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第132回目(2022年4月)の課題本


4月課題図書

 

ドキュメント 戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争

 

ウクライナでは戦争が起こっているわけですが、戦争に勝つには武器を持って戦う

だけではだめで、世論を味方に付ける必要があるわけです。今回ロシアはそれに大失敗を

して世界中で叩かれているわけです。

 

そんな国際世論を作る広告代理店がどのような仕事をしているのかを理解する良書がこれ

です。リアルに戦争が起こっている今だから、こういう本を読んでおく必要があるんです

よ。

 

 【しょ~おんコメント】

4月優秀賞

 

今月は、投稿者による

一次審査の票が割れまして、なんと過去最多の8名がノミネートされました。

 

一票を獲得したのは、AKIRASATOUさん、Liesche333さん、Terucchiさんの3名で、二票を

獲得したのは、akiko3さん、masa3843さん、そして三票を獲得したのが、Cocona1さん、B

ruceLeeさん、最多の四票を獲得したのは、LifeCanBeRichさんとなりました。

 

この方々の投稿をじっくりと読みまして、最終的にCocona1さんに差し上げることにしま

した。おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 daniel3 日時 
私は「戦争広告代理店」を読んで、アメリカPR企業のレベルの高さを初めて知りました。そして国際化が進む現代社会においては、PR戦略の重要性は増す一方であると思います。そのため、PRを苦手とする日本においても本格的なPR戦略を学び、取り入れていく必要があると考えました。このように考えるに至った経緯を解説していきます。

本書では、ボスニア紛争の舞台裏で、アメリカPR企業社員であるジム・ハーフが、どのようにPR戦略を行ったかが詳細に描かれています。ボスニア紛争はボスニアとセルビア間の小国同士の民族対立のため、当初国際的な関心はほとんどありませんでした。しかしジム・ハーフが上手く情報操作を続けたことで、国際的関心を集める紛争へと発展しました。小国であるボスニアは、ジム・ハーフのPR力を活用することで、自国の武力のみでは達成できなかったであろう大きな勝利を勝ち取ることに成功しました。

本書を読んで気付いたジム・ハーフのPR力の内、特に以下の2点が重要だと考えました。
 (1)報道内容を、受け手の関心がある話題としてコントロールすることができる。
 (2)関係者をディレクションし、リスクを適切にコントロールする。
まず(1)ついて具体的には、「民族浄化」というキーワードを効果的に使うことで、人権に強い関心を持つアメリカ社会に大きな影響を与えました。本文中にも書かれていたように、単に過激な言葉を使うだけでは、やがてメッセージの受け手に飽きられてしまいますが、読者の関心を引く言葉を使うことで、その影響力は拡大再生産を続けます。「民族浄化」という言葉には、直接的に言わなくとも「ホロコースト」を連想させる力があり、アメリカをはじめとする欧米世論の注目を集めることとなりました。すなわちジム・ハーフは、どのようなメッセージを発信すれば受け手が行動を起こすかを良く理解していると言えます。

次に(2)ついてジム・ハーフは、ボスニアの外務大臣であったシライジッチを、メディア受けするようディレクションしていきました。シライジッチには、ボスニア紛争の経緯を詳細に語るクセがあり、この点はアメリカメディア向きではありませんでした。しかしディレクションにより、アメリカの視聴者が好む、現在起きている出来事を感情豊かに語るようになりました。またシライジッチには、女性関係者に手を出す欠点がありましたが、そうした行動を諌め、スキャンダルを未然に防ぐリスクコントロールをジム・ハーフは行っていました。ボスニア紛争の悲劇を伝えるシライジッチが女性スキャンダルを起こしたとなれば、視聴者の印象が悪くなり、セルビアにとって格好の反撃材料となります。こうした、関係者のメディアでの印象コントロールもPR企業の重要な役割と言えるでしょう。

上記のようなジム・ハーフのPR力の巧みさを知るにつれ、日本のPR力の未熟さが浮き彫りとなります。例えば2021年夏のオリンピックには、PRの面でいくつもの問題があったと思います。まず報道内容について言えば、コロナ禍で開催自体に疑問の声が上がる中で、適切なメッセージを発信することができず、納得感がないまま開催まで突き進むことになりました。発信するメッセージを工夫することで、オリンピックの開催がコロナ克服をイメージさせるようなメッセージの発信もできたのではないでしょうか。また大会関係者のリスクコントロールの面でも、森喜朗元会長の失言から始まる一連の辞任劇が、マイナスイメージを拡大させました。こうした事例を踏まえると、日本のPR力はお粗末なレベルと言えます。

前述した例で示したように、日本人は元々PRが苦手な民族と言われており、自身の主張を効果的に伝えることが苦手な方も多いと思います。しかし、国際化が進む現代社会においてPR力で劣る場合には、本書でのセルビアのような悲惨な末路をたどることになります。そのため、PRが苦手と言い続けているわけにはいかず、日本のPR力を世界レベルに引き上げる取り組みが必要と私は考えます。日本のPR力を向上させるためには、どのようにすべきか考えたことを次の段落から述べていきます。

まず(1)の要素については、日本が得意な部分と改善する部分の両方があります。得意な部分としては、日本は忖度する文化であり、相手の興味関心を考えることが得意なところです。苦手な部分としては、受け手に行動を促すメッセージを発信することです。この苦手な部分については、マーケティングを学ぶことで改善が期待できるので、しょーおん先生のメルマガでも紹介された新経営戦略塾で学ぶのが良いと思います。

次の(2)の要素については、多くの日本人が苦手としていることだと思います。不祥事でイメージを低下させる政治家や企業トップが後を絶たないことがそれを裏付けています。もし国内にリスクコントロールできる適切な人材がいないのであれば、ボスニアのようにアメリカのPR会社を雇い、その知見を吸収するべきであると思います。今までも日本は明治維新や第二次世界大戦後の復興のタイミングで海外の良いところを取り入れて成長してきた過去がありました。リスクコントロールについても、海外のレベルを学ぶことで、これからの国際社会に備えていべきと考えました。
 
投稿者 Liesche333 日時 
戦争広告代理店を読んで考えたこと。

本書にはボスニア紛争の陰で行われた情報戦の実態が書かれている。世論の支持を敵側に渡さず、味方に引きつけるPR戦略はきわめて重要であり、日本の外交にもPR戦略という視点を持つことの重要性や、ビジネスで利用すると大きなアドバンテージとなる、ということが書かれていたが、私は自分の人生にも応用が可能であると考えた。

私はこれまで、真実はいずれ世間に知れることになるし、情報は「真実を伝えるため」の手段であると考えていた。しかしこの本を読んで、情報は「目的を達成させるため」の手段であり、真実は伝えようとしなければ世間に知られることはないのだ、ということが分かった。ボスニア紛争のように、当事者がどのような人たちで、悪いのがどちらなのかよく分からない、ということは人生の中でも多い。そうした時に、PR戦略を用いることができれば、真実を知らせることができるだろうと考えたからだ。

白黒のはっきりしないボスニア紛争で、ボスニアが国際世論を味方につけて勝利したということは、情報の誘導の仕方で世論の支持を得られるということである。本書ではメディアの無関心を克服するため、ファクス通信でローラー作戦を実行したり、単独インタビューを設定するなどの集中的な働きかけを行っていた。自分の人生で応用ができるとしたら、例えば物事を始める際の準備や根回しなどにこのエッセンスを取り入れることで、事を優位に進めることができるだろう。公開する情報の順番が違うだけでも、相手の印象は大きく変わるはずだ。また、ハーフはメディア向けのテクニックをシライジッチに授け、『改造』することに成功したが、同じように自らを必要に応じてプロデュースすることも効果的だと考える。

本書で書かれている情報の誘導方法では、理屈や技術だけでなく、人の感情に訴えることも行っている。記者たちが不自由なく仕事が出来ることに気を配ったり、インタビュー後にお礼状を出すなどの心遣いは、受け取った相手に誠実さを感じさせることができる。こうした小さなことで『メディア全体を大きく動かす波』をハーフは自ら作り上げたが、同じことを自分の人生で起こすことは可能だと考える。人の感情に注意を払い、相手と良好な関係を築くことは、人生でも同じように大事なことで、それらは日々の小さな努力、例えば挨拶やお礼、ちょっとした気遣いなど、些細なことの積み重ねで実現できると思う。

世論を動かす勢いを本書では『民族浄化』というキャッチコピーで作っている。短い言葉で別の言葉を想起させることができる、このキャッチコピーの威力は大きかった。本書にも書かれていたが、この言葉がなければ、ボスニア紛争の結末はまったく違うものになっていたかもしれない。人生でも同じように、短い言葉で主張を伝えることができれば、結末を変える「勢い」を産むことができるだろう。使う言葉を選ぶことや、それを使うタイミングも、PR戦略の一つであることは本書に書かれている通りだ。

だが、こうしたPR戦略を使うことにより、特定の誰かを貶めることにならないだろうか、という疑問もある。本書ではPR戦略により、悪いのはセルビア人だけという世論を作り出していた。マッケンジー将軍が『戦っているすべての勢力に問題がある』と発言していたように、セルビア人だけが悪いのでなければ、彼らは不当な扱いをされたということになる。それでは後の禍根となってしまうのではないだろうか。ルーダー・フィン社は『明らかな不正手段を用いずに最大の効果をあげる』という仕事をしているが、自分の人生で応用するのであれば、それだけでは足らない。発信力が強いだけのキャッチコピーでは、ライバルや同僚などから妬まれたり、SNSで発信した際に炎上したりする危険がある。そもそも私は誰かに恨まれるようなことをしたくない。

では、どうしたら良いのか。情報をねつ造しないことは勿論のこと、情報は知性と誠実さをもって扱うことが大切である。自分の主張を固めるために怪しげな情報を用いたり、誰かを陥れる気持ちを持って情報を発信することは、発信した情報の陰で不当な扱いを受ける人を産んでしまうことになる。そうならないために、不正を行わないこと、誠意を持って情報を取り扱うことが非常に大事であると考える。また、普段から人の感情に注意を払うことが出来ていれば、情報に含まれるネガティブな感情に気づくことができ、発信を止めることもできるし、相手と良好な関係を築けていれば、もしもの時に、誰かが味方となり助けてくれるだろう。

