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第54回目(2015年11月)の課題本


11月課題図書

 

動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー

 

動物園って子供が行く場所で、大人には楽しくないんじゃ無いか?なんてバカなことを考

えていたんですが、本書を読むと動物園がこんなにステキな場所だったのか!と驚くはず

です。っていうか、ここで出て来る飼育員さんたちのプロ根性と情熱、それによって育ま

れたスキル、さらには(たぶんご本人たちは否定すると思いますが)これら3つが合わさ

ることで顕現された怪しい系の能力。まさにこれは能力開発のプロセスそのものです。

来年は動物園巡りでもしてみようかと思わせられてしまうこと間違いありません。

 【しょ~おんコメント】

11月優秀賞

さすがに内容が平易で、そのくせストーリーが斬新だっため、多くの人が投稿してくださ

いました。その分、競争率は高くなったんですが、こういうタイプのノンフィクションっ

てみなさん得意なんですかね。みなさんスゴくしっかり書いてあって、読み応えがありま

した。

こういう時には誰を選ぶのかスゴく迷うんですよね。

いつものように一次審査を通過した人を挙げておくと、akiko3さん、kawa4emonさん、

BruceLeeさん、sakurouさん、andomanさんと、やっぱり常連の方々ばかりですね。

もう一度じっくりと読み直し、最終的にandomanさんに差し上げることにしました。おめ

でとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 akiko3 日時 2015年11月25日

「動物翻訳家」を読んで
  
  “能力開発プロセス”確かに!4つのストーリーの主人公は、共通してお金の為に働いているという意識はなく、ひたすらに目の前の命を深く思いやり、寄り添い、理解しようと愛情を注いでいた。びっくりしたのが、動物園の飼育員は必ずしも専門家ではないということ。担当動物が変わることも当たり前だし、いうなれば、命と向き合うプロといったところか?そんな命に対する真剣勝負の日々はおのずと感性研ぎ澄まされ、人を成長させ、人や物、情報を引き寄せ、成功秘話の鉄板「やってみましょう」を引き出していくのだ。(思わず、“でたでた”とワクワクして読み進んだ。)
  
  ある意味、仕事として就職した人が、どうしてこれ程までに目の前の命の為に、少しでも生活を充実したものにとの思いを維持できるのか?きっと、動物からも思いに応えて、愛情を返してきてくれているところが大きいからだ。特に動物が好きで好きでたまらない人が飼育員になっていなくても、仕事として飼育に向き合った人を変え、仕事としての付き合いではなく、生きる命として互いを尊重し合い、結果いい仕事に進化させるのだろう。だから、飼育員達は、決まって「動物達のおかげ、助けられている」と口々に言う。

“どれだけ思いを込められるか?”アフリカハゲコウのキンを思わずキャッチして声をあげて泣いたシーンで、浅田真央さんがソチの演技後に感極まって泣いた表情が浮かんだ。双方の“集中力と思い”に改めて「なんて美しいんだろう!」ともらい泣きしてしまった。1時間頑張ったとかではなく、何年何十年も、頑張っていることさえ意識せず、ただただ淡々と目の前のことと向き合う、その自分に対する正直さには深い感動を覚える。

動物園の動物を、“動物”を認識していたが、野生動物とは違う動物園動物という認識を改めて得た。飼育員達の動物園の動物の中にある野生/本能の部分に対する慈しみにも目頭が熱くなった。人間の都合で囲われた動物生を送らせる後ろめたさ、愛するがゆえに長く安全に共存したい思いを持ちつつも、垣間見る(囲っている)人間には太刀打ちできない逞しい生命を仰ぎ見て抱く畏怖の念。写真家の星野道夫さんも同じようなことを言っていたのを思い出す。彼は自然全体の写真家であり動物も人間もその一部であるという意識をもっていた人だ。熊に襲われて亡くなった後、クリンキッド族の名「カーツ」(熊一族に属する名前で霊的に強い名前)を与えられていた、つまり熊と人間の子であったこと、その頃まだ人と動物が話すことができていたことを旧知のインディアンが語っている。

  最後に、読んでいて「あれ?」と思ったのが“チンパンジーの挨拶”。かつての大ヒット映画ETで観た“ETとエリオットが人差し指をくっつけるシーン”はこの挨拶に着目したのか?
それから、動物園の入場料っていくらだっけ?2400円?と予測したら、500-600円だったのには拍子抜けした。映画が2時間1800円としたら、設備、人件費、餌代といった本文から滲み出る愛情と熱意以外のかかる費用を思うともっとするのかと思った。皆さんに親しんで足を運びやすい価格設定かもしれないし、市街地にありがちなので交通費がかかる分のまごころ?価格なのかもしれない。行けば一日遊べる場、予算には税金の一部も含まれる所もあるけど…、もう少し高くてもいいんじゃないのか、その分、環境エンリッチメントを向上させてあげてほしい。
 
  動物園というと陽気な楽しい場をイメージですが、とても愛らしい中に深い深い愛情あふれる場ばかりで、終始じーーーんと温かいものを味わいました。ありがとうございました。 

 

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2015年11月29日


 『動物翻訳家』と『ジュラシック・パーク』-。世界中にこれほど真逆な2冊の組合せが、果たして存在するだろうか?2冊の本を目の前に並べて、私は唸ってしまった。
 1冊は、動物園の飼育員の仕事の様子を、丁寧に綴った渾身のドキュメンタリー。
もう1冊は、映画化され大ヒットした『ジュラシック・パーク』の同名の原作SF小説である。
 しょうおん塾の課題図書で『動物翻訳家』を読み始めた一方、同時進行で後者を読み始めたが(※2冊の組合せは偶然で、特に意図はない)、この2冊に描かれた動物園/恐竜園の運営コンセプトが、あまりにも対照的だったので、比較しながら読んで理解が2倍深まったのは、ある意味幸運だったかもしれない。
 とはいえ、前者は実際の動物園を取材して書かれたノンフィクション。後者は「クローン技術で古代の恐竜を再生させ、その恐竜達のサファリパークを作ったらどうなるか?」という筋書きのSFである。ジャンルが違う2冊を比較するのは無理があるが、「このタイミングでこの2冊を同時に読んだのは、しょうおん塾生に私一人しかいないはず。だったら私にしか書けない視点で!」と思い、やはり2冊を比較して感想文を書く事にする。
 2冊の比較ポイントは、以下の3点である。

1.飼育員は、動物/恐竜の幸せを考えているか?
 動物園とは、本来、理不尽な場所である。ジャングルや大自然の中で自由に暮らしていた動物たちを捕まえ、檻に閉じ込め、人間達の晒しものにするのだ。「動物園なんて、人間達のエゴの権化では?」と、心のどこかで私は思っていた。
 だが、『動物翻訳家』の飼育員の方々は、その人間達のエゴを十分に自覚し、
「動物達から自由を奪いながらも、彼らに幸せな暮らしを提供する道」
「自然から動物達を切り離しながらも、できる限り自然に近い状態を人工的に創りあげる道」
を、必死に模索していることを知った。
 第2章に、幼い頃からショーに出されてきたタレントチンパンジー、マツコのエピソードが出てくる。飼育員の山内さんは、マツコが受けてきた心の傷を真摯に受けとめる。「マツコが残りの半生を、この動物園で幸せに暮らすには、どうすればいいか?」・・・真剣に考え、できる限り環境を整えようと努力を重ねる。あるいは、第1章で埼玉県こども動物自然公園の小山さんが、ペンギン達の理想的な住みかを作るため、南米のチロエ島を調査しに行き、それを動物園で再現する-。
 彼ら飼育員達は、「動物園」という施設が持たざるを得ない矛盾を十分自覚している。だからこそ、できる限り動物達に幸せに暮らしてもらえるよう、忍耐強く努力と工夫を重ねる。その姿が素晴らしいと思う。
 一方、「ジュラシックパーク」は、上記の動物園に描かれる「環境エンリッチメント」の概念と真逆の倫理観で運営される。恐竜の気持ち、ましてや彼らの幸せなんて、関係者は誰も考えていない。恐竜はただの金儲けの手段=商品にすぎない。
 その証拠にこの恐竜園の恐竜達は、人間達から誰も名前で呼ばれない。『動物翻訳家』に出てくる動物達は、チンパンジーなら「ゴヒチさん」「マツコ」、キリンなら「キヨミズ」(飼育員の高木さんは、愛情を込めて「キヨくん」と呼びかけていた)など、ひとりひとり名前が与えられ、愛情を込めて呼ばれていた。278ページには、「昔から京都動物園では、キリンたちに京都にある山の名前をつける伝統があった」とある。対象に名前を与えるという行為は、その存在に愛情を与え、価値ある存在として慈しむ、という証である。だが、ジュラシックパークの恐竜達はその名前を持たない。「トリケラトプス」「ティラノサウルス」など、種類は知識として知られているが、一頭一頭の名前はない。それどころか、恐竜達は体にGPSを埋め込まれ、コンピューターで数を管理されている。確かに『動物翻訳家』の中で、第3章のアフリカハゲコウのキンとギンが、GPSを付けられるエピソードが出てくるが、それは彼らが動物園から飛んでいって迷子にならないための安全防犯上の目的で仕方なく付けられているのであって、管理が目的ではない。
 要するに、『動物翻訳家』の動物達は、飼育員達によって権利と尊厳を尊重されているが、ジュラシックパークの恐竜達は「商品として管理すべき存在」以外の何者でもない。餌や住居などの環境を整えることは大切だが、何よりも大切なのは、それを行う人間の倫理観である。古代ギリシャの実験で、食べ物と暖かいベッドは整えが、愛の言葉をかけず、抱きしめられなかった赤ちゃんが全員死んでしまったことを、ふと思い出した。

