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第118回目(2021年2月)の課題本


2月課題図書

 

ヒトの目、驚異の進化

 

です。人体の、特に目の進化の特異さに驚いてください。まったく誰がこんな形で進化を

させたのか、ここに神の介在はなかったのか?と真剣に考えてしまいました。人間の目が

透視能力を持っているということを理解した時には、ソファーから落ちそうになりました

から。

 【しょ~おんコメント】

2月優秀賞

 

今月は投稿者数も少なく、全員分の投稿を読むのもラクでした。今回一次審査を突破した

のは、charonaoさん、BruceLeeさん、LifeCanBeRichさんの3名で、優秀賞は

LifeCanBeRichさんに差し上げます。ヒトの温度に対する体感の違いについて、価値観

や思想、意見の違いについての体感に類似性を見つけたのは良かったと思います。

 

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書では、人間の目はものを見る事について、より便利になるように進化させて来たという事を、全4章に分けて解説しています。

特に、3章の未来を予見する力に書かれている、人間が視覚で得られた情報を基に、未来の予見をしているという事について、視覚が時間にも関わっているという事に驚かされました。

人間の網膜が捉えた視覚の情報が脳に送られ、脳が情報を認識し、処理するには時間が掛かります。それはコンマ何秒という一瞬のことですが、リアルタイムで送られた情報は、脳で処理されている時にはすでに、コンマ何秒か前の過去のものになっています。

人間が現在を視覚するには、コンマ数秒後に起こるだろう、という事象を先読みする必要があります。これができないと、私たちは飛んできたボールをキャッチすることも難しくなってしまうのです。

3章だけではなく、全章を通して読むと、目が映し出す視界を、脳が知覚し易いようにフィクションとして作りだしたという著者の思想に納得ができます。

まず、本書の第1章で書かれている、感情を読むテレパシーの力とは相手の顔色を見て、感情の読み取りをしている事です。人間は僅かな顔色の変化を、視覚で読み取っているという事です。哺乳類の多くは、2色型色覚で世界を知覚していますが、人間は3色型色覚を持ち、他の哺乳類とは異なる知覚で世界を見ています。

次の第2章で書かれている、透視する力の透視とは両眼視差の事であり、人間の右目と左目ではわずかに視野のズレがあるため、そのズレが見えない部分を補い合う事が可能になり、自分の鼻を知覚せずに透過して、目の前の物体を見ることができるのです。

最後の第4章の霊読する力とは、人間の目は死者の書いた文字を読み、意味を理解する事です。

表記法が発明されると、死者は生者に語りかけられるようになりました。人間目は紙に書かれた何千という小さな文字を素早く見て、脳で処理をし、意味を読み取ることができるように進化して来ました。人間はものを見る時に、その特徴をシンボル化して表記するように見ているのです。
そして、人間の目が文字を読むように進化したのではなく、表記される文字の方が、人間の目に合うように進化させて来たのです。

普段の日常生活の中でも、目をサポートするメガネやサングラス、コンタクトレンズなども、目の機能を助ける一役を担っています。

目で見るという行為は、現実の世界を人間が捉え易いように、補整されて見えるフィクションであり、人間にとって知覚し易いように目を作り替えているという事には、改めて感心させられました。

そして、この目の機能は生まれてから、死ぬまで或いは機能しなくなるまで人間をサポートし続けるという事に驚かされます。

当たり前に普通だと思って見ている事は普通ではなく、知覚している人間の目が知覚できるように補整しているから見る事が出来ています。

このような機能を持っている目を、普段の生活の中で大切にしながら、できれば死ぬまで長く付き合っていくようにしたい、と本書を読んで思いました。
投稿者 audreym0304 日時 
ヒトに限らず、目は単なる入力器官だと思っていた。目から入力したあらゆる情報を処理して読み解くのは脳の役割だということも同時に思っていた。
本書によるとヒトの目が持つ4つの超人的な能力があるといい、それらを読むとどれもが、「ああ、なるほど」と腑に落ちるものばかりだった。車の運転をしているときを想像すると、目の4つの能力は目の前の道路状況の判断や何台か前の車の様子を透視すること、信号の変化や飛び出しなどの未来予測などその能力が申し分ないほど発揮されていると思う。

さて、本書を読んで、湧き上がってきた疑問がある。
ヒトの目は自然淘汰にしろ、文化的な淘汰にしろ進化をしてきたことには間違いはない。人類の進化や歴史を経て、今のヒトの目の能力は適材適所ともいえる。だからと言って、今のヒトの目の能力は決して完成形ではないだろう。ヒトを取り巻く環境が変わってしまえば、今持っている能力は過剰なこともあるだろうし、不足している能力は発現せざるを得ないだろう。つまり、ヒトの目は今もなお進化の途上にあるのではないか。
今後、現在および変わっていく環境に合わせた進化をしていく可能性はないのだろうか?

 例えば、在宅勤務になってしまって話題にもあがるし、甚く実感していることがある。それは、オンライン会議で相対している人がどんな表情で、何を考えながら話を聞いているのか、話をしているのかわからない、ということだ。
 コロナ禍で、今まで赦される限り同じ場所に一堂に会し行っていた会議がオンライン上で行われるようになった。他の参加者と一度も顔をあわせずにプロジェクトや業務を行うことも今まででは考えられないくらい多くなった。今までだったら、チームメンバーと簡単な目配せやジェスチャーでどのように会議を進めるのかがわかったし、相手の表情や顔色、ちょっとした動きなどを元に相手の理解度や感情を想像し、時には見抜き、どんな風に会議を運んだらいいのかを考えることができた。さらには、ある程度会議が進んだ段階で双方が納得できる着地点を早々に判断して、誘導することもできただろう。たぶん、多くの人が意識せずに今までやってきたことだと思う。
 相手の姿が見えないオンラインの会議が頻繁に行われるようになって、目から相手の表情や顔色、ちょっとした動きが見えないだけで、このまま話していいのか、それとも別の事例を挙げた方がいいのか、どこを着地点としたら双方納得できるのか分かりにくくなった。わからないから不安になることが多いのだ。不安どころか恐怖に近いこともある。
もちろん、声のトーンでわかることはたくさんある。仮に相手が冷静で落ち着いた声音でも、相手が本当に冷静なのか、実は怒っているのではないか、または楽しんでいるのかがわからない。相手の本当の考えを理解することができたのは、目が細かな点まで見てきたからだ。声で判断する以上に、視覚から受け取る情報をもとに多くのことを判断していた、さらには未来さえ予知していたということを思い知ったのだ。

 今後も、オンラインでのコミュニケーションが増えることを考えると、相対して目に見えるもの、表情や顔色、ちょっとした動き以外のものから多くの情報を取り込むこと、未来を予知することが必要になるのではないだろうか。
 声音もその一つなのかもしれないが、経験上、それが手書きだろうが、タイピングされたものだろうが、文字からは書き手の感情を読み取れると思っている。どんなに丁寧な文面でもいらだちが伝わってくることもあるし、お偉いさんからのクレームのような文面でも実はただ言い訳をしたいということが伝わってくることもある。そして、その文字から伝わってくる感情を考えての対応が大きく外れることはあまりない。
 目が持っている能力を考えると、文字から書き手の感情を感じ取り、どのような対応をすればいいのかがわかるということは、書かれた文章の誤字脱字の多さ、改行のしかた、文章量、メールやチャットを使うのであれば返信のスピードなどを総合的に判断しているからだと思う。
そして、目が持っている能力を遺憾なく発揮できるのは文字が目ができる限りうまく処理できるように進化した視覚的記号だという側面もあるだろう。
 
 目がもつ驚異的な能力、それがテレパシーであれ、透視であれ、未来予知であれ、霊視であれ、なにをどんな風に読み取ればいいのかというデータベースはやはり脳が持っていて、常にアップデートをしているのだろうか。
であれば、目も脳も互いを補いあいながら、かつ影響を与えながらヒトを環境に合わせて進化させてきたのであろうし、これからもしていくのであろう。もし、目だけでなく、脳もヒト自身も進化の途上にいるならば、こうありたいと望む姿を実現できる場所に身を置くことで、その進化を早め、画期的な変化ができるということになるのだろう。
投稿者 charonao 日時 
 本書について、人は超人的な視覚能力を持っているものの、それに気づかずに日常を過ごしているとしており、それらの超人的な視覚能力について、「テレパシー」「透視」「未来予見」「霊読」という、さも特別な能力があるように表現しているところに興味を惹かれました。内容としては、本来人間に備わっている脳と視覚の能力と進化について、筆者の仮説も含め解説されています。普段何気なくモノを見ることに利用している視覚に、素晴らしい能力が備わっていることと、その進化について驚かされました。

