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第133回目(2022年5月)の課題本


5月課題図書

 

同志少女よ、敵を撃て

 

この小説を読んでからウクライナの戦争に関する報道を見ると、見えて来る風景が

変わると思います。そして彼の地の戦場では、ここで語られているようなことが、リアル

に日々起こっているのだと実感すると、なんとしてでも早く止めさせなきゃと思うわけで

す。

 

でも先月の課題図書を読めば分かるように、この戦争だってPR合戦みたいな側面もあるん

ですよ。我々が目にするニュースのほとんどが、西側つまりアメリカ側に偏っているわけ

で、あちら側の陣営では真逆の報道がされていて、どちらにも真実が含まれているわけで

す。それが理解できると、戦争を二元論で語らないようになるんですよね。

 

 

 【しょ~おんコメント】

5月優秀賞

 

sarusuberi49さんが5票、Cocona1さん、masa3843さん、tsubaki.yuki1229さん、LifeCanB

eRichさんが各2票、suzurinさん、ynui190さん、AKIRASATOUさん、daniel3さん、3338

んが各1票となりました。

 

これらの方々の投稿をじっくりと読みまして、今月はdaniel3さんに差し上げることにし

ました。初受賞おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 akiko3 日時 
非常に残虐な戦闘シーンが頻繁にでてくるのに、狙撃兵が放つ一発には不思議な『無』、静寂を感じた。
そんな射撃について、アヤやユリアンの言語化も静かなものだったが、激戦区で戦い桁違いのスコアーを持っているリュドミラも次のように語っていた。
『射撃の瞬間-自らは限りなく無に近づく。―無、心の境地で目標を撃つ。そして命中した瞬間に世界が戻ってくる。』
この語りからも激しい戦闘時にも関わらず、撃つものと撃たれるものとの静寂の瞬間がイメージできる。
そして、セラフィマはこの言葉を聞きながら、自分が狩りで獲物を撃つ時と同じだと思い、
『だから撃つことに楽しみを覚えないよう注意していた。』と振り返っている。

私もセラフィマが最初に母鹿を撃った場面を思い出していた。
あの時は、セラフィマが子鹿をみて動揺したが、村の為に母鹿を撃ったので、単純に星野道夫氏の写真絵本「ナヌークの贈りもの」に出てくるエスキモーの狩人と氷の世界の王者シロクマ(ナヌーク)の会話と同じだと思い出した。

『生まれかわっていく、いのちたち
 いのちたちのために祈ったとき、お前はナヌークになり、
ナヌークは人間になる
どちらが命をおとしてもどちらでもよいのだ』

だが、セラフィマの生きる世界は、国と国との利害・力の拮抗で人が始めた戦時下だし、
話が進むほどに、同じロシア軍内でも自我をむき出しにし、我よしで生き延びようとする人の姿や軍隊組織間の軋轢、男尊女卑などの拮抗を明らかになっていく。
すぐに、ナヌークの話とは全然次元が違うと忘れていたのに...。

なのに、リュドミラの言葉を読んだ時、”あ、同じだ!”と再びナヌークの話と何かが結び付いた。

リュドミラはこう続ける。
『この無心に至り、技術にのめり込むのは、ネジ作りの達人も同じ』
ユリアンは
『ただ遠くのロウソクを吹き消す技術を学んで、それを競っているようなもの』
と表現していた。

これ、マズローの5段階欲求階層の上の『自己超越』段階ではないか?
"目的の遂行・達成のみを求め" ただ没頭する。

この感覚は、自然界の弱肉強食の「ナヌークの贈りもの」の世界で『みな大地の一部』だった時と同じではないか?
世界が無となり、静寂の中にただ自分がいる。
当たると思って撃つ。
思ったことがそのまま現実になる。
それは何かとの一体感であり、
ただそこに自分というピースが在る感覚。
自我をなくし、一ピースとして大きなものと一体化すると
そこにはただ大きな、循環するなにかがあるだけ。


この思ったことが現実になる神意識に、自我が入り込むと戦場では死だ。
だから、イリーナは最初の訓練時から、『何のために』という動機を階層化させた。
そして、戦場では忘れろと。ただ自分の中にしっかりとその動機を持っておけと。

そんなイリーナの動機には、全てを失った女性達、セラフィマのように生きる気力を失くし、ただ死を望む人間に、復讐心を糧にしてでも生きる方へと向かわせ、戦後も鑑み”殺し屋にさせたのは自分”だと全責任を一生背負う覚悟までしていた。

リュドミラは言った。
* 愛する人をもて、あるいは、生きがいをもて

『敵への復讐』が生きがいになったと語ったユリアン。
愛する人を失ったママは、『子供を守る』ことが動機だから、咄嗟に敵の子供兵でも助けようとした。
看護兵のターニャは、イリーナに問われた時『人を治す』ことを選んだ。
それは戦後になっても、変わらないと言い切る動機だった。
セラフィマはイエーガーを撃ち復讐が終わった後でも、自分が信じる人道の上に立ち、ドイツ人の女性を守る為に、ロシア兵であり幼馴染でもあるミーシカを撃ち殺した。


戦争は生活の場を破壊し、多くの人の命を奪う。
なんとか生き残っても、障害を持ったり、身体の傷だけでなく、憎しみ、怒り、喪失、罪悪、恐怖などの癒えぬ疼きと共に生きていかなければならなかった。
大きな犠牲を伴う戦争という過ちを侵さねば気づくことができなかった人類への課題を、現在も解こうとせずに進行形の戦争を思うと...。


今、私はこうして平和な日常に生かされ、つながれてきた命を次へとつなぐ日まで、改めて動機が大切だと実感した。
これまで、人生の連綿と続くYes/Noの取捨選択において、単純に善悪を綺麗に分けることは難しいから、よけいに普遍的な信念が必要だとは考えていた。
アラサーの頃、ルターの名言
『たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える』
を知ったが、当時は全然意味がわからなかった。
40代になる頃には、自分にとって”リンゴの木”とは何だろう?と考えるようになった。
だが、今度はその正否が気になっていた。
今回、セラフィマから『それを考え、選ぶのは自分の特権』だと励まされた。
無心に至り、技術にのめり込みながら、自分の人生を生きよう。
投稿者 Cocona1 日時 
本書を一周目に読んだとき、私には、なぜイリーナが生徒たちに戦う目的を考えさせたのか、理解できずにいました。というのも、戦争で敵を倒す目的は、自分で考えるものではなく、外から命令される以外にはないと、思い込んでいたからです。

日本の戦争を考えても、戦う目的は国のため、故郷のため、家族のため。出兵の命令が来れば拒否権はない。敵は自分で決めるのではなく、人から決められたもの。それ以外の戦う目的など、考えたことがありませんでした。本書ではミハイルが、まさに自分の目的など考えず、外からの命令に従って戦っていたと思います。

さらに私は、目的を生徒たちに決めさせることは、味方にとっても生徒たちにとってもリスクが大きいと感じました。

まず、味方にとってのリスクは、人によって敵が変わるため、隊が乱れ、周りに危険が及ぶことです。隊員が別々の目的に沿って動くと、軍の統制は失われます。同じ状況に至ったときでも、人によって行動が変わってきてしまうからです。戦闘員を兵器化したいなら、個人の目的は不要です。実際、本書の中でも、登場人物が個人の目的を持ったために、味方に危険が及んでいる場面が出てきています。ママは敵の小さな子どもを助けましたが、そのことで自分が負傷しました。セラフィマに至っては、ミハイルへの狙撃によって、自国の兵力を弱めたことは間違いありません。

次に、本人にとってのリスクは、個人の精神的負担が大きいことです。戦争で戦うほどの異常事態において、自己責任を求められるのはかなりの精神的負担になります。なぜなら、自分で目的を決めることで、「命令されたから人を殺す」という言い訳ができず、自分の意志で人を殺すことになるからです。その自己責任は、考えたくもない苦しさです。本書では、敵を撃つための正当化という言葉が何度も出てきますが、私は自分の精神状態を守るためには大切な思考だと思っていました。

それでも生徒たちに目的を考えさせたイリーナの意図はどこにあったのか、その答えを求めながら2周目を読むと、むしろ逆にイリーナは生徒たちを守るべく、目的を考えさせたのではないか、と思い至りました。というのも、従属的に戦うことで人は、自分を失い、悪魔になっていくからです。

上から命令され、周りと同調して行動することは、確かに精神的な負担は少なくすみます。特に戦争では、自分の意志で敵を撃つのではなく、命令されたからと、殺人を言い訳できる安心は大切です。しかし、精神的な楽さの代償に自分を失っていきます。セラフィマも途中、イリーナ・軍・国の言うとおりに行動することで、自分を失いかけ、自分が怪物に近づいてゆく実感を語っています。隊の仲間意識、同志結束のために男性たちが女性を暴行すると話したミハイルも、兵士になる前はだれもが認める優しい青年でした。それでも、周りと一緒に上からの命令に従ううちに、自分を失い、その行動がセラフィマに敵とみなされ、撃たれてしまいます。

自主的に戦うイバラの道と、従属的に戦って自分を失い悪魔になっていく地獄。

イリーナは、どちらも苦しい選択ながらも、狙撃兵になっても生徒たちに自分を見失ってほしくない気持ちから、各自の目的を決めさせたのではないでしょうか。

人は、自分の意見を持つことで、周りから孤立するのを恐れます。特に戦争では、軍からの孤立が、死へのリスクを高めます。なぜなら、緊急時に仲間から援護されない危険につながるからです。そのため、ミハイルの行動は、決して良いとは言いがたいですが、私には仕方がないとも思えます。

周りに合わせる・命令に従うだけの従属的な行動は、戦争時だけではありません。私も、自分の人生を自主的に生きているのか。改めて考えると自信を持ってYESと言えないことに気づきます。特に日本は、空気を読むことが重視される文化です。普段の行動でも、周りから孤立することを恐れて、自分を封印することがあります。確かに、周りに合わせること、命令に従って生きることは、安心・安全・楽な生き方かもしれません。しかしそれは、ドローンで山頂から景色を眺めるのと同じです。決して自分の人生を生きているのではなく、気づけば自分を失っていく行為なのです。

今の時代、戦場とは違い、選択を間違えても命を奪われることは決してないはずなのに、どうして自分で敵を決めないのか。考えることを放棄してはいけない。イリーナは私に、そう教えてくれました。

この投稿の締めとして、本書を読みながらずっと私の頭の中で流れていた、大好きなアーティストの歌の歌詞を紹介したいと思います。

”必死に空気ばっか読んでたら
自分の名前さえ分かんなくなっちゃうかもよ”

タイトルは「孤独のススメ」。

自分の人生、敵は自分で決める!たとえそれが孤独の道でも。
 
投稿者 suzurin 日時 
朝からのどんよりとした曇り空にいつしか霧雨が舞い始めた。これから某神社で奉納演武をするというのに嫌だなという感情が沸き起こった。設営準備を進めるに従い、雨足は強くなり、はっきりとした雨粒がポツポツと私の頭や肩を打つ。あぁ、石原明先生の言う一人称視点に落ちているな。これでは上手く斬れない。気付いた時にはそんな感情が私の心の大半を占めていた。

本書を一読して疑問を感じたのは次の点だ。私の娘と同じ歳の、18歳の少女が何故高度な射撃能力を体得出来ただけでなく、過酷な戦争を生き抜く業を身に付ける事が出来たのか?セラフィマは何故強い殺意を抱いていたイリーナと戦後一緒に暮らしているのか?

