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第97回目(2019年5月)の課題本


5月課題図書

 

身体の聲 武術から知る古の記憶


先月が脳みそを使う話で、今月は身体を使う話です。これは先月の課題図書との対

比を意識して読むと、深く理解出来ると思います。本書を読むと、身体を使う武術もまた、

頭を使う人の方が上達するのだということが分かりますし、先月の課題図書と合わせて読

めば、その理由までもが明確に理解出来るはずです。

 【しょ~おんコメント】

5月優秀賞

 

先月も大変厳しい状況となりまして、みなさんが苦労して投稿したんだなという形跡が

随所に垣間見えました。

 

つまり私の方も、選考するのに非常に苦労しまして、なんでこんな本を選んでしまったの

かという想いと、そんなに難しい本じゃなかったはずなのにという想いが交錯しました。

その中で、一時審査を通過したのが、soji0329さん、collie445さん、eiyouhokyuさんの3

名で、この3名を読み直した結果、soji0329さんに差し上げることにしました。おめでと

うございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 ghc01447 日時 2019年5月18日


2回目の投稿になります。よろしくお願い致します。

・全体を通して要約すると「環境が人を造る」「どのような事からも学べる」「学びつつ自分と時代に適合する事を考え続け、変化・行動して行く」と言ったものを知り得たと思います。もちろん、こんな一言で要約できてしまうほど内容は単純ではなく、多方面の情報に圧倒されつつ、楽しく読む事が出来ました。

・著者は武闘家で失礼ながら頭より先に体が動くと言ったステレオタイプなイメージで読み進めていましたが、武術の歴史だけでなく、日本語や中国の歴史や他のスポーツやアスリートに対する探究、果ては人工知能・AIに関してまで…その幅広さと情報量の豊富さに驚きました。そして自分自身の勉強不足を痛感しました。

・また著者は生粋の日本人でありながら、ハワイ等の外国生活での経験から、日本人が常識と考えている事を、そうではないと言う実例を多く挙げていただき、日本人の感性を持っている人による外国の常識等の紹介は、日本でしか生活していない自分にとっては分かりやすく、距離感を感じずに読む事が出来ました。

・個々の内容としましては、まず、最初の章の見開きの米俵5俵=300kgを背負う女性の写真はインパクトがありました。これは、しょーおん先生の大阪セミナーでも簡単なご説明がありましたが、事実なんですよね…自分を含めた現代人の勝手な常識や身体観の弱さを再認識させられました。

・しかし、現代人は便利な車や電車やパソコンやスマホを当たり前のように使う時代になり、身体観がより一層、感じられなくなっている事実は、誰もが認識する所ですが、それを悲観する事なく、時代に合わせて適応しつつ、「蹲踞」や「五体投地」などの説明があり、やる気のある人には役立つヒントを与えてくれているのはありがたい事だと思いました。

・日本人の常識と思っている「時間厳守」や「型にはめた教育方法」などが、そうではないのだと、著者の体験談も含めて説明があり、常識は常識にあらず、もっと視野を広げる必要があり、TPOに合わせた人間関係や指導方法があるのだと教えられました。偉そうにしているだけの指導者には耳の痛い話かもしれません。

・體、軆、軀、骵、躰、体、と言う「からだ」と言う漢字の種類、その文字の豊富さは日本語の豊かさでもありますが、今では「体」ぐらいしか常用しません。こんな所でも現代の効率化や省力化の結果の現れだと思い知らされますが、この漢字の成り立ち等の具体的な説明は本著ではありませんでした。さすがにそこまで求めるのは贅沢な話であり、それが知りたいのなら、また別の本を探せば良いのですから、更に知識欲を刺激してくれます。つまり、1つの書籍から次なる書籍を求める原動力になるのも面白いと思いました。

・映画「マトリックス」を例にしてバーチャル感覚に対する説明があったのは、分かりやすく、読者に対するサービス精神も感じました。しかし、登場人物の個々の台詞までは私は覚えておらず、その点ではちょっと入り込み過ぎていて伝わらない物がありました。残念ではありますが、これもまた自分の勉強不足なのだと思うと次なる勉強課題として記憶に残る物となりました。

・「右顧左眄」と言う言葉は何となく知っていましたが、詳細は知らず、また「左顧右眄」と言う言葉があるのは知らず、更にこの似ているけど言葉の成り立ちが全く違うと言うお話も大変ためになりました。

・そして、あやしい系?の入口である「気」の話も著者ならではの体験・経験談と自己解釈は、これも私にはまだまだ理解度は低く、腹に落ちない状況にありますが、しょーおん先生のメルマガやセミナー、および推奨書籍などからも気の話は、ある意味、必然の内容であり、これを知らずして次なるステップには進めないであろう事が再認識できました。自分の凝り固まった常識を切り崩して多くの物を掴み得たいと思いました。

・「魂」と「魄」の違い、その意味についても説明があり、この考え方および「魄」の文字すらも知らない人間でしたので、新たな知識を得れた事、ちょっと賢くなった事が嬉しく思います。

・心と体、主観と客観、西洋と東洋、型と自由、自然と人工、伝統の継承と革新、成功と失敗、見えているけど見えていない、などなど、対になる、相反する様な物であっても、それは完全に乖離しているものではなく、なおかつ完全に反対になっているものでもなく、その境界の無さ、曖昧さ、でもまた漠然とした物でもなく…と、ちょっと禅問答の様でもあり、かなり感覚的な物なのかもしれませんが、それを理解したり理解すべく生きて行くのが人生なのだと、まだまだ何も分かってない自分ではありますが、人生を豊かにする目標や指針が少しは見えた気がします。おそらく私自身が書店に行ってもこの本を手にする事は無かったと思いますが、しょーおん先生のご紹介でこの本を読了できた事が嬉しく思います。著者としょーおん先生にお礼申し上げます。

投稿者 akiko3 日時 2019年5月30日


武術の稽古は「絶望的な行き場のなさ」を知っていくことなのかと目から鱗が落ちた。
ちょうど元投手だった角選手がガン治療に関するインタビューで「ガンと告知を受け、リリーフ投手として長年戦ってきたので、ガンに対してもどう戦おうかと思った」とあり、「不利な状況の中でも自分が使えたりできたりしなければならない」がまさにできた方で、投手として名を残せたのもコツコツと積み上げてきたものがあるから結果がついてきたのだと納得した。
『行き場のなさ』は『生きていく上で最大の可能性』と表現していたが日常で自分の立ち位置を客観的に知り、それが底辺だったとしても“伸びしろしかない”と思えれば活力になる。(思考によい影響を与える言葉を選び認識できれば)
「エゴ=我ではない“真の個性”は型によってもたらされる」
武術は未経験なので“型”が“不自由”を強いる、いかに型をかえずにクリアするか、無駄な動き(我、自意識)を消すか、わかるようでわからないようなわかるような…。

2年前、親指の付け根に痛みが出て、直ったかと思ったら手首に、と痛みが移動するのがちょっと気になった。首や腰が張る感じがでてはいつの間にか収まる現象も数年前からあった。その原因は、母の身体介護を力任せにしている部分だと思っていた。その頃は介護もベットから車いすやポータブルへの移譲ぐらいなので、古武術介護という本を見てできるだけ双方に負担のない力の使い方をするようにはし始めていた。繰り返す現象なら自分で治せないとと思い、自力整体教室に通い始めた。そこで「手首に痛みが出ていても肝心要は“腰”体の歪み。生活動作を直さないと、かなりこわばっている。本気で身体と向き合えってことよ」ナビゲーター(自力整体講師のこと)の弁。
「こう動かして」という動きらが全然できないわが身は非常に説得力があった。もうすぐ一年、少しずつできなかった動きができるようになっているが、先日、「どこが伸びているか」を意識している自分が、目をつぶり、閉じた目で見えない足の裏側筋肉をさするように見るというか感じているのが心地よかった。人と比べる必要もなく、ちゃんとできているか気にしなくていい、まだ身体が硬くてポーズがとれなくても自分ができていると思えばいい。自分の身体と会話しながら弛めていく。(疲れ目の時に思わず抑えるところの上の骨の部分に圧を加えると足のモモやふくらはぎ裏側のコリがとれ、一瞬で出来なかったポーズが楽にできるなど身体の不思議も面白い!)
継続して通えないが、身体に変化があるのでちょこちょこ覚えているポーズをとったり、生活動作に気をつけゆがみを増長させないようになってきた。身体の使い方が変わると生活習慣も整う(以前よりは!)、乱れても調整しようとする。
そして、不思議なことに介護するから負荷をかけたと思っていたが、身体をほぐしている時にこわばった筋肉を感じながら、思い浮かぶのはあの頃はムリしてたよね、我慢したよね、緊張したよねともっと過去の感情で、心のこわばりもほぐされることだった。
嫌なことは思い出したくないのが人間だけど、「今までがあったからこそ今があり、これからがある」、過去をなかったことにはできないが、学ぶことができる。私は何を学んだか?体験、負の感情を味わった上で得た価値観、『絶望的な行き場のなさ』(絶望的とは大げさだけどその頃の自分には人生最大のピンチ)の時に、それを乗り越えようと、正そうと“高度な学習”をした、最大の可能性を広げたということだと考えると、人間ってすごいなと感動すら覚えた。
  
「自力をすると自由になる」とナビゲーターは言うが、確かにそんな気がする。いや、環境に特に変化はないけど、自力をする度に身体がほぐれる度に自由になったと感じるのだ。ワクワクするのだ。自力中はイタタ…(傷めるまではせず)と出来ない動きがあり、まだまだ身体のあちこちにこわばりはあるのだが、確実に未来に希望しか感じないのだ。

身体と向き合う大切さを知ったのに、現実を見渡せば身体から離れて、自己判断(責任)より他者依存、AI依存傾向が強くなっていく社会。
どう生きるか、どこで生きるか、ルールが不要な暗黙知的に生きられる場で同じような価値観をもった心地よい人達と生きていければいいのか?そこはAIを活用して場を共有せずとも繋がれる、折々に共有できれば満足に生きられるのかもしれない。
それとも、「類は友を呼ぶ」とのとおりか?「案ずるより産むがやすし」
  積年のこりほぐしを頑張ります。
ありがとうございました。

投稿者 tajihiro 日時 2019年5月30日


「身体の聲」を読んで

光岡英稔著の「身体の聲」について、私なりに考えたことを以下にまとめてみたいと思います。
まず、一番の感想を一言で申し上げます。それは、「まだまだ、身体の聲が聞くことができていない、もっと修行を頑張らねば。」でした。

上記を踏まえ、以下の2点について新たな気付きというか再認識を得ました。

1. 『現代人である私たちは自分の身体を“もの”として扱い、そのことに疑いを持ちません』(P127)
2. 『「これから」を生きるために「今まで」を見直す』(P194)

1. 『現代人である私たちは自分の身体を“もの”として扱い、そのことに疑いを持ちません』(P127)
まず、この一文を読んだ時の感想は、「あぁ、確かに、そうだ」でした。少しでも風邪、悪寒を感じると、病院に通って、先生に「身体を診てください」と、身体をあっさりと預け、喉の痛みはどうか?鼻水は?いつから熱は出たのか?とか、いろいろ問診を受けながら、薬を処方してもらい、数時間~数日後には症状は改善され、治っている、そんなところでしょうか。つまり、我々現在人のほとんどは、病気は、お医者さんに治してもらうもの、という固定観念があるからかもしれません。
著者は、身体の内面から発する聲を聞くことの重要性を述べております。瞑想も、その一つと言えるでしょう。古の日本でも、少なくとも平安時代の頃には人々に親しまれてきたと言われており、現在こそ、瞑想を行うことの重要性が再認識され、市民権を得ておりますが、改めて、身体の聲を聞き、自身の内面との対話をすることの大切さを再認識できました。

2. 『「これから」を生きるために「今まで」を見直す』(P194)
まず、『「今まで」を見直す』(P194)とは、どういうことなのか?
 現在、我々は、スマホやインターネットなどで簡単に情報や知識を得ることができ、例えば、仕事などで一昔前まで1日とか数日かけて行っていた作業が、現在では、Excel関数やマクロなどによって短時間でできるようになった作業がたくさんあります。つまり、現在の一日一時間一分が、昔の一日一時間一分と比較して、密度が圧倒的に濃く、仕事であっても、たくさんの業務をマルチタスクでこなさいといけない時代になっております。
 一方、はたから見れば「生き急いでいる」とさえ見られかねないぐらい、一日一日を、せわしなく過ごしているとも言え、自分自身を振り返ること、自身の内面の声を聞くことを怠っているとも言えます。だからこそ、瞑想などにより、自身の心、身体の聲を聞くこと、対話することの重要性を、著者は述べております。『「今まで」を見直す』(P194)とはこうこうことだと思います。

 一方、『「これから」を生きる』(P194)とは、どういうことなのか?
 そもそも、瞑想は、ありのままの自分を見つめること、つまり自己を客観視すること、と考えます。自己客観の考え方を持てないでいると、自分の内面を誰かに見透かされるのではとおびえ、自己を傷つけられた過去にいつまでも傷つき、それが怒りへと変貌して「ありのまま」から程遠い状態に陥ります。しかし、自己客観を持ち得ると、自分のありのままを認めることができて、それを含めて自分なのだという感覚が育まれ、日々を穏やかに過ごしやすくなります。自分の全てを隠そうとせず、それを見透かされることにおびえることなく、たとえ指摘されても傷跡は小さく、癒やしやすくなるからです。傷つきにくくなり、よって、誰かを恨みにくくなり、他者肯定への芽も育みやすくなります。つまり、ありのままの自分を肯定することができれば、ありのままの他者を肯定しやすくなり、ありのままのすべてを肯定しやすくなるとも言えるのです。よく、瞑想のメリットとして、心が落ち着く、とか、イライラが治まる、などの効果がある、人にキレにくくなる、と言われるのは、こういうことだと思います。『「これから」を生きる』(P194)とは、すなわち、他者を肯定することではないでしょうか?

上記を踏まえ、『「これから」を生きるために「今まで」を見直す』(P194)とは、どういうことなのか?

