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第119回目(2021年3月)の課題本


3月課題図書

 

資本主義と奴隷制

 

です。人が人を差別するどころか、所有物として売買をした奴隷制って、人類の歴史最大

の汚点、恥部だと思うわけですよ。それはローマ帝国の頃からあったわけですが、アフリ

カ大陸の西側で行われた奴隷狩り、奴隷売買、そこから連なる奴隷制はとりわけ陰惨で過

酷で、その負の影響が現在まで残っているわけですが、その奴隷制が実は資本主義、就中

産業革命の原動力になっていたという本書の結論は、これをどう解釈すべきか、読みなが

ら何度も呆然としました。

 

 

歴史は全て繋がっているというのは、歴史好きが何度も体験していることですが、これも

かなり強烈です。そこそこ分厚くて、内容も平易ではないので、読書好きでない人にはキ

ツいのですが、歴史好きの人は必読ですよ。

 【しょ~おんコメント】

3月優秀賞

 

今回は分厚くて、内容も難しいという意見が多かったわりには、投稿された方の

レベルはそれほど悪くありませんでした。

 

いつものように順番に読んでいき、一次突破の人を探していると、mkse22さん、BruceLee

さんが目に止まり、さて他にはどうかなと思ったら、最後の最後に、LifeCanBeRichさん

がメチャメチャ素晴らしい投稿をしていました。

 

いつもはここで一次突破の人のヤツを読み返すんですが、今月は久しぶりに読み返す必要

もなく、一発で LifeCanBeRich さんの当選です。着眼点が良くて、引き込まれるように

読んでしまいました。2ヶ月連続ですが、クオリティーが高いんだから仕方ありません。

おめでとうございます。

【頂いたコメント】

投稿者 daniel3 日時 
◆初めに
 本書では、アメリカ大陸の発見から三角貿易を経て、産業革命へと発展していくイギリス資本主義の黎明期を、緻密な事実の積み上げにより知ることができます。博士論文をベースとして出版されたという経緯から、本書の後半には大量の参考文献が記載されていました。これだけの資料を基に歴史を紐解いていく著者の知性に感嘆しました。それとともに歴史上の事実の背後には関与する人間の様々な思惑があり、歴史がどのように動くかを理解することは人間を知ることだと改めて感じる本でした。

(1)利益が人を動かす社会システム
 本書を読む中で、プランテーションの経営は初めから奴隷貿易に頼っていたわけではなく、当初は囚人や有期雇用のイギリス人労働者もいたという事実を初めて知りました。しかしこうした労働者たちでは、労働集約的なプランテーション経営を半永続的に運営していくニーズを満たすことはできませんでした。そこに、奴隷貿易によって利益を得たいイギリス商人が介在したことで、自然淘汰的に三角貿易が発展していく過程を知り、高校の世界史の時に学んだ知識が有機的につながっていくのを感じました。奴隷以外の関係者にとっては非常に上手く回る経済システムを見つけて国の発展が約束されるであれば、奴隷貿易さえ何かしらの理由をつけて是としてしまうのは、人間の性なのかもしれません。
 上記のような奴隷貿易の発展の過程は、現代社会においても当てはまる部分があると思います。資本主義では資本を持ち、そのルールを上手く活用できた者が繁栄するように設計されています。一方で、己の肉体(頭脳)以外に資本を持たない労働者は、低賃金での長時間労働を強いられ、ある意味賃金という鎖によってつながれている奴隷とも考えられます。その拘束力が度を越した場合には、ブラック企業と呼ばれたり、過労死問題へと発展しています。こうした傾向を「働き方改革」などで改善しようという流れがありますが、利益の追求が根本にある資本主義においては、まだ完全に機能しているとは言い難い状況と言えます。
 しかしAIの各種業務への導入や、自動運転の開発などにより、現在の労働問題にも変化が起きる予兆があります。あと十数年以内には、今ほど長時間労働をしなくても同等以上の生産力を維持できる社会が実現するかもしれません。そうした社会においては、労働人口及び投入時間量が必ずしも生産高に影響しないため、利益の追求をしながらも労働問題を改善できる可能性があります。一般的に世界経済が豊かになるほど、人権や環境への目が向く傾向があり、生産性の向上による経済発展は歓迎されるものだと思います。

(2)資本主義経済による淘汰
 三角貿易を推し進める過程でイギリスには急速に富が蓄積され、そこにジェームズ・ワットの蒸気機関の発明を契機として産業革命が起こります。蒸気機関自体は単なる一つの発明でしたが、高額な設備に投資できる資本家がいたため、それ以前に比べて猛烈な生産性の向上をもたらし、イギリス経済は発展しました。さらに海上貿易によって広げたマーケットにおいて、製品を売りさばくこともその流れを推し進めました。
 一方、奴隷という労働形態は必ずしも高い生産性があるわけではないため、徐々に時代に則したものではなくなっていきました。西インド諸島以外の砂糖に高い関税を課すなどで産業保護を訴える人たちもいましたが、資本主義経済では、市場の要求に則した者が生き残ります。そうした社会情勢の中で人道的観点の主張を唱える指導者が現れ、奴隷制は廃止へと向かっていきます。
 一時は優れたシステムとして栄華を極めた産業構造も、社会情勢により廃れていくのが資本主義経済です。必要なものは市場の要求によって生き残るため、これまで人類が経験してきた封建制度などよりも、資本主義はフェアな政治経済体制として今後もしばらくは採用されると思われます。しかしその発端には非人道的な黒人奴隷の苦悩があったことは忘れてならない事実であり、イギリス資本主義の成り立ちを西インド諸島出身の著者の視点によって再定義した本書の価値は非常に高いと思いました。
投稿者 keiji0707 日時 
kmm1234
本書は、18世紀のイギリスを始めとする西欧列強が、奴隷貿易とプランテーションによって巨大な資本を蓄えて経済が発展し、後の産業革命につながる経過を史実に基づき表した書籍である。この書籍を通して、私が得たことを以下のとおり論じる。

18世紀の西欧諸国において、奴隷貿易に対する意識や見方は決して批判的ではなかった。反対に、当時の国王や政府、教会、一般世論は奴隷貿易を支持していた。では、どうして奴隷貿易に対して肯定的な意見や見方が主流であったのか。その理由は、カリブ海諸島やアメリカ大陸から、希少性のある砂糖や綿花、タバコを手に入れることができたからだ。それら希少性のある商品を手に入れるためには、大量の労働力を必要としたからだ。当初、白人貧困層を労働力に充てていた。だが、苛酷な環境下での労働に耐えうる人材として、比較的に体格に恵まれたアフリカ原住民が選ばれるようになった。私は、奴隷は黒人奴隷というイメージを持ち合わせ、そこには差別的な意味合いがあるのだと思っていたが、それは間違いであることに気付き、苛酷な環境下での労働に耐えうる人材として選択されたのだということを理解できた。

当時の世論は、奴隷制を利益と欲望の理由から肯定的に受け入れていた。なぜなら、奴隷制は新大陸におけるプランテーション経営の労働力として、人手不足を補う役割を担っていたからだ。つまり、奴隷制の採用の理由は、道徳的な事情ではなく、経済的事情によるものであり、不道徳か否かではなく、生産するために必要な労働力として公認されていたことがわかる。そして、奴隷は、法が定める権利証書付きの価値ある財産であり、馬匹等と同様、商品として取り扱われていた。また、奴隷貿易を支える奴隷商人は、当時、非人道的な人物として扱われていない。その反対に、奴隷商人は、当時、人道主義者として指導的な地位を占めていた。現代において、奴隷制は、労働の搾取であり違法とみなされている。このことから、奴隷制に対する価値観は当時と現代ではかけ離れており、時代によって大きく異なるものだと知ることができる。

では、現代社会において労働の搾取は行われていないだろうか。ここで、日本における外国人労働者の状況を取り上げてみる。日本における外国人労働者数は、2019年10月末時点で約166万人となっており、増加傾向にある。増加した要因の一つとして、2019年4月に在留資格「特定技能」に係る制度が導入されたことによるものだ。この特定技能という在留資格で働く分野は、相対的に労働条件が厳しい業種や仕事が多い。少子高齢化による労働人口が減少する中で、このような業種や仕事には労働者が集まりにくいので、外国人労働者を受け入れ、人手不足の問題を解決しようとしている。

この在留資格「特定技能」に係る制度は、従前実施されてきた技能実習と同様、悪質ブローカーによる労働の搾取が問題となる。というのも、実習生は入国に係る費用を調達するため、多額の借金を背負っているケースが多い。つまり、日本に来るために、母国のブローカー(送り出し機関)に多額の費用を支払っているからである。例えば、ベトナム人の場合、実習生として来日するためには少なくとも数十万円、多い場合100万円以上の費用がかかるそうである。実習生の多くは借金を返済するために、長時間労働や賃金の未払いがあっても、辞めずに我慢するケースが多い。さらに、国内でも技能実習生の受け入れを仲介する監理団体が、不当に高額な費用を徴収するケースもあると報告されている(法務省・厚生労働省2018年)。在留資格「特定技能」に係る制度においても、ブローカーに関わる問題は残されていると言われている。今後、外国人労働者数は増えていくと予測される。そのため、外国人労働者に対する労働搾取を防止するため、送り出しする国や国内の悪質なブローカーの活動を規制する対策を徹底的に行う必要がある。

また、スーパーで買い物をしていると、発展途上国で生産された日用品や食料品が、国産商品と比較して安価で販売されていることがある。その理由は、人件費や固定費など発展途上国のほうが安価であるからだろう。ところが、明らかに安い価格で販売されている時がある。どうして安価で販売することができるのか、その理由を調べてみると、安い価格を生み出すために、生産者に正当な対価が支払われない事例があったり、あるいは、生産性を向上させるために必要以上の農薬が使用されることもあるそうだ。そして、農薬の使用により生産者の健康に被害を及ぼす事態が起こっている。このように、経済大国と発展途上国の力関係によって、適正な価格で取引されていない現状がある。これは、ある意味で発展途上国の人々に対する労働の搾取ではないだろうか。

本書を通して、奴隷制が巨大プランテーション経営を成り立たせる労働力として、重要な役割を担い、経済発展を促し、後の産業革命につながったことが理解できた。そして、現代では奴隷制は過去の遠い国の話として身近に感じにくいが、外国人労働者の視点から見ると、そこには労働の搾取がいまだ存在していることに気付かされた。
 
投稿者 mkse22 日時 
「資本主義と奴隷制」を読んで

本書は奴隷制の起源からその廃止までを資本主義との関係から説明したものだ。
特にイギリス資本主義との関係を中心に分析を行っており、
資本主義が奴隷制や独占を生みだし、さらにはそれらを廃止したという結論を
導き出している。

この結論は私にとって衝撃的だった。

奴隷制は黒人への偏見や差別から生まれたもので、
当時のイギリス人の人権意識の高まりにより廃止されたものだと
漠然と思っていた。しかし、本書ではそれが否定されていた。

奴隷制は単純労働に対する需要といった経済学的要因で生まれたものだ。
しかし、奴隷自体は決してコストパフォーマンスの良いものではなかった。
『富を得ることができないものは食うこと以上に関心を持たず、労働は最小限にとどめようとする』(P17)
『奴隷労働よりも自由民の雇用労働のほうが経済的に有利であることは、奴隷所有主にさえ
異論のないところだった』(P17)
奴隷主から見た場合、奴隷は最低限の労働しかしないうえに、想像以上に管理コストがかかってしまい
それほど利益をだしていなかったというわけだ。

さらに、奴隷のライバルは自由民だった。
『奴隷労働は、自由民労働が豊富に得られるところでは必ずそれよりも高価なものとなる』(P19)
奴隷労働が常に契約労働よりコストパフォーマンスがよいわけではなく、
労働人口が増えたり、熟練労働への需要が高まるにつれて、
奴隷労働より契約労働のほうが優位となる。これが奴隷制廃止の一因につながる。

