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第70回目(2017年2月)の課題本

2月課題図書

 

無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教


ここのところ、「老後」というキーワードに敏感になっています。それも年齢を考えれば

不思議でもなんでもなくて、もう人生の折り返し地点はとっくに過ぎているんですからね。

生まれてから今までの人生よりも、今から死ぬまでの時間の方が短くなれば、老後も現実

的なシーンとして切迫感を伴って感じられるようになります。

そんな老後の終着点が死ぬということなんですが、今の日本って死ぬのも一苦労というか、

死んだ後にこんな面倒な話になっているのかということが縷々語られているわけです。こ

れ決して下流老人に限定された話じゃないんですよ。それなりに裕福で子供もいた家庭だ

ったのに、いざ死を迎える時には葬ってくれる、送ってくれる人がいないなんてことが珍

しくないんですね。

そういう現実を知って、自分の死をイメージすると今の生活が変わってくると思いますよ。

 【しょ~おんコメント】

2月優秀賞

 

今月は微妙に暗めの本を選んだんですが、投稿数はほぼ横ばいを維持しました。

まずは一次審査を通過したのが、『satoyuji』さん、『Devichgng』さん、『tsubaki.yuki1229』さんの3名でした。

その結果、『Devichgng』さんに差し上げる事にしました。

【頂いたコメント】

投稿者 Valentina 日時 2017年2月17日


「坊さんの血を引く私が『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで」

 母の実家は、日蓮宗の寺だ。車で僅か10分の距離にあったので、幼い頃は母に連れられてよく遊びに行った。そう、“遊び”に。お墓は私と弟にとって魅力的な遊具だった。「このお墓が私の家。こっちがお前の。」こんな感じでよく家ごっこをしていた。お寺ではイベントが沢山あった。初詣に始まり、2月には雪で作った舞台の上で、住職であり叔父でもある母の弟を含む大勢の僧侶達が裸で“水かぶり”をした。4月の花祭りには、甘茶の他に、叔父のアイディアでわたあめも作って食べた。他にも、子ども達が華やかな着物姿で練り歩く稚児行列や、檀家さん達との旅行…これが私にとっての「寺」のイメージだ。
 だが、これは飽くまで私が寺の孫だったからそう思えただけのこと。本書を読んで、一般的な現代人、特に都会で暮らす人々にとって、お寺は葬式や法要、お墓参りをするための場所、つまり全ては死者のために出向く場所であり、不吉なイメージを持つ場所なのだという事実を知った。母は私に、「このお墓は寺を作ったばあちゃんのもの。こっちは飢餓で亡くなった人達を供養するために建てたもの。」と愛おしそうに説明してくれた。だから、私はお墓を「怖い」と思ったことはない。「お寺のお墓が見えるのもイヤ(p.39)」という一節を読んで、とても悲しい気持ちになった。
 お墓を不吉なものとして忌み嫌うのと、そうでないのとの境目は、そこに眠る死者が生きた人生に対して関心があるかどうかだと思う。都会では、近所付き合いが希薄になり、隣人の顔さえ知らない。愛着の無い“生”が増え、それに伴って関わりたくない“死”が増える。だが、その“死”に向かって、自分も刻一刻と近付いている。その事実を頭の片隅で意識しているから、「歳を取りたくない」とか、誕生日に「あー、あと3年で40だー」などというネガティブな発言をする人が多いのだろう。“歳を取るのは嫌なこと”と思いながら生きる“生”とは、なんと悲観的でつまらないことか。現代人の“死”に対する考え方の変化が、“生”にマイナスの影響を及ぼしている、そんな気がする。極端な例だが、インドネシアのバリでは、死とは“新たな世界へ送り出すための華やかな祭礼”であり、巨額の費用をかけて盛大に祝う。自分の死後にそんな素敵な祭典が待っていることを知っているバリの人達は、死を恐れず生きているのではないだろうか。

 私自身は、歳を重ねるのは全く嫌ではない。呼吸法を続け、夢の実現のために日々勉強し、経験を積み、人脈を築いていれば、人生はどんどん良くなっていく。1年後の私は、今より確実にスペックが上がっている。10年後はもっと、20年後はもっとずっと…そう考えると、死ぬ直前の自分が寧ろ楽しみでさえある。唯一心配なのは、自分が死んだ時にお葬式をあげてくれる人が身近にちゃんといるのかどうかということだ。私は来月から単身タイへ渡るが、そこでどんな人と出会うのか、そのままタイで定住するのか、それとも他の国へ渡るのか、世界を転々とするのか、現時点では未知数だ。日本語教師の私は、忠犬ハチ公の飼い主である上野教授のように教壇で倒れるのもカッコいいな、という考えが頭をかすめたが、「それって学校に迷惑だから」と塾生I氏に一蹴され、なるほどとあっさり納得した。確かに、そんなことをされては生徒にとってトラウマになってしまう。では、どんな死に方がいいのか?私の理想は、物理的なモノはあまり残さず、代わりに沢山の人達の心の中に思い出と(教師なので)知識を遺して死ぬことだ。私は今年で40歳になるので、一生子どもを産まない可能性もある。それでも「私は人を育てた!」と胸を張れるように、生徒達の人生に役立つ知識を与えたい。

 著者の鵜飼氏は、仏教が権威を取り戻すための手段の例として、「ひとさじの会」や「シャンティ国際ボランティア会」の活動を紹介している。しかし、読み進めるうちに、「しょ~おん塾」こそが、正に仏教が目指すべきピンポイントのモデルではないかということに気が付いた。もちろん、基本編セミナーの冒頭でしょ~おん先生がおっしゃるように、しょ~おん塾は宗教でもなければ、信じる・信じないの次元の話でもない。師であるしょ~おん先生の話を聞きたい、少しでも長く一緒に過ごしたい、お陰様で良いことがあったからお礼がしたい。もし、しょ~おん先生が、自由に出入りできる寺のような場所を構えたとしたら、全国から信者(=塾生)がひっきりなしに訪れるだろう。塾生のコミュニティーは、正に“サンガ”だ。
 『人の人生を丸ごとすくい上げる』ためのシステムを仏教は構築すべきであると、佐々木閑氏は述べている(p.282)。「お金・健康・人間関係」この3つの問題が解決できれば、人の人生は丸ごとすくわれる。つまり、仏教が目指すべきシステムが、しょ~おん塾には既にあるのだ。多くの僧侶達に、ぜひしょ~おんセミナーを受講し、普段から人を集められるカリスマ性を備えてほしいと思う。

 3月、私はタイへ移住する。仏教の未来に暗雲が漂う日本から、釈迦の教えを連綿と受け継ぐタイへ。坊さんの孫として、未知なるもう一つの仏教をよく見てきたいと思う。

投稿者 yashu50 日時 2017年2月20日


-無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教- を読んで

 仏教の本質がビッグバンの研究に通ずるという所は『納得』の一言に尽きる。仏教との関わりは祖母の葬式位なもので我が家は檀家でもなければ特定の宗派もなく、いざ自分が喪家になる際の心構えが一切なかった事を痛感し恥ずかしい思いがした。両親はどのような最後を迎えたいのだろうか。そんな心境に導いて頂いた課題読書に感謝します。今回も良書をご紹介頂きありがとうございます。

 仏教との関わりがほとんどない私からするとお坊さん便は「サービス向上でええ事やん」と思ったが、営利目的ではない業界である事を全く理解していなかった。私の周りにも寺関係者がおり、後継者問題の渦中にいるものも居る。いずれは彼が継承するのだろうとぼんやり考えていたがそれは遺産相続と同程度であり公共性などには全く思いが至らなかった。

 彼の寺でも初詣の参拝客数は年々減少しており子供の数にそれが顕著に表れているそうだ。以前は除夜の鐘はほぼ参拝客に鳴らしてもらっていたが最近では住職が鳴らす回数がかなり多くなったと。恐らく彼の寺でも檀家は減少しているのだろうが個別の寺単位での打開策を導き出すのは難しいだろう。紹介されていたような都市と地方とが提携するような仕組みが彼の寺にも廻ってくるといち友人としては安心なのだが。現時点では会社勤めの彼はこの様な業界の現状をどの程度把握しているのか分からないし余計なお世話かもしれんが、本書を薦めてみようと思う。

投稿者 H.J 日時 2017年2月22日


無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教

本書をアウトプットすることは、始める前はすごく辛い作業だった。
「死」はとても重いテーマであり、私自身そこまで深く考えたことがなかったからだ。

私が物心ついてから、始めて「リアルな死」に直面したのは、6年前の祖父の死だ。
恥ずかしい話、20代になるまで火葬という言葉は知っていても、その後どんな姿になるのかも知らず育ってきた。
そのため、火葬が終わった後の祖父の姿を見て衝撃を受けたのを今でも覚えている。

そして、本書を読み終えて、今考えると自分自身「リアルな死」を知らなかった事は大変危険なことだったと思う。
同時に「死」に対する勉強不足を反省した。また、大人になってから知っても間に合っている自分の環境に感謝した。
何が起こるかわからないこの時代、いつ身近な人が亡くなるかわからない。
どう対応するのか、どう準備をしておくのか。
この問題は「まだ若いから関係ない」ではなく「若いからこそ今から考える」にして行かなくてはならない。

今の時代、気軽に映像やゲームを幼少の頃から楽しめる時代だ。
便利になる反面、簡単に命が捨てられる映画やアニメ、死んでも簡単に復活出来るゲームが、さらには真偽不明な様々な情報が流れるインターネットが生活の一部になってフィクションとリアルが混同になって育つ子供が大半を占めている。私達の世代以上に危険だと思う。
そんな子供たちが道を踏み外す前に「死」の恐ろしさや「命」の大切さという現実を潜在的に教えることが必要だ。
そのためには次の世代に伝える世代になる私達がまず正しい知識を得なければならない。

また、何よりも繋がりを大事にしなければと改めて思った。
近年はプライベートの問題や防犯対策などで人と人の関わりが極端に減っている上に、
ネット上で会った事もない人とも友人関係を築ける時代だ。
切ろうと思えばいつでも切れる面倒臭くない微妙な距離感での繋がりで満足の時代、それがこれから高齢化社会・多死社会が終わった後も更に孤独死を増やしていくかもしれない。

さらに、ゆとり教育と呼ばれる私たちの世代には「面倒臭いから」「楽な仕事がいい」とかで仕事をしない職歴無しのニートが多数存在する。
「嫌なことからは逃げてもいい」みたいな風習がどこか表面下に存在している様な気がする。
もしも資金的な蓄えもなく、親が死んだ時どうするのだろうか。
それこそ本書で書かれていた様に、まるでゴミを捨てるかの様に遺骨を扱うのかもしれない、もっと大胆なことをするのかもしれない。
もちろん皆が皆そうなるとは思わないし、明日は我が身になる可能性だってあるが、
確率論で言えば、こういう人達が一番無葬社会を作っていく確率が高いのではないだろうか。
私にも数人程ニートをしている友人がいる。
今までは本人が幸せなら口を出すことではないなと思っていたが、本書を読んでからは本人達のためにも「無葬社会」を作らないためにも、そのままではいけないことを伝えなければならないと思った。

「死」を考えてみると、それはどう「生」きるかを考える事につながった。
死ぬ時にハッピーエンドで終われる様にどう生きるかを考える。
そう考えると「死」という重いテーマもすんなりと考えられる様になった。

投稿者 dmnss569 日時 2017年2月26日


核家族化の進行は生と死の分断も進行させてしまったのだと感じる。大家族で暮らすと、いくら家族といえど価値観は同じではないため苦労することは多い。しかし、歳をとるということはどういう事なのか、死を迎えるということはどういうことなのか、死者をどのように弔うべきなのか、先祖に大切にしなければならない理由は何なのかという事を、いくばくかのショックも受けながら学んでいくことができる。
この経験によって、自分が生きるということは何なのか、死ぬということはどういうことなのかを学ぶ。それでも、自分が歳を重ねて死を間近に意識するまでは死後について思いを馳せる事はなかなか難しい。核家族化進む現代では、大家族主体であった頃と比較すると相対的に物が栄えてしまい心の喪失が進んでいると感じる。何が人生を幸せにするのかを真剣に考えて生に寄り添い生に関心を持つと、結局大切なのは物ではなく人との縁だということに気付く。そして突き詰めると縁という姿形の見えないものは、生きている間だけではなく、死後・先祖・子孫にも繋がっていると気づく。心が変わらないと行動は変わらないため、無葬の拡大は避けられない。多死の時代が到来してしまった今、豊かさとは何なのかという事を今一度考える時に来ていると考える。

投稿者 satoyuji 日時 2017年2月26日


『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで。

2013年の3月。私のお世話になった人が亡くなった。その時私は海外で仕事していて、亡くなったことを知ったのは帰国した8月だった。Fさんが亡くなったと知った時、心に何とも言えない空洞のようなものができた。一人の人間がこの世を去るということは今この瞬間にも起こっていることだが、Fさんの死は私にとっては特別なことだった。
自分の事を可愛がってくれた人に、もう会えないということがとても理不尽に思えた。それは何の合図もなく、突然やって来た。帰国後、私はFさんの墓参りをした。どうしてかは分からないが、墓前で手を合わした時に感情がこみ上げてきた。Fさんは非常に世話好きの人だったが、葬儀は身内だけで執り行われたことをあとから聞いた。だから家族以外の人はお墓参りに行くこと以外にFさんとの別れをすることができなかった。

もしFさんにお墓がなかったら、私は今でもFさんにお別れを告げられず、心の何処かに引っかかりを持ち続けていると思う。歴史の教科書でネアンデルタール人について習った時、彼らには埋葬の習慣があることを知った。動物と人間を区別することは何なのか。色々とあると思うが、いなくなった人、目に見えない何かに思いを馳せられる事があると思う。どうして人を弔うのか。合理的、学術的な理由はあるのかもしれないが、私たちは弔いたいから弔うのだと思う。いなくなった人と自分との間に見えない境界線ができてしまったことを確認して別れを告げたいのだと思う。