私は、不安や悲しみなどのマイナス思考を、ただそこにあるものとして認識し、客観的に、数値目標や数値以外の目標を反復することで、見つめられるようにすることだと考えております。一般に、人は過去のことを振り返り、こうすればよかった、ああすればよかった、と後悔しがちです。また、未来のことに対しても、こうなったらどうしよう、と不安のタネを探してしまいがちです。脳は、放っておくと、ネガティブなことばかり考え出してしまいます。瞑想をしている最中は、過去も未来もありません。ただ客観的に現在を見つめます。「ネガティブシンキング」で日々を振り返り、瞑想を通じて「ポジティブイメージ」を持つ、改めて、この考え方の重要性を再認識できました。
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最後に、今回の学びを今後の人生にどのように活かしていくかをまとめます。
 現在、私は毎日、呼吸法を行っておりますが、瞑想については、最近はサボりがちになっているので、「家・泉」の観想法による瞑想を再開させたいと思います。あと、身体の聲を、もっと貪欲に聞く機会を持ち続けたいと思います。

以上、課題図書としての思ったこと、考えたことの記載を終わります。今回も非常に有益で価値のある本をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 masa3843 日時 2019年5月30日


本書は、「身体の聲」を聞くことを忘れてしまった現代人の身体観に、警鐘を鳴らした本です。
かく言う私も、「身体の聲」を聞いたことはありませんでした。

私は、幼稚園の頃から体を動かすことが大好きで、小学校・中学校・高校の12年間は、かなりの時間を野球に費やしてきました。
高校時代は朝から晩まで練習に明け暮れ、筋トレもトレーニングルームでみっちりやり込んでいましたが、身体と対話するどころか、自分の身体について意識的に考えたことさえありませんでした。

そんな私にとって、本書の内容は驚きの連続であり、今までいかに自身の身体と向き合ってこなかったかということを痛感しました。

本書の中で印象的だったのは、主観と客観について論じられている第4章です。

著者は、
●「客観こそが事実である」と考え、
●「客観=正、善」であり、
●「主観=不正、悪」
と見る風潮に対し、異を唱えています。
そしてこうした風潮は、自らの身体の経験と存在を無視しているからこそ成立するものだと解説しています。

ビジネスにおいては、あらゆる局面で客観性が重視されます。
意思決定を行う際には、担当者の感覚で判断するのではなく、
統計データを始めとした客観的な基準を提示することが求められます。

著者は、こういった客観的な判断基準を用いることに疑問を呈しているのでしょうか。
恐らく、そういうことではないでしょう。

著者が強く戒めるのは、
『それが誰の体験に基づくものなのか分からない客観的事実や誰かの主観を、自分の経験や体験を通さずに語ること』(P206)
です。
つまり、外部に存在する事実や情報を参照すること自体が悪いわけではなく、
自身の経験や存在を無視して、これらの情報を鵜呑みにしてはいけない、
と主張しているのではないでしょうか。

この内容を読んだ後に想起されたのは、セミナーや読書における学びと、その実践や行動との対比関係です。

セミナーや読書によって深い学びを得た場合に、私達はそれだけで何かを得て成し遂げたような気になってしまいます。
その知識を外部からインプットしただけで、一段階成長したように思えてしまうのです。
しかし実際のところは、セミナーや読書だけでは単に知識が身についただけで、その情報が自分の中で血肉になったとは言えません。

学んだことを自分なりに咀嚼し、自身の身体を通して実践してこそ、初めて意味があるものであり、「身につく」ものだと考えます。

外部からの情報をただインプットするだけでは何の意味もないことを、改めて確認することができました。


現代において、このような客観性を絶対視する社会の風潮が強まっている背景は何でしょうか。
私が注目したのは、P179の『客観を言い訳に使う』という著者の表現です。
自身の感覚によって判断することをせず、『客観的事実の抽象的集合体』に判断基準を求めてしまうのは、
インターネットやSNSが発達し、隙あらば誰かを非難しようとする社会の空気感のせいであるように思います。
今の世界は、自分だけの責任において何かを決めたり行動したりすることが困難になっているのではないか、と感じるのです。
大半の人達が、氾濫する情報に溺れてしまっているという見方もできます。
そして、自信が持てないというアイデンティティー・クライシスは、身体感覚の欠如でさらに増長するでしょう。

それでは、私達はどのようにして身体感覚を取り戻し、
主体的で自信ある行動を取っていけるようになるのでしょうか。

P220で著者は、
『自信とは、自分が「この身と体で生きている」という感覚経験と自覚から始まります』と説明しています。

意識して身体を使ったうえでその身体に「集注」することで、生きているという実感を得られ、少しずつ自信を持てるようになっていくのではないでしょうか。

例えば、毎日の職場への通退勤を、エレベータを使わずに階段を使って昇り降りし、その疲労を意識的に感じてみるだけでも、「今」「ここ」で働いている自分を実感することができるでしょう。

便利なもので溢れている現代社会ではありますが、
意識して身体を使う不便なやり方を試しながら、少しずつ身体との対話を始めてみたいと思います。

今月も素晴らしい本を紹介していただき、ありがとうございました。

投稿者 3338 日時 2019年5月30日


@azisai03

p17の写真は衝撃的でした。小さいころから、この写真のような現実を見て、これが当たり前だという社会に暮らしていればできるようになると思えば驚異です。
これが世界観が現実を作るということなのだと本当に驚きました。普段から目にする世界観が自分を支配するのなら、自分の理想とする世界をイメージし、理想とする世界観を身につけなければ、自己実現はできないと思いました。
ですから、しょおん先生がおっしゃるようになりたい自分を妄想し、なりたい自分を演じるということは本当に自己実現の近道だと改めて思いました。

最初に題名を読んだ時、自分の体と会話するイメージが浮びました。読み進めるうちに、体と対話する=本来の体の気を流れを汲み取ることではないかと思いました。

現代人は頭の使い過ぎで、頭に気や血が上ったままになっていると指摘されています。例えば冷え性や肩こりを例に取ると、体の熱循環が悪く足に熱が回らないために起きるのが冷え性で、肩に熱がこもるのが肩こりです。
本来の正常な気の流れを自分の体で作り、体の滞っている部分が流れるイメージでやってみました。
結局は気を回すようなイメージで肩こりも冷え性も、淘汰するイメージができあがりました。このまま冬までやってみますが、なんだか体を内側から動かしているように思えます。
自分には肩こりも冷え性も無いと思うことにしました。言うのもやめます。辛いとか痛いと言うのもやめます。
体の不調を治そうと思ったら、気血が上って足に回らないということを一番最初に認識して、その状況を改善するために体を巡る世界観を変え、循環が上手くいっているときのイメージをつかむことにより、あらゆる不調を改善して行くことができると思いました。

そしてもう一つ、この本を読んで、頭で「集中」することの体に当たるものが「集注」であることを知りました。集中に偏った現代人には集注という観念どころか言葉もないのだと、大変無知を恥ずかしく思いました。

この集注を身につけるにはどうしたらいいのか?
ヒントは「コントロールできないものを通して自分を観る」こと。
先生が基本編のセミナーで弓道の話をしてくれましたので、弓道で考えました。実は有段者の端くれでございますので。

矢を的に当てようとするのではなく、当たらない矢を通して自分を観る。これは何を意味するのか。自分が的前に立っている時のことを考えます。当たらない矢はズレているから当たらないないのです。なぜズレるかと言えば「離れ」が左右均等ではないから。左右均等ではないのは、張り方が均等ではないから。この時に意識するのは下半身にしっかりと上半身が乗っているか。そして左右均等に…体型を踏まえた上で左右均等に力を張ることができるかです。
本来弓道は当たる当たらないではなく、正しい動きで矢を射れば、結果的に当たるものなので、結果として自分との対話になります。当たらない矢を通して自分を観るということは、感覚を研ぎ澄まして、射座に居ながら的を手の内に感じること。すなわち胴構えから始まる自分の動きの1つ1つが的につながる感覚を頭ではなく、体で感じることなのではないかと思いました。
今また、こんな捉え方ができるとは思ってもみませんでした。もう弓を引くことは無いと思っていましたが、的を感じることができるのか試してみたくなりました。

毎回奥深い本をご紹介いただきますが、今回は思うことがいろいろありました。
まず、 学ぶ言語に寄って理解が違うことが挙げられます。薄々は感じていたことですが、学ぶ内容が言語が持つ特性に支配されるので、数学などは英語で学ぶ方が分かりやすいと言われるのも理解できました。日本の文化は感覚や感性を重要視していますので、自分が日本人で日本語で日本文化を学べることを幸せだと思いました。

また、近代的なウェイトトレーニングは身体の感覚を無視しているので、行きつくところが、ドーピングになるのではないかと思われます。
現代人が本来の身体観を忘れ、体の声を無視している現状を憂いている筆者の声が聞こえて来そうです。
この本を読んだからには、筆者の声を聞き留め、自らのからだの声にも耳を傾ける生活を目指したいと思います。

最後になりましたが、からだはいろいろな漢字がありますが、その中で骨が豊かであるという「體」があります。私には程遠い字だと思ったのですが、
ふとたくさんの骨から体ができているというイメージが浮かびました。
やはり自分の世界観が大切なのだと思いました。

投稿者 mkse22 日時 2019年5月31日


「身体の聲 武術から知る古の記憶」をよんで


私自身、武術に全く興味がありませんでした。
そんな気持ちで本書を読み始めましたが、読み終わった後、良い意味で裏切られました。

本書は、武術や身体について書かれた本ですが、身体が思考やコミュニケーションなどにどのような影響を与えているのかについて解説している点が特徴だと言えます。

『主観なしに客観が存在すると思っている現在社会(P172)』という指摘は、深く同意しました。

社会人になると「客観的事実をもとにして意見を述べよ」とはよく言われます。
私もこの指摘に違和感は感じつつも主観と客観は対立しており、主観=悪いもの、客観=すばらしいものといつのまにか思い込んでました。
しかし、主観からすべての考えが生じており、それを他人にぶつけることにより共感や反感を得て
共感を得たものから客観性を帯びていく、つまり、主観と客観は対立関係ではなく、レベル感の異なる
概念であると思いました。客観は主観を抽象化したものであるとみなせます。
私が感じていた違和感はここにありました。主観と客観は明確に分割できるものではないと
どこかで思っていたからです。

さらに、本書では主観を生み出す身体が複数あることが指摘されています。
五感を通じた経験によって、主観が生み出されると考えていましたが、その五感すら複数存在する。
この指摘には驚くしかありませんでした。
私自身、自分の身体を考えるとき、どこか物として見ている感覚が確かにありました。
「体調が悪いから病院に行く」「歯が痛いから歯科医院に行く」。このように考えるとき、
無意識で自分の体を病院に持っていって治してもらうという気持ちを持っていました。
ここに、自分の体と会話するという意識はありません。このとらえ方こそが、特定の身体観に依存しており、そのことにより身体が1つしかないと思い込んでいました。

身体からあらゆる考え方が生まれますが、考えるということは言語を通じてしか行うことが出来ず、
言語化することとは抽象化することであるため、言語化した段階で不要と判断した情報は削除されています。
言語化の対象に身体も含まれているため、言語化された身体=身体観も抽象化されたものです。
その身体観が逆に言語に影響を及ぼす。考え方に制約を与えてしまう。
特に現代人は自分の身体と会話することができないため、既存の身体観を無意識で受けいれており、
思考が制約されていることにも気づくことが出来ない。

『言語化以前に人間の身体があり、そこから言語が派生していくなら、環境と身体の間で文化が生まれるわけであり、また文化の一部として言葉や言語があるわけです。身体、文化、環境、これらをばらばらに見ることは本来できないのです。(P107)』

すべてはこの文章に集約されています。

身体・文化・環境を一体のものと考え、全体から個々の問題を考えていく、つまり、例えば言語についての問題を考えるときには言語だけに焦点を当ててはいけないということです。

前回の課題図書では、『地図は現地そのものではない』というように、言語(=文化)がそれが指している実体のすべてを表現していないことが示唆されていました。

これと本書をあわせてよむと、外在的世界から自分の身体を通じて情報を入手している段階から、特定の世界観(=身体観)に依存している、つまり、世界観に対応した情報しか入手できておらず、それを言語的世界に変換するときにも不要と判断した情報の削除が行われている。つまり、入手した情報には2重の歪みが生じていることに注意する必要があると言えます。その歪みを回避する方法としては、まず相手の世界観に同調・共感すること、さらに外在的世界と言語的世界を往復する(抽象の階段を昇ったり下がったりする)ことが必要であると考えます。

身体という身近に存在しているがゆえに、その多様性に気づきにくい。本書はそこに焦点を当てて、経験するという意味にも複数の可能性があること、その可能性が自分の物事に対する認識に大きな影響を与えていること、そしてその認識の歪みを是正する方法説明した本だと思います。

本書は身体から考えた哲学書のように読めてとても楽しめました。
素晴らしい本を紹介していただき、ありがとうございました。

投稿者 BruceLee 日時 2019年5月31日


「自分の今の常識が全てではない。そもそも自分の事さえ全て理解している訳ではない」

本書を読んでこう感じた。これは良書と出会う度に思う事でもある。そう、良書は人間を謙虚にさせる。自分は武術をやらないのだが「身体を通して、他者を通して自分を知る」という事について自分なりに
「こういう事かな?」という観点で述べてみたい。

自分は幼い頃から足が速く小中学校の運動会では毎回1等を取っていた。が、人間は無い物をねだるもの。短距離ランナーの自分を磨けばいいものを中学での陸上部時代はいつも「長距離ランナーってカッコイイなぁ」と憧れていた。体が細身なのに長距離を黙々と走る姿にストイックさを見ていた。

その後も高校時代~大学受験と走る習慣は続け、社会人になっても週末の朝は数キロ走った。当時の会社の人から「凄いな~」と言われたが、自分的にはただ走りながら風を感じ、汗をかくのが好きだった。が、30代後半だったろうか、地元近辺のマラソン大会の存在をチラシで知った。その時の正直な感想は

