第82回目(2018年2月)の課題本
2月課題図書
魚川 祐司 の 講義ライブ だから仏教は面白い!
ちなみにこの本、非常に現代的な解釈による仏教論です。確かにブッダの歴史を調べたり、
経典を読むと、そんなことが書かれているけど、いくらなんでもここまでラディカルに解
釈するか?ってくらいぶっ飛んでいて、私は非常に驚きました。
だってブッダの最初の教えって、「ニートになって、世界を終わらせよう」だったんですから。
今、ニートや引きこもりをやっている人には福音になるんじゃありませんかね。
【しょ~おんコメント】
2月優秀賞
今回は過去最多の37人の方が投稿してくれました。さすがにこれだけの人数になると読むのが大変ですね。
そしていつものように一次選考を通過した人を発表すると、H.Jさん、LifeCanBeRichさん、
wasyoiさん、kawa5emonさんで、優秀賞はwasyoiさんに差し上げる事にしました。おめで
とうございます。
【頂いたコメント】
投稿者 BruceLee 日時 2018年2月25日
「結局、仏教とは何なのか?」
本書を読み終えて暫し、湧き上がって来たのが上記疑問である。なるほど、本書にて仏陀の最初の教えは理解出来た。が、我々凡人に取ってそれは何を意味するのか?がよく分からなくなってしまった。一般的なイメージでは人々が宗教に求めるものって「救い」だろう。「あ~辛い、苦しい、ヘルプミ~」な状態から救い出してくれる「縋りどころ、頼りどころ」みたいなもの。が、本書ではそこがそもそも仏陀の教えとは異なるとある。
自分なりに仏陀の教えを要約すると以下である。
「仏教は悟りを開くための宗教であり、その究極の目的は解脱・涅槃である。そもそも世の中は苦が溢れるように出来ている。何故なら人間は生まれながらに『割愛』状態であり、全ての行動要因には欲求がある。勿論、欲求が全て完璧に満たされる事は無いから、満たされない事実に対し『苦』が生じる。また仮に欲求が満たされても『その次』或いは『もう一段階上』の欲求が生じるから、欲求充足の行為には際限が無い。結果、私たちは常に「『不満足』で、それが今生で終了するならまだしも、死後も輪廻転生で継続する。更に厄介な事に人は今生だけでなく、過去世の業も背負って生きている。この繰り返しのプロセスである輪廻転生を断ち切り、解脱する事で涅槃に至るのだ!」
この仏陀の教えに従うとすれば、例えば赤ちゃんが生まれてきた時の対応も異なってくる。一般的に子どもが生まれると、その親からすれば「生まれて来てくれてありがとう!」だろうし、親類・世間からは「おめでとう」だろう。が、その赤ちゃん、もしかしたら前世で輪廻転生を解脱する修行を散々積み重ね、「ひゃっほう!これで涅槃に至れる~」と嬉々として死んでいった人かもしれない。だとすれば赤ちゃんに掛ける言葉は、「あらら、また人としてこの苦の世に生まれてきちゃったのね。残念だったね~ご愁傷様」みたいな、生まれたばかりなのにお悔やみ申し上げる事態になりかねない(笑)
なのでここで考えてみたい。確かに仏陀の最初の教えを集約すれば「ニートになって、世界を終わらせよう」だが、現実問題としてそれは難しい。人が食ってく為には仕事をして報酬を得なければならないのだから。だとしてもホントにこの世は苦ばかりだろうか?自分が半生を振り返ってみると、そりゃ嫌な事も苦しい事もあったけど、嬉しい事や楽しい事もあった。大半の人の実感もそうでは無いだろうか?確かに人間は我欲の塊だ。全く邪心の無い筈の赤ちゃんも最初に「おっぱい」を求めるのだから。
注)この「おっぱい」は本書で使われてる意味合いとは異なり、純粋に赤ちゃんの空腹を満たす食材を意味する
そして成長するに従い人は更に欲求を広げていく。その過程で必ず人は欲求が叶わない事態に遭遇し苦悩を味わう。その時見えているのは「欲の対象 X 自分」のみだが、仏教の存在により、ここに第三者としての視点を加える事が出来るのではなかろうか?「いやいや、そもそも苦を生じさせてるのは自分な訳さ」と理解していれば、欲求が叶わない事態を絶望とは思わないし、「ならば捉え方を変えてみたらどうなるかな?」という試みも実践出来る。一方他者に目をやれば、傍からすれば羨ましい限りの人生を送っているように見える人もいる(逆の人もいる)が、実体は違っていた、なんてよく聞く話で、だとすればみんな大した事無い訳だ。何故ってこの世に生まれた我々全員が「解脱出来なかった残念な人たち」なのだから。だからこそ「お互い様」とも言えるのではなかろうか?
そのためのツールとして仏教を捉えるなら、その存在意義は大きいと思う。但し、重要なのは「縋りどころ、頼りどころ」では決して無く、その逆で、己の欲望を見つめ直す厳しい態度・姿勢が求められる自己研鑽のツールなのだろう。それがあって初めて「これって本当に自分の欲求なの?」と自身を見つめ直してみる、というプロセスを組み込む事が出来るのだから。結果、自分的に仏教とは「自分が第三者の目を持つためのツール」と解釈するのが最もスッキリするのだが。。。
投稿者 3ju3 日時 2018年2月25日
だから仏教は面白い!
現代の日本で以下の事を公の場で述べる人が現れたという事は大変歓迎すべき事だと思います。
・『有為の「世間」からは区別される、無為の「出世間」の領域が存在しているからこそ、生成消滅を繰り返す苦なる輪廻の世界から、私たちは「解脱」することができる』
・『(「智慧」が生じる瞬間とは)不生不滅の涅槃という対象を、心が認識する経験である』
・『気づきの実践に対する意志的な努力を手放した瞬間に、決定的な経験をして、そこで解脱に達(する)』
なぜこれらの事を公の場で述べられる事が歓迎されるべき事だと思うのかと言えば、一つには、それらの特徴はまさに伝統的な日本の仏教の真骨頂だと思うからです。
日本には多くの妙好人と言われる人達がいます。特に有名なところでは例えば讃岐の庄松(しょうま)、物種(ものだね)吉兵衛、因幡の源左、浅原才市、六連島のお軽という人達があげられるでしょうか。
それらの人たちはそれぞれ自力無効の極致に立たされ『心が涅槃という対象を認識し』他力を感得するという『決定的な経験』をした人なのですが、それらの人の『智慧』を得る前と得た後の言動が語録となって伝えられていまして、知識で得られるものではない『智慧』を得た人の言動をよく知る事が出来ます。なお、それらの人の中には記念館が建てられている人もいますので、興味があればそこを訪れてみるのもいいでしょう。
また、寺参りをする一般庶民の最大の関心事は、どうしたら自力を捨てる事ができるのか、どうしたら他力になれるのかという事で有りました。
「『自力を捨てなさい』そして『自力を捨てようとする心も自力だからそれも捨てなさい』と言われるけれども、どうすればいいのか分からない」
ここが途方に暮れてしまう様な大変なところで、そういう意味ではシーハー比丘尼と一緒なのです。浅原才市は30年以上この点で苦労したと言われています。ともかく、お寺参りは自力を捨てて他力に帰する為にしていたものなのです。
それを思えば「小乗」も「大乗」も変わるところは無いのでしょう。どちらも『「出世間」の領域が存在』するから、『(自力を捨てて)決定的な経験を経て』『涅槃という対象を、心が認識』するのですから。もっとも、日本の仏教の用語を用いれば、それらは涅槃や極楽浄土であり、本願に帰す、正定聚(しょうじょうじゅ)に入る、往生一定(おうじょういちじょう)になる、一心になるといった表現になりますが。なお、これを上の妙好人の言葉で言えば「浄土貰うて 娑婆におる」「世界虚空が みな ほとけ」「往生は いまのこと」(浅原才市)などになります。
そしてもう一つの理由は、現代社会においては、公の場ではそのような『解脱』についての話が全くと言って良いほど聞かれなくなってしまったからです。また、一般の人たちからも忘れ去られてしまったかの様でもあるからです。それは明治維新と敗戦によって伝統が失われて来てしまった為、そして科学がまだまだ及ばない深遠な領域に対する謙虚さをなくしてきてしまっている為に、科学によって説明出来るもの以外については公の場では発言しにくくなっているからなのかもしれません。その為、今では知っている人しか知らない、学者でも知らない人は知らないという状況かと思います。この本の著者の魚川氏はどうなのでしょうか。あえて日本の仏教との共通点については触れないのでしょうか。願わくは魚川氏の様に仏教を一般人に解りやすく説明できる人によって、『解脱』という観点から日本の伝統仏教の中身を広く一般の人に紹介してもらえたら嬉しく思います。
自分にも、上記のことが広く世の中に知られて一般常識の様になる為の手助けが何かできたらいいなと思います。
(参考文献)
https://www.amazon.co.jp/妙好人の世界-楠-恭/dp/4831886033/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1519542082&sr=8-1&keywords=妙好人の世界
投稿者 audreym0304 日時 2018年2月26日
感想-講義ライブ だから仏教は面白い!
今まで多少知ったつもりになっていた仏教が、本来の意味ではまったく違っていたという衝撃の一冊だった。ページのあちらこちらにしょうおん塾のエッセンスが見え隠れするのも面白く、実は現代だと仏教は自己実現や成功哲学につながるんじゃないかとおもう。
世界を滅ぼすニートとなれ、というヤバイ教えが仏教ということだが、仏教の教えは一神教の聖典である聖書とコーランとはその内容や印象が大分異なるんだな、と改めておもった。各聖典の概要は、私は以下のように感じている
旧約聖書:ユダヤ民族の歴史、苦難、生活のルール、祭祀、病気の対応など等を書いている。かいまみえる神様のメンヘラかつサイコパス感がヤバイ。
新約聖書:弟子たちによる「おれのお師匠さん神の子ですごいんだぜ」という宣伝。その師匠はユダヤ人で当時の社会では隣人への愛を説くアウトサイダー
コーラン:神は全てを知っているとし、あらゆる例をだしてクドクドと神の教えに従って正しく生きろと民に説教。時々ヒートアップして民の行いに神様が感情的にキレる。
これら3つの一神教の共通点は
・神様が同じ
・「産めよ、増やせよ」を説く
・現世を正しく生きることで天国へ行くことが約束され、あらゆる苦しみから解放される
などなど、兄弟宗教なので非常に似ている。
特に「産めよ、増やせよ」の部分は仏教が説く「異性とは目もあわせないニートになれ」とはまるで反対だ。
仏教が説く「異性とは目もあわせないニート」と言うのは現世の苦しみである「渇愛や不満足」を乗り越えた先の最終形態だと思うが、現世の苦しみは仏教が広まった地域も一神教が広まった地域でも同じはずなのに、なぜこんなにも正反対の宗教が存在しているんだろうと本書を読みながら考えた。
仏教ではあらゆる生産活動が不満足や渇愛の根源となるように感じる。どれだけ生み出しても、欲しいものをどれだけ手に入れようとも「もっと、もっと」と手に入れれば入れるほど、どんどん際限なく欲しくなる状態に人間は簡単に陥ってしまう。
「あれが欲しい、これがほしい」
と常に自分が欲しいものに目をむけ、ないものばかりを数え、それらに意識を集中してしまうがため、つねに不満足、渇愛を覚える。
しかし、一神教では仏教では不満足や渇愛の根源になるあらゆる生産活動が神によって、推奨されている。一神教を信仰する人々は死後にあらゆる苦しみから解放されるからと言って、現世に存在している間、不満足や渇愛は感じないわけがない。むしろ、苦しみが解放されるならと目の前の快楽に溺れる人もいるだろう。
同じように「あれが欲しい、これが欲しい」と渇愛し、不満足を覚える人々が、目の前の快楽以上にその苦しみを和らげられる現世での行為が、
ノブレス・オブリージェ
礼拝
信仰
喜捨
と言われるものではないだろうか。
これらは実践すべき行為として、神から申し付けられている。これらの行為は自分が欲しいものや一向に満たされることのない欲望から人間の集中を解き放ち、欲望から人間の思いを別のところに移す役割があるのだろう。特に礼拝は仏教の瞑想と同様の効果があるんじゃないだろうか。
渇愛と不満足の根源であれど、あらゆる生産行為からもたらされる利益や果実を自分以外の人々、しかもそのほとんどが自分が持っているものを持つことすらできない人々に分け与える慈善となる。欲望から集中を解き、たとえその瞬間で終わろうとも無我で無常の時間を凡夫でも経験できるのだろう。しかもこれらの行為は善行とみなされ、積み重ねることで凡夫でも死後天国へ行くことが約束される。
仏教に限らず多くの宗教はその背景にある神様や偉大ななにかや成立した地理的環境には関係なく、
人間を満たされることのない渇愛から解放するような設計
がされているのかもしれない。
その見た目や考え方は全く正反対のように見えても、その目指す方向は「人間を満たされることのない渇愛から解放する」ではないのだろうか。
神様や偉大な何かは人間の行いに対して何かの取引をする相手ではなく、人間を見守り道を示す存在というのが正しいのだとおもう。
イエス・キリストもゴーダマ・ブッダもムハンマドもすでにこの世にはないが、渇愛、不満足に苦しむ人々がいかに苦しみから解放されるかの道を見出し、苦しむ人々にその方法を伝え、進むべき道を示した人間だと思う。
彼らが本当に伝えたかったことが「人間を満たされることのない渇愛から解放する」であれば、成功哲学、自己啓発、瞑想、マインドフルネスに姿を変えて、現代人が目にすることができるようになったのも、正しく伝えた人々と後世に気づいた人々がいたからだろう。
本書に出会えたおかげで宗教に関して自分の中でうまれた考えが、今まであった疑問の隙間を埋めてくれたような気がする。人は解脱も悟りも仏陀どころか阿羅漢にも簡単にはなれないだろうけど、欲望から一瞬でも目をそらせ、自分が持っているものを誰かに分け与えることで他の人をちょっと幸せにすることはだれにでも簡単にできる。この簡単な誰かをちょっと幸せにする行為が人間を満たされることのない渇愛から解放する方法で解脱や悟り、阿羅漢に近づく一歩なのだとおもう。
投稿者 toshi121 日時 2018年2月26日
「だから仏教は面白い」を読んで
日本では「葬式仏教」などとも言われているが、これまで正に葬式の時ぐらいしか縁がなく、また学校教育で「大乗仏教」、「小乗仏教」という単語は学んだものの、その中身や差異は全くわからないなど、仏教とはどのようなものかをほとんど理解していない状況であった。そして、そもそも仏教とは何かを学ぶ必要を感じておらず、またとっつきにくいものであると思っていた。恐らく日本人の大多数は、私とほぼ同じような状況であると考えている。