まとめると、奴隷制は単純労働への需要の高まりが原因で生まれたものだが、
奴隷のコストパフォーマンスは決して良いものではないため、
時代の変化とともに次第に自由民から雇用を奪われ、その結果、奴隷制は廃止となった。

このように考えると、奴隷制は実は過去のものではなく、
現在にも形を変えて存在するのではと思ってしまった。

例えば、非正規労働者だ。彼らは事務や工場作業など、決して高い熟練度が求められていない作業を
主に担当している。単純作業のためキャリア形成が難しく、別の仕事に就く機会が少ない。
コストパフォーマンスについても、近年の人手不足によりアルバイトなどの時給が上がっているため、
決して安くはない。

非正規労働は、非熟練労働を担っておりかつコストパフォーマンスがそれほど良くないという意味で
奴隷制と共通点がある。

奴隷制と異なる点は、非正規労働者は雇用契約を結んでいることだ。
自らの意思で雇用者と契約を結んでいるわけだ。
ただし、本当は正社員になりたかったが、やむを得ず非正規労働を選んだ人もいるはずで、
自らの意思で雇用契約を結んだとはいえ、他の選択肢がないため、
実質的には半強制的に雇用契約を結ばざるを得なかったケースもあるだろう。
このように考えるとより非正規労働は奴隷制に近くなる。

それでは奴隷制と同様に非正規労働を廃止すればよいかというと、そうではないと思う。
非正規労働は労働者視点から見ても、働き方の選択肢を増やすというメリットがあるからだ。
例えば、家庭の事情などで短時間勤務しかできないため、あえて非正規雇用の選択した
ケースもあり、非正規労働を廃止すると、このような人の受け皿がなくなってしまう。

このように非正規雇用は現在の奴隷制というべき特徴がある。

ただし、近い将来、単純作業に対する需要が大幅に減る可能性がある。
なぜなら、各職場にAIやRPAなどによる自動化技術が導入されつつあり、
これらが、人間の代わりに単純作業を実施してくれるからだ。

私の職業はSEだが、そこにも自動化の波は押し寄せている。
SEの作業として、サーバの構築があるが、以前はSEが手動で1台ずつ構築していた。
現在はクラウドサービスを利用すれば、特別な知識はなくてもGUI画面を数クリックするだけで、
サーバが自動的に構築されるようになってしまった。

奴隷のライバルは自由民だったが、非正規労働者のライバルは正規労働者だけでなくAIやRPAだ。
より正確には正社員もAIなど仕事を奪われているため、3者が陣取り合戦をしている感じだ。
おそらく将来的には、AIやRPAが人間の仕事を奪っていくだろう。

そのような世界になった場合、AIやRPAに代替可能な仕事をしていた人はどうなるだろうか。
ベーシックインカムのような最低限の生活できるだけのお金は、国から提供されているのかもしれないが
おそらく時間だけ余りある人が量産されるだろう。その時に備えて、今からでも自分の好きなことを探しておいたほうがよいかもしれないと感じた。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んでイギリスで起きた産業革命の資金が、大西洋で行った三角貿易と奴隷制度貿易によって作られていた、ということに驚きました。

本書を読んでみると確かに、イギリスが奴隷制度を採り入れ、様々な貿易や産業で富を得てきた後に、産業革命が起きた時期と、奴隷制度の廃止と共に産業革命が終焉する時期は重なっています。

産業革命によってイギリスでは急速な都市化が進み、19世紀前半には労働者の貧困や生活状態の悪化などが深刻になる中で、社会問題を改善する取り組みが始まりました。それと共に、労働者の地位の向上や最も悲惨な状態に置かれていた奴隷の問題も取り上げられるようになっていったのです。

植民地支配をする国にとって、アフリカからの奴隷は商品でした。イギリス人の貿易商人達によって西インド諸島へ連れてこられた大勢の奴隷達も、将来の生産性を鑑みた値段をつけられ売買されます。

奴隷はずっと奴隷という身分のままで存在し、逃亡しても彼らを受け入れるコミュニティは存在せず、イギリスの植民地である西インド諸島が中国やインドよりも近かったことが、アフリカからの奴隷導入へと繋がっていきました。

商品という交換価値を持った奴隷は、奴隷商人からすると人ではなく、利益を得るための商品であり、貿易の過程で発生するコストをできるだけ削減しようとします。結果的に奴隷は必要最低限の食料すら与えられずに、輸送船の中で病気になったり、餓死したりする人も続出しました。

つまり、貿易商人にとってアフリカ人の奴隷は商品であり、資本主義的な奴隷貿易が拡大する中で人としては扱わない、という考えが浸透していったのです。

資本主義の原理である、「資本を元に商品を生み出し、それを元により多くの資本を得る」という思想によって、イギリス人のプランターは白人に10年の奉公させる金額で黒人を終身買い取り、その労働力で得られた富を築き、やがてアフリカからの奴隷の貿易が盛んになっていったのです。

そのようなイギリスの奴隷制度も、1833年にウィルバーフォースらの運動により、制度の廃止が実現しました。

しかし、奴隷制からの解放は、現在まで続く白人や黒人という人種差別を生んでしまったのです。

さらに、資本主義の行き過ぎた効率追求や、多くの成果を得ようと追い求めた結果が、奴隷制度を生み出してもしまいました。現代でも、先進国が物質的な豊かさが満たされる一方で、後進国では、住民は貧困に喘ぎ1日の食事もままならないという状況も続いています。

本書のような以前は通説とされて来た事柄に対し、別の視点から見ての、異論や反論は多く出てくると考えます。

歴史では一方の素晴らしいという意見の裏には、必ず暗い過去や歴史が潜んでいます。
著者のように時代を経なければ分からなかった事も、いつか分かるようになる、明らかにしようとする人達が出て来るはずです。

今後、そのような新しい発見や見解に耳を傾けるようにしていきます。
 
投稿者 BruceLee 日時 
本書について素直な感想を言えば「長っ!」であった。何でこんなに長いの?いや、より正確に言えば、何で自分はこんなに長いと感じたのん?

その理由は、述べられている多くが類似部分のある、様々な人々による様々な証言だからではなかろうか。恐らく自分は読みながら「この情報までも必要なん?」と感じながら読み進めていたかも。

著者は何でこんな手法を取ったのだろう?嘘を書いたら直ぐバレるから、書かれている事は事実だろう。それにしても何故様々な人々による様々な証言を羅列したのか?もっとポイントを集約し大事な点を簡潔に述べインパクトを持たせる方法もある。が、自分はここに著者の意図があると思えた。それは、それまで語られなかった以下の疑問に対する新たな見解となるエビデンスとしたかったのではないか?

何故イギリスが世界で最初の産業革命(工業化)に成功し、ヴィクトリア時代の繁栄を謳歌出来たのか?

恐らく本書の登場前までは、この回答は「イギリス人の偉業」だったのだろう。実際「西洋型近代を理想とする近代化論一色であった戦後日本の歴史学では、この点のみがとりあげられ、産業革命はプロテスタントの進行とそのネットワークによってもたらされたかのように喧伝された」ともある。
が、著者からすれば

「ちょ待てよ!」

と(キムタク風に言う必要はないけど)、実態を知っている側の人間としては、とても黙っていられなかったのではないか。「イギリス人の偉業」では省みられない自分たちの祖先の血と汗がそこには1滴も登場しない。つまり当時はイギリスの成功理由に奴隷の存在はガン無視されたのだろう。故に著者は様々な人々による様々な証言をリサーチした。そしてこれでもかとばかり1滴の漏れも無いようエビデンスの数々を本書に記した。著者が最も主張したい事が以下の文にまとめられている気がする。

「十六世紀ヨーロッパの限られた人口をもってしては、新世界における、砂糖・タバコ・綿花という主要商品作物の栽培に要する自由民労働者を、大規模生産を行うに足るほど十分に供給することは不可能だった。奴隷制は、まさしくこのために必要となったのである」

「奴隷の販売を行わないかぎり大海運業者たるの地位に上昇しえなかったことは、ほぼ確実である 〜 奴隷貿易の成否に、他の一切の帰趨がかかっていたのである」

つまり、良い悪いは別にイギリス繁栄のために奴隷は必要不可欠だったのだ。また、ここでのポイントは著者は奴隷制について単純な批判はしていない点だ。勿論、人権を最重要視する今日の国際社会からすれば、奴隷制など有り得ない非道な行為である。が、当時はそんな事より「自国の経済繁栄」だったのだろう。当時としては方法は別にして、考え方自体は間違っていなかったのかもしれない。

が、奴隷にされる側からすればたまったものではない。が、奴隷にされる個人の苦悩や悲しみは本書ではフォーカスしていない。描かれているのは以下のような人間扱いされない待遇の酷さだ。

「奴隷船内に黒人を安全に固定し、反乱と自殺を防止するため、足かせ、鎖、南京錠が必要とされた。識別のため奴隷には焼印を押したのであるが、それには赤熱した鉄の印が必要だった」

例えば奴隷として異国に連れて来られた人々にとって「祖国に帰りたい!」というのは自然な気持ちであったと想像するが、既にその国で百年以上も経過すれば世代も交代し、もう「その国の人」としての生活になっている。仮に今、アフリカ系アメリカ人に「祖国アフリカに帰りたいですか?」と聞いてたら恐らく大多数はNOと答えるのではないか?

著者が言いたいのはそんな事ではない。奴隷制の犠牲者一人一人の恨みつらみではない。では何か?それは「イギリス繁栄のために、異国から連れて来られた名前も登場しない人々がいた事を忘れてくれるなよ!」という祖先たちへの敬意と労いなのではなかろうか?それが著者が本書を記した最大のモチベーションであったのではないか。それまでスポットライトが当たって無かった部分に著者は当てたのだ。そのエビデンスとなるのが様々な人々による様々な証言なのだ。

さて、我々現代人は奴隷制の存在も酷い話である事もある程度は知っている。故に「はは~ん、そういう事実が背後であったのね~」で終わりにしては勿体無い。この読書体験により「イギリスの繁栄はイギリス人の偉業」と捉えていた、当時の一般大衆と同じにならないためにはどうしたら良いか?それは新しい情報が入ってきた時に、受け身姿勢でなく、自分の頭で考えるという事だろう。また我々が学校や社会で習って来たことや既に自分の中で「ジョーシキ」となっている事でさえも、

「ちょ待てよ!」

と、疑って自分の頭で考えられるか、じゃね?って再度、キムタク風にいう必要は無いのけど(笑)
 
投稿者 audreym0304 日時 
 学生時代、世界史で奴隷貿易や奴隷制を習ったときに疑問に思ったことが2つあった。
1つは、なぜ、黒人を奴隷に使ったのか? 
と言うのは、大航海時代以降、船によりアメリカ大陸にたどりつき、その後、世界1周を果たしたヨーロッパ人は現在のオーストラリアやニュージーランドを流刑地として開拓をしたからだ。オーストラリアとニュージーランドでは原住民を追いやり、開拓をしたのは白人だった。
なぜ、同じことがアメリカ大陸や西インド諸島では起こらずに、黒人の労働力に依存したのか。

もう一つは、アメリカでの奴隷制が末期を迎えたころ、ヨーロッパ、特にイギリスでアメリカの奴隷制に対する反対活動が起こったことだ。砂糖や綿花の不買運動などがあったと記憶しているし、何人かの黒人が奴隷の身分のまま、ヨーロッパを訪問し、講演し、ヨーロッパの抗議活動に拍車をかけたと記憶している。
そもそも西インド諸島や、新大陸で奴隷制を始めたのはヨーロッパの人々ではなかったか?奴隷制反対の活動をしている人々は、奴隷制からもたらされる砂糖や綿花などから多大な恩恵を受けていたにもかかわらず、なぜ、奴隷制の廃止を声高に叫んだのだろうか?この活動は奴隷制の非人道的処遇のためにおこった活動なのだろうか?
 以上2点が学生時代の奴隷制や奴隷貿易を世界史で習ったときの疑問であった。本書はこれらの疑問に答えてくれた。

