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第149回目(2023年9月)の課題本


9月課題図書

 

エネルギーをめぐる旅――文明の歴史と私たちの未来

 

です。人類史をエネルギーというメガネを掛けて見たら、どんな風景が見えるのかという

なかなか斬新な視点で、知的好奇心が高い人は大満足する1冊だと思います。しかしこう

いう本を読んでピンと来ない人は、ご自身が現世御利益に偏った考え方をしていないかを

振り返ってみるべきだと思います。

 

会話の抽斗って、こういう本をたくさん読むことで増えていくんですよ。

 【しょ~おんコメント】

9月分投票結果

 

9月はmasa3843さんが4票、LifeCanBeRichさん、taroheiさん、H.Jさんが各1票となり

ました。

 

その結果、LifeCanBeRichさんが11pts、masa3843さんが9pts、Cocona1さんが7pts、3338

さんとdaniel3さんが3pts、H.Jさんが2pts、Terucchiさん、strさん、Taroheiさんが1pts

となりました。

 

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、人間とは脳が求める欲望のままに欲する生き物である、という事がよく分かりました。


特に気になったのは、エネルギー資源に依存し続けて来た人類が、欲望の脳の欲求の赴くまま、ただひたすらにエネルギー消費を拡大してきたこれまでのやり方が、もはや通用しなくなって来ているという点です。脳をあまり自由に解放せず、エネルギー資源への欲望を理性でどうコントロールするかです。


2018年末時点での可採年数は、原油と天然ガスで約50年分、石炭は約130年分で現在確認されている埋蔵量は、2100年頃までにすべてを使い切ることになると概算されています。


それが分かっていて尚、エネルギー資源に依存し続ける人類とは、己の欲望の赴くままに欲しいものを求め、成長を求め続けていく生物とも言えます。エネルギー資源の搾取と同じように、自分の求めるものに貪欲になるのが人間なのです。


例えば、資源を他国に求めて戦争を起こしたり、地球だけではなく他の星にエネルギー資源を求める、宇宙開発競争という事も行われています。人類のエネルギー資源の搾取は、益々進んでいきます。


個人のレベルでも、自分が見たい、知りたい情報をすぐに検索エンジンで調べたり、欲しいものがネットショップですぐに探し出せる、或いは同じ趣味嗜好の人達とSNSを通して繋がることが出来る現在、欲望のままに何でも手に入れる事が容易となっているのも、脳の欲望に忠実に行動し続ける事に拍車をかけています。


今後、必要なものが「自分の思い通りに何でも揃う」という時代は、終焉へと向かっています。大量生産は資源エネルギーの豊富さに裏打ちされたものであり、それが不足する時代には、多少の不便さも許容しなければいけない時代となっていきます。


中国の老子が「足るを知るは、常に足るを知る」と言っているように、現状に満足できる人は、常に変わらぬ満足を得ることが出来るのです。


「自分はこんなに幸せで恵まれているような人間ではないのに、ありがたいことだ」と日々生活の中で感謝をすれば、さぞかし満ち足りた一生を送ることが出来るでしょう。


ところが、現実では老子のような境地に至ることは、簡単には出来ません。どれだけ恵まれても、どれだけ満たされても、まだあれが足りない、これが不足だ、あの人がああなれば、こういう人でなければ、と要求や不満ばかりが出てきて、苦しんでしまうのが実状のように感じます。


自分以外の、他に求め過ぎてしまっている状態です。資源エネルギーが無くなったら、一度、便利さの追求をストップしても良いのではないかと考えます。


人間は、環境に適用できる生き物です。今は便利で快適な生活に慣れていますが、本来の生活は他の生き物と同じように野山で狩りや海川で漁をし、作物を育てて生きてきました。


それが電気やガス、水道のインフラが整い、それが在る事が当たり前の生活となった時から、より便利になる方法を追求して来たのです。


便利な状態がある事が当たり前の状態となったら、それが在る事のありがたみも忘れてしまいます。


このまま原油と天然ガス、石炭を使い切り、今の便利な世の中では無くなったとしても、不便なのが当たり前という世界で生活し、日々のちょっとした恩恵に感謝して生活するのが、人として当たり前の生活であると考えるのです。