率直に言えば、今回の課題図書が仏教に関するものであったことを知った時、あまり気乗りがしなかったのが実情である。ただ、こうした機会でもないと、仏教に関する本を読んでみることもないと気を取り直して、読んでみた。
講義における問答形式で、比喩が多く取り入れられているなど、わかりやすく、興味を持って読みことができた(「おっぱい」の話が繰り返し出てくるのには笑ったが、実感しやすかったのも事実であった)。なるほど、こうした捉え方をすれば、仏教も面白いと感じることができた。また「輪廻」、「悟り」など耳にする機会はあるものの、よくわかっていない単語について、一定理解することができたことも収穫であった。仏教が、これだけの長期に渡って、廃れることなく続いてきたことも理解できると、若干なりとも実感した次第である。
一方、自分が何を目指して、更に何を学べばよいのかは、明確にできていない状況である。宗教を信仰することは望んている訳ではないが、様々な宗教に関する書籍を読むなど、知識の習得に取り組んでいく所存である。
投稿者 ws0103 日時 2018年2月27日
読書感想文「講義ライブ だから仏教は面白い!」 魚川裕司
この本を読み終えて考察した内容を以下のとおり記載したい。
1.輪廻転生について
仏教の世界というのは、基本的に輪廻転生が信じられている世界ということがオーソドックスな見方だということには非常に納得した。
たとえ、今の人生で上手くいかないときがあっても、それは修行であり、長い目でみてそれを乗り越えてこそ、次の人生には良いことがあるのではないかと思う。今生は、長い輪廻転生の中の修行の一つだと考えると、どんなに辛いことがあっても人生を途中で投げ出したりはできないと思う。
「あの世」や「来世」があるのかは、死ぬまで誰にも証明できないことだと思うが、そうした世界があると心の奥底から信じた方が今のこの生涯を精一杯生きることが出来るのだと思う。
また、輪廻転生の考えとして、私たちは変化を続けながら常に生成消滅を繰り返しているという事実についてもなるほどと感心した。昨日の自分は今日の自分と連続はしているが、まったく同じものではない。それが続いていくと果たして1年前の自分は自分なのだろうか。そうではないのだと思う。それでも、決して忘れてはいけないのが、過去の自分よりも今の自分の方が少しでも成長を続けていくことができると確信できるよう日々を過ごさねばならないと思う。まさに「仏教のいわゆる輪廻はあたかも蚕の変化のごときもの。」ということだと思う。
2.仏教を実践するということ
著者は、ブッダのいうとおりの非人間的でシンプルな教えに従って実践すれば、無為の涅槃の覚知という、「物語の世界」の中では決して見出すことのできない価値ある経験へと修行者を導いてくれると述べているが、結局のところ、瞑想を実際にやってみないと決して理解できないということだと思う。
瞑想のもつ力として仏教が2,500年もの間続いてきたという事実をどう考えるべきか。仏教を結局本当に理解しようと思ったら、本を読む勉強だけで実践してみるしかないということなのだろう。
これは、自分を含めた現代人において、理屈をもって説明をしてもらわないと実践しない、頭で先に考えて理解したつもりになってからでないとなかなか行動をしない点を反省すべきだと思う。まずは、損得勘定を抜きにして、どんなものでも考えすぎる前に行動することが必要なのだろう。
3.最後に
本書の狙いは、仏教の思想が自分自身に価値があるかどうかを教えてくれるものだったと思う。その点では、間違いなく知的好奇心を刺激してくれた良書であった。本書を読んで、今後の興味範囲に間違いなく「仏教」というジャンルが追加されたのが一番の収穫であった。著者の 「仏教思想のゼロポイント」も併読して、仏教の悟りについて考察を深めていきたい。
今月も大変面白い良書を紹介していただき、有難うございました。
投稿者 diego 日時 2018年2月27日
生かされて生きているということ
本書を読んでの第一印象を大学生の娘に語る。
「これって、宗教の話に思えないよねー。
思想と実践についてだから。信仰とか、祈るとか、そういうのは出てこない。」
「マックス・ウェーバーはね、『宗教とは習慣である』と書いたらしいよ。」
これを聞いて、まず打ちのめされた。
私は、本書に書いてあることが、ちっともわかっていないのかもしれない。
仏教は、崇拝の対象を持たないのかもしれない。
それが初めの印象だったのだ。
崇拝する対象の必要が感じられなかった。
好ましいものをつい追ってしまうという例が出ているが
例えば、傷ついた自分に固執したり
認められたい、自分だけが勝ちたいという欲望を強く持っていたり
熱狂していたくてピークを追い求めたりしていると
その間は自分のこと、特に自分の正しさばかりに集中してしまい
周りが見えなくなっていく。
そんなことにも気付かない中で、とあるカウンセリングを学んだ。
自分の思考、「こうやったらうまくいくんじゃないの」といったアドバイスを
すべて脇に置いて、ひたすら相手の話を聴き続けるという訓練をした。
欲望も固執も、逆に自分が話したいという気持ちもすべて脇に置いて、
相手に寄り添い、ただ一緒に居て、思考を整理していく。
それを続けると、状況が整理されて、見えなかったことがはっきりしていくにつれて、
様々なことに気づき、理解が生じ、答えがひとりでに生じる。
話をする人も、話を聴く人も、
二人とも自分を脇に置いた状態になった時に、問題の解決策がひとりでに生じるのだ。
もちろん、話をした人は、まだ解決すべき現実の問題があるのだが、
答えがみつかった時には、とても穏やかで静かな状態になる。
固執や欲望が鎮まっていくと、
ああ、他にも方法があったんだなとか、
こんなふうでも成立するよね、などと
もっと多くのことに気付く。
その状態が続くと、
強烈にしばられそうになる自分にも気付くので
そこにはまらないよう鎮めて戻すと
恐怖までもが減って、
まるで何をも選択できるような、心静かな状態になる。
その状態で居続けることができれば
狂気のような渇望は、確かに、自分の中に生じることは減っていく。
確かに、これは一つの習慣で、在り方である。
この状態でいる時間が長ければ、楽に生きることができる。
落ち着いて、道を歩むことができる。
ただこの状態は、継続は案外大変である。
日常がストレスフルだと、また元の、我欲まみれなってしまったりする。
例えば、きっかけは大したことがなくても、嫌がらせを受けたと感じて
それが繰り返されていると感じて、嫌いになった相手がいるとする。
するとつい、自分の正しさを主張したくなるし、イライラもする。
そこで本書。
本書によると、苦しいことは起き続ける。輪廻の度に苦しんで死ぬ、
だが、この輪廻とは、今の生でも起き続けているという考え方ができる、ということのようだ。
輪廻の時間軸の長さは長すぎて、妄想するしかないが、
今の生で、何度も何度も繰り返される苦しいことについて、それを輪廻という言葉で置き換えると、
これはもうクリティカルヒットだ。
例えば、いじめられるという人間関係を経験して、苦しんで、そこから抜けて楽になる。
その後、また似たような人間関係に陥る。
その度に、様々なことを学び、もう同じ目にはあわないと思うのだが、
また同じような、いじめられる可能性のある相手との関係を選んでしまっていたりする。
その時に一体、私の中で、どんなことが起こっているのだろうか。
「もういじめられたくない」という渇望はあるだろう。
だが、いじめられた経験を業(これも、本書で使われていた言葉の意味で使っています)として帯びて、抜け出せないのだろうか。
そう考えていくと、輪廻も業も、私にとっては妄想ではなくなり、実体を伴い、対応するための何かとなっていく。
そうはわかっていても、穏やかな状態で居続けるのは、時にむずかしい。
自己主張したくなりますもん。
自分にしかできないことを、自分らしくやってみたくなりますもん。
こう考えていたあたりが、私の渇愛(これも本書の言葉から)だったのかもしれません。
世間で生きていて、穏やかな状態を保ち続けるのは、時に大変と思いますが
業を落としつつ、心静かで居られたらと思うのです。
自己主張する必要は無く、自分らしくいる必要もない。
ただ、内から起こる穏やかな流れに従っていく。
自分らしくあると感じるのではなく、集中していて、自分がいなくなって
それでもたくさんのことに気が付いている状態。
習慣やfulfilledな在り方が、宗教と呼ばれているのなら
私は長いこと、そういうものを求めてきたのかもしれません。
では、私に必要なものは、習慣であり、在り方であったのですね。
宗教と呼ばれているものの概念が変わりました。ウェーバーも読まないと。
本書を読んで、仏教で使われる言葉の定義、イメージが変わりました。
しかも本書は、一度定義を理解をしたと思っても、
これまで使っていた言葉の概念からなかなか抜け出せないのだな、という体験を与えてくれました。
言葉の概念が違うと、同じことを言っていても、全く違う意味になることを痛感しました。
今月も、ありがとうごさいました。
投稿者 H.J 日時 2018年2月28日
だから仏教は面白い!
そもそも、中国経由だったり、朝鮮経由だったり、紆余曲折して日本へ伝わってきた仏教。
日本に伝わってくるまでに様々な文化の人々や別々の言語を通してる。
日本に伝わってからも浄土宗や日蓮宗に分かれたり、さらにそこから分かれたり。
日本だけでも細分化しすぎて、その上、誰かの都合で「はずだ論」で無理やりねじ曲げたりして、本来のブッダの教えとは離れたものになっている。
ブッダの死後に2つに分かれ、伝言ゲームの様に曖昧なまま伝わった上に、誰かの考え方が足されたり変化したりしてる訳だから、当たり前と言えば当たり前だ。
“仏教論”と言う方がしっくり来るかもしれない。
ただし、それは時代や地域に合わせた変化とも言えるので、悪いことではない。
ただ、それだけにすごく解りにくいという面も持つのが仏教だ。
だからこそ、魚川さんと宮崎さんのコンビの伝える力に驚いた。
ブッダの教えをここまで言語化出来る事、そしてそれをわかりやすく伝えられる。
抽象的な仏教を具体化して説明出来る技術に尊敬の念を覚える。
それと同時にブッダの教えに込められた想いが伝わってきた。
ブッダは格差を埋めるための教えを説いたのではないか?
当時の格差。カースト制のことだ。
それを裏付けるように、皆平等だと言っている。
”どんな人でも不満足に終わりはない。”
や
マーガンディヤの娘に対する糞尿に満ちた発言も
裏を返せば、容姿に関係なく皆平等だと言う考え方があるからではないか。
自ら厳しい修行に身を置き、実践する事で伝えている。
そう考えると、”世の流れに逆らう”
という一連の教えも、見方を変えればカースト制の支配している格差に逆らうことは”出来るよ”という意味にも捉えることができる。
何よりも、
”自分の頭で考えて行動しなさい”
というスタンスである。
このことは、『不放免は不死の道。放免は死の道(P312)』からも読み取れる。
だからこそ、ブッダは答えを教えずに方法を教える。
答えを教えられる事だとしても全部教えてしまえば、人は考えずに楽な道に進む。
楽な道に進んでしまえば、思考を停止して世の流れに乗るのみだからだ。
それは「放免」である人を増やすことになり、死の道なのだから。
つまり、「不放免」の人を増やす教えを実践し続けてるのだろう。
そう考えると、多数に枝分かれしている今の仏教はブッダの狙い通りなのかもしれない。
「気づき」を持って、自分たちの意思で自分たちに合った教えを残そうとしてるのだから。
他方で現代社会に話を持ってくると、この「放免」と「不放免」こそ、現代の格差を作っていると考えられる。
私の知っている限りだったり、ネット上で見る様な格差についてグチグチ言ってる人に共通することは、
「放免」
なのだ。
他人を攻撃する事にだけは長けており、自分を省みない様に見える。
何よりも自分の発言や行動に責任を取ろうとしない。
何でだろう?と思ってたけど、本書を読んで理解できた。
思考を停止してロボット化して、世の流れに乗ってるだけだからだ。
世の流れに乗り続けた自分を悪いと思う認識すらないんだ。
だから、話も合わないのも当然かなと思った。
まさに原因によって結果が生ずる。
原因に気付かなければ、どうする事も出来ない。
逆に言えば原因さえどうにかすれば結果は変えられる。
無我、つまり毎日変化している私たちに起こる全ての事に原因がある。
己こそ己の主人。
本当の意味で己の原因は己にしかわからない。
己の原因に対する答えは他人には決して教えられることではない。
だからこそ、師として教えられるのは方法だけなのだろう。
私もオートマチックな部分を再認識して、意識的に減らしていこうと思う。
しかし、捉え方一つで仏教というものの見方が変わる。
見方を変えれば感想文も一種の仏教論だ。
様々な人の仏教論を読むことも仏教の醍醐味の一つなのかなと思う。
追伸
本書を読みながら、ブッダの基本スタンスに既視感を覚えていた。
そう、先生と共通点がある。
入り口は解放して、入門は誰でも出来る。
その上で教えを求める人にだけ刺さる生きるためのヒントを説く。
そして、「放免」の人を増やす事で人々を幸せの道へ導く。
上記は飽くまで私の推測なので、間違っていたり誤解が生じる様な部分があったら申し訳ありません。
投稿者 akiko3 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読んで
宮沢賢治は童話作家という印象を持っていたが、以前賢治の往復書簡の本を読んだ時、一人の青年が家出をしたり、友人に手紙で愚痴ったり、信仰を持ちよりよく生きようとか、自分に何ができるのかとか、いかに日常を過ごすか、自分が興味があることを楽しんでいた普通の人(才能があるから100年のちまで人を惹きつけているのだが)で、童話作家になろうとしてなった人ではなく、のちの人達がその才能に魅せられ童話作家にしたのだと感動したことがあった。
ブッダについても教祖的に捉えていた。自分の知識のインストールが不十分で、また人がみたいように見ている情報(“…といったはずだ論”は日常のいろんな場面でも使われる落とし穴)をつまみ食いしていただけだった。
「仏教は社会の中で人間的に役立つ為の教えではない」とは!
