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第46回目(2015年2月)の課題本


2月課題図書

 

絶望の裁判所

です。

過去何度もこのメールマガジンで、行政と立法についてあれこれと書いたわけで

すが、近代国家は三権分立を旨としているわけですから、司法についても意見を

持たなきゃ真っ当な市民とは言えないわけです。ところが司法、裁判所というの

はものすごく閉鎖的なうえ、一般人がこれに関わる事はほとんど無いんです。


そんな裁判所について知ろうと思って本書を読むと正直ドン引きになります。司法

の世界がここまで腐っていたのかと驚くはずです。驚くどころか、こんな状態で自分

が間違って起訴された日には、無罪を勝ち取るのは絶望的に難しい(つまり冤罪

で有罪にされてしまう)という事も簡単に想像出来て怖くなりますよ。

 【しょ~おんコメント】

月優秀賞

 

本書を読まれた方は衝撃を受けましたね。私は読みながら何度もひっくり返りました。

で、なんでこんなふざけた事になっているのか?と考えたわけですよ。そして同

時に、何をどう変えたらこの状況を変えられるのだろうか?という思考ですね。

さらに最後に自分なら何をどうするか?という備え。


なんでこうなっちゃったのか?について、三権分立については2名の方がちょっ

とだけ言及してくれたんですが、良く考えると残りの二権である行政(役所と政

治家)も立法(政治家)も見事に腐っている面があるじゃないですか。これに絡

めて膨らませてくれる人がいたら面白かったのに・・・


何をどう変えたら?という思考は多くの人がしてくれました。国民審査について

多くの人が言及してくれました。本書には、「裁判制度を利用した人の満足度」

という事実が書かれているんですが、これについてもっと食い付いてくれると、

様々な施策や制度変革が出来るアイデアが生まれたはずなんですよ。ここについ

ては1名だけが言及してくれました。満足度調査って民間企業では当たり前のよ

うに、定期的にやっているんですから。そしてそれが人事考課に影響したりする

わけでしょ。


自分ならどうするか?についてはもっと多面的に抉れると思うんですがねぇ。だ

って自分がそんな被害に遭ったら人生パーですから。ちなみに私は電車の中では、

見た目がパーな女子高生の側には絶対に近寄りません。冤罪してくれって言って

るようなものですから。家人と一緒なら家人の側を離れません。これがセーフテ

ィーネットになるわけです。


さらにここ数年ですが、高校の同級生で弁護士をしている人に年賀状を送るよう

にしました。何かあった時に連絡をして助けてもらうためですよ。こういう本を

読んで知識を得たのなら、何かそれに対応する施策を作らないと勿体ないですよ。


という事で、今回はmatsuhiroさん、tsubaki628さん、tractoronlyさん、dukka2

23さん、magurockさんが一次選考を通過し、matsuhiroさんtsubaki628さん

お二人に差し上げる事にしました。おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

 

投稿者 6339861 日時 2015年2月11日


裁判所という世界の様子がよく分かりました。
その中で働く人の性質がよく分かりました。

「企業が帝国化する」
「原子炉時限爆弾」
「マッチポンプ売りの少女」

など、しょうおんさんから紹介された図書を読んでいくと
世界は誰かの意図で仕組みができていることがよく分かります。
世界というのは、そういうものなのです

このような世界で生きていくには、自分で主導権を握る生き方を
しなければならないと思います。

裁判所に呼ばれて主導権を握られるような生き方はしてはいけません。

痴漢冤罪などは、環境の変化に鈍感で何も対策を講じてなかった結果とも言えます。
たまたま読んでいた「東大首席弁護士が教える7回読み勉強法」では、
著者(女性)が電車内で床においてあるカバンから荷物を取り出そうとして、
腕をつかまれ「痴漢です」とやられた経験が載っていました。
これが男性だったら、人生が終わってしまいます。

まず、このような世界があるという情報をインプットし、
理不尽な世界に巻き込まれないためには、どうするべきか自分で考える必要があります。

結局、どうするか?

答えはいたって簡単!

”読書”です。

ここに書いてある内容は、著者が本に書かなければ、我々がみずから司法試験を
突破し、裁判官になって体験するか、身内など絶対に信頼できる裁判官から情報を
得るといった極めて入手困難な情報です。
膨大な時間とお金をかけなければ得られなかった情報です。

やはり、読書は最高のコストパフォーマンスを発揮してくれることが分かります。

次に、以下のように行動します。
・ある世界が誰の意図でどのように創られているのかを常に考える。
・その世界で自分はどういう行動をとるのか考える。

生活していれば、あらゆる場面で、こういった思考が必要になると思います。

私のような会社員であれば、まず会社という組織、支店という組織、自分の部署という組織
でどのような世界があり、意思決定の仕組みはどうなっていて、自分の思う結果を得るためには
どのように行動すべきか、意識してみようと思います。

投稿者 sakigake 日時 2015年2月11日


本書をAmazonで購入しましたが、カスタマレビューの多さに驚きました。
レビューをところどころ読んでいると著者の瀬木さんは裁判所内部告発本の類書が多いなかでは、他の著作も含めてかなり法曹関係者の間では評価の高い人物だということが分かりました。

「絶望の裁判所」という題名からして、裁判官という一見「聖職者」と思われがちな職業においても腐敗めいた構造があるのかなと想像しましたが、内容は自分の想像を超えたものでした。

しかし、読了後に冷静に考えてみると、司法試験を通った方たちは皆、エリートであり、昨今の親の年収に比例して、子どもの学力も上がるという二極化社会の現状を考慮すれば、育ちの良い子弟が多いことは容易に想像がつくことであるし、そういった恵まれた環境で育った挫折を知らない、世間の辛酸を舐めてない人間が罪を犯した底辺の人たちの気持ちを果たして汲み取れるのか甚だ疑問に感じるのは、皆思うところであります。

ただ、任官後の判事補の間に一般大衆の気持ちを理解できる教育システムがあれば良いのですが、悲しいがな事務総局の意向のもとにキャリアシステムの中で「ヒラメ裁判官」ばかりを生み出している現実は絶対に変えていかなければいけない問題です。

著者はしきりに「法曹一元制度改革」という言葉を出していましたが、恥ずかしながら無知だったため調べてみたところ
「法律家の養成を一元的に行い、弁護士その他の法律家として相当期間経験を積んだ者から裁判官を選任する、英米系の制度。現在、日、独、仏などでは、最初から裁判官として採用し、裁判所内部での訓練・養成を経て順次上級の地位に昇進する職業裁判官制(キャリア・システム)がとられている。職業裁判官制には、司法の官僚化や在朝・在野の対立による法律家の一体感の欠如を招くなどの指摘があり、古くから法曹一元制を求める声が弁護士の間で強かった。司法制度改革審議会でも法曹一元制の導入の当否が重要な争点となったが、判事補への他職経験制度の導入、弁護士任官(弁護士の裁判官への任用)の推進など、給源の多様化・多元化を図り、裁判官の任命手続き、人事制度を見直すという一定の方向が打ち出された。」
という説明が一番しっくり理解できました。

しかし、日本弁護士連合会や東京弁護士会のHPでは法曹一元制度改革の提言に関しては2000年以前の記事しか見当たりません。本の中でもあるように、2000年以降の司法制度改革で裁判員制度導入、判事補への他職経験制度の導入、弁護士任官(弁護士の裁判官への任用)の推進だけで、判事補制度・キャリアシステムの廃止、事務総局解体といった抜本的な改革はスルーされてます。

しかし、そんな中でも京都弁護士会は抜本的な法曹一元制度改革に今でも執念を燃やし今でも頑張っています。(下記URL参照)

「法曹一元」―お隣りの国の果敢な挑戦」
http://www.saiban-kenpo.org/hatugen/backnumber/130325.html

「韓国で導入された法曹一元制度」
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/kokusaishitsu/data/JS_No68.pdf

上記記事を読むと、韓国でも日本と同じキャリアシステムが存在していましたが、大統領の強いリーダーシップのもとに徐々にですが、改革が進行していることが分かります。

最近、政府の強い意向によりJA全中の反対を押し切り監査権が公認会計士などの外部監査に切り換わりました。
上記記事で提言されている法曹一元の制度的実現の決定的なポイントは、裁判所法42条1項1号の削除による「判事補制度の廃止」、個人的にはキャリアシステム・事務総局の解体を目指すにはやはり強い政治的リーダーシップが不可欠と言わざるを得ません。

今年に入って瀬木さんはまた新しい告発本を出してますが、それらを呼んだ我々読者が情報発信の多様化の機会を利用して、個々に情報発信し、世論を形成して政治的な働きかけを行っていくことが肝要だと思います。と同時に京都弁護士会だけでなく、各弁護士会も提言していくべきですし、韓国でできて日本で出来ないはずはないと強い気概を持つべきだと思いました。

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投稿者 matsuhiro 日時 2015年2月22日


 裁判所というテーマは、日ごろ関わりのない領域で、関心がないというか、関わりたくないというのが本音のところだが、だからこそ、はじめからかなり衝撃を受けてしまった。いきなり著者は、初球から容赦なく150キロを超える重いストレートをズドンと投げてくるのだ。

 正直ビビッたが、知りたい、しっかり受け止めたいと思えるボールだった。そこで、裁判所組織という、法律に守られ、市民には見えない高い塀があったのだが、そこによじ登り、見渡してみたらと、想像を超えた景色がみえてきたので、早速覗いてみた。

 塀によって外部から隔離された独特な世界は、どうも、生きづらい世界のように感じた。どんな組織にもローカルルールというのは存在するものだが、裁判所のローカルルールはかなり「異質」だった。ルール自体が裁判官をコントロールし、裁判官は、ルールに振り回されているのだ。そして、裁判官は、ローカルルールに染まり、コントロールされていることが「当たり前」となっているため、違和感なく過ごしているようだった。
 一旦、視点を変え、塀自体を眺めてみた。すると、その土台部分は、政財界が基礎を築いていた。法律という道具を利用している政財界とプライド高き裁判官たちは、それぞれお互いの権利を固持し、寄り添っている構図がみえた。なるほど、そういう環境下で作り上げられたローカルルールだとすれば、裁判官たちが振り回されているように見えることは、実はその世界では「普通」なのかもしれない。しかしながら、どうも腑に落ちない。一見すると、生きづらいようにみえたが、裁判官自身はそのように思っていないと感じたのは何故なのか。金融、官僚組織によくみられる、もしくは、閉鎖的な組織ならどこも同じだとは思えなかった。裁判官自身、なにか特徴的なことがあるのではないか、そこを考えてみたくなった。

 どうも私には、裁判官たちは、誰が操縦しているのか分からない飛行物体に乗っているようにも見えたのだが、裁判官たちは決してそこから逃げないのである。なぜなのだろうか。裁判官は、苦労して勝ち取った栄光だから簡単に捨てられず、しがみついているのだろうか。いやいや、そんな簡単なものではない。読み進めながら感じたのは、裁判官に深く染み付いた固有の「特権意識」の存在だった。

