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第96回目(2019年4月)の課題本

4月課題図書

 

思考と行動における言語


50年以上前に書かれた本なんですが、コンテンツは古くなっていません。というか、

誰でも情報発信が出来る今という時代には、知っておかなきゃならない内容だと思います。

意味とはどういうものなのか、人に伝えるために押さえておかなければならないことは何か

を学べるはずです。

 【しょ~おんコメント】

4月優秀賞

 

今回は内容が難しかったので、みなさん苦労したようですね。

今回一次審査を突破したのは、tomookuさん、gogowestさん、nishimikadoさんの3名で、

優秀賞はgogowestさん

にしました。おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 tajihiro 日時 2019年4月25日


「思考と行動における言語」を読んで

 S・I・ハヤカワ著の「思考と行動における言語」について、私なりに考えたことを以下にまとめてみたいと思います。
 まず、一番の感想を一言で申し上げます。それは、「言語こそ、人類で最大最高の発明であり、読書を通じて成長ができる人間に生まれて良かった」ということです。

 上記を踏まえ、以下の2点について新たな気付きを得ました。

1. 『読み書きができるということは、人類最大の仕事に参加しまたそれから利益を受けることを学ぶことである』(P14)
2. 『精神の健康のための読書』(P334)

1. 『読み書きができるということは、人類最大の仕事に参加しまたそれから利益を受けることを学ぶことである』(P14)
 まず、この一文を読んだ時の感想は、「何とおおげさな!」でした。というのも、それまでの私は、読み書きというのは、相手に何かモノを伝えるコミュニケーションツールのひとつとしか考えていなかったからです。なぜか?理由は、「読み」は誰かしらが書いた書物から学ぶこと、「書き」は自分が書いたものを誰かしらに伝えること、そして、それ以上もそれ以下もないと考えていたからです。

 その程度しか考えていなかったのに、なぜ、今回の大きな気づきにつながったのか?

 そもそも、人間という生き物は、200万年以上の太古の昔から、他の霊長類同様に、文字など必要なく「言語は話すもの」として、過ごしてきたという事実があります。つまり、話し言葉だけでも、ある程度の文化の継承ができていたわけです。しかし、ある時期を境に一気に文化レベルが上がる時期があります。日本の場合、江戸時代中期の18世紀以降(元禄期~化政期の中間)であり、寺院などで手習師匠が町人の子弟に読み書き計算等を教えた学問施設(寺子屋)の普及を礎に一気に文化レベルが上がりました。寺子屋と言えば「読み書きそろばん」が有名ですが、一方であまり知られていないキーワードとして「お心肥(おしんこやし)」というのがあります。その意味は、頭の中を豊かにして、教養をつけるという意味です。

 本を読むことは非常に重要です。実際、当時の人は「論語」をはじめとした儒学の本をよく読んでいたと言います。でも、それだけではダメで、実際に体験し自分で考え、初めて、その人の肥やしとなるのです。立派な人間として成功するために教要を身につけ、人格を磨き、心を肥やし、行動に移すことが重要なのです。

 3回読み直して、上記と「読み(インプット)=思考=『それから利益を受けることを学ぶこと』」「書き(アウトプット)=行動=『人類の最大の仕事に参加』」が一本につながったとき、思わず「おおっ!」と唸ってしまうぐらい納得し、感嘆し、共感を得ました。(ついでに言うと、標題が「読みと書きにおける言語」でなくて『思考と行動における言語』であることにも納得しました。)

2. 『精神の健康のための読書』(P334)
 まず、この一文を読んだ時の感想は「確かにそうだ」でした。江戸時代中期の話に戻りますが、そもそも、当時の日本の識字率は世界と比べかなり高かったと言います。また、江戸の日本橋という限定した地域では、識字率は8割を超えていたという史実もあるそうです。その一方で、オランダの情報が入ってきていた長崎の出島と比べた場合、江戸の日本橋は、海外からの情報は殆ど入って来なかったのも鎖国時代の事実です。よって、当時の江戸が、安土桃山時代と比較して、識字率は高くとも、社会制度や科学技術においてはさほど発展しておりません。

 逆に、識字率が高い分だけ、時の将軍は、文字によって庶民をうまく統制できたのかもしれません。為政者にとって、文字情報の伝達力を独占できれば最も都合がよいものの、仮にそれが難しい場合、識字率が高いものの、情報の流通の風通しが悪ければ、実に都合よく社会を誘導できるというわけです。

 現在の日本の場合であっても、日本語での識字率の高さだけを誇っても意味のないことが理解できるはずです。目に飛び込んでくる情報をどれだけバイアスなく受け取れるか?スマホ動画やテレビばかり見て、活字を読まなかったり、自分で鉛筆をもって白いノートにゼロから書き直して問題を考えたりしないと、人間は、縄文人や弥生人とあまり変わらない、ということになってしまいます。いまは亡きApple創業者の一人スティーブ・ジョブズ氏が、彼の子供にiPhoneやiPadを持たせなかった、というのは有名な逸話です。また、ある人は「読書を年間100冊以下しか読まない人はサル以下である」と言っておりますが、まさにその通りだと言えるでしょう。

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 最後に、今回の学びを今後の人生にどのように活かしていくかをまとめます。
 『読み書きができるということは、人類最大の仕事に参加しまたそれから利益を受けることを学ぶことである』ですが、まずは、読書(インプット)をして、その後、課題図書提出はもちろんのこと、それ以外でもブログなどを通して、情報発信(アウトプット)をしたいと思います。さらには、他の人の課題図書報告を読んで、私になかった気づきや深堀ができている人を見つけ、新たな視点を身につけたいと思います。
 『精神の健康のための読書』ですが、こちらも読書をすることは当然ですが、コンスタントに読むことを心掛けたいと思います。具体的にどうやって続けるかですが、ここ1か月くらいできている方法で言えば、毎週火木の仕事終わりにファミレスで本(小説とビジネス書などの理系本)をそれぞれ1冊ずつ読破、土曜の午前中に同じく1冊ずつ読破、計4冊を毎週読破して『精神の健康のための読書』を行っております。それを、これからもずっと続けていきたいと思います。

 以上、課題図書としての思ったこと、考えたことの記載を終わります。今回も非常に有益で価値のある本をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 shinwa511 日時 2019年4月25日


本書を読んで、人は言葉によって踊らされ易いということについて考えさせられました。

人の体験というのは、直接自分が体験したことだけを言うのではありません。自分の体験の範囲は世界中に存在する様々な事象に比べると、ひどく小さく狭いものです。同じ時間と空間には自分一人しか存在できず、自分の目と手の届く範囲でしか、経験はできません。実際に海外に行き、「この国は行ってみたら、実際にはこういった特色があるのだ」と自分で理解するのと同じことです。その体験不足を手軽に補うため、書物を読んだり、画像や動画を見たり、人の話を聴いたりするなど、間接的に体験という知識を深めていく事もできます。

本の文章などは、言葉で読者の想像力を働かせる作用をもたらすことが、言語世界では可能になります。歌の歌詞や俳句、短歌など限られた文字数の中で、さまざまな感情や思いを込めることもできます。

本書が書かれた理由については、記載の通り何百万人もの人々を狂信的・破壊的な見解に巻き込んだ、言葉を使った宣伝の危険性について警鐘を鳴らすために作られた、としています。言葉には曖昧さがありそれが危うさに繋がることを解説し、その上で言葉に惑わされることが無いようにと注意を促しています。

自分たちドイツ人にとって心地の良い言葉を話す、アドルフ・ヒトラーの演説を聴きに行く、ここに行った外在的世界の人々が影響を受け、さらに演説に行かなかった人々には宣伝という言語世界で、どれほど素晴らしい演説なのかを宣伝し、大多数のドイツ国民が共感し支持をしていきます。すると、多数の支持者である自分達の指示する思想こそが、正しく崇高な存在だと思い込むようになり、党の政策に反対する意見者を社会的に弾圧し、他国へと侵略を始めていきました。

アドルフ・ヒトラーの政治手腕と、人心掌握のパフォーマンスが優れていたからこそ、起きたことだったのかもしれませんが、それに加えて、言葉を上手く使いながら民衆が戦争へと進んでしまうように、誘導してしまうような影響力が宣伝にはあったのだと考えます。

言葉には誇張や嘘も存在します。意図的に情報を隠される、或いは存在しなかったように消されるという事もあります。自分で実際に見て、感じることが「本で書かれていたこととは違う」ということは往々にしてあります。情報ツールにだけ頼り過ぎていては、言葉に惑わされない正しい判断は、出来なくなってしまいます。

自分自身で実際に体験したことが伴う言動ほど、説得力のある言葉はありません。しかし、先に書いたように人間の体験できる行動には限界があります。そして、実際に情報を発信する人達だけではなく、受信した人達も影響を受けた情報の発信者となっていきます。そこからさらに情報の発信者と受信者は増えていきます。人は影響を受けやすく、言葉に躍らされていくシステムなのです。

それでも、発信される情報をなんでも鵜呑みにしないこと、すぐに情報に飛びつくのではなく、一歩下がって全体を俯瞰して見て判断するなどという姿勢は必要です。自分で実際に体験できないことであればこそ、「本当にそうなのか」という目で見て、情報に接するということの大切さを感じました。そうすることが、自分を守る抑止力にもなるはずです。

投稿者 toshi121 日時 2019年4月26日


「思考と行動における言語」を読んで

 ここ一年半ほど課題図書を毎月読むようにしているが、内容的にだけでなく、字が小さく、古臭い活字で、ページ数が多いこともあり、最も難解で読み進めるのに苦労した一冊であった。こうした堅い書籍を読み慣れておらず、自身の読解力の低さを改めて痛感した次第である。それでも、言語に関して考えさせられるいくつかの点があり、読んでよかったと思っている。
一つ目は『辞書を書くということは(中略)種々の語が遠いまたは近い過去に著者にとってどんな意味であったかをできるだけ忠実に記録する仕事である』という点である。読んでみて、改めて考えてみると自明のことでありながら、そうか、そうだったんだと感じた。
二つ目は、『第二の意味的寓話-A町とB市の物語-』である。ほぼ同じことを実施したのに、伝え方=そこで使った言葉=が異なるだけで、まったく別の状況になったということに驚きを感じるとともに、『言葉』の選択の重要性を再認識した。これも、改めて考えてみると、ここまで極端な結果の差異にならなくても、選択する『言葉』の相違が結果にもたらす影響が大きな事例は枚挙にいとまがない。人に伝える時には、『言葉』の選択に、もっと慎重に、よい多くの考慮をする必要があると感じている。
三つ目は、『希望どおりの決定が下された時、人々は言う。「真理が勝った」』という点である。真理とは何であるかを探るものであると思っていたのであるが、『要するに、社会は、望みの結果を生むような分類の体系を「真理」と見るのである』という記述に大いに驚きつつも、なるほど、そう考えるべきだったのかと思いを新たにした次第である。
四つ目は、『ネズミを神経衰弱に導いたのは、その問題の「解決不能性」である』という点である。続けて『ネズミも人間も大体同じような段階を通って行くようである』とあるが、なるほど挫折して、精神を病んでしまう人の悪循環の思考と行動のパターンを改めて知ることができた。こうしたパターンに陥らないように、幅広く考え、多くの意見に耳を傾けていく必要があると感じている。
最後に、『外在的考え方の諸ルール』としてあげられている10項目がある。なぞかけのような表現が並んでいるが、含蓄に富む内容だと感じている。特に『コトバの意味はコトバの中にあるのではない。意味はわれわれの内にある』という点は、強く印象に残っており、しっかりと記憶しておきたい一文である。
以上雑駁な羅列となったが、十分理解できていない点が多いため、再読をして理解を深めたいと感じる一冊であった。

投稿者 munetaku 日時 2019年4月26日


コミュニケーションにおける誤解や齟齬が起こる要因の一つとして、抽象的なコトバの使用による認識違いがある。コトバ自体の抽象度が高いほど、互いの解釈の差異が大きくなりやすい。例えば、”なるべく早く”というときに、それが1時間なのか1日なのか、はたまた1週間なのかは明確ではない。その人の立場やスキル、そのときの状況等によって解釈は変わってしまう。
勝手な解釈や推測をするのは危険であるので、コトバの解釈に疑問があれば具体に落として意図するところをきちんと確認する。違和感が少しでもあれば確認する事が大事であり、大体分かっているからいいかと放っておくと、ちょっとした誤解が積み重なり手に負えなくなる。具体に落として抽象を共有することを繰り返すことで相互の理解が深めていくことで、相手がどのレベルの抽象度で話しているのかが判断できるようになる。賢い人は的確に抽象と具体のいったりきたりをすることが出来る。

実は注意が必要なのは、夫婦や友人、同僚などの身近な相手とのコミュニケーションであると思う。あまり知らない人とコミュニケーションする場合、相互のバックグラウンドの理解が浅いが故に、コトバの意味する所をきちんと確認することに気を使う。逆に、良く知っている相手では、この意識が希薄になる。実際、普段から良くコミュニケーションをしているので、抽象的なコトバや表現でも大体のところは通じることが多い。しかしながら、阿吽の呼吸で分かってるつもりになっているため、表現に若干の不明な部分があっても、きっとこうだろうと推測で物事を進めてしまい、意思の確認を怠って失敗することがある。親しい中でこそ、コトバの意味する所を明確にする意識が常に必要と感じた。どれほど親しくても自分と他人は違う。昨日の自分と今日の自分ですら違う。思い込みを出来るだけなくすこと。コミュニケーションには主観が入ってしまうことを忘れない。

