ログイン | 新規登録

第78回目(2017年10月)の課題本

10月課題図書

 

脳が壊れた


です。

脳梗塞になった人はたくさんいるんですが、なってしまったらその状況を他者に説明する

ことが出来ませんから、実際の姿ってなってみるまで分からないんですよね。

それを本書では体験記として余すところなくリアルに伝えてくれます。

非常に怖い体験ですが、目を背けられる年齢ではないんですよね。

ということで、中年以降の読者さんは読んでおいた方が良いと思いますよ。

Happy Reading

 【しょ~おんコメント】

10月優秀賞


今月は新書で、ページ数も少なく、テーマも(身近ではありませんが)理解、共感が
しやすかったため、みなさん似たような書きっぷりになってしまいました。

ちょうど今、来週に開催が迫った本書の読書会用アジェンダを書いているのですが、
もっと多面的に気付けることってあると思うんですけどね・・・

そんな中で、一次選考を通過したのがsakurouさん、mmnnさん、andomanさんで、この
中で今月はmmnnさんに差し上げることにしました。おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 wasyoi 日時 2017年10月27日


脳が壊れた を読んで

いやはや、これはなんとも考えさせられる本を読みました。
41歳で脳梗塞になった著者の体験記。そしてそれは、著者のライターとしてのこれまでの経験がフルに生かされた、本文で『僥倖』と呼んでいる通りの、この方だったからこそのリアルな言葉化。
自分もあと5年で41歳ということを考えると、自分だったら、、、恐ろしい限りです。

脳梗塞、その後のリハビリ、周りの支えなど、自分だったらどうなるのかと考えざるを得ません。その意味でも一読の価値ある本。

為になった所をいくつか書き出すと、

リハビリを通して『リハビリは子供の発達障害にも良いかもしれない』p77という著者の考察には非常に考えさせられました。

私は過去に発達障害とおぼしき部下を持った経験があり、対応に苦慮したことがあったからです。
いくつかの本を読み、対策を考え実行したものの、たいした効果は出ず、結局育ててあげられずにその子は悪い形ではなかったにせよ、退職してしまいました。

ここで言う理学療法的な知識があれば、もっと打つ手があったかもしれないと思うと、いち早くこのことを知り、理学療法的な勉強もすべきだったと反省しています。

脳梗塞の原因となる『悪い生活習慣とは、その多くが根っこに本人の性格を潜ませている』p190という言葉に深く考えさせられるものとなりました。これを改めることは容易ではなく、相当な脳に対する工夫が必要だなと感じます。

『 いろいろな距離感に自分の応援団を持つためには、さまざまな人との付き合いで少しずつでもダメな自分をきちんとさらけ出すこと』p214という部分を読み、共感しました。
仲間を作っておく努力が欠かせないと思います。この病気は周りの支えなくてはとても共存出来ないレベルだと感じています。

考え方・生き方を考えさせられる良書。

まず持って反省しつつ、「最悪の事態を考えながら、楽観的に生きる」をモットーにこれからも過ごしていきたいと思います。ご紹介ありがとうございます。

投稿者 sakurou 日時 2017年10月30日


~「脳が壊れた」を読んで~

本書を読み終わり、振り返ってみると「脳が壊れた」というエキセントリックなタイトルではあるが、実は非常にまっとうな社会ルポでないか、と思う。

というのも、今の自分に必要で考えなければいけない問題が詰まっていた。

私は40代真っ只中なのだが、これからの人生で考えなければいけないこと、自分と社会のかかわり方など、役立つ部分が多数あったのだ。これは単なるルポではなく、鈴木氏なりのこれからの高齢化社会、またメンタル不調が蔓延する今の世の中に対する、経験者だからこそ言える、ある種の警告のようにも思える。以下思った点を纏める。

1.人生マラソンをオーバーペースで走ってはいけない

後半、鈴木氏が病気になった原因について振り返る一節があるが、これを読んでいてまさに戦慄が走る思いだった。また、妻の脳腫瘍(これもこれでヘビーだが)に伴う家事の分担など、様々な負担が遠因となったことがよく分かる。手を抜けない性格、休むのが下手な性格がこの病気を発症したのは明らかだ。まさに鈴木氏は心理学で言うタイプA気質そのものである。タイプAは脳梗塞や心筋梗塞等の疾患を発症しやすいと知ってはいたが、実際の例をここまで克明にルポされると、自分の性格を見直さないと、未来の自分がそうなってもおかしくないのでは、と思わされる。

抱え込む、任せられずに自分でやってしまう、優先順位を付けるのが下手、手抜きが苦手、時間があると何かしたくなる。目の前のいろいろなことに手を付けたくなる。とことんやらないと気が済まない。
ああ、自分にも思い当たる。。。

平日は連日深夜まで働き、休日はバイクレースに興じるという、一見リア充のように見えるが実はそうではなかった。気付いてから遅いとはまさにこのこと。

そういえば、先日、花さんのメルマガで「リラックスとリフレッシュは違う。リラックスを優先して。リフレッシュはリラックスの後にやるもの」といったような話があったがまさにその通りだ。リフレッシュのつもりのバイクレースが体はリフレッシュできておらず、それが蓄積されると40はじめにして脳が音を上げてしまった。

体は正直だ。無理しないことは人生の基本である。

2.何だかんだ言っても他人との関わり

終盤、「人の縁」という最大のセーフティーネットであり資産だ、といった記述がある。もちろん「収入が途絶えての一年暮らせるだけの貯蓄を溜めておく」という先輩の教えを守ったこともあるが、
お金の不安の次に出てくるのは「孤独」の不安なのだと痛感する。218ページにある 「孤独とは想像以上に具体的に生死にかかわるリスク」という一節は、病気で死ぬ直前までいき、また生きていても自殺念慮にかられた鈴木氏だからこそ説得力があるし、また、この世の真実だと思う。最近孤独死が問題になっており、
認知症や性格など、様々な要因が絡み合い、近所付き合いがなくなり、気付いたときにはゴミ屋敷の中で、という話が良く取り上げられるし、残念ながらそういうケースは高齢化社会の進展とともに増えていくのだろう。そういう世の中だからこそ、自ら積極的に、また継続的に意識して行動しないとそういう負のサイクルに巻き込まれてしまう。人間関係はトラブルもあるが、プラスマイナストータルで見ればプラスになるのだから、それは続けていかないと、本当に生死にかかわる問題になってしまう。気負う必要は無い。本書にあるように「大丈夫?」ではなく、して欲しいと思ったことをちょっとしてあげる。これだけで寿命が伸びるのだと思う。

3.リハビリとはもう一度大人になること

当たり前だが、本書には、倒れてからのリハビリの物語が綴られている。理学療法士等、様々な人に支えられ、鈴木氏は機能を取り戻していく。「老化とはできることが出来なくなること」だ。ではリハビリとは?私は「リハビリとはできなくなったことがまたできるようになる」それは子供が大きくなってできるようになることとある意味似ている。もちろん一度出来たことがまたできるようになることではあるのだが、そうではない。元々できたことに加えて、リハビリで得た知恵を活かして、より少ない手間でできるなど、手抜きも含めて何らかのの知恵が入っている。それはもう一度大人になることでないか、より賢い、大人になるのでは?
譬えて言えば、若い時に速球で押していた投手が速球で押せなくなった時に変化球を巧みに操り、若い投手に負けない活躍をする。(村田兆治が磨きに磨いたマサカリフォークを思い出すのは歳のせいか(笑))
どんな人でも病気になってリハビリする時が来る。日々のリハビリで辛い日々が続くのだが、辛さに耐えた先にはこういう「もう一皮むけたオトナ」となる、と思えばリハビリ生活も悪くないのでは、と想像(妄想?)してみる。

以上、本書の感想を述べた。本書は単なる病気とそれからのリハビリを綴ったルポではなく、社会派ノンフィクションと言っても良い。もしかしたらこのタイトルで本書の本質が誤解されているのかもしれない(もちろんこのタイトルでなかったら書店で手にも取ってもらえないのかもしれないが)。自分の行動を省みたり、周りとの付き合い方を見直してみるというのが本書を通じた、鈴木氏に対する一番の感謝の気持ちを表す行動なのだと思う。

投稿者 satoyuji 日時 2017年10月31日


脳が壊れた感想

野口整体の創始者野口晴哉は風邪についてこう言っている。

「風邪とは歪んだ身体を治すために、身体が自動で行う整体運動である。」

今まで風邪は悪いものであるという漠然としたイメージを持っていた私にとって、それは目から鱗が落ちるような話だった。その後中国医学などを勉強し、病は身体バランスが崩れたときに起こるという考え方を知った。また笑うことでガンが消えたという話も読んだ。