ちょうど春の陽気が感じられ始めると同時に、ザワザワとした落ち着かない状態でネガティブな思いも湧いてきやすかった。それをストップしてまずは心を鎮め、他の想いを抱き心を満たすということをやってみた。日々、修業とか人生は経験、いずれ解脱の為、でもできるの?と眉唾的な思いもぬぐえずぬるい生き方をしているが、良いとこ取りする占い的に、つまみ食い的に仏教の修業の一部をすることで悪にはいかないようにとどまっているはずだ?!。
解脱ってどういう状態になることか、物に囚われず心が動きもしない、それって生きている意味あるの?と思った。だから解脱なのかと自分でつっこんだ。今、生きているといろんなことに、心が動きそれに自分をどうコントロールできるか試されている。そういう体験をしに来ているという考え、そして死ぬ時に執着なく手放せられるかという大きなお試しがある(死んだことないので手放せられるのか、そういうお試しがあるのかもわからないが)?
解脱ってそんなにいいものなのか?そこがわかっていないから追い求めようとしないのか、臨死体験した方があの世は、自由で体も軽くてずっとそっちにいたかったけど読み戻されたと、あの世があることを知り、あの世の方が心地よいとわからないと解脱を追い求められないのか?ブッダを敬い、その解脱を知識としてインストールし、修業をした人達は解脱っていいものだよということを、第一に素直に受け入れられた人達だ。
苦の元「不満足に終わりがない」、確かに自分がいかに欲望に塗れ、煩悩に翻弄されているのか自覚させられる。確かに悟れた人達からみると、自分から煩悩を発生し、それに翻弄され、苦しむなんて無駄にしか思えないだろう。凡人にはそこに快も感じてしまうからなかなかそこから抜け出せない。
そもそも仏教の肝心がわからないままでは求めようもない。読みながら怪しい技を習ったのに、結果がでないことも、肝心をちゃんとインストールし、notAをありのまま受け入れて、実践あるのみ!こうすればああなる的な考えに囚われている限りは、ありのままを受け入れていることにはならない矛盾を思った。“結果を求めず淡々と”。呼吸法みたいに秒数でわかりやすい目標に囚われがちだが、目的は何って心のゆがみを正さないと、技もどれだけ継続してるのって突っ込まれたら…。
「如実知見」さすが長きに名を残る人物、端的な言葉で大切なことを表現されている。凡人は正しい解釈も同時にインストールしないと豚に念仏だ。
八百万の神を日常に感じる日本人だからか、教祖を持たないからか“神”という言葉を気軽に使っているように、悟ったとかも軽く言っちゃうけど、解脱って、阿羅漢ってなれる人いるの?なったと言った人達はどうしてなったと言えるの?と、また頭が動く。
知識としては目新しく、目から鱗もので刺激的だったが、解ったとは言えない消化不良な感じがぬぐえない。ただ「本当に美味しいものを知ると選択肢がないから美味しいと思っていたものが、まったく美味しく感じられない」→もう求めないになるといいのかと、本物に触れる大切さ、出会い力、その為の実践を結果を求めず淡々と継続していきたいと思った次第です。
(実践してないことが多い現実がチラチラ浮かぶ読書体験で、その後ろめたさももやもやの原因かも)
投稿者 masa3843 日時 2018年2月28日
『講義ライブ だから仏教は面白い!』を読了して最初に感じたことは、
宗教の経典がこんなにも面白く興味深いものだったのかという
新鮮な感動だった。
日本では、オウム真理教の地下鉄サリン事件以降、宗教的なものに対する
拒否反応がとても強い。
事件当時小学生だった自分にとって、宗教に対するネガティブなイメージを
植え付けるには十分すぎる出来事だったし、
多くの日本人にとっても同様だったと思う。
そのような中、本書を読んで宗教というものを一括りにして
排除してしまうことは、
大変もったいないということが分かった。
2,500年間もの間、多くの人々の生きる指針となってきた知恵は、
それ相応の重みがある。
これは、聖書やコーランも同様なのであろう。
以下内容について感じたことを記したい。
①『瞑想というのは、こうすればこうなる、これをやればこれを得られるといった「こうすればこうなる式のものの考え方」によって有為の世界の中を生き続けることを、少なくとも一時的に停止すること。』(P57-58)
自分が成長しようとして何かに取り組む場合、どうしても取引的な考え方を
しがちである。
自分自身がマインドフルネスに取り組んだ時もそうであり、
結果が出ずに数週間でやめてしまった苦い経験がある。
そういった考え方をやめるための練習が、瞑想でありマインドフルネスであると
いうことは、とても大きな気付きであった。
勉強にしても練習にしても、人は成果や見返りを求めがちである。
現代人は時間がないし、無意味なことに取り組む余裕がないのだ。
でもその考え方自体が違うのかもしれない。
『 ただ在るだけでfullfilledというエートス』に至る。
そういった考え方に至ることで、何も成果が出なくても
淡々とやり続けることができる。
そうすることで、結果的に、成果につながる。成長する。世界が変わる。
逆説的だが、そういう順番なのだと改めて気付きを得た。
②「欲求充足の行為には際限がないわけです。不満足に終わりがない。(中略)私たちはそのように、常に新しい刺激を次から次へ補充していくという以外に幸福を感じる方法を知らない。」(P62)
資本主義社会を生きる私達は、刺激なしには生きられない。
あらゆる企業が我々に消費をさせようと躍起になっている。
そのような社会では、モノを消費し続け、求め続けるしかない。
確かに、このような無限ループにハマることは、「苦」以外の何物でもないと
思う。
ただ一方で、解脱しなくても、このループから抜け出す方法は
あるとも思う。
それは、幸せの物差しを変えることである。
先日、松居和氏の子育てに関する講演を妻が聞いてきた。
大変面白かったとのことだったので、私もYouTubeで視聴してみたが、
なるほどと思うことの連続だった。
一番感銘を受けたのは、2~5歳の幼児と触れ合うことで、
幼児達が幸せを感じる物差しを体感することができ、
それによって親が成長していくという考え方である。
確かに、幼児達は欲しいモノがなくても、大層なモノがなくても
幸せそうだし、楽しそうである。
幼児達を見ていると、何かを執拗に求める自分がアホらしくなるし、
そういった何かを求め続ける無限ループに意味などないことに気付く。
改めて、人生において良く生きるために、幸せの物差しの重要性を感じた。
③『頭の中で概念操作をしてみたり、「ちょっと考え方を変えて」みたりしても、(中略)私たちの行動パターンを現実に変えることはできません。』(P261)
①の気付きと似たような点になってしまうが、
知識だけでは何の意味もないということは、
自己啓発書を数多く読んで成長した気になっていた過去の自分に
声を大にして伝えたいところである。
「気付き」につながる実践。腹落ちするための実践。
シンプルに言えば、とにかく行動するということだ。
全く考え方のベースは異なるし、西洋的な考え方ではあるが、
リーン・スタートアップやアジャイル・プロセスの考え方に
近いものを感じた。
とにかくやってみる。
そこに在ること感じる、瞑想やマインドフルネスに耽る。
その先に、変わる自分がいるのであり、知識だけで変わるわけではない。
「今」を生きる重要性と必要性を改めて感じることができた良書だった。
投稿者 joyfull 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い」 を読んで
そもそも、仏教とは信仰とは私にとってどんな「存在・意味」であろうか?実家に仏壇も神棚もあったが、親が毎日、拝むのを見るだけで自分から毎日何かのルーチンをしていたわけではない。母親からご飯をあげてきてと頼まれて、あげに行く程度で、それも特段意識していたわけではない。年間の行事として、お墓参り、初詣はしていたが、だからとって、「あなたの信仰は?」と聞かれて、明確な答えを持っていなかった。
だからと無信仰かというと、墓参りに意味を感じていなかったわけでもなく、無神論者でも決してなかった。強いて言うなら、そういう認識のさせられる機会がなかったから、特に意識もしていないし考えたことがなかった。というのが正直なところである。
良くいえば、信仰が生活と共に無意識のレベルにまで同化していたとも言えるかもしれない。日本の開国後、外国から多くの人が来日してそれぞれの日本観を記した旅行記の中で「日本人には信仰がない」と記載があるものが多い。しかし、これは個人のキリスト教観から見た信仰であって、「信仰心がないわけではない」とも記して書もあることから、第三者の目から見ても理解に苦しんだのではないだろうか。
そこで、本書の『大乗仏教は同人誌』(P98)である。これぞ正に日本人の面目躍如(?)、
得意とするところで、「仏教の目指すところはヤバいものだ」という一面は、脇においておいて、使えるところ(一般に受け入れやすい)をのみを広めた結果、日本の仏教の現在があると考えます。
この状態でいいかというと、個人的にはいいとは思っていません。自分ではどうしようもできない窮地に陥った時に信仰を持っている人は強いと思いますし、ここまで生活と共にある信仰(神道・仏教)は、かけがえのないもので、十二分に学ぶ意義があり、意識して共にあるのが いい姿と思います。ただ、本書を読んで感じたことは、自分の無知さ加減で、用語をキチンと理解できていなから、本文の理解ができない。本書を読んだ前後の本当の感想は「仏教はちゃんと勉強しないとヤバイ」です。
ありがとうございました。
投稿者 shinwa511 日時 2018年2月28日
本書のような宗教に関する本を読むと、死ぬまでに自分は何が出来るか、何かこの世界に自分が生きた証を残せるのかということは、いつも考えさせられます。
小学生6年生の頃に伝記で読んだゴータマ・ブッタは、全ての生きる人の問いに対しての真理を得た人だと考えていました。人は何故争うのか、どうすれば人は救われるのか、という全ての人が生きる中で考える、様々な苦しみや不安に対しての答えを持った人、全ての人の問いに対して答えてくれる人、それが悟りを啓いたブッタだと思っていました。
しかし、本書でも書かれている通り、イエス・キリストもムハンマドも、ゴータマ・ブッタも皆、死んでしまいました。後に残ったのは、昔ここにいたという史跡と、教えを説いた経典です。それらは長い年月の中で、様々な人の手を経て今に伝わっています。”この教えは後世まで残さなければいけない。”という意思を持った人がいたからこそ、残されたのだと考えます。その教えは、世界中で今も変化し続けて、生きています。
さて、世界とは人それぞれに見えていることを指します。世界では全ての人が同じ方向を見ているのではなく、一人一人が別々の目で、別々の意思を持って行動しています。住む地域や、見方が違えば、考え方も、行動も人それぞれです。人が生きる上での根幹の疑問、本当の救いや、幸せの答えはそれぞれの価値観で違うと考えます。
最近、本当の救いとは、自分自身で考えて、ひたすらに行動することだと思うようになりました。死んでしまったブッタに対して、”自分はどうすれば救われるか。”、”自分はどうすれば悟ることができるか。”という問答はできません。それに関した書籍や伝承はたくさんありますが結局、悟りとは自分自身で考えて、答えを出さないといけないということだと思います。
仏教の入門書とも言える本書を読んで、自身が働くことによって、自らが救われるように変化して行くことが重要であると認識しました。たとえ、一生の間でただ一つのことを追い求めて、途中で獲られずに死んでしまっても、この一生は幸福であると考えることができるようになりました。生きることに気負いをせずに、人が一生のうちにできることは、ただそれだけのように思います。死ぬということは、生きている人に必ず起こる事象です。その大きな変化に自分は抗うことはできません。ただ受け入れるのです。そうなる直前まで、自分で考えて行動しなければ、救いや幸いの答えを得ることはできないと思います。
自分の力が十分発揮できる、ふさわしい場所で働き、働きに没頭する。そういう場があるからこそ、自身の刺激になり自分の考え方や行動が、より良い方へと変化して行くようになると考えます。世界や自分について、ただ諦観しているだけ、人の言うことを聞いて、ただ黙っているだけではなく、自分で考えて行動することで、自分や他の人が見ている世界をより良く変化させていくことができると思います。今していることを投げ出さずに、誠意をもって当たっていくようにします。
投稿者 ishiaki 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読んで
うちでは毎朝、父が仏壇にお線香をあげ、その後、神棚にお神酒(水)をあげていますが
特にどこか特定の宗教に属しているわけではなく多分、その儀式を行えばなにかしら
ご利益があると思っての行動で(仏壇にお線香は祖父&祖母の為)
やはり人は神社や仏教になにかしらの見返りを求めて生活しているのに仏陀は
思うこともしないという非常に厳しい修行をして自分のモノを学ぶ姿勢はまだまだだと実感しました
投稿者 LifeCanBeRich 日時 2018年2月28日
~多様性を楽しむ~
まずは、本書の読了前・後の違いについて。
“核心や基本部分が抜けた状態での学びは味気ない”