「え~走るのにお金払うの?それも42.195㎞って。無理無理」

でしかなかった。が、何故か記憶に残った。多分「こんなオッサンでも昔憧れた長距離ランナーに挑戦できるかしらん」という想いがあったのだろう。そして1年後の大会に意を決してハーフに申し込んだが、大きな決断だった。何せハーフなんて走った事が無いのだから。完走出来るか定かでないし、途中リタイアはしカッコ悪い、みたいな複雑な心境だった。最後は「まずは自分を試してみよう」という心境だった。
何故なら「その年までトライした事無かったことにトライしてみる」というのが意義的に大きかったからだ。そして当日。最初の数キロはいつもの感覚だったが何かが違った。それは周囲に多くのランナーがいた事だ。いつも走る時は一人だから、自分の速さを比べる対象が無い。が、今は周囲全てがその対象。すると意識してしまうもので結果的にいつもよりスピードが出た。が、その分体力も消耗し多分5㎞を過ぎた辺りからヘロヘロになり始め、その後がやたら辛かった。結果的に何とかゴールしたがほぼ死亡状態。でも完走者に配られたスポーツドリンクの美味かったこと!翌日は全身筋肉痛で駅の階段が辛かったが。

その後も週末は毎朝走り翌年は複数の大会にトライした。その頃から週末の走りを10㎞に増やした。昔の自分からは有り得ない距離だがハーフを走った人間としてはその半分でしかない。この頃になると「一番辛いのは走り始め」という事が分かって来た。それが過ぎると体が慣れて心臓のリズムも一定になり自分のペースが出来る。そのペースを速めればタイムは良くなるが、無理して体を痛めたら本末転倒。ではどのペースが今の自分に最適なのか?走る度に自分の体と対話し自分を見つめる。いや、そもそもその前の重要事項、それは、

走り始めること

だ。すると体が教えてくれる。また走りに慣れてくると目標も出てくる。自分の場合は「ハーフ1.時間半切り」だった。何度か挑戦したが難しかった。が一度だけ切れた事があった(今となってそれが自己ベスト)。自身の体を作っていく事も重要だが、大会当日、自分のペースを上げてくれるのは周囲のランナーを活用した。周囲のランナーの中から自分に近い或いは少し早いペースのランナーを見つけ、付いて行くつもりで走る。暫く走りその人のペースが速すぎたり遅すぎたりすれば別のターゲットを探す。そうしながら走ると楽しみが一つ増えた気にもなって来る。これなどは他者により自分が磨けるということに通じないだろうか?

本書で書かれている事をランナー視点で考えるとこんな感じになった。

以上

[追伸]
最近しょうおんさんは散歩が日課だとか。歩くのは体に良いと思うが、折角だから走りの喜びも感じて欲しい。何故なら上記のように「走らなかったら出会えなかった自身」と出会えるから。体は実に正直。でも頑固なしょうおんの事だから、周囲が進めても動かないだろう。だからここは理屈は抜き。ただ散歩しながら、

ロッキーのテーマ

を聞けば自然と走り出すんじゃないかと思うのだが如何なものだろう(笑)

投稿者 shinwa511 日時 2019年5月31日


本書で著者は、近代化で推し進められた便利さの追求を進める現代の考え方に、違和感のような感情があるのだと思います。

古来、日本人は身体を日常生活の中で毎日鍛えていました。
農婦が米俵5俵を担げたのも、500キロを歩く旧制中学校の修学旅行が行えたのも、日常生活の中で日本人は重いものを持ち、長い距離を歩くという行為が当たり前の行為だと考えていたからです。もちろん、駕籠や牛馬での移動手段もありましたが一部の人達だけの特権で、多くの庶民は自分の体を使っていました。

しかし明治維新以降、採算と効率化を重視するヨーロッパの科学技術を導入してきたことで、だんだん体を使うことがおざなりになってしまいました。道具や機械を頼るようになり、日常生活の中で自分の身体を使うということが少なくなっていったのです。

現代の日本で、農業をしている人はトラクターや軽トラックを使いますし、日常の移動では自家用車や電車、バス、タクシー、飛行機などを当たり前のように利用しています。
自分も地下鉄では階段ではなくエスカレーターを使います。自分の足で歩くことが健康のためには良いと言われているのは理解していますが、いざ実際に行動すると便利な移動手段を選択してしまっています。楽な手段があるなら、それを使って楽になりたいと思ってしまうのです。

日常の選択肢の中で便利さを優先させていれば、自分自身の体を日常的に鍛える必要性についても考えることはありません。自分が苦しい思いをしたくないので、便利な手段を選んでしまうのです。これは目先の便利だけを追い求め、自分の内面の弱さと向き合ってこなかった結果だと考えます。

現代の日本で、日常的に身体を鍛えているのはアスリートです。

アスリートは常日頃からのトレーニングを続けることで自身の調子を高め、いつでも最高のパフォーマンスができるように鍛え続けています。本書に書かれ農婦や旧制中学校の生徒なども同じように身体を鍛えてきました。逆に言うと、毎日鍛えていかなければ自身のパフォーマンスに大きな影響が出てきます。

アスリートのように、自身の生活すべてをかけて取り組む集中力が高い人達は、精神力が高いという特徴があります。周囲から何と言われようと、決して振りまわされない、血のにじむような毎日の努力と鍛錬、苛まれる不安とうまく付き合うことで、内面の精神力もトレーニングできるのです。

現代の社会では電子機器が発達し、ネットにアクセスすれば様々な情報や商品を得ることは勿論、世界中の人と交流することができます。自動車や電化製品にAIを取り入れることで、自動操作や自動運転という技術も当たり前になってきました。

明治維新以降、経済的な豊かさや便利さの追求こそが幸せだと信じて疑わなかった結果、外にばかり目を向けていき、自身の内面を鍛えるということは置き去りにされていきました。

身体の筋力は鍛えないと成長していくことはありません。むしろ、どんどん退化していきます。内面の精神力も鍛えていかないと、永久に強化されることはありません。

外に求めた近代の便利さの追求と、自身の身体を鍛えていき、内面と向き合い精神力を強くすることです。互いに相反することですが、自分自身の内面を鍛えるということにも目を向けるべきなのだと感じました。

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2019年5月31日


 ● 身体性の喪失

 来月、私は年に一度の定期健康診断を受ける。そこで、測定されるy-GTP、FPG、Cr、UA、 LDLなどが何を意味するのかを私は知らない。思わしくない数値が出た際に、調べる程度だ。
 基準値と見比べて身体の健康具合を物理的に判断し、管理する。数値が良ければ健康だと思い込み、数値が悪ければ推奨される生活習慣によって改善を図る。そこに実際の感覚的、内向的な身体への省みは殆ど無い。本書を読んで「機械論的な身体観」なるものを初めて知ったのだが、私自身にもすっかり沁みついているようだ。
 この自らの身体を内向的に省みず、外部ではじき出される数値に判断を委ねる行為は、今後テクノロジーの進化とともに更に度を増すはずだ。現時点で既に、体重管理、カロリー管理、血圧管理、睡眠管理、さらには、いびき管理まで様々なスマホの健康管理アプリがあるわけだがこの先どこまで進むのか。近い将来、身体の状態をありとあらゆる数値で計算し、栄養学的に摂るべき食事やサプリメントをテクノロジーがボタン一個で教えてくれるそんな時代が来るのかもしれない。そこに、身体が何を欲しているだろうかと自らで感じ考えるという自発性や主体性は失われ、逆にテクノロジーに人が操作されているようにも映ってしまう。
 身の回りのモノがどんどん賢く便利なるにつれ、人間は持っていた古来の身体性を失っていく。著者の哀惜をすぐ身近に感じた。


 ● 身体が発するモノ

 現代は、言わずもがなの情報社会、知識社会であり、Googleなどの検索サービスを使えば、一般的な問題や疑問には瞬時に答えてくれる環境になっている。上述した健康管理アプリの種類や機能もインターネットを使ってすぐに調べがついた。その他にも、私は日常的に買いたい物や行ってみたい場所、または身の回りで知りたい事などの情報や知識はインターネットで調べる。とても便利になった世の中であるが、この便利さには落とし穴がある。それは、インターネット越しに集めた情報や知識を得ることで、その物、場所、事を十分に理解したつもりになってしまうことだ。その落とし穴に嵌ってはいけないということを実感したのが、つい先日香港に出張に行った時である。
 出張の目的は、現地で行われる展示会において既存の海外サプライヤーとの協力体制の確認や問題解決、新商材や新技術の発掘、そして市場のトレンド調査であった。既存のサプライヤーとは普段はメールで情報交換をしているし、展示会や商材の情報や知識も事前にネットで集めてはいた。それらはそれらで有用、有益ではあるのだが、実際に現地に行くと全く違った性質の情報や知識が手に入る。
 どう違うのかを一言で言えば、現地では非言語的で感覚的に得られる情報や知識がインターネット越しのそれと比べて断然多くなるのだ。会場の雰囲気であったり、商品を実際に見て手にして質感を確認したり、他の来場者の動向を見たりすることで得る情報や知識は、パソコンの画面を通してでは決して得られない。そして、特に私がそれを感じ得たのが、サプライヤーとの会話の中だ。実際に面と向かってする会話には、メールの文章とは違い、声のトーンがあり、話にはペースやテンポがあり、間があり、そしてサプライヤー自身の表情がある。これらの情報は全て言語ではないし、また解釈の仕方も多くは言語ではなく感覚である。またネット越しのそれと比べると得られる確信度が断然高い。その理由は、本書にある「自分が絶対に騙せない人」とは身体を含めた自分自身のことなのだが、その身体はそもそも自分自身に絶対に嘘をつかないからなのだろう(身体からのサインを頭で間違った解釈をしてしまう時はあると思うが…)。
 先月の課題図書に言語は全てを表現できないし、伝えられないとあったが、それを補うのが身体感覚なのだとこの時に合点した次第である。そして、この感覚的に得るモノを発し伝えて来るのが、「身体の聲」なのではないだろうか。
 インターネットは確かに便利である。ただ、インターネット越しに集めた情報や知識は全てにはなり得ないし、著者が言うように元々は誰の主観であるかも分からないものも多い。実際に現地で自ら体験、体感して得る情報や知識こそ真の意味で有用であり、有益なのだ。


 ● 身体で感じる

 今月の課題本は、私には非常に難解である。著者が言うように本書は、こうすれば、すばらしい結果が出るといったハウツー本の類では全くないし、それ以前に、私には何度読み返して今も理解が出来ない箇所が多くある。特に、著者が自身の身体感覚について語る箇所は雲を掴むような感じだ。例えば、「型が提示している課題や死生観に絶望的な感覚を味わいます」や「身体にはいくつもの層の経験と現実、真実があり、そこから多様性が生じます」などは、はてなマークの連続といった感じで著者の感覚は伝わってこないし理解が出来ないのである。
 伝わってこない、理解できない理由の1つとして、上でも述べた言語の限界性や単純に著者との世界観、身体観の違いもあるのだろう。ただ、本書を読み返すうちに私が著者の身体感覚を理解が出来ないのは当たり前であり、その理解が出来ない状態や感覚こそ著者が読者に伝えたいことなのではないかと思うようになった。つまり、頭で考えても分からないよということを著者は読者に実感させようとしているのではないだろうか。

 古来より人は、頭で考え理解するよりも先に身体で感じ理解をしていたはずであり、それが本来の自然状態なのだと著者は言う。体験、体感をとおして、身体で感じるコト、すなわち「身体の聲」に耳を傾けることの重要性、必要性。これが、現代を生きる上で著者が最も読者に伝えたいコトなのだろうと私は感じている。


~終わり~

投稿者 nxxxxo1985 日時 2019年5月31日


「身体の聲」を読んで

小学生のころに体力テストがあり、
50m走・走り幅跳び・遠投・反復横飛び...etcなどやらされた時に
先生からひと昔前の生徒の平均よりも全くもって成績が下だと言われたことを思い出しました。
この本を読み、その理由がひと昔前は『日々の暮らしそのものが鍛錬になった』時代だった
からだということがようやくわかりました。

つい先日も80歳手前の義父と田植えをしましたが、
小さい頃から農作業をしている義父とは違い都会暮らしをしてきた私は
田んぼの歩き方すらわからず、午後には疲れ果ててしまいました。
かと言う義父は、田植えが終わった後も普段と対して変わらず飄々と過ごしていました。
身体の使い方がわかっていなければ、どんなに若くて筋肉があろうと関係ないことなのだと実感しました。

著書でも普段の生活の様式により、その人の「当たり前」が構築されると記載されています。
いかに自分で自分の限界を作り、視野を狭めていっているのかと300キロの米俵を担ぐ女性をみて思いました。

現代は指先一本で何でも買え、地球の裏側の人とも現地行かずして顔を見て話せる時代です。
身体を使わずに楽して生きていける時代になった分、身体の使い方を忘れてしまいます。

P.220 『若い世代の一部に農業を始めたり、都市を離れDIYで生活することを志望する人が増えている』
私自身、4年前に東京から長野へ移住し農作業ができる環境にいます。
これからのAI時代に適応しつつも、義父を手本として農作業をしながら
身体の使い方を取得すること、またそれを息子など次世代に繋いでいくことが
私のこれからの生きる道になるのかと感じました。