それからは病気になるのには何かしら原因があり、それは自分の生き方と関係していることであると思うようになった。そして病気になる人は生き方に歪みがあり、自己責任であると思うようになった。

今でもこの考え方が間違っているとは思えない。しかし本書を読んで思ったのは自分も脳梗塞になるかもしれないという恐怖だった。

2013年12月21日早朝、父が脳梗塞で倒れた。年末の帰郷で久しぶりに会ったときには少々荒っぽくなったかという程度だったが、後で考えたらそれが脳梗塞の兆候だった。発症後、父の性格が一変した。高圧的な態度から遜った態度になった。自分のことはどこか他人事で、自分では何もできないような自己否定的言葉を繰り返した。それでいて思うように言葉が出てこない、チャンネルを変えるのに何十秒もかかるなどの苛立ちからか瞬間給湯器の如く直ぐに声を苛立たせるようになった。正直に書こう。私はそうなったのは自業自得だと思っていた。本も読まず、運動もせず、テレビばかり見て文句ばかり言っているような生き方に身体が反抗しても仕方がないと思えた。幸いにもコミュニケーションが取れ、ゆっくりではあるが自分一人で歩けるようにまで回復した。誰かの付き添いがなくても一人で留守番もできるまでなった。私にとって父の脳梗塞は過去の事になっていった。それは自分が脳梗塞になっているわけではないからである。しかし父にとって脳梗塞は終わりのない日常である。ある日突然自分が当たり前にできていたことがいきなりできなくなる。どんな気持ちであったのだろう。受け入れる時間もなく突然やってきた。今日から自由に歩くことができない。今日から自分で用を足すこともできない。今日から思ったことを伝えることもできない。今日から働くこともできない。車の運転もできない。考えずにできていた日常の営みは何一つできなくなった。こんなはずではなかったと何度も思ったとはずである。後から母を通じて、罹った当時自殺しようと思ったこと、今でもお酒が入ると「死にたい」と漏らすことがあると聞いた。

身内の話が長くなってしまったが、私が書きたかったのは今までの日常を作っていた自らの営みは病気になって一瞬にして崩れ去るということである。病気の原因は今までの生き方にあるが、病気にならないような選択を肉体的にも精神的にもすることは非常に困難であるということである。

つまり、脳梗塞は誰もがなるかもしれないということである。

 

病気にならないためには心身ともに良い生活をするに限る。

そう書いてみると普段の食事に気をつけるとか睡眠時間をたっぷり取るという対策が思い浮かぶ。

だが本書で書かれている主な病因はそうした肉体的な不養生ではない。自分で勝手に「〜でなければならない」というルールを決め、それに違反すると勝手に怒り出す。そうして心が生き方を縛りつけた結果、身体が脳梗塞という反応をしたに過ぎない。そういう意味では脳梗塞は心の病気である。

そして心の病気であるならば、ストレス社会である現代では脳梗塞になる人は増えていく事になりそうである。

心の病気は心を直すしかない。作者にとって脳梗塞が心により起こったものであるならば、その治療の過程は心を変えていく過程であったはずである。そう考えていくと再び一冊の本を書けるまで回復した作者の心の変化から脳梗塞の予防、治療のヒントがあるはずである。

一つ一つの小さな変化に気づいて、その進歩を大切にしていた事。
自分のことを心配して来てくれる人間関係を持っていたこと。

本書を通して感じたのは作者が一つ一つの些細な出来事に思えるような事にまで感性を働かせ、機微を前向きに解釈する姿勢の素晴らしさである。

もう一つは作者を訪ねて来てくれる様々な人間関係である。

ちょっとした進歩と自分を訪ねて来てくれる人間関係への感謝があったから作者はここまで回復できたのだと思う。

つまり日々のちょっとした変化を大切にし、様々な人間関係を作っていければ脳梗塞の予防と治療になるということである。

ここまで書いて、これは人生を幸せに生きる方法と同じである事に気づいた。

作者は最終章で自分にとって脳梗塞は人生にプラスを与えてくれたと書いている。きっとそうした考え方が作者を脳梗塞から回復させたのだと思う。

最初に整体師が「風邪は自らの身体を整えるために行う整体運動である」と書いた。

きっと病とはよりよく生きようとするために身体が発するメッセージなのだ。

しかしできるならそれを受け取る前に自らよりよい生き方を選べるようになりたいと思う。


本書からの宿題 父に手紙を書く事

投稿者 audreym0304 日時 2017年10月31日


感想―脳が壊れた

 脳梗塞や脳卒中から生還した人たちが表した本を読むと驚くことがある。
それは、脳が破壊されているにもかかわらず発症している間のこと、程度にもよるのかもしれないが、症状が行きつ戻りつ、症状が緩和している間に助けを求めたり、常人には想像もつかないさまざまな身体的かつ精神的体験をしたり、その後のリハビリをあまりにも鮮明に詳細に覚えていることとそれを可能にする脳の知られざる秘められた能力だ。

著者や多くの生還者たちは身近にいた人たちに救助を求めるのだろうが、本人としては「助けて」「救急車を呼んで」と言っているつもりでも、救助を求められた側には言葉にならない吼えるような叫びにしか聞こえないかもしれない。
突然助けを求められることになった家族や友人の驚きはどれほどのものだろう。

 脳梗塞や脳卒中で壊れてしまった脳は元には戻らないらしい。それでも、残った脳が壊れた部分や機能を補完してくれる。発症する前と同等になることはないだろうが、脳は壊れてしまっても使えば使うほど、働かせれば働かせるほど、活性化をするそうだ。それは、子供に限らず、ニューロンがどんどん死滅するだけといわれている大人にいたっても同様らしい。
 大人の場合、今まで問題なくできていたものが突然できなくなることのもどかしさ、悲しさ、絶望感は本人以外にはわからない。だが、無くしてしまった記憶をリハビリや日々の生活で偶然でも思い出した場合、本書ではくじ引きのようなものと書いてあるが、その嬉しさは何者にも勝るだろう。「回復」の第一歩と思えるかもしれないし、実際に「回復」のためのリハビリにも力を入れることができるようになるはずだからだ。

 子供の脳は脳卒中や脳梗塞でなくてもその育つ環境で変形を起こしてしまうそうだ。
著者がライフワークにしてきた非行少年・少女たちがうまくコミュニケーションをとれない理由のひとつが彼らの育つ環境なのだろう。
子供のころのさまざまな刺激、親や兄弟との会話、あらゆるものの感触、文字や絵や景色や見るものなどが脳に影響を与えるのだというから、こどもへの環境づくりほど大切になるものはない。
乳幼児や児童であれば多少の援助はできるかもしれないが、学生にもなると回りの大人も正常な脳になるためのリハビリに積極的にかかわろうとしないのだろう。
なにせ一度変形や障害を負ってしまうと、大人でも子供でもうまくいかない苛立ちを抑えることができず、ちょっとしたことで爆発をしてしまう。そんな「やっかい」な人間を社会は黙殺して行き、黙殺された厄介な人間はどんどん行き場所もなくしてしまう。
 脳の研究が進んでいるのだから、未来の納税者と投票者のために少年少女たちが厄介な人間になってしまう前に人も税金もつぎ込んでもいいと思う。完全に社会に適合する人間にならなくても、彼らの中には一芸に秀でた天才がいるかもしれないし、その天才は社会に革命的なイノベーションを起こすかもしれないのだから。

 脳に障害を負っても社会に復帰したら自分以外のほかの人は「元通り」と思うのだろう。
だけど、脳は壊れたら完全には戻らず、脳のほかの場所が補完することによってうまく整合性を取っていくのだから、「元通り」ではなく姿かたち、名前も同じ「別の人」が正しいのかもしれない。
「別の人」だから、以前のとおりにできなくても、ふるまえなくてもしょうがない。周囲の人間も自分も元通りを望む気持ちがあるからこそ、元通りでないことを苦しむのだろう。
 
我が家で脳梗塞や脳卒中が起こったことをシミュレーションしてみる。
自分が発症したとしても、夫が発症したとしても、怖い。
まだ夫が発症した場合のほうが、救急車を呼んだり、病院で説明したりの初動対応は私のほうが絶対に早いし、夫が生還する確率は高い。

では、私が発症した場合は・・・。
いざというときのために、警察と消防救急、私の親の連絡先は冷蔵庫に貼り付けてある。まだ使ったことがないので、夫がちゃんと対応できるのかはわからない。
私が発症するなら自分で救急に連絡できるか、夫をサポートできるくらい軽度であってほしい。
あとは財布と健康保険証を夫に渡せれば、つたないながらも救急隊とも病院とも話せるだろうから、なんとかなるだろう。
いや、なんとかしろ、と思う。
あとは神様に任せちゃっていいから、せめてそのときだけは。
安心はできないし、怖いけど、一人で暮らしているときに発症することを考えれば、叫びにしか聞こえない「助けて」を聞いてくれる夫の存在は心強いし、ありがたい。