今からでも、日々の便利な生活に感謝をし、来るべき不便な世界の中でも、小さな恩恵をありがたいと思えるように生きていきたいと思います。
 
投稿者 Cocona1 日時 
「もったいない+ギブ・アンド・テイク=おすそ分け」

本書は、人類のたどってきた道のりを、歴史・科学・哲学など様々な方向から、エネルギーを軸にして記した本である。舞台は日本にとどまらず、時代も多岐にわたっているため、多様な知識に触れられたのがまさに旅のようだった。

本書によると、「エネルギー問題を考えるということは、つまるところ『私たちはいかに生きるべきか』という哲学を考えるということなのです」だという(P380)。そのヒントは本書内にたくさん詰まっていた。そこで私も、自分はいかに生きるべきかを考えてみた。

著者は、これからは「より少ないエネルギーで幸せを感じる」こととし、際限なくエネルギーを求めるのではなく、ほどほどのテンポとしての「年率2%の成長」を推奨している(P371)。「2%」は、杉やヒノキの成長するスピードが元になっているそうだ。経済の本などで成長率の目安として「2%や3%」という数字は目にしていたが、その根拠に木の成長スピードを上げたことは、非常に納得感があった。

しかし、私は実際に自分が目指すものが「2%」でいいのか、疑問を持つ。「2%」を越えて成長できるなら、やはりもっと上を目指した方がいいのではないか。

そう考える理由は下記の3つである。

まず1つ目は、脳が「もっとエネルギーを」と求めているからである。著者が言うように、人間の脳はより多くのエネルギーを求めるようにできている。どうやら私の脳も例外ではないらしい。そのため、人類の未来のためとはいえ、「2%の成長」と言われても、物足りなさを感じる。

2つ目の理由は、「椅子取りゲーム」に負けてしまうからである。296ページに書いてある通り、この資本主義の社会は、壮大な「椅子取りゲーム」になっている。怠けていたら、いや怠けていなくても、もっと頑張っている人に地位を取って代わられてしまう。もし、全人類に「2%の成長」が義務付けられているなら、それを守るのもいいだろう。しかし、自分だけが「2%の成長」を守っていては、椅子取りゲームで負けてしまう。

3つ目の理由は、「伸びしろ」があるのに「2%」しか成長しないのは、エネルギー効率が悪いからである。例えるなら1日400個の製品を作れる工場で、200個しか作らないようなものだ。それこそ、余ったエネルギーがもったいないと感じる。

では、著者の主張を尊重しつつ、納得できる考え方はなんだろうか。私は「おすそ分け」だと考える。

ここでの「おすそ分け」とは、著者が終盤で言っている、「もったいない」と「ギブ・アンド・テイク」を合体させたものだ。もっとやれる人が「2%」しか成長しないのはエネルギーがもったいない。しかし、自分のためだけにエネルギーを求め続けるのは本書に反する。そこで、「2%」を超えるエネルギーを、自分以外の誰かのために「ギブ」するのだ。それが私が考えた「おすそ分け」案である。

この「おすそ分け」の考え方は、数年前に見た映画「おおかみこどもの雨と雪」の1シーンから来ている。

映画の主人公は都会から田舎に引っ越し、最初「家族3人が食べられるだけで十分」と畑を始める。しかし、農業を教えてくれるおじいちゃんは、主人公に畑を広く作るように指導する。結果的に自分たちが食べる分以上のものは、「おすそ分け」することで、近所付き合いができたり、作物が不作な人を助けたり、まさに「ギブ・アンド・テイク」につながっていく。主人公はおじいちゃんにお礼とともに「畑が大きくなければいけない理由がわかりました」と伝えるのだ。

