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第102回目(2019年10月)の課題本


10月課題図書

 

ケーキの切れない非行少年たち


ここのところ頭の使い方みたいな感じの本を読んでいるのですが(先月の課題図書もまさ

にそれですね)、その対比として頭を使わないってどういう感じなのか、ということも考

えなきゃ思考が深まらないので、こういう本も勉強になるんですよね。

 

で、この本もまた、お子さんをお持ちの人は必読だと思います。特に勉強が嫌い、できな

いというケースで、何をどうしたら更正させられるのかと悩んでいる人には朗報となる情

報が満載です。私も甥っ子が来た時にこの本があったら、教育のプロセスがもっと違った

モノになったはずで、そうしたらFランでもどこかの大学に引っかかっていたのかもと思

うと、人生を変えるひとつの大きな要素は情報なんだなと、改めて強く思った次第です。

 

認知力って自分にとっては当たり前過ぎて、疑問にも思わないものだったんですが、ここ

にポンコツの軽自動車と新車のベンツくらいの差があるとは思いもしませんでした。この

差を無視して学習プロセスを作ってもムダになるに決まっています。現在の文科省の作る

プログラムは、学生がみな同じ認知力を持っているという前提で作っているわけです。

(そうでなければ、画一的な指導なんてできません)そしてその枠から外れた人が切り捨

てられるようになっていて、それが最後は犯罪という形で一般市民に牙を剥くことになっ

ているという現実は、切なくやるせない気持ちにさせられます。

 

 【しょ~おんコメント】

10月優秀賞

 

今月はみなさん似たような視点で、似たようなことを書かれたので、選考に非常に

苦労しました。日本語として意味不明な投稿が減って来たので、以前に比べて読み

やすくなっているのが救いですかね。

 

あれこれ個別に指摘、ツッコミたいところはあるのですが、それをしているとキリが無い

ので、サクッと結果だけ書くと、一次審査を通過したのが、tajihiroさん、mkse22さん、

gogowestさんとtadanobuuenoさんでした。この4名の投稿をじっくりと読み直して、今月

tajihiroさんに差し上げることにします。おめでとうございます。

【頂いたコメント】

投稿者 ghc01447 日時 


7回目の投稿になります。よろしくお願い致します。
「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

非行に走る子供達は、ステレオタイプなイメージとして、どうしても「手がつけられないワル」とか「常に暴力的」な人物像を持ちますが、実際は、普段はおとなしかったり、見た目は好青年に思える者たちも、かなり多いと言うギャップに、まず、驚かされます。大人は、まず、この先入観や固定概念を取り除く必要があるのでしょう。

そして、その事実を知らない大人も多いと思います。事実、私自身もこの本を読むまでは、このギャップ、この事実は知り得ませんでした。

更に言うと、子供達のそばに居る、教師達や実の親でさえも知り得ていない現実があるのではないかと考えさせられます。厳しい事を言うならば、「教師も親も子供の教育について、再認識する必要がある」と言えるでしょう。

著者の分析でこの非行少年たちには「人間性の不足」さらには「脳の発達障害」が根底にあると言う話から、現代社会の問題も洗い出されているように思いました。具体的には、丸いケーキを3等分出来ないのは、その経験が無いからであり、ナイフを使った事が無いからであり、その発想を頭の中でイメージ出来ないからであり、これは一人の人間として生きて行くには、あまりに幼稚な、もしくは何もしていない生き方を選んでしまっている知的生命体を放棄している恐ろしさがあり、そのまま大人になると、当然ながら社会不適合者となり、当人も周囲の人間も困った状況になる最悪の道しか見えない恐ろしさを感じました。

また、嫌な話ですが、親が学校に教育問題で責任を問い、学校では教員の多忙・激務で子供達の一人一人まで面倒を見切れない現実もあり、周囲の大人達も子供の声が騒音に感じたり、公園でボール遊びが出来ない環境にしたり、近所付き合いが減り、核家族化が進み、何とも窮屈で、ゆとりや寛容さの無い世の中に突き進んでいる感があります。大人達が、もっとお互いに協力的・親和的・柔軟的な対応や行動が必要であるとも感じますが、これは中々に大変ですね。でも、この悪い流れは断ち切って、良い方向へ変えて行く啓蒙活動は必要でしょう。この点では今はネット社会で情報伝達の速さと広さは比べるまでもないほど便利さがあります。子供達の教育は他人の責任ではなく、自分の責任であると自覚を持ってもらうように頭の切り替えをネット等で進めて行きたいです。

この一種の現代的な発達の遅れた子供達を見つける方法が、IQ方式では見つけられず、潜在化している現状も知り、これは教育関係者および日本国政府も責任を以って学校教育方針・指針を改善して行く必要があると考えます。もちろん、この点でも他者任せで自分は関係ないと言う発想はあり得ません。私は教育関係者でもないですし、子供もいませんが、教育関係者に協力したり、支援したりする事は出来ます。政治家でも教育に力を入れて行く事をマニフェストにしている人がいます。このような方々を支えて行く事で協力・関与して行きたいと思います。

おそらく、直ぐに、簡単に、この問題が解決するとは思いませんが、子供を育てるのは大人達の全員の協力・応援・支援は必須と言って良いでしょう。特に少子高齢化はどんどん進んでいますし、次の未来を支える世代に的確にバトンを渡して繋げて行くのは大人の使命でもあると思います。教育にはお金も掛かります。失礼ながら発展途上国が発展に至らないのは、子供への教育・投資が出来ないからでもあります。日本はまだ何とか先進国の側に居ると思いますので、大きくは日本、いや、世界の為、小さくは自分自身の保身の為にも子供達に何らかの投資や貢献をして行くべきであると痛感致しました。

そんな教育へのお金の掛け方もセンスが問われる所ではあります。通常の学校の授業についていけない子供達への補習や脳の発達教育への投資も必要ですが、天才を育てる英才教育にも投資が必要と思います。個人的には前者9、後者1の割合ぐらいでお掛けを掛けて欲しいと考えます。理由は発達の遅れた子供達にも的確な教育をして隠れた能力を見つけたら、そこから新たな天才も生まれるかもしれないと考えるからです。具体的なお名前を出すと差し障りがあるかもしれませんが、山下清画伯や南方熊楠博士など、既存の学校教育では育たなかった人達だと思います。本当にこの本から教育の大切さを学ぶことが出来たと思います。

最後に余談ですが、前月の課題本との継続性も感じますし、良書ばかりをご紹介いただきまして、本当に読書が楽しく、毎月の課題本が待ち遠しくなりました。(もちろん、それ以外にも自分で本を選んで読んでおりますが、良書を自分で引き当てる率はまだまだ低いです…笑)感謝申し上げます。今後も、よろしくお願い致します。

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投稿者 tajihiro 日時 

 「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

 宮口幸治著の「ケーキの切れない非行少年たち」について、私なりに考えたことを以下にまとめてみたいと思います。

 まず、本書のテーマを一言で述べるならば「少年少女が、自立・自走できるようになるにはどうすればよいか?」であり、著者が一番言いたかったことは、『行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、そして自己洞察や葛藤もつことが必要』(P150)であり、押しつけでなく、少年自身自らが「気づきのスイッチ」を入れられるように、『少しでも多くの、かつ様々な気づきのある可能性のある場を提供し、スイッチを入れる機会に触れさせることが大切』(P151)と考えます。
 
 上記を踏まえ、以下の2点について新たな学びを得ました。

1. 『実は、非行少年たちは学ぶことに飢えていたのです』(P30)
2. 『褒める教育だけでは問題は解決しない』(P121)

1. 『実は、非行少年たちは学ぶことに飢えていたのです』(P30)
 私は、この一文を読んだとき、ショックを受けました。なぜならば、非行少年は、遊ぶこと、怠惰に過ごすことが大好きであり、何も考えない、流されて生きるものだと考えていたためです。我慢せず、後先のことも考えず、己の欲望のままに行動するのが彼らの典型だと考えていたからです。

 私は、過去、小中学校時代において、一般的な友達以外に、非行少年と呼ばれる面々との付き合いもありましたが、彼らの場合、例外なく、先の行動パターンに該当していました。よって、「学ぶことに飢えていた」ということに半信半疑でした。しかし、彼らのことを改めて振り返ってみると、怠惰に過ごしたいから、遊びたいからではなく、今、この瞬間、自分は何をどうしてよいか、自分は何をしたいのか、ただ分からなかっただけではないのかと思い直しました。

 彼らが、自立・自走できるようになるには、実は、国社算理英の五教科でなく、もっと、根っこ、土台ともいえる部分、著書でいうところの『認知機能』『感情統制』『融通』『不適切な自己評価』『対人スキル』(P47~P48)の部分を適切に支援することができれば、このような非行少年を未然に防ぐことができるのでは、と、その可能性を感じました。

 では、どうやったら、根っこの部分である上記を学ばせることができるか?また、学びたいという気にさせることが可能か?

 著書では、学びの材料として『コグトレ(認知機能強化トレーニング)』(P160)を紹介しています。また、時間捻出の一例として『朝の会の1日5分でできる』(P166)を提示しています。私もコグトレとはどういうものかを知るために、著者の「1日5分!教室で使えるコグトレ~困っている子どもを支援する認知トレーニング122」を購入して、「①注意力をつけるトレーニング」や「②感情をうまくコントロールできるトレーニング」などをチャレンジしてみましたが、難しいとか面倒くさいとかの要素はなく、この著書であれば、一日で一番、頭が冴えている時間帯、朝9時~10時のうちの15分くらいでやれば、十分に『認知機能』『感情統制』『融通』『不適切な自己評価』『対人スキル』(P47~P48)を向上させることが可能であると思いました。あと、これをやってみての感想ですが、いわゆる「学習」という感じでなく、むしろ、ゲームという感覚でできるため、成績が悪く劣等感を持つ少年にありがちな、『できなくて傷ついた』(P166)という感情は発生しないと思います。それらを一問一問クリアし、そして、一つずつ認知機能などの苦手分野を克服し、そして自信を得て、自立・自走ができれば、おのずと五教科や、それ以外の課題についても自らの意志で克服が可能になるのでは、と考えた次第です。

 アメリカのウィリアム・アーサー・ウォード牧師が、「普通の教師は言わなければならないことを喋る。良い教師はわかりやすいように解説する。優れた教師は自らやってみせる。そして、本当に偉大な教師というのは生徒の心に火を灯す。」という言葉を残しましたが、この学びに飢えた「生徒の心に火を灯す」というエッセンスを「コグトレ」は十分に持っていると思います。

2. 『褒める教育だけでは問題は解決しない』(P121)
 この一文を読み、言われてみれば、なるほど、と思いました。

 なぜ、なるほどと思ったのか?

 我々40歳代より下の世代では、褒められるのが当たり前になって育成されてきているような気がしているからです。きついことは言わない、互いの良いところを見つけ、リスペクトし、褒め合うことが、コミュニケーション構築の基本である、と考えている節があるからです。

 では、なぜ、このような考え方が現在の主流になっているのか?

 私が推測するに、欧米流の「褒めて育てる」を日本が歪んだ形で導入したからではないかと推測しております。日本人特有の暗黙の了解やチーム・組織で動く日本的考え方が悪い意味で影響しているのでは、と。

 欧米の場合、子供を厳しく育てつつも、良いところは良いで、厳しさと褒める行為を分けることが基本とされています。なぜか?日本的な以心伝心的なものを持ち合わせていないからです。欧米の場合、夫婦は、のべつ「あなた、素敵よ、愛してる!」などとよく言い合います。日本では考えられないことです。しかし、欧米人の場合、それを言わないと愛情を感じられない。日本人には以心伝心的一体感が形成されているため、言葉なしで通じます。その文化の根底の違いを認識せずして「褒めて育てる」を日本的独自な歪みを加えたことで、上記のような問題を引き起こしたのではないかと推測します。

 例えば、子どもに宿題をさせたいとき、どのようにして宿題をするよう促すか?まず「食べなさい」と命じるのは欧米も日本も同じでしょう。しかし、それでも宿題をしない場合、欧米の場合、だんだん語調を強め「宿題しなさい!」と強硬に出ます。ところが日本人の親は、お願い口調で「宿題して!」「お願いだから宿題して!」となり、さらには「今日はしなくてよいから明日はするよね?」と譲歩し、それでもしない場合、翻って「もういい!」と匙を投げる。以心伝心的に心が通じ合えるから、最初はお願い口調でいき、それでも通じないとなったら、これまでの対応と一変して問題を放り投げるのです。

 著者は『子どもの問題を先送りにしているだけ』(P123)という言い方をしていますが、まさにその通りであり、改めて著書を通じて上記の気付きを得ました。

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 最後に、本書を通し、考えたことを記します。「末学」と「本学」です。まず「末学」ですが、辞書を引くと「重要ではない枝葉の学問」とあります。要は、手段を学ぶことです。例えば、部下への褒め方の場合、いくつかテクニックがあり、それらを使いこなすことでいろいろな褒め方を学べるでしょう。次に「本学」ですが、これは人が幸せに生きて上で必要とする能力、人格形成に関する学びです。先の「褒め方」を末学とすれば「なぜ褒めるのかを学ぶこと」が本学です。末学だけしか知らないと「褒める」という行動そのものが目的となり、なぜ、褒めるのかの本質を見失ってしまいます。
 
 なぜ、学校で五教科を学ぶのか?そもそも、五教科のベースとなる部分は何なのか?将来的に、五教科を学ぶことにより何を得ることができるのか?もし、小学校低学年の段階で、五教科を上手く習得できない場合、何をどうすれば、習得が可能になるのか?