PR戦略を持つと自分の主張を優位に進めることができ、人生に有益になる。さらにPR戦略の視点は、世の中で起きていることを俯瞰でみることができるので、情報に振り回されない自分になれるだろう。ハーフは自分たちの仕事を『メッセージのマーケティング』と言っている。私は自分のメッセージを誠実な気持ちでマーケティングし、人生をより良いものにしたいと考える。
 
投稿者 AKIRASATOU 日時 
戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争

本書はボスニア紛争を題材に、情報というものが使い方によってどれだけ強い力を発揮するかを記した一冊である。私は本書を読み、操作された情報を受け取ることで誤った判断をくださないよう、物事を多面的に見る習慣を身に着けなければならないと感じた。

まず、ここで述べる物事を多面的に見るとはどういうことか。例えば、「筋トレを週30分から60分行うと死亡・疾病リスクが減少!」というニュースを見たときに、「今まで筋トレしてなかったから今後は頑張って筋トレしてみようかな」と、情報を鵜呑みにして思考停止しないようにする。そして、「なんで筋トレしたら死亡・疾病リスクが減るの?」「適度な運動が効果的ならウォーキングでも良いのでは?」など提示された因果関係や相関関係、ストーリーをそのまま受け入れるのではなく、違う可能性が無いか考えることが物事を多面的に見るという事である。だいぶ前にしょ~おんさんのメルマガの前フリで紹介されたヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」で書かれている世界観が正にそれで、多面的に見るとはどういうことかをとても分かりやすく示している。

では、なぜ物事を多面的に見る必要があるのか。その理由は、多面的に物事を見る習慣を身につけておかないと、強いインパクトのある情報を使って、自分の都合の良いように相手を誘導しようと企んでいる人間の思うつぼになってしまうからだ。本書の第六章で出てきた「民族浄化」という表現が非常に強いインパクトがあることや、第十章にて記されている「鉄条網ごしの痩せた男」の映像が多くの人に強いインパクトを与えたことが物語っているように、人間は強い表現や映像に接すると、あたかもその情報が正しいかのように受け取り、誤った判断をくだしてしまう可能性がある。そのため、そのような情報操作に騙されないためには日ごろから多面的に物事を見る訓練・習慣づけが必要であると考える。

それでは、物事を多面的に見ることにはどのようなメリットがあるのだろうか。まずは情報操作により誤った判断をくだす危険性を減らすことができるという点が考えられる。誰かがなんらかの意図を持って発した情報をそのまま受け取ってしまうと、相手の思うツボとなり、知らず知らずのうちに自分の意見が操られ、誘導されてしまう点は、本書でも多くの事例が出ていた。物事を多面的に見ることで相手の提示した情報に対して「果たして本当にそうだろうか?」「実はこういう落とし穴があるぞ」等、アラートや疑問・反論が立ち上がるようになる。それにより、情報操作による悪影響を受ける危険性を減らすことが出来るようになるのがメリットの一つである。また、その他のメリットとしては思考が深まるということもあるだろう。なぜなら、多面的に考えるためには提示された因果関係や相関関係を疑う必要や、違うストーリーを考える必要がある。その過程において色々と思考を廻らせることで徐々に深く、広く考えられるようになるはすであり、この点も多面的に考えることのメリットと言える。

反対に、物事を多面的に見ることのデメリットはないのだろうか。デメリットとしては慣れるまでは考えること自体が大変であり、いつ慣れたと言えるタイミングが訪れるかがわからない点だろう。慣れないと考えること自体が大変であり、思考体力が無いため疲れる。また考えるには時間が必要なのでいつでも、どんなことに対してでも多面的に考えるわけにはいかない、考えすぎて何が正解かわからなくなり逆に迷いが生じ、行動が遅くなってしまう可能性もあるだろう。物事を多面的に考えることが大事であることは理屈としては理解できるものの、実践する事が難しいというのが、私を含めた多くの人の実感では無いだろうか。正直なところ、デメリットを上手く解消する手段は見当たらないが、多面的に考えることが身についた時の自分を想像し、今の取り組みが良い未来を創ることをイメージしながら乗り越えるしかないだろう。

以上のことを踏まえて、私がデメリットはあるものの物事を多面的に見る習慣を身につけなければならないと考える理由は、今後ますます思考することの重要性が増してくると考えるからである。インターネットの発展により情報は洪水のように流れており、意識せず流れに身を任せてしまうと情報による操作を企む人間に簡単に騙されてしまう。また、以前の課題図書「NEW TYPE」にも記載があったように、これからは問題解決より問題発見・問題提起が大事であり、深く思考できることはビジネスマンとして生きていくためには欠かすことの出来ない能力の一つであると言える。そのため私は、物事を多面的に見る習慣を身につけることで自分の思考力を鍛え、操作された情報に騙されることの無いようにしたいと考える。
 
投稿者 kzid9 日時 
okagesamade

ドキュメント戦争広告代理店を読んで

この本はサブタイトルにあるように、ボスニア紛争に際に行われた情報操作について書かれた本です。私は本書を読んで、「情報」や「PR」が時として実弾よりも恐ろしい力を発揮するほどの影響力を持つことや無自覚に情報を受け取ることが非常に危険であることを学びました。

現代社会に生きる私達は、日々たくさんの情報に触れています。その情報は必ず誰かの意思が反映し、ある意図をもって発信されています。つまり、情報は生データではなく、編集されているということです。そのうえで、ターゲットに対して向けた意図があるとするならば、ある特定の行動に誘導したいがためであり、無自覚に受け取ることはとても危険です。例えば、政治の世界ではある政党に投票させる目的で、また、ビジネスの世界では特定の商品の販売促進につなげるために情報を編集し、加工してターゲットに向けて戦略的に使用されるからです。結果、無自覚に受け取ると簡単に誘導されてしまうのです。

本書では「情報」「PR」について、PR戦略の専門家が特別な意図をもち、訴求対象を絞り込んで巧みに戦略を練り、時には、情報操作という不正な手段を用いてPR戦略を行うことについても書かれています。つまり、私達は自らの身を守るためにも、日々、流れてくる情報や映像について、自分で情報源にあたってみる、調べてみるといった行動が必要と考えます。

また、世論を誘導するのに大きな影響力をもつのは映像です。インパクトのある映像は人々の感情を揺さぶり、離しません。だからこそ、余計に気をつけなければなりません。湾岸戦争の際に、油まみれの水鳥がイラクの野蛮な行為の象徴として世界中に映像がながされたように、一気に世論を形成させる力があります。また、本書では、イラクのクウェート侵攻後の米議会下院の公聴会での1人のクウェート人が、奇跡的にクウェートを脱出し、アメリカに逃れてきてその目で目撃した世にもおぞましい出来事として、「病院に乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを入れた保育器が並ぶ部屋を見つけると、赤ちゃんを一人ずつ取り出し、床に投げ捨てました。冷たい床の上で、赤ちゃんは息を引き取っていったのです。怖かった‥‥」と証言したと書かれています。
この証言は仕組まれた情報操作であることが判明しましたが、奇跡的に脱出した幼い女の子、投げつけられた赤ちゃん、残虐非道な仕打ち、これらのワードは、人々の心を鷲掴みにしました。世論を形成するために、人の感情を捉えるといった戦略がとられているのです。

特に、PR企業はメディアに対してパーツに組み込まれていることに気づかせることなくPR企業の思惑通りに動いてもらうことや、情報を受取る側の感情を揺さぶる効果的なキャッチコピーにより、短時間に効率的にPRを行っています。本書で書かれている「民族浄化」という言葉も多くの人の心を動かし、バスったキャッチコピーとなります。

日々、さまざまなニュースやSNSなどで、情報や映像を目にする現代人にとって、1本のニュースが与える影響は小さいのでは。また、多様な価値観を認める風潮のなか、特定の話題だけが、それほど長く影響力を与えるとは考えにくいと思われるかもしれません。

しかし、PR企業は入念に慎重かつ巧妙な戦略を練り、誰を味方につけるか、その人達を動かすにはどういった価値観に対してアプローチをするのか有効なのか、といったことをさまざまな角度から戦略を立てています。
また、本書でもかかれているようにPR企業は、人々が情報に慣れることや注目を集め続けるために何の工夫が必要なのかといったこともマーケティングし、複雑なものをシンプルに理解させることに懸命に取り組んでいます。

このことから、「情報」や「PR」は非常に影響力があるがゆえに、日常流されるニュースにも誰かの意図が働いていて、目の前に流されてくる情報を無条件に受取っているだけでは、意図ある人に誘導されてしまいます。このために、多面的に情報を捉えることや1次情報を自ら調べるなど、無自覚に情報を受け取らないことが重要であると考えます。     
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、世界中に発信されている情報の中には、情報操作された報道も含まれているという事について、改めて考えさせられました。

1992年から1995年に起きたボスニア紛争の際、セルビアがボスニアに「民族浄化」を行っているとして、国際世論の非難がセルビアに集中しました。

その結果、セルビアは世界の悪者となりNATOによって空爆され、敗北という結末を迎えました。

ところが「セルビア人による民族浄化」は、米国のPR代理店が仕組んだ情報操作だったのです。

PRとは「Public Relation」の略語であり,大衆へ向けた広告展開だけではなく、政界の有力人物へ働きかけたり、報道機関を誘導したり、あらゆる手段を用いて顧客を支持する世論を作り、大衆にこちらの望む像を見せる情報操作の事です。

PR活動を巧みに使った、ルーダー・フィン社のジム・ハーフが率いるチームによって,アメリカの世論はセルビアを非難する世論へと、誘導されていきました.