多様な他人の思考をインストールして、人の理解を深めることはコミュニケーション力の基礎になる。そのためにも読書は非常に重要だと再認識した。実生活では、自分と似た環境や思考をする人が自然と周囲に集まっていて、全然違う環境、思考を持つ人とコミュニケーションする機会はなかなかない。しかしながら、意識してそのような場に身を投じのは骨が折れる。そこで、少ない労力で多様な文化、思考を知る良い方法が読書になる。読書であれば、およそ体験困難な戦争や、理解困難な犯罪者の心理などを文字から知ることが出来る。
コトバを理解する、というのは単に語彙を増やすだけではなく、コトバのバックグラウンドを理解することでもある。”憲法9条”と言ったときに、それを聞いた人が左なのか右なのかでコトバから受け取る意味合いは正反対になる。これは憲法9条の条文を知っているだけでは分からず、その裏にある主義・主張を理解していないとコミュニケーションに支障をきたす。場合によっては、地痛い目にあう可能性もある。そういった、地雷を踏んだりタブーを冒すかどうかは、事前知識があるかないか、相手の主義・主張を見抜く目があるか、にかかっている。
メルマガで幾度も指摘されている通り、思考の偏りをなくすためにも正反対の思考を知ることは大事である。自分の中の地図を広げておく。狭い地図しかないと自分と相手の現在地が分からず、近づうとしても距離の埋めようがない。相手がどのような思考の癖を持っているか、が分かれば、距離の埋め方、踏んではいけない部分がわかる。

コトバは自分自身を形作り、世界を形作る。コトバがなければコミュニケーションはなく、コミュニケーションがなければ社会はない。自分の現地を正しく知り、良い地図を持つことが生きていく上では大切なことである。

投稿者 masa3843 日時 2019年4月30日


恥ずかしながら、本書を読んで初めて「一般意味論」という学問的体系があることを知りました。
「抽象の過程」や「地図と現地」など、
今まで自身の思考には存在しなかった概念に触れて、大いに刺激を受けると同時に、
体系化された言語論を学んだことで、思考が整理されるのを感じました。

本書の中で最も印象に残ったのは、
ある語や表現が人の頭の中に想起する「内在的意味」と
コトバでは言い表すことができない「外在的意味」の区分です。
特に、内在的考え方と広告について解説しているP286が強く心に残りました。

著者は、全国広告が情報伝達的であることは極めて稀で、
むしろ広告主はコトバをもてあそんで精神の内在的な習慣を助長する、
と説明しています。

ここで言う内在的な価値とは、
企業が自社の商品を売るために創ろうとしている
ブランドイメージのことではないか、と私は考えました。

著者は、こうしたマーケティング活動そのものを否定しているわけではないと思います。
その功罪両面があることを、一般意味論の見地から解説しているのです。

P291では、こう説明しています。
『広告は、人々がコトバに反応する精神の健康の度合を増したり減らしたりすることができる。
したがって、もし広告が情緒的で気がきいており、教育的で想像力に富んでいるなら、
それは必要営利的機能を果たすとともに、
われわれを感化的なコトバの暴力のドレイにすることなく人生の喜びに貢献することもできる。』

現代社会ではモノが溢れ、あらゆる企業が様々なモノを少しでも多く売りつけようと
躍起になっています。
そのような中、私達がマーケティング活動の負の側面に踊らされることなく、
本当に必要なモノだけを手にして人生を豊かにするためにはどうすればよいのでしょうか。

本書では、内在的アプローチと対立する概念として、
外在的アプローチの必要性が説かれています。

その要点はP317以降に詳述されていますが、ポイントは、
●「コトバ」が全てを説明しうるものではないことを知り、「コトバ」ではなく「事実」について考えること
だと感じました。

つまり、重要なのは、他者の「コトバ」に踊らされることなく、
自身の体験した「事実」をありのままに感じ、
思考を進めて行動することなのだと思います。

この態度は、読書やセミナーで学びを深める上でも極めて重要な姿勢です。


それでは逆に、自分がマーケティング担当者だったとして、
自社の商品を少しでも多くの人に購入してもらわなければいけない
立場だったとしましょう。

このような場合は、どういった姿勢で「コトバ」を作っていけば
よいのでしょうか。

P288とP289には、
『コトバの催眠術による広告が内在的考え方を作り上げる』
『広告は、今や多分に、快い感化的内包でわれわれを圧倒する技術となってしまった』
と書かれています。

自社商品のプラスの面をただひたすらに強調し、少しでも良いイメージを作り上げすることで、販売を促進すればよいのでしょうか。

恐らく、そうではないでしょう。

広告やマーケティングで作るコトバは、
P105で解説されている「指令的言語」です。

「指令的言語」とは、
『かくあるべしという「現地」についてのハッキリしたコトバまたは含みによる「地図」である。
それは、もし人がこれをすればこれこれの結果がともなうという明示または暗示による約束をして、
人にあることをさせるのである』
と説明しています。

マーケティングで語るコトバが、「約束」であるならば、
それが守られるかどうかが最も重要であるはずです。

つまり、誇張され実態が伴わない内在的意味を持たせることに成功し、
多くの人が購入する段階まで進んだとしても、
その後に期待された効用を得ることができなければ、
信頼を失い幻滅させてしまう結果になるのです。

それでは、本当の意味でのブランド価値を創ることはできません。

発するコトバを「約束」と捉え、
その約束を真摯に守る。

それは、他者に対してだけではなく、
自分自身に対して発するコトバについても、同様に重要なことだと感じました。

コトバが氾濫する現代で、
慎重に真摯に情報発信することの重要性を再認識することができました。


今月も素晴らしい本をご紹介していただき、
ありがとうございました。

投稿者 tomooku 日時 2019年4月30日


思考と行動における言語を読んで

 本を読み終えて、ハヤカワ氏の読者が他者とのコミュニケーションはもちろん自分自身とのコミュニケーションもうまく行くようになってほしいというメッセージを感じた。

 私たちの思考も行動も言語によって決定されている。しかし、その言語は私たちが知覚した時点で諸特性が落とされて抽象になっている。よって「知っていることはすべて抽象である」「地図は現地ではない」その点を踏まえて他者と自分自身に対するコミュニケーションについて考えてみたい。

 まずは他者とのコミュニケーションについて。

 言われた言葉にカチンと来てすぐに怒り出したり、バカにされたと思い傷つくことも原始的で小児的だとハヤカワ氏は言っている。
 
 それは、他者から発せられた「コトバの意味」は自分が理解した意味とは必ずしも一致しないからであり、そのことを理解していれば即時的で感情的な反応を取ってしまい後で後悔するということは少なくなる。

 私には距離が取りづらい関係で、相性が合わないというか、考え方が合わない人がいる。その人からのコトバにはつい即時的で感情的になってしまっているし、話を否定的にしか聞くことができていないな…と反省した。「牝牛1は牝牛2ではない」と呪文を唱えて反応を遅らせることと「閉ざされた心」になって話の内容に目を背けていないか振り返ることがより良いコミュニケーションのために必要だと感じた。

 次に自分自身とのコミュニケーションについて。

 この本を読んで一番衝撃を受けた点は「われわれの力と限界はこのくらいだと信ずるところによって決定されるーすなわち『自己概念』によって決定される」という部分であった。

 自分の限界は自分が決めている…何度か聞いたことがあるフレーズだったが、改めて考えさせられた。

 自分でここまでしかできない、これができないと思っていたのは自分で決めていただけなのだ。しかも、正しいかどうかわからない断定によって。自分はこういう人間なのだと描いていた地図も自分自身をすべて正確に表しているものではなかった。

 自分の自己概念はコトバで作られている。自分のコトバで自分の限界が作れることがわかれば、どんな事でも可能になる。できると信じればいい。

 例えば日常から私はツイてるという現象を多少強引にでも知覚し、だから私は運がいいと断定してプラスの方向に自己概念を書き換えれば幸せになれると思う。
 
 最後にコトバの意味について

 今まで言葉は情報の伝達と自分の思いを伝えるためのものかくらいの認識しかなく、外在的意味、内在的意味、言葉の内包などという言葉は聞いたこともなかった。

 これからはこのコトバの意味は外在的なものか内在的なものか、抽象と具体の混同はないか、コトバの内包に対しては話し手と聞き手で相違はあるのかなど…コトバに接するにあたり整理して理解する視点を持つことができたように思う。

 今月も読み応えがあり、実りの多い本を紹介してくださりありがとうございました。

投稿者 collie445 日時 2019年4月30日


読み・聞き・話しコトバは
日々の生活の中でよく考えることなく使っている。
文章を書かない日は、たまにはあるかもしれないが、
文章を読んだり、話を聞いたり、話したりは、毎日している。


書きコトバに関しては、
文章を書く時に、どう書いたら分かりやすいだろうか、
伝わるだろうかと考えることはよくある。


しかし、言語そのものについて、
言語がどういうものなのかを考えることは、あまりなかった。


本書では、言語そのものについて深く学ぶだけでなく、
さらに、「思考と行動における言語」とあるように、
言語と思考、言語と行動についても深く学ぶことができた。


言語を考えていて、「具体と抽象」が思い浮かんだ。
SS課題図書倶楽部で紹介された本だ。


本書に加えて、「具体と抽象」を読むことで、さらに理解が深まった。
言語、すなわちコトバは、物事を考えたり、解釈したりする時に
必要不可欠だ。
具体から抽象と抽象のハシゴを登ったり降りたりすることで思考は深まる。


言葉とはコミュニケーションの道具でもある。
コミュニケーションの本というと、
以前の課題図書の「伝え方が9割」が思い浮かんだ。


「伝え方が9割」は、伝え方のテクニックを
実践に近い形で学ぶように感じた。


一方、本書は、言葉そのものを様々な角度から色々な面から学べる。
そして、言語を使って、思考し、行動へとつなげる。


言語だけでなく、思考と行動へつなげるところを学べるのが
本書の肝であると感じた。


言語に関する記述で、特に心に残ったのは、
『牝牛1は牝牛2ではなく、牝牛2は牝牛3ではない……』
『コトバは何についてもすべてを言いつくすものではない。』
ということ。


誰かとコミュニケーションする時に何かコトバを発する。

各人が思い浮かべる牝牛は、同じ牡牛ではない。


同じコトバを使っていても、そのコトバが意味するもの、
表しているものは、異なることもあるのだ。


同じコトバなら、同じものを表していると考えてしまうが、
同じものを表しているとは限らないのだ。
どちらかと言うと、同じでないと考えた方がよいのだろう。


円滑なコミュニケーションをするためには、
お互いのコトバの意味をきちんと読み取ることが必要だ。


それぞれの人が持つ背景も影響を与えていることにも注意したい。


同じ出来事を取材したとしても、取材や媒体によって、
違ったニュースになる。


円すいを上から見たら、円になって、真横からみたら三角形になる。
見る角度によって異なる形になる。


それぞれのニュースを見て人の頭に思い描かれる出来事は、
元の出来事とは、それぞれ違ったものになる。


本を読んで、絵を書く。同じ本を読んでも、人によって違った絵になる。


同じニュースを見た場合でも、それぞれの人の頭に思い描かれるものは、
それぞれ異なるものになる。


何かを言い表す時に、コトバですべてを言いつくせるわけではない
ということを覚えておかなければならない。


言語から思考・行動への記述で、
特に心に残ったのは、
アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツにおいて
二値的考え方と闘争が結びついた実例が示した
宣伝の危険性だ。


宣伝は、
テレビ、新聞、雑誌、インターネット、電話、訪問者、チラシなど
あらゆるところからもたらされる。


宣伝は、商業的なものだけでなく、政治的なものも含まれる。
もたらされる情報は、
部分的な切り取りや、色付けなどの
フィルタリングがされ、情報操作がされている。


人々の思考を意図的に誘導し、
人々の行動を情報発信者の目指す方向へ導くこともできる。


宣伝を考えなしに受け取ることは危険だ。


その宣伝がどのような意図をもってなされているのかという
宣伝の裏側を常に考えることが大切だ。


本書の学びを生かせば、こうした危険をさけることができるだろう。


それだけでなく、自らのコトバによって、
よりよい思考や行動へ導くこともできる。


身近な人々に対してだけでなく、
SNSが活用できる現代なら、多くの人々に対しても
情報発信して影響を与えることができる。


「思考と行動における言語」の具体的な活用として、
私自身がすぐに取り入れられるのは、
最近、取り組んでいる心理ワークである。


心理ワークでは
まず、目の前で起こった出来事の状況を具体的に書き出す。
次に、その思考や行動を考察した後、現状の認知の歪みを考える。
そして、認知の歪みから開放される考え方、行動を導き、実行した結果を
書き出す。


こうした心理ワークの過程で、抽象度を上げて、
原則に当てはめ、どの認知の歪みに該当するかを考える。


その後、実際の行動へとつなげる際には、
抽象度を再び下げて、具体的な行動を導き出す。
つまり、抽象度のレベルを上げたり下げたりしている。


今は、一緒に学ぶ仲間が書いた心理ワークに対してコメントを書いている。
今後は、クライアントが書いた心理ワークに対して、
私がコメントを書くことになる。


クライアントが認知の歪みから開放されるように考え、
行動できるようになるコトバかけができれば、
よりよいサポートとなる。
その際の言葉遣いにも、本書の学びは活用できる。


そして、現在、取り組んでいるサイトやビジネスにも取り入れたい。
私が発信したいと思っている情報は、マニアックだ。
マスコミの宣伝を、疑いなしに受け取っている人には
胡散臭いと思われることが多い。


しかし、私が得た知識や情報を必要としている人は必ずいる。
そして、私が助けられたように、その人の助けとなるはずだ。


本書を何度も繰り返し読むことで、理解を深めて、
よりよい世界の創造に寄与する情報を
必要としている人々に届けると決意を新たにした。


「平成」から「令和」へ改元されるタイミングで
本書と出会えたことに感謝します。
ありがとうございました。

投稿者 BruceLee 日時 2019年4月30日


「宜しくお願いします」ってどう英訳する?

