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第112回目(2020年8月)の課題本


8月課題図書

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍


ソ連(今はロシアね)って先の大戦で、兵士と民間人を合わせて2000万人以上

が死んでいるんですね。日本は300万人、ドイツでも680万人、アメリカは29万人ですから、

まさに桁違いです。

 

この死者を生み出した最悪の戦争が、ドイツ対ソ連の戦いだったわけで、そんな戦いが如

何にして行われ、どんな経緯を辿ったのか?彼の国の指導者たちは何を考え、どう振る舞

ったのか?を知ると、両国の指導者たちが日本を上回るヒドさだったことが分かります。

 

日本の戦争指導者たちも相当ヒドいんですが、ヒットラーとスターリンはこれを遥かに超

えていて、当時彼の国に生きていた人たちの苦難がページを飛び越えて脳裏に突き刺さり

ます。ま、前者については選挙で選ばれたわけですから、その責はドイツ国民にもあるん

ですよ。しかしソ連についてはもう・・・あれで戦勝国って言っても、負けた日本の方が

良かったよねと言いたくなるくらいでして。

 

そんな戦争と指導者の関係性を振り返ってみましょう。

 【しょ~おんコメント】

8月優秀賞

 

毎年8月は戦争物を選ぶようにしているんですが、そうすると、

 

  ▼ 自己の歴史観を披露する方

 

  ▼ 感想文では無く要約文になる方

 

  ▼ 戦争は悲惨だ、止めようという当たり前の結論になる方

 

  ▼ もしくは戦争から何かを学ぼうと言いつつ、それが何かが書かれていない方

 

 

が増えるんですよね。

 

おまけに今回は日本語としても何を言いたいのかが分からない人が多くて(毎月毎月文章

作成講座的内容をメルマガにしているのに、そこで書いたことが反映されていないのは何

故なんでしょうか?)、非常に難儀しました。

 

とりあえず、日本語的に大きな問題が無い人を探しまして、BruceLeeさん、masa3843さん、

sarusuberi49 さん、H.Jさんの4名を一次通過にしました。が、書かれた内容については、

一定の水準をクリアする投稿が無かったので、今月は該当者無しにします。

【頂いたコメント】

投稿者 shinji0309 日時 
第二次世界大戦については、日本視点の歴史しか学ばない。そのため、真珠湾攻撃を題材にした、アメリカ視点の映画がヒットしたのかもしれない。しかし、私は観ていない。ましてや、欧州のドイツやソ連がどのような状態だったのかなど、もっと知らない世界だった。そのため、私にはそれほど独ソ戦に対して意見や評価をする知識も資格がないと言えます。ただ、大木氏の著書を読んだうえで、思うところを書いてみたいと思う。

 私は、ドイツとソ連が不可侵条約を締結していたことも知らなかった。その後に見た、NHKの番組を参照するなら、スターリンはドイツとの不可侵条約を偉く重要視していたそうだ。それを裏付けるように、独ソ戦の始まりはスターリンへの多くの進言にもかかわらず、実際にドイツが条約を破棄して侵攻してきた事実を目の当たりにするまで、スターリンはドイツが条約を破ることはないと、固く信じていたところが重要だと思う。誰もが信じなかったヒトラーとの約束を、なぜスターリンは頑なに信じたのであろうか?
きっと答えは単純だと思う。信念や、信じるべき事実や秘策などは全くなく、スターリンは「信じたいことを、信じた」に過ぎないように思われる。当然これは、私の邪推にすぎないが、人とは結構そんなものだと、私の経験や読書による疑似経験が伝えている。
スターリンはヒトラーに「裏切られた」という事実から、頑なになりドイツ側から捕虜交換の提案があったにもかかわらず、しかもその捕虜の中にはスターリンの実の息子、ニコライが入っていたにもかかわらず、スターリンは交渉を行わず、結果的にニコライは死に、絶滅戦争となってしまったというのは、独裁者という者の最も悪しき面だと思った。

 一方ヒトラーは、ファシズムの祖であるムッソリーニのようになりたいと羨望し、ついにその独裁体制を確立する。ヒトラーがソ連との条約をなぜ締結したのかは不明だが、ゲンマン民族こそ最も優れた民族と思っていたヒトラーは、そもそも条約を守る気などなく、フランスを降伏させるまで、背後を守ったに過ぎない戦略だったように思える。これも私の邪推ではあるが、他民族をドイツ民族より劣ると考えるような人間は、「自分達より劣る民族との約束は、そもそも守る必要などない」という論がたてられても不思議はない。

 独ソ戦は、スターリンググラード(作中地図から察するに現ヴォルゴグラード)の攻防から、ドイツの敗戦が続く。それに先立ち戦略眼もないヒトラーが陸軍のトップを兼任することにより、兵士は死地に立たされ、戦術的にすり減っていったことは、独裁者の悪しき面が多くの人々を死に至らしめたと言える。それは、スターリンやムッソリーニの失敗と同じであった。

 現代においても同様である。会社経営者が独裁をすると、従業員が死地に立たされることになる。特にオーナー企業の公私混同はお話にならないレベルだ。
経営トップは、その会社で起こったすべてのことに責任を負うから、CEOであり得るのに、記者会見にトップが出てこず、事業部長に押し付けるような無責任な経営者が多くいる。部下に任せたとしても、その部下に任せるよう決断したのは経営トップである。故、一倉定先生のDNAがしみ込んでいない経営トップがいることは、誠に残念な限りである。

家庭においても同様だと思う。親による子の支配という独裁があるがゆえに、虐待やトラウマが消えない人生を背負わされることになる。人は有利な立場の者ほど声が大きくなり、声の小さな者を支配する。

 だが独裁は永遠には続かない。イタリア民衆に熱狂的に支持されたムッソリーニは、民衆による私刑によりその野望は潰えた。ヒトラーは自らの指示ミスにより、兵をいたずらに死なせ、見下していたスターリンによって葬られた。スターリンが死ぬと、フルシチョフは、スターリンの行ってきた独裁支配体制を批判し、生前の栄光はメッキが剥がれた。しかも、スターリンは戦争で息子を亡くし、戦後すぐに娘にはアメリカへ亡命されている。自分の独裁を娘に否定されるというのは、最も不幸な結果ではないだろうか?

独裁というものは、必ず不幸になる。というのが、私が独ソ戦を読んで思った最大の感想だ。「人の上に人を造らず」福沢諭吉先生が1万円札の顔になるべき理由に、得心がいく。
投稿者 2641 日時 
●独ソ戦 絶滅戦争の惨禍を読んで

このタイプの戦争はそれ以前の戦争と違って、事前に積み上げた兵力と事前に積み上げた武器を使って戦争するのではなく、そんなものは戦争が始まったらあっという間の二か月くらいで使いつくされてしまいました。次々に兵士を導入し、次々に武器弾薬を投入し、しかも武器弾薬はどんどんバージョンアップしていくというタイプの戦争を継続できるような巨大な生産力と、高い意識を持った兵士を次々に調達できる教育水準を持った国々がぶつかり合うタイプの戦争、それがトータルウォーで総合的戦争である訳です。
トータルウォーを間違って総力戦と訳すと、総力を挙げて戦ったら勝てる戦争と間違った考えが浸透してしまったんじゃないかと私は思うわけです。総力戦というのは国家の総力が、強制的に引きずり出される戦争なんです。何もかにもが引きずり出され、国家の持っている科学力、教育力、地下資源、ありとあらゆるものが動員され、それによって戦争の継続が困難になってしまって体制そのものが崩壊したほうが負けるという非常に恐ろしい戦争です。

ドイツは、先のヴェルサイユ条約の欺瞞性、そしてアメリカのウイルソン大統領による十四か条によって屈服させられ、それで、ドイツの政治的文脈から、倫理性が失われそれがナチスドイツを引き起こし、それに勝とうと思って戦いを進める間にイギリスやアメリカも同じように倫理性が失われていったのです。

この頃の帝国主義の時代の国民国家体制の背景には人種差別が結局はあるわけです。アメリカで言うと、日本人なんて只の黄色い猿だからちゃんと戦争なんてできるわけがないと思っていたので、油断して真珠湾攻撃を食らうのです。そういう日本から頑強な抵抗に合うと、ドイツ人が後ろで援護しているんじゃないかと思うわけです。そして、自分の友軍を殺されるとすごく怒り狂ってめちゃくちゃ残虐なことをするというのが、お決まりのパターンなんです。これは、アメリカも日本に対して攻撃をしましたけれども、もっと大きな規模で日本は中国に対して侵略を行いました。それが、兵長団事件とか南京大虐殺というものを生み出していくわけです。それは、単なる残虐行為にとどまらず、戦争の指導の誤りの結果にも影響を及ぼします。

それはドイツの、ソ連に対する戦争も同じです。独ソ戦の判断の間違いの背景にあったのは、どうせロシア野郎は弱いに違いないという考えがヒトラーの判断をゆがめるわけです。背後に人種差別的なものがあったから、そこから暴力が発生し、その暴力が戦争に転嫁すると、必ず残虐行為とか、そしてそれ以上の判断の誤りの結果になります。そのよく似たパターンとして、日中戦争があります。

これには、ガンディーがイギリスの国民に対して第二次世界大戦のときに、呼びかける手紙を書いています。直ちに戦争を止めてください。それ以外にこの世界を正しく導いていく方法はないんだという風に言っていて、そんなことしたらナチスドイツに主導されて、もっと恐ろしい世界が来るじゃないかというかもしれないけど、あなた方がヒトラーを打ち倒すことが出来るのは、あなた方がヒトラーよりも残虐になった時に初めて可能になるんですと、そんな風になりたくないんだったら今すぐ戦争を放棄し、非暴力の力によってナチスを打ち倒す戦いをしなければ、あなた方が望むような平和は決して来ないと予言する手紙を書いています。実際その通りになったと私は思います。
その結果、アメリカは核兵器を生み出してナチスドイツよりもはるかに残虐な、瞬時に大都市を一つ二つと吹き飛ばす、そういった戦争をやってのけることによってこの戦争に勝利をしたわけです。
その結果、ナチスよりももっと厄介なスターリンの支配するソ連を作り出し、日本もまた余計なことをしたものだから、毛沢東の支配する中国というものも、出来てしまうのが第二次世界大戦です。
基本的にガンディーの言っていたことは正しいんです。だけど、人種差別を擁護してましたけどね、、、
   