 「末学」と「本学」をしっかり理解し、『困っている子ども』(P179)が、少なからず発しているサインを、我々大人は適切に受け止め、正しい方向に導く義務があること、そもそも我々大人自身も、子供にとって正しい見本となるべく、普段から己を律することの重要性を学びました。また、上記の内容は「基本編」「コミュニケーション編」で教えていただいた内容がふんだんに織り込まれており、今回、その本質、エッセンスを十分に得ることができたことを改めて感謝したいと思います。

 以上、課題図書の私なりの考察を終わります。今回も非常に有益で価値のある本をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 


 学習塾講師の自分は、今月の課題図書を読み、自分の担当する小1・小2クラスの授業を見つめ直した。
小1・小2クラスに絞った理由は、著者の宮口氏が「非行少年の問題行動が現れ始めるのが小学2年生」と指摘していたからだ(P.94)。自分の授業を分析し、目の前にいる子供達に何が貢献できるか考えた。結果、驚くべき三点の気付きがあった。

1.漢字フラッシュカード
 (残念ながら私でなく)自分の塾の小1・小2クラスの国語の授業で、教師が実践していたことを紹介する。
国語のM先生は、60分授業のうち最初の5分で「漢字フラッシュカード」を用いている。やり方はこうだ。
まず先生が「鯨」と書かれた漢字カードを子供達に見せる。小1・小2の子供達には、随分難しい漢字に思える。当然、子供達は読めずに首をかしげている。すると先生はカードをパッと裏返す。裏には、クジラの可愛いイラストが描かれている。先生がイラストを見せるのは、ほんの0.5秒程度だ。
先生がカードを再び表(漢字「鯨」の面)に戻すと、子供達は元気な声で「くじら~!」と答える。
この調子で先生は20枚程の難しい漢字の読み方を子供達にデモンストレーションする。「4~5回ほど繰り返せば、裏のイラストを見せなくても、彼らは漢字が読めるようになる」そうである。

 これまで私は、この授業を見て「小1・小2の段階で、難しい漢字をゲーム感覚で覚えられて、楽しそう」としか考えていなかった。だが課題図書を読み、この授業の神髄を初めて理解した。M先生はフラッシュカードで漢字を教えていたのでない。子供達のワーキングメモリ(情報を一時的に保持する脳機能)を鍛えていたのだ。

 「ワーキングメモリが低い子は、IQが高くとも、授業についていけなくなる」という(P.159)。
2年前の課題図書『脳が壊れた』の続編『脳は回復する』でも、脳梗塞により高次脳機能障害を発症した著者が「作業記憶(つまりワーキングメモリ)の低下」で苦しんだ、と記述している。
電話でメモをとる、レジの会計で金額を聞き取る等、ワーキングメモリは生活の全ての面で不可欠であり、より高次元の勉強や思考の基盤となる。

 M先生のように小1・小2の段階で、ワーキングメモリ訓練のため、私達教師が出来ることは多い。
今後も自分の授業で意識して実践したい。


2.絵本読み

 著者の宮口氏が出版したドリル『教室で使えるコグトレ』には、絵を見て考えさせるワークがある。
例えば、女の子が泣いている絵が載っており、「なぜ泣いているのか」「どんな言葉をかければ良いか」を考える、といった具合だ。
 なんと私は、既にこの訓練を自分の授業(小学校全学年)で実践していたことに気付いた。それは「絵本の読み聞かせ」である。
 子供達の絵本読みは、やがて高学年になり、(絵のない)文字だけの本を好きになるための通過点くらいにしか、自分は考えていなかった。
だが絵本には、文字だけの本にない長所-言葉に頼らず「絵を見て」登場人物の心情や物語の状況を視覚的に想像できること-がある。絵本作家達は、実に様々な工夫を凝らしている。子供達は、絵の中の小さな変化(木にリスが隠れている、床に眼鏡が落ちている)に気付き、楽しんでいる。絵本は感性や想像力、注意力も育ててくれる。
 絵本の読み聞かせがコグトレ(認知能力訓練)に通じており、大きな意味があるという気付きも、大きな収穫だった。


3.良い指示とは
 「“身の回りを整理整頓しなさい”と言っても、小学校低学年の子供達には通じません。でも“自分の机の周りのゴミを10個拾いなさい”と言えば、彼らはきちんとできます」
…これは小学校教師が肝に銘じておくべき鉄則だと、大学の教職授業で聞いた。

 私自身、曖昧な指示をしたせいで、一部の中学生が夏休みの宿題を提出しなかった、という失敗をしたばかりだ。悪いのは生徒ではなく教師の指示だと、常に反省している。

 ダメ上司・ダメ教師とは、適切な指示ができない者を言う。言葉一つ変えれば、小1・小2の子供達も指示通りに行動できる。
 これは相手が子供の場合に限らない。先日、真井花先生のメルマガで「夫に家事のやり方を指示しても、なかなか伝わらない妻の苦労」が言及されていた。オフィスでも「自分が言った通りに部下が仕事をしない」という事は、日常的に起こる得る。

 子供に指示をする際、作業を細かく分け手順を明快にし、覚えやすい数字・キャッチーな言葉を使う(例:おかしの約束=「災害で避難する際は押さない・かけない・しゃべらない」)ことが望ましい。これは大人が相手でも同様だ。

 以前の課題図書『異文化理解力』を応用し、周囲の人を能力や特徴によりマッピングしたい。情報をインプットする際、右脳を使う人・左脳を使う人に二分されるという話も聞く。文、または写真やイラストを使うべきか?相手により言葉と対応を変え、良い指示ができる教師・上司でありたい。


まとめ
 「知は力、無知は罪」-しょうおん先生がセミナーで良く引用される格言である。
字面だけ追うと「知能の低い人が、自分の行為の結果や被害者の気持ちを想像できず、犯罪に手を染める」という意味に取れそうである。

 だがその解釈は大間違いである。課題図書は、少年院や刑務所に入る人達が、罪人でなく「弱者」だと指摘する。真の罪人とは、弱者に対して何の対策もとらず、犯罪者になるまで放置する社会を作った私達自身だと、著者は突きつける。

 凶悪な犯罪事件が起こると、私達は「何でこんな犯罪をするのか?」と理解に苦しみがちだ。
犯罪者達を「自分とかけ離れた世界の人」と定義し放置するだけでは、彼らとの乖離・分断がますます進むだけで何の解決にもならない。

 歴史的に見ると、人類は無知であるが故に、魔女裁判やユダヤ人虐殺、環境破壊や戦争を起こしてきた。それと同レベルで、目の前の弱者を見て見ぬふりをし放置することも罪である。

 勉強をして「自分が賢くなった!」と気づくことは楽しい。楽しくなると、ますます勉強したくなる。そうして学ぶうちに、広い世界の中での自分の立ち位置に気付くし、他者の気持ちや社会の利益を考えられるようになる。こうした育った人たちが、次の若い世代に「知ること・学ぶことの喜び」を与える。この好循環を作ることに、自分がますます貢献したいという決意を新たにした。

投稿者 masa3843 日時 


第1章に、本書の目的は
「犯罪者を納税者に変えて社会を豊かにすること」
とあります。
その目的の大きさに最初は驚きましたが、非行化した少年たちが共通して抱える苦悩や非行過程を知り、
こうした知識が多くの人に共有されれば、犯罪者を納税者に変えていくことも夢ではないように思えました。

本書の中で印象的だったのは、多くの非行少年に共通している「認知能力の欠如」という特徴です。
私は今まで、非行少年や罪を犯す少年たちに共通しているのは、
忍耐力の低いことや感情の抑制が効かないことなど、内面的な要素だと思い込んでいました。

しかしながら、本書のP98に解説されているように、
 1次障害:障害自体
 2次障害:周囲からの無理解
 3次障害:矯正施設での無理解
 4次障害:社会での無理解
という負の連鎖が、非行少年を生んでいるというのです。

ここでいう1次障害が認知能力の欠如であり、知的障害であるというのが著者の主張です。
ただ、知的障害というレベルでなくても、平均よりも認知能力が低く、
それを本人の努力不足ということで責められてしまう環境に置かれたならば、
障害者でなくとも、上記の負の連鎖がスタートしてしまうのではないか。
私はそのような懸念を持ちました。

認知能力が平均よりも低い子どもが小学校に入学し、義務教育課程に入った場合、
集団で教育を受け、一律で授業が進む環境に強制的に置かれることになります。
学校生活の中で、その子はどうなっていくのでしょうか。
そういった子をフォローする体制が学校で取られるのでしょうか。
そういった子を適切にフォローできる親がいるのでしょうか。

私自身も含めて、子どもの努力不足を責め、「もっと勉強しなさい!」という的外れな態度を取ってしまう親が多いように思います。

親や学校からこういった態度を取られてしまうと、子どもは勉強ができないことを自身の努力不足を原因にするしかなくなります。
少なくとも、自分は他の人よりも認知能力が低いから仕方ない、と思える子どもはいないでしょう。
そうして自分を責める子どもが行き着く先は、やはり犯罪などの非行化ということになってしまう気がします。


本書では、非行少年たちが変わろうとするときの共通点として、
「自己への気づき」と「自己評価の向上」を挙げています。

一方で、ただ単に「褒める」ことや「話を聞いてあげる」教育を明確に否定しています。
こうしたアプローチでは、根本的な原因となっている認知能力の向上に寄与しないからです。

認知能力向上のためには、認知能力を強化するトレーニング(コグトレ)が重要であるとする本書の主張は、とても納得性の高いものでした。

根拠のない一般論として、非行少年達に不足しているのは、家族や周囲の愛情だという思い込みがあります。
もちろん、そういった側面もあるかもしれません。
教育以前に、虐待などによって精神的に大きな傷を負ってしまっている子もいるとは思います。

しかしながら、認知機能が低い子どもに対して必要なのは、
こうした子ども達が困っている状況とその理由を正確に理解すること、そして適切な支援です。
そのためには、本書の内容を多くの大人達が知識として知っておく必要があるでしょう。

病名のつかない、「クラスの下から5人」の子ども達。
1クラス35人のうち5人といえば、14%の確率です。
自分の子どもや孫が、こうした子どもにならないと何故言えるでしょうか。
隣人の子どもが、こうした子どもにならないと何故言えるでしょうか。

学校教育に直接携わる仕事ではありませんが、何かできることはないか、自分事として考えたいと思わせてくれた良書でした。


今月も素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございました。

投稿者 2345678 日時 


今月の課題図書は、今そしてこれから私が何を目指して生きていくのかを再確認する機会を与えていただきました。

 精神疾患のある高齢者の方が、勤務している事業所を利用されることが多くなってきました。
その方たちが増えるにつれ、どう対応してよいのかが分からない。
認知症高齢者の方と対応可能な事業所にも関わらず、統合失調症等の精神疾患についての知識が不足していると感じて、国家資格を目指したのが今年の4月です。

この書籍に出会うまでは、教科書の中の文字として更生保護制度における関係機関の一つとして少年院があり、少年院法にはその種別として
第一種(心身に著しい障害がないおおむね12歳以上23歳未満の者を収容)、
第二種(心身に著しい障害がない犯罪傾向の進んだ、おおむね16歳以上23歳未満の者を収容)、
第三種(心身に著しい障害があるおおむね12歳以上26歳未満の者を収容)、
第四種(少年院において刑の失効を受ける者を収容する)がある。
この程度の認識しかありませんでした。試験対策のみの知識。

しかし現実の少年院で起きている事実を知ることで、
自分が何のために勉強しているのか、これでよいのかと振り返ることが多くなりました。


本書図1-1、図1-2を観た時にすぐ感じたことは、認知症高齢者の方が見えている世界を体験したことです。その視界の狭さや歪んで見えるあるいは、実際には無い物が見えているのは、その当事者にとってはどれほど苦しいか、またそれを周囲の人が理解していない場合の生活のしづらさは大変なものになります。
そういう生き辛さのサインを小学校、中学校の頃から出し始めている。そこに周囲の私たちが気づかないでいる。

精神疾患のサポートでは早期発見・早期治療が謳われていますが、少年期に発見し治療となるケースがどれだけあるのか。著者は、非行少年たちは、精神科病院にはまず来ないと言われていますが、11月からの実習先が精神科病院なので一度確認をします。

本書では軽度知的障害の方が人口の14%という。内閣府の資料平成30年度版によれば、障害者を3区分し、人口千人当たりの人数でみると、身体障害者は34人、知的障害者は9人、精神障害者は31人となる。複数の障害を併せ持つ者もいるため、単純な合計にはならないものの、国民のおよそ7.4%が何らかの障害を有していることになります。
その中でも精神障害者は、65歳以上の者の割合が高い。障害者の中には健常人と一見すると変わらない人も多くおられます。
障害区分で軽度と言われる方ほど、自ら困っていると自分から支援を求めない。支援につながりにくいのも事実だと思います。
だからこそ私が実現するのは、彼らを一人にせず、彼らが安心して過ごせる居場所づくりをすること。
これが明確になりました。ありがとうございました。

投稿者 ktera1123 日時 


「ケーキの切れない非行少年たち」

人は変われるのか。

本文中に「変わろうとしたきっかけはなにか。」の集計結果をまとめた結果が、「自己への気付きがあること。」「自己評価が向上すること。」の2つとあった。(第七章P149)

昔、自信をなくしていろいろと思い悩んでいたころに、今までの自分のありかたがどうだったか振り返ってみて、不足していると思われることがなにか考えてみたことがあった。過去を思い出して振り返ることもしてみたこともあったが、一人で思い悩んでいても埒が明かなかったので、インターネットの力を利用していろいろ調べた結果、いろいろなメルマガがあることを知り、購読し始めたことがきっかけとなり、色々と行動した結果、色々な変化があり今に至っています。この時の行動を振り返ってみても「自己への気付き」で自分に不足していることを知り、以前からのしがらみのある人間関係により固定されていた「自己評価」が、行動したことにより、まっさらな関係から構築した人間関係により、「自己評価が向上」していったことにより、人生が変化していったことがありました。

程度の違いはあれども、本文中に書かれていた少年たちと同様に「変わるきっかけ」を求めて、もがき苦しんでいる人は以前の自分がそうであったようにいるのは、事実なようです。きっかけは何であれ、私にとって「コグトレ」に相当したものは「科学では割り切れない怪しいもの」であったようです。認知機能を構成する五つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応する「覚える」「数える」「写す」「見つける」「想像する」に相当する怪しいものがなにに該当するかはわかりませんが、良き師、良き友に恵まれる機会を頂きありがとうございました。

 人は変わることができるのでしょう。きっかけを求め、模索して暗闇の中をさすらった経験があり、ふとしたきっかけをもとに、変わることのできたことは、今振り返って見ると、幸せに感じています。変わるきっかけを求めて、さすらっている人に、程度の違いはあれども、なんらかの示唆を与えられる人になれればと感じています。

投稿者 gizumo 日時 


「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

 まず、この本は気になっていた本で課題図書になって他の方の感想や意見が聞けることをとても嬉しく思っています。

 この本を読んで考えたのは「人間に違いはないのかもしれない」ということです。完璧、パーフェクトな人間はおらず皆、何かしらのハンディを抱えていて、大きくとらえれば性格や体型、障害さえも大小はあるものの誤差であり個性なのではないかと感じました。
 そして、理想論ではありますがいろんな人間がいることを認め助け合って補いあってお互いがより良く暮らせるようにできればと感じています。やはり、一番大切になるのは、相手を理解する気持ちではないでしょうか?
 少年院で過ごすこととなった、幼い頃に見切られ将来や希望をなくし、さらに大きくなっても行き場がないゆえに罪をおかす…、この意味するものはとても社会として見過ごせないことをあらためて気づかされました。特に、たまたま知的な部分でのハンディが見過ごされフォローの無いままに罪を犯してしまうことは本書の後半でものべられていたように、社会的にも大きな損失であり悲しむべきことだと思います。
 現在でもいろいろな事件が起こっており、原因は複雑な要因が絡み合っているかも知れませんが、恐らく「相手を理解する」という気持ちの欠如が引き起こしている部分が少なからずあるのかも知れないと考えさせられました。自分自身の生活や行動を振り返ってみてまずこの事を実行していかねばと思うと共に、その前に自分を理解することも必要なのではと、大きな課題をいただいたような感想を持った読了でした。
ありがとうございました。