引き続き良書を読み、自分の生活に置き換えて実践していきたいと思います。

投稿者 Terucchi 日時 2019年5月31日


「身体の聲」を読んで
身体には人間が思っている以上の力が存在していて、それを素直に感じて、学ぶことが大切だということが結論だと思いました。私は写真の女性の姿を見て、衝撃よりも、懐かしさを感じました。実家が農家ということもあり、子供の頃に農作業を手伝っている時に、親父が似たように担いでいたのを思い出しました(さすがに300kgではないですが、100kgは十分超えていると思います)。その時、親父はすごいと感心していましたが、自分も大人になれば半分くらいは持てるだろうと思っていました。農作業において、何度も往復して運ぶくらいならば、多く持てば往復する回数が減るという単純な考えで、自然と多く持つようになったと思います。私も手伝いながら、小さいながら、どんどん荷物が重くなっていきました。その際、力で持つというより、コツで持つことなのですよね。力≠筋肉ではないのですね。近い表現で例えると、上げる際は瞬発力、その後はバランス力。丹田に意識を持つ、ということもこういうことでおそらく実感するのですよね(たぶん意識はないと思いますが。。)。ちなみに、もし100kgの塊であればバランスの取りようがないため、持てないでしょうね。だから、バーベルは持てないのでしょう。そんな親父も歳をとってしまい、今回の写真を見るまではそういう姿を忘れてしまっていました。伝承って難しいですね。
ところで、私は合気道を学んでいます。古武術の世界では60歳を越えても、武術の達人がいます。西洋スポーツの筋肉優位であれば、オリンピック競技の選手同様、20代がピークになるのでしょう。しかし、筋肉でない部分の勝負であれば、例えお爺さんになっても筋肉とは違ったところの力学で戦えるのですよね。そういう部分を味わいながら、今も合気道を楽しく続けています。おもしろいです。ただ、今回の本の中で、その武道ができた過去において、その時の時代背景がどうだったかが大切とのことで、そういう面から考えていたのかどうか反省しました。実は今デスクワークの生活の私がどこまで理解できるのだろうか?先の農作業の例といい、できる感覚は自転車に乗る感覚と同じと考えると、果たしてその次元で考えて、同じだろうか?今その時代と比べて、頭脳の面、情報処理能力は上がったが、身体の面では下がっているのではないか、と思わされる。著者は自分の身体との対話することを提案しています。周りからの情報である身体でなく、自分で感じること。ブルースリーの言う、feel!(感じろ)だと思います。身体の限界は精神が限界と思う以上のところにあると言われます。身体は家畜でもなければ、物体でもないと思います。精神と身体は両輪であり、共存共栄で助け合い、お互い学びながら、補足し合う関係であり、この現世へ生きてきて、互いに学び、一緒に成功を味わうための関係なのだと思います。今、しょ〜おん先生に教えて頂いた呼吸法もそういう能力開発だと思っており、今後も続けて行きたい次第です。

投稿者 wasyoi 日時 2019年5月31日


#身体の聲 を読んで
この本は、身体と文化の深いつながりについて、昔の記録から、武術から、言葉から、と様々なアプローチでそのつながりを思索している本です。著者自体が武術の達人ということもあり、そういう目線での記述にはとても新鮮で、学び多い本だと感じます。
昔と今で身体感覚があまりにも違うこと、それには西洋から入ってきた言葉、ないし文化の影響が大きいという話があり、考えさせられました。
今ある言葉のルーツを知ることは大切だな、と感じた次第です。

まず最初に、
『p6私たちは「なぜ自分の感性や知性の源となる身体が観えなくなってしまったのか」を知り、自らを省み、感じ、その感覚の意味を知ってゆく必要があります。そして、日本で古の身体観が失われてきた背景にある明治期からの近代化の影響と今尚続いているそこで起きた混乱の様子。さらには、かつての体を取り戻すためにはどうすればいいのか』のなかで、なぜ自分の感性や知性の源となる身体が観えなくなってしまったのか。』が大きな主題だと感じております。
それについては、古来から身体を自然の中のひとつと認識していたところに、明治期に西洋文明が入り、文化として言葉が入る際に、例えば「からだ」が「身体」として入ってきてしまったように、言葉のニュアンスにズレが発生してしまったのではないか。
『p129 明治期に外国語をもとに身(み)と体(からだ)をくっつけた言葉を作ることで西洋文明の価値観を示す言語の取り込みはうまくいったものの、観ていた「からだ」が「身体」にすり替わってしまったことに対し無自覚であったがゆえに、自分の中で何が「身」で何が「体」なのかわからなくなってしまいました。』と述べています。

私たちは普段言葉を使ってやり取りをしますが、そこでは無意識に、字面だけを意識して話をしているように思います。しかし著者は古い武術の文献を紐解き、そこにある言葉をもとに実際に身体を動かすにあたり、「からだ」と「身体」におけるような「言葉のズレ」に気づいたのではないかと思います。
『p115 新たにできた言葉を通して古典や古を捉えてしまっては、本来の意味するところが見えないどころか、現代人の身体感覚で理解できる程度の感性に制限を受けた「伝統」や「古典」になってしまいます。』
ここがこの本で一番ハッとしたところでした。
自分たちが主観的に用いる言葉自体が、すでに現代人の身体感覚になってしまっているばかりに、昔の教えの本来の意味を理解できなくなっているという事ですね。
物事を突き詰めていく人は、毎日同じことをしていてもごく小さな違いに気がつくと言われますが、当世一流の武術家も同様なのだと感動しました。

前回の課題図書の中には「自分の限界は、自分が作り上げて持っている自己概念によって、自動的にきまってしまう」という内容がありましたが、私のような普通のサラリーマンでも、自分の概念のレベルを読書などで高め、著者のように仕事の中でごく小さなズレを認識できるようになれば、とても強い存在になれるのではと感じます。

また『p204 失敗をすることで、人間は違いを知ります』とある通り、失敗は他者との違いを認識でき、人間としての知性を磨くための手段になりますので、今後も失敗を糧にし成長できればと思います。
最後に、『p220自信とは、自分が「この身と体で生きている」という感覚経験と自覚から始まります』という言葉が出てきます。
そこでは、自分の文化をしっかりと知ることで、この身と体で生きているという実感も少しずつ生まれ、自信もそれに伴って養われていくのではないでしょうか。
そのためには、『p225 ただ一つできることは、身の回りの自分にできることから一つ一つやり遂げ、さしあたり自身の身体が何を自分に語りかけ、諭そうとしているのかを感じ、その経過を観つめていきながら「身体の聲」に従っていくことが一つ一つの真実、真理に近づくための法であり、何より確かな道となります。』
という、力強い言葉を念頭に置いて、日々「身体の聲」に耳を傾けて行動していかなければならないな、と強く感じます。
今回も、素晴らしい本をご紹介いただきありがとうございます。

投稿者 toshi121 日時 2019年5月31日


「身体の聲」を読んで

 今月は、身体をテーマにした本ということで、今まで読んだことがないジャンルに少し戸惑いつつも、どのような内容かと期待しながら読み進みました。今回読んだだけでは、十分に理解できていない面もありながら、色々と感じることが多かったというのが実感です。
 
 以前は、西洋的なものが科学的、論理的であり正しいと一途に信じていて、東洋的なものを非科学的で怪しげなものと感じていました。先生のセミナーを受講するようになり、呼吸法や瞑想を続ける中で、従来の考え方は誤りであったと感じるようになってきていました。もちろん科学的、論理的であることも必要ですが、それだけでは解決しないことが世の中には数多くあることを、少しずつ理解してきています。

 こうした漠然とした思いを持っている所に、この本を読んで、なるほど、そういうことなのだと腑に落ちたことが少なからずあります。読むべき時に、読むべき本に巡り合う機会をいただけたことに感謝しています。
 
 強く印象に残るところをいくつか列挙すると、まずはハワイアンのウクレレや泳ぎ方の覚え方があります。本書にもあるように、日本で何かを覚える場合、「型が重視」されていて、教え方が問われます。「なんとなく時の流れの中で感覚的に覚える」ということに、新鮮な驚きを感じつつも、「覚える」ということは、本来そうしたものなのかもしれないと思いました。

これ続く「教育すると弱くなる人たち」は、更に衝撃的でした。「枠組みにはめる教育を施すと、あっという間に弱くなる」ということは、これまで全く考えたことがなかったことでした。「大人が良かれと思って子供に教えることそのものが、その子のよさを潰していることも大いにあり得ます」というのを読み、なるほど、そうだったのかと思いつつ、では我が子の教育はどうすれば良いのかと、思い悩んでいます。

次に「時代や文化と言語は切り離せないし、身体と文化も切り離せない」という部分ですが、これには非常に共感できました。ここには、中国人の言葉、中国武術についての紹介もあり、過去に7年間中国で暮らした経験から漠然と感じていたことを、やはりこういうことだったのだと理解することができました。
 
最後に、「気」という単語についてです。近代化に伴い、「生活から気が取り外されて特別なものになり始め」ながらも、「気になる」や「気が向く」などを生活の中で使っているというのは、鋭い指摘だと感じました。確かに、非科学的なものを信じない人達(昔の私自身も含め)でさえ、「気に入った」や「気がかかりだ」とは言っている訳で、やはり「気」というものは無視できないものであることを確信しました。

先生のセミナーを受講し始めてしばらくしてから、太極拳と気功の教室にも通い始めました。以前から関心を持ちながらも、なかなか腰を上げなかったのですが、健康と新たな趣味をつくるためにと思ってやってみると、これがなかなか心地よいのです。身体を動かし、「気」を感じることで、内面から少しずつ変わってきているような感覚があります。本書に通じる部分があることを、強く感じた次第です。

 冒頭にも書きましたが、本書でまだ咀嚼できていない部分が多いため、再読し、少しずつ理解を深め、身体や自分の内面をみつめていく所存です。
 今回も貴重な本を読む機会を与えていただき、ありがとうございました。

投稿者 ktera1123 日時 2019年5月31日


「身体の聲」

課題図書が発表前の平成31年4月にとある「まとめサイト」で「東京駅から三重鳥羽水族館と伊勢神宮まで歩く(歩いた)」というスレッドが上がっていました。総距離約530kmになる行程を13日間で完歩した記録が話題になっていました。歩いた人曰く「江戸時代に1ヶ月程度で江戸から伊勢までお伊勢参りに出かけていたので、半月程度あれば到着できるのではないか。」とのことで始めたとのことでした。歩いた人は、もともといろいろなところへ、徒歩で出かける人だったのは確かだったのですが、本文中で「500km歩いた修学旅行が信じられない」と言っていたのが、とある人の行動によって時間があれば達成可能なことは否めないことは事実なようです。

私ごとになりますが、携帯電話のヘルスケアの歩数の5月1ヶ月の記録の平均が歩数が約12,500歩、距離にして約7.7kmになりました。仕事で主に公共交通機関+徒歩で出かける機会が多い方になるのですが、終日出歩いているわけではない(流石に無理かな)し、自転車ででかけた日はそんなに歩数が伸びるわけではないので、この程度に留まっています。
比較的、東京への通勤圏の公共交通機関と徒歩で通勤している人の距離と歩速がでているのは、毎朝の通勤時間帯に信号待ちの都合により同一グループ化されるみなさんと、若干の速度差はあれども、次の信号・踏切待ちの時に再合流するので時速4kmから6km程度はでているようです。

そのような人が屋久島に行くと、たまたま台風の影響もあり東京へ通勤している40歳位の男性2人組になると、普通に歩いて縄文杉まで往復したはずなのですが、ガイドさんに「こんなに早いのは珍しい」といわれたこともありました。(屋久島の登山ガイドさんはほぼ毎日縄文杉まで往復しているので、それはそれで驚異なことでもあるのです)

とあるメルマガに「疲れてるから運動できないんじゃなくて、運動するから疲れないカラダが手に入るんですよ」とありました。運動することにより健康になる。そのために特別なことをするのではなく、日々の生活の中で運動することにより健康な身体を手にいれる、そんな状況にもって行ければいいなと思いながら、日々少しづつ実践を積み重ねていければと感じています。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2019年5月31日


今月の課題図書を読んだ後、強烈に意識した聖書の言葉がある。
それは、第一コリント人への手紙6章19節である。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる神から受けた、聖霊の宿る神殿である。
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
(Do you not know that your bodies are temples of the Holy Spirit,
who is in you, whom you have received from God? You are not your own.)

この聖句を思い出したのは、型について思考を深めたのがきっかけであった。

光岡先生は本書の中で、「日本の武術や芸事では型が重視されている」(P.73)のに対し、
「西洋文化圏の人々には、型、形を理解するための感性が、経験的な感性として育っていない」(P.84)ことを指摘している。
確かに、自分が過去に習っていた華道(正心古流)と空手道(極真)では「型」が重視され、型を学ぶことから稽古が始まった。

反対に、私が通っている歌の教室では、先生が
「自由に歌ってごらんなさい。必要があれば直してあげるから」
と初めに言い渡す。型の存在しない、非常に西洋的な教え方である。

どちらの教え方が優れているか?という問題ではなく、ただ両者は「教え方が違うのだな」と感じる。

そこで、「型」を通した日本的な教え方の、どんな点が優れているか、3点考えた。

1.初心者に分かりやすい

2.ユニヴァーサルに理解される

 自分には、ブラジル人とスイス人に、それぞれ空手をやっている友人がいる。
「型」に該当するポルトガル語、ドイツ語は存在しないため、
そのまま日本語の“kata”という表現を、ブラジル人とスイス人の先生が稽古中に使っているそうである。
 私も彼らと話す時、英語でそのまま”kata”と言っている。
 型は言わば共通言語であり、異なる文化圏の人々とも共有できる財産と考える。

3.一度習得すれば、長時間経っても忘れない

 私は2008年~2011年に極真空手道場に通っていた。
つい先日、ダイエットのため極真空手の「太極一」という型を久々にやった所、
道場から離れて8年経っているにもかかわらず、体が自然に動いて完璧に演じることができ、驚いた。

 これと似たことが、中学時代に3年間習っていた華道でも起こっている。
華道をやめて15年後に花を生ける機会があり、花器と剣山を前に正座した時、
頭で考えるよりも先に手が動き、鋏をさばき、真・行・草の型に従って花を活けてしまった。

 どの生徒にも同じ「型」を通して教えることは、生徒の個性をつぶすのでは?という懸念もある。
しかし、自分が空手や華道の練習に励んでいる時、型の練習の積み重ねを通して、自分の中で芸術性が解放され、それが自分の個性へと成長していくことをはっきりと感じていた。

「頭で考えることなく、無意識のうちに体が動く境地に達する」。
この境地に近づくには、しょうおん先生がよくおっしゃるように、少なくとも3年の修行が意味を持つのでは?と考える。(自分が空手も華道も3年やっていたことは、偶然ではないと思う。)

 光岡先生によれば、「現代人の多くは身体が豊かと感じられず、
身体とは煩わしく、常に操作やコントロールしないといけない対象だと感じている。」(P.128)
つまり、頭や心が司令塔で、体はその命令を聞く奴隷、というイメージだ。