まずセラフィマの感情の変化を整理する。①訓練時には悲しみを収斂させ怒りと憎悪でイリーナへの殺意を抱く。②初めての実戦経験後は初めて人を殺した事や戦友を失った事に意識を失う程に感情を高ぶらせ、ドイツ兵への憎悪と殺意へと転写する。③スターリングラードではイリーナと一緒に作戦行動を遂行しながら、徐々に狙撃手としての成長を実感しやがてドイツ兵を殺害する事(スコアを伸ばす事)に喜びを感じていく。④そして戦友達の叱責に冷静になり自己嫌悪に至る。⑤スターリングラードでの戦闘終了後、母や生まれ故郷の村人達を殺害したドイツの狙撃手の存在に邂逅し新たな復讐心を燃え上がらせる。

生と死の狭間の究極の環境だからこそ、短期間で多くの経験を積めるのだろうが、これらの殆どは自分視点(一人称視点)であり、相手視点(二人称視点)で物事を判断する場面は非常に限られている。しかしそれでは到底、生き残る事は難しい。狙撃能力は誰よりも高かったアヤは自分視点で感情に支配され初戦で落命した。例えば、私が鍛錬を積んでいる抜刀道では斬る事で精神力を養う事を最大の目的としている。精神力とは不動心であり、感情を排除する。斬る際は上半身の力を抜き全身同時に体を動かす。そして斬る瞬間は指先で斬る。気剣体一致の気力で、感情を持たず、思考せず、無我の境地を目指す。即ちそれはセラフィマが体得している射撃時の技術を超えた上位概念というか、メタ認知と同様のものであり、セラフィマは感情と思考を排除する為に無意識に歌を歌うことがある。死ぬのだと言う実感さえも冷静に他人事のように受け止める。これこそ三人称視点やそれ以上の視座の高い状態であり、こういった経験の積み重ねが、目の前で起きている事に対してどう考え行動するのが適切なのか、心が楽になるのかと体得し、判断基準を徐々に上げる事で生き抜く業が身についたのではないだろうか。そして、起点(目的)を持つ事、その起点は自分視点でなく、広い視野で時間と空間を超越し様々な方向から見ても整合性のある理念であればあるほど、三人称視点が得られ生き抜く業になるのではないだろうか。常日頃、私も師範から「日本刀は腕の力で振るのではなく、心で振るのだ。」と叱咤されているが、その真意を薄らと感じられたように思う。

そしてセラフィマは、リュドミラの講義で殆ど全ての狙撃兵が技術論に関心を寄せる中、狙撃を続ける意味とその果てにある境地を知りたいと望む。そこでリュドミラから得た答えは狙撃の高みに行っても何らかの境地がある訳ではなく、狙撃の技術に優れているという名声が残るだけだから愛する人を持つか、生きがいを持てという事だった。だが、鋭角に尖がった技術があっても空しいだけなのかと言うと決してそうではないと思う。私の人生も特定の分野に深く入れ込むか、様々な分野に広く浅く接するか、どちらが良いのか葛藤の繰り返しだった。少なくとも何かを成す時に「限りなく無に近づく。極限まで研ぎ澄ました精神を明鏡止水に導く。無心の境地で目的を遂行する。」レベルの技術を持つ事を前提に、究極に1つの事を極めるのではなく、程よく有機的に複数の能力を高め相乗効果を出せるような考え方を今後していきたい。

最後に、ケーニヒスベルク戦に至ると、セラフィマの視座はより高くなり、過去の自分の失敗を含めて冷静に見渡せる幅が広くなり、より遠くを見据える事が出来る様になったのではないだろうか。イリーナが取った行動に悲しみを収斂させ怒りと憎悪で抱いていた殺意は誤解であり、むしろセラフィマを生かす為に取った行動である事に気付く。そして自分を含めた戦友達の苦悩を救う為に自ら悪役を演じた事を。私の娘はほんわかまったり系なのでなかなか親の声が届かないのだが、平和な日本で生まれ、日常生活を過ごせる事に感謝しながら、丁寧に伝えていきたい。翻って私もかつて親の意見なんて全然耳に入らなかったのだから。私自身は無限に視座を高める努力をする事、有機的に複数の能力を高め相乗効果を出せるよう努める事を宣言し締め括りたい。
 
投稿者 mkse22 日時 
「同志少女よ、敵を撃て」を読んで

本書では主人公であるセラフィマの視点から独ソ戦の様子が描かれています。
彼女は故郷の村をドイツ兵に襲撃されたことをきっかけにドイツ兵とイリーナに
怒りと殺意を覚えつつ、ソ連軍の狙撃手として独ソ戦に参加、数々の戦果をあげていきます。

彼女は兵士としての経験を積む中で、戦う理由が変わっていきます。
当初は自分の村をおそったドイツ兵を殺すためでしたが、次第に味方や女性を守るためとなり、
最後には、味方より女性を守ることを優先します。
彼女が女性を守ることを優先するきっかけとなったのは、味方の男性兵士がドイツ人女性を
襲っている場面に遭遇したときです。その場面に遭遇した彼女は、敵国女性を守ることを優先し、
女性を襲っていた男性兵士を射殺します。味方兵士を射殺したことが判明すれば、
自身が処刑される可能性があるにもかかわらずです。

この事例には男性兵士と女性兵士の違いが凝縮されています。

男性兵士と女性兵士の違い、それは仲間意識と倫理観にあります。
男性兵士は、特に同性兵士との仲間意識を重視しており、仲間意識向上のために
女性への暴行といった違法行為を手段として利用するほどです。
女性兵士にも仲間意識はあるのですが、敵国の女性や子供を助けるために必要であれば
仲間を裏切ります。

仲間意識と倫理観の違いが彼らを対立させます。

女性を襲うことはどんな理由があっても許されないことだと主張するセラフィマに対して、
もちろん許されないことではあると理解しているが、仲間意識向上のためにやむをえないことであり、
さらには特殊な環境が普遍的な倫理を捻じ曲げて無効化してしまうと主張するミハイル。
改めて女性への暴行は絶対に許されないと主張するセラフィマに対して、彼女が80人もの敵兵を殺していることを指摘して、
普遍的な倫理は存在しないことを指摘するミハイル。
ミハイルの指摘に対して、嫌悪感をあらわにして会話を打ち切ったセラフィマ。
ここに男性兵士と女性兵士との間に理解しあえない壁があるように感じました。

この対立は男性と女性という性別が起因しているのでしょうか。

たしかにそうかもしれません。ただ、男性と女性という視点が大雑把すぎる可能性があるため、、
さらに詳細な視点からの分析、例えば、大人や子供や障害者やLGBTであればどのような考え方をするのか
調査する必要があるとかんがえます。

ただ、この対立の背景として独ソ戦は男性の戦争であることを考慮する必要があるかとおもいます。
独ソ戦は、将校や兵士の大部分が男性のため、男性の考え方や価値観が
軍の作戦や行動に強く反映されてしまっているからです。
このことは次の1文に集約されています。「戦争は女の顔をしていない」(p.471)

仮に、女性の戦争が発生したら、女性はどのような状況となるのでしょうか。
例えば、軍の将校や兵士の大部分が女性で構成されている国同士が戦争をしたらどうなるのでしょうか。

もしかしたら、女性にとっては、男性の戦争を超えるような人権侵害を受けるような状況になるかもしれません。

なぜなら、女性を最も理解することができるのは同じ女性です。
軍の女性将校が作戦を立てる際に、勝利のために女性固有の考え方や行動を十分に考慮するはずです。
同じ女性だからこそ女性特有の弱い部分がどこかがわかるわけです。

それでは女性の戦争では、女性の暴行はどのような扱いとなるのでしょうか。
セラフィマの主張の通り、どんな理由があっても許されないことだとして
両国の間で合意がなされて禁止事項となるのでしょうか。

正直、どちらも起こりうる可能性があるかと思います。
女性同士だからこそ、絶対に許されないことだとして合意することができるかもしれませんし、
もし、戦況が悪くなれば、女性将校はたとえ禁止事項にしていたとしても敵国の女性兵士を追い詰めるために
解禁するかもしれません。

女性の戦争では実際に実際に戦うのは女性のため、敵国の女性を追い詰めることができれば、
その軍の戦力を直接的にそぎ落とすことができます。男性の戦争における女性は基本的に戦わないため、敵国女性を追い詰めても、
軍の戦力にそれほどの影響はありません。こうなると、女性同士の対立構造が生まれてくる可能性があります。

このように考えると、先程の仲間意識と倫理観の違いというのは、男性の戦争という特殊な前提のもとで成り立つものであり、
実はそれほど強固な違い可能性があることに気づきました。

本書を通じて、改めて、視点を変えることの重要性に気づきました。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで一番感じたのは、戦争は始まった時や、続いている時、終わった後も、人々の思考や行動を変えてしまう、という事です。


戦争で亡くなった人は、戦争によって人生が終わってしまうという事にもなりますが、戦争から生き残って帰って来た人にも、生きていく上で自身にとっての戦争体験というものが自身の思考や、行動に影響を与えます。


戦争について書かれた本や、教科書で語られる歴史、何人の犠牲者が出たのかという数字だけでは計る事のできない、個人が体験した戦争とは何だったのだろうかという問いは、生き残った人が一生考え続けなければいけない命題です。


主人公セラフィマも独ソ戦に巻き込まれる前は、モスクワ近郊の長閑な農村で母親と狩りをして暮らしながら、外交官を目指す純朴な少女でした。それが、 ドイツ軍の急襲によって、故郷の村や家族全てを失った事によって、彼女の暮らしが一変します。


戦う事を選択した彼女は中央女性狙撃兵訓練学校入学し、卒業後は早速1942年11月から開始されるソ連軍の反攻作戦ウラヌス作戦への参加に始まり、狙撃兵が最大の効果を発揮したスターリングラードの戦いへ飛び込み、1944年以降のソ連軍の大反攻戦に参加して、ケーニヒスベルグまで転戦します。


セラフィマは、戦いの中で何度か何のために君は戦うのか、と質問されます。自身の戦争体験を通して、ドイツ兵による暴行の危機に晒された彼女は、味方を守り、女性たちを守るためにと答えますが、本書の最後では、ドイツ兵やソ連兵に関係なく、女性を蹂躙する者から女性たちを守る、という理由に変わっています。


戦争の中での自身の体験や、それぞれに戦争について考えを持つ人々と話す事で、彼女自身も戦争についての考え方が変わっていったのです。


そして、戦争を通して人々の思考が変わった戦後にも、生き残った人達には、残りの人生があります。


戦争を経験した人達が、恐ろしさを伝える一方、敵に侵攻された恐怖や悔しさを、子供や孫へと語り継ぐ人達も存在すると考えます。そのような体験や経験を当事者によって語り継がれて行くと、過去の戦争の事でも敵意や相手への疑念は、後の未来までずっと続く事になります。


本書でも戦争が終わってから数十年経った後に、セラフィマは戦争後のロシアとウクライナの友好的な関係が続くのか、について思いを馳せています。


戦争中にウクライナの少女と話をした際の、ソヴィエト・ロシアはウクライナを搾取する農地くらいにしか思っていない、という発言が後を引いているからです。


戦争の経験は、実際に戦争に行った兵士達だけではなく、生き残った民間の人々にも影響を与えます。


できることなら、過去に敵対していた人達への恨みを、子供や孫へ伝えるのではなく、悲惨な戦争を起こしてはいけないという教訓と、過去には憎しみ合っていたが、次の世代ではお互いに友好関係を築いてくれる事を伝えられれば良いと願います。