今後の日本がどうすべきか、、、
 まずアメリカとの間に話し合いを行い、日米安保体制を一度解体し、国防の付けを全部沖縄に追わせている状態は非常によくないです。だから、まずは沖縄を独立させるべきであって、その独立した沖縄との三国間で軍事問題をどう処理すべきかということを話し合い、アジアの平和的安定をどう達成していったらいいかという問題を話し合う必要があると思います。
日本はバブル期であれば、こういった諸問題を解決する力があったと思います。もやはその力は日本には無いのだけれども、東アジアの政治的安定と戦争の回避という問題をアメリカに依存するのではなくて、東アジアに住む人々の間で、それを実現していく道をとらない限りは、この属国状態は絶対に逃れられないし、そしてそれがある以上は、中国とロシアとの対立関係も解消できないのです。そのための戦略的解消を自分の頭で考えるということをやっていかない限りは、日本社会の自立も無いし安定もないのでしょう。
 
投稿者 2641 日時 
改訂版 ●独ソ戦 絶滅戦争の惨禍を読んで

このタイプの戦争はそれ以前の戦争と違って、事前に積み上げた兵力と事前に積み上げた武器を使って戦争するのではなく、そんなものは戦争が始まったらあっという間の二か月くらいで使いつくされてしまいました。次々に兵士を導入し、次々に武器弾薬を投入し、しかも武器弾薬はどんどんバージョンアップしていくというタイプの戦争を継続できるような巨大な生産力と、高い意識を持った兵士を次々に調達できる教育水準を持った国々がぶつかり合うタイプの戦争、それがトータルウォーで総合的戦争である訳です。

トータルウォーを間違って総力戦と訳すと、総力を挙げて戦ったら勝てる戦争と間違った考えが浸透してしまったんじゃないかと私は思うわけです。総力戦というのは国家の総力が、強制的に引きずり出される戦争なんです。何もかにもが引きずり出され、国家の持っている科学力、教育力、地下資源、ありとあらゆるものが動員され、それによって戦争の継続が困難になってしまって体制そのものが崩壊したほうが負けるという非常に恐ろしい戦争です。

ドイツは、先のヴェルサイユ条約の欺瞞性、そしてアメリカのウイルソン大統領による十四か条によって屈服させられます。それで、ドイツの政治的文脈から倫理性が失われ、やがてナチスドイツを引き起こし、それに勝とうと思って戦いを進める間にイギリスやアメリカも同じように倫理性が失われていったのです。

そもそも植民地はなぜ必要かというと、理由として考えられるのは、地下資源の確保、消費の拡大、産業の拡大、労働の搾取、軍備拡張などによって資本家が得られる利益を増やす目的があり、そのことにより政治に圧力が掛かっていったのが背景にあるのではないでしょうか。

ただ、この政策は実はコストばかりが掛かって儲かってないんじゃないかという議論がイギリスではされていました。これを小イギリス主義と云います。国力の増大に繋がらないのでそんなことは止めようと、そう思っている経済人は多かったのではないかと思いますが、そうはなりませんでした。

そして、日本も大日本帝国の頃には植民地を持ってやっと列強の仲間入りという強い洗脳が社会にあったのでしょう。実際、日本には軍備を増強するための地下資源がないため、満州を奪取し中国に侵攻しようとしました。しかし、これらもやはり膨大なコストが掛かっていて大赤字でしかなく、さっさと手を引けばよかったのにと思います。これを知っていたのは、石橋湛山と石原莞爾です。石橋湛山は、日本の朝鮮と中国に対する権益をすべて放棄すればよいと云っていました。しかし、石原莞爾は日本を総力戦のできる国に作り上げるため、地下資源を目的として中国に仕掛けます。こうして、第二次世界大戦に繋がるわけです。

結局、戦争の背景には人種差別があるわけです。アメリカ人で言うと、日本人なんて只の黄色い猿だからちゃんと戦争なんてできるわけがないと思っていたので、油断して真珠湾攻撃を食らうのです。そういう日本人から頑強な抵抗に合うと、ドイツ人が後ろで援護しているんじゃないかと思うわけです。そして、自分の友軍を殺されるとすごく怒り狂ってめちゃくちゃ残虐なことをするというのが、お決まりのパターンなんです。これは、アメリカも日本に対して攻撃をしましたけれども、もっと大きな規模で日本は中国に対して侵略を行いました。それが、兵長団事件とか南京大虐殺というものを生み出していくわけです。それは、単なる残虐行為にとどまらず、戦争の指導の誤りの結果にも影響を及ぼします。

それはドイツの、ソ連に対する戦争も同じです。独ソ戦の判断の間違いの背景にあったのは、どうせロシア野郎は弱いに違いないという考えがヒトラーの判断をゆがめるわけです。背後に人種差別的なものがあったから、そこから暴力が発生し、その暴力が戦争に転嫁すると、必ず残虐行為とか、そしてそれ以上の判断の誤りの結果になります。そのよく似たパターンとして、日中戦争です。

今後の日本がどうすべきか
 まずアメリカとの間に話し合いを行い、日米安保体制を一度解体し、国防の付けを全部沖縄に追わせている状態は非常によくないです。だから、まずは沖縄を独立させるべきであって、その独立した沖縄との三国間で軍事問題をどう処理すべきかということを話し合い、アジアの平和的安定をどう達成していったらいいかという問題を話し合う必要があると思います。
日本はバブル期であれば、こういった諸問題を解決する力があったと思います。もやはその力は日本には無いのだけれども、東アジアの政治的安定と戦争の回避という問題をアメリカに依存するのではなくて、東アジアに住む人々の間で、それを実現していく道をとらない限りは、この属国状態は絶対に逃れられないし、そしてそれがある以上は、中国とロシアとの対立関係も解消できないのです。そのための戦略的解消を自分の頭で考えるということをやっていかない限りは、日本社会の自立も無いし安定もないのでしょう。
 
投稿者 BruceLee 日時 
That’s 毒素戦!

というのが私の読後感だ。毒素とは何かと言えば生々しい人間の毒である。これほどまでその毒がぶつかり合った戦争は珍しいのではないか?一般的に、戦争はその国や国民のために行われるのではなかろうか。表面的な目的が他国の領土やエネルギーの獲得だとしても、それらを得る事で究極的には国益や国民を守るためなのだ。大東亜戦争勃発に至る日本の当初の目的もエネルギー獲得であり、相手国や国民自体が憎くて始めた訳ではない。が、この独ソ戦は違う。

1941年3月30日、ヒトラーはこう演説する。
「共産主義は未来へのとほうもない脅威なのだ。われわれは軍人の戦友意識を捨てねばならない。共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。みな殺しの闘争こそが問題となる ~ われわれは、敵を生かしておくことになる戦争などしない」

一方、ソ連は国民にこう鼓舞する。
「ドイツ軍は人間ではない ~ もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう ~ あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ」

つまり、相手の存在自体が許せないのだ。故に、ここに指導者としての最重要課題である「国民を守る」という使命感は皆無だ。自国民が何人死のうが、突き進む愚かな指導者たちの姿が本書にある。だが、愚かと言っても仮にもその国では指導者だ。本当のおバカさんであればそもそも指導者にもなれないのではないか?では何故こんな悲惨な事になったのか?私はP.221の模式図がそれを語っていると思う。ドイツにとってみれば通常戦争、収奪戦争、世界観戦争(絶滅戦争)の3つが平行したとあるが、その割合が徐々に変わっていたのだ。一方、ソ連にとっては「共産主義の成果を防衛する=祖国を守る」という通常の戦争目的で始まったが、結果的に「敵に対する無制限の暴力の発動を許した」とある。

つまり戦争の目的と性格が次第に変容したのだ。冷静な指導者であれば、それに気付き、随時方向性や姿勢を改める事が出来たかもしれない。だが両国の指導者は出来なかった。何故か?独裁が一つの理由ではあろう。確かに独裁政治の場合、同党の権力機構が無ければ指導者に待ったをかけるのは難しいだろう。指導者が感情に任せ間違った方向に進んでも歯止めが無い。故に私は政治において野党は常に必要であると考えている。例えどこかの国の野党のように、与党の粗捜しばかりの団体であっても「与党の自由勝手にはさせない」という気概を持って常にウォッチし続け、ツッコミを入れまくるレベルだとしても、その存在理由はあると思う。一方、例え独裁だとしても、その指導者が常に現実を分析し、軌道修正する柔軟性を持った指導者であったら、こんな悲惨な結果にはならなかったのではないか?各地での戦闘結果から目を背ける事無く、随時「今、自分が選択すべき、我が国のために最適な解は何か?」を自問自答出来る指導者であったら、このような結果にはならなかったのではないか。

何を言いたいのかと言えば、例え独裁であっても指導者は感情を切り離し、現実を直視する姿勢とそれに基く冷静な判断、そして最も大切なもののために時には屈辱的な選択が出来る人間力が必要だという事だ。どんな指導者も人間であり、初めから完璧な人間はいない。つまりどんな人間も時に過ちを犯す。が、過ちに気づいた時点で自分を修正出来るか否か、ではなかろうか?