 本書で特に印象に残ったのは第1章と第4章です。まず第1章に関しては、肌の色が他人の感情や気分を読むのに役に立つという内容が印象に残りました。またここから、なぜ人間は肌の色で他人の感情を読む必要があるのか?という疑問を持ちました。本書では、私たちの感情の多くは、互恵的利他主義に必要な条件を維持する役割を果たしており、互恵的利他主義に必要な条件として、コミュニティにおいて裏切り者を許さないことを例にあげています。感情を読むことで、裏切り者がはびこることを阻止しているというのです。では顔が見えないコミュニティにおいて、裏切り行為が行われた場合どうなるか?例えばSNSでのコミュニティにおいては、相手の顔がわからない場合も多く、その人の行動(SNSでの発信内容や課金など)のみが互恵関係を築くための材料となります。ここでの裏切り行為は、誤情報の発信や情報の転用だと考えます。もしこれらの行為が行われた結果、反省があったとしても、SNSだと文字情報のみで感情が読めない為、反省が真実なのかの判断が難しく、被害者は多くの場合、謝罪を無視し、一方的に加害者を罰する事が多いと推測します。しかし、SNSで同じ裏切り行為があったとしても、実際に対面で謝罪をされた場合、顔色で悔恨の感情が嘘ではないことが伝われば、その謝罪を受け入れる可能性が高くなるのではないでしょうか。顔色で感情が判断できると、怒りの感情、悔恨などの感情が嘘ではないことが伝わるのとともに、相手の人物像も把握しやすくなるため、信用につながると考えます。その人の行動と顔色とで表現される感情が一致することで、信用に足る人物かどうかの判断がつくようになります。つまり、そこで生み出せるものは、他人に対する信用であり、そのため肌の色で他人の感情や気分を読む必要があるのだと思います。そうであるならば、現在コロナ禍の影響でリモートワークが推奨されてはいるものの、対面でのやり取りが一切なくなることは、顔色で相手の感情を判断してきた人間にとっては不安を感じる状況なのではないかと思います。

 第4章については、人が目によって文字を素早く処理できる理由とその意味について書かれています。目は大昔の祖先が持っていたものと同じ視覚系であり、文字を読む目的では進化しておらず、文化が視覚系の要求に適合した文字を開発したと書かれています。文字は単に自然にあるモノの形を元に作られただけではなく、視覚系に配慮され開発されたものであり、人間が意識的に作り上げた技術なのです。意識的に作り上げたものなのであれば、先の章に出てきた内容と異なり、自然淘汰を通しての進化ではないため、文字の読み書きを習得するために幼少時から学ぶことの必要性に納得がいきます。ではなぜ人間は習得する手間があるにも関わらず、文字を進化させてきたのか。そもそも文字が開発された理由としては、人に自分の考えを伝えるためですが、人に何か伝えたい、自分の考えを残したいということだけであれば、口頭での伝達でも良かったのではないでしょうか。この点については本書のデート中の男女の例にあるように、話し言葉だと相手が話を聞いていなかったり、瞬時の理解が必要なため、正確に意図が伝わらない可能性があります。文字だと複数人へ伝えることができ、何度も読み返すことが出来るため、書き手の意図が正確に伝わる可能性も高く、また途中で伝達が途切れる可能性は口頭より低く、書き記された文字が読める、読めないは別としても、その文字自体は間違いなく後世に伝えることができます。人はそれを自身の進化の過程で理解したことで、文字も進化させるべく試行錯誤したのだと考えます。人が確実に後世に伝えたいことがあるから、文字を進化させていったことを考えると、言語を習得せずにそれらを理解できないことは、もはや罪であることのように感じます。文字を習得し、文字情報から新たな情報を取り入れ、その取り入れた情報から自分の考えを膨らませたものを、更に文字を用いて記録し、後世に伝えていくことが人間の進化につながっており、それは人間にしか備わっていない驚異の機能だと思いました。だからこそこの課題図書の感想文のようにインプット・アウトプットを定期的に行うことが、人間の進化を止めないために必要だと感じました。
投稿者 BruceLee 日時 
だからナニ?

正直、本編を読み終えた直後の読書感はコレであった(笑)
勿論、これは私の読解力や理解力が無いためだ。というのも巻末の解説に本書の意図が丁寧に語られており、若干理解が深まったからだ。その意味で本書は私が初めて「解説って有難いものなのね~」と感じた1冊でもある。

本書の目的として、ヒトの進化の「なぜ?」という問いに答えること、とある。根底にあるのは4つの問いだ。

なぜ人間には色付きでものが見えるようになったのか?
なぜ人間の目は前向きについているのか?
なぜ人間の目は錯覚を起こすのか?
なぜ文字は現在のような形をしているか?

それら問いに答える形でヒトの目の4つの力が提示される。

1)感情を読むテレパシーの力
2)透視する力
3)未来を予見する力
4)霊読する力

この中で私が最も興味を持ったのは1)である。恐らく著者は読者の興味度をより上げるため、テレパシーという怪しげなワードを敢えて使っているのだと思われるが、確かに「自分の肌が『色がついていない』ように見えるのは、自分自身の体の味や匂いや温度が知覚されないのとちょうど同じだ」といのは納得。つまり、これは自分の意識サイドの問題だと気付かされた。そして「むき出しの部分」の意味。「人間の肌には、健康状態や、感情や気分を映し出すモニターとしての機能がある」のだから、我々現代人でも仮にその、むき出しの部分が少なかったら「いつもと違う」場合に発見が遅れ、体調不良や病気に気付くのが遅くなるかもしれない。本書には女性と赤ん坊の記述があるが、まさに言葉を発せられない赤ちゃんの状態が平常か否かを確認できるのは肌の色も重要な一要素だし、例えば家族の一員がいつもと違う顔色をしていればその他の家族が気付きやすいだろう。但しそれは日頃からお互いの顔色を把握してるくらい仲の良い家族に限るのだろうが。何れにせよ、だとすれば人間がそのような機能を持つに至るよう進化してきたのは大げさに言えば、自分を含め人類全体を守るためなのかもしれないし、それはある意味で重要な自己防衛手段と言っても良いのかもしれない。

そして私の思考は派生的に膨らむ。だから赤ちゃんは守られるため「むき出しの部分」が多く、毛が無い状態で生まれてくるのか~。では人間は成長する過程で上にも下にも毛が生えてくるが、それって守られる必要が無くなった(自分で守れる)って事?また更に歳を取って頭髪が薄くなる人々(つまりハゲ)は、若い頃よりも守られる必要性が出てきた人なのかしらん?云々。

一方、コロナに掛かると味覚が無くなるという話を聞くが、味覚は味を楽しむ機能以外に、食べ物の異常を感知する役目もあり、味覚を失うという事はつまり人類を守る防御機能が落ちてしまう事にもなる。これは嗅覚も同じで、嗅覚異常により例えば家の中のどこかで火が点いて、その燃え始めたニオイを感知できなかったが故に火事になり命を落とす、なんて悲劇も考えられる。その他、透視、未来予見、挙句の果ては霊読、と怪しげワードのオンパレードだが、確かにそれぞれのパートで上記の問いに答えを提示してくれている。と、ここまで考えて気付く。私の読後感の「だからナニ?」は理解力が無かったというのもあるが、この人間の目の進化が、それほど凄い事なのだと気付かなかったのだろう。上記のように視覚、味覚、嗅覚と考えてみて「スゴイ」とは思ったが、そうでなければ「う~む。。。まぁ、そういう考え方もあるよね」程度で本書を閉じていた気もする。それは恐らく怪しげワードのせいかもしれないが。

が、ふと思うのは私が感じた「そういう考え」に対し、私の中には恐らく「そうじゃない考え」が既にあると思うのだ。それは何か?と考えると「そんな機能、人間なんだから持ってて当たり前じゃね」という「どんだけ驕ってんのキミ?」的な考え方だ。いや、もっと言えばそう考えてしまう理由は普段は自分の目の機能や進化などについて考えてもいない証左であり、それ以前の問題なのだ。本書はそのように活用する事も出来る。ヒトの目にはこれだけの進化があり、現代人である我々の目には優れた機能があるのだと気付き、考えることで、その有難みが感じられる。あって当たり前、ではないのだ。

一方、人の目が進化してきたのは長い時間・歴史を通じて実現された人類の進化であり、我々現代人が生まれた後に劇的に進化することはそうない。一方、アフリカの都市部以外に住む人々は視力が6.0くらいあるとも聞くから、スタートが2.0で後は次第に悪くなっていく日本人の視力が標準でもなく、人間の機能は更に深い事に気付く。半面、人間には必ず老化がある。欲を言えば、ついでに老化で視力が落ちないようにも進化しておいてくれれば良かったのに、というのは人類の進化に対する冒瀆だろうか。

本書はあくまで「ヒトの目」にフォーカスしている1冊だが、私的には読後にその思考を広げ、人間って不思議だな~と感じる事ができ、またそういう進化がなされてきたの事に対し驚異をも感じた。