 だが、光岡先生が提示する考え方は、おそらく逆である。
身体は聖なる神殿であり、頭や心は身体を尊敬し、身体のために尽くすべき存在なのだ、と。

 スポーツや楽器を、来る日も来る日も練習し続ける。
心の中でイメージし、それを言葉に出すことで、身体に納得させる。
文字通り「身体に芸事をしみ込ませる」。
 その結果、頭で考えなくとも身体が無意識に動く、「達人」の境地に達する。

 そこまで考えた時、冒頭の「私達の身体は神殿である」という聖書の言葉が浮かんだ。
 私達は神殿の中で、礼拝をし、祈りを捧げる。
神殿をきれいに保つため、掃除とメンテナンスも必要だ。
 私達現代人は、自分の体を自分の奴隷のように酷使するのでなく、
身体に感謝を捧げ、もっと身体を神秘的な聖なるものとして崇拝する心構えが必要なのであろう。

 そこで、二つのことを決意した。

 第一に、内なる身体の聲に耳を澄ませることである。
具体的には、毎日、瞑想と呼吸法をし、自分の身体を見つめる。
喘息を持つ自分は、日々の肺活量のチェックも行う。
 どんなに外部から大量の情報を取り入れようとも、
取捨選択をし、最後に決断を下すのは自分である。
周囲に左右されず、自分の頭と心で考え、自分の身体で感じることを、何より重視したい。

 第二に、月に一冊の古典芸術に触れる。
 日本や中国を含む東南アジア諸国の芸事で「型」が重視されるのは、
古くから伝わる伝統に敬意を表するからだと考える。
 数千年続いてきた「型」には、どんなに時代が変化しようとも、保護され伝承されてきた歴史と普遍性がある。型にはエネルギーがあるということだ。
 そこで私は、月に一冊、古典文学作品を読んだり、古典芸術に触れるなど、
古典に流れるエネルギーや知恵を感謝の心で享受したいと思う。


 最後に、私の茶道の先生の言葉を紹介する。
「茶道や華道などの『道』とは、ゴール到達を目指すものでなく、
到達までの過程を楽しむために存在するのです。
不完全なものの中に美を見出す。それが道なのです。」

 この真理は「身体」の理解にも言えると気づいた。
 私達は身体を完全に理解し支配することはできない。
しかし、身体をより深く知ろうと探求を続けるのが、人の道である。
 たとえ悟りを得るまで道のりが遠かろうと、自分の不完全さを味わい、
「完全な状態」を目指して努力を重ね、過程を楽しむことに意義を見出したい。

投稿者 audreym0304 日時 2019年5月31日


本書を読んで衝撃を受けた言葉は「文化のない身体はない」ということだ。ある意味当然ともいえるこの言葉に衝撃を受けたのは自分の実体験があるからだと思う。
私は時々和服を身に着けるのだが、和服を身に着けた時と洋服を着ているときとでは全く体の感覚が違う。和服を身に着けるとキツイ、辛い、苦しいと言われるが、そうではなく、地に足がつく、足が地をつかむような感覚、身体に力を入れず無理なく背筋が伸びる感覚が自然と生まれる。
感覚の違いに気づいたときこれらの感覚がどこから生まれるかと確認をしてみた。和服を纏って体に合わせるために、腰(骨盤)で固定をする初めの紐一本を締めたときに、体の感覚がまるっきり変わったのだ。その後、和服を体に合わせ、帯を締めたとしても、腰で締めた初めの一本以上に体の感覚がはっきりと変わることはなかった。
紐を締めた腰のあたりがいわゆる丹田、本書でいう臍下で、そこを固定する、力を入れる、気を満たす、意識することで体が安定する感覚は洋服を着ているときとは全く異なる。
 日本の衣服の変遷は、様々な資料で見る限り、あらゆる時代で臍下を紐や帯で締めている様子はわかるし、現代でも武術の道着は臍下で帯を締めたり固定している様子を見ると、丹田や臍下の重要性は生活を通して十分認識していたり、感覚として感じとっていたのではないのだろうか。
 これは私が日本人として和服を着た時に感じた感覚だけれど、夫の従妹が日本にやってきて和服を着た時はもっと直接的に感覚の違いが伝わっていたようだ。和服を着ての歩き方、椅子への座り方は洋服を着ているときとは全く異なるが、一番衝撃的だったのは座敷に正座をしたり、正座から立ち上がったりすることだった。どうやって着崩さずに座敷で立ったり座ったりするか全くわからないというので、「臍の下にだけ力を入れてまっすぐ体を垂直に下に落として・・・」と説明して、手をつかんで補助付きで実際に座らせてみたところ、中腰で体の安定感が失われてしまい、
 
はぁぁぁ!? まったく意味が分かんない! 無理!!
 
と言われてしまった。どうやって座ったらいいかを試行錯誤した後、ようやく座ったのだが、立ち上がる時も「無理!」と言われてしまった。アフリカから来た従妹にとっては、異文化の象徴でもある和服での出来事は劇的で衝撃的なのだった。

 その従妹が立つ座るという基本動作に右往左往する姿をみた時に、体の使い方は国によって、服装によってだいぶ違うものなんだな、と漠然と感じたのだ。
本書を読んでいてこの出来事を思い出した。衣服はその土地の文化の最たるものだし、身体も衣服もお互いに影響を受けあうものではないか。
 アフリカといえば見るからに重そうな水瓶を頭にのせて荒野を歩く女性を思い浮かぶ。水瓶を載せて歩く様子は大変そうだけれども、身体に余計な力を入れず、意識的にバランスをとる様子もなく、頭に乗せた水瓶から水をこぼさず歩く姿はアフリカならではの古からの身体の使い方であろうし、5俵もの俵を担ぐ昔の日本の女性にも通じるものがある。

 私は5俵を担ぐことはできないし、アフリカの都会で生まれて育った従妹も水瓶を載せて水をこぼさずに歩くことは到底難しいだろうから、日本に限らず、世界中で人間は身体の使い方を忘れ、身体観を失っていながら、気づかずにいるのかもしれない。

 ここで古の身体観をそのまま持ち続けなきゃいけないのかと疑問に思う。私たちの生活は急激に変化したし、この先5俵の俵を担ぐ必要があるのかははなはだ疑問だ。昔の人に比べて足や腰を使わずにいるとは言うが、人生100年時代、寝たきりにならないためにも足腰を鍛えることの重要性はスポーツジムやちょっとしたコミュニティに行けば必ず耳にする。
 現代人には現代人の体の使い方はあるし、身体の鍛え方は昔とは違った方法であるのだと思う。また身体だけでなく、精神や心も現代にあった整え方もあるように思える。「なんかそんな気がする」というような感覚も精神や心と身体が離れてしまえば体の不調や心の不調を感じる感覚とともに消えてしまうようにおもう。だからこそ、自分に感覚を向けたり、集中するマインドフルネスが流行るのかもしれないけど。

 現代は身体も心もひどく自分というものから離れてしまっているように思う。見た目にわかりやすいマッチョな筋肉や痩せている身体がもてはやされるのは自分の身体を誰もが見向きもしないからかもしれない。その結果たくさんの抱えきれないくらいの問題に向き合ってがんじがらめになってしまっている。心も体もつながっているのだから、たった1か所に感覚を集中することで自分を知り、身体も心も整っていく感覚を取り戻せるのだとおもう。実際、私が和服を着た時の感覚の違いを感じたのは歩き方を変えたからだと思っている。
 感覚を取り戻す方法はスポーツジムでも、ヨガの教室でも、シェアや口コミで広がるセミナーでもバーチャルの世界から情報をつかみ、「なんとなくそんな気がする」と選ぶことができるのも現代の私たちの文化を通して生まれた身体を持っているからだと思う。

投稿者 str 日時 2019年5月31日


身体の聲 武術から知る古の記憶

実際に5俵もの米俵を担いでいる女性を見かけたとしたら、唯々我が目を疑うだろう。当時は普通の光景だったとしても、私の中にある常識の範疇からは明らかにはみ出した驚愕の光景だ。むしろ技術がこれほど発展している時代なだけに、その女性が人間である事を疑い「未来から来た人型サイボーグか」と捉える方がしっくりくるかもしれない。

勿論、実在した先人達に対して失礼極まりないが、それほどあり得ないと感じてしまう。私は米俵を実際に担いだ経験はなく、年に数回は精米の為に米袋(1袋30kgくらい?)を精米所に2袋ほど持って行くが、1袋ずつ車に積み込むのだけでも正直億劫である。その10倍の重量など担いで移動するイメージが全く湧かないのだ。

先人達が単純な“力”だけでそれらを成し遂げていた訳ではないのは何となく分かる。呼吸や体幹など、身体のあらゆる機能を駆使する術を日頃から身に付けていたのだろう。生活を豊かにサポートしてくれる道具に恵まれ、『労働観と身体観』の常識が緩く設定された現代で育ち、それを普通の事として生活している私には一生掛かっても出来ない芸当だろう。どう足掻いたところで“道具”という便利でラクな存在を知ってしまっている以上、そういった逃げ道が脳裏に浮かび、そちらを選択してしまうのは間違いないからだ。

本書で紹介されているような先人たちは、自らが身を置く環境が自然と身体を適応させていったのだろう。本来ならば同じ人類として、私たち現代人も同程度のスペックを持つよう設計されていたのかもしれないが、無理に使う必要のない環境が、徐々に身体能力への制限を設けてしまったのではないか。仮に、かつては【身体8:道具2】だったとすれば、現代ではその割合が逆転しているようにも思う。とはいえ、私にとっては“普通のこと“であり、これまでは特に意識してこなかった。

『身体の聲』とはそもそも何か?
体調不良や痛みといった、身体から発せられる信号の様な類ではなかった。生物としての直感。遺伝子に組み込まれているはずの本能の事なのか。答えは分からなかったが、これまでは誰かが『正しい』とした手順やフォームに違和感を感じながらも、それが正しいと思い込み、真似してきた事も確かにあった。その違和感が『身体の聲』だったのだろうか。

現代に於いて何をするにも、何処へ行くにも『選択の可能性』が増えすぎているし、この先も更に増え続けるだろう。それらの選択肢にある利便性を知ってしまっている以上、排除していく事は難しい。けれど選択肢を新たに加えることは出来る。「果たしてそれらの方法は、自らの身体だけでは不可能なことなのか」「その道具は、本当に自らの身体より優れた結果をもたらしてくれるのか」

迷うことなくモノに頼ってしまうのではなく、身体を持つ生物として自らの『身体の聲に耳を澄ませてみる』という選択も加えていきたい。

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投稿者 soji0329 日時 2019年5月31日


「身体の聲 武術から知る古の記憶」」を読んで


この本のキーワードである『型』を基に読み進んでいきたい。

『はじめに』の中で、著者の光岡英稔氏は、『四面楚歌で八方塞がり。絶体絶命の危機であっても、その我が儘の通じない「絶望的な行き場のなさ」こそが生きて行く上での最大の可能性になります』と述べている。

この「絶望的な行き場のなさ」が型であり、そして型によってもたらされる個性がこれからの時代に必要なのだ。それにも関わらず、個性の宿る身体が観えないのが問題であると。

そんな光岡氏が『いい大学に入り、いい会社に勤める』という、まさに1980年代における日本の一般的な考え方、ある意味での『型』から脱しようとしたのは、何とも皮肉なことだ。しかしハワイに渡り、様々な国から来た人々と武術で交わる中で、ハワイの風習に溶け込んだにも関わらず、自分を失わず、自分を冷静に見続けたのは、強さに対する探究心の賜物であろう。

自分が生きた日本。その漢字圏において文化を伝えるのは『型』が必要なのだ。光岡氏は、ただ身体を動かし、感性で理解しようとするのではなく、文化、歴史、言語、環境、すべてからきわめて論理的にアプローチしている。そしてその表現も、武術や技ではなく、歴史の絵画や文献、言語学から数学。さらには現代の映画や自分の妻とのエピソードまで、多彩に渡ることに感心させられる。

これは、光岡氏の心酔する、韓氏意拳の韓星橋先生と韓競辰先生によるものであろうと推測される。両先生は『ここまで深く身体を観ている人はいない』と述べているが、あらゆる方面から広くも探求しているのだろう。光岡氏もそうした姿勢に触発されているに違いない。

韓氏意拳の『型』の一つが、静かに動かないでいることだという。そのことが、深く自分の感覚を研ぎ澄まし、自らを見つめて強さを探求して行こうとする光岡氏の方向性と一致したのだろう。武術では先に動いた方が負ける。強さの秘訣はこの不動の型の中にあるのだ。

型からもたらされる個性。そして個性を宿すための身体。つい百年前では、米俵を何俵も担げた日本人は、もはやその10分の一も難しい。道具を発達させ、自らが担ぐ必要がなくなった結果、身体観さえ失ってしまった。そう言われては深く同意するしかない。

私はこれまで、人間は『精神』と『身体』で構成されていると考えてきた。しかし光岡氏によると、『精神』は神と会話するための媒体であり、一神教を進行して初めて理解できる言葉だという。また『身体』も、もともとは『身』と『体』は別物で、さらに『体』も数多くあるのだとか。正直、私の考えは根本的に覆されてしまった。そして自分なりに反省したのだ。私は光岡氏の言う『客観的事実の抽象的集合体』をろくに疑いもせずに信じてきたことを。真の意味を探求せず、「みんなと同じ」であればいいと考えていた自分。情報を集めはするものの、自分で考えず、一番無難な答えを選んできたのではないだろうかと。

私が『精神』と考えていたのは、光岡氏のいう『気』であろうか。気を理解するための生気論の中で、「無中生有=無から有が生じる」というのは、光岡氏が動かない鍛錬『站椿』で体得したことだろう。何もない、空っぽさを見つめていると何かが立ち現われてくる。忙しい現代ではなかなか出来ない経験である。しかしふっと芽生える孤独感や寂しさは、意外とあるものだ。早速自分でもトライしてみたい。