PR活動の事前準備は用意周到に行われ、ジム・ハーフが行った初めての記者会見の前には、以下のような事が行われました。

まず、記者会見では必ず数項目のポイントを立てた新提案をした事です。「誰々が今日このような新提案を行った」という記事を書きやすい構成にし、何か新展開があるように見え、意図的にニュースの価値を高め、記事の占める面積も大きくなる可能性が高くなります。

次に、プレスキット(メディアに配布する資料)として、国連事務総長に出した手紙のコピーなどを用意しました。記者会見の前に、記事の材料となる事実情報・文書は事前に用意しておくのです。

このような、周到な準備を行ったにも関わらず、初記者会見の結果はほとんど話題になりませんでした。200社以上のメディアに声をかけて、集まったのは18社だけでした。

理由は、「そもそもボスニアのことを知らない。場所さえもわからない」という事です。

ボスニアの複雑な民族問題や歴史の知識が大衆には無いため、紛争の問題意識に辿りつくのが難しかったのです。まずは、記事の背景を知って、理解してもらうPR活動から始めなければいけませんでした。

まず、最新情報をA4シート1枚でまとめ、2、3日に1度(ニュースの多い時は毎日)FAXで、メディアだけでなく、有力議員、国務省の官僚、国連の各国代表部、自然保護団体などのNGOや、世論形成に力のありそうなあらゆる場所に向けて、情報をこまめに配信し続けたのです。

さらに、各界の知識層が好んで読む新聞や雑誌、大手テレビネットワークを中心にアプローチを行い、大手が取り上げることによって、他のメディアも追随するように仕向けたのです。

メディア全体の中でボスニアへの関心が低い状態では、記者会見をしても多くの参加は望めません。だからターゲットを絞ったジャーナリストに、彼らの都合に合わせてボスニアのシライジッチ外相との単独インタビューを設定しました。

単独インタビューを行ったシライジッチ外相には、ジム・ハーフのチームが話し方から振る舞いまで徹底的に訓練を行い、大衆へ印象良く見せる事ができるようになりました。

ここまで巧妙かつ用意周到に大衆に伝え方を考えた情報操作であれば、一方的な情報が国や世界を席巻してしまう、という事も理解できます。

受け手が、この誘導に引っ張られないように努めようという事は難しい事です。稀に、ごく一部の人達が真実を知ったとしても、大多数の人達が情報操作で誘導されてしまうと、世論は大きな力となり、政治や経済は一方的な方向へと動きます。

個人には、PRによる情報発信を止める事は出来ませんが、ニュースや報道の情報を別の視点や観点から考える、という事は可能です。

他の国や地域で伝えられているニュースや情報を知り、他の国の別の立場の人達はどのように考えているのか、という事を知れば、一方的な情報に惑わされる事は無いはずです。

一方的な情報に踊らされるのではなく、別の視点や観点からの見方もある、という事を理化しておくようにします。
 
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投稿者 Cocona1 日時 
本書を読んで私は、情報に流されないようにする難しさと重要さについて学びました。そしてそこから、情報戦争に負けないための、情報への接し方を考えました。

まず前半の、情報に流されないことの難しさと重要さについて記します。

本書では、巧みなPR戦略により、本来は「ひとつの国に“悪”というレッテルを貼ってしまうことは、間違い(P294)」であるはずの国際世論が、「一方的に白と黒のイメージが定着していく(P381)」様子が、描かれていました。そして最終的に、情報戦争の勝者が実際の戦争の勝者にもなる結末となっています。

私が注目したのは、「大手のメディアはルーダー・フィン社の情報だけをもとにして記事を書くようなことはしない(P74)」にも関わらず、気が付くと世界中が同じ方向を向いてしまったことです。その理由については、本書で詳しく分析されていたので、省きます。

メディア関係者は、常に裏をとるなどを当然心がける、情報のプロです。そんなプロでも、ある情報に対して、常に多面的に見て中立な立場でいることは難しいのだと、分かりました。とはいえ、プロでも流されるのだから、自分も情報を鵜呑みにするしかない、となるわけにはいきません。それでは、情報戦争の敗者になってしまいます。

そこで、敗者にならず自発的にとらえるための情報への接し方として、私は以下の2つの対策を考えました。
 ①その情報が広く信じられることで、得する人はだれか考える
 ②素直に受け取る情報とよく考える情報を分けるルールを作る

まず①ですが、PR会社を含め、意図的に発信されている情報には、それが広まることで得する人間がいます。本書の例では、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが得をし、セルビアが損をしています。昨今のコロナ禍では、新型コロナの脅威が報道されるたびに、PCR検査の会社などが得をしているかもしれません。このように、大きな情報の波に接したときには、得する人を具体的に想像する。そこから、情報の一方性を見つけるのは、有効な思考だと思います。

次に②ですが、これは①の逆説に聞こえるかもしれません。しかし、どんな情報でも常によく考えるのではなく、素直に受け取る情報と、検証する情報とを分けるルールを、事前に用意しておくメリハリは大切です。というのも、私たちは普段からあまりに多くの情報に接しすぎているからです。全ての情報について多面的に考えると、疲れてしまい、本当に大切なことを考察するゆとりがなくなってしまいます。

例えるなら、普段は1円でも安い野菜を求め、何店もスーパーをはしごして節約を心がけているのに、振り込め詐欺にだまされてしまうようなものです。この場合、毎日の小さな数円の節約は気にせず寛容に、大きな支払いについては、あらゆる面から情報を集めて判断するべきです。そして、情報についても同じルールが役に立ちます。しかし、私は優柔不断な性格で、今までは1円でも安い野菜を探すように、あらゆる情報について常に考え続けていました。

今後は、情報の利用の仕方として、お金で買える内容ものは上限を決めて即決を心がけ、時間と労力を節約する。その節約したリソースで、大きな話題について、しっかり情報収集をし、多面的に考えていきたいです。

具体的には、普段の小さな買い物などについては、情報を検証して買うのではなく、買ってから自分の五感で情報を検証するように意識します。話題になっているお店や商品などは、それだけ勢いもパワーもあります。まずは乗ってみて、その結果はずれることもあるかもしれません。それでも、小さなことを決めるのに大きなパワーを使うことは避けられます。もちろん、詐欺や犯罪などには気を付けなければいけませんが。

毎日の生活に精一杯の人が、政治に興味がなかったり、選挙に行かなかったりする理由も、普段から身の回りの小さなことを考えすぎて、自分の力が及ばない大きなことを考える余裕がないからかもしれません。そんな事例もふまえ、日々の小さな判断において、ある一定の金額以下では悩まないことを自分の目標にしました。もし昇給したりして、普段の生活で使える金額が増えると、悩まない情報が増えて、本当に考えなければいけないことに、より集中できるようにもなります。

最後に、本書でも書かれている通り、人は物事に白黒つけたがるクセがあります。世界中が、小さいころから善と悪のストーリーに触れすぎていて、グレーでいるのは心地悪いのでしょう。しかし、だからこそ、グレーを目指して、多面的に・中立がどこなのか考え、情報に接していく必要性を本書は教えてくれました。今後は、大きな情報の流れを感じたら、本書を思い出し、情報戦争に自分が飲みこまれてないか、一呼吸して考えたいと思います。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「つまり、ミロシェビッチがトム・クルーズ似のイケメンだったら、状況は違っていたのかも」

というのが読後の私の感想だ。本書にはボスニア紛争の裏側が描かれており、その実態は恐らく以下のキャリントン卿の見立てが最も近いのだろうと私は思う。

「モスレム人側にもセルビア人側にも、同等に責任がある、という考えの持ち主だった。おたがいの勢力が自分の側に属する人々をわざと砲撃し、それを敵の砲撃だと言って『われわれはこんなにも被害を受けている』とアピールする、という言語道断の戦術をとっている」

ところが、アメリカのPR会社の魔術により諸外国には「一方的に被害を受ける可哀そうなボスニア・ヘルツェゴビナ」と見せてしまう。このPR会社が利益を度外視してまでシライジッチをサポートしたのは何故か。それはこの実績を自社の宣伝材料としたかったからだろう。我が社は戦争でもこれだけの事が出来てしまうくらいの知恵と力がある!と。実際、エゲツナイことも言っている。

「優れた『素材』が近くにある、ということを見逃さず、それを即座に料理して最大の効果をあげるように持ってゆくのがプロの技術なのだ」

そう、このPR会社にとって登場人物は「素材」でしかなく、その相関関係や実態を正しく理解しようなどという真摯な姿勢は微塵も無く、彼らの頭にあるのはその「素材」を使って自社にどう有利に進めるか、だけである。ビジネスであるのだから当然だとも言えるが、それはつまり我々一般人がどう捉えるかも含め、自由に歪めてしまうのだから、我々をも軽視しているし、馬鹿にしているようにも感じてしまう。正直なところ嫌悪感を持ってしまったのだが、いや待てよ。。。と思い返す。現実問題としてこういう事はある。つまり、正し/正しくないは放っておかれ、人々にどう見せて、その人々がどう印象を持つかで状況が変わってしまうようなことが。例えば次の一文だ。

「アメリカ社会の一流ジャーナリストや、高級官僚には女性が多い。彼女たちが大きな社会的影響力を持つ場合もある。ある著名な女性ロビイストは、一通りインダビューが終わったあと、『ハリスって、とてもハンサムよね。あの眼つきで見つめられるとどうしようもないのよ』夢見るような目つきでそう付け加えた」

これなど、今日SNSで発信したら炎上する類の内容だろう。女性蔑視だ!女を馬鹿にするな!などなど。だが、炎上するから誰も書かないだけで、実態としては上記のような女性は存在するのだろう。だとすればセルビアのミロシェビッチがあのヴィジュアルでなく、トム・クルーズ似のイケメンだったら状況は違ってたのではないか?だとしたら「どちらが正しいか?」以前に「見た目」が重要でそれが差別化ポイントになるという、フツーならそんな所で判断してはイケナイという事がなされたのが、その点は公的には指摘されず、そのまま事が運ばんでしまったという実態。

これって誰も口には出さないが「美男美女は得する」という真実を、敢えて口に出さないことにより、その真実が証明されている事と同じ類だろう。そう、誰も言葉では発信はしないが、小泉今日子や宮沢りえは何歳になってもモテるが、そのレベルで無い女性は残念ながら。。。ってことだろう。その意味で、このPR会社は人間の弱さ、ズルさ、安易に流される点、等々の人が前面に出さない部分を突きまくり、状況を自社に有利に持っていってしまう腕を持っている。「民族浄化」というワードを最適なタイミングで打ち出したり、カナダ軍人マッケンジー将軍を平気で悪者にしてしまったりと、その腕前は非常に感心する。称賛は出来ないけれども。。。