と、ヒトの目だけに視野を広げて考える事ができた1冊でした。
おあとがよろしくないようで。。。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書は、人間の視覚の驚異について、四つの能力を中心になぜを展開する形でわかりやすく解説されている。第1章は人間の色覚についてのなぜ、第2章は人間の目の位置についてのなぜ、第3章は人間の錯視についてのなぜ、第4章は人間の文字の認識についてのなぜである。ここでは各章ごとに感想を述べていきたい。

 第1章はテレパシーの力について。色覚を認識する力を人間が得たのはなぜかの問いかけである。それに対して、色覚を認識するのは相手の感情を読むために発達した、との仮説を主張する。ほとんど多くの動物は色覚を黄/青の2元色でしか認識できないが、人間は黒白/青黄/赤緑の3元色を認識できるようになったという。肌の色の変化を見て相手の感情や健康状態を判断する必要があるために色覚を発達させたのである。つまり、怒ったり恥ずかしかったりすると肌の色が変わる、熱があれば顔が火照って赤くなったり、人間はそれを知覚することができるように発達したのである。さらに色覚のスペクトル分析によると肌の色(白人/黒人/黄色人種など)による違いはそれほど大きくなく、むしろ感情の変化の細微なスペクトルを読み取れることができるという。また、人間は他の動物より体毛が少なく顔にも毛が生えていないことから顔色の変化も顕著にわかるという。
 なるほど、大規模な集団社会生活を円滑に営む上で、言語以外の意思疎通能力、つまり顔色を読むや空気を読むというテレパシー的な能力が必要であると人間が認識したため、人種による差はほとんどない、顔に毛が生えていないなどの理由から色覚が発達したというのは納得である。

 第2章は透視の力について。人間の目の取り付け位置、つまり目が顔の前方に2つあるのはなぜかの問いかけである。目が前方に二つあるのは立体視をするためというのが通説である。しかし、その説明だけでは肉食でも横に目がついている動物がいるように、後方にも視野を広げていった他の動物達との差別化理由にはならないという。前方に目が理由として、視点が二つあることにより、両目から得られる視野を脳内で補い合い、例えば森の中で植物の茂みから障害物の向こう側を見通すような透視力を得ているのではないかと論じている。
 しかし、果たしてこれを透視能力と言っていいものだろうか。左右の視界の差を脳がそれぞれ補ってうまく処理して、透過して見えているように感じているだけではなかろうか。左目で見えるものと右目で見えるもの以上のものは見えないわけだから。それとも自身の読解力不足により、何か読み違えをしているのだろうか。

 第3章は未来予見の力について。人間が錯視を起こすのはなぜかの問いかけである。本書では人間の錯視を体系的に分類し、錯視の大統一理論として説明している。人間が目で光を受けて脳が認識するまでに約0.1秒かかるという。バッターがボールを打つことができたり、高速で走るレーシングカーでカーブを曲がることができたりするのは、0.1秒という視覚の遅れを埋め合わせるために脳内で未来の映像を作りだし先取りしているためだと説明している。そして、そのことが原因で様々な錯視が起こるのだという。
 本書を読むまでは自分自身の中でなぜ錯視が起こるのかはずっと謎であった。なるほど、目から鱗の知見である、合点がいく。つまり、先読みする力や未来の状態を予見する力がなければ錯視は起こらないわけである。だとしたら、動物にはこのような能力はあるのだろうか。動物には錯視は起こらないのだろうか。人間でも障害などでこのような能力が備わってない場合、錯視は起こらないのだろうか。もしくは未来予見をしないように意識(あるいは訓練)すれば、錯視は起こらないのだろうか。好奇心は尽きない。どうやらまたしても探求心に火をつけてしまったようだ。別の関連文献をあたるなどしてさらに考察を深めよう思う。

 第4章は霊読の力について。人間が素早く文字を読めて意味を理解することができるのはなぜかの問いかけである。これも興味深い。人間は文字を読んだり書いたりすることができる。しかしこの能力は人間の脳や視覚が進化したのではなく、文字の方が人間の目に合わせて進化したのだという。
 正に逆説的な発想である。尤も文字を作ったのは人間なのであるから、人間が無意識のうちに自分たちの目に合わせて素早く識別できるように長い年月をかけて工夫していったということであろうが、それを文字の方が進化していったとする考え方は素晴らしい目のつけどころだと感じた。なにやらトンデモ説のように聞こえるが、世界中の言語毎に文字の平均画数と文字総数や文字の形態分析から文字の生成原理分析を行い、人間の使用する文字は全て同じシンボルの組み合わせからできていること、それにより人間の文字読解速度が霊的な速さとなる仕組みを解明していることから、トンデモ説ではないことが覗える。
文字は人間の図形認識能力を元に自然の中から共通的な文字の形を導き出したものであり、実は人間が使用する世界中の文字は同じ構成要素からできており同じ原理に基づいているという考え方は、ヒトの目の進化だけに留まらず人類の驚異なる進化だと感じた。

 本書を読了するにあたり、人類の文字文化の発達も含めて人間の進化の不思議を改めて再認識することができた。特に錯視については新たな探求心が芽生えた。これについては関連文献をあたるなど今後さらに深く追求していこうと思う。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、理論神経科学者の著者が、人間の持つ視覚能力の正体を突き止めるために、4つの超人的な視覚能力を科学的に解明する過程について説明した本である。4つの視覚能力とはテレパシー、透視、未来予見、そして霊読のことで、単語だけ聞くとどうにも胡散臭い。しかし、著者は視覚の進化に関する科学的疑問の答えを模索する中で、これら4つの超人的な視覚能力を学術的に解明することに成功しているのだ。本稿では、本書で紹介された4つの視覚能力の中で、人間特有の能力は何なのか考えることで、人間の進化の方向性について探ってみたい。

まずは、4つの視覚能力について整理しておきたい。テレパシーとは、色を知覚する能力のことである。なぜテレパシーであるかといえば、人間は肌を見て相手の感情と状態を把握しているからだ。次に透視とは、両眼前方視のことである。人間は両眼が前向きについていることで、障害物にさえぎられながらも、その障害物を透視して、その向こうの対象を見ることができる。未来予見とは、動いているものを正しく知覚する能力のことである。人間が光を受けて神経組織が視知覚に転換するには約0.1秒かかるため、視覚認知は神経的に遅れることになるが、その時間差を埋め合わせるために、未来を先取りする能力を持っているのだ。最後に霊読とは、文字を正しく知覚するための物体認識能力のことである。人間の目は、小さな形を短時間で大量に処理する読字という複雑な行為を、極めて自然に労なく実現しているのである。

以上の4つの能力の中で、人間だけが持っている能力は何であろうか。色を知覚する能力については、霊長類の中には他に持っている動物もいる。サルの中には色覚を持つ種がおり、これらのサルも人間と同じように肌の色の変化を感じ取ることが視覚上は可能だ。両眼前方視については、多くの動物が持っている能力だ。昆虫、魚類、爬虫類さらにはウサギといった一部の哺乳類は、それぞれ反対側を向いた二つの目を持っており、視認範囲を広げるという視覚上の特徴を有しているが、チンパンジーなど一部の動物は前方に2つの目を有しており、こうした両眼前方視が可能な動物は、透視能力を有していると考えられる。未来を予見する能力については、視覚を有している多くの動物が持っているものだ。動物は、この世界で走り、跳ね、這い、泳ぎ、穴を掘り、身を揺すり、飛ぶ。その過程では、絶えず変化し続ける「現在」を知覚する必要があり、大なり小なり未来予見の能力を持っていると考える方が自然だ。唯一、人間だけが持っていると考えられる能力は、霊読である。なぜなら、文字を認識できるのは、地球上の動物の中で人間だけだからだ。

読字が可能という事実のみで、霊読の能力が人間特有だと考えるのは早計だという主張もあるかもしれない。なぜならば、本書のP263に書かれているように、目は文字のために進化したわけではなく、現代の人間の視覚も、文字を持たなかった大昔の祖先が持っていた目と同じ視覚であるからだ。そうであるならば、チンパンジーが持っている視覚も人間と同じものであり、人間と同じように文字を認識している可能性があるのかもしれない。しかしながら、人間の持つ霊読能力の本質は、認識しやすい文字を作り出したという点にあり、これこそが人間独自の能力なのだ。本書P314に書かれている通り、人間の目は文化や文明を通して、外部世界に働きかけ、変化をもたらすことができるのである。つまり、文字の開発力が人間の視覚が持つ独自性であり、これは間違いなくチンパンジーが持っていない特殊能力だと言えよう。