私が仏教について興味を持ち出し、本を読み始め、展覧会に足を運び始めたてから3年くらいが経つ。その間、それなりに質の伴った学びから糧を得て来たつもりでいたが、実はそうではないと本書を読んで痛感した。なぜなら、それまでの学びは仏教の核心的な概念や基本の知識を持たずに、表面的な情報や分かりやすい逸話などに触れる味気ないものに過ぎなかったからだ。現に、本書読了後に展覧会に足を運んだ時、本を読んだ時、私は新たな立ち位置から今までにない感情の高まりや思考の深まりを仏教に感じたのだ。
たとえ対象物の見た目は全く同じだとしても、核心や基本が在ると無いとでは感じ方、見え方、考え方が全く違ってくる。譬えて言えば、見た目は全く同じ肉ジャガでも出汁が入っているのと、入っていないのでは、美味しさは全く違ってくるようなものだろうか。
そのぐらいの味わいの違いを本書の読了前・後で感じ、また基礎・基本を学ぶことの重要性を再認識した。
次に、理解できない事象や思想に遭遇した時について。
今回、私は本書を読むことで仏教の核心的な概念や基本的な用語などを知ることができた。しかし、それらをしっかりと理解し、腑に落とせたかは別問題である。
最も厄介だと感じたのが、「ニートになり、異性の誘惑を断ち切り、そして世界を終わらせよう!」という思想である。これを、実際に体験してみようとは現在の私は全く思わない…。そして、この「労働と生殖の放棄」という世の流れという“傾向性に逆らう思想“を
“つい先日、人生100年時代に向けて『長く働く準備をしよう!』と決意したのに…!? 子孫を絶やすことが正しい道なの…!?“
という“私の現実”と辻褄を合わせようとすればするほど頭の中が混乱した。
しかし、そんな私の目を覚ましてくれたのが、
「『仏教というのは科学的で合理的で、近代の知的枠組みにきっちり収まることを言っているんだ』ということにしてしまいたい、という動機が根底にある』(P.137~)
という一文である。いつの間にか私は科学原理主義者の陥りやすい「はずだ論」という罠に嵌っていたのである。
そこで、科学や論理の枠に無理にはめ込むことを試みるのを止めて、仏教が二千五百年以上もの間途絶えることなく世界で広く伝え続けられて来たという事実をそのまま受け止めて、ここは
“まっ、そういう考えもあるんだぁ”
とエポケーをすれば良いのだと気がついた。
再び、肉ジャガを持ち出せば、あの味っけのない出汁自体が、なんで、どのようにして肉ジャガの味をあれほど深くするのか?という理由や変化の過程を科学や論理では解明できないのに
“まっ、美味しっからいいかぁ”
と結果だけを受け止めて悩まないことと同じだろうか。とにかく、
“この世の中は、非科学的なことで溢れている”
というSS塾の基本中の基本の価値観にたち返ることが出来た。
さらに、エポケーについて。
この世の中は、無数の非科学的な現象で構成されている。と、同時に無数の多種多様な価値観でも構成されている。多種多様な価値観は対立を生み、時として同じ人間同士を言論や暴力を伴った争いに巻き込む。その最たるものが、世界各地で起こっている宗教がらみの戦争や紛争であろう。
そういう世の中を生きて行く上で、エポケーは非常に有用な概念・態度・手段になりうると思う。理解することが出来ない価値観に遭遇した時に、それらを排除・否定することなく自己の内部にただ保留することでより柔軟に生きることができるのではないだろうか。と、私に大仰な視点を持たせてくれたのが、他でもない著者の仏教に対する態度だ。
この視点を展開させながら、最後に「傾向性」と多様性について。
「『仏教』という宗教運動は、その内に圧倒的な多様性を含んでいます」(P.106)
と著者が述べるように、仏教は多種多様である。東南アジアに広がる「オリジナル」的な存在の小乗仏教に対して、東アジアに広がる「同人誌」的な存在の大乗仏教。日本に伝来した大乗仏教について言えば13程に分派し、その先にさらに細かい派閥に分かれる。
その大乗仏教は、著者が5年かけて学んだ小乗仏教の価値観を蔑み、排除・否定するかの態度を取っている(実際に、本書読了後にそのような本を読みました)。ゴータマ・ブッダの教えをより忠実に伝えるのは、小乗仏教の方だというのに…。
しかし、著者はこの様な理不尽とも言える状況において、
「私自身は、『本当の仏教』とか『正しい仏教』とか、その系統の話には関心が全くないので、大乗経典が『二次創作』であるからといって、それに価値がないとは思いません」(P.100)
と、仏教の全体を俯瞰して眺め、時には自身と違う価値観側に立って考えを巡らせている。大乗仏教側の多くの人は自らの価値観、嗜好に従って、人間の持つ「傾向性」に思考や感情や行動を流れされて偏りを見せる一方、著者はその「傾向性」に逆らいながら仏教の中道にいることを試みているようだ。
そして何より、著者は仏教の行学をこころから楽しんでいる。私は、本書と別著「仏教思想のゼロポイント」を読んでつくづくとそう感じた。その楽しみを生む源泉は、おそらく著者の立場、思考、行動を偏らせずに
“多様性を自己の内部に作りだす”
態度ではないだろか。この著者の態度に、多種多様の価値観で構成された世の中を豊かに生きるヒントを見たことが本書からの得た一番の糧である。
ちなみに、鰹節の出汁であるうまみ成分は、イノシン酸と約20種類にも及ぶアミノ酸で構成され、それらの説明不能な相乗効果が肉ジャガの豊かな味わいに大きく貢献しているようだ。
さぁ、これからもっと、もっと多様性を楽しもう♪
~終わり~
投稿者 mmnn 日時 2018年2月28日
人生は課題の連続である。
しかし、乗り越えられない課題はない。
なぜなら、道は必ずどこかにあるから。
「〇〇ー○を○に出して〇〇。」
これが、これが課題を乗り越えるヒントになるのではないか。
今回の課題図書からの気づきの要点である。
(しょ~おんさんのセミナーのネタバレになりそうなので
伏せ字にしています。)
著書の前半部分では、人間の煩悩について述べられ、
悟りをひらくこと重要性を述べている。
しかし、一度悟ったかと言って、全てが解決するわけではない。
また、新たな課題が目の前に発生するものなのだ。
人生とは、この課題(人によっては問題とも言うのであろう)を
を乗り越えて、次の新しい課題にチャレンジするものだ。
こうして、自分を高めていかないといけないのであろう。
今月初旬に、しょ~おんさんのメルマガに
かなり衝撃を受けた。
「全ての問題に解はある。問題が解けないのは
あなたが見つけていないだ」
この価値観が本著書と、私の中で結びついた。
そうか、人生において、問題がなくなることはありえないんだ。
でも、答えを探せば必ずあるんだ。その答えをまだ知らないから
戸惑うだけ。
人生では絶対に「困って」はいけないから、
戸惑っていないで、さっさと答えを探せばいいだけなんだ。
そして、その答え探しのヒントがこの著書で述べられていることと
セミナーで教わったことと更に私の中で結びついた。
それが
「〇〇ー○を○に出して〇〇。」
である。
セミナーで教わった「身口意」と
著者が本の中で述べていた「心口意」。
身と心の字は違うが、
物質とエネルギーは交換可能であるから、
実は身と心は同じである。
そして、「身口意」と「心口意」、双方に
共通しているのが、これである。
「〇〇ー○を○に出して〇〇。」
別の表現をすると、
結局、問題解決とは、自分の考え方を考えればいいだけなのでは
ないだろうか。
考え方とは「価値観」のことである。
今までの課題図書、「逆さメガネで覗いたニッポン」、
「自分が信じていることを疑う勇気」、
「LIFE SHIFT」などを読んで、
自分の価値観は相当変わってきた。
問題の解決、課題の克服で、他者や自分以外のモノを変えるのは
難しい。しかし、自分を変えることは、意思さえあれば
できるはずである。
なぜなら、自分一人でできることであるからだ。
あとは、自分がやるかやらないか。
ただ、それだけである。
無意識に習慣化されてしまった自分の行動様式を
変えるのは難しそうであるが、自分の価値観、
考え方さえ変えていけば、実は自分の行動様式を
変えることもそれほど難しいことではないだろう。
行動を変えるのと、考え方を変えるのでは
どちらがとっつきやすいか。
私は考え方を変える方が簡単だと思う。
なぜなら、考え方を変えるのは頭の中での空想を
変化させればいいからである。
空想は自由でしょう。
好き勝手に妄想すればいいから。
なら、自由自在に物事を考えられるようになって、
価値観を変える方が、他者や他のモノをかえるよりも
相当楽なはずである。
自分の価値観を変えて、
「〇〇ー○を○に出して〇〇。」
こうすれば、現実を変えるきっかけになるのかもしれない。
妄想をもとにできることからやってみよう。
私はこの著書からこのような気づきを得ました。
投稿者 wasyoi 日時 2018年2月28日
#だから仏教は面白い!
400ページを超えるボリュームの仏教の本、ということで、最初はとっつきにくいのかと思ってなかなか読みませんでした。でも読み出したらそれが見事に裏切られました。
事実、この本には何度も仰天させられました。
ブッダの一番の教えが、「異性とは目も合わせないニートになれ。」とは…恐れ入りました。
これまで仏教には興味がありましたし本も掴んだことはありましたが、理解不足もあり結局なかなか読み進まず、ついには苦手意識も持つ有様でした。
でもこの本は違います!特に男子は理解しやすく、読みやすいと思います(笑)
特に心に残ったのは、
p57 『瞑想を何かの目標を達成するための「手段」だと考える。だから瞑想のための技術や時間が、結果を回収するための「投資」になってしまう。』
という所。そもそも瞑想はそういう営みではなく、ただ在るだけで十分に満たされているという「この世界における居住まい方」が瞑想だ、と言われます。瞑想の考え方として持っておきたいと思います。
p104 『オリジナル、二次創作、三次創作、スピンアウト、メディアミックス、すべてを含んだ総体が「仏教」という思想運動である』
ここのあたりも読んでいてひっくり返りました。
大乗仏教を大胆に「同人誌」とは、何という理解のしやすさ。
センスにただただ脱帽です。
それらが今に伝わり残っているからこそ思想の一つたりえるわけですね。仏教は、歴史が長いが故にとても懐が深い思想なんですね。
p65 『解脱して輪廻から抜けるまでは、新たな刺激を求め続ける不満足な生が終わらない』ということの後に、p66『喩えて言えば、RPGのレベル上げを何度も繰り返すようなものですね。』ここも喩えで腑に落ちました。
輪廻転生のもとでは、生産性のない永遠のRPGのレベル上げという人生を繰り返すだけ、と考えると、人生って虚しくない?と問いかけられているわけですね。
ブッダさんの言う通りです!(笑)
p274 『現象が如実には無常・苦・無我であるということは、究極的には「信じる」べきことではなくて、それが端的な事実であるということを、私たちは自ら「知る」ことが可能である。ゴータマ・ブッダが教えているのは、そのための具体的な方法だ』
ということは、信じるだけでは足りない、知れるということは分かる、出来る、つまりいずれは解脱の境地に立てる!ということなんですね…。願望実現と同じロジック。
昔から神仙の世界に憧れておりますので、もっと深く知り、そして実践もしてみたいと強く思った、印象に残る箇所でした。
p384『縁生の現象の無常・苦・無我を観察し続けるという気づきの実践は、それだけでは明白な「完成」に至ることが原理上あり得ない。そこで「決定的で明白な実存の転換」が生じるためには、修行者が「縁生の現象以外のもの」、即ち「不生であり無為である涅槃」を覚知する必要がある。』
難しいですがここも大切な内容ですね。ある程度訓練をし閾値を超え一度涅槃を体感した人は、もはや現象に対して我慢をしていない。p383『少し語弊のある比喩ですが、それはあたかも、それ以外の選択肢がないから美味しいと思って食べていたものが、他の本当に美味しい食べ物を知ることによって、全く美味しく感じられなくなるようなもの』と。涅槃を知ると、欲望に沿って生きることが当然避けるべき事だとたちどころにわかってしまう、と言う事なのですね。
まったくすごい世界です。
ここまで整然と話ができるブッダとは、本当に凄まじい方だったのでしょう。
p389 『ゴータマ・ブッダの「非人間的でシンプルな教え」が私たちに与えてくれる価値というのは、「ただ在るだけでfulfilledというエートス(この世界における居住まい方)」、即ち「刺激ジャンキー」とは別のモードの生き方を、己の中にビルトインできること』
ここが肝かな、と思います。
輪廻転生が続くと考えたら、この価値が誰しも欲しくなるのでは無いでしょうか。(日本の世の中にはそもそも輪廻の考え方が普通では無いため、価値を感じないと言うことはあるのでしょうが。)
最後に番外編ですが、
p224 「苦を終わらせるためには世界を終わらせないといけないんだよ!」「な、なんだってー!!」
どう読んでも漫画MMR(マガジンミステリー調査班)の反応と同じで、作者を調べたら79年生まれの方ですね。ほぼ同世代の方がここまで仏教に詳しい著述をなさるとは…
ここでも大変刺激をもらいました。MMR世代としてはあらためて、もっと学んでいかないといけないです。
これを読んで、私は瞑想を本格的にしてみたいな、と本当に思わされました。
一読しただけでこんなに仏教が語れるようになる知識がつくなんて、なんて名著なんだ!