 固有の「特権意識」は、裁判官になる前、つまり裁判官を目指しているときからすでに心の奥底の無意識な領域に深く染み込み、性格、考え方の基礎が作られていく。そして、一般にエリートと呼ばれる肩書き、そして高収入を手にした後は、それまで無意識な領域にあった「特権意識」がしっかりと根付き、裁判官固有のものとして周りにも受け継がれていく。裁判所という世界は、一般的な市場原理は働かず、つまり、企業間競争はそもそもない。破綻、倒産もなく、逆に法律という武器がある独特の世界が、裁判官固有の「権意識」を作り出している。だた、これだけではこの問題の本質はみえてこない。裁判所という世界で恐ろしく、独特だと感じたこと、それは、閉ざされた世界、集団において、強い「個」は存続できず、仮に強い「個」が現れると、集団によって消されてしまうのだが、このスパイラルの首謀者は誰でもなく、裁判所そのものであったことだ。裁判所自体があたかも意志をもち、形成された世界だからこそ、誰にも止められないのである。こういう世界では、マッキンゼー 7Sといった企業戦略論、改革論は通用しない。誰もぶち壊すこともできず、変えることもできない。ハード面で制度、構造、仕組みを変えようとしても、裁判所自身がそれを都合よく変えてしまうからだ。また、ソフト面も変化しない。法律だったり、正義だったり、べき論が語られても、実際なにも変わらないのは、べき論自体、裁判官にとっては魅力がなく、説得力がないからである。よく一般的に語られること、仕事に対して誇りを持てるのだろうか、やりがいを感じるのだろうか、という部分も、この世界においては「特権意識」によって歪められる。裁判官は、集団の中に存在意義を見い出し、この枠組みから外れてしまうことに強い恐怖心を抱くのだろう。たぶん、枠から外れることへの恐怖心は「死」にも値するものなのだろうと想像する。(余談だが、裁判官がもつプライド、特権意識を「くだらない」とばっさり捨ててしまうことができる人は本当に強い人だと思う。失敗を恐れず、もし失敗しても何度でも再起できると思える人、変化を楽しめる人というのは本当に強い。私もそういう生き方をしたいと思う。ま、そもそも裁判官になれるほど「優秀」ではないので、裁判官と比較する必要もなく、自由に挑戦すればいいのだが。)

 一通り読み終え、改めて感じたことは、やはり裁判所には関わりたくない、ということだった。悲しい結論かもしれないが、現実をしっかり捉えることはとても重要である。ただ、市民の味方とは遠い存在である裁判所にどうしても出向き、「裁かれる」ことになったら、もがくのではなく、いかにして、そのローカルルールうまく乗るか、最小限の怪我に留めることができるかを考えたいと思った。改めて、私たちは、こうした良書に出会い、知恵をつけられたことに感謝し、自分自身の生活をより豊かで充実したものにしていきたい。

投稿者 jorryjorry55 日時 2015年2月22日


「絶望の裁判所」を読んで。

本書を最初に手にとった時の印象は、なかなか面白そうだな、でした。ところが、読み進めていくにつれて、その印象は文字通り、裏切られました。表紙に書いてある、「裁判所の門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ!」そのものでしたね。というのも、昨年の10月にある伝で横浜地裁の見学をしたことを思い出したからです。その時は、何件か審理がされており、傍聴が可能だったのですが、結局は1件も傍聴することなく、付近の散歩で時間をつぶしていました。なぜならば、段々と居心地が悪くなり、負のエネルギーを思いっきり感じてしまったからなのですが、当事者ではなくても、単なる傍聴者であっても当てはまるのか!と。この本を読み終わって、裁判所には行きたくないなというのを改めて思った次第です。

さて、内容に関する感想ですが、ページ数的にはそんなにないのですぐに読み終えるかな?と思っていましたが、なかなか読み進めることが出来ませんでした。最初は専門外の文言が並んでいるからだと思っていましたが、どうやらネガティブ表現満載で、今まで虐げられてきた鬱憤を晴らしたかのような文章になっているため、拒否反応を起こしていたのだと認識するに至りました。さらには、「だと思う」とか、「ではないだろうか」等推定の文章で、個人的な意見満載で、信憑性にかける部分が多いと感じたことも理由の一つです。

本人がどのような仕打ちを実際に受けてきたのかは本に色々と書いてあるとはいえ、あくまでも主観的な意見であり、他から見たらどうかというのが検証出来ないし、非常に悪い言葉で言えば、負け犬の遠吠え、にしか聞こえません。

ただ、和解をすぐに勧められるというところで、青色LED裁判を思い出しました。カリフォルニア大学サンタバーバラ校中村教授が「日本の司法は腐っている。」と発言したのが非常に印象に残っています。中村教授の言い分と、日亜化学側の主張がかなり食い違っており、かつて中村教授の下で一緒に働いている人達も会社側の意見を言っていて、いったいどっちが正しいのか?ともどかしい気持ちでいました。私的には学生時代研究の側にいたし、現在も労働側なので、中村教授の肩を持っていました。はい、過去形です。
一審判決で200億の支払い命令が出た時はものすごくテンションが上がったのを覚えています。当時は勤めている会社の就業規定を調べて、発明の対価はどうなっているのかを調べましたが、当然のごとく一般的な規定だったので失望したのを覚えています。現在も変わっていないと思いますが、その後は調べていません。ここが私の駄目なところなんだろうな。
残念ながら控訴審では和解になってしまいましたが、その理由がこの本を読んでやっと納得できた次第です。

なお、過去形になっている理由ですが、中村教授があまりにも過激すぎて、だんだんと冷めていったからです。だから、中村教授の著書は一冊も読んでいません。この本の著者である瀬木比呂志教授も、日本の司法システムから見たらかなりの異端児なのでしょう。日本では嫌われる、出る杭は打たれる、を地でいっていると言っても過言ではないでしょう。ただし、こういう人がいなければ世の中なあなあでいってしまうところが改善されるので、必要だと思いますが、それでももっと他にやり方はなかったのかな?とも思わずにはいられません。私だったらどうするのかという対案は残念ながら思い浮かびませんが、もっと大人の対応が取れたのではないかと。まあ、当事者からしてみればそれどころの状態ではなかったとは思いますが。私だって、ダメな時はもちろん感情的になりますし、生理的に受け付けないことに対しては思いっきり態度に出ます。追い込まれた時にどういった行動をとるかなんてわからないし。ただ、やらずに後悔するよりはやってから後悔したいので、このお二方にはよくぞ言ってくれた、という気持ちはありますが…。

それとは別の話ですが、2ちゃんねるのまとめサイトである、鬼嫁ちゃんねる、というサイトをよく見るのですが、とにかく、裁判沙汰にはなりたくない、巻き込まれたくないと強く思った次第です。

ありがとうございます。

投稿者 shinya0308 日時 2015年2月23日


本書を読んで、「やはりか」と強く感じた。
その理由の一つに、私の大学時代のある知り合いが関係する。

私は法学部ではなかったが、サークルの繋がりで法学部に所属する知り合いが数人おり、その中に一名、現役裁判官のご子息がいた。仮にAとする。恐らくAが法学部で勉強していたのはその裁判官の父の影響があったからだと思う。

私的感情なので、そのAの正当な評価と言えないことはまず申し上げておくが、私が思うにAは相当の変わり者であった。
変わり者と言っても、周りからの評判が良い者、面白い発想を持つ者など、ポジティブに評価される場合もあるが、Aの場合はそれに当てはまらない。
実際、AとのコミュニケーションやAの行動を問題視する意見は多くあった。
著者が本書で最高裁判事の性格分類分析をしていたが、Aをそれらに当てはめるならば(Aは最高裁判事ではないが)、D類型のような特異な性格だったように思う。
そのAを知る別の法学部の友人が「Aが裁判官になって人を裁くことを考えると恐怖だよね」と言っていたことがある。私はそれを聞いた時、身震いしたことを今でも覚えている。

Aがその後、裁判官になれたのかはわからない(そもそも目指していたかはわからない)。
ただそれ以上に、本書を読んだ後ではAの父が裁判官だという事実に恐怖を感じてしまった。
私は、A以上にAの父の人格を的確に判断できる程の情報は持ち合わせていないため、あくまで想像での話になるが、Aに抱いた印象と同様に、何か問題があるのだろうと思う。また、それは本書で指摘しているように、裁判所の構造の問題が影響しているのだろうと思う。

著者が本書のはしがきで『人間として評価するに足りる人物は存在する』と書いていたが、この一文は裏を返せば「人間として評価できない人物が多数存在する」ということなのだが、元々人格に問題がある人間が裁判所にばかり続々と集まるというのは考えにくい。つまり、裁判所の体質というのが多少なりともそこにいる人間の人格に影響を与えているのだと思う。
それから、その他にも本書の中で、閉鎖的なヒエラルキー構造の組織と化している裁判所の体質が引き起こす問題点について言及しているし(裁判官による不祥事・ハラスメント)、裁判官の子供には問題が生じやすいことも指摘している。

改めて申し上げると、上記に述べたことは私の行き過ぎた考え方である面もある。しかしながら少なくとも、著者が言うように腐敗の実情があり、裁判の処理という一面だけでなく、様々な場面に影響を及ぼしている可能性があるのだろうと思う。

また、冒頭に「やはりか」と述べた理由をもう一つ挙げたい。
現在、私の会社は訴訟を1件抱えている。内容は私が営業担当をしていた会社が、支払うべきお金を支払わないというものである。
訴訟準備を進める中で債権問題で訴訟経験のある方数人から話を聞く機会があったのだが、共通意見として、原告側は勝訴しても損をすること(お金を取れないこと)が多いということを聞いた。
つまり、被告側が訴訟の結果を踏まえた上でも支払いに応じない、倒産させて支払う義務を消滅させるといったことである。倒産後、何事もなかったように別の会社を運営している姿を見たときは憤りを感じたという話も聞いた。

こういった類の訴訟は多くあるそうで、一般的に判決が出るのも早いと弁護士から聞いたが、本書でも言っていたように、裁判官が早く事件を終わらせたいという思いがあるからだと感じる。
ある意味判断が容易であるこの類の訴訟は早く処理をすることが良い場合もあると思うのだが、先ほど述べたとおり、勝訴しても原告側が損をする場合が多くあるという事例があり、その矛盾に対しての解決策が一向に示されないまま、原告側が泣き寝入りしなければいけない実態がある。
その矛盾は裁判所だけで解決できる問題ではないのかもしれないが、いずれにせよその実態を無視し(もしくは本当気づいていないのか)、裁判処理を作業化しているのは本当に恐ろしいことだと痛感する。何のために裁判所が存在しているのだろうか、と非常に残念に思う。

裁判所に公正を求めることが難しい状況を考えると、いかに我々が様々な場面で行う「選択・判断」が重要であるかが分かる。
つまり物事の本質を見極めて適切な「選択・判断」が下せないと、冤罪で有罪になることなど含め、常に不利益を被る可能性があるということだと思う。
上記で述べた我々が抱える訴訟の話でも、予め相手先の会社の状況を冷静に見極めることができれば、そもそも契約自体しないという選択ができていたかもしれない。

裁判所の存在に依存する考え方を極力排除し、できる限り事件を未然に防ぐためにも、物事の適切な判断を下す上で必要な情報をインプットしておくことが求められているのだと思う。

ただ、現実には裁判所を介して解決しなければいけないことも出てくると思う。
そのためにも著者の瀬木氏のように裁判所の実情を問題視して、変えていこうとする動きが活発化されることも併せて期待したいと思う。

投稿者 kd1036 日時 2015年2月25日


正直、裁判官の実態という事については、ほとんど知識もない状態で読み進めましたが、感想は、やっぱりここもか!!というものでした。

官僚機構についての問題点はほうぼうで聞きかじりますが、裁判官の世界はその中でもトップクラスの閉塞性を持っているようですね。
何となく分かりますが、難関試験を突破して世の中の人より偉い立場にいるといくばくかは認識している人達の集団で、三権のうちの司法権を一手に握っていて、どこか他人を見下している部分を多かれ少なかれ持っている人間が少なからずいる。そうしたら、開かれた組織にはまずならないでしょうね。

それにしても、国家は基本的人権を守ってくれるものだという考えはつくづく幻想なのだと思い知らされます。とはいえ、自分には何も出来ないと認識し思考や行動を停止する必要もないし、むやみやたらに批判を繰り返す必要もないかなとは思います。

