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第50回目(2015年6月)の課題本

6月課題図書

 

目の見えない人は世界をどう見ているのか

 

この本には私がセミナーで良く言う、「物事の理解は全体から。部分の積み重ねでは全体

にならない。」というセリフが現実のものとして表現されています。目が見えなくなる、

視力が無くなると知覚はどう変化するのか、半分は私の想像通り、もう半分は「なるほど、

それは気付かなかった」と膝を打つ事数度。その結果、万一私自身が視力を失っても人生

に絶望する事は無くなりました。これはこれで新しい人生じゃないかと楽しめると思いま

す。そんな知識を手に入れてください。

 【しょ~おんコメント】

6月優秀賞


今月の本はスゴく分かりやすくて、誰のこころにもグサッと刺さるところがある珍しい本だったんですが、

それにしては投稿者が少ないですね。特に、速読編を受講した人はこの本くらい読まなきゃ勿体ないですよ。



上から順番に一次選考を通過する人を選びます。tsubaki628さん、dukka23さん、

munetakuさん、t1100967さんの4名が通過し、この4名の投稿をじっくりと読み直して今回

tsubaki628さんに差し上げる事にしました。

 

 

【頂いたコメント】

 
  投稿者 mahoro 日時 2015年6月18日
■先輩:おお、その本読んだのか?どうだった?

■後輩:内容は全然抽象的な話じゃないんですけれども、なんか哲学的な内容だなと思いました。

■先輩:哲学的っていうのはどういう意味で?

■後輩:哲学的っていっていいのかわからないですけと、哲学の扱うテーマには、存在論と認識論と価値論とか、あるじゃないですか。今あげた3つのテーマの全部に、この本の内容が合致するんですよ。そういう意味で「哲学的なテーマ」に忠実だなと思って。

■先輩:認識論と関係あるのは想像がつくけど、あとの二つはなんだろう?

■後輩:この本によれば、視覚に障害のある人というのは「視覚抜きで自身の世界観を構築するに至った人」なんです。そしてそういう人々の世界観を、晴眼者(視覚に障害がない人)の側が、健全な好奇心を持って受容してゆくことが、視覚障害者と晴眼者のどちらにとっても幸せなことでではないか、というのがこの本の主題なんです。

■先輩:なるほど。確かに世界観というのは存在論だろうし、その主題は価値論にかかわりそうだな。哲学には詳しくないから正しいかどうかわからないけど。

■後輩:もちろん、認識論の話も出てきますよ。「どういう感覚刺激をどの感覚器官で認識するか」について、人体は健常者・晴眼者が考えている以上に柔軟に対応できるとか。

■先輩:こんなこと言うのもなんだけど、糖尿病とか緑内障とか、比較的誰にでもかかりやすい病気が失明の原因になることは多いらしいから、俺たちだってそういう状況になったときのことを想定しておいたほうがいいのかもしれないな。

■後輩:確かにそう思います。もともとは視覚に障害がなかったのに、事故や病気で視力を失ってしまうことは意外に多いらしいですから、目が見えるうちに読んでおかれることをおすすめします。

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投稿者 tsubaki628 日時 2015年6月21日


1.「盲目の仙人」
15年以上前、高校生の頃のことだ。
人生で初めて、「中国の武侠小説」(中華圏では誰もが知る大衆アクション時代小説)というジャンルの本を(もちろん和訳で)読んだ私は、あるエピソードで驚愕した。
それは、7人の拳法の達人たちが、伝説の仙人をどうやってボコボコにするか?という相談をしている場面から始まる。
「あのジジイ、目が見えないから、聴覚と運動神経が優れていやがる。気を付けろ!」
その後、彼らは仙人を森の中で発見。7人がかりで仙人に近づき、取り囲み、一斉に攻撃を開始するが、仙人は噂どおり滅法強い。
目が見えないのに、まるで「頭の後ろに目がついている」かのように、背後からの攻撃もスルリとかわしてしまう。とにかく聴覚が優れていて、敵の息遣いや心臓の音、パンチやキックが空気を切る音さえ読んでしまうので、目が見えている猛者達より各段に感覚が研ぎ澄まされているのだ。
たった一人のお年寄り相手に、七人の大男は大苦戦。バッタバッタと投げ倒され、逃走。
どの小説か題名を忘れたが、中国人人気作家、金庸の小説というのは間違いない。

 私はこの場面を読んで、呆気にとられた。
 現代日本人の常識から考えると、目の見えないお年寄りを、大男7人で囲んで攻撃する(しかも負ける)など、到底考えられない。人道的には「おじいさん、大丈夫ですか?お荷物をお持ちしましょうか?」と、いたわり、助けてあげるのが常識のはずだ。
 ところが、7人の大男の最初のセリフからして、根本的におかしいではないか。
 「あのジジイ、目が見えないにもかかわらず、強い」ではなく、
「あのジジイ、目が見えないから、強い」というのだ。
接続詞が間違っていないか?と、一瞬自分の目を疑ったほどだ。
 ちなみに、このおじいさん。毒や目潰しを平気で使う卑怯なヤツで、性格のキャラが濃い。盲人という特徴は、彼の意地悪な性格に比べたら、インパクトに欠けていた。
 盲目イコール「弱者の印」でなく、「数ある個性の一つ」。この懐の広い世界観。「すごい!中国ってすごい!」と思ったことを覚えている。

 今回の課題図書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読み始めて、強烈に思い出したのが、あの「金庸の小説に出てきた、滅法強い盲目のおじいちゃん」であった。
 課題図書の中では、中途失明の木下さんが「盲目の人を大事にするのは、友達と友達の関係ではない」とおっしゃっていた。(38ページ)「目が見えない」というのは、確かにその人の特徴の一つだが、それがその人の全人格を決定する最重要なポイントではない。それは、目の見える者が、例えば「頑固者」とか「短気」だとかいった、性格的にちょっとした問題を抱えているのと、大した違いはないのかもしれない。
 見える者と見えない者は、社会的にも心理的にも対等であるべきだし、時には喧嘩をして殴りあったっていいし、お互いの出来ることと出来ないことを受け入れて、対等な関係を実現することが可能であることは、金庸の小説に既成概念を一度ぶち壊された私にとって、すんなり受け入れられた。
 というのも、「何らかの能力を持たないことで、損をするのではなく、逆に得をすることもある」というよく似た事例に、薄々気付いていたからである。

2.外国語ができないのは、良いことか、悪いことか。
 ここで考えてみる。「外国語ができないことは、良いことか?悪いことか?」

 「何を馬鹿なことを!外国語は、出来た方が良いに決まっているじゃないか!」という声が聞こえてきそうだ。一般論としては勿論そうだろう。
 しかし、外国語ができないせいで、いや、出来ないからこそ、プラスになることも、実は自分はあった。
 私は5年前、「シェーシェ」と「ニーハオ」以外、一切中国語を話せないのに、中国へ旅行した。
 今考えるとバカとしか思えないが、周りの中国人が中国語で会話している時、何を話しているのか分からず、ストレスが延々と溜まり続ける・・・ように思われた。
 ところが、この旅行中、言葉が理解できない分、人々の表情や仕草、声のトーンなどをじっと観察する能力が磨かれた。私の目を見て笑顔で話しかけてくれる人には、好印象を持ったし、中国の人は、声だけ聞いていると激しく怒っているようだが、顔はニコニコ笑っている、ということが多く、「この人はどんな気持ちで、何を言いたいのだろう?」と想像するのが次第に面白くなってきた。
 街中の喧騒に耳を傾け、まるで音楽を聴くようにその空気の中に自分を馴染ませていくのが心地よく、中国の街のパワフルさが快感になった。
 これが、もし中国語が堪能な人であったなら、どうだろう?
 周囲の人が何を話しているかが全てわかって、もちろん便利だし、私と全く違う景色を見て、私の数百倍の情報量を手にするのだろう。 
 だが、中国語がほとんど分からない自分は、ごくたまに知っている言葉(リーベン=日本、ハオチー=美味しい)を聞くと、ささやかな幸せを感じた。
 これは、ヘレン・ケラーが初めて「water = 水」という言葉の概念を理解した時のエピソードに、若干似ているかもしれない。「見えない・聞こえない・話せない」の三重苦を抱えていた彼女だからこそ、「水」というたった一つの概念を認識した時に、魂が震えるような喜びを味わったのである。障害がなく、何の苦労もなく子供の頃に母国語を習得した人が、水という言葉を知って、それほどの感動を味わえるとは思えない。
 私がこの中国旅行で学んだことは、旅先で外国語ができないことをマイナスに考えるのではなく、言葉以外の手段を磨く機会にすべきだ、ということだ。逆に言えば、海外にいる時に現地の外国語が流暢に話せれば良い、というわけではなく、顔の表情や声のトーンなど、言語以外の機能も、フル活用すべきだ、とも言える。(言語もできて、言語以外の部分からも情報を読み取れれば、鬼に金棒ということだ。)

 目の見えない方を「ハンディキャップがある」と捉えるのではなく、「目の見えている人と違うやり方で、世界を認識している。それは、視点が違って面白い」と考える。
 これは、心の中で漠然と思っていたことだが、今回、この本が鮮やかに言語化してくれ、霧が晴れたような爽快さを感じる。
 
3.ソーシャル・ビュー
 何といっても、この本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで、目からウロコだったのが、ソーシャル・ビューという美術鑑賞の仕方である。

 目の見えない方々・視力の弱い方々が、グループで美術作品の前に立ち止まり、その作品に対する印象・感想を思いつくままに話していく、というこの美術鑑賞法は、画期的だ。目の見える人もこの方法で鑑賞する方が面白いし、目の見える人にも取り入れるべきだと思う。

 というのは、私達は学校教育で、「先生が正解を教えてくれる」受身の授業に慣れすぎてしまっているからだ。「絵の右の方に、○○が見えます」「全体的に青っぽいくて、霧がかってる感じ」など、自分の言葉で美術作品を表現する。声に出すことで、思考が具体的になり、考えが深まる。さらに、仲間の感想や疑問点などを聞くことで、自分の考えがさらに深まっていく。
「美とは何か?」という命題には、太古の昔から答えが見つかっていない。何を美しい、何を醜いと感じるかは、個人の価値観の問題なので、美術作品を見て感じることは、一人ひとりが違う。「これはアールヌーボーで・・・」「天才ピカソの晩年の作品で・・・」などといった背景知識も必要だが、その作品から何を感じるか?という問いに正解はない。

 実のところ私は「ソーシャル・ビューの時に、オーガナイザー(話し合いのまとめ役)は必要ないのだろうか?」と最初は思った。
オーケストラに指揮者がいるように、美術作品を鑑賞する時も、リーダーのような人がいて、話し合いをまとめた方が、効率が良さそうだと思ったのだ。
 しかし、リーダーがいない、というのが、この手法の大事な特徴なのかもしれない、と思い直した。もしリーダーがディスカッションの進行役をするとなると、挙手した人をリーダーが指名し、指名された人が発言することになるのだろうが、それではスムーズに話が進まない。(目の見える人がリーダーをやるなら問題ないが、目の見えない方がリーダーをする場合、誰かが挙手してもそれが見えない、という問題もあるだろう。)この本で紹介されているソーシャル・ビューの手法では、感じたことをその場で言葉にすることができるので、その言葉がダイレクトにそばにいる人達に伝わり、美術作品の内包する意味を、仲間と話し合いながら再構築できると思う。

 私は機会があれば、この本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ人だけで集まって、この本についてソーシャルビューをやってみたいと思う。(美術作品ではなく、本の内容について語るので、美術館でやる必要はないから、カフェでお茶を飲みながら話せば良い。)従来、本について語る会というと、個々人が感想を述べて終わりになりがちである。
しかし、ソーシャルビューの手法を取り入れると、「この本が一番表現したいことは何か?」などといった共通のテーマについて、全員の意見を出し合って、答えを一緒に構築していくことができる。この場合、リーダーがいない方が、全員が平等に意見を出す空気が作れる。


4.成長するとは何か?