 西インド諸島やアメリカで黒人奴隷が重宝されたのは、アフリカ大陸から無尽蔵に供給される安価な労働力だったということは容易に想像がついた。しかし、黒人の優秀な耐久力、温順さ、労働能力がインディアン奴隷制よりも白人奉公人制度よりもはるかに優秀であったことは初めて知った。個人的なことながら、黒人の優秀な耐久力、温順さ、愚直なまでの労働能力は身をもって知っているので「さもありなん」である。
西インド諸島やアメリカ黒人奴隷制の起源は経済的なものだった一方で、オーストラリアでは有色人種の入植が禁止されたことが原因で黒人奴隷の輸入がなかったということだが、奴隷貿易の開始は16世紀、オーストラリアへのヨーロッパ人の入植は18世紀と考えると、このころには厳然とした黒人への差別、個人の能力とは関係のない見た目での差別はアメリカだけでなく、ヨーロッパの人々の中にしっかりと根付いていたのであろう。
 次に、アメリカの奴隷制も終盤のころ、なぜ、ヨーロッパ、特にイギリスでアメリカの奴隷制に対する批判が上がったのかが不思議だった。イギリスはアメリカが独立するまで、奴隷制から多大なる利益を上げていたに違いないからだ。アメリカがイギリスから独立し、イギリスはインドへの略奪に向かう。その東インドからもたらされる利益は奴隷貿易廃止論が噴き出すまでには多大なものになっていたのだろう。


 奴隷制が経済的理由で導入され、経済的理由で廃止されたのは本書を読めば一目瞭然である。西インド諸島やアメリカの奴隷制が廃止して以降、人類は奴隷制を持たないのだろうか?答えは「否」であろう。
 明確に奴隷制とうたうものはあまりないのかもしれないが、「安価な労働力」と言う面で見たとき、安価な労働力を求めて海外に移転したり、海外から労働力を輸入している。
 また、多くの奴隷の共有地となったアフリカ大陸を見れば、その大陸のほとんどはヨーロッパ各国の植民地となった。独立も未だ100年に満たない。完全に旧宗主国がアフリカから手を引いたかといえばそうは言い難い。それぞれの国の一番良い土地はヨーロッパ系移民が占拠している。アフリカのある国ではインフラのための国有企業を立ち上げたが、その役員は全員ヨーロッパ系移民あるいは旧宗主国出身だったということもある。
 利益が還元されるべき人たちに利益が還元されず、その利益は別の国にわたり、ほとんど関係のない人たちに利益をもたらす結果となっている。これが、資本主義の姿と言われればそれまでだし、巡り巡って僅かながらでも私たちも恩恵を受けているのであろう。
 本書を読んで感じたことは人間の歴史は崇高な精神にではなく、膨大な欲と経済、利権によって進んでいくということである。アメリカの黒人奴隷制に対する批判には東インド製の砂糖の利権もあり、奴隷制の非人道性を訴えるという両輪で進んでいった。東インドで砂糖や綿花栽培に従事する人たちが西インド諸島やアメリカ同様非人道的な扱いを受け、実質奴隷的な扱いをうけ、その影響が長く未来に対して残ろうともだ。
 歴史を学ぶことは人類が何に価値を置き、誰がどこからどのように利益を取得してきたか、そして、その結果、意図せずとも何百年にもわたる社会的影響がどんな経緯で作られてきたかを知ることだと思う。肌の色等見た目による差別は今後の歴史の中で繰り返すべきではないことの一つであろう。歴史を学ぶとき、歴史上の事象に疑問を持ち、繰り返すべきではないことを理解し、自分たちが作る歴史で繰り返さないことこそ人が歴史を学ぶ価値なのだと思う。
 
投稿者 str 日時 
資本主義と奴隷制

今のように機械によってモノを生産することが容易ではなかった時代。経済の発展のために人力が必要不可欠だったことは言うまでもない。しかし“皆で協力して発展させよう“ではなく、同種族であるはずの人間を売買し労働力とする考えに至るあたり、それがまかり通ってしまうあたりに人間の恐ろしさを感じる。

勿論、当時の環境を知らないからこそ“非人道的だ”と感じるだけで、結果として産業革命をもたらした訳だから、当事者以外の人たちや後世の人たちからしてみればまた違うのだろうか。奴隷制の廃止も志の高い指導者の下でもなく、皆が一致団結した訳でもなく、他の団体や勢力との利権争いの果てに、仕方なく廃止されたもののように受け取れた。

現代でも人種差別や、外国人労働者に対する低賃金での就労など、同種族間においての選別や優劣付けが無くならないのも、そういったものの名残なのだろうか。

人と機械を同じ“労働力“としてのモノサシで計ることが出来る人間がいる以上、機械化や自動化が難しい産業では、当時ほど大々的には発展しなくとも、同じ様な惨状が完全に消え去ることは難しく感じた。過去の話としてではなく、現代にまで燻っている問題の根幹なのかもしれない。

多国間戦争とはまた違った手法・手段で大国を築き上げたイギリスのルーツを少しでも知ることが出来た。
投稿者 vastos2000 日時 
本書を読むことで、イギリスの産業革命を契機とした発展の裏には黒人奴隷に対する搾取があったことに気がつくことができた。
また、西インド諸島をはじめとする植民地が市場としての魅力も備えていたことは本書を読むまで気づかなかった。
現代の日本人の多くは奴隷制に対して疑問を感じる(反対の立場を取る)だろうが、当時のイギリス人のほとんどは奴隷制に疑問を持っていない。もともと道徳的な観点から奴隷制を捉えておらず、経済的な観点から奴隷制を拡大していったことが淡々と書かれている。そしてその筆致が私を暗い気持ちにさせる。


世界史の教科書※には、ワットやスチーブンソンの業績や発明のことと、アメリカ大陸への到達やスペインの南米進出のことが書かれているが、両者を関連付けるような記述はなかった。
本書を読むうちに、(イギリスの)資本主義と奴隷制はマッチしていたと感じるが、教科書では別の項で扱われている。そもそもアフリカや中南米に関する記述が少なく、三角貿易の説明で、砂糖・綿花・タバコ・コーヒーがアメリカ大陸や西インド諸島からヨーロッパへ持ち込まれ、アフリカでは奴隷貿易の影響で社会が荒廃したことが簡単に触れられている程度だ。
やはり欧米(特にアメリカ)の影響を受けている日本で作られている教科書だからか。トリニダード・トバゴやキューバの教科書は日本のものとは内容が大きく異なるのだろう。

陰鬱で悲惨に感じられる奴隷制だが、新世界における労働力を確保するための手段として拡大していったようだ。『奴隷制採用の理由は、とギボン・ウェークフィールドは述べている、「道徳的事情にあらず、経済的事情にある。それは、徳不徳にかんせず、生産にかかわるものである」』(p18)とある。
おそらく、我々も同じことで、後世の人間が現代のことを知り、「2020年ころはこんな考え方をしていたのか」と感じることもあるだろう。「経済的、社会的にこうなっているのであって、差別の意識はない」と思っていることでも、自覚がないままに差別や不当な搾取を行っている、あるいは差別に加担しているかもしれない。
著者も『絶えずつくられつつある新たな偏見にたいしても警戒を怠ってはならない。いかなる時代においても、そうである』(p346)と警告している。

あくまで私個人の考えだが、現代はインターネットとスマホの普及によって情報の伝達速度と量が爆発的に上がったが、この流れについていけないと(当時の黒人奴隷ほどわかりやすい形ではないかもしれないが)搾取される側になってしまう(すでになっている?)かもしれない。そして、新しい技術についていけない人達を見捨てても「自助努力が足りないからだ」と切り捨ててしまうかもしれない。
日本は一度失敗すると再起するのが難しい社会で、失敗した人達を救う仕組みがうまく働かず(整備されておらず)、国や自治体というよりは川口加奈さんのような個人有志の力によって救っている状況だと感ずる。


経済的な理由から拡大していったとされる奴隷制だが、確かに資本主義の世界で金銭的に成功する考え方は奴隷制によくマッチしている。
黒人奴隷を支配下に置けたうちは(イギリスにとって)良かった。資本主義には資本の回転と労働力が必要だが、その両方を得られたからだ。
そして、大航海時代以降の航海技術の発達と蒸気機関の発明が「ヒト、モノ、カネ」の移動速度を速めたことが資本主義の発達とマッチしたのだろう(資本を速く回せる)。
景気が良いとは資本が高速でぐるぐると回転している状態だから、砂糖や綿製品に対する購買意欲が資本の回転を促進し、またイギリス本国と植民地の両方(さらには黒人奴隷の供給元のアフリカ)が市場としての規模を備えていたことも資本の使い道としての受け皿になっていたのだろう。
また、造船技術の発達によって、一度に多くの黒人を運べるようになったことも経済規模の拡大に貢献したのだろう。現代日本に生きる私は、当時の黒人奴隷がおかれていた境遇を知り暗い気持ちになった。


黒人奴隷に対してかわいそうだという感情を抱くが、子どもに「なぜ差別はいけないの?」と尋ねられたらなんと答えるだろうか。「人間は肌の色や見た目に関係なく平等だからだよ」とでも答えるか。少し前の「Black Lives Matter」も最近では忘れ去られている。日本にも外国人やその子どもが増えたと言っても、見た目でハッキリそうとわかる子は100人弱の学年で一人か二人だけだ。
幸い、私の子は見た目で仲良くしたり、意地悪をしたりといったことはしていない。
私は我が子に対し「みんなと仲良くする必要はない。だけど誰かと仲悪くしたり、意地悪をしたりする必要も無い。考えが合わない子とはできるだけ関わらないようにしろ」と言っている。
自分でも差別はダメだ、弱いモノいじめはダメだという理由としてはピントがずれていると思う。
差別をすると、自分の身にも跳ね返ってくることを恐れているためかもしれない。あるいは人間は一人では生きていけないのだから、少なくとも敵は作らないように生きることが善策であると思っているためかもしれない。

人身売買や奴隷制あるいは差別に反対する、明確な答えは未だに出せていないが、本書はその問いについて考えさせられる一冊だった。


※『もういちど読む山川世界史』(山川出版社)を参考にしました
 
投稿者 tarohei 日時 
 今月の課題図書は残念ながら自分にとって少し難解なものだったと言わざるを得ない。奴隷制が産業革命に与えた影響を基本とし、各種研究成果や論文などを元に構成されているためなのか、論理展開の中で微妙に強調点が変わったり、全体的なストーリー展開の流れに馴染めなかったためなのか、全体の半分ぐらいしか理解できなかったように思う。

 まず、本書を読んで感銘を受けたのは、奴隷にされた黒人は経済的な理由からであり、人種差別により黒人を奴隷にしたのではないとするところである。黒人が奴隷にされたのは黒人であるという人種的理由からではなく、経済効率が良かったからであり単純に経済的な理由からであるというものである。つまり人種的に劣っているわけではなく、他の奴隷(アジア人やアメリカ先住民族、白人年期契約奉公人など)に比べて頑強で重労働にも耐えられる黒人奴隷が重宝されただけなのである。この主張は世間の偏見や劣等感に苦しむ黒人の人々にとっては、間違いなく救いの言葉になったことであろう、と考えると胸が熱くなった。

 次に、感銘を深く受けたのは次のことである。
・イギリスの西インド諸島における奴隷制や奴隷貿易などの奴隷経済が、イギリスの産業革命の要因となった
・産業革命後、キューバ・ブラジルなどによる対抗勢力の台頭により、奴隷経済はイギリスにとって収益性や重要性の点において魅力がなくなり衰退した
・イギリス本国の西インド諸島における奴隷貿易廃止や奴隷解放運動は、博愛主義とか人道主義によって巻き起こったのもではなく、経済的要因によって発生したものである
 つまり、奴隷制や奴隷貿易がイギリスの産業革命の要因となっており、産業革命が成功して産業資本主義経済が成立すると、今度は逆にそれが弊害となって奴隷制や奴隷貿易が廃止されていったというものである。これに関する感想は後述する。