一番よく理解できなかった部分が、誰が何のためにそういうふうになるようなシステムにしているのか?という事でした。裁判所、裁判官という組織のありようはある程度理解できたと思います。裁判官になる人達が全員目も当てられないような人物な訳では決してないのも分かります。ただ任官当初は正義と希望に溢れ前途有望な人物でも、その閉塞されたフィールドでラットレースを続けていけば、文中にあるような人物へと変換していくか別の道を選択することを余儀なくされるというのも分かります。なので、内部で自浄作用を求める事や内部変革を期待する事が無意味なのも分かります。また、外部からの改革にしても冒頭で書いたとおり、強力なパワーを持っている(本当にそうかは分かりませんが認識としてはそうだと考えて)組織なので、外部から何とかするのは非常に困難だというのも分かります。
それで、誰が利益を得ているのでしょうか?
まず、国のトップのほうやパワーを持っている企業には都合のいいようになっているのでしょう。そして国民(庶民)の権利、基本的人権に関わる部分もそうでしょうが、ここは守られていないでしょう。
ただし、裁判官も決して幸せには思えないのです。これは筆者の感覚と一般人の感覚に近い部分があるため、論調に同意しそう感じているだけで、実際にそこにいる裁判官の多くはそうではないという可能性はありますが、おそらく間違っていないと思います。そこの組織の構成員の大半がハッピーでない組織を、自らが喜んで継続させていく事はないのではないかと思います。
という事は、司法権をそのような状態にしておく事を要請している別の力が存在しているはずだと考えます。それがどこか?、何を目的としているのか?、どこの利益につながるのか?これは一問一答のように答えが返ってくるものではなく、非常に多岐に亘る枠組みの複雑に絡み合った話なのでしょう。自分には分かりませんが、この部分を知っていく事が、世の中を知るという事なのかなと思いました。

始めに感想として、やっぱりここもか!!と書きましたが、今さらここが悪いんだ、あそこが悪いんだと言っても仕方のない事です。そういうものだと認識して、目を逸らさずに、自分を持って歩んでいく事が大切でしょう。
自分に出来る事は、自分で出来る事。自分にしか出来ない事。何か変ですね(笑)。言いたいのは自分を認識し、世界を認識し、わざわざ余計な批判や否定をする必要はありませんが、自分に出来る事まで怠る事はないようにしましょうという事です。

著者は大変立派で、本書も一般の人が読めるように非常に分かりやすく書けていると思いました。ただ、残念なのは、おそらく改革は出来ないだろうなと読んでいて感じてしまう事でした。これは決して著者を批判している訳ではありません。
状況を知れば知るほど、根が深い事が分かってしまいます。あるべき姿というものも提示してくれているので、そう出来ればいいのにと思います。しかしそれは実現可能性が乏しい事もまた本文の中で明らかにされてしまっています。まずステップを踏んで改革をしていく、というのがオーソドックスなやり方でしょう。あるいは、簡単なのは一度ぶっ壊して新しく作るという事です。ん~、おそらく無理ですね。
こういう場合には、理屈抜きのスーパーパワーがやはり必要になると思います。小さい渦が段々大きくなってそこにスーパーパワーが合わさって一気に巨大な渦が全てを巻き込むような状況が現れる事を期待します。そんな時は、アンベードカルのような人が必要になってくるのかな~。

巻末の、
どのようにかは知らない。でも、誰かが君を操る。
彼らは君を買い、そして、君を売った。
という言葉は何故か妙に頭に残りました。
ビートルズは聞いていたのですが、歌詞の意味はほとんど気にしていませんでした。曲自体は何度も聞いていましたが、今回改めて聞き直しました。
危機察知能力もそうですが、感覚を研ぎ澄まして自らの舵を取る大切さを、最後に改めて感じた一冊でした。

投稿者 gizumo 日時 2015年2月26日


「絶望の裁判所」瀬木比呂志著を読んで

 一言でいえばまさに「絶望的・・・」というのが読後の感想である。
国民を守るための政府の機関である司法の現実は、サブタイトル通り「裁判所の門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ!」が決して大げさではない。
TVドラマや映画、マンガでのヒーロー・ヒロインが活躍する世界が現実ではないことは重々承知しているが、「事実は小説より奇なり」と言われるべくこれほどまではと驚嘆した。

読みながら、「もし万が一裁判に関わらざるを得なくなったら・・・」と不安も生じるが、公式な仕組みとしての最後の砦であり頼らざるを得ないのは間違いない。その時を想像するとどうすればよいかの為にも、今回知りえたことは有意義でした。

裁判所の組織の閉鎖性がそうさせるのか、取り扱う業務の内容が原因か、それにしてもここまでひどくなるものだろうか?たとえば自分がその立場(裁判所)の人間になったとしてもそうなってしまう環境なのだろうか?多くの疑問が出てくる。

裁判所にかかわる方の頭脳に関しては日本でも最高・最優秀の人々の集団である。裁判所が特殊であることは想像できてもここまで異常と言える状態になっているのはは大きな問題が潜んでいると感じられる。一般社会の常識や感情・人情など一切感じられない世界に思え、あるのは自分に対する擁護と保身のみとも言える。著者が文章でも述べていたように、解決策として社会経験のある人材を登用することで少しでも解決できないのだろうか?ただ、その場合“情”が判断をゆがめる事になれば本末転倒であり意味をなさない。その他にも挙げられている案などぜひ、積極的に国民として意見交換し考える場が持てるようになることを望みたいとも感じた。

しかし、ここで見られる歪みも人間が集まる組織としてのゆがみであり、大企業やその他官僚にも少なからずみられることなのかもしれない。裁判所に関しては、今回著者の英断を持って裁判所の状況が明らかになっただけでは・・・、とも考えた。せめて、自分の所属する組織ではそんなことがおこらないように冷静な判断と行動を起こすべきだと決意した。そして、広く世間を知る事、知る努力をする事がいかに大事であるかと改めて理解した。昨今、安易な暴露本や業界の裏側など興味を引くためだけの安易な文章も多いが、一社会人として知識・教養としての知らなくてはいけない事とは何かを正確に把握し理解して、その対策というのも必要であると考えた。寂しいようだが、自分を守るのは自分しかなく、それ以外にも家族や周りの人たちを守っていく為にもそのスキルアップは続けていきたいと強く感じた。

投稿者 sakurou 日時 2015年2月26日


本書は元裁判官が中から見た裁判官と裁判所のあり方について論じた本である。

裁判官は、自ら下した判決により、人の生命や財産、ひいては人生そのものを左右させてしまう職業である。
そして、人の生命を意図的かつ合法的に奪うことができる、日本では恐らく唯一の職業である。(日本には戦闘員がいないので)。
ゆえに裁判官は高い人格を持つものがなると考えていたのだが、その考えが全くの幻だったことに衝撃を受けた。

本書を通じて感じたのは「裁判官は被告やその家族の一生の運命を握っているにもかかわらず、その気持ちを分かっていない、あるいは意図的に分かっていないふりをして裁判を進行しているとしか思えない」という強い憤りである。

人は誰でも相続、痴漢冤罪等、思わぬ形で裁判に巻き込まれることがないとは言えない。その時、弁護士と一緒に裁判官に自分の思いを訴えるのだが、その裁判官がこのような考え方なのかと思うと、タイトルの通り絶望しか感じない。

この本で思い出した判決が2つある。一つは福島の産婦人科医での帝王切開での死亡事故による賠償命令、もう一つは山岳救助に向かって遭難者と共に自ら命を落とした山岳救助隊員に対する賠償命令である。もちろん、自らの過失という点は完全に否定できないが、この2つの判決から感じるのは世間の常識と法律の世界の常識にはズレである。そのズレが何かと考えると、「職務遂行上のリスク」に帰結するように思える。特に産婦人科医や山岳救助隊は生命を賭けた、非常にリスキーな職業である。どんなに一生懸命に職務を遂行しても出産や救助には死亡するリスクが発生する。一方、裁判官はその対極にある、最もリスクフリー、極端に言えば無責任に職務遂行している職業に思えてならない。残忍な犯行をした犯人には死刑判決を下せばいいし、一票の格差に関する裁判では、違憲判決を出すことが社会的インパクトが大きいので、言葉巧みに「違憲状態だが選挙は有効」という訳の分からない判決しか出さない。
(といっても、選挙区制度の見直しはかつてのゲリマンダーや今の国会での議論の通りのように、政略が絡み、一朝一夕にはできないのだが。)

そもそもこの本を読んでも裁判官自らの仕事に対する熱意が感じられないし、熱意を持ったらやってられない職業なのかもしれない。

また、非常に狭い組織、人間関係の中で属人的要素により出世が決まり、外との人的交流の無い世界で生きていたら、誰しも暗い人間になってしまうし、本書に書かれているように、『講演会を開いても講演者が心配するほど反応が良くない』というのは確かに分かる気がする。

裁判官は医師と共通点が多いように思える。狭い世界の人間関係で生きているという意味では「白い巨塔」に似ているし、患者一人一人に思い入れを持たないというのは「ブラックジャックによろしくに出ている」に出てくる同僚医師に似ている。

しかし、本書を読んで医師と決定的に違うと思い、衝撃を受けたのは、『裁判官は人の悲しみが分からない』ということである。医師は患者の死を通じて悲しみを知る。裁判では、怒り、悲しみなど、様々な感情が交錯する。裁判官は原告、被告双方の立場で感情を理解し、正しい判決を下すものと思い込んでいたが、事実は全くの逆だったのだ。人の悲しみが分かるためには、自分が本当に悲しい思いをして、自分が痛い思いをして初めて人の痛みが分かる。

本書に出てくる(もちろん著者の文章を通じてしか知り得ないが)裁判官は、人の痛みや悲しみという人としての本質を知らないまま、効率重視で裁判を捌いているに過ぎないのだ。

医師と違ってお世話になることが殆ど無い裁判官の内情がこれほどということはあまり知られていないのではないか。そういう意味ではこの作品の意義は非常に大きい。
誰しも裁判のお世話になりたくない。しかし、痴漢冤罪のようにある日突然裁判沙汰に巻き込まれるリスクはゼロではない。

痴漢冤罪だってよく知られる通り、両手を吊り革に上げるだけでも防げるし、万一の場合でも本書記載の通り、『名刺を置いてその場を立ち去れ』ばよい。

至る所に裁判所行きの「落とし穴」があり、少しの知恵、意識を変えれば行動が変わり防げるはずである。

また、裁判員に指名されても断る。
(本書の通り、判決を決める裁判官と異なり、裁判員の立場は非常に曖昧で、百歩譲って人生経験になると考えたとしてもとしてもメリットが無い。以前あったように殺人事件の残虐な映像でPTSDになっても自分が不利になるだけだ。)

万一裁判に巻き込まれたら信頼できる弁護士にお願いする。(極端な言い方をすれば、裁判官は法律用語しか理解せず、素人がいくら正直に話しても無駄だと思ったほうが良いのだろう。)

つくづく思うが、裁判だけでなく、生きるためには意識、知恵、頼りになる専門家がキーだと思う。まず意識が重要で、興味ある情報だけでなく、幅広いものに興味を向け、情報、知恵を収集する努力を怠らないことが必要だし、その道の専門家の本を読んだり、直接話を聞くことが重要だと思う。そうして自分の知恵を増やしていくことがよりよい人生につながるし、裁判沙汰に巻き込まれないことにもつながるのだと思う。

投稿者 ktera1123 日時 2015年2月26日


「絶望の裁判所」を読んで

「裁判所もそんなに変わらないんだな。」と逆に安心したと言ってはいいすぎでしょうか。

「やっぱり自分はかわいいもんね。出世する。そこまでは求めなくても首にならない。左遷されない。ない腹を切らされない。」ためにはKY(「危険予知」「これはやらせだ」ではなく「空気読め」)と言われるように、上司の意見に逆らうのは憚れるし、世間体は気になるし、法律に従うと前例の判決に従う、上層部の意向はどうなってるんだろうかと探る気持ちはわからないわけではない。

ふつうの人なら、そこで安心して終わりでもいいのかもしれないけど、「智の道」を追求する私たちはなにをすべきか。参考になる事例を。

何年か前、朝の通勤時間帯の新宿駅の3、4番線ホームの南口への階段、エスカレータの手前のホーム上でその事件は発生した。電車から降りて混んでいる階段へ向かって並んでいたら、発車しようとしていた電車に飛び乗ろうとした人がいきなり並んでいる人になぐりかかった。たまたまその辺にいた人が現場系で恰幅がよく、適宜防御してなぐられなかったのだけど、一触触発の状態。どう考えてもこんな狭い所で殴り合いのケンカが発生したら、相当多数の人が巻き込まれるし大変迷惑。さあどうするか。そこで一言。「やめろ」といって引き離しにかかった。その一言と行動で、なぐられかかった人が正気にもどったのか冷静になったのかそのまま、改札方面へなぐりかかった人を連行(現行犯逮捕?)。その後のことはわからないのだけど、警察へ引き渡されたのではないでしょうか。

今考えてみると、「のる、のります」と声に出す、叫べば大多数の人は道をあけて乗せてくれたのではないでしょうか。また、第3者の「やめろ」、引き離しで正気にもどり冷静な判断となり、最悪の事態は回避されました。

こんなことを書くとだれかさんがますます埼京線を回避することになるかな。
私の乗っている電車はラッシュ時でも20分に1本程度なのでほぼ顔見知りの会員制状態なのでそこまではひどいことにはならないのですくわれているのかな。

そういえば中学3年の時に「3K」といって
・けんかをしない
・けがをしない
・警察のお世話にならない
という標語があったけ。(その昔は相当荒れていた名残?)