宗教、民族に関係なく、人は葬式を行う。それは、人が根源的に共有している本能に近い「何か」なのだろう。ならば、人が弔うことを失ったらどうなるのだろうか。見えない何かへの敬意を失うのである。想像力、知性、思考力、そういった私たちが積み上げてきた文化の源となるものを失うことになるのである。

葬式という行為は、亡くなった側からすれば自分の存在を認められることであり、送る側からすれば別れを告げる行為である。どちら側からしてもお金で後から買うことができない価値ある行為である。現代、それがなぜできなくなってしまったのか。死生観云々ではなく極めて明快な答えがある。お金がないのである。他にも理由があるかもしれないが、最大の理由はお金がないからである。現代ではお金がなければ葬式を行うことはできない。それが良いか悪いかは別として、そういう状況が立ちはだかっているのである。そしてお金がないという理由から葬式ができないことで別れの儀式としての、精神的行為としての葬式は、ただのモノの処理という掃除行為にまで成り下がってしまったのではないか。

お金がないというのは何ともさもしいことである。お葬式ができないだけでなく、教育を受けたりプレゼントをしたり食べたいものを食べたりすることができないことで、心が卑しくなってしまう。ではお金があれば葬儀ができて、素晴らしい最後を迎えられるかと言えばそうとも限らない。見送ってくれる人がいなければ弔いは成立しない。結局のところ葬式とは人生の集大成である。その人が如何に生きたのかが如実に出てしまう場所なのではないか。そうだとするならば、時代の変化と自分がどのように葬られるのかはあまり関係がない。なぜならば、私たちがこの一日一日を如何に生きたかが現れるにすぎないからだ。事実、本書ではお葬式の簡易化がとペット供養という供養範囲の拡大が同時に書かれている。経済力がないことによるお葬式の簡易化と同時に、経済力があるための供養拡大が同時に起こっているのである。言葉を変えれば格差時代における弔いへの変化となるのだが、私たちの人生も経済力不足の葬儀簡易化か、惜しまれてこの世をされる葬儀かに別れるわけである。

そして全ての人必ず死ぬ以上、自らの弔いの準備は既に始まっているのである。ならば、今私達できる準備とは何か。特別なことはない。一日一日を丁寧に生きることである。周りの人を大切にして、問題を解決してあげることである。時代が変化し、社会としては何か施策が必要であるが、一人の人間が必要とすることは変わらない。今に丁寧に、人を大切に。よく生き、よく死ぬために必要なのはきっとそれだけなのである。

今回も貴重な読書体験の機会を与えてくださりありがとうございました。

投稿者 toshi121 日時 2017年2月27日


「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」を読んで

都会に生まれ育ち、「葬式仏教」以外に宗教と接点を持ったことがほとんどない身には、仏教、死、葬儀に関わる昨今の事情の多くを学ぶことができ、また色々考えるきっかけとなった貴重な機会であった。

1.「孤独死」を受容する社会
「孤独死」というと非常にイメージが悪く、社会的な問題のような報道をみかけることも多いが、少子高齢化が進み、「家(イエ)」ではなく「個」が優先される現代社会においては、決して忌むべきものではなく、必然であると考える。死後長期間放置されて、遺体が腐敗して処理に困るような事態になることは避けなければならないが、それ以外は「お一人様」が、誰もが迎える「死」に到る一つのケースとして、普通に受け入れられることが望ましい。まずは「孤独死」という呼称ではなく、もう少し前向きに感じられる呼称で表現することができないものかと感じる(例えば「気まま死」など)。

2.自らの「死」への準備
昨年、入社以来30年近くに渡ってお世話になっていた先輩の急逝に接し、残された奥様の苦悩をみるにつけ感じてきたことであるが、自らの「死」への準備は避けるべきではない重要なステップであることを改めて感じた。自らの死後を語ろうとすると「縁起でもない」と言われがちであり、また自分で考えることも楽しいテーマでもないので、つい避けがちであるが、死や葬儀が多様化する現代において、遺された者達への負担を減らすためにも、定期的に自らの考えを語り、書き残しておくことが重要である。漠然と希望していた「散骨」が容易でない中、いくつかの選択肢もあることを本書で知り、今後自ら色々調べてみるとともに、家族と語り合って、また文書に残していく所存である。

3.信じ頼れるもの
現代の多くの人々において、仏教は信じ頼れるものとは言い難いであろう。本書で路上生活や難民キャンプを支援する仏教関係者の取り組みは好ましいものであると感じるが、こうした活動が知られることは限定的であり、当面人々の仏教に対する意識を変えることは困難だと考える。ただ、人は一人では生きていけず、信じ頼れるものを探し続けている人が多いことも真実である(数多い新興宗教の振興なども、それ故と考える)。私自身も宗教には懐疑的でありながら、信じ頼れるものがあればと感じる時もあり、仏教およびその他宗教、また宗教以外の各種書籍を積極的に読むなどにより、見識を深め、自らが信じ頼れるものが何かを探り続けていきたい。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2017年2月28日


~Memento Mori~

 私が本書から受け取ったメッセージは“Memento mori”-「死を覚えよ」を意味するラテン語の
格言である。ミッション系の私立中学に通っていた頃、朝の礼拝で聞いた言葉だ。

 本書「無葬社会」では、これまで全く知らなかった裏世界を見せられた。遺体を焼く仕事、遺体ホテル等の存在を初めて知り、お年寄りが孤独死した場合の特殊清掃の仕事の描写など、ダンテの「神曲」の地獄編を読んだ時より怖く、悲しい気持ちになった。
 明治以前の日本では、死の世界と生の世界は隣り合わせで、生きる者達にとって死者の存在は近かったのだろう。医療が発達していなかったため、身近な人が死は頻繁にあっただろうし、伝染病や飢饉があると「死は安らぎ」という価値観が生まれても決しておかしくない。お盆になると死者の魂が帰ってくるのを、人々は怖がるどころか、暖かく迎えたのだろう。
 ところが、現代の文明社会、特に大都会に生きる私達は「死」の存在と断絶し、科学文明の対極にあるかのように扱う。日本のメディアは他国に比べ、生々しい死を報道しないとも聞く。世間は「今を楽しもう」と強調し、孤独死の増加といったネガティブな情報から、私達の目をシャットアウトする。
 些細なことだが、昨今は若者の「年賀状離れ」が進み、親族を亡くした人が「喪中葉書」を出す習慣も、以前に比べ減少している。喪中葉書は、親族を亡くした者の悲しみや孤独を、周囲が認識し、暖かな目を寄せるという効果を生んできた。喪中葉書がなくなると、身近な人の死の情報が共有されなくなり、「死」の存在はますますフィクション化するのだろう。

 「自分は死に対して、どんなアプローチを取るか?」と考えた時、ミッチ・アルボムの「モリー先生との火曜日」を思い出した。難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかった78歳の大学教授モリー先生は、入院先の病室で「死とは何か?」と題し、毎週一回授業を開講。死ぬ間際まで生徒に教えることを喜びとする彼は、骨の髄までプロの教師だった。
 自分も教師として、死の間際まで生徒達に授業をし続けていたい。また、今書いている週刊メールマガジンを、死の直前まで書いていられたら、どんなに幸せだろうか・・・。それが新たな夢の一つとなった。
 「もし今日が人生最後の日なら、あなたは今日やるつもりのことを本当にやりたいだろうか?」
Steve Jobsは毎日鏡に向かってこう問いかけていたという。これこそ”Memento mori”精神を持つ生き方だろう。
次に斎場・お墓を通りかかる時は、「怖い」という偏見的イメージではなく、冷静な心で観察し、関係を築きたい。

2 宗教に期待されること
 「日本の仏教は葬式仏教」としばしば揶揄されるが、本書でSVAやひとさじの会など、積極的に社会奉仕活動を行っている仏教の団体があると知り、頭が下がる思いだった。著者の鵜飼氏が、仏教僧をしながらジャーナリストとして本を書いていることも、世間の意識を変えるという意味で、非常に有意義だと思う。
 佐々木閑氏は「宗教の意義は、死や絶望から人を救うこと」と言っているが、これは私達が宗教家でなくても十分にできる。救いを必要としているのは、ホームレスや難民の方々だけでなく、家庭や職場内の、すぐそばにいる家族や友人かもしれない。特にしょうおん塾で「幸せとは何か」を常に追求している私達は、学んだことを周囲に伝えていく義務があるだろう。これを積み重ねてコミュニティを築き、孤独死をするお年寄りなど出現しないような社会にしたい。
 都会への一極集中と地方の過疎化、高齢化など問題は山積みで、しかも変化のスピードは急速だ。そんな中、古来の宗教も時代の変化に合わせてフレキシブルに変えていくことが望ましい。伝統的なイエ制度に縛られず、LGBTなど新しい人々の人権も積極的に考慮する妙光寺・安穏廟のようなお寺が存在することに、希望を感じた。 
 私の教会の牧師さんが「修行すれば天国に行けるという考え方は、おかしい。子育てで忙しいお母さんや、多くの仕事とストレスを抱えるビジネスマンには、滝に打たれて修行する時間などない。だけど一番救いを必要としているのは彼らです。彼らの心を重荷から解き放ち、自由にできるのは、神だけ。信仰心は、目に見える行動では測れない」と以前おっしゃっていた。
 確かにその通りだと思う。宗教は宗教家々だけのものではない。毎日を一生懸命生きている普通の人達にこそ、宗教は必要なのだ。絶望していた時に宗教に救われた私としては、どの宗教団体にも「死や絶望から人を救うこと」という尊い意義を忘れず、ご活躍をお祈りしたい。
 「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」のタイトルと裏腹に、本書はお葬式と仏教だけの本ではない。
宗教のあり方、より良い人生の送り方について、根本的に見つめ直す事を解き、人類全体の幸せに貢献しようとする意欲的な書だと感じた。手に取る機会をいただいたことに感謝したい。ありがとうございました。

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投稿者 Devichgng 日時 2017年2月28日


生々しい具体的な死の現場の考察から人間のこころの在り方といった抽象的な内容に話が進むことを想起させる目次の中で、あとがきに目を移すと『亡き人を供養したいという根源的なこころは、地球全体の共通意識としてあるはず』という記載に目が止まりました。そして、その文章は『それが社会に潤いと安定を与えてくれる』と続いていました。これが鵜飼氏の言いたいことだろうと考え、無葬社会となりつつある死への無関心な社会の中では、亡き人を供養したいという根源的なこころに向き合えないような文化や環境になっていまっているのだろうと思い、読み進めていきました。

都市部に於ける火葬場の運営や孤独死とその清掃サービス、遺体ホテルなど、時代と環境の変遷に合わせて、死とそれらに関わるビジネスが形を変えている内容は、目を背けたくなり、気分が悪くなる部分もありました。一番壮絶さを受けたのは孤独死で、孤独死というのは最貧困の人には訪れるモノでなはく、生活には困らなく世間との繋がりが薄れた人が遭遇するモノであることに気づきました。最貧困であれば、家賃は払えず当然持ち家を持つこともできませんので、路上生活となるからです。しかし、死と隣り合わせであることを日々気づかされている路上生活者の方が、人にたいする感謝や切実に生きることを実感していることがわかりました。縁もゆかりもない路上生活者が、人にたいする感謝や強い絆を実感しているのでした。少し脱線すると、ホームレスには縄張りがあって、決して他人の領域を侵さないというのは、本書で言うところの律のようにも感じました。自分の服や住まいに気を遣わない路上生活者が、同僚のためにお墓を立てたいと言っていたのです。

この路上生活者の具体例と「あとがき」の後半にある武者小路実篤の言葉は同じことを言っていることに気づきました。死に関心を持ってもらえるかどうかは、周囲の人にどれだけ必要不可欠な功を残したかで判断されるのだとわかりました。

周囲の人が、お布施(おカネでも声援でも)をしたくなるくらい生きがいをもった誠実な行動をし続ける

この解を導けたとき、智の道は、現世の幸せになることや願望実現のためだけでなはく、暖かな死後の世界までの暖かな架け橋だったんだなということに気づきました。孤独死の一因となる他人に迷惑をかけたくないといった、一方通行の要求では返って自分が不幸せな最後となってしまいます。誤解を恐れず極端な言い方をすれば、孤独死って悪の道の結果なのかなと感じました。また、送る側の視点に立つと、直葬や遺骨を置き忘れるといった行為も死を遠ざける自分本位な行為であり、周囲から賞賛されるモノではありませんから、しっぺ返しが予想されます。

死は忌み嫌われるモノで避けられるものではなく、遅かれ早かれ必ず遭遇するモノです。
そうであることを認識できたならば、死は遠ざけたり、死について考えることを先送りするのではく、それを受け入れ、死後の世界へ暖かく送ってもらうために、今とっている行動が切実かどうかを見直したいと思いました。

1人1人が畏敬の念を持たれ、お布施を施したくなるような生き方をすることができれば、無葬社会は、務葬社会(努めを果たした人を葬る)、あるいは、夢葬社会(夢を見させてくれた人を葬る)を迎えることができるのかもしれないと思いました。亡き人を根源的に供養したいこころは、あらゆる人に備わっているのですから。

投稿者 haya413 日時 2017年2月28日


「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」を読んで感じたことは、大きく3点となりました。
1つ目に「身近な将来」、2つ目に「生き方」、3つ目が「好奇心」です。