さて、以上から私が考える本書からの学びは「思い込みには気を付けろ」なのだが、それは以下2点に分けられる。

1)イメージに惑わされる前に考えよう
2)人間の判断って実は曖昧な物

という真逆な2点なのだが、それぞれそ対象が異なる。1)は自分に対して。本書で言えば、どちらか一方が悪い訳ではないのが真実だったのに、結果的にセルビアが悪者になったという事実から、その他の事象でも、誰かの操作でイメージが作られてないか?我々がそう思うように仕組まれてないか?と考えてみる事。一方、2)は他者に対して。アンケート、街の声、何割の人々が○○と言っている、等々。それって誰がどんな立場で言ってるの?そこに責任はあるのか?ネットで匿名で書かれた意見などは正にこれが該当する。つまりいい加減で無責任な個人の感想程度の情報だし他者はそんなに考えて言葉発してないのだから重く受け止めることない、的な。

そう、惑わされないよう自分でイメージするのだ。「ミッション・インポッシブル」でミロシェビッチ的な顔が剥ぎ取られ、中からトム・クルーズが出てくるあのシーンを(笑)

プーチンとゼレンスキーの顔が剥ぎ取られたら、中からどんな顔が出てくるのだろうか?
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“情報操作の威力とエージェントの存在”

本書を読んで、情報操作の威力とPRエージェントの重要性を思い知らされた。情報操作。サブタイトルにもあるこの単語から元来私が受ける印象は、情報を捏造し世論を誘導するというものだ。ただ、PRエージェント、ジム・ハーフによる情報操作とは、あくまでも“クライアントに有利となる事実をキーとなる人々に効果的に届けること”となる。また、著者の述べるように、国際政治において敏腕PRエージェントの存在は重要だ。その事実は、ボスニア紛争の当事国であるボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアを国際的に善悪の正反対に位置付けた主たる要因が、まさに敏腕PRエージェントの存在の有無だったことからも見て取れる。さらに著者は、企業レベルでも情報操作の重要性は増していると述べている。例えば、日本の食品会社の産地偽装や金融機関のシステムトラブルなどについては、不祥事発生の際に適切な情報操作をしていれば、それらの企業イメージの損失は低減されていたはずだというのだ。そして、著者は今後社会の情報化が一層と進んで行く中で、情報操作とPRエージェントの重要性は一層増すと主張する。私は、そのことに完全同意する。が、ここで私が問いたいのは、その重要性とは国家や企業というマクロなレベルだけで認識すればよいのか?ということだ。私の答えは否である。今後は、個人というミクロなレベルでも情報操作、即ち“自らに有利となる事実をキーとなる人々に効果的に届けること”の重要性は増していくと私は考えるのだ。

まず、個人というミクロなレベルでの情報操作の重要性を見るための一例を挙げる。現在当社は新卒採用を行っている。そして、当社は新卒採用をより効果的、効率的に進める上で、ある新卒紹介企業に所属するキャリア・エージェントから必要な情報を得ている。その状況下で、私はPRエージェントとキャリア・エージェントは酷似している職業だと思ったのである。ここで言うキャリア・エージェントとは、“大学生を対象に就職活動に関する相談・助言を行う。一方で、新卒採用を希望する企業からも相談を受け、大学生を紹介する専門職のこと”である。よって、キャリア・エージェントのクライアントとは、学生と企業の両者となる。そして、上述したPRエージェントの情報操作、“クライアントに有利となる事実をキーとなる人々に効果的に届けること”というのは、そのままキャリア・エージェントもしていることと言えるのだ。本書の中で、ジム・ハーフは当時ボスニア・ヘルツェゴビナの外相であったシライジッチにメディア対応の姿勢や技術を教え込み一流のスポークスマンに仕立て上げたように、キャリア・エージェントも自社が開催する就活する大学生向けのセミナーや講座の中で、社会人として必要な心構え、リーダーシップなどの醸成、さらには面接で好印象を与える自己PRのテクニックを教え込んだ上で、彼らを必要とする企業に紹介するのである。実際に、そのキャリア・エージェントが紹介する学生に私が会って感じ、思ったのは、社会人になる上での心構えや自身の考えや長所をこちら側にしっかりと伝えることに非常に秀でているということだ。このように、個人というミクロなレベルでも、情報操作は有効であり、またそのエージェントは重要な役割を担うのである。

次に、もっと身近で誰にでも当事者的なレベルで、“自らに有利となる事実をキーとなる人々に効果的に届ける”という情報操作の重要性をセルフ・マーケティングという観点から考える。セルフ・マーケティングとは、“自分自身を『商品』と見立て、その価値を見出し、効果的な売り出し方や市場へのアピールをする”というものだ。まず、セルフ・マーケティングは自己分析をして自身の強みを洗い出し、それをブラシュアップをすることから始まる。そして、その結果として生まれたものが『商品』となる。その『商品』が情報操作における“自らに有利となる事実”に当てはまるわけだ。さらに、その『商品』を必要としている人々にアピールするということが、情報操作における“キーとなる人々に効果的に届ける”に当てはまるのである。ここで一般的に、セルフ・マーケティングは、主に個人事業主など、個人を主体に事業をする人にとって必要不可欠な手法ではあるが、世の中のマジョリティーである企業勤めのサラリーマンには身近なことではない、当事者的なレベルではないという反論があるかもしれない。が、その考えはいささか剣呑な考えではなかろうか。なぜならば、セルフ・マーケティングはサラリーマンでもその勤める企業において、自身を『商品』と見立て、その価値を上司という顧客に効果的にアピールすることで出世する、または転職をする際にも大いに役に立つ手法だからだ。そして、セルフ・マーケティングも、客観的に助言をするエージェント的な人が居ればなお良い状況になるであろう。それは、ちょうど本書の中でシライジッチが国際的な政治舞台において活躍できたのは、ジム・ハーフという戦略や戦術を与え、また客観的に助言をした敏腕PRエージェントの存在がいたという事実を見れば分かるのではないだろうか。

最後に、セルフ・マーケティングをする上で、最も重要な心得について述べる。私が考えるのは、顧客や社会の視点を持って、自身の利得とそれらの利得を一致させるということが最も重要だということだ(即ち、智の道!)。これは、本書でも見て取れる。当初、シライジッチとジム・ハーフはアメリカ政府を動かすことに苦心した。なぜなら、ボスニア紛争の解決はアメリカに経済的な利得を生まないからだ。しかし、アメリカ的な視点から、アメリカ国民が最も大切にしている民主主義と多様性の尊重を訴え、自国と利得を一致させることで、アメリカ政府を動かすことに成功している。同じように、セルフ・マーケティングにおいても、常に自身にとっての顧客や社会が求めるものは何か、その中で自身が貢献、提供できることは何かを考え続けることが重要だと思う次第である。

~終わり~
投稿者 Terucchi 日時 
“情報を疑う”

この本は、NHKのディレクターである著者がボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの民族紛争において、アメリカのPR会社であるルーダー・フィン社が如何に情報操作を行ったかについて書いたものである。当初は数ある民族紛争の一つであった戦争において、同社がボスニアからビジネスとして請け負い、情報を通して、ボスニアに都合がよい世論を作り出し、ボスニアが正義、セルビアが悪となって、ボスニアの独立及びセルビアの国連追放という、ボスニアの勝利を導いた結果である。著者がp17で言っているように、情報はあくまで「虚」でしかないのであるが、血が流された「実」の戦いに大きな影響を与えることがよくわかる。そして、その「虚」の情報を操作している「陰の仕掛け人」がいることがよくわかった。そして、世論はそれらの一つに動かされた結果であることがよくわかる。強制収容所など実際にはなかったにも拘らず、あたかもあったように作られた写真など、このボスニア戦争では世界が騙されたことになるのだが、情報操作の強さを見てしまったと思った。この本を読み、セルビアが完全な悪と思えないのだが、同社によって悪者にされて行く経緯は、お気の毒にしか思えない。そして、この本は世界での事例であるが、日本人こそ、このような情報に振り回されやすいのではと思われ、考察を深めてみることにした。

まず、PR会社と広告代理店の違いを整理してみた。著者はこの本を名付けるに当たり、広告代理店という名前を付けたくなかったと言う。なぜなら、PR会社と広告代理店は全く別物であるからだ。ただ、PR会社という言葉が当時の日本で該当する会社がなく、意味する位置付けが難しいため、やむなくこの本の題名を広告
代理店とした、とのことである。ここで、私はPR会社の意味がしっくり来なかったため、ネットでも調べてみた。広告代理店は、企業の商品などを宣伝するに当たり、企業に代わって「広告」する会社である。これに対して、PR会社は直接広告するのではなく、新聞の記事やTVの番組などの「報道」に取り上げてもらうために、報道期間に対してPRする会社である。例えば、テレビ東京系列で報道されているニュース番組の「トレたま」のコーナーなどに商品が取り上げられるとその商品はヒットすると言われる。この報道を作る番組にPRするのが、PR会社の役目である。なるほど、企業がCMなどで広告すると企業は自社に良いことしか言わないのに対し、テレビ番組の中で紹介(報道)される方が、第三者の目線で比較された結果で良いと判断されたものだとなり、視聴者も良いと思ってしまう、と考えられる。他の似た例としては、インフルエンサーと呼ばれる人の一言も大きく、同じうようなものだろう。その一言で商品の売り上げが変わってしまう。このように影響力の大きい力(人)に働きかけることが、PRであり、そのプロがいるということなのだ。

ここで、そもそも人はなぜそのような情報に左右されてしまうのであろうか?この本は世界での事例であるが、日本人こそ騙されやすいと考える。なぜなら、日本人は流行という言葉や権威者の誰々が言っているから、などの言葉に弱いからだ。では、なぜ日本人は騙されやすいのであろうか?私は日本人の教育のあり方が疑うことよりも、人を信じることが善だという考えから来ているからだと考える。ここで、世界において、騙す方と騙される方のどちらが悪いのか考えてみる。日本は明らかに騙す方が悪いとなる。しかし、世界はどうだろうか?ユダヤ人は騙される方が悪いと教育され、ギリシャでは騙されないように、哲学やディベートを学ぶと言われる。欧米諸国は基本的に騙される方が悪いとなっているらしい。そもそも、その前提となっているのは、性善説か性悪説かの違いである。日本人は性善説のため、人が騙すことを前提で考えていない。欧米諸国は、性悪説の、人は騙す前提で考えている。例えば、国際規格のISOについても、きちんと仕事をしたかどうか、していないの前提の性悪説でできており、人間が騙せない仕組みが良い仕組みとなっている。ここで、世の中の情報は仕組みではなく、良い悪いは自分たち個人で判断していかなければならない。