自分が障害を負っても、親しい誰かが障害を負っても「以前と変わって付き合いにくくなった」ではなく、「新しい関係を築く」という気持ちを持ちたい。
なくなった過去を悲観するより、新しい関係を作っていくほうが楽しいし、壊れた脳も楽しいイメージを常にできたほうが知られざる秘めた能力が花開くと思うから。

投稿者 superhiroshi70 日時 2017年10月31日


脳が壊れたを読んで

相当の文章力の持ち主であることは、壮絶な苦労をしたであろうリハビリ、治療期間を面白おかしく、そしていろいろな発見を通して前向きな気持ちを持っていたように書いてあるところから伝わった。正直な気持ちだけを書いてしまっては、読者も読むに堪えなかったかもしれない。

個人的にはどちらかというと、後半の方、著者が妻とのかかわりかたについて考え直し、行動を変えていったことのほうに興味がいってしまい、共感もした。
私と妻はまだ新婚ぐらいの期間しか共同生活をしていないが、何かと妻には不満を持ってしまっている。
幸いまだ、日常生活に支障が出たり後遺症が残ったりする病気やケガはしていないが、著者の考えたことを通じ、私も特に妻には自分がしたいことをし、相手のためにすることをしてはいないのではないか、と思った。
私の妻も過去に精神的な病にかかり色々あったが、今は薬無しで仕事もしてくれている。ただ、たまに夜眠れなくて朝の起床が遅く、私が何かと家事をする、といったことがある。もしくは酔って寝てしまい、せっかく沸かした風呂が無駄になることもある。
そして、自分の時間が無くなったり、無駄になったりしたように感じることが多い(血管に負担がかかってるかもしれない)。

ただ今回、妻のために頑張りすぎている著者の様子を知り、自分もそうではないか、と思った。私の妻も感謝はしているであろうが、それほどのことを妻が求めているのだろうか、やる必要があるのだろうか、自分は頑張りすぎているのではないか、と思った。
我が家は生活の役割も特に決まっていないような状態であるので、一度しっかり話してみる。

また、著者は奥さんの魅力的なところ、好きなところをしっかり押さえていてうらやましくもある。
私はあやふやになってしまっている妻の良いところについて、見直してみる。または再発見してみる。

大病をせず、これらの点について気づくことができ、著者には申し訳ないが感謝している。


そういえば、ケガといえば足の骨折はした。もちろん自由に歩くことはできなかったので不自由、移動は無理、有休を使って休んでいたいぐらいに不自由だった。
そのときはまだ交際中でずっといたわけではなかったが、病院に付き添ってくれたり買い物をしてくれたりと、一人暮らしの私にはかけがえのない存在であった。
もしものときに頼れる人がいてくれてよかったとも思い返した。

もう一度読み返しつつ、末永く妻とお互い健康に生活できるように、考え方や行動を見直していこうと思う。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2017年10月31日


 本書の最大のテーマ「脳梗塞」とだいぶ外れた話になるが、
小中学生の6.5%が発達障害を持ち、発達障害児はここ20年で7倍近く増加しているという。
(2012年文部科学省調べ)

 2004年頃、私が勤めていた私立中高一貫校でも、生徒の立ち歩きや私語など、軽い問題行動による学級崩壊が深刻化していた。ある時、教育の専門家を招待し、教員に対する「発達障害の理解を深める研修会」が開催されたのだが、その研修会は、あきれるほど酷い内容だった。

「発達障害児の増加の原因は、環境ホルモンと、母乳で、云々・・・」

というシナリオで、どこかの有名大学の教授が延々と評論家のようにしゃべるだけだったのだ。

 「ふざけるな!」・・・私は憤りを感じた。だから何だというのか。原因を環境ホルモンのせいにして、現状改善の何の役に立つのか。当時はそれほど、発達障害に対する理解が進んでおらず、ましてや対処法に関しては、専門家達の言うことはバラバラで迷走していた。
 原因が何であれ、現実として発達障害児は存在する。彼らに対処するため、現場の教育関係者は何を学び、何をすべきなのか。その長年の疑問に対して、意外にも本書『脳が壊れた』が、啓蒙的な可能性を指し示してくれた。

 本書は、41歳の若さで脳梗塞に倒れた著者が、自らのリハビリを綴ったルポだと聞いていた。確かに最初の章では「感情が制御できない」「指先が動かない悔しさ、焦燥感」など、脳梗塞の深刻な症状が克明に描かれており、脳梗塞について多くのことを学んだ。
 ところが後半では、脳梗塞と発達障害が根本的な所で深く繋がっていることを、著者は明らかにしてみせる。77ページの「リハビリ療法士達は、子供の発達の支援者になる可能性を秘めたプロ集団」という一行に、著者の発達障害児に対する思いやりと温かな視線を感じ、救われる思いをした。理学・作業・言語聴覚療法士の担当分野の違いを知り、療法士が尊敬すべき職業であることも分かって収穫だったし、先天的な脳の障害も、ある程度は努力で改善できると知った。(ちなみに本書の内容と直接関係ないが、私がこれまで発達障害児と接してきた経験から個人的見解を述べると、彼らの言語能力を発達させる最も効果的な方法は、音読だと思う。これは今後も続けていく。)

 そして、
●「完璧主義にならなくて良い。自分の弱さ、自分に出来ないことがあると、受け入れる」
●「できないことは、他者に頼る」
●「周囲の家族・友人に感謝の念を伝える」
という、人としての大切な基本的な姿勢も学んだ。

 著者はプライベートでは、発達障害を持つ奥さんをとても大切にしており、また仕事面では、家出少女や貧困層の若者など、社会的弱者を応援する執筆活動を行っている。他者の弱点に対して寛容で、思いやりのある人だと頭が下がる。しかし自らに対してはストイックすぎて心配になる。ワーカホリックで完璧主義、常に自分を追い込んで頑張っていないと落ち着かないタイプのようだ。「他人に優しく、自分に厳しい」生き方は立派で、私にはとても真似できないが、ここまで完璧すぎると体が持たないのは良く分かる。(たとえ「自分がやった方が簡単で速い」と思った家事でも、子供やパートナーにやってもらうことで、お互いがハッピーになる-という真理は、「イノベーション・オブ・ライフ」でも言及されていた。)
 そして、著者がお父様に手紙を書いたこと、奥様のお母様に言葉でお礼を伝えたというエピソードも心に残った。日頃どんなに感謝を感じていても、それを相手に伝える機会はなかなかない。お礼を伝える行為は、必ずしもお金をかけてプレゼントを買うことだけではないし、顔を見て「ありがとう」と言うのが難しいなら手紙にしてはどうか?という言語聴覚療法士の先生のアドバイスも流石である。このエピソードからも、日頃から言葉を磨き、会う人にお礼の気持ちを何らかの形で伝えたいと考えるようになった。
著者の鈴木大介氏は、私が冒頭に書いた「発達障害は環境ホルモンのせいで・・・」と他人事のようにスピーチするだけの学者と180°真逆で、体当たりで取材をし、おかしいと思う社会問題を「おかしい」と声を大にして勇敢に主張するルポ作家である。彼の主張は「机上の空論」ではないから信頼できる。
 彼は、自ら買って苦労をしてきた「不屈の努力の人」に見えるが、彼に引き寄せられる人もまた、大きな苦労と戦ってきた人達なのだと思う。私は難病と戦った経験もないし、重い病気を持つ家族を介護したこともないので、同じ苦労をした人達の気持ちを、本当の意味で理解しているとは言えない。だが、本を読んで予備知識を持ち、未来のシュミレーションをすることだけはできる。この本との出会いにより、私自身も鈴木氏の勇気と思いやりを学び、成長したい。
 良書を紹介していただき、ありがとうございました。