昔、朝日新聞のコラムで大笑いした事がある。ある日本企業のアメリカ支社にてイベントがあり、本社の日本人社長による講演があった。英語を話さない日本人社長の発言は現地駐在員が通訳してアメリカ人社員に伝えていたのだが、その日本人社長、最後に一言くらいはと英語で言った。

One, please !

講演後、「???」状態だった駐在員が日本人社長に尋ねると「ひとつ宜しく!」と言いたかったらしい(笑)

本書のあとがきに本書の目的は「意見の一致と衝突の回避」とある。同じ言葉でも自分が認識する意味、意図、印象は必ずしも相手のそれと同一ではない事を本書は教えてくれる。

ところで一年前、私の次男の高校で部活の保護者会があった。そこで自己紹介となったのだが、違和感を覚えたのは、ほぼ全員が「宜しくお願いします」で自己紹介を終えた事だ。私含め、日本人ビジネスパーソンは日々必ずこの言葉を発しているのではないか。が、この時はぎこちなさを感じたのだ。そう感じた背景がある。私は某外資系企業にて、本国とは英語で、顧客とは日本語で日々やり取りしているのだが、この「宜しくお願いします」や「いつもお世話になってます」を訳すのに困った経験があるのだ。海外とビジネスをしている人は似た経験があると思う。元々日本語には曖昧な言葉が多い。実際「宜しくお願いします」と全く同じ意味の英語やフランス語はなく、中国語には「请多关照!(Qǐng duō guānzhào!)という言葉があるが、これは元々存在していた訳でなく日本語を中国語に取り入れた言葉だ。また中国語では「どうか面倒を見て下さい」が真意らしいが、日本人はそう思って使っていないだろう。つまり「単なる挨拶、マナー」で意味は無いのだ。が、省くと違和感があるし、トゲトゲしくなる場合もある。日本語を学ぶ外国人に教えるとしたら「日本で仕事をする際、深く考えず最初と最後に置いとく枕詞」的な表現が正しい気がする。実際、そんな感じで使われているのが実態ではないか。

私が日々の仕事で重要視している点は、言葉自体以上に「正確な状況」を把握して伝える事だ。翻訳でなく意訳、と言ってもいい。両社が次の一手の検討に入れる事が重要であり、それには私が両社の状況を正確に把握し伝える必要がある。外国語がいくら堪能でも仕事の内容を理解してないと務まらない。「つまり、○○って事ね」まで落とし込むのだ。逆説的だがそのためには「言葉の本質」を理解する必要がある。私の場合、顧客と何気なく使っている言葉でも、本国とやり取りする際「この日本語って、つまりはどういう意味だっけ?」と再確認する事もある。そして全体を俯瞰し、咀嚼し、相手が理解し易く配慮する。例えば「顧客から○○という依頼を受けた」では、それが事実だとしても不充分だ。何故その要求なのか?背景に何があり、顧客はどうしたいと考えているのか?も伝える必要がある。何故ならそれがクリアになって初めて本国は顧客を理解し、顧客が気付いていない逆提案を提示できる可能性もあるからだ。ここに専門用語は不要で「中学生でも理解出来る単語」の方が有用だ。単なる翻訳はAIでも出来るが、実際の状況を理解し伝えるのは人間にしか出来ない。故に私はこの点はAIに対する人間の強みとなるとも考えている。

私が上記懇親会で違和感を覚えた理由、それは日々職場で使う意味のない言葉の連呼を職場外で耳にしたからかもしれない。それは私も職場では何も考えず使っている証左でもある。それ自体は大きな問題ではないかもしれないが、問題なのは私がその様に意味のない言葉を条件反射的に使っているのなら、時に相手の言葉も意味の無いものと解釈している可能性がある事だ。それは正に「衝突」の遠因となり得る。それを避けるにはやはり言葉の本質を意識する姿勢が大切だと思う。これは日本人同士の相互理解にも有用だ。そのための一案だが、常日頃自分が使う言葉(日本語)を翻訳(英語等の外国語)してみる事。仕事の言葉でなくても良い。その翻訳がそのまま外国人に通じそうなら、その人はその言葉の本質を理解している。勿論、外国語学習にも役立つ。もし外国語が苦手なら、その言葉を他の日本語で言い換える事が出来るか?だ。それが理解している、という事だ。

最後に「宜しくお願いします」と「いつもお世話になっております」はどう英訳する?記述のように言葉自体に意味は無い。冒頭の「ひとつ宜しく」同様、「まるっと、諸々頼むね!」的な、実に曖昧な言葉だ。無理に言うなら、

宜しくお願いします=>I hope our good relationship.
いつもお世話になっております=> Thanks for your daily support.

だろうか。あまり使わんだろうけども(笑)

以上

投稿者 belle 日時 2019年4月30日


【外在的考え方を忘れないこと】
今までは「同質」であることが人生を保証していた。しかし本書が書かれた時代と違い、今では情報は一瞬で世界へ広がるようになった。そのため、むしろ同質から容認されない「異端」こそが広く受入れられる可能性がある。自分が異端になることが、これから人生を幸せするために必要ではないか。

人は馴染み深いモノにこそ、言葉とモノを一体化させ理解したつもりになってしまう。管理部に来る社員の言葉はそれを示してる。「マネジメントができない上司につくのは嫌です」「あの人は実務経験がないのになぜ主任なんですか」「課長の分際でそんな事言えないよ」

近年、経団連はダイバーシティ・インクルージョンを掲げた。理由の1つは次のようにある。「『金太郎飴』的な人材組織による『同質的チームワーク』では、熾烈な企業間の競争に打ち勝つことはできない。多様な人材の参画、協働を通じた『異質なチームワーク』によるイノベーションを創出することが必要となる。」(一般社団法人 日本経済団体連合会『ダイバーシティ・インクルージョン社会の実現に向けて』から引用)

ダイバーシティは「女性・外国人・障害者・LGBTを受け入れ」、インクルージョンは「あらゆる人材が能力を最大限発揮でき、やりがいを感じられるようにする」事である。ただ「同質的チームワーク」の構成員つまり「従来の会社員」こそ、それぞれ異質を持つ存在であるのを経団連は認識しているのだろうか。「同質的」=「従来の会社員」は抽象化された概念にすぎず、本来会社員1は会社員2ではない。しかし同質的な「会社員」が役割を逸脱したと認識した時、企業は「会社員」を容認しないだろう。

人は本来から逸脱したモノを「異端」と呼ぶ。異端は正統の対義語である。人はあまり良く知らない「異質」なモノより異端に非寛容だ。例えば、女性専用車両にTシャツに短パン、リュック姿の白人男性が居ても「旅行中の外人なら仕方がない」と許すかもしれないが、スーツ姿の日本人男性が、そこに居続けることは許さないだろう。私達は日本の男性会社員は「常識的」に考えて、通勤時間に女性専用車両へ乗らないと思っている。

異端に対する感情の1つは恐怖心だ。自分が描くあるべき姿に差異があれば、それは違う、認められない、裏切られたと動揺する。確立されたアイデンティティになるほど強い感情を生み、感情に反応して排除や拒否行動をとる。最近、ヴィーガンの女性がが魚を食べていたとする動画が炎上するニュースを見た。ベジタリアンは厳密には10以上のタイプに分類され、ヴィーガンは最も厳格なベジタリアンで、もはや思想であり宗教に近い。そしてやはり感情的で辛らつなコメントは同じヴィーガンに多いという。おそらく彼女が再度ヴィーガンになっても、仲間に迎え入れられることは難しいだろう。同質から見ると彼女はもはや「正統」なヴィーガンでない。

次は「個」の時代という。しかし個は埋没しやすい。異質に個を求めても、既に正統へは皆が目指しており、その道は混雑している。とすれば、正統と対極にある異端にこそ、個が活躍する場があるのではないか。同質を求める集団が異端を受け入れるのは難しい(よって企業でインクルージョンが成功するか疑問だ)。しかし現代は個人が、細分化された情報に良機を見いだし、直接個へ情報を発信することができるようになった。そこでは異端な個を受け入れる異質な個へも容易にアクセスできる。むしろ異端を歓迎する異質の方が多い。

しかし「個」を確立するために自ら異端になるということは、正統を諦め、しかも同質から容認されず、未踏の地に行くことだ。同質以外に受け入れられる確約もない。それには知識と冷静な思考力に加えて、1歩踏み出す勇気も必要になる。例えばオリエンタルラジオは武勇伝で一躍有名になり、2016年は紅白にも出場したお笑い界の異端だ。そんな彼らも自分達の強みが歌やダンスだと受入れ、漫才を捨てPERFECT HUMANで再ブレークするまで10年を要した。異端を選ぶのは同質で成功しているほど難しい。

とはいえ、情報化革命と人口減小でパラダイムが変わりつつある今では、同質集団の容認だけでは、安全安全よりリスクの方が大きくなった。まずは、他者の異端を受け入れ、自分が異端になることを少しずつ許可したい。私1は私2でなく、私2は私3でない。人は言葉を操る様に見えて、実は言葉に操られている。それを心に留めておきたい。

本書は50年以上も前に発刊されたものだが、時代がようやく追いついた感がある。正にこれから必要となるマインドが書かれている。風雪に耐えた本に出会えたことを感謝する。

投稿者 mkse22 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」を読んで

言語は他者とコミュニケーションを図るときに必要不可欠な道具です。
言語以外で他者と意思疎通しなければいけない場合、どのようにすればよいが
悩んでしまいます。その言語そのものに内在する問題点を指摘したのが、この本です。

著者は、「ものごとを考えるときは、言葉のみで考えてはならない。その言葉が指す具体例やその過程のレベルを意識する必要がある」ことを主張しています。

これを2つに分けて考えてみたいと思います。
まず、言葉についてです。

『コトバはものではない(P28)』
ことばはものそれ自体ではない。ものの注目すべき属性を抽象化し表現したものである。
当たり前だと感じてしまう指摘ですが、本書を読み進めると改めてこの指摘の重さに気づかされました。

例えば、「小さなリンゴ」という言葉を考えてみます。
「小さなリンゴ」はリンゴそのものではなくその属性の一部(「小さい」)を
言葉で抽象化しているため、リンゴの属性の一部のみが相手に伝わります。
受け取った側は言葉から小さなリンゴそのものを頭の中で復元しようとしますが、
そのときに送り手が想定していない属性を付与してしまうのです。
本当は「小さく赤いリンゴ」と伝えたいはずが、「小さく青いリンゴ」と相手に伝わってしまうように。

この例から、ことばを通じてわれわれが達する世界(言語的世界)と自分自身の経験で知りうる世界(外在的世界)が一致する可能性は相当低いだろうと感じました。
これは、言語を通じた他者とのコミュニケーションの困難な理由は、言語それ自体がもつ特徴(抽象化)にあることを示唆しています。
自分が経験したことを相手に伝えるための道具として言語が存在しています。
言語の特徴は抽象化で、そのおかげで低コストで相手に情報を伝えることができます。
(自分の経験したことを相手に伝えるためには、相手も同じ経験をするしかないというケースと比較すると、言語がいかに低コストであるかがわかると思います)
しかし、その言語の特徴が原因で、自分の経験が相手に伝わらないだけでなく、別の問題も引き起こしている。
実に悩ましい状況です。

相手とのコミュニケーションを円滑に図るためには、言葉の使い方だけでなく言葉そのものの特徴も考慮しなければいけないことを改めて思いました。

次に、「その言葉が指す具体例やその過程のレベルを意識する必要がある」についてです。

これは、ものごとを考えるときだけでなく、他人の文章を理解するうえでも必要なことだと思いました。
他人の文章を理解するためには、文章だけでなく、書き手の文章が指す具体例や文章化する過程のレベルを意識する必要があり、そのためには、文章の目的を明確化し、それを書き手と読み手が共有している必要があると思いました。

読み手は文章から書き手の考えを理解しようとしますが、文章で書かれていることは、書き手が抽象化の過程で重要と判断したものです。それ以外の書かれていないことについては、書き手が重要でないと判断したことは分かりますが、なぜ重要でないのかがわかりません。そのときに目的が明確であれば、書き手が文章化するときの過程や着眼点がわかります。これは、読み手が文章から書き手の考えを復元する上で役に立つ情報です。書き手の考えにより近づくことが出来るからです。

