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第135回目(2022年7月)の課題本


7月課題図書

 

考える脚 北極冒険家が考える、リスクとカネと歩くこと

 

著者は北極冒険家という肩書きでして、破天荒でむちゃくちゃなことをやる人のように思

えるわけですが、なんたって自分の命が掛かっているわけですから、思いつきでリスクを

取るなんてことをやるわけがないんです。このあたりのバランス感覚が優れていないと、

遭難しちゃうわけですからね。

 

この手の本だと、成功した取り組みだけが注目されたりするものですが、本書のメインは

撤退戦なんですよ。ここまで準備して、ここまで頑張って来たのに、それを全部抛って、

リタイアするその時の著者の心境たるや、想像に難くないのですが、そこで撤退すると決

められる人が勇者なんですよね。

 

私は冒険家の書くノンフィクションが好きでして、それなりの冊数を読んでいるのですが、

今までの冒険家とは一味違うところが気に入りました。

 

 【しょ~おんコメント】

7月優秀賞

 

投稿者による推薦では、Terucchiさんが1票、Liesche333さんが4票、Bruce Lessさんが

2票、LifeCanBeRichさんが2票、masa3843さんが2票、saruruberi49さんが1票、

aguroigさんが1票となりました。

 

みなさんの投稿をじっくりと読みまして、今回はmasa3843さんに差し上げることにしまし

た。おめでとうございます。


【頂いたコメント】

投稿者 daniel3 日時 
著者の荻田泰永さんは、無補給単独で北極点を目指すという、一般人にはとても手が出ないような危険なことに挑戦をしている冒険家です。ただ、本書を読んで「徒歩で北極点を目指すなんて、自分の人生とは関係のない話だな。」と考える方がいるとしたら、危機感を持った方が良いと思いました。なぜならば、現代は環境の変化するスピードが数年前より加速し、将来の予測が困難な社会となっており、リスクに向き合う荻田さんの視点を私たちも取り入れる必要があると考えるためです。冒険家というと、危険なことに無鉄砲に挑戦していくイメ―ジが私にはありました。しかし、可能な限り不確定要素を減らしてリスクに対応する荻田さんの姿勢は、私たちにも参考になると思います。本稿では、荻田さんの北極点と南極点それぞれの冒険の違いから見えた、リスクへの向き合い方を述べます。そしてリスクへの向き合い方を、どのように私たちは取り入れていけば良いのかについて考えたことを述べていきます。

まず、荻田さんの過去の冒険について振り返ります。荻田さんは2度ほど北極点無補給単独徒歩に挑戦しましたが、いずれも失敗に終わっています。2回目は残り17日ほど歩けば北極点に到達できるところまで進むことができましたが、自分の想定を超えたギリギリの到達を「美しくない(P.132)」と感じ、断念しました。その後は、一度北極点挑戦から距離を取り、グリーンランド単独行を成功させた後、北極圏以外の未知の冒険を求めて南極点に挑戦します。そして実際に南極点無補給単独徒歩に挑戦したところ、あっけないないほど容易に到達します。容易に到達できた理由として、「南極点への徒歩冒険は、実は簡単なのだ。(P.242)」と、荻田さんも明言しているように、南極点は北極点の冒険に比べて格段にリスクが小さいとのことです。なぜならば、北極点を目指す冒険では揺れ動く海氷上を歩くため、決まったルートを歩き続けるだけで北極点に到達できるわけではありません。また乱氷、リードやホッキョクグマの襲来など、進行を妨げる要素が多くありますが、南極点にはこうした要素が存在せず、先の予測が容易なためです。もちろん私のような素人からすれば、南極点も厳しい環境だと思いますが、極地でのリスク対応能力が高い荻田さんにとっては、南極点はただ歩き続ければたどり着いてしまう想定の範囲内の場所でした。

想定の範囲内という点では、バブル崩壊以前の日本についても、将来の予測が立てやすい状況であったと思います。なぜならば、終身雇用の制度の中で定年まで働き続ければ、まとまった額の退職金を受け取ることができ、必要十分な年金受給で老後の生活が送れる状況であったためです。しかし、数年前から日本も予測困難な時代に突入したと言われており、先行不透明なリスクが高まった状態になっています。ここでいうリスクとは、それまでの正解と思われた行動を取っても、期待通りの結果を得られない状況のことを示しています。リスクが高まっている一例としては、サントリー新浪社長の「45歳定年」発言や、富士通の早期退職募集に3,000人の応募があることからも、終身雇用は崩壊しつつあることがわかります。さらに年金額についても、高齢者を支える現役世代の人数が減少し続ける状況で、これまでと同程度の年金受給は見込めなくなっています。そのため、荻田さんが北極圏の冒険で培ったように、リスクに対応する能力を高めることが、冒険家ではない私たちにも必要であると考えました。

では、私たちは具体的に、どのようにリスクに対応する能力を高めていけば良いのでしょうか。私が考えるリスクに対応する能力を高める方法は、自分なりに仮説を立てて行動し、その行動の結果を検証して改善を繰り返すことです。なぜそのように考えるか説明すると、以前の課題図書の「ニュータイプの時代」でも紹介されていたように、状況が絶えず変化し予測が立てられない場合は、何が良い結果につながるかは誰にもわかりません。そうした状況で自分なりに仮説を立てて行動してみると、予想外の結果が起きることがあります。その予想外の結果について、どのように対応するか考え改善を繰り返す過程こそが、リスク対応能力を高めることにつながると考えるためです。また、改善を試みたけれども先の見込みがない場合に、撤退することもリスク対応能力の向上と言えるでしょう。このように、先が見通せない状況におびえるのではなく、自分で考え行動しながらリスク対応能力を高めていくことが、荻田さんの冒険から学んだ、これからの時代を生きる私たちに必要な視点です。
 
投稿者 Liesche333 日時 
本書を手に取って始めに思った事は、冒険家はなぜ冒険するのだろうか、という疑問だった。今の時代、地図上に空白地はほぼないだろうから、未知のものを発見するようなことはないだろうし、あえて危険な行為を行うということに対しては、単純に凄いとは思うものの、なぜそのようなことをするのかという意味が分からない。「日本人初」とか「最年少」「最年長」といった称号はあるかもしれない。しかし著者は、グリスフィヨルドからシオラパルクまでを「初めて歩いてきた人」になったにも関わらず、『どうでもよかったので気にしなかった』といい、『おまけのような嬉しさ』を感じたという。だとすれば、タイトルを獲ることは著者にとっては冒険をする理由にはならない。南極点への無補給単独徒歩も日本人では成功例がないものだったが、『それはどうでもよかった』と語っている。ではなぜ著者は冒険をするのだろう。そんな問いに対して「やりたいからやるんだ」と著者は答える。それはつまり、お金と時間と命をかけた趣味なのではないだろうか。私はその趣味を行うことに対し、主体性を持つことは大切だと考えた。

まず、ここでいう「主体性」とは、自分の考えや判断を基に行動するということと定義したい。周りの意見に耳を傾けることも大事だが、常に自分を基準に物事を捉え、行動した先の結果を受け入れる覚悟が主体性なのだと考える。たとえ不可抗力な状況だったとしても、それを受け入れることで、自らの準備不足を反省し、その反省を次のアクションに生かすということだ。著者は冒険前に軽量化を限界まで行う。それは、しっかりと減量化を行ったという事実が、その先に待ち受ける困難を受け入れる儀式となっているためだ。死んでしまってはアクションは起こせない。著者は後悔しないために、必ず自分の考えや判断で行動している。

次に、主体性を持てないとどうなるのか、本書で著者が推測する、河野さんの事故時の心理状況を例に考えてみる。『手弁当で協力をしてくれる有志の仲間がたくさんいた』というように、関わる人が増え、その人たちに義理や義務、責任を感じていたとすると、簡単に北極の遠征をやめるという選択を取ることは心情的に難しかったのではないだろうか。引き返すかどうかの判断の際に、関わった人たちのことを基準に考えること、つまり「北極点に到達して欲しい」という周囲の期待を基に、遠征の続行を判断したのではないだろうかと考える。もちろん支援者は無理をしてまで遠征を進めて欲しいと思っていた訳ではないだろうが、そう感じてしまう心境はあったと思う。だとすれば、主体性は持てていない。物事を判断する基準が、自分ではなく他者になっているからだ。

ではどうしたら主体性を持ち続けることができるだろうか。本書では『冒険とは自らの主体性によって行うもの』と語られている。危険要素を、知識・経験・技術で回避して備えを施す。その一つひとつの行動に主体性を持つことが出来るかどうかが、冒険の中で自らの命を守ることになる。自分一人で行っている間は、責任を自分で取る事になるから分かりやすいが、誰かを巻き込んだ瞬間、先ほど述べた河野さんの事故時の心理状況のように、主体性を持ち続けることが難しくなるのではないか、と思っていた。だが、著者の主体性は揺らいでいない。なぜなら必要な資金を集めることについて、広告代理店などの他人に代行してもらわず、相手を説得することもしていないからだ。著者は自分のやってきたこと、やろうとしていることを、出会う人に伝えてきただけである。それはつまり自分のファンを増やした、ということなのだろう。著者のファンである支援者は、支援したお金や協力の対価として冒険を支援する訳ではない。純粋に頑張って欲しいと思うから支援するのだ。自分と他者の関係をそういう形にしたことで、著者は主体性を持ち続けることができたのだと思う。

同じ事は自分の人生にも当てはめることができると考える。他者に手綱を渡さず、常に自分の考えを基に動くことは『自分の人生は誰のものでもなく自分のものである』ということである。つまり主体性とは、自由であるということなのだと思う。さらに、自分のやってきたこと、やろうとしていることを応援し、支援してくれるファンやコミュニティを作ることができれば、やれることが増え、やりたいと思えることが増えていくのではないだろうか。その循環を作ることができれば、人生で成功者になれるだろう。さらに、著者は『やるべきこと、やりたいこと、できることの三つが一致した人生は幸せだ』という。しかし実際にそうなっている人は多くない。なぜなら「やるべきこと」と「できること」に焦点を合わせてしまいがちだからだ。大事なのはそうではなく、著者が冒険をする理由である「やりたいからやる」なのだと思う。だからこそ続けることが出来るし、他者に共感してもらうことができるのだ。『私の自己満足に、価値を見出してくれる人との出会い』は、私の人生に幸せをもたらすだろう。幸せになるために、主体性は大事なのだと再認識できた本だった。
 
投稿者 kzid9 日時 
本書は、著者が渇望感を抱えた若者の時代から18年間、冒険し歩きながら考え、たどり着いた人生の指南書といえる。自らの脚を使って体験したことから、考えることがいかに大切かについて語っている。北極の歩行では氷が割れるなど命を失う危険があり、それを察知するために考えることにより備が生まれ、そのことが、自らの命を守ることにつながる。逆に、考えることをやめた時、命の危険にさらされるという。特に、私は日常から離れることについて共感する部分が多かった。日常から離れることで人はどれほど考え方が変わるのだろうかといった疑問があり、著者が冒険の末にたどり着いた境地ゆえの意見は大変説得力が有る。本書のタイトルである考えることを基に、次より、日常から離れることの大切さについて述べる。

私は本書の課題を書くにあたり、久しぶりに一人で登山してみた。北極、南極といった極地の世界での冒険ではないが、日常からは離れ、著者のように一人で冒険する際に自分は何を考えるだろうということに興味があったからだ。考えるという行為について改めて振り返ってみると、考えているようで日常に流され、考えること自体がストレスとなり、先延ばしにしているなという思いもあった。そこで、私が登山中に考えたことといえば、登りは汗だくで息が切れ、登ることだけに集中していたためか清々しかったが、逆に下りは、膝や脚のゲガに注意しながら登りほどの苦しさはないため、煩悩が騒ぎ出し、日常のイライラを反芻していることに気づいた。近場で往復5時間ほどの登山では、日常から離れたといえないのか、さほど考えることに変化はなかった。