では、自分たちで判断をしていくには、どうしたら良いだろうか?私は、結論から言って「疑う」ことから始まると考える。なぜなら、疑うということは、物を広く見るためのものだと考えるからだ。例えば、悪い意味としての信じる・信じないの逆ではなく、物事の逆の立場や反対の立場で考えることが、別の視点に立って考えることにつながるからだ。そう、ISOの仕組みも疑うことによって、良い仕組みづくりになっていくのだ。もし、このボスニア戦争においても、別の視点、とりわけ一段高い視点に立って考えることができれば、ボスニアの勝利ではなく、ボスニアとセルビアが紛争もなく、仲良く勝利という結果もあったかも知れない。もし、情報操作できるのであれば、どちらにとっても良いとなる智の道ような結果を導くことができなかったのであろうか、と考えるのは都合が良すぎだろうか、と思う次第である。

以上、今回、著者がこの本によって、このような裏の話をしたことは、ある面、暴露したことに他ならないと考えるが、世論に対して疑ってみてみることの大切さの忠告でもあると私は捉えたのだった。
 
投稿者 str 日時 
戦争広告代理店

戦争である以上は双方どちらにも犠牲は出る。辛勝だろうと圧勝だろうと勝敗もいずれ決まるものなのだろう。しかし善悪の定義だけは表面化している情報だけを鵜呑みにするべきではないな。と感じさせられた。

勿論、話し合いでの和解を放棄し、武力行使という手段に至った側が大元を辿れば悪なのかもしれない。しかし“先に手を出した方が悪い”“侵略する側が悪い”というイメージ。まさに連日耳にするロシアとウクライナの情勢に当て嵌まるものも多い。ロシアによる軍事侵攻、要するに“強者=悪”として語られ、一方のウクライナ側は“弱者=善”とまではならずとも、少なくとも“被害者”とか“可哀想”といったイメージを抱かせている。

本書を読んで、バックに潜むPR会社による情報操作と、巧みなPR戦略が行われていたとしても何ら不思議ではないと思ってしまった。それと同時に、偏った情報発信が繰り返される報道機関にも不信感が湧く。

敵国に比べ武力で劣っているのなら、どれだけ多くの他国を味方につけることが出来るかが重要な課題となるだろう。感情的に訴えかけるならば明確な悪者の存在と、自分たちが正義であり弱者であることをアピールするのが手っ取り早い。もっとも、本書に登場するようなPR戦略は一切行われておらず、事実のみが報道されている可能性だってあるかもしれないし、実際にPR会社の戦略で事実の一部だけを切り取り、必要な箇所に必要なだけ誇張して情報を流している可能性だってある。

いずれにしても「やられたからやり返した」時点で、善悪以前の問題。お互い様なのかもしれない。自国の事とはいえ、命を落とした兵士や民間の人たちは気の毒に思う。

使い方次第では物理的な兵器にも勝る“情報”の力を再認識させられた。多角的にモノゴトを捉え、歪まされた事実を馬鹿正直に受け取らないようにしよう。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書を読んでまず感じたことは、やっぱり、これって今のウクライナのゼレンスキー大統領がやっていることと同じじゃないの、ってことである。

 ボスニア紛争においては、ボスニア外相シライジッチはアメリカのPR企業からレクチャー受け、ボスニアの惨劇をより効果的に伝え、国際世論を巻き込むことで西側諸国を味方につけることを画策する。
 一方、ゼレンスキー大統領もTシャツ姿で無精髭を生やしたまま、着飾らずありのままの姿でより親近感を湧かせ戦時下のリーダー像という演出でウクライナの惨状を訴えたり、諸外国の国会で演説したりして、同じように国際世論を味方につけるという手法を取った。これにより、ウクライナ=善玉、ロシア=悪玉という構図を描くことに成功した。
 さらに、ボスニア紛争では、敵を攻撃する時にわざと迫撃砲を病院の近くに設置したりした。そうすると、敵からの反撃はとなりの病院などに当たったりして、それを現地にいる記者たちは世界に報道する。国際世論の同情を得るために自国民を犠牲にするやり方をとったのだという。
 ウクライナでもロシアの砲弾がマンションや病院などを破壊して、罪のない一般市民や子供たちが犠牲になったと、ロシア軍の非人道さが報道されたりしているが、実はこれもウクライナ軍が敢えて同じことをやったのではなかろうか。祖国存亡の危機となればなりふりかまっていられないのであろう。

 さて、ボスニア紛争には複雑な背景があるという。もちろんボスニア紛争に限らず国際紛争のほとんどにおいてその複雑さは想像を絶するものであろう。こうだからこうなるという道理は通用しないのである。そして、分かり易い善玉悪玉論に流されしまいがちだが、そう単純なものではない。そういった世界の複雑さとマスコミによるPR戦略がいかに重要であるかを学ぶことができた。普段、テレビや新聞で流れているニュースはどんな意図があって伝えられたのか、どういったフィルターを通して届けられたのかを考えさせられる。
 単純にどちらか正しいどちらが間違いだと善玉悪玉論で考えてしまうのは考えものだが、だからといって戦争に正しいものない、どちらも悪いと割り切って思考停止してしまうのも危険である。

 では、どうすればよいか。本書から学んだことは以下である。
 ボスニアにとって生き残れる唯一の道は国際社会を味方につけ、この紛争に巻き込むことであった。しかし、欧米諸外国にとって資源的にも地政学的にさして重要ではない小国の紛争に介入してくる可能性は低く、誰も動いてはくれない。そこで、PR企業のジム・ハーフは自身の人脈や情報網を駆使して、膨大な情報を収集し、アメリカやヨーロッパの政治家と彼らに影響を与えるジャーナリストがどのような言葉で動くかを緻密に計算し、綿密な戦略を立てた。そして、民族浄化とか強制収容所といった分かり易いキャッチーなキーワードに言い換えて情報発信したのである。
 ここからの学びは、どのようなメッセージをいつ誰にどうやって伝えれば、相手の心に響かせることができるかである。つまり、人を動かすにはどうすればよいかである。
 人は理屈より感情で動くものである。その感情を動かすための要素、キーワードとは何なのかを見極め、そしてそのキーワードを使って誰を動かして、どのような行動を起こさせればいいのかを考えればよいということである。

 もう一つの学びは、情報を受け取る側での学びだ。ボスニア側のPR企業のプロパガンダにより、ボスニア=善玉、セルビア=悪玉として、セルビア側は民族浄化を行う悪玉として一方的に報道されることになり、結果として我々は踊らされた。
しかしジム・ハーフは決して嘘の情報を流していたわけではなく事実の報道に徹していた。ただ、事実のうちボスニア側にとって有利な情報だけを効果的に流しただけである。これは悪意があってやっているわけではなく、顧客の利益を最大限になるように取り計らっただけである。ビジネスマンとしては当然のことであろう。その結果として我々はセルビア人の行為を民族浄化と決めつけ、悪のレッテルを貼ってしまった。
 とは言え、このようなPR合戦、情報操作戦を規制しようとすれば、政府などが介入して情報を支配統制するしかないだろう。それがどういうことかは日本人なら歴史を振り返れば嫌というほどわかる。
 今後は情報を受け取る側の能力がこれまで以上に問われる社会になるであろう。そしてあらゆる情報に対しては、ある程度加工された情報かもしれない、何らかの意図が組み込まれた情報かもしれない、と理解した上で情報を受け取る必要がある。また、感情にまかせて流されないように理性をもって情報を受け取る必要がある、という情報受け取り側での学びを得た。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、ボスニア紛争における情報戦を描いたドキュメンタリーである。私は、副題の「情報操作」という単語から、勝手に一方の国がもう一方の国の悪事を捏造するでっちあげ工作をイメージしていた。しかしながら、本書を読み進めると、それは思い込みに過ぎなかったことが分かる。本書の主人公であるジム・ハーフは、明らかなデマや虚偽を使わずに、対立するセルビアのマイナスイメージを、世界中に流布することに成功したのである。本書の舞台となるボスニア紛争で対立したモスレム人とセルビア人。どちらが善でどちらが悪か、客観的に判断することは難しい。ただ、ハーフの活躍により、当時の国際世論は間違いなくセルビア人を悪玉と見なすようになったのである。

本書を読んで私が注目したのは、この情報戦争でボスニアを勝利に導いたバズワードが、実際は事実かどうか微妙なものだった、という点だ。前述したとおり、ハーフはセルビアの悪事を捏造したわけではない。だが、明らかな事実というわけでもないのだ。例えば、情報戦前半でセルビアの立ち位置を決定的にした「民族浄化」というキーワードだ。局所的にセルビア人がモスレム人を虐殺した事実はあると思われるものの、紛争全体の中ではモスレム人がセルビア人を虐殺した場面もあったかもしれないのである。ただ、そこには触れられることなく、「民族浄化」が一人歩きし、セルビアが悪者になった。また、情報戦中盤の重要なキーワード、「強制収容所」も同様である。取材する中で報道機関が確認できたものは「捕虜収容所」程度のものであり、ナチス・ドイツの「強制収容所」に近い施設を確認することはできなかった。

セルビア人が明らかに悪事を働いたという証拠がないにも拘らず、なぜセルビアを悪玉に仕立て上げることに成功したのか。その最大の要因は、「民族浄化」という西側諸国の感情に訴えかける絶妙なキャッチコピーを発明し、その言葉をメディアを通じて普及させたことだ。ハーフとボスニア外相のシライジッチは、セルビア人の行為を非難する際に必ずこの「民族浄化」という印象的な単語を使った。当時、実態としてはセルビア人だけでなくモスレム人もクロアチア人も大なり小なり虐殺行為を行っていたのである。バルカン半島のあちこちで民族紛争が起こっていたのだから、ある意味当然のことだ。しかしながら、セルビア人が加害者でモスレム人が被害者となる時だけ、この「民族浄化」という印象的な単語を使うことで、メディアを通じてセルビア人の虐殺行為ばかりがクローズアップされ、セルビア人が悪者になっていったのである。この後に、国際世論で話題をさらった「強制収容所」という言葉は、ハーフやシライジッチが作ったものではない。ただ、「民族浄化」の普及により、セルビア人がモスレム人を弾圧しているという基本構図が出来上がったことで、メディアはそのストーリーを裏付けるスクープを欲しがるようになった。その結果として、「強制収容所」というバズワードが生まれることになったのである。実際は、「強制収容所」が存在するという明確な証拠がなかったにも拘らず、だ。