 しかし、よくよく考えてみると、本当に西インド諸島の奴隷制や奴隷貿易がイギリス産業革命の要因となったのであろうか。奴隷貿易にかかる費用や奴隷運搬時の死亡率や経費などを考慮すると、奴隷制や奴隷貿易からの搾取によって莫大な富が蓄積され、産業革命を引き起こすほどの資本形成には至らなかったのでなかろうか。甚だ疑問であると感じた。
 それよりもむしろ、産業革命やその後の近代資本主義の成立は奴隷制や奴隷貿易での利益だけに起因するものではないが、奴隷制や奴隷貿易は産業革命に大きく寄与したと考える方が妥当ではなかろうか。

 ここで経済的理由により奴隷制度が廃止されていったということについて考えてみると、なるほど、確かにそれは一理あると思う。例えば、アメリカの奴隷解放運動である。19世紀、アメリカの北部と南部は経済構造が大きく異なっていた。北部の州の基幹産業は商工業であり、一方南部の州は黒人奴隷を主な労働力資源とした大規模農業経営を中心とした経済構造である。
 このような背景の中、北部の産業資本家たちはアメリカの商工業を守るため、黒人を購買力や自由がない奴隷のままにしておくよりも、労働者として工場で働かせ商品を購入する消費者になってほしい、黒人奴隷の解放が利益になると考えたのである。
 つまり、アメリカの奴隷解放においても博愛主義とか人道主義によるものではなく、経済的要因によって解放されたと言える。どこの世界にもいえことだろうが、自国(もしくは自分)の利益に相反する事態が生じると、ヒューマニズム的な大義名分を掲げて己の利益を守るための行動を起こすということなのであろう。

 人は元来、自己の利益や経済活動を優先して行動するものである。経営者や政治家なども直接的な利益でしか動かない場合が多く、人道的な観点で行動を起こすのは稀である。多くの場合、人道主義は利益獲得のための後付けの理屈でしかないことが多い。そして本書では、奴隷制が廃止されたのは経済的理由であり、人道的理由ではないと主張する。
 経済至上主義を旗頭に掲げた近代資本主義が幅をきかせる中、その経済至上主義を推し進めた結果、皮肉なことに奴隷解放と言う形で人間性を取り戻す結果となった。経済を優先させても、一時的にせよ人間性は疎外されることはあるが、長期的・最終的には人間性を取り戻す結果になるのか。人道主義を大義名分にしなくても、経済優先の結果、人類はは必然的に人道主義的な選択を取ることができるのか。
 もしそうであるなら、経済至上主義の近代資本主義に一縷の望みを持つこともできるのではなかろうか。そう考えると少し元気が出てきた。もう少し頑張ってみようと思う。
 
投稿者 msykmt 日時 
本書を読んだ結果、太平洋三角貿易に関する知見が深まった。しかし、得た知見から果たしてなにが自分の中に残るだろうか。悶々とする思考を書き出しながら整理した結果、こう考えるに至った。過去にとられた、ある手段について、現在の価値観で是非を判断すると非になるものであっても、その手段によって人類に時間の余裕がもたらされるのであれば、従来の考え方を新しく変える革新的発想がうまれる、と。そして、我々がその革新的発想の恩恵を現在享受しているのであれば、過去の手段に対して、是非を問うのはやめよう。なぜならば、その是非を問う時間があるならば、その代わりに、次の革新的発想をうむために、もっと時間の余裕をうみだすことに注力したほうがよいからだ。

具体的にいうと、どういこうとか。まず、手工業から機械工業への転換を果たすことによって、現在にいたる人類へ多大な恩恵、多大な時間の余裕をもたらした、イギリス発の産業革命を下支えしたのは、奴隷貿易という手段によってうみだされた富である。たとえば、ワットが発明した蒸気機関への融資も、バークレー銀行の設立資金も、奴隷貿易という手段によってうみだされた富が原資となっている。

奴隷貿易というと、今日の我々の価値観からみれば、人をモノ扱いしている点で非人道的に感じられるため、受け入れがたい手段であると感じる。しかし、奴隷制は古代ギリシヤの時代からあったのであるから、その歴史の延長線上にある太平洋三角貿易の時代でも、奴隷制は一般的に受け入れられていたのだと思う。類似の例でいうと、日本に公娼制度があったように、過去においては一般的であっても、現在の価値観では良しとされないこともあるのだ。

さらにいうと、先に述べたとおり、太平洋三角貿易の時代よりも、もっと過去にさかのぼると、古代ギリシヤの時代にも奴隷制はあった。古代ギリシアの時代では、労働は奴隷のすることであるとみなされた。労働から解放された市民は、学問や芸術に興じる時間を得た。その結果、哲学が発展したのだ。その哲学が、現在にいたる人類へ多大な恩恵、時間の余裕をもたらしたのは言うまでもない。たとえば、演繹法や帰納法などの思考に用いる抽象概念は哲学者がうみだしている。

また、時間の余裕がうまれることの効用を考える。時間の余裕がなければ、従来のやり方を効率化することもできない。ましてや、従来とは異なる新しいやり方を考えることもできない。たとえば、馬車馬のように労働ばかりしていては、新しいことを考える時間の余裕など、うみだせない。逆に、時間の余裕があれば、従来のやりかたを改善することもできれば、新しいやり方を考えることもできる。

以上により、太平洋三角貿易の時代、および、それよりも過去の古代ギリシア時代にも奴隷制はあった。その奴隷制は、人類に発展をもたらしてきた。もっというと、人類に時間の余裕をもたらしてきた。さらに、その時間の余裕によって、従来の考え方を新しく変える革新的発想を人類にもたらしてきた。よって、過去にとられた、ある手段を憂いていても、従来の考え方を新しく変えるようなものはうみだされない。だから、現在の価値観で良し悪しを判断するのは無意味なのでやめたいと考える。過去は過去として、そうやって発展してきたのだと理解するのにとどめる。そういう態度が、もっともかしこいのではないかと考える。
 
投稿者 Terucchi 日時 
この本を読んで、資本主義が正直怖いと思った。なぜ怖いと思ったのかについて考えると、
資本主義は自由競争であることと引き換えに、勝ち組・負け組も産み出してしまう。現代でも勝ち組・負け組があるが、この本で紹介している当時は今と比べるとかなり酷い。負け組である奴隷となってしまうと悲惨である。この資本主義は、人間の欲が原動力となってしまうことであると考える。今回、私は資本主義の「勝ち組・負け組」の点とその原因が「欲の原動力」から来ることであること、そして、歴史は「資本主義の修正する力」によって、歪んだ仕組みである奴隷制が続かないことについて書いてみる。

まず、資本主義の「勝ち組・負け組」の点を書いてみたい。資本主義は、自由競争の上にあるため、誰でも成功(儲けること)ができる可能性があるが、みんなが成功できる訳ではない。誰かが儲けるには損をする人が存在する。もし富の利益がある程度一定と仮定すると、儲けることができる勝ち組は、負け組の損の分が積み重なって利益となる。すなわち、負け組の犠牲の上で成り立つ。この本の奴隷が認められていた時代では奴隷となった人たちが犠牲となって、一部の勝ち組の利益となっている。産業革命もその勝ち組に利益が資本となって発展した。一部の勝ち組にとっては良いが、奴隷となった人たちにとっては人権すら持てない。資本主義は誰でも成功を掴む勝ち組となる可能性がある反面、負け組になる可能性が非常に高く、その場合とても悲惨である。

次に、その資本主義の原動力となる「欲」について書いてみる。私は原動力・パワーの源が何かを考えると、欲であると考える。欲は良い方向にも悪い方向にも働く。良い方向の面は、向上心であると考える。儲けたいという気持ちも一つの向上心の形であり、これが当時では産業の発展や航海技術技術の発展を通していろんな世界の島々の発見につながった。もし欲がなければ、人は成長の欲求がなく、発展もしないであろう。更に、資本主義においては、この欲の向上心が形になり易い。ただし、「お金が有れば」の仮定に限定した場合かも知れない。お金が有れば、それを元手にして、投資を行い、更なる発展につながる。それが当時では産業革命などの良い面に出たことである。

これに対して、悪い側面がある。やはり奴隷制を作ってしまったことは完全な悪の側面であると考える。勝ち組の欲が奴隷制を作ってしまったことであるが、何よりもこの当時の、今では考えられないことであるが、奴隷制すら正として認めてしまったことだろう。教会すら奴隷制を肯定していた。この当時の奴隷となった人たちは、大きな犠牲者である。ある一部の富を持った人たちは、非人道的な奴隷制でさえ、正当化させてしまう権力を得ていた。歴史的に見てもおかしいと思うが、当時の大きな力の前では無力であったのであろう。

次に、「資本主義の修正する力」について書いてみる。ここで、歴史を見ると、この奴隷制はそのまま続かない結果となった。奴隷制を正としていた世の中が180度変わって、奴隷制はダメだという方向に変わってしまったのである。当時、奴隷制を推進していた人たちが明らかに力を持っていたはずだったが、反対派が出てきた。最初は一部の富を持った人間に対する妬みからだったであろう。歪んだ仕組みの上では、勝ち組と言えども、独占された富は壊される。この奴隷制という歪んだ正義の上では、独占された富も壊されてしまうものだと思った。また、資本主義が向かう方向は、結局、自由競争になるしくみに落ち着いてしまった。この本で書かれた当時では、保護貿易か自由貿易のどちらになるかの争いも、自由貿易が勝った。アメリカの独立や、その後に西インド諸島の奴隷化されていた国も独立していくのは、自由を求める方が勝った結果である。私が思うのは、結局、人間の欲には富を得たい欲だけでなく、自由になりたい欲があり、実はこの自由になりたい欲が一番強い欲なのであると考える。そして、歴史は人が作り出すのであれば、人は自由でありたい方向へ動き、結果としてもその自由な方へ修正する力が働くのだと考える。これが、資本主義が持っている修正する力だと考える。だから、歴史の中で、資本主義が未だに残っているのではないかと考える。

以上、この本を読んで、資本主義を奴隷制との関連での歴史について、考えさせられた次第である。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、奴隷に関する制度的な研究ではなく、イギリス資本主義の発展に対して奴隷制がどれだけ貢献したかを論じた研究をまとめたものである。そのため、奴隷制について、人道的・倫理的な是非を問うものではない。純粋に、奴隷制や奴隷貿易の経済性に関する研究なのである。私が本書で最も印象的だったのは、奴隷制の崩壊が人道的な理由ではなく、経済的な必然性があったという点だ。学生時代に学んだ世界史の授業においては、非人道的な奴隷差別に対する糾弾ばかりが目につき、奴隷制の必要性や貢献度についての言及はほとんどなかった。奴隷制を打倒した人道的な活動にばかりスポットが当たっていたこともあり、奴隷制崩壊には経済的な理由があったという見方は、新鮮で驚きに満ちたものであった。本稿では、奴隷制が必要とされた理由と崩壊した理由について、経済性の観点から掘り下げてみたい。

まずは、奴隷制、とりわけ黒人奴隷制がイギリス経済において必要とされた理由について整理する。黒人奴隷は、16世紀から本格化した植民地開拓における労働力として必要とされた。西インド諸島をはじめとする新世界において、砂糖・タバコ・綿花という主要商品作物の栽培に要する自由民労働者を、大規模生産を行うに足るほど十分に確保することは困難であった。イギリスは、その労働力の確保をまず先住民たるインディアンや本国の白人奉公人によって賄おうとした。ところが、屈強な黒人奴隷の生産性が最も高く、アフリカからの奴隷貿易によって、その供給量も無尽蔵であった。当時のスペイン人の観察によれば、1人の黒人の労働力は4人のインディアンの労働力に匹敵したという。恐らく、黒人奴隷の肉体的な優位性に加えて、これまで遊牧民として暮らしてきたインディアンには、農耕民としての生活習慣がなかったことも、両者の生産性に大きな差が生じさせた要因であろう。我々は、黒人種が容貌や頭髪、皮膚の色といった身体的特徴によって、劣った存在であると見なされ奴隷化されたと思い込んでいるが、むしろその優れた身体的特徴によって労働力として活用されるために、奴隷化された経過にあるのだ。つまり、黒人の「人間以下」とされた身体的特徴は、経済的事実をもっともらしく歪曲するために、後から持ち出された見方なのである。