その一方、私を含め多くの人は日常のストレスを旅行など、自分の生活している世界から遠く離れたところへ出かけることで非日常性を感じ発散している。さらに、人生に息詰まると、振り子が振れるように、環境を思いっきり変えたくなる衝動に駆られる。たとえば、サラリーマンであれば、会社を突然辞めるなど。けれども、著者は「自分が知っていた世界、当たり前だと思っていた日常を別の見方で捉える視点を持つ」ことが大事だという。「日常と非日常ではなくたくさんの日常を行き来出来る人は、豊かな視点を持つことができるだろう」と述べている。これはゼロイチの視点から、少しずついろいろな体験を重ねてグラデーションをかけてバッファーをもつことといえる。

ようするに私達は、場所や会う人を変えることによってのみ、非日常性を感じている。そこで、仮に、人と接するのが苦手な人が山に何ヶ月も籠もり、人と話すことがない生活が日常となれば、以前の日常に対して高い視座から見ることができ人生の幅が広がり、以前よりも豊かに暮らせるということだと思う。なぜかというと、「40日以上、生命のない北極海氷上で一人、行動を続けていると、全ての感覚が開く。五感が鋭くなり、気配を察知するようになる」と本書にあるように、日常使われていない器官が働き出し、普段押し込めている感覚が鋭敏になり、日常では得られない気づきを体験できると考えるからだ。結果として、高い視座を持つことでこれまでストレスでしかないと思っていた事象からも、陰陽における太極図ように反対の性質を感じることができるのではないか。

著者は自らの体験から「社会は北極と同じくらいに未知に溢れた世界だった。社会で新たに出会う人は極地で出会う新たな風景を見た時と同じ感動があるものだ。自分の知らない世界を見る感動は何も遠く離れた僻地だけにある訳ではなく身近にも存在しているものだ」と述べている。これは、裏を返せば、私達の視点が一箇所に固定され、視野狭窄の状態で自らどうしたら非日常を味わうことが出来るのかを考えてこなかったことになる。つまり、自らの内面を変化させるのではなく、外部環境を変えることを選択している。このため、これまで体験したことのない世界に脚を踏み出し、いろいろな体験を積むことが必要だと思う。

つまり私達は、自らの思いでたくさんの体験をすることで、著者がいう、自分が知っていた世界、当たり前だと思っていた日常を別の見方で捉える高い視座を持つことができる。そして、その結果として豊かな人生を送ることができると考える。外部環境ではなく自らの視点を変えることで豊かになれるのだ。さらに言えば、考えることをやめるということは人生という旅路を備えなしに歩むようなものではないか。長い道のりにどのような危険があるかわからないので考えることをやめてはならない。それが著者が脚を使って体験した答えであると感じた。
 
投稿者 AKIRASATOU 日時 
本書は日本で唯一の「北極冒険家」の肩書を持つ荻田氏が北極点、カナダ~グリーンランド、南極点にて徒歩単独行を行った際の記録や思考をまとめたノンフィクションである。本書を読むまでは著者について全く知らなかったため徒歩単独行がどれだけ大変なのかイメージが湧かなかったが、本書を読み著者の冒険の過酷さを知り、とても自分には真似できないと感じた。その一方で、難事業に立ち向かう際の姿勢・意識のあり方や思考など、自分の今後の仕事に活かせると感じた部分が多々あった。その中でも特に「結果ではなく、過程にこだわることが長期的に良い結果に繋がる」という点が特に今後の自分に参考になると感じたため、その点について考えたことを以下にて述べる。
 
まず事例の一つ目として、北極点無補給単独徒歩において過程に拘った結果、北極点というゴールには到達しなかったものの、北極へのより深い理解や新たな目標を見つけることに繋がった。荻田氏は本書第一章の北極点無補給単独徒歩において、食糧制限をして時間を作り出し、移動手段として持ってきたカヤックを捨ててまでゴール目指してきた。その甲斐あって、ゴールまでギリギリ到達できるかどうかという場所まで辿り着いていたにもかかわらず、仮にゴール出来たとしても自分自身が納得できる状態でのゴールとは言えないと判断し、中途撤退を決断した。冒険を生業にしているのであれば、ゴールしたという結果を優先しそうなものだが、そうはしなかった。P140にて北極点に到達しなかったからこそ北極についてより深く考え理解することができ、到達できなかった理由が明確になり、次回は到達できるイメージが湧いたこと、それにより新たな目標が見つかったと述懐している。
 
次に事例の二つ目として、カナダ~グリーンランドの単独行において過程に拘ったことで、誘惑に打ち勝ち悪しき前例を作らずゴールに到達できたことがある。本来進んではいけないクレバスのある方へ向かってしまったものの、引き返すための時間と労力を考えたら進むのも止む無しという状況に思えた。しかし、荻田氏は暫く逡巡したのち、引き返すことに決めた。そのまま進んでいたらクレバスに嵌り命を落としたかもしれない。先へ進むという結果を優先せず、悪しき前例を作らず過程を大事にしたことで、何事も無くゴールに到達できた。結果それは人類初の偉業というおまけがついてきた。
 
最後の事例は、挑戦でも冒険でもない難易度の南極点無補給単独徒歩行への挑戦である。ボクシングに例えると北極点への挑戦は世界ランク1位のマイクタイソンへ挑んだようなものであり、その挑戦により世界ランク1位を相手にした勝ち方を見つけつつあった荻田氏にとって、日本ランク10位レベルの南極への挑戦など取るに足らないものであった。しかし、北極への初挑戦時に知識としては知っていても、体験すると全くの別世界であることを味わったように、南極に関しても知識としては既知であるが体験としては未知であり、冒険家として新たな扉を開くきっかけの一つとして南極を直接体験するという取り組みを行った。倒すという結果を得たいわけではなく、どうやって倒すのかという過程を大事にし、今後の自分の新たな挑戦の糸口を見つけるための闘いに挑んだのである。結果だけを考えたら、行く価値もなかったであろう南極点への挑戦は新たなソリやジャケットの開発という試みが生まれるなどの付加価値がついてきた。また、本書に記載は無いがこの挑戦により荻田氏の知名度が上がったことで、その後の資金調達がしやすくなったのではないかとも思うのである。
 
以上を踏まえ、考えたことはサラリーマンとしていかに上司の指示や意向を踏まえながら、過程を大事にしていくかという事である。業務のすべてが自分の裁量で進められるもので構成されていれば問題は無いが、自分の意向や意見は脇に置き上司の意見を踏まえて対応しなくてはならない業務が発生することがある。今までは、上司の意見を優先し自分の意見を言わないこともあったが、今後は上司の意見は尊重しつつも自分がどう考えているか、どのように進めたいか、等について意見を出すことが大事だと考える。自分の意見をいう事は過程を大事にすることに繋がり、その時は自分の意見が採用されなかったとしても、長期的に見れば自分にとってプラスの結果が返ってくるだろう。また、結果を出すことにフォーカスして失敗した例として思い浮かんだのが、以前課題図書で紹介されたイノベーションオブライフの内容である。この本ではエリートが出世する(成果を出す)ために「一回だけだから大丈夫」と、小さな悪事に手を染めてしまった結果、大きな悪事に働いてしまい人生を棒に振った事例が紹介されていた。私も自分の仕事において「何が何でも結果を出さなくてはならない」という思考に陥ってしまったら、上記のように痛い目を見る可能性があることに気を付けなければならないとも感じた。
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、実行に移す前に考え続ける事で想定外を無くし、徹底的な自己分析と計画性に裏打ちがあるという事が他の冒険家とは異なっていると感じました。


このように荻田さんが考えるのも、すべてを想定内で終わらせたい、という強い意志があるからだと感じました。


冒険家には常にリスクが付きまといます。そのリスクを少しでも少なくするために、自分は今、危険な考え方をしているのではないか、という自分自身を俯瞰して冷静に評価する力も、持ち合わせています。


北極のマイナス20度の世界を歩きながら、時々、視野が狭くなっていないかと悩み、冷静な判断をしながら、自分を制御しています。すべての判断基準は計画であり、計画から大きく外れた時点で、想定外となり、危険な状況だから、退くという判断を下すのです。


なぜ、計画から外れる危険な状況を嫌うのか、それは冒険する事に対する本当の恐怖を、一番よく知っているからであり、実際の行動が計画から外れた時点で、危険な状況であるという事をよく理解しているからだと思います。


例えば、北極点無補給単独徒歩では、北極海で揺れ動く氷の上を歩くので、いつ死んでもおかしくない、恐怖の中で冒険を続けています。


氷上のテントの上で寝ていると、遠くで海氷が動く重低音の音のために安心して寝ることが出来ず、自分のテントが海氷崩壊に巻き込まれてしまうのではないか、という恐怖心を抑えながら、揺れが収まるのを祈っています。


冒険を続ける事で起こる、あらゆる危険な状況を想定して計画する事で、状況をできるだけ自分自身でコントロールし、自分が主体となって冒険を続けていると認識するために、想定内で終わらせようとしているのではないかと考えます。


実際の冒険している状況下で、判断を下すのは荻田さん自身です。事前に計画をするのも冒険をする荻田さん自身です。


危険な状況になり撤退するという判断を下す際には、今現地にいる自分が判断を下すのです。

もし、撤退した後の事について考えてしまうと、もう少し無理をしてでも続けてしまうというという判断をすれば、現状を判断する主体を自分の手元から放棄してしまう事になります。


本書でも、応援してくれる人が見えないプレッシャーとなり、退くに退けない状況の中で一か八かの賭けに出て、命を落とした探検家は多いと書いています。


自分の為の選択なのに、他人に判断を任せてしまう事になってしまうのでは、自分が行う意味がありません。


しかし、荻田さんのように命懸けの極限の状態でなくても、自分の周囲の人達はどう思うかを考えてしまい、自分の判断を置き去りにしてしまうのは起こる事です。


他人の視線を気にするあまり、自分で選択するのを放棄する事は、自分で判断の責任を持たない事にもなりますし、もし失敗したときには、他人が言っていたからだ、と他人の所為にしてしまうかも知れません。


そのような誤った判断をしないためにも、荻田さんのように自分は間違った行動や判断をしていないか、と徹底した自己分析と、計画に沿った冷静な自己判断が必要になります。


自身の視野を狭めて判断を放棄しないようにするためにも、判断や実行をする前に、計画性を持ち自分の判断や行動が誤っていないかを、立ち止まって考えていくようにします。
 
投稿者 Cocona1 日時 
私は、本書を通して、結果だけではなく過程も大事にする姿勢を学びました。

本書のメインは、極地探検家荻田さんが北極点への挑戦を撤退したときの話です。撤退の経緯の中で一番驚いたのが、まだゴールできる可能性があるのに、やめる決断をしたことでした。なぜなら、私なら決してそのタイミングでやめようとはせず、「行けるところまで行きたい」と考えるからです。

著者の決断の裏には、結果よりも過程を大事にする気持ちがありました。撤退を決めた最後の決め手は、P131の「俺は、このまま北極点に着いた時、嬉しいだろうか?」という自分への問いかけでした。その答えとして、「ゴールの喜び=結果」よりも「どうやってゴールしたか=過程」を優先し、撤退を決めたのです。

極地の冒険に限らず自分に置き換えても、この決断にはかなり意外性を感じました。自分の人生では、「結果良ければ全てよし」と、教えられてきたからです。本書は、そんな結果重視の考え方に疑問を投げかけてくれました。著者の意見に触れ、今までの自分は結果を中心に生きてきたと、痛感しました。

結果と過程のバランスについて、身近な例で考えてみます。少し前からですが、様々な体験がネット情報の答え合わせになっている、と言われています。著者のような極地の冒険と並べるのは気が引けますが、分かりやすいのは旅行です。