事実とは異なるという意味では、国連総会におけるイゼトベコビッチ大統領のスピーチ原稿に出てくるキーワードも同様だ。それは、他民族国家であることを強調するために使った「民族共存」という言葉だ。このスピーチの中で、大統領はボスニアには多様な民族が暮らしており、セルビア人はその多様性を破壊しようとしていると語る。しかしながら、当時のボスニアが他民族共栄を旨としていたとは言い難く、実質的にモスリム人主体の政府であったという。つまり、大統領とハーフは他民族国家であるアメリカ受けの良いストーリーで演説を行い、ジャーナリスト達の心を掴んだのである。他民族国家を目指していたというのは、嘘ではないだろう。ただ、実態とはかけ離れていたのだ。

こうしたハーフのPR手法は、商品開発における「マーケットイン」の発想と同じだ。「マーケットイン」とは、顧客が求めているものを調査し、それに基づいた商品を開発・提供しようとする考え方である。この対義語が「プロダクトアウト」であり、企業側が作りたいものや自社の強みを活かすことのできる商品開発を行い、提供・販売していく考え方である。こうした国家間の紛争における情報発信においては、自国の考え方や都合ばかりを発出することがほとんどであろう。いわば、「プロダクトアウト」型の情報発信である。しかしそれだけでは、国際世論を味方につけることはできないのである。徹頭徹尾「マーケットイン」を貫いたハーフとボスニアのPR手法が、正しいと言えるかどうかは微妙だ。なぜなら、事実とは微妙に異なる情報が多分に含まれているからだ。しかしながら、世論を動かすために、こうした「作られた」情報が絶えず発信されているのだ。私達は、その事実を明確に意識する必要があり、メディアからの情報には、常に疑いの目を向けなくてはならないのかもしれない。

今月も素晴らしい本をご紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書によれば、もともと旧ユーゴスラヴィア連邦の内戦であったボスニア・ヘルツェゴビナ独立紛争において圧倒的不利であったボスニア政府には、これを民族や人権の問題として国際化し、国際世論を味方につける事で勝利するとの計画があったという。この要請に応えたのが、アメリカの大手PR会社、ルーダー・フィン社の国際政治局長であったジム・ハーフである。それに対し、旧ユーゴスラヴィア連邦が切り札として起用したのが、PR戦略に通じ豊富な資金力を持つミラン・パニッチ首相である。こうして、紛争当事者同士の戦いで多くの血が流れる世界地図上に、互いに有利な世論形成を目論んで凌ぎを削るPRマン同士の攻防が、まるでヴァーチャル・リアリティーのように重なってゆく生々しい実態が描き出されてゆく。

本書の中で特に印象深かったのが、国連防護軍サラエボ司令官の任務を全うし名声を得たマッケンジー将軍のエピソードである。彼は人柄が良く有能で将来を期待されていたにも関わらず、ハーフに邪魔者としてターゲットにされたばかりに国際的な糾弾を浴びることとなり、定年まで数年を残しての退役を余儀なくされた。これは彼自身の才能や人格とは無関係に、PR会社の都合とタイミングによって人生設計を狂わされたとしか言いようがない。彼の不運を他人事として読み飛ばしてよいものだろうか。政治家でも軍人でもない私のような会社員であっても、PR会社が世論形成に影響を及ぼす時代を生きる以上、マッケンジー将軍の事例を教訓として学ぶべきである。

何故ならばPR会社は「自身の評判が高まるかどうか」を「報酬額」以上に重要な仕事選びの基準としているからである。本書によれば、ボスニア政府をPRしたルーダー・フィン社は、経済的には大幅な持ち出しだったが、この仕事で全米PR協会のシルヴァー・アンビル賞を受賞することができ、会社の評価が高まったという。つまりPR会社にとっての「仕事」とは、それ自体がPR効果をもたらし、凄腕PRマンとしての名声を高める「道具」なのである。裏を返せば、彼らは常に自分を効果的にPRできる仕事を探すプロということだ。つまり、「不利な状況をPR力で鮮やかに挽回し、圧倒的な成果を出した」という実績を作れるならば、国内業界のシェア争いから離婚調停まで、至る所に彼らのマーケットが出現する可能性がある。そのため、私たちの不用意な発言や言動でさえも、いつ何時PR会社の標的とされるかは判らないのである。

そうは言っても、まさかマッケンジー将軍の身に起きたようなメディアからの一斉攻撃が、自分の身に起きるとは到底考えられないというのが普通だろう。情報を広く集めて取捨選択し、何を報道するかはメディアに委ねられているし、有能で正義感溢れるジャーナリスト達の報道の自由は憲法で保障されているからだ。しかし本書に出てくるPR会社のやっていることは、ジャーナリスト達が欲しがりそうな情報を、あくまでナチュラルな形で報道しやすく配置しておくに留まる。多くの情報の中で、クライアントに都合の良いものだけを目立たせ、都合の悪いものは情報提供者ごと排除するのだ。それが正しい事かどうかはさておき、その積み重ねが功を奏した結果、いつしか全てのメディアが一方の側について、総力を挙げて他方を批判するまでに至ってしまう。一度このような流れが形成された後に、それを覆す事は並大抵のことではない。だからこそ自分や家族、そして守るべき人や組織の為に備えるべきである。

本書で紹介されたPR情報戦の学びをもとに、私が考える対策は次の2つである。1つ目は世論の動きに興味関心を持つ事である。世論とは、まるでコントロール不能な巨大なドラゴンのようである。大暴れして敵を破滅に追い込む事もあれば、手品のような鮮やかさで人心を一つにまとめ上げる事もある。この流れが自然発生的なものであれ、PRマンによって誘導されたものであれ、注意深く観察することで、どちらの方向にバランスが傾いているのかが推定できるはずである。マッケンジー将軍が「何か計画的な意思が働いている」との違和感を感じつつ、何ら対抗策を打たずに流れに身を任せてしまったことを、我々は忘れてはならない。世論の流れが不可解なものであれ、好ましからざるものであれ、無視せず対処法を模索すべきである。

2つ目は、論理的思考力を鍛えることである。もしもPR会社による意図的な情報操作を見破り無効化する方法があるとするならば、それはメディアの受信者側である我々が賢くなることであろう。PR会社を悪者にして批判するのは容易いことだが、それでは何も変わらない。この本で得た知識を元に、メディアの発信するセンセーショナルな情報を鵜呑みにせず、発信者の裏側にいる情報提供者の意図や、利害対立の構造までを論理立てて推理するのである。このような我々一人一人の小さな努力の継続が、日本社会のPR戦略への意識を高め、ひいては日本の外交政策におけるPRセンスの向上にもつながることを期待したい。
 
投稿者 3338 日時 
情報戦の威力を目の当たりにして

この本は、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を勝ち取るために取ったPR戦略を解説している。
当時、セルビア人中心のユーゴスラビアから、次々と独立するスロベニア・クロアチアに続き、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言した。
ここで注目すべきは、スロベニアはほとんどがスロベニア人であり、クロアチアも同様であるが、ボスニアヘルツェゴビナは、4割のムスリム人と3割のセルビア人と2割のクロアチア人とその他で構成されていたことで話がややこしくなる。

セルビア人の圧倒的な軍事力の前に、国際世論を味方につけるPR戦略を取ることは正しいといえたが、これが類を見ない、殺戮をともなう紛争に発展したことは、誤算というにはあまりに傷ましい結果となった。

p42の「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はルーダー・フィン社の力を借り〜中略〜ぜひ協力してほしい。」
このシライジッチの言葉が全てを方向づけた。二度目にこのページを読み、この二人の邂逅がこの後の惨状の引き金となったと思うと薄寒いものがあった。

PR戦略を取った結果、ジム=ハーフのプロデュースで戦争の流れが作られ、ボスニア・ヘルツェゴビナがセルビアから独立を勝ちとったストーリーが産まれた。ジム=ハーフはクライアントに有利な情報だけを選んでPRを展開して行く。実際に全く逆の情報があったとしてもそれは最初からなかったように黙殺していく。
それでも「事実」をもとに戦略を立てていることに間違いはない。しかも、ジャーナリストとしてあり得ないスタンスを取っているにも関わらず恥じるどころか、むしろプライドを持って戦略を立てていく。
なぜなら、彼はジャーナリストではなく「PRマン」であり、クライアントに有利な戦略を考えるのが彼のビジネスだからだ。ジム=ハーフが「情報の死の商人」と呼ばれる所以である。

ここにPR戦略で大々的に国際世論巻き込むことの是非を考えてみたい。この後に続くコソボ紛争も同じくルーダー・フィン社の手を借りている。
自分たちのイデオロギーを通すために、国民の命が犠牲になるのなら、現状維持を選択するのは難しいことなのだろうか。

もし仮に日本人が同じ立場に置かれ、PR戦略を取って勝利したとしても、多くの人命が失われるとしたら、どのような選択をするだろうか?私には日本人がそんな選択をするとは思えない。たとえ日本国民でなくとも人命に関わるとしたら、他の戦略を頭をひねって考えるだろう。

なぜなら、日本人はYAP遺伝子を持っているからである。このYAP遺伝子はいろいろな特徴を持っている。
その一つが別名「親切遺伝子」とも呼ばれ、日本人特有の親切で勤勉なところはこの遺伝子に由来している。自分のことを顧みることなく、人の為に尽くすことのできる遺伝子。その昔主人のために命を捧げる切腹や、天皇や国のために命を捨てて戦った特攻隊も、この遺伝子があればこそできたといえる。

その上、この遺伝子は日本人の他にはチベット、アンダマン諸島などの世界の中の限られた地域にしか存在せず、同じアジアの中でも、中国人、韓国人、フィリピン人には存在していない。

そして、もっとも特徴的なのは、日本人男性 62.1%の遺伝子がYAP遺伝子のDグループ(実はもっと細かい)に属し、他国には見られない特殊な遺伝子であることが分かっている。世界のノーベル賞受賞者の遺伝子検査の結果、日本人のノーベル賞受賞者が極めて多くこのDグループに属し、韓国人のノーベル症受賞者が皆無であることからもその特殊性が窺える。
有名人には、アイシュタインやオバマ前大統領などがいる。
このYAP遺伝子を持っている故に、日本人は極めて精神性が高く、前述のPR戦略は自ら退けると私は信じたい。

今、リアルタイムで報道されているロシア対ウクライナ戦では、本当のところ裏で何が起きているのだろうか。
少し前の私なら、一般市民が砲撃されその状況を映し出した映像を見て、憤りを感じロシアを憎んでことだろう。しかし、本書を読みこの報道を見るとき、私は自分の見ている報道が真実を映し出した映像なのだろうかと疑っている。
この報道を流すメリットは誰にあり、誰の感情を左右して、どんな状況を作り出したいのかを考えている。

そして、今まで情報に操作される側の人間であったことを反省し、あちこちで他の情報を集めてみた。
その中には、ドイツの新聞(Die Welt紙)に載っていたプーチン氏がすでに病で亡くなっていることを訴えるプーチン夫人の記事があった。もうこうなれば何がなんだか私にはさっぱり分からない。

今この本を読んで、当時断片的なニュースでしかなかったボスニア・ヘルツェゴビナの独立の全貌を捉えることができた。同じように、この状態が落ち着き、何年か経ってから見えてくるものや、新たな情報でパズルがピースが揃い、全体が俯瞰できるようになってから、今回のロシア・ウクライナ戦の全貌を知ることができるのだろうか。そして、その日が来るまで待とうと思うようになったことが、自分にとって一番の成長かもしれない。
 
投稿者 akiko3 日時 
ジム・ハーフのPRは正義か?