 子供の頃、私達は「どうして空は青いの?」「どうして太陽は丸いの?」など、周りの世界に対して疑問を抱く。
 大人になると、それらの疑問に対して、科学的に理路整然と説明ができるようになっていく。神羅万象や、身の回りの細々したことを含め、あらゆることについて理解し、理由を説明できる能力を身につけること。ある意味それが、大人になることを意味するのだと思う。

 しかし、この本を読んで、真の成長は、それと真逆だということが、ハッキリと分かった。
 人は、深く勉強すれば勉強するほど、自分の無知を知る。科学や理屈では解明できないことが、まだまだ宇宙あるいは人生には、たくさんあることを思い知らされる。例えば、著者が専門とする美学という学問も、まさにそうだ。これほど科学技術が発展したにもかかわらず、「世界はどこから来たのか。」「美とは何か。」といった哲学的な命題に対する答えは、太古の昔から人々が問いかけてきたにもかかわらず、いまだに適切な答えは出ていない。

 大人になることとは、世界を知り尽くすことではない。ましてや、既成概念に染まって、世界を全て理解しているフリだけすることでも、さらさらない。
 大人になることとは、宇宙の神秘を見出し、新しい世界の扉を次々と開けていくことなのだ。
 今まで自分が知らなかった世界を知る。新しい価値観を知る。そして、まだ見ぬ世界を想像し、その豊かさに対する憧れ、畏敬の念を持つ。
 ここで、私の好きな香港映画のセリフを引用する。「星願」というロマンス映画だが、主人公は、目が見えなくて話せない、二つの障害を抱えた青年である。彼は言う。
「みなさん、悲しい時は、目を閉じて下さい。隣にいる人の温もりを、心の目で感じて下さい。心の目で見る世界は、とても美しい。」
・・・多分、そういうことなのだろう。目の見える私が、身の回りの雑念やノイズに振り回されているのに比較して、目の見えない方は、大切なものだけを心の目で見ており、それを想像力によって、心の中に構築することができる。そう、想像力とは、人生を切り拓く素晴らしい武器なのである。
 健常者が日常生活で得ている情報のうち、8割は目から来ているという。自分の視力に感謝を捧げながらも、目に見えない世界に意識を向け、新しい未知の世界に憧れ・驚き・畏敬の念を持ち続ける人生を送りたい。

 良い本をお薦めいただき、ありがとうございました。

投稿者 satonaka 日時 2015年6月22日


「目の見えない人は世界をどのように見ているか」を読んで

 この本を読む少し前、インターネット上で、生まれつき盲目の男性が目の手術により視力を得たという記事を読んだ。
 男性は当初、今まで想像していた世界が視覚を通して感じることができることに大変な喜びを感じたそうである。しかしすぐに、目が見えることによる不具合が生じ出す。目から得られる情報を処理しきれずに、慢性的な頭痛を感じてしまうようになってしまったのだ。
 試行錯誤の結果、男性は普段は目を閉じて生活し、必要に応じて目を開け視覚からの情報を得るという方法をとることとした。男性にとって、それが最も快適な生活を提供してくれる方法であることが分かったからである。
 この記事を読んでから今回の課題本を読んだため、読むにあたり一つの言葉が私の中にあった。AI(人工知能)のフレーム問題にでてくる「フレーム」という言葉である。フレーム問題における「フレーム」とは、「自分に関係のある処理すべき事象の範囲」という意味である。
 見える人と見えない人とでは、この「フレーム」が大きく異なっていることは薄々感じていたし、本の内容もそれをなぞるような感じのものだろうという思い込みが、課題本を読む前から私にはあった。
そして課題本の内容の一部も、上記の私が思っていた通りの内容であった。
 しかし、情報量が違い処理方法が異なることはうっすらと分かっていたが、処理したアウトプットの『質』までが異なるとは思っていなかった。見える人は富士山を面で捉え、見えない人は立体で捉えているという事実は、ちょっとした衝撃でもあった。ネット上の記事を読んだだけでは、そこまで思いもよらなかったのである。
 課題本を読み終え、見える人と見えない人の違いとして注目すべきは「フレーム」が異なるということよりも、アウトプットの『質』が異なるということではないかと私は思った。
 「フレーム」が違えばアウトプットの『質』も異なるということに気づかなかったという事実は、「フレーム」を変えればアウトプットも違ってくると口先だけで分かったように言っていても、その本質に気づいていなかったということである。壺の内側に装飾を施すことなど、口先で『見方を変えればいろんなものが見えるよ~』と言っているだけでは決して思いつかない。重要なのは異なるフレームをどのような方法で処理するかである。これができない限りアウトプットの『質』の変化は生まれてこない。
 このことに気付いただけでもこの本を読む価値があったのではないかと感じている。今までのやり方を変える、とはこのくらいダイナミックに「フレーム」と処理を変えることが必要なのだと、これからも肝に銘じておきたい。

投稿者 dukka23 日時 2015年6月23日


【 目の見えない人は世界をどう見ているのか 】を読んで

「視線が邪魔してる」
こんな言葉を思い出しました。
私がアルペンスキーの選手をやっている時のことです。

通常は2~3旗門先を見て、滑るラインをイメージします。
そうすることで、練習したとおりにスキーを滑らせる身体の使い方が自然に出てきます。
しかし、多くの選手が滑ったレース後半のコースは荒れています。
そんな荒れたコースでは、目の前の1旗門だけを見てしまい、
結果そのコースの「掘れ」に視線が行き、
恐怖とコケないようにというリスクヘッジで、身体がこわばってしまいます。

逆に、吹雪や霧で視界が悪いからこそ、
荒れているコースでも、(その荒れが見えないから)普段通り身体が動いて滑れることもあります。
あとから視界が良くなってきて、改めてコースを見ると、
「こんなにコースが荒れてたのか。こんなコース滑れない!」と
後追いで恐怖がくることもあります。

こんな風に、
身体が固まってしまうのも視線ひとつ、
練習通りに良い動きが出来るのも視線ひとつ。
「人間の身体ってバカでもあり、よくもできている。視線一つでタイムが全然違う」
がコーチの口癖でした。
このことは、「決して”目で見る”という感覚器官の使い方のみが優れているわけではない」
という本書の主旨通りの経験だったと思います。
このケースでは目はバランスをとっているだけ、どちらかと言うと「足の裏」が”見て”いるような気がします。

もう一つスキーの話を。
アルペン競技にはインスペクション(下見)というものがあります。
これがトップ選手になればなるほど精緻さがすごい。
ワールドカップの選手などは、
旗門の構成はもちろん、傾斜やちょっとした凸凹、
この斜度と雪質なら速度はどれ位になるか、
先が見えない斜面変化に対しては、飛び込む目印の景色まで
かなり鮮明にイメージして、スタート前に何十回と今日のコースを頭の中で滑ります。

このインスペクションのうまさというのは、記憶力だけではないと思います。
本書で出てくる三本足の椅子がバランスを取っている例えの通り、
目をつむれば見えてくる、という類のものではなく、
最小限のインプット情報から、空間認識のイメージや、実際の身体の使い方などの
「感覚を創作する能力・スキル」の高さだと思います。

逆説的ですが、ワールドカップ選手はほぼ現実と同じ感覚を自分の中に創れるので、
めちゃくちゃ速く滑ることができます。(フィジカル要素も大きいのですが、それは置いておいて)

感覚を創作する能力が優れているので、
もしかすると
・目を瞑ってもコースを滑れ、
・かつ目を開けた私みたいな一般人が滑るよりも速く滑れる
かもしれません。

こう考えると、「見えない人」達と同じような能力を駆使している方が、
「見える人」の中にも一定数居て、
それが出来る人をプロフェッショナルとか、超一流と呼ぶのかなとも思います。

スポーツ選手であれば試合で、
ビジネスマンであれば仕事で、
そんな能力(=感覚を創作したり、何か器官を通じでではなく何かを見た(感じた)り)
を再現性のある形で発揮して、勝利や成功を引き寄せているのかなと思います。

そう考えると、この本から得た示唆を
自分の人生をどう彩らせるか、という視点で見た時、
私はこう考えます。

例えば、見える人が当然と思っているように視覚を使うのではないように、
「普段思い込んでいる以外の感覚器官の使い方、
特に目を使わず「見る」(感じる)方法の確立」
をおこなうことがまず第一歩だと思います。

と書くと大変そうですが、
実はこのタスクは、純粋に「楽しい」のではないかと思います。

感覚器官を普段と違う使い方をすれば、慣れてもいないし、情報も少ない。
でもそこから意味合いを引き出そうとすると、
脳をフル回転させてインプット以上のアウトプットを作る必要がある。

これを妄想とも呼ばれることもありますが、
どんどんと自分の頭のなかで、イメージが膨らんでいく。
確立できなくても、一生自分の内側で楽しめるような「楽しさ」が待っているような気がしますし、
それが自分の感性やセンスといった、知識だけではない付加価値を伸ばしてくれると思います。

そして、次のステップとして、
その感覚器官の使い方を、個性につなげていくことができれば最高だと思います。
具体的には、
・その確立した感覚を「知の道」として使い
・そして、その行為をビジネスとして具現化する
ということができれば、
人とは違う能力やスキルを使って社会に貢献でき、
さらに自分の生活の糧となる、という最高な状態になると思います。