お互いに憎しみ合い、敵対していたという過去だけを後世に伝えるのではなく、未来にはお互いに交流を深め協力できるようにする希望を添える事を、戦争体験者の個人から後の人達へと伝えて欲しいです。


自分もそれを未来に伝える事を担えればと、本書を読んで思いました。
 
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
(1)三つの生き方

『同志少女よ、敵を撃て』に描かれた、三種類の生き方について考察したいと思う。


第一は「愛の道」。自分を犠牲にしても、敵国の子供を守るために戦ったマミーや、「負傷者ならば、敵味方関係なく治療する」と言って、看護師の道を選んだターニャ。弱者を守るために戦うという彼女達の美しき信念は、最後までブレなかった。


次に「悪魔の道」。殺戮や暴力に快感を覚え、自ら正義と信じ込み、傷つけられる側の痛みを想像しようとしない生き方。敵兵をおびき出すため、武器を持たぬ子供を撃ったナチス兵や、「軍隊の仲間意識を高めるため必要だ」と、女性への暴行を正当化するミハイルがこれにあたる。


最後に「葛藤する生き方」で、主人公セラフィマに代表される。
家族を殺され、村を焼かれた彼女は「戦争の被害者」であり、愛する者を奪われる痛みをよく知っていた。少女時代、傍らに小鹿のいる母鹿を銃で撃つことにも良心の呵責を感じていた彼女。だが狙撃兵として戦争に参加するうち、殺した敵兵の数を誇るようになる。仲間のターニャに殴られ、自らが人殺しに快楽を見出していたことに気づいた彼女は、自己嫌悪に陥る。
久しぶりにミハイルに再会したセラフィマが「私たちは悪魔になってはいけない」と言うが、それは半ば自分を律するために口にしたように思えた。


(2)二つの決意

人は本来、愛と悪魔の両面を持つ。誰もが、他者を傷つけ快感を覚える残酷さを持ち、それを克服しようと戦う者と、それに呑み込まれる者がいる。何が彼らを分けるのか考えながら、自分が決意したことが二つある。


一つは、自分の中の悪魔を自覚し、それと戦うこと。
ミハイルは「戦争は人を悪魔にする」と言う。これは(悲しいかな、事実を含むといえど)彼の人生への姿勢-自分の中の悪魔と戦うことへの放棄-を象徴的に表している。


セラフィマと同様、村を焼かれ家族を失ったミハイルは
「自分は酷いことをされたので、同じことを敵にやって何が悪い?」
と結論付けたのだろう。残酷な仕打ちにあった時、そのように思う気持ちも、人として分からないではない。だが、ハッと我に返って自らの殺戮願望を戒めるという一歩を、彼は踏み出せなかった。ドイツ人女性に暴行を加えていた時、「自分にも大切な母や妹がいた」と思い出せば、自らの行為の恐ろしさに気づいたはずなのに。


彼は「自分=正義/ナチス=悪魔」という思考に固執し、自分の中の悪魔に目を向けなかった結果、気づかぬうちに悪魔に呑みこまれ、自らが悪魔に成り下がった。ミハイルが特別に悪い人間だからではなく、私達の誰もが、彼のようになる可能性が十分にあると、物語は示唆している。


「世界観戦争」と後に呼ばれる独ソ戦で、指導者達は兵士達をイデオロギーとナショナリズムで高揚させた。
「大義のためなら多少の犠牲は構わない。弱者は見捨てて良い」
「敵は人ではない鬼畜なので、全滅させるべし」
この価値観による兵士達の洗脳は、今のプーチン率いるロシア軍にも受け継がれているのだろう。


人は自分を客観視することで、自らの心の状態を評価し、修正の努力をすることができる。その指標となるのが、どれだけ世界が混乱しようとも不変で超然とした基準(新春セミナーのテーマだった易経もその一つだろう)だが、共産主義支配下のソ連では宗教が禁じられ、祈りを捧げる神は不在だった。アヤや、リュドミラ・パヴリチェンコは、射撃に魅了された理由を「心に静寂を持ち、戦争や全ての苦痛から開放され、自由になれたから」と語る。それも真実だろうが、射撃で的に狙いを定め集中することは、自らの心の奥底を見つめる作業にも実に似ている。自らの心を静かに見つめる習慣が、メンタルの強さを高めてくれることを改めて感じる。


先日、偶然、古代ギリシャの著述家プルタルコスの言葉に出会った。

「人が内面で達成したことは、外面の現実をも変える」

これこそ、しょうおん塾の基本編セミナーの教え(呼吸法で自らの内面を整え、外の世界を変えてく)そのものだと思った。課題図書の感想文執筆に苦闘していた時、この言葉との出会いが自分の決意を固めた。
自らの中の悪魔に気づいた時、ぐっと我慢し克服できるよう、毎日自らを戒めたいと思う。


第二に、想像力(共感力)を用いることである。
本書を通して、多くの登場人物達の立場から多角的に戦争を見つめることができた。例えば、セラフィマの宿敵イェーガーは、ナチス側だがソ連人のサンドラを愛し、気遣っていた。
女性に暴行をするミハイルは、部下から「彼だけは僕らを殴らなかった」と慕われていた。
立場を変えて見れば、全く違った人物評・価値観が現れ、状況の立体視に繋がる。
読書を通して自分と異なる人生を追体験し、他者の立場になって考えること、特に他者の痛みを想像し、共感することを、今後も続けたい。


(3)ペンは剣より強し

課題図書を読んで、独ソ戦中に、ソ連軍で女性狙撃兵が活躍していたことを初めて知った。以来、女性狙撃兵について調べているが、文献でもネットでも限られた情報しか出てこない。社会全体が意図的に女性の声を隠し、抑圧している見えない圧力を思い知らされた。


そんな中、戦後生まれの女性作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチが、500人以上の女性達に取材を行い、彼女達の戦争の体験を綴った手記『戦争は女の顔をしていない』を執筆した。一切編集をせず、女性たちの言葉をそのまま綴った本書は、黙らせられてきた女性達の思いを言語化し世界に伝えた。この本は、著者の出身地ベラルーシで出版されておらず、著者はドイツに亡命し勇敢にも執筆活動を続けている(現在はロシアへの反戦運動も行っている)


「ペンは剣より強し」という格言がある。傷ついた人の心を癒やすのは武器や暴力ではない。人と人を繋げる愛の言葉という意味だ。読書感想文で言葉を紡ぎ出すのに四苦八苦している自分も、今、言葉の力の大きさを改めて感じている。


今年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった時、眼の前が真っ暗になった。
80年前の歴史小説として読んだ『同志少女よ、敵を撃て』と同様の事態が、リアルタイムで再現されようとは。何もできない自分の無力さが悔しく、絶望しかけた。


だが、絶望して立ち尽くす生き方はしない。自分を「役立たずだ」とは思わない。
戦争という大きな不幸から学びを得、自分にできることを考え、実行に移したいと思う。戦争をなくすためには、戦争を徹底的に分析するしか、おそらく道はない。
もう、戦争からも、自分の中の悪魔からも、逃げない。その覚悟が、課題図書が私に与えてくれた最大の財産である。
 
medal1-icon.gif
投稿者 daniel3 日時 
本書の舞台は1940年代前半の独ソ戦であり、狙撃兵として戦った少女たちが、多くのものを失いながらも、大切な何かを手に入れる過程を描いた小説です。本書には魅力的なキャラクターが数多く登場しますが、その中に、元凄腕の狙撃兵であり、狙撃訓練学校教官長のイリーナという女性が登場します。彼女は、女性狙撃兵がどのように生きるべきかを教え導く立場であり、著者が本書を通じて伝えたかったことを代弁している役回りであると考えました。そのため、イリーナの発言に注目して、著者が伝えたかったことを考察していきたいと思います。

イリーナは狙撃訓練学校の授業の中で、単に狙撃兵としての技術や知識を教えるだけでなく、生徒たちに様々な質問を投げかけます。その中でも訓練学校を卒業するまで考えさせたのが「何のために戦うのか」という質問です。復讐心に燃えるセラフィマは、この質問に当初「敵を殺すため」と答えました。戦争とは敵国に勝つことが目的であるため、兵士としてのセラフィマの答えは戦争の目的に沿っているように思います。しかし、イリーナはセラフィマを含め、生徒たちの回答を「人形のように空っぽだ。(P.74)」と一蹴しました。なぜイリーナがセラフィマ達の回答を良しとしなかったのかを考えた時、私はその理由が主に2つあると考えました。1つ目が「狙撃兵特有の落とし穴にはまらないため」であり、2つ目が「戦争が終わった後も、人生は続くため」です。次以降の段落でそれぞれを解説していきます。

1つ目の「狙撃兵特有の落とし穴にはまらないため」に関連して、イリーナは次のように語っています。「あらゆる兵科は集団性とそれによる匿名性の陰に隠れることができる。しかし、お前たちにそれはできない。(P.75)」他の兵科では集団で協力しながら戦闘しますが、狙撃兵は自身の目で敵を狙い、射殺していきます。そして戦果はスコア(狙撃数)としてカウントされ、それが自身の栄誉となります。ただ、スコアは戦時下であれば賞賛の対象となりますが、客観的には単に殺人の数を競っているだけです。加えて狙撃自体に、「無心に至りその技術にのめり込む(P.373)」要素があると、女性狙撃兵の象徴であるパヴリチェンコも語っていました。パヴリチェンコは確認戦果309名の英雄ですが、前述の言葉通り射撃にのめり込んだ結果、「今度こそ、私には何も残されていない。(P.374)」と悟っています。このような「狙撃自体の魅力にのめり込み殺人の数を競った結果、自分に残るものは何もない」という落とし穴に、セラフィマもはまりかけました。セラフィマ自身はスターリングラードの戦闘でスコアを上げる中でいつしか狙撃に慣れてしまい、看護師のターニャにスコアを誇るようになった自身の変化に、ショックを受けました。

2つ目の「戦争が終わった後も、人生は続くため」については、宿敵のドイツ狙撃兵イェーガーを撃ち取った直後の場面と、エピローグを読むことで明らかとなります。ケーニヒスベルクでの戦闘で、セラフィマは母を狙撃したイェーガーを撃ち取った直後、信頼していた幼なじみのミハイルが、ドイツ人女性に暴行を加えようとする場面に遭遇します。一瞬様々な思いが交錯しましたが、自身の戦う理由である「女性を守るため」に戦ったことで、セラフィマは戦争を乗り越えることができたのだと思います。さらに、戦争中は賞賛される狙撃の腕前は、戦後の社会では人々の目に不気味な能力として映ります。その様子は、エピローグでセラフィマとイリーナが、イワノフスカヤ村の外れでひっそりと生きている姿にも描かれています。参戦の理由は「敵を殺すため」でしたが、祖国を守るために戦った結果が周囲からの恐怖の目であるなら、その結果に失望する可能性もあったと思います。しかし戦う理由を考え、「女性を守るため」に戦ったことで、パヴリチェンコが戦後に狙撃兵が手に入れるべきと言った「愛する人」、「生きがい」を手に入れることができたのだと考えました。