さらに本書では、条件によっては奴隷労働が非能率的であることにも触れられている。確かに、要求される技能が単純で型にはまったものである場合、奴隷労働は雇用労働の生産性を上回る。しかしながら、知性を抑圧して計画的に退化させる奴隷制においては、輪作及び科学的経営との相性が悪く、中・長期的には奴隷労働が自由民労働よりも生産性という面で割高になるのである。つまり、俯瞰してみると、奴隷労働が有効であったのは植民地が急速に開拓された一時期のことであり、定住人口が増加していく19世紀以降においては、奴隷労働の不経済性が表出してきたと考えられるのだ。イギリスにおいて、直接的に奴隷制が打倒された要因としては、人道活動家による奴隷制に対する反対運動や、奴隷自身による自由獲得のための反乱も大きな要素であろう。しかしながら、奴隷制が崩壊した最大の要因は、あくまでもその非効率性が表出してきたからであり、そうでなければ、倫理的的な問題点が指摘されたとしても、奴隷自身が声をあげたとしても、奴隷制が存続した可能性もあるのだ。

本書でこうしたイギリス奴隷制の経済性について学んだ時に私が感じたことは、近年日本で進んだ労働基準法の改正についても、同じことが言えるのではないか、ということだ。平成30年に労働基準法の改正があり、時間外労働の上限規制が導入され、年次有給休暇を確実に取得させることも義務化された。今後、中小企業における月60時間超の時間外労働に対する割増賃金率も引き上げられる。こうした法改正が目指すものは、労働者が個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を選択できるようにすることだと言われている。さらには、平成27年に大手広告会社、電通の新入社員である高橋まつりさんが過労自殺した事件が社会問題化し、長時間労働に対する倫理的な問題点が指摘されたことも、こうした労働法制の改正を後押しすることになった。ただ、こうした労働法制の改正は、長時間労働が日本の生産性を低下させる主要因であり、それを是正することが国として必要だったからではないだろうか。労働者の賃金単価が高くなる残業時間を使って成果を出すのではなく、限られた時間内で成果を出さなければ、日本の低い労働生産性を打破できない。つまり、長時間労働の是正が叫ばれたのは、労働者の権利を守るという倫理的な問題よりも、経済性・生産性の追求が第一だったのである。こうした経済性の追求については、社会的に強調されることはない。なぜなら、倫理性を強調した方が、より広く人々の賛同を得られるからだ。本書を読んだことで、労働問題に対する社会の一般的な印象と実態の乖離について、改めて考えることができた。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 3338 日時 
なぜ産業革命は起こったのか?
中高生の頃、私はじゃがいものおかげだと信じていた。じゃがいもがアンデスの山地から、ヨーロッパに渡ったのはフランス革命や産業革命が起きる前だった。
 最初は鑑賞用としてフランス王宮の植物園に植えられたじゃがいもは、大航海時代の16世紀前半から、200年余りの時を経てヨーロッパ全土に広がり、飢饉の度に人々の救いとなって行く。じゃがいもを得たおかげで、ヨーロッパの人々は飢饉を凌ぎ、大幅に人口が増え、市民が次第に力を蓄えていくことになる。そして、植民地から自国の生産量以上の、資産を得てついに産業革命がイギリスで起こった。その後産業革命を担ったイギリスの労働階級を支えたのも、やはりじゃがいもだった。イギリスの土壌に合い、安くて栄養価の高いじゃがいもは、生産量を伸ばし続け、労働階級を支え続ける。
 産業革命の業績は、19世紀から20世紀にかけて繁栄を極めたヨーロッパ諸国から、アメリカへと引き継がれ、さらに発展を遂げる。現代の日本も、アメリカから産業革命の遺産として社会形態や政治・産業・経済の仕組み、文化・ライフスタイルなどを、引き継いだと言える。

 成人してから、いろいろな本を読むにつけ、私の勘違いはあっさりと消え去った。考えれば分かることだったかもしれない。ただ、本書はありのままに書かれていて、特に奴隷の悲惨さを訴えていない。むしろ淡々と当時の社会情勢や仕組みを羅列している。それでも、文章の端々に心に棘が刺さるような記述があり、読み進めて行くとそれが気にかかる。
 敬虔なカトリック信者も、欲にまみれた商人も等しく、黒人は神が作った人間ではないと言わんばかりに、奴隷制は続き労働の搾取は終わらない。読み進むと気持ちがどんどん冷えて行き、読むのが辛くなって行く。今まで飢えていた貧しい島国の人々が、お金のになることに気がついて、肌の色が違うというだけで、同じ人々の人生を奪って行く。人々の血が流れれば流れるほどに、お金として手元に入って来る仕組みを作って行く。
 そして、その手口はいつも同じで、当時のリバプールとブリストルを例に取ると、奴隷貿易で得た富の一部使って議会に人を送り込み、条例を操作して、益々の富を貪ることに血道を上げている。この後世界で展開する帝国主義も同じ手口で行われていく。 

 これほどに人々の血が流されることで、贖われた産業革命は人類に取って必要だったのだろうか?現代社会は産業革命を基盤にして発展して来た。その後もいくつかのエネルギー革命が起きたが、やはり、ターニングポイントは産業革命にあった。
 あれほどの富を齎らした奴隷制度も、いつしか人を管理することが難しくなり、コストが合わないという理由で(断じて人道的な理由ではない)奴隷制は消え去った。けれどもその名残りはここかしこに残っている。形を変えて非正規雇用の形態や、外国人労働者の問題として残っている。人手不足によって、行き詰まった資本主義経済の行き着く先は、労働力の搾取でしかない。

 ここで有無同然という言葉が思い浮んだ。誰もが知るこの言葉の意味は深い。有名なところで、アップル社の設立者スティーブ・ジョブズ氏が「私はビジネスの世界で成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、仕事を除くと喜びの少ない人生だった」と晩年にか語っている。
 日本人では川端康成氏がノーベル賞受賞後に「この受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、萎縮してしまうんではないかと思っています」と呟き、その後自殺している。
 バーナード=ショー氏に至っては「人生には二つの悲劇がある。一つは願いが叶わぬこと、もう一つはその願いが叶うこと」と述べている。
 結局、突き詰めて考えれば、合っても無くても同じということになる。だから、あるがままを受け入れるしかない。産業革命革命が起こっても起こらなくても、奴隷制があっても無くても、結果的に同じ時間軸に生きている人類の受ける恩恵は等しい。例え日本に奴隷制が無かったとしても、産業革命の恩恵を受けていることに変わりはない。すでに起こった事象を正確に後世に伝えることは、必要であり義務でもあるが、それをいつまでも、感情的に引きずって行くことに意味は無いと考える。
 むしろたくさんの流血のうえに成り立った、便利な現代社会の恩恵を受け入れ、人類の幸福や平和ために利用し、発展させて行かなければ、血を流した人々がうかばれない。流れた血に見合うほどの、平和な社会を築き上げるのが、恩恵を受けている人々の義務ではないかと思える。 

 そしてもう一つ、先月の優秀賞のLifeCanBeRich氏の文章を思い出した。
「私は自身の思想は無色に感じるが故に、他者の思想との間に明確な違いがあるように感じてしまう。これが1つ目の錯覚。そして、その違いを実際の違いより大きく感じてしまう。これが2つめの錯覚。更に、自身の思想から離れれば離れるほどそれらの思想をいっしょくたにしてしまう。これが3つめの錯覚となる。」本質を捉えた言葉に、心を鷲掴みされてしまった。誰もがこのように考えて、自分自信を省みることができれば、社会が平和で暮らしやすくなるに違いないと思った。
 
投稿者 ZVL03103T 日時 
砂糖、たばこ、綿花。プランテーションのあるところには奴隷制がある。学生時代に世界史で習った内容をぼんやりと思い出しながら本を読み始めた。著者の説明を見ると、産業革命をカリブ海峡からみるという歴史学の大転換となる研究に取り組んだとある。大転換ということは、以前とは異なる見解を示したのであろうか。以前の歴史学はどのような内容だったのだろう。その内容にも興味を持った。
調べてみると、産業革命はイギリス人が成し遂げた偉業と考えられていたこと、当時の英国では人道主義者が奴隷制度を廃止させたという考え方が一般的であったこと、また、黒人は奴隷に適しており、白人は適していなかったと考えられていたようなことが分かった。しかしこの本を読むと、実際はそのどれも間違っていた。
産業革命はイギリスが植民地を持ち、三角貿易で莫大な利益を得ていたことが背景にあった。産業革命により都市で働く労働者が増えると生産者の保護から消費者の保護へ、農業の保護から工業の保護へと政策が変換されていった。なぜなら労働者の生活を守るために食料などの価格を抑え、賃金を低くすることが結果として製品の競争力を向上させるからである。産業革命の中心となり、奴隷制に反対したマンチェスター派は、関税で保護されていた西インド諸島の利権をはく奪することや東インド会社の独占権をなくすことが目的なのであり、人道主義から奴隷制に反対していたのではなかった。それは奴隷制が廃止された後、自国以外の奴隷制度については何の行動も起こさなかったことからも明らかである。また奴隷となった理由が人種によるものでないことも著者は奴隷制の背景とともに説明している。
このように歴史学の大転換といわれる見解を述べた後の結論で、著者は5つのことをまとめている。その内容を読んで、わたしが強く感じたことは、本質を見抜き、理解することの大切さである。高校で世界史の授業を受けた時、わたしは教科書に書いてある内容をそのまま暗記していただけであった。歴史においてどのような見解が主流であるのか。その見解は本当に正しいのか。少しも深掘りしていなかった。教科書に書いてあることが全てで、それ以外にも見解があるのでは、と考えることもせず、別の視点があるかもしれないことにも考えが及ばなかった。
5つの問題点を挙げた後、著者はそれが現代の諸問題に対する解答となるものではなく、道標として指摘したと述べている。歴史家が歴史から学ばない限りその活動は飾りとしての教養ないしは楽しい気晴らしといったものにすぎず、嵐の時代においては同様に無益無用のものになるだろう、とも述べている。歴史家が歴史から学ぶべきものとは何だろうか。よく言われることとしては、歴史を学ぶ目的は正確に過去の事実を知ることで、それを基に同じような事象が発生した時によりよい未来を創るために参考にするということがある。では、よりよい未来を創るためには何が必要なのか。それはたくさんの人を巻き込む力だと思う。私1人が歴史を学んで歴史を参考にして行動したとしても、その範囲は限られている。歴史家に限らず、歴史から学ぶべきものは人を動かす力だと考える。歴史は人が動かす。よりよい未来はより多くの人が目指して行動することでより大きな範囲で実現し、幸せも広がる。そのためには歴史を振り返り、どのような力が人を動かしたのか。どのような目的や利害を基に人が動いたのか。人を動かす原動力となったものを明らかにし、よりよい未来に向けてたくさんの人を動かすにはどうすればよいのかを考えること、それが歴史を学ぶ重要な目的の一つだと考える。
私個人としては10年後に後悔しない生き方セミナーで学んだことを生かし、まずは自分が興味を持てる分野を探求し、人を動かせるようになることを目指したいと思う。
 
投稿者 2727 日時 

資本主義と奴隷制 を読んで 

本書によると、黒人奴隷の起源は、労働者の皮膚の色によるものではなく、安価な労働力という経済的なものであり、インディアン奴隷制や白人奉公人制度に比べ、黒人奴隷制は、黒人の優秀な耐久力、温順さ、労働能力を発揮したという。