私は、ここでいう「家族が食べられるだけ十分」が「2%の成長」ではないかと考える。自分が足りているのを理解し、必要以上のエネルギーを求めない姿勢である。しかし、他人のためにもっと多くのエネルギーを目指せれば、余ってしまうもったいないエネルギーを解消し、「ギブ・アンド・テイク」もたくさんできるのではないだろうか。

余ったエネルギーといっても、それはお金や物に限らない。例えばお金が余っているなら「寄付」。労働が待っているなら「ボランティア」。時間・体力が余っているなら「献血」。など、少し考えれば、誰にでも何かしら余っているエネルギーはありそうである。

私の例だが、先月から新しい試みとして、「好きな趣味の業界」を応援する目的で、本業とは違う仕事を始めている。それは、自分の時給で換算してしまうと10円にもならないような、本当に小さなエネルギーの種である。それでもこの仕事は「おすそ分け」であり、それによって自分の「好きな趣味の業界」を盛り上げていきたい思いで、取り組んでいる。

そろそろ本稿の旅も終わりが近づいている。そういえば、日本の旅に欠かせないお土産文化も、「おすそ分け」である。旅先で自分が得られた経験などのエネルギーを、自分だけのものにするのではなく、分けあうのだ。本書のテーマの一つである「私たちはいかに生きるべきか」。私はその答えを「おすそ分け」とし、自分の人生の旅を進んでいきたい。
 
投稿者 vastos2000 日時 
過去を含む世界の事象をエネルギーの観点から見ていくとこで新たな気づきを得られた一冊だった。第一部の冒頭で、『その定義とは、「エネルギーの新たな獲得手段や利用手段の発明により、人類によるエネルギー消費量を飛躍的に増加させることになった事象」というものです。このて意義に基づくと、私の整理ではこれまでに五つのエネルギー革命があったことになります。 ~中略~ ぜひ、五つのエネルギー書くメインいついてそれぞれに予想を立てて、答え合わせをしながら読み進めてください』とあるので、予想を立てた。それは次のものだ。
  水→蒸気機関→電気→原子力→インターネット
蒸気機関と電気はあっていたが、他は外した。せめて「火」に考えを及ばせたかったとは思ったが、予想を裏切られたことで、より関心を持って読むことができたのだろう。
そしてところどころ、サラッと怪しいことが書かれているのにもニヤッとさせられた。
それらの怪しいことは基本編やマネーマネージメントと金運編にも通じることであるように感じた。一部ネタバレになるのかも知れないが、太陽エネルギーを受けて育つ植物は確かにエネルギーを保持しているし、エネルギーは形を変えるので、人間は食物(果物や野菜)を摂取することで、エネルギーを補給するというのも納得できた。

同時に、私は精神エネルギーについても考えた。本書では深掘りされてないように感じたが、「気力」や「精神力」、「体力」といった言葉があるように、人間の(人間以外の動物も?)思考にはエネルギーがあるし、思考や活動をするにもエネルギーが必要だと思う。実際に筋肉を動かすのに、体内でアデノシン三リン酸を分解したエネルギーを利用しているわけで、目に見える肉体の動きのエネルギーは特に不思議なモノではないだろう。
それに対して思考や精神は目に見えるものではないが、これらにもエネルギーが宿っていると考える。
そう思う根拠のひとつは、思考表現の一つである文章からエネルギーを得ることができるからである。
もう一つは、硬貨や紙幣それ時代では何のエネルギーも発生しないが、「お金」の概念を持つ人間が取り扱うとエネルギーを発生させるようになるからである。現在では電子マネーが普及してきたが、これらは実体はなくデータが書き換えられるだけであるが、エネルギーを有する。
ここから、人間の思考や精神にもエネルギーがあると考えた。そう考えてからセミナー受講した際のノートを見返してみたが、本書に通じる話が多く書かれており、少なくとも「お金はエネルギー」という点については誤っていないようだと確認できた。