こんな風に生きられば、
今よりもさらに「人生楽しいなあ」と思える
自分の生き方を確立できると思うからです。

本来、人はこういうことをするために生きているのではないかと思うのですが、
目が見えるだけに、こんな大事なことも忘れて、
「ただ生きている」になってしまっている、
もっともっと自分の感覚を大事に、そして研ぎ澄ませなければ、
と改めて思わせてくれる本でした。

投稿者 kd1036 日時 2015年6月24日


このテーマは、分かったと思っても、それは多分それが正しくはないだろうし、そもそも正解があると考えてしまう所が、ちょっと違うのかもしれません。
障害の有る無しに関わらず、自分が自分以外の誰かの感覚を全て体感する事は出来ません。
でも、ちょっと待ってください。それはそう思っているだけで、実はそうではないのかも。何をどう認識し解釈するかは、全てその人が決めている事です。入ってくる情報を鵜呑みにしようが取捨選択しようが、最後はその人がどういう意識にたどり着いたかです。そして、ある人にとっては当たり前の事が、別の人には全く違う事になる事もあります。
ですから、自分以外の誰かの感覚を全て体感する事は不可能ではないのかもしれませんし、それを体感しようと考えて行動していけば、不可能だと考えて時間を過ごすのとは全く別の場所に行く事になるのでしょう。

まず、注意を惹かれたワードは「視点」です。
全編で、様々な切り口で語られていきますが、自分自身がいかに視点を固定して生活しているか驚かされます。出来るだけ柔軟な視点と発想で物事を捉えようと意識しておりましたが、そもそも目が見える事が当たり前すぎる事による視点の固定が起こっていたのですね。物を立体で捉えるか平面で捉えるかという単純な部分に関しても、全く別の手法が取られている事に気づかず、本文にもあるとおり、視覚を差し引いた感覚を起点に認識しようとしていました。
目の見える人と見えない人の話だけではなく、この視点という問題は、もう生活のあらゆる場面で意識する必要がありそうです。健常者と障害者というのは、状態の差が認識しやすいので区分が付けられますが、本来人間は全ての人がそれぞれ違った特性を持っていて、全く同じという事はないものです。だから人の事を理解しよう、自分を理解してもらおうとすれば、もっともっと自分の中で固定化してしまっているものを解除していく必要がありそうです。
目が見える・耳が聞こえる・鼻で嗅げる・四肢が不自由なく動く、そういう状態であるという事は、逆に何か捉えられていない事があると認識し、その点に意識を向け、死角を消す事に精力を注いでみようと思います。
そういえば、耳や頭皮って動かせる人と動かせない人がいますよね。今の我々からすると生活に違いが出ないので、動いても動かなくても誰も気にしませんが、もしかしたら耳が動かせいないのは重大な障害と見られる世界だってあるかもしれません。

本編の中で作者が何度か言及していましたが、一般化する事には細心の注意が必要です。
目が見える・見えないだけのグループで括って何かを論じようとするのでは、あまりにも誰の事にも言及できないという事が良く分かります。最後のほうでユーモアについての話もありましたが、全ての人がそうではないだろうけど、概ねそういうプロセスをたどっているようだと、とても細かく注意を払って書かれているようでした。

たまにテレビで見かけるブラインドサッカーが、私は不思議で仕方ありませんでした。何故あんな事が出来るのかと、色々想像してみるのですが、一向に分からないという状態でした。それは、私が自分から視覚を除いた人達がプレーしているという見方でいたからだったんだと何となく感じました。
私はサーフィンをしているのですが、人がいない時などは目をつぶって波が来るのが分かるかな~なんてよくしています。海上で目をつぶると、絶えず海が動いているのが分かります。目で見ている時は体が自然にバランスを調整していて小さな揺らぎはあまり意識する事がありません。
ブラインドサーフィンなんて、絶対無理だと今まで思ってましたが、人とぶつかる危険のない時には本気で取り組んでみようと思います。

投稿者 munetaku 日時 2015年6月29日


視覚を失うのはマイナスしかないように思えるが、視覚を失うことで健常者にはない物の見方、認識の仕方を手に入れていることを知ると、障害とは一種の個性ではないかと思える。
健常者同士でも人によって認識の差は大きいが、健常者と障害者の間の認識の差はとてつもなく大きく、個性というよりも個体が違うと言って良いかもしれない。(決して差別するつもりはなく、むしろ健常者よりも優れた点がそれだけあると言いたい。)
個体が異なるともはや視点がより広いとか、視点が高いというレベルではなく、次元の異なる視点を持っている。健常者と異なる感覚(視覚の喪失)を持つことで、次元の異なる視点が備わっている。健常者も次元の異なる視点を持てないか?それには、あえてインプットする情報を減らして自分の内面を見つめて直感を優先すること、また、あえて人と違うインプットをすることで、人と違う視点、人と違う認識を身につけることが出来るのではないだろうか。

視覚障害者は余計なものを見なくて済むため、自分の知覚したいこと、得たい情報にだけ集中しているので、目が見える人よりも主体的に生きている。目が見えないことはデメリットしかないと考えていたが、そんなことはなく、逆に目が見えることにも弊害があることに気付かされた。
結局は自分が世の中をどう捉えているか、自分の認識の仕方が世界を形作っている。世界は不幸に満ちていると考える健常者よりも、世界は幸せに満ちていると考える障害者の方が遥かに幸せである。

 

 

投稿者 matsuhiro 日時 2015年6月29日


 現在の情報化社会は、過剰な視覚刺激を原動力として、莫大な情報を「扱って」いる。目が見える私たちは、情報の8~9割を視覚から得ているといわれているが、ここまで視覚に頼っていると、視覚が失われる恐怖は計り知れない。しかしながら、「見えない」という事情で書かれた身体論は、視覚という「ロックオン装置」を解除して世界を「見て」みよう、という試みなのだが、読み終わるとまるでマッサージを受けたかのように凝り固まっていた考えが解され、なんとも言えない心地よさと安心感が得られた。

 視覚という「ロックオン装置」は強烈で、それがなくなると世界が終わってしまうかのような恐怖心を与える装置である。視覚を軸に作られた情報化社会は、「見て」得られる情報、「見る」ことそのものに価値があるかのように情報が作られている。それだけ情報は視覚によって支えられており、情報は、視覚が受け入れられやすいように「一般化」され、毎日私たちの前を通り過ぎている。

 こうした世界にいると、視覚障害者にとっては、なんと辛く苦しい世界なのかと思ってしまうが、それは私たちの大きな勘違いなのかもしれないと気づかされた。視覚中心、一般化された情報に対して、視覚以外の情報から「意味」を付加していくアプローチは、一見、視覚がないことによる引き算のアプローチとも捉えることができる。しかしながら、著者は、視覚に頼らずとも、人間の感覚、体の存在を「実感」することで、世界を感じ、情報に意味をもたせ「見る」ことができる、というのを教えてくれた。とてもポジティブなアプローチである。

 視覚以外の存在を「実感」することは、私にとってとても新鮮だった。空間を「ありのまま」三次元で捉え、視覚以外の感覚にも「ありのまま」向き合い、器官を柔軟に使い、体の特徴をそのまま活かし、日々の生活を作りながら世界を「見る」。また、「言葉」を介して情報に「意味」を持たせ、視覚に頼らないからこそ起こりうる「ユーモア」をフルに発揮し、変幻自在にイメージをアップデートさせて世界を「見る」。私の中で「見る」という言葉の意味も再定義させられた。見える人も言葉に「意味」がなければ盲目なのだろう。

 読み終えて考えてみる。視覚を持ちながら、視覚以外の感性を使うことを日々意識していくと何が起こるのだろうか。意識的に視覚という「ロックオン装置」をOFFにして物事を捉える練習をしてみよう。「ありのまま」捉えることで物事の本質がみえてきたり、新しいアイデアが生まれたりするだろう。情報に踊らされず、重要なものだけがフィルタリングされてくるだろう。こうした良書に出会い、知恵をつけられたことに感謝し、自分自身の生活をより豊かで充実したものにしていきたい。

投稿者 akirancho0923 日時 2015年6月30日


今月の課題図書として発表された時点では在庫切れしていたが
その後毎日Amazonをチェックして6/7に入手できた。
やっと手に入った本を読むのは水を吸い込むスポンジのごとく
快感である。

さて、本書を読んでもし気づいたならショックではないだろうか。
見えている健常者は、知らぬ間にあらゆる見えるものに誘導され続けている現実に。
かたや見えない方は目は司る象徴に過ぎないといわんばかりに
想像力豊かに人生を楽しんでいるとすれば。

きっと、ウェアラブルセンサーを使えばとびきりのハピネス度をはじき出すに違いない。

我々は、見えない世界を楽しむ人たちに比べ確かに情報を多く持っているが
情報を楽しんでいるが、自分自身を楽しむことが下手になっているのではないだろうか。

瞑想で自分自身の潜在意識と向き合うこともそうだが、すぐ傍にある見えない世界と
向き合うことは、やはり人間とって大切なファクターとなりうるのだろう。

見えない世界の風景を学んだうえで、見える世界を改めて見つめ直すなら
きっと新しい価値を生み出すヒントが表現されるのではないでしょうか。

投稿者 sumio 日時 2015年6月30日


目の見えない人は何をどう見ているのか 伊藤亜紗  感想

見えない人には死角がない、は至言です。
視覚以外をジャイロスコープのように360°センサーにして情報を入手しています。

そのおかげで、ノイズ、目の毒、誘惑、から自由であり、踊らされない安らかさを得ることが出来るのです。
目が見えると、見たいモノを見ているようで、それ以外見えていない状態なのです。

そして、感覚には序列があり、感覚の女王は、視覚。
私たちは、これらを駆使して、外界とコミュニケーションを取っています。

物事の本質をとらえていることを「あの人は、よく見えている」って言うことがあります。
それは、視覚が女王様であることの名残に過ぎないことわかりました。

VAKと言う言葉があります。
V:Visual視覚、 A:Auditory聴覚、K:Kinesthetic体感覚(触覚・味覚・嗅覚)。
どの感覚が優位なのか、VAKをチェックして、その人の優位な感覚に働きかけるとコミュニケーション
よりよくいきますよ、と教わりました。