ここで想像してみたい。かつての日本の指導者が同じ類だったら?原爆が投下されて以降も戦いを止めず突き進んでいたら?「国や国民を守る」という発想を忘れ、米国憎し!の感情に任せ、更に多くの特攻隊を飛び立たせ、各地で更なる爆撃を受け、第3、第4の原爆が日本の何処かに落とされ、日本の死者数がジャンジャン増えていったとしたら?が、そうはならなかった。日本は「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」で戦争を終えたのだ。勿論、端から戦争自体を回避出来ていればベストではあった。が、戦争は始まってしまい、戦局が不利になっても突き進んだ軍部。後はどこでどう終える?しかないのだが、日本の場合あの原爆が切っ掛けとなり敗戦を迎えた。終わり方やタイミングが良かった/悪かったという議論はあろう。が、戦争か終わった事自体は良かったのだと思いたい。その意味で日本の指導者が本書に出てくる指導者のような人間で無く、例え半強制的にであったかもしれないが、最後は無条件降伏を受け入れる事が出来た指導者であったという事を有難く思う、というのも間違った考え方ではないと思う。

本書で描かれるのは他国同士の悲惨な戦争ではあるが、それは遠くの他人事ではない。日本も同じく戦争wをしていたが、本書程に悲惨な戦争とはならなかった。想像を膨らます事でそういう見方も出来ると思う。
 
投稿者 2641 日時 
改訂版 ●独ソ戦 絶滅戦争の惨禍を読んで

このタイプの戦争はそれ以前の戦争と違って、事前に積み上げた兵力と事前に積み上げた武器を使って戦争するのではなく、そんなものは戦争が始まったらあっという間の二か月くらいで使いつくされてしまいました。次々に兵士を導入し、次々に武器弾薬を投入し、しかも武器弾薬はどんどんバージョンアップしていくというタイプの戦争を継続できるような巨大な生産力と、高い意識を持った兵士を次々に調達できる教育水準を持った国々がぶつかり合うタイプの戦争、それがトータルウォーで総合的戦争である訳です。

トータルウォーを間違って総力戦と訳すと、総力を挙げて戦ったら勝てる戦争と間違った考えが浸透してしまったんじゃないかと私は思うわけです。総力戦というのは国家の総力が、強制的に引きずり出される戦争なんです。何もかにもが引きずり出され、国家の持っている科学力、教育力、地下資源、ありとあらゆるものが動員され、それによって戦争の継続が困難になってしまって体制そのものが崩壊したほうが負けるという非常に恐ろしい戦争です。

ドイツは、先のヴェルサイユ条約の欺瞞性、そしてアメリカのウイルソン大統領による十四か条によって屈服させられます。それで、ドイツの政治的文脈から倫理性が失われ、やがてナチスドイツを引き起こし、それに勝とうと思って戦いを進める間にイギリスやアメリカも同じように倫理性が失われていったのです。

そもそも植民地はなぜ必要かというと、理由として考えられるのは、地下資源の確保、消費の拡大、産業の拡大、労働の搾取、軍備拡張などによって資本家が得られる利益を増やす目的があり、そのことにより政治に圧力が掛かっていったのが背景にあるのではないでしょうか。

ただ、この政策は実はコストばかりが掛かって儲かってないんじゃないかという議論がイギリスではされていました。これを小イギリス主義と云います。国力の増大に繋がらないのでそんなことは止めようと、そう思っている経済人は多かったのではないかと思いますが、そうはなりませんでした。

そして、日本も大日本帝国の頃には植民地を持ってやっと列強の仲間入りという強い洗脳が社会にあったのでしょう。実際、日本には軍備を増強するための地下資源がないため、満州を奪取し中国に侵攻しようとしました。しかし、これらもやはり膨大なコストが掛かっていて大赤字でしかなく、さっさと手を引けばよかったのにと思います。これを知っていたのは、石橋湛山と石原莞爾です。石橋湛山は、日本の朝鮮と中国に対する権益をすべて放棄すればよいと云っていました。しかし、石原莞爾は日本を総力戦のできる国に作り上げるため、地下資源を目的として中国に仕掛けます。こうして、第二次世界大戦に繋がるわけです。

結局、戦争の背景には人種差別があるわけです。アメリカ人で言うと、日本人なんて只の黄色い猿だからちゃんと戦争なんてできるわけがないと思っていたので、油断して真珠湾攻撃を食らうのです。そういう日本人から頑強な抵抗に合うと、ドイツ人が後ろで援護しているんじゃないかと思うわけです。そして、自分の友軍を殺されるとすごく怒り狂ってめちゃくちゃ残虐なことをするというのが、お決まりのパターンなんです。これは、アメリカも日本に対して攻撃をしましたけれども、もっと大きな規模で日本は中国に対して侵略を行いました。それが、兵長団事件とか南京大虐殺というものを生み出していくわけです。それは、単なる残虐行為にとどまらず、戦争の指導の誤りの結果にも影響を及ぼします。

それはドイツの、ソ連に対する戦争も同じです。独ソ戦の判断の間違いの背景にあったのは、どうせロシア野郎は弱いに違いないという考えがヒトラーの判断をゆがめるわけです。背後に人種差別的なものがあったから、そこから暴力が発生し、その暴力が戦争に転嫁すると、必ず残虐行為とか、そしてそれ以上の判断の誤りの結果になります。そのよく似たパターンとして、日中戦争です。

今後の日本がどうすべきか
 まずアメリカとの間に話し合いを行い、日米安保体制を一度解体し、国防の付けを全部沖縄に追わせている状態は非常によくないです。だから、まずは沖縄を独立させるべきであって、その独立した沖縄との三国間で軍事問題をどう処理すべきかということを話し合い、アジアの平和的安定をどう達成していったらいいかという問題を話し合う必要があると思います。
日本はバブル期であれば、こういった諸問題を解決する力があったと思います。もやはその力は日本には無いのだけれども、東アジアの政治的安定と戦争の回避という問題をアメリカに依存するのではなくて、東アジアに住む人々の間で、それを実現していく道をとらない限りは、この属国状態は絶対に逃れられないし、そしてそれがある以上は、中国とロシアとの対立関係も解消できないのです。そのための戦略的解消を自分の頭で考えるということをやっていかない限りは、日本社会の自立も無いし安定もないのでしょう。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、国民の不安感情を利用し、自分の都合の良いように国民を支配する、独裁政権の恐ろしさを改めて感じました。

独裁政権を築いたヒトラーは、ドイツ国民により選ばれ、国家社会主義ドイツ労働者党の指導者となっていきました。世界恐慌の社会不安から国民によって選ばれ、一党独裁体制を作っていきました。

ソビエト連邦のスターリンは、2月革命後に組織された、人民委員会議のレーニン政権下で書記長に就任しました。レーニンの死後、権力を掌握しスターリン憲法を制定しました。

カリスマと呼ばれるリーダーの要素を持つ、一人の人間を多くの国民が支持し、権力が集中された結果、誰にも止められない独裁体制は完成していくのです。

どちらの国家も、国民の社会不安の感情から、カリスマ的指導者を求める欲求が引き起こしたことです。本書で書かれている暗澹たる歴史があっても、それを忘れ、自国の為、自分達の為に働いてくれる、絶対的な力を持つカリスマを欲してしまうのが人間なのです。

現代の国々に目を向けると、アメリカではドナルド・トランプ氏が大統領選に就任し、自国の利益を守るために他国の不利益を顧みない右派の勢力が拡大していくことで、人々の思想が過激化していくのではないか、と危機感を感じます。

ロシアでは、本書で書かれているスターリンの罪は忘れ去られ、第二次大戦を勝利に導いたと持ち上げられるなど、偉大さばかりが喧伝されています。
その背景には、プーチン政権が縦割りの権力システムを強化し、「強いロシア」の実現を目指していることが挙げられます。

スターリン時代を知る高齢者が次々に亡くなっていることに加え、ロシアでは独立系メディアがほとんど存在しないこともあり、ロシア政府は自分達の都合の良い通りに、歴史を改変できるのです。

ドイツでは、2012年に風刺小説ではありますが、「帰ってきたヒトラー」が出版され、2015年には映画化もされました。折しも、2015年から2016年にかけて中東での紛争の影響により、多くの難民がヨーロッパに渡って来ました。2015年にドイツに到着した難民の数は約89万人でした。

第2次大戦後のドイツでは、人道支援を行っていくべきであるという、強い想いがあります。これは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人迫害への痛切な反省からきています。当時の歴史を反省した上で、今度は抑圧された人々を引き受ける側になる、という意思が根底にあったからです。難民の受け入れを表明した、ドイツのメルケル首相は「難民を追い返してしまったら、自国の歴史を十分に反省していないことになる」と考えたのでしょう。

映画のヒトラーに扮した、俳優のオリヴァー・マスッチが80名前後のネオナチと一緒にバーへ行き、そこで国民的な歌を歌い、政治的な議論を大いに繰り広げていたのは、本物のドイツ国民でした。

一部のドイツ国民の中には、本音を言えば多くの難民は受け入れずに、自分達の生活を守りたいと思う人達もいるのです。

国家のプロパガンダや情報メディアによって、一部のカリスマが英雄視されてしまう状況は、戦後70年以上経った現代でも続いており、国民は聞いていて心地の良い、情報に踊らされ続けています。

本書のような歴史の教訓を国民が忘れてしまうと、恐ろしい悲劇が現代でも再び繰り返されてしまう、と感じました。
 
投稿者 tarohei 日時 
『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』を読んで。

本書を読むまでは第二次世界大戦の最大の被害国は日本であり、ドイツの東部戦線やソ連の大祖国戦争では確かに大量の死者を出しているが、戦争の悲惨さや惨状は太平洋戦争の非ではないと思っていた。教科書や学校の授業でも太平洋戦争の歴史やいかに無謀な作戦だったということは習うが、独ソ戦についてはほとんど記述がないし、授業でも取り上げられることもない。ゆえに第二次世界大戦のヨーロッパ地域での戦況といえば、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺であり、ノルマンディー上陸作戦であり、イギリス・ドイツ両軍の空中戦やロンドン空襲ぐらいのもので、独ソ戦についてはこれほど惨劇であったという認識はほとんどなかった。
本書を読了するにあたり、独ソ戦の全体像や戦況、その残虐さの認識を新たにすると共に、ドイツの戦略構想のなさ、ソ連の作戦術の巧みさに深い学びを得た。そして、ドイツの戦略構想とソ連の作戦術の対比はそのまま現在のビジネス論にも通じるのではないかという所感を得た。ここではその戦略構成/作戦術を中心に本書の感想を述べていきたい。