2.動物園/恐竜園を作った目的
 『動物翻訳家』231ページに、動物園とは来園者にとって「楽しく貴重な体験ができる場所であり、動物や命あるものへの興味の入口としての教育的な意味合いもある」とある。つまり動物園は、子供や大人が動物と出会うことで、命の大切さを理解し、命を慈しむことを学ぶための「学校」なのである。
 対照的に、「ジュラシックパーク」は、出資者の金儲け主義が大いに反映され、「教育的要素」よりも「エンターテイメント性」の方が強調されている。
 もちろん、動物は可愛いし見ていて飽きない面白い存在だ。動物園には必然的に「エンターテイメント性」も備わっているであろう。しかし、動物園に行って「あぁ~楽しかった!」で終わってはならない。動物園が遊園地と違う点は、何といっても「私たち人間が、他の生き物達から学ばせてもらう」という視点を、私達自身が持つ所だからだ。

3.声なき存在の声
 基本的に動物は言葉を話せない。(チンパンジーのように、言語に近いコミュニケーション手段を持つ動物も、いることはいるが。)そこで、どうするかというと、『動物翻訳家』の飼育員達は、「動物達の観察」から始める。今日は元気が良いか?表情が明るいか?餌をちゃんと食べるか?ウンチの状態はどうか?・・・一日中じっと観察すれば、言葉で意思疎通ができなくても、彼らへの理解を深めることができる。
 第4章で、キリン飼育員の高木さんが掃除中も運動場にいるキリンを観察できるよう、仕切りを馬栓棒に変えた・・・とエピソードは「なるほど!」と思った。私自身、保育園で絵本読みのボランティアをしているので、似たような経験がある。保育園に通う子供達は、下は0歳から、上は5歳まで様々だが、0~2歳くらいの子供達は、言葉が上手く話せないので、何に喜び何にイライラしているのか、よくわからない。そこで、私たち大人は、彼らの顔の表情や、食事やウンチの様子、遊ぶ様子をじっと観察するしかない。彼らを見つめる時間、彼らと同じ空間で一緒に過ごす時間が増えると、彼らの気持ちが見えてくるのである。
 一方、ジュラシックパークだが、関係者達は恐竜達を至近距離で観察などしない。遠く離れた管理棟にこもり、コンピューターと監視カメラで高みの見物をするだけ。高木さんとエラい違いだ。そもそも、恐竜をクローン技術で再生させた科学者自身が「このテーマパークに住んでいる恐竜の種類?多分15種類くらいじゃないですか?名前は知りませんけど。」などと言っている始末である。恐竜達が繁殖しないよう、科学者達が研究所で作った恐竜は雌(メス)だけだが、ジャングルに解き放たれた恐竜達のうち何頭かは、両生類のように性転換をし、ついには雄(オス)恐竜が人間の手の届かない所で生まれてしまう。この筋書きからも分かるように、飼育員が毎日毎日恐竜をじっと観察する・・・という忍耐を必要とする作業を怠った結果、恐竜が人間の想定を超えて進化し、最終的には人間の安全を脅かす存在になる・・・と、筆者は示唆し、人間の動物に対する傲慢さを警告している。
 動物も人間の赤ちゃんも、言葉を話せないからといって、彼らが何も感じていないのか?と言えば、当たり前だが答えはノーだ。第4章に「キリンさんがね、お姉さんのこと、だーい好きって言ってたよ!」と、高木さんに伝えて走り去っていく少女の話が出てくる。動物や子供達は、社会的には「声なき弱者」である。その分、私たち大人には見えないものが、彼らには見えているのである。それを忘れて、声なき弱者の声に耳をすませずに驕り高ぶっていると、ジュラシック・パークの結末のような大惨事を招くだろう。
 『動物翻訳家』という本のタイトルが示すように、動物園の飼育員達は、声なき者たちの声を拾うため、すさまじい努力を重ねている。人間の要求を押し付けるのではなく、まず動物達の要求を受けとめることから始めている。動物園の飼育員に限らず、「声なき者達の声を聞き、目に見えない物を見る」能力というのは、私達誰もが磨いていかなければならないと、改めて思った。

まとめ
 小説『ジュラシックパーク』の67ページで、ある遊園地関係者が会議で発言する。「動物園というのは、非常に儲かるビジネスなんだよ。昨年、我が国(アメリカ)ではプロ野球やフットボールを見に行く人より、動物園に行く人の方が多かったんだ。それに、日本人が動物園が好きなことといったら!日本には50もの動物園があって、今でも新しい動物園が建てられているくらいだ。」(※原書。筆者意訳)
 アメリカ人作家クライトンの小説で、日本がこのように描かれていることに笑ってしまったが(文脈的にこの台詞の人物は、日本人を「金を落としてくれるオイシイ存在」としてしか見ていない。)、興味を持って世界各国の動物園の数をネットで調べてみた。すると、「日本はアメリカに次いで、動物園の数が世界で二番目に多い(アメリカ:209ヶ所、日本162ヶ所)」というデータが出てきた。因みに、3~5位はドイツ・フランス・イギリスと先進国が並ぶ。動物園とは、経済的に豊かな国だからこそ運営できるビジネスなのだろう。
 他の国の動物園の内情を知らないが、今回『動物翻訳家』を読み、日本の飼育員達が、いかに誇りと倫理観を持って動物園の運営に携わっているかがよく分かった。単なる金儲けでも娯楽施設でもない。動物達に寄り添おうと努力を重ね、人間達にも教育的価値を与え続ける存在。このコンセプトで動物園を運営できるのは、自然を管理せず、自然に逆らわず、自然と上手く融合しようとする、日本人の文化と感性だからこそではないだろうか。
 弱き者に優しくできない者が、自分と対等な者に優しくできるはずがない。人間より弱き存在である動物を見つめることは、自分の生き方を見つめ直すことでもある。それを、『動物翻訳家』から学ぶことができた。

投稿者 ktera1123 日時 2015年11月29日


「動物翻訳家」を読んで

学校の教科書に出ていたはなしで、動物園で「おさるの電車」を走らせる話があり、運転手さんと車掌さんに任命されたお猿さんの話がありました。話の内容としては園内の長いとは言えない線路をひたすら回り続けることに思い悩み、猿性とはなにか。生きがいとは何かを感じさせる内容でした。

「おさるの電車」が走っていた時代とは、時代背景が変わっていますが、「動物翻訳家」の飼育員のみなさんが努力されても、環境を整えても、動物園で産まれ、また育った動物はゴリラの章にもあったように野生に戻すことはできない、限られた環境の中で、どれだけ伝わっているか。行動をし、言葉がけをし、思いを伝えれているか。限られた環境の中でどんだけ「幸せ」を感じて頂けるか、ある意味「おもてなし」の最前線で最善を尽くされているのではないでしょうか。

今、家にいる犬(マルチーズ)は、先代(マルチーズ)とは違って散歩にもいかず、一日中、部屋の中でごろごろして過ごしているのだけど本犬がそれで良ければそれもまた幸せなのかもしれない。そんなことを見ながら「幸せ」とは何かを考えさせられました。

追伸
しょうおんさんのTwitter上「片野ゆかさん」がリツィートされていて、フォローしたところ、たまたま10/31(土)に旧渋谷区役所でタイフェスティバルで「旅はワン連れ」についてのトークライブがあり、拝聴することができ、持参した「動物翻訳家」とその場で購入した「旅はワン連れ」の2冊にサインをして頂けました。このような機会を頂けたことに「幸せ」を感じ、感謝します。

以上 

 

投稿者 j.sakairi 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで、主に場所・環境・機会をテーマに感想を以下に書きました。

1. 輝ける場所
本書のいくつもの箇所で、ちょうどみぞおちのあたりから、何か温かいものがジワーっと広がりながら込み上げて来るような感覚に陥った。それは、寒い日に室外から戻り直ぐに湯船に浸かった瞬間に得るあの感覚に似ているといえるだろう。冷えたカラダに温かいお湯がジワーっと染み込んできて、思わず“あぁ~、幸せだなぁ”と感じるあの至福感を幾度も読書中に感じた。そんなココロを温かくし幸せを感じさせられる本であった。
また、人としての原点(あるべき場所)への回帰を促された本とも言えるだろう。何がそうさせるのだろうか?それは、本書の登場人物達がそうさせるのである。とにかく彼らは輝いている。その輝く人達は、動物園に携わる動物翻訳家達である。本来相反するはずの動物の満足と人間の満足とをつなぎ合わせるという至極困難を含む作業なのである。そんな困難を彼らは情熱と知識と経験によって克服していくのである。動物の行動をつぶさに観察し、また表情から気持ちを読み取り何が動物達にとってベストかを考え、労力を惜しまず黙々と良かれと思った行動を継続していく。そして、彼らに共通しているのは、自分以外の誰かのために全身全霊をかけていることだろう。動物達のために、プロ意識を持って、情熱や知識と経験からなるスキルを注いでいく彼らの姿は憧れる程に輝いて見える。そんなひたむきさに自分を輝かせる環境に自らを置くことの大切さを教えてもらった。やはり、人としての原点(あるべき場所)とは自らが輝ける場所に身を置くことではないだろうか。情熱を持って知識と経験を積みスキル、能力を発揮し輝ける場所を探す。自分以外の誰かのために…(現在の自分はココが弱い)