また折を見て読み返していきたいです。
素晴らしい本をご紹介くださりありがとうございます。
投稿者 sakurou 日時 2018年2月28日
~ 「だから仏教は面白い!」を読んで~
仏教。(私もだが)お葬式とかお寺に行ったときにしか馴染みがない。。。ただ、本書や過去の課題図書を思い出すうちに「仏教を学ぶことで生きやすくなる」ということは言える。檀家の減少など、仏教との関係が薄くなっている今だからこそ、「仏教は社会のセーフティーネットとしてもっと見直されてよいのではないか?」結論から言うと、これが私が本書から感じたことである。
以下、詳細を述べる。
1.仏教を学ぶことで得られるシンプルライフ
冒頭にある 「異性と目を合わせないニートになれ」 というのもぶっ飛びなのだが、関連して私が興味を惹かれたのは苦、欲望、不満足の関係だ。「苦」は苦しみではなく、不満足のこと、確かにそうかもしれない。例えばXXが欲しいけどお金が無いという欲求があるけど満たされないという状態が「苦」を生む。欲望を断ち切れば良いのだがそれが出来ないのが一般人。 「欲望に執着し楽しむ」という世の中の流れに反する。ただ、その関係を知っておくだけでも違うのかもしれない。「欲望」→「苦」→「充足」→「新たな欲望」…というスパイラルを生む。僧はそれを全て断ち切る必要があるが、私たちは違う。ただ、僧のような生活を送ることは出来ないが、欲望をそそるものに触れない生活をすることはできる。誰でも衝動買いはあるが、その時に「この買い物が新たな物欲を生む」としたら。この本のことを思い出して冷静になることが大事だと思う。ここで私は「物欲なき世界」を思い出した。実は物欲なき世界と仏教の世界の根本で似ているのかもしれない。とすると、仏教の世界を学ぶことでシンプルライフに繋げられるかもしれない。
2.敢えて答えを出さない
どう纏めれば良いのか分からなかったので思ったままに書くのだが、思ったのは「仏教は大局的な見方というか、あるがままというか、答えをギチギチを出さないというのもありなんだな~」、ということだ。162ページの常住論、断滅論の辺りの「無記」の一節で、死んだら存在するのか無くなるのか、という点で、魚川氏はどちらも誤りだと断じる。え?「答えが無い」のではなく、「答えを出しちゃいけない」の?この考え方はシンプルだけど、私の心に深く刺さった。日頃私達は白黒はっきりさせがちだ。もちろんYes/Noのような問いは沢山ある。しかし、ハッキリさせなくてもよい、ハッキリさせてはいけないことの方がむしろ多いのではないか。譬えが悪いかもしれないが、先日あった「あたしおかあさんだから」の炎上については私も思ったところはあるが、今どきらしいトピックだと思った。多様な母親像があるし、多様な父親像もある。その先にはもちろん夫婦の永遠の課題である「夫婦の役割分担」がある(私も既婚者なので。。。)。もちろんハッキリさせることも重要だが、ハッキリさせなくても「あるがままに、自然体」を心がけるだけでも夫婦関係は良くなるのではないか。(もちろん各論はそうはいかないのだが気持ちとして(笑))
3.仏教と現代人
言うまでもなく、昨今マインドフルネスが話題になっている。マインドフルネスというキーワードとしてのブームかもしれないが、ストレス社会が続く以上、マインドフルネス、瞑想の重要性は高まるだろう。本書を読んでいて当たり前だが、なるほどと思ったのは「業」と「学」の両方が大事、ということだ。瞑想という「業」に加えて、「学」を身につけてレバレッジが高まる。実際本書を読んで、いろいろ勉強になった。「仏教思想のゼロポイント」が同世代のビジネスパーソンに読まれているという話を知り、仕事、家族、両親等、様々な問題を抱えているビジネスパーソンをはじめとした現代人が本書にまさに「救いを求めて」いるのかもしれない。このような勉強で問題が全て解決するわけではないが、問題の一端を解決するヒントや問題を大局的、客観的に捉えて冷静に見つめられる視点を養えるのだと思う。
改めて思う。仏教は捉えどころがない。正直、本書でヒーヒー(笑)言っていたので、なかなか理解が進まないところだが、こういう世界を知ることで、より心安らかに生きられるとしたら、これほど為になることはない。以前の課題図書「無葬社会」を読んでサンガのこと、自殺防止等、人々が社会に絶望しないためにセーフティーネットとしての仏教の重要性という一節と、本書の感想を組み合わせると、「仏教は希望を照らしたり、絶望の闇に落ちたりしないようにするための一筋の光になる」と感じた。なかなか実社会との「業」と結びついていないので何とも言えないのだが、「学」と「業」の組合せでより人生を豊かにできるように思う。
今月も良書をありがとうございました。
投稿者 ktera1123 日時 2018年2月28日
講義ライブ「だから仏教は面白い!」を読んで
昔、死亡した主人公が生まれ変わる漫画がありました。粗筋としては事故で死亡した主人公が「鶴は千年、亀は万年」などの生まれ変わりをしてから、再度人間に生まれ変わることになったのですが、本人の思いが強かったので天敵に悉く食べられることにより期間を短縮し、前世の記憶を持ったまま直ぐに生まれ変わり、前世の記憶を活用して活躍していくとの内容でした。このように「輪廻転生」は学校で教わることはまずないのですが、そこはかとなく伝承されてきています。
その「輪廻転生」を断ち切り「生まれ変わらない。」を目指す。その結果世界が終わってしまってもしょうがない。その境地に至るにはどうしたらよいのか。そのために「悟りを開く。」
昔あるテレビコマーシャルで「何も足さない。何も引かない。ありのまま。そのまま。この単純の複雑なこと。」とのキャッチコピーがありました。この境地に達することそれが「悟り」なのではないでしょうか。なかなかその境地にはいたらないのが実情なのですが。
投稿者 maruchan 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読んで
ブッダが生きていた二千五百年前の人間って、根本的に今と変わらないのですね。
根底の欲望の方向は今と同じようです。
①『流れにのることなく現象をありのまま観察しなさい』
私にはいっぱいしたいことがある。お金がほしい、毎日早く家に帰りたい、旅行したい。あー自分本位だなあ。欲望とはそんなものですが、それは心から私がしたいことですか?もしかしたら、世の中に出回っている情報から、本当はしなくてもいいのに、実はそんなにしたくないのに私はしたいと思いこんでないですか?と私には聞こえます。
そういう欲望は苦だから、世界はすなわち苦だから、苦を捨てると楽になりますよー、というブッダの声。自分を振り回す欲望がなくなるので、実際楽かもしれない。
仕事も生殖もせず条件づけられないニートでいい、と言っているのだから。
乞食は一度始めたらやめられない、と言われますが、これと同じ感覚ですかね。
他の人にも迷惑かけないし自分がよければ人生これでいいのかも。
でもやっぱり自分は欲望を捨てきれないなあ。
②『普通の生き方に逆流しなさい』
世の中の普通と思われていないことや、自分以外の人がやっていないことをあえてやりなさい。今の自分は普通の道を捨てて、あえて違う道にすすもうとしています。ものすごく迷いながらしています。ブッダ的にはこれでいいってことですか?二千五百年前から逆張りの思想があったのですね。人と違うことをするのはとても勇気が必要で、自分もまだ答えが出てないですが、いったん決めたからにはこのまま邁進したいと思っています。
③私という存在は、ずっと変わり続け、自身をコントロールできないものだ。
以前は自分が変わるなどとは、全く考えもしなかった。変わりたくもなかった。
しかし、どうも変わらないといけないようだと最近分かってきた。この「ずっと変わり続ける」という考え方は変化の激しい現代にぴったりの考え方ですね。時の流れが今よりずっとゆっくりだった二千五百年前もそうなのだから、今現在変わらなくていいわけがないですね。しかも自身をコントロールできない。じたばたするな、というところでしょうか。
自分は出家したいとは思いませんが、自分を含め世の中の人をよくしていこうとする考えかたは今でも通ずるところがあります。
自分はまだまだこの本を理解しきれてない部分はたくさんあると感じています。
しかし、ブッダの「とてもよい人」という漠然としたイメージはなくなり、ブッダの多様な面をみることができました。
またこの本を読むと自分は欲の塊だと改めて気づきました。それならそれで正しい生き方をしていきたいです。
投稿者 sikakaka2005 日時 2018年2月28日
仏教の基本知識について目から鱗なことばかりで「なるほど~!」と何度もうなづきながら読んでいました。
特に驚いたのは、輪廻、仏教の総称についてです。
P196:「輪廻というのは、いつか自分が死ぬ時だけに起きる神秘現象ではなくて、この瞬間の己自身に生じ続けている現実であるわけです。」
ずっと続くという意味では同じだけも死ぬときだけでなく、今この瞬間の連続ということで理解しました。
P105:「仏教」というのは総称して言うならば、そのような「オリジナル」も「同人誌」も全て含んだ、思想の維持・変化・発展の運動の総体のこと。
この定義には感銘を受けました。この定義だったら、仏教の信者さんたちは、小乗仏教だろうが大乗仏教だろうか、誰もが文句を言えない定義であると思ったからです。すばらしい!
この本を読んで考察したくなったことは、1つあります。
それは「仏教としょ~おん塾の違い」について。
第1章読んだだけで仏教だけは絶対に入りたくないと私は思いました。成人男性にはあまりに酷な話です。
しょ~おん塾はそこまでの条件がないから入りやすい!さらに、しょ~おん塾は金パン教徒を認めています。
「みんなお金ほしいよね!みんな出世してしたいよね!わかるよー、んー!オレもそうだったもん!」というように金運の上げ方だったり、出世の極意だったりをメルマガ(=しょ~おん塾の経典)でぼくらに伝えてくれています。
反対に、仏教では、金パン教徒は眼中にありません。認めてないとかではなく、考え方がそもそも違うというスタンスです。
面白いのここからで、しょ~おん塾では、金パン教徒になった私たちに「別の道があるよ~」と次のステップを示してくれます。
「もう金パンとか飽きるでしょ!きりがないじゃんか!やっぱりさ~、カッコいい大人ってさ~、こういう道だよね!」
と提示される道に仏教のコンセプトにあるのです。
「「無我、苦、無常」を理解して「世界(ローカ)」を終わりにすることがカッコいい大人だよね!」と説いてくれていると私は思うのです。
つまり、ゴールは同じ「世界(ローか)を終わらせる」だけど、プロセスに違いがあるのです。
仏教としょ~おん塾のプロセスの違いは、金パン教徒というワンクッションをおくかおかないかの違いだと思うのです。(もっとあるとは思いますが。)
ワンクッションの金パン教徒を挟むことによって、直接仏教に行くよりも、仏教のコンセプトに到達しやすくしている、むしろ加速させている、というのが、この塾の正体なのではないかと思うのです。
さらに別の言い方をすれば、しょ~おん塾自体は、仏教の同人誌的な位置づけであり、大乗仏教のひとつと言えると私は思うんです。
ん?だからどうした?と思われそうですね。
だから、やっぱり仏教的要素の「実践」がこの塾のカギであるということです。
実践することによってさまざまなことが見えてくるということです。
「10年後に後悔しないセミナー」であったように、毎日のようにブログを書いております。
でも、思ったほどアクセス数が伸びない現実が見えてきたのです。
これはやってみたからこそ分かったことであります。
やったからこそ自分に足りないところが見えるし、もっとこうしたらいいのではないか?というアイデアも浮かんでくるのです。
アクセス数が落ちたときはどうしても落ち込むことがありますけども、そんなときは他の人はどういうことをやっているのだろうとか、成功している人と自分の違いは何だろうということをつぶさに観察してみようとしているのです。
そうすることで、本当に毎回勉強になるし、細かいところで盗めるところはたくさんあることに気付くのです。
そして、人に読んでもらう、しかも続けてまた楽しみにしてもらうということがいかに大変かを知ることができているのです。
まだまだ、発展途上。ここで止めてしまったら何にもならないし、下手くそならば続けないと絶対に上達しないことは、あたりまえのことです。
教えというか経典はいつも「目を開くための方法」を教え続けるのです。答えなど教えても分からないから!
実践することによって次の新しい現実が見てくることを日々実感しています。
投稿者 roman10yanadi 日時 2018年2月28日
だから仏教は面白い!
日常で仏教を意識することはあまりないためか、課題本から感想文をどのように組み立てようか悩ましいものがありました。先月に祖母の葬儀で仏門に近いのを意識したくらいで、死の話がない限り仏教とは接点があまりないように思います。
そもそも「人生は楽しく生きなければ」と、とある先生から教わったばかりです。死して後再び生まれ変わり、その一生とは死後の世界と比べ、短い時間であるそうです。だから楽しまなければとの教えを受けました。
そこへ仏様が教えようとしている解脱・輪廻の考えは厳しい修養の末の境地であるわけで、ゴータマ・ブッダのように全てを成し遂げてしまった人、もしくは世の中に悲観して出家した人にはフィットするのかもしれません。平安時代末期の浄土信仰は、生きるのが辛くて死後の世界に希望を見出そうとしていた訳ですから、21世紀にいる私にはこの辺でも一致しないところなんでしょう。
ビジネスで成功された方の中に、がむしゃらに働いてひたすらお金を稼いで、多少の悪事もお構いなしに成功された方がいるそうです。その後ひと段落したところで精神の修養として仏門に帰依し、真っ当な道を歩んでいるとある本に紹介されてました。非常識な成功方法の一例です。そんな訳でまだ成功とは言い難いところにいるわが身にとって、まずは稼ぐこと、成功した人生を成し遂げてから仏教の教えを実践すべきなのかなと考えてみました。とは言っても、「イノベーション・オブ・ライフ」で紹介されてた事例もあるので、バランスの必要性も考慮に入れなくてはなりません。
また、著者のフィーリングがモノの例えに生かされていて勉強になりました。まず、同人誌とか二次創作という世界観を知らなかったため、大乗経典の例えから意味を知るに至りました。その昔、「らんま1/2」という漫画がありました。結論が出ずに終了という、ファンとしては消化不良な感じでした。続きがあるのでは?と気になってネットで調べたら、「同人誌」などを扱うサイトに辿りつき、ファンの方々が自由に「るーみっくわーるど」を踏襲して作品を発表してます。これはほんの一例で、広範囲に及ぶジャンルに色々な同人誌が存在してます。こんな世界があるもんだと感心したのですが、大乗経典を広めるために二次創作という考え方、それが既に2500年も前から当然のことのように存在してたと思うと狐につままれた気分です。おかげで小乗仏教と大乗仏教の違いを深く理解できましたが、モノの例えが同人誌で良いものか心配にもなりました。
読書を進めるにあたり、第3回講義までは違和感なく読めましたが、4回以降の講義は音読して漸く理解できた箇所もあれば、全く理解できない世界もありました。対談してる方が「よくわかりました」とありますが、本当かなと思った次第です。
本書を通して学んだことは、転迷開悟について、「渇愛 → 滅局 → 悟り」という一連の繋がりです。各編を通して繰り返されるキーワードを感じ取りました。マインドマップにしてみたら見えてきた単語です。
投稿者 kenhon 日時 2018年2月28日
講義ライブ だから仏教は面白い!