投稿者 gogowest 日時 

「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

本書を読んで、非行少年とその非行の原因である知的障害、発達障害の状況に驚きました。
特に、非行少年が書き写した複雑な図形が元の図形と大きく異なっていることは衝撃的でした。確かに認知機能に問題があるかもと思わせる衝撃の事実でした。ケーキを三等分するという課題に、中高生であっても、答えることができないということからも、認知機能が問題なのは明らかです。世のなかのことが、ゆがんでしか見えないのならば、正常な反応ができなくなるのも、納得できます。

この本全体のなかで、感じることなのですが、この著者の問題解決のプロセスが素晴らしいです。問題の本質を探して対処しようとしています。本質に迫って、解決の糸口をつかんでいます。
著者は非行少年の行動をよく観察・調査し、非行が起きる原因をさがします。そして認知する力が未発達であることを突き詰めて、さらにそれを改善するトレーニング方法の作成にまで、繋げていきます。

不思議なのは、他の少年院の教官たちの反応です。非行少年たちには認知機能に問題があるようだという著者の発見以前にも、なにか気が付いていていいはずです。長く非行少年と接していながら、少年たちの特徴に気が付かなかったのでしょうか。本ではこの部分は触れられていませんが、他の職員も大なり小なり、気づいているのでしょうが、気づいたその後の行動が、著者と他の教官たちで大きく異なっていたのではないかと思います。日々のルーチン的な仕事の中に埋没して、本当の意味で改善、改革に取り組むことが、難しくなっているのかもしれません。このことは後ろのほうで出てくる学校コンサルテーションのなかで行われている紋切りフレーズの話などにもつながっていると思います。
少年たちに向き立って、有効で具体的な改善方法を探そうとしている筆者と周りの教官や心理士との間の行動にギャップがあるようです。これは著者の宮口さんの職業意識の高さからくるものであると思います。

本当の意味での教育者として、問題のある少年に向き合い、良い解決策を探そうとする姿勢と、ルーチンワークのようにこなそうとする姿勢では、大きく乖離しています。
更生した少年が社会の役に立つ、そしてその少年たちが納税して社会を豊かにするというビジョンは、すべて著者の教育者としての職業意識の高さから出てくるように思います。「犯罪者を納税者に」という言葉は最初見た時には、唐突なビジョンのように感じましたが、著者の一連の行動の背後にあるものを考えたら自然な目的なのでしょう。

認知機能に問題がある発達障害や知的障害をもった少年たちが周囲のサポートが得られないで、放置されると、問題行動につながる可能性があるということを認識したうえで、著者は、非行少年に共通する特徴として、5点セット+1を挙げています。著者は、それぞれの特徴から、各特徴からでてくる子供たちが引き起こす誤解やそこから生まれる問題、そのときの子供たちの気持ちまで、しっかり受け止めて分析をして解説しています。著者の現場感覚が良くこの分析には表れていると思います。
この特徴の5点セットはひっくり返すと、「現実を正確に把握する」「物事の成り行きを想像することができる、先を見る力」「計画を立てて実行する」「感情の適切なコントロール」「人との良好なコミュニケーション能力」となり、社会で生きていくための必須の能力です。

かつては軽度知的障害、境界知能に分類されていた人が14パーセントほどいて、今はごく普通に、社会の中で生活していて、そしてその人々は特にサポートされるでもないという事実にも驚きました。たしかに大人の一般社会でも、時間を守れない、締め切りを守れない、約束を守れない、ルールを守れないというひとが存在しています。そんな人から迷惑を受けるたびに、その人は良心が眠っているのかと思っていたのですが、認知に問題があるのではないかと思いました。そういった人は一つ一つの行動とその結果を指摘すると、一応理解したようなふりをするのですが、本質的には理解が及んでいないようにみえるのです。理解する力が不十分だから、自分の一連の行動の結果を考え、その後の行動にまで、思いがいかないのでしょう。知的障害というのは、非行少年だけでなく、すでに広く社会問題であり良くないニュースの背後には、こういった問題があるケースが多いと推察します。

こういう事態になる前に、最初の兆候が出る幼少期におけるサポートとトレーニングは重要なのだと思います。それが著者の主張のように、国全体を豊かにすることにつながるのは明らかです。

良書をありがとうございました。

投稿者 BruceLee 日時 

 

「我々は子供たちをどうサポートすべきか?」

本書の目的は以下である。

「どうすれば非行を防げるのか。非行化した少年たちに対しては、どのような教育が効果があるのか。そして今、同じようなリスクをもっている子どもたちにどのような教育ができるのか。そうした問題意識を共有し、加害少年への怒りを彼らへの同情に変えること、それによって少年非行による被害者を減らすこと、犯罪者を納税者に変えて社会を豊かにすること、それが本書の目的です」

個人的に最も気に入ったのが、この「犯罪者を納税者に変える」という一文だ。何故なら非行少年の更生に、現在全く関係も関心も無い人(含自分)にとっての他人事を「自分事」に変える一文だから。

では、非行少年を更生させるにはどうしたら良いのか?ヒントになる一文がある。

「実は、非行少年たちは学ぶことに飢えていたのです。認められることに飢えていたのです。やり方次第で、非行少年たちでも幾らでも変わる可能性があるのです」

本書を読むと、非行少年自身も非行少年になりたくてなった訳ではない実態が分かる。言ってみれば「皆に付いていけなかったから」的な背景があるようだ。ではそういう状況を生まないためには我々に何ができるのか?非行少年となってしまった人間の更生は著者のようなプロに任せ、素人の自分が口を出すべきではないだろう。なので子を持つ一人の親として非行に走ってない子供について考えてみたい。その観点で考えると強く感じたのは、

「線引きが難しい」

という事だ。何の線引きか?と言えば以下である。

A君:単に怠けて勉強をさぼり付いていけない子
B君:持っって生まれた性格・性質により付いていけない子

本書が斬新なのは、今までの世の中の風潮は「付いていけない子」とはA君という認識だった。が、いやいやB君も存在するのだ、と明確化した事だろう。当人はやりたくても付いていけない。それは悔しい、苦しい状況だろう。が、親や周囲としては、ちょっと勉強が出来ないからって「いいよ、大丈夫だよ~」なんて言うのは甘やかしでしかない。だから「頑張れ!勉強しろ!」と叱咤激励する。それはA君に対しては意味がある。が、B君にはどうか?更に窮地に追い詰める事になるのではないか?とは言え親としては期待もあるから応援したい。では、どこまで叱咤激励すべきか?どこからは何も言わず見守るべきなのか?我が家の場合、現在長男は大学生、次男は高校生なのだが、幼い頃にテストや通信表が悪かった時は「テメー、舐めてんのか?しっかり勉強しろや!」の恫喝でここまで来れた(笑) が、もし我が子がB君だったら?その「加減」の見極め、線引は実に難しい。言って見れば被災者への「頑張れ!」と同じかもしれない。

本書に、

「想像力が弱ければ努力できない」

とあるがその通りだと思う。「ケーキの(均等に)切れない」が本書のタイトルだが、数学的問題として均等に切れ、という指示だと切れないが、勝手な想像だが以下のような問い掛けだったらどうだろう?

「大好きな友達、異性を数人思い浮かべてみて。その人たちが「あいつの方が大きい」とか、後でケンカにならないように、皆のサイズが同じになるように切って欲しいんだけど、どう切る?」

こう言われたら当人は友達、異性の一人一人の顔を思い浮かべながらケーキが均等になるよう努力するのではなかろうか?

ところで、ウチの次男が高校2年になった頃「○○大学に行きたい」と明確に告げてきた。自分的には(しょうおんさんがメルマガでも書いていたが)寿司職人にでもなって、ニューヨークかパリに出店して活躍する人生も面白いだろうな~と思っていた。そうなれば自分も定年後はそこに行き、店を手伝いながら優雅な海外老後生活~、なんて想像しながら(笑)

が、当人は具体的な大学名と共にそこに進学したいと言ってきた。が、現在の次男の偏差値とその大学の偏差値には乖離がある。部活動に時間を取られる事もあり、高校の授業だけでは難しいと考え塾に通わせている。高校生活、部活、塾、そして趣味のスマホと睡眠時間。限られた時間をどう分配するかが当人の課題となっているようだが、以降自分は「勉強しろ」と言った事は無い。何故なら当人が自分の望みを叶えるため、やるべき事を既に理解したからだ。後は当人の自分との闘いである。

つまり「やりたいことが明確になれば他者の指示が無くても自らやる」のではないか?勿論、人生はやりたい事だけやっていれば良い訳ではない。が、まず「当人のやりたい事は何なのか?」を把握する事が重要なのではないか?「やりたい!」という気持ちを大切にしてあげたい。自分にもある。

「あの女性と・・・」

って、こんな事言ってるから、非行中年なんだろうな~(笑)
 

投稿者 harmony0328 日時 

 

私は本書を読んで平成から令和に御代替わりし、日本の学校教育、更に日本社会のあり方が過渡期を迎えているのではないかと考えた。

日本社会では戦後、高度成長期を迎え、学校で良い成績をとり偏差値の高い大学に入学し、大企業に就職して出世するのがエリートで人生ゲームの勝ち組とされた価値観が少子高齢化時代に突入し、一流の大企業でさえ終身雇用が難しいという時期に来て、崩れつつある。
その様な背景で、義務教育において今まではクラスで優秀な生徒にスポットが当たり、成績下位の生徒は居心地の悪い思いをしてきたと思うが、これからは成績下位の生徒にこそスポットを当てるべきだと思う。
そして、親や教師など、周りの大人が積極的に教科教育以外の支援をその生徒たちに行えば、達成感を感じた生徒たちはもっと勉強に励むモチベーションが生まれると思う。
先月の課題図書にもあったように現在の子どもたちが大人になる時期のAI導入に備え、読解力をつけておく必要がある今、読解力に必要な認知機能を強化することは急務だと思う。
本書ではコグトレの名前の由来について記載がなかったので、インターネットで「コグトレ研究会」で検索してみた。認知○○トレーニング(Cognitive○○Training)の略称で3つのトレーニング(身体面・学習面・社会面)で構成されているとある。
実際それぞれのトレーニングを画面で見てみると特に、身体面のトレーニングについては私自身がトレーニングしたいと思うほどよく出来ており、どんな人間も正しくトレーニングすれば能力を高めることができるのだなと明るい気持ちになった。
ぜひ、小学校でコグトレを広めて欲しいと思う。広まることで、生徒の認知機能が強化できることに加え、コグトレの知識がある人は連日のようにマスコミで報道される殺人や、虐待の事件についての原因が推測出来て、過度に不安になることがなくなり、自分の周りで同じ様に問題がありそうな人がいればケースバイケースでアドバイスしたりするなどして、防犯につながると思う。

日本では個人主義を利己主義と履き違い、自分が良ければそれで良いという社会の空気の中で本来、支援されなければならない人が放置され、行き場を失った彼らが残虐な犯罪をして社会に大きなダメージを与え、結局、彼らを放置したつけを払わされていると感じる。
本書は司法分野では、「どうしてやったか」は詳しく解明するが、その少年たちの再非行をどうしたら防げるのか」といった具体的な処遇案はほとんど語られないと指摘している。
ぜひ予防策について明確にしてほしいと思う。予防策が分かれば、再犯を防げるし、これから起こりうる犯罪にも対応できると思う。更に、矯正施設等で行われている性加害者への治療プログラム等、現場も専門家である著者も明らかに適切と思われないところがあるという欧米のプログラムを使用していると指摘している。この分野までも日本主導ではないところがあるのかと残念に思うと同時に、対処療法的な運営ではなく、ぜひ、コグトレの様なより適切なプログラムを導入して成果を上げて欲しい。それこそが非行少年を更生させて自立させる為に一番重要で行政がやるべきことだと思う。

 現在82歳になる私の父親は4歳の時に母親を亡くしているが、兄弟も多く、大家族に囲まれていたので、母親代わりの人間が側におり、愛着障害にはならず、私も父から深い愛情を持って育てられた。
今は核家族化が進み、本書で非行化のリスクがある軽度の障害児童、虐待の親子も孤立化している場合があるので、私の父の場合の大家族内での世話に代わるものがコミュニティーでの支援だと思う。
課題図書の題名「ケーキを着てない非行少年たち」が意味しているのは表の意味は非行少年たちの認知機能の弱さだと思うが、そういう少年たちは誕生日やクリスマスにホールケーキを買ってきて家族で食べた体験がないことも暗示していると解釈した。
日本は犯罪を減らす為に、他人に無関心な社会からコミュニティーで適度な距離感を保ちつつお互いを支え合う社会になる必要があるのではないか。
今すぐ出来る自分の行動としてはしょーおん先生のメルマガでご紹介のあったホームレス支援団体のHOMEDOORへの寄付を申込んだ。
より良い社会にする為に、自分が出来る事を考えて少しずつでも努力して行こうと改めて決意した。
 

投稿者 3939 日時 

 

「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

『障害をもった子どもたちは本来、大切に守り育てないといけない存在です』

この本で一番印象に残った言葉である。
なぜか。この言葉を守るために著者の強い思いが詰まった本だと感じたからだ。

現在、福祉施設で働いており、障害をもった少年たちと触れる機会は全くないが、40代以上になると、障害者と関わりを持つことがある。普段は65歳以上を対象としているのだが、相談内容によっては家族の支援を行う必要がある支援者もいる。いわゆる8050問題である。8050問題とは、親の資産で生活している子で構成されており、それが社会的孤立・経済的困窮・住居問題・要介護状態といった様々な多問題を引き起こすと言われている。
その多くの子の認知機能は低く、コミュニケーション能力が欠如し、感情統制がとれないため、支援に支障をきたし解決まで多くの時間を要す場合が少なくない。

これを踏まえた上で、本書で学んだことを自分なりに具体的に何ができるかを考えてみた。

1つ目は、相手とのコミュニケーションである。
2つ目は、支援者を応援する寄付行為である。

1つ目の相手とのコミュニケーション。
対人関係を築くコミュニケーションの土台である認知機能が低下していると、世の中が歪んで見えたり、聞こえたりしている世界のため、こちらの世界とすり合わせる行為が、従来のコミュニケーションでは疎通するはずもない。そのため、どのような方法が有効なのかを考える良い契機となり、これからのコミュニケーションに良い影響を与えられると考えている。

2つ目の支援者を応援する寄付行為。
『障害をもった子どもたちも大切に守り育てる』ために、著者が推奨する予防に有効なコグトレを全小学校へ実施することを義務化、加えて年齢別、定期的に知能テストを実施し支援が必要な子どもたちを速やかに適正な支援機関へつなぎ、早期に犯罪抑止を行う方法を提案する。費用が必要であるため、個人で行える範囲で寄付行為を習慣化させ、寄付額を増やす。犯罪者が納税者へと変わり、安心・安定した世の中を望むため、出来る限り行なっていく。結果、みんなの幸福につながればと思う。

今回も素晴らしい図書をご紹介いただき、ありがとうございました。
 

 