セラフィマたちは独ソ戦に巻き込まれ、実に多くのものを失いました。しかし、悲惨な出来事で「敵を殺すため」という復讐心や狙撃の魅力に流されることなく、自分が大切にするものを明確にして戦い抜きました。対して現代の日本に住む私たちは、それほど考えなくても、それなりの人生を過ごすことができる世の中に生きています。毎日会社や家庭から求められることに反応して生きていても、それなりの幸せを見つけることができる世の中自体は、素晴らしいと思います。しかし、自らの信念なしに周囲の求めに応じて生きるだけでは、環境に流され、自分が本当に大切にしたいものにはたどり着けないのではないか、と本書を読んで考えました。独ソ戦という悲惨な出来事を舞台にした本書から、意志をもって大切にするものを明確にする必要性を感じました。
 
投稿者 ynui190 日時 
「同志少女よ、敵を撃て」を読んで。

「同志少女よ、敵を撃て」は、独ソ戦をモデルとした戦場を舞台とした少女達の物語、フィクションである。

 物語の序盤、主人公セラフィマは自分が住む村の人と母親がドイツ軍に殺害される。直後、助けにきたロシア軍上級曹長のイリーナより「戦いたいか、死にたいか」というひとつの質問を突きつけられる。今しがた家族や親しい隣人を失った者にかける言葉ではないが、戦争という状況下、感傷に浸る暇さえ与えられない。当然、進んで戦禍に巻き込まれたいと願う者もいないというのに。

 人は人生において幾度も選択する場面を迎える。そして、その時々により最善の手を考え、決断し進む。
明らかに人生の分岐だと分かる場合もあるが、多くの場合、振り返ったその時が人生の分岐点だったと、気付くことが多いのではないだろうか。そのため、深く考えずにその場の感情だけで、答えを出す場合も多い。私はそれが悪いとは思わないし、至極当たり前のことだと感じる。
ただし、その決断はいつも自身に問いを立てている者とそうでない者とでは、決断後が大きく変わってくる。

昨今、他者の選択に寄りかかる人、他責にする人は多い。自分はそうではないと思っていても、感覚がマヒしてしまい、それすら実感していないことがほとんどではないだろうか。
例えば、SNSでインフルエンサーが愛用品だと紹介すれば、何も考えずに同じものを買い、数度使用しただけで商品レビューに不満を書きなぐる。
もしかしたら、純粋にインフルエンサーと同じものを持ちたいと思う人もいるかもしれないが、多くの場合有名な人の愛用品というだけで、商品そのものに何の疑いも持たない人が大半ではないかと思う。
実際、私自身インフルエンサーのレビューを元に買い物をしたことは一度や二度でない。そうやって手に入れた商品をみるにつれ、がっかりしたり、さすがインフルエンサーだと一喜一憂を繰り返している。改めて振り返ると、商品の購入だけでなく、自分の感情さえも他者に委ねているのかと初めて気づき愕然する。

多くの場合、人の判断を元に購入するということは商品の選定をする手間も、なるべく損をせず良いものを買おうという自分自身のプレッシャーからも、解放されることが多いのではないだろうか。そのため心の緊張も軽くなり、メリットが多いように錯覚する。それに加え、たかが商品購入ぐらい他者に委ねても問題ないだろうと思っている人がほとんどではないかと思う。
しかし、選択の大小に関わらず決断を他者に委ねてしまうということは、ここぞという人生の分岐点でも、自分で決断できなくなる可能性にも繋がる。

なぜ、自分のことにも関わらず、決断できないのか?
もし失敗した場合、誰が責任をとり、誰が失敗から回復する術を考えてくれるのか、それを考えると行動するのが怖いのだ。
失敗をしたことのない人は異常に失敗を恐れる。他者の決断であれば、責任を他者に委ね、自分自身は第三者のように不平不満を垂れていればよい。とても簡単だ。

物語の中で、セラフィマは常に命の選択を求められる。1つの選択ミスが命を落としかねない状況下、今は自分はどうしてこの場所にいるのか、なぜ敵はそれを選択したのか、狙撃しながら、頭をフル回転させ多くのことを考えなければならない。そうしなければ、セラフィマの命は敵の手に落ちてしまう。
ヒリヒリとした命のやり取りがセラフィマを生き延びさせ、例え選択を間違えたと感じたとしても受け入れられる精神を形成する。

物語終盤、イリーナの質問の答えは二者択一ではないことがわかる。
「戦わなくてもよいし、死にたくもない」第三の選択肢があることに気付く。
誰もが見つけられる選択肢ではなく、自分はどうしたいのか、常に自分に問いをたててる者だけが見つけられる道だと言える。
自分が望みさえすれば、二者択一だと思っていた選択肢にも無数の答えがあることがわかる。

この物語を読んで戦争の悲惨さや理不尽さはもちろんのこと、私は決断の大切さ、常に自分自身に問いをたてて行動することの大切さを改めて考える物語だと思った。
混沌とした世の中、自分が予想していない状況は常にやってくる。その時に自分の決断を信じ、行動することができるかどうか。
それは、日常の小さな決断で培われるものだと感じた。それこそが自分の人生を豊かにする道しるべのひとつだと。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書は第二次世界大戦中の独ソ戦争を舞台に、ドイツ軍に故郷を襲撃され目の前で母親や村人たちを殺戮された少女セラフィマがソ連軍の狙撃兵とし訓練を受け、女性スナイパー部隊の一員として戦闘に参加し、闘う意味を見つめ直していく物語である。

 命を懸けて闘うとはどういうことであろうか?国家のためだけに闘えるものであろうか?闘う理由とはなんであろうか?
 独ソ戦でもそうだと思うが戦争には各々闘う理由がある。国家としての理由、軍人としての理由、国民一人一人の理由、一市民として自分自身の生き方としての理由などである。しかし、軍人でも一般市民であったても祖国のためという理由だけで命を懸けて闘うことができるのであろうか。
祖国のためというのは自分自身の生き方に紐付けるにはあまりのも抽象的で曖昧すぎる。もっと具体的で明確な理由がないと自分自身の人生と引き換えに命を懸けて闘い続けることはできないのではなかろうか。

 闘う理由を狙撃訓練学校の上官イリーナがセラフィマたちに問いかける。セラフィマの闘う理由は復讐である。故郷の村を襲撃したドイツ軍、母親を無惨に殺戮したドイツ兵イェーガー、母親の遺体や村を焼き払ったイリーナに復讐することである。祖国のためという曖昧な理由よりよっぽど分かりやすいが、セラフィマは復讐と答えるのではなく、女性を守るために闘うと答える。
 国家としての闘う理由が他国への侵略とか独裁者の保身のためであったとしても、国民を一致団結させ戦争に駆り出すには正当性や大義名分が必要である。それと同じように、個人にとってのつまりセラフィマにとっての真の闘う理由が復讐であったとしても、人前で言う正当性のある、大義名分としての闘う理由は女性を守るためであったのであろう。母親や村人を殺戮したドイツ軍に復讐するため(さすがに上官イリーナへの復讐のためとは言えないにしても)と答えてもいいと思うのだが、自分の復讐心を正当化する理由が必要だったのだと思う。

 そうなると、セラフィマの真の敵はどうなるのであろう。
 ドイツ軍だけを敵と見做すわけではなく、女性を虐げる存在を敵と見做した場合、戦場で倫理を踏み外して女性を虐げるのはなにもドイツ軍だけとは限らず、味方であるはずのソ連軍が女性を虐げる行動をとらない保証はない。セラフィマが闘う理由とした女性を守るための敵はドイツ軍だけではなく、ソ連軍も含まれることになるのである。
 そして、セラフィマは女性を暴行しようとした本来仲間であるはずのソ連兵を撃ち殺す。しかも幼馴染のソ連兵をである。こうなると、女性を守るためというのは、自分を正当化するための理由や綺麗ごとで言っているわけではなく、本心での闘う理由であり、女性を虐げる存在はセラフィマにとって真の敵ということがわかる。最初はイリーナやイェーガーへの復讐、そしてドイツ軍が敵であったが、最終的には味方のソ連兵さえも敵になってしまう。

 そうなると、本書のタイトルの”敵を撃て”の”敵”が意味深なものに思えてきた。
 戦争は憎しみと敵を増やすだけである。やらなければやられるし、やられたらやり返す、まさに仇討ちの連鎖反応である。敵が味方になってくれることもあるかもしないが、味方が敵になることの方が圧倒的に多い。
そして味方であるはずの幼馴染のソ連兵が敵へとその存在を変化させていった経緯は憎しみとか復讐とかそういった類のものではなく、もっと大きいスケールで考えないといけないのだと思った。
 個人の力では抗いようのない何か大きなうねりのようなものを感じたのである。

戦争という理不尽で無慈悲な状況において、自分の信念や思いを貫き通そうとするとどこかで矛盾や亀裂が生じて、いずれ破綻する。セラフィマの思いがどう歪められ、どう絶望して、女性を守るためという心境に変化し、味方を撃つという境地に至るまでには必ず葛藤があるはずで(それが極限状態の戦争であれば尚更である)、そこには敵とか味方とか正しいとか間違っているとかそういった類のものを超越した単純な二項対立構造などでは語り尽せない大きな運命の流れのようなものがあると感じた。少し大袈裟かもしれないが。

そして、本当に撃つべき真の敵と何なのか。女性を虐げる存在であろうか?
否、都合の悪いことには蓋をして、真実を覆い隠そうとする存在がそのものが撃つべき敵なのだと思った。ドイツ軍もソ連軍もお互い示し合わせたように戦時性犯罪については口をつぐんだという。この戦争では双方共に大きな被害があったけど、このことについてはなかったことにしようと。
隠蔽された事実がそこにあり、そのことを知り、そのことを語ることができるのはセラフィマたちや虐げられた女性たちだけである。重い使命である。
 自分だったら耐えきれだろうか。

いろいろと考えさせられる作品であった。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、歴史上最も凄惨な絶滅戦争である独ソ戦を舞台に、 家族を殺され故郷を焼かれたソ連の女性狙撃手の戦いを描いた小説である。独ソ戦は、ファシズム国家と社会主義国家の戦争であるが故に、日本人にとって両陣営ともに感情移入が難しい。どちらの国の正義も理解するのが難しく、多くの日本人にとって他人事になってしまうのだ。しかし、ソ連の女性狙撃手を主人公に、丁寧な背景説明と緻密な描写がなされた本書を読んだことで、私は独ソ戦という歴史的イベントとの心理的な距離を近付けることができた。以前に紹介された課題図書、「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」では、この戦争の悲惨さを知識としてインプットすることはできたものの、そのあまりに現実離れした内容に、同じ地球上で起きたこととは思えなかった。ところが、本書を読みながら、個性ある両軍の登場人物を通して独ソ戦を体感したことで、日本人である私も独ソ戦に感情移入することができたのである。小説の醍醐味を感じながら歴史への理解を深めることができたため、類書でもなかなか体験できない読書時間であった。

本書の中で私が気になったのは、P341の新聞記者の質問だ。ソ連国内で偶像化されたセラフィマに対して、取材の最後で記者はこう質問する。
『撃った敵の顔を、夢に見ることがありますか?』
記者は、セラフィマが罪悪感に苦しめられている姿を期待した。正直に言えば、私自身も同様の先入観を持っていた。狙撃手は、明確に顔を認識した状態で敵兵を殺害する兵種だ。そのため、個人にのしかかる殺人という行為の重さは、他の兵種と比べて相対的に厳しいはずだと考えたのだ。だがセラフィマは、「そんなこと」で苦しんだことはないという。また、セラフィマが罪悪感に苦しめられる描写が、 本書で描かれることはない。彼女は、なぜ罪悪感を感じることがなかったのであろうか。