それって何なのよ、と今は思います。

「しかく」は、「視覚」、「死角」と同じひらがな、音であることに気付き、暗示的であると思いました。

ありがとうございました。

投稿者 6339861 日時 2015年6月30日


この本を読んで思ったのは、
私たち人間の身体は、本当に優れた機能を有しており
諸条件に合わせて、いろんな機能が発動するということ

目が見えないことで、脳の見るときに使う部分が別の働きとして機能している
という部分に人間のたくましさを感じた

私たちの人体の能力はまだまだ覚醒していない部分があり、
一部の能力を閉じることで、別の能力が覚醒するという
イメージだろうか

ということは、意識的にある機能を閉じて、他の機能を
覚醒させるようなことができれば、すごいことだと思う

そして、感覚器官としても見るのは目の専売特許というのは固定観念で
他の器官も見ることに使えるという事実に驚いた

著者も言っているのように私たちは体が持っている可能性の
ほんの一部しか使っていないということだろう
そう考えるととてももったいないことだとも思う

速読も今までの見方をちがう見方に変えることで、別の能力が
覚醒したと言えるのだろうか
まだ、速読ができないので、分からない

この本を読んで、我々健常者が眠らせている能力を覚醒させる
具体的な方法まで踏み込んでくれればいいのに
また、実例もあげてくれるとおもしろいのに。。と思った

視点がないから、全体が感じられると言う感覚を感じてみたい

そういう意識でものを見れば、部分にとらわれずに全体を
俯瞰することができるのだろう

投稿者 senumishima 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んで

自分もしばしば、敢えて視覚を遮断するときがある。
それは、じっくりと音を聴いたり、温泉に入ったりして体の感覚を感じたいときだ。

人間の感覚とは、どういうことだろう。もちろん本書でも書かれているが、自分なりの解釈を考えてみた。

普通、人間が持っている感覚機能は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5種類である。
この機能を駆使して、外部からの情報を得ることによって生活をしている。
この5種類の感覚を日常生活の様々な場面で使い、バランスをとっている。そして「これでできる範囲」の生活を営んでいる。
目が覚めると、重かった体が血液の循環と共に軽くなっていくのを感じ、好きな色とデザインの服を着て、美味しそうな匂いの朝食を食べ、湿度や温度などの天気を感じながら外へ出て仕事へ向かう。
この5種類の感覚はあらゆる生活の場面で欠かせないように思う。
イルカやコウモリのように超音波を感知できないし、アジサイの花のように、土壌のPHに反応して表情を変えることもできない。5種類の感覚によって人間の生活を作り上げているので、欠かせないと思うのである。

つまり、人間はこの5種類で存在を保っている。
視覚が全く無い状態だと、触覚という体への直接の感覚で自分の存在を感じることになる。なかでも特に比重頻度の高い視覚を突然失った場合、それまでのバランスが崩れ、存在の認識が今までと違った感じになるのだろう。
また、視覚がないことによって、「内と外が同じ」という感覚になるというのも納得できる。
視覚に頼りすぎると、見てくれにこだわりすぎてしまう。それも楽しい場合も多々あるが、肝心の内側が見えなくなってしまっている。

4本足の椅子だろうが、3本足の椅子だろうが、実際に同じ社会で生活できている。もちろん、障がいを持った人たちは、障がいがないことを前提に作られているインフラに身体と行動を合わせるには相当の労力を強いられるはずである。それでも、4本足社会で生活できているのは、4本足の人間が多く、障がいのある人間でも、ここまではできる、というお互いの思い込みもあるのではないか。

「ここまで」という範囲を決めたら、良くも悪くもその範囲にいることしか出来なくなる。
視力が無ければ、他の感覚で補おうとするので、触覚や聴力やそれを分析するイメージ力が高まる。それは、視力が無くならなければ発動しない能力なのだろうか。
触覚や聴力や瞬時に全体を理解する能力が高い状態の人間に視覚の加われば、「普通の人間」を軽く超えてしまうだろうに、と思ってしまった。
それには、「ここまで」という範囲を決めている意識を変える必要があるのかもしれない。
意識さえ変えれば、人間の体は今以上に使いこなすことができるようになっているのかもしれない。
良い音楽を楽しむ時や、温泉で血液の流れを感じるときのように、意図的に感覚を研ぎ澄ませてみる。普段の生活の中でも5種類の感覚で作り上げたリズムをほんの少しづつ変えてみると、認識できる世界も変わるかもしれない。

4本足からみれば、3本足は「足りない」ということになる。そしてそういう感覚の人間が圧倒的多数な今の社会であるが、どこかに5本足の持ち主もいるかもしれない。その人たちからは、目で見えるものに重きを置いてあらゆる判断をしている私たちの事はどう見えるのだろうか。

投稿者 akiko3 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見るのか」を読んで
  
 目の見えない人というと、ラジオのトーク番組での三宮麻由子さんの鳥語がわかるという話を思い出す。確か、留学もされたという経歴に、言葉が通じない不安以上に、目が不自由で異国でどう生活するの?その勇気ある行動が信じられなかった。でも本書を読んで、生活は生活。寝て暮らしていた人がいきなり起きて暮らし始めた訳ではない。自分の中の想像力の欠如と偏見に気づかされた。
  “できないことのやり方を変えること”高校の体育で、平均台の上ででんぐり返りをする課題があり、フロアーに貼られたバレーコートの白線を平均台に見立てて繰り返し練習した。そして、本番でも背骨が平均台に接着するがごとく回転ができた!あとでどうも背中が痛くて保健室に行ったら、「何したの?こぶが2つできてるよ」と言われて、あっと気づいた…遅っ。
  夏の夕方、ベランダをふと見ると、バジルが青々と風に揺られていた。大きくなったな~と見ていたら、急にバジルペーストを作らなきゃと思いたち急いで収穫した。その夜、台風の猛烈な風音に、バジルが収穫してって訴えたように思われたその感覚を思い出し、バジルと会話ができた♪と思ったけど、こういうのは台風の存在を感じ見たことになるのかと思った。自分とバジルだけでなく、そのずーと離れた場所も含めた場を捉えた瞬間を思い返したら脳みそが疲れた。1つ1つの場をこんな風に当たり前に捉えられるまでは慣れが必要だろう。
The Family of Manという写真展を見た時、今、悲しみのどん底にいても、地球の裏側では人生最高の瞬間を生きている人もいると地球の丸さを感じた。
エネルギーワークの練習でボールを作りながら、目の見えない人のボールを認識する感覚はこんななのかな?と思いながらイメージしている。
  “結果のためには手段を選ばない”かっこいい!でも、本当に欲しい結果の為に自分だって姑息に必死になったりしないか?特別なことではない。
つられて笑う。あるある。異文化コミュニケーションで、少数派だったらつい多数派に合わせてしまう(苦笑)。
私はよくラジオを聞くからか、声を無意識に表情のように捉えてることがある。洗い物をしながらTVをちら見した時、福士蒼汰君がでていて、声もイケメンの大切な要素やねと思ったが、あれ?この声どっかで聞いた声…と声の記憶をたぐり寄せたら…”武田鉄也!!”一気にイケメン度が急降下。これも脳のせい?
私は優柔不断なので、2者択一が苦手だ。つい先延ばしにして、その時残っている方が答え的に緩い選択をしがちだ。こういう性格なんね。
最後に、これもラジオの対談で聞いた話。真っ先にこのエピソードを思い出したが、どこにも当てはめられんと思っていたがここかっとパズルが合わさった。人気絶頂だった山口百恵さんとある視覚障碍者が対面した時、山口百恵さんが挨拶をしたら、その方いきなり彼女の胸をつかんで挨拶したとか。そのとある方のちょい悪キャラの武勇伝で紹介されたが、その時はすごい、その手があったかと思ったが、今の時代はこのユーモア判定は微妙かなぁ。でもセクハラもされた人が不快に思うか思わないかが判定基準だしなぁ…。
  “同じなんだ”という感想になるとは思ってもいなかった。現実ををいかに捉え、持てる力で自分の可能性を引き出す、その過程の気づき、感動を味わう。社会の様々な場面が、“インクルーシブデザイン”の豊かで幸せな社会に進化してほしい。まずは、自分が面白い!便利!を6感使って味わえるようになろう。新しい感覚のおかげで眼から鱗が取れました。ありがとうございました。

投稿者 sakurou 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどのように見ているか」を読んで

この本は私が去年から課題図書投稿を初めて一番ぶったまげた本だ。
ページをめくるたびに富士山、大岡山、ブラインドサッカー等、視覚障害者による我々が知らない世界をたっぷり味わうことができる。

圧巻は、はやりパスタのロシアンルーレットだろう。これを知って、ひっくり返らない人はいない。

置かれた立場を逆手に取り、最大限楽しむためにはどうしたらいいかという探究心には本当に頭が下がる。

もちろん、そうでない視覚障害者の方もいるだろう。要はまさに「ものの見方」なのだろう。

福祉関係の人から「目の見えない人の家を訪問した時は1mmも物を動かしてはいけない。動かすとすぐに分かる」という話を聞いて驚いた。視覚障害者は健常者の想像を超える鋭敏な空間感覚を持ち合わせているということだ。
(先天失明の人の場合であり、後天失明の場合でも多少時間がかかるができるようになるらしい)

この本を読むまで気にしなかった問題表現がある。「目が不自由な人」だ。
目暗という差別表現を回避するための表現上の苦肉の索かもしれないが、逆に「目の見えない人は不自由だ」という差別的ニュアンスたっぷりになってしまっている。

彼らは不自由ではない。できないことと不自由は全く別の概念なのだ。
できないことと不自由だという思い込みが全くの間違いだということに気付く。

あらゆる情報に流されて、街で注文したものが売り切れだと、がっかりしストレスを感じて生きている我々のほうがよっぽど不自由だ。

多面的な見方ができれば、トラブルやハプニングさえも前向きに楽しみ、豊かな人生につながる。

これからも良質な読者を人との意見交換を通じて良質な情報を収集し、多面的な見方を養い、彼らに笑われない生き方をしたい。

投稿者 magurock 日時 2015年6月30日


 子どもの頃から「死」と「見えなくなること」に恐怖を感じて生きてきた。そして初めて「失明」という言葉を知ったとき、明るさを失うという字面に、心底ゾッとしたものだ。
 この恐怖、きっと私だけが囚われていたわけではないだろう。

 「見ること」「聞こえないこと」「話すこと」「嗅ぐこと」、どれかひとつ失わなければならないとしたら、絶対に避けたいのはどれ? と友だちや家族と話したことがある。中には「聞こえないって、ずっとシーンとした世界で、すごく淋しいらしいよ」とか「においがわからないと、なにを食べてもおいしくないんだって」などと意見を持つ人もいるが、そういう人でも皆「見ること」を選ぶ。
 当然だ。「人が得る情報の八割から九割は視覚に由来すると言われて」いるそうだから。それが、ある日突然、もしくは徐々にでも失われたとしたら、私はどうするだろう……