1つ目の「身近な将来」は、特にこの本の第一章・第二章によって、強く意識させられたことによります。
人生半ばを過ぎた身に、漠然と考えていた死やそれにより発生する事象が胸に迫ってきました。
全く考えてもいなかった訳ではないのです。しかし、想像力と現実がまだ遠い処にあったのだと気付かされました。

子供のいない私達夫婦にとって、孤独死は遠くない未来になりえます。家にある仏壇、夫が継いでいる先祖の墓の扱いについても、強く意識させられました。
また、離れて暮らす年老いてきた両親の行く末をどうすべきであるのか。
以前に、二人ともが亡くなるまではお墓を残してほしい、二人とも亡くなった際にはお寺さんにお願いして墓終いしてくれたらと聞いてはいるものの、他に何か思うところはないのか、どういった死を迎えたいのか。
そもそもこういった具体的な死にまつわる事柄を、遠くない将来である、と突き付けるこは、はばかられるように感じていましたが、それは逃避でしかないのだと本書を読んで感じました。
ただ、ある程度直截的に聞かなければないないこともあるかと思うものの、たくさん色々な話をする時間を増やすところから始め、親が希望するものを汲み取っていきたいと。
しかしこれは、結局のところ、親の望む死を知るためだけとはならず、親を亡くした際に、もっと会っておけば良かった、もっと話をしておけばよかったという後悔をしないために必要となる、自分のためにすべきことなのだと思います。
どんなにしても最期の時には、「もっと何か出来たのでは…」と後悔の念が起こることでしょうが。

両親について、感謝の気持ち含めあらためて諸々の思いを寄せるきっかけとなってくれただけでも、この本への巡りあいに感謝しています。

2つ目に感じた「生き方」とは、死を考えることは生きることを考えることに繋がると思ったからです。
孤独死、直葬、永代供養、散骨などの本書の事例から、自分がどのような死を迎えたいのか、死後どう扱われたいと思うのかに、先ずは思いを馳せました。
次に、そもそも死に至るまでに、どう生きれば望む死が得られると考えられるのかと。
これは、死ぬために生きるということではなく、自分はどう生きたいのか、そうやって望む生を生きることができたとしたら、どういった死を迎えることになるのだろうか、といったことを考えるきっかけになりました。
正直、まだ具体的に目指すべき生き方を決め切れていないところがありますが、近い将来に手にし、気持ちよく人生を楽しみたいと思います。

3つ目の「好奇心」は、特に第四章から色々と刺激を受けたことによります。
その中でも、自己生産性がなく依存型組織体でありながら、2500年の長きに渡り続いている「仏教サンガ」の理念は様々な組織に有効である、という話に、その理念とは? 律とは?? 好奇心が沸いてきました。
科学の発展への支援を、仏教サンガへの支援になぞらえていますが、ある高みを目指して道を求める姿は、確かに修行僧のように思えます。
仏教サンガにある普遍的な要素をうまく抽出し、他の事象に適合させることができると語られているのですが、そもそもサンガを上手く継続させている律についての研究はここ20年に始まったばかりで、これ1冊読めば、というものがないという点も含め、面白く読みました。

感じたことを総じると、人は社会に生きる以上、他人と関わらず人生を終えることはできず、想像力が衰えると、他人への思いやりや迷惑となることを考えられなくなり、結果自分を貶めることになるのでは、という思いになります。

取り留めなく感想を述べてしまいました。
最後に、この課題図書のご紹介について、また、この拙文に目を通してくださった皆様に、お礼申しあげます。どうもありがとうございます。

投稿者 diego 日時 2017年2月28日


私は、本書の「孤独死予備軍」である。
病気になった時、一人で年老いた時の準備だけでなく、
自分の死後、滞りなく処置されるようにしておく必要があることがよくわかった。
一人で誰にも看取られず死ぬのは怖くなかったのだが、
その後には確実に放置状態になって大変なことになるとわかった今、
「一人で死ぬのもアカンのやな」という思いを強く持った。
自分で気楽に頑張る生き方というのは、根本から、違うのだと思った。

心身共に健康に生きて自分のことは自分でやりたい。
死んだ後の始末も、自分でしたい。
だが、それはできない。必ず、何かが残されていく。

誕生させてもらい、育ててもらい、見守ってもらい、死を浄化し整理してもらう。
一人で生きるという考え方は間違っているのだと、身に染みる。
今更ながら、血縁という縦糸、地縁という横糸が非常に薄くなっていることあらためて気づく。

同じように感じている同世代がたくさんいること、
これは競合という観点からは互いに問題を大きくしあうという考え方もあるし、年金という点でも自助を余儀なくされるが、仲間を見つけやすいという考え方もある。
互いが助け合う姿は、老人同志であったら、醜い?みじめ?
お金がなかったら、淋しく不安なまま、ひとりで生きることになる?
そのような価値観からは脱する必要がある。
同世代の中で助け合うことができるなら、理解し共感し合えて、対等で居られて、幸せな筈である。仲間の中で生きていくことは、とても幸せなことである。
そんな中で、弱っていき病気にかかることは自然であり、死ぬことは、更に自然なことである筈だ。

身ぎれいでいたい、恥ずかしい思いをしたくない、尊厳を保ちたい、とは思う。
だが、周囲を見渡すと、迷惑をかけたくないしかけられたくないという気持ちが強すぎる。
簡単には死ねない長寿社会で、もっとお互いの心身に気遣い合う機会が増えていくことは、非常に重要なのではないか。
家族がいてもいなくても、仲間同士で深いつながりを持ち、その中で生き、逝くことが、増えていけばいいのではないか。
自分らしく成長し老成しつつも、お互いにきちんと甘えられる関係を広げていけばいいのではないか。

ただし、すべてを同一世代で行うことは、無理がある。
日本の多死時代を支えると見込まれる世代は、どんどんシュリンクしていく。
子供やお金を持つ人も、諸事情により死後の処理ができないケースは、すでにある。
そんな中、死を支える仕事を、思いやりと誇りを以て行っている人々が既に居ることは、朗報である。
私にも子供が一人居るが、一人で親を支えるのは大変だ。
新しい世代たちは、今までとはもっと違うやり方、考え方で、上の世代を支えることが必要となっていく。
自分の子供が仲間と助け合い、信頼できるサービスに協力してやっていってほしいと思ったら、自分の死の為に自分自身でできることはきちんと準備しておくことは最低限として、もっと広い範囲で、例えば、
死や病を自然なものとしてとらえて、助け合う社会をつくっていくために、
考えて尽力することが必要なのではないか、そういう価値観を伝え広めることが重要なのではないか。死を支える仕事を淋しいと思わず、尊いと思える価値観が必要ではないか。


死んだら仏になるという考え方が日本にはある。
祖父母の形見や日常品を譲り受け、共に暮らしていく中で、祖先や亡くなった存在に支えられ見守られているような、そんな気持ちを自然に持つようになった。
その思いが、今生きる私を支えてくれているように感じる。
法事で親戚と出会い、亡くなった祖先について話をする。その断片をつなぎあわせて、亡くなった存在に手を合わせる。
そんな機会を与えてくれる法事は、忙しい中でも、貴重だと思えるし、新たな活力をも与えてくれる。略式であってもいいとは思うのだが、
そういう機会が連綿と続いていくことは、生きている人の為になると思えるのだ。

人生の節目やきっかけがあると、自分が死ぬ時、大切な人が死ぬ時を考えて、どうしたいか、どうしてほしいかを考え、互いに確認しあう。
実現すればもちろんいいのだが、実現しないとしても、死の時についての考えを話し合い、お互いの大切さを確認し合うこと、そのことが本当に、本当に重要なのではないか。
この想いを伝えるための前提として、宗教や信仰があること自体に感謝している。輪廻も転生も浄土も天国も地獄も、キリストも父なる神もアラーも、古事記もギリシア神話もなんとなくそのまま受け入れているのが私の現状だが、そのような存在が私を支えていることを感じるし、その存在に強い感謝の気持ちを持っている。信仰という生き方があり、それでしか表現できない尊さ、清らかさがある種のエネルギー源となって私を支えていること自体に、強く感謝している。日本の宗教家への期待も大きいが、まずは尊い存在を尊いと感じられる感受性を、守り育てていきたいと思うのだ。

投稿者 saab900s 日時 2017年2月28日


無葬社会を読んで

マスレベルでみて人と人の距離感が長くなり、コミュニケーションをとらなくなっていく傾向にあるというのが社会の流れであることは、
世の報道を見ても、自分自身の感覚をもってしても明らかなものである。

人は必ず死ぬものであり、これは何人も避けることができない。その最後のセレモニーは肉親、近親者で集まって行うものというのが
これまでの常識であったが、人との関係性が希薄になってきたことからその常識も少しずつ変化していっているということを、目の当り
にすることができたのはこの本のお蔭である。

著書の中で、さすがに骨壺を忘れたことにして電車内に放置し、しかも、特定されないように情報をすべて除去するという周到な準備
をしてまで実施しており、その件数が増加の一途を辿っているという点については理解し難いのだが、そもそも論に立ち返ると、葬送は
はたして本当に必要なものなのだろうかという根本的な問題に立ち返ってしまう。

人口ピラミッドから考えると、出生者数と死者数が入れ替わるタイミングは必ず来ることは容易に予想できただろう。しかし、彷徨う
遺体についてはコミュニケーションの欠如による価値観の入れ替わりによって発生した副産物であり、また、付随して葬送を仏教方式が
一般的とはいえ、その必要性もただ単に慣習に則っただけという極めて実施する本質的な意思の欠如はこれもまた時代の流れと一言で
片づけてしまうことも可能だろうが、葬式仏教に成り下がってしまった仏教界全体にもその主たる原因を求めても差し障りないもの
であると考える。

死者数増加という仏教界にとってのマーケット増のシグナルがあるにも関わらず、マーケットのマッチングができていないために苦し
んでいる寺院がある中で、時代の先読みを行い仏教界の檀家制という旧態依然の常識から抜け出している寺院もあるという事実は、
僧侶としても経営者としても素晴らしい方だと考える。しかしながら、仏教界の敵は仏教界の人とも言えてしまうのが誠に皮肉なのだ
が、古い慣習を守ることが伝統であると考えている大多数の寺院は、これらの仏教界に先便を打つ先進的な寺院には敵対心を持っている
構図には、どこの業界にも似た構造があるのだなと感心した次第である。伝統は戦略であって、戦術ではない。古きを頑なに守りすぎて
時代の流れにより淘汰されてしまうのは本末転倒であろう。

そしてそれらの先進的な寺院たちは、伝統を保つことが目的ではなくてエンドユーザの立ち位置に立って考え、また、業界全体を俯瞰して
見た時に考え付いた答えの中の一つであろう。これらの新しい試みは具現化するまでに大きな障害を克服してきたであろう。一つの寺院を
継続させるためだけという目的にするのではなく、成功したモデルは他の寺院も取り入れてお互いに発展・永続させようという価値観には、
これこそ本当の宗教者たる価値観だと感じた。

寺院の経営という観点でみると、納骨堂を建築して宗教・宗派に関係なく集める事業は税務署からみると課税対象となるという私的は至極
まともな観点であり、このプランを考えたのは宗教についての勉強よりも数字、とりわけ売上と利益を中心とした数字の勉強をしてきた
なまくら坊主であろう。

翻って、そもそも論に帰るのだが、血も涙も無い効率的な考えをすると、死後の対応方法がドライになっていく傾向を止めることをせず、
更にドライにすることによって病院からワンストップで荼毘に付し、骨壺も物理的なサイズを小さくすることによって、体積を削減し、
その後に御別れセレモニーを実施する流れができれば、彷徨う遺体もなく、変わることのできなかった仏教寺院は、市場の需要に応
じた数に調整されるであろう。

供養というものは、寿命が来るまでに幸せであると感じなかった気持ちがエネルギーとなってその場所に留まるものであると考えるので
多くの人が幸せに感じる価値観を持ってすれば、供養をするためのセレモニーも必要なくなってしまうのではないだろうか?