投稿者 akiko3 日時 2015年2月27日


「絶望の裁判所」を読んで
  
普段病院に行くことはないのだが、身内の入院で通った時は、病院もマニュアル通りのサービス業(全然サービスはしてくれてなかったけど)で商売になったのだとがっかりした。もっとよい仕事をしたいとか思わないのだろうか?ナイチンゲールの精神は習わなかったのか?高齢の医者は医者不足だからか現役でいられ、自分のやり方でしか診ない。患者に合わせようとせず、見守る視線ではなく管理しやすいかを見ているのか?ところで前の病院から送られた分厚い看護サマリーはちゃんと読んだのか?と懸念する診かただった。看護師は電子カルテの為か無表情でパソコンとにらめっこ。わずかに声掛けの優しい人もいたけど、担当の仕事をこなすのに手いっぱいなのか、タイミングを捉えてこっちから働きかけない限り、そんな優しい一面に触れる機会はなかった。病院にとって患者はおとなしく寝てればいいのだ。病院の一日の流れが滞りなく過ぎ、やがて時期がきたら退院なり転院するのだから、その間の生活の質なんて、喜びや楽しさを感じるなんて、少しでも早く元気になってくれればなんて気にしない。余裕がないのだろうか?病院も法改正で運営が厳しくなり、方針や経営変更が現場に降りてきて真面目に取り組むほどに疲弊し人材が流出し…。病院も空気の支配に流されやすい日本人の集合体なのだ。
しかし、裁判所なんて一生の内で行くこともないと高をくくっているし、陪審員も血を見ると力が抜ける体質なので無理だ(指名はないとも思っている)。(恥ずかしいが)改めて三権分立を調べたら、“国民の政治的自由を保障する為、三権を分立する”とあった。いやいや癒着しあっているじゃないと腑に落ちるこの反応の遅さ…。あんたのような不勉強な無関心な人がいるから変わらないんだって…ごもっともです。私自身も絶望の一要因だ…。
  結局、これ以上の入院生活ではよくなるどころか不幸だと判断し、いろんな人に(病院以外)聞いて退院した。現状が満足できないならば、より納得のいく結果になる別の道を探すしかない。今回は生活の中で幸せを少しでも味わえる場を求めて解決できたが、気管切開するかとか胃ろうをするかとか相手の生命や痛みに直接かかわることだったら、どう判断すべきか正直わからない。裁判も人が人を裁く、はっきり正解がでない案件も多いだろうに…あのレベルとは言葉が浮かばない(絶望とはいいタイトルだと感心してしまう)
しかし、裁判沙汰になったら、相談できず拘束を強いられたら、せいぜい拘束中に過去のInput情報を思い返して自分を強く支えるしかないのか???

  裁判官という社会的な高い地位にあり羨む人達ではあるが、哀れみを強く感じた。著者が病気になったのも納得だ。病気になるしか自分の正常な感覚に気づく方法はなかったのかもしれない。一番怖いのは同化することだったろう。あり得ないと思いつつも、ふっと自分もズレてる?と不安になることがあったのではないか?でも、著者は抜け出せた。腐っていく組織に一定の距離を保ちながら自分の信じる仕事をした。支えていたのは、著者の中にInputされた文学や音楽などの教養であり、人間とは?を知ろうとしたから。そして、蝋燭と人生が同じと気づいた。(そういえば、マザーテレサ自身を蝋燭に例えた人がいたな)いかに生きるか、生きる意味を問うた人、命を活かしたいと思った人は過去の課題本の中でも濃い人生に導かれていた。絶望からわずかに人生の希望を見つけた部分だった。著者が自分の表現方法を見出し、それを取り組み続けていることにも大いに納得できた。

  しかし、もし、もし裁判沙汰になるとしたら、交通事故?物損の民事裁判?相続問題?冤罪?事件や事故に関わらないことが大切だ。呼吸法はそんな不運から身を守る予防ネットだ。今日も総じてよい日だったと唱えて寝ることも大切だろうな。どうしても怪しい系に流れるのも自然だろう。以前は、パラレルワールドの時代という意味がよくわからなかったが、最近はなんとなくわかる気がしてきた。生きたい世界を自分で創造してそこに住む。そういう方法を確実に自分のものにしなくては!

  “しかし”(と“でも”が多いが)、しょうおんさんは、法や陪審員に興味があると書かれていた。どんな世界かInputしたらこんな絶望の世界だったと知った上で、これからどう関わりたいのか?その後の好奇心の行方を聞いてみたい。自分が関わる一件の被害者でも救えたら?現場を自分で感じたいから?それとも、手相をされる方が刑務所に入っている人の手を見てみたいというのと同じような感覚でしょうか?どんな感想に共感されるのか講評が楽しみです。

投稿者 munetaku 日時 2015年2月27日


〇裁判官選挙
私は最高裁判所裁判官の国民審査の意義がよく分からなかった。政治と違い裁判はあまり身近に感じられず、名前も聞いたことのない裁判官を罷免するかどうかなど決められないと思っていたので、選挙では無効票となるよう傍線を書いて投じていた。
そもそも、最高裁判所の裁判官に任命されるような人物はきっと能力も倫理観も高いに違いない、と勝手に信じて、わざわざ裁判官について調べることもないと考えていた。
しかし、本書によってそれが幻想だと思い知らされた。官僚の世界が腐敗しているのは『官僚の責任』などで軽く知ってはいた。裁判官も公務員であり、官僚と同じ身分であることを思えば、裁判官だって官僚と似たような精神構造になってもおかしくない。 そこまで思考を巡せらせることが出来ず、自分の想像力不足に気付かされた。 それにしても、裁判をノルマとして扱うとは想像出来ない。役人の世界は一般の感覚では語れない世界だとつくづく思い知った。

〇自らを反省
裁判所のシステム、裁判官に怒りや諦めを覚えると共に、自分自身、反省すべきと感じた。最高裁判所の裁判官に対して罷免に一票投じる権利はある。本書のような情報を集めて自分なりに裁判官の善し悪しを判断して選挙に望むことは出来る。しかし、私は裁判官のことなんて良く分からないからと思考停止状態に陥ってしまった。自分の身近でないこと、自分の身に降りかかる確率が低いことに関しては思考を放棄しやすい傾向があると感じた。しかし、痴漢冤罪などで自分が訴えられることだって十分に有りうる。大地震のように、確率は低くとも発生した場合には壊滅的な被害を受ける事象には危機意識を持たねばならない。
結局、裁判所にしても政治にしても、頭の良い一部の権力者によって、「民を愚かに保ち続ける」システムが日々アップデートされている。

学校教育の影響もありそうである。学校教育では学力一辺倒で自分で考えたり、政治や経済などの社会について勉強することがない。このような教育によって、国民は政治や裁判に興味を持たないようになっている側面があり、自分で知識を獲得しなければならない。
また、良く言われることだが、日本人は組織に馴染むよう教育されすぎていて、自己主張が苦手、自分の頭で考えられない、不満があっても我慢して受けいれてしまう。体制に不満があってもデモ等で訴えることもなく、諦めて受け入れてやがて何も考えなくなる。

自分に出来ることは知識を身につけて、システムに取り込まれないようにして、まずは自分の身を守ること。そして、それを自分の周囲に広げて行くこと。制度としては、最高裁判所の裁判官を罷免することは可能なのだから、正しい眼で裁判官を選ぶ人が増えてくれば、裁判所は変わらざるを得ない。


〇閉じた世界の恐ろしさ
閉じた世界で生きていくのは恐い。私は転職したことがない。外部の会社との関わりもほとんどないので、自分が常識と思っていることが実は一般の会社では全く常識ではない、なんてことたくさんありそうだ。業務で少しおかしいと気づいても、うちの会社のやり方だからと納得してしまっていないだろうか?
しかし、さらに恐ろしいのは、おかしいことにさえ気づかないこと。本書でも、有望そうな新人裁判官が何年か経つとすっかり組織に馴染んでしまう例があった。環境に馴染むとおかしいことにさえ気づかなくなる。自分の感覚を常にニュートラルに保っていなければあっという間に組織というシステムの一部になってしまう。
それを回避する為の一つに理念がある。社会のために、誰かのためにという意識があるかどうか?理念さえしっかりしていれば道を踏み外すことはない。また、外の世界がどうなっているかの知識を持つこと。自分の狭い世界が全てだと思っていると客観的な目線を持つことが出来ない。そのために読書やWebで知識を積むことや、自分の世界とは全く異なる人と交流することが大切である。自分の外へと世界を広げて行くことは意識したい。

投稿者 ken2 日時 2015年2月28日


「絶望の裁判所」を読んで

なんとネガティブな題名、そして内容だろうか。
これが日本の現実とは。。
でも日本の裁判所の現実、最高裁でもお裁きをしていた方からの内実の告白を知ることができたのはよかった。
「知らぬが仏」ではなく、まずは知るところから。
日々精進して、裁判所のお世話にならずに済むよう祈るしかない。

ほとんどの人は、裁判官の方と普段ほとんど接点もないわけで、裁判官のイメージは?と訊かれるとなんとなくアンタッチャブルで「正しい裁きをしてくれる公明正大な人格者」といった感じをいだいていたのではなかろうか。

著者によると、現在の日本の裁判官は、実は、完全に閉じたヒエラルキーのもと減点主義で失点しないように出世と保身に明け暮れているという。

裁判の当事者からしたら一生に一度、一生がかかっているような一大事なのに、当の裁判官は、効率主義で何件裁けたかを内部で競う状況という。

保守的な立場であるがゆえ、社会基盤が揺らぐのを防ぐという大きな役割もあると思うが、著者の指摘どおりだとすれば、とてもスケールが小さく、残念だ。
裁判官とはまじめでお堅い職業イメージだっただけに余計にそうだ。

裁判での判断を避け、和解を勧めるというのも、当事者のことを慮ってのことでなく、効率主義、自己保身とくればああなんとやら、である。

では、我々にできることは何か?
数少ない接点として、最高裁判所裁判官の国民審査がある。

2012年の12月に行なわれた総選挙の前に、ジャーナリストの江川詔子氏がブログ等で話題にしていて、「国民審査の裁判官10人全員に×をつけよう」という発信をしていたのを思い出した。
(実際、私は全員に×はつけなかったが、ブログ等で情報収集し、半分ほど×したと思う。 それまでの選挙では、わからないからいいやと無記入(=信任)で出していたところからすれば多少の進歩だ。)

「全員に×」は一見、過激な意見に聞こえるが、仕組み自体親切ではないので、せめてもの抵抗という趣旨だ。(よくわからないから白票→信任の意味になってしまう)

最高裁判所の裁判官は(冷静で落ち着いた判断ができるようにという意図で)罷免されることはない、と憲法で身分を保障されている。
唯一の例外がこの「国民審査」による罷免だ。
「やめさせたい裁判官に×をつける。」→「×が過半数を超えたら罷免」
だが統計をみても、過去最高の不信任率でも15%程度で、ほとんどの場合、1桁%だ。

最高裁の裁判官さま諸氏は、形骸化している国民審査で罷免されるわけはないと高をくくっているにちがいない。
にしても、他の人と比べて有意な%の差があれば、出世にも影響するのだろう。
するとますます、目立たないよう、失点しないようという意識が働くのか。

「国民審査の方法を変える」というアプローチもひとつの有効な手立てだ。
例えば、「やめさせたい裁判官に×」という減点方式をやめて
「信任する裁判官に○」という加点方式にしたら、著者が憂いているような内実は多少なりとも浄化されるのか?
だが、裁判官諸氏からは、いや、既得権益を奪われてはならんと相当な反発があるんでしょうけど。
憲法で規定されていることなので云々と。

著者の主張する「法曹一元制度」は、最高裁判所の全ての権限を掌握している最高裁判所事務総局が既得権益を守るために推進に消極的だということと、自由業である弁護士が制約の多い裁判官になろうというモチベーション、インセンティブがまだ弱いという2点において難しそうだが、何かよい方法はないものか、意識してアンテナを張っていこうと思う。
裁判の傍聴もしたことがないので機会があれば参加してみたい。 「絶望の裁判所」が「希望の裁判所」に近づけられるよう、まずは興味を持ち続けて知ることからはじめよう。
今月もありがとうございました!