正義とは、正しい道理とか、人間行為の正しさと定義されている。
ジム・ハーフは、ボスニアのシライジッチ外務大臣から、セルビアから助けてほしいと乞われ、(収益の見込みが危うくても)ボスニア人の為に、ボスニア独立の国益の為に、ではなく、”自分の益”の為に契約をした。
ジム・ハーフは、クロアチア独立戦争のPRに関わり、セルビア人を汚い連中と世間に示した。そのPR技術をボスニア紛争にも生かしたら、超一流のものであると示せると踏み、新たなクライアントの可能性を見出したからだった。

正義なんかなかった。
いや、ビジネスとし、クライアントの益になるようにPRし、満足させることは決して悪ではない。
でも、結局、PR戦略が効してボスニアが勝利したが、シライジッチ外務大臣は費用請求に対し、十分な支払能力がなかったのもあるのだろうが、不快感をあらわにし、関係は決裂している。顧客満足は得られていない。
シライジッチが勝って得た益は何か?その益は、助けてほしいと願った時に抱いていたものだったのだろうか?
元々、人レベルでは、人種が違っても親戚や友人だったり、コミュニティーでは交流していたし、攻撃を受けたセルビアは豊かさを失った。それは近隣にも影響があるだろう。
人も国も互いにボロボロに傷ついただけなのではないか?

一方、ジム・ハーフのPR戦略は国益に関わる”危機管理コミュニケーション”レベルのPRであることを示せ、全米PR協会賞を受賞した。
ボスニアへの紙切れの請求書が、ジム・ハーフの力量を刻んだ金の延べ棒になったようなものだ。
得られなかったものよりも益の方が大きそうだし、失ったものはなさそうだ。
もし、ジム・ハーフに全人格的意識の『良心』というものがあれば、違うPR戦略により平和をもたらすことができたのだろうか?


ジム・ハーフが情報をコントロールすることで、関係者を草の根からマスコミ、コミュニティー団体、政治や国連のトップレベルへと広げ、巻き込んでいったが、それぞれの正義を利用し、対立が際立っていった。それに、正義より明らかに”自分の益”の為に動く(人間だもの)ということが多く、ため息が出ることも多かった。

ユーゴスラビア連邦のミラン・パニッチ首相は、セルビアの為に立ち上がったが、劣勢が色濃くなるとセルビア共和国のミロシェビッチ大統領一人に責任を取らせ、その大統領に自分がなる益(野心を)抱いた。
政治家や国連は世論に対し、非難されないようにパフォーマンスを取るか、上げ足を取られないよう意思表示を避けた。
例えば、イーグルバーガー国務副長官は、「純粋に善良な被害者はバルカンの民族紛争ではあり得ない」と彼の地の紛争問題の背景をよく知っているが、しょせん、自分の声は個人のものであり、自分の身のふりにも影響があるのでロンドン会議で特に意思表示を示さなかった。

正義の為に動かない・動けない、いや、益の為に動かざるを得ない政治的正しさの基準が複雑に絡み合う世界で、どう折り合いをつけるのが正解なのだろうか?
そんなことはできるのだろうか?


複雑なことはわかりにくい。だから、単純に正義を際立たせる”悪”を用意し、(益を隠し)正義を振りかざす。ジム・ハーフの”セルビアは悪”とPRできるものを集め、逆にこのPRを邪魔するものは徹底的に排除するやり方は、意外と単純だと驚く。(タイミングとか誰を巻き込むかとかは緻密な計算や経験値が必要だが...)
この味方になりうるか、否かの判断により、
カナダのマッケンジー将軍は、中立の立場で命を懸けて人的活動をしても、貶められた。
EC和平特使キャリントン卿は、「モスレム人側、セルビア人側同等の責任があると、非常な連中とも生きてゆかねばならない、『悪』のレッテルを貼ってはいけない」と主張し、ロンドン会議前日に辞任しているが、キャリントン卿の調整能力は無能で何も解決できなかったと切り捨てる報道をした。

そのロンドン会議で、ガリ国連事務総長は、これ以上若い兵士が命を落とすのは耐えられない、平和への最後の機会として三勢力平等に扱い停戦案をだした。
国連は国連でアフリカ問題とかもっと注力する問題があると思っていても、国連は何もしないと世論が強くなると動かざるを得なくなる。
世の中は複雑なのだ。


そんな複雑な世の中でサバイバルする為に、正義だと誰かの犠牲や反感を生む自分寄りかもしれないので、『良心』に当てはめて生きようと思う。
その判断基準となる情報に対し、”情報リテラシー”力を高める必要を今回の著書から通関した。
だから、一次情報や信用できる情報源を持つようにし、常に誰の益なのか?も考えるようにしたい。

しかし、次のような報道を読んでも
「ウクライナ大統領が28日に、国連の事務総長が訪問中のキーウにロシア軍による攻撃があり、国連の『面目潰し』が狙いと非難」とあっても、
ウクライナの自作自演?
ロシアが中立の国連も攻撃する国際社会のルールを破るほどの悪?
それとも、第三者の益のものか?

個人レベルではお手上げと思考停止になりそうになる。
だが、マザーテレサの名言

『反戦運動などには参加しません。ですが、平和活動には喜んで参加します。』

この言葉を思い出し、偏った世論に加担しないように、エネルギーを向けるところを間違えないようにしようと思った。

最後に、非日常を強いられている国民の人達に一日も早い平和な日常が戻りますように、心から祈っています。
投稿者 vastos2000 日時 
ドキュメント 戦争広告代理店


本書を読み、プロパガンダは巧妙に仕掛けられると見破るのが難しいであろうと感じ、現代の日本で生きていてプロパガンダから完全に逃れることは不可能だと思う。
不可能ではあるが、極力、プロパガンダを仕掛けている者の意図を考え、安易に流されないようにしたい。なぜなら、大して考えずに何者かによる情報操作に流され、もともと望んでいない方向に行くと、自分自身にとって良くない結果になる可能性があるからだ。例えば、悪事に賛成することになったり、だれかの個人的な欲望を満たすだけであったりといった事だ。

では、具体的にどうすれば良いかと問われると、日々のニュースやSNSなどネットで発信されている情報を注意深く読むということになると考えるが、実際のところ難しいだろう。人間が使える注意力の総量は限度があるので、一つ一つのニュースやSNSで発信されている意見に対して、発信者の意図やその真偽を考えながら読むのは非常に骨が折れる。よほどそれらを目にする量を絞らない限りは難しい。それゆえ、自分が大事だと思うテーマを中心に注意を向けるということになる。

新聞一つ取ってみても、毎日大量のニュースが掲載されている。その新聞社の見解や解説を加えた記事もあるし、ただ単に起きたことを伝えるだけのニュースもある。
ある事象をニュースとして発信するその前に(新聞の場合)「どれを紙面に載せて、どれを紙面にのせないか」という点で編集者の意図が入る。同じ出来事でもニュースバリューを感じる新聞もあれば、そうでない新聞もあるだろう。さらには、同じニュースを伝えるにしても、どの立ち位置から見るかによっても伝え方、記事の書き方は変わってくる。事実を伝えるにもいくもの伝え方がある。
今回の課題図書に登場した「強制収容所」も切り取り方(写真を撮った時のカメラマンの位置と被写体)によって、悪い印象を見る者に与えた。このくだりを読んだときに思い出したのが、次のような大学時代に受けたある講義の内容だ。
「写真に泣いている子どもがうつっていて、キャプションで“この国では子ども達も飢えている”とついていたら、その国全体が飢えているかのように感じてしまいがちだが、フレームの外では普通に食事にありついている子どもがいるかもしれない。つまり、伝えられた事しか知ることができない」
PR会社はこのことを熟知しているはずで、いかにクライアントの意に沿ったニュースが発信されるかを日々考えているはずだ。

私自身は以前の部署での仕事の中に、プレスリリースの内容を考えるというものがあった。当然のことながら自社にプラスになるような内容を考え、できるだけ記者が労力をかけることなく記事にできるようなものを作っていたが、新聞紙面の何割かはこのような情報ソースで作られているのだろう。
地域版の「こんなイベントが行われました」というようなものであれば、害はないと思うが、世論を動かしたりするようなものや、自分の生活に関わってくるようなものには注意を払いたい。
最近ではコロナワクチンの3回目、4回目接種の記事で取り上げかたの偏りを感じた。私自身は推進と反対の両方の意見をいくつか見て、厚労省のHPなども見て「40代以下で健康な人は、すでにワクチンをうつメリットが薄くなっている」と感じていたが、私が読んだ紙面は「なかなか接種率が上がらない現状があるが、接種率を上げるためにはどうすればよいか?」というようなものだった。
この問題に関しては、メリット(ベネフィット)とデメリット(リスク)の両面提示がされているケースが少ないように感じている。
プロパガンダも物販も、誰かの意図にそって他人を動かすという点は共通だが、高額商品や買い手が十分な商品知識をもっている場合は両面提示が有効というのがセオリーだが、新聞がそれをやらなくて良いのだろうか?ただでネットニュースを読める時代にわざわざカネを払って購読している人(ある程度の知的水準がある人達)が読者だと思うのだけれど。