投稿者 shinwa511 日時 
人が罪を犯したら、更生が求められます。更生のためには、自分の行った犯罪としっかりと向き合うこと、被害を受けた人のことを考えて内省することなど自己洞察が必要ですが、本書で紹介されている罪を犯した非行少年たちには、その力がありません。
これが「反省以前の問題」なのです。

更生のための教育や、反省すること以前に認知が歪んでしまった非行少年たちを普通の人生を送れるようにするには、何かが不足しているのです。

本書の表紙には、“非行少年が三等分したケーキの図”が描かれています。丸い円が描かれた紙があり、「ここに丸いケーキがあります。3人で食べるとしたらどうやって切りますか?みなが平等になるように切ってください」と出題された罪を犯した非行少年たちの中には、認知力の弱さから、このようにケーキを等分に切れない人が少なくないのです。

そもそも認知とは、広辞苑によると①物事をはっきりと知ること、または②生物が対象の知識を得るために、外部の情報を能動的に収集し、それを知覚・記憶し、さらに推理・判断を加えて処理する過程と定義されています。

ニューヨーク大学リハビリテーション医学ラスク研究所が提唱した神経心理ピラミッドは脳の各機能は単に並列的に存在するのではなく、階層構造的に捉えるべきで、ピラミッドのより下方に位置する神経心理学的機能が十分に働いていないと、それより上位の機能を十分に発揮させることができないことを表しています。

最上位の「自己の気づき」を得るためには、「論理的な思考や遂行機能」、さらには下位の「情報処理や注意、集中力」などがある程度保たれている必要があり、より基盤的な神経心理学的機能の向上に働きかけることが重要としています。

未成年者が罪を犯したことを認知する、「自己の気づき」を得るためには、社会的認知機能を上げるべきだと考えました。

私たちが社会生活をしていく上で、他者の表情・言動。行動などから相手の感情や意思を推測し、その過程から自己の生存に必要な意思決定が行われ、円滑な対人関係を生成し、維持していくことが、社会的認知機能なのです。

他人の目つき、顔つき、表情などを見て、人の気持ちや心の内を推測する表情の認知、他人の心の痛みを自分の痛みとして感じる共感や同情、相手の気持ちを推し量りながら自分の行動を決める駆け引き、皆で協力し目標に向かって物事を行う社会性と協調性、自己の感情や欲望を適切に抑制する理性的抑制、自分を振り返り反省する自己の認識といった社会で生きる上で必要なことはすべて他人との交流が必要不可欠です。

人は一人では生きていくことはできない、ということを改めて考えさせられました。他者との交流は、他人の心の痛みを自分の痛みとして感じる共感を得ることができます。また、皆で協力して何か物事を成し遂げることで共同生活を学ぶことができます。生きている以上、何かのコミュニティーに所属し、離れてまた新しいコミュニティーに加わっていくことは死ぬまで続きます。

最初のケーキを切り分ける問題についても、他人のために自分ができる行為の表れだと本書を読んで感じます。今、自分の周囲で自分に関わる人達との交流に感謝しつつ、自分の行ってきた事を振り返りながら、自分が他の人達のために所属するコミュ二ティーでできることは何なのかを考えていくようにします。
 

投稿者 mkse22 日時 

 

「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

非行少年/少女は特別な人間ではない、適切な教育を受けられなかった被害者である。
そして、自分も非行少年/少女を生み出す側に加担しているかもしれない。
本書を読み終えたときの感想である。

少年院は自らが犯した罪を反省する場所である。少なくとも私はそう考えていた。
ところが、その中に入っている少年は、そもそも自分が犯した罪について
理解できない。認知機能が低いからである。理解できないことについて反省することはできない。
そもそも自分の犯した罪を理解できることが前提で少年院は作られているため、
その機能を果たすことが出来ず、結果として、再犯を防ぐことができない。

犯罪を犯す少年と同様のことをホームレスについてもいえるのではないか。
ホームレスのなかにも知的障害者が少なくないといったニュースを以前どこかで見た記憶がある。
ホースレスになるのは、リストラされたから、浪費癖が激しいからといった理由の人だけではない。
もともと社会生活を送るうえで知的障害というハンデキャップを抱えた人が、そのハンデキャップゆえに社会生活をうまく送ることができず、ホースレスとなってしまうケースが存在するのである。

さらに、知的障害者の定義が時代によって変わっているという指摘も重要である。
『時代によって知的障害の定義がかわったとしても、事実は変わるわけではないということを』(P99)
知的障害の研究が進んで、より正確な診断が出来るようになったからというよりも
支援現場の実態にあわないからという理由で行われている。本来支援が必要な知的障害者予備軍を
切り捨てる行為である。支援には費用がかかるため、限られた予算ですべてのひとに手厚く保護することは不可能であることは理解できるが。

法律や支援現場に限らず様々な場面で、それらが対象とする人間像があり、そこから外れたら存在しなかったように扱われる。非行少年の例では、彼らには認知能力がある前提で少年院のプログラムが組まれている。認知能力のない非行少年には、そのプログラムは役に立たない。プログラムの対象外である。存在しないも同然である。20世紀はこのようなやり方でうまくいっていたのかもしれない。しかし、それも限界にきているようだ。俗にいう無敵のひとを生み出してしまうからだ。彼らにはもともと何も持っていないがゆえに失うものがない。従って、犯罪を犯すことに心理的なブレーキがかからない。簡単に実行してしまう。

どうすればよいのだろうか。

誰もが人間みな平等として他人を扱うようようになればよいということは理想論だろう。
今年、台風19号が上陸した際に、区役所がホームレスが避難所利用を拒否したことがニュースになった。拒否した区役所署員は批判を浴びたというが、ここで自問してしまった。
もし、彼らが急病などで、自分の家に入れる必要が生じたとき、私は入れることができるのだろうか。正直、YESという自信がない。家族や友人といった自分がよく知っている人であれば、可能だろう。しかし、ホームレスを含む全く知らない人間にはそれは難しい。もしホームレスに知り合いがいたらできるだろうか。やはり、即答できない。

知的障害者やホームレスなどの社会的弱者が身近にいないがゆえに別世界の人間とみなしているのだろう。いや、探せば身近にいるはずだ。無意識のうちに見ないようにしているのだろう。
ただ、見えすぎると別の問題が生じてしまう。
数年前、社会貢献の一環として、障害者が作ったパンやホームレスしか販売できない雑誌ビッグイシューを積極的に購入していた。購入当初は気づいていなかったが、次第に「かわいそうだから購入してあげている」という傲慢な感情があることに気がついた。彼らをどこか憐れむ感情があったのだろう。同じ人間として接していれば、そんな感情を持つこと自体おかしいのに。それに気が付いてからは、手段を変更しホームレス支援団体に毎月寄付することにした。変更後は、そのような感情が薄らいだ。直接顔が見えないからだろう。直接、顔をみて支援することにはデメリットもある。まあ、私の人格が低いだけかもしれないが。

最後に著者は非行少年への教育の重要性を訴えている。自己への気づきと自己評価の向上が目的である。私は加えて、一般人の教育も必要だと考える。少年が非行に走る前兆に気づくための知識を習得したり、身近にさまざまな人間がいることに気づくきっかけがあれば、少しでも無敵なひとを減らすことができるかもしれないからだ。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 toshi121 日時 
「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで

 非行少年と聞くと、教育上の問題があったであろうことは容易に想像がつくが、本書を読んで、その深刻さ、根の深さを痛感した。また、そうした子ども達に真摯に向き合い、「認知機能」の向上に粘り強く取り組んでいる著者の姿勢に尊敬の念を強く抱いた。

 私自身は、母の強い教育熱のお陰もあり、小学校受験、進学校を経て、大企業に就職・勤務してきたため、一定レベルの理解力を当然のように持っている人達と過ごす機会が多かった。もちろん、そうした人々の中にも、理解力のレベルの差はあり、なぜこの人はこんな簡単なこともわからない・できないのだろうと感じるようなことはあっても、まあ人によっての能力差、得意不得意はあるよねと理解できる範囲である。

 本書で紹介されているような少年たちと接する機会が皆無のため、問題の重大さは一定理解できても、残念ながらその問題の難しさを実感することはできていない。ただ著者が述べているように、簡単な計算ができず、漢字も読めない、そもそも反省もできず、葛藤すらもてない少年たちが、非行や犯罪に手を染めてしまうやすいことは、よく理解できた。そして、本書の最後にある「犯罪者を納税者に」で述べられているように、犯罪者を減らすことで、日本の国力を上げて、少しでも多くの人が普通に幸せに暮らし、また犯罪の被害者になる人が少なくなることを願ってやまない。

 その対策として、著者の主張する「コグトレ」が万能であるかどうかまでは確信が持てていないが、他のより良い方法がある訳ではなく、こうしたトレーニングが一定の成果を上げていることからも、今後「コグトレ」の普及が一層進んでいくことを大いに期待している。また、本書で紹介されている「コグトレ研究会」のホームページも見てみたが、多くの先生方が、「コグトレ」に熱心に取り組んでいることが感じられ、心強く感じている。

 本書を読んで、自分なりに何ができるかを色々考えてみた。なかなか思いつかなかったが、一つ今後やっていきたいと考えていることは、人の育て方、人への教え方を変えていこう、ということである。本書で、文句を言っていた少年たちに「では替わりにやってくれ」と言って、前に出させ、やらせてみると、多くが楽しそうに、積極的に取り組んでいたことが紹介されている。認知機能が低い非行少年たちも、「人に教えたい」「人から頼りにされたい」と思っていることは、少なからず驚きだった。

 翻って自分のやり方を考えてみると、「後輩を育てたい」、「色々教えたい」とは思ってはいるものの、実際には「できない奴にやらせても時間の無駄」、「自分でやった方が確実で早い」としていることが多いことに気がついた。当然ながら、会社での業務は経済性、効率性を考慮する必要があるものの、主体的にやってもらう、我慢強くそれを見守るという姿勢を強く持っていきたいと思っている。

 今回も貴重な一冊を読む機会を与えていただき、ありがとうございました。

以上
 
投稿者 satoyuji 日時 

『ケーキの切れない非行少年たち』気づき
私が本書を読んで気づいたことは三つ。
認知機能の発達が社会的能力の根幹であること。
今まで共有されていると思っていた当たり前が壊れつつあること。
その共有されていると思っていた認識が、共有されているかを確認することはとても困難であること。

本書によれば、非行少年の中には認知能力が低い者が多々見受けられたという。つまり、少年犯罪の原因は人格的問題以前の認知能力の低さに起因するということである。そこで筆者は一日五分でできる認知機能向上トレーニングである「コグトレ」を提案。専門的な知識は不要。学校の朝の会や帰りの会で簡単に行える。もしコグトレが普及することで非行少年たちの認知能力向上し、彼らが納税者になるのであればどんどん普及させればいいと思う。

だが本書を読んで私がもっとも気になったのは、知的障害を持ちながらも放置されたまま大人になってしまった「忘れられた人々」だ。子供達はコグトレを受ける機会があるかもしれない。だが忘れらた人々は忘れられたままである。本書に書かれた通りであるなら、ただ忘れられているだけで認知能力の低さは変わらない。いつ非行行為をするかわからない。そして見分けがつきにくいのだから不安は募る一方だ。極端な話、自宅の醤油を切らしていたので強盗しようする人が隣に住んでいるかもしれないのである。

こうした見分けがつかない状況で私には何ができるのだろうか。第7章書かれている非行少年たちが変わった二つのきっかけが手がかりとなる。一つは「自己への気づき」。もう一つは「自己評価の向上」。この二つを認知した時、非行少年たちは変われる。よく考えて見たい。「自己への気づき」も「自己評価の向上」も自分を知ることだ。更に「自己評価の向上」は現認識から自分を良い方へ再評価することである。言葉を換えていくと自己啓発系の匂いがしてきた。知的障害であろうと、健常者として扱われていようと自らを知り、価値ある人間であると思いたいことは共通しているらしい。つまり相対する対象としては、知的障害者と健常者を特別に分けて考える必要はない。相手が自らを知り自信を持てるように接すればいい。自分の意見を押し付けようとするのではなく、相手を理解しようと聞くことから始めればいいのだ。

正直に書いておきたい。本書表紙に書かれているケーキを三等分する問題を、私は悩んだ。最初どう三等分したらいいのか分からなかった。まず縦と横に切って四等分にする。三つを配り、残りを三等分すればいいと思った。三人で均等に分けるのならそれぞれの食事量によって均等さは変わると屁理屈もこねたくなった。ベンツのマークのように切り分けるという回答は理解できるがいまいち納得できない。それに本書では紹介している「非行少年に共通する特徴5点セット+1」にも当てはまると感じるものが半分ほどある。だから私には自分が知的障害者ではないと言える自信はない。仮に健常者であるとしても、その差は紙一重であると思っている。日々生活の中で思考に行き詰まることも多々ある。自分が知りたいこと、考えたいことを十全に行いきれた思えることはほぼ皆無である。自分は健常者である、知的障害者とは違うと差別的に言える人がいることが私には不思議だ。みんなどこかしら欠陥があるの方がむしろ自然である。

学問では数値などの客観的尺度で人を分類することがてきる方法が確かに存在する。しかし人が社会生活を営む能力はそれぞれの項目に分けて、一定の基準を超えなければならないときっちり決められるものではない。もちろん問題があるなら、解決するように努めることが必要だ。それが数値などではっきりと示されているのなら尚更である。それでも私たちを取り巻く環境は様々な要素で構成されている。その中で少しでも善く生きようとする姿勢があればいい。もちろんその姿勢が見られないのであれば、徹底した特別措置が必要である。

本書を読んで催した感情がある。認知能力の低下による社会の破綻を示唆する内容で、隣の不幸を見るような楽しさ。身近に非行事件が起こりうるという恐怖だ。しかし希望を持って読むなら、人の営みは認知機能によって支えられており、それは鍛えることができることも教えてくれている。そして人が変わるきっかけは自らを知り、信頼を獲得することであることに健常者も障害者も違いがない。信じ、信じられるところに人の生きがいあることを教えてくれる一冊だった。

投稿者 str 日時 
 
ケーキの切れない非行少年たち

人は十人十色であるにも関わらず、知的障害・発達障害の有る無しで大まかに二極化されてしまう。本書に出てくるような“気づかれにくい”子供たちは自然と一般的な教育や社会基準の側に分けられてしまう。だからといってボクシングの階級さながらに細かく教育レベルを分けるなんてことも難しい。それでも熱意を持って一人一人の特徴や違いに気づき、適した接し方をしてあげれば更生できる可能性もあるし、非行そのものを未然に防ぐことができていたかもしれないという点と、犯罪者数の増減が与える経済への影響にも驚いた。