まず最初に考えられる理由は、その強い復讐心と怒りである。本書の冒頭、セラフィマは自身の母親が殺され、故郷の村人も皆殺しにされて村を焼かれてしまう。一度は死ぬことを考えたセラフィマは、狙撃手として生き、母を殺したドイツ人狙撃手への復讐を誓う。それだけの覚悟を持っているからこそ、ドイツ兵を殺すことに躊躇がなかったのだろう。 P356で、幼馴染のミハイルから『80人殺したことを自慢している』という皮肉を浴びせられても、不快感だけで罪悪感を感じたようには見えない。また、物語の最終盤、母の敵であるハンス・イェーガーを殺すために単独行動をとった際には、相手の術中にはまったことが分かると、 わざと捕虜になって拷問を受ける。敵を撃ちたいという執念は凄まじく、並大抵の覚悟ではない。これだけの憎悪に包まれたセラフィマが、狙撃による殺人の罪悪感を感じることがなかったとしても、不思議ではない。

ただ、セラフィマは感情的な動機のみで、銃をとり続けてきたわけではない。彼女は、自身の「敵」を撃つために狙撃を続けているのだ。イリーナから「動機の階層化」を訓練で徹底的に叩きこまれたセラフィマは、「女性の敵」であるドイツ兵を撃つことを自身の起点、使命に据えた。その上で、狙撃中はこの起点を忘れて、命中させることだけに集中する。前述の感情的な怒りとは対照的に、自身の戦う理由を客観的に捉え直しているのである。セラフィマは、最終的に「女性の敵」として自軍の、しかも幼馴染にまで手をかける。そこに迷いはなく、明鏡止水、すなわち何のわだかまりもない澄み切った境地に達している。使命を起点に、ただ標的を撃つことに集中したセラフィマには、罪悪感など全く存在せず、設定された動機が濁る余地はないのだ。セラフィマは、主観的な動機と客観的な動機を確固たるものとして持っており、それ故に狙撃による罪の意識に苦しめられることはなかった。その結果として、独ソ戦という最悪な環境下で生き延びることに成功したのである。

セラフィマの「動機の階層化」は、独ソ戦という凄惨な現場で、かつ狙撃手という特殊な兵科での話である。しかしながら、戦争や狙撃という特殊な状況のみで有用なアプローチではないと感じた。ブレない自身の「志」を立てて、日常ではそれを忘れて「今」に全力を尽くす。その行く着く先に「無我の境地」が存在し、その結果が何かを成し遂げることにつながるのではないだろうか。自分の人生や仕事における「起点」や「志」を定めることは、いつの時代でも必要なことである。そして、その起点に囚われることなく、日々の中でやるべきことや仕事に全力投球する。そうやって自身の関わる世界を、少しでも良い方向に変えていかなければならないと思う。平和な今の日本で生きている私達であれば、尚更だ。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました!
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“復讐心について考える”

「凄いよね、復讐の力って。生きる希望を与えてくれる」(P.227)家族全員を独軍に殺されたユリアンのこの言葉に、これが戦場で戦う人間の偽らざる心情なのかと私はその恐ろしさに震えた。そして、その言葉にセラフィマも完全同意する。なぜなら、彼女も母親を殺されたことで復讐心を生きる活力としていたからだ。また、赤軍の英雄リュドミラ・パヴリチェンコも「再婚した二人目の夫は、目の前で死んだ」(P.372)その時に復讐をするために生きることが始まったと彼女は述べている。彼、彼女らのような兵士たちは独ソという国の垣根もなく無数に存在し、そして彼らは復讐を遂げるという目標によって生きる理由を得て、そして過酷な戦闘を戦う意義を見出していたのだ。復讐を果たすのだという動機、感情の連鎖が渦を巻くように肥大化し、膨大なエネルギーが其々の国家を支える。それが戦争なのかと私は名状しがたい気分に襲われた。セラフィマがイリーナによって復讐心を呼び起されたことで、戦う意志、生きる意志を自ら持ったのだから、復讐心は確かに生きる理由を与えると言えるだろう。ただ一方で、復讐心を抱え続けた人間の行く先になんだろうか、復讐を成し得た後には何が待っているのだろうか。そんな問いが私の頭の中を巡るのである。

まず、復讐心を抱え続けた人間の行く先について考える。復讐心が生きる活力になるのは一時的であり、永続的ではない。それは、セラフィマを見れば明らかだ。復讐心とは、危害やストレスを与えた相手に対して報復したい、仕返しをしたいという気持ちであり、自分の心がダメージを受け、その辛かった思いを解消したいという考えから来る人間の感情の一つである。セラフィマは愛する母親を殺され、平和な日常が奪われたことで物語の冒頭から、イェーガや独軍、イリーナを恨み、復讐の鬼と化す。そして、復讐を誓った18歳のセラフィマは狙撃兵になるための激しく厳しい訓練に耐え抜き、戦場で敵兵を撃ち倒し続けていく。平時の世の中であれば、恋愛や将来の夢を生きる活力にするはずの18歳の少女が、身体的にも、精神的にも過酷を極めた戦地、それも史上最悪と瀰漫される独ソ戦の戦場で生き抜くのだから、復讐心が与える生きる力は凄まじいものである。が、次第とその復讐心は狙撃の魔術的な魅力と激しく絡み合うことで、生きる活力というよりもセラフィマの人格までを変えようとしていたのだと思う。「自分は人殺しを楽しんでいた」(P.266)という一文を読んだ時、復讐心を抱え続けた人間の行く先は人格破綻、精神崩壊に繋がる場合もあるのだと恐ろしさを感じた。また、戦勝国であろうと多くの兵士がPTSDなどで精神を病んでしまうという事実を見ると、復讐心は一時的には人間に生きる活力や希望を与えるが、とどのつまりは人の心を蝕むものなのだと言えるのではなかろうか。

次に、復讐を成し得た後に、何が待っているのかについて考える。セラフィマとリュドミラは共に復讐を遂げるということを生きる目的とし、対独戦の勝利という形で復讐を成し得たと思われる。その二人の戦争後の人生はいかなるものだったのか。復讐を成し得た二人を待っていたのは何であったのか。それは、対照的である。リュドミラを待っていたのは、「他の多くの帰還兵と同じく、アルコール依存症と負傷の後遺症にむしばまれ、孤独のうちに生涯を終えた」(P.470)という孤独な死であった。他方、イリーナを同伴し帰郷したセラフィマを待っていたのは、「私は、二つ手に入れた。二つとも手に入れられたんだ」(P.479)という“愛する人と生きがい”を持って生きるという幸せであった。二人の人生を違えたものは何か。繰り返しになるが、復讐心を糧に戦時を生き抜いたという点はセラフィマとリュドミラに共通する。が、この復讐心が対独戦勝利の後に二人に与えたものは何であったのか。それは、空虚感や喪失感だったのではないか。なぜなら、復讐心とは相手に対して報復、仕返しで自己の辛い思いを満たすという利己的な感情、願望だからだ。リュドミラは、それらを紛らわそう、振り払おうと大学で修学し、後に復隊した。おそらく、そこに生きがいを見出そうとしていたのではないか。ただ、彼女には愛する人がいなかった。それが、セラフィマとの違いだったのではなかろうか。セラフィマも復讐を成し得た後に空虚感や喪失感に襲われたはずである。ただ、イリーナという愛する人がいる、その人のために生きるという利他的な感情、願望がセラフィマを救ったのではなかろうか。

最後に、復讐心の克服について考える。本書に描かれるような戦時に人間が持つ巨大な復讐心ではなくとも、私の日々の生活の中で危害やストレスを与えてくる相手に出くわし、仕返しをしたい、やり返したいという復讐心が芽生える場面がないとは言えない。その時、私はどのように考え、どのように振る舞うべきなのか。そのヒントは、セラフィマの人生から学び取れる。それは、奪われたものを、自らもう一度見つける、もしくは作り出して克服するということだ。セラフィマは、愛する人と平和な日常を奪われたことで復讐心を持った。ただ、彼女は愛する人をもう一度見つけ出し、平和な日常をもう一度作り出すことで復讐心を克服し、PTSDになることもなく戦後の人生を過ごせたのではないだろうか。であるならば、復讐心が芽生えた時、まず私がするべきことは失ったものが何かを考える、そして、その失ったものを自らもう一度見つける、作り出すことが復讐心を克服することに繋がると考える次第である。

~終わり~
投稿者 Terucchi 日時 
“生きる意味を持つ”

この本は第二次世界対戦の独ソ戦を舞台として、モスクワ郊外の小さな村で暮らしていた主人公のセラフィマが、家族及び村人を殺されたことにより、その復讐として、狙撃手となってドイツ軍と戦う話である。私はこの小説を通して、戦争のような非常識な状況こそ、生きる意味を持つことが必要であると思わされた。

私はこの本を読みながら、ある映画を思い出した。題名を忘れてしまったのが残念であるが、話のあらすじは次のような内容である。あるケガをしてしまったベテランの殺し屋には復讐したい敵がいて、後継者として二人の殺し屋を育てた。一人は歳をとったおじさんで、個人的に復讐したい人間がいるために殺し屋になりたい人間であった。もう一人は、若者であったが、主な理由はなく、ただ人を殺すことを楽しいと思う人間であった。二人を育て、成長するに当たり、比べると上達が早かったのは、若手の方であった。理由として、若手は敵を殺すことがゲーム感覚で相手を殺し、殺す相手を可哀想とも思わないため、素直に手が出るからだった。おじさんの方は、だんだんと人を殺すことに躊躇うようになり、人を殺すことの意味やその苦悩に悩ませられることになり、伸び悩んだ。その反対に若手の方はどんどん伸びて、楽しくなり。。という二人を対比させた話であった。当時の映画の宣伝では、若手の殺し屋がゲーム感覚で人を殺す姿を、現代の若い人間を風刺していた。全体のテーマとしては自己満足で意味のない人殺しは、殺人マシーンであり、人間らしさとは何かという意味を問う映画であった。

この本では、主人公の戦う意味を考えることをよく書いている。狙撃手は単なる殺人マシーンではなく、人間であり、葛藤もある。主人公も戦う理由に迷っていて、一人の人間である。先生であるイリーナは「戦う意味を考えろ」と言っている。やはり、このような戦争のように、希薄な状態こそ、その意味を明確に持たなければならないのであろう。なぜなら、人は意味を持たなければ、結局、自分の意思が立ち上がらないからだ。意思がない人間では戦うということすらできないからだ。生きる意味として、セラフィマにとっては、母親の復讐としてドイツの狙撃手を殺すことと母親を燃やしたイリーナを殺すことだった。イリーナにとっては、女性の狙撃手を育てること。ターニャにとっては看護士として、みんなの役に立つこと等々、それぞれに意味を持っている。中でもビックリしたのは、スターリングラードの一般女性であったサンドラにとってはお腹の子のために敵のドイツ兵の愛人になってでも生きようとしたことは、ビックリを通り越して、女のしたたかさを見た気がした。結局、生きる意味を持つと強くなることを感じた。