黒人奴隷制は、黒人の人種的劣等性や、気候による優位性などではなく、ただ都合よく人種の相違という口実を、奴隷制を正当化する理由として後付けされただけであるという。そうなった最大の理由は、それまでの白人奉公人制の労働者よりも黒人奴隷は働きがよく、かつ安かったことにある。例えばそれは、白人の10年の奉公契約に要する費用で黒人を一生(終身)買い取ることができたとある。様々な問題があったが、白人奉公制は、あくまで労働契約であり、奴隷制度とは異なるという。そして、白人奉公制によって蓄えられた資本がもとになり、黒人奴隷へと投入され、黒人奴隷制の土台ができた。これらのことから、この歴史背景を知ることによって、イギリスが世界に先駆けて産業の発展を成功させることができた経済的な理由が、奴隷制と奴隷貿易という資本需要が発展の起源なのだと再認識した。

奴隷制を土台にしたこの商業資本主義は、現代における人種差別や、多様性を認め合おうという次元をはるかに超越し、というか、まったく無視し、人が人たる尊厳を失った制度を土台に、18世紀、その労働力が累積的な効果を発揮し富を築いていく。奴隷制の終わりはイギリスにおいては1833年に、またその後、最後の奴隷制廃止となったブラジルでは1888年であった。ブラジルの奴隷制廃止から133年。日本の年号に照らし合わせると明治21年であるが、こうして年号を見ても、奴隷制が終わりを迎えてからはるか遠い昔、とまではいかないような年月に思う。

たとえば、奴隷制の主体が機械であれば、耐久性が良く、一生使え、そして安い、のならばもちろん需要は必須であろうが、奴隷制は機械の話ではなく人が主体の話である。しかし、黒人奴隷制の前段で、白人奉公制において経験した奴隷を支配する側の人々にとっての問題や、不利益なことを一切排除し、人としての尊厳や生命にかかわることなどを無視して黒人奴隷制は稼働していく。そしてこのような奴隷制という仕組みを考えたのも人であり、奴隷制を支配、実行していたのも人である。

商業資本主義を経て、19世紀に産業資本主義へと経済的変化をし、イギリスの奴隷廃止からブラジルの奴隷廃止に至るまで55年という歳月がかかったが、その後、黒人奴隷だった人々は、人としての尊厳をようやく取り戻すことになる。しかし、133年経た21世紀の現在も利害関係を含みながら偏見や差別が根強く続いている。その理由は、今も続くアメリカの人種問題などである。そしてそこには著者が予め否定を示した、黒人奴隷制の支配側の都合のよい後付けであったはずの、黒人の人種的劣等性や、気候による優位性という差別的誤認がいまだ払拭されず潜んでいる。

本書を読んで自身が感じたことは、奴隷制は二度と実現してはならない仕組みであるものの、現代でも人間の根底にある、支配するものとされるもの、持つ物と持たざる者という図式は存在し、政治的背景や、その時々の時代背景の影響を受け生き続けている。また、程度の差はあるにせよ、著者が指摘するように、資本主義において、支配層は直接的利害についてとても敏感で、自身の活動や、目的、政策の及ぼす長期的影響については盲目的であるという傾向があると思った。例えば、政府や会社のようなコントロールをする層において、直接的利害、直近の利益などについてはとても敏感であるが、10年、100年単位の長期的影響については鈍感である。

最後に、自身のレベルではとても難しく読むのも苦労しながらであったが、問題の裏側にあるもの、根っこは何か、始まりは何だったのか、歴史的背景を理解しながらも、本書のように、経済的視点でみる、立場の異なる視点でみることも大切なのだと思うし、本書を読んで、自身の無知、偏りがちな思考を補正する手がかりになった。

投稿者 sarusuberi49 日時 
本書によれば、資本主義が発展したのは、奴隷貿易と奴隷制プランテーションによりもたらされた、途方もない富の蓄積が原因であるという。黒人である著書だからこそ、白人の歴史家には見えないし、見ようともしない歴史についてくっきりと浮かび上がらせることができたのである。本書により、ピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義精神がイギリスの工業化を成し遂げたとのこれまでの歴史の見方を一変させられたのである。

私が問題視するのは、なぜつい最近までこのような間違った歴史認識が是正されなかったのかということである。あとがきによれば、この研究が発表されたのは1944年だが、刊行当初、英国史学会の注目をほとんど引かなかったという。自分達の見解が正しいとの思い込みが、目の前にある真実から目を背けさせ、スルーさせたのである。私自身、学生時代に歴史を学んだ際、白人史家による歴史を信じていた。そのため、この本により歴史認識を覆されたのである。

私は、これにはヨーロッパ人の後ろめたさだけでなく、アフリカ人の後ろめたさがあると思う。奴隷貿易で利潤をむさぼったのは、ヨーロッパ人だけではなかった。西アフリカのアフリカ人たちも、太平洋沿岸の諸王国がアフリカ人同胞を売り、対価として武器を手に入れ、手に入れた武器で内陸部の諸部族を襲撃し、商品となるアフリカ人を捕えていたのである。彼らはヨーロッパ人がもたらす武器や「安ぴかもの」のために奴隷狩りを行って、同胞を奴隷としてヨーロッパ人に売り渡していた。そのような経緯があるため、アフリカ人たちは今でも奴隷貿易の話をしたがらないという。こうして、当事者たちが、自分たちにとって都合の悪い事実に関して口を閉ざしたことが、間違った歴史認識が広く受け入れられた一因と思われる。

そしてこの間違った思い込みが、黒人は白人よりも劣っているという、現代の人種差別にもつながっていると言える。本書によれば、黒人奴隷は非常に優秀であったという。決して知的に劣ってはおらず、状況を伺い、自由になれるチャンスを伺っていたのだ。実際に、大規模な反乱を起こしたりもしている。私はこのような事実を今まで知らなかったが、正しい知識がないばかりに、間違った話を事実と信じ込んでしまい、差別心を抱いてしまっていたと反省したのである。

そんな私が正しいと思うことは、正しいと思いたいだけなのかもしれないと、自分に対する疑問が湧いてくる。おそらく私自身も、様々な偏見を持ち、周囲をゆがんだレンズで見ているに違いない。今見えているものは、見たいと思っているものにすぎず、本質ではないのではという疑惑が拭えない。人は、自分の思い込みを通してしか、情報を収集し思考することができないからである。対処法として、そんな自分の価値観を疑い、無意識の制限や思い込みを少しでも減らせるよう、日々に気をつけることが挙げられる。最近、他人からおすすめの本を紹介されたのだが、正直「今の自分には必要ないかな」と感じるものであった。しかし、あえてその本を読んでみたところ、思いもよらない発見があり、好き嫌いで判断していた自分を大いに反省したのである。奴隷制度の本質を見ようとしていなかった白人史家のように、自分にとって都合の良くないものほど無視してしまうのが人間である。ならばこそ、あえて興味のない分野こそ、知見を広げてゆきたい。参照できる知識を増やすことで、偏見を修正できる可能性が高まるからである。
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“ご都合主義について考える”


本書を読み、大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷貿易、奴隷制、三角貿易、産業革命までが一つの線で明確に繋がった。まさか、奴隷貿易及び奴隷制と産業革命が、そのエンジンと本体と言われるほど、密接に結びついていたとは知りもしなかった。産業革命はピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神の賜物ではなく、黒人奴隷の汗と血が生み出したのだと著者は述べる。そして、著者は多数の参考文献から数々の事実を提示し、また徹底的に論理を積み重ねる。その論考に私は圧倒され続けた。ただ、黒人奴隷たちが受けた奴隷貿易や奴隷制の非人間性についてあまり語られていないのは意外であった。しかし、これは著者の意図するところだと思う。なぜなら、奴隷制の非人間性を強調し過ぎると、読者が怒りや哀しみの感情に振り回され、それらの善悪に囚われてしまうからだ。それは、結果として奴隷貿易や奴隷制の成り立ちや仕組み、働きがどのように資本主義に与したかについての客観的な理解が出来ず、結果として本書の本質を見誤ることになるである。では、本書の本質はとは何か?それは、経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することだと私は考える。

私は、本書の中で経済的利益獲得にまつわる人間のご都合主義に茫然自失する場面にしばし出くわした。ここでのご都合主義とは、本書で言うところの「政治家・政論家たちが、きょう奴隷制を擁護するかと思えば、明日は悪しざまにののしり、明後日にはまた弁護にまわる」(P.344)という言動の劇変や、「廃止論者の奴隷制攻撃は、黒人のみに、しかも英領西インド諸島における黒人のみにかんするものだった」(P.301)のような、己の都合次第で変わる一貫性無き言動の類を指す。そして、ご都合主義に関して本書の中で私が最も言葉を失ったのは、産業資本主義が発達し始めた頃、資本主義者が、奴隷所有者及び奴隷商人の隊列から離脱した場面、さらに産業資本主義に不都合な奴隷貿易と奴隷制の廃止を訴えるそれら資本主義者たちに同調した政治家、政論家たちが人道主義をその論拠とした場面である。なぜならば、前者の資本主義者にしても、後者の政治家、政論家にしても当初は奴隷貿易及び奴隷制に公然と賛同、承認、奨励し、さらにそれらの非人間性さえも経済的利益の獲得のためにはやむなしとしていたからだ。本書の中で著者は、これら類の西洋人のご都合主義を繰り返し述べ、批判を繰り返す。そして、私は今までに知らなかった史実を知らされることで、中世の大航海時代以降の西洋人の人を奴隷として扱うことを容認する価値観や、道徳観、倫理観に嫌悪感を持った。が、私は同時に奴隷制や人間のご都合主義に対して、背徳感あるいは既視感も持ったのだ。

時と場所を変え、弊社協力工場がある現在の中国の小さな地方都市の話をする。上述したように私が背徳感や既視感も持ったのは、この地方都市に出張で訪れた3年前の夏の衝撃的な記憶が脳裏に蘇ったからだ。私が協力工場の視察に行ったその日は40℃あるかないか、さらに高湿地であるため非常に蒸し暑く、外を歩けば汗が出る、歩くだけで気力が失われるそんな日であり、アテンドした現地の中国人も私と同様であった(先にも後にも、あの暑さは経験が無い)。そんな中、幾つか回ったうちの1つの工場の現場を覗いて驚いた。なぜならば、ひどく老朽化の進んだ工場で空調設備も無い環境で、多くの人が汗だくになりながら作業をしていたからだ。その作業者達はちゃんとした作業服を着ているわけでもなく、皆がボロボロのTシャツや短パンで、中には上半身裸の人もいる、さらには、そこには少年、少女も混じっている、そんな状況であった。その風景は、私のそれまでの常識とかけ離れた正に異界のようであった。訊けば、彼らの賃金は月額5万円に満たないという。そして、この工場で作られたモノを売って利益を上げ、富を得ているのが弊社及び私というのが、ここでの経済的な構図である。故に、目撃した労働環境や彼らの身なりを見て、凄まじい分配の格差を目の当たりにし、私は大きな罪悪感を覚えたのである。

この話の結論を述べれば、私も少なからず経済的な利益を得るがため、守るがためにご都合主義的な振る舞いをしているということである。そう思う理由は2つある。まず1つめの理由は、あの時私は大きな罪悪感を持ったにもかかわらず、目撃した悪辣な労働環境や異様に感じる低賃金は、日本と中国間での社会状況や物価の違いから、致し方ないことだと納得しようとしていたことである。確かに、中国の地方都市は未だ発展途上であり、物価も安い。しかし、本書を読んで奴隷制や経済的利益優先のご都合主義について考えた時に、上述した出来事を思い出し、背徳感を持ったという事実は、あの協力工場で見た光景に対して私が未だに心暗さを感じているの証拠である。そこに私はどこかご都合主義的なものを感じるのである。そして、2つめの理由は、もしも上述した協力工場が労働環境と賃金改善を理由に急激な製品価格の引上げを要求してきた時に、私が快く応じると言い切れないことだ。やはり、現在の利益や富を失うことに何かしらの抵抗をするように思うのだ。これらの点を省みると、程度の差こそあれ本書に描かれる奴隷制や経済的な利益優先のご都合主義に対して、私は一方的に批判ができる立場にないと思うのだ。