2. 「人間の世界」いる動物達
動物園にいる動物達の気持ちってどうなのだろうか。本書には、動物園の役割が変わったとある。確かに自分が子供の頃に行った動物園と現在の動物園は様子が随分と違っている。例えば、以前は上野動物園の虎は四角い鉄格子の中で展示されていたと記憶している。(30年以上前なので記憶は曖昧です。)翻って現在は、ガラス張りを組み入れた壁に囲まれた空間に擬似ジャングルを作り出しての展示となっている。今年の春に上野動物園に行った時は、流れる沢の中を闊歩しながらガラス張りの壁に近づいて観覧者達を威嚇して観覧者から歓喜の声を浴びていた虎の姿を覚えている。動物園の役割は、動物の形状紹介から生態紹介へと変わってきたのである。
 しかし、いくら動物園関係者の方々が工夫を凝らし住み良い環境を作っているといっても本物の自然とは程遠いのは否めない。動物達の気持ちも本物の自然に暮らしている場合とは違うであろう。本書にも記述があるように動物園の動物は、人間の都合で一生涯を変えられた動物達である。特に自然から連れ去られた動物(動物園で生まれていない動物)から人間は、その家族、広大な自然、そして自由を奪っている。もし自分がその奪われる立場であったら… 人間が彼ら動物園の動物から取り上げたものは大きい。そんな思いをおそらく全ての飼育員さん達を始め動物園に携わる人達は感じているだろう。だから、せめてその償いとして、出来る限りの愛情を動物達に注ぎベストを尽くしているのである。「人間の世界」を代表して。そして、その愛情は動物達に伝わっているのではないだろうか。確かに動物本来の生涯の在り方を変えてしまったことは否定できない。ただ、本来の自然界で生きていたとしたならば、これほどまでに愛情や喜びを与えられ、そして感じることはないのではないだろうか。例えば逆ケースの場合(つまり何らかの理由で人間の幼児が野生の動物に育てられた場合)、野生の動物に育てられた野生児を保護した事例の共通点として、喜怒哀楽の感情の中で“怒”以外の感情を殆ど見せないという。そして、およそ人間とは思えない嗅覚や聴覚等を持っていたという(野生児の世界‐35例の検討 ~ロバート・ジング~より)。これは、「人間の世界」では発達するべき感覚や能力が「動物の世界」では発達しないことを意味している。即ち、人間の世界に(飼育員さん達と)接するという環境に置かれることで、「人間の世界」の動物達は本来「動物の世界」では発達しない感覚や能力を持てるようになるのではないだろうか。本書を読むとそう思わずにいられないのである。動物園の動物達も本来とは別のカタチではあるが幸せなのではないだろうか。そうならば良いなと切に思う。

3. 体験記@埼玉県こども動物自然公園
 やって来ました埼玉県こども動物自然公園。本書1番目のストーリー、「ペンギンヒルズ」のある動物園です。その名に相応しく自然に囲まれた大きな丘の上にあります。空気は澄みわたっていて、園内のイチョウの木は葉の先がほのかに黄色付き、モミジの葉は真っ赤に染まり上がり、鼻から空気を吸うと落ち葉が土に返る時のちょっぴり湿った何ともいえない秋の匂い、季節も楽しめる動物園となっている。そして園内の動物達は全体的にアクティブである。エンリッチメント大賞を「ペンギンヒルズ」の他にもコアラの展示でも受賞しているだけあり、それぞれ動物の展示方法に工夫が凝らされている。それが、動物達がアクティブな大きな理由であろう。
 そして「ランチタイム」ショーの時間に合わせて「ペンギンヒルズ」へGO。丘を登りきるとデーンッと存在感のある「ペンギンヒルズ」が目の前に現れる。大きなガラス張りのプールが正面右にあり、その左横に入口があり「ウォークスルー」につながる。ウォークスルーはペンギン達と空間を共有できるようになっている。奥には緑豊かな人口の丘が広がっている。ここは、動物園のペンギンの展示場でよく感じる、独特の生臭さは殆ど感じられない清潔感のある空間だ。
 一般来園者が行う「ランチタイム」ショーが終わると次に飼育員さんによる餌やりが始まる。そして、これが圧巻のワザなのである。1人の女性の飼育員さんが群がったペンギンの名前を次々に連呼しながら小魚を与えていくのである。それも物凄いスピードで。ペンギン達は羽根の付け根にカラーバンドをはめている。そのカラーバンドと各々個体のしぐさ、特徴によって個体を識別しているらしい。そして、その後ろでは別の飼育員さんが、各ペンギンが小魚を何匹食べたかを交通量調査で使う器具でカウントしているのである。全てのペンギン達に充分に餌が行き渡るように。
 本書に登場する幼児期を人間に育てられたというペンペンがいた。青と白のバンドを左右に付けている。ただ、ペンペンは小魚を3匹くらい食べた後、餌やり場に群がるその他のペンギン達を尻目に観覧者のいるウォークスルーに近づいてきたのである(ちょうど本書P.65の写真のように)。羽を小刻みに動かしながらペタペタと。そして、物おじもせず1羽ウォークスルーに入り込み観覧者をエンターテインしているのである。まるで自分の役割が何かを知っているかのように。
 餌やりが終わるとペンギンたちはガラス張りのプールで泳ぎ出した。ガラス張り越し、ちょうど目線の位置の数センチ先にペンギン達が太陽を背に気持ち良さそうに泳いでいる。水面からはみ出すペンギンのカラダにつく水しぶきが秋の日差しを吸い込み光り輝いている。なんて綺麗なんだ!ココロが癒される。ふと見ると、その遊んでいるペンギン達の奥で、噴射式ホースで餌やり後のプールサイドを掃除する男性の飼育員さんがいた。その飼育員さんは噴射式ホースで黙々と丹念に床の掃除を20分以上続けていた。これが、この展示場の清潔感の理由なのだろう。観覧者達は楽しく遊んでいるペンギン達を夢中で観ている。飼育員さんの仕事は、殆ど脚光を浴びることが無い本当の裏方作業だ。でも、そのひたむきな姿はカッコ良かった。今まで見えなかったコトが本書を通して見えるようになっていた。自分のとなりには、泳ぐペンギン達を夢中に目で追っている娘がいる。
【そこでの父(自分)と娘(5歳)の会話】
自分:(よしゃ、これは飼育員さん達の重要さを分かってもらう良い機会だろう♪)
「ねぇ、ペンギンさん達の後ろの方にお掃除している人が見えるよね」
娘:「うん。だれ?」
自分:「飼育員さんだよ。ペンギン達のお世話をする人。ああいう人達がいるお陰でペンギン達は餌を食べたり、こうして楽しそうに泳ぐことができるんだよ。分かる?」
娘:「え?」
「・・・」 
~しばし考えこむ娘~
「わかんない・・・」
自分:「・・・」
(まぁいいだろう。お父さんもそのことが分かったのはついこの間ことなのだから)

~おしまい~

(ペンギンの餌やりはYoutubeで観られます。
~ペンギンヒルズ 斬新な方法で餌を食べるペンギン~ https://www.youtube.com/watch?v=YVZJeViIX-s
実際はペンギンの数はもっと多く、餌やりのスピードももっと早いです)

投稿者 kawa5emon 日時 2015年11月30日


書評「動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー」 片野ゆか 著

 なんとすばらしい内容だろう。
動物園という存在をこの本に出会うまで、ただの動物見世物小屋と思い違えていた。
少なくとも今までは、自分はそう捉えていた。なぜなら自分は畜産農家、
そして比較的自然豊かな土地に生まれ、自分なりの動物観があり、そして自然の偉大さを感じていたからだ。
 そこから比べると、自分が自然で見てきた(そう多くはないが)動物達の動き、ダイナミックさ等と、
動物園で見るそれとでは、あまりにも動物園内の動物達は淋しそうだと子供ながらにも感じていた。
本書にも登場する「常同行動」を見、それは動物のストレスからだと親父が解説していたからでもあった。

 しかし本書に登場する例は、環境エンリッチメントを基盤にした行動展示というスタイルを通して、
そんな一元性の動物見世物小屋という考えをいともあっさりとひっくり返してくれる。
 こんな視点で実際の動物園を語られたら、今にでも早速に動物園に出向き、
じっくりと動物の動き、表情、雰囲気などを感じ、更にはその動物達の幸せを心底考えた飼育環境をどう現実化したのか、
そしてそこで働く飼育員さん達に色々な質問をぶつけたいと思うのは私だけではあるまい。
少なくとも自分は、そこに居る動物達にも話しかけてみたい。自分が彼らの「声」を感じられるかの実験も含め。

 それにしても本書で登場する飼育員さん達の、担当動物の「心の声」をキャッチしようとする能力は、尋常ではない。
姿勢、情熱、努力、この辺りを問うても、そうだったのか!の答えには物足りないだろう。
または、ここまでの能力を得るのに、どれくらいの時間を有したのか?とも考えてみる。
いや時間軸も愚問のような気がする。本書に登場する飼育員達の想いの底辺に流れるもの、それは、
揺るぎない担当動物への愛と、自分が感じたものを信じ、それを実現する決心・覚悟。
そしてその後の検証作業も見逃せない。相手は動物であり、時間軸が計算できる訳が無い。
このサイクルを何度も何度も繰り返した結果、得られた能力なのだと自分は解した。

 本書は比較的読みやすく書かれているが、その行間から醸し出される飼育員さん達の、
動物の心を読もうとする「センサー」の精度は、明らかに一般人のそれとは桁違いに違う。
本書を読み進める程、その行間にはどんな苦悩、試行錯誤があったのか?
それを想像せずして読み進めることは出来なかった。
本当に担当動物への揺るぎない愛が溢れている。
ここに一点集中、そして継続性の大切さを知り、その結果得られた感性感度の鋭さを見た。

 読み進めるうちに、さて自分の感度はどうだ?との質問が渦巻いた。
セミナー参加後から呼吸法諸々を開始して丸3年が経過しようとしている。
そして現在の自分の「センサー」は明らかに、各種鍛錬開始前よりはもとより、
幼少期に自然の中で感じられていた感度よりも発達している自信がある。

 が、本書との出会いにより、より高い次元を見た。
これが自分が最終的に得たい感覚の一つだと確信がある。
自然の声を感じること、本書でいえば動物の「心の声」を感じること。
幼少期には一部を感じていたが文字化できていなかった感覚。
この本では、その「感覚」が文字化されている。
また、良書に出会った。この出会いへの感謝の念が尽きない。

 これからは、動物との接触を増やしてみようと思う。
そして自然との接触も増やしてみようとも思う。木の「気」を感じてみたり。
盲目に鍛錬をするのも悪くはないが、果たして自分の「内部センサー」感度がどこまで鋭くなったのか?
そんな自分を測る「外部センサー」という視点も教えてもらった本書であった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 magurock 日時 2015年11月30日