投稿者 shinwa511 日時 2017年10月31日


「脳が壊れた」この本のタイトルを見た時から、脳に障害が起きた人の話だろうと考えていました。しかし、“脳が壊れたら元の生活に戻ることが出来るのだろうか”、“そもそも脳が壊れたら自分の心はどうなってしまうのだろうか、その精神的衝撃に耐えられるだろうか”という疑問も同時に出てきました。読み進めて行くと、障害が起きた原因は、自分自身が正しいと考えて行動していたことが、実は自身の負荷になっていたということでした。“私には正しい。他の人にとっては間違っている。”という事も自分の中の常識だけでしか、判断していなかったことに気づかされました。
作者自身が発症した高次脳機能障害も、「見えづらい障害」と書いています。実際に話して、接してみないと分からず、周囲の予備知識の無い他人にも「変った人だな」と思われてしまうだけでしょう。障害を持ったことで作者自身は苦しみ、リハビリ治療をしていく中で、自分の苦しみを理解し、支えてくれた周囲の人には心からの感謝の気持ちを伝えていきます。辛い気持ちを理解してくれる家族や、友人がいてくれることは本当に素晴らしいことだと感じました。と同時に、当たり前に今まで出来ていたことが出来なくなった時に、自分自身を見つめ直すチャンスも得ました。
人は社会の中で他の人と接し、新しい経験をすることで、その人のパーソナリティーや特技、技能、能力が養われていくと考えます。さらにその能力を認めてくれる、理解してくれる人がいることで自信へと繋がり、精神的な強さになって、自分を認めてくれる他の人への感謝への気持ちへと繋がっていきます。“自分だけの力ではなく、周りの人が協力してくれたから、ここに今いることが出来た。”と自覚することが出来ます。勿論、人との交流は、良いことばかりがあるわけではないと思います。周囲に厳しい言葉を投げてしまい、他の人を傷つけてしまうこともあると思います。そいうときには落ち着いて、立ち止って今までの自分を見つめなおすことで、そのことに気づかされ、自分の心を新しく作り直していくと考えます。無理をしていないように見えて、本人は表に出さないだけで、精神や体調に大きな負担を強いている状態の人が多いのではないかと考えます。自分は普通だ、まだまだ大丈夫、と自分だけで考えて行動しているだけで、他の人の目からみれば“調子がおかしいのではないだろうか”と思うことがあると考えます。親しい人であれば、その人の周囲の人が気づいて“無理をしていない?”、“大丈夫?”と声をかけることが大切だと思います。そうすると自分が考えていた考えとは別の選択に気づかせてくれる、自分を気遣ってくれる人がいてくれることに感謝し、周囲の人との関係はより強固なものに変っていくと考えます。今後自分自身、家族や友人からそのようなアドバイスが出た際には素直に相手の話を聞くように、また相手に話かけることが出来るようになりたいと思います。

投稿者 diego 日時 2017年10月31日


コントロールについて考えてみる

本書は、脳梗塞で急に脳の一部が止まってしまった筆者の経験で
急に何かができなくなり
どんな工夫により、どんなふうに回復していったか
どんなことがつらかったか、どんなことにまだ苦しんでいるのかが書かれていて
それでもユーモアやよろこび、状況に対する驚きに満ちていて
その中で気付いたことを、ここまでクリアーに伝わるように
言語化している書籍であることに、つよく感じました。

以前メルマガでも紹介いただいた『奇跡の脳』を読んだ時も、
とても強く感じた。
この2冊が共にすごい本なのは、脳が急に、一部死んでしまうと、
とても恐ろしくて悲しくて辛いことも体験するし、
またある時は、大きな感情やよろこびが溢れて、
驚くほどのエネルギッシュな奔流に溺れていくのかが
私たちにもわかるように、かなり克明に描かれていることだ。

それは、子供の頃に感じた、もしくは感情の起伏が激しい子供に見られる
どうすることもできない程の激情か、それより強いものなのだろう。

一体、人の脳には、どれだけのポテンシャルがあるのだろう。
どれだけ生産的なこと、どれだけ破壊的なこともできるのだろうか。

そのことを考えつつ、本書を再読すると
著者の生きる姿勢が、病気を通しても、しっかり伝わってくる。
本書で書かれているように、同じ経験をしてみないと、脳に強いダメージを受けた人たちのことは
理解できないかもしれないが、それでも、
脳にダメージを受けた人たちを思い出して、
今それに近い経験をしている自分と、自分の苦しみを通して、
本当にはちゃんとわかっていなかったと、繰り返し伝えてくれる
その言葉を通して、
私たちは、ようやく、著者の苦しみと、同じようにもしくはそれ以上苦しんでいる誰かに対して
ほんの少しだけでも近づき、苦しんでいる人たちのことを考え、
自分がこうなったら、誰かがこうなったらと、
家族のことや友達がどうなっていくのかを思い、
社会が超高齢化していくのにどう対応したらいいのか
子供たち世代の人口が少ないのにどう対応したらいいのか
そんなことを、伝わってくる熱い思いを受けて、深く考える。

たた、一口に言っても、事は簡単ではなさそうだ。
例えば、実際に脳梗塞で高次脳の障害がある人が身近に居るが
本書を読んで、私はその人にとって、やはり「理解してくれない人」なのかもしれないと反省する。
生きるために、神経の回路を新しく作ってもらおう、楽しい時間やよろこびの時間をつくってもらおうと
するのだけれども、
時に、暗い気持ちになってしまい、つい否定的な考え方をすることがある。
その人には、明るい気持ちで喜んでというけれど
私自身のことを考えるとき、つい自虐的な考え方をすることがある。
その人に巻き込まれているという考え方もあるし、そう考える時もあるし、
そんな時も実際にあるかもしれないが、
多くの場合、私自身の弱さから来ているのだろう。

自分の順風満帆ではない人生、現在「成功者」とは言い難いし
今の私自身はかなり幸せだが、世間一般ではかなり大変(母子家庭)である。
そう考えたら、世間の基準というのも、ある程度はきちんと考えて、
気になるところをしっかりクリアして
さらにしっかりと生きている実感、幸せであることの実感を感じていけば
流されることは少なくなるだろう。
また、共に生きていることに、強いよろこびを感じていけるだろう。

その人の詰まった大きな血管は、塞がったままでも
毛細血管がとても太くなってきているそうです。
生きようとしている体に、とても強い感銘を受けました。
よろこびの時間、好きなことをやる時間が増えたから生きようとしている
もしそうだったら、こんなにうれしく、満たされることは、なかなかありません。

これからもがんばります。
この本に書かれている経験は、すごく大変だなーと思うのだけれど
なぜか、とても幸せな人たちに思えるのです。
大変な状況でも、すごくユニークで、これを読んでいて、笑いが止まらない時もあるし、
涙が止まらない時もありました。
ご夫婦のしっかりとした結びつきを読むと、とてもうらやましい。
山あり谷ありは、できればないほうがいいなと思ってしまうけれど
どんな時にも、善き自分でありたいと、ユニークでありたいと、強く思いました。
ありがとうございました。

投稿者 J.Sokudoku 日時 2017年10月31日


 脳梗塞を患った体験について明るく、笑いを織り交ぜつつ、けれどもしっかりと世間に向けて重要なメッセージを一冊の本にして送る著者の鈴木大介さんに興味を引かれた私は、本書を読み終えてすぐに“ギャングース・ファイル~家のない少年~”という鈴木さんが脳梗塞になる前に執筆した本を読んでみた。果たして疾患の前後で鈴木さんの作風が変化したのかどうかという点を確かめたいと思ったからだ。
 しかし、“ギャングース・ファイル”という、現在の日本社会の片隅で生きる人たちにスポットライトを当てたルポルタージュは、結果として当初の私の興味とは別に「脳が壊れた」の中で鈴木さんが強く主張する
「人の縁は具体的資産だということ」(P.218)
を一層浮き彫りにさせることになった。この「人の縁」を持っているか、いないかで人生は大きく左右されるということを2冊の本を読むことで痛感した。

 鈴木さんは脳梗塞を患うという途轍もない苦境に自分の意思とは全く関係なく置かれてしまった。脳梗塞と高次脳のリハビリとは、とてつもなく過酷なのだろう。その中で、不自由極まりない脳を持つ感覚が生み出す心身の苦しみ、痛みは当事者でない限り決して分かり得ないものに違いない。ただ、その過酷なリハビリに鈴木さんは、懸命に立ち向かい現在も後遺症と闘っている。そんな鈴木さんを突き動かしているのは素を辿れば「人の縁」なのだと思う。

 まず、鈴木さんにとって最も幸運だったことは、本人も認識しているように周囲に頼りにすることができる人達がいたことだ。やはり親身になって励ましてくれる、手助けをしてくれる、また相談に乗ってくれる奥さんや義理のお母さん、友人、仕事仲間の存在から鈴木さんはこの上なく大きな力をもらったはずである。その励ましや期待に何としても応えたい、元気になった自身の姿を見せたいという鈴木さんの思いと姿勢と行動が、本書の至る所で私の胸を打った。
 