それでは、外部世界に働きかけることが、人間の視覚能力が持つ本質であるならば、人間の進化はどこに向かっているのか。文字の最も重要な機能は、自分の考えを他人に効率的かつ効果的に伝達することだ。だとすれば、他者とのコミュニケーションや相互の意思疎通を限りなく滑らかに限りなく広げていくことが、人間の進化の方向性だと私は感じた。インターネットやSNSの普及によるコミュニケーションの高速化と広範化も、人間の進化の一過程と言えるのではないだろうか。なぜなら、文字や読字が、人間の視覚能力が外部世界に働きかけることで進化を果たした人間の一機能であるならば、人間が文明を通して作り上げた数々の機能も、人間の進化の一形態と言えるからだ。将来的には、脳内で考えていることを伝達し合う手段が開発されるのかもしれない。外部世界へ働きかける力が人間の独自性であるならば、その可能性は無限に広がることになり、人間の進化は留まることがないとも考えられる。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 Terucchi 日時 
「ヒトの目、驚異の進化」マーク・チャン・ギージー著 を読んで

この本は、ヒトの目の優れた点について、以下の4つの能力が進化したことを書かれた本である。
1.『感情を読むテレパシーの力』
2.『透視する力』
3.『未来を予見する力』
4.『霊読(スピリット・リーディング)する力』
の4つの力が優れていると説いている。

これらの力は人間の生活に都合の良い方に進化した力であり、特に人間のイメージ力を最優先に進化した力だ

と私は考える。

私は以下に、この中でも2、3、4の力を掘り下げて考える。

まず、2.『透視する力』について考える。
この力は目の前のものを都合よく消せる力である。p108では『自分を透かし見る力』を取り上げている。左と右を別々に片目で見ると、自分の鼻が視界に入り、邪魔になる。なるほど、私自身小さい頃にやったことがあるが、今やって見ると正しくその通りである。その時は、そういうものだと思ってしまったことに、あまり疑問も持たなかった。人間の目は、邪魔になっているものを都合よく消している。これは見ることよりも、不要なものをイメージで消去していることだと判断する。

次に、3.『未来を予見する力』について考える。著者はこの本で取り上げた図を人が見た時に錯覚してしまうことや自分の体験を通して、その予見する力を説いている。ここで、p190の図3に私は驚かされた。飛んで来たボールを受け取ろうする場合、もし予見する力がないとボールに気付いた瞬間ではその位置から進んでいるため当たってしまうとのことである。なるほど、予見する力があるから、ボールの飛んで来る軌道も事前に予想することができるからキャッチできることだということである。私は学生時代に部活動でバスケットボールをやっていたが、そのようなことを考えたことがなかった。今、改めてこの視点で考えてみると、確かにそうであることが実感できる。ところで、この本での説明では受け取る方だが、相手にパスしたりシュートする時はどうだろうか。私の経験上、相手へパスするコースやシュートするコースを事前にイメージして、そのコースにパスやシュートを行っている。ここで著者が言う予見する力とは、イメージする力と同じことなのだと考える。ここで、イメージする場合それまでの経験がとても大切である。ボールを見た瞬間に自分に対して、どの方向へどんなスピードで行くのか、経験とイメージを合わせることが大切なことだとと私は感じた。これは正しくイメージトレーニングだと思う。イメージに合わせて行動をしている。知らず知らずにイメージトレーニングと同じである私は感じる。これも、実は人間が都合よく考える技術であると考える。イメージ通りにいくかどうかは結果次第ではあるが、まずは自分にとって都合よく考えるイメージができないと、その通りに実現することはできない。

次に、4.霊読する力について、考えてみる。
ここで、著者は文字をシンボルとして捉えていることを説いている。p264の『シンボルによって物語を伝える』こと説いていたが、人の頭の中はきっちり写真のような正確な絵ではなく、むしろ抽象化したもの方が自然なのだと私は考える。そのため、抽象化されたシンボルの方が、頭の中に入りやすいだけでなく、頭の中から出しやすい、と考える。おそらく、頭の中に入る時は実物を見た物を、抽象化させて、更にシンボル化させる。そして、出す(伝える)時はシンボルを伝えることにより、相手の頭の中では、そのシンボルを抽象化させて、それから実物のイメージに変換している。すなわち、実物→抽象化→シンボル→抽象化→実物をイメージとなっていると考える。そして、抽象化をつなぐものがシンボルである。このシンボルがここでは文字としているが、記号や言葉もしくはアニメでも同じ抽象化で伝えるものであると私は考える。イメージは現実に近くなくても構わず、むしろ抽象化した方がイメージしやすいことだと私は考える。

以上の私が取り上げたこの3つについて、共通する点はヒトのイメージする力であり、このイメージを都合よくつくることができるのだと感じる。もし、現実を実際のそのまま捉えるだけであれば、実はそのままであり、何も変化する力にはなり得ない。ここで、文明を建造物等の物で考えた場合、その物を現実化したものは、そもそもイマジネーションの力であるのは間違いないことだろう。もし最初のイメージする力がなければ形にすらならない。しかし、それだけではなく、まずはイメージを都合よく行わなければ、イメージの源や原動力にもならないことだと考える。この『ヒトの目』の進化と考えると、人が都合よくイメージする力が影響しているだけでなく、逆に人を都合よくイメージさせることの、双方に影響しながら進化した結果だと考える。

以上、私はヒトの目が人間のイメージ力を最優先に都合よく進化した結果だと考える。
 
投稿者 str 日時 
ヒトの目、驚異の進化

本書を読んで、目という部位が担っている機能や役割の多さに驚いた。“目の錯覚“とはよく言うけれど、目そのものは正確にモノを写しており、どちらかと言えば脳の方が適当に情報を処理しているように感じる。

バックミラーを視るのと同時に、前方も同じ解像度でピントを合わせて視ることが出来ないように、進化の過程で四方を同時に視れるようにならなかったのは、前方だけを視ることの利点や必要性以外にも、脳そのものがパノラマの映像を処理できないから今のような形に落ち着いたようにすら思えてくる。

年齢や環境で視力が低下したり、格闘家のように動体視力を強化したり、使い方次第でその機能に増減する余地を与えたのも進化の結果なのだろうか。

相手の顔色や表情から伺える体調や気分の良し悪しも、せっかく視覚し認識する事ができるよう進化したのだから、己の目から入る情報をもっと信用し役立てていきたい。
 
投稿者 akiko3 日時 
視覚能力の本なのに怪しい目次。
 だが、視覚の研究をしたら脳のことがわかってきて、超人的としか言いようがない能力だから納得の目次だった!

私が一番興味を持ったのは『透視する力』。
実は1月の中旬に母の面会に特養に行った時、いつも先にスタッフと母が窓際で待っているのだが、その日は私達の方が先だった。時節柄、ガラス越し面会なので外で待っていたら、部屋のドアが開き、母の車いすを押しているスタッフがよっこらしょっと車いすを左に45度方向転換させ、窓際に立っているこちらに向かって押してきた。
その方向転換する時に、一瞬、母が私達の姿を見てにこっと満面の笑みをみせたように見えた?思った?本当に、ほんの一瞬だった。なぜなら、まっすぐこちらに向かってくる母の表情は寝たきり老人らしい空虚なものだったから...。
車椅子を30度ぐらいずらして窓際に設置し、声かけをしても目はぼんやり。スタッフが肩を叩いて窓際の方を指さすのにつられて、チラッと目が動いたような、すぐまた宙を見て目も1㎜位しか開いてない。向きを変えたりしてくれたけど、目をつぶり始めたので面会を終えた。

この5日後、母が入院し一時は(延命行為を望まないので)1~3週間かもと言われた。
そんなこと言われると、あの面会の時に見たと思った”笑顔”の意味は?とか、マスクの片方ひもが切れたり、テープで補修をしていた部分が摩耗してちぎれたりすると、たまたまなことでも、もしかしたら?と体がきゅーと冷えてくる。
一方で、空虚な表情の寝たきり生活が母の幸せなのか?という葛藤もあった。
無事数週間で退院したのだが…。
見たもの、体験したことが、データをして脳に伝わり、どう判断するか。
あの時、私は寿命かなと思ったものの、心残りがあるのでまた元気になることを願い、そう思い描いた。
でも、あの一瞬の母の笑顔の意味はわからないままだった。


話は変わり、あるエッセイを思い出した。(うろ覚えなのだが)
男の子が病気で母親を亡くし、生前母親が「必ずまた会いに来るからね」と約束していたとか。
桜が散る頃、突風に煽られた花びらが渦を巻くように空に向かって舞い上がった時、男の子が突然その桜吹雪に向かって「お母さん、お母さん!」と叫んだか、駆け寄ったかという内容だった。

そういえば学生時代に信号待ちをしていた時、みごとな桜吹雪を見たことがあったが、あの男の子はあんな桜吹雪の中に母親の姿を見たのか?
それともなんらかの情報を脳が受け取り、処理し、映像として見せるということもあるのなら、母親のエネルギー体を感じた脳が、その子にわかる視覚情報として母親を見せた?感じさせた?のかもしれない。

考えてみれば、母子の関係はテレパシーの積み重ねではないか?お腹の中にいる時から視覚情報なく、共通言語もなく、体感でコミュニケーションしている。
生後は泣き声1つで判断する。最初はわからなくても訓練でわかるようになっていく。

結局、人が生まれ持った能力が超人的で、人体の仕組みは高性能コンピューター以上と自覚せず、ただ使っている(生きている)からいけないのだ。ちゃんと使いこなせるよう自分が身体能力を訓練し、怪しい領域まで能力を伸ばしたらいいのだ。

最後に、何のためにどう能力を使うか?
1つ著書の中でとても印象に残った言葉がある。

「過去をコントロールする者が未来をコントロールする。未来をコントロールする者が現在をコントロールする。」 ―略― いちばんコントロールしたいのは、現在なのではないだろうか?