本書で取り上げられているボスニア紛争も、セルビア人側の意見はほとんどアメリカ国内では発信されていなかったようだ。(だからパニッチ首相はあせった)
カラーバス効果と似たような話かもしれないが、「セルビア:悪、ボスニア:善」というフレームがアメリカ人の頭の中にできあがってしまうと、それ沿った記事が増えるし、そのような記事で記憶と観念が強化されるのだろう。
これはおそらく、その渦中にいる人が自分で気づくのは難しい。はまってからでは難しいので、その前段階で一歩引いて全体を眺めることを心がけたい。
そのために、Twitterでも左右両方をフォローしているし、ウクライナの危機についても、ロシアの行動原理も確認した(同意はできないが、それで侵略戦争を仕掛けることはありえると思った)。
本書にしても、当然著者の意向が反映されているわけで、例えばP18の『できるだけ中庸な視点から~』と書いておいて次の文が『偉大な指導者チトーのもと~』とあるが、“偉大な”は、「それ、主観でしょ」と心の中でツッコんだ。

日本人はディベートのような双方の立場に立っての議論が苦手で、事実と意見をごちゃまぜにするし、意見と人格を同一視しがちだと言われて、ロシアの立場になって考えるだけで「ロシアの見方をするのか!」と怒る人もいるが、今回のようなケースでは、両者に言い分があるという点を忘れないよう心がけたい。
そもそも新聞をはじめとするメディアは売り上げに繋がるニュースを取り上げるし、SNSは基本的に誰でも校閲無しで書きたいことを書けるという点も忘れないようにして、誰がどのような意図でこんな情報を発信しているのか考えるようにしたい。そのために今後も自分とは考え方が異なる人の意見も見聞きしていく。
投稿者 H.J 日時 
本書は、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争における広報戦略の裏側を描いたドキュメンタリーである。
ジャーナリストである著者が取材を基に書き上げた本書はドキュメンタリーでありながら、構成の巧さが引き立ち小説の様にスラスラと読めた。
PR活動の極意や分析の仕方も解説されているため、見方によってはビジネス書の様にも読める。
ただ、私は怪しい系にも通ずる部分がある様にも感じた。(この部分は後半で述べる)
凄く奥の深い本だと思った。

全体を通して、まず私が驚いたのは、国を挙げての広報戦略を民間企業がリードしてPR活動を推進していく事だ。
もちろん、ボスニア国も最初から民間企業へ依頼しているわけではなかった。
当初は「この紛争を"国際化"し国際社会を味方に付ける」という目的を掲げ、地道に首脳への説得を試みた。
しかし、状況的に切迫詰まり、結果も乏しかった状態で独立直後の小国だったボスニア国にとっては選択肢が限られた状態だったとも言える。
ボスニア国が協力を要請したのは、フィリップス氏から紹介されたアメリカのPR企業ルーダー・フィン社の幹部社員ジム・ハーフ氏。
彼はメディア関係者や政治家への対応も熟知しており、自身の信条を基に適切かつ誠実なコミュニケーションで各方面からの信頼を獲得した。
具体的な方法としては、最新情報を出し続け、掲載内容を拡散し、味方となるメディアを絞り、記者やジャーナリストに対してお礼など、小さな努力を積み重ねた。
そして、政治家も信頼を寄せて提案されたPR戦略を全うし、ハーフ氏が伝えたいことがスムーズに伝わる。
土台が出来上がると次はターゲットとするべき相手の心を揺さぶる「民族浄化」というパワーワードを巧みに使用し、大衆の感情を動かした。
その結果、世論はボスニア側に付き、ボスニア国の思惑通りボスニア紛争は只の内戦ではなく、世界の国々を巻き込んだ。

ここまで見ると「全てが嚙み合って大成功だった!凄い!」となるわけだが、これで終わったらただの要約になるため、ここから持論を述べる。

本書のテクニックは広報活動には勿論のこと、怪しい系にも通ずる部分もある様に感じた。
なぜなら、P11で著者が記述している様にこの紛争では、PR活動による情報戦、所謂"虚"の戦いが実際の人々の血が流される"実"の戦いに大きな影響を与えている。
言い換えると、情報という目に見えないもので現実世界を動かしたのだ。
ここで情報に対して目に見えないと定義したのは、実際に戦場にいない人達が目で見ていない情報という意味からだ。
また、情報というものは目に見えないが故にグレーゾーンである。
フェイクニュース等が存在する様に、その情報が必ず正しいとは限らない。
結局は受け手が自分の頭で考え、その情報を正しく理解する必要がある。
このあたりも怪しい系に通じる様に感じる。
話を戻すと、ハーフ氏は正しい方法で地道なPR活動の末、一つのことがきっかけ(今回の場合は民族浄化というパワーワードで世論が動いた)で現実世界を思った方向に動かした。
これはもちろん、ハーフ氏のPR活動における理論や冷静な状況判断力もさることながら、シライジッチ氏が行動したことにおける結果だ。
理論と行動が両立したからこその結果である。
もしも、このどちらかが欠けていれば戦況は変わっただろう。
そして、ハーフ氏はボスニア人にとっては英雄と言っても過言ではない存在になった。

しかし、見方を変えれば、ハーフ氏のPR活動はセルビア側にとって悪なのである。
戦争の流れを変えた"民族浄化"というワードはセルビア人の虐殺を非難するためのプロパガンダだ。
このワードさえなければ、きっと死ななかった人達もいただろう。
この一言で良くも悪くも運命が変わった人は沢山いるだろう。
ただ、これについては、運的要素もあるので、仕方ないところではある。
逆にこの一言で存命した人も沢山いるだろうから。
勝てば官軍負ければ賊軍という言葉がある様に、戦争というものはこういうものだと受け入れるしかない。
勿論、ハーフ氏にとってみれば仕事を全うしただけなのだから第三者が責められる筋合いはない。
それよりも私が怪しい系に通ずる部分があると濁したのは、この部分があるからだ。
使い方(視点)を誤ると悪の道そのものである。
だからこそ、必要なエッセンスを抽象化して、利用するかしないかを自分の頭で考えて実行する必要がある。
そんなことを感じた一冊だった。
 
投稿者 mkse22 日時 
ドキュメント 戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争を読んで

ボスニア紛争を象徴する言葉として民族浄化がある。

ボスニア紛争が起こった当時、私は中学生だったと思うが、
自宅のテレビでボスニア紛争の特集番組を見た記憶があり、
その番組の字幕に「民族浄化」という単語があったことをうっすらと覚えている。
その後もこの単語を見る機会が何回かあった。

本書にあるように、この民族浄化、実はボスニア紛争で行われた情報戦争に勝つことを目的として、
ボスニア・ヘルツェゴビナ側のPR会社であるルーダ・フィン社に造られた言葉だった。

私が、初めて民族浄化という単語を聞いたとき、
「特定の民族そのものを地球上からなくしてしまう」イメージを連想してしまい、
背筋が凍るような気持ちになったことを覚えている。
当時は世界情勢にほとんど興味がなかったこともあり、ボスニア紛争の経緯を自分で調べることなく、
民族浄化を実行したセルビア人が一方的に悪いと思っていた。
この意味で、私もルーダ・フィン社の狙い通りの反応をしていたわけだ。

実は民族浄化という言葉の意味には曖昧部分がある。

『「 民族浄化」という言葉を使った場合、時にそれは民族の「虐殺」を意味し、時に意味しない。それは、
そのあいまいさを意識的に利用できる言葉だということでもある。』(p.90). 講談社. Kindle 版

民族浄化という言葉自体からは殺人を連想しやすいが、実は必ずしも殺人を意味するわけではない。
例えば、特定の場所に住んでいる人たちを宗教上の理由で別の場所に強制的に移住させても民族浄化に該当する。

言葉の意味からは虐殺も強制移住も民族浄化に該当するのだが、言葉のイメージから民族浄化と虐殺がどうしても結び付いてしまう。
ルーダ・フィン社は、この言葉の意味とイメージのズレを利用して、虐殺のイメージを連想させる民族浄化という単語を世界中に拡散させ、
ボスニア・ヘルツェゴビナ側支持の流れを作り出したわけだ。

このような言葉のイメージを通じて都合のよい流れを作り出す能力は実は戦争だけでなく、ビジネスでも求められている。

否定的な表現を肯定的な表現で言い換えることも、その能力の応用例の1つだろう。
否定的な内容でも肯定的な表現に言い換えて相手に伝えることで、相手にポジティブな印象を与えようとするわけだ。
相手がポジティブな印象を持ってもらえたら、こちらの要求も通りやすくなるからだ。
同じ事実でもそれを否定的に表現するか肯定的に表現するかで、相手の受け取り方が変わってしまう。

もちろん、物事を円滑にすすめるために、ある程度のイメージを利用する必要はあるだろう。
しかし、イメージと事実との乖離が大きくなりすぎると、それは相手をだますことにつながってしまう。
正直、現時点においては民族浄化はこのイメージと事実の乖離が大きくなりすぎてしまった一例のような気がしてならない。

もう1例。ビジネスではよく短い文章が好まれる。
ビジネスではこなすべき仕事が多く常に時間がないため、要点だけを素早く理解する必要があるからだ。
短くすることにはこのようなメリットがあるが、実はデメリットもある。
事実との乖離がうまれることだ。文章を短くするには情報を圧縮する必要があり、それはどうしても
抽象的な表現となってしまう。抽象化の過程で情報量が減るため、どうしても事実から乖離が生じてしまう。
抽象化も事実からの乖離という意味で、言葉のイメージを利用する余地が生まれてしまう。

このように考えると、私たちは言葉のイメージを通じて事実ではないことを事実と受け取ってしまっており、
相手方の都合がよいように操られている可能性は常にあるわけだ。
この操られている状況に気づくにはどのようにすればよいのだろうか。

やはり、ファクトフルネスしかない気がする。
データや事実などの具体的な例を一つずつ確認する。圧縮された情報ではなく、
可能な限り生の情報を受け取り、それを分析する。
地道だがこれ以外の方法が思いつかなかった。


今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。