『身』と『体』。光岡氏によると、『身』は「ある」「つまっている」で『体』は「なさ」「空っぽさ」を意味するのだという。あるとない。無と有。まさに自分の身体を知ることで、気を理解することができるのだ。

では身体を知る、とはどうしたらいいのか。私はこの本の中に書かれている立ちしゃがみをやってみた。立った状態からゆっくりしゃがんでいく。と、踵が床から浮いてしまう。逆に踵を床に付けたまましゃがもうとすると痛みが走り、途中で固まるしかなくなるのだ。そして分かった。身体の聲としてまず自覚するのは、この痛みなのだと。

出社して毎日行うラジオ体操。しかし今あらためて思うと、痛みを感じるほど伸ばしたり曲げたりすることをしなくなった。たまに運動をすると、筋肉痛になるたび自分の身体を持て余していることに気づく。痛みを感じないでいる身体、これが光岡氏のいう、共同幻想の中で作られたバーチャルな身体なのだろう。

私は昨年5月の基本編セミナーで調息を教わって以来、ほぼ毎朝行っている。大きく息を吸い、拭き切ってから息を止める。時間が経つにつれ、酸素が足りなくなってくるのだろうか、頭に独特の痛みが広がってくるのだ。この痛みこそ身体の聲であり、何のことはない、毎朝聴いていたのだ。

この本によって、私の考えは根本的に覆された。これからは一度頭を真っ白にして自分の身体に向き合いたいと思う。貧弱ではあっても私の身体が存在しているのは事実である。そしてあらためて自分の考え方、型を構築し、現代の閉塞感を切り開いていきたいと考えている。

投稿者 H.J 日時 2019年5月31日


現代と昔を対比しながら、人間の身体について説明しており、
「へー」とか「そうなんだ」と勉強になる一冊だった。

ただ、本書で重要な要素は、「現代はこうだよね。でも、昔はこうだったよ。」という情報ではなく、
「身体のこと、ひいては自分自身のこと、キミはわかってるの?」
という著者からの問いかけだと感じた。
その問いかけの答えを受け止めることこそ、「身体の聲を聴くこと(P225)」に繋がる気がする。
そして、身体の聲を聴くことが、著者の言う”今の時代を生きるためのヒントと可能性”だと感じた。
なぜならば、自分の身体を知らないということは自信がない。
すなわち「この身と体で生きている」という感覚経験と自覚(P220)がないと、いえるからだ。
そうなれば、著者の言うように”客観的事実(P177)”に逃げようとするだろう。

その”客観的事実”にどんな可能性があるだろうか?

世論に流されて、大変なことたくさんあって、死ぬときに「あー幸せだったな」と口先だけで言える可能性ぐらい
だと思う。
たぶん、数年前の私なら、これで満足だっただろう。
しかし、今は学ぶ楽しさやその先にある豊かさを知ってる。
こんな最期では不満足だ。
だからこそ、自分の身体を使って、色々なものに触れて、色々な経験をして、自信をつけて、”本当の意味での主観”を身に着けたい。
経験や体験するためのリスクを怖がってたら、何も始まらない。
赤ちゃんの時は、転びながら痛い思いをして泣きながら、立ったり歩いたり成長していく。
同じように、大人になった今も失敗しても転んでも、起き上がりながら成長できるだろう。
その先で”主観”が身につく様に思える。
”主観”とは、正解不正解は関係なく、良い悪いも関係なく、自分の意思だと考えるからだ。
外部のコントローラーで操作してもらうのが”客観的”とするならば、
自分の意思で舵を切るのが”主観”だといえる。
だとすれば、どちらが正しいとかではなく、両方のバランスを考えることが大切なのだろう。
極端に”主観的”でも自分中心的になり周りが見えなくなるし、”客観的”でも上記で述べた様に世に流されるだけ。
つまり、主観的と客観的事実のバランスが大切だ。

で、話を戻すと結局
「身体のこと、ひいては自分自身のこと、キミはわかってるの?」
という問いかけの答えは
「わかったふりをしている」
だけである。

というのも、本書を読んで、「はい、わかってます!」なんて言える人は、何一つ不自由のない暮らしをしている人だけだろう。
本書を読んで、自分に落とし込んで自問するだけで、自分自身のわかってないことがどんどん出てくる。
知ってるよと思ってることも実は知らなかったりする。
その中には課題もあるし、希望もある。
これは、本書だけに言えることではないが、こうやって知識のインストールをしつつ、自分の知らない部分を知っていくことって楽しい。
本書のテーマが身体なので、最初自分の身体のことをメインに考えていたが、
身体のことを考えることも、結局は頭で考えて、答えを出す。
答えを出して、身体で実践する。
そう考えると結局は思考を具現化するのが、身体である。
つまり、思考能力と身体能力、どっちが大事かではなく、両方とも大事だと感じた。
だからこそ、自分を知り、自分に合った今後の人生を設計しよう。

投稿者 gogowest 日時 2019年5月31日


「身体の聲」をよんで 

本書では身体の多重性について言っているのが、とても印象的でした。その多重性の中には、バーチャルなものまで、想定されていることに驚きました。武術家である著者は古の身体観に回帰しようと主張すると思っていましたので、これは意外でした。
身体が自分の存在を感じるための基礎になるので、現代を生きている人は、特にパーソナルな色合いの濃いSNSのなかでは、その中だけで通用するペルソナを持つことが増えると思いますが、それもバーチャルな身体性に相当するのでしょう。
著者は現代的な観点も理解しながら、身体的なジェネレーションギャップを埋めるためのコミュニケーションに苦心されているのだと思います。

西洋と東洋での身体へのアプローチの違いによる身体観の対比が興味深いです。西洋では、肉体はコントロールされるべき物体としてとらえられ、その身体観を基に西洋の世界観が形作られていると解説されています。今の世界のスポーツの流れは、西洋的なポジションとムーブメントの文化が主流であることから、テクニックが重視され、必然的に競技化されていくという指摘にはとても納得がいきました。身体と文化の関連性には気が付きませんでした。

「気を向ける」と言われると意識して、頭からの集中になり、その一方、「気持ちを向ける」胸のあたりからの気持ちの「集注」になると書かれています。このあたりの言葉の違いによる感覚の違いは、著者が多くの人を実際に指導する中で、気が付いていったものだと思いますが、こういった意識の置き方で、身体感覚が異なることは興味深いです。

「集中」ということばのなかにも、西洋の「コンセントレーション」という言葉の中にもセンターを示す「中」「center」が含まれています。
一方、「集注する」は英語に置き換えるなら「pay attention」であり、センターがない「集注」は著者の「気持ちを向ける」という表現につながっていると思います。(”pay”という動詞は配慮のニュアンスを感じさせます。)

西洋のスポーツの鍛錬は「pay attention」の流れのなかにあり、実際私が見た「プロレスの神様」カール・ゴッチが持っている空気は張り詰めた注意が身体すべてを支配しているという感じでした。そのとき蔵前国技館でカール・ゴッチの立ち振る舞いを見た人からは、どよめきが出ていました。私は、その立ち振る舞いからは、張り詰めた注意力によって支配された身体性を感じました。

一方、東洋の武道関係の人は、また異なった空気感をまとっていると私は感じます。張り詰めた注意ではなく、非常に温和な柔らかい空気の人とか、気配を非常に希薄にしている人など、西洋のスポーツを気分けた人とは大きく異なった空気感を持った人がいます。
東洋では、頭でコントロールするというのではなく、身体自体の叡智を開花させるというところに主眼が置かれているからなのかもしれません。
このように、西洋のスポーツと東洋の武術では「気、または気持ちを向ける」方向性の違いがあるのだと思います。

著者は身体が「體」にもどる手掛かりとして、「からだ」と「身」を分けています。「身」は感覚経験であり、「身」を感じること、これを深めていくことで、「身」を見つけていく。
「身」は西洋の言語でいえば、ビーイング(Being)であり、頭でわかるのではなく、感覚として「ある」ものであり、感覚を生じさせるのは、内なるBeingです。この内部に生じる確かにある「なにか」を感じることが、ビーイングを育てることだと聞いたことがあります。

生気論的観点から、気の感覚と身体感覚としてのなにかが生じてきて「ある」ということを感じとれる経験について述べているのが興味深いです。西洋思想の訓練も、身体の感覚と正確な動作を基準にして行われます。身体の皮膚感覚への集注(アテンション)や、そのアテンションの持続、「ある」という感覚を探すこと、そして「自分がある」状態で、動作が正確に行われているかということがメインとなる修業が存在します。西洋は思考優位と考えられることが多いですが、実際の修業は、身体への集注(アテンション)が重要なキーになっています。
伝統的なキリスト教の東方正教会では身体的な鍛錬から学びはスタートします。「キリエ・エレイソン」と唱えながら長時間続ける苦行的な礼拝の動作が基本としてあります。(アテンションを身体感覚にむけて深めていくことで、自分自身に立ち返ります。)

自分を見失ったときには、原点である自分の身体の感覚に立ち戻り、「ある」という感覚を深めていくことで、失われた「自分」を取り戻すという技法は、西洋であっても東洋であっても、同じであるということです。

最後の「おわりに」に述べられている「自発性と直感」の部分は本書で書かれたことのエッセンスであると思います。AIのところで出てきた人の認識を超えたレベルから出現する「黒魔術」としか思えない形であらわれてくるAIの「知性」のように、身体からは「自発性と直感」が沸き起こってくるというのが著者の実体験なのだと感じました。これが「身体の聲」ということなのでしょう。身体自身が持つ叡智、これを聞くための集注、またはアテンション、身体性というキーワードを日常的に気を付けていきたいと思います。

投稿者 collie445 日時 2019年5月31日


この本では、今の絶望的な世の中を生きるためのヒントと可能性、
一筋の光明と可能性を提示している。


筆者は、武術での実戦経験から自分なりの道標を得た。


武術の稽古では、「型稽古」をすればするほど、
できるようになればなるほど自分の動きの無駄、問題点が分かり、
「やられているところ」や「まだまだできていないところ」の不利を知ることになる。


この絶望的な状況を自分で直接経験できることこそが何よりの稽古になる。


『「型は個性を消すのだ」と思いがちです。』(P.7) 

『むしろ型は無駄な動きを消すように私を諭してくれ、
我が儘に振る舞おうとする自分の我に方向性を与え、
本当の意味での個性を伸ばしてくれます。』(P.7)


武術は、「直接体験」である。
絶対絶命の危機を「直接体験」する。
そんな状況でどう振る舞うかを訓練している。


『四面楚歌で八方塞がり。絶体絶命の危機であっても、
その我が儘の通じない「絶望的な行き場のなさ」こそが
生きて行く上で最大の可能性になります。』(P.6)


この体験が今の時代を生きるためにヒントと可能性に繋がる。


本書の内容は、私には正直難しかった。
頭でっかちで身体を使う経験が不足しているからかもしれない。


特に『武術、職人の技術、芸能などの古典から過去の教えを振り返る』
というのがうまく読み取れなかった。
そんな中、私が読み取れた部分から、これからの生き方のヒントを探ってみようと思う。


明治期からの近代化の影響で日本で古(いにしえ)の身体観が失われてきたと筆者は述べている。


近代化以前は、どうだったのか振り返ってみた。


どこかに移動するには、自分の足で歩いて行かなかればならなかった。
馬に乗ったり、駕籠に乗ったりして移動していた。
動力は、人、馬、牛などの動物や、風だ。
海上では小型の帆船で移動していた。
情報の伝達や記憶は、人から人への語り伝えや、和紙に書いた文字や絵だった。


それらが近代化により、進化していく。


移動手段はこんな感じだろうか。
陸上では、馬車や蒸気機関車、自動車、鉄道、高速鉄道、リニアモーターカーと言った具合だ。
空を飛ぶこともできるようになった。
熱気球、飛行船、飛行機、ジェット旅客機。


動力は、人力、動物、水力、風力から石炭、石油、ガス、電気、原子力だろうか。
情報の伝達や記憶は、人から人への伝達、紙から新聞、ラジオ、テレビ、
パソコン、インターネット、携帯電話、スマートフォン。


技術としては、進化したが、私達ははたしてどうだろう。


自分の足で遠くまで移動することはできなくなった。
火を起こすにも一苦労だ。


かつては持ち上げられた米俵も持ち上げられなくなってしまった。
昔は自分で何件も記憶していた電話番号も、
携帯電話やスマートフォンのアドレス帳を使うようになって、覚えられなくなった。


かつて、私達の中にあった能力を、私達の外にある機器に任せるようになって、
私達は退化してしまったとも言えるのではないか。


『「メディアが発信する情報を参照しないと自分のことがわからない」』(P.29)


『現代において私たちが「現実」と呼んでいるもののほとんどは、直接の体験ではなく、情報や概念で構成された体験の記憶を指すようになっています。』(P.30)


「直接体験」の不足が、ますます頭でっかちな現実を作ってしまっている。


さて、ここからどうするか。


『「あの頃へ戻り過去を変えることは出来ない。でも私達は過去から学ぶことはできる」
という言葉が道標になると思います。』(P.4)


「身体の聲」と「声」ではなく、「聲」という字を使っているのは、
過去から学ぶということを象徴しているのかもしれない。


「直接体験」を増やしていこう。


家庭菜園で自分の手で野菜を育てる。
自分で育てた野菜を料理して、食べる。
自分の足で歩く。

気になったところへは出かけてみる。
自分自身で色々なことを体験する。

気になった健康法を自分の身体で試してみる。
ネット空間ではなく、直接、人と面と向かい合って、コミュニケーションを取る。


身の周りの自分にできることを一つ一つやりと遂げる。
自分の身体に目を向け、耳を澄ます。


こうした行動を通じて、自分の感覚を取り戻すことを心がけることで、
「身体の聲」を聞けるようになる。


エゴではない真の意味での個性を発揮できるようになる。


そうして、人生百年時代と言われるこれからの時代を生き抜いていきたい。

投稿者 jawakuma 日時 2019年5月31日


身体の聲 武術から知る古の記憶 光岡英稔 を読んで

今月は武術の先生が書いた本ということで、武術家なんだから武術と身体関連の本なんだろうなぁと思いながら読み始めたのですが、身体の感覚を突き詰めた結果、思考が深耕し内観を経て言語、文化、思想、哲学にまで及んで語られていたことに驚きを感じ印象深かったです。奥付の写真を拝見すると北斗晶の旦那さんみたいな見た目なのに(失礼)トリリンガルで思考も深く、人は見かけと肩書きだけで判断できないと反省しました。