仏教と言えば、思い浮かぶのが八正道等をはじめとして、人が正しく生きるための教えを説いているという認識だ。
或いは、仏教と言えば、葬式や法事等で、お坊さんの訳のわからないお経を聞かされたり、戒名にみょうに高額な金額を支払わなければならなかったりする状況を思い浮かべて、なんだかな~という印象がある。
それがいきなり、仏陀の教えは「ニートになれ、世界を終わらせろ」と、今までの自分の認識とはまったく異なる展開で始まった。
現代の日本で一般に知られている仏教の教えではなく、仏陀が語っていたと思われる教えが、このような過激な教えだったことには驚いた。
また、今まで仏教の教えだと認識していたものは、仏陀の教えを基礎として、現代における同人誌のように、「~べきだ」から派生して、長い年月を経てこのような教えだということになったようである。
このような経緯も、仏教を何となくでしかとらえていなかった人にとっては「へ~」と興味をそそられるところである。
また、仏陀の教えとしては、人は「ただ在るだけでfulfiled」、即ち「ただ存在するだけで十分に満たされている」というものもあるらしい。
これは、資本主義社会で競争にさらされて生きている現代人、特にあまり成功していない部類の人たちにとって、ある意味「世界に一つだけの花」的な安らぎをもたらすような教えであると感じる。
これはこれでいいのだが、私自身はこの種の教えにはあまり興味がわかない。
ところで、「ニートになれ、世界を終わらせろ」というのは、出家信者に向けた教えで、在家信者に対してはそこまでは要求していないらしい。
であれば、現代人としても、仏教徒になるという場合、出家信者になってニートになり、世界を終わらせるという選択肢もあれば、在家信者でそこまでは追求しないという生き方もできる。
本書の後半の記載でも、仮に悟りを得たとしても、そのまま突き進むのか、現世に戻ってくるのか、それはその人の自由ということだそうだ。
自分としては、仏教で言うところの阿羅漢としての「悟り」というものにも多少興味はある。悟り体験をしたら、現世なんかには戻りたくなくなるのであろうか。感覚としては、こんなことを言うと仏教徒の人たちに失礼だが、ホームレスは3日やったら抜けられないというような感じなのであろうか。
しかしながら、まずは現世において商業的成功を収めるというのが私の当面の目標であるので、当面は出家をするつもりはない。
また、「おっぱい」はやはり「おっぱい」として認識したい。「おっぱい」を単なる脂肪に皮がついているものなんて味気ない感じ方しかできないような生活は御免被りたい。
ただ、本書によって、仏教に対して今まで以上に興味を持ったので、著者の『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か』という本も読むつもりだ。
この本によってどのように感化されるかにもよるが、私としては、現世で一通り楽しい生活をおくって、やることがなくなったら仏教の「悟り」を体験すべく修行をするもよいかもしれないと思った。
投稿者 AKIRASATOU 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読んで
本書を読んで「欲望が苦であるとするならば、人生における目標も持ってはいけないということだろうか?」という疑問が生じた。
自分の考えとしては、夢や目標を持つ=欲望を持つということは人として生きていく上で必要最低限なことであって、それを持たずに生きているのは、飯を食い排泄する「人糞製造機」でしかないと思っていた。
だが、本書を読むとブッダの教えとしては欲望に執着している限り渇望が続き、永遠に苦しいままなのだから、欲望を無くすことで解脱でき涅槃に到達することができるとされている。
欲望があることで、生活が便利に豊かになり、働くものがいて、文化が生まれ、戦争も起こる。それがこれまでの人間の歴史であり、欲望があるからこそ今の現代社会がある訳で、現代社会が続く限り“苦”は無くならないのだろう。この先も人間全てが仏教徒になる事はないので、この流れは変わらないと思う。
欲望を無くす、つまり現代社会を終わらせようというブッダの教えは世の流れに逆らうのであって、仏教はヤバいと著者が言うのは理解出来なくは無い。ただ、ブッダがこのように考える前提としてインド人(仏教徒)にとっては輪廻転生が当たり前という認識であり、生まれ変わったら生老病苦を経験しなくて良いように早く解脱したい、永遠にレベル上げが続く人生からは早くおさらば(解脱)したい!と思うのは当然だと感じた。
前提条件が異なるので一概に良し悪しを論ずることは出来ないが、この点に関しては、そういう考え方もあるんだなとエポケーする以外に方法無いなと感じた。
投稿者 sunao929 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読んで
これまで、一般的な仏教の教えとして認識していたのは、健全な人生を送ることで、幸せになれるといった非常に漠然としたものであった。
ゴータマ・ブッタ教説の最終的な目的とは、「社会の中でそのメンバーとして、うまく振る舞う、そこで役立つ」といった人間が普通であれば目指すことを否定し、それら全てを乗り越えることである。その欲望を楽しまない状態になることが解脱・涅槃の境地に至るということである。
本書では、「異性とは目を合わさず、ニートになれ」と、非人間的なことを説くゴータマ・ブッダの教えを現代人にもわかりやすい表現で解説しているが、パンピーの認知で捉えることはやはり難しい。
現象をありのままで観察できるよう、パンピーのものの捉え方、価値観を変更・転換する必要がある。
人生は現世だけでなく輪廻転生してずっと続いていく。その中で自分はどのように生きていくのか。人として生を受けたからには成すべきことがあろう。人糞製造機とならずに、どういう人生を生ききるのか。
これまでに積み重ねてきた行為とその作用が蓄積されて、その結果今ここに自分は現存している。
日々、一つ一つの行為に意識を行きわたらせ、常に気付きを保って、一生懸命に修行を続け、不放逸の人となるようにしていくことで、未来の他者のために利することを目指す人生としたい。
それには、仏教の実践が、袋小路からの脱出する一助となろう。
天の定めた運命は人の力でいくらでも変えうる。どうしようもないことなど、この世にはない。解は必ずあると信じる。
まずは選り好みせず、「仏教思想のゼロポイント」で遠足に出発しよう。
投稿者 kawa5emon 日時 2018年2月28日
書評 だから仏教は面白い! 魚川祐司 著
著者の本書執筆の意図に完全に乗せられて、かなり楽しませてもらいました。
仏教ってやっぱりいいな、今後も引続き、興味&深堀りの対象としたいが読了後の所感です。
また本書で解説の仏教理解に際し、先月の課題図書を舐めていたことは大きな助けになりました。
何がって?それは先月課題図書で言う、著者の逆さメガネがメスを入れた現代、つまり、
物事の捉え方が現代人は反対なのではないですか?と問われている立場に、
埋没しかかっている自分に気付いたこと、本書で言えば、今の自分は、
世間(ローカ)で右往左往する凡夫そのものやなと気付いたこと。
更には、前回の都市化社会&脳化社会とその反対で無視されている対象、意識化されない世界、
今回の世間と涅槃などなど、色々な角度から対比の構図が示されたことで、
自分とその周辺への認識と理解、そして距離感等、多くの内省(振り返り)の仕方を得ました。
それで貴方はどうするの?どうしたいの?の問い掛けも併せて。
いやしかし、本書のようなざっくばらんな解説が光るのも、現代風かもと思います。
物理的に満ち満ち足りた現代日本社会、まず食っぱぐれする方が難しい現代、
だからこそ現代社会の住人は渇愛し、最近よく耳にする生き方の見直し等に繋がったんですかね。
少なくとも私はそう感じています。多くの人が満たされない、何か重苦しく感じているのは、
正に渇愛状態なんだろうと思います。
正直、本書を際立たせているキャッチ-なコピー、「仏教はヤバいもの」
「異性とは目も合わせないニートになれ」「世界を終わらせる」などは、
本書を通読すれば、そう突拍子な表現ではないと感じました。
それが突拍子に感じるのは、自分を含め現代日本人の多くが相当に世間の凡夫であるからでしょう。
先月課題図書の逆さメガネからの問い掛けも、取扱い領域の違いはあれ、
都市化社会&脳化社会の先は、世間の凡夫世界だけだよ、それでいいのか?と今回聞こえました。
その意味でまだ自分は、本書解説の客観的な、世間の凡夫定義認識はまだあるなとも気付けました。
だからといって、自分も解脱、涅槃に至りたい!と、軽々と口にする気になれない意味で、
本書の解説の精度、そしてそのキャッチ-なコピーはやはり秀逸ですが・・・。
さて本書を通じ、仏教への興味を更に喚起させられたのは何故かを改めて棚卸ししました。
・そもそも二千五百年も脈々と続く仏教の魅力は何か?
・色々な人が色々な角度で仏教を語るけど、果たしてどれがどうなの?
・何よりも仏教用語をちゃんと理解したい!
・ゴータマ・ブッダの最終目標とその定義って何?
・大乗仏教と小乗仏教の違いは何?
・輪廻って、業って、苦って、戒律って、智慧って・・・
・最終的に、ゴータマ・ブッダが伝えたかったこととは?
事後的棚卸し感は別として(苦笑)、結局仏教そのものの理解が全く成っていなかった訳です。
著者が何度も指摘のように、本書だけで上記問いへの答えが得られたとは思っていませんが、
少なくともこれまでの理解よりは、何段も理解度が上がりました。
併せて著者も指摘のように、原典の理解に努めないと「はずだ論」に流される怖さも知り・・・。
数ある気付きの中でも一番本書で刺さったのは、過去の課題図書等でも何度も登場した、
そして自分の中にも相当深く染み込んだであろう、この世界に対する認識感、
それは本書解説で言う、自分の認知する世界は、自分の形成した物語、仮象であると。
その統覚に囚われる限り、輪廻からの脱却は無く、fulfilledの生を感じるステージへは
進めないよとの価値観でした。仏教でも説いていたんですね。仏教が先でしょうが。
先月図書でも、あなたに影響がある物事だけがあなたの認識領域とあったように、
繰り返し繰り返しこの価値観は私に迫り、自分の内省を促してくれます。
自分だけの認識領域に囚われるな、もっと広く、もっと多面的に、様々な角度から。
その問い掛けとの幾度の出会いに、fulfilledの生への渇望が自分にはあり、
そしてその問いが来る時は、その囚われに陥っているときではないか?と感じました。
これを意識しなければ、死んだ生に繋がるのだとも今回気付くことが出来ました。
そして最後に、今回の学びの活かし方をまとめたいと思います。
詰まる所、仏教がこうも脈々と人々に受け継がれてきたのは、その教えにやはり、
ヒトとして生を活き切ることへの真理があるからだと本書を通じ学びました。
人生十色とは上手く言ったもので、様々な人が様々なモノゴトを抱えて生を運ぶ。
その道程に於けるプロセスを、如何にfulfilledした状態として感じられるか。
別の言い方では、愛に満ち溢れた状態を感じることが出来るか。
本書で言う世界で解脱、涅槃と表現するのは違う気がしますが、少なくとも
本書解説の輪廻は意識し、日々の気付きを大切に、自己の生を活かしていきたいと思います。
仏教と著者との出会いに合掌。また良書のご紹介に感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
投稿者 str 日時 2018年2月28日
講義ライブ だから仏教は面白い!
一般に『宗教』と呼ばれているものに対するイメージ。
そしてそれらに関わっている人達に対し、私が抱いていたイメージは大きく分けて下記の4パターンだ。
①.悩みや苦しみを抱え、救いを求めている人
②.好奇心から興味を持ち、自ら触れてみる人
③.この世に生まれた時から、周囲がそういう環境だった人
④.悪人に騙され、本人の意思とは関係なく関わってしまった人
そして本来は①の人達の為に創られたものであるという認識であったが、やはりそう単純でも簡単でもない。寧ろディープな部分まで飛び込もうものなら、即脱落か門前払いされるレベル。度々登場する『おっぱい』という例えのインパクトも相まって、成人男性である私にとってこれを例えに出されるのはリアル過ぎた。
「目に映るものに捉われるな。理屈で考えて物事の本質を見ろ」
そう言われているように感じたし、確かにその通りなのだろうけれど、やはり皮を失くした人体模型のような女性を見たとしても興奮どころか恐怖で逃げ出すだろう。一般の人は本質の手前で、どうしても自分にとって都合の良いフィルターを掛けてしまっているのではないか。そしてその丁度良いフィルター部分を“嬉しい”“愉しい”“好き”などと感じるのだろう。自分はそれで良いと思う。というより「そっちの方が良い」なぜ見たくもない、ワザワザ見なくても良いであろう本質を理解・認知して受け入れなければならないんだ。とも思った。
けれどフィルターという自身の内に染み付いた欲望や感情の発生箇所にはどうしたって『我慢』や『不満足』という大きな壁が残る。それも『苦』であるという考えには確かに納得だ。本書にも記されているように、欲望に任せて好き放題やれば当然お縄につく。感情に任せて人を殺めてしまっても同様。普通に生活していく上で『我慢』はどこかで必ず発生させなくてはならないもの。そして『終わりのない不満足』つまりマンネリから次の新しいものへの欲望も付いて回る。浮気などがそういったものの典型だろう。『解脱により我慢する必要すらない』という世界は果たしてどんなものなのだろうか・・
仏教については殆ど無知な状態であり、やる事も考え方も極端で「やり過ぎでしょう」というのが読了後の感想であった。けれど“だからこそ“だとも思う。だからこそ長い年月を経ても語られ続けるのだろう。
『「反社会」ではなくて「脱社会」』
と語られているように、「どうせやるなら万人受けなんて狙わないし、修行もとんでもなく厳しいよ。でも全くの別世界を見せてあげるよ。その覚悟があるならどうぞ」といったところなのだろうか。正しく・深く。学びと修行を続けていればいつかは『世界を終わらせる』事が出来るのかもしれない。そこまで辿り着けたのなら犯罪だとか自殺などが起こり得る可能性はほとんどゼロだろう。そういった意味では、ブッダの説く教えは確かに人々にとって“救い”となるのかな。
投稿者 sumio 日時 2018年2月28日
「講義ライブ だから仏教は面白い!」 魚川祐司著 感想
・著者のスタンスも面白い!
これほど、肩の力を抜いた、思い入れの少ない客観的な宗教の本は、はじめてだ。
自分のことを仏教徒ではないと言い、「仏教」といってもその内実は、報ずる経典、語る教説、実践も異なる諸派が並び立っているし、
どれが「本当」であり、「正しい」仏教だと認定することに興味が持てない、とする。
多様に存在する仏教の基礎知識の枠組みを提示して、あとは読者自身の解釈に任せますとの潔い態度に感銘を受けた。
仏教の本を書いている、著者の立ち位置は、ニュートラル。
学究の徒の誠実な姿勢が伝わり、それが爽やかな読後感にもつながっている。だから面白い!
・「苦」の根本原因は、「渇愛」である!