  これを読んだ時、あの一瞬、母の笑顔を見たと思ったのは錯覚かなと思ったけど、パラレルワールドではないが、空虚な母の表情の下?裏?には、面会に来てくれて嬉しいとニコッとした母がいるのではないかと思った。
  そして、寝たきりで生きることは寂しくつらい人生ではないかと思わず、母の中にはしゃべれなくても、反応なくても、細胞レベル?魂レベル?で喜びを感じているのではないかという思いに至った。
  だから、面会に行ったら母のエネルギー体に話しかけるし、面会解禁になったら細胞に語りかけるようにマッサージとかしたい。
なにより、母がまたチラッとでもこちらを見て反応してくれるかもと希望を抱けることが今の家族の幸せなのだ。まだ家族の課題も残っているし...。
 
投稿者 daniel3 日時 
 本書では、生まれた時から私たちが持っているがために見過ごしてきた目の超能力について気づかせてくれ、まさに目からウロコの体験をすることができました。著者の巧妙な文書表現により、テレパシーや透視能力など一見信じがたい超能力を私たちは備えていると言われ、冒頭では胡散臭い感じがしたのは事実です。しかし、科学的な検証結果を丁寧に積み重ねながら超能力の種明かしをしてくれ、その着想や研究手法はお見事という他ありません。こうした超能力にも裏付けがあることを考えてみると、今はまだ解き明かされていない私たちの第六感などにも、何かしらの説明ができる日がくるかもしれないとワクワクしながら読み進めることが出来ました。

 本書では4つの超能力について解説されていますが、主に2つの超能力について述べた後、本書と通じて考えたことを書きたいと思います。

◆テレパシー能力について
 第1章では、私たちは人間の肌の色を透明(ニュートラル)な色として知覚しており、そのためほんの些細な変化も知覚できるようになっていることを説明してくれます。実際に巻頭カラーページを用いた簡単な実験を行い、本文と行き来しながら読み進めることで、確かに肌を透明な色として知覚していることに衝撃を受けました。
 著者がテレパシーと呼んでいるこの能力を、我々は視覚系の発達と肌を露出させる進化により獲得し、言葉を介さずとも互いの様子を探ることが可能となっています。肌を露出させることは寒さへの耐性が下がったり、防御力の低下へとつながるためある意味退化とも思われます。しかし、共同体内での的確な意思疎通は、個々の個体能力の低下を補うほど人類全体の繁栄に貢献したということなのでしょう。

 人間にテレパシー能力があるなど今まで意識したことはありませんでしたが、改めて自身の経験を振り返り思い出したことがあります。私は数年前に、しょーおん先生のメルマガでも紹介されていたパーソナルカラー診断を受けたことがあります。パーソナルカラー診断とは、身に着ける服の色には系統があり、その人に合った系統の色の服を身に着けることで個性が引き立つというものです。診断を受ける前は、どの程度の差が出るものか半信半疑でしたが、実際に鏡を見ながら診断を受けると、合わせる色のよって、若々しくなったり、反対に疲れて見える色があることに驚きました。今思えば、このパーソナルカラー診断も、人間が肌の色の微差を知覚しているがために、印象にあれほどの差が出るのだと改めて納得しました。

◆透視能力について
 第2章では、人間の両眼が正面についている理由について説明をしています。私は小学校で、その理由として「遠近感を得るため」と習った記憶があります。遠近感が知覚できることもある程度利点があるかと思いますが、目が側面に向いている動物に比べて圧倒的な視野の狭さを補うほどの利点があるとは思えなかったという記憶もあります。しかし本書では、そうした子供の頃の疑問に応える新たな仮説として、両眼視による透視能力について説明しています。動物と障害物の大きさの関係に加え、両眼視による仮想的な視野を活用することで、人間を含めた類人猿は透視能力を獲得したと述べています。この超能力により森林など視界の悪い状況下では、単眼視ではなしえないほど広い視野を獲得できるということは、生物進化の合理性から言っても非常に説得力のあるものでした。

◆超能力を活かすには
 以上のような超能力を我々人間は進化の過程で獲得したわけですが、人間の生活変化は生物学的な進化が追いつかないほど急激に進んでいます。一例としては本書で紹介されていたように、人工物で囲まれた現代の環境下では透視能力を十分に生かしきることができていません。そんな能力を備えていることさえ気付かずに狭苦しい環境で我々は生活をしています。さらに最近ではコロナ禍の制約により、マスクをしたり、デイスプレイ越しのオンライン接触を余儀なくされる場面が増えており、テレパシー能力を十分に発揮することが難しくなっています。以前よりも他者とのつながりを感じづにくくなり、閉塞感を感じている人が増えていることも事実でしょう。

 人間の生活の変化により、超能力は使われずに能力が弱まっていく方向に向かうのでしょうか?それともIT技術の急速な発展は、こうした超能力さえ上手く取り込んで、新たな体験を提供してくれるようになるのか、想像すると興味は尽きません。私たちが普段意識していることはほんの小さな範囲であり、まだまだ知らない大きな可能性を私たちは秘めていること知ることができた、楽しい読書体験となりました。
 
投稿者 dmnss569 日時 
普段あまり経験することがない自分の常識を揺さぶってくれる貴重な書籍。本書は視覚の観点から人の進化の「なぜ?」に迫っているが、まず初めに心を動かされたのは著者の秀逸な仮説の立て方である。著者は科学者の視点で本書を纏めているが、「錯視は未来予知を前提としている」といった鋭い仮説が随所に見られ、クリエイターやイノベーターの頭の中を垣間見ている気分になれる。
本書は4章構成になっており各章で独立した深い考察が行われながら、全体としても関係し合っている。著者は視覚の驚異的な可能性を具体的に示しながら「視覚の更なる可能性」・「進化の必要性」についていくつかのメッセージを記しているため、各章の内容を振り返りながら読者として著者のメッセージをどのように受け取るべきなのか考えてみたい。

第1章では人がカラフルな色を知覚するようになった理由が述べられている。まず驚くのは著者が人の肌は無色だと整理している点である。日本には肌色が存在するではないかと思ったが、冷静に日常生活を振り返ると確かに日常の生活圏で人の肌の色を「色」として意識はしていない。これを「無色」・「肌の色は変化の差を知覚するための基準点」と整理する著者の発想に感服した。本章は『私たちは魔法使いではない。ただのエンパスだ』と著者特有のユーモラスな表現で締めくくられているが、人間は元々肌の色から直感的に他人の感情を理解する能力を持つエンパスだと理解できたことは非常に意義深い。この先の人生で私が人の肌をよく観察して感情を読み取る魔法を意識的に使っていくことは間違いない。

第2章では人の目はなぜ横ではなく前向きについているかについて考察されている。目が前向きに着いていることによる広範な両眼視領域のメリットに納得する一方、普段見ている光景がフィクションだという事実は衝撃が大きかった。普段の生活で左右の目がそれぞれ違う物を見ている事は経験上理解していたが、これが現実には存在しない1つのフィクション画像を創り出しているという意識までは持てていなかった。現実は虚像であるという事実はよく心に留めておきたい。

第3章では錯視のメカニズムを解説しながら錯視の大統一理論の可能性に迫っている。私の中では錯視はあくまで2次元もしくは3次元の話と考えていたが、まさか時間軸を加えた4次元の話だとは思いもしなかった。脳が未来を予見しようとしながら視覚系が現在を知覚しようとする結果として錯視が起こるという点は非常に納得できる。それ以上に、私たちは普段の生活で、僅か0.1秒だとしても未来予知を繰り返しながら生きているという事実は衝撃であった。野球で140kmを投げる投手と対峙するケースでは、0.1秒間で約4m前の球の状態を予知している事になるが、自分が設定した予知に対して動作を行っている事を踏まえると優れたバッターが「ボールが止まって見える」と発言するのも分かる気がする。著者は『脳はおそらく知覚構築にかかる時間を最短にするのではなく、一層の計算力を獲得するために未来知見の能力を向上させて知覚の遅れを最大限引き延ばすようデザインされている』と予測している。もしこれが正しいとすると、優れた脳やトレーニングされた脳を持つ人は0.1秒どころではなく、もう少し先の未来を予見して知覚構築を行い動作に繋げている可能性があるため、様々なスポーツで時折り聞かれる「動きがスローモーションに見える」といった表現は起こるべくして起こっているように感じる。