「大風吹けば桶屋が儲かる」を日頃から考える経営者(僧侶)であれば、傾向と対策によって難関を乗り越えることができ、そして、
どこの業界にも前例がなかったり、常識を盲信しすぎるあまり次の一手が出せない状況に陥る傾向があるのは同じなのだなとわかった。
そして、大所高所から俯瞰しユーザーの立場に立った対応を考えればおのずと時代の流れに沿った答えが導き出され、そして、いつか
支持されていくのだろう。一方、私服を肥やすばかりに目が向くと無税のはずが税務署から指摘をされたり、またユーザーからの
支持もなくなり遂には、お家取り壊し若しくは、他の勢力によって買収という話はシンプルだがある種のパターンなのだなと感じた。

投稿者 J.Sokudoku 日時 2017年2月28日


 意外にも本書の読後感が悪くない。「無葬社会」という題名から、ほぼ反射的に抱く鬱々しさから最初は捲るページも重く感じられたが、読み進んで行くとともに、全く新しい知識や価値観が広がる未知の世界に引き込まれ旅をしているような気分になっていた。そして読了後は、「多死時代」に対する自分自身の向き合い方と日本社会の進むだろう方向に思いを巡らした。その考察の結果として2点について述べる。
 1点目は、“べき”から“たい”への移行が起こっているということ。それは「死」と「仏教」への考え方は、従来の
 “~は、~するべきだ。”
という義務/客体的な”べき“から、今後は
 “私は、~したい。”
という選択/主体的な“たい”に移り変わって行くという意味である。
 2点目は、“べき”から“たい”へ現代人を突き動かしている背後には“お金”があるということだ。

 “人が亡くなれば、しっかりと葬儀をして、しっかりと供養する。”
これが、長きに渡る一般的な日本人が持っていた「死」に対する価値観と振る舞いだろう。そして、自分自身も正しくその通りで、それが
 “死者に対する残された人の当たり前の振る舞い。”
であると思っていた。しかし、本書を読むと、その当たり前にする“べき”だった振る舞いは時代という抗うことのできない力によって強制転換させられて来ているのだと分かった。
 そして、今という時代の中で存在感を増し、絶大な影響力を与えているのが“お金”だ。「死」と「仏教」をテーマとした本書に、“お金”に関連した話がこれほどまでに出てくるとは…。直葬、お別れの会、遺骨アクセサリー、送骨、骨仏、永代供養、観光誘致、特殊清掃、お坊さん便、等々。挙句の果てには、葬儀費用を節約するために献体をする...。死者を敬う美意識を持つと言われる日本人の死生観に“お金”の力がここまで浸潤してきている。

 とはいうものの、たとえ生活をするのに有り余る“お金”を持っていたとしても、他者との繋りが無ければ孤独死や無縁仏になる可能性と隣り合わせで生きているのだと本書に教えられた。親の家を久しぶりに訪れたら亡くなっていたという話しは多くの人にとって他人事ではないし、自分自身にも襲ってくる問題である。
 家族間の“繋がり”が希薄になって来ている。その現実を如実に映し出しているのが、本書の最後に載せられている「葬送に関する意識調査-13自分の葬儀に望む形式(P.302)」だろう。約6割の人が「費用をかけないでほしい」と回答し、その理由が「家族に迷惑をかけたくない」からだという。
死にいく人が残される人に対して後ろめたさを持っている…。
 これは、日本固有の「死後には祀ってもらいたい」(P.88)という祖先崇拝という従来の価値観からは遠く離れ、また自分自身としても驚きと違和感に襲われた箇所である。この後ろめたさも経済という見えざる力が生み出したモノなのだろう。
 個人的推測では、上記調査において「費用をかけないでほしい」と回答した人達の大部分は、日本の近代化と経済成長という時代の流れの中で、自ら親元を離れて一人暮らをした、核家族になった、または、子供が離れて暮らし単独世帯になった、という人達ではないだろうか。親や子と離れ離れに暮らすことで親子関係が希薄になる。そして、恐らく過去に親の「死」と接した際に、費用がかかったこと、経済的に迷惑だと感じたことが意識下に苦い経験として残っており、それが調査の回答に表れたのではないだろうか。親子でありながら他人行儀に“後ろめたさ”を感じてしまう。経済という見えざる力は、最初に人の繋がりを物理的に分断させ、そして次に精神的な繋がりも分断したと言えるだろう。

 自分は、この上記調査結果に驚きを覚えつつも、その6割の人達の「死」との向き合い方に否定的な訳ではない。そこが本書以前と以後での自分自身の変化である。現在の日本社会が、資本主義、市場経済を通して実現している物質的豊かさの代償がこの「死」との向き合い方であると分かったからだ。
 冒頭で述べたとおり、今後は「死」への考え方は、“べき”から“たい”と移り変わって行くのだと思う。それは、日本の仏教会にも同じことが言えると思う。ひとさじの会のように弱者に寄り添う人達が仏教会に増えることは勿論望ましい。と同時に、世の中のニーズを汲み取り何らかの手段で市場経済の荒波も乗り越えようとする仏教会の人達もまた望ましいのではないだろうか。結果として、社会に貢献すれば良いのではないだろうか。「死」と「仏教」という世界にも多様化という波が押し寄せる時代なのだろう。

 「死」について自分自身の向き合い方と日本社会が進むだろう方向。それは、まずは各人各々がしっかりと現実と向き合い自分の「死」対してどのようにしたいのかを決める。そしてどんな選択をしようと、“私は、~したい。”と胸を張り、それを実行すれ良いのではないか。

~終わり~

投稿者 akiko3 日時 2017年2月28日


「無葬社会」を読んで
  
 両親没後お墓をどうするかは、怖がりなので無理って暗黙の了解をとっているつもりだ(親から墓掃除を言われても一人じゃ嫌だといい、お参りも一緒になら行くという態度)。「親が入るとまたお墓に対するイメージ違ってくるよ」とは人生の先輩の弁。死は身近でなく、祖母の死体に触れ“冷っ”とびっくりしたのは23,4歳の時だった。棺の中をのぞいて頭につけられた三角に、ドリフコントにでてくるお化けと一緒と思わず笑いそうになった(お化けの印じゃなくて仏様になった印なのに…)火葬後に骨を拾った時に、これまた怖いイメージの骸骨が目の前にあり、人間って本当に骨なのだと思った。祖母が祖母でなくなったのをしみじみ感じた。父方の祖母は102歳で大往生。骨を拾う前に叔父が「頭のいいばあさんだったから頭の骨からひろっちゃろうか」と言って周りを和ませた。その叔父も他界した。母方の祖母の末の弟も去年他界し、世代交代を意識せざるを得ない。自分にはお墓はいらない、面倒見る人もいずれいなくなる可能性が高いし、散骨だと自然に返れていいかもと漠然と思っていたが、焼かれるまでの死後の世界という新たな世界に目から鱗、その他人生十色、死もいろいろ、シビアな現実に唸ってしまった。
 
 祖母の通夜の日は、死人が寂しがるからと両親、親戚が交代で棺の置いてある部屋で起きていた。ビビりの自分はもし彷徨っている祖母が見えてしまったらどうしよう…と家の中でも内心びくびくだった(実際に見たことないのに!)。49日まで彷徨っているというから、葬儀も終わって日常に戻っても夜一人だと怖かった。ゴーという音の後ひょいっと頭を上げると雲の上に顔を出した状態で、遠くにしょぼんと雲の穴から下を見ている祖母の姿が見え、ひゃっと思ったらベットの上で目が覚めた。祖母は大丈夫と(現実世界でびくびくしなくていいことも含め)安心した。
お墓参りは、先祖に手を合わせに行く感じで、孫としてのお墓は風習、習慣行為だが、子どもとして両親が入ったら、会いに行って報告や相談に行く感覚も抱くのだろうか?お墓参りはどんな意味を持つのだろうか?死を実感する為?じゃ、自分のお墓は何の為に必要だろうか?誰の為にお墓は存在し続けるのだろうか?

先祖は自分のルーツ。自分の居場所として家庭があり、そのベースにあるものが代々続く血縁。でも、何も持たずに生まれて、死んでいく、魂を進化向上させる為に生きて体験を積んでいると考え、よりよく生きようと思うと、命を大切に使って生きようと思うと、なんとなくNoと思っている臓器移植とか献体も、なんとなくイエスもありかと思えてくる。体を傷つけるなんてと悲しむ親(ピアスはシレ~とあけたのに)もその頃はもういないだろうし、死後誰にも気兼ねすることなく、焼かれて骨になる肉体が必要とされ、別の人生の希望になるのなら…。生まれる前の世界と死後の世界を考えると、刷り込まれてきた現実的な価値観だとお墓(という物質)の重要性は下がってくる。
自分の死後はわからないから特にこだわらなくてもいいように思う。残される人のことも気にしなくていい。人から必要とされなくなったものが絶えていくのも自然で仕方ない。
今、神様、仏様、ご先祖に手を合わせる行為は、見えないものにいかに心を込められるか、見えないものに対しいかに誠心誠意を生きて見せられるか。自分なりの“律”だ。特に宗教は持っていない。何か満たされない日々の時には、幸せになりたいと漠然と思い、多少成長してからはよりよく生きたいと思った。心を磨くことや何か響くものを求め、いい生き方をしている人達に憧れた。そんな風に求めるものは宗教なのかと思った時、“宗教は傷ついた鳥を癒し、その籠の中で生かすが、信仰は傷ついた鳥を癒し、自由に羽ばたかせる”という文を読み、信仰を持てばいいのかと思ってきた。自由に羽ばたき、人と共存共栄していけたら本望だ。未知の体験として、未来に起こる両親の死をちゃんと受け止められるだろうか?という不安が無きにしも非ずだが、今までの課題本から得た生き方の見本を頭の片隅に掲げながら智の道の人生を歩んで生きたい。その終わりも意識しないといけないのだが、生命線は長い方なのでもう少し状況をみてから自分がどうしたいか、残される人たちに何を残すべきか、具体的に考えてみようと思う。
これが私の信仰といえるものかは?だが、何か大きなものの流れの中で生きている感じはある。そんな風に考えたら、お墓の1つや2つにびくつくことはないのだろうが、夜、お墓のそばを歩いていることに気付くと小走りしてしまう…。また、消化不良だったピダハンの中で死はどんな描写があったっけと気になった。なかなか思考が忙しく廻った読書であった。ありがとうございました。

投稿者 magurock 日時 2017年2月28日


『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで、最近はずいぶん弔い方のバリエーションが増えたな、と驚いた。
弔い方だけでなく、死に様もいろいろだ。
葬送方法を選べる人、選べない人。孤独に死んでいった人、家族に看取られて死んだ人。それぞれ、死後はどんな状態でいるのだろうか。
子どものころ、
「供養してもらえない人は成仏できずに彷徨ってしまう」
と大人たちから聞いたことがある。
では、どんどん簡素化していく弔いでは、大勢の魂がしっかり成仏できないで彷徨ってしまうのだろうか。
そういったものが見える人は、「最近増えたな」などと感じているのだろうか。

宗教は時代によって変わってきたし、これからも変わっていくのだろう。そして、葬儀や供養のかたちも変わっていき、昔の常識ではとんでもないような方法でも、だんだんと受け入れられていくのだろう。
昔ながらの葬儀や供養が一般的な世界の中で、自分だけが簡素化した送られ方をされるのでは悲しいが、全体的に変化しているのであれば、その流れに乗るのも自然なこと。
結局、宗教は想念の世界で、本人や周りが納得できればいいのかも知れない、と思った。

自分ならどんな弔い方を望むだろう?
このまま遺言も残さずに死んだら、祖母の葬儀と同じように、家族は仏教式で送ってくれそうだ。
それはとてもありがたいことだが、死んだ私のためにそんなにお金をかけなくていいよ、と言いたくなる。
たくさん笑って、たくさん泣いて、人生を思う存分味わったのだから、どんな送られ方でも、きっと成仏できるような気がする。
でも、時々は思い出してほしいなぁ……。

では、家族が死んだときはどうだろう?
じっくり考えてみると、やはり葬儀や埋葬はきちんとしてあげたいと思う。
それは故人のためでもあるが、そんな儀式を通さないと、悲しみに一区切りつけられないような気がする。
でも、それが本人の希望とかけ離れたものにはしたくないから、意志確認はしておかなくては。

少し前に読んだ脳に関する本に、脳の本能は「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」のたった3つ、ということが書いてあった。
意思ではどうすることもできない究極的な自然現象である「死」に際したとき、「生きたい」「知りたい」は当然叶えられない。
それならせめて、「仲間になりたい」という本能を尊重し、与えられた条件の中で、本人ができるだけ寂しくないような送り方ができたらいいな、と『路上生活者を供養する僧侶』の章を読んで強く感じた。
そして、この「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」の3つの本能を掬い取るために、宗教は存在するのかも知れない、と無宗教な私は思うのだった。

自分がどんな死を迎えるのか、本書を読んでたっぷり考えさせられた。
そのときが、怖いような楽しみなような……。

投稿者 akirancho0923 日時 2017年2月28日


『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで

普段余り目にすることがない言葉や生々しいレポート内容のオンパレードに、
最初は本当に読み進めることに困難を覚えた。

しかし、ネットで目にする事件や、マンガにもなっている「特殊清掃」など
具体事例に触れ、取材されている筆者の目線に立ち、数々の問題が浮き彫りになっていくにつれ
考える余裕が徐々に生まれてきた。

その時代時代の死に対する向き合い方、また歴史的推移は誰にも予想できないし
かといって、仏教がどうとか、お葬式の形態をどのように、などは
あくまで外部要因ではないだろうか。

なぜなら大事なのは、これらの現実を自分の事として受け止め
自分の立場ならどう向き合えばよいだろうか、と考えることだと思うからだ。

具体的に、例えば、親とお墓のことに関して話したいとする。
しかし、何年も連絡を取っていない場合、まずは会話を再開することから始める、など
この多様化した葬送に対応する為に各人がそれぞれの事情に応じた対応を
考えることが必要だ。
そして結果として、お互いを思いやる心の交流が生まれる。
まずはそこからではないだろうか。

と、もう一つ気になる疑問がある。
この状況は、日本だけではない、という点だ。

世界で同じような状況が垣間見られる要因として
ネットで誰とでも共有できるという、ある意味無秩序さが該当する
のではないだろうか。

「律」の研究がまだ間もない、とのことだが
この混とんとした無秩序さを統制するものが必要なのではないだろうか。
かつての、寺がその機能を果たしていたように。

だが、従来の法律のような統制では意味がない。生きがい、という名の統制ではどうだろうか。
心から相手を思いやることを続けかつ、自らはお役に立てることを提供し続ける。
(まさに智の道ですね)
このサイクルが回り始めるとき、輪廻と同じように、新しい秩序が生まれるのでは
ないだろうか。

投稿者 sakurou 日時 2017年2月28日


~「無葬社会」を読んで~

今月の課題図書は特に重かった。テーマが死ということもあるが、日常意識しなかった、知らなかったことがあまりに多かった。本書に出てくるように、人は死ぬ運命にありながら、この話題を避けがちである。しかし、エンディングノートのように前向きに死に向き合うということがポピュラーになってきた。そういう意味で本書を通じて死、供養、宗教、人とのつながりについて改めて考えることが出来た。

結論から先に述べると、本書を読んで改めて痛感したのは「もしソーシャルな関係に基づくコミュニティベースの信用基盤があればこういう問題のいくつかは解決できるのではないか」という点である。以下、詳細を述べる。

1.遺体とは?遺骨とは?

