理だと嘆くのも、諦めるのもいつでもできる。どんなに不条理だとしても、「相手を悪にしない姿勢」を持つことで、お互いに少しずつでも前に進めることを本書は教えてくれた。

おそらく、自分が本書の事例ほどの不条理に放り込まれることはなかなかないし、これからもないことを祈りたい。しかし、身近なやり取りでは、意見の違いから生まれる小さな対立は常にある。そのたびに本書を思い出し、世の中の意見には、善も悪もない。対立の原因は、相手を悪にしようとする自分ではないか、と自問しようと思う。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
黒い海を読み感動させられたことを3つにまとめたので紹介する。

◆著者のインタビューアーの力量が高いと思った。だからこそ、たくさんの取材に繋がり、有益な情報を得ることができたのだと思う。インタビューアーに最も必要なこととは何か?ある経営コンサルの配信番組で言われていたことだが、それは、こちらを信用に足る人物だと相手に思ってもらうことだという。そう思ってもらうには、インタビューする内容や相手に対して、深いレベルの予備知識や姿勢を持っている必要があるという。著者はまさにこの力量を持っていたと言える。たとえば、“潜水艦のプロ”の小林へ取材依頼の手紙を送ったときのことだ。小林は返信で、沈没理由を潜水艦に求められた理由が納得できたから取材に応じると答えた。つまりそれは、それまでの専門的な仮説と検証に対して小林から合格点を付けられたということだろう。もっと平たく言えば、会っても良いと思われた証拠だろう。また、同じく小林から、真摯に事故と向き合う姿勢に感心していると言われ、その後、何度も取材に応じてくれた。著者は謙遜していたと思うが、潜水艦に疎いままの稚拙な質問に対して、丁寧に対応してくれたと書いている。つまり、小林は、著者の知識だけではなく、取材する姿勢を見て、七面倒臭い過去の事件の取材に応じてくれたということだ。また著者は、取材のアポのとり方が丁寧だった。たとえば、横浜地方海難審判理事所の所長だった喜多に取材の依頼をしたときだ。電話でアポを取ろうとしたが埒が明かなかったので、手紙を送った。手紙の音沙汰がないので、自宅まで行った。そこで勘弁してと言われてしまった。でも無理はしない。日を改めてまた手紙を送り、その後手紙のやり取りを数回したあとに、対面取材をやっと取り付けられたのだ。インタビューする相手に無理をさせたり、煽ったりせずに、相手の出方をじっと待つ姿勢は、相手に好印象を与えたと思う。それらを踏まえると、著者のインタビューアーの力量は高かったと言える。

◆本書は好感が持てる構成だと思った。なぜならば、遺族と国それぞれに偏りすぎない内容になっていたからだ。たとえば、著者は遺族の思いにしっかりと寄り添っていた。遺族の方の事故前後の生活だったり、亡くなった方の様子だったり。だから読んでいて、遺族の方たちに感情移入し、悲しさや無念さを同じように感じて、同情や共感の気持ちが湧き上がってきた。また国に対して、しっかりと取材していた。当時の関係者から組織が持つ組織の論理などを浮き彫りにした。たとえば、新組織のポスト争奪戦や、被害者の証言を無視した結論ありきの進め方や、漁業事故は自己責任論などだ。どんなプロセスで、関わるの人のどんな利害が生じていたために、あのような結論に至ったのかをはっきりさせようとしていた。国や委員会が悪いと言い続けるのでなく、委員会などが抱えていた背景を知ろうとした態度に、私は好感を持った。著者も本書の中で似たようなことを書いていた。関係者だった人に取材する際に、ものごとには必ず二面性があるから、取材なしに批判的な記事はかきたくないと言っている。そのスタンスが、本書に貫かれているから、私は本書の構成に好感を持ったのだろう。

◆著者の行動に何度か驚かされた。たとえば、フットワークの軽さだ。取材で行った先で事件を知りすぐに、関係者に取材にしにいくスピード感がすごいと思った。また、膨大な過去資料を読み込み、船のことも都度勉強を重ねて、専門家たちの話を理解できるまでに至っていたことだ。たった1、2年で成れるの?と驚かされた。では、なぜ著者は事件をそこまで究明したかったのか?たまたま取材に行った先で聞いた雑談が発端になっているので、モチベーションなどがずっと不思議に思っていた。なぜここまで事件にのめり込むことができたのか?それには、複数の理由があると思った。たとえば、国の理不尽さへの抗議するためだったり、ジャーナリスト魂に火が付いたためだったり、ホームページのPVを稼ぐためだったり、本を書いて印税収入を稼ぐためだったりあると思う。しかし、もっとも大きかったのは、野崎の言葉に胸を打たれたからではないかと思った。著者は終章で、なぜこんな昔の事件を追うのかと問われたときに決まって思い出す情景があるそうだ。海難事故の被害にあい、会社が大きな被害を受けて、再建しようとした矢先に、東日本大震災が来て、国が出した報告書に全く納得できずにいた古希の野崎。彼が後世にこのような事件があったことを残してほしいと言ったときの、彼の思いを想像して私は胸が熱くなった。胸が詰まった。野崎をはじめとした被害者の悔しさや断腸の思いを知ってなお、そう言わせてしまったことにどうしようもない憤りが著者に湧いてきたのではないかと思う。そこから、よりジャーナリスト魂が湧いたり、さらに事件に向き合っていったのではないかと思った。

被害者の気持ちに共感し、報告書の結論の謎解きをしていく著者の活動を追体験しながら、この事件に私も巻き込まれていた。
投稿者 masa3843 日時 
本書は、フリージャーナリストの伊澤理江氏が、2008年6月に発生した第58寿和丸転覆事故について、その発生原因を探るために重ねた取材内容をまとめたノンフィクションである。この事故は、乗組員20名のうち17名が死亡もしくは行方不明となった重大事故で、現在でもその真相は解明されていない。本書を読み進める中で私が最も気になったのは、著者がこの事故について取材を重ねてきた動機である。著者は、生存した乗組員はもちろん、遺族、事故調査機関の元職員や海洋油濁対応のエキスパート、さらには潜水艦隊の元司令官にまで取材を行ってきた。また、第58寿和丸事件に関する大量の資料を詳細に読み込むだけでなく、米国の国家運輸安全委員会が公開している英文の事故調査資料から類似事故の事例を探すという徹底ぶりだ。ところが、著者がこの事件について知ったのは発生から10年以上経過した2019年秋であり、世間的には完全に忘れ去られた後なのだ。本稿では、第58寿和丸の事故について伊澤氏がなぜここまで深く調査を行ってきたのか、その理由を掘り下げてみたい。