本書を読んで一番強く感じたのは“気づかれにくい子供たち”の存在だ。最も早い段階から他の子との微妙な違いに気づくことができるのは、やはり両親をはじめとした身内の誰かか、園や学校など身内の目の届かない場所で見ている先生のどちらかだろう。一度や二度ならともかく、それが明らかな違和感に感じるようであれば、薄々気づいているのではないかとも思う。私自身は誰かの親という立場になった経験はないが、「大人になれば自然と治るでしょ」とか「うちの子に限ってそれはない」という感情により、気づかぬフリをしてしまうというのも何となく分かる。しかし何か起きてからでは遅く、早い段階で適した環境・接し方でブレーキを掛けてあげることが大切であると感じた。

“真面目でおとなしい“という事も、犯罪を起こす・起こさないにはそれほど関係性を感じられない。悪事を悪事だと分かった上で、仲間とつるみ、バレないようにとか、誤魔化す・逃げる。などの行動をとる不良少年たちも多い。ただ、家庭環境が悪いとかイジメられた過去などなく、グレる理由など見当たらない。テレビや漫画、仲間たちの影響を受けているだけであるならば、一度痛い目を見れば反省したり、更生するのは容易だったりもするだろう。そんな中には、そもそも悪い事だと認識できていない者もいる。本書に登場する非行少年たちの多くは後者のタイプが多いと思う。悪事だと認識できていないのなら”やりすぎ“という超えてはいけないラインの判断がつかない分、より悲惨な結果を生む場合もあったり、理解し・更生させてあげるまでの道のりは困難になるだろう。

第7章にある『自己への気づき』『自己評価の向上』は、更生させてあげるためだけでなく、些細な”わるさ“とか”いたずら“を繰り返す子どもたちをいずれ非行へと向かわせない切っ掛けにもなると思う。

計算能力を上げる。沢山の知識をつけるなどの“勉強”とは分けて考えるなら、取り入れ・教えてあげなければならない“教育”とは、このような事なのだと感じた。
 
投稿者 H.J 日時 

著者が少年院勤務で得た知見を基に書いてあり、沢山の非行少年たちを見てるだけあって、とても説得力がある一冊だった。
同時に保護者や社会にも気づかれないサイン、著者の言う4次障害等、深刻な問題点などショッキングな内容が頭に残った。
こういった問題をどう解決すればいいのか?
何が出来るだろうか?
そんなことを考えた本だった。

まず、読みながら思ったのが、本書に書かれていたことは非行少年たち以外にも当てはまるのではないか。
ケーキを切れない。とまではいかないが、大人にも非行少年の特徴に当て嵌まる人を見かける。
今回私はそういった視点をベースに感想を述べる。

第3章に書いてある非行少年に共通する特徴5点セット
・認知機能の弱さ
・感情統制の弱さ
・融通の利かなさ
・不適切な自己評価
・対人のスキルの乏しさ
は、現代日本の深刻な問題になりつつある様に感じる。
犯罪を犯した大人はもちろんのこと、日常生活の中でも当て嵌まる人を見かける。

例えば、今年話題にあがった煽り運転の加害者も少なくとも3つは当て嵌まる。
仮に事の引き金が被害者側の危険な運転にあったとしても、
感情をコントロールできれば、そもそも煽ることなんてしないし、
想像する力があったり、融通がきけば、ドライブレコーダーに残った車のナンバーから身元が判明することを恐れて煽り運転なんてできないと思う。

煽り運転の様な犯罪ではないが、満員電車の中でも時々良い歳したおじさんが肘やカバンで周りの人をどついたりする姿を見る。
仕事で疲れて早く休みたいのだろうか。そんな気持ちもわかる。
ただ、押して押されてはお互い様なのだから、我慢すれば良い。っていう人がほとんどの中で、見る力の弱さや感情統制の弱さを感じずにはいられない。

他方で、5点セットに当て嵌まりながらも気づかれずに暮らしている人達もいる。
引きこもりと呼ばれる人たちも該当者だろう。
親のお金で暮らせているが、将来親がいなくなった後の想像力がなかったり、コミュニケーションが苦手だから人前に出ない。などもよく聞く。
他にもホームレスの人やニートの人たちも当て嵌まりそうだ。
そういう支援が必要な社会的弱者の人たちが、これから先、加害者にならないとも限らない。
実際に無差別殺傷事件を起こした犯罪者もいる。

現代の日本では、犯罪を犯したり、人に迷惑かけた人がいると、一方的に加害者=悪というフィルタにかかって、世間では一斉にバッシングが行われる。
加害者の中には、本書に書かれている様に気づかれなかったり、周りの理解がないが故に苦しんでる人もいることを忘れてはならない。
加害者にとって『何か困ったことが生じた時(P110)』に出るその反応。
咄嗟に気づけるものではない。
本人も気づけないし、周りの人にも気づかれない。支援が必要なのに受けれない。
ただ、第三者的に支援が出来れば、気にかけてあげられれば、何か変わったこともあったかもしれない。

また、一度加害者になってしまうと出所した後もずっと加害者として悪として見られ続ける。
これでは、加害者自身も社会復帰できずに仕方なく再犯を犯してしまうのもやむを得ないかもしれない。
そういう私も、仮に近くにそんな人がいたら、正直気持ち良く接する自信はない。
しかし、完全に悪だと決めつけて接するのではなく、その人がどんな人なのか知ろうとすることはできるだろう。

と言えるのも、結局自分が被害者になってない第三者的な目線から見てるからだろう。

では、これが被害者の立場だったらどうだろうか?

被害の内容にもよるだろうが、きっと赦せないだろう。
感情をコントロール出来ないだろう。
本書を読んでもなお、頭では理解しようと努力するが、感情が理性を上回るだろう。

被害者になってからでは遅いのだ。

そう考えると、本書に書いてあることを他人事として消化するのは危険である。
なぜならば、実際に本書で書かれている様な非行少年と呼ばれる人やそのまま大人になった人が身近にいるかもしれないからだ。
「そういう事件に巻き込まれなければいいや。」とか「こんな子たちもいるんだ。」ではなく、
そういった人たちに行動を起こさせないためにはどうすれば良いのか?

こういった問題定義を広めて、間接的にでも、少しでも支援が出来るのであれば、積極的に行っていくべきだろう。
そして、そういう活動を身近な人や色んな人にどんどん伝えていければ、将来的に社会全体が変わるかもしれない。
そんな活動が、非行少年や社会的弱者の人を救い、その結果、自身や周りの人のリスクマネジメントになるだろう。
と感じた。

投稿者 soji0329 日時 
「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで


少年院で法務技官をしてきた著者、宮田幸治氏が見た非行少年たち。彼らの多くに共通するのは、認知機能の弱さだという。私は今回、この認知機能について着目した。

彼らについて宮田氏は『これまでどれだけ多くの挫折を経験してきたことか。そしてこの社会がどれだけ生きにくかったことかも分かるのです』と語っている。

そんな彼らに共感するために私は、思ったようにならぬこと、上手くいかず挫折感を味わうような環境はないか、自分の周りに探してみた。するとそのような環境は、すぐ目の前にあったのだ。この課題図書である。

毎月提出しながらも、一次選考さえ通らない自分。本書69~71ページには、透明な円筒の中にあるコルクを取り出す「行為計画検査」が紹介されている。傍らに置かれている水に目もくれず、届かない針金でコルクを取り続けようとする非行少年たち。これはまさに何の工夫も無く落とされ続ける自分の姿に他ならない。

私はあらためて、水や筒、蓋に該当するヒントはないだろうかと、しょうおんさんのホームページにある、優秀賞に選ばれるコツを読み直してみた。『「良かった」、「感動した」、「素晴らしいと思った」のような表現を使ったら無条件で落選すると思って下さい。あなたが課題図書を読んでどう感じたのか、を書いてもらう場所ではありません』と。この文章、きちんと読んだつもりだったのに。

3等分せよと言われているにも関わらず、まずはケーキを縦に半分に切ってしまう非行少年たち。もうこの時点でアウトである。私は以前の自分の投稿を見直してみた。ニュアンスこそ違え、散見される「良かった」「感動した」の表現。まさに彼らが犯した間違いと同じではないか。いかに自分が選ばれるコツの文章を認知していなかったか。さらにそのことに気づかず、同じ間違いを繰り返してきたか。

課題図書で集まってくる多くの投稿。またこれまでの課題図書を読んで培った知見も、大いに参考になるだろう。ヒントはこんなところにあったのだ。提示された文章を理解し、記憶するまでとことん読むこと。読んだつもり、分かったつもりが認知機能を弱くしているのではと痛感した次第である。

昨今、普通の人、いやそればかりか優良企業に勤める、優秀と思われている人が起こした事件をよく目にする。こんなことをすれば罪になると想像できないのかと言わんばかりの内容だ。認知機能の弱さは決して非行少年たちだけではない。常に意識していなければ、私たちでさえいつ弱くなってもおかしくないのではないか。そう思えてしまう。

本書では、その他非行少年たちの特徴が数々紹介されている。これらは本来学校で克服すべき内容だが、現在の制度では知的障害として理解されず、正しい教育が行われていないと宮田氏は指摘する。教育業界にいない私は歯がゆいばかりだ。せめて課題図書で自分の認知機能を強く出来ないか。あらためてしょうおんさんの説明を精読してみた。

第一ステップ、著者が伝えたい内容の理解。著者と自分、考えの共通点と相違点を明確にすること。そのためには、自分ごととしていかに読むかが大切であろう。読解力に自信の無い私は、当面、ほかの方の投稿を参考にさせていただくつもりだ。

第二ステップ、自分のこれからにどう活かすのかという思考。これはまず、著者と自分の共通点、相違点になぞらえて自分の中の課題を探ることから始めたい。先ほどのコルクの取り出し方で言うなら、透明な円筒の中にコルクが入っている状況を把握することだ。次はゴール、あるべき姿をイメージする。つまり円筒の中からコルクを取り出すことだ。さらにそのための条件の整理。使っていいものは針金、筒、蓋。さらに水の入ったビーカー。やってはいけないことは、円筒やビーカーに手を触れること。提示された以外のものは使わないこと、である。

自分の中の課題。あるべき姿、そしてそのための条件の整理を行った上で、具体的なアクションプランまで導き出せれば、課題図書を充分読み込んだことになるだろう。これらをおこなうことで、本書P149にある「自己への気づき」と「自己評価の向上」へつながって行くのだ。

宮口氏は、一日5分で出来る具体的な治療教育法を紹介している。わずかな時間でも毎日継続することに意義を感じる。私はまず、毎日送られてくるしょうおんさんのメールマガジンで、上記の課題図書の読み方、つまり、

①自分の中の課題抽出
②あるべき姿のイメージ化
③やっていい条件、やってはいけない条件の整理
④出来る限りのアクションプランの構築

この4点を毎日続け、課題図書に向かう能力と、認知機能の強化をしていきたい。

本書ではとにかく、認知機能の弱さについて知ることができた。非行少年たちの悲しさ、苦しさを少しでも共感できたらと思う。彼らを救ってくれる教育環境が、一日でも早く整備されることを願ってやまない。
 
投稿者 3338 日時 
石井 みやこ

私が初めて「認知の歪み」を聞いたのは女子刑務所のドキュメンタリーでした。その時は自分にはあまり関係ないことだとスルーしたのですが、今回の課題図書を読んで、自分にも当てはまることだと気がつきました。
両親は人柄いい人ですが、今思えば祖父母に支配されていたと思います。
その中で育った私はもやはり、両親の「認知の歪み」が影響していたと思います。

自分が課題図書を正しく理解できないのは、物事を深く考える習慣がなかったからだと思いましたので、毎月必死で本を読み、アウトプットするのことを続けて行けばできるようになると信じておりました。

本質を理解すること。
問いを立てること。
なぜを深掘りすること。

この三点を意識して、今はできなくても、必ずできるようになると信じてやり続けようと思っていました。
でも、私は最初から認知が歪んでいたとようです。
そのためきちんと本の内容が理解できず、理論的な文章が書けないのだと思いました。
併せて読んだ「死に至る病」の愛着障害については、思い当たることがあり、途中で絶望感が込み上げ、読み進むことができなくなりました。
私も愛着障害を抱え、その私が育てた娘も愛着障害を抱えています。もう何をしても無駄で、娘の将来に希望がない様に思い、先生が言われる「無敵の人」の気持ちが分かるような気さえしました。 
自分がこんなに歪んでいたらと思ったら怖くなってしまいました。

自分がどれほど歪みを抱えているかは分かりません。
ただ常に自分の認識が歪んでいないかを意識して、主観と客観の中で見えて来たものを大事していきたいと思います。 
それとともに、訓練をすれば有る程度は認知の歪みを克服できるようなので、コグトレを購入しました。算数の中級と上級、6年生の国語を娘と一緒にやり続けます。そして自分自身が乗り越えられたら、きっと娘も乗り越えてくれると信じてやり続けます。

今回読み終わって、何かしなければいけないと思うのですが、何も思い浮かびませんでした。
ただ、家庭で子供を理解することができないのに、小学校できちんと理解して対応してもらうのは難しいと思いまた。親が二人に子供二人の場合、1:1でも対応できないのに、1:多数になれば充分に対応できる訳がありません。
今一番目を向けなければいけないのは、教室で理解されない子供たちです。親からも理解されない子供たちの状況を社会全体が知り、それに対して何ができるかを考えて行くことが必要だと思います。

本文にもありますが、子供たちに「見ている」というサインを送ることが重要なのは分かりますが、担任の先生が一人で生徒たち全員に「見てる」というサインを送るのは難しいことです。本来家庭できちんと子供の状況を理解して対応しなければならないのに、できていないから、どうするかということなので、学校なら外から力を借りるしかないと思いました。

これについて、前にテレビで紹介されていたのですが、地域の人たちが自由に出入りできる小学校で、お年寄と小学生がコミニュケーションを取ることでお互いに支え合っていました。
文部科学省でも地域参加型の小学校作りが推奨されていますが、なかなか全国には広がらないようです。
孤独なお年寄りや生きがいのないのお年寄りの自殺も問題になっている昨今、こういったお年寄りの力を借りることで、周りから孤立して行く小学生を減らしていけれるのはないかと思います。

ずっと子供たちのために何かしたいと思っていました。その機会があれば参加したいと思って来ました。
今参加できていない自分を嘆くより、いつか子供たちの何かできる自分を目指したいと思います。
それを目標にして、今目の前にあることをやり続けたら、必ずつながると信じてやり続けたいと思います。

娘をきちんと育てて、社会に返すことが私の一番の仕事ですから、それができて初めて、私は他の子供に関わる資格ができると思います。

いつも先生がおっしゃるように、子供たちのために何か活動している自分をイメージして、そのイメージに近づくように
日々励みます。
 
投稿者 sadaharu18 日時 
『ケーキの切れない非行少年たち』を読んで

本書読み、また一つ知らない世界を知ることが出来ました。
著者は児童精神科医として、犯罪を犯してしまった少年少女たちを診る機会があり、
そこで、狂暴で手に負えない子供や性犯罪を繰り返す子、人を殺めてしまった子などが、性格的な問題ではなく、認知機能などの障害にあるケースがあることに気づいたことが発端となっている。