今は旅行前にネットで調べることで、実際に行ったときには既視感を感じることがしばしばあります。例えば、富士登山を計画する場合、山頂からの景色が知りたければ、動画でも写真でも、事前にいくらでも映像を目にすることができます。実際に富士山に登る意味は、事前に見た情報と自分が目にする情報が一致しているかを確認すること。それが答え合わせだと言うのです。

旅行が答え合わせだという感覚は、とてもよく理解できます。むしろ答え合わせをした結果、自分の体験に事前の情報の70点くらいしか魅力を感じられず、残念な気持ちになることすらあります。理由は簡単で、ネットで見ることができる情報は、富士山の数ある映像の中でベストに近いのに対し、自分の体験はその日その場限りで、それがベストの富士山に近い可能性は限りなく低いからです。

ここで、旅行を最終の行先だけで考える=結果だけを重視すると、ネット情報との答え合わせだけになってしまいます。すると、わざわざ行かなくてもよかったな、という結論にたどり着いてしまうのです。

ところが、同じ旅行でも本書に書かれているように、過程、つまりどう行くか、を大切にすると、それは他の人には体験できないオンリーワンになります。富士登山だって、様々なコースに、天気などのコンディションが影響するので、それぞれが全く違う旅です。このオンリーワンを楽しむことが、結果よりも過程を大事にする魅力だと言えます。

ここまでは旅を例に考察してきましたが、さらに思考を広げて、結果よりも過程を大事にする姿勢は、ビジネスにおいても大切だと考えました。昔はビジネスの世界こそ、結果が全てでした。売上・利益を増やす、財務諸表をよくする。それを目指して、全員野球をしていたのが古い時代です。しかし、結果だけを重視したために不正決算・欠陥商品など、会社に泥を塗るニュースはいくらでも目にします。

これからは、結果を求めるだけなら、法人としても一社員としても、機械に変わられていく時代だと思います。同じ結果に行き着く仕事は、どんどんAIが担っていくでしょう。

一方、過程や思いを大切にする姿勢は、人間にしかできません。もちろん、過程を大事にしても、結果が出なければ意味がないのは当然です。従って、特にビジネスにおいては、過程を大事にしながら結果を出せないと、機械に勝てない時代だと考えます。

結果重視のビジネスの例として、私はすぐにAKB48を思いだしました。当時から問題視されていましたが、あれこそ、CDの枚数さえ売れれば、過程は気にしない典型だと思います。結果だけを求めたことで、握手券や総選挙の投票券を抜かれたCDが大量に捨てられたり、リサイクルショップに叩き売られたりしました。

AKB商法は、不正決算のような違法性はありません。しかし、CDの売れた枚数と、その楽曲の評価はかけ離れていました。「それで売れて嬉しいのか?」。きっと内部で議論にはなったとしても、組織としてフタをしたのではないでしょうか。

最後になりますが、自分のこれからの人生においても、大事な場面で結論だけを求めてしまうことが想像できます。そんなときには、「そうやって進んで自分は嬉しいのか?」。荻田さんと同じ質問を自分に問いかけて、結果と同じくらい過程を大切に、進む道を決めたいと思います。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「著者は自由人であるが故に、人生の全てを決められるのだろう」

私が読後に感じたのがコレ(↑)である。大学を辞め、ふと見たテレビがキッカケで冒険家になった著者。就職もせず冒険家と言えば恰好良いが、一般のサラリーマンからすれば羨ましい対象かもしれない。私自身、大学時代はこれと全く同じ生活を送っていた。大学に行く以外の時間はバイトで稼ぎ、その金で大学が休みの間にフラッと海外に出かけるバックパッカー。勿論、著者のような命に関わる程の冒険では無いし、今から思えば自由であった。が、しかし本書は教えてくれている。自由とは何もしない、何も考えないという事ではない。自由だからこそ自分で考え、決める責任と矜持が必要だと。私が本書の中で最もそれを感じたのは以下の場面だ。

「それに、もし下りる選択をして、仮にうまく下までいけてしまっても、それもよくない。いずれ、同じような機会に遭遇した時に『前回はうまく下れたんだから、今回も行けるはずだ』なんて思考回路になる原因を自分でつくり出してしまう。悪しき前例をつくってはいかん、そう心を鬼にした」

タイトルの「リスク」、著者の厳しいリスク管理姿勢がここに集約されている気がする。仮にうまく下まで行けたとして「俺はやれたぜ!」と著者の中で甘いリスク管理が基準となってしまい、次回、似たような場面で自分がリスクを感じなくなる事態を著者はリスクと考えたのだ。逆に言えば誰に指摘される事も無いからこそ、全て自己統制しなければならない。その背景として「社会と繋がっていないことで感じる自由とは、自分がミスを犯せば自分が死に、全ては自分の責任である」とも語られている。そう、著者は自由である反面、社会と繋がっていない部分では孤独でもあると思う。

一方、タイトルの「カネ」についての記述部分も面白い。自由でいるためスポンサーと一定距離を保つ姿も描かれているのだが、私は読み始めてから「非正規の仕事だけでは資金的に不足するのではないのか?」と疑問を持っていた。それは推理小説における「謎」のようなもので、おかげで途中飽きること無く最後までワクワクしながら読めたのだが、一言でいえば著者は迎合しないのだ。スポンサーに感謝はしているだろう。が、必要以上に卑屈にはならない。だからスポンサーに配慮して判断基準がブレるような事も無い。これも自由に決断するために重要なポイントだろう。そして冒険家でいることはあくまで個の問題であることを考えさせられるのが以下一文である。

「しかし、私は毎回その軽量化の作業に時間をじっくりとかける。装備を全て見直すという意味もあるが、なぜ誤差程度しか削減できない軽量化作業に時間を費やすかと言えば、本当の目的が軽量化でなく『軽量化作業をしっかり行なった』という事実をつくるためだ 〜 軽量化の作業とは、私にとってはソリの重さを受け入れるための儀式のようなものだ」

重要なのは自分の納得度なのだ。それは二度目の挑戦で撤退した姿勢にも表れている。「今の時代における北極点無補給単独徒歩は、言うまでもなく難しい。それを実現させるのは、非常な困難を伴う。だからこそやる意義があるのだが、それほど難しい課題を、想定の範囲内で終わらせることにこそ最大の価値がある。このままゴールしてしまったら、それは実力でなく、運でしかない」とある。我々読者はその他の状況から「行けたんじゃね?」と思ってしまうのだが、著者の目的は「ゴールする事」自体ではなく、「著者自身にとって意味のあるゴールをする事」だとここで我々は理解することができる。

最後に、本書で印象に残った以下について考えてみたい。

「やるべきこと、やりたいこと、できることの三つが一致した人生とは幸せだ」

私は著者は三つが一致した人生を送っていると思う。一方、考えてみたいのは冒険家で無い我々も三つが一致した人生を送れるのではないか?という事だ。例えば私は現在、冒険家でもバックパッカーでも無いが、仕事や家庭において「やるべきこと、やりたいこと、できること」が出来ていると自分で感じられるのだ。バックパッカーは出来ないが、たまに海外出張でプチ冒険は出来る(って、今はコロナでそれも出来ないが、あと少しだから辛抱しよう!)。一方、仮に私が冒険家になっていたら結婚も子供を持つ事も難しかったと思う。経済的にも心の余裕的にもだ。大事なのは「やるべきこと、やりたいこと、できること」の三つとは自分にとって何か?を定義して自分を見つめ直すことだと思う。私の場合は社会の一員なので、誰をも配慮せず全て自分一人で決断する事は出来ない。が、仕事で実績を出し、顧客や社内の仲間に喜ばれ、家族の希望する事を実現して皆が笑顔になれる、のだとしたらそれ以上の幸せはあるだろうか?

そんな事も考えてみた1冊であった。
 
投稿者 akiko3 日時 
冒険で生き(食べ)ていける著者は特別なのだろうと思い、読み始めたが、
「自分の人生は誰のものでもなく、自分のものであることを信じられるか否か?」
「人間界の理屈である情熱や根性は、自然相手には意味はない。動物的、機械的に前進する」「自らの行為に責任を負うことができるか?」
「環境が招く危険は回避するべきだが、自身の困難には立ち向かうべきなのだ」
このような著者の経験や知識、技量や準備や心構えを知り、冒険とは博打ではなく『挑戦』だと腑に落ちた。

挑戦だから、できないことができるようになると楽しい。
自分の感覚を信じ、選択の自由と責任を繰り返し、危険は回避、幾度となく立ちはだかる困難には勇気をもって対峙し、自分を進化させる。

この著者は、元々、主体的だったから北極圏への冒険を引き寄せることができたのだろうが、1回の体験で満足せず、
「(なぜ冒険するのか?)やりたいからやる」という自分の感覚を大切に挑戦し続けてきた。
続行か撤退かというギリギリの決断の時には、着くという結果ではなく、どうやって着くのか?自分らしく向かうとは?という目的の大切さにはっと気付く。
人生という旅でも、岐路に立たされた時は、おのずと生きる目的、価値観や自分を深堀する機会だった。
同じではないか?

著者は冒険を通して生き抜く知恵や心や体を鍛錬している。
私も自分の人生から学び、自分の感覚を磨き、以前ほど右往左往しなくなったし、心や身体を整えることや問うことを鍛錬している。
これは、母の死を体験し、人生には終わりがあると実感したからでもある。

最近「うまれる」というドキュメンタリー映画を見た。
体内記憶(未婚の母で出産。「ママが悲しそうだったから笑ってくれるかなと思って生まれてきた」という子など)、18トリソミーで生まれてきた赤ちゃん(半数以上は生後1週間以内に死亡し、生後1年まで生存する割合は10%未満)が1歳の誕生日を迎えるまでの育児、不妊治療、死産、出産を通し、生命の神秘、うまれることの奇跡や生きている意味や目的を考えさせられ、”ただ生きている”のではない、”生かされている”との思いが込み上げてきた。
そして、もっと主体的に”自分の人生”を生きた方がいいと強く思った。

著者は旅の準備中に”荷物の軽量化を行った”という事実が、ソリを引く重さを受け入れる儀式だと表現していた。
もし、人生が”自分にとっての未知の挑戦をしたくて自分で選んで生まれてきた”と仮定するならば、今の現実が違ってみえないだろうか?
困難は想定内であり、ちゃんと備えてきている。
もし、思考停止で動けない今だったとしても、自分で決めてきたという主体性を取り戻せば、新たな一歩が出るのではないかと思う。

また、うまれるという映画を見て、人は簡単に、当たり前にはうまれていないし、著者の命がけの冒険を知ると、人は簡単には死なないとも思った。
そこに、何か人知を超えた意図を感じ『生かされている』という思いに行きつくのだ。
一方で、人は誕生と臨終は自分で決めているとも聞く。
母が亡くなる2日前に、夢で長いものとすれ違った。思い返せば、あれは巳年生まれの母だったのかも?と感じられ、急逝だったけど母が決めていったのかと納得している。


生命の神秘を思うと、現実的な主体的に生きて自己満足だけって自己中ではないか?もっと社会に還元しないといけないのでは?という葛藤もでてきたが、「自分の人生の目的が自分を生きること」ならば、その結果について先回りして思考を巡らす必要はないように思った。
著者が結果ではなく向かう方向という『過程』を探求してきた18年間は、準備期間だったように、極地にいかなくても新しい風景・人と出会えように、自分の力だけで生きているのではない循環の中を生かされいるのならば、人との共存により心が喜びで満たされ、次の未知なる挑戦への原動力にもなり、それでいて”主体的に”取り組める。
自分のままで自分が生かされる。
そう意図して、そう自分の人生を生きている。
人生という冒険の手ごたえと面白さと豊かさに改めて気づかせてもらえた。

最後に、昭和の良妻賢母であった母が逝ってしまい、子育てに人生を捧げた母にとって、その結果である私がどんな人生を歩もうが、母の問題ではなかったのだな。母にとっては、子育ての過程が幸せで大切な時間だった。
だったら、私も自分の人生の未知を求めて、今を味わいながら自分らしく歩むだけと丹田に力が入った読後感だった。
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
今月の課題図書『考える脚』で最も強く印象に残っているのは、著者の荻田泰永さんの北極探検が、単なる「趣味」から「仕事」へと抜本的に変化したプロセスが描かれていたことだ。