まず、伊澤氏がこの事故に興味を持ったきっかけを確認してみよう。著者が事故を知ることになったのは、発生から11年後の2019年秋である。事故について興味を持つきっかけになったのは、第58寿和丸を所有していた酢屋商店の野崎社長の一言だ。それは、「潜水艦にぶつかったんでねえか」というものだ。著者はこの一言をきっかけに事故の詳細について調べ始め、「何かとんでもないものに行き当たりそう」だと直感したという。恐らく、この事故には潜水艦が関係しており、国がそれを隠蔽しているのではないかと伊澤氏は考えたのだろう。フリージャーナリストである著者は、特定の企業に所属しているわけではなく、執筆した記事や書籍によって報酬を得る。企業から給与として安定収入を得るわけではなく、記事そのものの価値によって収入を得る伊澤氏にとって、スクープを求める気持ちは強いのではないか。そのため、原因不明の海難事故と潜水艦というキーワードを聞いて、取材を始めたのだろうと考えられる。

では、伊澤氏はこの事件の発生原因を潜水艦との衝突であると決めつけ、その裏付けのために取材をしていたかといえば、そうとも言い切れない。もちろん、潜水艦が事故発生原因の最有力候補だと考えてはいただろう。しかし、本書を読み進めていくと、できるだけ客観的に事故原因を追求しようする著者の姿勢を感じることができる。例えば、P205では海事専門家達が主張する潜水艦衝突の反証について、尤もだと同意したうえで、「確たる証拠もないのに『潜水艦』というセンセーショナルな仮説に飛びつきたくない」と記述している。また、NTSBの膨大な事故調査資料の中から、えひめ丸の事故に関する調査資料を見つけた時も、著者の公正であろうとする姿勢を感じることができる。潜水艦と衝突して沈没に至ったえひめ丸の状況が、第58寿和丸と酷似していることに気付いた著者は、潜水艦と衝突した可能性が高いのではないかと考える一方で、えひめ丸の事故を安易に第58寿和丸の事故と結びつけることは慎まなければいけないと自制しているのだ。

伊澤氏が取材を始めたきっかけは、「潜水艦による民間漁船の沈没と国による隠蔽」というセンセーショナルなスクープ記事が世に出せると思ったからかもしれない。ところが、前述したように可能な限り客観的に事故を分析しようとする著者の姿勢からは、「スクープをモノにしたい」という利己性よりも、「真実を明らかにしたい」という公明正大さを感じることができる。真実を明らかにしたいという純粋な思いが、その取材姿勢に表れているのだ。では、著者はなぜここまで強い思いを持って、真実を探求しているのであろうか。それは、関係者達の強い無念に共感したからだ。著者は、わけも分からぬまま突然家族を失った遺族達の複雑な思いに寄り添ってきた。また、3人の生存者や野崎社長がこの事故に対して感じた不条理さを、正面から受け止めてきたのである。こうした関係者達の思いに共感した著者は、スクープのためではなく、彼らの思いに応えるため、困難な取材を進めてきたのだ。

関係者の思いを真摯に受け止め、そうした人達のために事故の真相究明を進めてきた著者の姿勢は、仕事をする私達が見習うべきものだと私は思う。仕事をする中では、自分の功を上げることに捉われてしまうことがある。自分の力で成果を出して、組織からも世間からも認められたいという我欲が顔を出してしまう。ただ、私達が日々大切にしなければいけないことは、利害関係者の幸せにつながる仕事をしていくことなのだ。第58寿和丸転覆事件の真相は、未だに解明されていない。それでも著者は、本書の最後で「望みを捨てていない」と明言している。これからも、真実を求めて難しい取材を続けていく強い決意を表明しているのだ。伊澤氏のような強い思いを持って、関係者の思いを受け止めて真摯に仕事へ向き合うことができているのか、今一度自分自身に問いかけてみたい。
 
投稿者 Terucchi 日時 
“風の時代は不条理にも風が入り込む”

この本は2008年に起きた第52寿和丸が原因不明で沈没した海難事故に対して、原因追求した内容を書いた本である。公の調査結果では不運な大波が原因であり、更に船の不整備が原因であるとなっている。しかし、この本ではその原因を調べていくと潜水艦によって起こされた事故の可能性が高いということになった。実際にはおそらく潜水艦が原因であろう。だが、その原因は伏せられ、結果的には事故で亡くなった人間にとっては、不運で片付けられてしまい、その不条理を書いている。

なぜ、潜水艦が原因だと言えないのだろうか?
私はまとめると以下なのだと考える。

・そもそもその存在のことを言えない。
・その発言をすると、大きな問題になる。
・それに対して、具体的な解決策がない。
・影響が少人数であれば、その少数の人に我慢してもらった方がいい。
・結果、言わない方がマシである。
ということであろう。

とても、怖い世界だと思った。すなわち、少数が犠牲になってしまう。民主主義は多数決の世界であれば、大多数の方が強い。もし世論の大多数になれば、さすがに負けてしまう。世論は怖い。怖いからこそ、その土俵に載せてはならない。だから、土俵の手前で阻止しなければならない。その手前で阻止する大きな圧力に対して、阻止してはならないというのがこの本の意義であろう。私はこの本が発行されて良かったと思う。なぜなら、ひと昔であれば、大きな圧力に屈して発行にまで辿り着けなかったであろうと考えるからだ。

これからは風の時代。多様性の時代である。多様性の時代とは、隙間にも風が入り込み、所謂少数のところにも風が入り込み、明るみに出る時代ではないかと私は考える。この本についても、このような不条理に風が入り込んだものだと考える。今後も風がどんどん入り込み、少数にも明るみが見出される時代になっていくことを感じた本であったと私は思うのだ。

ところで、少数に対して、明るみに出る例として思うこととして、例えば、昨今世間を賑わしているLGBTも同じことではないかと考える。同様に、LGBTの人間ももかつての少数であったため、言えなかったからだ。私は LGBTの人間から、そのような話を聞いたことがある。その人間が言うには、昔から一定数いるらしく、約1割だそうだ。1クラスを40人とすると、その中に4人は必ずいると笑って話していた。そして、昔はそれを話すことができなかったが、今はできるようになった、とのことだった。このように、少数にも光が当たっていく時代になるのではなかろうか、と思うのである。