ただし、目的自体も文章で表現されるため、目的を記載した文章が相手に伝わらないという問題もあります。
これも言語に内在する問題でしょう。

本書を通じて、言語自体が抱えている問題がいかに解決困難であるかを見せつけられた気がしました。
著者も問題の大きさを前にして、ある種の諦念に至っているのではないかと思いました。
特に『それ(外在的考え方)はどんなより良い解決が可能であるかを魔法のように教えるものではなくて、古い方法よりも良い行動の方向を探させるものである(P317)』からそのような印象を受けました。
しかし、言語を捨てて生きていくことは、困難を伴います。現代日本で一般的な社会生活をおくることは不可能でしょう。
本書から、言語の問題点や限界について多くのことを学ぶことができました。今後は、これらの知識を使って、自分の文章を少しずつ改善し続けるしかないと思いました。

投稿者 str 日時 2019年4月30日


思考と行動における言語

普段から当たり前のように発し、受け取っているコトバ。そのコトバも文脈の中で使って初めて意味が決定する。何気なく使い、日常において不自由を感じる事もなく発していたはずのコトバ選びも、実のところ粗だらけだったという事に気付かされる。

本書が書かれた頃から現代にかけて、幾つもの新語や造語・略語などが生まれているとは思うが、新旧関係なく違和感を持たずに読む事が出来たのは『コトバは物ではない』という、コトバ単体では殆ど意味を持たない事が記されていたからかもしれない。その時の状況と相手によって、話し手は聞き手にどう伝えるかを思考する。『好ましい言い方』か『好ましくない言い方』かどうか。その上で本来の目的である“伝えたい意図”から逸れていないか。そういった思考を経てようやくコトバは言霊として、意味のあるものに変わっていくのではないだろうか。

『人にわからせるためには言おうと思うことを言わなくても済むことが多い』

伝え方の過不足どちらかによって生じる“会話が噛みあわない“といった現象は、客観視すればコントの様だが実際にも起こることだろう。これは思考というプロセスが抜け落ち、ほぼ無意識に発信しているコトバが引き起こしているのかもしれない。ここでの思考とはやはり相手のこと、聞き手のことを思いやるということになる。考えなしで発したコトバは相手に響かない。思考した上で発したコトバは相手に影響を与えるかもしれないが、使い方を誤れば相手を傷つけるかもしれないので、慎重でなければならない。意図的に相手を貶すつもりは全くなくても、コトバとはそれほど重いものだ。という事も知っておかなければいけない。

『抽象のハシゴ』
具体例や抽象的表現も私たちは日頃から使っているが、使うべき抽象のレベルもどこに設定するのかが重要だと感じた。仮に抽象レベル8の場合“分かる人には分かるので話が早い”だとしても“イメージのつかない人にはさっぱり”となってしまう。逆に抽象レベルを下げ、具体レベルを上げたとすると“多くの人が理解できるが、説明に時間が掛かる”という事になるのだろうか。相手や状況によってこのレベル設定が全て同じでは到底上手くいかないだろう。コミュニケーションを図るという点で、このレベルをどこに置くかという設定が大きく影響してくるのではないだろうか。

もし、自身が話し手としてレベルアップ出来たのなら、聞き手としても同様にレベルアップ出来たと言えるだろう。伝えるだけでなく、察してあげられる能力もコミュニケーションを図る一つの方法ではないだろうか。伝えることの難しさを理解出来れば、相手が伝えようとしているものの受け取り方や引き出し方にも変化が出て来るはずだ。

どうやら、母国語ぐらいは完璧に使いこなせているという大きな勘違いをしていたらしい。知っているからといって、漫然と使っているだけではそこに意味は生まれないのだ。

投稿者 sunao929 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」を読んで

1.コトバの意味
「コトバの意味は、コトバの中にあるのではない。意味はわれわれの内にある。」
コトバが意味する事実だけをとらえているうちはよいが、各人でコトバの解釈が違ってくると問題が生じてくる。
仕事でコトバの定義を曖昧にしないではっきりさせておく必要がある。
同じ目標を目指していると思っていたのに、いつの間にかずれが生じていたなどということは、たまにやってしまうことである。
「期限順守」ということでも、その人となりが出て、できるだけ早めに対応しようという人から当日の定時までには対応しようという人、中には24時まではその日だというような人、1日くらいは遅れても平気だという感覚の人もいて、「期限」に対する個人の持つコトバの意味が違ってしまっている。
また、より注意しないといけないのは、日常生活における身近な人との間でのコトバの意味で、これまでの付き合いで分かってくれているだろうといった甘えもあって、思い込みからの誤解や齟齬が生じやすい気がする。
身近で深い付き合いであるからこそ、お互いわかったつもりにならないようコトバの意味を確認するようにしていきたい。
改めて考えてみると、同じ人生を歩んできた人はおらず、それぞれの人の経験や立場にもよって、コトバの意味や捉え方は変わってくるわけなので、自分の価値観を一方的に押し付けることのないように相手の立場や事情を尊重したうえで、コミュニケーションにおける誤解や齟齬を極力なくすために、コトバの意味や解釈の違いがあるということを常に念頭に置いて対応していきたい。
これらを踏まえ、ほかの人が発するコトバの意味を理解するために、自分自身の思考の偏りにも注意していく必要がある。
自分が考えていることが常に正しいのだと思い込まずに、正反対の意見も知る努力をしていく。

2.自分の作る地図―「自己概念」
『自分自身について、われわれの力と限界は、これくらいだと信ずるところによって決定される。すなわち「自己概念」によって決定される。』との一文には深くうなずいた。
自分自身のことを正確に評価できていることは少ないということを念頭に置いて、好奇心と行動力をもって、いろいろなことを知り経験し、自分の世界を広げることで、自分自身の新たな可能性の扉を開くことができる。
自分に何ができるのか?これから何がしたいのか?自分自身としっかりと向き合うことが大切だと教えられた気がした。

今月も良書を紹介していただきありがとうございました。

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投稿者 gogowest 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」をよんで

言葉の表現の仕方ひとつで、人を敵にすることも、友にすることもあります。自分の経験でも、言い方が悪かったばかりに、誤解を生じたことが多々あります。本書によって自分がコミュニケーション上の恥ずかしい勘違いをしていたことに気付きました。言葉の多くの側面のうちの一つの特性を軽視していました。感化的コミュニケーションを軽視している傾向が今まで強かったです。
さらに、思考を言語で表現していると、いままでは当たり前のように思っていましたが、言語が思考に大きく影響していることを本書で認識しました。

この本の最初の印象は学者が書いた学術的なテーマを扱った本と思いましたが、そうではなくて、これは実際に活用するための本です。
理解し合えないときの問題点を、互いに思考停止しているからだと漠然といままでは思っていました。しかし、本書ではコミュニケーション上の考慮すべきポイントが、明確に整理されています。報告、推論、断定と見分けること、内包は情報的なものと感化的なものがあるということ、感化的なコミュニケーションとしての働き、抽象のレベルのちがいなど、具体的に考慮すべき点が整理されています。このように整理されていると、問題解決のため、どんなポイントに気を付ければいいのか、具体的な指針がみえてきます。
たとえば、内在的な考え方に浸りきるのではなくて、外在的世界との照合によりバランスをとること、または抽象の過程を知ることなどで自分の言葉の世界を見直しすることができます。

特に私が注目したのは、日常出会う人同士のコミュニケーションを円滑にすることだけでなく、個々の人が持つ不適切な自己概念の修正にまで踏み込んでいることです。(19章)

19章での解説によると、自分の限界は、自分が作り上げて持っている自己概念によって、自動的にきまってしまうということです。自分の世界の領域の限界は、自己概念により制限されて、その自己概念は言葉の世界で作られています。つまり、自分の言葉が作り出す固定観念としてもつ自己概念で、自縄自縛してしまうということです。これは戦慄すべきことであると思います。
この自己概念は自分の価値観の基礎をつくっているともいえるでしょう。自己概念、そしてそれと結びつく価値観がその人のその後の人生を決めていくのですから、この自己概念に対して適切な働きかけをする必要があります。

著者は人が認識する世界を二つに分けています。言語的世界と外在的世界の二つに分類しています。
1. 外在的世界は客観的世界であり、性質は基本的に単一です。
2. 言葉の世界は主観的な世界であり、言葉を使う人の数だけ、多様性に富み、さらに多層的にもなります。

内在的考え方は言葉の世界に没入したときにおこるものであり、外在的な世界との照合をすることで、内在的考え方の行き過ぎを制御することができます。二つの世界を照合することで、バランスを生み出すというのが著者の考え方です。

この二つの世界の間に第3の世界「自分の世界」を仮定すると、この「自分の世界」が自分の認識のポイントになり、この「自分の世界」が自己概念を、より適切に修正させて、良い方向付けにすると考えることができるのではないかと思います。
実際、この第3の世界は人間の中に潜在しているとおもいます。自分の内面から変化への意志がわきおきることは、実際、人間の行動心理学の中でも知られています。(通常、自分自身と思考の総体が同一視されていますが、これは別の実体です。)
言葉の世界はその人にとって、とても合理的ですので、言葉の世界のなかでは、根本的に、自己変革は困難です。それを変える原動力は第3の世界のように別の視点の目覚めというものではないでしょうか。
「自分の世界」を持つために主体的な「注意力」が必要になります。
二つの世界をしっかり知りながらも、没入するのではなく、適切な注意力で、判断していく「内在の自分」がいる中間点に立つことが、その人の認識の位置を改善し、向上させることにつながると思います。
適切な自己概念を得るためには、報告を基にした「自己描写」の技術を習得することを著者は教えています。そういった作業が適切にできるのは、「私」の確立の度合いによるものだと思います。

本書の内容は、自分のコミュニケーションのチェックのために、折に触れて立ち戻る原点になりそうです。良書をありがとうございました。

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2019年4月30日


 本書を読み終えたちょうどその頃に行われた統一地方選挙。いつもは殆ど見ることのない選挙公報も、私の思考と行動にどのような働きするのかという課題を持って読めば恰好の学習材料となる。

 縦54cmx幅40cmの新聞サイズで計8ページ、総勢75名の区議会議員への立候補者達が薄っすらグレー掛かった再生紙の上で約10cm角の四角に入って犇めき合う。四角の中には、候補者の顔写真と氏名、政策、実績、プロフィールなどがぎっしりと埋められている。各々のビジョンと政策は、“これからの〇〇区をどのような町にするべきか?”という彼らが掲げるこの地域の未来地図であり、それを担保するのが外在的に確認のできる各々の実績やプロフィールである。
 ざっとそれぞれの選挙公報に目を通してまず気がついたのが、各候補者が掲げるビジョンや政策の字の大きさは、文章の抽象度と比例していることだ。例えば、『みんなの居場所がある社会を!』というような抽象度の高い表現は最も大きな字。次に少し字を小さくして『子どもが安心して学べる学校をつくる』とし、また少し字を小さくして『障害のあるなしにかかわらず共に学び育つインクルーシブ教育を実現』といった具合である。この文字の大きさの調整と一緒に文章の抽象度を下げていく構成は、読みやすく、またその内容も頭の中に入って来やすい。
 ただ、各候補者が挙げるビジョンや政策の内容とは別にそれらの実現性、つまり各候補者の実力や信頼度を表す判断材料が必要となってくる。例えば、上のビジョンと政策を掲げた議員の選挙公報には、生年月日、大学名とその専攻、NPOの理事経験、区議会議員の当選回数、保有資格、推薦人が記載されている。立候補者の政策とプロフィールの双方から得られた納得感が、最終的に有権者に一票を投じるという行動に向かわせるのだ。そして、この候補者から有権者への納得感の与え方は、私の普段の生活においても汎用が出来そうだ。

 私は、家庭生活、仕事場、友人との付き合い等ありとあらゆる場面でこちらの意思が伝わらないと思う時が暫しある。今までは、そのコミュニケーションの不具合の原因は、相手側、つまり相手が持っている価値観、知識、経験が違うがために理解され得ないし、仕様がないと思っていたが、実はそれ以前に、こちらら側、つまり私の価値観、知識、経験の伝え方に問題があったのだと思うようになった。
 本書が述べるように、また選挙公報もそうであるように、もっと上手く自らの意思を伝えるためには、自らが発する言葉の抽象度を意識し、組み合わせを考え、実例を出す必要がある。また対面のコミュニケーションであれば相手の反応を見ながら理解や共感を引き出すことも必要になってくる。


 選挙公報を読んでいて次に気づいたのが、使われる文章の種類が大きく2つに分かれていることだ。1つは、理性や論理に訴える文章、もう1つが感性や感情に訴える文章である。例えば、『あらゆる差別と暴力をなくす』は、賛成か否かという理性的な判断に委ねられる、一方、『2児の子育てパパとして』は、賛成か否かではなく共感できるか否かとなる。
 ここで注目するべくは、後者の感性や感情に訴える文章がもたらす読み手への心理的作用である。例えば、『41歳でガンから生還、死生観がかわり世のために働くことを決意』という文章を読んだ時、どのような印象を受けるだろうか?好感を持てるか否かで言えば、好感を持つ人のほうが多いと思う。私の場合は、“現実的に死を意識した経験のある人間は、覚悟があり、強い意志を持っている”という思い込みが勝手に先行し、その候補者の政策やプロフィールを贔屓目で見るようになっていた。要するに、言葉によって作り出された私の内部の世界である頭の中と外部の世界の整合性をとるために、現実を見たいように見ようとしていたのだ。ただ、少し時間を置いて冷静に考えると、死生観が変わったことと政策の実現性は殆ど関連性が無いことに気づける。
 本書にも感情が動かされた時に人間は判断を誤る傾向にあると書いてあるが、ある言葉に感情が動かされた時は、意識的に立ち止まって冷静になることが重要なのだと、選挙公報を読んで実感した。