話を本書に戻すと、 あるキーワードを軸に歴史を見ていく類書は書店や図書館に行けばたくさんある(『砂糖の世界史』や「コーヒーが廻り、世界史が廻る」など)。高校時代に授業で習った世界史に、これらの知識を肉付けしていくのは面白く、大人になってから世界史の教師が言っていた「幹となる知識をいま身につけておけば、あとから好きなところに肉付けできるようになる」という言葉の意味を実感できるようになった。
ゾロアスター教や蒸気機関の話は世界史の授業のなかでも出てきたし、農耕の始まりや電気の発見も何かの本で読んだ記憶がある。本書は通史というよりは、各章テーマを設定してその話題を深めていくスタイルだが、歴史の知識に結合することで楽しめた。
特に、「人間の脳がより多く、より効率的にエネルギーを欲するものだ」とのことから、エネルギーの取り合いで古代から戦争を繰り返して来たというのは納得。日本が第二次世界大戦に突入していったのもエネルギー源の確保が目的の一つだったし。
すでに持っている知識に別の知識を結合させて、そこから新たな気づきを得るというのは楽しいことであることが再確認できた。
投稿者 masa3843 日時 
本書は、エネルギーと人類の関係性について俯瞰的かつ多面的に考察された本である。エネルギー革命の歴史的な経過やエネルギーに関する科学的は法則、そしてエネルギーに対する哲学的な考察など、その切り口は多岐に亘る。エネルギーについてそこまで深く考えたことがなかった私にとって、目から鱗が落ちる内容の連続であった。本書を読んで最も反省させられたのは、エネルギー問題に向かう個人としての姿勢である。エネルギー資源枯渇の問題や気候変動の問題について、私はどこか他人事であった。言い訳になるが、問題の規模感が大きすぎることで、無力感が先行していたのだ。ただ、私が他人事と捉えていた最大の要因は、新しい技術に対する過度な期待である。化石燃料資源がいずれ枯渇してしまうという事実は分かっている。地球温暖化の進行が止まらないという現実も理解しているつもりだ。それでも、これまで人類は数多くの新技術を開発してきており、このエネルギー問題についても誰かが何とか解決してくれるだろいうと根拠なく楽観視していたのである。本稿では、なぜ新技術への過度な期待をするべきでないのか整理することで、私達一人ひとりがエネルギー問題に向かう姿勢のあるべき姿について考えてみたい。

まず、本書の中で著者は明確に「技術革新による問題解決への無邪気な期待を慎む」べきだと主張している。エネルギーの世界は、熱力学の第一法則と第二法則が支配する世界であり、何もないところからエネルギーを作り出す技術や、エネルギーの質の劣化を逆転させる技術は実現不可能だ。熱力学の第一法則とは、要するにエネルギーは勝手に増えたり消えたりすることはないという法則であり、だからこそ無から有を創り出す技術があり得ないというわけだ。一方、熱力学の第二法則は、エネルギーは自然に散逸し、その変化は不可逆性を持っているという法則であり、エネルギーを劣化させずに保存し活用できる技術が存在しないということを意味する。つまり、熱力学の第一法則と第二法則に従うこの世界で生きている限り、革新的な新技術にも科学的な限界が存在するということだ。

エネルギー問題を解決するにあたり、現在最も有望な技術とされているのは核融合発電であろう。私自身、核融合発電のニュースを見る度に、原子力や火力に代わるエネルギー源として大きな期待を寄せていた。現在実用化されている原子力発電では、核分裂反応による原子力エネルギーを活用しており、超長期に亘る管理が必要となる高レベル放射性廃棄物処分の問題があるため、総合的には発電効率が良いとは言えない。2011年の東日本大震災で明らかになったように、災害時のリスクも無視できない。核融合発電は、こうした核分裂反応による原子力発電が抱えている課題を解決してくれるのだ。高レベル放射性廃棄物が発生することはなく、広大な土地も必要ないため、エネルギー効率が圧倒的に高いのである。しかしながら、核融合炉の設計は技術的に難しいため未だ実用化の目途は立っておらず、開発にはまだ数十年の年月が必要だと言われている。一方、気候変動問題は喫緊の課題であり、数十年の時間を待っている余裕はない。核融合発電が実用化される頃には、地球環境が急速に変化し、人類をはじめとした現生成物が死滅してしまっている可能性すらあるのである。