・認知機能が正常に動作していない
・感情抑制ができない
・融通が効かない
・不適切な自己評価
・対人スキルが乏しい
・身体的不器用さ
・想像力の欠如
といった原因により、現実を歪んで見てしまっているということだ。

認知機能が異常なことで、簡単な絵がかけなかったり、字もうまく書けない。
一時記憶能力が低いことにより、計算が出来なかったり、読解力も低く、勉強について行けなくなる。

このような子供たちは、異常があるということを発見されずに見過ごされ、社会に適合できず、悪い方向に行くと、犯罪を犯してしまうという現実がある。

教育現場で少しでも多くの子供がきちんと認識され、対処がされるようになって欲しいし、
本書が出たことで、社会への啓蒙になることを切に願いたい。

このような子たちへの対応として、
自己への気づき
自己評価の向上
が対応のキーとなっているとのことで、これは普通の健常者にも当てはまる事だと感じた。
他人の意見を聞いて、改めて自分に気づくことや、日記などを通して自分の気持ちを
しっかり感じていける。
自己評価の向上、自己肯定感というのは様々な心の安定につながる。それにより他人とも安心してつながることが出来、前向きに物事に取り組み社会へと関わることができるのではないだろうか。


本書を通じ私が最初に感じた事としては、他人と自分は見ている世界が違うのではという
ことだ。
自分が当たり前だと思っている世界は他人とは異なり、自分が思っている自己評価が
他人による自分への評価もかなりちがうだろう。
自分が当たり前だと思っていることや、せねばならないといった観念を常に内観する事がとても大切なのだろうと思う。

そのために瞑想でも良いし、日記でも良い。他人としっかり関わり自己を客観的に見ることも大切にしたい。

もし、あの人の様になりたいといった目標があれば、その目標に達するにはどんな考え方、見方が必要なのだろうかといことを考える必要がある。

ビジネスでも共感される資料を作るには、受け取る人の知識背景、考え方などのバックグラウンドをしっかり念頭に入れて、どの様な言葉、見せ方をすれば少しでも良く伝わるのかを考える。
それも自分と他人は見てる世界が異なることを土台としたアプローチだ。

また、想像力の欠如により悪い選択をしてしまうという記載があったが、現在のみを見て、こうしたらこうなるという事がしっかり想像出来なく、私たちも最適ではない選択をしがちだ。
不都合だと思われる事象にあった時に、単純にすぐ怒る人はその想像が足りない。
自分もしっかり行動することの先を想像して、選択を出来る人でありたいと思った。

軽度知的障害に起因する認知の歪みから、犯罪につながってしまう怖さ、それを解決しようと奮闘している方もいて、効果を発揮する場面もある現場感、そして、重大犯罪の裏には
脳の機能障害が原因となることも多々あるという衝撃。これらが新たなる世界の広がりというか、認識の拡大が獲得できた。

また、深く見ると、いかに世界を見るか、自己を認識するかという生き方のようなモノを
改めて認識出来た読書でした。ありがとうございました。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
課題図書を読みながら思ったこと。
それは「子どもが犯罪者にならないかは親次第」ということである。

まず、本に出てきた少年院の子たちは、親から無視されて育ってきた可能性が高いと思った。
今の世の中、我が子に発達障害や知的障害かも?と思う機会は結構あると思う。
先日、お笑い芸人の会社が国税局から多額の申告漏れがあったと話題になった。
そこで申告漏れをした理由に「ADHD」という発達障害かもしれないからという意見がSNSでにぎわっていた。忘れっぽい、本人は悪気がないのは発達障害だからだと納得する風潮が既にある。
それは社会人に対してだけでなく、学校など子どもに対しても当てはまる。
小学生の子を持つ私の友人に、子どもが学校で宿題をやらなかったり、勉強について行ってなかったり、生活に態度にチェックが入ると、すぐに学校に呼ばれると聞いたことがある。先生の口から発達障害とは言わることはないが、家庭でも配慮してほしいことを伝えられたことがあるらしい。
学校や先生に寄るところはあるが、社会全体が発達障害に過敏に反応するようになっている。

きっと本に出てきた子たちも、学校に呼び出され、補導されてきたことだろう。
子どもからのサインはきっと何度かあったはずである。
なのに親として手を打ってこなかったのか?
病院に連れて行ったり、専門家に見せたりしようとは思わなかったのか?
そういったことを見過ごして結果、子どもが非行に走ったと思ったりする。

また、親が気付いてあげられないと、簡単に非行や下層社会に落ちていってしまう現実を知った。
発達障害や知的障害の人に対するセーフティーネットがあまりに少なくあっと言うに犯罪者になる現状をとても怖くなったのだ。

だから、子どもからのサイン(と思えないことも)を見過ごしてはいけないのだ。
勝手な判断でスルーせず、解決まで向き合う姿勢が親に求められていると改めて思う。
先延ばししていいことなんてないのだろう。特に子育てにおいては。

子どものそういった特性に気付いても、見過ごしたくなる気持ちは少し分かる。
でも、今の世の中ではオープンになった方が支援を得られやすいし、解決に近づきやすくなる。
うちの自治体では、もし子どもに発達障害の傾向があると分かり専門医の診断が下りれば、療育にかかる費用は相当補助をしてくる。加えて、10月から始めった幼児教育の無償化によって全額免除になる場合もあるのだ。
支援団体や支援コミュニティも増えてきている。
今の時代は外に出た方が、子どもも親もきっとより幸せになる可能性が高くなると思うのだ。

子育てのように時間のかかることは先延ばしにしてはいけないと述べる本を思い出した。
それは、クリステンセン教授の「イノベーション・オブ・ライフ」である。
この本には、どうすれば幸せなキャアリを歩み、家族や友人などゆるぎない幸せな関係を築き、罪人にならずにいらないか?をテーマに、教授が自身の体験や、大学の同級のその後の人生を観察するなかで、分析した結果が書かれている。
そこには、家族とのゆるぎない関係を築くために、こんなことが書かれていた。
苦境に陥った同級生たちは、「昇進や昇給といった見返りがすぐに得られるものを優先し、立派な子供を育てるといった、長い間手間をかえる必要があるもの、何十年も経たないと見返りが得られないものおろそかにした」とあった。
時間がかかるものほど先延ばしにするべきではないのである。

ただ、忘れてはいけないのは、いくら時間をかけたからと言って子どもは親の思い通りにはならないといことである。
橘玲さんの「言ってはいけない」の三章「子育てや教育は子どもの成長に関係ない」に書かれてある。
そこには、子どもはそもそも親の言うことよりも、子どものコミュニティのなかのことを優先するため、親の言うことはきかない性質があるという。それは、旧石器時代からの生活様式から予想できるというのだ。そして、子どもは、子どものコミュニティのなかで、得意なことや目立てることを自ら見つけてそれを自然と伸ばしていくという。
そうして、子どもの人格は作られていくというのである。つまり、人格は遺伝的な要素を土台とした偶然により出来上がっていくと言うのである。
だから、親は子どもにとやかく言っても、親の思い通りになるとはないという。
親にできることは、子どもの特性がつぶれないような環境を与えることだという。
親が思っているようには子どもは成長しないことも忘れてはいけないこと。
でも何もできないわけではなく、適切な環境を与えているやることが最高の教育なのである。
犯罪者になるかどうかは親次第ではあるが、その先は子どもが決めていくということである。

最後に、微力ながら続けているHomedoorを支援する意味が本書を読んで深められた。
支援されるべき人たちが支援されずに犯罪者になってしまっている悲しい現実を知り、もしかして、ホームレスの人たちのなかにも、自分の力だけではどうすることもできず、犯罪者にはないまでも、ホームレスになってしまった人もいるのでは?と思う。
忘れられた人たちを一人でも多く納税者にすることできる可能性があるHomedoorの支援がより意義深く感じられたのである。

今月も考えさせられる本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 vastos2000 日時 

自分の考えや知識が日本国民の平均値であるとか代表的なものであるというつもりは無いが、私は刑務所の中にいる人の多くは意志薄弱で将来のことを想像しない人であると思っていた。だが、それ以前に本人の意志力とは関係なく、知的な問題が根っこあるケースもよくあることを知り自分の枠が広がった気がする。

私は福祉業界の端っこにいるが、本書を読み、まだまだ福祉に関して理解が足りない、知識が足りないことがあるなと再認識した。と同時に、やはり福祉の世界のど真ん中、に飛び込んでいく若者達を尊敬する。この本の著者も本当に医者になるべき人がなっていると感じた(今は「日本で一番偏差値が高いから」という理由で東大の理IIIを受け、合格する人がいる)。私はこの本の著者のように「救うべき人はどこにいるのか?」と考え、自らが動いていくということをしていない。とりあえずは自分の周囲の人達の幸せを実現することで精一杯だ。
自分は幸運にも認知機能に問題は抱えておらず、脳力に磨きをかければどこまでもいける(はず)。自分の子どももおそらくは知的な問題や発達の遅れと言った問題は抱えていない。
せっかく与えられた能力を生かし切っていないのかもしれない。
本書を読んだ今、私はどうすべきなのだろうか。「直ちにこれをすべき」というものは残念ながら思い浮かばないが、まずは自分とは違う認識の仕方、自分は当たり前と思っていて機にもかけていなかった部分に問題を抱えている人のことをもっと知ってみようと思う。

発達障害については、近年一般世間にも認知されてきて、それこそ本書の著者が言うように、書店でもそれに関連した本はたくさん見かけるし、うちの本棚にも何冊かある。しかし、知的障害については、自分も世間も理解が浅いようだ。
私の職場に特別支援学校出身の知的障害者がいるが、他の人とあまり変わらない。任されている仕事量はやや少ないが、エクセルやワードも問題なく使っている。彼より後に入職した人は、彼のことを「まだ若いから頼りないところがあるな」ぐらいの認識で、彼が知的障害者であるとは思っていないし、私も事実を知らなかったら気づかないだろう。
であるから、その彼が特別支援学校に通ったということは、その決断を下す際、本人や保護者はどれだけの葛藤があったのだろうか…。普通学校に通っていても、おそらく卒業はできていたのではないか。「普通でありたい」というのはまだムラ社会の性格が色濃く残る現代の日本では強い欲求だろう。だからこそ、知的ボーダーライン付近の彼らも、自ら積極的に支援を受けるということにならないのだろう。

以前の課題図書『脳が壊れた』の著者である鈴木大介氏の他の著作、『家のない少年』『家のない少女』を読んでも、知的障害や発達障害といった、何らかの認知能力の問題を抱えているものが、犯罪に近づいてしまっているというのが感じられる。
本書で著者は“反省以前の少年達”が少年院には多くいることに気づいたが、日本全国の少年院や刑務所で、彼らにその認知能力に合った教育を受けさせるのは難しいのではないか。
私が感じるに、今の日本は平等主義が悪い方に出ていて、憲法26条にある『すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。』
という条文の「その能力に応ずる教育」という部分を忘れてしまっているのではないかと感じる。
本書に度々登場するような少年達には、それこそコグトレや小学校レベルの算数と国語を重点的に教えるようにし、社会にでも自立して生活できる程度の技術や能力を身につけてもらう。5Gネットワークとデバイスが普及すれば、検索の仕方を覚えれば、かなりのことはなんとかなるのではないか(そこまでたどり着くまで、本人と周囲の努力は必要だろうが)。一方、特別な脳力を持った少年少女は飛び級も認め、日本のテクノロジーを支えるような研究ができる場を用意する、といったことが大した反対の声も無くできるようにはならないものだろうか。そういうことを言うときっと「差別だ!」とか言われるんだろうな。下のレベルにみんなを合わせても誰も幸せにならないんじゃないだろうか。みんな異なる肉体、異なる環境で育ってるんだから、人と違うのは当たり前のことではないのだろうか。肌の色や生まれた場所といった、本人に責の無いことで線を引くのは差別だろうけど、その人にマッチした教育を与えるのは差別なのだろうか?
すでに1年間に生まれる子ども数は100万人を切ってしまった状態では、今後は多様な「みんな」が活躍できる社会にしないと日本は暮らしづらくなる一方ではないか。
今の私の立場で、みんなが活躍できる社会を実現するために何ができるのかを考えていきたい。
本書を何度か読んだ後は暗い気持ちだったが、自分の考えを整理してアウトプットした今は、思い気持ちもだいぶ消え、自分がやるべきことに視線が向いている気がする。

投稿者 eiyouhokyu 日時 
ケーキの切れない非行少年たちを読んで

 この本を読み始めた時暗い気持ちになった。なぜなら、自分の子どもが発達障害だからだ。認知力、理解力の無さが犯罪に近づいてしまうのかと、将来が不安になった。
 
ところが、第1章の最後の部分を読み、救われた気持ちになった。この本の目的は、犯罪者から納税者にすることと書かれている。納税者という言葉が新鮮だった。正直、私は子どもが将来納税者となることを意識して子育てをしていなかった。目先の就学や友達関係に気をとられ、いつか受験で必要になるであろう学習に気を回していた。改めて、子育てのゴールは子どもが仕事をして税金を納める、つまり継続して就労できる状態を目指すことであることを認識させられた。人として生きるため、社会のために就労することは必要なことである。
ただ、これは我が家にとっては簡単なことではない。
 個人的な話をここで出すと、子どもは自閉症スペクトラムという発達障害で4歳のときに診断がついた。その中でもアスペルガーというタイプが近いそうだ。社会性や他者の気持ちを理解するのが難しいという特性がある。衝撃的だったのが、下記のやり取り。心理士の先生が二つの人形を使って、説明をしていくのだが・・・

・Aちゃんがいます。ボールで遊んでいます。箱の中にボールをしまい、どこかへ行ってしまいました。
・そこへBちゃんがきました。誰もいません。箱の中にボールがあるのを発見しました。その箱の中のボールを隣のかごに隠しました。そして、Bちゃんはどこかへ行ってしまいました。
・Aちゃんが戻ってきました。ボールで遊ぼうとします。さて、Aちゃんはボールがどこにあると思いますか?