他に、良い意味で少数が明るみに出る話を取り上げたい。私は先月台湾へ旅した時に、現地で路上ライブをしている日本人と同じ宿になり、友だちになった。日本では芸能プロダクションからデビューし、歌手を目指していたが、結局売れず、プロダクションに切られてしまい、独自の路上活動にしたそうだ。しかし、むしろその方が自分らしい歌が歌えて、今の方が充実していると話していた。なぜなら、芸能プロダクションが流行らそうとする歌でCDを出すよりも、自分が良いと思う歌を歌う方が自分らしさが出るということだった。そして、今はSNSの時代で、路上ライブでもファンがついて、何とか食べることはできるとのことだった。具体的には、路上で歌っていることを見たファンが勝手にYouTubeにアップして拡散されることで宣伝費は不要であったり、投げ銭の少額支援などのアプリもあり、CDを出す以外にも様々な方法でお金を得ることができるらしい。SNSの発達によって、芸能プロダクションが流行らそうとする歌だけでなく、その隙間に入り込む歌があり、それによるファンがいるのである。これも、同じく今の風の時代の少数のところに風が入る時代なのではなかろうかと考えるのだ。ところで、蛇足であるが、その歌手が「私には歌しかないから」という言葉が印象的だった。そして、歌手を続けていくことに、まだ諦めていないとのことだった。奇妙な縁とはいえ、応援したいと思った次第であったのである。

以上、私はこれからの風の時代にはこの本のような不条理だけでなく、どんどん少数の隙間にも風が入り込み、多様な考えが出て来る良い時代になって来るのを感じるのだが、言い過ぎではないであろうと思うのである。

最後に、最近宮古島で起きたヘリの墜落した事故がとてもこの本に似ていると感じてしまう。例えば、その事故の原因にはいくつか疑問点がある。まず、本来、海上で使用する自衛隊ヘリであれば、フロート機能があり、海に沈まないはずである。もう一つ、島民の目撃情報で、いつも飛んでいる飛行高度よりもかなり低かったとの証言がある。もし上官を乗せているのであれば、安全第一でそのような低空を飛ぶはずがないと考えるのだが、どうだろうか。他にも、疑問を考えるといくつか出てしまうが、この事故においても、風が入り込んで真相が報道されることを願う次第である。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“一隅を照らす”

“一隅(いちぐう)を照らす”という言葉がある。これは、天台宗の開祖・最澄が著した『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の冒頭の一節にある言葉だ。意味は、“片すみの誰も注目しないような物事に、きちんと取り組むことこそ尊い”である。そして、この言葉は数年前にアフガニスタンで命を落とした医師・中村哲が座右の銘としていた言葉でもある。日本から遠く離れたアフガニスタンで、注目を浴びることも無いけれど、医療や農業、水源確保事業という復興・人道支援に地道に取り組んでいた中村は正に、“一隅を照らす生き方”をしていた人であったと思う。では、なぜ私が、この“一隅を照らす”という言葉をここで述べたかというと、一度ならず、二度までも不条理な出来事に襲われた酢屋商店社長の野崎哲の生き方、また、第58寿和丸沈没事件に偶然関わりを持った本書著者の井澤理江の生き方が、“一隅を照らす生き方”だと感じたからだ。今月は、“一隅を照らす”とはどういうものなのか、本書を通して考察する。

まず、二度の不条理な出来事に襲われたにもかかわらず、自身のできることを全うする酢屋商店社長の野崎の人生や生きる姿について、私が何を感じ、思ったかについて述べる。おそらく本書を読んだ誰もが野崎の人生を不遇に感じたはずだ。それもそのはず、「毎日、夕方一緒にお散歩に出かけていたんです」(P.284)と、妻と幸せに暮らす平和な日常が、ある日突然、所有する漁船の沈没事故で壊され、さらに追い打ちをかけるように大地震に襲われたのだ。それでも、野崎は心が折れることもなく、他責思考にもならず、沈没事故の生存者や残された遺族、そして福島の漁業のために粉骨砕身して行動する。苦しみのどん底にあっても生きようとする、その野崎の姿は正に、『花を奉る』から彼が受け取ったメッセージである「泥の中でも花は咲くことができる」(P.276)をそのままに体現しているように思えるのだ。そして、事故や震災が年月の経過とともに、社会や世間からの注目が薄まりつつあろうとも、自身の境遇にしっかりと真摯に向き合い続ける野崎の生きる姿は“片すみの誰も注目しないような物事に、きちんと取り組むことこそ尊い”という“一隅を照らす生き方”なのだと私は感じたのである。

次に、複雑な社会の狭間で不条理に苦しむ人たちに丁寧に寄り添う本書の著者である井澤について思いを巡らす。第58寿和丸沈没事件の真相解明は、国家機密や軍事機密という高い壁が立ちはだかる困難極まりない取材であることは当初から明白であったろう。本になるかどうか(つまりお金になるかどうか)も分からない、真相を解明したところで地位や名誉が与えられるわけでもない。それでも井澤が調査を続けてきたのは、ひとえに政府や行政という強い者の言い分が正史として記され、後の時代に伝わっていくという現実が、彼女の考える社会正義に反するという強い信念を持っていたからなのだろう。そのような井澤の姿勢から私が想起したのが、以前の課題図書『公害原論』著者の宇井純だ。というのも、宇井もまた、公害発生の実態を白昼の下にさらすのだという社会正義のために、自身の出世や名誉などは関係なしに、弱い者のために長い年月奔走していたからだ。宇井の『公害原論』と同じく、本書『黒い海』も、社会の中で人々が意識を向けなければ気づきにくい、または見ても見ぬ振りをしてしまいがちになる事象を描いた本である。私は、そんな社会の片すみで苦しみながら生きる人たちに光をあてる井澤もまた“一隅を照らす生き方”をする人なのだと思うのだ。

では、私が考える野崎と井澤の生き方の眼目は何か?それは、彼らの考え方や行動が利他の精神からくるものであるということだ。つまり、彼らは自身の利得より、沈没事故に巻き込まれ苦しんでいる人たち、福島の漁業という地域社会、正しい社会の在り方という他者や世の中に意識を向け、できることを全うしているのである。ここで、私自身に問う。野崎や井澤に比べれば不自由のない環境で生きている私はどれ程の利他の精神を持って行動しているのかと。残念ながら、本書の中の野崎と井澤を見て、ただただ背筋が伸びる思いとなるのが私の現状である。“一隅を照らす”の一隅とは、社会の片すみのこと、つまり自身が今いるその場所や立場のことである。今いる場所や立場で、もっと利他の精神を持ち、できることを尽くし”一隅を照らす生き方”に近づこうと私は本書を読んで思ったのである。

最後に、“一隅を照らす本”を読むことの意義深さについて考える。ここでの“一隅を照らす本”とは、本書中の野崎のように、この世の不条理に遭いながらも、今いる場所や立場でできることを全うする人たちを描く本とする。振り返れば、この課題図書をとおして幾つか、そのような本を読んできた。上記した『公害言論』をはじめ、『こんな夜更けにバナナかよ』、『アンベードカルの生涯』、そして、『指揮官の決断』などは、本書『黒い海』と同じように世の中の不条理に翻弄されながらも懸命に生きる人たちが描かれている本だ。これらは、決して読後感が良いわけではない。むしろ、読者は何か心の中に重たいものが芽生え、暗い気持ちになる、そんな本であるはずだ。であれば、取り立てて読む必要はないのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、世の中のどこかで起こっている、それらの事実にしっかりと向き合うことは意義深いことだと私は考える。なぜならば、それらを知り、心のひだに触れることで謙虚さや他者の痛みや苦しみを理解できるようになれると思うからだ。私にとって『黒い海』は、まさにそのような本であった。これからも“一隅を照らす本”を読む機会を大切にしていこうと思う。