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投稿者 tsubaki628 日時 2015年2月28日


 その日(2月11日)、あるブログ記事(アナウンサーの長谷川豊氏のブログ)を読んだ私は、怒りと悲しみで燃えていた。そのブログ記事のアドレスはこちらなので、時間のある方にはお読みいただきたいが、
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/42727799.html
簡単に内容を要約すると、2009年に千葉県で女子大生を殺害した殺人犯が、最高裁での裁判にて、裁判員に死刑と判決されたにもかかわらず(!!)、裁判官達によって判決を覆され、結局死刑を免れた。このニュースについて、著者の長谷川氏が、「最高裁のバカ裁判官ども、全員すぐに辞めてしまえ!」「裁判員制度なんざやめてしまえ」と怒りをブチまける、という内容になっている。私も長谷川氏の意見に激しく同意する。

 そんな中、今月のしょうおん先生の課題図書が、元裁判官の著者が裁判官の実態を暴いている本だったことを思い出した。というわけで、「今回の課題図書は難しそうだな・・・。法律の知識のない自分に理解できるだろうか?」と敬遠していた私が、重い腰を上げて本書を読み始めた理由は、上記の事件と長谷川氏のブログであった。
 結果、本の内容にぐいぐい引き込まれ、衝撃を受け、夢中になって読み、挙げ句の果てに真っ青になった。

 まず驚いたのは、「裁判官って、志やビジョンがないの?」ということだ。
 野口英世が火傷した手を直してもらって「自分も医者になって人を救いたい」と思ったように。あるいは、リンカーンが若い頃、奴隷の売買を目の当たりにして「自分が大統領になったら、こんな腐った制度を変えてやる」と決意したように。裁判官のような、社会的に尊敬されている職業に就く者は、例えばソロモンや大岡越前のような素晴らしい裁判官に憧れたとか、自分も裁判で救ってもらった経験があるとか、もっと高尚な理由で裁判官を志すのでは?と私は漠然と考えていた。しかし、この本を読む限り、ほとんどの裁判官は「俺様は優秀で特別な、選ばれし特権階級だぜ」と思い込んでいる、ただのつまらないエリートのようである。筆者が指摘しているが、アメリカのように、弁護士として長い下積み時代を経てからようやく裁判官になるのではなく、大学院を卒業してすぐに裁判官として仕事を始め、退職まで安泰、いうシステムに大いに問題があると思う。

 もう一点、本を読んで一番ひしひしと感じていることは、今月26日のしょうおん先生のメルマガ記事の中で、既にたった一言で集約されているが、「学問を積むよりも、人を理解すべし」という真理である。ここで、長谷川氏のブログの文をそのまま引用させていただくが、『・・・皆さん、法曹関係者の方が勉強に明け暮れ、机の前で、暗い部屋の中で頭の中にがん細胞が出来そうなくらいカリカリカリカリしている間、多くの「普通の人」は、笑い合い、泣き合い、傷つき、傷つけられ、「人間」というものを「勉強」していっているのです。』

 私自身、中学・高校時代に「なんで勉強ってしなきゃいけないんだろう?」と時々考えた。その度に、「身の回りに困っている人や悲しんでいる人がいたら、彼らの気持ちを理解できる。あるいは、彼らを助ける善い方法を考えつくためには、賢くなければならない。だから私達は勉強するのでは?」と、漠然と思っていた。大して優等生でもなかった女子校生時代の私でさえ、それくらいの解答は思いついていたくらいなのだが、この本に描かれている限り、多くの裁判官の方々は、机の上のお勉強やテストだけは出来るが、被害者やその家族の方々の気持ちが理解できないらしい。
 「本当の賢さ」とは、自分以外の人の生き方を受け入れ、彼らの立場に立って、一緒に泣いたり共感したりできる能力を言うのではないかと、自分の中で少しだけ答えに近づけた気がした。しかし、日本では「偏差値の高い有名大学を卒業し、難しい資格試験に合格し、ステイタスの高い仕事について高給料を稼いでいる人が一番えらい」という価値観が蔓延している。それを助長してきた責任は、私達一般人にもある、と問題意識を感じた。

 さて、著者の瀬木比呂志氏はもちろんのこと。この本を読んだ読者の方々を始め、現代の裁判制度や裁判官の姿に絶望し、「何とか改善しなきゃ!」と危機感を抱いている方が、日本にも既に複数いるはずである。しかし「改善は難しいだろう。しばらく制度改革はないだろうな・・・」と、ネガティブな予想をしてしまった。それはなぜか。
 実は私は、この本を、司法についての本ではなく、日本文化論としても読んだ。「なかなか上手いこと言うな」と思ったのは、111~112ページにかけての、この箇所である。
『日本社会には、「法などの明確な規範によってしてはならないこと」の内側に「してもかまわないことにはなっているものの、本当はしないほうがよいこと」の見えないラインが引かれている。(中略)第二のラインを超えた場合、排除、懲罰、報復が極めて過酷な社会なのである。』

 ここで言われている「第二のラインを超える行為」というのは、新しいことや、大多数の人々と違っている行為を指していると思われる。例えば誰かが「この制度は改善すべきだ」と将来を見越して提案したとしても、「現状維持すべし」「前例がないから却下」「なるべく面倒は起こさないでね」という大多数の意見によって、つぶされてしまうのである。これは、和を尊び協調性を重んじるという日本人の長所でもあり、「少しでも現状と違うことをしたら、排除すべし。出る杭は打て」という悪習慣でもある。

 では、この本を読んで今の自分に出来ることは何か。

 一つは、国民審査の時に、審査すべき裁判官について情報を調べ、不適切な判決をしている者には×をつけること。
 もう一つは、(感想文を投稿している他の方々もおっしゃっているが)読書を続けなければならないと思う。ただ、自分の場合、ただ読書するだけではダメだ。
いくら「1年で120冊読んでいます」と自慢しようが、本を読んだだけで満足して、読んだ内容を人生で適用していなかったら、何の意味もない。それでは、この本に描かれた表面だけ教養人ぶっているが中身のないエリート裁判官と、同じになってしまう。
 もう一度先ほどの主題に戻るが、「知識や教養を積むより、人を理解する」べきなのだ。確かに、知識や教養を積むことによって、人というものを理解するにはそれなりに役に立つ。だが、知識と教養は目的ではなく、ただの手段に過ぎない。自分の身の回りには、それほど読書をしていないが、「人というものをよく分かっているな・・・」と感じさせる人も、若干名だがいることはいる。
 読書をしてもしなくても、人を理解することはできるだろう。けれど自分は読書する道を選びたい。自分には読書という方法が合っていると感じるからだ。

 最後に、言葉で自分を守る術を身につけたい。
 今回の読書をきっかけに、山口県・光市の母子殺害事件について思い出した。
 この事件は、1999年4月、私が大学生の時に起こり、2000年の3月、犯人の男の無期懲役の判決が下ったとき、被害者の旦那さんであり赤ちゃんのお父さんである本村洋さんが、記者会見を行った。彼のスピーチは確か、「この国では、被害者の権利が守られていない。加害者の人権を守ろうとする人がいるけれど、家族を奪われた被害者の立場を、もっと考えてほしい」という内容だったと思う。
もしも本村さんが、悲しみと怒りに我を忘れて精神を病み、狂人になってしまっていたら、闘えないし、正義を勝ち取ることなどできないだろう。
理不尽なことに対する怒りと悲しみを、ぐっとこらえて、彼は一歩ずつ進み、冷静に、論理的に話をし、闘い続けてきた。その結果、やっと2012年に、犯人の死刑が決まった。その時も、「満足はしているが、嬉しいという気持ちはない」とコメントしていた。怒りと悲しみに支配されず、理性を保った人間の言葉だと思った。
 いつか理不尽な理由で訴えられたり、罪を捏造されたりする可能性もある。ないとは思うが、もしもそのような状況になった時に、現実から逃避したり恐怖で思考停止状態になるのではなく、本村氏のように冷静に言葉で表現し続けたい。そのためにも、言葉を磨いていきたい。それは、自分自身だけでなく、自分の周りの人々を守るためにも必要だと思う。
 良い本を紹介いただき、普段考えないことを考えるきっかけになりました。ありがとうございました。(しょうおんメルマガを読み始めてから約2年半・・・今日が記念すべき初投稿です。)

投稿者 senumishima 日時 2015年2月28日


絶望の裁判所を読んで

司法試験をパスして裁判官になるほど(勉強が出来るという意味で)頭の良い人達。
しかし裁判所組織では人間性は一切求められておらず、必要なのは上層部に従うかどうか、都合の良い人物であるかどうか。
これではせっかく人よりもかなり優れた記憶力、判断力を持っている人間を活かすどころか潰している。
それも税金を使ってこの国の国民に不利益を被りながら。本書の内容がすべて真実であるならば、なんと勿体ないエネルギー(人とお金)の使い方だろう。
そしてこの世界は軍隊に似ていると強く思った。

本書を読んでみると、裁判官の人間性や裁判所というシステムがいかに世の中のイメージと食い違っているかがよく分かる。
確かにかなりブラックで濃い世界である。
しかし私たちが暮らしている世界も(程度はかなり違うが)似たような部分もあるのではないかと思った。

多くの企業のお客様とは、お金を支払ってくれる一般市民である。(会社同士のビジネスだとしても、お金の出処は個人消費に行き着くところが多い)
そのため、サービスの質を向上させることが重要となる。
使う人の目線にならなければ良い商品は作れないし、相手の立場に立たない営業から商品を仕入れたいとは誰も思わないだろう。

しかし、裁判官は裁判で一般市民を相手にはするが、それは「お客様」ではないのでその対応は本書に紹介されているようなものになる。
裁判官にとっての「お客様」は別なところにいるらしい。

「お客様」とは、自分を満たしてくれるものであろう。
裁判官にとっては、高いポストを与えてくれるもの。(ラットレースで勝たせてくれるもの。)
企業にとっては稼がせてくれるもの。(マネーゲームで勝たせてくれるもの。)

こう考えると、裁判官もある意味においてきちんと相手を意識して行動している。
人間はどこに身を置いても人同士のつながりで生きているようだ。

問題は裁判所の場合、判決が国民の命運を左右するところにある。人間だから仕方ないな、では済まされない。
それほどの役割にも関わらず、このようなシステムが永遠と続けられてきたうえ、改善の兆しもないということにかなりの不安を覚えた。
そのうえ、「上命下服・上意下達」「民事系・刑事系裁判官」という構図が、かつての軍隊を思い起こさせる。
一部のエリート達によって日本が辿ってしまった道はもう避けなければならない。
自分たちの組織存続のみを考えて行動してしまった組織のしくみはもう卒業してもいいだろう。

あの頃の日本と違うのは、こういった情報が本書のようなものを通して末端の国民の手に入るということだ。
おかげでイチ会社員の自分にも、この重大な教訓を活かす機会を見つけるために役立たせることができる。
教訓を活かすために大切ことは、目的をよく考えることだと思う。
その目的が、組織のためや身内のためだけ…ではなく、外の世界に広がっていればいるほど「不可能を可能にする」突破口になるのではないか。