まず、本書では、この独ソ戦はいわゆる「通常戦争」以外にも、「世界観戦争(絶滅戦争)」と「収奪戦争」の3つの形態が並行する形で進行したという。当初は通常戦争のウエイトが大きかったが各々の戦況が危うくなると、次第に収奪戦争と絶滅戦争への比重が重くなっていき、最終的には絶対戦争へと進んでいき、殺戮と惨禍をもたらすことになる。絶滅戦争とは、相手を絶滅させなければならないという観念(世界観)によるもので、これにより常軌を逸した戦略・戦術が展開されることになり、両国とも通常戦争の域を超えて悲惨なものとなった。収奪戦争とは、文字どおり敵国を侵略し、相手国の生産物と労働力を収奪することである。ドイツでは開戦前から計画されており、敵国から収奪することによって戦争を継続する作戦を立てており、戦略的にも開戦以前から常軌を逸していたと言わざるを得なかったと思う。そして侵略された側はたまったものではない。ソ連が攻勢に転じた後、仕返しにとばかりに復讐心にかられ略奪を繰り広げたのは言うまでもないことであろう。
このように、これら3つの戦争形態が進行し変質していく過程で、殺戮や略奪が繰り返され、泥沼の戦いを繰り広げる中、なぜこのような悲惨な結末になったかの理由と戦争終結に向けての要因として、特に心に深くに刺さったことは、ドイツの戦略構想力の無さとソ連の作戦術の成功である。

本書を読み進めると、いかにドイツの戦略構想力がなかったのかがよく理解できる。そもそもなにを達成すれば戦争終結させるのか、モスクワ占領なのか、スラブ民族の絶滅なのか、油田・工業地域の確保なのか、どの段階で講和に持ち込むのかなど、戦略・目標のないままの戦争であった。また作戦行動においても、東方にドイツ国民の植民地を形成するという戦略も兵站力や南方戦線を考慮すると無謀だったのではないかと思われる。兵站において略奪によってそれを成す、というさしずめ旧日本軍のやり方と同じである。尤も第一次世界大戦の多額の賠償金とインフレに苦しめられ、ドイツが国家として生き残る道としては収奪戦争しかなかったのかもしれない。
戦略のない行動は、ビジネス戦略でも当てはまるであろう。いわゆる出口戦略のないビジネスだ。撤退する決断もできずにずるずると赤字を積み重ねるお荷物部門のごとくである。独ソ戦におけるドイツの戦略構成は反面教師としてビジネスにおいても大いに学ぶべきものがあると感じた。

次に、ソ連の作戦術についてである。作戦術という言葉は恥ずかしながら本書を読むまでは知らなかった。どの拠点どの順序で攻略するのか、なにを達成すれば戦争が終結するのかを明確にするのが戦略、各個の戦闘にどうすれば勝利できるかを明確にするのが戦術、というのはよく知られており、各々ビジネス論では経営マインドとしてしばしば語られてきたことと思う。そしてその戦略と戦術を繋ぐものとして、異なる作戦を組み合わせて戦略目標を達成するという作戦術があり、この作戦術というものはビジネスを進める上でも、同時並行して進行するプロジェクトを有機的・能動的に機能させる手法として非常に有用なものだという思いに至った。
これはどういうことかと言うと、ビジネスにおいてもこういう状況ではこう対応するといった出口戦略を明確にし、状況に合わせて臨機応変に変更可能な状態にし、個々の戦術で得られた戦術的成果を組み合わせることで、人的・物理的リソース管理や時間軸管理を有機的に結び付け、ビジネス目標の達成を目指すことは正に作戦術だという気づきがあったのである。

これまで戦略論・戦術論を基にしたプロジェクト管理を行っており、何かもやもとしたものを感じていたが、本書を読むことで一気に雲が晴れるような気がした。そして戦争の悲惨さや残酷さを改めて再認識すると共に、自分にとってプロジェクト管理に新しい一知見をもたらした複雑な思いを馳せさせる感慨深い一冊であった。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、未曾有の惨禍をもたらした独ソ戦について、軍事面のみならず、政治、外交、経済、そしてイデオロギーに至るまで様々な角度から考察した本である。独ソ戦の特徴は、通常戦争に加えて、絶滅戦争と収奪戦争という2つの性質も併せ持っている点だと本書では説明されている。本稿では、世界史上類を見ない惨状を生んだ独ソ戦について、ドイツが開戦に至った理由と敗戦した真因を考察することで、我々が学ぶべき教訓について考えてみたい。

まず、ドイツが大国であるソ連に対して侵攻を行った理由は、本書から2つあることが読み取れ、それぞれが絶滅戦争と収奪戦争という前述した独ソ戦の特徴と密接に関連している。1つ目の理由は、ヒトラーの掲げる人種主義が、当時のドイツ社会の分裂を覆い隠す役割を果たしており、そのナチ・イデオロギーの発露として対ソ戦が必要であったという点である。当時のドイツ社会は、都市と農村、ホワイトカラーと労働者、雇用主と被雇用者の貧富の差が激しく、こうした国内における不満をナチ・イデオロギーによって外部に向けることで、国内の結束力を高める必要があったのである。2つ目の理由は、資源や労働力の収奪を目的とした帝国主義的侵略を行わざるを得ない状況に、ドイツが内政面から追い込まれていたという点である。ヒトラーは、公共事業の積極的な推進と軍備拡張を進めて景気を回復させることに成功したが、国民からの支持を失うことを恐れ、こうした政策の反動で生じた逼迫財政や労働力不足を国民に負担させることなく、外部からの資源収奪で補うことにしたのだ。

それでは、なぜドイツは対ソ戦に敗れたのであろうか。本書を通読する前は、カリスマ性はあるものの無能なヒトラーが、その無能さ故に作戦指揮に失敗し、敗戦するに至ったと思い込んでいた。しかしながら、本書を読了し独ソ戦の本質に触れたことで、その先入観が間違っていたことを知った。そして、私はドイツが戦争を開始したこの2つの理由こそが、ドイツがソ連に敗北した真因だと考えた。換言すれば、上記の2つの理由で開戦した時点で、ドイツはソ連に負けることが宿命づけられていたとも言える。なぜ絶滅戦争と収奪戦争という2つの側面で開戦に踏み切ったことが、ドイツ敗戦の理由となるのであろうか。それは、絶滅戦争と収奪戦争という歪んだ動機によってソ連侵攻を開始したことで、ヒトラーが作戦の各局面で勝つための合理的な判断ができなくなってしまったからだと考えられる。このことは、南部ロシアという経済的目標を重視するヒトラーが、政治的・戦略的な目標である首都モスクワの奪取を重視する陸軍と対立し、対ソ戦という戦略遂行上致命的に時間を浪費したことから分かる。また、廃墟と化して戦略的には価値を失っていたスターリングラードを共産主義者の巣窟と見なし、不要な攻撃を執拗に繰り返したことも、ヒトラーの誤った判断の例として挙げられる。

そうであるならば、これまで軍事的な意味でも、ナチ犯罪・戦争犯罪という面でも、対ソ戦の責任を一身に引き受けてきたヒトラーにも、見方によっては合理性があったという逆説的な考え方もできる。つまり、通常戦争という側面で見れば非合理であったヒトラーの判断も、絶対戦争や収奪戦争という側面で見れば、合理的だという解釈もあり得るということである。ここまで考えて、私は以前日本が始めた太平洋戦争に対し、軍部の独走によって開始された無謀な戦争だと認識しており、国民は全て被害者で悪いのは一握りの軍国主義者であるという先入観を持っていたことを思い出した。しかし、猪瀬直樹著の「昭和17年夏の敗戦」を読んだことで、軍国主義者の権化と思い込んでいた東條英機が、日米開戦を回避したい天皇の意図を汲んで、天皇への強い忠誠心から総理大臣として戦争を避けるべく奔走したことを知り、勝ち目が薄いことを知りながらもやむなく始めた戦争であったと認識を新たにした。軍国主義者の暴走による日本敗戦という、一面的な見方から解放されたのである。

人は失敗や問題に直面した時、誰かや何かを諸悪の根源として決めつけてしまう傾向にある。その方が楽だからだ。しかしながら、それでは失敗や問題の本質に辿り着くことはできない。それは、我々が現代社会で仕事に励み家庭生活を営むうえでも同じではないだろうか。私達は、特定の誰かや何かに責任を押し付けることで、問題点の特定や反省を放棄してはいないだろうか。独ソ戦という、世界史上類を見ない惨劇。これほどまでに多くの人が殺された事例が他にないことを考えると、この戦争そのものが人類史上最大の失敗だと言える。そんな独ソ戦を詳細に追った本書を読んだことで、物事を単純化することの危険性と、多面的に物事を分析して本質に迫ることの重要性を再認識することができた。


今月も素晴らしい本をご紹介くださり、ありがとうございました。
 
投稿者 str 日時 
独ソ戦 絶滅戦争の惨禍

現代に於いても独裁者と呼ばれる人物が強い権力を持つ一部の国を除いて、先進国では今後そういった人物が力を有することはないのではないか。当時と比べるまでもなく個人の意見が尊重され、数多の思想が飛び交う現代では大きく分けて賛成派・反対派・中立派が存在し、強行しようものなら必ず途中で失脚してしまうだろう。