~終わり~
投稿者 tarohei 日時 
 第58寿和丸沈没事件の謎の究明に一人のジャーナリストが挑む。事実を積み重ねて真実に迫る。謎の究明にあたりあらゆる可能性を吟味し、潜水艦との衝突事故、これ以外には考えられないというところまで行く着くが、最終的に出てきた政府の調査結果はこれを全否定するものだった。国家機密の厚い壁が立ちはだかる。政府は何かを隠しているは明白なのにこれ以上先に進むことができない。

 時は、2008年6月23日午後1時過ぎ。場所は、千葉県房総半島の犬吠埼から東へ350kmほど沖へ向かった千葉県銚子市沖洋上。船名は、福島県いわき市の漁業会社酢屋商店の第58寿和丸。数隻の漁船団のうち1隻の漁船が突如として転覆したのである。
 天候不良のためパラシュートアンカー漂泊(パラ泊)と呼ばれる安全性の高いやり方で洋上に漂泊していたところ、その漁船に乗船していた漁師たちは突然、右舷前方からドスンという衝撃を感じると、数秒後に次はバキッという異様な破壊音を聞く。そして、それからわずか1~2分の間で全長38メートル、重さ135トンもある第58寿和丸は転覆してしまう。沈没までの時間は数10分。奇跡的に洋上でボートに捉まりなんとか生き延びた3人を除いて、4名の死亡を確認、13名が行方不明という大事故になった。

 これほどの大きな海難事故がなぜ起きたのか。なぜ、安全であると言われているパラ泊中にも関わらず、第58寿和丸はわずか数分にして転覆し、数10分で沈没したのか。そして、なぜあれほど大量の燃料油が一斉に流れ出たのか。転覆時に大量の油が海洋へと流出し、生き延びた3名はまさに黒い海に飲み込まれ体が真っ黒くになり油まみれの状態で救助され、死亡確認された4名も黒い油まみれで引き上げられたぐらいである。
 事故発生後、事故調査を担当したのは当初は横浜地方海難審判理事所であるが、その約3ヶ月後、組織改編に伴い運輸安全委員会へと引き継がれていく。当然のことながら、調査にあたっては生存者から証言を得ることはもちろんのこと、船主の酢屋商店野崎哲社長や漁業関係者らへの聞き取りを重ねる。しかし、陸地から350㎞も離れた洋上事故であること、わずか数十分で沈没したこともあり、現場検証や引き揚げ調査は困難を極めるのである。
 そして、ようやく事故から3年近くも立った2011年4月22日、運輸安全委員会から第58寿和丸の事故調査報告書が公表される。しかし、その調査結果は耳を疑うような内容だった。それは、第58寿和丸の漁具の積み方が悪く船が元々傾いていて、そこに三角波が打ち込まれ、更に放水口も閉塞され機能していなかったため、転覆したというものだったのである。

 その約10年後、たまたま別の取材でいわき市を訪れていた筆者は、第58寿和丸の船主である酢屋商店社長の野崎哲氏から事故の経緯を聞く機会を得たとのことである。
 そして、粘り強く事実を積み上げ、政府の事故調査報告書に反証していく。その誠実で真摯な姿勢に影響され、船体工学や油類の専門家などが取材に協力してくれる。例を上げれば、黒い油の実証実験では、報告書にある約15リットル~23リットル程度の量では、被験者の衣服は「薄い茶褐色」程度にしかならなかった。約15~23リットルでは到底不可能で、数キロから数十リットル単位の量でなければ、全身油まみれや体が真っ黒という状態にはならないことが分かった。
 油まみれになって実験に応じられた被験者の方々には頭が下がる思いである。

 本書は、この第58寿和丸沈没事件の真相を究明したノンフィクション小説である。筆者がこの事件の解明に乗り出しのが、事故後10年以上経過したこともあるが、潜水艦との衝突事故という仮説を立証していくには国際軍事機密という巨大な壁が立ちはだかった。事故後10年後となっては、潜水調査による船体確認も不可能であろうし、政府を相手にベールに包まれた事故の裏側の真相をよくもここまで解明したものだと思う。そしてその壁を乗り越えて、事故の究明に挑んだことは意義があることだと思う。
 真実を闇に隠蔽された文字通りの「黒い海」は、この事件だけではないはずである。もしあの日あの時、筆者が酢屋商店の野崎哲氏に会わなければ、第58寿和丸沈没事件の話しを聞かなければ、真実は未来永劫闇に閉ざされたままになっていた、と思うと背筋が凍る思いがした。

 最後に、闇に閉ざされた真実や世の中の理不尽・不条理なことは、誰の周りにも起こり得る。その所謂「黒い海」に飲み込まれてしまい心を折ってしまうのか、真実に立ち向かい上を向いて生きていくのか・・・
 重要な分岐点になると思うが、著者の生き様や何事も諦めない信念、誠実で真摯な姿勢を自分と重ね合わせることで、希望を見出す糧になるだろうと強く感じた。
 
投稿者 1992 日時 
黒い海 船は突然、深海へ消えた


本著では中型漁船の不可解な沈没の原因は完全に明らかになっていない。しかしながら、米国の潜水艦との接触が沈没の原因としての可能性が高そうだと匂わせている。この考察は事故関係者や有識者へのヒアリングや調査資料から導き出したものである。私もこの仮説のもとで下記内容を述べます。

本著を読み気になった点が正義の所在です。
人間が属する状況や立場異なれば正義はおのずと異なるということ。サラリーマンとして、安全かつ安定的な生活をする大多数の日本人には想像が及ばない価値観や環境が世界にはあるのだろう。
p242~p246には潜水艦の機密性の高さを感じる事例や記載があります。東西冷戦の時代での米ソ両国での潜水艦や2000年ロシアの原子力潜水艦クルスク沈没の話です。

私の感覚であれば、潜水艦、飛行機、車などいずれにせよ乗員がいる乗り物に事故がおき人命が失われる可能性あるならば、関係各所が優先するのは人命救助でしょう。例えば、車の接触交通事故であっても加害者側は被害者の生存確認をするのが大方の人間が考えることだと思います。

しかし、国をまたがって軍機が漏れることは人命や大きな枠組みで言うと倫理よりも優先される重大な問題だと世界が存在するようです。軍の立場になって考えると、潜水艦1隻に関する情報が他国に把握されることで自国の軍事能力の暴露につながり、防衛、侵略など他国との戦闘時に不利に働くと考えるのだろう。結果として、この軍事力の暴露が自国民の安全や安心を脅かすことにも繋がるのだろう。人間一個人の価値観の範囲を越えた大多数の国民という枠組みを含んだ価値観からもたらされるのが、軍の軍機優先という価値観の土台だとすると一定の有効性を含んでいるように思います。