ただ、仮に核融合発電のような圧倒的に効率の良いエネルギー源が開発されたとして、本当に問題は解決されるのだろうか?そうとは限らない。なぜなら、エネルギー効率の高めることは、エネルギー消費を増やす可能性があるからだ。これは、ジェボンズのパラドックスと言われるものだ。エネルギー効率の改善は、ある特定の利用に必要なエネルギー量を減らす。他方で、利用コストを下げ、新たなエネルギー需要を呼び起こすことで、エネルギー効率の向上によって得られた節約分が相殺されるのみならず、経済成長が促進され経済全体にさらなるエネルギー需要が見込まれることになるのだ。つまり、エネルギー需要の増加分が節約分を上回り、経済全体としてエネルギー利用が増加してしまう。技術進歩がエネルギー問題を解決に導くことはなく、むしろ、問題を大きくするかもしれないというわけだ。

そうであるなら、エネルギー問題を解決する鍵は、供給者側よりも需要者側が握っていることになる。つまり、我々消費者側の行動変革が不可欠なのだ。文字通り、エネルギー問題を他人事として捉えず、一人ひとりが当事者意識を持たなければならない。新型コロナウイルスの感染が拡大し、経済活動の停止が世界規模で同時に行われたにも拘らず、それによって減少した二酸化炭素排出量はパリ協定が求める水準には遠く及ばなかったという。ここから得られる教訓は、経済活動を抑制することで二酸化炭素排出量を抑制することは、限りなく難しいということだ。だとすれば、経済成長を絶対とする価値観を個々人が変えていかなければならない。地球環境の守り神として甦ったフンババとの共存を目指して、一人ひとりが生活スタイルを抜本的に見直す時がきているのだ。まだ遅くはないと信じたい。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“意志の力について考える”

エネルギーという切り口で人類史を遡り、現在に来復し、そして、未来を嘱望する。そんな本書の前半から中盤は、自らが時間と空間を縦横無尽に駆けめぐりながら、エネルギーにまつわる未知の世界を探訪しているようで胸が躍り、高鳴った。例えば、古代人の神を創造し森林の枯渇を防ごうとした危機察知力や雷と稲の生育の関係性を見抜いた洞察力(超能力?!)には、ただただ感嘆するしかなかった。また、第一次から第五次にわたるエネルギー革命によってもたらされた人間社会の変化、進化にも驚くことしきりであった。一方で中盤から後半は、足に鎖の重しが繋がれたように現実をじっくりと直視させられ、また、自らの振る舞いを否応なく省みることを強いられた感じだ。なぜなら、我々現代人が現在直面している気候変動問題やエネルギー枯渇問題に正しく取り組まなければ、未来に生きる人たちに過大な負担を押し付けることになるからだ。ただ、著者は“自らの意志の力で変えていくことができる未来は存在する”(P.305)と述べる。そこで本稿では、“気候変動問題に解を与え、エネルギー資源枯渇問題とも折り合いのついた持続可能な社会の構築”(P.326)は、人の持つ意志の力で実現するものなのかどうかを考察する。

まず、人の持つ意志の力について述べる。意志の力とは、自らをコントロールして目標を達成する能力のことだ。本書には、その意志の力により社会や文明の発展が阻まれる危機を幾度も打開してきた人類史が記述されている。その中で、私に強烈な印象を与えたのが、第五次エネルギー革命にあたる窒素の固定化である。なぜなら、地球上に生存できる生物の総量制限という自然の理を人間が科学の力で打ち破ったというところに、大きな感動とともに人類は禁断の領域に踏み入ったのでないかというある種の怖しさも感じたからだ。兎にも角にも、この偉業も当時の主たるエネルギー資源であった硝石の枯渇問題を絶対に乗り越えるのだ!という人の持つ意志の力がなし得たものだ。自らの意志を立ち上げることの重要性と確固たる意志の持つ絶大な力については、S塾セミナーでも暫し解説されるところである。今回エネルギーにまつわる人類史を眺めることで、改めて意志の力の凄さが確認でき、大きく心が揺さぶられた次第だ。そして、このように人類史を振り返ると、次々と現れる社会や文明の発展危機を都度乗りこえてきているのが人なのだとわかる。そうすると、現代の気候変動問題やエネルギー枯渇問題も人は意志の力を持ってして克服していくのではないかと思えてくるのである。