 そんな強烈な恐怖が、本書を読んで一気に吹き飛んだ、とは決して言わない。相変わらず見えなくなることは怖い。
 でも、それは絶望ではないのだ、と思えるようになった。

 見えなくなると、足もただの運動器官でなく、目や耳と同じように感覚器官でもあることに気づくという。確かに武道などでも、目は相手を見続ける分、足からは重心や間合い、地の方向、吸いつき具合など、たくさんの情報を得て対処する。
 それらは本来、人間に備わった感覚のはずなのに、目から入る情報に気をとられて受け取る力が鈍っているのだ。
 さてさて、目あきというものは不自由なものよなあ……

 それにしても、著者である伊藤亜紗氏の発想の柔軟なこと。多くの人が「これはタブーでは?」と躊躇する話題にも、やんわりと深く切り込んでいく。その凄さをひと言で言い表すとしたら…やはり「ジュヌセクワ」となるのでしょうね。
 こんな大人に、私もなりたい。

投稿者 BruceLee 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読みながら
一人気ままに思い巡らした想像(空想?夢想?)について

まず最初に、私は目が見える人間である。よって本書に登場する人々と同じ
経験を未だしていない。だからこそ興味深く読んだのだが、その際、読むだけ
の受動姿勢ではなく、能動姿勢として時にページをめくる手を止め、暫し目を
瞑り「視覚の無い世界ってこういう事なのかぁ」と、その暗闇の中であれこれ
想像してみたのだ。

そこでまず思ったのは「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という
タイトルは、若干言葉遊びの要素が入ってると感じたのだが、この「どう見て
いるか」は「どう捉えているか」の方がしっくりくるのだ。目を閉じれば分かる
が、そこは「(物理的に)何も見えない」のだから、あるはずの対象をどう受け
取るか?という「感覚」が重要であり、その点が視覚を持つ我々と異なるから
こそ、我々は本書に興味を覚えるのだから。

と、前置きはこれくらいにして、自分っておバカだなぁとは思いつつ、想像
しちゃったんだからしようが無い、事を書いてみたい。

想像(その1)
読み始めて暫し、違和感という程でもないが何となく「?」と感じた事がある。
それは9ページからの《本書に登場する主な人々》 がイラストで描かれている
事。これ、何故なのだろう?というのも、フツーにテキストの名前明記だけでも
良かったのでは、と思えたからだ。それを敢えてイラストにした意味は何だろう?
読み進めるうちにその解答が出てくるのかと思ったのだが出てこなかったので一人
で勝手に思い巡らしてみた。そして想像したのは「視覚で捉えたイメージは記憶に
残り易い」という隠されたメッセージがあるのでは、という事。木下さん、難波さん、
とテキストで片付けてもいい所を、敢えてイラストで表現されると我々読み手は
「イメージしやすい」のである。と同時に「記憶に残り易い」のである。逆に言えば
目の見えない人はイメージが捉えられない分、記憶にも残り難いのではなかろうか。
ここがテキストとイメージの最大の違いであり、目が見える人と見えない人との
大きな違いでもあり、そして実は本書の隠されたメッセージではないか?とおバカな
想像をしてしまった次第。本書には目の見えない人のユニークな美術鑑賞方法も出て
くるが、やはり言葉とイメージでは捉え方に差があり、このイラスト部分は我々目が
見える読者向けなのだ(目が見えない人には美術環境と同じサービスが必要となる)。
我々が改めて目が見える事の有難さを実感するにはこのような思考もありなのかも、
というおバカな想像。

想像(その2)
読書中、ふと疑問に思ったのだが、「我々が朝起きた(眠りから覚めた)と認識する瞬間
ってどのタイミングだろう?」という事。目覚まし時計が鳴って、朝起きるが、確実に
「起きた」と思えるタイミング。それは目を開いて視野に映像が飛び込んで来た時では
ないか?そこに情景が広がるから「あ、自分は起きたんだ」と刹那的に認識するのでは
ないか?逆に言えば目の見えない人はこれが無い。彼らの視野は(光の加減は別にして)
全て暗闇であろう。すると彼らが起床した事に、そうと気付くのは「あ、俺起きたんだ」
と「自覚」したタイミングであり、それはつまり脳が知覚したタイミングなのではなか
ろうか?

そしてもう少々大胆な想像をしてしまったのは、「目の見えない人は怪しい世界に近い
人なのかも」という事。例えば目の見えない人は通常の生活を送る中で周囲に強度な
アンテナを張り、目の見える人よりも注意深くならざるを得ないとと想像するのだが
(それを逆手に取ったパスタソースは面白く読んだが)、時にボーっとする時もあると
思うのだ。このボーっとしてるとは「何も考えてない」と言う時で、つまり空っぽの
状態な訳だが、ここで想像したのは、あら?その状態って「瞑想」そのものじゃない?
と言う事。目の見える人は視野から入ってくる情報が多すぎるから、敢えて目を瞑り、
また何も考えないよう、努力と集中力が必要となる。が、目の見えない人は意識さえ
空っぽにすれば即「瞑想」状態になるのだ。それって凄くないか?そして瞑想に入る
人は、瞑想の効果として様々な恩恵を受けてる可能性も高いのでは?と想像して
しまったのだ。だから、目の見える人よりもどこか感覚的に優れてる部分が多いのでは
なかろうか?と。

と、本書を読みながら勝手な想像(空想?夢想?)をしてしまった。そもそも私は
目が見えるし、目の見えない人が近くにいる訳でもないので、そういう人の立場に
なって想像してみる(ある意味思考実験してみる)事が無かったので、良い機会を
頂いたように思う。反面「こんな事を想像してしまう自分って凄くね?」とほんの
一瞬思った事が多々あったが、そんな自画自賛してる奴こそ、世間からこう言われ
るのがオチなので気を付けたいものである。

「最も世界が見えてない奴」

おあとがよろしいようで。

 

 

投稿者 ktera1123 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどうみているのか」

普通に感想を書いても面白くないので関連する小話をいくつか。

1.かこさとしさんの「だるまちゃん」シリーズから。

かこさとしさん(昔々、自宅の近所に住んでいた絵本作家さん、詳しくは某駅前の北野書店の入口の説明を参照。)の絵本の「だるまちゃん」シリーズの本のなかで、雪が降ったのでだるまちゃんが雪だるまを作ったおはなしがありました。作った雪だるまの目玉にりんごを使ったのだけど、ポロリと取れて坂道をころころ。「丹下作善」になってしまう。ひろってくれた兎さんが質問「丹下作善」ってだあれ。隻眼隻腕の昔のお侍さんだよと。リンゴをひろってくれたお礼も兼ねておうちへご招待。おやつ(デザート)でりんごが出てきました。帰りに雪だるまをみてひとこと。「座頭市」になってしまった。「座頭市」ってなあに。目が見えないのだけどものすごいつよかった昔のお侍さんだよ。
今考えてみると、子供向けに「丹下作善」「座頭市」を説明し、昔の人にすごい人がいたってことを教えてくれたすごい絵本だった。古武術の体験会(1人が行くとある程度の人数が行くのが不思議)に行って剣術と合気道の体験をしてみたのだけど、相手の気を感じるよう神経を研ぎ澄ましていないといつきられるかわからないし、現在のように夜道が明るいわけではないので、第6感を澄ましていなければならないとなると「目が見えなくても剣の達人」になるのは不可能ではないのではないのでしょうか。

2.善光寺の胎内めぐりのはなし

今年ではなく何年か前の秋田新幹線が開通したころのはなし。長野の善光寺で胎内めぐりありめぐってみた。胎内めぐりとは、真っ暗なお堂の地下にある胎内に錠前がありさわるといった「暗闇体験」である意味「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の純日本版。胎内は暗闇のため、前後の参拝者と協力して錠前をさわりガチャガチャする必要がある。五感を研ぎ澄ます必要があるほど空いているわけではなく、最盛期の富士登山(ご来光登山で山頂まで夜間(早朝)登山したけれど想像していたより人がいてヘッドランプの光で大丈夫なのか心配していたけどまったく問題なかった。暗闇を想像していたのだけど思っていたより明るかった。)のように数珠つなぎ状態だったので問題はなかったのだけど、短時間であっても徐々に何となく見えてくるような気がするのは不思議。

3.二科展のはなし
何年か前に会社でIRタグと3D造形を利用してなにかを作ろうとしていたときのはなし。
当事者ではなかったので詳しい経緯はよくわからないのだけど、見えない人の美術鑑賞の手伝いになればだったのか絵画の説明をIRタグと3D造形を活用して再現してみようということで、新国立美術館(六本木)で開催された「二科展」で展示したことがあった。
なかなか先駆的な試みであれは美術作品なのかどうかと物議をかもしたという噂もありましたがいまをしてみれば、説明をあらかじめ設定しておく必要があるので、ソーシャルビューといったワークショップ形式で気づきを共有する形ではなかったのでいまいちだったのかもしれない。ある意味「駅のトイレの音声での説明」が当時の作ったものに相当するのかもしれない。

よく考えると本、文章を読む(いろいろ想像する。)テレビでをみるのでははなくラジオを聴く。(いろいろ想像する)いろいろと想像して経験しているのと大差ないと思えてくるのが不思議。

投稿者 standadconspiracy 日時 2015年6月30日


「ある分野に知識がない人は、その分野をどう見ているのか」
目が見えない人を上記のように置き換えて考えることにした。ある分野に関して知識がない人のその分野に対するイメージは、これまでの経験と知識に基づいて形成されるだろう。そして、その捉え方は、その分野に長く携わってきた人とは異なるはずである。しかし、単純に知識を欠く人であれば、その分野に対するイメージは、表層的なものになってしまうだろう。例えば、テニスにを語るとして、松岡修造さんと私では、おそらく同じレベル感では語り合うことはできない。しかし松岡修造さんと岡田武史さん(サッカー元日本代表監督)であれば、確かに競技は異なるが、勝負の駆け引きや人の育て方などに共通点を見出して、興味深い話が展開されるかもしれない。本書で登場する方々は、視覚という分野の知識や技術は持たないが、聴覚などの感覚の分野の知識や技術を高めてきた専門家なのだと感じた。他の器官で物事を捉える感覚を継続して高めてきたから、結果的に目が見える人と違った角度で物事を認識できるようになったのではないのだろうか。本書で記載されているような興味深い価値観を、視覚の専門家たる目の見える人に与えてくれるのだろう。目が見えないことではなく、他の器官を鍛錬してきたことが重要なのだとすれば、私は現在の仕事に関して、経験や知識を徹底的に深めていかなくてはならない。なぜなら本書は、他の人とは異なる尖った知識や技術こそ、他者に価値を提供できることを示唆しているのだから。