私は小学校から剣道をはじめ高校まで剣道部に所属していました。特に高校の剣道部は相当ハードで夏休みとお正月の1週間以外は毎日稽古を積んでいましたが、稽古中はやはり水を飲ませてもらえず、黙祷のまま30分間の正座、グランドの端からの発声練習等、昭和ながらの練習を繰り返していました。その稽古の中でそれこそ身体の経験を通して感じられた感覚があったので本書での記述も理解できる点が多々ありました。

高校に入ったときには中学までの、竹刀をスピードまかせに当てに行く打ち方は徹底的に直されました。刀の反りで切る動きが再現されるような剣先の弧の動きを行うよう指導されたのです。居合の経験もある先生だったからこその刀の感覚を生かした指導内容だったのかもしれません。本書では日本・東洋の型の話が随所にでてきていましたが、剣道ではその最たる例を構えに見ることができます。構えは正眼とよばれる中段の構えが一般的なのですが、正しく構えができている相手には隙が無く、下手に手を出し攻めようとすればそこに隙が生じ、逆に攻められ負けることになります。本書でも書かれていたように相手を負かそうと思う心と、動き出しの構えの崩れに隙が生じるのです。したがって上段者の試合になればなるほど、構えの攻め合いと一の太刀へのこだわりが強くなります。主将をはじめとする先輩方は練習の前後に鏡の前で何分間も納得がいくまで構えを続けるほどでした。試合となると観覧席にまでそのピリピリとした緊張感が伝わるのですが剣道をやっていない人からすると、何してんの?早よ打てや!っとわかってもらえないことが多いと思います。また勝負も一瞬なので今ので終わったの?と気付いた時には終わってしまうこともあると思います。
また打突がその部位に当たっても有効な一本として認められないことが殆どなのも特徴的で、気剣体の一致を持って初めて有効打突と認められるため、経験者や剣道ファン以外にはその判断が非常に難解で五輪種目にもなり辛い理由だといわれています。指導を受ける際には、気合と剣と身体を合わせる!と普通に指導されていましたが、“気合”と言っても自分の子供達には伝わらないですよね。ドラゴンボールのかめはめ波みたいなもの?と普通に言われてしまいそうです。
そういった稽古や感覚、型の概念や思想は日本で生まれそれが当たり前として育っているのでそれが地域と文化、時間に根差しているということを本書によって気付かされました。子供の頃は祖父母の話を聞きながら、へー昔は不便だったんだなぁーと簡単に受け流してしまっていましたが、経験のありなしで身体感覚も言語も思考も異なってしまうということがわかり、今思うともっとよく話だけでも聞いておくんだったと後悔の気持ちが立ち上がります。その時代その場所での身体の聲は失われ続けているのです。技術革新のスピードに合わせ社会の変遷のスピードもどんどん早まっているので身体感覚のジェネレーションギャップのサイクルも早くなっています。文化的な面では地域と気候こそ違いますが、概念・価値観・抽象的な客観までワールドワイドで西洋化が進んでいっています。頭や知識だけで分かった気にならずに、その地を訪れ時間・空間をその場で経験しなければ、そのエリアが持つ文化は理解できません。そういう意味では語学の習得も著者が行っているように現地に飛び込んで、一から体感を通じて学んでいく方が本質的な理解にたどり着けるのでしょう。

著者の思考の深さに驚かされた記述がもうひとつあります。欧州の機械化・産業革命への流れはデカルトの提唱した機械的な身体観から端を発しているというところです。人は身体を通した経験からインプットをしていき価値観を上書いていきますが、そこからアウトプットされるものはポッと出で生み出されるのではなく、上書きされた価値観のフィルターを通してからしか出てこないということが理解できました。世の中を変えていくのは実は思想・価値観からということなので、現在の正しい人間像、完全完璧な人間像を求める概念からはホモ・デウスで書かれていたような超人を求める未来へとつながっていくのかもしれません。

著者も言っていましたが、日本、ハワイ、中国それぞれの経験、価値観を経ることで本書のような外部からの気付きが得られているわけなので、私も移住まではいかなくとも定期的に海外旅行くらいは行くようにして視座を高めていきたいと思います。
子供の教育も机での知識の習得だけに偏らずに、自然の中で身体を使って遊ぶ中で得られる経験を通しての学びも教えられるよう親として体験学習の場を設けていきたいとおもいました。

今月も良書をありがとうございました!

投稿者 vastos2000 日時 2019年5月31日


先月の課題図書と今月の課題図書はそれぞれが、基本編セミナーの紹介で触れられる「知識」と「気づき」に相当しているのか?
知識は主に言葉を介して得られる。気づきは自分の体験や思考が元になり、そのひと個人についている。

そして、思考はその考える人の身体に規定されるのか?

極端に考える。
例えば、プロ野球選手と半身不随者が同じ事象に対して同じように考えるか?
晴眼者と全盲者が同じ場所にいて同じように音を認識し、同じように感じ、考えているか?
他人の身体に入ることはできないが、おそらくは異なる考えや感じ方になると思う。

学生時代、アフリカ系アメリカ人の留学生と接する機会があったが、ベースとなる体のつくりが違うと感じた。彼はウェイトトレーニングはそれなりにやってはいたが、ナチュラルに筋肉質。そしていわゆるバネがあった。自分自身は彼よりもウェイトトレーニングはしていたが、筋肉量がまるで違うのが一目でわかるレベル。50m走れば自分が勝つが、5mや10mの短い距離では先に行かれる。
当然に身体感覚も違うだろうから、同じ目的(例えば対面の相手を抜く)のプレーであっても選択するプレー(つまりは思考)が違うものになることも当然あろうと思った。
例えるならば、ソフトウェアはそれを搭載するハードウェアに依存するものであると感じた。
ブロードバンドとスマホが普及してから、世の中の情報量が爆発的に増えたと言われているし、たしかにそう感じるが、われわれはそのような現代に対応できているのか?

別の例として、レモンや梅干しなどの酸っぱいものを思い浮かべることを取り上げる。おそらく、日本人の多くは梅干しをたべた時のことを思い出すと唾液が出てくる。
実際に食べてなくても食べたときと同じような反応が起こるわけだ。(これをうまく応用すれば、願望実現できるのか?)しかし、レモンも梅干しも食べたことがない人(身体)の場合、唾液は出てこないだろう。

身体のちがいという点では、現代日本の食事も気になっている点がある。
日本とは気候も食べてきたものも違い、当然身体のつくりも違うドイツ人(ベルツやフォイト)が唱えた栄養学が今の日本の常識になっている。
明治より前の日本人は牛肉や乳製品を口にする機会はほぼなかったと思うが、雇われ外国人が驚くほどの体力を持っていたのだから、そんなもんを食べたり飲んだりしなくても大丈夫なのだろう。

本書でも牛乳に関するエピソードが出てくるが、日本人の身体になじむものとそうでないものがあるのではないか。
自分自身、腸内環境を整えようと、以前は毎日ヨーグルトを食べていたが、食べてもやめても特に変化はないので食べるのをやめた。(そもそも食事を1日2食から1食に減らした)
周りの人は「1日1食でよくもつね」という考えが多いが、1日3食とるというのは誰がどのように決めたのか?

そして同じ人の中においても著者は『体はいくつもあると考えたほうがいい。』という。
『私自身はうわべでは変わらないにせよ、感じていることや思考していることが英語や中国語という型を用いることで違う私が現れます。
ですから、言語は頭で理解するものではないのです。』とある。
私の解釈では人の身体もパソコンのようなもので、いくつかのOSの上にソフトやアプリがのっかって稼働しているが、そもそもOSをバージョンダウンしてみれば、と本書は訴えているのではないか。
そうすることで、『その共同幻想、さらには共同幻覚に気づいて、自分の「身」と「体」」を多少は見分けられるようになる』(p138)のかもしれない。

投稿者 eiyouhokyu 日時 2019年5月31日


「身体の聲」を読んで

 本書ででてきた「所作」という言葉は、私の中でのキーワードとなった。動作や動きでもない、所作と言う言葉。実は、以前「所作」という言葉を聞いて心に引っかかっていたからだ。NHKの朝の連続小説ドラマ『あさが来た』の脚本家・大森美香さんの講演を聞いた時に、役を決める際、俳優の玉木宏さんは「所作ができる」ことが決めてとなったと仰っていた。その時私は、初めて所作という言葉を生で聞き、演技でもなく、動作でもなく、しぐさでもなく、どうして所作という言葉を使ったんだろう?と思った。
 
 本書を読んで分かったのは、「所作」とは「文化を理解した動き」という意味なんだと理解した(辞書には行い、身のこなしと書いてある)。本書は武道と身体観の話なのかと思い、読み進めると、「身体」を起点にした話で、武道は身体を感じる手法の一つであった。「身体」は、時間軸が変化すると変わってくる。昔できたことができなくなっているのは、身体に関する常識が変化したからだ。そして地域(文化)が異なると、身体観もまた異なる。文化の違いは言葉だけでなく、身体にも違いが表れるというのが興味深かった。日本は、西洋化することで既存の身体感覚を変化させたと思っていたが、長い年月で培われた文化は即座に変容できないように、身体感覚もまたスムーズに西洋化するのは難しい。概念という抽象的なものを受動するとき、受け手の保有している言葉を使って無理やり当てはめて解釈をすることは、本来の意味とずれてしまうということも本書から学んだ。

 改めて気づいたのは、ノウハウばかりに捉われていて、所謂ハウツー本が大量に出回っているのに不安が解消されないという人が多いのは、私たち現代人が正解や即効性のある効果を求めていて、自分の中で調整しながら解に近づくという経験を回避しているからなのではないかと思った。私もそういう現代人の一人で、今まで正解を導きだすことばかりで、正しいか正しくないかだけを考え、思考を深めるという時間は多くとってこなかった。

これは子どもの教育にも言えることで、自発的に思考できる子どもに育てたいなら親が答えを用意しないというやり方をやってみようと思った。ついつい自分の思い通りになるように用意してしまっていたが、距離を保ち見守る。自信ある大人になって欲しいので、それには、結局自分自身が体験するしかない。咀嚼して、体験を活かすも活かさないもそれは本人次第なのだ、と私自身に言い聞かせるようにした。

今月も良書をありがとうございました。

投稿者 tomooku 日時 2019年5月31日


身体の聲を読んで

 運動というとスポーツや登山などの趣味や健康の維持、生活習慣病の改善、美容のためなどの目的のために行われることが多いように思う。身体を動かすのが好きではない人は不健康、体力がないなど。運動に関するイメージはこのような感じであった。身体を動かさないことが、自分に自信が持てないことに関係しているとは考えたこともなかった。

 自分の身体に関しては、今まで姿勢が悪いとか美しく歩くためにはどうしたら良いのかと考えたことはあったが、身体の聲を意識したことはなかった。聞こえる聲といえば正座をした際の足のしびれや頭痛、胃痛などの身体の悲鳴が聞こえるくらいだった。

 時代や地域によって当たり前の身体は異なる。身体の変化に伴って、考え方や価値観、思想や哲学も変わってきている。この変化に対し、著者は危機感を持ち、武術や伝統的な芸能を学ぶことで危機的状況に陥った時のヒントを具体的に本の中でしめしてくれている。

 今まで考えたことがなかった考え方なので、読んで思考をするというよりは、結局は身体の聲を聞けるようになった方がいいよねという結論になってしまう部分が多かったがその中でもより学びとなった点を整理していく。

 『身体の腰が抜け、足が萎えている日々を送っていては自分から積極的に行動し、局面を切り開いていく力など湧きようがありません。人は足腰がないと根本的な自信が持てないものです。』

 『効率を重んじる身体の感性と考えが今の社会では幅を利かせています』『己を観つめるより対象に問題を見出し、解決策を考えて自分の外に働きかけることが正しいという発想です』

 以上の2点からは足腰が無く、足が萎えていては自信を持てないこと。自分の身体を観つめることをしないことから自分より人のせいにしてしまうことを学んだ。現状に満足できない原因を外に求めてしまうことのマズさはメルマガでもセミナーでも言われている。負のスパイラルに陥り、自分の思い通りに人生を生きることが難しくなってしまう。

 この解決策として武術などの古の教えは自分の身体の観つめかたを教えてくれ、自分の身体に、集注することで軸を自分の外から内へ戻してくれる。

 『触れてコミュニケーションをとる文化が廃れると、身体の構造を経験的に学ぶ機会がなくなります。中略 他人とはただ怖いだけの抽象概念上の存在になります』『何者かを演じて関係性を保ちつつ、演じている限りは他人とは親密になれない。しかし他者に向かいたい衝動がある。』

 コミュニケーションに関しても身体が変化したことで昔とは違う問題が起こっている。他者が怖い存在になってしまうと周りの人たちと助け合うことができなくなってしまう。

 この問題に関しても武術では、実際に対面して体に触れる機会になること。他者と向き合うことで自分の内面を観るきっかけになること。コミュニケーションで大切な共感や同調も学ぶことができることなどを解決のヒントとして挙げていた。

 自分の身体について、自分が知らないという現状に気づき、あらゆる経験は情報では得られず身体を通して体験するものであるということに改めて気付かされた。今月も良い本を紹介していただきありがとうございました。

投稿者 nishimikado 日時 2019年5月31日


「体調管理ができてこそ一人前の社会人」などといった社会通念を疑いもしなかったこれまでの自分。
頭でっかちに「大抵のことは何でも自分自身でコントロールできる」と考えていた自分。己を観つめるなんてことはせず、もちろん「身体の聲」に耳を傾けることもありませんでした。
せっかく著者が「情報と知識の共同幻想を超えたところに可能性がある」と主張しているにもかかわらず、私がもしこの身体感覚を変えることがなかったとしたら、きっとこの先も、自分が動くべき機を捉えることも、「黒魔術」に遭遇できることもないでしょう。
本書は自分の傲慢さを痛いほど突き、そしてそれを爽快なほど粉々に砕いてくれました。また、自分を観つめることのできなかった私は「可能性」というものを常に自分の「外」へ探し求める、青い鳥症候群だったのだとも思いました。