 選挙公報を読むことは、結果として同一の事物を様々な角度から見ることの訓練になったと思っている。候補者75名の選挙公報の中で全く同じものは1つとない。“○○区”という同一の事物を見ているにも関わらず、その見方は各候補者によって様々だ。
 各々の政策の抽象度を上げて行くと子育て、教育、雇用、高齢化社会、防災など、いくつかの限られたテーマに絞られてくるが、その立ち位置や優先順位は各候補者によって違う。これは、本書に述べられているように、人は皆それぞれの独自の内在的世界をとおして現実世界を見ているからなのだろう。他者がどのような内在的世界をもっているかを知ろうとする姿勢、それ自体が事物を多方面から見ることになり、また自分自身の内在的世界を広げることになるのだと思う。


 今月の課題図書を読んだ後、私は普段の生活に今までより楽しさを感じるようになった。家庭や仕事場で、自らが発する言葉、また相手が発する言葉の抽象度に意識を向け構成したり、感情的な反応を抑制したりすることで周囲との意思の疎通が格段に上がったからだ。
 選挙公報を読んでみようと思ったのも本書を読んだからこそである。そして、選挙公報を読んだ後、町をただいつもの様に歩いていても不思議と楽しく感じるものなのだ。それは、おそらく選挙公報という様々な地図を手にして、実際に現地を歩くようになったからなのだろう。

~終わり~

投稿者 ktera1123 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」

良書リストから課題図書になった1冊であり、消費税が5%から8%に増税になる前の2014年3月頃に良書リストの本をまとめ買いした時に入手してはいたものの、入手当時にパラパラと内容を確認して難解そうな感じがして、本を入手しただけで、既に読み終わったことになるとも言われていますが、本棚に片付けたまま今まで積読本になっていました。
 今月の課題図書になったこともあり、本棚から引っ張り出して4月上旬から読み始めたのですが、なかなか内容が頭の中に入ってこない。「地図の地図」(普段私たちが日常接している編集図のことと思いますし、地図自体が過去のある時点を表したものであるという喩えもあります。)という他の人よりわかりやすい比喩もありましたが、それにしても内容がわからない。そんな中、感想文を書くという目的に達するには読了する必要があり途中で投げ捨てることもなく読み進めて、最後の19章「内の秩序と外の秩序」になり、作者の伝えたかったことを、再度まとめなおしてあり、「なるほどこれを言いたかったのか」と、腑におちました。

 その19章には、「外在的考え方の諸ルール」「異常の兆候」「迷える言葉」「汝自身を知れ」「報告と断定」「制度的態度」「精神の健康のための読書」の項目がありました。

コトバによるコミュニケーションによる誤解が生じる原因として、「外在的考え方の諸ルール」の10項にあり、諸ルールの中で一番重要なことであると著者が提示されている、「『雄牛1は雄牛2でなく、雄牛2は雄牛3ではない……』の『いかなるコトバも正確には二度と同じ意味を持たない』」とありました。

 日々刻々と変化する状況をコトバで伝えることの難しさ、生まれてからの幾年月、ずっと母国語である日本語を話し、読み、書き続けているにも関わらず、こちらの意図したことが相手に伝わらない、また相手の意図したことがこちらへ伝わらない、そのような状況が多々あり、これからもあるのでしょう。同じ日本人同士なのに何故なのか時々疑問に思っていることがありました。かえって、外国人と片言の英語と日本語で会話をしていた時のほうが逆に意図が伝わりやすかったりするのは何故なのでしょうか。「異常の兆候」や「迷える子供」にあるように評価錯誤の影響や精神の成熟の度合いでしょうか。それとも「精神の無限の柔軟さから来る保証」の程度の違いなのでしょうか。今の日本では20歳、18歳かもで成人、すなわち情緒的に成熟した人扱いされてしまいますが、独立しており、問題に対して自分なりの答えを出せ、あらゆることに間に合うただ1つの答えなどないと理解できているのでしょうか。それとも、体だけは成熟していて、情緒的に未成熟な人間のママなのでしょうか。「知的体験」を偉大なる書物を読書で補うことは大切ですが、それに対して鵜呑みするのではなく、実際に実践し、提示された原理、原則が普遍的に適応されるのか、疑問はないのかと思えているのか、過去に比べてより賢明になり、教条にとらわれず柔軟な考えを持てているのでしょうか。果たして自分自身はどうなのか考えてみることも大切なこととは思いますが、内在的考え方の堂々めぐりにならないよう注意することも必要なのではないでしょうか。

 本書を読了された方は、比較的少ないかもしれません。ましては、ある程度の感想文をまとめられたかたは、更に少ないかもしれません。今月まで読み終わっていないで積読本だった私が言うのもなんですが、第19章の「内の秩序と外の秩序」だけでも読んでいただければ、コトバによるコミュニケーションについての理解が深まり、メルマガで書かれていることについての理解が深まるのではないでしょうか。

最後に、「訳者まえがき」、「序」、「原序」はあるのですが、「あとがき」はなく「訳者あとがき」も「『一般意味論』と知識人」になっており、「はて、なんのことやら」状態だったのも事実でした。原著が1941年(昭和16年)に発行されているので、無理もないのかと思うのは、「人類は進歩しているのか。」本書を読んでいてい疑問に思うところでもありました。

投稿者 eiyouhokyu 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」を読んで

 数ヶ月前の出来事である。私は昼食にスパゲッティを食べようと思った。いつもの店のクリームスパゲッティ。ところが、店に着いてメニューを見た私は、「トマト」という文字を目にして、トマトスパゲッティを頼んだ。トマトが美味しそうだなとメニューを見て味を想像したのではない。文字を見て、先ほどまで食べたかったメニューを急遽変更したのである。この体験は、私にとって衝撃的だった。

 ・何が私の行動を変えたのだろうか。
 ・文字には、行動(身体の感覚)を変える力があるんだという驚きと発見。
 ・文字が読めない人にもこういう事は起こるのか?例えば、狩猟採集民民族のような人は・・・?海外で読めないメニューを見たら、どうなのか?

 この本を読んで、私が体験した上記の出来事は、外在的思考のイントロダクションだと感じた。普段はこのようなことを掘り下げて考えないが、課題図書を読んだことで今になって改めて考え直した。
 
 そしてもう一点、思考の変化に影響を及ぼしたことがある。それは、仕事のことだ。辞めたいと思うと、わんさか辞めたい理由がでてくる。もっともらしい辞める理由ができて、辞める決断が正しいように思えてくる。すると、今の仕事に不平と不満がより強く感じてストレスが溜まる、ということが今まで何度もあった。

 ところが、今回は断定をせずに報告を意識することで辞めたいと思う感情的な理由と、辞めるという行動が何に影響を及ぼすのかを切り離し、冷静に考えることができた。
 ・今辞めたら誰に、どこに、影響がでるのか? 
 ・転職をするならどんな仕事、どういう条件で仕事をするのか?
 ・今の仕事で残した実績はなにか?
 ・今の仕事の不平や不満は次の職場では起こらないのか?起こりうるか?

 その結果、今の状況で辞めるという選択をとることは、次も繰り返すこととなることを自覚することができた。私は思考の癖というか、いつも感情的に判断をしていることが分かった。さらに、今回の不満要因である上司とのコミュニケーションにおいては、言葉の理解がお互いずれていることも認識できた。相手にこういえば分かるだろうと考えることは、私の考えであって、相手の考えではない。部長だから、課長だからこうすべきではないのかと部下の私が考えるパターンと、上司の思考は立場が異なっているので、当然思考も異なる。そこに苛立ちの感情を立ち上げていても、時間も労力ももったいない。生産的に仕事をするということは、相手を理解しようと歩みよる中で可能となるのだと本書から学んだ。

 本書には、多くの重要なことが書かれていた。ここまで抽象的に考えたことがないことや、持ち合わせていなかった視点など多角的に言語を捉えており、子育てや夫婦生活にも充分活用できる要素があった。一度挫折した良書リストの一冊だったけれど、課題図書にしていただき読了することができました。

 今月も良書をありがとうございました。

投稿者 nxxxxo1985 日時 2019年4月30日


【思考と行動における言語】を読んで

課題図書を始めて4カ月。
今まで読書する習慣がなかったからなのか、
私の読解力の低さのためなのか著書の内容が全く理解できない
苦悩の日々でした。
しかし、自分自身の訓練のためにも感想をまとめます。

著書を読んでいて初めに思い返したことは、マスコミによる情報操作でした。
とある大臣がとある競泳選手の病気発症の件について「ガッカリした」との
発言のみを棚に上げニュースで放送し批判を受けたことです。

コトバの切り取り方で、相手の感情をもコントロールすることができる例でした。

私たちの普段の生活においても、
コトバの伝え方・聞き取り方次第で円滑になったりトラブルになることがあります。
著書では「赤」を例にし相手のレベルに合わせて具体例を出すようにすることで相手とのコミュニケーションを円滑にすることがあげられていました。

日々の生活でどうすれば相手に自分の考えが伝わるのか、
また相手の考えをどうすれば読み取れるのか意識しなければならないなと感じました。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2019年4月30日


GW、嫁の実家にて交わされていた会話

登場人物
嫁の祖母(87歳)以下祖母
嫁(37歳)以下嫁
嫁のはとこ(16歳)以下はとこ

はとこがお風呂に入る前のワンシーン

祖母・・・はとこくん、お風呂入れるよ。

はとこ・・・わかりました!

祖母・・・着替えあるかい?今日来てた服は置いておいてくれたらおばちゃん(嫁のコト)が洗ってくれるから。

嫁・・・おばちゃんじゃないよ、お姉ちゃんだよ!!(怒)まだおばちゃんって言われるような年じゃないよ!!


本書で学んだ事は沢山あり、とても全てを理解出来たとは思えない。本書は簡単に理解出来るようなレベルの本では無く、今後何度読んでも読む度に刺さる内容が変わってくると思う。この点を前提に置いた上で、今回本書を読んで強く感銘を受けたのは、
【言葉は事実そのものを表すのではなく、言葉の裏には言葉自体では表現されない背景・情報・感情・価値観等が含まれている】
という事です。

上述のやり取りでウチの嫁が怒ったのは「おばちゃん」と言われた事。
嫁が嫁自身を「おばちゃん」というのも、祖母が嫁の事を「おばちゃん」というのも、嫁自身が「おばちゃん」と呼ばれている事には変わりない。
しかも、はとこくんにとってはある意味「おばさん」で間違いないし、嫁自身もはとこくんに対しては「おばちゃん◯◯だから」と言ったりする。

多くの人にとって「おばちゃん」という言葉からイメージするのは中年の女性ではないでしょうか。
(中年とは一体何歳くらいなのか、という定義はなかなか難しく、個人的には年齢と見た目を踏まえての判断かなと思います)
上述の例では、嫁が10代の若者に対して自分を落として使った「おばちゃん」という記号と、祖母が発した「おばちゃん」という記号は、音声としては同一だけれど、言葉の裏にある背景が異なっており、嫁は自分が発した記号と祖母が発した記号を同一のモノと受け取らなかった。
その為、祖母に自分の事を「おばちゃん」と言われた事に対して怒ったのだろうと思われる。

私達は、みんな同じ人間だけれど、誰一人として同じ人間では無いし、人として生きている以上、言葉を発さずには生きていけない。
その為、自分が発した言葉を自分が理解しているようには相手は受け取ってくれないという事や、自分自身も相手が発した言葉を自分が理解したような意図で相手が発したと思ってはいけないという事を意識して言語と向き合う事がp338のあとがきに記載されている「意見の一致や衝突の回避」に繋がるのだろう。

投稿者 vastos2000 日時 2019年4月30日


本書のタイトルが『思考における言語』ではなく『思考と行動における言語』となったのは、「ただ考えるだけではだめで、考えた結果行動が良い方向に向かうようにすべき」という著者の考えによるものかと思い、今回、思考に関しては考えるための道具としての面について考えを記した。そして、行動については他者とのコミュニケーションに関して記した。

【思考のための道具として】
ピダハンが使用する言語には数や過去形・未来形が無いそうな。当然、現代の日本語とピダハンの言語では語彙が大きく異なり、異なる言語で思考すれば、その行動様式や価値判断も異なるだろう。
例えば、日本語は述語が最後に置かれることが多いので、話を最後まで聞かないと賛成なのか反対なのかどちらでもないのかわからないケースが多い。

また、自己イメージを決めるのも言葉である。自分を「どのような人間であるか」ということを、(自分や他者が)言葉を使って考え、表すことによる。子育てに関連する本を読めば、子どもに対して投げかけるべき言葉、使うべきではない言葉が紹介されている例がある。これは子どもが大人から言われた言葉に対する感受性が高いせいなのだろう。