投稿者 vastos2000 日時 2015年6月30日


「見る」というのは、「網膜に映像が映っている」という意味と、「情報を処理し、その情報に意味を付与している」の二通りの場合で使われていると感じた。


視覚障害者がどのように世界を認識しているのか、を知ることも重要だが、著者がこの本の中で一貫して取り扱っている『「情報」と「意味」』のほうが興味深かった。
特に印象的だったのは、第1章「空間」の『私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか』からの数ページ。
誰から聞いたのかは忘れてしまったが、仏像が半眼になっているのは視界を半分シャットアウトして集中力を上げるため、聞いたことがある。それほどに視覚から得られる情報には人を躍らせる力があるのだろう。

晴眼者である私は当然のことながら、日常生活において多くの情報を、視覚を通じて得ている。しかし脳が意味を付与している(意識的に情報処理している)のはその一部であろう。

「車を買い換えよう」と思うと、いつもの時間、いつものルートで通勤しても、自分が買いたいと思う車種が目につく。きっと、車の買い換えに思いが及ぶ前にもそれらの車種には通勤途中で「見て」いたはずなのに。
通常の人間の情報処理能力には限界があるのだろう。いわば脳の中のスペースは限られている。そのスペースを自分のために使ってもらいたく、人は着飾るし、広告には「人目をひく」ものがつかわれることが多くなる。きっと週刊誌の表紙に水着の女性が多く登場するのもそのためだし、本屋が売りたい(お勧めの)本を平積みにするのもそのためだろう。

視覚障害者は、もちろん不便な面も多いが、それらの意図が込められた情報の氾濫からは自由でいられるケースが多い。それが『視野を持たないゆえに視野が広がる』ということなのだろう。

まとめとして、この本から得た日常に生かせる学びとしては・・・
●自分が消費者の立場であるときは、注意深く「見る」こと。「今、自分は広告を見ている。そこに書かれているモノを解釈している。そのモノを想像している。」のなどと、俯瞰的に見られればなお良いと思う。
●逆に自分がモノを売る側になった時は、いかにして自分の商品に興味を持ってもらう(情報処理してもらう)か?を心がけなければならない。認知されなければ存在しないのと同じだから、購入に結びつくことはない。
という、2点か。

投稿者 2l5pda7E 日時 2015年6月30日


目の見えない人は世界をどう見ているのかを読んで。

目の見えない人の身体の使い方や物事の捉え方で、今後自信が開発してゆきたい
3点を下記に挙げさせて頂きます。

・『死角がない』
見えない人は『死角がない』、見えるから死角が生まれる。
この『死角がない』という観点は、私の日常の中で1つの事を学ぶ機会があり、
それと繋がると思いました。
この体験は自分にも適用できると考えます。

それは、多読です。
私は司馬遼太郎の"竜馬がゆく"を読んで幕末に興味を持ち、"燃えよ剣"を読みました。
本を読んだ後、新選組を大好きな友人と話す機会がありました。
山南敬助が新選組を抜けて切腹した事について、友人は私とは全く違った見解を
持っていたのです。
私は起きた事象しか見解にありませんでしたが、友人は山南や近藤・土方はきっとこう
考えていたなど、熱く語ってくれました。
友人に聞くと小説や漫画など多読していた様で、これは一つの事を多方面から見ていたことに
なります。
多読することによって、一つの事を立体的に浮かび上がらせ、その情報量によって
『死角がない』状態に近づける事を確信しました。
私も多読する様に努めます。

・『見えなくなってからかえって転ばなくなった』
見えない人は『見えなくなってからかえって転ばなくなった』とあります。
電車に乗っている時に急ブレーキで他の乗客はつり革に捕まるところを、
捕まらずによろけずにいたという事で、余裕を持って立っているという事です。
見える人も開発できる能力だと感じました。

立ち方に関しては、私は日々実践している事があります。
私はヨガを習っていますが、ヨガの先生と毎月一回勉強会をしております。
その勉強会で立ち方に関して教えていただく機会がありました。

 足は親指に力を入れて地面を鷲掴むイメージで、
 太もも、膝、ふくらはぎの内側に重心をかけるようにして、立つ。
 (足だけで言うと上記のようになります。
呼吸の仕方やお腹や腰の力の入れ方は別途あります。)

私自身試していますが、電車でよろける事が少なくなったと実感しています。
しかし、電車の揺れに完璧に対応できていませんので、まだ修行が足りません。
この身体の使い方は立ち方だけでなく日常の姿勢や動作にも応用でき、健康につながると
考えています。
今後も継続して開発します。

これに関してのソースは、下記との事でした。
 世阿弥の能
 合気道
 王貞治の一本足打法
これらの情報は先生から頂いた情報をそのまま書きました。
合気道に関しては、塩田剛三さんの足の親指の記事をネットで拝見した程度です。
自身で情報を確認できるように努めます。

・スーザンバリーさんの立体視能力
立体視できず、二次元でしか見ることのできなかった人が三次元で見えるように
なった時の話です。
 全体を把握してから、細部を理解する。
 そのためには、左目と右目のズレによる立体視で三次元的な見かたをする。
右脳に受け渡す前に、文字を目から左脳で受け取るためには、立体視する必要があるという
事ですね。

私は速読できるようになっておらず、この感覚がまだつかめていないように思います。
身体の使い方よりも、自分の知識量の少なさや理解力のなさの方が、速読できない
要因のほとんどを占めているのではないかと思います。
ですが、読書スピードが以前に比べかなり早くなりました。私の自信につながりつつあります。
速読ができるようなるその日を夢見て、読書と身体的トレーニングを日々続けて参ります。

投稿者 gizumo 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜紗著を読んで

自分は「目の見えない人」というといくつかエピソードがあるのです。

一つは小学生の低学年の時に見た『いつかみた青い空』という映画。題名もあやふやであり、ぼんやりとした記憶なのですが、目の見えない白人の少女と黒人青年が知り合い仲良くなって親交を深め楽しい時間を過ごすというストーリーでした。しかしそこへ心無い大人が少女に「彼は黒人」だと告げてしまう。少女は気にしないが、それを知った青年はそっと少女のもとから去っていく。そして映画「禁じられた遊び」のラストのように目の不自由な少女が人ごみの中、青年を探す姿が・・・。
幼心に、「言わなくてもいいのに・・・」と思いつつも「もし彼女が目が見えていたら・・・」と思って悲しくなったり。
相当に集中して見入っていたようで、観終わってからテレビのある居間から自分の部屋まで移動する時に思わず目の見えない人のように“壁をつたって”しまっていて、「あっ!私は見えるんだ」って気が付いたときふっと安堵した記憶があります。

もう一つは、学生時代のバイト先の飲食店の常連様に目の不自由な年輩のご夫婦がいらっしゃったのです。“ドリア”を召し上がるのが常でいつもご夫婦でご注文されていました。奥様よりご主人の方が良く見えるようでテーブルに運んだ料理は必ずご主人が奥様の食べやすいよう、熱いので注意するようにそっとスプーンを添えて差し出される姿がありました。また微笑み合って食べ始められるのが常で、食事中にも笑顔が絶えませんでした。時には娘さんと思われる方とご一緒に来られ(娘さんは目のご不自由はないようでした)「おいしいだろう?!」と得意げな顔をされていることも・・・。今思えば一般のお客様と変わらぬ様子でご来店、着席されお食事されていたと思います。当時は「人を幸せにする“食べ物”の力ってすごいなぁ」と感動したものです。

最近では、朝の満員電車で雄弁に「スマートフォンの優秀性」を話していた目の不自由な男性です。どうも席を譲った女性が男性がスマートフォンを利用している様子に話しかけて盛り上がっていたようでした。「これがあれば何処へでも行ける」とご満悦。読み上げ機能だけでなくタッチパネルも悠々使いこなしていらっしゃいました。あまりに雄弁なのでまわりの多くの乗客が聞くとはなしに聞いて「へぇ~」という雰囲気が漂っていました。

「目が見えないってどんな風なんだろう」「目が見えないと何もできない」と圧倒的にマイナスイメージしか持っていませんでした。スマートフォンを活用している姿をみて行動的だなぁと、主に時間つぶしにしか使っていない自分を反省したのですが、本書ではさらにスポーツや仕事を積極的にこなす姿をみて自分の生き方さえ自信喪失でした。

目が見えることで実は見えていない、失っているものがあることの衝撃、確かに「盲点」は存在するのを実感しました。大きくとらえれば、人はみな違っていて、不得意なこと、苦手なことがあり、不自由を感じる部分は存在しています。
何かが“できない”こと、イコールその人が“劣っている”ではないのだと当たり前のことを改めて気づかされました。
自分ができることをやり、不足は補える方法もあり、別の方法やなくてすませることもできるしやっていいんだと。

この本で読んだ目の見えない方の空間のとらえ方や発想などを母親に話すととても面白がって聞いてくれました。ほんの少しですが脳梗塞の後遺症があることや年齢による体の機能低下で不自由さを感じているので彼女なりにある種の実感があるのかもしれません。

また、美術館での「ソーシャル・ビュー」には大変興味を持ちました。作品を鑑賞して感じたことを話し合い、作品の情報を知るのではない、という行動はまさに「目からうろこが落ちた」気がしました。
本書のようなワークに参加する以外で自分たちが実際に美術館でそれをすることはできないので、ぜひ「画集」などを持ち寄ってそれができたらいいなとわくわくしました。
さらに、課題図書で一つの本について語り合うこのワークも一種の「ソーシャル・ビュー」なのではないかと参加する喜びをかみしめています。

 

 

投稿者 ken2 日時 2015年6月30日


『目の見えない人は世界をどう見ているか』を読んで

「目をつぶる、アイマスクをする」のは引き算でしかない、と言われてもまずは体験。

目を閉じて会社の廊下を歩いてみた。 オフィスの扉の手前から目を閉じ、扉を開け、トイレまで歩いてみようとした。 そこは廊下で障害物はないとわかっていても怖くて途中で目を開けてしまう。
そこで、歩数を数えて再チャレンジ。 トイレの入り口の前までは行けた。 でも入り口の幅が約90センチほどしかないことに恐怖感があり、そこで止まって目を開いてしまう。

オフィスを出て廊下を歩いてトイレに行く。 たったそれだけのことでも、目を閉じたままだと、ものすごく神経を使うし、恐怖心があるし、疲れてしまう。 これだけでかなりの修行だ。