「動物園で暮らす動物は幸せなのだろうか?」
と子どものころから考えていた。幼児のころは無邪気に動物園を楽しんでいた自分がそんなことを考え始めたのは、小学校低学年の国語の教科書で、戦時下の上野動物園の話を読んでからだったと記憶している。人間の都合で故郷から連れてこられ、せまい檻の中に監禁され、人間の都合で殺される動物たち。
もうすっかり、見世物小屋やサーカスのような暗いイメージ(これも偏見なのだが)を抱くようになっていた。

それからずっと動物園には行っていなかったのだが、つい3年前、友人に誘われて行くことになった。
驚いた。
以前は猿山などを除くと、ただ檻が並ぶばかりだった動物園が、なんだか開放的で自由な雰囲気なのだ。

3年前といえば、『動物翻訳家』の著書である片野ゆか氏が、「環境エンリッチメント」という言葉に出会ったころではないか。私はせいぜい「行動展示」という言葉を知っていたに過ぎない。

この『動物翻訳家』には、動物園という限られた条件の中で、その動物の個性を尊重しながら環境を整え、同時に観客が見て楽しめる工夫をすることに心を砕く飼育員の姿が書かれている。環境エンリッチメントとは「すべとの動物には心があるという概念が軸になっている」。動物園で暮らす動物たちは、現在では野生の状態から連れてこられるケースはわずかで、動物園で生まれ動物園で育ったものが多く、野生に返しても生きていかれないのだという。
そんな動物たちの心を読み取り、それぞれの生態に合った生きやすい環境をつくる努力を続ける動物翻訳家たち。ペット動物や家畜とは違う、「人間との接触を基本的に拒否し続けてきた」動物たちが相手なだけに、報われないことも多く、ただ動物が好き、というのだけではやっていかれない厳しい生き方だ。でも本書に紹介されている彼らは、とてもたいへんそうなのに、とても楽しそうだ。その愛情深さとひたむきさ、そして動物のいじらしさに、読みながら何度も涙線がゆるんだ。

動物園は楽しい。動物たちを見るだけで癒される。
でも動物側に立ったときに、動物園は人間のエゴではないか? という疑問は、私の中でいまだに燻っている。
とはいえ、今いる動物たちの祖先が連れてこられた時代にまで、時間を戻すことはできないのだ。だからこそ、もう野生に帰れない動物たちが、少しでも幸せに生きられるように日夜がんばっている動物翻訳家に感謝と尊敬の念を抱くし、心から応援したい。
まるで海の向こうから無理矢理連れてこられた黒人奴隷と、人種差別開放運動を見ているような気持ちになる。

投稿者 vastos2000 日時 2015年11月30日


「動物と人間、人間と人間のコミュニケーションについて考えた」


夏休みに、地元の動物園に子どもを連れていった時、その園の鳥たちや猛獣、白クマの展示方法が昔と変わったことに気づいた。
行動展示というやつなのだろうか?30年ほど前とは動物が置かれている環境が違うことはもちろん、行動も違っていた。

昔の飼育員だって、動物に愛情をもって接していただろうけど、「環境エンリッチメント」や「行動展示」という言葉は広まっていなかった。
言語が思考を規定するので、これらの言葉が知られるようになって、動物にとっても人間にとっても努力が良い方向に進むようになったのではないか。

同じ言語を話す同士であれば、少なくとも社会生活を営む上で必要なコミュニケーションは簡単にとれる。
異なる言語を話す同士であっても、単語や文法を学ぶことで、時空を超えても相手の言いたいことを理解することができる。
言葉こそが人間をほかの動物とは違う存在にしているのではないか。
だが、私は身近な人間とのコミュニケーションにも苦戦している有様。言語という便利なツールが使えるにも関わらず、このような状態なのは、私の心構えや態勢に問題があるのだろう。

この本に出てくる四つの園の飼育員たちは、人間とは別世界にすむ動物と人間をつないでいるように見える。
言語を介してコミュニケーションを取ることができない動物が相手であっても、心の声をキャッチすることで、コミュニケーションが取れている飼育員たちの姿をみて、人間同士であれば相互理解は可能であると感じた。
あとはやるかやらないかの問題だろう。状況は変わらないのに、「動物と人間」という比較対象を設けることで解釈が変わり、「人間と人間」間のコミュニケーションの難易度が下がったように感じられる。この点において、この本を読んだことはプラスになったと、今感じる。

投稿者 6339861 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

動物は私たちにとってとても身近なようでいて、実は私たちはまったくなにも知らないかもしれないですね。
いつもテレビで見たり、動物園で見たりする動物の表面は見えていても実際に飼育する飼育員の立場から
見た動物たちはとても魔訶不思議な存在のようにも思えました。

動物って、本来の環境とはほど遠い動物園という環境ではいったい何を思うのでしょうか。
それとも何も思わず本能のままに行動する生き物なのでしょうか?

我が家にも猫がいるのですが、ほんとに何を考えているのか分からない行動をたくさんします。

その摩訶不思議な存在の動物たちはいったい何を考えているのか、それとも考えていないのか。。。
それを紐解いてくれるのが動物翻訳家と表現された飼育員のみなさんです。

飼育員は、どうすれば動物たちが快適に生活できるのか,さまざまな環境を与えて反応を観察する
科学者のようにも感じました。

読み終わって、思ったのは「結局、コミュニケーションって何なんだろうか」ということです。
人と動物は、なかなかコミュニケーションがとれないのは分かるけれど、じゃあ人間同士
だったら、コミュニケーションが円滑かというとおおむねそうかもしれないけれど、でも必ずしも
そうでないこともたくさんあるように思います。

ここに出てくる飼育員のみなさんは、動物に快適な環境を与えるにはどうすればよいかといった視点で
いつも物事を考えているのだと思うのですが、細かく分析すると
観察~思考~仮説立案~実行~検証~再仮説立案~という作業を延々と繰り返しているのでしょう。

これって、なんとなくビジネスの現場と同じだなと思いました。
例えば同じように顧客に快適な環境を与えるにはどうすればよいかという視点で、営業活動をすればきっとよい成績が残せるでしょう。

もちろんビジネスだけでなく、恋愛やスポーツや、いろんな人間関係を円滑にすることができる考え方だと思いました。
動物から大分離れてしまいましたが、今一度相手の心の声をキャッチする気持ちで、明日からコミュニケーションを図ってみようと思います。

投稿者 gizumo 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

まず、思ったのは「いろんな職業があるものだ…」と。考えてみれば、たとえば動物園でも、動物と飼育員と事務系の人だけで成り立つものではなく、思いつくだけでも施設の設計・メンテや動物のエサの業者さんなどなど。のほほんと「かわいい~」と動物を見ているだけではだめなのかもしれないと反省した。

また、飼育されている動物は“ペット”ではないのでただの“溺愛”とは種類が違うが、それはそれは深く愛され、大切にされている様子は想像以上で飼育員の仕事の大変さを感じた。
人間同様に小さい時の環境は重要であり、その後の生活に大きな意味を持つことは、人間と同じである。むしろ、人間もやはり動物であるから当然だろうと。
 動物に関するいろいろなデータは思ったより少なく、また個体差も大きいので探り探り、試行錯誤の様子が興味深く痛快だった。その粘り強い、何事にも真摯に動物(相手)と向き合い取り組んでいく姿勢は、ただ単に動物が好きだという事だけではなく”仕事に対する姿勢”として本来あるべきものだろうなと。最近、失速気味の仕事に対するモチベーションを思い出させてくれました。
 さらに、本気で動物と向き合う姿はすがすがしく決意が感じられる。種を超えた理解が進むのも当然であり、人間同士も同じことだろう。
 
 動物園にいく機会はそれほどないが、やはりどこか「本当は大自然を駆け回りたいだろうな・・・」などとかわいそうだと思ってしまうが、実はその場所なり、その動物なりに大切にされており、楽園としてすごしているのだろう。「そうか!かれら動物の動物園に就職したんだ?!」腑に落ちた読後でありました。

投稿者 BruceLee 日時 2015年11月30日


「しかし(アフリカハゲコウの)キンはそのまま落下していった ~ それとほぼ同時に、
佐藤は思いきりジャンプした。キンの体に手が届く直前、しっかりと目が合った。
ああ、これで嫌われる!そう思いながらキンを抱きしめた瞬間、佐藤は声をあげて
泣いていた ~ この後、キンはあれほど好きだったワカサギを絶対に食べようと
しなかった」

本書の中で最も引き付けられた部分がココである。通常の感覚で言えば到底理解し合う
事など出来なさそうな動物と人間のドライな関係を、本書に登場する飼育員たちが尽力し、
何とかその距離を近付けよう、縮めようと努力する姿勢が物凄く伝わって来たのだ。
この部分をベースに、私が本書で感じた事を2点述べてみたい。