本書の冒頭、衝撃的だった記述はP41にある「病院にいる間は献身的に面倒見てくれるが、臨終を迎えた瞬間から物体のように扱われて病院の裏側からさっさと運び出されてしまう」といった記述である。これに関しては私も経験がある。義父が亡くなった時のことである。朝7時頃に亡くなったのだが、9時過ぎには霊柩車が迎えに来て運び出された。まさに死のショックが覚めやらぬうちに病と戦った病院を後にしなければならない。遺体が人ではない。しかし尊厳はあるはず。

かと思うと、逆に単なる物でもない。遺骨である。本来、人に迷惑をかけなければ一定の範囲で自由になると思っていた。しかし、本書を読んで初めて知り、不思議に思ったことは遺骨の扱いである。死亡診断書や火葬許可証まであり火葬された遺骨を雑に扱えば死体損壊罪、また散骨した場合に死体遺棄、また、墓地・埋葬等に関する法律等、様々な規制があることを知った。火葬前の遺体ならまだしも、遺骨についてここまで厳しい規制が必要なのか。一律墓地に埋葬するしかない昔と違って、散骨やアクセサリーにするなど、遺骨の扱いも多様になっている。もちろん本書にあるような漁業関係者とのトラブルもあるが、それは民間同士での話し合いに任せるべきで、問題になった時点で行政が介入する程度で良く、また、地域コミュニティが行政に代わってトラブル予防、調整機能を発揮するという方法もあるだろう。人口減少、税収減少に対応するため、このような規制に近い行政機能も民間に移譲すべきだと思う。散骨ビジネスを助長するという話もあるのかもしれないが、既に火葬場はビジネスとして進めないと行けない状況になっている。墓の数が限られ、メンテナンスが難しくなっている今、散骨を推進することは悪いことではない。少なくとも電車の網棚に置いてくるよりは良いと思う。

2.遠くの親戚より、近所の他人より、ネット上の友達

もう一つ衝撃的だったのが、P185にある路上生活者の証言である。「どうせオレたちは野垂れ死にだ。無縁仏になるだけなんだ。でも、死んだ仲間や今の仲間と、死後もずっと一緒にいられると思ったら、もっと一生懸命に生きていける」という一節だ。仲間に看取ってもらいたいという思い。看取った仲間のためにより強く生きていこうという思い。路上生活者は決して日々やることがなく、死を待つだけの人ではないこと、またそういう自分の偏見が嫌になった。様々な事情はあるにせよ同じ路上生活にあるという価値観、人生観がかなり似ているからこそこういう一言が出てくるのだと思う。

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉があるが、この路上生活者のようにそれを地で行く人もあり、また最近はSNSで趣味や考えが合う人が即座に意気投合することは珍しくない。もちろん、SNS上の情報だけを当てにするのは問題だが、ご近所付き合いでもそれは同様だろう(ご近所さんの言っていることに嘘は無いとは言い切れない)。だとすると、無理やり付き合うご近所さんがいるなら、ネット上の友達の方が深く繋がれると思う。そういう友達と一緒にお墓に入るという方法もあるだろう。身寄りがいないなら、まずはそういう形にして、時間が経ったら合葬墓に移し替えれば良い。死後大事なのは、心から一緒にいたいといられること、看取ってくれた人の力になることであり、実は埋葬方法は本質的でないのではないか。お墓が足りなくなっているし、お墓のメンテナンスが負担になっている。お墓が小部屋になっているのだから、もはやお墓そのものの考え方を見直してもよいと思う。

3.これからの社会基盤のあり方

ここで、冒頭に挙げた「ソーシャルな関係に基づくコミュニティベースの信用基盤」について述べる。言うまでもなく、我々は既に生活のかなりの部分をGoogleやFacebook、Twitter等のSNSに依存している。選ばれた人がどうかは別として、既存メディアの予想を覆してSNSを操ったトランプ大統領が勝利したこと、またまさにSNSが名実ともに第五の権力になったことを看過してはいけない。SNSは確実に社会基盤になっているし、既存サービスもSNSを上手く使うことで孤独死、行政サービスの削減、地方の衰退といった課題を少なからず解決できると思う。

例えば、NSAもSNSの情報を活用する方向にある。プライバシーの問題はあるものの、そういう方向になるのではないか?また、社会問題の解決にそういう情報が活用できるなら活用してもよいのではないか?
(そもそも、SNSの情報はユーザのパーミッション下にある。その人が公開して良いという情報であれば活用される。それが嫌なら開示しない設定にすれば良い。極端かもしれないがそういう考え方もある。)
SNS上での交流情報ベースの信用基盤ができれば、つながりの強い人との交流、またしょ~おん塾らしく(笑)、価値観ベータベースのようなものを作って活用することで、身寄りの無い人の受け皿に活用できるかもしれない。

国家、行政機能をSNSを始めとするコミュニティや民間に権限委譲し、民間の知恵を活かしていくことで、人口減少下でも力強い国になれるのではないか?もちろん、家族の在り処や相続、また死というタブーなテーマに関するセンシティブな地域住民への対応等、整理しなければならない問題はあるが、その辺をうまく解決できないと日本は本当にダメになってしまう。


以上、感想を述べた。今度のお彼岸にはちゃんと帰省して、本書のことを思い出しながら、お墓の前で手を合わせ、親と今後について話したいと思う。

投稿者 BruceLee 日時 2017年2月28日


本書を読んで考えたのは以下2点。

1)何のための葬式なのか?誰のための墓なのか?
本書にて今日の葬祭事情の実情を知る事が出来た。が、それはある意味「葬送狂騒曲」でもあった。人の死に関してはそれぞれの思いや価値観、感情があるのだろう。大切な人との最後の時間を共有したいという思い、心から愛する人の葬儀と墓は立派なものにしたいとの思い。が、そこにビジネス的な要素が絡むと「厳粛な人の死を、金儲けに使ってけしからん」的発言も出てくる。それも理解出来るが、肉親なら兎も角、他人の遺体を大切に扱ったり葬送の手筈を整える作業を無償でやる人などいやしない。結果、第三者の力を得るにはどうしてもビジネス要素は絡んでくる。一方、都会の高層マンションでは、住民感情VS管理組合の規定で遺体を運び込めないところが多いと本書で知り、「はぁ?何で?」と疑問に思った。また、墓地を買うカネがない、寺にお布施を払えないという金銭的に困窮してる家族の存在も本書で知った。それは各家庭の台所事情だから外野がとやかく言うべきでないが、骨壷を手元に置いておくのは気持ちが悪いと電車の網棚にワザと骨壷を置き忘れたりするって。。。それ一体何なの?遺骨って気持ち悪い、忌み嫌う対象なの?だとすると「人の死って崇高なモノなの?反面、遺体や遺骨って汚いモノなの?」とシンプルな問いが浮かぶ。それに対する明確な回答は無いのであろうが「故人のため!」と言いつつ、実は故人云々でなく、全ては「残された者の価値基準」で物事が決められてる気がして仕方なかった。それはつまり残された人間のエゴとも言えるのではないか?が、割り切ってしまえば、それはそれでイイのかもしれない。故人への想いは人それぞれ、気持ちを表す形も自由なのだから。が、その絶対条件は他者が自分と異なる考えや価値基準を持っていても決して否定や非難してはイケナイという事だ。私自身は幼い頃から家族、親戚と定期的に墓参りに行くのは恒例であった。霊園にある墓、お寺にある墓、永代供養墓のコインロッカー型の墓と形は様々だが、実体験から言って、墓の立派さ加減で墓参りする側の態度に違いが生じた事は無かった。大切なのは純粋なる故人への想いであり、墓が立派、簡素なんてのは残された人間のチンケな価値基準でしかないのだ。その意味では、何のための葬式なのか?誰のための墓なのか?を自分なりに考える事が今生きている人間の課題と言えるのではなかろうか?

2)孤独死をどう防ぐ?
本書の中で読み手が恐怖を覚えるのは、孤独死した遺体を処理する特殊清掃現場のおぞましさ、過酷さが詳述される場面ではなかろうか。遺体に群がるハエ、ウジ、そして3日間は取れない異臭。正直、読んでいて気持ち悪くなってしまったが、大事なのはこれが孤独死の実態であり、日々発生してる事実という認識だろう。そして多くの読み手は思った筈だ。「孤独死は嫌だ」と。じゃ、孤独死を防ぐにどうすれば良いのか?一つにはこんな時代だからこそ、IoT技術を使ったソリューション対応はアリだろう。本書にも独居老人が多く済む団地が出てくるが、例えば各部屋にモーションセンサーを付け、その部屋の中での人間の動きの有無を1日1回でいいからチェックするのだ。そんなシステムなら安価で簡単に構築出来るだろうし、仮に1日中全く動きが検出され無かった部屋にはアラートが発せられ、その場合のみ管理者が実際に部屋をチェックする仕組みにすれば、管理者が毎日全室を見回る必要もなくなるし、例え孤独死が発生したとしても死後何日も放置される事は無くなるだろう。その意味では独居者向けサービス、或いは離れて暮らす子が親を見守るサービスとして商機となるかもしれない。が、これはあくまで技術的対応でしかなく、本質的な解決策ではない。ここで突っ込んで考えてみたい。本書に出てくる「縁なき多死社会」と言う言葉。実は重いのは「多死社会」ではなく「縁無き」の方なのだ。つまり死の前に「無縁」があるのだ。誰も無縁という寂しい人間関係は求めちゃいない。なら、その「無縁」って何故発生するのか?本書に夫の死後3日で亡くなり、同じ墓に入った夫人の話が出てくるが、個人的にはこの話は非常に印象的だった。愛する人が亡くなり、残された者が打ちひしがれ、その後間もなく亡くなる話は実際に聞くし、打ちひしがれる苦悩の期間が短ければ短い程、幸せと言えるのではないか、と思えたからだ。一方「死後夫とは同じ墓に入りたくないというご夫人は多い」とも本書にある。まさに価値感は人それぞれなのだが、ここで再度思うのだ。ではその「無縁」って誰によってもたらされたのか?そして思ってしまう。物凄く冷たく、酷い人間と思われるかもしれないが、それって、

「孤独死したその人がそうしたんじゃないの?」

と。それぞれ事情はあるだろう。誰も好き好んで孤独を選んだ訳ではないだろう。でも、例えば70過ぎて孤独な生活を送ってるって、誰の責任でもなく、その人のそれまでの人生の結果とも思えるのだ。誰も自分が孤独に死んで、自分の遺体が異臭、ハエ、ウジまみれになりたいとは思わないだろう。究極的な事を言えば、そんな自らの死後を望まない人で、それでも周囲にサポートしてくれる人が皆無な老人がいたとすれば、自ら安楽死を選び「私は何日に死にますから、すみませんがその後は早々に私の遺体処理をお願いします」という権利があってもいいと思うくらいだ。自殺はイケナイ!と言うだけなら簡単だ。だが、そのくらいドラスティックな思考の変革を求められる時代である気もするのだ。一方、だからこそ孤独死したくないのならば、生きている間に、周囲と関係修復が可能な間に、「どうするの?」が問われる時代であるとも思うのだ。俺は/私は自由で、あの人は好き、この人は嫌い、だから勝手にやっていく!という選択もあるだろう。が、その結果として孤独死があるなら、そしてそれが嫌なのだとしたら、どこかで「その考え、違くね?」と自ら省みる事も重要なのではなかろうか?厳しいようだが「最後は宗教が救ってくれる!」ってのは所詮、他力でしかない事にそろそろ気付こうよ、的時代と言えるのかもしれない。本書の巻末に佐々木閑さんが言う。「日本の仏教は、生きている人のことより、死んだあとのことばかりをやってきたのです」と。そろそろ、生きている人、生きてる間にその人がどう考えるか、自力で何をするか?が問われる時代のような気がするのだ。

以上

投稿者 ishiaki 日時 2017年2月28日


数年前に祖母が亡くなってからいずれ両親も看取らることになると思っていたが現在は何があるかわからないので自分がひっそり孤独死している可能性がある
また、本を読むと自ら命を落とし後始末は他人任せにしている人も多数いる。

今の日本には昔のような隣近所の横の繋がりが希薄になっているが今一度考え直しちょっとずつでも助け合う国を目指したらいいと感じた。

投稿者 2l5pda7E 日時 2017年2月28日


『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで。

昨年の夏、お墓は要らない、父と母の言葉に触れた。
樹木葬を希望しているとの事。
私は長男だ、一応家督を(あれば)継ぐはずだった。
父は長男、母は長女、本当なら父が家督を継いでいるはずだったが、仕事の関係で実家を離れ父の弟が継いでいる。
父と母が入るお墓がなければ、入る墓が無いのだから私も死ぬ時のために考えておかなければならなくなった。
本著で掲げられて居るテーマは私にとっても、突きつけられたテーマだ。

現在、日本のお坊さんは立派だと考える人は、どれくらい居るだろうか。
大人になって色々知るうちに、偉いとか立派では無い事を知った、心から尊敬できる人にはお近づきになりたいが、今の僧は修行している様には思えない。
宗派にもよるが丸々太って、奥さんが居て、子供もちゃんともうけている。
そんな人にお布施をしようとは思わない。
お寺が衰退して行くのはもっともだ。

本著の最後にある様に、世のため人のため、命を育んでくださった先祖や先輩達には敬意を示すべきであると考える。

良書をご紹介くださり、誠にありがとうございました。

投稿者 str 日時 2017年2月28日


『無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教』を読んで

人は亡くなったら火葬され、お墓に入る。それが当然だと認識していた自分にとっては、あまりにも寂しいような。そんな現実を突きつけられた一冊だった。
とはいえ自分が火葬場にまで入った経験は僅か5回しかなく、父方・母方の祖父母の時と以前飼っていた犬の時だけだ。家族・親族が集まり見送ってあげる。という普通に思える事でも難しい世の中になってきている。