現実の価値観の自分では認識出来ていない世界、全く違う外の世界もあるのだということに気付くことが重要なのではないだろうか。
あとがきにも「司法という狭い世界を超えた日本社会全体の問題の批判的分析をも意図した書物」とある。
これは著者が本書を出した重要な目的の一つではないかと思う。閉鎖的な集団、考え方であることの危険性を示しているのではないか。

相手の都合より、効率よく自分の仕事をこなすことだけを考えている瞬間。
上の顔色を伺ったり、イライラして部下に厳しく八当ったり。
自分の失点にならないように発言したり、都合が悪くなったら顔を背けてしまったり。
感情に任せて結論を出してしまう。理由は後付け。等々
こういう行動をしたことが全くない人はどれくらいいるだろうか。

「見たもの、知っているものにしかなれない。」とある通り、多くの人は他の価値観を知らないのかもしれない。
意識が広がり、数ある選択肢の中から全て自分が選んでいる(国民に不利益を被りながらラットレースをしている。)という裁判官ほど、精神の檻から開放されているため退官という選択肢も考えられる。
従って「良い裁判官から辞めていく」結果になるのだろう。
自分も、今の世界がすべてではなく、外にはもっと広がった世界があると意識を広げていければと思う。

「不可能を可能にする」ために生きているのならば、自分が持ってうまれた能力を開放的に最大限活かすこもまた重要であると思う。

司法試験にパスするほどの頭脳は持ち合わせていなくとも、活かせる能力は誰にでもある。
体力に自信があるなら体を使える。話好きなら、場を盛り上げられる。オタクだって、周りを気にしない程の集中力と深い専門知識の持主だ。
あまり難しく考えすぎて結局何も行動できないよりは、改札の駅員や食堂のおばちゃんに笑顔を向けるだけでも良い。
見知らぬ他人にこそ、何の利害もないから仕事相手よりも素直な笑顔を向けられるかもしれない。
能力をこの世界で開放する習慣を身につけられれば、そうでない人と比べて人生は大きく違うと思う。

裁判所組織では「良い裁判官」が目立つ。
それと同じように、ビジネスの世界については、利益と保身のみの人間が多いシビアな世界であればあるほどに、それ以外の人間(素直な笑顔が習慣になっているような)が目立つのではないか。
そして、ビジネスにおいて目立つことは、仕事に有利でもある。
能力を本当の意味で活かせてこそ、不可能を可能にできるであろうし、生きる目的も見えてきて自他ともにすがすがしく豊かになれるのではないでしょうか。

こうやって裁判所のシステムを批判したものの、そういう自分も似たようなシステムの一部にいるのだろう。
本を読んだり、話を聞いたり。知れば知るほど外の世界はどれ程までに広がっているのか想像が追いつかなくなります。
人間のこと、現在の意識の事しかはっきりと認識できないのが現状です。
閉鎖的な世界にいれば、不本意な環境であっても、それさえ自分が選んでいると知ることは難しいでしょう。
知らないものにはなれないので、まずは知ることと思って行動するようにしています。

本書が世に出たことにより国を構成する一人一人が、不可能を可能にするため「絶望」の世界から「希望」への開放的な価値観の人生を生きることを願います。

投稿者 tractoronly 日時 2015年2月28日


絶望の裁判所 を読んで

学校では三権分立と習ったので、裁判官って1人1人が確固たる意思を持った孤高の存在、崇高な職業なんだと思っていましたが、ここまでのギャップがあるものだとは思いませんでした。

特に気になったのが精神的な「収容所群島」と言う言い回し
人を裁く立場である裁判官が精神的に囚われの身であると言うのは、以前の課題図書著者の美達大和さんが仰ってた「受刑者というのは本当に心が腐っている輩」と言う言葉に被りました。
おそらく受刑者は先天的に「欠落した人」で裁判官は後天的にそうなってしまったのでしょう。
しかもたかだか2〜3000人の組織で不祥事が多発しており、もし冤罪で捕まってしまった場合、裏では本当に犯罪を犯し、表では絶対の人格者という顔をした人間によって運命が左右される...考えただけでも身の毛がよだつ感じで悪い冗談にもなりません。

このような状況は本書で触れている通りその組織構造にも問題はありますが、加えて国民の無関心さという点も加わることで良くない状況に拍車がかけられているのではないかと感じました。

三権分立のうち、立法と行政は政治家が行っており業界の動きもダイナミックなため、メディアで報道されやすくこちらにばかり目が行きやすくなります。対して司法の方はある特定の事案だったり、2者間などミクロな部分の争いであること、なおかつ裁判の内容は前時代的なイラストによる伝達手段(これは意図的でしょう)、社会的大事件であっても判決の結果だけフォーカスされ、プロセスの報道は皆無。その結果、裁判にも裁判官にも目が行きにくいという構造があるのだと考えられます。

結論として、この本を読んで何ができるかと言うと実質的に影響を与えることは何も出来ないが、せめて唯一の接点である最高裁判所裁判官国民審査の時に×を投じる。そのために無関心ではいけない。日々の読書やニュース等で関心を高く持つことが大事という考えに至りました。
そして何より唯一の接点を二つ以上に増やさないためにトラブルを避けるスキル(=智の道)を継続して磨いていくことを思いを新たにしました。

投稿者 dukka23 日時 2015年2月28日


【絶望の裁判所を読んで】
「大学、大学教授という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?
ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し変わってはいるけども、頭脳明晰、礼儀正しく、勤勉、教育熱心、紳士淑女であり、自分の研究範囲については拘りがあり融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような教授が行う授業や研究についても、同様にやや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の大学と大学教授の実態は、そのようなものではない。・・・」


と、何年か先には「絶望の日本の学者」という本を出しそうな偏屈者の著者である。
ただし、頭脳はとんでもなく明晰で、正義感も強く、(おそらく)事務処理能力も高いがそれだけではなく、人に親身になれる人情派なのだろうと想像できる元裁判官だっただろう。

本の内容は如何に現在の裁判所が腐っているか、制度にどのような問題があるか、裁判官の平均レヴェルが如何に低いか、権力の分布がどのようになっているか、などの赤裸々な内容である。
元裁判官として、数々の辛酸を舐めてきた経験と、直面した現実(しかも脱力感を覚える)が無ければ書けない内容である。加えて、元裁判官という立場を考えれば自己否定することになるので、それを書き起こそう、真実を伝えようとする強い信念が無ければ書けない内容でもある。

しかし、いかんせん狭い世界で生きてこられたことと、(あとがきで自認されているような)持ち前の偏屈な性分により、広岡達朗氏のような万人受けしない匂いがする。

非常に分析も素晴らしく、客観的事実と考えを明確に分け、素人にも分かりやすく真実を伝えようとする正義感が感じられる好感のある文章である。しかし、こと卑近な例になると、言い終わった後に「ふんっ」と鼻を鳴らす、いしいひさいち氏の描くタツロー先生のようになり、「えっ?そこフォーカスする??」となってしまうところが惜しい。

高級車にキズをつけられたと怒る裁判官夫婦の例などは、職業関係なく「面倒なご近所さん」なので、特段に説得力を上げる例では無いと思えるだが・・・(あえて、大衆的な例を選んだ、という理由なら、すでに著者も特権意識があり、権力腐敗側予備軍になり得る素質を持っているとも言える)
出てくるたびにツッコミを入れずにはおれない、しょーもない身近な例は、出てくる箇所ごとに笑わせてもらった。

さらには、裁判官特有の事例として「事務総局」を取り上げ、「腐敗した権力の集中」を描いている。
しかし、権力の集中自体はどの社会・企業などなど、人が集まるところに必ず存在するもの。それが上手くいっているか、いっていないか、その権力が健全なのか腐敗しているか、だけなのである。
「裁判官という誠実なイメージはかけ離れている」、とか
「一般社会や、企業とも同様に」と前置きがあれば著者の主張もすんなり受け入れられるのだが、
「裁判所はこんなに腐っています」だけを、(ちょっとした私怨も滲み出しながら)主張されても、「ああ、やっぱり裁判官は狭い世界に生きているんだ」としか思われない可能性がある。
徹底的に客観視できるが、所々は主観的にしか見れない、という著者の特性がよく出ている。こんな点からも、「概ね良いことは言っているのだが、ちょっとした違和感から万人に受け入れられるかどうかは別」というタツローの匂いがする。

この著者はどんな環境に置かれても、自分の正義感を通し、権力側に反発し、それでいて意外とその事象を客観的に冷静に分析はしており「こんなことがありました。ほら皆さん、やっぱり向こうがおかしいでしょ?」という主張をする人の特性を持っているのだと思う。おおよそ空気を読むということはしない人なのだろうと思う。
著者も血筋的にそうだと自覚しており、そのことに触れ書かれている部分もある。やはりそんな使命を持って生まれてくる人がいるのだと、改めて理解しつつ、自分には無理な役回りだな(だから自分にはそんな使命は負わされていない)とも感じ、最終的にはタツローを見るように楽しませてもらった。

本書は、一般市民が「裁判所には期待しないこと」という価値観、スタンダードを知れる一冊である。著者の特性を考えると、すべてがすべて信じる必要はないが、それでも「裁判官だって人間。しかも普通の人よりも人間性が低い人もいる」ということがわかる書でもある。

投稿者 andoman 日時 2015年2月28日


「絶望の裁判所」を読んで

はしがきにもある通り、私も以前は裁判官は、人を裁くというからには、そのほとんどが、高潔で人の痛みを理解し、かつ公正な人物といった印象を持っていた。
しかし、本書でその印象はガラリと変わってしまった。
もし、本書が真実を述べており、それが的確なものであれば、これまで勝手にそう思っていた自分の考えを変えざるを得ない。

本書で登場する裁判官は、人事の顔色を常に伺い、正義を叫ばず、目立たず波風すら立てない。というのが優秀な裁判官とされている。
これには本当に呆れた。
まさに戦時中の海軍組織の様な仕組みになっている。
こういった組織にしてしまったのは、所々出て来る「人事」にあるとは思うのだが、その「人事」については本書ではあまり語られていない。
現在の悪の組織を作っているのは「人事」で、その黒幕が諸悪の根源ではないのだろうか?
それとも、語れないのか…。

裁判員制度により、私もいつ法廷で裁判官と共に人を裁く立場になるか分らないが、本書を読むまでは「裁判官に任せて、適当にしておけばいいや」といった気持が少なからず心の奥底にあった。
ところが、もし本書で指摘されている俗物裁判官に中ってしまったら、そんな事は言ってはいられない。
裁判官はあてにせず、自らの目と耳で入る情報をきちんと理解し、頭で考え、心で感じ、全力を持って対応しなければならない。
それは、もし自分が被告人の立場に立ってしまった時の事を考えると、いたたまれないからでもある。
被告人は、本当は冤罪かもしれない。
けれど、俗物裁判官によって、事務的に処理され、無罪が有罪になり、1人の人間を不幸に叩き落とす事に加担しかねない。
それは、法では罪にならなくとも、神様の法では罪となり、一生涯、無意識が私自身に楔を打つ事になると思う…。

投稿者 magurock 日時 2015年2月28日


『絶望の裁判所』に書かれていることは、目を覆いたくなることばかりだ。
今まで生きてきた中で、幸いにも訴訟問題に巻き込まれることは無かったが、もしそんなことが起こっても、こちら側に落ち度が無ければきっと勝てると、疑いもしなかった。
きっと裁判所は、公平に裁いてくれるだろうと。
でも「裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに18.6%」なのだそうだ。
争いごとだから、どんな結果になろうと満足できないという心理もあるのだろうが、それにしたって低い満足度だ。
時々報道される冤罪事件は、ほんの一握りの特殊なケースだとばかり思っていたのだが、いつ起こってもおかしくないことなんだと愕然とする。