日本の中型漁船に接触した米国潜水艦の艦長はじめ乗員や上官も同様なことを考えたのだろうか。
他国の漁船に当て逃げし後日に犯人として露見され両国の外交に亀裂が入るリスクと軍機密が他国に把握されることを天秤にかけ、選んだのは後者だったということなのでしょうか。

一方で日本の役人側にも、沈没の原因を追及しないことのメリットがあるようにも思えました。
妄想ながら、日本の防衛を駐日米軍に頼らざるをえない現状のなかで、国内の反駐日米軍の機運が高まることを避けたいという理由です。


ここまでは軍の立場を考えてみましたが、一方で被害にあい亡くなった方、生き残った3名の方、遺族、酢屋商店の野崎社長のような不条理な経験をすると軍機優先のような世間には浸透していない価値観を受け入れられるだろうか?と自問をしました。簡単には受けいれられないだろう。

私が被害者の方達のような立場だったらと思い出した言葉があります。
ビクトール・E・フランクル夜と霧 にある「人生に何を期待するかではなく、人生が何をあなたに期待しているのか 」です。
不条理な出来事があったときにはこの言葉を思いだし、まだまだ頑張れると行動をし続けるのです。
原因も理由も因縁も結果も因果関係がまったくわからないから不条理なのであって、不条理だと落ち込んでいてもなににもならないと考えています。被害者の方々のような酷な経験はしたことがありませんが、どんなことがあったとしてもその言葉を思い出し、前を向き行動する気概を忘れないようにしたいと改めて思いなおしました。
 
投稿者 kenzo2020 日時 
何事にも解決の糸口はどこかにあるはず。一番感じたことである。
油の量や、衝撃が2回だったことから潜水艦だろうと考えられるが、ぜひどこの国の潜水艦なのか、正体をつかんでほしい。漁業の方々は、東日本大震災の津波や放射線で踏んだり蹴ったりだったが、乗り越えてきた。この著者も暗礁に乗り上げて絶望的に見える中でも、一枚一枚の事実というカードをめくって明らかにし、事件の完全な解明をしてほしい。
それにしても国はなんとしても隠そうとしているようにしか見えない。深海に沈んだ船の調査を行って欲しい。
世間にこの事件を広く知らしめた、この本の役割は大きい。何とか国の意向を変えていきたい。
この著者の、徹底的に調べる姿勢、手紙での伝え方、足を運んで会い、信頼を得ること、それらなくしてこの本は実現できなかっただろう。仕事の進め方の点でも大きなヒントとなった。
投稿者 kenzo2020 日時 
何事にも解決の糸口はどこかにあるはず。一番感じたことである。
油の量や、衝撃が2回だったことから潜水艦だろうと考えられるが、ぜひどこの国の潜水艦なのか、正体をつかんでほしい。漁業の方々は、東日本大震災の津波や放射線で踏んだり蹴ったりだったが、乗り越えてきた。この著者も暗礁に乗り上げて絶望的に見える中でも、一枚一枚の事実というカードをめくって明らかにし、事件の完全な解明をしてほしい。
それにしても国はなんとしても隠そうとしているようにしか見えない。深海に沈んだ船の調査を行って欲しい。
世間にこの事件を広く知らしめた、この本の役割は大きい。何とか国の意向を変えていきたい。
この著者の、徹底的に調べる姿勢、手紙での伝え方、足を運んで会い、信頼を得ること、それらなくしてこの本は実現できなかっただろう。仕事の進め方の点でも大きなヒントとなった。
投稿者 str 日時 
黒い海-船は突然、深海へ消えた-

実際に起こった原因不明の漁船沈没事故をテーマに、ジャーナリストである著者がその原因・真実に迫っていくというストーリー。これが小説ならばラストで真実が明らかになり、スッキリした気分も味わえるのかもしれないが、まさに“事実は小説よりも奇なり“といったことだろう。現実は原因不明のまま、読者視点からすればガバガバにしか見えない事故の調査報告が覆ることなく幕を閉じている。

たしかに沈没の原因が仮に他国の潜水艦との接触だとしたら、関係の悪化・国際問題にもなりかねないし、守秘義務を理由に関係者が口を閉ざしたくなる事情も何となくは分かる。それにしても、無事に救助された生存者3名の証言を反映しない。引用したとされる、流出した油量を判断するためのマニュアル一覧も作成されたのはまさかの1968年。また、過去にも潜水艦との接触事故は幾つも前例がある。事故調査に捻出された予算のあまりの少なさ等、ずさんというか不審な点が多すぎる。もっとも“証拠品“である第58寿和丸は深海に沈んだままなので、著者が調べ上げた仮説も真実とは限らないが、適当な調査結果を公表し、事態を早急に収束させようとしているようにしか思えなかった。公にならないところで見えない圧力が掛かっていると考えると怖い話だ。仮に某国が頻繁に撃っている大陸間弾道ミサイルが誤って日本に落ちたとしても、隕石だとか衛星の破片が原因などと公表されるのでは?この国は本当に大丈夫だろうか。

それにしても、著者である伊澤理江さんの調査・取材に於ける能力は凄まじいものがある。相手とのコンタクトが取れるまでの忍耐強さ。リアクションがあってから足を運ぶフットワークの軽さも勿論だが、双方の意見を誇張・歪曲することなく受け止め、収集できる誠実さは見習いたいものだ。被害者家族の中には、まだ「どこかで生きている」「いつかふらっと帰ってくるかもしれない」と信じている人もおり、事故の原因を突き詰めることは、その人たちの期待を否定することになるかもしれない。そういった葛藤も彼女の誠実さや人柄故のものだと感じた。公式の機関からの発表ではないとはいえ、本書が世に出たことで当時の調査報告とは全く異なる事実や事故原因の可能性が明らかになり、被害者や関係者の無念も少しは晴れるのではないかと感じる。何より本書の発刊にまで尽力した著者の努力と勇気を称賛したい。いつの日か、事故原因の真相に辿り着いてほしいと願う。
 
投稿者 vastos2000 日時 
伊澤氏のインタビューに応じた、インタビューを断った人達でも、本書を読む限りイヤな奴かもしれないが悪人とは感じられなかった。それぞれの立場で話せることを話しているし、話すことができない、あるいは話せることがないので断ったのだろう。
仮に沈没事故の原因がアメリカ軍潜水艦との接触によるものだったとしても、アメリカ軍の当事者は、軍事機密を守る立場があり、真相を話すわけにはいかない。
被害者やその遺族などに対して、個人としは申し訳ない気持ちをもっていたとしても、だ。そのような立場の人達はインタビューに応じられなかったのだろう。
逆にインタビューに応じた人達も多くいる。それらの人達は、伊澤氏のインタビューに応じても得することはほとんど無かったと思う。が、きっと損得ではない、真実を明らかにしたいという思いや正義感でインタビューに応じたものと想像する。