1)飼育員は職業ではない
個人的に大いに感じたのは、本書のタイトル以上に的を射てるのは副題だと言う事だ。
そこにはこうある。「心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリ」。翻訳とは
「ある言語で表現された内容を、原文に即して他言語に移しかえること」だが、本書に
登場する飼育員たちがやってるのは、気持ちを言語化する事は決して無い動物に、
まずは寄り添い、ひたすら観察しながら彼らの気持ちの理解に努め、動物の関心事の
ヒントが見つかれば、即それに応じた行動を取る、当事者間のみに通じるテレパシー
のようなもの。とはいえそれが毎回成功する訳でもなく、逆に失敗の方が多く、教科書
がある訳でも無いし、まして彼らは特殊能力者でも無い。ただただ日々動物たちと付き
合い、地道な努力の末に、やっと「相手がして欲しい事はこういうことなのかな?」と、
うっすら感じたら行動に移して試行錯誤する日々。現場は3Kだろうし、活動の成果は
直ぐに見えないし、また動物たちから評価・感謝される訳でもない。それでも彼らは
この仕事に対して、所謂世間一般の仕事感、つまり勤務時間は何時から何時までの
拘束で、何処から何処まで私の持分で、その報酬として幾ら貰える、と言うような概念
以上の崇高な思いを持っている。担当する動物を理解し、彼らに動物園と言うステージで
如何に最高のパフォーマンスを披露して貰えるか?それが彼らのミッションだからだ。
とは言え(そうは書かれてないが)、他の業種に比べ報酬が破格に良い訳ではないだろう
し、それはつまり、この活動を職業として捉えていては出来ないだろうし、だからこそ
動物対人間の生々しい活動記がココにはあると思うのだ。そんな彼らを本書で知り、
自分が感じた事、それは「好きでなきゃ出来ない仕事」と言う事。だが、これこそ
世間一般に言う「プロフェッショナル」に必須の要素ではなかろうか?そんな彼らに
純粋に職人的崇高さを感じた。

が、少し冷静になって考えると、彼らほどではなくとも、似たような状況の仕事
(敢えて仕事と呼ぶが)で偉業を果たしている人たちも実は少なくない事に気付く。
言葉が通じない相手に寄り添い、ひたすら観察しながら相手の気持ちの理解に努め、
相手から格段に感謝される訳でもなく、大きな報酬が貰える訳でもなく、あると
すれば日々の相手との距離が縮まって行く感覚にただただ喜びを感じる人。それは、


赤ちゃんを育てる母親


ではなかろうか?いや、そんなの母親だけでなく「父親も頑張ってる!」と、
その昔、かなり子育てには貢献したと自負している自分的には声を大にしたい
部分はあるのだが(笑)、やはりそこは母親には叶わないと思う。それは
赤ちゃんのある1点を観ていては掴め無い点を掴むことが必要となるからだ。
日々の状態がどういうものかを知っている母親だからこそ、ある時の微妙な
違いを、目の動き、輝き、表情、姿勢、等から気付く事が出来るのではなかろうか?
仮に専業主婦だとしても子育てをしてる人は、ここに登場する飼育員と同じくらい
大きな仕事をしていると言えるのではないか?本書に出てくる飼育員たちは
母親と同じ視線を持ち、自分の子供でない動物に母親のように寄り添う人たち
である。職業の名称として「(子育て)母親業」というのが無いのと同様、
本書に出てくる飼育員も、その職業名では表現しきれない程の良い仕事をしている、
と思った次第である。

2)著者の情報収集力、想像力、表現力
我々にとって、全く知らない訳でもない動物園の飼育員、という方々にスポットライト
を当てた本書は、フトすると「へえ~、色々大変なんだなぁ~」で終わってしまう可能性
もあったと思うのだが、読みながら度々感心してしまったのは「よくこんな臨場感を再現
するように描けたなぁ」と言う事。当たり前の事だが、著者は飼育員ではない。多少動物
について知見はあるかも知れないが、あくまで飼育員の日々の過酷さ、生々しさは飼育員
たちに取材せねば得られ無い情報である。想像してみたのだが、飼育員も日々の自分の
仕事で忙しい筈だ。そこにある日、見知らぬ作家が「お仕事の話を聞かせて欲しい」と
やって来たら、心開いて自分の涙と汗の経験を話し始めるだろうか?本書を執筆する意図
を理解し共感して貰うにも相当な説明と時間が必要だったと思うし、その為の著者の努力、
また飼育員たちがここでも人間同士で寄り添う姿が想像出来るのだ。そして次第にお互い
の信頼が生まれ、今までの経験を話し始めたのだろう。とは言え、作家ではない素人は
自分の仕事経験をロジカルに、時系列的に、的確に話せるものではないと想像する。
時にあっちに行ったりこっちに行ったり混乱し、それでも最後に整理するとこういうこと?
的な確認もあり、この全体ストーリがまとまって行ったのではなかろうか?そして、そこは
人間同士であるが故、お互いの協力関係も常にうまく行った訳ではなく、時に飼育員が自分
の気持ちを表現しきれないイライラ感、著者が分かってくれない感、また著者が飼育員が
何を言いたいのか掴み切れないイライラなどもあり、空気が悪い中での取材を進めた事も
あったのでは?と勝手な想像をしてしまうのだ。そんな創作苦労話は本書のポイントではない
ので登場しないため、個人的な想像の域を超えないのだが(或いはこういう本を何冊も
書いてる人にとってはそんなのは苦労とは呼ばないのかもしれないが)、人に話を聞き
ながらそれを我が事のように理解して咀嚼し、想像を膨らませながらまとめた後に再度
表現する、というのは実に手間の掛かる仕事だろうと思った次第である。

フツーに手にして読んでいたら「ふーん」で終わっていたかもしれないが、課題図書と
して提示された事で、登場人物に思いを馳せつつ、諸々想像しながら読み進めることが
出来たと思う。有難うございました。

投稿者 mekiryoku 日時 2015年11月30日


動物翻訳家を読んで

地球の裏側にいるはずの動物を連れてきて、人間にとって都合のよい世界で生活をさせることは、居心地の良い環境であるはずはない。それなのに動物園の動物は文句も言えず、その姿は、ただそこに「いる」だけでした。動きがない、くすんでいる、という印象を子供心に持っていました。
動物園で動物を見るという本来の目的よりも、芝生スペースでみんなで遊んだりお弁当を食べることの方が楽しかった思い出があります。
それから20年後、大人になって再び同じ動物園を訪れてみると、なんだか動物がカワイイ!こんなに楽しい施設だったっけ?と思ったのを覚えています。
そこには「環境エンリッチメント」という飼育現場の変化や、飼育員の方の努力の結果だったのだということを本書で理解しました。
しかし、やっぱり大型動物や広範囲を動く習性の動物にとっては窮屈なのでしょう。広い大地を仲間と走り回ったら気持ちいいだろう、と声をかけたくなる動物たちもまだいました。

動物にとって居心地の良い環境にする、その結果本来の魅力的な姿にするということが、動物園という環境の中ではどれほど難しく、忍耐力、感性等のセンスを必要とされるのかということを本書の内容から感じました。

自分の中で、デキるビジネスマンの姿があります。様々な方向からモノを見てみたり、真逆の立場に立ってみたり、未知の経験をしてみたりする。そうして磨いた感性を基に、考え、試行錯誤した工夫を実践し、その経験を糧として、また次の工夫をする。本書の飼育員の方達は、これと同じだと思いました。
ということは、環境エンリッチメントは動物園外でも使えるということです。
対象が動物であれば、本書のような有能な飼育員になれます。
動物園外では、ペットの面倒を見る。花壇の植物を世話する。食材が光る料理を作る。対面している相手をイキイキさせる話をする。職場の人間の能率が上がる環境を作る。など、沢山の場面があります。そこで環境エンリッチメントを実践するためには、感受性を高めること、言葉や形では表現できない何かをキャッチする能力が当然必要であると思います。
これは、どこでも必要とされる、多くのものに共通する能力だと思います。

人間社会というのも、自分たち自身でルールや組織を作り管理しています。それが村のように小さな社会で、管理する側もされる側も同じ立場の人間ならば、臨機応変にそこの人間たちに合った組織をつくることが可能です。
しかし社会が大きくなり、管理する側とされる側が全く別の立場の人間になってしまったときに、問題が起こり、解決が難しくなります。
その結果、そこの住人(特に管理される側)はまるで動物園の動物のように、ただ「いる」だけになってしまい、自発的に何かをしようとせず流されるままに生きる。そして衣食住には困らない制度があるはずの現在のこの国で、自殺者は年間数万人、うつ病者の増加、短絡的な動機による犯罪の増加という、原因の特定が難しい問題が増えているのではないかと思います。
そして流されるままに生きる人間にとっては、その環境が案外楽なので変えようとしません。
例えば、文句は言うが選挙には行かないままという生き方になります。ちなみに彼らにその理由を聞くと「行っても意味ないし」とのこと。その上「選挙行くなんてエライね」とまで言われたこともあります。
ここまで意識がくすんだ人間が増える原因の一つに、社会が大きくなったことによる弊害があるのではないかと思います。感受性の低下により、社会を他人事として捉えているように思います。本来の生き方が出来ないままになっているのかもしれません。

人間がまるで一昔前の動物園の動物のように「いる」だけの存在になってしまわないために、どのように本来の魅力的な姿を引き出せばいいのでしょうか。人間版環境エンリッチメントとはどのようなものでしょうか。

まず、動物と人間の違いは何かを考えました。
いろいろありますが、「人間は文明を進化させてきた歴史を持つ生き物」ということに注目しました。そして、過去の経験や歴史を知識として蓄え、自身を進化させるということが魅力的に生きることに繋がるのではと考えました。

そのために、誰でもこの社会生活で出来る、そして常にその機会に恵まれ続けていることがあります。そしてその機会を積極的に最大限活かすことが、人間としての魅力を高めてくれるはずです。
それは、「自分の行動を自分で選択すること」です。つまり、意識を持って行動を決めるということです。
行動の一つ一つを丁寧に考えることで、感受性も磨かれますし、何がしたいのかを自身に問うことは、「心の軸を大切にする」という環境エンリッチメントの概念に繋がります。
些細なことでも、自分で選んだことだと意識して腹をくくる。その姿は他人の目には輝いて魅力いっぱいに見えるはずですし、実際そのような人間には自然と人も仕事も集まっていき、ポジションが上がるのも速かったです。
選挙に行かなくてもいいけど、行かないことを自分で選択してその理由をはっきり持つことが大切だと思います。
そして自分で選んだ生き方による魅力的な行動が、周りをも触発し、好循環を生み出すきっかけになります。管理されきっている人間も、テレビや雑誌を見て、カッコイイものや魅力的なものに憧れます。(そしてそのCM商品を買ってしまします。)それは自分もそうなりたいという感情が意識の一部にあるということだと思います。すぐそばに魅力的な人間がいれば、当然影響を受けるはずです。そう考えると、自分自身に環境エンリッチメントすることそのものが、結局周囲にも同じことをしていることになります。このような生き方こそ人間版環境エンリッチメントなのだと思います。