今回、私は本書から経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することができた。そして、不幸か幸いかその経済的な利益優先のご都合主義に、実は私自身も陥っていることに気づいた。私はこれを幸いだと捉えたい。しかし現段階で、この状況から抜け出し方は分からない。ただ、経済的な利益優先のご都合主義ついて考えて行動を続けることが重要だと考える。なぜならば、それが自身が生きている世界の理解を深め、延いては自身の成長に繋がるからだ。


~終わり~
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“ご都合主義について考える”


本書を読み、大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷貿易、奴隷制、三角貿易、産業革命までが一つの線で明確に繋がった。まさか、奴隷貿易及び奴隷制と産業革命が、そのエンジンと本体と言われるほど、密接に結びついていたとは知りもしなかった。産業革命はピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神の賜物ではなく、黒人奴隷の汗と血が生み出したのだと著者は述べる。そして、著者は多数の参考文献から数々の事実を提示し、また徹底的に論理を積み重ねる。その論考に私は圧倒され続けた。ただ、黒人奴隷たちが受けた奴隷貿易や奴隷制の非人間性についてあまり語られていないのは意外であった。しかし、これは著者の意図するところだと思う。なぜなら、奴隷制の非人間性を強調し過ぎると、読者が怒りや哀しみの感情に振り回され、それらの善悪に囚われてしまうからだ。それは、結果として奴隷貿易や奴隷制の成り立ちや仕組み、働きがどのように資本主義に与したかについての客観的な理解が出来ず、結果として本書の本質を見誤ることになるである。では、本書の本質はとは何か?それは、経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することだと私は考える。

私は、本書の中で経済的利益獲得にまつわる人間のご都合主義に茫然自失する場面にしばし出くわした。ここでのご都合主義とは、本書で言うところの「政治家・政論家たちが、きょう奴隷制を擁護するかと思えば、明日は悪しざまにののしり、明後日にはまた弁護にまわる」(P.344)という言動の劇変や、「廃止論者の奴隷制攻撃は、黒人のみに、しかも英領西インド諸島における黒人のみにかんするものだった」(P.301)のような、己の都合次第で変わる一貫性無き言動の類を指す。そして、ご都合主義に関して本書の中で私が最も言葉を失ったのは、産業資本主義が発達し始めた頃、資本主義者が、奴隷所有者及び奴隷商人の隊列から離脱した場面、さらに産業資本主義に不都合な奴隷貿易と奴隷制の廃止を訴えるそれら資本主義者たちに同調した政治家、政論家たちが人道主義をその論拠とした場面である。なぜならば、前者の資本主義者にしても、後者の政治家、政論家にしても当初は奴隷貿易及び奴隷制に公然と賛同、承認、奨励し、さらにそれらの非人間性さえも経済的利益の獲得のためにはやむなしとしていたからだ。本書の中で著者は、これら類の西洋人のご都合主義を繰り返し述べ、批判を繰り返す。そして、私は今までに知らなかった史実を知らされることで、中世の大航海時代以降の西洋人の人を奴隷として扱うことを容認する価値観や、道徳観、倫理観に嫌悪感を持った。が、私は同時に奴隷制や人間のご都合主義に対して、背徳感あるいは既視感も持ったのだ。

時と場所を変え、弊社協力工場がある現在の中国の小さな地方都市の話をする。上述したように私が背徳感や既視感も持ったのは、この地方都市に出張で訪れた3年前の夏の衝撃的な記憶が脳裏に蘇ったからだ。私が協力工場の視察に行ったその日は40℃あるかないか、さらに高湿地であるため非常に蒸し暑く、外を歩けば汗が出る、歩くだけで気力が失われるそんな日であり、アテンドした現地の中国人も私と同様であった(先にも後にも、あの暑さは経験が無い)。そんな中、幾つか回ったうちの1つの工場の現場を覗いて驚いた。なぜならば、ひどく老朽化の進んだ工場で空調設備も無い環境で、多くの人が汗だくになりながら作業をしていたからだ。その作業者達はちゃんとした作業服を着ているわけでもなく、皆がボロボロのTシャツや短パンで、中には上半身裸の人もいる、さらには、そこには少年、少女も混じっている、そんな状況であった。その風景は、私のそれまでの常識とかけ離れた正に異界のようであった。訊けば、彼らの賃金は月額5万円に満たないという。そして、この工場で作られたモノを売って利益を上げ、富を得ているのが弊社及び私というのが、ここでの経済的な構図である。故に、目撃した労働環境や彼らの身なりを見て、凄まじい分配の格差を目の当たりにし、私は大きな罪悪感を覚えたのである。

この話の結論を述べれば、私も少なからず経済的な利益を得るがため、守るがためにご都合主義的な振る舞いをしているということである。そう思う理由は2つある。まず1つめの理由は、あの時私は大きな罪悪感を持ったにもかかわらず、目撃した悪辣な労働環境や異様に感じる低賃金は、日本と中国間での社会状況や物価の違いから、致し方ないことだと納得しようとしていたことである。確かに、中国の地方都市は未だ発展途上であり、物価も安い。しかし、本書を読んで奴隷制や経済的利益優先のご都合主義について考えた時に、上述した出来事を思い出し、背徳感を持ったという事実は、あの協力工場で見た光景に対して私が未だに心暗さを感じているの証拠である。そこに私はどこかご都合主義的なものを感じるのである。そして、2つめの理由は、もしも上述した協力工場が労働環境と賃金改善を理由に急激な製品価格の引上げを要求してきた時に、私が快く応じると言い切れないことだ。やはり、現在の利益や富を失うことに何かしらの抵抗をするように思うのだ。これらの点を省みると、程度の差こそあれ本書に描かれる奴隷制や経済的な利益優先のご都合主義に対して、私は一方的に批判ができる立場にないと思うのだ。

今回、私は本書から経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することができた。そして、不幸か幸いかその経済的な利益優先のご都合主義に、実は私自身も陥っていることに気づいた。私はこれを幸いだと捉えたい。しかし現段階で、この状況から抜け出し方は分からない。ただ、経済的な利益優先のご都合主義ついて考えて行動を続けることが重要だと考える。なぜならば、それが自身が生きている世界の理解を深め、延いては自身の成長に繋がるからだ。


~終わり~

投稿者 LifeCanBeRich 日時 

“ご都合主義について考える”


本書を読み、大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷貿易、奴隷制、三角貿易、産業革命までが一つの線で明確に繋がった。まさか、奴隷貿易及び奴隷制と産業革命が、そのエンジンと本体と言われるほど、密接に結びついていたとは知りもしなかった。産業革命はピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神の賜物ではなく、黒人奴隷の汗と血が生み出したのだと著者は述べる。そして、著者は多数の参考文献から数々の事実を提示し、また徹底的に論理を積み重ねる。その論考に私は圧倒され続けた。ただ、黒人奴隷たちが受けた奴隷貿易や奴隷制の非人間性についてあまり語られていないのは意外であった。しかし、これは著者の意図するところだと思う。なぜなら、奴隷制の非人間性を強調し過ぎると、読者が怒りや哀しみの感情に振り回され、それらの善悪に囚われてしまうからだ。それは、結果として奴隷貿易や奴隷制の成り立ちや仕組み、働きがどのように資本主義に与したかについての客観的な理解が出来ず、結果として本書の本質を見誤ることになるである。では、本書の本質はとは何か?それは、経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することだと私は考える。

私は、本書の中で経済的利益獲得にまつわる人間のご都合主義に茫然自失する場面にしばし出くわした。ここでのご都合主義とは、本書で言うところの「政治家・政論家たちが、きょう奴隷制を擁護するかと思えば、明日は悪しざまにののしり、明後日にはまた弁護にまわる」(P.344)という言動の劇変や、「廃止論者の奴隷制攻撃は、黒人のみに、しかも英領西インド諸島における黒人のみにかんするものだった」(P.301)のような、己の都合次第で変わる一貫性無き言動の類を指す。そして、ご都合主義に関して本書の中で私が最も言葉を失ったのは、産業資本主義が発達し始めた頃、資本主義者が、奴隷所有者及び奴隷商人の隊列から離脱した場面、さらに産業資本主義に不都合な奴隷貿易と奴隷制の廃止を訴えるそれら資本主義者たちに同調した政治家、政論家たちが人道主義をその論拠とした場面である。なぜならば、前者の資本主義者にしても、後者の政治家、政論家にしても当初は奴隷貿易及び奴隷制に公然と賛同、承認、奨励し、さらにそれらの非人間性さえも経済的利益の獲得のためにはやむなしとしていたからだ。本書の中で著者は、これら類の西洋人のご都合主義を繰り返し述べ、批判を繰り返す。そして、私は今までに知らなかった史実を知らされることで、中世の大航海時代以降の西洋人の人を奴隷として扱うことを容認する価値観や、道徳観、倫理観に嫌悪感を持った。が、私は同時に奴隷制や人間のご都合主義に対して、背徳感あるいは既視感も持ったのだ。

時と場所を変え、弊社協力工場がある現在の中国の小さな地方都市の話をする。上述したように私が背徳感や既視感も持ったのは、この地方都市に出張で訪れた3年前の夏の衝撃的な記憶が脳裏に蘇ったからだ。私が協力工場の視察に行ったその日は40℃あるかないか、さらに高湿地であるため非常に蒸し暑く、外を歩けば汗が出る、歩くだけで気力が失われるそんな日であり、アテンドした現地の中国人も私と同様であった(先にも後にも、あの暑さは経験が無い)。そんな中、幾つか回ったうちの1つの工場の現場を覗いて驚いた。なぜならば、ひどく老朽化の進んだ工場で空調設備も無い環境で、多くの人が汗だくになりながら作業をしていたからだ。その作業者達はちゃんとした作業服を着ているわけでもなく、皆がボロボロのTシャツや短パンで、中には上半身裸の人もいる、さらには、そこには少年、少女も混じっている、そんな状況であった。その風景は、私のそれまでの常識とかけ離れた正に異界のようであった。訊けば、彼らの賃金は月額5万円に満たないという。そして、この工場で作られたモノを売って利益を上げ、富を得ているのが弊社及び私というのが、ここでの経済的な構図である。故に、目撃した労働環境や彼らの身なりを見て、凄まじい分配の格差を目の当たりにし、私は大きな罪悪感を覚えたのである。

この話の結論を述べれば、私も少なからず経済的な利益を得るがため、守るがためにご都合主義的な振る舞いをしているということである。そう思う理由は2つある。まず1つめの理由は、あの時私は大きな罪悪感を持ったにもかかわらず、目撃した悪辣な労働環境や異様に感じる低賃金は、日本と中国間での社会状況や物価の違いから、致し方ないことだと納得しようとしていたことである。確かに、中国の地方都市は未だ発展途上であり、物価も安い。しかし、本書を読んで奴隷制や経済的利益優先のご都合主義について考えた時に、上述した出来事を思い出し、背徳感を持ったという事実は、あの協力工場で見た光景に対して私が未だに心暗さを感じているの証拠である。そこに私はどこかご都合主義的なものを感じるのである。そして、2つめの理由は、もしも上述した協力工場が労働環境と賃金改善を理由に急激な製品価格の引上げを要求してきた時に、私が快く応じると言い切れないことだ。やはり、現在の利益や富を失うことに何かしらの抵抗をするように思うのだ。これらの点を省みると、程度の差こそあれ本書に描かれる奴隷制や経済的な利益優先のご都合主義に対して、私は一方的に批判ができる立場にないと思うのだ。

