投稿者 mkse22 日時 2022年2月28日
もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート: 近代~現代を読んで
本書の著者である浮世氏は、本当の意味での日本国紀の読者だと思う。
普通の読者はここまで読み込むことをしないからだ。
通常ならさらっと読んで終わるところを、自分の気になる点を調べ、
ブログにまとめ、さらには本として出版したわけだ。
批判的であるとはいえ、浮世氏のような読者を得ることができた
日本国紀は幸せなのかもしれない。
このように熱心な読者を獲得できた日本国紀だが、本書の引用を見る限り、
百田氏の感情が込められた文章が多く、さらにエビデンスが軽視されているように感じる。
浮世氏の言葉を借りると、『思想・信条のために都合のいい歴史を集めて』 (p.606)いるかのようだ。
例えば、日本国紀からの引用として以下がある。
①『日本史上において、これほど劇的に国全体に変革が起きたことは、これ以前にも以後にもない』(p.3)
②『江戸時代からわずか数年後の街並みとはとても思えない。』(p.57)
上記に対して私が疑問に思ったのは以下の通り。
①では劇的という単語が使われているが、これは適切な表現だろうか。
具体例と劇的と判断すべき基準が記載されていないので、
私には劇的という修飾が正しいのか判断できない。
②も、「わずか数年後の街並みとはとても思えない」のは百田氏の感想であり、
その変化は他の人から見ると実はたいしたものではない可能性がある。
読み手に百田氏と同じ気持ちがある場合には、気にならずにさらっとよみ流せるのかもしれない。
あまり深く考えないで読んでいるときにもさらっと読み流すかもしれない。
しかし、「本当にそうなの?」って思ってしまうと、そこが気になってしまい、
その先の文章がよめなくなってしまう。
ここで、エビデンス、例えば百田氏の主観を裏付ける当時の文書や写真などがあれば、
納得ができて読み進めることができるかもしれないが。。
しかし、仮にエビデンスがあったとしても百田氏のエビデンスに対する
解釈の妥当性が次の問題となるだろう。解釈が適切でなければ、エビデンスが有効に機能しないからだ。
このようなことを考えながら本書を読み進めていったが、次第に「日本国紀の問題点はわかった。
それで、結局どのようにかんがえればよいの?」と思う箇所が散見されるようになった。
例えば、以下の記載。
『「改憲」か「 護憲」か、といった 冷戦 期のような二項対立で、激変する国際情勢、国内政治を
理解しようとするのは、かなり無理があります。「左翼系」という言葉もこの二項対立を象徴する 表現で、
現在の言論 界、学者、そして若手の政治家たちの意識は、かつてのようなイデオロギー対立や右派・左派という表現ではほとんど括れない状況 になっています。』(p.603)
浮世氏の指摘はごもっともだとおもう。たしかに、自民党をリベラルと考える人がいる時代だ。
冷戦期なら、保守といわれていた党がである。ここまでは理解できる。
ただ、現在の意識を正確に把握できるような括り方については記載がない。
括り方が提示されていれば、その括り方が機能するかどうかが判断できるのだが。
ただ、本書の目的は、あくまで日本国紀に対する問題点の指摘であり、日本国紀に代わる歴史観や視点を提示することは目的外と思われるため、ここまで望むことは筋違いかもしれない。
最後まで読み終わって感じたのは、(当たり前のことかもしれないが)本書は日本国紀と一緒に読むべき本だということだ。
一緒に読むことで、日本国紀の問題点に気づいたり、カバーできていない部分を補完することができる。
さらに、歴史を学ぶには、バランスよく書かれた教科書だけでなく、特定の思想を前提として書かれた本も必要かもしれないと思った。(学術研究に裏打ちされたもっとレベルの高い日本国紀というべきものがほしい)教科書では、争点がわかりにくいからだ。争点がわかれば、なぜ争点となっているのかという疑問をもつことができ、
争点を通じて、歴史の理解を深めることができる。争点がわからないと、疑問にもつきっかけがなく、
歴史がただの暗記科目となってしまう。
さらに、都合の悪い部分のごまかし方のテクニックも身につけることができる。
私も、本書を読んで、これまで知らなった争点やごまかし方のテクニックを知ってしまった。。
これは特定の思想のもとで書かれた本を通じて歴史を学んだ副産物だろう。
今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。