22歳から30代前半まで「アルバイトで資金をためて、北極へ旅する」というサイクルを繰り返してきた荻田さん。その彼のサイクルが変わったきっかけは、2012年、彼が初めて、北極点無補給単独徒歩に挑戦し始めた頃だという。探検費用が桁違いに高額になり、スポンサー企業から資金を集める必要が出てきた時から、荻田さんのスポンサー集めは始まった。

最初の北極点挑戦では、企業からのスポンサーがほぼ集まらなかった(P.276)にもかかわらず、荻田さんは徐々に企業の資金援助を受けられるようになっていく。その中で、彼の北極探検への意識も抜本的に変わっていったことが、本書から感じられる。それは、北極探検がもはや「自己満足のために行う趣味の旅」でなくなり、「人からお金を集めた瞬間に、自分の責任において死ぬことを全力で回避する義務がある」(P.284)という意識に変容したことを意味する。

確かに、スポンサー企業を付ける前の荻田さんも、あらゆることに自分で責任をとらなければならず、常に死と隣り合わせの旅を続けてきた。もし会社に所属していれば、会社の規則やスケジュールに縛られて自由を奪われるが、自分が体調不良で欠席しても、仕事でミスをしても、会社全体でカバーしてもらえるという保険が存在する。だが荻田さんは企業などの組織に所属せず、単独で北極を旅するという「マニュアルのない人生」を選んだため、持参品・ルート・スケジュール等、全て自分で計画・判断をする必要があった。北極探検という道の性質上、一瞬の小さなミスが命取りになりかねない、そんな緊張感を伴う冒険を続けてきた。その勇気だけで十分に尊敬に値すると、思っていた。

ここに、今度はスポンサーから集めた資金が加わる。すると、荻田さんの中で「このお金を活かす」という覚悟が芽生えていく。荻田さんは、自分の目標の「北極点到達」を成功させ、スポンサー企業は、荻田さんを支援したことにより利益を得るようにしなければならない。当然、荻田さんが失敗すれば、彼自身のみならず、スポンサー企業にも迷惑がかかる。

荻田さんがスポンサーからの資金提供を受けながら冒険を成功させていく姿は、「人からお金をもらい、応援され、それを社会に還元して貢献するとは、こういうこと」という鮮やかなケーススタディであり、「最後は荻田さんの人間力に惹かれたわけですよ!」という岡さんのメッセージ文(P.283)からは、「人から応援されるのは、高い人格を持つ人なのだな…」とも実感した。

ここで個人的に話になるが、私自身、「趣味」で始めたことを「仕事」に変えた経験を持つ。初めはビジネスにするつもりなど全くなく、自分の趣味と娯楽で教材を作っていたのだが、「それ、買いたいので、売ってもらえませんか?」と言ってくれる人が、徐々に増え始めた。

最初は、どうしたら良いか分からなかった。「え?こんなの、売れるの?」「お金を儲けるために、作り始めたわけじゃないのに…」「自分は大した実力も、知名度もないし…」と、オロオロするだけだった。

だが、(しょうおん先生のコンサルのお力添えもあり、)ある時から「これをビジネスにする!」と覚悟を決めた。もし自分の作ったものが社会に必要とされているなら、「自分なんて…」とオロオロしている暇などない。それまで、顔写真をほとんど出したことのなかった自分は、堂々と顔と名前を出して自作の教材を売り始めた。そこから、自分の周りのお金の流れが、徐々に変わり始めたように思う。

ここで荻田さんの話に戻るが、彼は「資金集めやスポンサー集めの際、相手への説得作業やプレゼンテーションをしたことはない」(P.284)と語っている。これこそ、セールスの極意だと感じる。優秀なセールスマンは「売り込んでいないのに、お客さんが感謝して買ってくれる」とよく聞く。

荻田さんは「説得」しているわけではないのに、なぜスポンサー企業がつくのだろうか?それはスポンサー企業が、北極探検家の彼に対して「夢や憧れ」を描くからだ。
荻田さんは「旅とは努力で行うものではない。」と、本書で二度も述べている。(P.238, P.287)これは本書の重要なキーワードだと思っている。確かに、人生では長時間の勉強や練習が成功をもたらすことが多い。だが、彼が言うように、本来「人生は努力して歩むものでなく、何かに憧れ、心躍り、主体性と好奇心を持って歩むもの」(P.287)であろう。この事実は「風の時代」である昨今、ますます顕著になりつつあると感じている。憧れやドキドキがなければ、血の滲むような努力など続かないからだ。

荻田さんの『考える脚』を読みながら思ったことは、自分には本書のタイトルとなっている「考える」=「熟考」が、圧倒的に足りていないということ。北極探検同様、人生にはマニュアルもなければ、正しい答えも、最短距離の描かれた地図も存在しない。時には周りの人の助けを借りて感謝を捧げながら、最終的には自分で熟考に熟考を重ねた結果、決断して進むだけだ。
北極の一面の平原を踏みしめながら「次にどんな景色に出会えるのだろう?」と心をわくわくさせている荻田さんに、自分の視点を重ねる。自己満足にならず、周りに還元できる仕事ができるように、歩き続けたいと思う。
 
投稿者 Terucchi 日時 
自分の脚で歩く

私はこの本を読んで、若かった学生時代に読んだ植村直己の「青春を山に賭けて」と沢木耕太郎の「深夜特急」を思い出した。当時、大学に入って実家から2時間掛けて大学を通っていたが、親から独立したい願望があった。その時、この「青春を山に賭けて」を読んで、植村直己が登山費用を稼ぐために、アメリカへ渡り、そのお金を貯めた、の話があった。そこで、自分は2年目から独力で稼いで一人暮らしをすることにした。最初は大変だったが、軌道に乗ると、一人で生きていくぐらいのお金は何とかなると思える自信が付いた(あくまで、大学生が本分であるが、当時は勉強よりもアルバイトだった)。自分一人が何とかなって来ると、次に一人旅に挑戦したくなってきた。その時に「深夜特急」を思い出し、沢木耕太郎は香港からロンドンまで行ったが、そこまでは無理でも、自分にできる範囲を考えて、オーストラリアの旅をした。海外旅行は初めてで、バックパックを担いで、何の計画もない旅だった。当時は円高ということもあり、相部屋であれば1日600円で泊まれる宿と1食100円で、1日1000円で過ごしていた。インターネットなどない時代だったので、本や現地の地図と口コミが便りだった。なぜ、自分ができたのか?それはそのようにやっている人の話を聞いて、やっている人がいるのであれば自分もできるはず、という考えがあったからだった。結局、やってみると何とかなるもので、その後、中国やタイなども旅をした。この本を読んでいると、当時のドキドキ・ハラハラ感が甦った。当時、私は必ずしもイケイケだった訳ではない。無計画であったが、夜は動かないなど、慎重さもあり、正直言って怖さもあった。では、なぜ挑戦したか?私は自分の脚で歩きたかったからだ。ツアーで行ったり、下調べするよりも、現地で自分で調べて歩きたかったのである。単なる自己満足かも知れないが、自分でやることの達成感は自分にしかわからないところは、この本を読んでとても共感した。

現在、若かった時は仕事含め海外へ行くことが多かったが、子供が生まれてからほとんど行かなくてなってしまった。しかし、5年前に、長期休暇を取って、久しぶりの海外旅行へ行った。カンボジアとベトナムの一人旅で、また1泊1000円の相部屋の安宿旅行だった。若い時と違う点は、限られた時間の旅だったので、無駄にしたくない気持ちで、事前にネットで調べていた点である。若かった時の旅は現地に行かなければわからないことが多く、現地に行ってから情報収集のスタートだった。しかし、今回は事前に調べたため、計画して計画通りに進んだ。情報も苦労せずに、ググれば調べることができ、自分の居場所もGoogleマップでわかってしまう旅だった。初めて旅した時とは違い、ハラハラ・ドキドキ感が少なかった。当然と言えば当然であろう。では、それら文明の利器を使わなければ良いのでは?という話になるのかどうか?おそらく、そういうことではないと感じる。時代が違ってしまったと感じたのだ。極端な例で言えば、現代文明の中で原始時代と同じことをしてみることは無駄だという感覚と同じであろう。この本でいうところの観光地化した南極で南極点を目指すことと同じであると考える。昔は南極へ渡るのも、民間の会社がなく、軍の力を借りてであったが、今は民間会社があり、誰でも近くまで行くことができる。スタート地点が違う。そして、ガイドを雇えば誰でも行けるようになった。しかし、それが悪いということでもないのだと思う。

ところで、この本の中(p308〜313)で、著者は『やるべきこと、やりたいこと、できることの三つが一致した人生」として、若い人を連れた北極圏への旅を計画している。自分には何かないだろうか?と考えてみると、何も動いていない訳ではなく、自分もやっていることがあることに気づいた。それを書いてみる。先のカンボジアの旅では、新たな出会いによって、違う気付きと行動につながった。その旅では、泊まっていた宿で、現地でNPOとして、小学校を作って運営している日本人に会った。宿で話をして、次の日にその現地の小学校へ連れて行ってもらった。その人は、現地の小学校が遠いため、通うことが難しいという子供たちのために「子供たちの笑顔を見たい」という理由で小学校を作ったと言っていた。作ってしまえば、それでゴールではなく、その後の現在の運営も大変だとのことである。その人は日本とカンボジアを行き来して、輸入雑貨の販売などを経営して、その利益から学校の運営費用を賄っているのだ。このようにやっている人を見て、何もしていない自分に何かできないかを考えてみた。仕事を持っている自分には、この人のように海外へ行って、やる訳にはいかない。そして、考えた結果が、今やっている外国人向けのボランティアガイドである。私は名古屋に住んでいるが、休日にボランティアで、日本へ来た外国人に対して、英語で名古屋のガイドをしている。そのように、考えた経緯として、私は旅が好きである。旅では幸運で、いろんな人に助けられた。同じ人ではないが、今度は自分が日本できることとして考えたのが、このボランティアガイドである。思い付いて、日本に帰って調べてみると、住んでいる名古屋に既にあり、そこへ申し込み、今その一員となって活動している。やってみると、最初は全然喋れなかった英語も、毎回やっていると何とかなっていくものである。毎週やって、100回も越えれば、何とかなている(と思う。笑)。5年前に始めてから、コロナによって、観光客が激減したものの、今後観光客も増えることが予想されるため、このボランティア活動に今後も力を入れて行きたいと思っている。私にとって、何もやっていないことではなく、既にやっていることがあることに気づいたのだ。

以上、この本を読んで、自分の脚でボランティア活動に至った経緯を再確認せてもらい、この本に感謝する次第である。
投稿者 msykmt 日時 
"まずは歩き出す"

自分にとって新しいことをはじめようと思い立ったときにどうするか。まずは、その望む方向に向かって、四の五の言わずに、歩き出す。つまり、行動を起こすことが肝要である。本書を読んだ私は、そう結論づけた。とにもかくにも、進む方向を決めた上で、歩き出す。そのことで、当初は思ってもいなかった事態が起こり、道がひらけていくのである、と。

なぜ、歩き出すことが肝要であると考えたのか。それは、まず望む方向に向かって歩き出すことにより、たとえ当初の目的地にたどり着かなくとも、充実した日々を送れるようになると考えたからだ。ではなぜ、歩き出すことにより、充実した日々が送れるようになると考えたのか。それは、本書から読み取れる。どこの部分で読み取れるのかというと次のとおりだ。著者は、大学中退後にあり余るエネルギーをぶつける先として、極地冒険を見出した。そして、その第一歩を踏み出した。それをきっかけに、自身の求めるものがなにかを歩きながら考え、行動を続けた。そして、極地冒険家としてスポンサーがつくまでになった。さらに、当初の目的地としていた北極点への到達にはまだ至らないものの、自らが極地への旅に若者を引き連れていくようにまでになった。つまり、自らが起こした個人的な行動をキッカケに、冒険家としての活動が、社会性をもつまでに昇華されたのだ。このような社会性をもつまでに昇華された活動をしている著者の日々。それが充実していないわけがない。だから、まずは歩き出すことが、充実した日々を送れるようになるには必要なのだ。