『遺体安置所』という言葉は知っていたが、『遺体ホテル』という名称は初めて聞いた。やむを得ない状況以外では、遺体は自宅に戻って家族と最後を過ごす。というのも自分の経験からくる価値観でしかないし、火葬場の不足などで保管が難しい状況でもきちんと管理してくれる施設は確かに必要なのだろうけれど、やはり切ない気持ちになる。佐藤住職の『地元の人が地元で送られる。こんな当たり前のことすらできなくなっている』という言葉が胸に残る。どうにも冷めた世の中になってしまったような気がしてしまう。
直葬が増えてきているという事実も自分には受け入れ難かった。人の『死』ましてや家族の『死』という現実に対する関心が薄れてきているように思う。漫画やゲーム、ドラマや映画など、様々なジャンルで簡単に『死』が描かれていて、それを目にし過ぎた所為で我々はバーチャルとリアルの境目も希薄になってきているのだろうか。更には「自殺は恥ずかしい」とか家族の『死』に対して世間体まで気にするものなのだろうか・・ネットやSNSの普及で常に周囲に気を遣う。一度情報が漏れたら瞬く間に拡散していってしまう現代社会の影響もあるのかもしれない。
けれど簡単に他者と繋がる事が出来る時代に於いても『孤独死』は無くならないという矛盾。多数の人との繋がりは気にしつつも家族との繋がりはあまり興味がないのだろうか。家族が亡くなったとしても、結局は他人である人達に出来るのは慰めの言葉、お悔やみの言葉を掛けてあげることくらいだと思う。最後は自分たちが『遺族』と呼ばれる立場にあることを忘れてはいけない。『孤独死』についての凄惨な現場は本書でも語られている。
ようやくゆっくり休むことが出来た後、最後の姿としてはあまりにも酷だ。残された遺族に圧し掛かる費用も増えてしまうし、孤独死された方も出来る事ならそんなことは望んでおらず、変わり果てた姿など見せたくなかっただろう。

『人は社会的に成功しても、お金を持っていても、家族関係が希薄になると最後は独りで死んでいく』

自分はこうなりたくはないし、家族にもそうなってほしくない。祖父母が亡くなった時は葬儀~納骨まで全て両親や親族が手配してくれた。自分はその場に居ただけだ。『死』は誰にでも訪れる。病気や事故でも起きない限りきっと自分より先に両親がその時を迎えるだろう。どのように送ってあげるべきか、その時がきてから考えてもきっと遅い。今からでも真剣に考えておこう。家族として、自分には最後までやり遂げる責任がある。

時代は移り変わり、あらゆることが簡略化されている昨今でも“変えてはならないもの”も必ず存在する。流行だとか世間体などと『死』を天秤にかけることだけはしたくないと思う。

投稿者 6339861 日時 2017年2月28日


母の葬儀を終え、初盆を終え、お正月を迎え、一周忌を終え
お墓を建てて・・・感じたことがあった。

それは、葬儀関係一連のイベントをこなすには
こんなに労力とお金がかかるんだ。ということ。

経済的余裕があるところは、できるとして今後貧富の格差が広がると
予測される中、経済力がなければとてもとてもやっていけなくなるということが
容易に想像できた。

この本では、まさにそれが現実になっていることを知った。

世の中が急速に変化し、従来の慣習や家族のつながりまでもが
この波に飲まれて、変化を余儀なくされている。
お寺や葬儀関連事業の世界もその影響を大きく受けていることが理解できた。
これからは、どんな世界も旧態以前としてはいられない。

今後、都会では自動搬送式のロッカー型墓地がますます増えるのではないかと思う。
便利だで安いからである。
葬儀でもそうだが、「本来は、こうこうするけど、最近は、簡略化していてねぇ。。。」
という言葉をよく聞くように流れは簡易化の方向だ。
それは、日本経済の下降と比例しているのだろう。

孤独死が増えると賃貸大家も高齢者の独居を嫌がるだろう。
これからは、孤独死を防ぐ手段を真剣に考えなければならない。
ICTを使ったハード面での対策などが考えられるが、本を読んでいると
家族のつながりが薄らいでいることが一番心配である。
みんな自分の生活で精いっぱいだ。
核家族化が進む中、
そもそも独居している自分の親に感心がなくなってしまえば、孤独死を防ぐことはできない。
お骨さえ電車の棚に置いて行ってしまうのだから。。。
日本経済の衰退につれて、みんなゆとりがなくなり、この傾向が強まっていくのではないだろうか。

反対に、自分が子供に負担をかけずに、どう死んでいくかということも考えるようになった。
たとえ不治と言われる病にかかったとしても、心があきらめない限りチャンスはある。
しかし、反面 死に対する準備が遅れることで、後悔が残るかもしれない。
死の準備をするから、潜在意識に自分はこの病気で死ぬという 意識が生まれないよう
それとは、別のところで死の準備が必要なのだと思う。

自分の死に方を考え始めた。

投稿者 tadanobuueno 日時 2017年2月28日


自分がこの本から問われたことは、「お前にとって、これがあるから自分は生きたいと思い、且つ人をも生きたいと思わせる、生きる杖となり得るものは、あるのか?何なのか?」
そこから自分が感じたことは、自分にとっても、他人にとっても〇の、智の道を突き詰めていけばよいのだということ。

私自身は、自分の置かれた環境を楽しみたいと思って生きてきて、子供が生まれて以降、子育てをどう楽しむかに焦点をあてて行動するようになった(仕事から帰ってきた際に妻から私への愚痴を言われ、居心地の悪い家になるリスクを摘む意味が多々あったが)。
その過程で、世間の考えから離れた価値観を持つような方と多く出会い、NPO等の講座の運営に関与したり、そこで得られたことを発信したり、読み聞かせという自分にとっても、私以外の人にとっても「楽しさ」をもたらせることを講座等で提供し始めた。

ただ、この本を通して、現状の自分はまだ「楽しい」・「気休めの」レベルを出れておらず、
・自分の考えを伝えたいと思う人たちに対して、こちらからアプローチして相手から冷たくあしらわれたらどうしよう、
・向き合うことで背負わなければならない重さに尻込みして距離をとってしまう、
・自分自身が伝えていることに対して資格等の確固とした蓄積がなく、受け売りで話をしている等々
色々と理由を付けて真摯に向き合うことを避けていることを感じることができた。

子育てへの考えを入り口に、自分の考えに共鳴してくれる方と場を作り、そこで家族を含めお互いに成長し、それぞれの得意分野で補完しあって生きていきたい。これが自分の理想。自分にとっての智の道を進む上で、向き合うことから逃げず、これからも行動・変容することを止めず、更なる学びを得て、自分にとって、周りの人にとっても、生きる杖となっていこうと思う。

この本は人としての生き方に関する気付きを与えてくれただけでなく、現状の問題点を突く、不満を突く、分業で起こる問題等々、多くのビジネスで役に立つ視点も提供してくれた非常に学びの多い本でした(ビジネス・人、問われることは大元全て同じということ感じました)。
この本との出会いをくれたしょうおんさん、ありがとうございます。

投稿者 ktera1123 日時 2017年2月28日


無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教

家のお寺さんのこと(父方は名古屋の新栄にあります。母方は鎌倉。)や、墓地(父方は名古屋の平和公園に戦後の復興の際に移転になったそうです。母方は寺院内に集合型永代供養塔の形をとっています。)のことなどいろいろあるけれど、またここのところ伯父さん、叔母さんの葬儀があり、大人数の時も少人数の場合もあったので、本に書かれていたことを実体験してきたのだけど、結局のところはP244の「僧侶(ここは自分の職業に置き換えて考える)としての素養を習得することが必須です。何をおいても、真っ先にしなければならないのは自己鍛錬と学習なのです。」が一番大切なのではないのでしょうか。日々修行し続ける必要があるのは僧侶も一般人も変わりはないと実感しました。

おまけ
昨日のYahoo!に「テクノ法要」の話がありましたが、ほかにも「TARIKI ECHO」さんや、よく考えれば「盆踊り」も法要の一種(近場で有名なのは鶴見の総持寺)と考えれば、不思議はないのかもしれない。お経も棒読みではなく独特の節回しで唱えていることだし。

投稿者 gizumo 日時 2017年2月28日


一定の年齢を超え、それなりの経験をしてきた自分にとってやはり漠然とはいえ「死」というものは見えてきたし、考えもするようになった。両親それぞれの入院も経験し、病院でいろんな方を見ることも、また会社での退職者や病気でリタイヤされる方なども見てきた。特に、この年末にも親戚の葬式も経験しそうなると、つい街中でもお年寄りの方や、今でこそ少なくなったがホームレスの方になぜか切なくなり、彼らがその後どうなるのか心配になったりする。
 正直、「この課題本、きっついなぁ・・・」、途中リタイヤになるかもと考えていた。しかし、そこは避けて通るべきでないと、手にとった。
 読後は単純明快に「面白かった」いや「ためになった」と。
 前半のリアルは、ニュースやワイドショーで取り上げられる内容であり、「そんな時代かなぁ・・・」と思い、納得できる部分もありで、仏教に関する後半はその真実に興味がわくばかりであった。
 思ったこと、学んだことは、どんなことでも「ビジネスになること」「政治に利用できること」。その是非はともかく、多様な価値観が広がっており、その多様化が社会的にチャンスを生み、また個人に降りかかると悩みを多くしているのかもと感じた。
 仏教界に関する事実は、やはり当事者である作者自身の視点が独特であり、伝わってくることも多かったと思われる。やはり、どの世界も人間がやっていることであり楽(?)に流れ形が変化したりしていくものであろう。それは時代の流れであり、言葉が違った意味に用いられ定着するのにも似ているのかもと思った。
 日本の仏教が本来の仏教とは違ったものであることは衝撃であったが、現代の日本においても仏教は主流であると考えられるので、仏教をメインにして日本史を振り返るのも楽しいかもと、ひそかに企てている。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2017年2月28日


本書を読んで、幸せとは何なのだろうかという事を改めて考えた。

人が生きていくためには、様々な人の力を借りる必要がある。何事も自分一人では出来ないし、自分一人で出来ることには限界がある。自分が出来ることは他人にしてあげて、自分が出来ないことは誰かに助けてもらう。そうやって持ちつ持たれつ、支え合いながら生きてきたのが人間の歴史である。
人に迷惑をかける、人のお世話になる事を極端に嫌がる人が増えた事で、日本という国は以前に比べ息苦しく、生きづらくなってしまったのだと思う。そしてその結果として、うつ病になる人が増えたり、他人との関わりを避け孤独死する人が増えたのでは無いかと思う。
私は一度、仕事が思うように進まず、心を病んで一ヶ月ほど会社を休んだことがある。当時を振り返ると、自分に与えられた仕事が上手くいかず、どうして良いかわからないにも関わらず、誰かの力を借りる術も、力を貸して欲しいと言う事もできず、何かが弾けてしまい会社に行く気力を失ってしまった。
今、当時を振り返るともっと早く誰かの力を借りたり、相談しておけば上手く解決できたのにと思う。別に一人で抱え込む必要は無かったし、自分が気づいていなかっただけで、様々な場面で周囲が手を貸そうとしてくれていたにも関わらず、それに気付かないフリをし、自分の仕事だから自分で何とかしなくてはいけないという気持ちだけで突き進んでいた。
奇しくも先日、いつかの自分と同じ様に一生懸命仕事をしているのに全く上手くいかず、自分で全てを抱え込んでしまい、糸がプツッと切れてしまって会社に行く気力が無くなったという相談を受けた。相談をしてくれた人はとても真面目で、一生懸命仕事をしていた。でも、他人と上手くコミュニケーションを取る事がてきず、他人に頼ったり、好意に甘えたりする事ができなかったが故に、心を病んでしまったのだと思う。

本書の中に、「子供に迷惑をかけたくない」といって老後の世話にはならず、70歳になったら亡くなりたいという方が出てきた。自身が親の介護を通して感じた辛さを子供には味あわせたくないという親心からきているのだろう。
本書のケースでは、核家族のため歳老いた自分達の世話を子供に全て任せることになったら子供の人生を奪ってしまいかねないし、申し訳ないという気持ちがあるのだろうという事は容易に想像できる。
であるなら、子供の世話にもなるし、子供だけに負担がかからない様に他の方法、手段も用意、検討するなど、0か100かでは無く薄く広く、色んな人にちょっとずつお世話になる、そういう生き方をしていかなければならないのだと本書を読んで考えた。
そしてそれが自分のコミュニティを作るということに繋がるのだと思った。

私が本書を読んで最初に考えた問いに戻ると、幸せとは、困った時に助けてあげられる事、助けてくれる人がいる事、自分一人で生きている訳では無いんだと心の底から思える事なのだという結論に達した。

今月も沢山の気づきがある良書を紹介頂き、ありがとうございました。

投稿者 tadanobuueno 日時 2017年2月28日


自分がこの本から問われたことは、「お前にとって、これがあるから自分は生きたいと思い、且つ人をも生きたいと思わせる、生きる杖となり得るものは、あるのか?何なのか?」
そこから自分が感じたことは、自分にとっても、他人にとっても〇の、智の道を突き詰めていけばよいのだということ。

私自身は、自分の置かれた環境を楽しみたいと思って生きてきて、子供が生まれて以降、子育てをどう楽しむかに焦点をあてて行動するようになった(仕事から帰ってきた際に妻から私への愚痴を言われ、居心地の悪い家になるリスクを摘む意味が多々あったが)。
その過程で、世間の考えから離れた価値観を持つような方と多く出会い、NPO等の講座の運営に関与したり、そこで得られたことを発信したり、読み聞かせという自分にとっても、私以外の人にとっても「楽しさ」をもたらせることを講座等で提供し始めた。