自分自身に対して行う環境エンリッチメントが上手くいっているかどうかは、本書にあるように、「会いに行きたくなる」と相手に感じさせているかどうかで判断できます。
会いに来てくれる人間が増えてきたら、上手くいっている証拠だと思います。
「会いに行きたくなる」人のいる会社やお店は売上向上のために必須です。
環境エンリッチメントという言葉で表される、動物の思いを翻訳するという能力は、ビジネス社会においても共通するものが多くあると思いました。

投稿者 diego 日時 2015年11月30日


動物園の動物自身と、その家族やコミュニティ、
そして彼らを見守る担当の飼育員とその思い、
周囲の組織や協力者、動物園を来園する人々。

淡々とこれらの記録が描かれているような本書なのだが
飼育員が動物たちの幸せを願って思い悩み試行錯誤する姿に、
そして時に訪れる、動物たちと飼育員の心が通じ合ったと思える瞬間に
ただ感涙する。

動物や飼育員を中心に周囲の世界が応え動いていくことに
ただ感動する。

私は一人の母親でもあるのだが、
自分の子供が幼いころ
こんなふうに本人に触れただろうか。
こんなふうに世界は動いただろうか。
振り返って反省すること暫し。

大切な人たちや周囲の人たちに
こんなふうに接することができているだろうか。
茫然とすること暫し。

でも、自分もこんなふうに接してもらえていたら。
能力を認めてもらい、育ててもらっていたら
私にも、自然とできたのかもしれない。

だがこれは、単なる言い訳であり
自分の心や体でさえほったらかしのままで、
こんなふうに接し、見守ることなどやっていないと感じた。

自分の心や体をこんなふうに見守って
大切な人たちを見守ってみたい。
そう思い行動してみるだけで
今までは見えなかったことに
少しずつ気付くようになり
自然体で誰かを気遣うことができるようになってきている。

これまでは耳をかすめるだけで心に届かなかった
私を認めてくれる声に気付くようになってきている。

現状に満足せず
よりよいものを模索する中にいても
焦燥感の中で結果ばかり追うのではなく
今この世界に居ることに対する感謝の気持ち、深い幸福感も訪れる。


言語などのコミュニケーションを取ることが出来ない動物たちと
飼育員の方々との交流の姿を感じることがきっかけとなり、
これまでとは別次元の交わりの存在に気付くことが
少しずつできているような気がする。

もちろん、本書に描かれた世界にも感動しているが
それを通して、ここには描かれていない、全く新しい世界にアクセスしているような感銘を受ける。
新しい世界との交わりはきっと、
この本に書かれているような交流によって開かれるのではないか。
今はそう感じている。


(この課題図書の場をいただき
「スゴイ本読んだ!感動した!」だけで終わらず
自分の中に起こった変化に向き合うことができました。
ありがとうございました。)

投稿者 morgensonne 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで


私の中では動物園に行く目的は、普段見れない動物を”見る”ためであった。
しかしこの本を読んでそれは人間のエゴだけであるように感じた。
ただ珍しい動物を見たい。
その動物を”見せる”ために動物園の中では日々飼育員の方々が悩みながら
動物たちと接していることが少しわかったような気がする。

そして動物たちを尊重して、人と接するかのように相対する姿勢は学ぶべきものがあると思った。
飼育員たちは言葉を持たない動物たちの「心の声をキャッチする」ために
五感を使ってコミュニケーションを取っていると感じた。
そして表情のない動物たちの気持ちを汲み取るために
飼育員たちは五感以上の感覚を無意識で使いながら動物たちの変化を
感じ取っているであろう。
それは本当に動物たちのことを思いやる気持ちがあるからできていると思う。

会社では人材育成ということで部下の育成で誰もが悩んでいると思うが
自分自身が思いやりを持って接することができているかを再度考えさせられた。
そしてどこまで顧客や社会のためになることを考えて、仕事ができているかを
見直すきっかけにもなった。
もっと利他のこころを持って接していきたいと思った。

そして環境エンリッチメントということで動物本来の個性を尊重し、
多様性を再現するというのは、動物の世界だけではなく
社会全体の動きでもある。周囲の多様性を尊重することに加えて
自分自身も多様な面を持って豊かな生活をしていきたいと思った。
そのためにももっと感覚を鍛えていきたいと思った。

ありがとうございます。

投稿者 sakurou 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

課題図書にはこういう機会がなければ私が興味を持たないであろうジャンルの本が多数紹介されていて、毎月新たな発見があり、楽しみなのだが、今月の課題図書もその一冊だった。

タイトルを見て、「動物翻訳家」って何?動物の飼育もの?正直読み始める前はそのぐらいの認識しかなかった。旭山動物園のことは知っていたが、「環境エンリッチメント」というキーワードを知らなかったし、「動物園は動物を見せるところ」というぐらいの認識しかなかった。

でも読み始めて冒頭、いきなりストレートパンチを食らう。カピバラ温泉の一節で「動物が快適に過ごせるように」という一節だ。動物が快適に暮らせることを第一に考える、という彼らの思考に驚かされる。彼らにとってのお客さんは見に来る方ではなく、飼育している動物なのかもしれない。

彼らは動物を「飼って」いるのではない。動物が健康に、生き生きと快適に過ごせるようにするためにはどうするのがよいか、日々考えている。彼らが生き生きと過ごせれば自然とお客さんの心をつかむことにつながる。そういう強い信念を持っている。

観客のためにエンターテイメント性をもたせるという意味では、動物達と翻訳家の関係は、譬えればタレントとマネージャ・プロデューサーとの関係に近いのかもしれない。ただ、そのタレントはかなりワガママだ(笑)。強制できない分、人間を育てるよりも遥かに難しい。時にはチンパンジーの人間関係ならぬチンパンジー関係に心を砕き、住処を分けたり、他の動物園に行かせたりという苦渋の決断も必要だ。

それでもなお、動物達の良いところを考え、動物が自然界の中にいるように、ありありと振る舞えるようにするにはどうすべきか、わざわざチリまで調査に行く、ロストのリスクを承知でアフリカハゲコウのフリーフライトを実行する等、常識にとらわれない発想と行動力が動物達を生き生きとさせるのだ。

アフリカハゲコウの一節でアフリカハゲコウがロストして見つかる一節がある。あれは単なる偶然ではなく、動物好きの方に見つけられ、飼育員さんとの電話での声の伝わり方が見つけた方に伝わり、それがアフリカハゲコウに伝わり、アフリカハゲコウが留まらせたとしたら考えすぎだろうか。

自然にいる姿を見せてあげたいという情熱、創意工夫、試行錯誤が「環境エンリッチメント」という動物園業界のイノベーションを起こしている。もしかしたら、TDLやUSJ等、何時間も並んでたった5分のアトラクションという過度に発達しすぎた機械仕掛けのエンターテイメントがそろそろ飽きられているのかもしれない。それよりは一日中自然を楽しみながら、いろんな動物を見て回る方がこれから主流になってくる気がする。(少なくともリピートしても飽きない)

先日、宮城県に行った時に蔵王キツネ村というところに行ったのだが、そこはキツネが放し飼いにされている。「手を出すと100%噛まれます」というショッキングな看板もある。動物をありのままにするがゆえに生じる仕方無い。お客さんはそういうリスクを知って動物に接する。目の前にいるキツネ達は私たちのことは気にせず気ままに過ごしている。まさにペンギンヒルズのように「人が動物を見ている」のではなく、「動物が人を見ている」動物園なのだ。

決して交通の便の良いところではないが、最近は外国人観光客にも人気で、Youtubeで紹介されているようで、入場者が増えていると聞く。

実は本書に書かれている内容を反芻すると、実は日本人のきめ細かさが生きているように思える。繊細な感覚によるエンターテイメント性が海外の動物園にはないとすれば、これは日本の動物園の大きな売りになるのかもしれない。
本書に出てくる動物園は京都動物園を除けば、地方の動物園が多い。こういう地方動物園の地道な取り組みが国内、海外から注目を集め、地方に目を向けさせる取り組みの一つになることを願ってやまない。

本書を読み進めるうちに、命の誕生に心温まり、ペンギンの死亡事故に心を痛め、アフリカハゲコウのロストに肝を冷やす自分がいた。
本書に出てくる動物たちと関係者の翻訳作業の積み重ねが紡ぎだす心の触れ合いは、私に命の素晴らしさや情熱、行動力等、生きる基本を再認識させてくれた。
これからもいろいろと好奇心を持って、情熱的に打ち込めるものを見つけ、エネルギーを費やしていきたい。

投稿者 filefish 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」・・・
筆者の言わんとするところはわからなくもないが、読後もやや違和感が残る。
だからといって、適当な代案を思いつくわけではないのだが。
「翻訳」というよりは、「テレパシー」のように思えている。

本書は「環境エンリッチメント」をキーワードに、動物園の飼育員の方が
担当動物と心が通わせるまでを書いている。
登場する4つのケースにどれも共通するのが、「本気で接している」ことである。
と、書くのは容易いが「本当の本気」はなかなか大変だとつくづく思う。
少しでも上から目線だったり、安易な考えをしてしまうと、ペンギンの章に
出てくるように「ハラスメント」になってしまう。
これは人に対しても同じことで、浅い考えの親切は大きなお世話である。
災害の援助やボランティアにも全く同じことが言えると思う。
動物は素直なだけに行動に如実に表れるので、うまくいかないときの悩みや
思いが通じたときの喜びが大きいことは想像に難くない。

今後、自分が人と接していくにあたり、相手のことを考えるとはどういうことか
さらに深く考えていきたいと思う。

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投稿者 andoman 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