うぅ~ん、なるほど、と納得。わかりやすい。
たとえば、文字通り、人から愛されたい、認められたい、必要とされたい、お金を沢山ほしい、現状に不満なのも、すべて愛に飢えているから。
すべて、これで説明できますね。喉の渇いた人が水を欲しがるような強い欲求。
唐突ながら、五十音の最初が、「あいうえお」なのも「愛飢え男」と意味があるのかも。
投稿者 truthharp1208 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」を読み終えて。
仏教を学んだことがない私が入門書読むのにちょうど良い本かと期待しつつ拝読しましたが、読み進めていくうちに頭が混乱して、正直、途中で投げ出したくなりました。
そんな状況下でも、課題図書として選んで頂いたには何らかの意味があると思い、自分へのメッセージと感じたことは以下の2つでした。
1.人間が自然に向かっていく方向性を否定して、逆流する意味
「異性とは目も合わせないニートになれ!」
本書で最初に飛び込んだインパクトのあるフレーズで、頭の中がはてなマークで埋まりました。
一体何が言いたいのだろうとアンテナを張り巡らせていると、仏教でいえば煩悩を払拭して解脱に至るための行動指針が日常生活では目標達成、あるいは自己実現のためには余計なことに惑わされず、必要なことを吟味して取り入れなさいということかも知れません。
2,自分の在り方
「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。
今、ここに在って呼吸しているだけで充分満たされる、私は私で良いとシンプルに考えられれば良いのですが、いつのまにか「こうでなくてはならない」という条件が刷り込まれてしまいます。
私は最近、とある朝活に参加して、自分軸を明確にするワークに取り組みましたところ、人との繋がり、ご縁を大切にしたいことが明確になりました。
仏教は面白いどころか、難しいというのが正直な感想ですが、また何かの機会に関連書籍に触れたり、仏像展等に足を運ぶようにしますが、まずは呼吸法を継続させます。
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2018年2月28日
「講義ライブ だから仏教は面白い!」を読んで
恥ずかしながら、私にはこの本の内容が二割くらいしか理解できなかった。実を言うと、二割も理解できているかどうかさえ怪しい。そもそも「何が分からないか?」と質問されても、言語化できない。分からないながらも、全編読み通した上で「分からない」ということが分かっただけだ。分からないなりに、ありのままの自分のレベルで感想文を書き記そうと思う。
1.禁欲の意味
生きていれば、美味しい食べ物やお酒を楽しみたいし、素敵な恋愛もしたいのが人間だと思う。強欲で快楽を貪る生き方は醜いが、適度な欲望を満たすため、計画を立てて努力する生き方は、それほど悪いものではないように私には思える。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教も同様だと思うが、宗教はなぜ人に禁欲するように教えるのだろうか。
おそらくこれは、スポーツ選手がお酒や娯楽を我慢し(減量のために食事を制限するアスリートもいる)、勝利のためにストイックに練習する姿に似ていなくもないと思う。彼らは「試合で勝つ」という崇高な目標のために頑張っており、その姿は人に感動を与える。
では、宗教を信じ、禁欲を貫いた者達が得られるご褒美とは何だろうか。仏教ではそれが「解脱・涅槃」と説明されているが、私にはその意味も価値も、現時点では良く分かっていない。
しかし、本書で何度も言及されている通り、仏教は2500年以上続いてきた。これほど長く、多くの人々に信仰され続けてきたことには、理由があるはずだ。
私はこの理由の一つを、人なら誰もが持つ「ストイックな生き方への憧れ」にあるのではないかと考える。例え自分がストイックな生き方をしていなくとも、俗世間と離れた所に、禁欲的に清く正しく生活している者達のお寺がある、と思うだけで救われることがある。
世界はバランスで成り立っている。欲望を満たすために忙しく働く現代人がいるなら、裏に必ず、それと正反対の生活をしている者達が存在するはずだ。
もう一つ考えたのは、「美味しいものを食べたい、恋愛したい」という欲望と同じように、人は「神を知りたい」という欲望を持つのではないか?ということだ。日頃「自分は無宗教です」と言っている人でも、何か絶望的な状況に陥れば「神様、お願いです・・・!」と祈らずにはいられない。人の心の奥底には、神を信じる心が本能的に存在するのだと思う。
2500年も仏教が続いてきたことは、たとえ深く難解であっても、人類がブッダの真理をあきらめずに追求し続けた結果だと思った。
2.ニートになれ
一方、「労働して、その対価(お給料)を受け取ってはならない」という、最古の古典「スッタニパータ」の教えは、少しだけ道理にかなっていて分かりやすい気がする。
ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサが、インドのカルカッタで病院や孤児院を作っていることを欧米の記者にインタビューされた際、「こんな尊い仕事に対して、お金(報酬)をもらうことは出来ません」と答えた。彼女の言葉がブッダの教えと酷似しているからだ。
周りの人間からの評価でなく、神と自分の関係だけを重視していたからこその発言だと思う。マザーテレサと宗教は違えど、ブッダもまた「お金を稼ぐのではなく、涅槃のために生きよ」と教えたかったのではないだろうか。
(ただ、現代日本に生きる者が、ブッダの教えに従ってニートになって、どうやって生きていけば良いのか、イメージが掴めないのだが・・・。)
3.「はずだ」論の罠
●その宗教の純粋な教え
●その解説書
・・・の2つが、全く別物だと認識を持つべし、と説く魚川先生。
「ブッダの教えそのもの」と「大乗経典」の関係性を、「エヴァンゲリオンの原作」と
「ファンの二次元創作同人誌」の関係性に鮮やかに例えられたのは、お見事である。
これと似たことを、将棋士の羽生善治さんと米長邦雄さんが、対談『勉強の仕方―頭がよくなる秘密』の中で言及されていた。
お二人の主張は首尾一貫して「ヨガの教えは素晴らしいが、だからといって、ヨガに感化された麻原彰晃の教えが素晴らしいとは限らない。神と個人の間に、仲介者が存在してはならない。牧師や教師はアドバイザーとしては役に立つが、本来、自分と神の間に仲介者が存在してはならない。私達は第三者に頼らず、その宗教の教えそのもの、神そのものを求めなければならない」というものだった。
キリスト教は聖書、イスラム教はコーラン、と非常にわかりやすいのだが、仏教は様々な宗派に細分化されすぎていて「何から読めば良いか良く分からない」という状況になっている。情報社会の中、フェイク情報に惑わされず、正しい情報の取捨選択能力が必要だ。
そのため、仏教の全体像・枠組みを述べている本書のような本は、大変ありがたかった。
良書を勧めていただき、ありがとうございます。普段考えないことを考えるきっかけができました。
投稿者 vastos2000 日時 2018年2月28日
本書から何を得るのかが難しかったのですが、とりあえず、先月の逆さメガネのほかに新しい<モノの見方>が増えたからよしとすることにしました。
具体的にはおっぱいの例えで表現された、「五感を通じて認知するものを意識(脳?)がラベリングしているんだよ」という、認知心理学でも言われているようなことです。改めて言われてみればそうだよねと思いました。
その他、なかなか理解が進まない項目が多かったのですが、著者も本書72ページあたりで『仏教の思想が、あなた自身にとって価値があるかどうか~(中略)「別のモード」も自分の中にビルトインしてみたいと思うのであれば、そういう人たちは、仏教についてちょっと考えてみてもいいかもしれませんね。』とあるので、本書を通じて、まずはその善悪や価値の判断は置いといて、ゴータマ・ブッダはどのような思想をもっていたのかを知ることにしました。
教科書などからの情報として、根本分裂、や大乗仏教と上座仏教の違い、浄土真宗や臨済宗は日本で生まれたということはしっていましたが、今回あらためてゴータマ・ブッダの思想に触れることでいくつかの再発見がありました。
その第一は、「現代日本の仏教は、ブッダの思想を後の人たちが勝手にアレンジしたものである」ということです。中国地方を通じて主に漢訳された経典をもとにした仏教は鎌倉時代に親鸞や栄西などが日本向けにアレンジしたもので、さらには(関連書籍にあたることで)江戸時代の檀家制度や明治時代の廃仏毀釈の影響でかなり変化して「葬式仏教」と言われるに至るということがわりました。
そして第二に、ゴータマ・ブッダは“カースト制度の中に人々が暮らしていたインド地方で”、「生まれながらの身分の違いはない」と説いたことです。世の中の制度をひっくり返すともとらえらるその考えは、キリスト教が支配していた西洋で「神は死んだ」とツァラトゥストラに語らせたニーチェに通じるなあと感じました。
今までは仏教とニーチェの共通点などは思いつきませんでしたが、本書を読み、(その当時)反社会的な思想を説いたという点、それゆえ、一般ピープルにはなかなか受け入れられないであろうと考えた点で、共通すると感じました。
しかし明晰に説明できませんが、ゴータマ・ブッダの説く無我や諸行無常とニーチェのニヒリズムは違うと感じています。
ニーチェは自然災害や疾病など、情け容赦なく悲惨な出来事も起きる人の世を強く生きろと訴えますが、ブッダは認知機能をストップして、あれこれ考え思い悩むのを止めてみたら?と説いています(132ページ『渇愛というものを徹底的に、残りなく消滅させれば、それを原因として起こっていた苦も消えます』、218ページ『それは欲を伴い貪りに染まっているというのだから、欲望を起こす意識のはたらきとその対象(意と法)も含めて、凡夫が六根六境によって形成する認知の全体が、ここでは「世界」であると言われていると考えてよいでしょう』など)。それで、たびたび登場する『世界を終わらせよう』という話になるのでしょうが、今の私では無理でしょう。
ただ、これはまだ私自身がうまく消化できていないので、今後さらに考える課題にします。
仏教とキリスト教、そして主要な西洋哲学のアウトラインは学生時代にも習ったはずですが、今回は改めて知ったことや再発見が(400ページの割に)多かったと感じます。
同じ話でも何度も繰り返し聞けば理解が深まるし、「基礎編セミナーを受ける」や「関連図書を読む」などで自分に新たな知識や考えがインストールされた状態で同じ情報にあたると、新たに得るものがあるということを実感できました。
投稿者 gizumo 日時 2018年2月28日
「だから仏教は面白い!」魚川祐司著をよんで
いきなりの、「ヤバい!」「中二病」さらには「おっぱい」の連発で面食らうものの、至極まとうな「仏教入門講座」であった。良く考えてみると、「“仏教”って何?」状態で、「仏様がいて、お葬式でお世話になる」程度のかかわりがないく、それでいて「日本は仏教の国」などいったりしている自分。
そのおしえの中身はシンプルで、その教えが有意義なために現在まで2500年の長きにわたり受け継がれてきた。一方で、多くの解釈も出てしまったが、正しい教えが解釈で多くの“派閥”を生み批判し合ったり反目しあったとは、まことに人間らしい点も興味深い。多くの宗派の発生がそういった理由なのは意外なようで納得がいくなと気づかされた。
思い出したのが、年末に機会があり読んだ『ベンジャミンフランクリンの13徳』で、ブッダの教えと同様で、より良い人生に必要なことは時代を超えて語られる本物なのだと。しかし、「仏教を勉強する」だけでは「世界」は変わらないので、「実践」が重要だとのべられてり、これに関しては耳の痛いことで、「学んで終わり」とすることが多く、読みながら深く反省させられた。
仏教を「現代思想」のひとつとするという著者の思いは、仏教を教養として身につけるすすめだと理解できた。
しかし、仏教はやはり難しい・・・。
投稿者 eiyouhokyu 日時 2018年2月28日
魚川祐司の「講義ライブ だから仏教は面白い!」を読んで
仏教について、ブッダとか輪廻とか漠然と名前を聞いたことがあるだけで、今までよく理解していなかった。しかしこの本を読み、仏教を2500年も続いている老舗と考えると、世界中に実践し、継承していった人がいるという事実を改めてすごいことだと思った。ゴータマ・ブッダの教えが私に行動のヒントを与えてくれた。今回もまた、新しい視点を得ることができた。
仏教が続いた理由のひとつに、世間の考え方から離れた価値観があげられる。世の流れの只中にいると、その時の基準で自分が幸せであるか不幸であるかを判断してしまう。私は豊かであることが幸せだと思っていたし、お金があること、不安がないこと、満たされることが幸せなのだと感じていた。仏教は不満足が続くことが苦しみであり、終わりがないことが苦である、と伝えている。
腑に落ちたのが、戦後はみんなが戦争のない平和な世の中にしたいと願い、全力で行動した。何もないのが当たり前の時代だったから、食う寝る所、着る物を切実に欲していた。今は、物質的な豊かさがあり、昔の人が願った平和な世の中になったが、みんなが幸せだと感じている訳ではない。戦後の苦しい時代から世の中がこんなに変わったのに、幸せになった訳ではない。私たちが幸せだとか満たされていると感じるものは、物質的なものではなく精神的なものの影響が大きいということだ。
そうすると、仏教は物質的な豊かさではなく精神的な部分に目を向け、世の中の基準がどうであれ、自分という存在とどう向き合うのかを教えてくれる思考法のようなものではないかと考えられる。それは、自分が変わらないことが良いということではなく、世間も自分も変化していき、変化の一つ一つに心を乱すのではなく、変化を当たり前と認識し(諸行無常)変化を受け入れていくしかないのだ。
これを今の自分の仕事にあてはめると、こういう風に考えることができる。今年言ったことと来年言うことが違うお客様にどう対応するか。お客様はずっと同じことを要求する訳ではない、常に要求が変化する。言われたことだけをやっていては、変化に対応できない。お客様の満足のためという永遠の不満足に対応するのは苦である。しかし、お客様も自分も変化しており、満足の形は変わると分かっていれば、対応をすることが苦にならないのではないか。
お客様に限らず、子育てでも同じことが言える。今までは、子どもが泣いたらあやして、オムツを替えたり、ご飯をあげたり。そんな子どもも5歳になり、泣けばあやすでは済まない。ご飯を食べること、衣服の着脱、ひとりでできることが増えた。親として今までと同じ対応は通じない。変化は子どもの成長と言う形で目に見えるけれど、大人の社会は目に見えない変化がある。いつも通りメールしていた女性が、突然怒り出したことがあった。プライベートでストレスがあったようで、私の言葉が彼女を刺激してしまったようだ。相手をよく観察すれば防げたのだろうと思うけれど、メールで観察することは難しい。
「業と輪廻の世界観」も私には新鮮で、今が苦しい辛いと感じていても、それは今の私以前の命の集合体から続いていて、繰り返している。今だけが苦しく辛いわけではない。自分ではどうすることもできない潜在的な要因が働いており、現象として起きているということだ。つまり、今の行動を変えると未来が変わるという風に考えることができる。そう思うと、悲観的になる必要もない。
世間のものの見方をした、私という物語は、思い描いている満たされた状態からは程遠いと思っていた。ただ、それでは永遠に苦しみからは逃れられない。「ただ在るだけでfulfilled」この言葉が、私に教えてくれている。今日、今、私がここに在る、それは満たされている状態である。そんな私が、未来に向かって、どう行動していくか。今が縁となり、結果を作っていく。私が今日読んだ本、話した人、食べたもの、全てが未来の私を作っていくとなると、選ぶことに気をつけなければならない。
この本は、行動に対しての解説があるので、実践書のようだ。1回では理解が深まらないので繰り返し読んで考察していきたい。
投稿者 jawakuma 日時 2018年2月28日
だから仏教は面白い!を読んで
諸行無常は自分自身も。先月の課題図書養老孟子の『逆さ眼鏡』と同じこといってるやん!?世間を斜め下からえぐるあの目線は仏教の世界観とつながるものがあったのですね。ニートになって世界を終わらせろ。中2病と書かれてましたが、それが真実だとすればパンクロックのようなストレートなエネルギーをそのメッセージから感じました。そう考えると養老孟子もロックなおっさんですね、斜に構えた確度が半端じゃないですもの。東大歴60年ですが(笑)。問題なのは、その無常の世界をどう生きるのか?どうせ無常ならば前向きに変身してやろうじゃないですか。学習と修行を継続して。どこまでやるのか?一切智を求めて四阿僧祇百千劫の世を過ごすのは、浪漫はあるかもしれないが、どうしても躊躇や諦めが生まれますね。今生の今日くらいちょっとサボってもいいよねー?そだねー!(自分の中の悪魔的カーリング女子)そうすると「明日から頑張る」のダイエット状態に陥り気づいた時には立派な金パン教徒の出来上がりと大乗仏教の成れの果てに至るわけです、はい。では阿羅漢目指して頑張ろうか。この筆者の凄い所は知識だけでなく、大学の仏教学を修めている最中にミャンマーに飛び込んでテーラワーダの小乗仏教の教理と実践を行なっているところです。これはなかなか出来ないです。東大退学して。その時点で世俗の価値観から逸脱してますもの。世俗の欲望にまみれた悪癖から抜け出し悟りの入口をゴールとする阿羅漢を目指すのか?女房子供を捨て置いて出家。これはなかなか出来ないです。ではどうするのか?欲望に身を任せて金パン教徒として生きるのか?そこで出てくるのが智の道なのではないでしょうか?本来の仏教からは離れるかもしれませんがしょうおんサンガで呼吸法などの修行、智の道の律を守りながら徳を積むことで実践のプロセスをかじることができます。学びを継続し放逸で流される事を避け、智の道&徳積みでマインドフルネスを目指していきたいと思います。
それとは別に瞑想センターが千葉や京都にあるようなので ものごとをありのままに見る 如実智見に至るための瞑想も体験してみたいです。しょうおん塾各支部の活動で行けると盛り上がりそうですね。テーラワーダ瞑想の実践を通して、おっぱいのチラ見ではなく、涅槃の世界観をチラ見できるとすれば非常に惹かれる自分がいます。
また、本著にて驚かされたのが いろは歌です。恥ずかしながらその意味、内容をよく考えたことがありませんでしたが、諸行無常の有為の奥山を越えて、涅槃に至る意味があったのですね。しかもかの大天才、空海作だったんですか!?流石ですよねー。空海といえば般若心経です。本著で知る事が出来た、ブッダの原理仏教の教えは、かのセミナーで解説を受けた般若心経の内容とリンクするところが多いなあとつくづく感じました。それは日本の各宗派も般若心経に納得するわけですね。今後も日々般若心経を唱えて四苦八苦の世間から遠離したいと思います。
鎌倉時代の以降、日本では宗派も広がり衆徒を集めるための人気取りをする必要がありました。親鸞上人の説いた浄土真宗ではただ南無阿弥陀仏と唱えれば死後には極楽浄土に行けるという簡単なもので大衆の人気を博しました。戒も律もなく、瞑想などの実践もない、テーラワーダ仏教とはほど遠いものです。仏教は人気取りの商売の面が出てきて堕落が始まり、その様子を見て激怒した信長により比叡山が焼き討ちにあうわけですね。そして戸籍管理の手段として幕府によって権力を与えられた江戸時代を経て、お金を搾取する金パン教徒ならぬ、金パン住職が表れだしたのでしょう。民衆の怒りは国の体制変革とともに噴出し、明治の廃仏毀釈に至ります。ここではお寺が神社に鞍替えさせられてしまいます。日本の仏教はそんな歴史をたどってきたわけです。ブッダの時代からは時間・場所がかなり経過しているのでどこの国でも多かれ少なかれそうでしょうが、日本の仏教は特別な変遷をたどっているように思います。まさにガラパゴス化しているのでしょう。
本書の最後の部分で気になったのが全ての縁起、条件付から離れた、無為の境域があると言及するところです。まだそこに至っていない比丘達にとって、その存在を信じられるかどうかは非常に重要ですもの。『この世界でも他の世界でもないような領域が存在し、そこには死も再生も存在しなくて、それこそが苦の終わりである』これ凄くないですか?解脱の領域が本当にあると。そして仏教のヤバいところは、そこに至る具体的な実践方法ももセットで用意されてるところです。2500年間の時を経ても真実は変わらないのだと思いました。解脱の瞬間は明確な知覚の変化が表れるそうですが、どんな感覚なのでしょうか?映画マトリックスシリーズで敵のプログラムコードが見えた瞬間のような感じでしょうか(笑)実体験した人の話をいつか聞いてみたいと思いました。
魚川氏の優れたところはブッダの教えの翻訳力だと思います。実体験を通して得た知識を現代日本に生きるわれわれに響く言葉や例えに置き換えて解説してくれたので理解が深まりました。合いの手の人は理解が早かったですが、予備知識の不足がたたってか速読出来ずに何度か読み直す場面もしばしばでした。それでもいくつかの仏教用語は理解ができたので何でかな?と考えてみると、昨年の『無葬社会』や、良書リストの『はじめての仏教』等、しょうおん塾でであった良書たちのお陰でした。自分では選ばないジャンルの本から知識が得られ世界を広げることができました。
今回もよい本のご紹介をありがとうございました!