裁判所が腐っているとすれば、争いに巻き込まれないように気をつけるのが、唯一我が身を守る方法だ。
打たれる杭にならないよう、出すぎたまねは控えていかなければ、と思う。
でもそうして争いを避けてばかりいると、「してもかまわないが本当はしないほうがよい」という見えない第二のラインに怯え、「考え、論じ、行動すること自体に対してアレルギーを起こすようになってしまう」都合よく飼いならされた人間になってしまう。
これでは上の意向ばかりを見て、公平でない判決を推しつける裁判官と同じではないか。
私たちはこの本を、第三者や被害者の立場として読もうとするが、面倒なことや不利益から身を守りたいと思う点では、結局ここに書かれている腐った裁判官と根本は同じなのかも知れない。
人間は弱い。だからこそ自分に恥ずかしくないよう、自分を律して、智の道を歩いていかなければ、とあらためて思う。

この本は、国民から見えないところで起こっている裁判所の腐敗の実態を暴く、力のこもった本だ。
告発するにあたって勇気も要ったことだと思う。
ただ、退官してまだ二年のときに書かれたからか、行間から瀬木氏の生々しい怒りがピリピリと射してきて、読んでいてぐったり疲れてしまった。
もう10年ほど経った頃、瀬木氏が裁判所に関して書いたら、どんな文章になるだろうか。
読んでみたいが、その頃は裁判所自体がもっとひどいことになっているかも知れない。

投稿者 t1100967 日時 2015年2月28日


本書を読みながら頭に浮かんでいたことは以下二つだ。

・そもそもなんで組織は腐敗するんだろうか
・いっそ裁判官はコンピュータに出来ないかな

まず一つ目。本書に繰り返し語られている、
裁判所の腐敗についてだが、これはどこにでもある、
普通のことだと感じた。

ただ今まであまりに閉鎖的過ぎて見えていなかっただけであって、
裁判所だけが特別腐っているというわけでも無いと思う。

役所だろうが官公庁だろうが、大企業だろうが中小企業だろうが、
どこにだってこういう組織はあるし、外国を見れば、
賄賂だの癒着だのでもっと腐った組織もたくさんあると思う。

本書を読む限りは、
ただ単に”積極的に良い仕事をしようと思っていない人が多い”
というぐらいのレベルに感じた。

なぜ腐敗するのか?と考えながら読み進めていて
ふと「あ、別にそんなに腐ってないじゃん」と思った次第である。

組織に入るのに苦労すれば苦労しただけ、
そこに居続けたくなるのは当たり前だ。
普通に就職活動して入った会社にだって、
定年まで居たいという人の方が多いのだ。
いわんや裁判官ならその気持ちが特別に強くても当然である。

そして、組織に居続けるためには、
その組織のルールに従わなくてはならない。
ルールを破ると罰せられると私達は昔から教わってきた。

また、第一のラインと第二のラインという説明が非常に印象的だったが、
言われていないが守ったほうがよいとされているもの、
というルールもどこにでもあり、
そしてそれを気にしすぎると、
段々と積極性は失われ事なかれ主義になっていく。

”組織に居たいのならば、組織にとって都合のいい存在でいなくてはならない”
と構成員が思っていること。
これが、全ての組織がだんだん腐る、というよりは硬直化していく、
根本的な理由だと思う。


とはいえ、普通の会社であれば、会社の理念や社員の行動指針に、
”変革”とか、”イノベーション”といった単語を盛り込み、
社員が新しい価値観を打ち出すことを奨励しているようにも見える。

これはどう考えるべきか?

恐らくだが、組織が対外的に示すイメージとしては、
「新しい価値を生み出してます」
という方が見栄えが良いのでそうしているのだが、
実態として、社員一人ひとりはそう思っていないというパターンがあると思う。

昨日までやっている仕事のやり方は変えたくないし、
突然新しいことを考え出せと言われても困るし、
めんどくさいことはなるべくならばしたくないと思うからだ。

構成員自身が、その組織の中でどのように立ち振る舞えば、
最も穏便に、長く居続けられるのかを考えるのであって、
上層部が勝手に”望ましい社員像”を打ち出しても、
そう簡単に構成員の意識が変わるわけではないと思う。

もっとも、これが外資系企業ならば話は違う。
トップの意思でガンガン解雇できるので、
意識変革がしやすい。

日本企業は残念ながらそういうわけにいかないので、、
硬直化した人たちと、問題意識を持った人たちの混合体で、
どうにかうまくやっていくしかないのかと思う。

さて、では個人としてはどうするべきか?

これは”自分の頭で考え続ける”
というのが解だと思う。

環境や状況や、上司の言葉や、同僚の意見を鵜呑みにし、
「まあそんなもんかな」と思い続けることが、
組織の硬直化を招き、さらに、自らの不幸を招くのだと思う。

”流される”ことが、人生における最大の失敗であり、
罪であり、最も愚かなことである。

常に、自分の頭で考え、そして自分の頭を疑い続け、
知っていることを増やすと同時に知らないことを増やし、
本を読み、話を聞き、見て、触って、感じて、体験し、
意志を持って生きていくことが必要だと思う。

以上


■あとがき
昔アニメの攻殻機動隊で、コンピュータが裁判官をしている
シーンがあったのを思い出しました。

IT化によって、人間が記憶しておく必要のある情報量が少なくなったのに、
相変わらず司法関係の人は大変な思いをして、
膨大な法律と判例を記憶していて、ご苦労様ですと言いたくなります。

いっそ世界中の全ての法律と判例をDBに入れて、さらに毎日の新たな判決も更新し、
あらゆるパターンの判決を網羅的に検索するような仕組みにすれば、
やる気の無い裁判官よりは、いくらかマシなんじゃないかなあと。

あなたはダメな人間に裁かれるのと、コンピュータに裁かれるの、
どちらがマシだと思いますか?

投稿者 BruceLee 日時 2015年2月28日


本書で最もビビビ!っと来たのは以下である。

「以前から存在したものにはそれなりに根拠があり、その欠点はみえにくいし、
それと異なるものは想像しにくい。しかし、それを想像してみる勇気と努力が
必要なのである」 (P228)

この「以前から存在したもの」とは現状の裁判所の事である。欠点に関しては
本書で暴露されまくり。また「それと異なるもの」とは法曹一元制度の事を指し
ている。そして、決してこの一文を逆手に取る訳では無いのだが、個人的には
著者ダメだしオンパレードのダメダメ裁判所も、この一文を用いれば
「それなりに根拠」があるから存在してるんじゃないの?という気がするのだ。

その根拠とは何だろうか?と考えてみる。。。が、分からない(笑)

分からないが、何かある気がする。世の中にはこちらが主義主張、試行錯誤、
努力奮闘しても直ぐには結果の出ない、動かされない頑なな存在があるのだ。
と、結論付けるのは諦観の境地すぎるだろうか?

著者が散々ダメだしする現状の裁判所には、勿論問題があるのだろう。が、
それは我々の思考レベルにおける問題であり、一方そういう問題があるにも
拘らず(当局はそんな事とっくに気付いてると思う)、それでも今現在その
ままの姿で存在し続けているのも事実で、そこには何かの存在理由があると
思うのだ。う~ん、それをどう解釈すれば良いかが我々の課題になるとは思う
のだが、少なくとも我々が行動を起こせる事ってそんなに無いような気がする
のだ、残念ながら。

分かりやすい例が、ヤクザ(暴力団)。

社会常識的には、「追放すべし、断固戦うべし!スーパー銭湯では刺青者厳禁!」
と煙たがられてるし、彼らの存在って認めてはいけないとは思うのだが、依然
として存在している。で、どんな綺麗事言おうがヤクザや暴力団は未来永劫、
この世から無くならないだろう。何故って、彼らを必要とする表社会があるから。
表には出せない裏の事情、大人の事情ってヤツがあるのだ、世の中には。

誤解を恐れず言えば、実は裁判所も似たようなものではなかろうか?国民にいじらせ
てはイケナイ領域というのがあるのかも知れない。それが国民にとって、理不尽で納得
いかないとしても誤魔化し、スルーさせねばならない領域の一つが裁判所なのではないか?
何故って、判決の正当性なんてのは数字で表せない訳で、万人が納得できる判決なんて
あり得ないからだ。今、企業がKPIなど全ての行動を数字に落とし込んで評価軸にしょう
としてるが、判決なんてのは最もそぐわない領域なのかも。だって、被害者と加害者双方
が心から納得して合意し、最後は握手できる判決なんてあり得ないでしょ?だった最後は
人間の感情が入るから。だからここは敢えて曖昧にしつつ、普段はあくまで冷静に、
ドライに、非人間的な態度をとりながら、一般庶民とは縁遠い存在を保っている、或いは
このままそっとしておいてよ、というのが裁判所組織の本音なのではないだろうか?

と、あくまで勝手な想像だが、本書を読んでそんな事を考えてみた次第。裁判所なんて
フツーの一般人は関わり無い所だし、それが更なる悪循環を生むのかもしれないが。

回答が無いのが回答、というのも乙なものという事で。。。

投稿者 morgensonne 日時 2015年2月28日


『絶望の裁判所』を読んで

 私は幸いにして、未だ裁判所のお世話になったことはないが、本書を読んで本当に怖くなったというのが率直な感想です。このような実態はメディアでは全く報道されないため、知識として吸収しなければ、実際に関わる時に対処していくしかないのでしょう。しかも司法全体が統制されていると現状でこのような本が出てくるのも珍しいことで、著者が様々な嫌がらせを受けたというのも理解できます。今までは何か事件があれば、最後は裁判所である程度公平に判断されるものであると思っていたが、司法も信用できないとなると、結局は自分は自分で守るしかないということをで改めて認識するに至りました。裁判所に関して言えば、できる限り今の裁判所には関わらないように未然の対策をしていくしかないのではないでしょう。そのために知識を蓄積し、知恵を使うようにしていきたいと思います。
それと、次の最高裁判所裁判官国民審査は経歴実績を見てから判断するようにしたいと思いました。まず国民として意見を主張できるのはこの時でしょう。前回の2014年の投票結果を総務省のページで見ると10%前後の方が「罷免を可とする」にされているようで、個人的には思ったより高い数字でした。この数字が高くなってきたら、国も改革に本格的に動きだすのではないでしょうか。
また、この本で書かれている権力争いは、程度の差こそあれ、多くの会社でも同じことが当てはまると思います。だからといってこの本の内容を参考にすることはできませんが、最後は人とのやりとりで人事が決まるわけなので、改めて人との接点を大切にしていきたいと思いました。

ありがとうございました。

投稿者 chaccha64 日時 2015年2月28日


「絶望の裁判所」を読んで

元裁判官の日本の裁判所とそのシステム、裁判官の問題を暴いた警告の書。普通は裁判、裁判所と関係することなど一般人にはないので、ここに書かれているような問題があるとは想像もしていませんでした。憲法に謳われている基本的人権を守ってくれる最後の砦だと思っていましたし、憲法問題だけでなく民事事件、刑事事件もきちんと裁いてくれると信じていました。
それが、自分の成績のために和解の強要、押し付けがあったり、水害訴訟に見られる最高裁判例の踏襲(「溢水型」の判例なのに「破堤型」にも適用)したりする。裁判になると、市民など守ってくれない。
これは、事務総局に権力が集中していること、上命下服、上意下達のヒエラルキー、人事による統制などの官僚体制、研修制度、裁判官の質の低下、人格の問題が挙げられている。しかし、これらは何も裁判所だけの問題ではない。国の、地方の役所でも同じ問題はあるし、一般企業でも発生している。著者は、裁判所独自のキャリアシステムのために一般の官僚組織に比べて問題が大きい、人員の構成比で質の低下もはなはだしいと述べている。しかし、そんなことはないのではないか? 官僚の贈収賄は大きいものから小さなものまで必ず毎年新聞紙上を賑あわせるし(送る方は一般企業)、一般企業でも横領事件も頻発している(新聞沙汰にならないものも多数)。裁判所に限らず、高度成長時の、バブル前の日本のシステムが今の時代に合わなくなっているのだと思う。
そのため、あちこちでシステムの改正、改善に努めているが成功の事例はほとんどない。裁判所も、2000年代に司法制度改革を行ったが、事務総局、裁判所の官僚体制に骨抜きにされたとのこと。これは、内部からの改革は難しいことを示している。それに、法律を作成する起案を作るのは主に法務省なので国との関係もあり、最高裁判所長官の指名は内閣だし、広く日本のシステムを改善する必要があるのではないかと思います。昨今は、裁判所に限らず、国の問題もあるし、政治の問題も大きくなっているので。
民意が反映されて、多くの国民が幸せになる改善の方法があればよいのですが。思いつきません。大岡越前、遠山の金さんでは駄目なことだけはわかりました。次は、黄門様(大統領制)でしょうか...