ところで、戦争であれば人を殺すことは良いのであろうか?無論、人を殺すことはもちろんよくない。しかし、戦争において、殺さなければ、殺される。自分が殺されないとしても、自分の愛する家族が敵に殺されるかも知れない。そのような状況に陥入れば、敵を殺さなければならない。だから、殺人も正義になってしまう。これはやむを得ないかも知れないが、最強の生きる理由であると考えてしまう。どれだけ戦争で人を殺したらよくないという正論を言っても、愛する人が目の前で殺されてしまえば黙って見ていることはできない。人を殺す理由も正当化されて当然になってしまうこともやむを得ないと考えてしまうが、それで良いのであろうか。結局、戦争下では倫理観もおかしくなってしまう。このようなことさえ、正当な生きる理由になってしまう。明らかにおかしいことが正論になる。チャップリンの映画である独裁者の中の言葉で「1人を殺せば犯罪者だが、100万人殺すと英雄になる」という言葉がある。人類の歴史はある面人を殺して勝った結果でできた国の歴史でもある。勝ったから良いではなく、だから、戦争はいけないのだ、ということであると私は考える。

以上、生きる意味を考えることが大切だと考えるが、私自身、生きる意味を考えて生きているのだろうか?目の前の仕事に追われているのではないか?生き甲斐のようなものを持って、人に対して、何か役立つようなことをしているのだろうか?家族に対して愛情を感じているのだろうか?読んだ時は一気に読んで呆然としてしまったため気付かなかったが、感想文を書きながら、改めて考えてしまい、反省させられたような気がした。とても考えさせられる良い本であったと思った。

最後に、作者がインタビューを受けた記事を読んだが、その中で、戦争が嫌いであるが、だから書かないという選択肢もあるが、嫌いだからこそ、それを伝えるためにこの本を書いた、と話していた。なかなか言えないことであり、さすが、だと思ってしまった。作者の今後の作品に期待したい次第である。
投稿者 kzid9 日時 
この物語は、1940年から1978年までの38年の期間の16歳の少女の成長の物語であり、独ソ対戦中の1942年から終了の1945年までの出来事をソ連の女性狙撃手、セラフィマを中心とした女性目線で、戦争について詳細に書かれた本である。戦争とは男がするものという社会における価値観が当たり前の時代に、ソ連は、女性も戦争に参加することで、国家に貢献でき、それは他の国にはなく、ソ連が進化した証拠だという価値観をプロパガンダにより、女性を兵士として訓練し戦地へ送りだした。徴兵制ではないがために、結果として女性が自らの意志で参加したことになる。

どうして、そのように言えるのかというと、当時のソ連は、戦うべきナチ・ドイツの女性が農業と家事と看護に明け暮れているポスターとは違い、「母なる祖国」と大書され、いかめしい顔をした赤服の女性が銃剣を背後に戦地の来いとばかりに右腕を上げたプロパガンダポスターを使っていたからである。祖国を守るという価値観は、戦争へ参加することが当然かのように個人や集団に対して影響を与え、多くの女性が戦地へ赴いた。しかし、主人公のセラフィマは両国のポスターをみて、ナチ・ドイツが女性を台所に押し込めているという差異は分かっても、アメリカやドイツでは女性を実践投入しないのに、なぜ、世界広しといえども、ソ連が唯一、前線における女性兵士を生んだのか、根源的な問に対する答えを見つけられないでいた。

それでは、なぜ、ソ連だけが前線で戦う女性兵士が生まれたのであろうか。私は、価値観が影響したのではと考える。たとえば、「親を大事にしなさい」とよく言われる。この言葉は金科玉条のごとく使われるが、果たして絶対的な価値観と言えるのだろうか。もし、仮に親に虐待されて育った人にとっては「親を大事にしなさい」は絶対的に正しい価値観とはなり得ないのではないか。このように、価値観に絶対的に正しいといえるものはない。ただし、多くの人がそうだよなと納得する価値観は存在し得る。つまり、ソ連においてプロパガンダのポスターに象徴されるように母なる祖国のためという大義より、女性を戦地に送り出す価値観が醸成され、それに流されて女性も前線に赴くことになったのではないか。本書において356ページに『普遍的と見える倫理も、結局は絶対者から与えられたものではなく、そのときのある「社会「を形成する人間が合意により作り上げたものだよ。だから絶対的にしてはならないことがあるわけじゃない。戦争はその現れだ」とある。ここで示している、「社会」とは社会の価値感と考える。社会の価値観を別の言葉で言うならば集合意識と置き換えてもいい。

先にも述べたが、絶対的に正しい価値観はというものはなく、置かれた状況や時の変化により同じ出来事に対する善悪が変わる。女性であるセラフィマが嫌悪した、戦地における女性への暴行も、男性兵士のあいだでは、同じ経験を共有し仲間意識醸成し結束を強くする。逆にそれを行わないことで仲間外れになり、いざという危険な状況において仲間から助けてもらえず、命を失う遠因ともなりえるのである。また、セラフィマをはじめとする女性狙撃手だって、殺した相手をただのスコアの対象としかみていない場面も描写されている。「人を殺してはいけません」という誰もが納得するであろうと思える価値観ですら、状況が変われば、善悪の判断が逆転する。


そして、当時のソ連において、女性も戦争に参加するべきだった価値観はソ連の勝利により終戦を迎えると一変した。戦後、ソ連でスターリンの扱いが激変したように、男女の役割という価値観が復活し、これにより、英雄でありヒロインだったセラフィマを含め女性兵士は、敬遠されることになった。特に同性からのそれがきつかったため、自らの過去について触れることを避けるようになり、歴史の表舞台から姿を消すことになる。多くの女性兵士が命をかけて戦っても、疎外され戦争の傷跡と向き合うことに。女性狙撃兵の象徴であるリュドミラーでさえ、アルコール依存症となっている。戦争を生き抜くために、自らの精神を戦場という歪んだ空間に最適化させた結果、平和な日常に回帰できないままで。そんなことすら想定せずに、直面したことで、はじめて気づいても「母なる祖国」は僅かな支援しかしてくれない。社会の価値観も変化し、誰も見向きもしてくれないのである。けれども、それを誰かのせいにはできないのである。

したがって、この世に生を受け、命の意味を考えたのならば、社会の価値観がどれほど変化しようとも、自らの人生の拠り所となる基準が生き抜くために必要だと本書では伝えている。いみじくも、リュドミラーが言った「愛する人を持つ」「生きがいを持つ」、この2つを手にしたからこそ、セラフィマは戦後、多くの人が語らなかったことを語ってみようという、前向きな気持になれたのだ。

以 上
 
投稿者 AKIRASATOU 日時 
同志少女よ、敵を撃て

本書は独ソ戦において女性狙撃兵として闘ったセラフィマを主人公とした物語である。戦争という、生きるか死ぬかの極限状態におかれた登場人物達の心の動きを読み、欲求・欲望に支配されると自分の身を滅ぼす、または滅ぼしかねないことを改めて実感した。本稿では本書で印象的だった第三章のアヤが落命した場面、第四章のセラフィマが給水塔のカッコーを倒した場面より、我欲を抑えることの重要性について考察する。ちなみに、本稿において我欲とは、「自分の利益、満足だけを求める姿勢」のことを指す。

まず、第三章のアヤが落命した場面について考える。この場面では、射手を失った対戦車兵器をアヤが操り、ルーマニア軍の戦車の僅かな弱点に命中させ、その動きを止めた。それから操縦手、砲撃手、装填手と次々に破壊した。そこでアヤは、自分には圧倒的な力があると錯覚し、イリーナが止めるよう指示を出したにも関わらずその命令を無視した。イリーナが止めたにも関わらずアヤは【便乗するように敵戦車兵を撃つ赤軍兵たちがむかいついた。獲物を横取りしている。殺してやりたい。出来るならばやかましく自分を称賛する装填手も殺してやりたいが、一人では装填出来ないので我慢した】と味方に殺意を覚えるほど我を忘れており、【これが自由だ。これが力だ】と、笑いながら次々にルーマニア兵を撃った。【一ヵ所に留まるな。自分の弾が最後だと思うな】という教えを守れないほどに、力で敵を殺すという欲望に支配されてしまった。その結果、敵の戦車狙われていることに気づくのが遅れ、撃たれて落命したのである。欲望に支配されず、冷静で居たら結果は違っていただろう。

次に、第四章でセラフィマが給水塔のカッコーを倒した場面について考える。この場面では、敵のカッコーを倒すことが目的であり、苦心の末その目的を達成した。本来セラフィマはそこですぐに撤退すべきだったが、敵のフリッツが無防備に右往左往しているのを目撃した。そこで、自分のスコアが伸ばせる方法を思いつき、撤退せずに打ち続けようとした。上述したアヤと同様に【一ヵ所に留まるな。自分の弾が最後だと思うな】という教えを忘れ、自分のスコアを伸ばすという欲に支配されてしまった。イリーナが強引にマンホールへ引きずりこまなければ、敵の機関銃で命を落とす危険性があった。これらのように、欲に支配されてしまうと身を滅ぼす、または滅ぼしかねないのである。

更に、我欲に支配されると大きな失敗をしてしまうという事は、仕事や私生活においても(生死に影響は及ぼさないまでも)十分起こりうる話だと考える。自分自身を振り返ると、仕事においては入社1年目、任されていた仕事にある程度慣れてきた時に大きな失敗を経験した。終業後に予定があり早く仕事を終わらせようと思い、本来行うべき情報入力後のセルフチェックを怠った結果、別人に書類が送付されるという不備を起こしてしまった。早く帰りたいという欲に負けてしまったのだ。また、趣味のサッカーでも、ここで点を決めたらヒーローだ、という気持ちに負けてパスを出さずにシュートを選択したら、絶好のチャンスを外したことがある。このように自分を振り返ると大なり小なり我欲に負けたことで失敗した、公開していることなどがある。同様に、「あの時、欲に負けずに自分を抑えていたら・・・。」という経験は、誰にでもあるのではないだろうか。

それでは、生きる上で我欲が全く必要無いのかと言うとそうではない。本書では、シャルロッタがイリーナに憧れ、イリーナのようになりたいという欲を抱いているが、それにより訓練に耐えることができ、狙撃手として技術の向上に繋がったという利点がある。また、目立ちたいとか、成功したいという欲があることは、その欲を満たすために努力する原動力になるという利点もある。このように我欲が自分を動かす力になるというメリットがあるため全く役に立たないわけではない。しかしながら、我欲が抑えらず支配されてしまうと上述した例のように大きな問題に繋がる。

これまでに述べたように、我欲は自己成長を支える、努力するための原動力となるなどの効果を生む半面、抑えられないことで周りが見えなくなる、冷静に思考できなくなるなど、大きなミスを起こす可能性や身を滅ぼしてしまうなどの危険性がある。そのため、意識し訓練することで我欲を抑えられるようになる必要があると考える。常に第三者的視点を持って自分の言動を振り返るように意識することや、日々の呼吸法や瞑想、写経など自分の心を落ち着かせるルーティーンを持つことが大事ではないかと考える。個人的には、ルーティーンといえばイチロー選手を思い出すが、彼はルーティーンを行う事で自分の心を整え打席に立っていた。本書を読み、我欲に支配され致命的な失敗をしないためにも、自分にとってのルーティーンを行い、心を整え、我欲に支配されないようにすることが大事だと感じたのである。
 