動物園という言葉を目にすると、誰もがその想い出を呼び起こす事と思う。
どこの動物園に誰と行って、どんな動物が印象に残ったか…。
恐らく、本書を読んだほとんどの人が1度は思い出していると思う。
私も、勿論その1人だ。
小学生の頃、学校の社会科見学で動物園に行った時、コンクリートの壁や地面と黒い鉄の檻の中に、元気の無い動物達が寝転んでおり、大型動物を生で見る驚きはあったが、正直楽しいというより、「人間に捕まえられなければ、野山や大草原を自由に駆け回っていたんだろうなぁ…。かわいそうだなぁ…。」と感じた事を覚えている。
それ以降、「かわいそうな動物達」を見たくないという気持ちから、動物園へは行くことはなかった。
本書のプロローグにもあった通り、昔はどこの動物園でも、私が行った様な所ばかりであり、それが当然だった。
しかし、現在では動物達を愛する飼育員や理解ある人達によって、「環境エンリッチメント」という言葉の定義がなされ、動物達が可能な限り住みやすく、訪れるお客様にも楽しんでもらおうといった、改革・改善が繰り返し試みられている、その進歩には正直驚いた。
大変失礼だが、動物園はそういった進歩には疎い業界だと思っていた…。

動物は人間と比べて、知能が低く、言葉を話せず、表情もない。
当然、動物と人間では人間同士に見える様なコミュニケーションは取る事は出来ない。
普通の人間は、コミュニケーションを取れない相手に、愛情を注ぐ事はほとんどない。
残念ながら、まだまだ人間は、ほとんどの人が「ギブ&テイク」で生きているので、自分が何かを与えた結果、相手からも何かを得られないと、それ以上愛情を注いだり、尽くしたりする事はない。
(この意見に頷いてくれる人は、少なくないと思う…。)
だが、本書に登場する飼育員達は違った。
種が違い、知能に大きな差があっても、言葉が通じなくても、相手に表情が無くても、飼育員本人達が出来得る、精いっぱいの愛情を注ぎ、彼らの気持ちになって考え、行動し、時に思い通りにならず、期待を裏切られても、「それでも!」と忍耐強く、また別の新しい一手を投じる。
ここまで来ると、単なる「仕事」では片付けられ無い。
まるで、自らの子供を想う親の様に感じる…。
・いつも飼育員の後について行く、ペンギンの「ペンペン」。
・飼育員を気遣っているかの様に、振る舞ってくれる「ゴヒチ」。
・鳥頭なのに、数日経っても飼育員を忘れない「キン」。
・掃除をそっと見守るキリンの「キヨミズ」。
飼育員が、ただエサをくれるだけの存在であったならば、この様な行動をとる事は無いと思う。
飼育員が「愛情」をもって接し、動物にも飼育員に対する「愛情」というものが存在するからこそ、この様な行動が起こるのだと思う。
動物は、臆病だ。
それゆえに、人間の行動を常に観察している。
だからこそ、自分達のために「愛情」を降り注ぎ、努力してくれている姿を目の当たりにした結果、時々期待以上の思わぬ行動を示してくれていると思う。
もしこれが、人間同士であれば、どうだろうか。
飼育員と動物の関係の様に(当然、相手を動物と考える必要は無いが(笑))、心底愛情を降り注ぎ、相手がより良く生きるために努力し続ければ、飼育員と動物以上の信頼関係と絆が結ばれるのではないだろうか?
動物と違い、言葉も通じるし、意思疎通もたやすい。
夫婦やスポーツ、仕事での阿吽の呼吸というのは、こういった互いの信頼関係の上に成り立つのではないかと思う。
自分と馬が合う仲間との連携は、本当にたやすい。
でも、それは相手を信頼し、信頼されるからこそ、生まれると思う。
今後の私生活でも、相手に愛情を注ぎ、強い信頼関係を築ける様な努力をして行きたいと思う。


最期に、飼育員の強い想いが、奇跡の様な事を起こした事にも注目したい。
「キン」が行方不明になった事件で、状況から、普通であれば生きて見つからないに等しい筈なのに、大事に至る前に健康な状態で偶然見つかっただけでも奇跡なのに、発見した人が動物好きで、「キン」を刺激しない様、近所には一切黙っているという、的確な配慮と行動。
普通なら捕まえようとしたり、ご近所に触れ回るだろう。。。
偶然にしては、出来過ぎているレベルだ。
「キン」がいなくなる事は、見えない力に決められたイベントで、それを解決する為に、見えない力が働いたと思えるくらいだ。
そして、キリンの話に出てきた不思議な少女。
これもまた、奇跡の様な出来事だ。
自分が世話をして本当に幸せなのだろうかと、高木さんが苦悩している時に、あまりにもタイミング良く現れすぎだ。
「キリンさんがね、お姉さんのこと、だーい好きって言ってたよ」(P.253)
この状況で、こんな事を言われたら、感情を感じる前に涙が溢れるのは、当然だ。
そして、この一言で、どれだけ高木さんが救われた事か…。
この少女が何者かは、気になるがこの際どうでもいい。
幻でも現実でも、結果として、この様なタイミングで、本人が心の奥底で願った言葉をかけられた事が奇跡だ…。
この様な不思議体験が出来るレベルになるほど、全力で打ち込める何かを追い求めたい。。。


今月も素晴らしい本をありがとうございました。

投稿者 jawakuma 日時 2015年11月30日


『動物翻訳家』を読んで

我が家は動物園適齢期の子供が3人もいるので、年間に2~3回は動物園を訪れている。本書で“ペンギン”の章で紹介されていた、埼玉県こども動物自然公園にも昨年訪問しペンギンヒルズをはじめ、その広大で高低差に富む園内を、双子ベビーカーを押し押し汗だくになりながら堪能した。中でもペンギンヒルズはそのヒルズという名が示す通り、園の入り口から凸凹の坂道を800mほど登り続けなければならず、途中の乳牛コーナーでソフトクリーム休憩を挟まなければ、幼い子供やお年寄りはまずたどり着けない場所にそびえ立つのである。双子ベビーカーお弁当持参の我が家にとって最早それは難所。登り切ったところの林の中に敷物を広げ、ペンギンヒルズの餌やりタイムの前に我が家の子供たちのお弁当タイムに突入したのであった。やはり環境エンリッチメント大賞に2年連続で輝くだけあり、ペンギンヒルズは見応えがあった。当時はペンペンのことは知らなかったが、茂みを抜けて太陽の光が燦々と降り注ぐ中に断面がのぞき込める形でプールがそびえ立ち、中では涼しげなペンギンたちがスピード感たっぷりにその華麗な泳ぎっぷりを披露しているのだ。さまざまな水族館、動物園を訪れている私だが、ここまでペンギンの生活に密着できる園は他にはない。恥ずかしながら初めて耳にした“環境エンリッチメント大賞”に輝くのも大納得なのである。同園はペンギンヒルズ以外にもコアラなどの人気動物やカンガルーの生活ゾーンに入れるエリアなど工夫を凝らした展示、その他の動物たちもその広大な敷地を生かした居住エリアのためか、飼育員の方の熱心な世話のためかはわからないが、とても生き生きとしているうえ、触れ合いや餌やりのイベントも充実しているので、体力の有り余る小学生がいる家庭には激しくお勧めしたい。
さて、本書では4つの園の動物たちが紹介されていたがどの飼育員とその担当動物との間にも心の交流がみられた。犬などの人間とのふれあいが直接の喜びとなる動物以外でしかも3歩あるくと記憶を忘れるといわれる鳥類の2種までにもそのようなトレーニングや心の交流ができるとは驚きを隠せなかった。そこに至るにはどれだけの情熱、時間、苦悩と奮闘が必要なのだろう。それぞれの担当者がその動物の世話をするようになってからの期間を下記してみる。
・ペンギン 2011年~(ペンペンとは生まれた瞬間から)
・チンパンジー 霊長類一筋 十数年
・アフリカハゲコウ 2009年~
・キリン 2002年~
やはりどれも長い時間がかけられている。動物は物を生き物である、しかも物を言わない。毎日の掃除・餌やりはもちろん、出産のタイミングなどは24時間意識を向けておく必要があるのだ。それを千日、万日と何年も続ける。するとある日、解りあえる日が来るのであろう。これはすべての動物園担当者がそうという訳では無いはずだ。この本に紹介されるくらいの魂の注ぎようがあって初めてなしえる心の交流なのである。キリンの展示に現れた女の子は、さすがに人に形を変えたキリンではないと思うが、その純粋無垢な心にキリンの気持ち、担当者の気持ちが流れ込み『キリンさんがお姉さんのこと、だーい好きだって』に繋がったのではと思わずにはいられない。

私が本書の中で一番の驚愕だったのがアフリカハゲコウである。人間のそばに暮らす性質があるとはいえ野生のしかも1万キロ以上も離れたアフリカの大型鳥類が山口県の空でフリーフライトを披露している。うーむ、何度読み直しても未だに信じられない。確かに動物園の鳥類展示は何か物足りないと感じていたが、それはやはり飛べないからなのである。鳥なのに飛ばないで籠内で佇んでいる。来園者も決して鳥らしくないそんな姿に多くを望まずにそそくさと通り過ぎるのである。他園の鳥類イベントで思いつくものといえばペンギンを除くと“アヒルの大行進”くらいである。そんな現状の中、大型鳥類にフリーフライトをさせて来園者に披露するなんて大それたイベントを考え付く園長も凄いが、それをわずか5ヵ月で実現させてしまう担当者とは一体何者なのだろう。キンがロストした際に迷わずに600キロの距離を超え和歌山まで即断で駆けつけるその情熱!天晴れ!その魂の打ち込みようがなければアフリカハゲコウとの心の交流など決してできないであろう。世界一醜い鳥と言われるアフリカハゲコウだが、双子の子供たちは連れずに私だけでも、ぜひぜひこの目で見てみたいと心動かされている。このオジサンの私がだ。そう考えるとこれらの心の交流の紹介は環境エンリッチメントという言葉を普及とともに、動物園の新たな顧客層獲得にも効果があるのではと思う次第であった。誰か動物園の集客コンサルの仕事を声かけしてくれないだろうか。などと妄想を膨らませる今夜であった。まずは時間を見つけて双子連れで日立のチンパンジーの森あたりを訪れてみたいと思う。

今月も良書を紹介いただきありがとうございました!