しかしながら、上述した楽観的な思いとは裏腹に、資本主義の世界に生きる現代人が気候変動及びエネルギー資源枯渇の問題を克服し、持続可能な社会を実現することは至極難しいのでは?と考える私も同時にいる。なぜなら、資本主義が人間に説き、その威力を見せつけてきた“経済成長がすべてを救う”(P.288)という教えを見直すことが必要になってくるからだ。産業革命以降、人は経済成長が生み出した資本の力の恩恵に浸ってきた。本書で述べられるように、産業革命以前に苦しめられてきた飢饉や疫病は資本の力が解決してきたのだ。その偉大なる資本の力と経済成長を人は自らの意志の力で抑制することができるのだろうか。そもそも、これまで社会や文明の発展危機を乗りこえてきた人の意志の力は、経済的に豊かになるのだ!という欲求、欲望に支えられていたのではないだろうか。もしも、地球の環境や資源が侵されるものでもなく、枯渇するものでもなければ、経済成長を抑制する必要はない。ただ、現実はそうではない。では、現代に生きる我々はどう振る舞えばよいのだろうか?経済的な豊かさへの欲求、欲望に代わる意志の力の源泉はあるのだろうか?

その鍵となる考え方は著者が本書で提示してくれている。それは“無限の広がりを持つ貨幣価値という抽象概念を、「粋」「野暮」「気障」というたった三つの言葉から成る美意識という別の抽象概念に巧みにすり替えることで、際限のない欲求の拡大を抑え、物理的な制約がある中においても十分な幸せを感じ取ることができる”(P.378)という考え方だ。私はこの著者の考え方を取り入れることで、人の持つ意志の力に新たな可能性をもたらすことが出来ると感じるのである。上述される抽象概念である美意識は、必ずしも江戸っ子の「粋」「野暮」「気障」でなくても、「足るを知る」でも「質素倹約」でも良いと思う。要するに、経済的な豊かさよりも、未来に生きる人たちに思いを馳せた時に、自らを誇らしく思えるような考え方や行動を優先することで精神的な豊かさを追い求めてみるのだ。そして、そのような美意識や精神的な豊かさが源泉となった意志の力こそが、気候変動問題とエネルギー資源枯渇問題を乗り越える持続可能な社会の構築を可能にするのだと私は考えるのだ。


~終わり~
投稿者 str 日時 
エネルギーをめぐる旅

本書は人類の歴史と進化の為には必要不可欠な“エネルギー”を主として記された一冊。おそらく、己が身ひとつでは生き永らえることも、ここまで繁栄することも出来なかったであろう人類が、エネルギーの存在に気付き、活用し、発展してきた様子が5つのエネルギー革命と共に綴られている。人類の賢さを改めて認識するとともに、エネルギーを味方につけることが出来なければ、とうに絶滅していてもおかしくない人類の“個”の弱さが垣間見れた。

実に当たり前の事であり、本書でも記述されていたが『無から有は作り出せない』ということ。いくら人類の技術が進歩したところで、人体の構造が変わる訳でもなく、エネルギーを何もないところから作り出すことはできず、エネルギーを保持しているものから人類が使える形で『取り出すこと』しかできないのだ。『熱いお湯はやがて冷めるが、冷たい水が自然に熱くなることはない』と言われているように、人類は火や電気などが発する熱エネルギーが無ければ水を温めることも、逆に冷やして凍らせることも出来ない。それ程までに数多くのエネルギーに助けられ、生活していくことが出来ているのだと感じた。