本書は、なぜ我々が自分の身体をコントロールする対象と見ていたのか、そうした操作願望はどこからやって来ているのか、という点を、身体観の変化の歴史を解説する中で丁寧に論じている点が素晴らしいと思いました。
責任転嫁のようになってしまいますが、私たちは、産業化など社会が変化する中で、強迫観念によって引き起こされた不安や頭の中で概念化された気持ちにより、自身の存在に目を向けなくなったというのです。

しかし、著者が強調する点は、社会よりも言語よりも先に人間の身体、感性が存在するということです。そして、環境と身体の間で文化が生まれるということ。それから、言語は文化の一部として派生するということ。この言語に関する記述は、前回の課題図書『思考と行動における言語』で、人間生存の基礎的機構として、言語の使用を通じて種内で協力をするようになったと書かれていたことを思い出しました。

だから、外在化する機械や機械的社会が作り出されたのは、それより先に機械論的な身体観が人の感性に内蔵化され始めたからであるといいます。
私は、そのような社会の生まれ方に思いを巡り至らせた経験はありませんでした。しかし、誰かが最初に当事者として思い浮かべた機械的社会の中で、時々そのひずみを感じながら、しかし疑うことはなくその便利さをただ享受しながら生きてきたのだなと改めて思いました。

「技術の発展していく方向は、いかに身体から離れるか」であると著者はいいます。既に、体内にICチップを埋め込み、センサーに手をかざすだけで解錠や電子承認を行える生活をしている浜道崇氏のような方がいます。それはそれでご本人に、自己を観つめるプロセスがあったのか、あったのであればどういう内容だったのか、という話を聞いてみたいですが、彼の行動の根本は、やはり「身体はコントロールできる」という思想であると考えます。

『現代医学は、もともと物理学と構成学のほうを向いている。身体はきわめて精巧にできた機械と見なされ、病気は、感染や外傷、遺伝的欠損、老化、ガンなどによって生じた、その機会の故障と見なされる。』
これはジョン・サーノ博士の『ヒーリング・バックペイン』からの引用です。私は元号が変わる連休中にむちうち的な症状に襲われ、しかし医療機関はすべて休院しているという状況で痛みから逃れる術を求めてこの本を読みました。現代の西洋医学は機械論的な身体観の上に成立しているのですね。
日本人は、誰もが「気」を扱いながら生活しているにもかかわらず、生気論を感覚として理解できなくなっているのは、輸入された機械論的な身体観が関係しているとの指摘も興味深いものでした。

恥ずかしながら、不勉強ゆえに武術とはスポーツに近いと思っていましたが、芸事であるとのこと。イメージや概念上の身体性が進んだこの時代に武術を学ぶ意味は、教育された共同幻覚に気付き、自分の「身」と「体」を見分けられるようになることなのだそうです。生きている間に去っていく自分(魂)と、ともに朽ちていく自分(魄)の例は印象的でした。

これまでに出てきた、「身体観」と「外在化する機会的社会」の関係、そして、「魂・魄」と「身体」の関係。それらもまた、『思考と行動における言語』における「地図」と「現地」の関係が思い起こされ、一言で「身体」「社会」と表してもそのレイヤーはいくつもの層によって構成されている、という感覚が芽生えました。

私は武術を嗜んだ経験がないため、本書ではサーフィンの例えが非常に理解の助けとなりました。
今から職人的な身体観やコミュニケーションの時代へ戻ることはできません。しかし、個人としては、丁寧に身体に注目しながら静かに立ったりしゃがんだりすることで、感覚経験を養っていこうと思いました。

投稿者 gizumo 日時 2019年6月1日


身体の聲」光岡英稔著をよんで

「あの頃へ戻り過去を変えることはできない。でも私たちは過去から学ぶことはできる」。某映画のセリフとのことであるが、最初から衝撃的な文章であった。
「武道」というとどこか堅苦しく古めかしい感じがするが、自分とほぼ同年代の著者の体験は非常に身近に感じられる内容でわかりやすかった。特に著者がハワイで体験したカルチャーギャップは、現在の自分の環境と似ており参考となるものであった。身体観の違いが文化の違いを生むことは納得のできるものだが、気づかずに無駄にもがいていたことを反省させられた。さらに、「客観」と「主観」に関しても気づかされることが多く、そこまで深く考えたことがなくただの対語としての認識しか持たずに使っていた感があります。同様に「シンメトリー」を過大評価し「アシンメトリー」を間違ったものだとひたすら認めず強制しようとする癖がなかったかも気づかされました。「アシンメトリー」の不思議さにひかれながらもどこか認められない、認めてはいけない気がしていたが、それはそれで存在しても良いものだと認めることができないのは心の歪みだったのではと思われる。「からだ」と「こころ(魂)」の関係に関しても、病気と取り組んでいる自分にとって納得のいくものであった。「魂は身体を借りて生きて居る」といったスピリチュアル的なことはどこか“嘘くさく”感じていたが、体は病んでいても心が病んでいなければ健康であり、回復すると考えることができ少し先行きが明るくなった気分がしています。
近代文明での今までの日本(人)の身体観が“誤訳”され少しずれが生じてきたあたりは、残念ではあるものの、今後「氣」や「武道」を学んでいくことで先人の叡智を学ぶことができる。今後は、自分をまた身体を見つめなおし明るい未来を進むためますます楽しんで学んでいきたいと感じさせられる読了でありました。

投稿者 dalir 日時 2019年6月1日


身体の聲(以下、本書)を読んで得た事は以下の2点です。
   ・人が暮らしている環境(社会、文化、気候、宗教)の違いから、異なる身体感が生じる事

・教育の副作用としての客観

・人が暮らしている環境(社会、文化、気候、宗教)の違いから、異なる身体感が生じる事

読書を通して、気候によって人が思想・宗教を生み出す事を知っていたけれども
体の動かし方を理解する過程まで変わる事は知りませんでした。

本書では、ボクシングのトレーニングや武術の訓練を例にあげて、身体観の違いを説明しています。
「アメリカの上手なコーチは、身近な目標を与え、ムーブメントから教え、個々の個性に合わせる」
とボクシングのコーチはボクサーに教えているのに対し
「比べて日本の武術を始め、芸事は型を重視されています。」
と日本の武術家は人に型を教えている。

ボクシングも武術も、上手く体を動かす事を目的にしていると思いますが
本書の例から分かる様に、行き着くまでのアプローチが異なる。

ボクシングでは、ムーブメント(今できる体の動かし方)から
どうやって最適化(体の動きを改良)していくかというアプローチを取っている。
方や、武術は、型(目標)に近づくにはどうすればいいかというアプローチが取られている。

「日本だと社会性や制度が確立されているため」、この中でどうやって立ち回っていくかが課題となり
予め(同じ日本人が取り入れている)型があるなら、それに従っていった方が都合が良い。なので、型を取り入れる。
一方で
様々な人がいるアメリカでは、宗教、食文化、身体感覚等が異なる為
誰か良く分からない人がやっている型よりも
自分が確実に行なっているムーブメント(動作・所作)から始めた方が確実だからそうする。
という様に考えると、暮らしている環境が人に与える身体観が変わってくるのも納得できます。

・教育の副作用としての客観
「ルールを教え、規則を伝え、それらの規則やルールに従えるような感性を育み、
物事の仕組みはこのようになっているから、そのようにしなければならない」
喧嘩が強いハワイ在住の人にボクシングを教える過程で、客観を意識させる事が人を弱くすると書かれていた。
植民地政策の様な事を相手にしていた様で、読んでいてあまり良い気分ではなかった。
けれども、得るものがあった。

「つまり言語を学び異文化の概念を共有化した途端、相手から感情や思考、身体観に介入される様になる」
「他文化の感情や思考、身体観に介入される事によって私たちは西洋という他者の視点で自らを捉えられる様になります
そうして客観的な態度を身につけることは同時に自分の在りようを疑い始めることにもなります。」

人にとって主観が”こう思う”というアクセルなら、客観は上記の様に”こう思う事が正しい(多数派)か?”というブレーキの様だ。
なので客観を根拠に説明をすることが多い。そうなると、本書の牛乳の件と同様に主観が通りにくくなる。

「人は足腰がないと根本的な自信がもてない」
もし、客観が誤っていた場合に備えて自分の身体観(特に足腰を)を鍛えようと思います。

投稿者 wapooh 日時 2019年6月2日


201905『身体の声-武術から知る古の記憶-』を読んで
タイトルを読んで、頁を繰り始めた前半は、「昔の武術かが現代の我々の身体性や価値観について問題を提起した一冊なのかも」と思っていたが、読み進めるにつれてそんな表層的な本ではないことが分かってきた。
同時に、一章一章心に刻みながら読み進める程に、しょうおんさんのセミナーで教わったスワイショウなどの体のワークや呼吸法や瞑想の取組みや線香を使ったご先祖様への御礼清算のあれやこれやを、本書で教えられた身体感覚を意識しながら、丁寧にやり直したら、新しい身体感覚と時間が得られると思った。「思った」と言うのは、今自分が朝に実施している勤めが『前窓を開けての換気』『六方拝+α』『玄関とトイレ掃除と香焚き』『洗面台鏡拭き』『位牌への水替え』『花の水替え』でどれも短時間でしかなかったから。受講直後行っていた呼吸法や上述のスワイショウ等じっくりと腰を据え肚を意識し取り組むワークにこそ価値があるように感じた。
朝の時間、カツカツすぎて入り込む余裕がない。せめてしゃがんで雑巾を掛けたり、正座をして六方拝をする時に、息を深く沈めて頭のてっぺんからつま先まで(そして意識を置く6点の距離とそれを結んで最後に金色のボールをイメージしているのだけれどそこまで)しっかりと正確にそれがある部分を意識して行うようにした。
その最中は、『目を閉じて』行う事で意識が研ぎ澄まされてくる感覚がある。
 
『現代人にとって消えた足腰肚の感覚を修養する事』は、情報優位、規定優先の『開眼期』の世の中をこれから生きて行くに当たり一つの対策となる。
自分の中で『主観と客観』を上手く持ち、「おまかせの自分自身の感覚や当事者意識、自分の人生への責任感の欠如、思考停止」で流されると『天命を全う出来なくなる』と感じた。具体的に列挙されていた健康への認識(西洋的な治療)や常識と思ている物差しを中心にした暮らしの中の選択、洋服や椅子や身の回りのシンメトリーな規格に合わせた自然とは離れた、人間の短期都合による効率的な生活様式、文化、、。今ふとお茶を入れに席を立ったのだけれど、自分は電気ポットでお湯を沸かし、冷めたお茶を電子レンジで温め直す。直火を使用しないから、熱さも火傷の痛みに対する不安も抱かずに、ただボタン一つで操作していた。なんだか『目が開いていても、何も観えていない」ような状態な気がする。昨日救出した10円玉だってこれからのキャッシュレス世界では見えない数値でのやり取りになる。
 『解消することのできない力とエネルギーを持て余している実情で、テクノロジーが発達した社会における常識的な体のあり方』。しょうおんさんのセミナーの初級編で触れた、E=mc2 エネルギーは質量を伴うのに、上記の様にどんどんと実態が伴わない=質量がない世界で、質量をもってエネルギーを燃やして生きている私たちはどうやって生きて行くのか?
 筆者の表現が一番頭の中に残っている(P140『子供たちがビデオ・ゲームを懸命にしている姿を見て思うのは『新たな概念のバーチャル化した身体を色々構築しとかないと、これから先を生きて行くことが厳しくなることを直感的に分かっているからなのだと言う事です。・・・・今の大部分のお年寄りの様に、今の大人である私たちも次世代の彼らが扱うテクノロジーにはついていけなくなるでしょう。
 イメージと実際とを使い分け、わきまえておく。状況に合わせて自然と言語を切り替えられるのが人間の多様性ならば、バーチャルな概念の身体も理解しておき、それはそれとして概念の世界で用いる。その社会の中で生きて行くためには、その術を鍛えておくことも必要だから彼らは彼らなりにゲームに懸命なのだと思います。』
 先月『思考と行動における言語』において私が最も学んだのは「言語を通して現実を正しく認識しているか(実際はどれほどできていないか)』だったのだけれど、今回はそれが自分の身体感覚についても同様に現実を認識できていない可能性が高いことを理解した。それは、これまでの日本の文化の変遷であったり、言語の変化であって(ここに言語によって国を支配するというピダパン等過去に学んだ課題図書が思い出されるのだけれど)、知らず知らず身に付けたもの。
 今、私は2つの言語と身体感覚を知っておく必要があるのだ。自分の命に繋がるルーツを意識し、昔の生活様式や肚を意識することとバーチャルの世界を経験すること。新しい学びに躊躇しないで自分事で生きて行くこと。
 型文化の日本人として、今更ながらに皆さんがやっておられる百人一首を暗記して季節を感じる方を身に付けることにする。また、『ゲームもいじらず生きてきたし、パソコンスキルも乏しくてITは苦手で…』ばかり言わずに興味をもって触れる機会を作ること、これからの半年はその経験の修養を意識して過ごしたい。ここから去っていく自分と朽ちて行く自分の境目を感じる、ことを消化できたら(この表現が肚落ちしない)
 一つの扉を開けたら上下左右これほど多様な切り口の知識の扉が開く一冊はなかなかなく、奥深いと共に感想文を書くのがとても難しかった。(課題図書の感想文は、ほぼ勢いで書くことが多いのだけれど、3月にしょうおんさんから頂いたtwitterの添削を念頭に読書の仕方について考え直し、先月は、「的を絞り、総花的な感想文を書く」、今回は、「読書中に気になる箇所を余白に抜き出し、読み返しながら感想文を組み立てる。読後に一気に思いの丈を書きつくすのではなく、一息ついて書く」様にしたのだが、まだまだ改善が必要だ。)今月も貴重な思想の世界を有難うございました。