かつて、本書にも紹介されている暗闇体験ができる施設「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ったことがある。
ここは、目を開けているのか閉じているのかわからなくなる暗闇の世界で、視覚が完全に遮断される。
そんな中、「見えない人」にアテンド(案内)してもらいながら少人数のグループで、自分の聴覚、触覚、嗅覚、味覚だけを駆使してツアーするのである。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の入り口、そこは「見えない人」が弱者で、見える人が強者というステレオタイプな決めつけが逆転する瞬間でもある。

入り口で、白杖を持った「見えない人」であるガイドさんから、白杖を渡され、説明を受ける。 この段階では、ガイドさんはか弱く頼りなげに見える。
しかし、暗闇に入り、上下左右何もわからない状態に放り出されてしまうと、ガイドさんの声が天の声に聞こえた。
最後、ツアーを終えて明るいところに戻ったときは、ガイドさんに後光がさしているように感じたものだ。
入り口で感じた決めつけが完全に溶けていた。

何も見えない不安、白杖を通した触覚と自分の靴底の感覚が頼り。 歩みも自然とすり足になる、合気道などの武術と通じる。
障害物は何もないとわかっていても、すり足ヨチヨチ歩きになる。 暗闇に対する漠然とした不安、恐怖からなかなか足が進まない。
ここで頼りになるのが、ナビゲーターのコトバだ。 ガイドされていると安心する。

そこで発せられる言葉は、視覚情報に頼れないため、とても具体的だ。 自分もコトバを駆使して伝えたい、という気持ちが強まる。
そして、見えているときよりもコミュニケーションをとりたいという渇望感が沸いてくるのを感じた。 また、ちょっとしたことでも伝わるとうれしいし、楽しい。 そして親密度が増す。

慣れてくると、まわりを見渡す(見えてないけど)余裕ができ、今度は自分が助けようと、周りの仲間と協力しようという意識が芽生えた。
見えない中で何かが開眼した思いだ。

「自立とは依存先を増やすこと。切り離すのでなく、さまざまな依存可能性をうまく使いこなす。」 普段は当たり前になっていること、家があって道路があって電車が走っててお店や会社があって食べるものがあって服が買えて。。。等々
また、以前よりも個が重視され、ともすると自立して生きている、なんて思ってしまったりもするけれど、そうではなくて「おかげさま!」なんだなと、みんなどこかで助け合って支えあって生きているんだなと暗闇の中でそう感じた。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の体験談のようになってしまったが、今度は、ソーシャルビューというものも体験してみたい。 「鑑賞そのものよりも美術鑑賞の結果、得られる効果、気づきや発見、感動を共有する」というキーワードに惹かれたので。

その他に気になったキーワードとして、「頭の中のバーを跳ぶ」ということ。 頭の中にあらかじめ作ったイメージに徹底的に集中する。 高跳びもいわばダンス、イメージで型をつくり、その通りに動けば結果的に成功。 イメージへの没入。 これなどはまさに「思考は現実化する」の世界なので、そんな没入経験も学びたい。

余談ですが、この新書の手触り、紙の質感がつるつるでとても心地よかった。

今月も世界観が広がる良書をありがとうございました!

投稿者 hero03 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んで、感じたこと。

もし、今、自分が目が見えなくなった場合、一番、最初に浮かぶのは、先が見えない不安。
視界の先、それと、その先のどうやって生きていけばいいのだろう。

歩いていて、誰かにぶつかって、舌打ちなんかされた日にゃ、罵声上げるだろうし、
親切にしてくれた人にすら、感謝の対応ができるとも限らない。

それでいて、一人になった時には、自己嫌悪に陥るだろう。
恐怖心と不安。
人と違う、周りからはどう思われているのだろうと。

その状況を受け入れるためには、慣れ。目が見えないのは仕方ないと割り切る。
今ある情報から、未来を想像して、先を覚悟をする。腹を括る。
そして、彼らみたいに、いずれは、ハプニングを楽しむ。

寒い日に、暖かいコーヒーが飲みたいと思って、自動販売機で、左下らへんかな?
と押して、飲んでみたら、つぶつぶの入ったコーンスープだったら、げんなりするし、
次の時に、じゃあ、右上辺りか?と思い、水が出てきたら、笑うしかない。
毎日がロシアンルーレット、毎日幾度、今日の運勢占いをやっている気持ちになる。

ただひとつ、言えるのは、幸か不幸は、他人が決めることではなく、自分の心が決めている。


逆に目が見えない人と接するときは、どのようにしたら良いのか。
自分と異なる身体を持った存在だと思って、想像する。相手の気持ちになって考える。
それでも、100%要求を満たすことはないだろうから、相手の主張、希望を聞くしかない。

そうすると、盲目に限らず、人と付き合う、より良い人間関係を構築するコツは、
自分と相手との違いを認め、違いを尊重し、無用に争わず、不必要な妥協もせず、
お互いが満足できる結果を求めて、話し合うことなんだろうと思う。
立場を固定して、きっと、ああだろうと決め付けず、相手のあり方を知る。
そうすることで、特別視ではなく、対等。相手との違いに興味が沸いたり、
違いを面白がることができるのではないか。

最後に、彼らは、目の見えないことで思考の視野が狭まる。
飛び込んでくる情報には、踊らされなくなったとしても、
同じ立場の人とだけ、はなから理解を示してくれる人だけと付き合うことが多くなり、
多様性を受け入れにくくなる。
なので、ダイアログ・イン・ザ・ダークやギャラリーТОМなど、お互いが、それぞれの理由で歩み寄り、
同じ空間、時間を共有できることは、お互いにとって、より良い未来、新しい環境を作るきっかけになる。

 

 

投稿者 jawakuma 日時 2015年6月30日


目の見えない人は世界をどう見ているのか

比較で以前に読んだ『累犯障害者』に出てきた聴覚障碍者の話を思い出しました。
耳が聞こえない=手話 だと思いがちで手話で話せればコミュニティに入れると思いきや、健常者が使う手話は彼らが使うものとは全く違うそうです。視覚、聴覚などの障害者の世界を垣間見ることで常識の「つかえ」が外れました。

●闇の世界
当たり前ですが、全盲の人はまったく見えません。闇の世界です。都会で暮らしていると日常ではまず体験できないですよね。実際にその状況に身を置くと本当にビビりますよ。著者も訪れた外苑前の真っ暗闇体験の施設の話でも紹介されていましたが、自分の体と外界との境界がわからなくなるそうです。以前に読んだ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のやみくろの世界ですよ。体の境界がわからければ、目を開けているのか閉じているのかも解らなくなるそうです。光の重要性をしょうおん塾で日々学んでいるので、それを感じられないのはどうなのだろうか?考えさせられました。

●地獄への道は善意で敷き詰められている
ありきたりな障害者への配慮の話を書くつもりはありませんが、やはりそうかぁと納得したのが、障害者への気遣い、配慮が逆に壁を作っているというところでした。紹介されていた障害者は小学校の仲の良かった友達に親切にされ逆にへこむという経験をしていました。著者のいうとおり、友達として、隣の住人として接するというのがよさそうですね。

●見えない人がどう“見て”いるのか?
タイトル矛盾してますよ。本書を読む前にはふつうそう思うでしょう。実際に読んでみると驚きますね。見えない人たちの感覚世界。著者もいっているように目が見えない人はすべてそういう感覚かというとそうではないでしょうが、それでもそういう世界で同じ人間が過ごしているというのが驚きました。椅子の足の数の違いのように身体感覚のバランスのとり方がちがうんですね。大岡山や富士山のとらえ方、見えないからこそ視覚情報に惑わされず、俯瞰して(視点をはなれて)捉えられるとはタイトルのように矛盾を感じてしまいました。見えない人に死角はない。ベテランの視覚障害者はまさにそんな境地にいるのかもしれませんね。おでこのセンサーで「見える見える!」には感覚の違いに驚きました!

●どこで見ているのか
これは身体のどこの部分でなにをしているのか?という話につながりますね。移植で記憶や食べ物の好みまで移植されるケースもあるように、目が見えなくても感覚的には聴覚や触覚で視覚世界を感じているんですね。足の裏が体を支え歩きながら、その場所を探っているというのも非常に驚きました。健常者でも鉛筆の先の感覚が身体の一部に思えたり、車のタイヤの揺れやハンドルから路面を感じたりと、言われてみれば視覚以外で見ていることがかなりあるんですよね。
むしろ見えている人の方が、視覚の奴隷なのかもしれませんね。


●画一的作業が生んだ“障害者”
これも納得でした。産業革命以降の大量生産、大量消費社会が画一的な労働力を求め、それまでは個々でバラバラであることに意味があった職人仕事のようなものを、淘汰していき
画一化にはまらないもの=規格外
という価値観が広がってしまったんですね。それまでは目の見えない人はアンマさんなどの特有の職業があり、社会との結びつきを保っていたのが、そのタイミングで障害者と位置づけられてしまったんですね。確かに祖父母のことを思い返してみたりすると、昔の人の方が、良かれ悪かれ差別用語もふつうに使って、悪びれもなく笑い飛ばすくらいの感覚をもっていたように思います。腫れ物扱いは目の見えない人も健常者もいい気持ちではないですもんね。

●耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず
本書で紹介されていた大本教祖の出口王仁三郎の読んだ歌ですが、これは塾生のみなさんが呼吸法などで日々培っている身体感覚のことを言っている気がしました。なんかいつもと違うんだよなーという感覚。それはもちろん何かが見えたからでも、聞こえたからでも、匂ったからでもないんです。それでもなんかやっぱり違う、ゾクゾクくる感じだったり、ほんわかと温かい感じだったり、それに気づくには自分の身体との対話をしていく必要があるわけですね。いつかその境地に至るべく今日も修行に励みたいと思います!

今月も良書をありがとうございました!