 そして、私はこの頼りにすることができる「人の縁」とは違う種類の「人の縁」からも鈴木さんは力をもらっていたのだと思えてならない。それは、鈴木さんが過去に取材をしてきた世の中から爪弾きにされ社会的に弱者や邪魔者として生きている人たちとの縁である。
 例えば、上記別書の“ギャングース・ファイル”に出てくる爪弾きにされた者たちの中には、生まれながらにしての精神疾患や発達障害を抱えている、または親の育児放棄・虐待や家庭の貧困によって等、自分の意思とは全く関係無しに社会の隅に追いやられている人が多くいる(本書P.39~40に登場する「ヒサ君」がその一人)。脳梗塞を患うという途轍もない苦境に陥った鈴木さんは、同じように途轍もない苦境の中でずっと以前からもがき苦しんでいる彼らと自身を重ね合わせたのではないだろうか。
 しかし、鈴木さんと彼らとの間には決定的な違いがある。それは、資産と言えるような「人の縁」を持っているか、いないかだ。現在の日本の社会には、資産と言えるような「人の縁」を全く持ち合わせていない、持ちたくてもその術も全く分からない人たちが沢山いることを鈴木さんは取材を通して知っている。鈴木さんがリハビリ中に見せる根性の一部は、そんな彼らの存在自体や彼らの表に出ない苦しみや痛みを代弁し世間に伝えたいという使命感ではないだろうか。

 このような鈴木さんの体験を目の当たりにして、私がもしも似たような状況に陥った時どうなるのだろうかと考えてしまう。現在、私の周囲には果たして親身になってくれる人がいるのだろうか。苦境を乗り越える糧となる根性や使命感なるものを持ち合わせているのだろうか。ある種の不安を感じるとともに、今後私が取るべき振る舞いが見えてきた。

 最後に、疾患前後に執筆した“ギャングース・ファイル”と「脳が壊れた」を読んで、思い感じたことについて書く。本書末の奥さんの感想にもあるが、鈴木さんは疾患前より優しくなったのだと思う。そのことは、“ギャングース・ファイル”を読み終えた後に、「脳が壊れた」を読み返した時に本の全体を通じて伝わってきたことだ。特に、家族や友人などと比べて決して身近な存在とは言えない過去の取材対象者の気持ちを思いやる場面を読み返した時に、“ギャングース・ファイル”の時とは違った角度から鈴木さんが注ぐ熱くて、優しい思いやりの気持ちにジーンときた。
 脳梗塞という大病を患ったが故に、鈴木さんには初めて見えてきたこと、分かったことがあり、それらを活かすことで結果として疾患前よりも幸せを感じているのだと思う。では、私が鈴木さんと同じ状況になりたいかと問われれば、答えは“NO!”だろう。ただ、ラッキーなことに本書に出会うことで、鈴木さんの体験を知り、途轍もない苦境も、その人の姿勢、考え方、行動で乗り越えて、捉え方次第でその後の人生の糧とすることが出来ることを教えてもらえた。そして何より、鈴木さんの体験を通して「人の縁という具体的資産」とその大切さ、有難さを再確認できたことは大きな収穫だった。今後は、私の周りに居てくれる家族、両親、会社のスタッフ、友人や仲間との縁をより大切にして行こうと思う。

~終わり~

medal1-icon.gif

 

投稿者 mmnn 日時 2017年10月31日


・脳梗塞など将来の大病に備えるには、家族、特に配偶者との関係が大事。
・病気は心の問題が大きく影響する。まさに病は気からである
・病気になるのは、結局、自己責任である。全ては今までの自分の行いが
今の病気を招いている。

このあたりは、多くの人が気づくでしょう。私もなるほどと思うところはあります。

人とは違う観点で私は、2点、少し考えてみたい。

まずは、前回の課題図書のポイント同様、「自分の常識を疑う勇気を持つ」ことの
重要さである。

脳梗塞にも関わらず(もちろん病気の程度にもよるであろうが)、筆者は
克明に物事覚えている。また、その場その場の状況の判断も意外に普通に
できていると私は読後感じた。

もちろん、脳梗塞の典型的な症状で半側空間無視のために、右が正確に
認識できていなかったこともあるが、症状がひどい時でも、よくよく
注意すれば正確に認知することができることにも驚いた。

ここから改めて学んだのが、冒頭に掲げた「自分の常識を疑う勇気を持つ」である。


筆者も述べているが、見えないのではなく、見られないそうである。


これは、脳梗塞などの病気に関係なく、通常の私達にも多々起こりうることだと思う。


私達は、自分の見たいものしか見ていない。実は見えているものでも、
意識していないことが多々あるのだ。


そして、この見えているのに、気がついていないことを知ることは非常に難しい。


筆者の脳梗塞の半側空間無視は、意識的に見れなくなった左側を、目線を
意識して動かすなどして見ようと努力されたようである。


私達も自分の常識を「意識的に」疑うことなく、見えているのに見えていないものに
気づくことはないでしょう。

まずは、意識的に「疑う」ことから、改善を図りたいと思った次第です。

 

次に「感情失禁」にみられた、心と脳の関係に注目したい。


心で感じた感情をコントロールする脳の働きにこれまた驚きを感じた。

脳の働きが阻害されると、感情が溢れでてしまい、抑制が効かなくようである。
爆発的な怒り、止まらない涙、いつまでも続く感動など、脳の働きが
感情抑制にとっていかに重要であるかが伺える。


セミナーでも教わったが、人は幸せなできごとで幸せを感じるのではない、
幸せだと感じるから幸せなできごとが起こる、というのがあったが、


幸せな感情を活かすも、殺すも脳次第ということになる。
つまり、脳で考えていること(自分の価値観)が現実のできごとを
幸せなできごとにするし、不幸なできごとにも変えてしまうのだ。

前回の課題図書の感想文でも書いたように、この世のできごとが確率論で
支配されているなら、幸せなできごとに多く巡りあう確率を高めたいなら
より多くの「幸せ」という感情を脳で認識すればよいであろう。


つまり、幸せな感情を立ち上げるには、脳の働きが必要不可欠ということである。

脳を阻害された筆者の感情失禁体験から、脳と感情の強いつながりを
私は感じることができた。


そして、将来の万が一に備えて、脳力トレーニングが必要だと考えたので、
この感想文を書いている1週間ほど前から、しばらくサボっていた
左手で箸を使うトレーニングを毎日続けています。


筆者のリハビリでもあったように、脳が不自由になると手先が使えなくなったり
するようなので、あえて不自由な手先を使う訓練により、脳の活性化を図ろうと
思っている。

投稿者 tadanobuueno 日時 2017年10月31日


今回の本を読んで感じたことは、
1.問題は宝
2.最終的には人間関係
この2点。
以下にて詳細説明させて頂きます。

1.問題は宝
今回著者の文書化、具体化により以下が類似として挙げられていた。
・リハビリで失った脳の機能を取り戻していく著者と、病院で遊ぶ子供達の脳の成長
・脳の機能を失った著者と、後期高齢者で認知症の方、鬱の方、社会に適応できない方等
これら記述を通し、問題の一因は脳の変調で、つながっていることを感じた。
著者の行った、問題に向かい合い、具体化を行い、その解決法に辿り着くことで、著者の患った脳梗塞の解決以外の問題解決にもつながっていくことを感じた。

自分自身、子供の教育について考えていた際、たまたま発達障害のお子さんがいるお母さんの、お子さんとどう接し、どう勉強に取り組んでいるか、に関する記事を読んで、自分の娘達にも使わせて頂いたことがある。
このお母さんのポイントは非常にシンプルで、明確だった為、障害のない子供達にはより受け入れやすい内容だった。

著者は、目に見える問題は分かりやすいが、目に見えないものはなかったことにされる、と言っている。著者の意図とはかなり異なる使い方だが、目に見える問題に真摯に向き合い、その解決策にたどり着くことが出来れば、その解決法を一般化することで、目に見えない問題を解決する方法にもなり得るのではないか。

営業を長くやっている身として、商品を売るのではなく、お客様の問題を解決してこそ営業、との言葉を聞かされてきたが、今回の著者のように、問題を具体的にして、その解決法を考え、それを一般化して他のケースにも展開することをする、問題こそが宝との想いを持った。

2.最終的には人間関係
問題に向かい合う。
言ってしまえばシンプルだが、それが出来ないことが多いのが世の常。
著書はリハビリを地道にこなし驚異的な回復をしたが、あとがきに記した「みんながいなければ死んでいたかもしれない」という吐露は、問題に向き合うことの難しさを端的に言い表しており、著者を取り巻く人間関係、周りの環境が著者を助けたことを示している。