想像するに、新しい単語を作る場合、重要と(コミュニケーションのための必要性が高い)と考える分野であるほど単語数が多くなる。出典不詳だが、エスキモー(イヌイット)の使う言語では雪に関する単語が多く、日本語は色を表す単語が多いと聞いた。エスキモーにとって、雪は生活に密着したものであるから細かく分類したのだろう。日本では四季の変化に伴う自然の色の移ろいを(歌を詠める階級や農作物を育てて生きている人たちが)注視していたため、こちらも細かく分類したのだろう。
スポーツにおいても新技が開発されると新しい名前が付けられる。そして名前が付けられるとその技(概念)が伝わりやすくなるのためか、普及しやすくなる。具体例を挙げると、ラグビーでの「ジャッカル」というプレーの名前は、少なくとも20年前には使われていなかった。今ではテレビ中継でも使用されているし、おそらく高校生年代の競技者にもその名でどんなプレーか伝わるだろう。


【他者とのコミュニケーションにおいて】
マーケティング関連の本を読んだときに、その本が書かれた近10年(1990年代末から2000年代末頃)で、世界に流通している情報の量が410倍になったと書いてあった。
インターネット、そしてSNSの普及と発展などにより、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌に加え、個人の情報発信が容易になったためだと記憶している。
マスコミの偏向報道も問題視されることがあると思うが、何の検閲・校閲を経ない個人の発信は非常に偏りがあると感じる。
ツイッターではいわゆる「右寄り・左寄り」の考え方をしている人双方のフォローをしているが、同じ事象に対しても、書いていることが大きく違う(あるいは、一方は全くその事象に言及しない)。

私自身にしても、フェイスブックやブログ、ツイッターなどを利用しており、主にはつながっている人に対して発信しているつもりだが、文字情報だけでは自分の意図通りに伝わっているのかという点については心許ない。

日常の会話においては「赤」と発話すれば、伝えた相手もまず私が指すものと同じものを想起しているだろう。もしかしたら赤いものを見たときの私の脳内の反応は、他の人が赤色のものを見たときの脳内の反応と異なるかもしれないが、結局のところ指すものが同じなので、これで困ることはない。

しかし、同じ言葉(発音)でもことなる対象を指すものがある場合、うまく相手に通じないことがある。実際に昨日経験したことだが、息子がそれまでの会話の流れと関係なく、「サカナヲカッテホシイ」と発言した。それを聞き、最初、私は食用の(マグロの刺身や鯖の缶詰のような)魚を買ってほしいというように解釈したが、どうやら観賞用の熱帯魚を買ってほしいという意図のようだった。(もしかしたら熱帯魚を”飼って”ほしいだったかもしれない)
まさにこの本の例でも取り上げられた”サカナ”に関するもことであったので記憶に残っているのかもしれないが、一緒に過ごす時間が長い(価値観や語彙が似てくるであろう)家族間でも時にコミュニケーションがうまく取れないことがある具体例だった。私の言っていることもどれだけ家族は理解してくれているだろうか。


【今後のこと】
今回、本書から刺激を受けたことを記したが、言語の使い方や言葉とその対象は学生時代に学んだことだった。学生時代にこの本に出会っていたらより深い思考ができていただろうと思うが、社会人になってからも後輩や取引先とのコミュニケーションにおいて、抽象度・具体度を意識する良いきっかけになった。
概念やモノに名前を付けることで、思考やコミュニケーションを省力化・効率化することができるので、よく接するものには細かく分類された名前がつけられたのではないだろうか。
同じように、各個人が持つ語彙もどの分野に興味関心を持っているかでそのバランスは異なる。言葉の限界が思考の限界を規定すると思うし、新しいことを学ぶ際は語彙が増えていく。だが、ただ語彙を増やすだけではなく、適切な言葉を使って思考するように心がけたい。今までも報告書などを書く際は、(抽象度も含め)どの言葉を使うか自分なりによく考えてきたが、思考においてもこの点を意識したい。

投稿者 sikakaka2005 日時 2019年4月30日


感想を一言でいうならば、
言葉は慎重に緊張感をもって使うべきであるということだ。

まず本書から気になったところを1つピックアップする。

「P30 記号は物そのものではない、地図は現地ではない、コトバは物ではない」

この一文と文脈から筆者は、記号、地図、コトバが物ではなく近似値のものであると言いたいのだと思った。

記号化されたり、コトバにされると、物の持つ情報が削除される。また、言葉や地図にされることで発信者の思いと受け手の思いによって物の持つ情報が歪められてしまうからだ。

例えば、リンゴを見たときに、ある人が「リンゴ」と言ったとする。
それは間違いではない。しかしその物自体を表していない。
なぜなら、リンゴと言うだけでは、受け手がリンゴを勝手に想像してしまうからだ。
正確に伝えるならば、産地、糖度、赤の色合い、重さなど事細かに伝えねば、そのものを伝えたことにならない。

ただいくら言葉を尽くしてもリンゴを伝えきれないことに気づくかもしれない。
ならば絵を描いて伝えようとするかもしれない。
でも絵を描いてみても、その物自体ではない。
だから、どんなに言葉や表現を尽くしても、その物を完全に伝えきることはできないと言いたいのだと思った。

記号や地図、コトバが表せるのは、あくまで近似値であるということだ。
だから、言葉を使うときには注意深く、慎重にならなければ伝わらないと言いたいだと思った。

実際の生活の場面や職場でも伝えたいことを伝えきれていないと感じることがある。
それは、さきほどのリンゴと同様に同じ単語でも人によって意味が異なる場合がある。

たとえば、「失敗」という単語を言ったとする。
ある人は受験に失敗した苦い経験を思い出してネガティブに捉えることがある。
別のある人は挫折から復活した経験を思い出してポジティブに捉えることがある。
同じ単語であるのに、受け手によって受け取る意味が違うし、それによって抱く感情も違うことがよくある。

仕事をしてしてもこのGAPは良く起きる。
同じ業界であっても、お客さんが変わったり、一緒に働くメンバーが異なるだけで、言葉から連想するものは違う。
だから、仕事に使う言葉を定義する必要があるだ。
定義に使うこともまた定義する必要があるかもしれない。

目に見えるものを作るならば分かりやすい。
でも目に見えないサービス業の場合、お客さんと一緒に働くメンバーと認識のずれをいかに小さくするかは思案のことである。

本書が伝える言葉の意味に対する丁寧さにとても敵わない。
けれども、これほどまでに言葉にしても筆者の認識にずれがあることは避けられない。
言葉って便利に見えるが、不便でもあることを自覚して、注意深く、緊張感をもって言葉を使っていきたい。

投稿者 akiko3 日時 2019年4月30日


 月々、撃沈しているだけに今月は特に提出が躊躇われた。読んでもわかってないね…ってことがアウトプットでバレバレじゃん。

躊躇われたけど、P316 外在的になる必要性を説かれた文に「小さな領域を征服することがより大きな、より困難な領域を征服することに導く」とあったので月々挑戦することが大切だし、あーでもない、こーでもないと考えてみる姿勢も大切であり、訓練だと思い直した。ここは自分の日々の何気ない報告にいちいち善悪の断定を、特にダメだし的な悪を抱くことにも気づかせてくれた。

難題を連想させる(読む前から色眼鏡)タイトルだったが、まえがきの「雄弁に熱をこめて言われたこと、信じやすい傾向」にあるあるって勝手に築き上げたブロックが崩れた。

世はバブリー♪と流行に踊らされたことは、滑稽だと後に笑い話にもできるけど、生き方とか価値観、昨今、災害時など皆が逃げるなら逃げるとか、命にもかかわることに対し、自分の人生/命なのに、他にその判断を預けてしまっていいのだろうか?と改めて笑い話ではないと思った。

ふと子供の頃から“多数決”で物事を決めることが多かったなと思った。小学生の時の多数決は、より多くの生徒の満足を得る為?集団生活の中ではその方が文句の数は少ない。
でも、これってより多くの人が選んでいることが安心という刷り込みにはなっていないか?

思い返せば、学級の話し合いの時間もあったが、ディスカッションというレベルではなかったし、反対意見を言われると“嫌われている?”と感情で受け止めてしまいそうだ。ビジネスにおいても、よりよい方向に持っていく為には、いい点、悪い点、あらゆる方向で考えてみないといけないのに自分に都合のいい意見しか受け入れられなかったら偏ってしまう。一度、会社の研修でディベート講座を受けたことがあるが、真意は違っていても訓練として反対の立場として物言う訓練は有益だった。感情的になってはいけないとルールを講師の方が説明されたが、慣れていない日本人はつい反駁の人ではないのに、感情的に相手の意見に反論していた。昔の政治家は学生時代にディベートで弁論を鍛えたと私の履歴書みたいな記事で読んだ。本も読まなくなったし(100冊読んでないお猿の自分を鑑み)ま、まずい。


想像力(妄想)の欠如や善か悪かの二者択一で中間がないという世の中、余裕がなくなっているのも憂うことだが、それでも日本は八百万の神の国の土壌ゆえ多様性を受け入れる素地があるのはありがたいことだと改めて思った。

普段、当たり前に喋れている日本語ゆえ、落とし穴が沢山あることがよくわかったし、外国語を勉強すると文化や社会のバックグラウンドも勉強しないと理解度も上がらないということにも改めて気づき、またそういう知ろうとする勉強が多様性を受け入れる訓練にもなりうる、言葉以外のそれこそ思考と行動の吸収にもなる1粒で3度も4度も美味しいことに出来ると思い、外国語の勉強にも熱が入る。

最後にP225二値的考え方のところで、「ナチスの看守・死刑執行人達が恐ろしい仕事、怒りや悪魔的な喜びでなく、義務として遂行した」という指摘、「ユダヤ人=抽象が他の知覚を完全に消し去った」に一瞬固まってしまった。そうだ、「夜と霧」を読み、ヒットラーは悪魔に乗っ取られた人とかその配下にいた人達も悪だと決めつけていたが、「義務として遂行した」言葉にはそのような影響力があるという事実にあまりに無防備な自分がいたことに気づかされ、ちゃんと言語を勉強しようと思った。大量の情報を無防備に受け入れていると勝手に刷り込まれてしまう危険もある。

P318「制度的に習得した態度と外圧的に習得した態度とを区別することに慣れていない人」
ハイ!
いろいろ至らぬところが浮かび上がり、反省しきりの平成の終わりになりました。
ありがとうございました。

投稿者 gizumo 日時 2019年4月30日


「思考と行動における言語」を読んで

 正直、“言語”についてここまで深く、真剣に考えたことはありませんでした。それは、つまり生き方に責任を持ってなかったことにもつながるのではないかと、猛反省した次第です。
“言葉”が生ものであることは最近、特に感じることであり、若い感性が同じ言葉を「うまく」「的確に」使いこなすのに大いに感心する機会も多くなっています。正しい使い方ではないと思われるものの、本当に、上手く言いえて妙であり、ビジュアルが生々しく浮かびうなづけるような言葉使いが大変多く見受けられます。
 人間だけが使いうる“言語”は学問としても深いものがあり、やはり発せられる言葉や文章は、その人を語るものであり、その人自身の人生や学びの蓄積が現れるものであるのでしょう。自分自身の経験でも、頭と口から出る言葉との違い、(それが意図したものでもしないものでも)に気づくこともあり、これに表情や体の動きが加わるとますます複雑となり、これからの言語の使い方に慎重になってしまいそうです。
 それを意図的に使い、正しく自分を表現し、人に影響を与えられる、自分自身の能力として、武器として使えるようになるため、まだまだ精進していきたいと思っています。大変読むのが困難な課題本でしたが、令和の時代もまだまだ学び続け、進化していきたいと考えております。

投稿者 H.J 日時 2019年4月30日


読んでいて頭が痛くなる、とても難しい本だった。
これでも具体例を増やして解りやすくなってるとのこと。
初版を読んで消化している人はどんな頭の良い人なんだろう。
そんなことが頭をよぎる。
私が自信をもって言えるのは、70年前の本が今もなお売れて読まれ続けるってことは、時代が変わっても本質的なことは変わらないということだ。
といってもここから話も広げられないしどうしようかと頭が痛くなった。
であるから、自分の感想というよりも「頭の良い人が読んだらどんな感想なんだろう?」
という好奇心が勝ってしまう本であった。

といってしまうと、おそらく私の読解力や知識の低さの紹介になってしまうだろう。
ただ、読む人(受け取り手)によって考え方や感想が変わるのも読書の一つの醍醐味であり、
本書の内容を紐解く一つのヒントでもあると感じた。

さて、感想を結論から言うと、”言語を発する側と受け取り側の抽象レベルのコントロール”が大切であり、コントロールを出来るのは言語を発する側だ。
そして、意味は伝えて、相手に理解されてこそ成立する。

言語はコミュニケーションに於いて、基本的に必要なツールである。
思ってるだけで相手が動いてくれる便利なツールは現代科学では発明されていないからだ。
一見直接的な言語のコミュニケーションを取ってない様に見える野球のサイン(色紙じゃなく指示の方)なども、事前に言語を介して決定する。

人に何かを伝えたい時、
思考から言語に変換したものを伝える→受け取り側が理解する
で、初めてコミュニケーション成立になるわけだが、
この言語の変換したものを”相手の視点”で伝えることが出来なければ、相手も理解できない。
たとえば、野球のルールを知らない相手にいきなり、
「今のウイニングショット決まったね!」
と言っても、
「え?今ので試合終わったの?」
って反応される。
野球を知ってる人だと、ウイニングショット=その投手の決め(得意)球という認識だが、
野球を知らない人だと、ウイニングショット=勝利を決めた一球という認識をしてしまうだろう。
どんなに素晴らしいプレーでも、言語を発する側と受け取り側の認識が同じレベルでないと共有ができない。
つまりは、言語を発する側が受け取り側に合わせたレベルで話さないとコミュニケーションが成立しない。