第4章では人が文字をうまく処理できる理由について述べられている。視覚的特徴の観点では、人間はみな同じ文字を読み書きしているという文字シンボルの普遍分布説を前提に、「文字が人間の視覚に合うよう進化してきた」という視覚の自然淘汰による進化と文字の文化的淘汰による進化を結び付ける発想・仮説の立て方・分析には舌を巻いた。

本書の4つの章の内、1章から3章は視覚そのものがどう進化してきたかについて述べられているが、4章は人類が視覚の能力に合わせて文化を通じ、どのように文字を進化させてきたかという内容になっている。この4章の考え方を踏まえると巻末で著者が提言しているとおり、『視覚の超人的な能力を進化させる第二の道』があることになり、それは視覚そのものの進化ではなく、私たちが文化を通じて目に合うように周りの世界を変えることを指す。
人間だけでなく動物を含む生命は生き残るために外部環境の変化に合わせて自らを進化させてきた。生命はこれからも変化を迫られるはずだが、人間は他の動物と異なり自分達から周りの世界に働きかけ文化的淘汰で人間の潜在能力に合わせながら進化することができる。著者は本書を通じて視覚の潜在能力を示しながら、人間しかできない「文化を通じて私たちの外側の世界を変えていく進化」の必要性を説いていると考える。私自身も既存概念に捕らわれずに世の中の事象と人間の潜在能力を正しく捉え、私たちの外側の世界を変えて進化させ続けていくという姿勢を忘れないようにしたい。

今月も貴重な書籍を紹介いただき誠に有難うございました。
 
投稿者 vastos2000 日時 
本書ではヒトの目の持つ四つの能力が述べられているが、その中で、私が最も驚いたのが二つの目の透視能力だ。
本書を読むまでは、私はヒトの目が二つとも頭の前面についているのは、遠近感をつかんだり、立体視をする上で有利であるためと思っていた。遠近感をつかめることが、器用な手先を活かせるので、このような進化を選んだのだと思っていた。
それに対して、ウマやハトのような目が頭の横についている動物は、視野が広いために正面に目がついている動物よりも視覚認知領域が広いと思っていた。
そんな考えを持っていたものだから、文庫版p149に掲載されている図17の示していることを理解したときは衝撃を受けた。草木の生い茂る森のような状況下に於いては、二つの目が正面についている動物のほうが視覚認知領域が広い(著者の言う「透視能力」を持っているという)ことには驚いた。

この透視能力を説明する前半で、目の前の障害物を透かしてその先を見ることができる点を説明している。言われてみれば視界の両端に自分の鼻があるが、確かに透けて見える感じがする。鼻を見ようと思っても、見ることはできるが寄り目になっているためか半透明に感じる。そして、鼻先10センチくらいのところにボールペンをかざしてみても、確かにその先は見ることができる。
これは脳が左右の目から得られた情報をうまくひとつの映像になるように処理しているためのようだが、物心ついたときには今の見え方だったので、本書で触れられるまでは大して気にしなかった。本書を読み、初めて脳の映像処理方法が気になった。
本書を読んだことを機に、自宅本棚にあった『3Dマジカルアイ』を再読したりと、この能力をあれこれと試す中、本書に書かれているように片目の前にマグカップをもってきてどのように見えるかを試してみた。確かにマグカップの向こう側の壁が見えるが、マグカップをハッキリと見ることができない。右目でやっても左目でやっても同じ結果だ。色はわかる。ぼやっと模様も見えるがハッキリ見えない。反対の目の映像ではなく、マグカップ側の映像に意識を集中しようとするが、うまく行かない。嫌でも向こう側の壁が見えてしまう。
きっと脳がこうしたほうが良いと判断したからこうなっているのだろうが不思議だ。同じように図14の男性の顔が柵越しに描かれている絵にしても、柵の部分も見ているはずなのに真ん中(?)の柵が見えない。なぜだろう。
きっと脳がこのほうが役に立つ(「それは便利なフィクション」)と判断したからなのだろう。

それにしても、ヒトは『見たいように世界を見る』とは聞くけれども、本当に(脳が)見たいようにモノを見ているんだなと実感。今もPCのディスプレイを見ているわけだけど、右目を瞑って左目で見る。そして頭は動かさずに今度は右目だけで見る。微妙にディスプレイの場所は変わる。見える範囲も当然左右の目で異なる。だけどディスプレイは一つだし、周辺視野で左右両方の視野の際まで拾えている。自分の鼻らしきモノもの両端にあるけれどハッキリは見えない。確かにこう見えた方が都合が良いと思う。

本書によれば、このような脳の働きがあるからヒトには「透視能力」が備わっているわけだけど、現代では人工物が多すぎて、なかなかこの能力を発揮する機会もないし、透視能力を発揮する需要もないのだろう。
本書ではカタツムリのように両目の代わりとなるカメラを頭の両側に突き出して撮影し、その映像を左右両方の目に見せるようなデバイスのアイデアも出しているが、雑踏を見通したところで、数メートル先まで視界が広がるだけで、効果はあるのだろうか?
建設用トラクターについてのこのアイデアは役に立つような気もするし、VRゴーグルなんかを使えば実現可能な気がするけどできないんだろうか?せっかく持ってる能力だから生かさないのはもったいないような気がする。

もしかしたら、ヒトが森から出て生活するようになって以来、透視能力を発揮する場面が減り、それゆえにこの能力に気がつく研究者が出てこなかったのか?そんな流れがあったから、本書の透視能力に私が驚くことになったのか?
いずれにせよ、自分が生得的に持っている能力に四十年以上も気づくことなく、今更ながら新しいことを知り、今月も良い読書経験をすることができた。
今回は自分であれこれ見え方を試すこともできたし、久しぶりに立体視を使うこともできたので、体感できたという点でも良かった。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書を読んで、普段私たちが見ている世界が、実は自分の脳が作り出した虚像であったという事実に衝撃を受けた。著者の研究によれば、私たちは、真実と錯覚とが合成された虚像を実像と信じているということになる。人の進化の過程において、これほどまでに脳が瞬時に緻密に情報を加工処理するようになっていたとは、驚きを禁じ得ない。人類は、進化の過程で生存に都合よく視覚情報を修正することで、今日の繁栄を築いたのである。しかし文明の発達した現代社会においては、この脳による視覚情報の修正が無用の長物となってしまっていることが少なくない。それどころかこれに目をつけて感覚を刺激し、相手の感情を操ることすら可能となっている。こんな現代社会を私たちはどう生きればよいだろうか。

それについて考えるにあたり、まず本書で紹介された3つの目の錯覚について考察したい。1つ目に挙げられているのは、偏って発達した色覚である。感覚器官である目が取り込んだ色彩情報を、脳は大胆に書き換えて、肌色の微差を際立たせたり、存在している肌色を無色化したりしているのである。それは血液の変動を肌色の変化によって知覚し、相手の細やかな感情の機微を読み取るためであった。最近はオンライン会議が人気だが、画面上に映る顔色を調整できるサービスがすでに開発されている。これを用いることで、いずれは肌の色を目的に応じて調節し、相手に与える印象を意図的に操作することが可能となってゆくのであろう。このような映像加工技術が急速に発展することは想像に難くない。さらに相手がどんなサービスを用いて印象操作をしているのかを見破ることは、技術革新によって次第に難しくなってゆくと考える。

2つ目に挙げられているのは、部分的な視覚情報を合成して見えない対象物を映像化する力である。脳は対象物を透かして見るため、遮っている障害物を自動的に透明化してしまう。左右の目からの情報差を用いて、見えていない情報を補完しているのである。これが無意識のうちに行われているため、私たちには脳の情報操作を自らの意思で取捨選択する余地がない。実際に、「視覚吸引作用」と呼ばれる現象が自動車事故の要因になることが知られている。例えば運転中、前方の右側から車が強引な割り込みで車線変更してくると、脳は危険を察知して右側に意識が集中する。すると左側に歩行者がいて注意が必要な場合でも、視界の左側の歩行者が見えにくくなり、視界の右側の車に意識が向いてしまうのである。この脳の仕組みを活用すれば、いずれは書いてある文字を透明化して見えにくくするような技術が開発されないとも限らない。そうなれば、自分の視力には頼れない世の中へと変わってしまう。恣意的な目の錯覚技術を警戒し、書いてある文字情報を全てAIに音声で読み上げさせて、視覚による見落としをチェックするのが当たり前の世の中になってゆく可能性すら、ないとは言い切れないのである。