投稿者 uchdk 日時 2015年2月28日


本書を読んで、裁判官の世界がこんなに俗物的であることに正直驚きました。
確かにニュースなどで様々な事件の判決を聞くと、被害者の立場から見ると納得いかないものが多い気がしていたが、それは法律に即して判断するため血の通わないものになりやすく、また示談が多いのは判決まで行くと不利になるためうまく折り合いをつけているのかと思っていました。
無知とは恐ろしいことです。


裁判官は頑張ってもお金が儲かるわけでも、また誰かから感謝されているかも分かりにくいので、出世や評価に影響する内部にばかり意識がいってしまうのも仕方ない気もするが、
そもそも裁判官など公的な職に就く場合は、私利私欲は捨て、国民に奉仕すべきだと思います。
公的な職に就くと人権が無いのでは無く制限されるが、国民を守っていることを志にし、できないのであれば職に就くべきではないと(理想的には)思います。

昔は先生など聖職と呼ばれたように、このような志を持った方が多く、一般市民も尊敬の念を持って接していたが、昨今は減ってしまったため、一般市民からの尊敬の念を失い、公的な職は安定収入という理由だけで就いていると見られているように思います。


またもし裁判になったら、正論で情に訴えても通じないので、裁判官にも利になるような対応をして、それと弁護士等の見方となる専門家と知り合いになるくらいしか現時点思いつきません。
それでもこれからすべきことは、

・どのような相手でも心の中に入り込む術を身につける
(まだ受講していませんがコミュニケーション編セミナーで身につけられますか?)。
これは普段の仕事・生活の中だけでもいろんな人と会うときに心掛けるだけでも違ってくるのかと思うので、意識していきたいです。

・裁判官に限らず違う世界のことを知るには、読書に励む。

またしょうおんさんがメルマガ等で言われている現在の職業と別の世界でも収入を得られるようにしておくことが、収入面だけでないリスクを低減できる意味もあると思いました。

このような本を紹介頂き、またひとつ勉強になりました。
ありがとうございました。

投稿者 jawakuma 日時 2015年2月28日


絶望の裁判所を読んで

●最高裁国民審査は × 印で
基本編受講後でそのすすめを聞いてから、最高裁判所裁判官の国民審査では、毎回全員×印を書いてきましたが、この書を読み、これからもそれを継続する気持ちが強くなりました。
〝この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ”
私の友人は大学法学部で留年し、その後一念発起し卒業後フリーターをしながら5年程かけて司法試験を突破しました。いまは検事をやっています。毎日チンピラ相手に尋問を繰り返し、3年ごとに全国を転勤し大変なようです。そうです、検事もとても楽しい仕事ではないのです。弁護士もそうでしょう。しょうおん先生のセミナーでもあった法テラスのように、怒った人たちの相手をするわけですから。そして、裁判官も本書の通りとても幸せとはいえない状態が待っているのです。優秀な学生たちが勉強をかさね最難関といわれる司法試験を突破しても幸せな将来はなかなか難しいようです。正直、この本を読むと年収2000万円といわれても裁判官にはなりたくないですね。自分の仕事が自分にも、周囲の人たちにもためになる仕事、つまり「智の道」を歩んでいきたいとあらためて思いました。

いやーでも、この著者本当に頭いいんでしょうねー。文章の構成や論理構成がとてもしっかりしていて作者の裁判所システムに対する嫌悪感はさておき、とても解りやすかったです。そのうえトルストイのイヴァン・イリイチの例えをはじめ音楽、映画などにも精通しており、凄い人だと思いました。

●陪審員制度導入の舞台裏
この本を通して内実を知ると、裁判所や法務省のイメージ戦略は上手く誤魔化しているなあと逆に感心しました。陪審員制度もしかりですね。さもいいことのようにスンナリと導入され運用されていますが、裏事情を知り唖然としました。本当に自分のことしか考えていない人もいるんですね。取材統制と報道コントロールで国民は騙されちゃってますね。本書にもあるように官僚や政治家よりクリーンでインテリジェンスなイメージを感じてましたから。陪審員制度もそうですが、日本の裁判制度自体を何とかしないとですね。不可能を可能に何とか改善していきたいですね。関わらずにいられればいいですが、いざその時にこの裁判システムだと本当にまずいです。陪審員指名されたらどうしようか本当考えますね。

●留学により広がった価値観
著者は裁判官になってアメリカに留学をしていますが、そのことが価値観を広げる良い経験になったんだと思います。そうでなければ、やはり狭い視野の中で新しい価値観もインストールできずズブズブと腐らされてしまったんだろうなと。病気にもなりますよね、これは。

●裁判所ヒエラルキーと日本人の気質
戦前から変わっていないという裁判官内の制度、二重の人事評価の基準があり、はみ出た行動をしないように常に注意を続ける。これは裁判官内の話でしたが、ここまでではないにしろ、日本の企業にも通じるところがあるように感じました。仕事上の失敗はマイナス評価につながるので無理はせず、チャレンジもしない。決まりきった安全な仕事を淡々とこなし、上長にうまく取り入った人が昇進していく…。単一民族の日本人が陥りやすい傾向があるのでしょうか。全部が全部そうではないにしろ、そういう側面もあるにはあるでしょう。そんな中でも自分の軸、価値観をしっかりもち、会社に依存しないよう(いずれ経済的にも)していくことが大事だと思いました。

今月も良い本をありがとうございました!

投稿者 saab900s 日時 2015年2月28日


一般的には、司法は正義であると考えられているものの裏側は如何に腐りきっているか
ということを知ることが出来ました。

(日本人)という本にも日本人としての特性が皮肉を交えて書かれていましたが、
そういった人種が機構というものを作り運営するのが下手なのだという一説も

書き加えるべき項目であると思いました。

投稿者 starstar 日時 2015年3月1日


概要
通常、裁判官には、大きな生後とささやかな正義を守ることを念頭におきつつ、公正、
中立な立場でさばいてくれる人、願わくば市民感覚ももってほしい。
ところが日本の裁判所は現在、大きな正義に関心を持たず、小さい事件は案件処理をするがごとく
裁いている。本書はその裁判所、裁判官の実態、歴史的経緯の説明をしつつ、現在の司法制度に
ついて警鐘を鳴らした書である。

以下、感想を箇条書きで書く。

・理想を忘れてはいけない。
ヒラメ体質、組織がしてほしいと思っている結論に、合わせて仕事をするという記載があったが、
自分の仕事ぶりでも似た傾向があると思った。
最初から上司や会社のしてほしい結論を予想し、その方向性の幅の中で結論を選択していると
痛感した。
理想のイメージを意識して、仕事を進めないといけない。理想を持たないのであれば、
生きている価値もないのかもしれない。
最低でも、本来あるべき結論をきちんと考え、会社で受け入れられる結論と照合して結論を
出すようにしていく。

・出世の基準
著者は裁判官の評価を、いくつかのタイプに分けて評価していた。
人間性と見識を持った裁判官が最上となっていた。市民感覚を持って判定してほしい司法では
なるほどと納得するが、私の会社でもぜひそうあってほしい。
そもそも会社の上位層の人間性が悪いと働いていて、ガッカリしてしまうことが増えるのはもちろん、
今日の企業は、利益追求だけではだめで、人として正しい判断をすることが、持続的に成長すること
は難しいので。

・裁判所の腐敗を正す存在は何か。
著者が言うように、通常の企業では自浄能力があるが、司法に対してはないから、果てしなく
腐敗するという意図のことが書いてあった。
最高裁裁判官の信任投票を機能させ、その判断をするためにマスコミは司法の裁判結果の傾向を
きちんと評価し、報道してくれるようにすべきではないかと思った。
組織は批判勢力がないと進歩しないという教訓だなと思った。
そういえば、今会社では社外取締役を導入した。社内昇格役員とは違う意見がたくさんでて、
刺激になってよいとのこと。

・人事の裏の意図を読む。
本書では、今の体勢になるきっかけは、1960年に自民党が右寄りの石田氏を最高裁長官に
ねじ込んだことだと記載している。リベラルを弾圧していくという意図がこの人事で表現されていた
のだなあと感じた。
日銀だって黒田総裁になってごろっと方針が変わったことに似ている。
今後ニュースを見るうえで、人事の背景の意図を読むことで精度の高い予想ができそうだと感じた。

ありがとうございました。

投稿者 S86903 日時 2015年3月2日


「絶望の裁判所」読後感
本書を読むまでは自分自身の常識として、「日本は立法権、行政権、司法権の三権が互いに抑制し
あい、均衡を保つことで権力の集中を防ぐ素晴らしい制度を持つ国家である」と思っていた。
とりわけ、裁判所は、国会と内閣に対して法律や国の行為が憲法に違反していないかを審査する、
所謂「違憲立法審査権」を有するように、日本の良識の府であると認識していた。また、その裁判所に
属する裁判官については、「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと
決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関が
これを行ふことはできない。(憲法78条)」とあるように、身分が保障されているゆえ、自身の良識
に従って、裁判を訴訟指揮することで適切に制度運用されていると信じていた。
 しかしながら、元裁判官である著者が裁判所の実情を吐露するにつれ、上記認識は全く誤解である
ことに気付いた。寧ろ裁判所と雖も官僚組織の一つとして行政権と融合しているのではないかとさえ
感じたほどである。
 これまでの自身の裁判官に対するイメージとしては、担当する案件について事実認定の後、これまで
の法理では対処できない新たな訴訟ケースの場合、自身が起案する判決文の中で新たな法理論を立て
たり、具体的なメルクマールを示すことを行う行政官といったものであった。しかしながら、著者に
よれば、「大多数の裁判官は、ただ、先例に追随する、棄却、却下の方向を取る、判決書かなくても
よい和解という手段に頼ろうとするなどの道を選ぶ」そうであり、このことはショッキングな事実で
あった。ただ、その理由が、「一つには、要するに早く事件を『処理』したい、終わらせたいから」で
あり、さらに「一つには判決文を書きたくないから」であるとされるのを見て、妙に納得してしまった。
それまで裁判官を「良識を兼ね備えた大変高尚な人物」と勝手に思い込んでいたのだが、結局のところ、
我々の周りにいる「ごく普通の人」と変わらないことに気付いたからである。
 日本国憲法が制定された当時の制度設計上の理想が、結局のところ、その組織の中で時の権力者に
よってかき消され、裁判所組織が最高裁判所長官を頂点とする官僚組織の一つに過ぎない状態になって
しまったのだろう。日本国憲法では国民主権が前提となっているおり、国民によって司法権(裁判所)
をチェックするために、「最高裁判ほ所裁判官の国民審査権」が制度上保障されているが、現実は形骸
化してしまっていると言っても過言ではない。
 このことに対しては、「素人の国民が最高裁判所裁判官の業績を見ても判断できるはずがなく、
当然だ。」という意見がおそらく多数を占めることになるであろう。ここが権力者側の思うツボで、
国民の無関心に乗じて、行政と司法が融合し、権力側の意向が何の障害もなく実現され、知らぬ間に
国民の諸権利が脅かされていくことになる。
 では、我々はどうすべきか。まず、何よりも我々に保障された諸権利を今後も享受するためには、
無関心を改め、裁判所に限らず、政治、行政に対して常に関心を持ち続け、我々自身の意思を表明して
いくことが必要であるのではないか。つまり、そのことで権力側に対し、一種の牽制効果を働かせるの
である。