投稿者 3338 日時 
極限状況の人間を支えるものは何かを考える

p100で「私には、もっとふさわしい死がありますから」と答えたイリーナが見つめるのは、教え子が自分を殺す未来だった。セラフィマに限らず、イリーナは自分の教え子に殺される覚悟で「戦いたいか?死にたいか?」と問い続けてきた。そして、死にたいと答えた娘たちの、感情を揺さぶり生きる気力を取り戻す…個々の娘たちの心の動きに合わせて、感情を揺さぶる行為をし、生きる気力を奮い立たせてきた。この問い無くして絶望した娘たちに、生きる気力を取り戻すことはできない。
その上で、イリーナは娘たちに生き抜くために徹底して射撃を叩き込み、さらに狙撃兵になれないものは他の部署に送り込む。そうして軍の中ではあるが、生きるためのきっかけを与えていた。

なぜイリーナは娘たちに陰ながら慈悲を施すのか。この一連の行動は、イリーナの経験則を踏まえた行動でははないかと思わせる。尊敬していた父親を国家に奪われたイリーナは、絶望から這い上がるために怒りに縋った。p106からはイリーナのそんな姿が浮かび上がってくる。行く先々で出会った娘たちのほとんどは、絶望に苛まれた状態であり、イリーナがその状態を理解できたのは、同じ経験をしたからなのだろうと思わせる。そして、その上でイリーナは重ねて問う「何のために戦うのか?」と。それぞれに答えは違えども、分校の卒業後は娘たちが己に向かい合って出した答えだった。

その後、訓練を終え戦闘に参加する娘たちに、イリーナは足りない指を推して付き添う。ここでもイリーナは娘たちに寄り添う。初戦であろうが狙撃兵として戦闘に参加すれば、一般の兵より戦死する可能性は高い。
戦場で狙撃兵として敵を的として捉える時、その瞬間にあるのは研ぎ澄まされた自分の感覚だけとなる。それはある意味自分自身であり、誰とも共有できない感覚である。的を捉える感覚、または的として捉えられる感覚。この2つの感覚を研ぎ澄ますことが狙撃兵として生き残る唯一の道である。その瞬間世界は自分だけが知る感覚となる。あたかも、その感覚が器官として立ち上がって、自分の全てがその器官の支配下にあり、全てが、戦局でさえもその器官の思惑通りに動いていくような感覚に捉われる。

そして、例え的に当たったとしても、それを喜んではならない。そこで感情が立ち上がるのを許し、高揚を噛み締めた途端に、人として生を全うすることは人として許されなくなる。故にその瞬間に死を迎える。あるいは、戦場から解放された時に精神に異常をきたし、苦しみながら死を迎えることになる。人として許されない行為を行うための、唯一の免罪符は、限りなく無心に近づき、極限まで研ぎ澄まされた明鏡止水の境地で的を射ること。そこには、どのような感情を挟むことは許されない。

そこで、死んだアヤとセラフィマの違いはどこにあるのだろうか。初戦でこの二人はほぼ同じ状況にあった。構えて狙いを定めた瞬間、セラフィマは無我の境地にいた。その境地に立ったものだけが帰りの切符を手にすることができる。その境地に立つからこそ、狙撃手として相手を仕留め生き抜くことができる。セラフィマが全てを超えた境地に立った一方でアヤは、いつもの明鏡止水の境地を忘れ、相手を蹂躙することに喜びを覚えていた。食料となる獣を打つ時でさえ、的に当たった喜びを覚えないように注意するように心がける。まして、相手は敵とはいえ人である。その結果、セラフィマは生を得え、アヤは死を迎える。その差は紙一重よりもまだ薄く、ここ乗り越えたセラフィマでさえ、その後その一線を超えそうになる。

死地をかいくぐり、戦争が終わり英雄たちが日常生活に帰った後、問題は意外なところで噴出した。誰もが精神的後遺症に苦しむ中、登場人物たちがそれほど不幸な生涯を送った訳ではない、と感じるのは私だけではないだろう。お互いの命を預けて戦い、知らず知らずに培った信頼で支え合い平穏な日常が訪れる。

ところで、p363で語られたリュドミラのアドバイスは、誰か愛する人でも見つけるか、さもなくば、趣味や生きがいを持つことであった。登場人物たちは、それぞれに愛する人と暮らし(愛する人が異性とは限らない)、やりがいのある仕事に従事している。

確かにリュドミラのアドバイスは、平穏な日常生活を支える一因となる。しかし、この登場人物たちがそれなりに幸福に過ごせるのは、もう一つの要因があったからだ。イリーナの問いにその答えが隠されている。卒業時に繰り返されたその問い「何のために戦うのか?」常に自分に問いかけてきた問い。自分は何のために戦うのか?この問いを自分にし続けることで、自分の本当の声を聞くことができる。問い続けることだけが人としての未来につながる道だった。それ故に、登場人物たちは時の流れに添い、平穏な日常を送ることができた。

登場人物たちほどではなくとも、生きていれば辛いことはたくさんある。そんな時ほど自分と向かい合い、本当になすべきことを自分問う。この姿勢をずっと続けることができれば、穏やかな未来が待ち受けているような気がした。
 
投稿者 msykmt 日時 
動機を階層化するとは

本書でもっとも印象に残った言葉が「動機を階層化しろ」だった。これは、狙撃兵が戦場で敵と戦うときに、持つべき動機の有り様として、教官としてのイリーナが訓練生たちに諭したものだ。なぜこれが印象に残ったのかというと、この動機を階層化するという概念は、どういうわけか猟師のアヤやセラフィマにとっては既知の概念であるとのことだったものの、私にとってはまったく未知の概念であったからだ。また、何度か本書を読み返してみたものの、この概念の本質的な意味を読み取れなかった。だから、この概念の意味をこの機会に考えてみた。

イリーナが言うところの動機の階層は、「動機の起点とすべきもの」と、その上に乗っかる層との二つに分かれる。前者は一層目にあたり、後者は二層目にあたる。では、その前者と後者、それぞれには、どういう役割があるのかを整理する。

まず、一層目にあたる動機の役割を整理する。これは、敵と戦う動機、あるいは、敵と戦う理由であるのと同時に、その人自身の生きる動機、あるいは、生きる理由でもある。なぜらば、敵と戦う理由が、その人にとっては生きる理由、逆の言い方をすれば、死を迎えない理由にもなるからだ。たとえば、セラフィマの戦う理由は、母親を殺したドイツ兵と、死んだ母親に火を放ったイリーナを殺すことだったものの、それは同時に生きる理由になっていた。なぜならば、宿敵を殺すという目的を達するための手段が、敵と戦うということであり、その戦うという目的を達するための必要不可欠な手段が、生きるということであるからだ。よって、この一層目は、敵と戦うという状況をつくりだすためには、起点として、からだを動かす燃料として、必要不可欠なものなのである。現にセラフィマも、狩猟に向かうときには、村のため、村民のためという動機をつくりだしていたと述懐している。

つぎに、二層目にあたる動機の役割を整理する。これは動機といいつつも、動機が希薄なものというか、動機を消し去ったようなものである。いわば人形のように空っぽな態度。明確な意思を持って敵を撃つという態度とは真逆な態度。あるいは、心をこめない、ねらいをもたない、ねらわない、という態度。これをどういうときに用いるのかというと、敵を狙撃するときだ。そのときには、一層目は雑念となるので、それを切り捨てた上で、二層目に切り替えねばならない。ではなぜ、切り替えねばならないのか。この理由が明に書かれている部分を本書から拾うことが私にはできなかった。ただ、暗に読み取れる部分はあった。それは、アヤが殺される場面だ。あのときアヤは、自身の一層目である「自由を得るため」にとらわれたがゆえに、視野狭窄におちいってしまい、自身に向けられた戦車の砲塔にその発射の直前まで気がつけなかった。その結果、アヤは死を迎えてしまった。よって、敵を狙撃するときには、二層目に切り替えなければ、肉眼におけるスコープが狭くなってしまうため、死を迎えやすくなってしまうのだ。また、よくよく冷静に考えてみると、弾丸を500m先の標的を当てたり、あるいは、熊の目に当てたり、あるいは、戦車の小さなのぞき窓に当てたりするという芸当は、人間がねらってできるような代物ではない。なぜならば、本書にあるように、そのときの気象などの状況によって、肉眼やスコープでの見え方が異なるわけだし、取り扱うスコープや銃にも個体差があるというのだから、そのような多数の変数にあっては、理屈によってある程度ねらいを狭めることはできるのかもしれないものの、ねらって当たるようなものではないと考えられるからだ。よって、敵を狙撃するときには、二層目に切り替えることによって、とらわれのない明鏡止水の境地に至り、その結果、ねらって当たるものでもないものを当ててしまう現実を引き寄せるのではないだろうか。なぜならば、引き寄せといった神がかり的な説明以外では、その理屈を説明できないから。

以上の学びを得た私は、その学びを現実にどう活かすか。まずは、一層目を、敵と戦う動機ではなく、生きる動機と読み替えた上で、常にそれを念頭に置くようにする。なぜならば、漫然と生きてしまっているうちに、死を迎えたくないから。つぎに、なにかをねらっても達成できないような場面に出くわしたときには、二層目に切り替えるようにする。なぜならば、達成してしまう現実を引き寄せてみたいから。だから、二層目に切り替えることが容易にできるように、明鏡止水の境地に至りやすい心とからだを練り続ける。
 
投稿者 str 日時 
『同志少女よ、敵を撃て』を読んで

主人公セラフィマにとっての“敵”とはなにか。自らの生まれ故郷とそこに住む人々を奪った敵国兵であるフリッツ。女性への暴行には参加してないとするものの、自身の母親をその手に掛けた仇敵ハンス・イェーガー。自らが絶望の淵に立たされている処へ追い打ちをかけ、狙撃兵としての道に引き込んだ師、イリーナ。

戦争という状況下では当然存在する敵兵。憎悪から生まれる復讐心によって存在する個人的な仇敵。そのどちらも“敵”であることに変わりないのだろう。しかし、幼馴染でもあり故郷の村で自分以外唯一の生き残り、同じソ連兵でもあるミハイルを撃ち抜いた瞬間、いや、銃口を向けた時からセラフィマの中で彼は撃つべき“敵”として認識されたのだろう。形式上の敵でも、仇でもない。「己の敵は己で見極めろ」といったメッセージにも受け取れた。

もっとも、イリーナに関しては憎しみを自分にも向けさせるよう仕組んでいた節がある。より強い復讐心によって挫折することのないように。より強い兵士に育てるために。戦争という異常な環境がそうさせたのだろう。こっそり回収しておいた両親の写真を、セラフィマが部屋に来る前にシャルロッタに託したということは、イリーナ自身から手渡すつもりはなかった。もしくは渡せる状態ではなくなっているということ。あの場で自身が更にセラフィマから恨みを買い、殺されたとしても尖塔に突入させることを防ごうとしていたのだろう。生徒に捧げる覚悟と愛情は理解の範疇を超えている。

もう一人、個人的に印象に残った存在といえばNKVDのオリガ。回し者とされ、別行動が多い中でも明確な裏切り行為や戦況を悪化させることもなく、間違いなくエリートの一人であろう。最後はセラフィマを救うため命を落とした。それまで殆ど無関心を装っていたはずの彼女の行動原理は何だったのだろうか。少なくとも、セラフィマたちと共に訓練を行っていた時の感情や会話。それら全てが嘘偽りではなく、本心も混ざっていたからだろうと考える。元々の彼女の所属、情報収集・監視という本来の目的。立場こそ違えど、似たような境遇、同年代の仲間であり、敵ではない。“演技“で割り切れない感情が彼女の中にもあったのではないか。

『戦争ってのは悪趣味だ。手段を選べない。偽装の種類も・・』

そう告げた後の罵詈雑言。自分の亡骸を偽装に“使いやすく“させるための狂言だとすれば、相手を気遣っての優しさも、受け取る側からすれば一生背負うべき重荷になる。実に残酷な世界だ。

オリガと捕らえられたドイツ兵ユルゲンの会話の中で、オリガは『女優になりたかった』と話しており、それは本心だったのだと思う。NKVDとして活動する中で“相手を欺く”という、別の形ではありながら“女優“としての自分に、誇りのようなものもあったかもしれない。

外交官になれなかったセラフィマ。サッカー選手になれなかったユルゲン。『そうはならなかった現実』は男女問わず、国籍問わず当人たちを苦しめている。遠くの国では今でも行われている、そんな現実に身震いした。
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書は史上初、選考委員全員が5点満点をつけた、第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作であり、独ソ戦を狙撃手として戦う少女達の物語である。平和な日常を突然ドイツ兵に奪われた主人公のセラフィマは、一流の女性狙撃手として戦線で活躍する。しかし、戦争中は英雄とされた女性狙撃手への評価は戦後に真逆となり、政治体制も変わり、命を賭して守り抜いた祖国は、時代の波に揺さぶられ変容してしまう。本書でセラフィマが撃った「敵」とは、一体何だったのであろうか?