コミュニケーションの成立の一歩として、これから話すことに対して、受け取り側がどんなレベルで知っているのか?
どんなレベルまで抽象のハシゴを上げても大丈夫なのか?
を想像することが大切になる。
普段は無意識に内在的考え方をベースに伝えたいことを伝えることが多いが、伝える前に”相手がどんなレベルなのか”を考えることで、伝えたいことがもっと正確に伝わる。
相手がどんなレベルなのか考えるためには、まず”伝えたい相手のことを知ること”。
相手のことを知ることがコミュニケーションをコントロールする一歩だ。
相手のことを知っていれば、そこをベースにコントロールすればいいからだ。

ただ、相手のことを知るとは、1対1のコミュニケーションには通用するが、1対多数の時にはどうすればいいだろうか。
多数の人であれば、色んなレベルの人がいる。
自分と同じ認識の人もいれば、全く違う認識の人もいる中で相手を知ることは難しい。
抽象レベルを上げて大きな網を張るか、抽象レベルを下げてターゲットを絞ってより正確に伝えるか。
選択が必要になってくるだろう。
どちらにしろ相手のことを考えることが大切だ。
相手に伝えたい意味が伝わって、理解してもらえることがコミュニケーションだと考えるからだ。

投稿者 kayopom 日時 2019年4月30日


「私も一時として同じ私ではない」

「はじめに言葉ありき」。言葉がなくては人は考えることができない。
言葉を操ることで、人はそれまでの文明の恩恵を受けることができる。
そして人間として生きていくためのコミュニケーションが可能となる。

言葉は、個々の経験がものを言う外在的なものであり、すべての人々の中にあるものだ。
すべての人々がすべて異なる以上、言葉は辞書的には同一でも、一つとして同じものはない。

人間を人間たらしめたものこそは言語であることを解きほぐし、
私たちの社会の取り決めが全て言語によって形成されていることを説明するくだりには、
改めて言語の威力を思い知らされた。
そして、その重要性をわかっているようで、わかっていなかった自分を知った。

私としては、本書において次の2方面で特に腹落ちした点がある。

1.他者とのコミュニケーションにおける言語形成
少し前の課題図書となった『伝え方が9割』では、相手へ提案を通すために次の3ステップが提示された。
①「自分の頭の中をそのままコトバにしない」、②「相手の頭の中を想像する」、③「相手のメリットと一致するお願いをつくる」。
実際にこのステップに従って、提案を考えてみたことがある。
が、自分なりに想像してかなり忖度したつもりでも、「あれ?」というほど外すことがしばしあった。
特にこの2について引っかかっていた。「相手の頭の中を想像する」とは?

本書の内容に即して言えば、「相手」が持つ「言語」を想像しなければ、このルールは通用しないということだ。
つまるところ、私が想像のために使っている「言語」が、相手の中の「言語」と違うことにあることで起こると思われる。
こういったギャップを埋めるにはどうすればいいのか?
まずは「相手をよく知る=相手の情報を得る」ことが優先度が高いのであるが、相手を自分に寄せる努力も必要だと思う。
このヒントは6章で言うところの「社会的な結びつき言語」にあると思われる。
決まりきった挨拶など、たわいないことでも、他者との関わりにおいては言葉を通じた時間を共有すること、
ちょっとしたコミュニケーションの重要性が述べられている。
なので、特に職場ではこまめなちょっとしたコミュニケーション、これがじんわりと効くのではないかとヒントを得た。

2.外国人とのコミュニケーションにおける言語形成
言葉の問題となると、やはり気になるのは外国語についてだ。
外国語を学ぶ意義は単語や文法は基本であるが、その裏にある外在的な情報を学ぶ事が習得には最も重要だと言えよう。
AIに膨大なバターン認識をさせたとしても、外在的情報を網羅して最適解を打ち出すことができるのだろうか?
外国語の翻訳はいわゆる挨拶や旅行会話レベルであれば、今でも翻訳機は十分役に立つ。
問題はそれを超えて一歩踏み出したところにあり、ここにまさに人間ではないとできない技があると思われる。

例えば海外旅行に行って、隣り合わせた人と雑談する事は最もハードルが高い。
最初に「どこから来たの」「これからどこに行くの」なんてことは出来ても、
それ以上の話のとっかかりを見つけるのは難しい。
相手が反応してくれそうな話題を探って問いかけることは、その個人の力量が問われる。
(もちろんこれは外国語に限らないが)

英語に対して、最も英語圏の世界に憧れが強かった時期が一番学習できたのはそのためかもしれない。
それだけ向こうの文化を知りたかったし、そっちの世界の人とコミュニケーションしたかったからだ。
今日本にやってくる外国人の若者が、日本のアニメやコミック、ゲームの愛好家が多いことも、
その逆の表れなのだろう。
外国語、外国文化への興味と言葉の外在性を意識することが、外国語能力を高める要諦である。

最後にいちばん心したいと思った部分を紹介して終わりたい。
p84に日常生活の言語において「言語を理解し、また使用する能力を増すためには、従って、語の情報的内包に対する識別力を磨くだけでなく、
言語の感化的要素を見抜く力を磨かなければならない。これは社会的経験を通じ、諸種の状況において色々の種類の人に接し、また文学を研究することなどによって得られる。」
その経験とは、実際に経験したことだけではなく、本や映像などの情報から経験したものも含まれる。
ここにすべてのフィクション/ノンフィクションを読むことや、歴史を知る意義がある。
これは一言で言えば「美意識」を深める努力をすることではないだろうか。

言語を通じて形成された社会に生きる以上、日々の経験がまさに宝である。
経験を糧に、成長と意識を深化させていきたいものだ。
私も常に 自分1、自分2、・・・自分∞に変化していく存在なのである。

投稿者 nishimikado 日時 2019年4月30日


成熟したコミュニケーション能力を持つことの必要性と、その具体的な手法について、これほどまでに言葉を尽くして書かれた書籍を読んだことはありませんでした。意味論として、専門的にこういった研究がなされていることさえも初めて知りました。
常日頃コトバを自由に扱えていないことによる生きづらさを覚えていたので、この本と出会うことができたことに感謝しております。

本書を読み、自分にはいくつものやるべきことがあることがわかりました。自分が日常生活の中で最もやってしまいがちな、情報に対する「推論・断定・色つけ」を避けるためには、19章冒頭にまとめられた諸ルールに毎日毎日立ち返ることと、時間はかかりそうですが、日々多くの情報に接してそれらを実際にトレーニングすることの必要性を感じました。

その19章において、「自己についても断定しない」「自己概念は自分自身ではない」という内容へ展開していったのは驚くと同時に感動しました。これまで自分が下す判断や行動も自分の「現地」そのものと認識していましたが、自分が信じている自分とは「地図」に過ぎないという指摘と、それに続く、『地図は現地のすべてを現すものではない。』という、第2~3章においては外在的世界に対して綴られていた内容がこのような形でリフレインされたのでより深く心に残りました。

この記述がある326ページは非常に印象的で、のちに続く『人の自己概念が実際のその人自身について省略している部分は厖大である』については、心からその通りだと最近思うことがあります。

わたしは、家族がある依存症になったことで、今年から依存症者の家族のミーティングに参加し始めました。ミーティングでは参加者全員が、誰にも遮られることなく、自分の感じたことや考えたことを話す時間を設けられています。
フィードバックがない前提で話をすること自体に一体何の意味があるのか、初めは訳がわからないまま参加していましたが、これがまさに145ページにある「自分の経験を自分に対して記号化する」「何が不都合かを言いさえすれば堪えられるようになる」という作用にほかなりませんでした。
また、「読書で他の人生を追体験すること」に近いのですが、「体験を分かち合う」ことで、同様の問題を抱える他の人のお役に立てるという効用もありました。

ミーティングを重ねるごとに、わたし自身も強い依存傾向があることがわかり、個人で依存症者当人と同じ回復プログラムを受け始めることになりました。ここではさらに立ち入った観点から自分のことを話すのですが、そのステップ1は「考えないようにしても考えてしまうこと」「感じないようにしようと思っても感じてしまうこと」をピンポイントで炙り出すことでした。そして、それはこんなに難儀することなのかというくらい、事実を受け入れることが難しい作業でした。人によっては1年近くかかってしまうこともあるそうです
しかし、自分の「地図」と「現地」に乖離がある状態では、本当に自分が望むことに近づくことができないということで、厳格に進められていきました。

正直、自己概念と外在的世界のどちらが、より正確な「地図」を作りやすいのかわかりません。他人とのコミュニケーションについては、瞬発力が求められることに対して特にハードルの高さを感じますが、これほどまでに丁寧に、コトバの与える影響についてレクチャーしていただくことができたので、地道に「断定しないこと」「抽象化のレベルに思いをめぐらすこと」、そして「読書を通じて多くの人生を生きること」のトレーニングから始めたいと思います。

投稿者 jawakuma 日時 2019年4月30日


S.I.ハヤカワ著 『思考と行動における言語』を読んで

良書リストにもあった本書なのですが、久しぶりに再読してみたとあらたな気づきを多く得ることができました。読書って本当に受け取る側次第でいかにようになるものだと改めて実感しました。(失念していた所が多かったのも事実ですが)

私たちは普段何の気なしに言語を使用していますが、その言葉の持つ力を意識することはあまりありません。『コトバは人々の考えを形づくり、人々の感じ方を導き、人々の意志と行動を方向づけるものだ』ということを忘れているわけです。

本書を読んで思い出したのが、袋に入ったリンゴの話です。袋の中身は何なのかを問われ考えていたが、中身が赤いリンゴであることが解ると、なーんだ、リンゴかぁ。といって思考を止めてしまうという、しょ~おんセミナーで聞いたあの話です。赤いリンゴということが分かっただけで、このリンゴの品種も、産地も、重さも、糖度も、食感も、販路も、何もわからない状態なのに思考を止めてしまっているのを指摘した話ですが、本書でもその言葉の機能の章で同様の事例がでてきていました。コトバ=モノではない、ということです。リンゴ1、リンゴ2、リンゴnはそれぞれ別個の存在なのですが、われわれはリンゴにとどまらず他の事物も抽象化されたステレオタイプな理解で解ったつもりになってしまうことが多多あるわけです。本質的な理解が求められる際にこれは大きな障碍になります。さらには報告、推論、断定の混同はうちの会社の報告を読んでいても混ぜこぜになってしまっている人がチラホラ見受けられ、何度問いただしても違いが認識できない残念な人もいるのが現状です。そういう人からの報告はあてにならず、得意先からの資料を一から読み解き、他部署のメンバーに問い合わせをしながら情報を再整理しなければならないので非常に時間がかかってしまいます。ファクトベースでの報告をまずは過不足なくおこない、そこから判断できる事柄を加え、とるべき行動の示唆までを含めて行えるように私も気を付けていきたいと思います。

また、動物と人間の違いは“言葉を話すこと”だと思っていましたが、本書の通りゴロゴロやウナリでのコミュニケーションは動物でも行っており、好き嫌いなどの感覚的な発声は動物のそれとあまり変わらないものだということがわかりました。しかし、人に行動を促す際にはこれらのゴロゴロ、ウナリのコミュニケーションも効果的に取り入れることができるというのも読んで納得です。事実に即した報告だけでは人を感化させたり、行動を促す効果は難しい(ヘミングウェイの描写技術は例外として)ので、コミュニケーションの中に感化させる言葉の要素を取り入れていきたいと思います。

思考には言語がかかせません。聖書の始まりの言葉である“はじめに言葉ありき”とはよく言ったもので、言葉が感情をあらわし、言葉で思考をしてその思考に基づき行動をして未来を形作っていきます。言葉の力を上手く活用して人生の糧としていきたいです。


今月も良書をご紹介いただきありがとうございます。

投稿者 kayopom 日時 2019年4月30日


「私も一時として同じ私ではない」

「はじめに言葉ありき」。言葉がなくては人は考えることができない。
言葉を操ることで、人はそれまでの文明の恩恵を受けることができる。
そして人間として生きていくためのコミュニケーションが可能となる。

言葉は、個々の経験がものを言う外在的なものであり、すべての人々の中にあるものだ。
すべての人々がすべて異なる以上、言葉は辞書的には同一でも、一つとして同じものはない。

人間を人間たらしめたものこそは言語であることを解きほぐし、
私たちの社会の取り決めが全て言語によって形成されていることを説明するくだりには、
改めて言語の威力を思い知らされた。
そして、その重要性をわかっているようで、わかっていなかった自分を知った。

私としては、本書において次の2方面で特に腹落ちした点がある。

1.他者とのコミュニケーションにおける言語形成
少し前の課題図書となった『伝え方が9割』では、相手へ提案を通すために次の3ステップが提示された。
①「自分の頭の中をそのままコトバにしない」、②「相手の頭の中を想像する」、③「相手のメリットと一致するお願いをつくる」。
実際にこのステップに従って、提案を考えてみたことがある。
が、自分なりに想像してかなり忖度したつもりでも、「あれ?」というほど外すことがしばしあった。
特にこの2について引っかかっていた。「相手の頭の中を想像する」とは?