最初にこの本を読んだ際、8章以降は今までと趣が異なる気がしたが、読み進めてみて、この8章以降こそが、問題が変わった時も、これさえあれば生きていける重要な部分と感じた。
具体的には、
・自分が問題に陥らない為の自己の客観視の必要性。
・自分が問題に陥った際、自分の周りの抱える問題に向き合う際、に必要な、
人間関係、適度な距離感の必要性。

この関係性を著者はどのよう構築してきたか。
著作からの類推になるが、自分の気になる分野を追い、その中で困っている人を放っておくことができない、与えることを先行させてきた人なのだと感じた。
著者は狙ってやっている訳ではないと思うが、この活動が、この活動を通して培った人間性が著者の周りの方にとって、著者を守りたいとの思いにさせるのではないか。

仕事・私事ともに、自分の興味を持っている分野での活動を増やし、その中で積極的に自らが労を惜しまず、自分の興味の持っていることを少しでも成し遂げるべく動いていく。
これを続けて参ります。
以上

投稿者 gizumo 日時 2017年10月31日
『脳が壊れた』をよんで

 自分の母親も脳梗塞を患い、幸いにも軽い症状でしたが、前後の様子など著者の描写には思い当たる節がありました。
 また、「原因は自分自身だった」と述べられていますが、母親にもそして私自身も思い当たる事ばかりで、猛反省でした。
 さらに目に見えない「高次脳障害」と言えるかもしれない、当時、また年を取ってから不自由の増えた現在の母親がどんな気持ちなのか理解と思いやりが足りなかったこともあらためて反省しております。

 作者の発症前と同様な過ごし方をする部分のある自分を改善するために、やはり「内観」の時間を取る必要があると痛感しました。人と大きく違う道を進みつつある自分はどこか「現実逃避」しているのではないか?、違うことが問題ではなく、向き合っていないことが大きな問題だと気づくことが出来たと考えています。「そのうち」や「いつか」でなく、まさに「今!」じっくりと取り組むきっかけとなる本との出会いでありました。

 「人の縁」についても、改めて大切だと一定の年齢を過ぎて感じ始めていましたが、努力して築くものでもなく時間が育て、丁寧な生き方が問われるのだと思っています。この点も、じっくり自分と向き合い問うてみるべき事柄だと。

 本書は軽いタッチの読みやすい文章で、新しい文体(?)に面食らう面もありましたが、これも今風か?「ザ・新書」といった感じが新鮮でした。
 さらに、個性的な奥様を見ていると人の“魅力”について深く考えさせられ、自分の固まった思考に反省しました。
 “反省”ばかりの感想になったこの課題本でしたが、著者に感謝とともにご夫婦の更なる活躍と日常生活に興味津々といったところです。

投稿者 msykmt 日時 2017年10月31日


本書を読んで、一緒に仕事をしている、おそらく高次脳機能に障害のある同僚の行動に対して、寛容になれた気がする。本人の怠慢によるものではない、と理屈では理解しつつも、彼のとめどなく繰り返される失敗に対して、責めるような言い方を私は幾度となくしてきた。しかし、ひとたび著者のように、脳とからだとの電気信号の伝達がワークしない事態になれば、私も容易に同じようになりうるのだ。

投稿者 BruceLee 日時 2017年10月31日


私が本書で強く感じた3点をまとめる。

1)人生を左右するのは「性格」である

悪い生活習慣とは、その多くが根っこに「本人の性格」を潜ませている。ならば為すべきは性格改善

と、著者は病因の大元は自身の性格であったと見極めている。ここで私は、病は食べ物や生活習慣以上にその人の「性格」が遠因にあると学び大いに共感した。何故なら私は近頃、「人の幸不幸を左右するのは性格だ」と感じているからだ。人の不幸を左右するもの、それは金でも地位でも名誉でも、愛する異性との結婚でもない。それら全てを持っていても幸せでない人はいる。逆に、それらが無くとも幸せな人もいる。その違いは何か?と考えてみると、行き着いたのが個人の「性格」だったからだ。性格により「目の前の事象の捉え方」が変わる。そして以降どう活かすか、殺すかも変わる。それが人生の幸不幸を左右する気がするのだ。著者は家族との関係もあり、ある意味自分に厳しく無理を強いて生きて来たのだろう。そしてそれが当たり前になっていたのだろう。

少々俯瞰してみると、著者の病因がその性格故の悪習慣であったとすれば、それは道理だったと言える。なるべくしてなったのだと。が、だからこそ著者は「本当に大切なもの」に気付く事が出来たとも言える。現に病により著者の思考は大きく変わる。そして「脳梗塞のおかげ」と感謝している。これもまた「捉え方」である。病でなくとも「捉え方」で自らを不幸と定義する人が少なくない現代。「その性格がいつかあなたを大病に導くよ!」というメッセージを私は行間から感じた次第である。

2)病でないから大丈夫!ではない
ある日身体の異常を感じ「それまで出来ていた事が突然出来なくなる事態」。著者はルポライターであるからか、自身を客観的に書いているが、実際それは恐怖だろう。だがここで考えてみたい。病だから「突然」だが、「それまで出来ていた事が出来なくなる事態」と我々は生きている限りいつか必ず遭遇するのだ。それは「老い」だ。その時我々は味わうのだろう、他の事も次第に出来なくなる恐怖を。だから老いに気付いた人は体を動かし脳トレに励む。が、いくら対策を講じても来る時は来る。そして真に怖いのはそうなった時に外見では分かって貰えない点ではなかろうか。手を失った人、足を失い車椅子の人を見れば我々は障害者だと直ぐ分かる。が、五体満足なのに昔の覇気が出せなくなったら?疲れや気だるさに襲われたら?見るからに老人であれば周囲も気遣うだろうが、所謂壮年レベルでは「元気を失った、やる気が失せた」と誤解されるかもしれない。その「周囲に分かって貰えない感」は辛く寂しいものだろう。私は著者が過去インタビューした若者を思い出す場面でそれを感じたのだ。

では、その際重要となる点は何か?著者は書いている。「人の縁は具体的な資産」と。同じ病の経験者である妻の明るさとサポートも大きかったと思う。周囲の友人たちの励みやI先生の「夫婦でお互い譲れないものを出し合って、お互いにそれを許容する契約を結びなさい」という言葉も著者の心を軽くしただろう。そのような精神面の助けを与えてくれるのは「人」なのだ。本書で印象的だったのは、著者が他者の苦しみを理解し、過去の自分を反省し、仲間や家族への愛に気付き、特に肉親への見栄とプライドにも踏み込み、それまで見えて無かった大切なものの多くに気付いていく過程だ。そして本書を読んだ我々も自身に問い掛けるべきだろう。自分が脳梗塞レベルの病になった時、側にいてくれる人はいるか?その人は自分を本当に理解しサポートしてくれるか?いるなら良い。だが、いないのだとしたら。。。それこそ健康なうちに作っておくべき資産だと本書は教えてくれてる気がするのだ。

3)人間は高機能な生き物なのだ
リハビリの過程で著者の視点は多岐に渡るが、私が最も印象的だったのは、

「実は人間とは、動物とは、視聴覚嗅覚をはじめとしてとてつもなく高度なセンサーの塊だが、そこで感知するほとんどの情報を『無視』することで、活動が可能になっているとされている」

と、人工知能の「フレーム問題」に触れている点である。これはAIの弱点、逆に言えば人間の強みを指摘している点と感じたからだ。「あと10年、20年で無くなる職業」が世間を騒がして久しい。が、AIやIoTがどれだけ進化しても、それらでは代替出来ない人間の強みを生かした仕事は決して無くならない筈だ。私は本書を読了後、日々の自分の仕事を、技術に任せられる仕事、人間でしか出来ない仕事、と仕事の1つ1つを意識して考えるようになった。そして人間でしか出来ない仕事に更に付加価値、希少性を持たせる事が次世代の仕事人には必須だと思うのだ。これも当たり前に出来ていた事を、突然出来なくなった著者の視点で捉えた気付きである。自分の仕事を新たな視点で捉える、これも本書で得られた僥倖であった。

以上

投稿者 H.J 日時 2017年10月31日


脳が壊れた

 本書を読み私が思った事。

 こんな事を第三者が書くと不謹慎かもしれないが、鈴木さんは病気になった事で見える世界が沢山あった。
病気になった事で、自分を見直し、周りの人への感謝や何よりも実の父や母との関係修復の一歩を踏み出せている。
今まで落としてきた大切なものを拾い集める様なそんな感覚。
これは言葉で書くと軽いが、実際すごい事だし、このきっかけは病気が鈴木さんに残した一番の宝物ではないかと思う。

 同時に鈴木さんから教わったこと。

  ・分かった振りから始めてみよう。
  ・自分にはない視点を持っている相手の立場から見る事の大切さ。
  ・困難な状況に陥った時こそ冷静に受け止め、そんな時にしか経験できない事や発見したものを大事にする事で人は成長できる。