このように、まずは歩き出すことにより、その途上に身を置く。そのことにより、当初の目的地にたどり着かなくとも、充実した日々を送れるようになる。そのようなことを説くのは本書だけではない。本書以外で私が連想したのは、書籍「アルケミスト」と書籍「嫌われる勇気」だ。

前者の「アルケミスト」では、主人公の少年が次のように語るところから、そのことが説かれている。

「僕が真剣に自分の宝物を探している時、毎日が輝いている。それは、一瞬一瞬が宝物を見つけるという夢の一部だと知っているからだ。本気で宝物を探している時には、僕はその途中でたくさんのものを発見した。それは、羊飼いには不可能だと思えることに挑戦する勇気がなかったならば、決して発見することができなかったものだった」

つまり、少年は宝探しをはじめたことによって、その宝物を見つけるという夢の過程で、たくさんのものを発見している。だから、少年が羊飼いのままであったならば味わえなかったくらいに、毎日が充実している、ということだ。

そして、後者の「嫌われる勇気」では、行動様式である「キーネーシス」と「エネルゲイア」というものの対比によって、そのことが説かれている。たとえば、北極点への到達が目的であるならば、到達できなかった時点で失敗とみなすのが「キーネーシス」的な行動様式。一方で、極点の到達が目的ではなく、到達への過程そのものが目的であるならば「エネルゲイア」的な行動様式だという。それは、たとえば、ダンスや旅、セックスのように、到達点にではなく、むしろ、そこへ到達するまでの過程そのものに価値があるとみなす態度である。つまり、「エネルゲイア」的な行動様式であれば、到達への途上にある、いまこの瞬間から充実した日々が送れるというわけだ。

ここで、私自身をふりかえる。私は副業をはじめようとしている。なぜならば、このままサラリーマンの仕事だけを続けるよりも、副業をしたほうが、充実した日々を送れるように思えるからだ。しかし、そのための行動を起こしているのか。その答えは否である。ではどういう状況かというと、何年も前から副業をはじめようと思っているものの、副業の選択肢は一般的にどういうものがあるのか、それはどれくらい儲かるのか、など手近に集められる情報をみるだけにとどまっている。つまり、具体的な行動を、なに一つ起こしていないのである。

では、そのような状況から、一歩を踏み出すにはどうしたらよいか。それは、私が副業をはじめるのに向けて踏み出す一歩は、著者が体験したような、下手をすると命を落としかねない一歩ではない、ということを理解することだ。つまり、副業に向けて踏み出す一歩には、少なくとも身に危険が生じるようなリスクはない。だから、やたらめったら踏み出しても、準備不足によって命を落とすことも、凍傷になる可能性もないのだ。そう考えると、やたらめったら踏み出さないことのほうが、もったいなく思えてくる。だから、まず一歩を踏み出すことによって、充実した日々を送れるようになりたい。
 
投稿者 aguroig 日時 
 北極冒険家の荻田泰永氏の自叙伝。本書で一番感銘を受けたのは、やはり引き返す勇気と決断である。
 本書は無補給単独徒歩挑戦への三大冒険録。一つ目は北極点への無補給単独徒歩、二つ目はカナダからグリーンランドへとスミス海峡を横断して踏破する無補給単独徒歩、三つ目は南極点への無補給単独徒歩到達への冒険記である。
 これらの冒険の中で2度も冒険の途中で撤退している。どちらの冒険も佳境まで進んだところで、あともう少し」頑張ればというところで引き返しを決断している。ここまで散々苦労して辿ってきた道のりを、断腸の思いであったろうに。
 その時に何が最も重要なのかを見極めるのだが、その根拠に感銘を受けたのである。それは何かと言えば、
想定外の事態を乗り越えて目的達成しても、”実力ではなく運でしかない”、撤退するのはそれが”美しくない”から。

 著者は、考え方としても行動形態としても、想定外の事態とか絶体絶命のピンチをなんかしてクリアして前進していくという状況を真っ向から否定している。
 無補給単独徒歩の最も難しいところは、途中修正がほとんど利かないことであるという。一人でかつ徒歩で持ち運べる物資の量には制限があり、そのため最低限・最軽量の物資を厳選し調整しなければならないからである。そうなると当然、想定外のための余分な物資はほとんど持ち運べないことになり、想定外の事象が発生すること自体が撤退を余儀し、正に、想定の範囲内で終わらせることにこそ最大の価値がある、ということなのである。
 想定外の事態や絶体絶命のピンチを乗り越える身体能力や一瞬の決断などというものは、それに頼らざるを得なくなった段階で冒険としては失敗で、本当の成功とは、すべてが想定内のうちに終わること、であり、想定外の事態が発生してそれをなんとか乗り越えて目的を達成したとしても「それは実力ではなく、運でしかない」と言い切っているのである。

 無補給単独徒歩なのだから、緊急事態が発生しても誰も助けにいけないし、だからこそ全ての行程が想定内でなければならないわけだが、そうは言っても想定外の事象は必ずと言っていいほど発生する。
 一方で、冒険・探検には資金的な制約もありスポンサーの意向や要求のために結果を出す必要もあり目標未達に対するプレッシャーもある。さらに過酷な環境での無補給単独徒歩を何か月以上も続けていて、撤退してもう一度やり直すなど決してやりたくはないはずである。そういう状況の中で、数々の想定外事象に対処して進んでいくのだが、最終的には
”美しくない”という理由で撤退を決意する。
 最早ここまでくると成功とか失敗の結果や良否を超越して冒険家としての哲学である。2度の撤退決断の時も、決してもうどうしようもない、という状況ではなかったし、危険
だけど行けるかもしれない、まだ可能性は残されているという状況で、美しくないという理由で撤退を決断するのである。この決断にはしびれる限りである。

 このことを自分の身に置き換えて考えてみると、こういう状況はよくある。例えば、ビジネスプロジェクトにおいて、進むべきか撤退すべきか、ここまで苦労してきたのに今までの投資を水の泡にするのか、このまま進んでも赤字が増えるだけで回収の見込みはあるのか、などの不採算プロジェクトの撤退決断である。
 一か八かのリスクを冒せば目標が達成できるかもしれない野心、嫌な予感がして躊躇する直観的判断、正確に状況分析ができているかの葛藤、判断ミスによりこれまで積み上げたものを失う不安、などにより、結果を重視する余りリスクを冒してしまうこともあるし、やるべきではないとわかっている選択肢を選んでしまうこともある。

 ということで、ビジネスの世界では実際の命のやり取りはないが、判断を一歩間違えれば死に至るかもしれない冒険家の心の葛藤と決断を下すまでの考え方、極限の状況に挑む時に重大な決断を下す冒険家のプロセスを知ることができたのは深い学びであった。

 最後の決断は己の哲学、己の信念・美学で結論を出す、なんとも素晴らしく羨ましい限りである。その境地に自分も到達したいと思う。多くの(ビジネス上の)死地を乗り越えた先には、その境地があるはずだと信じつつ筆をおく。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“できることを考え、実行し続ける”

著者は極地に行く前に、必ずソリに積む装備を何日間もかけてフル点検し、グラム単位での軽量化を図るという。なんと、持って行くシャープペンの芯の本数や歯ブラシの柄の長さを調整することまでして軽量化を図るのだ。この軽量化は、ソリの総重量100㎏に対して僅か100g程度という少ないもので、著者の言うとおり、物理的、体感的には殆ど意味を持たない。ただ、著者は軽量化作業をしっかり行ったという事実をつくることが重要なのだという。なぜなら、現地でソリの重さに苛立ちを感じた時、あれだけ軽量化を図ってこの重さだから仕方ないと思えることは、精神的、心理的な負担を軽くしてくれるからだ。この極地冒険において、後々に後悔しないためにその時、その時にできることを考え、実行することは、人生に置き換えても非常に重要なことになってくると考える。なぜなら、人生において困難に遭遇した時もやるべきことをやっていたのだから仕方ないと思えることで、精神的な負担が軽減されるに違いないからだ。ただ、私の場合、この当たり前のような考え方や振る舞いを大してできていないのが現状だ。それは何故なのだろうか。私と著者では何が違っているのだろうか。

まず、著者の価値観や人生に対する姿勢はどのようなものなのかを考える。一言で言うならば、考えるということを非常に重要視している人だと私は思う。大学中退後に自身の人生において何ができるのか、極地冒険に行くにあたり何ができるのか、現地で困難に遭った時に何ができるのか、将来において何ができるのかなど、とにかく著者は人生や現実に向き合い、常に考え続けているように見える。そして、著者もまたその考えることの重要性を本書のタイトル『考える脚』に込めているとブログ上で述べている。本書のタイトルはパスカルの『パンセ』にある“考える葦”を意識していると言う。パスカルが人間は自然の中で最も弱い一本の葦に過ぎないと指摘するように、北極を歩く著者もまた、吹けば飛ぶようなとても弱い存在である。けれど、その状況の中でも、著者は対処方法や解決策を考え続け、困難を克服することで可能性を広げ続けることが人間にはできるのだと主張する。人生においても、その時、その時にできることを主体的に考え続け、実行することが道を拓くのだと著者は読者に伝えたいのだと私は思う。ただ、著者が本書の中で見せるレベルで主体的に考え続け、実行することは、私には言うは易く行うは難しなのである。きっと、私と著者には本質的な違いがあるのだろう。

その答えは、本書の最後に書かれていた。私と著者とでは、人生における目的と手段の捉え方が真逆だったのだ。著者は極地を冒険することは、あくまでも手段であって、目的ではないという。目的は過程の中にあり、北極点や南極点は、何の意味もない場所で、どこかに辿り着くかではなく、どう辿り着くかが重要なのだというのだ。主体性をもって能動的に考え、実行することこそが、目的なのだと。この著者の目的は過程の中にあるのだという主張は私の考え方にコペルニクス的転回をもたらせた。なぜなら、私のこれまでの考え方は、例えば、お金持ちになること、会社で出世することという人生の中での着地点が目的や目標になるのであり、そこに辿り着くための手段として主体的、能動的に考え、実行することが良しとされるというものだったからだ。ただ、確かに辿り着く場所を目的とするのではなく、如何にして辿り着くまでの過程の質を上げるかを目的にするならば、徹底的なソリの軽量化、現地調査、科学的な知識の習得、体力作りという著者の振る舞いも腑に落ちる。この著者の目的の捉え方が傍から見ると尋常ではないレベルで、その時、その時にできることを考え、実行している姿を生み出しているのだろう。

最後に、重要なのはあくまでも何を達成するかの結果であり、どのような過程を経るかは特に問わないという考えの危険性について考える。ちょうど今、世の中では人気芸人が周囲の知り合いを巻き込みながら数億円規模の投資詐欺に遭っているのではないかという疑いが持たれている。これは、お金を得られるという結果が出るのであれば、その過程はどうでも良いと考える人の典型例だと思う。これらの人は、今現在とても後悔しているのではないだろうか。なぜならば、人任せにして自身の資金が、自身の意思の届かぬところにいったしまったからだ。言うならば、生殺与奪を他者に委ねているようなものだから。私としては、今後このような立場に陥らないように、その時、その時に自身できることを考え続け、実行していこうと思っている。