立場が異なれば意見や解釈も異なるものだと思う。関係者にインタビューする中でこの事故に対する記憶が薄い者も登場するが、きっと実際に覚えて無い者もいたのだろう。私自身は海とは特別関わりがないためか、本書を読んでもしばらくは昨年の知床遊覧船事故のことを思い出さなかったくらいなので、当事者以外は忘れていってしまうのだろう。
海難事故において、漁船の調査の優先順位が客船や商船より低いというルールに触れられていたが、これにしても、伊澤氏や酢屋商店の視点や立場からすればこれは理不尽なルールに思える。だが、これが密漁とまでは行かずとも、荒れ狂うベーリング海でのカニ漁のような「儲け優先で荒れた海で漁を行っていた漁船が転覆した」という文脈であれば、そういう事故は優先順位が下がっても仕方がないと思わせるだろう。(まっとうな漁を行っている漁船と一緒くたにするのはいかがなものかとは思うが)

人も予算も限りがある以上、優先順位はつけられてしまう。私自身、今の仕事では次年度の事業計画と予算策定にあたって、各部門からあがってくる要望と予算を査定する立場にいるが、カネが十分にあるのであれば、どれもこれも予算をつけたい。だが、一年に使える金額には上限があるので、担当者に優先順位を確認していくつかの事業は見送ることになる。
このとき、予算要求する側と私は言ってみれば対立する立場なので、考え方が異なるのだろう。各部門は「まだ資産に余裕があるのだからこれくらいの予算は使えるだろう」と考えるのだろうが、私は「年間の収入と支出のバランスを考えたら、費用対効果の根拠薄弱な事業に予算はつけられない」と考える。
同様に、被害者の側からこの事故を調査し、真相究明に相当量のエネルギーをかけている伊澤氏と、毎年多くの海難事故を扱う国の機関では、同じ事故に対する関心や見方が異なるのも当然だ。

私は、そのような違いあるとはわかってはいるのだけど、納得はできないし、被害者が救われないと感じてしまう。
酢屋商店はじめ、事故の被害者たちにとってみれば何の落ち度も無いのにこのようなヒドい目に遭うという不条理。今回は人が関わっている可能性が高いが、地震や火山の噴火などの天災はその時その地区にいた人間にふりかかる。
いつ自分が同じような目に遭うかという恐怖。私はこの事故の遺族の方や野崎社長のような立場になったときに耐えられるだろうか?ただ、現実の世界に内心はどうあれ、そのような目に遭いながらも生きている人達がいるというのは助けになる気がする。
天災の場合は相手となる人間はいないので、ある意味あきらめることもできるのだろうが、相手がいる場合はその相手を恨まずに生きていくことができるのだろうか。
第11章の「花を奉る」のように、暗い絶望の中にもほのかな希望を見いだすことができるのだろうか?その答え合わせをするような機会が訪れないことを祈るが、そうなったとき、現実に対して良い解釈をすることができるだろうか?

本書ではハッキリとした結論に至ることができず、読後感も良いものとは言えなかったが、非常に考えさせられた。そしてここで自分の考えを文字に表すことで再度考えさせられた。最近、ツイッターやヤフコメを見るにつけ、ろくに考えもしないで、その時に思った事を発信してしまう人間が多いと感じる。事実誤認があったり、非常に偏った見方であったりするが、本書と著者の伊澤氏の、一方的な批判をしないでフラットな視点でものを見るということの重要性を認識することができた。きっとそのような姿勢で調査を進めたのでここまで至ることができたのであろうと思う。

今回も貴重なアウトプットの場を提供していただきありがとうございました。
 
投稿者 daniel3 日時 
本書は、安全な方法で碇泊中であった漁船の第58寿和丸が、突如2回ほど大きな衝撃を受けた後、たったの数分間で沈没してしまった謎の事件の真相を追うドキュメンタリーです。著者の伊澤さんは、捜査権を持たない一介のジャーナリストですが、事件の関係者や専門家への丹念なインタビューと粘り強い調査を行い、事件の原因の可能性に、ある程度迫ることができました。しかし、伊澤さんの粘り強い調査にもかかわらず、本書の中では、事件の真相は完全に明らかとはなっていません。その一因は、国などの大きな組織と個人間の情報アクセスの格差があるためだと考えます。なぜなら、伊澤さんがどんな情報の開示請求をしても「何を秘密にしたのか、それも秘密です(P.289)」といった状況が今もなお、続いているためです。それでもなお、たった一人の人間が思考しながら行動することで達成できることの大きさに驚きました。それと同時に、これからの時代は伊澤さんのような「得られる情報から思考し、再構成して伝えられる能力を有する人」が、さらに大きな影響力を持つ方向に進むのだろうと考えるようになりました。本稿では、そのように考えるに至った過程を説明します。

まず前提となる、事件が発生した当時から現在までの時代の変化について、振り返ってみます。第58寿和丸の沈没は、今から15年ほど前の2008年6月に発生しています。この当時は、国などの大きな組織と個人では、現在よりもさらに発信できる情報の格差があったと考えられます。なぜならば、個人や酢屋商店規模の組織が記録及び収集できる情報の量が少なく、かつ発信手段も限られていたため、大きな組織の調査結果の妥当性に異議を申し立てることがほとんどできなかったからです。例えば、事件が起きた2008年の日本はiPhone3Gが発売された直後の頃であり、スマホをもっている日本人など、皆無の状況でした。またブログなどの情報発信手段はあったものの、YouTubeなどに代表されるSNSはまだ日本で広まっているとは到底言えず、個人が文字情報とデジカメなどの画像以外の情報を発信する敷居が、現在よりも格段に高い状況でした。一方、その状況から15年ほど経った現在では、個人レベルで情報を記録し発信できる敷居が下がったため、伊澤さんのような能力を有する方であれば、国などの大きな組織に影響を与えることが、以前よりも容易になりました。

こうした時代の変化があるため、2023年に同じ事件が起きたとしても、必ずしも同じ結論にはならないのではないかと考えました。なぜならば、個人や中小企業レベルでも動画情報を記録として残すことのハードルが低くなったためです。実際、2022年の知床遊覧船沈没事故が起因となり、旅客船についてはドライブレコーダーの設置が義務付けされる方針となっているようです。そのため、漁船にも遠くない未来に適用されるようになれば、第58寿和丸ほど不可解な調査結果で事件が終わることは減るのではないか考えます。船舶のドライブレコーダーで、異常な衝突音が記録されたり、転覆ではなく、浸水により数分で沈む様子が記録されれば、運輸安全委員会も、沈没は「波」という結論を推し進めるのは、厳しい状況になるかもしれません。このように、情報を記録することが容易になったため、記録された情報を整理して思考し、多くの人に納得のいくカタチで伝えることの重要性が、増してきたと考えました。