 3点に絞ってみた。

 まず最初にまえがきを読んだ時、
印象に残ったワードが「分かった振りをしてきただけ(p10)」だった。
私は「そうだよね。正に”知っている事しか知らない”なんだよね」と思った。
だが、読み続けるとこの言葉が私の心に突き刺さっていく。
どんどん重く深く突き刺さる。
そうか、私こそ本で得た知識を片手に「分かった振りをしてきただけ」なんだ。

漁に行った事も漂流した事もないのに、海の過酷さを知ったつもりでいた。
鋸山(330m)ぐらいしか登った事ないのに、山登りの過酷さを知ったつもりでいた。
戦争を経験した事がなければ捕虜になった事もないのに、戦争の過酷さを知ったつもりでいた。
今回も脳梗塞になった事ないのに、脳梗塞の辛さを知ったつもりになりそうになった。

経験してもないのに、本からの知識をインプットしてアウトプットして、知ったつもりでいたのだ。
本当の過酷さは経験しなければ、わからない。
同じように理解出来ない相手を知るには、同じ高さに立たないと見えてこない。

それでも知識が有るのと無いのでは全然違う。
経験した人の視点を取り入れることは、自分の知らない世界を教えてくれる。
見ようとしなかったものを見える様にしてくれる。
理解しようとしなかったものを理解しようと思える原動力になる。

 大切なのは、自分がその知識をどの様に活かすのか。
そして、知識を活かすときに、自分の視点だけではなく相手の視点に近い位置から考えられるか。

例えば、p218の様に身近な人が困った時に助ける事ができるのか考えた。
今までの私はきっと、鈴木さんの言う通り相手に決断を委ねるだろう。
家族ならば有無を言わさず動くが、友人や知人が相手の場合「大丈夫?」から入るだろう。
本当に辛かったら助けてと言うだろう。と考える。
お節介なんて思われたくない。そう思ってしまうだろう。
結局は自分の視点でしか判断していない。
相手の視点を自分の視点で解釈した上で自分の都合に合わせてるだけだ。


とは言え、本人にでもならない限り、相手の気持ちは分からない。
なら少しでも近づく努力をすれば良い。

 そのために「相手の立場を分かった振り」つまり同じ高さに立ってみる振りから始めようと思う。

私が彼だったらどう思うのか。本当は何をして欲しいのか。
万が一、身近な人が困った事態になった時に「行動」して助けてあげられる事が出来た時、鈴木さんへの恩返しになるだろう。

 また、”自分の立場からの視点”ではなく、”相手の立場からの視点”で見ることは、相手のためだけではなく自分のためにもなる。
イライラしそうな時に、相手の立場からの視点で見れれば、自分の怒りや不満を制御出来るのだ。
自分の立場からの視点を増やしただけではどうにもならない事がある。
相手の立場に立った視点も大切だと勉強させられた。


 最後に話が少々脱線するが、今話題のセ・リーグ代表DeNAベイスターズのラミレス監督のインタビューで本書の鈴木さんと繋がる話があった。
”日本球界で長く続ける秘訣”について聞かれた時のインタビューだ。
ラミレス監督が日本で学んだ事は
1.しょうがない
2.わかりました
3.頑張ります
らしい。
日本で野球をプレーする外国人選手にとって受け入れ難い事が必ずあり、それを変えようとしても変えることは難しい。
だから、「しょうがない」と気持ちを切り替え、「わかりました」と事実を受け止め、その上で「頑張ります」と前に進む。
とのこと。
この記事を読んだ時、鈴木さんが病気と闘った時に類似していると思った。
もしも自分が、”当たり前のことが当たり前でなくなった状況”に陥った時、生き抜くために、好転させるためにこの3つも覚えておこうと思った。

 知識だけではなく、私の経験したことのない経験や想いを伝えてくれる本は実に有難い。
私も成長していくに連れて、知らず知らずに大切なものを落としてるのかもしれない。
この機会に自分をもう一度見つめ直してみよう。

投稿者 akiko3 日時 2017年10月31日


「脳が壊れた」を読んで
    
足を床に投げ出ししょぼんとして「どうしていいかわからん」今月、介護5になった母の6,7年前のつぶやきだ。
「3年たったら何もかもわからなくなるから、シンプルな生活環境にしてあげて下さい。お風呂場にはシャンプーと石鹸だけとか」最初の認知症専門医の診断に対し、モノが多い実家を物のない環境にする方がどうしたらいいのーって絶望的に思え頭を抱えた。

わからない状態になるってどうなるのか?初期の頃はボケとツッコミのように笑い飛ばせるエピソードもあるが、イライラと叱るように言ったこともあった。会話もYes,Noぐらいの乏しい内容になり、足が上がりにくくなって自宅での入浴自体が難しくなった。さらに、骨折後は車いすで家族が移動させるので、家の改築も掃除も免れ、母は自分の意志で動く必要がなくなった。『母が好きなディで楽しい時間を持ち、安心して自宅で暮らせるように』と目標を掲げたが、“介護者である家族のやりやすい状態で母が好きな家で過ごす。”になり、介護が必要な母をみんなで気遣っていたが、最近は父も年を重ねてきて(わからないと思われた母が父を一番気遣っていた)、二人が住み慣れた自宅で互いを思いやる穏やかな老後が送れたら、とかすがいの子供達の出番になってきている。母がまた子供たちの介護を“成長したな”という誇らしげな表情で見守って介護させてくれている感じの時もあり、母の脳は壊れてなく、母親脳は健在だ!

著者の脳の回復経過は、意外に父のかたずけができないとか、何か決めたら経過が気になるとか、ちょっとヒヤッとした。配偶者である父が母のメイン介護者だったが、最近は介護負担が父の老化を進めてはいけないので、介護しなくてもいい状態で母の精神安定剤としてそばにいてもらえるように体制を変えた。面倒をかけられた子育てを通し、得られた互いの信頼関係がこんな力強い支えになるとは!そして、読みながら、指摘しても(文句言うだけ)真の改善にはならない、そして心を責めると逆効果と大いに反省させられた。でも、もーなんでかたずけられないかなぁぁぁとイラッとするんですけど。なんかいいリハビリか、魔法の言葉はないでしょうか?(とりあえず、後期高齢者、後期高齢者とつぶやいてクールダウンしています)

脳は壊れても、訓練し直すことで機能回復できるという生々しい体験談は、勇気と希望を与えてくれ、現実に起こっている社会問題の根底にもちゃんと訓練されていないことが原因だなんて、子育てって社会にとって重要な仕事なのに、子育て支援とか、保育所問題とか大人の都合を解決する方法しか議論されていないようで、子供の発達、教育、幸せを議論の中心にして、大人が、社会が何をできるか考えないと解決しないのではと思った。大人の発達障害とか統合失調症とか脳の病気ってよく耳にするようになったが、なんでだろう?と思ったが、様々な問題や事件の背景にチラチラみえているもう個人の問題じゃない、社会問題になっているんだなと未来が心配になった。

生きたい!という願望を抱き、鍛えたらよりよく生きられるよ!!というメッセージは、できないことが増えていく母に対し、何かできることがあるのでは?と、できることをしてもらえるように見守る、介助することで見えてくる希望があると教わった。
実際、母の今の日常を支えてくれる関係者との会議で、家族の希望は、排泄でるでない関係なくポータブルに1回は座る、食事介助でも箸を持たせる(家では箸で米粒1つだったりするけど自力で食べることがあったり、おかずを選んでいることもわかった)、できるだけ車いすに座って過ごすを自信を持って伝えることができた。母にとってできなくなるままにすることが一番辛い、今までは笑って過ごせるようにとイメージ的なことしか言えなかったが、母の現状を観察し可能性を見つけ、能動的に生きることが喜びに繋がるのではと強く思った。
これまで折に触れ、“介護は子育て”と感じてきた。全てしてもらってきたことを返しているだけ。緩やかに衰えていく老化と、躾けて自立できるようにする子育てとは望む結果が少し違うけど、1つ1つの行為は愛情から発露している。このご夫婦からも感じたが、愛は出すのが先。愛があれば頑張れる。生きている喜びが得られる。出来ないことも出来る奇跡も生む!
言葉がでなくなっている母に「頬をマッサージしたらまたしゃべれるようになるかね?」とマッサージしたら、穏やかな表情をしていたけど返答なし。仕方がないかと思っていたら、忘れた頃に何か「ふーん」「ふうーん」と鼻息のような反応。「あ、そうだねっていってるの?」と声をかけるとニコッと微笑んだ。
誰が一番辛いのか、思いやりを忘れず、老いにイライラせずに労われるよう精進します。今は母の介護という支えで生かされているが、自分の老後も考えないと…。
ありがとうございました。