投稿者 2l5pda7E 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで。

本書のテーマは動物園の飼育環境の向上を行う「環境エンリッチメント」だ。
これは要するに、動物達の主観に寄り添って飼育を行う事を指す。

野生のペンギンが雪も無い岸壁が丘に住んでいたなんて驚きだ。ペンギンのイメージが音を立てて崩れ落ちた。
寒いところでブルブル震えながら、自分の股の下で卵や雛を温めるあのイメージである。
今までの寒々しいを一変して、その環境に近づけようとした飼育員のアイデアはとても良い。

何より飼育員と動物達はとても歩み寄っている。
チンパンジーと飼育員は言葉は通じない外国人とやり取りしている様な、本当に意思疎通できている雰囲気を感じた。

著者である片野さんによる書き方も斬新だった。
飼育員の目線で書かれている。
動物と飼育員の心のやり取りがありのままに見て取れた。

私達に愛らしさや感動を与えてくれる動物達に、歩み寄っている「環境エンリッチメント」という取り組みは本当に素晴らしい。
しかし、動物園は人が来てもらう必要がある為、お金を得る為に商業的な観点も取り入れなければならない。
捕えられて檻の中で暮らす事は、動物達にとっては悲しい事かもしれない。
本当は自由に走り回りたい、飛び回りたいのかもしれない。
自由な姿を思い浮かべながら、理想と現実に立ち向かう飼育員の姿勢に倣いたい。

良き書をご紹介頂き、誠にありがとうございました。

投稿者 ken2 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家 心の声をキャッチする飼育員のリアルストーリー」を読んで

キリンの家族の話のくだりで、
「『どうして柵、嘗めているんですか?』来園者に訊かれるたび、高木は担当飼育員として恥ずかしかった。同時にキリンたちには、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。ようやく引っ越し作戦が終了したと思えばこの有様で、キヨミズとミライ、シウンには、大変な思いばかりさせている。」という箇所が一番心に残った。

自然や言葉の通じない動物が相手の仕事ゆえ、ままならないことが多い中、来園者に対して、動物園の動物に対して、全力を尽くしている。
本書に登場する飼育員という職人たちに共通する、「仕事をするうえでの矜持」というものを感じさせてくれる部分だ。
と同時に、野生種とは異なる種になっている動物園への動物たちへの最大級の愛情表現を感じる。

「自分は精一杯やれているか?」「仕事に対する矜持はあるか?」という問いかけを日常生活を送るなかで常に行おうと思わせてくれたのが収穫である。

今月もありがとうございました!

投稿者 chaccha64 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

翻訳。まさにその通り。当たり前だが動物の言葉がわからない。人間の言葉も動物にはわからない(?)。それを、この本に登場する飼育員は、動物たちに快適で充実した生活を送ってもらいたいという想いだけで、動物の心を理解しようとし、そして理解している。本人たちにはそうおっしゃらないだろうが。
それを実現しているのは、動物への愛情だと思う。それは、自分の子供、家族に対するようなレベルに達している。そして、鋭い観察眼、想像力。諦めない心。プロフェッショナルです。見習うべきことがたくさんありました。
そして、動物たち。その動物特有の修正はあるにしろ、それぞれ個性的で、人間と変わりがない。特にチンパンジーは、いじめもあったり、子育て放棄もあります。少しづつ成長しているところなど、本当に人間と変わらないと思う。だから、飼育員も動物としてではなく、人間に対するように接しているような感じがする。
言葉が通じない動物相手だから、観察力、想像力を駆使して飼育員が飼育動物のことを観ているから、この本のようにコミュニケートできたのだろうか? 飼育されている動物の方も、観察力、想像力を駆使して飼育員とコミュニケートしようとしたという感想も持ちました。やはり、コミュニケーションは双方向であると思う。それなので、動物側にも何らかの作用、努力があったのだと思う。だからこそ、このようなすばらしい話ができたのだ。
コミュニケーションするには言葉が必要だ。しかし、時には、コミュニケーションするのには、言葉は邪魔になる場合もあると思う。動物とではこの本の飼育員は言葉無しでできている。この本に書かれているような関係を、自分自身、他人と結べているのだろうかと反省しました。人間同士でも、相手に対して観察力、想像力を駆使しないといけない。この本の著者がエピローグで言っていることは本当だと感じました。「動物園の飼育現場に大きな変化をもたらした、豊かな想像力や感受性、寛容性の実例の数々には、以外にも日常を快適にするヒントがかくされている」

投稿者 tractoronly 日時 2015年11月30日


動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー を読んで

おそらく日本全体でみると今もなお失敗とは言えないけど動物たちが幸せではない状況が少なくない数であるのではないかと考えると、これほど動物たちに心を寄せ、限られた資金の中で最大限の効果を生み出そうとしている仕事ぶりには自然と引き付けられる。

いや、そもそもこの本に引き付けられるのは仕事に真摯に取り組むあまり引き寄せられた奇跡の連続だからではないか。
小山さんからペンペンへ注がれた愛情が群れ全体のムードとなり、山内さんの日々の弛まぬサポートがゴヒチの大らかな性格となり、佐藤さんの激しい恋心にも似た想いがキンとギンを大空に羽ばたかせ、高木さんの母親のような見守りが希少動物であるキリンの繁殖につながったのではないか、読めば読むほどそう思えて仕方がない。

その要因としては登場する飼育員さんとそれを決断した責任者さんが常に動物たちのことを考え、誰一人身勝手な人がいないという点である。
こういう環境で動物たちに過ごしてほしい!○匹の家族構成で赤ちゃんを育てたい!
逆説的には究極の身勝手ではあるが、前述のように主体が動物たちにあるため奇跡が起きるのだと思う。

これを普通のサラリーマンに当てはめてみると商品として扱うものがぞんざいだったりして、それではお客さんも寄り付かないし喜んでくれないという例はそこかしこに見受けられる。

今現在、情熱を失っているサラリーマンに必要なのはこのような気持ちやスタンスなのではないか。
逆に、情熱や気持ちさえあればいくらでも仕事を楽しくできるということもいえると思う。

投稿者 19750311 日時 2015年11月30日


「動物翻訳家」を読んで

片野さんが本当に動物が好きで好きでしょうがないのがにじみ出ているような本で、またその幸せな気持ちを体験しに出かけないのは勿体ないですよって話かけられているような本でした。賃貸マンションの為自宅に動物はいませんが、一番上の子供が小学校に上がりワンワンニャンニャンから、犬や猫の種類も判別つく様になったり、2、3番目も楽しめる様で、何もない週末に水族館と交互に出かける事があります。

ガイドブックの様に使わせて頂いた
この本で登場する4つの動物園で最初に出てくる施設が、子供とのドライブを兼ねて遊びに行くにはちょうど良い所で、この本を読み出した週末に家族6人でペンペンに会いに行こうと出かけてみました。着いた時にはちょうど午後のごはん時間で、ペンギン達がとても活発な時間でした。あいにく、ペンギン達がプールから丘まで歩いていく時間まで見れませんでしたが、まだ4年しか経っていない施設とは思えないほど、丘には自然そのものの様な草木が生い茂り、巣箱もいくつも目に出来ました。

この本を読まなければ何も考えずに、氷がない所にもペンギンさんは住んでいるんだよという、浅い知識を元に子供と話ができなかったと思いますが、とても楽しく家族全員、また季節と時間を変えて、ペンギンに会いに来ようと話をしながら帰ってきました。

本当に楽しいですよっ

投稿者 dukka23 日時 2015年12月1日
まず目次をみてびっくり。

ペンギン
チンパンジー
アフリカハゲコウ
キリン

ただ動物の名前が並んでいるだけ!

でも読み終わるとこの目次を見るだけで、
これらの動物と飼育員の壮絶でドラマティックな
リアルストーリーが自然と思い浮かべられるようになりました。

「環境エンリッチメント」

というキーワードを中心にこの本は展開されていくのですが、
「動物園という限られたスペースで、
本来持っている野生動物の行動習慣や
その個体固有の好みをできるだけ満たし
イキイキとしてもらうために
住環境や周辺環境を整えていくこと。」
と私は理解しました。

この難しいところは「正解が無い」ということと、
「正解っぽいものであっても、その個体に合うかどうかはやってみないと分からない」
ということ。
この本には成功談が多く書かれていますが、失敗談も載っています。
でも失敗は氷山の一角なんだろうなと思います。

ただ、これは何も動物相手の仕事だけに限らず、
一般的なビジネス、
特に新しく立ち上げる事業については同じですよね。

この製品が市場に受け入れてくれるか?
トコトン考え突き詰めた仕様だが、
上手く売れてくれるのか・・・?

セオリーには則ったが、それでも売れてくれるかどうか分からない。
やってみなきゃ分からない。
やってみて凹む時もあれば、
めちゃくちゃに嬉しいこともある。
まさに仕事に真剣に向き合うからこそ得られる感覚だと思います。

この本に出てくる飼育員さんのすごいところは、
それらの仕事っぷりを当たり前のようにこなしているところ。
こういう「飼育員さんの中の飼育員さん」だから、
環境エンリッチ賞なんかも受賞できるのでしょうが、
それでも、自分の仕事に対する姿勢はどうか?
と見直し、省みるきっかけになりました。
(そういう意味では重版出来と同じ感覚で読めました)

飼育員さんたちはたまたま対象が「動物」ですが、
私は私のミッションとしての仕事と
毎日真剣に向き合っていきたいと思える気持ちを
思い出させてくれる本でした。