3つ目に挙げられているのは、予見した未来世界の映像を創造する力である。脳は処理した視覚情報を、現在の状況に追いつかせるため、常に0.1秒先の未来の知覚を作り出している。トリックアートなどを見てもわかるように、本人が目の錯覚により騙されていると気づいても、脳は視覚情報の操作を修正しない。この目の錯覚を、マーケティングに活用されている例がすでに散見されている。私自身がPC上で、文字の動きや、浮き出るような効果によって、吸い込まれるように広告をクリックしてしまう時がある。視覚の流れを誘導され、判断を誤ってしまうからである。私たちが生きる資本主義経済の中では、このような目の錯覚を応用したマーケティングについても、次々に新技術が開発されてゆく様が容易に想定できる。脳の仕組みを利用して、見えているものを見えなくさせたり、実際には無いものを有るように見せかけたりすることで、人の欲望を喚起したり、恐怖心をあおったりすることが可能だからである。この本からは、そんな近未来社会への警鐘も読み解くことができるのである。

私たちは、そんなこれからの時代をどのように生きるべきだろうか。人の知覚に関する研究は今後益々盛んになり、脳の作用を活用する方法も次々に開発されていくことと思われる。さらに便利な世の中になる一方、情報を歪めて人々を操ろうとする者が出てくる可能性も否定できない。ゆえに私たちは、脳の仕組みを理解し、印象操作による判断ミスに備えなければならない。自分の見ている真実は虚像にすぎないという可能性に想いを馳せて、他人に思考を操られないよう警戒が必要である。そのためには、目の錯覚を補完する論理的な思考を鍛え、直感のセンスを磨くことが益々大切になってくると考えるのである。
 
投稿者 mkse22 日時 
「ヒトの目、驚異の進化」を読んで

本書は視覚について進化の観点からの研究結果を一般読者にもわかるように書かれたものだ。
著者は進化理論神経科学者で、生物の能力は環境に適合するように変化していることを前提に
視覚の研究を行っている。
視覚には超人的な能力があり、具体的には色覚、両眼視、動体視力、物体認識には、
それぞれテレパシー、投資、未来予見、霊読能力があるという結論を導き出している。

本書の魅力は以下の2点にあると思う。

・科学と超能力の結びつき
 科学的な分析により視覚には超能力があるという結論を導き出しており、
 この結論に私は驚いた。同時に科学と非科学の境界線は
 揺れ動いていると感じた。
 
 ただ、本書の超能力は世間がイメージする超能力と同じではない。
 未来予見能力では0.1秒先までしか予見できない。
 超能力といっても意外としょぼいのだ。これを知ったとき正直がっかりした。
 
 ただ、このイメージの差は世間の超能力のイメージが雑すぎることに起因するかもしれない。
 もし、世間のイメージ通りの超能力をもってしまうと、
 一般社会では生き辛くなってしまう可能性があるのだ。
 例えば、怪力すぎたら、ちょっとした動作で他人を簡単に傷つけてしまうなどだ。
 本書では超能力のメリット・デメリットについての記載があり、とても興味深い内容だ。
 
・研究の追体験
 本書では一流の研究者の研究の進め方を追体験できる。
 一般書のため、学問的な厳密さは犠牲になっているだろうが、
 前提から仮説を立ててデータから検証する流れは
 読者に伝わるようにわかりやすく記載されているように感じた。

 特に両眼視のメリットを見つけるためにテレビゲームを利用した理由である
 一つ目怪物的性質には驚いた。
 なぜなら、私は昔テレビゲームにはまっていた時期があり、
 そのときにある種のゲームのやりにくさを感じていたが、
 そのやりにくさが本書でいう一つ目怪物的性質にあったことがわかったからだ。

本書のいう進化の観点からの分析の特徴は分析対象の存在の肯定にあると思う。
分析対象の能力は、自然環境の中で人間が生存していくために最適化されたものとして考え、
その能力がどのように必要があるのかを仮説を立てながら調べるのだ。
進化の過程で取得した能力には不要なものはないというわけだ。

良い例は錯視だ。錯視自体は昔から知られていたが、実際にどのように役にたつのかは
私にはわからなかった。本書を読むまでは不要な能力と考えていた。
しかし、進化の観点からは錯覚は未来予見のために必要な能力という説明が可能となる。

分析対象が不要な能力と判断する根拠がみつからない限り、見落としの可能性があるため、
まずは必要なものと考えたほうが安全だろう。

この進化の観点からの分析は別の対象にも応用可能だ
例えば、分析対象を社会的な慣習、適応対象を社会とし、
社会的な慣習の例として官僚の天下りについて考えてみよう。

なぜ天下りはなくならないのだろうか。

まず官僚の天下りが社会の中で官僚が生活していくために必要な慣習と見做す。
そして官僚の能力が役所でのみ通用するものと仮定して分析してみよう。

事務次官などトップになることができるのは一握りだ。
それ以外の官僚はある年齢から定年まで地位は変わらない。
ただ、組織の新陳代謝の面からそれ以外の官僚には去ってもらう必要がある。

もし、官僚の能力が一般企業でも通じるものであれば、相応の地位を約束してくれる企業に転職すればよい。
しかし、そうでない場合、現在の地位にしがみついてしまい、組織の新陳代謝が進まない。
さらに事務次官になれない場合のデメリットが大きすぎるため、出世競争が苛烈化してしまい、
健全な競争を阻害してしまう可能性がある。

事務次官などトップの官僚には高い能力が求められるため、官僚同士を切磋琢磨させる意味でも
出世競争は必要だ。
ただ、事務次官などトップの役職には就けなかった役人にも、健全な出世競争に対する努力と見合う相応のメリットが必要だ。

以上より、天下りがなくならない理由は
「官僚の能力が役所でのみ通用するもので健全な出世競争を促すために、努力と見合う相応のメリットが必要だから」
である。

進化の観点からの分析は、分析対象の現在の状態を肯定し、それを正当化する説明を見つけ出すやり方だ。
自分の意見と合わないものについては感情的に否定する傾向がある人にとっては有益な考えかもしれない。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
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投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“錯覚の影響を自覚する”


ヒトは錯覚の影響を大きく受けながら普段の生活を送っているという事実を知り驚いた。ここでの錯覚とは、ヒトは実際にはなにかしらの色が自身の肌に付いているにもかかわらず、無色であるように知覚するということである。これは、自身の肌を無色に感じることで、ヒトは他者の感情や生理的な現象を察知するためだと著者は言う。そして、この錯覚はヒトが「標準的な基準からの変化を知覚するようにデザインされているため」(P.47)であり、同じ現象は肌に対する知覚だけではなく、唾液の味、鼻の匂い、肌の熱も同じような錯覚の影響を受けていると著者は述べる。確かに著者の言うとおり、私には唾液の味も、鼻の匂いも、肌の熱もまるで無いように感じる。そして、そうした外部との差異を際立たせることで、味わうことも、嗅ぐことも、感じることも明確に知覚できるのだという事実に目から鱗がこぼれる思いがした。

ここで錯覚の話を一旦脇に置き、そもそも何故ヒトが色を知覚する能力を発達させたのかを確かめる。根源的には、ヒトは生き延びるため、子孫を存続させるために様々な能力を発達させてきた。これは、ヒトが持つ本能の根源に生命の維持、繁殖があることからも明白であり、色覚もそのために発達した能力の1つである。そして、色覚は、1つに他者の感情を感知する。そして、もう1つに他者の病気やケガを察知することを可能とすることで、生存本能に応えてきたというのが、著者が主張するところである。まず、著者はヒトが生き延びるためには肌の色の変化から他者の気分や感情を読み取る必要があったと言う。なぜならば、他者の気分や感情を読み取り、それに適した態度で応じることが、社会集団の中で争いを避けながら、物事をうまく運ぶことに繋がるからだ。次に、著者はヒトが肌の色を病気やケガの察知、状態の確認するためにシグナルとして使用してきたと言い、これは、子孫を存続させる上で大いに役立ってきたとも述べる。そして、ここで私が今一度協調したいのは、上述した感情の感知、病気やケガの察知のいずれもが、生き延びる、そして子孫を存続させるというヒトの本能に応えるためにデザインされていることである。つまり、他者との調和や協力、助け合いはヒトが根源的に必要とする行為なのである。ここで、私は1つの問いを立てたい。その問いとは、調和や協力、助け合いをデザインされたはずのヒトは、何故争いや揉め事を起こすのだろうか?この矛盾は何なのか?ということである。そして、この私の問いを解く手掛かりが、『3つの錯覚』」(P.51)にあるのではないかと思うのだ。