独裁体制が築いた惨劇や辿りついた結末を、過去の大きな過ちとして多少なりとも知っていれば、現代の比較的自由な暮らしからワザワザそちらを望む人は殆どいないと思うからだ。

しかし、現代でも各国の間で仲の良し悪しや些細な小競り合いはあるが、少なくとも我々の身近に流血を伴うような戦争はない。仮に起こったとしたらどうなるだろうか。あちこちの意見や思想に翻弄されるよりも、強力な権力を持った指導者にすがりたいという思いに案外なってしまうものかもしれない。

自国の意志の強さや団結力の象徴であり、敵国からしてみれば恐怖の対象でもある。勿論、彼らが行ってきた容赦ない行為は許されるものでもないし、独裁体制を擁護するつもりもない。否応なしに巻き込まれ、亡くなっていった人たちが殆どだろう。けれど誰も止めることが出来ないほど強大な必要悪として創り上げてしまったのも、また国民自身だったのかもしれない。渦中にいた人々の心理は到底図り知ることはできず、それを否定することも当然できないが。

現代でも我々がお目にかかれるのは、精々一企業のトップが独裁者として君臨しているパターンだろう。歯向かおうものなら職を失う。本書で描かれる時代であれば命を失っていただろうから、当時の人たちから見たら生温い時代に映る事だろう。しかし70年以上経っているにも関わらず、未だに一部ではそういった体制が残っているところをみると、人間の本質というものは余り変わっていないのだと感じた。

しかし、このような本を読むと現代とはかけ離れ過ぎていて、もっと大昔の出来事のように錯覚してしまう。冷静に考えるとそれほど昔の出来事でもないことに少しぞっとした。
 
投稿者 gizumo 日時 
「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 大木毅著」を読んで

 まず、本書の戦争の描写を読みながら、戦争ものが好きな幼馴染がいたなぁと思い出しました。戦車なんかの話を延々と聞かされたものです。特にドイツ軍のことが多かった記憶があります。元気にしているといいな。
 世界史の授業でもかじったのですが、この本を読み改めて「独ソ戦」を見ると、両国ともにボロボロじゃないか?!と。トップの指導力もまともなものでなく、四年間にもわたり広範囲に残酷で悲惨な結果を残したお粗末な戦争である。戦争なのでどちらかが勝利者となるわけであるが、これだけの被害を残せば勝ったとしても何も残らないに等しいであろう。しかしながら、日本も含め戦争は大なり小なりこんなものかもしれない。準備万端に整え、明確にスタートが切られるはずもなく、人物金ともに必要十分で戦った国があるのだろうか?
 当然ではあるが、現在の私たちは正しく公になっていない点はあるにしろ結果を踏まえて戦争を知ることができるわけである。全体像も見ることができる。その中で真のおあたりにできるこの悲惨さである。当時の現場では全体像が見えずさらに現実的な悲惨さで過酷なものであり混乱があったことは想像に尽くしがたい。ヒトラーも、スターリンもまた、トップの彼らだけでなく、政治的外交的にこれほどまでに指導者に能力がない中(適性がないと言えるのかも)で、戦争を続けていた事、そしてこの戦争を経て現在があることも忘れてはならないと思った。当時の軍事力等に比べると、現在は格段に進歩している。同様の戦争が行われた場合、どうなってしまうのか、まずは全世界に影響が及び人類は滅亡するのかもしれない。
 最後に若干、話がずれることとなると思うが、戦争時でも格差が生じている。責任は重いが本部で指揮を執るもの、そして現場で危険にさらされるもの。当時は、今ほど選択の自由や機会がなかったとはいえ、この状況を思う時、悲惨さがさらにつのる。また、文字、概念として「戦略、戦術、戦法」などは知っていても、本当にそれを立案して実行し、戦争に臨むのだと改めて実感した。そうなると、やはり立案し、指揮する人と、現場での実行する人とが分離することとなり、この格差が生じるのだと腑に落ちた。されに、それらが学問とされ研究されて進化する中で、突き詰めて「戦争はしない」となることを心より祈りたいと思った。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
私が本書を読んで最も強く感じたのは、経済的、精神的な困窮者と明確な理念や強い信念を持つ指導者の組み合わせは、人間社会にとって大きな脅威となり得るということだ。ここで言う困窮者とは、第一次世界大戦以降の独ソ両国の国民であり、指導者というのは勿論ヒトラーとスターリンのことであり、大きな脅威というのは独ソ戦を生み出したことである。ただ、私が特に危険性を感じたのは、ヒトラーの様な国民の欲求や心理を巧みに操るポピュリスト的な指導者の出現に対してである。なぜならば、当時ドイツの社会状況や人々の心理を考察すると、この困窮者とポピュリスト的な指導者の組み合わせは、現代でも起こり得ることであり、規模や内容の程度は違うけれども社会の脅威になると考えるからだ。

独ソ戦を理解するためには、当時の独ソ両国の社会を支配していた思想や価値観を理解することが重要だと考える。なぜならば、平和な現代に生きる私の様な一般的な人間の思想や価値観だけを持って独ソ戦を考察しても、“非人間的で信じがたい行為の数々が起こった惨劇であった”、または、“二度と繰り返すことがあってはならない”というような認識で、思考が停止してしまいがちになるからだ。現に、私が本書を一読した時は正にそうであった。私の場合、本書を読んで総犠牲者が3,500万人を超えるという空前絶後の惨劇となった独ソ戦の真相を知ったわけだが、独ソ両国による国際法を無視した捕虜の過酷な扱い、民族至上主義による老若男女問わず実行された虐殺、物資の極限的な収奪など、あまりの悲惨さに表面的な事実だけに意識が囚われてしまい、その背後にある当時の思想や価値観を考えるまでに至らなかった。ただ、ここで重要なのは、独ソ戦は、現代とは違う、断続的に戦争を繰り返し、民族至上主義が横行した時代を生きた人間の思想や価値観により導かれた戦争だということを認識することである。

独ソ戦の開戦を決定した当時のドイツの状況を見てみると、国内の空気はヒトラーの掲げる人種主義と生存圏論という思想、理念に支配されていた。どちらも、ドイツ人共通の敵を明確に作り出すことで、当時ドイツ社会に存在していた国民間の利害関係を覆い隠し国民に一体感を持たせる働きをしていた。そもそも、ドイツ国内でヒトラー率いるナチスが台頭したのは、1910年代の第一時世界大戦の敗戦と1920年代の世界的な恐慌により、ドイツ国民が精神的にも、経済的にもどん底状態にあった時に、ドイツ経済を復活させたことだ。そして、ヒトラーは次々と経済的な豊かさと優性論からなる精神的な優越感を国民に与えながら、生存権論と人種主義をドイツ国民の共通の帰属意識、思想、価値観に仕立て、そして、その達成に向けて国民を扇動していった。一方のソ連は当時、個人崇拝、秘密警察による統制を前提とした恐怖政治を有していて社会的な状況はドイツとは違った。ただ、第一次世界大戦後のソ連は、ドイツと同じ様な道のりを辿っている。それは、疲弊した国内の経済状況を再生することと祖国への帰属意識で国民に愛国的な動機付けを持たせた点である。そして、独ソ両国を支配した思想や価値観は、それぞれヒトラーの「世界観戦争」、スターリンの「大祖国戦争」を支持し、イデオロギーを戦争遂行しる根底となった。

私は当時のソ連を恐怖政治により率いたスターリンよりも、国民の欲求や心理を巧みに操ることでドイツを扇動したヒトラーの様な人間に危険を感じる。なぜならば、民主主義国家である現在の日本で恐怖政治を敷くような独裁者が現れることが考え難い一方で、ヒトラーの様な扇動的な指導者が、現代の日本社会を混乱に陥れる可能性は十分にあると考えるからだ。現代の日本社会には、生活に困窮している、または、社会からの疎外を感じている、所謂マズローの欲求五段階説で言う、安全欲求や社会的欲求が満たされていない状態の人たちが一定数いる。そして、私はこの様な境遇に陥る人たちは、今後、格差社会が進む上で増えていく行くと考える。その様な状況下で、これらの人たちに、生活の豊かさを得られるという理念を示し、また同じ思想や価値観を共有するという帰属意識を与える指導者が現れたらどうなるか。勿論、その指導者の理念や信念が正当であれば問題は無い。ただ、もしも、それがヒトラーの様な指導者であればどうなるであろうか。それらの人たちは、程度の差はあれ、独ソ戦前のナチス政権に生活の向上、優性論によるドイツ国への帰属意識を植えつけられたことで操られた第一次大戦後のドイツ国民と同じ様になり得るのではないだろうか。


~終わり~
投稿者 sikakaka2005 日時 
途中読む気が失せることが何度もあった。たとえば、ドイツ軍がソ連に攻め入り、捕まえたソ連兵の捕虜に対する殺戮だったり、逆にドイツがソ連に攻め込まれて、兵士だけでなく一般人に対する残忍な暴行や殺人だったり、読みながら想像することが辛い場面が何度かあった。そうした兵士たちの振る舞いは同じ人間とは思えなかったと同時に、戦争は人を変えてしまうのだと思ったのである。

独ソ戦で注目すべきはソ連の人的被害であろう。第二次世界大戦において、日本、ソ連の戦闘員および非戦闘員の死者数を比べると分かるが、日本はおよそ300万人、ロシアは2700万人と言われており、ソ連は日本のおよそ9倍である。ソ連はたしかに第二次世界大戦において戦勝国になった。しかし、これだけの死者を出し、主要都市が壊滅な状況で、本当に勝利したと当時のソ連の国民たちは思っていたのか疑問であり、被害からすると、ほぼ敗戦国に近いと言えるのではないだろうか。