~終わり~
 
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投稿者 masa3843 日時 
本書は、単独徒歩により数々の偉業を成し遂げた冒険家の著者が、自身の冒険体験を語りながら、リスクマネジメントの考え方や資金調達のリアルについて解説した本である。著者は、本書の冒頭で「言葉では言い尽くせないほどの恐怖感」について語る。さらにP50では、「来たくてこの地にやってきたくせに、始まると帰りたくて堪らない」とも話している。命の危険を感じるほどの冒険行に臨む萩田氏は、危機に瀕した時だけでなく、開始直後から言葉にできないほど恐怖を感じ、帰りたくて堪らないという気持ちになっているのだ。こうした著者の率直な内面に触れて、私はシンプルに「なぜそこまでして冒険を続けるのだろうか?」と感じた。本稿では、著者がなぜ冒険を続けるのか、その理由について掘り下げてみたい。

最初に私が考えたのは、社会的な名誉が、冒険を続ける動機になっているのではないか、ということだ。しかし、本書を読み進めていくと、著者は冒険を通じて有名になることや、社会的に認められることを望んでいるわけではないことが分かる。南極から日本に帰国した空港で報道機関に声をかけられても、まさか自分のことを取材にきているとは考えなかったのだ。自身の帰国に合わせて、記者が取材にくることを想像もしてなかった萩田氏は、世間からの注目を欲しているとは考えにくいだろう。また、「世界初」や「日本初」にそれほど拘っていないことも、社会や外部からの承認欲求が薄いことを表している。例えば、北極のグリスフィヨルドからシオラパルクまでのルートを単独徒歩行で世界初踏破したことについても、「初だろうが何番目だろうが、それはどうでもよかったので気にしてなかったのだ」と語る。さらには、南極点の無補給単独徒歩を決めた際も、日本人として成功例がないことについては「どうでもよかった」とまで言い切っている。萩田氏は、本書の中で「やりたいからやるのだ」とも言っており、あくまでも内発的な動機付けで冒険をしていることが分かる。

では、萩田氏が冒険を続ける理由は何なのか。私は、2つの理由があると考えた。1つは、自身が見たことのない世界を見るためだ。未知の経験をするため、とも言える。ここでいう「未知」とは、あくまでも主観的なものであり、世界にとって未知かどうかは、あまり関係ない。萩田氏は、2015年にスタート地点をロシア側に移して北極点挑戦を実行しようと考えたところ、以前のような情熱が湧いてこない自分がいたという。これはつまり、同じような難易度の同じような場所における冒険行では、これまでのようなモチベーションが湧いてこなかったということであり、逆説的に自分にとって未知のチャレンジでなければ、そこまでの強い気持ちになれないことを示している。さらには、「自分の手によって世界が広がる実感こそ、ここ(北極)にやってくる理由の一つだ」とも語っており、やはり自身で未知を切り開く経験こそが、萩田氏にとって重要なのだ。

2つ目の理由は、達成後の充足感を得るためである。印象的だったのは、グリスフィヨルド・シオラパルクルートでの冒険行を終えた後、ゴールであるシオラパルクで大島さんが焼いてくれたジャコウウシの肉を食べたシーンだ。萩田氏は、肉の美味さを堪能し、心の底から幸福感を感じている。目的地に着いた安堵感、やり切った充実感、美味しい食事を取れる幸福感。こうした全ての感情が合わさった達成後の充足感は、命を危険に晒して、何度も諦めたくなるような厳しい冒険行だからこそ感じることができるものだ。萩田氏は、冒険の最中に様々な負の感情に支配される。前述した恐怖感に始まり、不安や悲壮感、そして絶望感などである。本書の中では、冒険中ソリに腰掛けて涙を流す姿も描かれている。こうした負の感情を感じ続けながら、自身を奮い立たせ足を前に進めることは、私達の想像を絶する苦しさがあるのだろう。そうした冒険行後の充足感は、言葉で表現が難しいぐらいのものなのだと思う。

こうした2つの理由について思いを巡らせてみると、北極や南極のような極地のおける冒険行でなくても、程度の違いこそあれ、この2つを得ることはできるのではないか、と思い至った。新しい未知の世界に飛び込み、これまで経験したことがない新しい物事にチャレンジすること。こうしたことは、年を重ねるごとに心理的には難しくなるものの、自分で意識さえしていれば、冒険家でなくても可能だ。また、苦境や困難に負けず、決めたことを最後までやり抜くということも、同様である。人間は経験を重ねることで、苦境や困難に直面する道をできる限り避けて、安全・安心な道を選ぶ。こうした本能に抗って、敢えて苦難の大きい道を選択していけば、達成への道程は難しいものになる一方、達成後の充足感は、平坦な道よりも大きくなるはずだ。私達も、日常生活の中で冒険家のような生き方をしていくことは可能なのである。こうした冒険家マインドを持ってチャレンジし続け、そのことによって得られる便益が確かなものになれば、私達も萩田氏のような生き方ができるのかもしれない。
投稿者 str 日時 
考える脚

『行ける自信がなければ挑戦をしないが、行ける保証ができてしまったらやる意味を失う』

知識や経験、己の肉体と精神力を糧に培った“自信”は必要不可欠としながらも、達成するための道程やリスクを軽減し、出来る限り目標地点到達までの可能性を上げようといった思考には至らないものかと感じてしまう。徒歩での北極点到達など、それだけで十分過ぎるほど偉業なことだと思うが、ペアでもチームでもなく単独での極地踏破に拘る意味は何なのだろうか。

以前、インタビューの中でなぜご自身と同じようにベテランの方と一緒に挑戦しないのかを問われた荻田さんは「二人だと行けちゃうからやらない」といった感じで答えていたのを見たことがある。そこまで行くことが目的であるはずなのに矛盾していると思ったが、そもそも荻田さんの挑戦は、旅行や現地調査といった目的地へ辿り着くことを主としたものではないことを痛感した。これが旅の一環ならば移動にしても効率よく快適なものを選択するし、道中の寄り道にしたって旅の醍醐味として楽しめるものだろう。冒険家の方はそういった乗り物や快適さに頼らず、己が身一つで辿り着くことに価値を見出しているように見えていたものの、それでもリスクは出来る限り排除してから臨むのが普通であると認識していた。

荻田さんの場合は「誰かの所為で酷い目にあった」とか「誰かのお陰で上手くいった」といった干渉が一切なく、自身で判断を下すしかない。“行ける自信”も“死なない自信”もあるのかもしれないが、それと同様に“行ける保証”も“死なない保証”も一切ないのだ。たとえ命からがら到達したとしても、運よく何事もなく到達できたとしても、それはきっと荻田さんの求める結果ではないのだと思う。自分で試行錯誤し、自分で判断をすること。そんな自由にこそ意味がある。納得できない到達ならば、納得のいく撤退を選択できる人物なのだろう。

何かから解放されるとか、好き勝手できるといった単純なものではなく、全てが自己責任であり、自己満足に過ぎないとしても、試行錯誤の末の納得いく決断と結果なら、それは究極ともいえる“自由”の形なのだと教えてもらった。
 
投稿者 vastos2000 日時 
著者の荻田氏は大学を中退し、特に人生の目的はなかったが、ほんの偶然から冒険の世界に身を投じるようになる。北極点無補給単独徒歩などを通じ、『やるべきこと、やりたいこと、できることの三つが一致した人生とは幸せだ』と思うようになり、「やるべきこと」は『自分が若者たちをつれて北極を歩く』ことであると思うに至る。(p308)ある。
どうやってそのような考えにたどり着いたのか、そして私の人生においてはそれら三つのことが何なのか、考えた。


荻田氏は2012年と2014年に北極点挑戦、2016年にカナダ~グリーンランドの徒歩による単独行、2017・2018年に南極点挑戦を行っている。これらは荻田氏の「やりたいこと」である。
北極点の挑戦については、本書では2014年の2回目が中心に書かれているが、荻田氏は、ただ、北極点にたどり着くのではなく、『事前の想定内でたどり着く』ことを目指す。どこ(北極点)に着くことよりも『どう着くか、それこそが問題だ。』と考えている。 (p131)
また、冒険に対して私が思うことは、「極点や高山に徒歩や無補給という制限を課して到達できたとしても、それがすぐに社会の役に立つことではない」というものだ。その冒険の際に使用されたウェアや道具のメーカーにとっては宣伝になるかもしれないが、社会全体から見ると、さして影響はないと思う。
だが、荻田氏は『社会的に無意味な行為と思われるものでも、それが個人的にも無価値である訳ではない。社会とは個人の集合体であるからには、一見すると無意味な行為も、個人の価値を追求していくことで、やがて伝播波及する力を得て、その行為の後に社会的な意味が与えられる瞬間が訪れるはずだ。』 (p166)と考えている。


荻田氏は冒険を通じて、「できること」の範囲を拡げている。今までに<遠くに行って帰還する物語>として、『孤高の人』(新田次郎)や『神々の山嶺』(夢枕獏)などを読み、登頂を断念する決断は大きな意志力や勇気が必要だと思っていた。
しかし本書の中で『退くのに勇気は要らない。退く時に必要なのは、客観的な妥協だ。妥協できず客観性を失った奴から死んでいく世界である。勇気が必要なのは、前進する時だ。困難とは、自分の内にある。困難を乗り越える時にこそ、勇気が必要なのだ。』(p137)とある。
こんな考え方をする冒険家もいるのだなぁと思った。
到達困難な場所を目指すには、強烈な目的達成意欲と強靱な意志力が必要であり、であるからこそ、撤退や中途で断念することも意志力(勇気)が必要だと、私は思っていた。「やばいと思ったら撤退すれば良いのに」と考えられるのは、自分が第三者の立場で安全な場所から見ているからだと思っていた。生還すれば次のチャンスは得られる。カネはリロード可能だが、命は一つしかないのだから。
だけど、普通の人ではやらない、できないことをやる人はそこが違うんだろうなと思っていた(そして失敗した人は名を残せない)が、荻田氏は冒険の当事者であるのに一歩引いたように、『客観的な妥協』という言葉を放つ。冷静に自分の「できること」を把握しているように見える。


荻田氏はただ極点を目指すのではなく、<無補給単独徒歩で事前の想定内での到達>という条件を自ら課すというこだわりを持って冒険を行うという「やりたいこと」をやり、それら冒険を通じてできること(冒険の技術や知識)を拡げてきた。そして、そのこだわりのためか、すでに北極点到達に大した価値を感じなくなり、次のステージを見据えていた。南極点を目指す冒険の終盤、次の冒険を考えながら歩いているが、そこで自らの「やるべきこと」を考える。
ここまでの冒険でも、スポンサー企業など支援者がおり、独力で冒険をしていたわけではないが、これからは若者たちと一緒に冒険することを考える。<自分の冒険>でなく、<私たちの冒険>を考えるようになる。だがそれも自己満足であるという。
究極的には、他人のためにすることでも、自分がそうしようと決めてやるのであれば、それは<自分がやりたいからやる>ということであるが、それで他の人も幸せになるのなら、自分以外の力も得られるのだろう。そして、そういった類いのことが「やるべきこと」になるのだろう。


ここで私自身のことを考えると、大学卒業時はやりたいこともハッキリとせず、なんとなく就職しなければいかないものと思って働き始めたが、最近ようやく「やりたこと」が見えてきた。しかし、まだ「やりたいこと」をうまく言語化し一言にまとめることができない段階だ。今の仕事(会計、財務、経理職)も元々やりたくて始めた訳ではなく、異動によってやることになったのだが、意外とできてしまった。決算が終わり、一息ついて、なぜできたかを考えたが、私は新しいことを学ぶのが好きなのだろう。併せて自分のキャリアについても考える時間があったが、現状、「やりたいこと」は「業界のプロになる」ことで、何か一つの職種を極めたいというわけではない。つまり、スペシャリストというよりもゼネラリスト志向である。
そして、「できること」=「集客、企画、営業、IT、簿記会計」だということがわかってきたので、次は「やるべきこと」を考えたい。そのために、できることを拡げ、やりたいことの輪郭をよりハッキリとさせ、それが一体誰の役に立つのかを考える。それが正しければ、きっと周囲からの支援を得られるだろう。
本書を読む前は、撤退することの意志決定が主題の本かと思っていたが、実際に読んでみると、目的を達することと、幸せになることについて書かれた本であるという感想になり、ちょうど私自身の最近の関心事にも結びつく内容でタイミングが良かった。
 