投稿者 chaccha64 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどのように見ているか」を読んで

障害者は不自由を強いられている人ではない。
目が見えないことで世の中を「見る」ことができない。そう考えていた。
確かに、確かに目が見えないことで、目が見える人にはない苦労がある。しかし、目が見えないことで、その見えないという制限によって世の中を別の見方ができる。3次元的に捕らえて、死角がない。ところが、目が見える人は、その見えることによって死角ができ(裏側、見えていない側)、2次元的に世の中を捉えてしまう。
制限があることで制限がなくなり、制限がないことで別の制限ができる。どうもそういうことなんだ。
人間は自分の感じたこと、その解釈の枠の中でしか考えられない。しかし、自分の見方でない見方というものがあり、その世界も面白いものであるということなんだろう。
自分の五感で感じること、それを突き詰めていくことが大事だと思っていました。しかし、そこでその感じに疑問を持つこと、制限を掛けることで面白い世界が広がりそうな気がします。そうすることで、今まで考えなかったことを考え、感じられなかったようなことを感じられるようになるのかなと。制限を掛けることで、そういう世界を考えて行きたい。

 

 

 

投稿者 t1100967 日時 2015年6月30日


これまでは、見えない人は、視覚の代わりに他の感覚が優れていて、
それによって見えないことを補っているのだろうと思っていた。

この本を読んで、それがそもそも見える人の世界の価値観による思考であり、
視点が固定化されていたのだと気づいた。

筆者が、『よそはよそ、うちはうち』という言いまわしや、
4本足の椅子と3本足の椅子で例えているとおり、
見えない人の世界はそれ自体で一つのバランスのとれた世界であり、
何かが欠けている訳でも無く、何かで補っている訳でも無いと気づけたのは、
非常に目からウロコであった。

更に驚いたのは、第5章のユーモアについてである。
レトルトの中身が分からないから、おみくじ的に楽しむという発想は、
全く考えたことが無かった。

これはつまり、
外界からの情報にどのように意味づけするかは個々人の自由であり、
どうせならば面白いと思える意味付けをして人生を楽しく過ごした方が良い、
という考え方である。

抽象化すると、いわゆるポジティブシンキングのように聞こえるが、
微妙にニュアンスが違うと感じた。

私がこれまで聞いたポジティブシンキングは、
「ネガティブな感情に囚われないようにしよう」
「ネガティブな言葉を言わずにポジティブに言い換えよう」
「とにかくポジティブなイメージを持とう」

というような考え方が多かったように思う。
これらは、どことなく力が入っているというか、
ネガティブに流れてしまいそうなところを意思の力でポジティブに持っていこう
というニュアンスが漂うように思える。

一方、本書のユーモアの例は肩の力が抜けており、
あるがままを受け入れるという心構えと発想力の転換によって、
人生を面白くしていこうとしている。

第5章までは見える人と見えない人の感覚の違いや、
体の各器官の使い方の違いに焦点が当てられているため、
想像は出来るが、実際に体験が出来るとは言えない例が多かったと思う。

しかし、ユーモアについては、「情報にどのような意味付けを行うか」
ということであり、見える人も見えない人も同等に行うことが出来る。

そのため、自分はこれから何か自分にとってネガティブな状況が発生した際には、
それを逆手に取って遊びに変える、という発想をし、
毎日を少しでも楽しくしてみようと思った。

例えば、レジの列が長い時は、
・同じ人数並んでいるレジ同士をレースに見たてて勝敗を予想する
・早いレジと遅いレジの人の動きを観察して違いを見つける
であるとか、

例えば、休みの日に財布を忘れて外出した時は、
・誰かにお金を貸してもらえるか試す
・普段やらないお金を使わない活動だけで楽しんでみる(立ち読みとか散歩とか)
というような具合に発想を転換し、
人生をより楽しく有意義に過ごして行きたいと思う。

以上

投稿者 andoman 日時 2015年6月30日


「もし、自分が視覚障害になったら、どうなっちゃうんだろう…。」と、小さい頃、何かのきっかけで、そんな事を考えた事がある。
実際に目を閉じて、家の近所を歩いてみたり、夜電気を付けずに自宅の階段を上り下りしたりと、自分なりに試した事もあった。
自宅の中はある程度構造が分かっていたので、それほど苦では無かったが、外の場合はまったくの別。
ドブに片足落ちたり、電柱にぶつかったり…。
「自分には無理!」と開始早々すぐに諦めた…。(小さい頃なので根性ありません^^;)
それからは、「盲目の人って凄いけど、可哀そうだなぁ~。」と思うと共に「目が見えるって素晴らしい事なんだなぁ~」と考えていたが、それ以上は特に深く考え、その世界を追求する事はなかった。

今回、本書を読む事によって、盲目の人達の世界や想いが紹介され、小さい頃に沸いた疑問が、かなり解消された。
驚いたのは、視力以外で世界を視るために、目以外の器官をフルに利用して、情報を得ようとした結果、特定の器官に於いては、健常者よりも優れた能力が開花している点だ。
山を2Dでは無く3Dで知覚していたり、舌打ちの反響で空間を把握したり、サーフィンをしたりetc…。
健常者では、気付かない事に気付いたり、出来ない事が出来たり、目が見えないというマイナスを、逆にプラスに昇華している。
目が見えない事で、外界の情報をカットし、感覚を研ぎ澄まし、別の器官が再構築され、その器官の能力が健常者よりも増している。
これは「進化」と表現しても過言では無いと思う…。
もう、この時点で、私の中では「盲目の人=可哀そうな人」というのは、成立しなくなった。
むしろ「盲目の人=能力者」というのが新たに成立した。
別の器官が優れている事もそうだが、精神面に於いても、視力が無いというハンデを克服しようと努力する事で、そこらの健常者より強い心を持っている為だ。
その強さは、自虐ネタで笑いを取る人もいるくらい!

健常者と障害者を比べると、大抵の人は「可哀そう」と答えるだろう。
だが、本書を読めば、盲目の人達の「強さ」と「能力」を知る事で、そんな言葉は出なくなると思う。
少なくとも、私は既に彼らを以前の様な感覚で「可哀そう」とは思えない。
むしろ、尊敬すら覚えている。
もし、自分が事故や病気で突然盲目になってしまったら、きっとしばらくは塞ぎ込んでしまうだろう…。
けれど、いつかは扉を開け、前に進む事が出来る様になる日が来ると思う。
何故なら、時間は掛かっても、目とは違う別の部分で世の中を視る事が出来る可能性が残されているから。
本書はそんな希望の種を植える事の出来た一冊だった…。

 

 

 

投稿者 whockey51 日時 2015年6月30日


最も誤解していたことが1つだけあった。1つの感覚が失われると、自然と他の器官が高まると思っていたことだ。それが一言「慣れ」で、表現していたのには正直驚いた。
 目の見えない人、目の見えている人に関わらず、慣れという言葉が日常生活を送る上で大事な点になると感じた。
 読書をしない環境に慣れているから本を読まない。読書をする環境に慣れているから読書をする。環境に慣れているから、変わらないだけであって、慣れを意図的に見れば慣れさせないことも可能かと思う。
 慣れさせるためにどう準備するか。慣れる環境を作っていくだけで、日常に入り込んでしまうと言える。人間が環境に適応できる事がどんなことでも可能なら、居心地の悪い環境に居たとしても慣れてしまう。
 なら、今居心地が悪いと感じているなら、それは新しいことに慣れるために準備していると考えると、意外とストレスを感じないことに気づいた事が一番の収穫だった。

投稿者 nkatani 日時 2015年6月30日


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んで、

驚かされ印象に残っているのは、「障害を欠落と見ないこと」です。
障害というと、どうしても「健常者に対して何かが足りないから障害者」という見方をしてしまいますが、
「あくまで違いの一つでしかない」と考えることで思考に広がりを感じた事は不思議な体験でした。
物事の認識の仕方一つでこうも思考が狭められるものなのか、とヒヤリとさせられました。

見えない人の認識のプロセスを見ていると、
以外と自分たちも体験している事と似た感覚のものがあると気づき興味をひかれました。
立体迷路や宇宙探索など、全体のつかめないものを手探りで探索する感覚に似ているのです。
(後者は自分の想像した感覚でしかありませんが、こっちの方が見えない人の知覚の仕方に近いと感じました)
そう考えるにすると、「目が見えない」という絶望的な認識から
「どう認識を広げていくか」という認識へと素早くシフトできると感じました。

以前、「目が見えなくなったら、何を楽しみに生きていけばいいのだろうか?」
と考えぞっとしたことがありましたが、
自分が無知なだけで目の見えない人は見えないなりにブラインドサッカーやブラインドサーフィンなど、
視覚以外の感覚器官を総動員して人生をエンジョイしているようでした。
「ソーシャル・ビュー」で絵を楽しむこともでき、
目が見えなくなっても楽しみはあると認識できると「目が見えなくなること」の絶望感が薄れました。
これも、この本を読んだことによる大きな収穫でした。


この本を読んで、今後物事を考える際は「見えない(足りない)からこそ見えるものがある」
という認識を積極的に持って行こうと思うようになりました。

導入の部分であった四本足の椅子と三本足の話のように、
「違った条件でも成立している世界の違い」の認識に思いを巡らせる事で、
新たに見えてくるものがあるという認識をしておくのは大事だと思いました。
また、多角的に見るためのアプローチとして上記の方法がるということも覚えておきたいと思います。

 

 

投稿者 starstar 日時 2015年7月1日


視覚ばかり使ってしまう。
五感のうち、視覚に依存しているというのは、この本を読んで初めて自覚した。
普通に生活していると、視覚と考え事に力を主に使っていて、
他の感覚をあまり使わない。音楽などを聞いていると周辺情報は視覚だけになる。
ただ聴覚を音楽で使うと、歩いているときに周りの感知能力が極端に落ちる。

視覚以外の五感を使おう。
日記に視覚以外で気づいたことを書くようにした。
そうすると気づくことが増えてきている。

大岡山の話
立体であることなんて気にしたことなかった。
ふと歩くときに、細かい視界情報を捨てて、立体情報をとっていくと
いつもは駅まで、信号の場所と所要時間くらいしか意識はないけど、
改札2Fの高さだけど、どうして1Fじゃないんだろう、とか、高いビルに囲まれていて
結構圧迫感があるな、とか感じた。

人は多かれ少なかれ、環境に振付けられている。
環境に基づいて行動を決めていることが非常に多いのだと感じた。
自分の中にある本当の気持ちとは無関係に、周りの環境に基づいて人生を選択
していることが多い、と愕然とした。

投稿者 morgensonne 日時 2015年7月1日


「目の見えない人は世界をどう見ているか」を読んで

目の見えない人の世界とはどのようなものか。
そのためには「目の見えない人に変身する」という発想でこの本は始まっている。
この感覚は新鮮でもあり、変身するというのが相手の気持ちをよく理解することにつながると思いました。
時々目を瞑って自分の状況を考えたりすることは誰でもあると思うが、その時には少なからず客観的に自分を見ているような気がします。
目の見えない人は常にそのような感覚でいるということになるのでしょう。
目の見えない人が道のりを3次元で捉え、全体を俯瞰してみるというのは、自分を客観視することにつながると感じました。客観視するには視覚以外で自分と周囲の状況を見つめるというのが有効なのだろうと感じました。見える人の感覚で例えると、近くを見ながら同時に空から周辺を見ているという状況であるにだろうと思います。
著者の”目”を通じて目の見えない人の感覚をいくらか疑似体験することができたのではないかと思います。

ありがとうございます。