今回、私は本書から経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することができた。そして、不幸か幸いかその経済的な利益優先のご都合主義に、実は私自身も陥っていることに気づいた。私はこれを幸いだと捉えたい。しかし現段階で、この状況から抜け出し方は分からない。ただ、経済的な利益優先のご都合主義ついて考えて行動を続けることが重要だと考える。なぜならば、それが自身が生きている世界の理解を深め、延いては自身の成長に繋がるからだ。


~終わり~

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“ご都合主義について考える”


本書を読み、大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷貿易、奴隷制、三角貿易、産業革命までが一つの線で明確に繋がった。まさか、奴隷貿易及び奴隷制と産業革命が、そのエンジンと本体と言われるほど、密接に結びついていたとは知りもしなかった。産業革命はピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神の賜物ではなく、黒人奴隷の汗と血が生み出したのだと著者は述べる。そして、著者は多数の参考文献から数々の事実を提示し、また徹底的に論理を積み重ねる。その論考に私は圧倒され続けた。ただ、黒人奴隷たちが受けた奴隷貿易や奴隷制の非人間性についてあまり語られていないのは意外であった。しかし、これは著者の意図するところだと思う。なぜなら、奴隷制の非人間性を強調し過ぎると、読者が怒りや哀しみの感情に振り回され、それらの善悪に囚われてしまうからだ。それは、結果として奴隷貿易や奴隷制の成り立ちや仕組み、働きがどのように資本主義に与したかについての客観的な理解が出来ず、結果として本書の本質を見誤ることになるである。では、本書の本質はとは何か?それは、経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することだと私は考える。

私は、本書の中で経済的利益獲得にまつわる人間のご都合主義に茫然自失する場面にしばし出くわした。ここでのご都合主義とは、本書で言うところの「政治家・政論家たちが、きょう奴隷制を擁護するかと思えば、明日は悪しざまにののしり、明後日にはまた弁護にまわる」(P.344)という言動の劇変や、「廃止論者の奴隷制攻撃は、黒人のみに、しかも英領西インド諸島における黒人のみにかんするものだった」(P.301)のような、己の都合次第で変わる一貫性無き言動の類を指す。そして、ご都合主義に関して本書の中で私が最も言葉を失ったのは、産業資本主義が発達し始めた頃、資本主義者が、奴隷所有者及び奴隷商人の隊列から離脱した場面、さらに産業資本主義に不都合な奴隷貿易と奴隷制の廃止を訴えるそれら資本主義者たちに同調した政治家、政論家たちが人道主義をその論拠とした場面である。なぜならば、前者の資本主義者にしても、後者の政治家、政論家にしても当初は奴隷貿易及び奴隷制に公然と賛同、承認、奨励し、さらにそれらの非人間性さえも経済的利益の獲得のためにはやむなしとしていたからだ。本書の中で著者は、これら類の西洋人のご都合主義を繰り返し述べ、批判を繰り返す。そして、私は今までに知らなかった史実を知らされることで、中世の大航海時代以降の西洋人の人を奴隷として扱うことを容認する価値観や、道徳観、倫理観に嫌悪感を持った。が、私は同時に奴隷制や人間のご都合主義に対して、背徳感あるいは既視感も持ったのだ。

時と場所を変え、弊社協力工場がある現在の中国の小さな地方都市の話をする。上述したように私が背徳感や既視感も持ったのは、この地方都市に出張で訪れた3年前の夏の衝撃的な記憶が脳裏に蘇ったからだ。私が協力工場の視察に行ったその日は40℃あるかないか、さらに高湿地であるため非常に蒸し暑く、外を歩けば汗が出る、歩くだけで気力が失われるそんな日であり、アテンドした現地の中国人も私と同様であった(先にも後にも、あの暑さは経験が無い)。そんな中、幾つか回ったうちの1つの工場の現場を覗いて驚いた。なぜならば、ひどく老朽化の進んだ工場で空調設備も無い環境で、多くの人が汗だくになりながら作業をしていたからだ。その作業者達はちゃんとした作業服を着ているわけでもなく、皆がボロボロのTシャツや短パンで、中には上半身裸の人もいる、さらには、そこには少年、少女も混じっている、そんな状況であった。その風景は、私のそれまでの常識とかけ離れた正に異界のようであった。訊けば、彼らの賃金は月額5万円に満たないという。そして、この工場で作られたモノを売って利益を上げ、富を得ているのが弊社及び私というのが、ここでの経済的な構図である。故に、目撃した労働環境や彼らの身なりを見て、凄まじい分配の格差を目の当たりにし、私は大きな罪悪感を覚えたのである。

この話の結論を述べれば、私も少なからず経済的な利益を得るがため、守るがためにご都合主義的な振る舞いをしているということである。そう思う理由は2つある。まず1つめの理由は、あの時私は大きな罪悪感を持ったにもかかわらず、目撃した悪辣な労働環境や異様に感じる低賃金は、日本と中国間での社会状況や物価の違いから、致し方ないことだと納得しようとしていたことである。確かに、中国の地方都市は未だ発展途上であり、物価も安い。しかし、本書を読んで奴隷制や経済的利益優先のご都合主義について考えた時に、上述した出来事を思い出し、背徳感を持ったという事実は、あの協力工場で見た光景に対して私が未だに心暗さを感じているの証拠である。そこに私はどこかご都合主義的なものを感じるのである。そして、2つめの理由は、もしも上述した協力工場が労働環境と賃金改善を理由に急激な製品価格の引上げを要求してきた時に、私が快く応じると言い切れないことだ。やはり、現在の利益や富を失うことに何かしらの抵抗をするように思うのだ。これらの点を省みると、程度の差こそあれ本書に描かれる奴隷制や経済的な利益優先のご都合主義に対して、私は一方的に批判ができる立場にないと思うのだ。

今回、私は本書から経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することができた。そして、不幸か幸いかその経済的な利益優先のご都合主義に、実は私自身も陥っていることに気づいた。私はこれを幸いだと捉えたい。しかし現段階で、この状況から抜け出し方は分からない。ただ、経済的な利益優先のご都合主義ついて考えて行動を続けることが重要だと考える。なぜならば、それが自身が生きている世界の理解を深め、延いては自身の成長に繋がるからだ。


~終わり~

投稿者 LifeCanBeRich 日時 

“ご都合主義について考える”


本書を読み、大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷貿易、奴隷制、三角貿易、産業革命までが一つの線で明確に繋がった。まさか、奴隷貿易及び奴隷制と産業革命が、そのエンジンと本体と言われるほど、密接に結びついていたとは知りもしなかった。産業革命はピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神の賜物ではなく、黒人奴隷の汗と血が生み出したのだと著者は述べる。そして、著者は多数の参考文献から数々の事実を提示し、また徹底的に論理を積み重ねる。その論考に私は圧倒され続けた。ただ、黒人奴隷たちが受けた奴隷貿易や奴隷制の非人間性についてあまり語られていないのは意外であった。しかし、これは著者の意図するところだと思う。なぜなら、奴隷制の非人間性を強調し過ぎると、読者が怒りや哀しみの感情に振り回され、それらの善悪に囚われてしまうからだ。それは、結果として奴隷貿易や奴隷制の成り立ちや仕組み、働きがどのように資本主義に与したかについての客観的な理解が出来ず、結果として本書の本質を見誤ることになるである。では、本書の本質はとは何か?それは、経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することだと私は考える。

私は、本書の中で経済的利益獲得にまつわる人間のご都合主義に茫然自失する場面にしばし出くわした。ここでのご都合主義とは、本書で言うところの「政治家・政論家たちが、きょう奴隷制を擁護するかと思えば、明日は悪しざまにののしり、明後日にはまた弁護にまわる」(P.344)という言動の劇変や、「廃止論者の奴隷制攻撃は、黒人のみに、しかも英領西インド諸島における黒人のみにかんするものだった」(P.301)のような、己の都合次第で変わる一貫性無き言動の類を指す。そして、ご都合主義に関して本書の中で私が最も言葉を失ったのは、産業資本主義が発達し始めた頃、資本主義者が、奴隷所有者及び奴隷商人の隊列から離脱した場面、さらに産業資本主義に不都合な奴隷貿易と奴隷制の廃止を訴えるそれら資本主義者たちに同調した政治家、政論家たちが人道主義をその論拠とした場面である。なぜならば、前者の資本主義者にしても、後者の政治家、政論家にしても当初は奴隷貿易及び奴隷制に公然と賛同、承認、奨励し、さらにそれらの非人間性さえも経済的利益の獲得のためにはやむなしとしていたからだ。本書の中で著者は、これら類の西洋人のご都合主義を繰り返し述べ、批判を繰り返す。そして、私は今までに知らなかった史実を知らされることで、中世の大航海時代以降の西洋人の人を奴隷として扱うことを容認する価値観や、道徳観、倫理観に嫌悪感を持った。が、私は同時に奴隷制や人間のご都合主義に対して、背徳感あるいは既視感も持ったのだ。

時と場所を変え、弊社協力工場がある現在の中国の小さな地方都市の話をする。上述したように私が背徳感や既視感も持ったのは、この地方都市に出張で訪れた3年前の夏の衝撃的な記憶が脳裏に蘇ったからだ。私が協力工場の視察に行ったその日は40℃あるかないか、さらに高湿地であるため非常に蒸し暑く、外を歩けば汗が出る、歩くだけで気力が失われるそんな日であり、アテンドした現地の中国人も私と同様であった(先にも後にも、あの暑さは経験が無い)。そんな中、幾つか回ったうちの1つの工場の現場を覗いて驚いた。なぜならば、ひどく老朽化の進んだ工場で空調設備も無い環境で、多くの人が汗だくになりながら作業をしていたからだ。その作業者達はちゃんとした作業服を着ているわけでもなく、皆がボロボロのTシャツや短パンで、中には上半身裸の人もいる、さらには、そこには少年、少女も混じっている、そんな状況であった。その風景は、私のそれまでの常識とかけ離れた正に異界のようであった。訊けば、彼らの賃金は月額5万円に満たないという。そして、この工場で作られたモノを売って利益を上げ、富を得ているのが弊社及び私というのが、ここでの経済的な構図である。故に、目撃した労働環境や彼らの身なりを見て、凄まじい分配の格差を目の当たりにし、私は大きな罪悪感を覚えたのである。

この話の結論を述べれば、私も少なからず経済的な利益を得るがため、守るがためにご都合主義的な振る舞いをしているということである。そう思う理由は2つある。まず1つめの理由は、あの時私は大きな罪悪感を持ったにもかかわらず、目撃した悪辣な労働環境や異様に感じる低賃金は、日本と中国間での社会状況や物価の違いから、致し方ないことだと納得しようとしていたことである。確かに、中国の地方都市は未だ発展途上であり、物価も安い。しかし、本書を読んで奴隷制や経済的利益優先のご都合主義について考えた時に、上述した出来事を思い出し、背徳感を持ったという事実は、あの協力工場で見た光景に対して私が未だに心暗さを感じているの証拠である。そこに私はどこかご都合主義的なものを感じるのである。そして、2つめの理由は、もしも上述した協力工場が労働環境と賃金改善を理由に急激な製品価格の引上げを要求してきた時に、私が快く応じると言い切れないことだ。やはり、現在の利益や富を失うことに何かしらの抵抗をするように思うのだ。これらの点を省みると、程度の差こそあれ本書に描かれる奴隷制や経済的な利益優先のご都合主義に対して、私は一方的に批判ができる立場にないと思うのだ。

今回、私は本書から経済的な利益を得るがために言動を劇変させてしまう人間のご都合主義を認識することができた。そして、不幸か幸いかその経済的な利益優先のご都合主義に、実は私自身も陥っていることに気づいた。私はこれを幸いだと捉えたい。しかし現段階で、この状況から抜け出し方は分からない。ただ、経済的な利益優先のご都合主義ついて考えて行動を続けることが重要だと考える。なぜならば、それが自身が生きている世界の理解を深め、延いては自身の成長に繋がるからだ。


~終わり~