ただ、この本を通して、現状の自分はまだ「楽しい」・「気休めの」レベルを出れておらず、
・自分の考えを伝えたいと思う人たちに対して、こちらからアプローチして相手から冷たくあしらわれたらどうしよう、
・向き合うことで背負わなければならない重さに尻込みして距離をとってしまう、
・自分自身が伝えていることに対して資格等の確固とした蓄積がなく、受け売りで話をしている等々
色々と理由を付けて真摯に向き合うことを避けていることを感じることができた。

子育てへの考えを入り口に、自分の考えに共鳴してくれる方と場を作り、そこで家族を含めお互いに成長し、それぞれの得意分野で補完しあって生きていきたい。これが自分の理想。自分にとっての智の道を進む上で、向き合うことから逃げず、これからも行動・変容することを止めず、更なる学びを得て、自分にとって、周りの人にとっても、生きる杖となっていこうと思う。

この本は人としての生き方に関する気付きを与えてくれただけでなく、現状の問題点を突く、不満を突く、分業で起こる問題等々、多くのビジネスで役に立つ視点も提供してくれた非常に学びの多い本でした(ビジネス・人、問われることは大元全て同じということ感じました)。
この本との出会いをくれたしょうおんさん、ありがとうございます。

投稿者 truthharp1208 日時 2017年2月28日


「夢葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」を読んで。

「孤独死」アラフォー、独身(結婚歴なし)の私にとって、避けて通れない問題だと感じていたところにこの本にジャストタイミングで出会った。自分にとってのより良い死の迎え方や孤独死を避けるために出来る事、やるべき事は何かを見つける目的で読み始めた。

最も衝撃を受けた第一章「彷徨う遺体と遺骨」で葬式、孤独死、遺骨について全くと言って良い程知らなかった現実を知って、胸が締めつけられた。葬式の形が変わりつつあることは、職場の方のご家族の訃報のお知らせに「通夜、葬式は親族のみで執り行ないます。従いまして香典は辞退させて頂きます。」の一文を目にすることが多くなったことで家族葬が多くなったことは実感していた。驚いたのは、(葬式をせずに)火葬のみで済ませる「直葬」が増えていたり、「遺体ホテル」が出来たりと、故人との別れの儀式としてはあまりにも軽くて寂しいが、時代の流れに合わせた形に変えていっても良いのでは?という考えも芽生えてきた。

本課題図書の他、「ザ・ノンフィクション」(フジテレビ系)という番組でも孤独死の現場で特殊清掃をされている方が取り上げられていた。遺体を目の当たりにした経験が無い私がこういう現場に立ち入ったらすぐに気持ち悪くなり、倒れるかもしれない。孤独死は嫌!無残な最期は迎えたくない!だからといって自分で対策を立てられない。
彼らは誰にも看取られること無く、どんなに寂しい環境で生涯を終えたのかを想うと、言葉では表現しがたい複雑な心情になった。
だが、岩橋氏のインタビューの中で、遺された子供に親の遺品を渡す時に「親の子供に対する気持ちを、死後に初めて知って涙を流されるということはありますね。」「故人の残された側に対するメッセージが出てきた時に、『ああ、こういうふうにお父さんは思っていてくれたんだ。ありがとう』 という気持ちに変わったりすると、この仕事をやっていて良かったな、という気持ちになります。」(P76)の一言がとても温かく、遺品整理や特殊清掃の仕事に誇りを持っていることうかがえた。

今の自分に出来る事は、一生付き合える友人との絆を深める。しょうおん先生の基本編セミナーでおっしゃられていた楽しく老後を過ごすためのコミュニティーの中にいるくらいだが、後は自分が死んだ時の葬式、遺骨、お墓をどうするか?終活プランを立てていくことが今後の課題となった。

投稿者 wapooh 日時 2017年2月28日


201702 【無葬社会-彷徨う遺体 変わる仏教-】を読んで
 本書を読み終えて、副タイトル通り2つの内容が別々に頭の中に残った。後半、頭のモードがガラッと変わった気持ちになった。
 
 前半の事例の数々と、現代の日本人の心無さには読んでいて心が痛むことが多い。個人の遺骨を故意に電車に置き忘れる、他人の墓に投棄する、果てはスーパーのトイレにまで。葬式が簡素化されていくのは、自分が家族葬を経験しているので一概には言えない。地方のように町内ごとの強い関係性(住んでいる地方はいまだに一定区間の住民ごとの青年会婦人会自営消防団、お祭りや運動会等様々なイベントがある。これが震災の前後での安全や復興対策に有効だったと思う)性がなければ、誠実な弔いの場の意味合いが違ってくるものだから。実家の墓のある寺の墓地では、節目毎に長期間管理料未納の墓には「連絡がない場合は整理します」の立て看板が立てられた跡一定期間を経ると、新しい戒名の家族の墓に更新されて行っている。気になっていたアマゾンの僧侶サービスについても取り上げられられているが、昨今結婚や医療と同様、葬式も墓もビジネスの色が濃い。一方で、送葬や散骨島や永代供養等、今まで知らなかった様々な墓のありかたを知れるいい機会だった。
自分の葬式をどうするかと共に『死と弔いの心』について考えながら頁を繰ると、ゆっくり重たく時間が過ぎた。「死んだらそれまで。誰にも迷惑もかけないでお終い!」なんて現実は無いこと、孤独死が場合によっては縁者だけではなく多数の人モノに対して負担をかけるものだということをいくつもの実例を読んでより鮮明に想像できるようになり身につまされた。今の自分には、仕方ないと自分の老いの衰えと死を受け止めてくれる子孫が想定できないため、今後自分の始末をどうつけるか、真剣に考えておかなくてはならない。「お互いさま」と笑ってやり取り出来る程の関係性をこれまで親戚関係で結んできていないこともあるだろう。近所づきあいや友人関係は?色々と頭を巡らせる。これからどう築いていくのか、もっと調べておく必要がある。本書にはいろんな可能性が書かれてはいるが、最後の住処にたどり着くまで、死んだ自分を届けてくれる人はいない。
 さらには、両親家族のこれからの死についても準備不足だった。一方は永代供養の墓を買い、他方は先祖代々の墓を守っている。双方と自分では地方と都市とで離れて暮らしており、この距離が想像以上に困難を招くことを強く実感させられた。もっと頻繁に連絡を取り、繋がりを太くしておくために、必要な準備、情報。 親だけではない近所や親戚回りの情報等もっと真剣に聞いておかなくては、その時になって何もできない。あれやこれやとこれまで以上に身につまされて考えてみると、血縁を強く意識し自分の命がぽっと現れた単体ものではないことを痛感させられる。
『弔いの心』があることが人として一つ命の本質であると感じさせられるが、「生かされた命」という表現は、本書にある『こころ教』に通じるようで甘えた妄想で現実を解決するものではないこと、仏教(宗教)の本質ではないという記述には流されている自分を自覚した。
正直なところ、自分にとって、前半部分で一番心に引っ掛かったのは『セルフネグレクト』の一語である。厳しい孤独死に至る前段の生きる意味を失うその前に、対処する手段はあるのだろうか。苦しい現実や苦しいを通り越して感情が抜けきってしまって生きる時間も無意味になるようなそんな状況を改善できるような、きっかけはないものか。読み進めて佐々木氏と著者の対談に、『リセット』の一語を見つけた。
人生を受け止めて生き直しをするためのセーフティネットとしての『寺、仏教』のあり方の意味について。日本の仏教が、インドやチベットミャンマー等東南アジアの本来の仏教とは違ってかけている『律』が今一つ理解できないのだが、もう少し緩やかなところでは、仏教の本質に近い生き方をすることで、リセットできるのではないかと読み進める。しょうおんさんの『智の道』に通じていて、日々の実践の意味に通じる内容が書かれている気がして引き込まれた。妄想かも知れないが。
学び続けると決めること、信じて本気で学ぶこと、インチキや不正は正される。
 気分で選ばず、思考して選択すること。具体的行動がないと、ただの一時の気休めでしかない。
 ずっと引きずるのではなく『リセット』して、切り替えて、黙って続けたり新たに始めていくこと。

本の厚みにたじろいだが読み始めると止まらなくなった。するめをかむがごとくじわじわと効いてくる一冊だった。今月も良書との出会いと読書とアウトプットの機会を下さり有難うございました。

投稿者 andoman 日時 2017年2月28日


『無葬社会 ~彷徨う遺体 変わる仏教~』を読んで

私が始めて通夜から火葬まで葬式というものに、通しで参列したのは、高校1年の頃に亡くなった母方の祖父の葬儀が最初だ。
通夜、葬儀会場については事情により、祖父母の自宅ではなく、葬儀場にて執り行った。
この時、初めて遺体を目の当たりにしたのだが、人が亡くなると冷たくなる事は、小さい頃からドラマ(火サス)や本で既に理解はしていたが、実際に触れてみると、見聞きした以上に、ドライアイスのせいもあってか、肌はとても冷たく、弾力性は無く、とても固かった。
また、どういう訳か口髭が伸びている事を従兄弟が発見し、肉体が生命活動を停止しても、細胞レベルでは活動している部分があるのかと、従兄弟とともに、不思議に感じたものだ。
(実際は、水分の蒸発等が原因で、肌が収縮して、毛が伸びた様に見えるとの事)
その後、火葬に送られ、始めて本物の遺骨を見る事になった…。
感想は今でも非常によく覚えている。
「ご飯に振りかけて食べたら、口の中の水分が取られてパサパサしてそう。」
である。
不謹慎極まりないことは自分でも理解してはいたが、その時に、はっきりそう思ってしまった。
リアルな出来事に、若干の現実逃避もあったのだろう。
その後、脆く崩れる祖父のお骨を骨壷に入れる時に、係員から「あまり、大きなお骨を入れると、入りきらなくなりますから、大切な部分を小さくしてからお入れください。」とアナウンスが。
そこで、疑問が…。
「入りきれないお骨はどうするので?」
後に係員の方に聞いてみた所、「入りきれないお骨は火葬場の方で処分します。」との事だった。
は!? 処分? 何処に? どうやって?
あまりにも多くの想像とシーンが浮かび上がり、同時にショックでもあったため、あっけにとられてしまったのを覚えている。
その後、母方の祖父の遺骨は納骨堂に収められる事になり、祖母も今では同じ所に入っている。

納骨堂や霊園の墓については、以前から疑問に思っていた事がある。
それは、「ここに納められている遺骨は、永遠にここに入っていられるのかなぁ」というものである。
この疑問は、本書によって、わずか1行で解けてしまった。
“管理費が支払われなくなり、無縁仏と判断された場合は合祀され、空いた所に別の家族のお骨がまた納められる。”
なるほど。そういう事だったのか!
と、疑問が解けた事についてはスッキリしたが、それ以上に虚しさを感じた。
「金の切れ目が縁の切れ目かよ(笑)?」と思わず突っ込んでしまった。
本書によれば、管理費が入らなくなると、無縁仏として合祀され、しかもなんと、他人の骨とごちゃ混ぜにされるケースが主らしい…。
はっきり言って、私はそんなのは、まっぴら御免だ…。
どんな生物も、死んだら土に還る。
これは覆る事のない、自然の摂理だ。
しかし、納骨堂や、骨壺収納式の墓は、死んでも土に還してもらえない。
骨壺という、アマゾンで数千円で売られている小さな壺に何十年も閉じ込められ、行きつく先が暗い中で満員電車状態となり半永久的に寝かされる…。
魂は死んで肉体から解き放たれ自由になるが、これでは、それまで魂を納めていた器である、魂の相棒=肉体(骨)は半永久的に解放されない…。
これは、いったい誰の都合なのだろう…?
そして、この事実をいったい、どれだけの人が知っているのだろう。

私の身体は、死んだら土に還したいと思っている。
土葬がベストだが、それは出来ないため、樹木葬か、散骨を望む。
それがダメなら、墓の骨壺収納場所のコンクリを剥がして、骨を砕いて、土の部分に撒いて欲しい。
これであれば、2,3年もすれば土に還る事が出来るだろう。
私の肉体は、これまで私の生命活動を支えるために、血肉となってくれた生物と共に、自然(地球)の一部となりたい。
草木の栄養となり、虫や鳥、そして人間へと、自然のサイクルに溶け込んで行きたいと思っている。
決して、狭いドラム缶に封印や、プレスされた仏像、アクセサリーにはなりたくない…。
死して魂もろとも自由となり、風と共に大空に舞い上がり、世界を旅し、草木を育て、新たな命を築く礎となりたい…。
何やら、遺言書の様になってしまったが、今自身が思うベストな結末を決める事が出来た事は非常に大きい。
(姉には今度、話しておこう。)

今月も素晴らしい課題図書をありがとうございました。

投稿者 chaccha64 日時 2017年2月28日


「無葬社会」を読んで

特殊清掃、衝撃的でした。腐敗するので匂いはすごいだろうとは思っていましたが。死後1か月半で、清掃に2Kで4日もかかったとのこと。床下まで達していた場合は、40cm以上も土を掘り返さないといけない。

この本では、「死を処理」すると表現しているが、まさにその通り。現代は、死を処理する世界になっている。死は身近なものであり、身近に感じることで自分の反省になったりした。しかし、現代では忌み嫌うもので、避けて通るものになっている。
都会での楽しい生活があるというが、それは表面だけのもの。集合住宅の場合、干渉されることがないのである意味気ままに生活でき、楽である。健康で元気なうちはそれでもいい。しかし、その代わりに強い人間関係が築けていないために、だんだんと忘れ去られて最後の時には無関心になってしまう。そして、孤独死。子供がいない自分には身につまされる話だ。