著者は人類がエネルギー消費量を増やしてきた理由を『時間の短縮』であると述べている。たしかに、自らの五体のみを使用することに固執せず、乗り物を使って高速で移動し、離れた相手と通話も出来る。何かを生産しようにも機械を使い、時短を図る人類の時間軸は、他の生物とは異なるのかもしれない。しかし、人類がエネルギーを大量消費してまで時間短縮をし続けようとする背景には、他の生物にはない“労働”や複雑な“コミュニティ”更には“規律・法律”などがあり、それらに適応できなければ暮らしていけないという現実が存在する。他の生物より早回しされた時間軸を生きていかなければならないのは、エネルギーを大量に消費し続ける人類の対価ではないかと考える。

昨今では同じエネルギーであっても、蒸気機関車から電車へ。石油燃料で動くものから電気自動車へ。ガスコンロからIHヒーターへと、エネルギーに対する変革はまだまだ続いているように感じ、そういった観点から見ても楽しく読むことが出来た。温かい食事も快適な室温も、エネルギーが与えてくれている恩恵に、今以上に感謝しながら生きていきたい。
 
投稿者 tarohei 日時 
 エネルギー問題と現代社会のイデオロギーについて考えさせられた。

 本書では、エネルギー革命について独自の分類を試みている。過去に5回、人類のエネルギー使用量についてパラダイムシフトが起きる程の大きな変革があったという。
 最初のエネルギー革命は人類の火の利用であり、次が約1万年前に起こった農耕の開始の時、そして3番目が18世紀の産業革命における蒸気機関の発明の時、続いて4番目が19世紀の電気の利用が始まった時、最後の5番目が20世紀の人工肥料の開発の時である。
このエネルギー革命により人口が爆発的に増加した。人間1人当たりのエネルギー消費量も右肩上がりで増えていき、特に先進国では1人当たりのエネルギー消費量が加速度的に多くなった。なぜこんなことになったのかというと、エネルギーの大量投入による時間の早回しの結果である。
 過去5回のエネルギー革命を通して、いろいろなことが短い時間でできるようになった。火を利用することで、本来胃腸が負担しなければならない消化にかかるエネルギーを外製化し、食事にかかる時間や消化の時間が短くなった。農耕が開始されると、食料確保のための労働時間が減り、産業革命では仕事や移動にかかる時間が減り、電気の活用で情報通信にかかる時間も減ってきた。そのような形ですべて、時間がどんどん短縮する方向に向かっているのが現代社会なのである。

 現代社会は、目まぐるしく時間が流れ、1分1秒でもより早く、今日よりも明日、明日よりも明後日が必ず発展すると信じることで成り立っている社会だと言える。この現代社会を支配しているのが、所謂、資本主義の神様と言われているもので、この資本主義の神様が現代社会を支配できてきた理由は、ひとえに現代社会がエネルギーを大量投入して、時間を早回ししているからだと言える。
 
 さて、たとえ話しをすると、台風は赤道付近の海上から潤沢なエネルギーの供給を受けて発達していき、北上するに従って勢力が弱まっていき、最後には海上からのエネルギー供給がなくなってしまい消滅する。このようにエネルギーの供給を受けてどんどん発達していく構造と現代社会のそれとはまさに同じ構造だと言える。
 とは言え、これは悪いことばかりではなく、経済学の考え方では、経済が発展していけば、環境への負荷は減っていくとされている。最初はどうしても環境負荷が高いのだが、ある程度経済が成長すると、環境負荷を含有することができるようになり、環境も自然とだんだんと良くなる。だから、この構造がダメといっているのではなく、現代社会がエネルギーを無制限に大量投入することで、全ての問題を解決しようとしてきたことが問題なのである。

 現代社会はエネルギーを大量投入することによって、自然界の束縛から解放されてきた。そして、自然界の束縛から解放することを資本主義の神様が約束してきたからこそ、現代社会は発達することができたと言える。
 しかし、それは大量のエネルギーの投入なしではあり得えないのである。だからこそ、エネルギー消費が減少しないというのが、現代社会の構造なのである。
 つまり、これまでの資本主義社会のあり方では、現在社会は時間をどんどん早回し方向で動き、エネルギー消費が増加する方向にしか向かわないということである。
 エネルギー問題の本質とは、こういった現代社会の構造の有り様そのものが問われているということだと思うのである。