と、最後に質問をする。2年間で3回この検査をしたが、3回とも我が子は間違えた。この事実を目の当たりにした時、今まで子育てで何回言っても伝わらなかったことや共感性に乏しい会話や表情の理由がすとん、と理解できた。想像力できないのだ。そして、想像してごらんという言葉では通じない、やり方を変えないといけないと、この時学んだ。

 色々な発達障害の支援の本を読んだ。支援者の理解が必要であると多くの本に書かれていた。しかし、今はまわりが理解できる環境でも、大人になったら・・・とか、私は理解できるけど他の人は・・・と、本当に理解することだけが本人のためなのか、いささか疑問に思うことがあった。その先の、本人のためになる力をつける方法が具体的に書かれている本はなかった。この本は、本人の能力を向上させる取組についてきちんと教えてくれている。トレーニングで少しずつ認知能力や視覚情報処理などを高めることができる。

 私が子育てについて本書から学んだことは、下記の2点である。
①人生は選択肢が多いということを伝える
 理解力や認知力の欠如が短絡的な思考につながり、それが犯罪に結びつく危険性があると著者は言っていた。どうしていいか分からないから、それが正しいか正しくないかに関わらず簡単な方法を選ぶ。そうなってしまっては困るので、選択肢があることを親として伝えたい。学校以外のコミュニティがあることや、私が楽しんでいる人とのつながりを子どもに見せるのもいいと思った。

②小さなことでも継続することで大きな力となる
 本書で紹介されていたコグトレは、1日たった5分という手軽さである。この5分の積み重ねが将来犯罪者になる可能性から遠ざけると思うと、喜んで親が毎日やらせたくなる。一度の詰め込み学習ではなく、コツコツとした継続の力。これは、障害の有無にかかわらず大きな力となる。自信につながるし、将来の可能性が広がる。

 犯罪者も生活保護もホームレスもひきこもりも、みんな生きづらさを抱えており紙一重の存在なのだと思う。私の職場は、生活保護の人たちが暮らしている簡易宿泊所の傍にあり、朝からお酒を飲んだり、トイレの概念がなくなって道がすごいことになっていたりするのを目の当たりにしていると、こうならないようにするためにも、早期対応が必要なのだと思う。継続するにも早いうちが良いし、選択肢を広げる経験も早くに気づけば多くの対策がとれる。

 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。社会がよりよくなるために、まずは目の前の子育てから向き合い、次に地域の支援にも取り組んでいきたい。

今月も良書をありがとうございました。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
 少年が模写したP.20の複雑図形を見て絶句した。上下に並ぶ全く違う図形を見比べながら、なぜ、こうも違うものになってしまうのか。この少年には、この世の中がどのように映っているのだろうか...。

 本書を読むことで、私の想像力では実感できないくらい生きづらさを感じながら生きている人たちがいることを初めて知った。彼らが抱える生きづらさとは、認知機能障害(見る力、聞く力、想像力の欠如)に原因があるという。そして、更生施設にいる非行少年たちが、その問題を抱えていることは少なくなく、そして本来、彼らは犯罪を起こす前に支援されているべきなのだという。
 P.30に書かれているように、本書の目的は、少年非行の防止と非行化した少年たちの更生の方法を考えることである。特に、非行の防止は世の中から被害に遭う人を減らす、そして多くの非行少年が元は被害に遭っていた立場から加害者になっているという負の連鎖を作らないためにも重要度はより高いだろう。
 今月は、子どもが非行化する原因は何か、それを防ぐために大人が取るべき対処は何かについて思いを巡らした。

 認知科学においての『認知』を辞書で調べると『生物が対象の知識を得るために、外部の情報を能動的に収集し、それを知覚・記憶し、さらに推理・判断を加えて処理する過程』とある。著者が指摘する認知機能障害を持っている子どもは、要するに、入って来た情報を適切に処理できない状態であり、本書にあるように複雑図形を模写することも、ケーキを等分にすることも難しい状況に陥っているのだ。
 そして、このような認知機能障害を持ちながら非行に走ってしまった子どもたちは、たとえ罪を犯しても自身の立場を理解することも出来ないために反省することもないという。さらには、この認知機能障害はP.42に書かれるように「人を殺してみたい」と思ってしまうほどにその人の思考を歪めてしまうこともあるのだからゾッとする。
 私は今まで身近でこのような極度に歪んだ願望を持った人の存在を直接は知らない。ただ、現代の日本社会を見渡すと、この歪んだ願望を持った人が今後も遠い存在であり続けるとは言い切れない。

 現代の日本社会に『無敵の人』と呼ばれる人たちがいる。彼らは、人間関係も社会的地位もなく自身の命さえも惜しくないという歪んだ心を持った人たちのことである。そんな失うものが何もない『無敵の人』は、無差別殺人にも心理的抵抗はない。今年6月に起きた川崎市登戸通り魔事件と7月京アニ火災事件は、正にこの『無敵の人』が犯した無差別殺人である。
 川崎市登戸通り魔事件の場合、犯行後に自らの首を切り自殺した犯人は、少年院などの更生施設に送られるほどではないが、中学卒業後に入った職業訓練校では、人とのトラブルが絶えなかったという。犯人が高校に行かなかったこと、人間関係に問題があったことと本書で述べられている医療少年院にいる非行少年たちが、苦手なことについて聞かれて口を揃えて答えた「勉強」と「人と話すこと」が酷似することは、何を示唆しているのだろうか。そして、川崎市登戸通り魔事件と京アニ火災事件の両犯人に共通する幼少期の出来事が、両親の離婚である。幼い子どもにとって両親の離婚がどれほど心理的な負担になるのか。それは、その子の脳機能に障害をもたらすには十分であるという科学的な指摘もあるほどである。

 認知機能障害を患った少年たちが感じている生きづらさとはとはどんなものなのだろうか?これは、少年たち本人以外には実感が出来ないことなのだろう。ただ、もしかすると彼らの感じている生きづらさとは、彼らが心理的、身体的に自らの身に危険を感じている状態なのではないだろうか、マズローの欲求説で説明をすれば、下から2段階目にあたる『安全欲求』が満たされていない状況が彼らの生きづらさなのではないか。
 そう考えるようになったのは、「人に教えてみたい、人から頼りにされたい、人から認められたい」(P.156)と更生施設にいる少年たちが人との関わりを求めている箇所を読んだ時だ。これは、私の推測になるが、この彼らが人との関わりを求める状況は、更生施設という彼らが心理的にも身体的にも安全を感じられる環境を得たことによって表現することが出来るようになった欲求なのではないか。つまり、マズローの欲求説で言えば、『安全欲求』から次の段階である『社会的欲求』の段階に移ったことで、少年たちの心の中に芽生え始めたものなのではないだろうか。
 以上からすると、本書の大きな目的である少年非行の防止への回答は、更生施設に送られる前に、周囲の大人たちが、彼らが心理的、身体的な危険を感じている状態にあることに気づいてあげることになる。

 川崎殺傷事件での加害者も、京アニ火災事件の加害者も起こした犯罪に対して弁護の余地はない。ただ、元々は親の離婚が心理的な負担となり脳に機能障害を起こしていた可能性は否定できない。もしかすると、彼らの意思とは全く別の原因で、我々の想像を絶するような苦しみの淵でもがいていたのかもしれない。そして、それに気づかれることもなく、時と経過とともに忘れられた人になってしまったのかもしれない。

 多くの非行少年が元々は被害者である。そして、生きづらさとの葛藤の末に加害者になっている。この負の連鎖を作らないために大人が出来ることの1つは、彼らに心理的、身体的に安全な場所を用意してあげることなのではないか。さらには、著者の主張のように「ではどうすれば防げるのか?」(P.142)という問題意識を持ち続けることなのだと思っている。


~終わり~
 
投稿者 kayopom 日時 
『ケーキの切れない非行少年たち』〜「人は変われる」。性善説に立つことの大切さ

なんと根気のいる仕事をしている人がいるのだろう。
本書を読んで、私は静かな感動を覚えるとともに少し安心した。
適切な処置と周囲の支援さえあれば、 「誰もがより良くなる可能性を持っている」ことに。

なぜ人が非行に走るのか?
本書では犯罪行動における発生要因のブレイクダウンが行われており、問題の根本の大半が人の認知機能にあることを解いていく。
正しく認知機能が働かないことが、物事にうまく対処できない、学習できない、対人関係が気づけない等につながり、自分と周囲にに対する不満が暴発した結果、非行や犯罪になってしまうという。

しかし、日々5分程度の認知機能向上のトレーニング(コグトレ)をやることで、少しずつ機能の改善が得られるという。
第7章は「一日5分で日本を変えられる」??まるで安易なネット商材のような章の見出しだが、驚くなかれ本当に成果が出ていた。
矯正8ヶ月目から少しずつ罪を犯した少年たちが変わっていく様子、そして一度著者が投げ出した授業を代わりにやる少年が出てきたエピソード、非行少年たちも集団生活の中で、暮らし体験し学びを得ることで、”自己への気づきがあること” 、”自己への評価”を得て変わっていく。
この知見も、携わってきた人たちの熱意と辛抱の賜物だろう。
この章には著者やその先人たちの仕事の尊さが集約されている。

だが、手段と希望はあっても、今後の課題も見て取れた。思うに大きく3点ある。

課題1:現状の犯罪予備軍となっている人々への対処について
本文中にもある通り、大人として社会に出ていても相当数の人が、何らかの知的障害を抱え支援が必要だが見逃されている状況にあるという。
今年だけでも京アニの放火や登戸の連続殺傷といった社会的に不遇な人々による犯罪が起きている。
秋葉原の連続殺傷事件あたりから、こうした「無敵の人」と呼ばれる人が、世間に牙を剥き始めている。
しかし残念ながら、この層にいる人々の状況を救い、犯罪を未然に防ぐのは正直あまり手立てがなさそうに思う。
現状は何らかの問題や犠牲が起こってからしか、対処ができなさそうだ。
もし多くが金銭だけならば、金銭的な支援をすれば済むのかもしれないが、根本的に社会への不満を常に持っているような人(今上映されている映画『ジョーカー』のようなタイプ)にはお金すらも無用の長物だ。

課題2:脳の発達上に問題を抱えている子どもたちの早期発見
であれば、将来的には現状発見できない課題1の人々を未然に「増やさない」ことをしなければいけない。
第4章に発達上の問題を抱える子どもの発見が非常に難しいことが書かれている。
これも相当に厄介であり、学校側から問題があると指摘しても親が認めないケース、学校側で支援ができないケースなど、特別学級の設置や地域の支援状況などバラツキもありそうだ。
発達上の問題が将来に何をもたらすか、親も学校も認識し対処していく姿勢、まずは知識と知見の普及が必要と思う。
相互不干渉が進み、なんとかハラスメントと安易に言われる時代には本当に難しいことと思うが、、。

課題3:教育や社会の意識改革
それでも私が子どもの頃よりは、学校でも対処の仕方は進んできているとは思う。
スクールカウンセラーが各学校に配置されたり、生徒同士での集団での道徳問題の討議時間が設けられたり、歩みは遅いのかもしれないが改善策は実施されてきている。
しかし、スクールカウンセラーの人たちは嘱託契約だったりと、あまり金銭面での評価は高くないようだ。
カウンセラーだけでなく、福祉や介護、保育など社会的に重要な仕事であるにかかわらず、それに見合った賃金が支払われていない現状がある。
矯正教育に携わる人々も同様と思われる。
本書を読んだ誰しもが 第1章の「犯罪者を納税者に変えて社会を豊かにすること」、きっとこの一文にぐらっとくると思う。
この金銭面での働きかけに著者の戦略的な姿勢、さらにはその裏にある切迫感が伝わってくる。
ここには、矯正教育や福祉の現場がとかく蓋をされがちで、恐らく現場の予算も人員も足りないと訴えている面もあるだろう。
人を尊重する、尊い仕事をする人に報酬面でも評価がなされる社会になるよう、労働に対する意識改革が必要と思う。

本書は重版を重ねている事実から、日本の今まだ捨てたものではないと思う。
まず自分にできそうなことは、本書を勧める啓蒙活動なので教育に携わる人や、子どもを持つ人には是非勧めたいと考えている。
 
投稿者 tadanobuueno 日時 
認知能力に問題があることで、虐待・いじめ・社会からの疎外感につながり、それがストレスになり、ストレスは他人に排出され犯罪となる。

根本的な問題である認知能力に問題があることには目が向けられず、普通の人と比べ努力が足りない、我慢が足りないという表層的な判断で、根本問題にはメスが入らず、最初の認知能力に問題があることの無限ループに陥る。

読みながら、過去に『累犯犯罪者』を読んだ時の救いのなさを感じた(そして、著書の山本氏の本が触れられていた)。今回は知能指数等の試験で明らかに知的障害とされる子ども達だけでなく、試験では見つけられない、軽度な見落とされる子ども達がいること、医者・カウンセラー等の専門家がもつ知識を横断的に駆使しなければ、累犯問題の根本にある、子ども達の認知能力の問題を解決することは難しいことが書かれており、改めて問題の複雑さを知った。

自分自身、子どもを持つ親として、何をするべきか?

1.知識を知ること
当たり前にできるができない。これが個人のやる気の問題ではないことがある。これを知らなければ、どのような改善方法があるか、それを知って改善の方法を実践して、認知能力の改善を促し、認知能力が不足することからくる問題を根底から解決していく方向に進むことはできない。
今回の課題図書や専門家の話を知ること、これが全てのスタートになる。

2.子ども達を知ること
次にこの知識に基づき子ども達をよく観察して、子ども達を知ること。
今回一番自分の感情がざわついたのが、子ども達の行動で犯罪者にみられることがいくつかは当てはまっていたこと。
個性を伸ばして、褒めていれば、出来ていない点はそのままでも良い、というのは問題の先送り。著者の指摘する誤りをやっていたが、出来ていない部分はやはり改善に取り組まなければ、その後の社会性で必要となる、他社との会話・社会での自立を妨げる要素となる。この当たり前のことを教えて戴いた。

3.他人とのネットワークを、知識を持った上で活かすこと
子ども達を怒ることがある、子どもが思春期を迎えている、いろいろな要素はあるが子ども達が自分の話を聞かなくなっている現状がある。この問題は自分の子どもの頃を考え、いつかそうなることも想像できたので、その対処のため、自分が信頼できる人たちとのつながりをつくり、その中で子ども達がいろんな大人にふれあい、自己主張をしたり、指摘されたりする環境をつくってきた。
著者の言う、社会性を育む仕組みをつくってきたことになる。

ただ、今回の本を読んで感じたことは、どんなに人が集まっても適切な知識が備わっていなければ意味がないこと(できないのはやる気の問題と片づけ、よく怒っていては意味がない)。この知識に基づき、不足していることに対して対策を行えて初めて、この他人とのネットワークが、今の私のような自分だけでは開けることが難しい、子ども達の気付きという内側の扉を開ける助けになることを気付かせてくれた。

4.学び続けること
子ども達の状況により、必要となる知識は変わる。
また、子ども達に役立つことは、人の学びの根本部分であり、大人にとっても必要な部分であり(子どもの時代に気付かれずに大人になった人は多いので)、様々な情報に接して、謙虚に学び続けること。
この気持ちをもってこれからも学びを続けていこうと思います。