第3章で縁を取り戻す活動の紹介がある。長野県売木村の例、「地域が家族」となる。昔の田舎はそうだった。近所の人は顔見知りで、どこのだれかはすぐわかる。悪いことをすればすぐに怒られたし、○○の息子、孫ということですぐばれてしまう。葬式も(その時代も当然多くは年寄りだったが)、自宅で執り行われた。死体を見ることはなかったが、それまで会っていた人がいつの間にか会うことがなくなることで、「いなくなる」ということを感じることができた。お寺の敷地には墓地があった。身近に死があり、煩わしいが地域の絆があった。煩わしかったが、昔の田舎の方がよかった。

今からは少子化で子供が少なくなる。家の存続が前提での死への対応というのは難しい。昔の田舎のような地縁の復活が必要だ。それは都会でも可能だと思います。人間生きていくための縁が必要だと思っていましたが、死の方がもっと必要ではないかと感じました。IoTでの見守りとかよく聞きますが、基本は直接対応することが最初であり、基本だと思います。まずは声掛け、地域活動への参加から始めよう。

投稿者 vastos2000 日時 2017年2月28日


本書を足掛かりに、介護問題・老人漂流をとりあげた本や、いわゆる葬式仏教(藤田一照師が言うところの仏教1.0)に批判的な本、安楽死に関する本などを読んだ。だが、考えは広がるばかりで一向にまとまらない。私にとって『無葬社会』は考えを広げ深める触媒となる本のようだ。

考えはまとまらないが、関心を持った要素を拾いあげると、私は死について語ることに周りの人ほどには、敏感でないのかもしれない、ということだ。
以前、生命保険のセールスレディーと話しているときも、「万が一の事があったとき」という表現で死が話されていたが、人間は致死率100%なので、「亡くなったとき」と言えばよいのにと思ったが、きっとその直接的な言い方では気分を害する人が多いのだろう。
いつ死ぬかはわからないが、それまでの生を充実させ、かつ長生きすることに備えるにはどうすれば良いのだろうか?死ぬタイミングは人それぞれだが、1日24時間ということと、必ず死ぬということは金持ちにも貧乏人にも人種にも関係なく平等に訪れる。

私は今40歳だが、仮に80歳まで生きるとして、どれだけ健康な状態で生きていられるか?35歳を過ぎたころから徐々に健康に気をつかうようになってきて、ここ2年は晩酌も絶ったが、だからと言って死ぬ時まで頭脳も身体も健康でいられるとは限らない。
死ぬ時から逆算して考えて、あと40年で何ができ、何を残せるだろうか。あるいは身辺をキレイにして、厄介なものを残さずに逝けるか?
そろそろ今まで結論を出すことを先延ばしにしていたことに結論を出す時期になったのかもしれない。
今後の生き方や、理想の逝き方も本腰を入れて考える時期になったと実感した。

投稿者 tractoronly 日時 2017年2月28日


無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教 を読んで

いつか自分が死に至るとき、病院なりで家族に看取られながら、あるいは事故ならすぐに発見され、近くの斎場でセレモニーを行い、その後火葬、納骨、○周忌の法事のような流れになると漠然と思っていたが、現代における死の現状と仏教の移り変わりを見て、その考えは多少修正の必要があるように思った。

本著のような現状を踏まえ、自分自身がどのようにしたいか、したくないかという点を考えると、孤独死だけは絶対避けるべきであとは細かな問題であると感じた。
そのためには近隣住民との常日頃からのコミュニケーションで縁をつないでおく等の自助努力が必要だが、他方からのアプローチでテクノロジーの進歩で避けられないだろうか。
本にも出てきたお坊さん便ではないが、Amazon dashのようなシグナル発信機を心拍数と連動させる等、少しのコストで大幅なリスク回避ができるかもしれない。

投稿者 19750311 日時 2017年3月1日


今月の課題図書も、こういう現実が起こっている事は薄々気づきながらも、自分で進んで手にして読む種類の本ではなく、本書に書かれているたくさんの知らない事実をネットで検証しながら理解して行った本でした。そして著者の問題提起を自分の環境において、どう受け入れ、噛み砕いて自分なりの意見を持つのには難しい本でしたが、妻の両親と合わせて70歳を過ぎた4人の親が今は元気に過ごしていますが、何かあった際にはどの様に送り出すのかを話始めながらも、限りある現世での時間を大切に過ごす事を心掛けようと感じました。

投稿者 jawakuma 日時 2017年3月1日


無葬社会を読んで

○○くーん、あそーぼー 私が子ども頃からの友人宅は家がお寺で、毎日のようにお墓でサンバルカンごっこをして飛び回って遊んでいた。いま考えるとバチあたりなガキである。お寺にはお賽銭をくすねにくるルンペンがきたり、自動車電話付きで光るナンバープレートの黒塗りの車が来たりと幼い私と社会との接点だった。私の実家も同じ町内会でそのお寺の檀家ということで、今も変わらずお盆には私の幼馴染がお経をあげに実家を訪れてくれる。そうやって常日頃からの付き合いを続けているからこそ、祖父母の法事の際の説法には友人の祖父にあたる和尚さんから、故人との思い出話やその地域の昔の様子と人々の生活等を織り交ぜた興味深く有難い話が聞けるのだ。
そんな環境であったからか、私はそれほどお墓に抵抗はないのだが、世間一般の人は随分気にする人が多いようである。一種の潔癖症をも思わせるが、世の風潮として仕方がないのであろうか。マスメディアの影響からか若い男女ばかりがもてはやされ、誰しもに訪れる老い、死といったものにスポットがあたることはなかなか少なくなっている。
・多死社会は免れない!
日本が突入しつつある超高齢化社会。本書を読むと超高齢化社会の行く先には、超要介護社会を経由して超多死社会へと突き進んでいくことはもう既定路線なのであろう。地域とのつながりが希薄な都会では特に孤独死の問題も多くなりそうである。孤独死は免れたとしても家族との関係性次第では直葬どころか、遺骨を電車にわざと置き忘れられてしまうというから驚きだ。列挙されていたケースを見ると、まずはお金の問題があるのがわかる。お墓を買い葬式を上げるのにももちろんお金がかかるのだ。ただお金があれば問題ないのかというとそうではない。地域や家族との関わりが希薄だとお金はあっても孤独死を迎えることになるケースもあるそうだ。ここでわかるのが人との関わりつまりコミュニケーションの重要性だ。しょーおんセミナーのマネー編とコミュニケーション編はまさにドンズバでこの孤独死問題に効果がありそうだ(笑)。そしてもう一つは死の前の介護の問題もあげられるだろう。核家族化がすすみ、別々に暮らしているといざ親達の介護が必要になった時にはお互いのストレスはもの凄いものだろう。「もう無理、死にたい」となってしまうのもうなずける。かつては大家族、町内会、駆け込み寺などでまかなえていたセーフティネットが機能しなくなり、核家族、顔を知らない隣人、行き先のないホームレス達へとつながっているのかもしれない。
それはそうと葬式マーケットはこれからの伸びしろがすごそうですね。孤独死問題は個人の自助努力だけでなく、行政も早急に何らかの取り組みが必要でしょう。それこそそれを公約に掲げれば数多くの孤独死を恐れる老人からの得票で選挙も受かってしまうかもしれませんね。
今月も良書をありがとうございました。

投稿者 kawa5emon 日時 2017年3月1日


書評 無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教 鵜飼秀徳 著


何と重い内容だ。読後最初の感想は自分の無知さへの恥ずかしさと、
本書に出会えたことへの感謝である。
前者は、いわゆる葬送に関し、今まで自分が全く無関心であったことに対して。
後者は、そんな自分が本書に出会えたことで、人生で向き合うべき重要な事柄に、
恥ずかしながらも今回初めて目覚めさせてくれたことに対してである。


第一章、第二章には、本当に心から憤りを感じた。何と自分勝手な葬送だ。
お金を払えば事が済むと考えている輩のオンパレードではないか。
早い、安い、手軽、コンビニエンスのみを追求したような経済活動最優先、
資本主義の行き過ぎか?違和感を感じざるをえないサービス、
無葬社会の出現も、自分都合のみを優先した成れの果ての当然の帰結ではないか。。。
しかしその反対には、今の自分ならどうするのだ?との問いに、
それら以外の選択肢を持っていない自分が居ることに気付いた。
これ以上無い恥ずかしさを感じると共に、このままでは、
自分も同じ穴の狢だと相当な危機感を感じずにはいられなかった。

長男であるにも拘らず、自分の都合を最優先してきたのは自分だった。
これを機に少なくとも葬送に関し、自分の環境を踏まえた上で学ばねば。


そして後半。とても大きな問題定義が成されていると考える。
無葬社会、一面だけ見れば間違いなく悲劇的な社会の到来。
しかしその来たるべき社会に対して、現代打開、問題解決を試みようと、
具体的行動を起こされている数々の事例には、
本当に頭が下がる思いを持たずにはいられなかった。
今の自分に出来ることは何だろう?その視点で読み進めた。

少し話は逸れるが、団塊の世代とそのジュニアは、常に日本社会を変えていく
活動の中心なんだなと思わずにはいられない。
良し悪しではなく、結果的にその活動の中心が形作った無葬社会。
これをどう捉え、どう解決していくのか?
自分達が背負うべき課題であると共に、子供達にもその背中を見せないといけない。
前半部分では暗い日本社会の到来しか想像できなかったが、
後半の展開でいくつかの光明を感じることが出来た。

それを総合すると自身は、各々に求められているのは価値観の転換と感じた。
別の言葉で表現するとすれば、自分中心思想から、他人との共存共栄思想。

檀家制度に依存し過ぎた日本仏教界。
受け皿の無い、現代日本人の死生観。
孤独死、無縁仏、などなど。
従来の価値観の帰結が、それらの事象となって現れているのではないか?

では、どこにそれら課題への解決の糸口があるというのか?

一つ目のキーワード。「縁」
地縁、血縁、これらはもちろん今後も大切ではあるが、
「新たな縁」形成への勇気が、課題解決の有力な糸口と成りうるのではないか?
自分の殻に閉じこもれば新たな縁は生まれないし、従来の縁も消失する。
そういう意味ではインターネットを通じた新たな縁も参加障壁が低くていい。
しかし何もインターネットに経由でなくても新たな縁は生み出せる。
隣人への挨拶、二言、三言。ここから相互扶助への機会が生まれかもしれない。
核家族化により、度重なる転勤により、特に新居引越し後の隣人への挨拶は憚られる。
しかしここが、「無縁」への分岐点であると思う。
最初は挨拶だけでいいではないか?返答無しはしょうがない。期待はいけない。
しかし、意外と返答があるものである。ここから始まる縁を大切にしたい。
まずは何よりも挨拶からである。特に初対面が大切だと自身に言い聞かす。


二つ目のキーワード。「自律」
本書では仏教への期待と再定義提案が成されているが、自身はそれを、
「自律」というものへの再認識、再定義提案と捉えた。

第四章の佐々木閑氏へのインタビュー内容へは感動を覚えざるを得なかった。
そんな感動を覚えるのも、そもそも自身の仏教への理解不足が原因であり、
仏教、いや宗教を単なる便利ツールとしか位置付けしていなかった証拠であると気付いた。
困った時の気休め。「こころ教」。
それを佐々木氏はズバリと明確に指摘し、その警告に見事に刺された。
今後より一層学ぶべきはやはりこの領域と改めて認識することが出来た。
宗教心という訳ではなく、信仰心というべきか、自分を律するルールを持っているか否か。
そういう意味でもインタビューの内容からも、今後の世界を本当に救える思想のひとつは、
やはり仏教なのかもしれないと、自身の以前からの思いを、
より一層勇気づけてくれるものでもあった。

「すべての人を一人残らず救う」
そんな思想では自分が損するのではないか?
そのような小さな心では誰も救えないとの認識を新たにして、
まずは周囲の人達から笑顔にすべく、今から出来ることから地道に行動しようと思います。


今回も良書のご紹介に感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 dukka23 日時 2017年3月1日


遺体が落ち着くところがない
埋葬が簡単になってきている
供養もおろそかになってきてる

都市化が原因(菩提寺との距離が遠い)

仏教・檀家制度への意識が薄くなっているので
わざわざ手間を掛けなくなってきている

これにより食えないお坊さんも増えている


という論旨を見ると、
いよいよ末期になってきているのではと思います。

もはやボリュームの観点からも、
どのような内容にするかという観点からも
「人の死」をタブー視するような風潮は変わっていくのではないでしょうか。
そうしなければ、
死を連想させないという建前はたつものの、
結局は誰かが死後を扱わないといけないため、
どこかで破綻や矛盾が出てくると思います。

これと並行して、
個人としては「死後」を意識した
生前活動も重要になると思います。

従来のような血縁や地縁に頼っての生前活動、
それがなければあえて「死後のための縁」を作る活動です。
生前から、遺産はどうする、財産はどうする、遺品はどうする、
葬儀はどうしてほしい、遺骨はこういう処理で、
と死後のプランを明確に考え、意志を遺して託せる縁ということです。

こういうことをやっておかなければ、
安心して死も迎えられない時代が来ていることを認識しました。


また別の視点からは、
日本の仏教はこれからどうなっていくんだろう、
ということです。

仏教国家と言いながらも、
本来の仏教とはかけ離れた姿で、
政治に利用され、仏教も政治を利用してきた
一大産業化している日本の仏教ですが、
純粋な宗教としての救いができる形態に変わっていくのでしょうか。

江戸幕府による檀家制度ができてから
約400年ですが、その間変容しなかったものを変えていくのは、
容易ではないと思います。
しかし、このままでは制度疲労で衰退していくことは
目に見えているので、もしかしたら良い方向へ急激に変わるかもしれません。

そうなれば、仏教への信仰も深まり、
来世への考え方が広まれば、
「人の死」をタブー視する風潮も大きく変わっていくのではと思いました。