著者は色覚が起こす『3つの錯覚』をヒトの温度に対する体感を使って分かりやすく説明してくれる。まず、「自分の肌は無色だけれど、他の人種の肌にははっきりした色があるように知覚している」(P.51)という質的感覚の有無の錯覚が1つめである。これはヒトが37度という温度は熱くも冷たくも感じないのに38度だと熱いと感じるのと同じなのだ。2つめが、「自分の肌が、ほかの人種の肌ととても違うように知覚する」(P.52)という度合いの錯覚で、ヒトは37度と38度が客観的にはとても近いのに全く違って感じるのと同じである。そして最後の3つめが、「ほかのさまざまな人種の肌の色を似通ったものとしていっしょくたにする」(P.52)という傾向的な錯覚で、38度と40度は、37度と38度よりも客観的な温度差が大きいにもかかわらず、非常に近い温度に感じるのと同様なのである。そして、私にはこれらの『3つの錯覚』が、上述したヒトが起こす争いや揉め事の原因となる価値観や思想、意見の違いを浮き彫りにすることにも当て嵌るように思うのだ。例えば、私がある思想を持っているとする。私は自身の思想は無色に感じるが故に、他者の思想との間に明確な違いがあるように感じてしまう。これが1つ目の錯覚。そして、その違いを実際の違いより大きく感じてしまう。これが2つめの錯覚。更に、自身の思想から離れれば離れるほどそれらの思想をいっしょくたにしてしまう。これが3つめの錯覚となる。私は、この『3つの錯覚』を自身に当て嵌めて、過去を顧みた時に、確かに思い当たるふしが幾つもあるのだ。所属する会社内で起こる争い事、家庭内での揉め事、SNS上での他者を攻撃するような言動がその例である。私がここで述べたいことは、ヒトは生得的に実際には小さな差異を大きく感じてしまうようにデザインされているが故に、他者との争いや揉め事を必要以上に生み出してしまっているのではないかということだ。

では、上述したような『3つの錯覚』によって起こりがちな周囲との争いや揉め事を避けるためにするべきことは何であろうか?その答えは、本書にも書いてあるとおり非常にシンプルなもので、「錯覚の影響を受けていることに気づく」(P.53)というものだ。これは、簡単に試すことができる。例えば、会社で上司や同僚との間、または家庭内でパートナーや子どもとの間に意見の相違が出た場合に、実は自身が感じている程、思っている程に相手との意見の差異は大きくないのでは?と自身に問いかけてみるのだ。恐らく、『3つの錯覚』を知ったことで、以前よりも客観的に自分自身を見つめることが出来るはずである。ここで、他者との間に価値観や思想、意見に差異があるのは当たり前であり、そんなことは心得ているという人もいるだろう。ただ今一度、上述した自身への問いを掛けてみてはどうだろうか。錯覚の影響を受けていることを自覚して客観的に自身を見ることで新しい発見があるかもしれない。ヒトは様々な状況で錯覚の影響を大きく受けながら生きている。この事実を知ったことが、私の本書からの最も有意義な学びである。


~終わり~
投稿者 keiji0707 日時 
Km2021
私の目に関するこれまでの認識は、視覚から入ってくる情報を脳に伝達する役割程度にしか考えていなかった。ところが著者によると、視覚から得られる情報は、進化の過程で人類が都合が良いようにフィクションしたのだということ、標準的な規準からの変化を知覚できるようにデザインしたのだということを様々な検証データに基づき論じている。

特に興味を引いたのが人間の肌の色に関してだ。著者によると、人間の肌の色は、基本色のどれかに押し込むことができないそうだ。改めて、自分の肌の色は何色かと問われると、言葉で説明することが難しいことに気付く。なぜなら、肌の色はピンク色に見えるときがあるし、青白いときや黄色いときもあり、肌の色を明確に説明することができないからだ。毎日、視界に入っているにも関わらず、まるで自分の肌の色が透明無色であるかのように意識の外に追いやっていることに気付いた。

この肌の色を意識の外に追いやっている状態は、相手の状態の変化を瞬時に感じ取るときに便利である。というのも、他人の肌の色がほんの少し変わっただけで、その違いを捉えることができるからだ。例えば、顔色が紅潮したときは、対面する人が恥ずかしい思いをしている、あるいは怒りの感情を抱いていると感じ取れる。また、顔色が青白ければ具合が悪いのではないかと推測できることを経験的に知っている。このちょっとした違いを感じ取る能力は、厳しい自然環境の中で生き残るために人類が獲得した能力であると考える。そういえば、日本語には「顔色を窺う」「顔色を見る」「顔色を見る」を始めとする顔を使った慣用句が複数ある。このように、顔色を窺う行為は、相対する他人の状態を知る手掛かりになり、社会生活において良好なコミュニケーションを図るためには大切な能力である。

この約1年間、相手の表情を読み取ることが困難になった。なぜかというと、新型コロナウイルス感染症の影響により、対面する時にはマスク着用が義務付けられたからだ。確かにマスク着用は感染症防止に役立つ。その反面、マスクの着用で顔の半分が覆い隠されたことにより、相手のちょっとした感情の変化を読み取ることが難しくなったと感じる。

社会生活において、相手が何を考えているのかを読み取ることができないことは、思いのほかストレスである。この相手の表情を読み取れないことにより、相手が怒っているのか、はたまた笑っているのか、そして何を考えているのかが分からない。そして、分からない状態が続くことで、だんだんと不安な気持ちが増幅し、場合によっては恐怖にさえ感じることがあるのだ。このように、私は、言葉より多くの情報を顔の表情から読み取っていたことに気付いた次第である。
 
投稿者 msykmt 日時 
ヒトの目がどう進化してきたのか。この本を読んだ結果、こう解釈した。必要に迫られた結果、見えていなかったものが見えるようになるよう進化してきたのだ、と。以降、そう解釈した理由を述べる。

まず、第一章では、「感情を読むテレパシー」と題してた上で、ヒトの目が持つ一機能、色覚にフォーカスしている。たとえば、言葉の話せない赤ん坊の顔色をみることにより、その赤ん坊の母親は赤ん坊の体調や気分という、目に見えないものを読み取ることができる。なぜ読み取れるかというと、ヒトの肌の色は体調や気分により変わるということと、ヒトの目はその色を識別できるから、である。この章でとりわけ印象的だったのは、人間を含むサルの仲間のうち、色覚がないものと色覚があるものに分かれるということだ。そして、前者の顔は毛で覆われている一方、後者のそれは肌の色が見分けられるように覆われていない。さらに、後者のうち、メスだけに色覚があるものがある。なぜかというと、子育てをするのがメスの役目だからである。それぞれ、サルの仲間のうちでも進化がまばらであるのがうかがえる。

次に、第二章では、「透視する」と題した上で、両視眼にフォーカスしている。たとえば、一つの目でみた場合には視認できないものも、二つの目でみれば、視認できることがある。なぜそうなるかというと、左右それぞれの目で見たものを合成しているからである。これは、目が横向きではなく、前向についているからこそなせるワザなのである。本書では、テレビゲームの例を用いた上で、ゲームは一つ目の怪物が見た視点でつくられているため、両視眼のヒトであれば見えるものまでが見えない、と説明している。この説明が、個人的には両視眼の力を理解するのに、しっくりくるものであった。

その次に、第三章では、「未来を予測する」と題した上で、動体視力にフォーカスしている。たとえば、ヒトがあるモノを見た瞬間から、それを脳が知覚するまでの時間は、なんと0.1秒であるというのだ。これは大きな遅延だ。だから、ヒトはその遅延を補正するために、動体視力により、目に見えない未来を予測する。たとえば、ボールの動きであれば、その軌道をヒトの目が先読みできるからこそ、そのボールをキャッチできるのだ。また、錯視という知覚も、未来を予測するために必要な機能であるという点も意外な気づきであった。

最後に、第四章は、「霊視(スピリット・リーディング)する力」と題している。たとえば、死者であっても、生前に考えを文字に残すことで、死後においても死者の考えを後世に語り継ぐことができる。おしひろげて考えると、文字の情報は、インターネットの出現により、少ない情報量で、世界の端から端まで一瞬で届けることができるようになった(ここでいう文字情報は、インターネットメールのものだけにとどまらず、チャットや、電子書籍も含む)。だから、死者生者問わず、目にはみえないヒトの考えを、より素早く遠くまで届けられるようになった。

以上、ヒトの目は、必要に迫られた結果、見えていなかったものが見えるようになるよう進化してきたと解釈した理由を述べた。いま、あらためて考えると、ヒトの目はまだ進化の途上にあるのではないか。そうであれば、今後はどのような進化を遂げるのだろうか。これからも、見えていなかったものが見えるようになるのであれば、いま見えていないものはなんだろうか。たとえば、夢や目標が見えていなかったとする。それらをなんらかの方法で見えるようにすれば、それらは見えるようになる、つまり、現実化するのではないだろうか。しかし、そう考えるのは飛躍がすぎるのかもしれない。再度、本書を読み返した上で、飛躍なのか否か検証してみたい。