最後に、本書の中で事件の原因は明らかとはなっていませんが、過去の事件との類似性からも、潜水艦との衝突の可能性は一考の価値があります。情報の記録が現在よりも困難であった2008年当時の状況を踏まえて「潜水艦」に関する情報の開示請求をすることは、非常にハードルが高い状況が続いています。それでも、情報リソースが限られた状況ながら、伊澤さんは、事件の輪郭を描き出すところまで推し進めることができました。その理由は、「得られる情報から思考し、再構成して伝えられる能力を有する人」であったためと考えられます。そのため、情報の記録が15年前より容易になっている現代において、伊澤さんが発揮した情報処理力を駆使すれば、第58寿和丸の悲劇を繰り返すこともなくなるのではないかと考えました。
 
投稿者 H.J 日時 
本作は、2008年に太平洋沖で中型漁船が沈没し、17名もの犠牲者を出した事故の真実へと迫るノンフィクションである。
帯に書いてある様に日本の重大海難史上、まれに見る未解決事件と呼ばれている事故である本事故。
なぜ、未解決事件と呼ばれてるかについては、証言や状況と事故調査報告があまりにもかけ離れているからである。
では、なぜその様な結論に至り未解決事件と呼ばれる様になったのか。
その真実へと迫る一冊だ。

まず、本書を読んで驚いたのは、著者の取材力である。
本作で語られる事故の犠牲となった第58寿和丸の取材を始めたのが、事故の11年後からとのこと。
しかも、取材を始めようと決心する少し前まで当事故のことを全く知らないという。
17人もの犠牲者を出し、海の事故としては大きな事件であるにもかかわらず、人々の記憶に残らない事故。
当時日本を離れていて暮らしていたとはいえ、ジャーナリストである著者の耳にも入らない事故。
その僅かな違和感をきっかけに一冊にまとめた。
11年も経った事件を取材するとは、考えただけでも途方もないことだ。
まず、環境も変わってるし、記憶も薄れてくる。
もう少し具体的に言えば、関係者の中でも病死や事件の記憶が曖昧になることもあるだろう。
そのリスクも承知で取材を始めたことにまず驚いた。
最初に著者が感じた違和感はジャーナリストの直感に繋がったのかもしれない。
その直感が真実の輪郭を掴もうとする姿は、著者の取材力があってのことである。
なぜならば、取材力がなければ、一つの真実をこの様にまとめることができないからである。
もちろん、本書は著者の取材が基に書かれていることを加味しなければならないが、ここまで丁寧に材料を並べられると私レベルでは反論の余地はない。
取材力に感服するばかりだ。

次に本書の構成にも驚いた。
読者を当事件の世界に惹きこむ様な入り方。
普通に暮らしていたら漁船事故に巻き込まれる可能性など、ほぼ皆無と言っても良い読者達を惹きこむ最初の48ページ。
勿論、生還者の経験談を基に書いてるので臨場感を感じられる内容だったが、まるで小説かの如く物語に惹きこまれた。
その後に取材内容を基に当事件の問題の提議と、謎を解き明かすかの様な取材結果を提示する。
第58寿和丸の関係者の感情にも寄り添いながら、まとめあげられている。
その一方で立場的に対立関係となる国の調査機関側の視点に立てば、外交関係を始めとしたもっと大きな問題に関わる可能性、言わば大人の事情も浮き彫りになっている。
それにより、仕方ない事情として完全な敵として見られることを避けている様にも感じる。
構成次第では、盛り上げるために対立関係を煽るという選択肢もあったとは思うが、著者の配慮を感じる構成と内容であった。

書籍としての完成度が高い一方で、著者のジャーナリズムというべきものが本書を通して伝わってくる。
真実に繋がる可能性が1%でもあれば、チャレンジする。
その中で299ページの付記に記載されている様に断られたりしただろう。
真実が浮き彫りになった時に、大きな問題となりうる可能性も勿論想定済みだろう。
それでも真実を求め続ける姿は著者のジャーナリズムである様に思える。
本事件の真相はもちろん、著者の取材の続きが気になるそんな1冊であった。
 
投稿者 msykmt 日時 
"『外形的に整える仕事』は潜在意識を濁らす"

くだんの報告書を作成した運輸安全委員会の態度を著者はこう評した。『「教訓を残す」という役割を外形的に整える仕事をこなしただけ』と。また、そのような仕事への態度を『決め打ち路線』とも言い換えている。この表現に、私は自身に一抹の後ろ暗さを感じるのを禁じ得なかった。本稿では、この報告書にて当該事故の原因を波と断じることに寄与した委員会のそのような態度から、何を学べるのかを論じる。

私の結論としては、そのような態度とは対照的な、著者のように真摯な態度をもって自分の仕事をまっとうすることが大切だ、ということだ。ここでいう真摯な態度とは、著者がそうしているように、ある問題に対して、ていねいに記憶と記録を集めた上で、そこからみえてくるものをていねいに仮説検証する態度である。たとえば、本書の事故のように人の生死が関わる問題ではないものの、日常の仕事において私は、なにか問題が発生しても、著者のように真摯な態度をもたずに、すわりのいい原因に飛びついてしまう傾向がある。たとえその原因に、どことなく差異や違和感を覚えたとしても、ついついそれらをふりかえる手間、考える手間をおしみ、その差異や違和感を押し殺してしまうことがある。

一方で、真摯な態度うんぬんのきれい事よりも、自分に与えられた裁量の範囲に収まるように、『外形的に整える仕事』をこなせばよい、という考え方もあろう。それは、自分の裁量、つまり、自分がもらう給料に見合った分量だけ働くのが仕事である、という考え方にも一定の理があるからだ。しかし、そのような態度であっては、そういう仕事をしている時間は、自らの自由意志を放棄しているため、自分の時間にならなくなってしまう。そうなると、その時間は死んだ時間になるため、幸せを感じづらくなる。よって、『外形的に整える仕事』をこなせばよい、という考え方に私は与しない。

それではなぜ、真摯な態度をもって自分の仕事をまっとうすることが大切なのか。それは、前述のように、真摯な態度をもたずに、どことなく差異や違和感を覚えたとしても、ついついそれらをふりかえる手間、考える手間をおしみ、その差異や違和感を押し殺した、という負の記憶が潜在意識に刻み込まれるからだ。その結果、潜在意識が濁ってしまうため、その力を活かせなくなる。よって、その力の後押しを得られなくなるため、幸せな人生を送りづらくなるのだ。