投稿者 hanaoka111 日時 2018年2月28日
『だから仏教は面白い!』を読んで
「仏教」と聞いてどのようなことを思い浮かべるでしょうか?
たとえば、何百年前に建てられた立派な寺院だったり、金色に輝く仏像だったり、
お坊さんの唱える(時どき眠くなる)お経だったり、お線香のにおいだったり、いろいろ思い浮かべると思います。
その根底にあるのは、仏教は難しい、敷居が高い、そして日常生活にはあまり関係がないという印象を持っている人が多いのではないでしょうか?
この『だから仏教は面白い!』という本では、いわゆる私たちの思っている宗教としての「仏教」
ではなく、仏教の創始者であるブッダとその弟子が、何を言っていたのか?どのような行動を
していたのか?ということに焦点をあてており、宗教的な思想や権威付けを除外した上で、
仏教がどのようなものなのか?について書かれています。
仏教をほとんど知らない初心者の入門講座として書かれていることもあり、仏教を
ある程度知っている人からすると、この本の書き方、内容の割り切り方は、とても違和感を
感じるかもしれません。
例えば「輪廻転生とは、RPG(ロールプレイングゲーム)でにレベルアップを繰り返し、レベル67ぐらいでリセットして、またレベル1から始める」というたとえや、「大乗仏教は、コミケで売っているような
二次創作である」というような表現ですが、ざっくりと全体を俯瞰できることは、とても重要なことと思います。
ブッダの究極的な目標は『「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ことをやめてしまう』という状態(解脱・涅槃)であるとのことですが、
その状態をこの本では『異性とは目も合わせないニート』と表現しています。
ブッダ以後2500年の間、多くの人がその「ニート」を目指している事実から、この「ニート」になることがとても重要なことであると考えられます。
日本語としては簡単な言葉ですが、異性とは目も合わせないニート』とは、どのような状態なのでしょうか?、どうすればそのニートになれるのでしょうか?、
そもそもそのようなニートの状態になったほうがいいのでしょうか?と疑問がわいてきます。
このニートの状態というのを自分なりに考えてみると、適切に感情をコントロールできている状態ではないかと考えています。
私は、今の発生している現象と自分の感情は別々であるということを理解はしていますが、実際は起こっている現象と自分の感情をなかなか切り離すことができません。
たとえば、満員電車で足を踏まれると怒りの感情が出てきますし、嫌な人と会うと態度や話し方が感情的になります。
欲望に対して自分の感情をコントロールし、その後、自分の感情をコントールしているという状態が意識せずにできている状態になれれば、
『異性とは目も合わせないニート』になっているのかもしれません。ブッダを初め多くの方がその状態を目指していると思います。
ただ、全員がその状態を目指すほうがいいのでしょうか?
私は適切に感情のコントロールはしたいのですが、少しの適切な欲望は楽しみたいと思う凡人であることに、あらためて気づかされています。
仏教に含まれるブッダや弟子の考えを知り「ニート」を目指しながらも、様々な欲望に負けてしまうのが、結局人間なのかもしれません。
以上
投稿者 satoyuji 日時 2018年2月28日
『だから仏教は面白い!』感想
正直書かれていることをどのぐらい理解できたかわからない。
「分かる」という実感がない。
はっきり分かるのは、仏教の開祖と言われるゴータマ・ブッダが人生の苦しみから抜け出すためには「自分の欲するものに対して好ましい印象を持たないようになる必要がある」と解いたことである。その仏教の根本的教えとなるものが自分の持っている仏教イメージとは離れているということ。本書内では「異性とは目も合わせないニートになれ!」と表現している。だから仏教は「ヤバい」と書いてある。しかしそれは本当にやばいことなのだろうか。私は非常に疑問に思う。
そもそもの問いとしてブッタがこの結論に達した問いは何だったのか?それは社会の中で上手に立ち振る舞ったり貢献したりすることではなく、とても個人的な問いであった。むしろどうやって社会から卒業するかを思考し、実践し続けていた。その結果として「世界を認識している自分をやめてみる」という結論に達しのだと思う。それが本書でいるところの「異性とは目も合わせないニートになれ!」ということである。もし世界中の人間がそうなってしまったらそれは恐ろしい。人間社会は崩壊してしまう。しかしひっくり返して考えてみると面白いことがわかる。私たちが生きるには他人との交わりが必要不可欠でありながらも、生きることの苦しみから脱出するには人との交わりを意図的に断つ必要があると2500年以上も言われ続けていることである。そしてその思想が途絶えることなく、2500年以上受け継がれてきていることである。そしてそして更に考えさせられるのはその思想が伝言ゲームよろしく土地や時代により変化していることである。仏教誕生から2500年後の日本ではその思想は有り難がられ、より善く生きるための素晴らしい道であるように思われているふしがある。しかし元を考えれば、一国の王子に産まれ、妻も子も捨てた人間が作り出した思想である。何もしなくても生きるのに困らない立場の者が、旅に出て悩みに悩み抜いて考え出した思想なのだからエキセントリックでないはずがない。仏教とはそもそもそのままだったら変わることがない人生を変えてしまう劇薬である。だから人間のルーティンとしての人生を辞める手段になる。そしてその方法が自分の欲するものに対して好ましい印象を持たないようになる必要がある」ということ。つまり世界を認識している自分をやめてしまいなさいということである。結果として仏教はアジア各国で受け入れられ、今では欧米でも寺院が存在する。しかし、この現状を見たときにブッダはどう思うだろう。おそらく怒りもせず、喜びもせず静かな微笑むだけだろう。それは自分を捨てて見なさいと言わずと伝える笑みだろう。
投稿者 kayopom 日時 2018年3月1日
多くの日本人にとって仏教とは、思想ではなく通過儀礼、または年中行事、歴史の教科書のキーワード、修学旅行は京都奈良(東京の場合)程度の形式ばったものである。
もしくはお釈迦様の教えとは、かなりピカピカ美化されたもので、慈悲の心で生きれば優しく穏やかに過ごせます。
信じるものは救われ、死後は極楽浄土に行けるという、魂の救済を来世で叶える教義である。
これは日々の生活が苦しい人々への教えとしては大層魅力的なものである。
なので、この本で紹介されていたブッダの本質的な思想「労働と生殖を諦めよ」(異性と目も合わせないニートになれ!)とは世界観が真逆に思えた。
現代の仏教は、元のブッダの思想を拡大解釈し、大乗仏教という形で多くの人が救われるような教義が「同人誌」がごとく生まれることにより発展していったのは当然と言えよう。きらびやかとも言える仏教装飾も、多くの人の心を和ませるために生まれたのだろう。
本書の中で、自分が気になった部分は2点。
○一番の疑問=なぜ支持されたのか
しかし悩ましいのは人間界にある欲望こそが、人類存続と繁栄の原動力なわけで、真っ向からそれを否定していたブッダの教えはなぜ2500年も生き残ることができたのか?
もちろんこの苦しい世間から、苦から解放されたいという切実な思いは大きかったのだろうが、
それはその間一定程度の人々が教義における「解脱」に心を惹かれるからであろう。
現状に困窮して不満に思う人しかり、現状に満足しきっているリア充な人も、「すべては無常、この世界は苦今とは違う見方の世界があるのです」と言われると、何やらそれを体験してみたくなる。
厳しい修行でも、その後に凡人には到底到達できない様な世界が待っているのなら、、ちょっと違う自分と世界を見てみたい!これは究極の自己啓発と言えるんじゃないだろうか。
つまり(我々のような)「怪しい系」に惹かれる人がいたから、現在に至るのかなと。
当時は今でいう新興宗教と変わらないわけですから、それが発展の原動力というには少し弱いと思われるが。。
○瞑想は取引なのか
「現象をありのままに観察する。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを厭離し離貪して解脱に至る」
目の前にある、おっぱいやスイーツやイケメンを見ても、何ら心が動かされない。
現象が苦にならない感覚など、あるのだろうか?
解脱に至るには座学と実践が必要であり、実践の一手段となるのが修行や瞑想とすると、
「瞑想を目標達成のための手段と考える、瞑想のための技法や時間が結果を回収するための投資となってしまう」
のではないのか?
そもそもの目的が世間からの解脱である場合は、瞑想は目的化していないと言えるのだろうか?
今、私がただ存在し、ただ呼吸している。それだけで十分。
昨今流行りのマインドフルネスはまさに、その考えをもととした瞑想だが、
それも何らかの解や結果を求めている気がする。
何ら見返りが得られない状況において、何かの教義を信じて行うことができるのか。
大きな疑問が私の中に残った。
現状は表層を追っている状況なので、今後のテーマとして、瞑想から得られるもの、宗教的な行いとは何かを継続して考えてみたい。
投稿者 haruharu 日時 2018年3月1日
「だから仏教は面白い!」を読んで
この本は難しかった。
理解力に乏しい私は、以下の事だけわかっただけで良しとし、今後の課題に繋げていきたいと思います。
輪廻転生の解説がわかりやすく今まで勘違いしてた。
輪廻は魂が移動していくようなものではなく、現象の絶えざる継起のことであり、すでに我々は輪廻のただ中にいること。
私たちは、物語の中のこの世で生きていて、この世の外の世界はこの世以上に幸せな満たされた世界なのだと教えてくれる。
如実知見するために、ものごとをありのままみるために瞑想などが不可欠になることを知り、改めて瞑想をちゃんとやってみようと思いました。
投稿者 kokchamp 日時 2018年2月28日
だから仏教は面白い!を読んで
いやはやなんともいえない読後感である。宮崎哲弥さんの解説にもあるように、本書は「わかりやすく難しいことが説かれて」いる。
理解するのもひと苦労な上に、そこから得たものをまとめるというのは今の自分にとってはなかなか難しいものであるものの、しょうおん塾生としての学びとどう関連しているか考えてみたいと思う。
仏教のテーマは「基本的には衆生の認知の領域を問題」としていて、「衆生の習慣的な認知のパターンを転換する」ことで、「『悟り』を開くこともできる」という話でした。
目の前の出来事をどう認識するかは、自身の思考の問題だということと同じように聞こえてきた。
ゴーダマ・ブッダの教えは、「人はほうっておいたら欲望のままに流れてしまうものだけれども、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察すること。そうすれば解脱にいたります。」というものですが、これが後半に出てくる戒・定・彗の三学における「気付きの実践」という話で腑に落ちたというか、なるほどと思った次第です。
流されず、現実をありのままに観察し、気付きを得ることで、悪い癖を断ち切ることができるきっかけを作ることが出来る、これは人生を好転させる知恵なのではないかと。
この本を課題図書にされた意図がほのかに感じられました。そして先月の課題図書からこの本への流れが言葉に出来ないのですが自分ではうまく流れていて、なるほどと思った次第です。