本書を読んで考えたことは、リーダーの思い込みはプロジェクトを失敗に招く原因となることである。自身の仕事の経験において、これまでいくつかのプロジェクトに携わってきて、プロジェクトの成功や失敗を見てきて思うことは、プロジェクトの失敗は、リーダーの思い込みが原因で起こることである。たとえば、お客さんの要件を勝手な思い込みで、間違って理解して、プロジェクトの後半で、要件の間違いに気付き、慌てて修正することになって、大きな手戻りになることがある。また、プロジェクトがうまくいっていると思い込んで、進捗の遅延に気づくが遅れてしまって、遅延を拡大させてしまうことがある。そうしたことから、お客さんをひどく怒ってしまったり、最悪の場合、お客さんからの信頼を失ったりすることがある。リーダーの判断は、プロジェクトの成否を決める上で重要である。

本書では、ソ連もドイツもリーダーの思い込みによって、明らかに悪手を打っていた。
たとえば、まずソ連で言えば、スターリンが開戦前に勝手な思い込みによって大きなミスを犯している。それは、独ソ戦開戦前の側近たちの大粛清である。スターリンは身の危険を感じて、これまで反逆していた者や、追い落そうとする者や、疑わしい者といった側近たちを大量に殺していった。そのせいで、ソ連の軍力を弱体化したと本書で書かれている。リーダーの思い込みにより、ソ連が開戦序盤でドイツに攻め込まれた原因になったと言われている。一方、ドイツも、思い込みにより、ヘマをやらかしていた。それは、マルクスプランである。広大な土地をもつソ連に対して攻め込み、攻め込んでから、9週間ないし17週間で戦闘が完遂されて、ドイツが勝利する計画を立てていたのである。この作戦を聞いて、実行指揮権をもっていたハルダーは、計画に満足し、基本的にその構想を受け入れたのである。実際独ソ戦は、1941年から1945年まで約4年かかった。ドイツは勝手な思い込みによって、ソ連の体力や状況を確認することを怠っていたことが分かる。このように、リーダーの思い込みは、悲惨な状況を招くことがあるのである。

では、どうしたら、こうした思い込みは減らせるか。どうしたら、私のつたない経験でも言えることがあるか。それは、仕事において、同僚たちに、自分の考えを話すし、フィードバックをもらうことであると考える。思い込みが厄介なところは自分では過ちに気づかず、主観で判断してしまう点である。だから、自分の主張や考えやこれからやろうとしていることを、人に話すことで、思い込みを減らすことができるのだ。つまり、客観性を高められるのである。話し相手はたとえば、頼りになる同僚などに5分でも時間をもらって、これからやろうとしていることを話してみるのである。すると、賛成される場合もあるし、思ってもみない角度からフィードバックをもらえたりすることがある。こうして言えたフィードバックをもとに考えを練り直すことを繰り返していると、思い込みは確実に減り、客観性の高めることでき、プロジェクトにとって、より効果的な方針を打ち出すことができる可能性を高めることができるのではないと考える。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書では、独ソ戦が史上空前の惨禍となった原因として、戦争が長期化するにつれ、相手の継戦意思を挫いて戦争終結に導く「通常戦争」の側面が低下したことが挙げられている。その理由は、戦局が悪化するに従って、占領地の住民の餓死を意に介さず食料や物資を奪う「収奪戦争」と、捕虜や占領地の住民を虐殺する「絶滅戦争」の色彩が濃厚となり、軍事的合理性が軽んじられた為である。それは、p.208の独ソ戦に於けるドイツ陸軍の人的被害者数のグラフからも見て取れる。1941年6月以降、毎月平均7万人ほどであった戦死者、行方不明者数が、1944年8月は35万名超、9月は45万名超と突出していて、以後11月まで毎月平均10万名ほどとなっている。東部戦線が崩壊し、敗北が決定的になっても、ヒトラーは降伏を選択しなかった。なぜならば、「人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラヴ人を奴隷化し支配する」という世界観を持っていたからである。その結果、現代の野蛮ともいうべき凄惨な戦争となったと説明されている。

先の大戦による死者の総数は、ドイツが約831万人、ソ連が約2700万人とされていて、これは日本の約310万人とは桁違いである。この数字だけでも、日本以上に酸鼻を極めたと言える。私はこれまで、なぜこのように巨大な暴力が実行され、阻止できなかったのかが謎であったが、本書で疑問を解消できた。最初は終戦までのシナリオを計画して始まった戦争であったが、独ソ双方の予想の甘さや戦略の失敗により長期化し、互いに「やられたらやり返す」という剥き出しの憎悪がエスカレートしていったためであると考える。戦争の目的が、勝利して利益を得ることから、敵の殺戮を妥協なく貫徹することへと、すり替わっていったからである。

日本では、毎年8月に戦争追悼番組や特集記事が組まれ、先の大戦において、軍事的敗北が明らかであるにも関わらず、降伏が遅れた原因の分析が様々になされている。結果的に日本は、ベルリン陥落まで戦い抜いたドイツとは対照的に、本土決戦が起きる前に降伏するに至った。この時、最後の御前会議で無条件降伏に唯一強硬に反対したのが、阿南惟幾陸軍大将である。彼は、負けると知りながら「本土決戦に持ちこんで少しでも有利な状況で終戦に持ち込むべきだ」と主張した。その理由は、無条件降伏では天皇が処刑されてしまうおそれがあり、降伏にあたり天皇制維持を条件に付けたかったからだという。つまり、天皇制を守るためには、たとえ国民に甚大な犠牲が出ても構わないとする思想である。最終的に、天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定されたが、一歩間違えば、日本もドイツと同じ状況に陥っていた可能性があったことを忘れてはならない。窮地に陥った旧ドイツ国防軍と旧日本軍には、どちらも軍事的合理性を欠いていたという共通項があるからである。

このように陰惨な史実を直視するのは時に痛みを伴うが、これこそが、同じような悲劇を二度と繰り返さないという決意の表れであり、平和の模索につながると言えよう。なぜならば、このような惨劇は、一定の要件が揃えば再現される恐れがあるからだ。具体例として、1992年〜1995年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が挙げられる。これは当初、旧ユーゴスラビアからの独立を宣言したクロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との武力衝突に端を発するものであったが、次第にボシュニャク人(ムスリム人)、クロアチア人、セルビア人による、各民族の勢力圏拡大をめぐる争いに発展し、支配地域の勢力安定の為、民族浄化を行うに至った紛争である。欧米諸国の介入で紛争は長期化し、1994年に一旦成立しかけた包括和平案の受け入れ拒否による、さらなる関係断絶を引き起こした。独立当時、同国には430万人が住んでいたが、死者20万人、難民・避難民200万人が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産が横行したとされる。家父長的な男権社会の影響が残っていたボスニア・ヘルツェゴビナの村社会では、女性が強姦によって異民族の子を妊娠・出産したということは、一族にとって非常な不名誉と見なされるので、これによりコミュニティを破壊し、効果的に異民族を排除できると考えられたためである。紛争の長期化が怨恨を増幅し、取り返しのつかない悲劇を生んでしまった点は、本書の内容にも通ずるものだ。

最近、日本と周辺諸国の間で再び緊張が高まっている。戦後75年の節目にあたるこの夏、他国の戦史を学びつつ、自国の戦史についても振り返り、知識不足を補うことは有意義である。なぜならば、万一紛争が起きた場合の、危機回避の処方箋として有用だからである。たとえ局地的な紛争として始まっても、時間の経過とともに絶対戦争へ変質してしまえば、もはや交渉によって戦争終結へと導くことが困難になることを、歴史が証明している。そのような事態が生じれば、敵味方双方の被害は甚大なものとなろう。よって、我々日本人が、独ソ戦の歴史をケーススタディとして学び、絶対戦争の狂気を理解したうえで周辺諸国の動向に注視することは、平和維持に有益であると考える。
 
投稿者 3338 日時 
 戦争が何かと聞かれれば、国家の利益のため起こす軍事的な外交手段だと答えます。武力の衝突ですから必ず死者が出ます。資金もかかるし、物資も多く投入されます。やむにやまれぬ事情で戦端を開くのであれば、せめて国民の負担を軽くし、兵士の生還率が高まるよう、用兵に気を配るのが人の上に立つ者の義務だと思います。

 ところが、独ソ戦におけるヒットラーもレーニンも、自分の勝手な妄想を信じて、国民を顧みることがありませんでした。独ソ戦が泥沼化したのは、そこに原因があると思います。もう少し自国の兵士を労り、生還率を高めるような用兵をしていれば、独ソ戦が史上最悪の泥仕合にならずに済んだと思います。
 そもそも一国を率いる者は、兵士の損害を最小限に抑え、物資や資金を効率よく活用し、自国の国益を最大限に得ることを考えるのは、当たり前のことです。その道の専門家と良く協議し、あらゆる可能性を考え、それに対応する策を練り、次善三善の道を探る…山のように協議することがあり、それを実行する後方部隊と連携して指揮を取ります。敵国の情勢を探り、地理を知り、懐具合や性癖を知るなど、素人の私でさえ考えつくことは山とあります。 

 戦端を開くよりも先に、備えなければならないことが多いのは、自国の国民である兵士をできるだけ、生還させるためです。そのための戦略であり戦術です。そこが甘いということは、兵士の無駄な用兵につながり、それだけで生還率は落ちます。勝利したとしても、用兵が上手くいかない場合には、何度でも練り直し、生還率を上げることが、作戦を練る者の役目です。

 例えばドイツはイギリスと開戦中にも関わらず、ソ連との戦端を開きました。どのような根拠からか、ドイツはソ連との戦いがすぐに終わると確信していました。ソ連がスターリンの粛正で、軍部が弱体化していたにせよ、全く別の戦線ですから、双方との戦いは負担がかかります。ドイツ軍にはこのような見通しの甘さ目立ちます。これが対ソ連の戦略の甘さにつながっていきます。

 一方スターリンは粛清により、自国の軍隊を自らの手で弱体化するという愚を犯しています。そしてその事実を知りながら、目を背けたい気持ちを優先し、そうなって欲しくない情報を無視するという愚を犯します。これが多数の戦死者と餓死者を出すことにつながります。