私は、セラフィマが撃った本当の敵は、人ではなく、セラフィマ自身の他責思考であったと考える。本書の登場人物たちは皆、戦争に巻き込まれて人生を狂わされてゆくが、そこには2種類のタイプが存在した。極限状態において、他人のせいにして自分を正当化したタイプと、自分の意志で別の人生を切り開こうとしたタイプである。

確かに、人を悪魔に変えてしまう戦争は、誰からも忌み嫌われて当然である。しかし、同志的結束を高めるためなのだから集団で女を犯しても致しかたないと語るミハイルや、団結を乱すことは出来ないから残虐行為も仕方なかったと謝るイェーガーのように、自分が悪魔になったことを戦争のせいにすべきではない。何故ならば、自分の判断を戦争のせいにしている限り、戦争の呪縛から逃れることができなくなってしまうからである。つまり、自身の過ちを戦争のせいにしている限り、いつまでもその過去に囚われ、自分の運命を自身で切り開いてゆくことが叶わなくなるのだ。本書によれば、戦後ソ連は傷病兵についてはそれなりに支援したが、精神障害に対しては異様に冷淡であったという。自ら思考することをせずに軍の言い成りとなった罪悪感に苛まれた元兵士達は、ひ弱な臆病者として社会のゴミ箱へと葬り去られたのだ。

彼らと対照的なのは、看護師のターニャである。家族を皆殺しにされた彼女が絶望の淵にありながら、復讐心を切り替え、狙撃手とは正反対の看護師になると決めた覚悟には頭が下がる。おそらくターニャは家族を惨殺され嘆き悲しむ瞬間にあってなお、自分を客観視できる知性を備えていたのであろう。愛する人を失う苦しみを味わったからこそ、自分と同じような苦しみの連鎖を終わりなく繰り返す「殺人兵器」として生きることを拒んだのである。つまり、彼女は戦争そのものへの戦いを挑んだのだ。狙撃兵達が命がけで守る味方ですら軍律違反を犯し女性を暴行するような、むごたらしい地獄からの唯一の突破口は、敵味方を区別せず助けることにあったのである。戦後はヨハンを養子に迎え結婚も離婚も経験し、看護師長としてのキャリアを築いてゆくが、これも偶然とは思われない。自身の揺るがない覚悟を軸に、自己判断に基づく意思決定を続けた結果と考える。

そして、そんなターニャの覚悟が救ったのは、怪我人だけにとどまらない。「一体何のために戦うのか?」を自問自答し続けたセラフィマが、迷いから脱却する切っ掛けにもなったのである。イリーナが問うた、「戦いたいか?それとも死にたいか?」という2択の問いは、どちらを選んだところで絶望への道であることに変わりはない。戦って敵を殺すということは、ドイツ兵の帰還を待ちわびる誰かに自分と同じ絶望を味あわせる行為に他ならず、そんな殺人への罪の意識は、愛するものを奪われた痛みを知る自分自身に全て跳ね返ってきてしまうからである。最終章、船上で眠りから覚めたセラフィマは、初めてターニャの覚悟を聞き、「自分が人殺しになったのはイリーナのせいだ。だから私は悪くない。」と自身の罪の意識を責任転嫁していたことに気付かされる。その瞬間、セラフィマはそれまでのわだかまりが氷解し、世界を客観視することで、これまで見えなかったイリーナの深い優しさに気づけたのである。そのお陰で、想像もしなかったような新たな未来の扉が開けることとなった。このように、人を敵味方の差別なく治すというターニャの覚悟は、セラフィマの他責思考をも治療したと言える。

私達もターニャの覚悟を見習い、自身を省みるべきである。何故ならば、急激な円安、コロナ禍による経済の停滞、急激な少子高齢化などから、今後日本は次第に貧しくなり、格差が開いて行く可能性が様々な分析により示唆されつつあるからだ。先の見通しが不透明になるとの暗い報道が増えれば増えるほど、人は不安になり、感情が乱れ、論理的な思考ができなくなってしまいがちである。冷静な判断力が衰えれば、いずれ誰かに提示された選択肢からしか未来を選べなくなってしまうだろう。戦争のない平和な日本に住んでいるからといって、私達が「何のために生きるのか?」について、信念を持たずぼんやり生きていることは危険である。なせならば、人生の究極の場面で提示される岐路において、感情に囚われて思考が停止すれば、相手に誘導された答えを選択してしまいかねない。それは相手の支配下に入ることと同義であり、本質を見る目を眩まされてしまうことと同じである。後から振り返って「何であんな間違いを犯してしまったのだろう?」と後悔に苛まれ、精神を病んだ戦後のソ連兵ではなく、時代がどう変遷しようともたくましく生き抜いたターニャのようになりたければ、他人や環境のせいにせず、自分の決断には自身の責任が伴う覚悟を忘れてはならないのである。
 
投稿者 vastos2000 日時 
戦場へ行って生き残る人ってどんな人なんだろう?

もちろん、運の要素もあるだろう。知性や身体能力をはじめとした能力の要素もあるだろう。
きっと戦場という死が身近にある場所では各人が持つそれら要素の違いが浮き彫りになるのだろうと思う。

日本は幸いなことに平和な時代が長く続いている。太平洋戦争以降、紛争やテロはあったけれども他国と戦争状態になったことはない。戦争を経験した人も多くが亡くなってしまった。おそらく日本は平和ぼけしている。ボーーっと毎日を過ごしていても、死に直結することはそうそう無い。

そんな平和な国で本作を読んだのだけど、他の戦争を扱った本と同じように、読後感は良いものではなかった。にも関わらず、1日明けずに再読してしまった。

最初に読んだときは「戦争が起きて得する人って、一部の武器商社なんかの本当に一部のひとだけだよなぁ。大多数の国民は多かれ少なかれ損をするし、不幸になるのになぜ戦争を起こすのか?」と考えたが、なかには選挙で指導者を選べない国もある。民主主義をとった国であっても、選挙で選ばれれば、(ある程度)自分のやりたい政策を行うことができるから、当時のドイツでもみんながみんなヒトラーを支持したわけではなく、中には戦争に巻き込まれた形の人もいたんだろうなと思った。

と、1巡目は素直にそんなことを考えた。そして2巡目。いくつかの怪しげなエピソードが目にとまり、それが気なった。

例えば、スコープで覗かれていたり、銃で狙われていることを察知する。あるいは狙撃の瞬間に明鏡止水・無念無想の境地に至り、発射後に現実にもどってきたりと、オイゲン・ヘリゲルや植芝盛平を思い出させるような記述が出てくる。
巻末の参考文献を見ると、多くの戦争からの生還者の声を元にしているようだから、きっとこれに近いことが言われていたのだろうと推測する。

運にしても、運を引き寄せる考え方や行動があると思っているから、戦場から生還してインタビューに答えられるひとは何かしらの共通項があるのだと思う。まだそれが何なのかはハッキリわからないけど。

そして他に気になったのが「動機を階層化しろ」というくだり。なんかこれ、日常生活でも使えるんじゃないのかな?本書では、個人的な思いを起点にするのはよいが、狙撃の時は何も思うな、何も考えるなと指導される。何も感じないで敵を撃ち、そして起点へと戻ってくる。平和ぼけの私にはよく理解できないけど、なにか仕事に取り組むヒントが隠れている気がする。

現実にウクライナで起きていることを思うと、のほほんと読むことはできなかったけど、一昨年はマクロな視点で書かれた『独ソ戦』を読み、独ソ両国の死者の数、被害の大きさに圧倒され、亡くなった人の数や両国や周辺国(特にポーランド)に意識が向いた。
今回の課題図書はミクロな視点から描かれたものだったので、『独ソ戦』では「死者2千万人」という数字あらわされるのみだった死者全員にそれぞれの人生があったことを思いしらされた。
こんな状況でなければ、(不謹慎かもしれないが)純粋に楽しめたのではないかと思う。
 
投稿者 H.J 日時 

10年以上続くアガサ・クリスティー賞史上初、選考委員が全員最高点を付けた大賞作であり、直木賞候補作。
このワードだけで評価が高いことが判る作品である。

私がまず驚いたのは戦争というセンシティブな題材を読者に疑似体験を提供する様なディテールな描写と表現力である。
主人公であるセラフィマ視点で進む物語を語る中で外せないのは敵を撃つシーン。
引き金を引いたこともなければ、銃を握った事もない私ですら手汗が滲む様な緊張感。
思わずページを捲る手が止まらなかった。
当時、独裁者に率いられた国に於いて人命は尊重されず、降伏はおろか撤退することすら許されない緊張感も描かれている。

「同志少女よ、敵を撃て」
そのタイトルの伏線回収にも驚きが隠せない。
あらすじにも書かれている”真の敵”こと、幼馴染のミハイル。
戦争がなければ、きっとセラフィマと生涯を共にしたであろう男性。
それを望んでいた描写も描かれていた。
ただ、戦争の同調圧力に飲み込まれた悲劇のキャラクターでもある。
例え話で他の兵士と同じ場面になったら女性に乱暴しないかとセラフィマに問われた際に自信満々に拒否をしたものの、いざその場面になったら同調圧力に屈するかの様に輪の中心で女性へ乱暴しようとしていた。
”女性を守る”という戦う意味を見出したセラフィマの手で撃たれた。

ただ、女性を守るために戦うという意味では、セラフィマの宿敵であるイェーガーもそこまで遠くない様に感じる。
敵であるソ連人のサンドラと恋仲になり、最期までサンドラを想い戦った。
冒頭で村を攻められ、セラフィマが乱暴されそうになった時にも同調圧力に屈していない。
サンドラとの出会いも、サンドラが乱暴されそうになったところを助けている。
最期の最期も、結果として女性であるセラフィマとイリーナを助けている。(イェーガーの意ではないが)
この部分から宿敵でありながらもセラフィマの戦う意味に近いものを感じるのだ。
そういった意味では、同じくセラフィマに撃たれたミハイルとの対比を描かれている様にも思えた。

ただ、ミハイルとイェーガーの共通点といえば、狙撃兵のセラフィマではなく、一人の人間であるセラフィマに撃たれたということぐらいか。
深い一冊だった。