 また、更に言及すると、
 自然界というのは、地域規模で太陽光エネルギーの奪い合いをしているが、無駄のないフェアなエネルギーの分配を行っている。
 一方で、人類社会というのは、地球規模でエネルギー資源の分配をやってきたが、人類はいくらでもエネルギーの不適切な分配や浪費をできてしまうのである。例えば、木はおよそ50年で成木となるが、人類がそれ以上のハイペースで消費すれば、当然いずれ森林資源が消失してしまう。
 現代社会というものは、加速度的にエネルギーを消費することでここまで発達してきた。このあたりの対応を考えることに、エネルギー問題の本質を解く鍵があるのではないかと思う。

 だとすれば、どうするべきなのか。
本書で著者が最も伝えたかったのは、物事の本質を捉え思いを未来に馳せること、ではなかろうか。小手先の対応ではなく、理学・工学・経済学・社会学・政治学・地政学的な見地に立ち、原理原則に基づいて未来を切り開いていくことが重要なのであろう。
 
投稿者 H.J 日時 
当たり前に感謝をしよう。
結論から述べると、この様に改めてそう思った一冊だった。

本書はエネルギーという観点から、人類とエネルギーについて言及した一冊だ。
著者が本書内で述べている様に、エネルギーは抽象的で変幻自在なので本質を捉えることが難しい。
そして当たり前の様に人類の生活を支えているので、注目されにくい。
故に知らないことが多すぎる。
時には宗教も交え、人類史にエネルギーがどう関わってきたのか解説してくれる本書はすごくありがたい限りである。
そして、進化と共に浮彫になったエネルギー問題についても言及をしている。

火や電気など現代社会において、当たり前の様に人類を支えるエネルギー。
身近にあり、有る事が当たり前すぎるが故に、エネルギーの歴史やその有難さを認識しないまま生活してきた。
例えば、生活に欠かせない火というエネルギーについても、本書では「料理」という観点で注目している。
火による加熱処理が行えることで栄養摂取効率が良くなり、ヒトの身体の中の消化に費やすエネルギーを抑えることに成功した。
その結果、脳に十分なエネルギーを送ることが出来たことで体格に比較して脳を広大化できたのだという。
ヒトとして生きている我々が生活できているのも、先人たちの知恵はもとより、火というエネルギーが原点である。
この理論を基に考えれば、我々がスマホなどを弄ることも読書を楽しんだりすることも火が無ければできないことになる。
なぜならば知能がなければ、そもそも発明はおろか文献を残すことさえ出来ないからである。
そもそも、生物という観点で見た時、ヒトが長く繁栄できたことも知能が備わってることが一因とされる。
そう考えていくと、脳を大きく発達させるために必要な火というエネルギーに感謝の気持ちが湧いてくる。
普段、当たり前の様に火の通った食べ物を食している我々にとって、火を知ろうとなど思わない。
農耕や電気などのエネルギーについても同様である。
だからこそ、普段知ろうともしないエネルギーについて興味を持ち、感謝の気持ちを持てたのは、本書を読んだからこその変化である。
当たり前のことに感謝をする。ということは、本書の本筋とは少しずれてしまうかもしれない。
しかし、エネルギーに限らず、当たり前のことに感謝する気持ちは重要だと思うのだ。

本書では第4部の3章で、エネルギーが起こす問題について、対策法に言及している。
誰にでもできる効果絶大な方法として紹介されているのが、節約である。
お金を節約ではなく、節電や食べ残しを減らすなどにスポットをあてた節約である。
この節約をするにあたっても、本書を読み、エネルギーという我々の生活を当たり前に支えてくれるものに対しての感謝があれば行える気がする。
私にとって本書は勉強にもなり、この様な思いも生まれた特別な一冊だった。