本書の内容に即して言えば、「相手」が持つ「言語」を想像しなければ、このルールは通用しないということだ。
つまるところ、私が想像のために使っている「言語」が、相手の中の「言語」と違うことにあることで起こると思われる。
こういったギャップを埋めるにはどうすればいいのか?
まずは「相手をよく知る=相手の情報を得る」ことが優先度が高いのであるが、相手を自分に寄せる努力も必要だと思う。
このヒントは6章で言うところの「社会的な結びつき言語」にあると思われる。
決まりきった挨拶など、たわいないことでも、他者との関わりにおいては言葉を通じた時間を共有すること、
ちょっとしたコミュニケーションの重要性が述べられている。
なので、特に職場ではこまめなちょっとしたコミュニケーション、これがじんわりと効くのではないかとヒントを得た。

2.外国人とのコミュニケーションにおける言語形成
言葉の問題となると、やはり気になるのは外国語についてだ。
外国語を学ぶ意義は単語や文法は基本であるが、その裏にある外在的な情報を学ぶ事が習得には最も重要だと言えよう。
AIに膨大なバターン認識をさせたとしても、外在的情報を網羅して最適解を打ち出すことができるのだろうか?
外国語の翻訳はいわゆる挨拶や旅行会話レベルであれば、今でも翻訳機は十分役に立つ。
問題はそれを超えて一歩踏み出したところにあり、ここにまさに人間ではないとできない技があると思われる。

例えば海外旅行に行って、隣り合わせた人と雑談する事は最もハードルが高い。
最初に「どこから来たの」「これからどこに行くの」なんてことは出来ても、
それ以上の話のとっかかりを見つけるのは難しい。
相手が反応してくれそうな話題を探って問いかけることは、その個人の力量が問われる。
(もちろんこれは外国語に限らないが)

英語に対して、最も英語圏の世界に憧れが強かった時期が一番学習できたのはそのためかもしれない。
それだけ向こうの文化を知りたかったし、そっちの世界の人とコミュニケーションしたかったからだ。
今日本にやってくる外国人の若者が、日本のアニメやコミック、ゲームの愛好家が多いことも、
その逆の表れなのだろう。
外国語、外国文化への興味と言葉の外在性を意識することが、外国語能力を高める要諦である。

最後にいちばん心したいと思った部分を紹介して終わりたい。
p84に日常生活の言語において「言語を理解し、また使用する能力を増すためには、従って、語の情報的内包に対する識別力を磨くだけでなく、
言語の感化的要素を見抜く力を磨かなければならない。これは社会的経験を通じ、諸種の状況において色々の種類の人に接し、また文学を研究することなどによって得られる。」
その経験とは、実際に経験したことだけではなく、本や映像などの情報から経験したものも含まれる。
ここにすべてのフィクション/ノンフィクションを読むことや、歴史を知る意義がある。
これは一言で言えば「美意識」を深める努力をすることではないだろうか。

言語を通じて形成された社会に生きる以上、日々の経験がまさに宝である。
経験を糧に、成長と意識を深化させていきたいものだ。
私も常に 自分1、自分2、・・・自分∞に変化していく存在なのである。

投稿者 kokchamp 日時 2019年5月1日


非常に難解であるものの、ところとどころに気付きがあり、再読必須の良書でした。本書は言語の機能を深く掘り下げた上で、言語と思考について考えていく内容となっている。  
言語の機能の部分で、「地図と現地」や「外在的意味と内在的意味」、「一語・一義のアヤマリ」などは非常に興味深く読み進める事ができた。改めて言葉を使う際の重みを感じた次第です。
第二部の言語と思考の部分において、「二値的考え方」と「多値的考え方」が出てくるが、この考え方は非常に感銘を受けた。多値的考え方のなかで、「開かれた心と閉ざされた心」の項目がある。そこには、「伝達的事象を話し手と話の内容の二つの要素に分けよう」といい、「聞き手が伝達に反応する仕方」は4通りとなるといっている。「閉ざされた心」の持ち主は話し手と内容を両方受け入れるか拒否するかの2通りしかないのに対し、「開かれた心」の持ち主はこの2通りだけでなく、「もっと複雑な反応」すなわち話し手と内容それぞれを受け入れるか拒否するかに分類する複雑な反応をすることができる。
このような反応ができるには、「多値的考え方の一体型的適用、すなわち叙述が真か偽であると仮定する替わりに、0から100パーセントまでの間の真理値を持つと考えること」が必要となる。その結果、相手の発言に対し、反応を延滞し、「もう少し話してくれませんか」言うことができ、反応する前に耳を傾けることができる。
開かれた心を持つと反応を遅延することが出来るようになる。その背後にある考え方として二値的考え方ではなく多値的考え方を持つことが必要なのだ。
普段の生活で議論の際に、自身の考えが相手にうまく伝わらず、共通の理解を得られないことがある。そのような場合、よく相手が主張する内容を二値的考え方で判断してしまい、相手自身の人格もそれと同様に考えてしまって議論が人格にまで及ぶ場合も多々思い出される。そのような場合には、相低の主張に少しでも共感できる部分がないか、また、その主張を産み出した背景、文脈に理解できる部分がないか探してみることからはじめれば、多値的考え方につながるのかもしれない。
この考えは、「内の秩序と外の秩序」の綱目で「精神の無限の柔軟さから来る保証」と言う言葉に置き替えられる。人は何についても「すべてを知っている」というわけではないのだ。自分の得意な分野において特にこの言葉を肝に銘じておかなければならない。
今月は非常に読みこなすのが難しく、期限をすぎてしまいましたが、深い学びの機会を得ることができ感謝しています。今月もありがとうございました。

投稿者 wapooh 日時 2019年5月1日


201904『思考と行動における言語』を読んで
本書で印象に残ったことは2点あった。
本書で説明のために用いられた『地図』という比喩と、18-19章の言語と思考の展開方法についてである。
P30に『アルフレッド・コーズィブスキーが『科学と正気』で用いている有名うな比喩を使うとこの言語的世界と外在的世界との関係は、地図とそれが代表する現地との関係に似ている。子供が青年に達し、経験の拡大と共に自分の周囲に見出す外在的世界とかなり密接に対応する言語的世界を頭に収めていれば、かれは自分で見出したことに驚いたり傷ついたりする危険が比較的小さくて済む。・・・彼は自運勢への備えが出来ている。ところが、もし、彼が頭にアヤマリの地図と持って成長するとー・・・もし適応不全がはなはだしいとついには精神病院行きと言う事になる』。
と言う紹介ののち、しばしば『地図』の比喩が本文中に現れる。
文章を読み対象を想像しながら文脈を思いながら、その都度私の頭の中に思い浮かぶ地図のイメージは異なってくる。世の中を反映して教科書通りの『世界地図』だったり、毎日見ている自分の身の回りの地図=会社の工場の『敷地地図』であったり、自宅周辺の『町内地図』であったり、見慣れた風景を切り取った『Googleマップ』のような光景であったり、自他共の『人物像』であったり、事象を現すだけの単なる『イメージ』だったり、『地図』と言う抽象化によって自分の世界(環境、経験・見分、知識)の何かへと投影し、本書を理解した気持ちになっている。
読みながら、『地図』と言う言葉への自分の反応(思考や行動)によって、ひいては「自分の使う言葉によって、その人が育ってきた環境から受けた影響、培った知識、教養、経験や思考の癖=人となりが透けて見えてしまう」ように感じ、背中がヒヤッとしがちだった
この「ヒヤッとしがちだった=恐怖や不安」と言う感情は、本書では報告に値しない表現である。あくまで私が選択した意味づけであって、私自身の『言語的世界』感なのだと言う事を知った。私は『不安や恐れ』を第一にしがちな生き方をしていて、それらを裏打ちする『地図』を描いたり、手にたりしがちなのだな、と感じた。
その悲観的な見方で幸せな地図は描けないかも、と言う気付きに対する示唆(と私が感じたもの)が18・19章の本文だった。
P305, 312の『地図』の引用がある。
問題が生じるとき、現実を正しく投影していないことが多い。地図が正しく現地を対象としてとらえていなかったり、正しく表現がなされていなかったりする『ずれ』が大きい時に問題が生じる。その場合は、目的とする現地を視野に入れ直し、地図を書き直せばよい。何度もずれを繰り返すと、その人は思考停止行動停止に陥るので、一段上に立った他人の視点や外からの情報(読書)が必要になる。
時には適切な『地図』を持っていても、読み方を知らなくて『地図』は宝の持ち腐れになってしまう。『地図』の正しい読み方を、誰かの『言葉』を通して学べばよい。
『地図』が社会を投影するツールであるように、『言葉』は社会的なものである。
読み・書き・話すことによって、自他と共にコミュニケーションをとり、『人間として生を受け生きている』ギフト受け取っている命の営みの一つなのかもしれない。
『地図』も『言葉』も選択次第なのだから、自分の持ち合わせていない世界をのぞくこと学ぶ事経験へと落とし込むこと現実へと投影することで、自分の不安ベースの世界と外界との窓口も変えられる。
互いに気持ちの良い接点は何処にあるのか?自分の見えた世界をただ投影して勝手な『地図』を書いてばかりいては仕方がない。

 いかに相手にも認識・理解し協力や共感が得られて幸せを感じられる『地図』を描けるか?『言葉』を紡げるのか?そんなことを考えていたら、過去に読んだ石原明氏の課題図書を思い出した。対象となる人間の想定を増やしていきそこに通じる言葉(方針)を投げかけることが出来れば、多数の人からの理解と行動と協力を産み出せるようになれたら、その人はビジネスマンとして優れた上の立場の人間になりえるだろう、と本書を読みなら一層しっくりと来たのだった
『言葉』先日の社の階層教育で思い出した言葉がある。中国に赴任している方との会話で記憶に沁みた一瞬。
『言葉はね、暗号なんだよ。国の多くのことを現したもの。だからね、敵に容易に理解されてはならないのだよ。中国語の方言の音の複雑さやそれぞれの個性はそのためにある。文字に残しちゃいけない。情報が持ち出されたら支配されるのだからね。』。『工場の幹部や素養を持つ人物とそうではない人物との間では、使う言葉が違うんだよ』
その昔、地図を自国(オランダ)の船に乗せて罪に問われた歴史もあった。。。

背中だけではなく体のあちらこちらがひりひりして来るけれど、自分自身なのだから。良書として紹介されているだけの力強い一冊だった。何度も読んで日々の成長の糧としたい。今月は休暇があり時間的に余裕があると思ったのだけれど、常の読書と思考習慣がないと読みこなせない一冊だったので、自分には苦しかった。今月も貴重な時間を過ごせました、有難うございました。

投稿者 saori85 日時 2019年5月4日


成熟した人間になるための、実践の書


この本の特に15章以降は、精神的に未熟な私に、貴重な人生の指針を与えてくれた。


私自身、まさにこの本で取り上げられている「精神的に未熟な人」の典型例だ。

言葉にすぐ反応する、沸点が低い、考えが堂々巡りであり、親のシンボルを求め、独立した思考ができず自分に自信が持てていない。

   

この本では、そんな自分を克服する方法が実践できるように書かれていて、大変興味深く読み進めた。


私が特に具体的に学べたのは、次の3点だ。


1.多値的考え方

話し合いの過程で反論したい誘惑に駆られても、善か悪かに二分せず(二値的考え方をせず)、仮に1%の真理値を相手の言い分に与えて会話を深めていくこと。それにより反応を遅らせることができ、反応する前に耳を傾けることができる。

これを知ると、実際に使える場面に多く応用でき、これにより言葉面にすぐに反応し、沸点の低い自分は抜け出せた場面が多かった。


2.外在的思考

外在的とは、実際の事実や実例に即した考え方という意味。本書でより正しく現実を把握する(「地図を作る」)ための一貫した姿勢である。


精神的に成熟した人は、どうしても抽象度が含まれる言葉の中で考え続けるのではなく、実際の事実に即した問いを立て、自分の頭の中のコトバとの相違を観察し検討した結果、自分なりの答えを出している人のことを言う、と理解した。


その実践は、とにかく実際に試そうとすること。そして科学者の態度を忘れてはいけない。つまり、今持つ地図に固執せず、常に事実に基づいて検討し、現地に即した地図を柔軟に作り続ける、という態度である。


私はこの本書にある通り、外在的(体験に基づいた)考え方が足りないがために、制度的に(なんとなく)習得した態度から離れられず、その結果自分に自信が持てない状態が続いているのだと感じた。


3.より正しい自己像を作るための実践論


より正しい自己像を結び、世界をよりよく理解するために実践できることが紹介されている。

ひとつ目は、断定を排除した報告を書く練習をすること。ふたつ目に制度的に(なんとなく)習得した態度と、外在的に(実体験に基づいて)取得した態度を区別すること。

みっつ目に、生きる指針を求めて能動的に読書にあたること。


このうちひとつ目は、子供に試している。子供は、指摘するだけで「怒られた」と断定して、拗ねる癖があった。そこで、断定したと感じたら、報告として言い換えてもう一度伝えることを試みている。まだ成果は出ていないが、こつこつと続けようと思っている。


私の人生を変える書となった、本書を紹介してくださり、心より感謝します。
ありがとうございました。