投稿者 3338 日時 
大学に進学はしたものの、そこで打ち込むものを見つけることができず、自分自身を見失ってしまう学生が大勢いる。ある者はそのまま惰性に流されて、就職してその場に価値を見出せず、流れのままに生きて行く。ある者は就職もできずに底辺を彷徨う。荻田氏もそんな若者の人であったようだ。溢れるエネルギーを持て余し、どこに向けていいか分からない状態が続き、大学も中退するがズルズルと惰性で大学にはに行き続けるよりよっぽど潔い。

そして、彼は運命の出会いを果たす。彼の中でその冒険家は溢れるエネルギーを向けたいと思った方に向けている。「自分もこの持て余しているエネルギーを、納得できる方向に向けることができるだろうか?」彼の中で希望が膨らみ、その希望が彼を行動に駆り立てた。未知の世界を知ることにエネルギーを振りむけ、自由でい続けることが荻田氏の望んだ生き方だった。

次の年から一人で行動を開始する荻田氏が直面したのは、全てが自分の思い通りにならない自然を相手に、理不尽さを受け入れざるを得ない世界だった。

「あれだけ軽量化してこの重さなら仕方ない」と納得するのか「なんでもっと軽量化しなかったのか」という後悔をするのか。この選択の意味はどこにあるのだろう。例え100gしか軽くならなくても、頭が千切れるほど考えた結果であれば受け入れるしかない。あらゆる可能性と状況を踏まえて、どれだけシュミレーションして、考えに考え抜いた結果だから受け入れざるを得ない。そこまで考えるからこそ、何が起ころうと受け入れる覚悟ができる。

少し前にTOP3%のプチセミナーを受けて、考えさせられたことは自己管理の甘さであった。時間の管理もタスクの管理も思いの外ままならない。そしてそれをなんとかしようとして、いろいろと模索している自分がいた。しかも中途半端で、まったくできていないわけではないが、やってはいてもまだまだ甘いというレベル。この辺りをもう少しなんとかしたいが、どうしたものかと悩み続けていた。

副業のライティングを優先すると、家事がおろそかになるのは当然のことだし、その他にも決めているタスクもある。農作業は最近暑いせいもあるが、ほとんどできていない。いまここでもっと効率のいいやり方を考えなければ、これ以上先には進めないところまで来ている。

ところで、普段から私は選択をする時や困難にあった時に、荻田氏のように考えていただろうか?考えていないわけではないが、考えがもっとずっと甘いと言わざるを得ない。最終的に責任は自分にあり誰のせいでもなく、自分で責任を取るつもりではいる。間違っても人のせいにはしないし、もっと考えなければと思ってもいる。ただ今まで頭がちぎれるほどに考えて行動してきたか?と問われれば、答えに窮してしまう。

今回の著者の荻田氏が臨むステージは死と隣り合わせだが、私は原稿の締め切りを落としても死にはしない。それなのに、私には仕事を振られたり、記事の分析を依頼されたりすると、それができなければ死にそうな気持ちになる。相手の希望に添えなかったり、売り上げに繋がらなかったりしたら、どうしようという気持ちが先に立つ。その気持ちがあるからこそ、必死で考え価値のある仕事に仕上げるために考えてきた。

まず、この仕事に対する感情的な受け止め方を止めなければ前に進めない。きちんと事実と感情を切り離すことが苦手なのだが、そのためにどうすればいいか考えてみた。やはり「なぜ」その感情が起こったのかを考えてみるのが1番早い。よくよく考えたら(けっこう考えていた)、私は怒られるのが嫌なことに気がついた。私は長女に生まれたために、妹たちのやらかしたことまで叱られていた。なぜ妹たちの面倒をもっとみられないか、といつも言われていたことを思い出した。

生家にいた頃の自分は、それにけっこう傷ついていたのだと今更ながら気がついた。辿り着いてみればたわいのないことで拍子抜けしたのだが、物心ついてからずっと言われていたことだった。いつも先回りして、傷つかないように行動することが当たり前になっていて、それに心底疲れ切っていたのだと気がついた。

私は自分の仕事が少しコケたくらいでは、全く危険がなく命にも別状がない。だから、死にそうな気持ちなる方がおかしい。むしろ、こんなことを思っては荻田氏に失礼だ。本当に死と隣り合わせで、自分の進む道を進んでいる方だから。前から自分の課題であった、イベントと感情の切り離すことができたら、いろいろ変わって行くだろう。

今回はp307「どれだけ目の前の理不尽な状況を受け入れることができるか、が成否を分ける最大の要因となる」という言葉から、考えることで理不尽を受け入れる覚悟ができるのだと学ぶことができた。これを意識しなくてもできるように今後も励みたい。
 
投稿者 mkse22 日時 
「考える脚」を読んで

自由に選ぶという言葉を聞くと、「入学する学校を自由に選びたい」とか「勤務場所を自由に選びたい」といったことが思いつく。ほかにもたくさんあるだろうが、これらに共通するのは、人間社会の中で用意されている選択肢を自分の価値基準などに従って選ぶことだ。そうなると、この言葉を使う前提に人間社会の存在があるように感じる。ここが、著者のいう自由に選ぶとは根本的に異なる点だ。

『行く人が少なく、そこを歩く人が極めて少ない。だからこそ、自由なのだ。自分の裁量で、 これまで試されていないことを実現できる余地が残されている。装備、手法、場所、それぞれに余地がある。』 (p.39)

人間社会の中であれば、他の人間がいるため、選択肢の多くは過去に誰かが試したことがあることばかりとなる。人間社会の中で、全く誰も試したことがない選択肢を探すことは難しいかもしれない。仮に見つかったとしても、他の人と協力しながら進めることができる。このことは、言い換えると、人間社会の中では、他の人に知恵を借りることができるわけだ。
だから、人間社会のなかでの自由に選択するとは、過去誰かが実施したことのあることを自分の価値基準をもとに選ぶことを意味する。

しかし、著者の言う自由とは人間社会の関係を断ったうえでの自由だ。人間社会の外での自由である。人間社会の外であれば、人間の試していないことはたくさんある。そこには人間がいないからだ。他の人間の経験に頼ることができない状況下で、だれも実施したことのないことを自分の価値観を元に選ぶ。著者の言う自由に選ぶとはこのような意味である。

このように、自由に選ぶという言葉の意味は、その言葉を使う状況に応じて、大きな違いがでてくる。

さらに、「自由には責任が伴う」という言葉があるが、この言葉の意味にも大きな違いが生じる。

人間社会の外での自由な選択は、選択した内容に応じて、命を落とす可能性が生じる。それに対して、人間社内の中での自由な選択は、法律の範囲内においては、命を落とす結果につながる可能性は低い。法律が守ってくれるからだ。人間社会の外での責任には自分の命を落とすことも含まれてしまうのである。

北極点無補給単独独歩を退く決断をするまでの著者の思考の流れは、この自由と責任の重さが伝わってくる箇所だ。
先に進みたい、とにかく進むしかない、進むべきとしか考えることができない気持ちと、こんなつらい状況からは一秒でも早く離脱したい気持ち。この相反する気持ちを抱きつつ、考えても考えても結論を出すことはできない状況。大きな低気圧が通過することでブリザードが発生する情報が入り、先に進むことができない可能性が判明したとき「やめる言い訳ができた」という気持ちになった著者には、私は共感することしかできなかった。
私も夢を追い続けるか、あきらめて就職するのか選択を迫られたことがあり、その時には同じようなことをずっと考えたからだ。

さらに、『やめたい現実への体裁の取れた言い訳を発見したことへの安堵』 (p.118)
という箇所を読んだとき、著者のような命を懸けた挑戦をする人もこのような気持ちになるのかとおもってしまった。

何かにチャレンジしていてうまくいかないとき、自分の実力とは別のもの(例えば、運)を引き合いに出して、チャレンジを辞めるための口実を探そうとする気持ちが芽生えてしまうことがある。私はこれを自分の実力や努力不足が原因であることを受け入れることができないから、このような気持ちをしてしまうのではないかと思っていた。しかし、著者のような自身の命にかかわるような状況下でも同じような気持ちになることを考えると、私の考えは間違っており、だれもがチャレンジをやめる口実を探す思考の癖があることを認めるべきであると思うようになった。

さらに、チャレンジをやめる口実を探す癖があることを前提にすると、事前に撤退の基準を設定する必要があるとも考えた。本書でいうところの「ポイントオブノーリターン」の設定である。

世間では、8浪して早稲田大学に入学した学生や40代で売れた芸人など、時間はかかったけど夢を実現した人の話を美談として扱う雰囲気がある。たしかに、最終的に夢を実現できたことは素晴らしいことだし、その通りだと思う。しかし、これらを美談としてのみ取り上げてよいのだろうか。彼らは「ポイントオブノーリターン」を通過して最終的に成功したからよい話となるが、その裏で多くの失敗した人がいることを隠しているように感じる。早めにあきらめて、別の道を探した方がより成功した可能性があったのではないか。このような気持ちを拭い去り切れないのである。
美談だけでなく、「ポイントオブノーリターン」を設定して、チャレンジをやめることを決断した勇気を持った人についても伝えるべきかとおもった。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
著者の荻田氏は、「面白みが感じられない」との、よく分からない理由で大学を中退してしまった経歴を持つ。その後偶然見たテレビ番組をきっかけに極地に足を踏み入れ、世界でも有数の北極冒険家として国内外から注目されるまでになる。そんな荻田氏の考え方で印象に残ったのは、「成功/失敗」という結果よりも、「面白い/面白くない」という気持ちを重視する点である。本書には、「すでに存在している手法を人から聞いて、真似るだけでは面白くない。試行錯誤と創意工夫で新しい手法をつくり出して行くことも、冒険の主要な要素であり、面白さの一つでもあるのだ」(p.99)、「想定の範囲内で遠征が終わってゆく。それは、冒険としては安全に終える事ができる一方で、物事の面白さが失われていくのだ。」(p.245)という記述がある。私がこの考え方に惹かれたのは、我々のような社会人の人生にも応用できると考えるからである。

私がそう考える理由は3つある。1つ目は、理屈で考えても結論が出ない問いに対しては、気持ちで判断する手法が有効な為である。本書では、北極点を目指す荻田氏が、撤退するか、このまま進むかを逡巡するシーンがある。計算上はギリギリ行けそうな状況下ではあったが、「成功したら嬉しいかどうか?」という気持ちを判断の決め手にして撤退を決める。この過程は、我々のような社会人にとっても示唆に富んだものと言える。何故ならば人生においても、このような困難な決断を下さねばならない場面は避けられない。一般に、そのような時こそ冷静になろうとするあまり、自分の気持ちは後回しにしがちである。しかし心を鎮め、自身の気持ちに向き合うことが、堂々巡りをして判断のタイミングを逸するリスク回避につながると言える。

2つ目は、「成功/失敗」に囚われない事で、失敗体験を減らせるからである。本書によれば万端の準備を整えたとしても、想定外の事態が冒険の成就を阻む事がある。荻田氏は、そんな時の撤退戦に対する考え方も前向きだ。本書には「行けなかったからこそ、自分の力になったのだ。長い目で見れば、あの時に北極点に到達しなかった事で北極海をより深く理解する事が出来た気がしている」(p.141)とある。つまりリカバリー可能な段階での撤退は、難局での成功と言える。そんな極地での挑戦は、まるで人生の不遇の時期の過ごし方と相似形を成しているかのようである。我々の人生も時に北極海のように荒れ狂うが、こんな時こそ前向きな撤退と受け止めることで、運命の悪戯のようなアクシデントに遭遇した心を守ることができるのだ。