たとえば、過去に、このような仕事のトラブルがあった。それは、プロジェクトの最中に、あるプロジェクトメンバーが突然出社しなくなり、そのままプロジェクトを離任することになった、というものだ。そのことにより、私は上長から、その原因分析と再発防止策を求められた。しかし私は、我々の組織になんらか原因はなかったのか、このような結果にならないために、我々にできることはなかったか、などを積極的にふりかえることをしなかった。なぜならば、その離任したメンバーは、かねてから素行に問題があったため、そのメンバーの個別事情によるものだと決めつけていたからだ。よって、必要以上の原因分析は無駄だとみなしていた。そのため、手仕舞いにしようとする態度、つまり『外形的に整える仕事』の態度によって、それっぽい手近な原因と再発防止策を見繕うことにより、その仕事をこなしてしまったのだ。ふりかえってみると、まるで責任感がなかった。そのことをたまに、ふとモヤモヤと思い出すときがある。あのとき、あのような仕事の仕方でよかったのか、いやまずかったよな、と。つまり、真摯な態度をもたなかったことにより、潜在意識を濁らせてしまったのだ。

よって、これからは、真摯さをもって自分の仕事をまっとうすることに努める。ことの大小にかかわらず、問題がおこったならば、ていねいに記憶と記録を集めた上で、そこからみえてくるものをていねいに仮説検証する態度をもつ。そのことによって、潜在意識に清らかさをもたらせ、その力の後押しを得られるようにしたい。
 
投稿者 fumofumosumida 日時 
本書を読んでいる最中時折、離島への連絡フェリーで遭遇した恐怖の感覚を思い出した。何度か利用している航路だったが、この時は波が高く二社あるフェリー会社のうち一社は波を越えられない船種であることで欠航になっていた。行きは特別何のことはなかったものの帰路は大揺れで終始ジェットコースターの急降下が繰り返されるような状態であった。それだけでも落ち着かないのだが私の恐怖を助長したのは、視界に飛び込んできた船周辺の大波である。それは大きく盛り上がった丘のような山のような水の壁であった。穏やかであれば遠くまで見渡せる海原がほんの数十メートル先の水の壁で視界を遮られその先が全く見えない。波にのまれるのではないかという恐怖が沸き起こった。それでもパニックにまで至らなかったのは、たまたま隣の席に居合わせた漁師さんのお蔭である。おしゃべりな人で出発港へ戻るおよそ30分、この後どこへ行くの?に始まって気さくにいろいろ話をしてくれたのだがその間、大揺れの船を微塵も気にする様子がなく、それゆえ海のプロが平然としているならこんな揺れでも転覆なんてない、大丈夫なのだろうなと思ったのだった。とはいえ山のように盛り上がった波に囲まれた中にいたときの恐怖は今も鮮明で忘れることができない。しかしその恐怖は起きていないことの想像の恐怖である。突然の沈没で現実に海に投げ出された人たちの恐怖はいかばかりだったか想像を絶している。本書には生存者が命を繋ぐまでの様子が細かく記されているが、終始死と隣り合わせの状態でギリギリ生側へ傾いたことが分かる。海の上で人は二本足で立てる場所、船がなければただただ無力なのだということを痛感する。

本書を読み進めるうちに胸に迫ってきたことは、もし当事者の立場だったとしたら、私は何を考えて何を思いどんな行動をするのだろうかということだった。それは、生存者、遺族、船主、国の調査機関などそれぞれの立場のときである。死の恐怖、仲間を失う体験して再び海に出ることができるのだろうか。身内を失って且つ納得のいかないうやむやな調査にどんな気持ちを抱えそれをどう癒すのか。船主のように乗組員を思いどんなに理不尽な思いをしても心を折ることなく出来る限りのことをやり尽くせるのか。そして本書が指摘をしている矛盾を問われる立場ならどんな回答をするのだろうか。事故の検証を通じて船主に協力していた人物が『国とのあつれきが生まれる』という理由で周囲から圧力受けてもなお将来の事故を防ぎたいという強い思いで国の調査方針に異を唱えることを止めなかったという箇所を読んだとき、私は圧力に屈することなく意思を貫けるだろうかと思わず考えた。そして自分自身の考えを明確に持っているか日々志をもって行動しているのかを思った。冷静に考えればこれらのことはカタチも中身も規模も全く違ったとしても自分自身の身近で起きる出来事に置き換えられる場面が多々ある。そのとき私はどのような行動をしていただろう。ブレない芯ある考えをもって行動していただろうか。本書は人として自分はどのような考えをもって行動をするのかを問われている側面もあるように感じる。著者が情報を集め少しずつ真の原因と思われる事柄に近づきつつ同時に国の機関の問題点にも迫っていくその行動は本当に敬服する。その原動力となっている記録を残す価値のあるものを書くという信念。著者もまた芯をもって行動ができる人物なのだ。一滴の雫が大きな波紋になっていくように本書の出版がそのきっかけになり、どうか実になる結果へと繋がってほしいと思う。

タイトルの“黒い海”は率直に船が沈没した場所で大量に広がった油を指していると思うのだが、本書を読んだ今はそれだけの表現ではないのではないかと思う。失われた命が理不尽な扱いをされ被害者が納得できない内容で結論付けられている深い闇をも意味しているのではないか。機密という見えない世界、それゆえに事実をゆがめざる得なくなってしまう世界。そのような意味もあるように思った。
 
投稿者 flyhigh_matt922 日時 
波による船の転覆で17人の死亡者を出した事件がある。

ただ船団の代表野崎、そして生き残った3人の漁師たちはそれが波でなかったと強く象徴する。

実際の経験談と大きく異なる国からの調査結果。明らかに回答を決めつけたような国の判断、そんな理不尽に対して誠実に向き合い、どれくらい断られても少しずつ真実に近づこうとしているジャーナリストと、代表野崎。

映画のようなハッピーエンドや、調べていたことが完全に判明するならいたらなかったが確実に時間をかけて彼らは調査を進めている。

途中から出てきた潜水艦との事故ではないかという仮説から一気に話が具体的になるのもとても興味深かった。


船員を失い、船を失い、そこから福島大震災でさらに痛手を負いながらも失った船員を思い向き合う野崎という男のかっこよさに強く惹かれた。

この会社で骨を埋めるんだと言ってた船員もいたとのことですがそれぐらい人を惹きつける魅力がある人なんだなと読んでいて伝わってきた。

またジャーナリストの人は船や海に関して全くの素人の状況から粘り強い取材を続け少しずつ必要な情報を得ていく部分に関しては心が動かされた。

こんなことが起きているということにまず驚きだが、いつか謎が解けることを強く願う。

そして月並みではあるが信念を持ち動けば形になるということを再確認できた。