 また、なぜドイツはあれほど遠いスターリングラードを落とすことに執着したのか?兵站や兵要地誌の観点からいっても、スターリングランドの包囲は距離が離れ過ぎて、無駄であることが分かります。それはヒットラーと陸軍がスターリンの名前を冠した都市を陥落させて、圧倒的な勝利を得たいと望んだからでした。これほど無理のある包囲網を築くことが、どれだけ負担になるかちょっと考えれば分かります。逆に言えば、このプランが実行されなければ、どれだけ人が死なずに済んだことか。ここに思いが至らないために、絶滅戦争は続いて行きます。

 いくつかのプランのうち、モスクワに大軍を投入して陥落させた方が遥かに近く、バクー油田を狙うことも可能でした。モスクワの包囲も結果的には失敗し、レニングラードの包囲も失敗した上に、スターリングラードの包囲に兵士を無理に投入した結果が、多数の戦死者を出した撤退です。自分の思い通りしたいがために、兵士も物資も資金と無駄にしたとしか思えません。ここでも国民や兵士が不在の戦略しかありません。計画と実戦に齟齬が生じた時に、振り返り、損害や作戦の失敗を見直していれば、全く違う結果になっていました。一旦兵を引くことができれば、その後の悲惨な状況も回避できたと思います。

 また、補給線の見通しの甘さにも、思わず怒りを覚えます。ソ連の道路事情の悪さを考えずに、補給線をいたずらに伸ばし、兵站の輸送に事情をきたして、餓死者を出すことになります。銃弾が無くなって闘うことができなくなり、戦車があっても燃料がなく、道路が悪過ぎて戦車が進めないなどの、あり得ない障害がドイツ軍の前に立ちはだかります。モスクワからの撤退では、準備不足で冬将軍にしてやられることになりました。ナポレオンの悲劇を知らなかったのでしょうか。

 挙げ句の果てに、占領したソ連領から食料を奪い、住民を飢え死にさせてもドイツ兵に食料を供給するという「飢餓計画」も検討され、3000万人の餓死が予想されました。実際に、ナチスドイツはソ連人を「劣等人種」と位置付けていたので、捕虜の扱いは凄惨を極め、570万人のソ連軍捕虜のうち300万人が死亡しています。自国の兵士ですら慮ることのできなのですから、当然だと言えば当然ですが、鳥肌が立つものがあります。余談ですが、これはソ連も同じで、シベリアに抑留された日本兵の扱いの冷酷さに、憤りを感じていましたが、本書を読み自国の兵士ですら虫けらのように扱うのだから、敵国の捕虜に対する扱いがそれ以上に過酷になるのも当然だと妙に納得してしまいました。

 最終的に、ドイツもソ連も戦線を離脱しようとした自国の兵氏を銃撃したり、退却しようとした兵士を銃撃したりして、前線に留まるように仕向けました。兵士の命を的にかけて得るものはあったのか疑問です。そこを死守するしかない兵士たちの気持ちを思うと、絶望しかなかったと思います。
 普通の戦争では、目的が達成された時点で戦争は終わります。無駄に戦争を長引かせれば、どれだけの費用と人命が失われるか知っていれば、戦争は早く終わらせた方が、お互いのためです。しかし、この独ソ戦では、まともなビジョンも無く、落とし所もなく、ただお互いを殺し合う状態が続いて行きます。ヒットラーとスターリンは一体何を望んで戦争を始めたのか、私には理解できません。
 たまたま娘が借りて来た「永遠の〇」を数日前に読んだのですが、ラバウルからガダルカナルの戦いに赴くシーンで、なぜこんな理不尽な戦いをするのかと、切なくなりましたが、この独ソ線では、その想いが何十倍にもなりました。歴史にもしはありませんが、ヒットラーもスターリンも兵士の命を慮っていれば、あれほど悲惨な戦争にはならなかったと思います。
 
投稿者 mkse22 日時 
「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍を読んで」を読んで

本書は、欧米の最近の研究をもとに、独ソ戦について新たなる一面を
説明したものだ。

本書の特徴の一つに、アドルフ・ヒトラーの人間化にある。

アドルフ・ヒトラーといえば、20世紀を代表する悪名高き人物だろう。
ユダヤ人の大虐殺であるホロコーストは特に有名だ。

そのヒトラーについて、これまで読んできた本では悪魔のような人物という描き方が多いと感じていた。
本書にもあるように、あまりにも非人道的な行為を行ったせいか、
『ヒトラーを「 悪魔化」する一方、その能力を過小評価する解釈』(位置No.1053-1055)以外の理解を
人々の感情が許さなかったのだろう。

なぜ悪魔化以外の理解を許さなかったのか。それは彼を理解不能な人物と見做す必要があったからだろう。

人は自分と同じ思考の持ち主しか理解できない。
言い換えると、ある人を理解できるとは、その人の考え方が自分と同じであることを意味する。
もし、まったく異なる思考の持ち主を理解可能だとしたら、それはどのようにして理解するのだろうか。
私にはわからない。判断の仕方の同じもの同士だけが、お互いを理解できるとしか言いようがないのではないだろうか。

そして、ヒトラーを理解できるとは、私たちにも彼と同様の思考が可能であることを意味する。
感情論としてそれには耐えられない。だから、なんとかして彼を悪魔化したかったのだろう。

本書では、ヒトラーを悪魔化、つまり異常者として描くのではなく、一人の人間として描いている。
人間としてのヒトラーには、為政者としての苦しみの一面が見えてくる。

例えば、以下のとおり。

『右記の社会的対立などの内政的条件に拘束されたヒトラーが、分裂を回避するために、
その理念に頼れば頼るほど、本来は支配の道具 にすぎなかった人種イデオロギーや「生存圏」論が、
文言通りに受け止められ、ついには現実になった』(Kindle の位置No.1113-1116)

ドイツ内部の対立を回避するために、ヒトラーが打ち立てた社会事情とは直接関係ないイデオロギーが
社会事情と関係がないからこそ、徐々にドイツ国民の思考に浸透していく。直接関係があれば、それに拒否反応を示すものがでてきて浸透しないはずだ。そして、それが逆にヒトラー自身をも縛っていく。

ここで注目すべき点は、ヒトラーとドイツ国民との相互依存関係の構図だ。
ヒトラーがドイツ国民を一方的に洗脳したのではない点だ。
逆にドイツ国民がヒトラーの思考に影響を与えている点に注目すべきと考える。

これは、現在の社会でもよく見られる構図である。
例えば、ベンチャー企業の社長だ。
創業時、社長とその理念のもとに集まってきた社員だけで会社が構成されているときには、共通の理念があるため、一つの方向に向かって進んでいくことが可能かもしれないが、会社が大きくなるにつれて、
必ずしも理念に賛同していない人物が社員として入社してくる。そのことにより、社員の見ている方向にずれが生じ、その結果、社内の対立が生じる。もしくは、何も決定できない状態となってしまう。

そのとき、社長がとりえる手段としては、より大きな理想を掲げて進むのか。または理想を実現するための手段であるはずのお金儲けを目的化するのか。。。。

この権力者と非権力者との間の相互依存関係、特に非権力者から権力者への影響に関する視点は
意外と見落とされがちな点だと考える。
さらに重要な点は、この関係から権力者の意思決定には非権力者にも一定の責任があると解釈可能な点にある。相互依存関係により、権力者の決断には、少なからず非権力者の考えが反映されているからだ。
これは、例えば、社長の決断が愚かだと思ったとしても、その決断の原因は社員にもあることを意味する。

権力をもつほど自分の思いのままにできると考えがちだが、実はそうではない。
想像以上に非権力者に権力がある。逆説的だが、これが本書から学べた最も大きなことである。

なお、私はヒトラーの行ったことに賛同するつもりはないし、ドイツ国民に戦争責任があるとも
主張するつもりはない。あくまでも、ヒトラーとドイツ国民という権力者と非権力者の関係に注目して感じたことを述べただけである。


今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 Vollmond 日時 
「独ソ戦」を読んで

私の買った版の帯には「あっという間に6万部」、後には「2020新書大賞第一位」とあるから、相当に売れているらしいが、なぜ、独ソ戦の本なぞこれほど売れるのかと不思議な気がするが、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というから、ソ連の死者最大2700万人、ドイツの死者最大800万人という惨禍をもたらした独ソ戦からも相当に学ばなければならないことがあるのだろう。

ところで、独ソ戦について私は、本書にも出てくるパウル・カレルの戦記物のナチスとは一線を画した独国防軍、祖国愛を煽る長編映画などに見る粘り強いソ連軍、独・ソ両機甲師団の戦車を単純にカッコよいと思う無邪気な知識しかなかった。

しかし、本書を読んで、ドイツにとって、この戦争が相手の絶滅を目指す戦時国際法無視の世界観戦争であり、収奪戦争であり、通常戦争でもあるという複雑な戦争であったこと、一方、ソ連にとってもイデオロギーとナショナリズムを融合させて、相手に対する報復行為を正当化するような戦争であったことなどは、初めて知った。過去には、日本にも信長の叡山焼き討ちや長嶋一向一揆に対する徹底さも例はあったが、太平洋戦争時の日本が、米・英・蘭・中等の絶滅を目標にしてはいなかったように相手方の絶滅を目指すことは多くなかったし、今村大将のように善政といってよい軍政を施行した例もあるように、独ソ戦と対比した場合に、身びいきとは思っても日本人の「善良さ」を感じてしまう。

また、そのイメージと異なり、ドイツは自己の実力を過大評価し、ソ連の実力を過小評価した杜撰な作戦を行ったこと、一方ソ連の「作戦術」は相当に進歩的であったことも初めて知った。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」というから、この事実は戦争だけでなく、外交からビジネスまで教訓とすべきことだと思う。

戦争という極限状況では、戦いの当事者たる国家・民族の本質が現れるものと思う。したがって、日本が国際社会を渡った行くにあたっては、外国の戦史に観られる外国のイメージは、現在もその国・民族が有しているものと考えたほうがよいのではないかと考える。

そうであれば、ソ連が中立条約を破ったこと、民間人を蹂躙したこと、条約を破って未だに北方領土に居座っていることを「解放」とうそぶく国であることなどは驚くにあたらないし、未だにそのような国に周囲を囲まれているものだということは常識と考えたほうがよいと改めて考えさせられた。

以上
 
投稿者 jawakuma 日時 
「独ソ戦」を読んで

ヒトラーとスターリンともに悪名高い独裁指導者である。

ジェノサイドのはしりとなる絶滅戦争に驚愕した。
血で血を洗う戦闘に、収奪、捕虜・非戦闘員の殺戮、人肉食等信じがたい蛮行があったがそこからも学ぶべき箇所があるのではないだろうか。

●主題:餅は餅屋。プロの意見は慎重に聞いた方がよい。
戦争の戦略戦術は軍人に任せ、政治家は政治を行うべき。

●問題:ヒトラーとスターリン共に妄信による迷走があったが、
ドイツとソ連の明暗を分けたポイントは?