3つ目は、気持ちに意識を向ける事で、老後の豊かさを増やせるからである。日本は世界で一、二を争うほどの長寿国と言われるが、介護施設職員の手記によると、老人が人生の最後に思い出す事とは、最終的に、本当に心ときめいた瞬間や、深い感動で心が揺さぶられた瞬間だけになるのだそう。これはつまり、世間一般の評価に合わせ、安定や安心を手に入れようとする人生のリスクを示している。例えば、小さい頃から塾に通い、有名大学を卒業して大企業に入社し、出世コースを駆け上がるような人生は、必ずしも老後の心の豊かさを保証するものではない。もちろん現役時代の本人は、計画通りの成果に満足するかもしれない。しかし老後に人生を振り返った際、「成功/失敗」のみにこだわり、面白いことに存分に打ち込んだ思い出に乏しく、後悔しながら過ごすのは虚しい。人生の最後に自分の生き様に納得できない事こそが、我々にとって無視できない大きなリスクと言えないだろうか。ゆえに私は、判断軸の一つに「面白い/面白くない」の基準を加える事で、空虚な時間を浪費する老後を回避したいと考える。

とは言え、ウイルスやバクテリアですら生存できない低温環境、揺れ動く海水、行く手を阻むリード等、危険極まりない極地を歩く冒険家という生き方は、現実社会で生きる私たちにとって何の役にも立たないとの考えもあるだろう。確かに、我々の生活においては、命を危険に晒すようなリスクは滅多に起こらない。しかしその一方、緊張感のない予定調和な日々もまた、成長を鈍化させ、面白みを減退させるというリスクを内包している事実を、我々は忘れてはならない。現代の快適な文明社会においては命の危険は少ない代わりに、知恵と工夫がなければ人としての成長や未知の体験を通じての感動の機会が奪われてしまいがちである。荻田氏の体験を通じて学べたからこそ、我々はそんなリスクに備えることができるのである。

人生も折り返し点を過ぎた今、残された時間は限られている。だからこそ、尚更日々の忙しさを理由に惰性で生きてはならない。荻田氏のような冒険が誰にでもできる訳ではないが、徹底した思考の深掘りには見習うべき点が多い。心動かされる事象について研究し、思想を深く巡らせて自身の世界観を押し広げてゆく行為こそが、最終的な人生の幸福度を高めてゆくと言える。故に我々は、憧れに向かって挑戦し、世界の広さ美しさに感動し、新たな自分を発見してゆく道程を大切にすべきである。痛ましいニュースが世間を騒がし、ますます混沌として行きつつある今を生きる私達であるからこそ、果たしてこの先あと何回、心踊る瞬間を創り出せるかを自問すべきなのである。
 
投稿者 wapooh 日時 
202207月【考える脚/荻田泰永】を読んで
 「あー、読んでいて楽しい本にまた会えた!」30ページくらい読んだところで、体のあちこちが喜びでフツフツとしてしまった。まるで、美味しいコース料理を頂いているような気分だ。読んだことで満足できる、一冊。
 産毛まで逆立って、開いた毛穴に張りが突き刺すような恐怖というかヒリヒリした感覚を覚えながら、ずっとこの本を読んだ。
 寒い中で、自然の美しさや野生動物の血生臭や体温の温かさ、同じ生き物して退治しながら命と命で会話する場面(ホッキョクグマや北極オオカミ)、冒険家を温かく迎えてくれる現地の人々と、彼らの住まいの中の温かさや人柄というか会話の中の温かさ、それは同じく冒険家の星野道夫氏のエッセイを読んだ時に味わったかのような感覚。
 極限の状態から生還した人々の、研ぎ澄まされている完成からの表現は、彼らが置かれた状況から五感でかぎ取るとても些細な微細な信号を受け取っている様な所があって、読んでいる自分にとってはとてもとても精細な解像度の高い画像の世界に張ったような感覚になってしまう。彼らの表現力にゾクゾクしてきて、それは優れた指揮者と音楽家と演奏家によるコンサートの中に身を置いたような、またとても繊細ですきがないほどおいしいコース料理を味わえたかのような、体感覚が残るものなのだ。
 本書で味わったそれは「硫黄島からの手紙」や「夜と霧」に近いものであったかもしれない。
 とにかく、本書を読んで感じたのは「あーいい読書の時間だった。いい味わいのある一冊を紹介していただけた」という幸福感だった。文字通り、Happy readingだった。
 ただ、『考える脚』は、課題図書であって、良書ではない。ここから学び日常に落とし込む知恵をくみ取る妙味が隠されている、と思う。それは何だろうか?

 『考える』脚なのだ。
本書を読みながら、見えない北極を荻田氏と共に歩き進めた気持ちなった。散歩歩いて二歩下がる、四歩下がるような日々。あと少しのゴールを前に数日逡巡し、退く決断をして、また12年の時間をかけて挑戦をして目的を果たして、次は北極と南極を行き来する日々。
 現在の著者には、荻田さん自身が冒険家の世界を踏み出す扉を開いてくれた大場満郎氏の姿が重なった。同じように日々何かに迷い悶えている若者のマグマに火を灯し、その人の命の限りを燃やしてくれるような稀有な存在。自分も50のサラリーマンになり、会社では第一線よりも、後方で若者の応援や相談の機会が増えることで、自分の役割が変化してきて、「何を喜びとするか。やりがいと感じるか。」が変化するようになり、理解出来る気持ちになった。
 以前、冒険家の鈴木真鈴さんの著書を読んだ時に振ってきた感想を思い出した。「もしも、われわれ人間の体が天からの借り物(乗り物)で、命を全うして天に召されて神様が目の前に現れたなら、真鈴さんに向かって、神様は『やぁ、君の体随分と使いこなしてくれたね。どうだった?楽しかった・話を聞かせて』というだろう。」がまた蘇ってきた。
 死と隣り合わせの世界に挑み続ける冒険家たちの衝動を宿してこの世に生を受けて、それを全うしたくなる人間がいるとして、荻田さんや大場さんの様にその使命を果たして極限の世界で生きる命を同じ経験を通して、それまでの知恵を授けて、さらに発展して冒険の世界を進化させて果たしていく冒険の世界を継いでいく若者に次いで、その若者も又冒険世界を進化・進歩させていくために、必要な命=荻田さんなのだろうな。
 荻田さんが、大場さんに出会えたことは幸せだったろうと感じた。それは「凍傷で身を削りながらも、4度目の挑戦で成功した人」だからではないか?と、その一文を読んで感じた。
一発成功ではなく、3度目の失敗や撤退が織り込まれた冒険をまず知れたと言う事だから。
『優れた冒険(家)は、ゴールにたどり着くことよりも、死を前に引き返すことができる人間だ』と新入社員のころ酒宴で聴かされたことがある。
 『引き返すこと』=リスクをリスクとして冷静に受け止めることができる、と言う事だというのは理解したが、本書を読んでさらに理解したのは、これまで経験した「死、リスクを恐怖として体に刻み忘れない」と言う事だ。
 荻田氏は、自身が経験したリスクをPTSDのレベルで覚えておられる。大火傷を負って救出された冒険や、一度目の中断や、北極海に落ちて全身濡れてしまった恐怖数々のこと。
私は読んでいて恐怖でページを閉じたくなったことが何度もあった。『まてまて、荻田氏は今生きている。つまりこの恐怖の場面から生還しているんだ』と思い直して最後までたどり着いた。全身を断念し救助を待つ間、自分の冒険の失敗や次への対策について、振り返りノートに書き続けたと記載もあった。そして、そのリスクに対して、二度目はないと決めて、次の挑戦の際は徹底して備えをする。冒険の間は日々同じ食事をして体の変化と食事の吸収排せつの変化をとらえ、微差を逃さず、精緻に感じ続ける。「凍傷する理由が分からない.凍傷に至る理由と対策をすれば凍傷にはならない」とさえ書かれている。まさに、『負けに不思議の負けなし』なのである。荻田氏のリスクに対する論理的な記述がとても気持ちよかった。
 「命を生き切る。解の無い極限の世界で、成し遂げるか命を持ち帰り次の成功につなぐ」本気で生きること。成功を雄弁に語らずとも、その姿勢や行動を示すことで仲間も得られる。その縁を暖かいものとして有難く語ることで、誰から荻田氏の冒険を応援し成功を喜ぶこととなり、自分と誰かの〇=智の道が開けている。
この一冊は本当に荻田氏が北極で味わう自作のチョコレートのようなものだ。同じチョコレートでも、栄養カロリーが半端ない。
同じ極限でも、海の北極では効かない音楽を、陸の南極で聴く。最後まで、リスクについて教えられた。
素晴らしい一冊を有難うございました。
 
投稿者 H.J 日時 

ここまで自分を俯瞰して見ることが出来るのか。
というよりも俯瞰して見ることが出来るからこそ、冒険家として成し遂げることが出来るのだろう。
そう思った一冊だった。

本書は北極冒険家の荻田泰永氏の経験を記したノンフィクションだ。
著者はカナダ~グリーンランドを初めて歩行するという偉業を成し遂げた人物。
極地を一人で歩き続けた経験を学びとし、そこに先人たちの知恵も合わせ、次に活かすことで成果を上げた。
見たことない景色を自分の目で見るというロマン溢れる一方で、一歩間違えれば死という危険と隣合わせである冒険。
その冒険の現実を経験と知識や過去事例を交えながら書き記された本書は、その世界を知らない読者を惹き込む不思議な魅力がある。
例えば序の章では『氷上を歩いていても、氷が軋む音の後に破壊音が響き渡り、音が聞こえる方向を見遣ると水平線に、ビルのような大きさで屹立した海水がゆっくりと流れ動いてるのが見える。連鎖的に聞こえる音に恐怖し、大慌てでその場からソリと共に逃げ去るしかやれることはないのだ。いつ何時、自分の足元で氷の圧力が集中して木っ端微塵に砕かれるかという恐怖に苛まれた。(P13)』と、数秒前まで自分の歩いてきた道が割れたことを表現しつつ、恐怖を綴っている。
思わず「いやもうその時点でやめて帰ろうよ!」とツッコミたくなる一方で、もし自分がその場にいたらという想像が容易に出来るほどの表現力に感心してしまった。
また、時折説明用に写真が挟まれるが、こちらも読者の想像を助ける一因としての役割を果たしている。
この様な疑似体験を読者に提供する表現力も本書の魅力だと思う。
表現力も然ることながら、体験したことを当時の気持ちと一緒に記すなど主観的な視点も本書の面白さの一つだと感じた。
なぜなら、客観的な要素だけ並べられた本であればノウハウの書かれた本を読めば済むからだ。
ノンフィクションの様な事実や経験を本にする場合、その人が何を経験し、どんなことを思ったかという主観的要素があるからこそ読み応えのある本になると私は考えるからだ。

一方で本書には「客観」という言葉が度々使用される。
その中でP122には『常に冷静に、第三者的な視点で自分を客観視する、なんて、言うのは簡単だが実行するのにこれほど難しいものはない。』としたうえで『しかし、その感情の部分が客観性を見失わせる。行きたい、進みたい、という感情が都合の悪い目の前の現実を歪曲し、自分にとって希望通りの根拠のない未来にすり替えていく』と述べ、客観性のないことの危険性を記述している。
私はこの部分で著者が冒険家として進み続けられる理由が腑に落ちた。
家族がいながらも常に死と危険合わせの冒険を続ける。
応援してくれる人がいるから、お金を出してくれてる人がいるから、という責任以上に、常に自分を客観視できているからこそ、続けられるのだ。と感じた。
この客観視、言い換えれば俯瞰しているからこそ、自分の引き際が解り、常に危険にも立ち向かえるのだ。
自分を俯瞰して見ることができなければ、それこそ自分の歩いてきた道が壊れた時点で命惜しさに帰ることを選ぶだろうし、そもそも命掛けで冒険を選ばないだろう。
自分を俯瞰してみることが出来るから、自分の限界がわかり、その時に適した行動がとれるのだと感じる。