今月も貴重な気づきをありがとうございます。

以上
 
投稿者 akiko3 日時 
  『小中学生の不登校14%増、低年齢化』
最近の新聞記事である。
文部科学省が公表した2018年度の「問題行動・不登校調査」結果で“理由が明確でないケースが多い”とか。
“この2,3年で小学生の保護者からの問い合わせが増えたと語るフリースクールの理事長は「体が拒否反応を示してしまい、学校に生き続けることが難しくなっている子供が多いのは事実。不登校になった小学生への対応はますます重要」とも。
教育関係者は“不登校の理由は、各学校が本人に聞かないまま判断しているケースも多い”。と指摘。
文科省は来年度生徒本人から不登校の背景などの多面的聞き取り調査を実施するとか。。。
あのー今、不登校で言葉にできない感情を抱えて身動きできなくなっている子供達はどうするの?学校が本人に聞かないままってことは関わらず、個人や家庭の問題にしてしまっているってことか?
それとも、関わりたくても親が関わらせてくれず、昨今の児童虐待死のような不幸になっているのか?(転校したら、学校は警察と児童相談所に任せるしかないし、でも、アンケート取って虐待を把握したのは学校だし、なんとか情報をつなぐことはできたのでは?と犯人捜しのようになるのでやめよう)
大人がちゃんと人間関係の構築ができてない、余裕がなくて問題を先送りせざるを得ない、事なかれ主義で問題解決ができない、そんな大人達が築いた世界にいる子供達が最終的に結果を受け取る羽目になっている。結果、等分にケーキを切る機会を得られなかった子供達が存在する。これらは社会全体の問題なのだなと負のスパイラルの重さを感じる。

自然災害が続く日本列島、“自分を守る避難”の浸透で近所で声掛けし、助かったところもあったが、自閉症の子供をつれて避難所に行けない為、恐怖の一夜を過ごした家族の存在を知り、“迷惑をかける”という社会的に負い目をもつ人に、“お互い様です”と和になれない現状に、どうしたらいいのか?と戸惑う。
災害のたびに、日本人は我慢強いとか礼儀正しいとの外国の高評価が報道されるが、黙って我慢せざるを得ない状況に追いこむ日本人の厳しさというか冷たさもあるように気づかされた。

子供達にとって我慢している自覚もないのかもと思うと切ない。脳が未発達の時期に、ちゃんと学習指導が受けられない、社会性が身に着けられない不幸の代償は被害者も含め大きい。小学校は義務教育なのに、教育の場ではなくなっているのなら、場という発想を柔軟にしてどこでどんなことを学ぶのがその子にとっていいのか?少子化とはいえ個別対応は難しいのだろうか?
気になるのは、親の共働きが当たり前になって、待機児童問題解決にやっきになっているが、箱作りばかり進めてもそこで受けられる子供の待遇や教育レベルも考慮しておかないと、子供の問題がさらに低年齢化しかねない。
また、子連れ通勤中にもし接する大人からベビーカーが邪魔と厳しい視線にさらされた幼児と、近所の人から慈しみのまなざしを注がれた幼児とでは差がでるかもしれない。

中学校が荒れた昭和終り頃、キレやすい非行少年達に添加物のない食事をとらせたらキレなくなったとか、農業に従事させることで更生に導いたとかの話もあったけど、相変わらず世の中、効率を求め、不自然なものが増えている。幼い子供達が大人のペースや事情に振り回されている。大人が作り出すおもちゃは一人でも遊べるコンピューターゲームになった。以前は家族でも楽しめるトランプや瞬発力とかも鍛えられそうなカルタ、メンコ(まだ生まれてないけど)も体を使ってやるからいいのかも。
子供は大人に慈しまれてそれらを糧に成長していくのなら、親でも教育関係者でもない自分は正しい規範をもった社会人になることを肝に銘じたい。
その為に、認知機能の訓練をし、他人と接する時に、自分の常識をふりかざさず、そういう考えもあるのか?とワンクッションおける余裕を持ちたい。ひいては、社会でよりよく生きたい。 
 

投稿者 wapooh 日時 

201910『ケーキの切れない非行少年たち』を読んで
 「ケーキの切れない非行少年たち」の本書の帯には、『非行少年が”三等分”したケーキの図』と共に『全てが歪んで見えている』子供たちの驚くべき実像」と言う言葉が添えてあった。
「ケーキを等しく切る」事ができない非行少年たちの状態とはどの様にして起きるのか?暫くその事ばかり考えていた。
・少年たちは、「一単位を等分する=割り算の概念が欠落している」のだろうか?⇒算数が出来ないだけで非行に走る子供になるとは限らない。私自身、小学2年生の初めての割り算のテストで0点を取った。何をどう間違えたのか、その後どうやって克服したのかを全く記憶していないのだが、結果に驚いた母が1mの竹の物差しを手に机の脇に座り、毎晩私が出来るようになるまで根気よく勉強に付き合ってくれたのだろうと思う。母と弟と勉強をした記憶だけは強く残っている。また、割り算については、小学生の家庭教師をしていて教える側としても躓いた。彼が言ったのだ『だって、ケーキを4つに分けて一つ取ったら、残りは3個やんか』。本書にも同様の記載があるが、少年の母親と二人共でどうしたら彼に理解してもらえるかと、説明する言葉を変え、絵を描き苦労した。最初の丸いケーキと、4等分された1/4のケーキは同じと言えるのか?彼によく考えて確認してもらい、「そうやなぁ。小さいなぁ、満足できひんなぁ。」と言う同意と体感による納得でこの定義は受け入れられ、割り算の理解に至った。
・少年たちは「等しく切る」ことを知らなかったのでは?-切り身の魚やパックの肉しか知らない子供がいるように、丸いホールのケーキを切り分けて食べる経験がなかったとか?⇒何とも味気ない話。この子らを取り巻く大人が、進んだ知識を教える機会がなかったのか、体感してこなかったのか。家庭で、学校で学ばなかったのか?もしかして、丸いからダメなだけで、四角いケーキを縦に割ることならできたのだろうか?
今回の感想文は、「ケーキを等しく切る」に固執してしまっているが、もう少し考えをすすめてみたい。
・「ケーキを等しく切る」ことが理解できない状況とはどういう状況だろうか?⇒この子が、何らかの障害を有している場合。本書が重点を置くのは、身体機能的に障害はないが、発達障害・認知障害を有しているもの。この子が障害を有している事実を周囲が認識しない場合、「忘れられた少年」として社会に出て「忘れられた大人」となり、社会に適合できず、その結果またはその過程で、非行や犯罪に走り少年院に送られるような状況。本人が認識するか不明だが、どれほど悲しいことだろう。理解されない悲しさから、世の中を悲しみのメガネで見る習性が染みついて、世界の認知が歪んでしまう。被害者意識や無常感が常態化する。
・では、逆に「ケーキを等しく切る」ことを理解できる状況とは?⇒例えば自身の誕生日やクリスマスのイベントに、家族・兄弟・学校の仲間と丸いケーキを楽しい気持ちで等分し、取り分けて仲間と分かち合える状況。授業の割り算で、何度も類似問題を解きながらイメージとして当分の定義を体現し肚落ち理解できた状態。
おそらく子供が積極的に等分を体現したくなるのは、「楽しみ」や「喜び」を伴った学びの経験からではないだろうか。その時の自分の思いや分かち合った相手への思いや笑顔、ケーキのおいしさと言う記憶が彼の心の記憶にフックを掛け『等分』を理解する。
すなわち、子供の真っ白な頭と心に『等分』の定義を教え彼が体得し体現する際にはそれを認めるか喜びを分かち合う事で「快」を引き出すこと。何度も『等分』出来ず間違えても、その不出来が彼自身を現すのではなく、一スキルが欠けているだけだと認識して出来るまでしっかりと付き合うこと。
 もし次の機会に、ケーキやリンゴを等分することになったら彼はその先の「快」を思い出して、時には切る前に何度も包丁を当てて算段(計画)をしてから、包丁を入れるだろう。自分と他人の喜びのために。
 赤ん坊が生まれて成長する段階で、様々な経験を重ね、知識を得て学習していくのだけれど、この子の真っ白な頭に心に無数の線を引くのは年長者や大人である。先月の課題図書のAIに膨大な事例を記録するように、彼の頭に人生に無数の線を引くのだ。
 子供を教育する事ひいては自分を含めて人が生きて学び成長するとは、そういう事ではなかろうか。
 成人し社会に出て『生きる力』を養っておく必要がある。適切な認知能力を習得しておくこと、先を見通して計画的に行動し、適切な判断をすること。
本書に限らずこの1, 2月の課題図書や先月の課題図書において、社会で生きて行く上で、人が現実を歪めずに認識するには言葉と思考が不可欠であること、現実とずれている場合にはずれを正しく認識し、修正することが必要と学んだ。
『修正』
ケーキ等分できない間違いを修正するために、他者やプラスの感情が寄与するように、非行少年に見られる認知の歪みを修正し、困っている彼らを助け上手く導くために、本書では『一日5分でいい。コグトレ』を提案している(本当は『5分でもいい』だけじゃないか?実際は物理的に短時間であっても、総じて長時間にわたり子供と向き合い続ける事が大事だと分かる)。
定義・知識・基準を歪んだり間違えることなく理解し認識し実践できるまで修正を繰り返す。子供なら、大人が絶えず見続けて導いてやること、心を動かしてお互いに良い気持ちを分かち合い笑顔の結果を導くことが大切。
 40代も後半の自分には子供が無いので、我が子を教育することは出来ないが、どうするのか?会社の部署には高校を卒業したまだ子供っぽさの残る18歳の少年が2人いる。直接コグトレをする必要は感じないが、周囲の仲間と共に職場全体として業務や生活で目を離さないこと。プラスの感情を引き出しながら、感性を育てる事ができるだろうか。また、彼らにとって良い導き手となるように、私自身の背中がどうあるか顧みることと。
仲間に上司に自分の認知を確認したり、助言に対して聞くなりする耳と心を持つこと。
 私自身が計画性やコミュニケーション力の点で不足を感じる事がある。年齢を重ねて『修正』力がとみに衰えている。
 課題図書を読み引用新書を2冊読んだ。また、本書を読みながら『累犯障害者(これは本書よりも悲しい)』や『女子高生サヤカが…』の未達氏を思い出していた。点と点がつながっていく。
 しょうおんさんのメルマガのタイトルに『補助線を引こう』と言うのがあるけれど、本書を通じて正しい認知の補助線を自分と将来の子供の中に引くことが出来たら、と感じている。プラスの世界に通じるプラスの言葉とプラスの認知、点を置くだけでもいつかは線になる。
 関心を持ち続け言葉と思考力を出得し続ける事、もっと密度濃く実行していかねば、時が引き締まる一冊となった。今月も良書を紹介いただき有難うございました。
投稿者 kouyou1030 日時 
ケーキの切れない非行少年たち

タイトルを見たとき、私は、
「非行少年だから、きっと粗暴でしつけもできていないだろうで、包丁も上手く使えないから、上手にケーキを切れないんだ。」
と、勝手に想像しました。
しかし、この勝手な想像は全くの的外れでした。

この非行少年たちは、包丁の使い方が出来ていないからではなく、そもそもケーキを等分するだけの認知能力がなかったがために、「ケーキが切れない」のでした。
しかも、彼らは粗暴でもなく、ごく普通の優しい雰囲気を持った子供たち。殺人などという凶悪犯罪を犯して少年院に送られてくるような感じが全くみられないのです。

この事実を知った時、私はかなりの衝撃を受けました。
先月の課題図書「AI vs 教科書が読めない子供たち」で、勉強が出来るようになるには、小手先の暗記よりもまずは読解力が大事で、これも中学校までに身につけることが大事だ。ということを私は学習しました。
その読解力を身につける前段階に、認知能力というのが人間にはあり、それがないと、一般社会で生きること自体がかなり大変になり、仕事も続かない、社会から弾き出されてた結果、犯罪者になってしまう。
私にとって、認知能力というものが人間の基本的な能力だと言うことだということに全く認識がありませんでした。
子供にとって認知能力が学力にかかる基礎的な能力だと認識していらっしゃる学校の先生は殆んどいないのではないでしょうか。

学校は認知能力というのは普通にあるという前提で成り立っており、知的障害児は医療や福祉で支援されますが、認知能力が低いだけの子が学校の教育から抜け落ちてしまって、福祉からも医療からも支援が受けられず、医療少年院まで、行き着いてしまうのは、完全に教育の設計ミスだと思います。

認知能力が不足している子は小学校二年生頃から勉強についていけなくなるとのことでありますが、そういった子供たちを集めて朝の会に認知能力を上げるトレーニングをすれば部分的にはいいのでしょう。しかし、これでは全く焼け石に水で、もっと学校教育の仕組みを変えて、どんな子供であっても社会に適応し、犯罪者ではなく活躍できる人を育てて行かなければならないと思います。
 

投稿者 dalir 日時 2019年11月1日

 

従来の教育を受けて行く途中で授業についていけなくて、落ちこぼれ
犯罪を犯し、少年院に入る人達がいる。
こういった話は、普通に生きていたら何処かで
聞くもので、ごく一部の人達がそうなるものだと思っていた。

しかし、見聞きしたことがない事を今月の課題図書に書かれていた。
それは少年院に入った事で、初めて知的障害を持っている事がわかるという事だ。

そこで、今月の課題図書(以下、本書)を読み考えた下記2点について書く

1.知的障害
2.教育

1.知的障害

現在の教育では、重度の知的障害者には特別支援学校等があるが
軽度な障害を持つ人の為の支援がない。
見た目では分かりにくく、健常者と同じ様に生活できるなら
確かに、支援する必要はないと思う。

けれども、現在の規格で軽度な知的障害にあたる人は下記の様な特徴を持つ。
「・生真面目
・”こうあるべき”という固定観念
・自分の弱みを人に見せない
・困っていることを人に相談できない
・孤立している」
こういった、特徴を持っている人が、自分から支援を求めてくる様には思えない。
犯罪を犯す事に限らず、人生の転機になる様な
転職、結婚、出産、子育て等々を機会に問題が起きても
自分で解決しようとしながらも、益々事態が悪化する様子が思い浮かぶ。

本書では、上記の特徴を持つ親が
自分の子供に対して、虐待やネグレクトを行う傾向があると書かれている。
だからこそ、悪循環にならない様に対処する必要があるけれど
その対処(予防)の1つである教育が上手くいっていない様で
軽度知的障害を持つ人にとっては不利な環境だと思う。

2.教育
もし、私が軽度知的障害を持つ人を支援しようとする時に思う事は
そういった人を察知し辛く、支援し辛い
という事だ。

というのも、1.知的障害 で書いた特徴に加え
使い勝手の良い判別方法が確立されていない事が追い打ちをかけている。
最終判断が、(結果がバラつくだろう)人の判断で決まっている事から
お金がかかり、効果的でない事が想像できる。

少子高齢化によって人口というパイが小さくなって行く以上
(全ての知的障害を持つ人が犯罪を起こすわけではないけれども)
軽度知的障害の割合が全人口の14%という数字は
社会面、経済面、財政面から
日本社会に対してより重く・大きく影響力をで迫って来るだろう。

最後に、本書を通して
一度踏み外すと(インドのアンタッチャブルとは行かないまでも)
泥沼に引きづり込まれる人達がいる事を知った。
加えて、
まだ、救いがあると思う。
それは少年院にいる(犯罪を犯した)子に承認欲求がある事だ。
過酷な状況でも
著者の様な良い師と出会い、適切な教育を受ける事が出来れば
更生・社会復帰につながる環境がある事を知った。