≪妄信のタイミング≫
スターリン:戦前・前半戦 大粛清・戦争準備の受入拒否  
ヒトラー:中盤戦以降(死守命令の功奏後)、絶滅戦争の断行

→大敗が故の方針変更 スターリン:後半戦:作戦の概念の取り入れ。
→勝利が故の自らへの過信 ヒトラー:後半戦:軍上層部の意見を取り下げ、死守に固執。

●主張:判断を誤るタイミングとその後の受け取り方で結果は変わる。
ドイツ=前半戦:〇 →ヒトラーの自らの判断への固執、更迭、孤立、後半戦:×
ソ連=戦前:× 前半戦:× →大敗と苦難が将校の復帰を呼び、「作戦術」の取り入れもあり、後半戦:〇

最終的にはヒトラーは死守命令に拘り、結局はベルリンを死守して最期を迎える。


★教訓:継続的に専門家の意見を取り入れ、軌道修正していくことが大切。


普段自分では手に取らないジャンルを読む機会を頂き参考になりました。
今月も良書をありがとうございました。
 
投稿者 H.J 日時 
正直こんなことを述べていいのかわからないが、この時代に生まれなくて良かった。
生きるも地獄、死ぬも地獄。
捕虜になったとしても今死ぬか後で死ぬかの2択状態。
民間人すら降伏を許されず撃たれる世界。
これがフィクションではなく、ノンフィクションなのだから、背筋が凍る。

本書を読むまでは、独ソ戦のイメージは第二次世界大戦の一部としてのイメージしかなかった。
だが、実際は想像を絶する戦争。
そもそも戦争の知識に乏しい私でもそれぐらいは判った。
私の知識では、この時代の戦争は互いの交渉が決裂した際の白黒付けるための最終手段もしくは侵略するための手段という認識だった。
ただ、この独ソ戦という戦争は私の認識を遥かに上回るほど、身勝手に変貌していった。
ヒトラーとスターリン、2人の独裁者による扇動により、相手の存在を否定し、互いが互いを憎しみ合い、結果として両国合わせて推計3千万人以上が命を落とした。
両国のトップが、人の命を命とも思ってない様子には腹立たしさを感じる。
その後も半世紀におよび、ドイツの東西分裂という悲劇をもたらしたこの戦争は何を残したのだろうか。

結論を言うと、その答えは見つからないが、当事者意識を持って考えることが大切だと思った。
何か共通出来る部分がある可能性があるからだ。

本書で語られる時代に生まれた時、どんな行動を取るのが正解なのだろうか?
この時代の当事者だったら、何をすべきなのだろうか?

勿論、現在の価値観と当時の価値観には大きな差があるだろう。
軍国主義時代の日本にも共通しているが、あの時代で政府に反する行動や言動はNGだ。
静かに潜んで、運良く生き残る道を考えるしかないのだろうか。
明確な答えは出ないが、こういった状況でどう振舞うかということを考えることは何かの役に立つかもしれない。
例えば、現代のコロナウイルスもその数や脅威、死亡率は全く比べ物にはならないが、我々人類にとって未曽有の事態という点では共通しているとも言える。
感染対策を取るべきか経済を取るべきか。
どちらか正解かという確実な答えがない以上、色んな選択肢を用意し、バランスを考慮して対応する必要がある。
なぜならば、片方に沿った考え方は大変危険であるからだ。
片方に傾いてしまった時、その片方の考え方しかないと一緒に沈むしかなくなってしまう。

その選択肢を用意するという面で、本書の時代を考えることはとても有意義に思える。
民間人だったら、どうしていた?
軍に所属していたら、どうしていた?
今の時代の日本ではありえないことだが、こういうことを考えることでヒントが見つかるかもしれない。
 
投稿者 2641 日時 
改訂版 ●独ソ戦 絶滅戦争の惨禍を読んで

このタイプの戦争はそれ以前の戦争と違って、事前に積み上げた兵力と事前に積み上げた武器を使って戦争するのではなく、そんなものは戦争が始まったらあっという間の二か月くらいで使いつくされてしまいました。次々に兵士を導入し、次々に武器弾薬を投入し、しかも武器弾薬はどんどんバージョンアップしていくというタイプの戦争を継続できるような巨大な生産力と、高い意識を持った兵士を次々に調達できる教育水準を持った国々がぶつかり合うタイプの戦争、それがトータルウォーで総合的戦争である訳です。

トータルウォーを間違って総力戦と訳すと、総力を挙げて戦ったら勝てる戦争と間違った考えが浸透してしまったんじゃないかと私は思うわけです。総力戦というのは国家の総力が、強制的に引きずり出される戦争なんです。何もかにもが引きずり出され、国家の持っている科学力、教育力、地下資源、ありとあらゆるものが動員され、それによって戦争の継続が困難になってしまって体制そのものが崩壊したほうが負けるという非常に恐ろしい戦争です。

ドイツは、先のヴェルサイユ条約の欺瞞性、そしてアメリカのウイルソン大統領による十四か条によって屈服させられます。それで、ドイツの政治的文脈から倫理性が失われ、やがてナチスドイツを引き起こし、それに勝とうと思って戦いを進める間にイギリスやアメリカも同じように倫理性が失われていったのです。

そもそも植民地はなぜ必要かというと、理由として考えられるのは、地下資源の確保、消費の拡大、産業の拡大、労働の搾取、軍備拡張などによって資本家が得られる利益を増やす目的があり、そのことにより政治に圧力が掛かっていったのが背景にあるのではないでしょうか。

ただ、この政策は実はコストばかりが掛かって儲かってないんじゃないかという議論がイギリスではされていました。これを小イギリス主義と云います。国力の増大に繋がらないのでそんなことは止めようと、そう思っている経済人は多かったのではないかと思いますが、そうはなりませんでした。

そして、日本も大日本帝国の頃には植民地を持ってやっと列強の仲間入りという強い洗脳が社会にあったのでしょう。実際、日本には軍備を増強するための地下資源がないため、満州を奪取し中国に侵攻しようとしました。しかし、これらもやはり膨大なコストが掛かっていて大赤字でしかなく、さっさと手を引けばよかったのにと思います。これを知っていたのは、石橋湛山と石原莞爾です。石橋湛山は、日本の朝鮮と中国に対する権益をすべて放棄すればよいと云っていました。しかし、石原莞爾は日本を総力戦のできる国に作り上げるため、地下資源を目的として中国に仕掛けます。こうして、第二次世界大戦に繋がるわけです。

結局、戦争の背景には人種差別があるわけです。アメリカ人で言うと、日本人なんて只の黄色い猿だからちゃんと戦争なんてできるわけがないと思っていたので、油断して真珠湾攻撃を食らうのです。そういう日本人から頑強な抵抗に合うと、ドイツ人が後ろで援護しているんじゃないかと思うわけです。そして、自分の友軍を殺されるとすごく怒り狂ってめちゃくちゃ残虐なことをするというのが、お決まりのパターンなんです。これは、アメリカも日本に対して攻撃をしましたけれども、もっと大きな規模で日本は中国に対して侵略を行いました。それが、兵長団事件とか南京大虐殺というものを生み出していくわけです。それは、単なる残虐行為にとどまらず、戦争の指導の誤りの結果にも影響を及ぼします。

それはドイツの、ソ連に対する戦争も同じです。独ソ戦の判断の間違いの背景にあったのは、どうせロシア野郎は弱いに違いないという考えがヒトラーの判断をゆがめるわけです。背後に人種差別的なものがあったから、そこから暴力が発生し、その暴力が戦争に転嫁すると、必ず残虐行為とか、そしてそれ以上の判断の誤りの結果になります。そのよく似たパターンとして、日中戦争です。

今後の日本がどうすべきか
 まずアメリカとの間に話し合いを行い、日米安保体制を一度解体し、国防の付けを全部沖縄に追わせている状態は非常によくないです。だから、まずは沖縄を独立させるべきであって、その独立した沖縄との三国間で軍事問題をどう処理すべきかということを話し合い、アジアの平和的安定をどう達成していったらいいかという問題を話し合う必要があると思います。
日本はバブル期であれば、こういった諸問題を解決する力があったと思います。もやはその力は日本には無いのだけれども、東アジアの政治的安定と戦争の回避という問題をアメリカに依存するのではなくて、東アジアに住む人々の間で、それを実現していく道をとらない限りは、この属国状態は絶対に逃れられないし、そしてそれがある以上は、中国とロシアとの対立関係も解消できないのです。そのための戦略的解消を自分の頭で考えるということをやっていかない限りは、日本社会の自立も無いし安定もないのでしょう。