投稿者 mkse22 日時 2020年2月29日
銀行王 安田善次郎を読んで
本書は、一代で巨万の富を築き上げた安田善次郎氏の生涯について書かれた本だ。
この本のなかで陰徳が重要であることが繰り返し指摘されている。
そこで、なぜ陰徳を積むことが重要なのだろうか。少し考えてみたい。
陰徳とは、人知れずに善行をすることだ。
善行とは、例えば寄付行為や道端のごみ掃除そして人助けなどを指すのだろう。
まず、なぜ善行をすることが推奨されるのかを考えたい。
完璧な回答を導きだすことは難しいが、あえて言えば本人の自己満足という答えもあるだろうが、
ここでは社会の安定化のためと言いたい。自分が他人から精神的攻撃もしくは肉体的攻撃を受ける可能性を下げるためと言いたい。
社会には他人を攻撃せずにいられない人がいる。
攻撃には単なる悪口から殺人まで幅は広い。
そのような人は自分の置かれている状況に満足しておらず、他人を攻撃をすることでストレスを発散しているのだろう。
そもそも、自分の現状に満足していれば、他人を攻撃することはまずない。
他人を攻撃することには自分が損をするリスクがあり、現状に満足していれば、そのリスクをとる理由が見当たらないからだ。
例えば、上司の悪口を陰でいっていると、それが本人の耳に入り、自分の出世が遅れるように。
現状に不満があり、ストレス発散というメリットと自分が損をするデメリットを天秤にかけて前者が勝ってしまった結果、他人を攻撃してしまうのだろう。
さらに、家族や財産など失うものがない、俗にいう「無敵の人」であれば、その攻撃は過激化する
攻撃が犯罪行為だとしても本人に失うものがないので、その攻撃にブレーキがかからないからだ。
善行にはそんな人達が置かれている状況を改善する可能性がある。
寄付は貧しい人の生活向上に役立つし、ごみ掃除した場所がきれいになれば、そこを利用する人が
気分がよくなるといった面がある。人助けは言わずもがなである。
もちろん、不満にはいろいろなものがあるため、善行ですべて不満を解消することは困難だろう。
しかし、状況の改善は期待できるのではないだろうか。ストレスも緩和されるうえに、
ストレスが爆発するきっかけを減らすことができるのではないだろうか。
例えば、「公園でイライラした気分で歩いていると、落ちていた空き缶を踏んで転んだ。
それをみてクスっと笑った人に対してつい頭に血が上って殴りかかった」みたいなことが意外とあるのではないだろうか。ここで、空き缶が落ちていなければ、こんなことは起きなかったのかもしれない。
次に、なぜ人知れずなのだろうか。
善行であれば他人にアピールしてもよいのではないだろうか。
まず、アピールすると他人からの見返りを求めているように見えてしまうからだろう。
ここでいう見返りとは、お金といった経済的なものではなく、「あの人は素晴らしい」といった承認欲求といったものも含まれる。本人がどう思っているかにかかわらず、他人からはそのようにみられる可能性がある。見返りを求めていないのであれば、人知れずひっそりとすればよいのである。
善行を「他人のためにすること」と理解している人がいるため、それをアピールすることで、
他人のためにしたことは実は自分のためでもあるという解釈が成り立ってしまう。
善行のアピールは矛盾しているように見えるのだ。
まあ、社会の安定化は自分にもメリットがあるため、善行もアピールも自分のためという解釈が成り立ち、実は矛盾していないのだが。
さらに、否が応でも他人の注目を浴びてしまう。
そうなると、応援してくれる人も出てくる一方で、そうでない人も出てくる。
自分の都合の良いように利用しようとする人も出てくるだろう。普通に生きていれば出会わないような悪人を引き寄せてしまうのである。
ZOZO前澤元社長の一億円お年玉企画が、アピールを伴った善意の良い例だろう。
前澤氏の真意は不明だが、この行動を善意ととらえた人もいれば、自社の宣伝と考えた人はいるだろう。
しばらくの間、前澤氏に関するマスコミの記事をよく見かけたのを覚えている。
このように考えてくると、成功者ほど陰徳を積むことがだんだん困難になるのではないのだろうか。
成功者はすでに有名である場合が多く、その行動はどうしても世間の注目をあびやすい。
さらに成功者の善意はスケールが大きいものが多く、その点でも世間の注目を浴びやすいため、
その行動を快く思わないものが出てきやすい。自分の敵を生み出しやすいのである。
本人は社会のために行ったことが、世間の誤解を招き社会を不安定化させる。
安田善次郎氏の悲劇的な最期と世間の非情さ(号外を出したり犯人を英雄視するなど)を読んだときに
そのように感じました。
今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。