投稿者 saab900s 日時 2017年10月31日


平成29年10月度 課題図書/「脳が壊れた」を読んで

 私が感じたイメージとして、「くまもん」の中で演じる人が「くまもん」について熱く語ってくれているようなものである。つまり、私が私のフィルターを通して見える「くまもん」と、「くまもん」を表現しようとしている演じる人の想いは多少ずれがあるのだ。と言いたいがためにこの表現が思いついた。そして、アインシュタインの理論を唯一理解していると言われるイギリスのスティーブン・ホーキング博士を思い出した。ホーキング博士はALSを患っておられ車いすの生活ながら、理論物理学の最先端を突き進んでおられるのだが、車いすの生活と彼のバリバリ明晰な頭脳は切り離して考えなくてはならないことをこの本を読んで理解でき非常にすっきりした。先般逝去された篠沢教授もALSを発症されたがバイタリティ溢れる闘病生活の一場面は印象に残っている。これもホーキング博士と同様に、見かけは患者だが本質となる中身はバリバリの篠沢教授そのままだったのだと今になって分ることができた。
 この本は脳梗塞の患者とその周りの人の感情を疑似的な体験をさせてくれる。自身に起こった脳梗塞による身体感覚や心情変化を、当人の感覚とニュートラルな立場とにわけて分析して言語化、しかもユーモアを交えたとてもわかりやすい表現となっている。しかし、この本が誕生したのは、著者のサポートが奥様をはじめ、義母からレース仲間に至るまで幅広い層の支えがあったからに他ならないだろう。勿論、ナースも著者の回復度合いを見て高い評価をするくらいの努力を重ねている。果たして、私が著者と同じ状況に陥った時、温かいサポートをしてもらえる人がいるのだろうか?一抹の不安を覚えた。私がホーキング博士や篠沢教授のように一芸に秀でていた場合は別だが、ごく一般的なアラホーに過ぎないのだ。特に気になるのは、外見は一般的な人と差異はないのだが、動作に会話に障害があるものの中身は全く同じで、本人が苦しいことを伝えられないことにあるのだという一文で戦慄が走った。更に、ケアがしきれていない機能障害の方は我慢するか心を閉ざすしか今のとこ道が無いと書かれていた。
 まあ、私が脳梗塞や高次脳機能障害になるまでにサポートしたくなるような人になればいいだけの話だ。今のうちに幅広い人たちに恩を売っておくことにしよう。
 機能障害は脳に血液が滞った結果、不可逆的に機能停止をするのだが、代替手段として脳に新しいネットワークを構築することによってその機能を補うという恐ろしい機能が備わっている。しかし、その機能を起動させるまでに反復練習につぐ反復練習が必要であり、とても骨が折れるようなのだが同じことを子どものときから時間をかけて実行してきた結果、今の自分ができる能力を備えた人間が存在するのだ。しかも技能的にも心理的にも精神的にも過去の積み重ねの産物であろう。ということは、努力次第で生まれ変わることも可能なのではないだろうか?いや、可能なのだ。実際に著者は機能不全になった左手を、1万字を超えるタイピングで、脳梗塞以前と同等のスピードでタイピングができているという。まさに努力の賜物であろう。目標を見定めて、それに向かって努力を重ねれば、環境も感覚も能力も成長し、なによりも自身の脳みそが変わっていくのだ。変わらないのは自分の意思力が足りないに他ならない。
 私も急激ではないにしろ、目標を持ち継続することで身体感覚の変化があるので付記しておこう。ひとつは楽器だ。月に約18時間を楽器に触れている。ただ楽しく吹いているだけだが、出したい音が出せるようになってきている♪もう一つのランニングは、月間100kmを走ることにより、いまでは10kmの自己記録をトレーニングでだせるほど身体力がついてきた。よし、この調子で進化していこう!

投稿者 sikakaka2005 日時 2017年10月31日


この本を読んでものすごく希望を感じた。

なぜならどんな絶望的な状況からでもあっても這い上がって
もとの生活に戻ろうとする意志を発動する方法がなんとなく見えたからだ。

それはどんな方法か。

「文章を書くこと」

これこそが絶望から這い上がる方法になると本書から感じたのだ。

最初は全くそんな風には読んでおらず
筆者はきっと脳梗塞で同じように苦しんでいる人に力を与えたいのだと思っていた。
そんな感じの感想文まで書いていたし、
結論なんて「脳梗塞という絶望から這い上がれる可能性が見えた!」
なんていうそのまんまの結論を書いていた。笑

でももう一度よく考えてみた。
そもそも著者が脳梗塞のリハビリを耐え抜いた原動力はなんなのか?
自らの意識で身体も感情もコントロールできない状況からどうして希望が持てたのか?

それは1つにこの体験をネタに本を書いてまた稼ぐことだと考えた。
生きていくにはお金が必要だから生活のためというものをあるだろうが、
でも本当にそれだけなのか?もっと純粋な動機を探したいと思った。

そして至った2つの答えはシンプルで

「文章を書きたい、文章で表現したい」

という欲求が彼を救ったのだと思った。


具体的に言えば、
職業病とも言える圧倒的な客観視の繰り返しがあったからこそ
まともな精神を保てて前に進めたのだと感じた。


本書内で少し記者業の仕事観について触れた一文。

「記者業とは具体化と抽象化のプロ」

ある出来事を具体化したり抽象化させて読者に届く文章を書くことはとても客観的な作業である。
普通の神経であれば脳梗塞になったことを受け止めきれないところを

「今の状況をどう表現したら面白いか?」

と考えてしまう職業病のせいで
絶望的な状況すら読者を笑わせてしまう余裕を持てたのではないかと思う。

もっともっと自分を表現する文章を書いていこう。
そして人に響く文章を書く練習をしていこう。
それが結果的に絶望を抜け出すスキルになっていると思うんですよね!


今月も人生を考えさせられる書籍を紹介していただきありがとうございました!

投稿者 magurock 日時 2017年10月31日


脳梗塞によって高次脳機能障害を負った鈴木大介氏の著書『脳が壊れた』は、題名から察するに、重苦しい内容だと覚悟して読んだが、死を選びたくなるほどたいへんなのにもかかわらずユーモアあふれる文章で、スイスイと読み進めることができた。
そして苦しみながらも、これまでの取材対象者の気持ちがわかって僥倖、と言えるところがすばらしい。

自分に対しての取材で書かれた本書は、とてもわかりやすく、私がボランティアで行った福祉作業所の面々を思い浮かべながら、
「そうか、彼のあの反応は感情失禁状態だったのかも知れない」
とか、
「彼女がパニクッたのは、情報量の多さにどうしたらいいのかわからなかったのだ」
などと理解を深めることができた。鈴木氏のこの克明な記録を、これからの出会いに生かしていこうと思う。

などと言いつつ、自分にそううまく接することができるのだろうか?と不安になる。
以前勤めていた職場に、仕事の覚えが非常に悪く、人との距離のとり方もおかしい40代の男性が中途採用(障害者枠ではない)で入ってきたことがあった。すぐにピンときたので、理解しようと努力したのだが、何度も同じミスを繰り返し、それに対してアドバイスをすると、ひねくれモードな彼は、逆ギレしたりスネたり、泣き出してしまうこともあった。そのくせ、10分後にはヘラヘラとふざけ始めるのだ。
ひねくれてしまったのは、これまでの苦労の結果なのだろうと想像できるし、自分のミスのリカバリーで毎日遅くまで残業している彼を見ると気の毒に思うのだが、いつも修羅場な職場において、常に彼をあたたかく包み込む余裕は、周りの人間にはない。
自分はどうするべきだったのだろうかと、時々思い出して考えることがある。その答えは、本書を読んだ今でもわからない。

この本で強く感じたのが、やはり人間はひとりでは生きていけないということ。なにかあったときに支えてくれるネットワークが必要だ。そして、ある程度の蓄えも。
その点、鈴木氏は、家族や仲間にも恵まれ、貯金のおかげであせることなく病後の困難を乗り越えることができた。これは単なるラッキーではなく、彼が人にも仕事にも自分の人生にも、きちんと対応してきたせいなのだろう。見習わなければ!
ただ、鈴木氏の周りの人々が、皆彼と同世代か上の人たちなのが気にかかる。子どもを持たないのなら、これからはさらに下の世代へネットワークを広げることや、老後の生活の場が課題になってくるのではないだろうか。
でも、彼ならきっと、これからのことを考えていないなんてことはないだろう。その辺も今後書いてくれると、ますます参考になるな、と思った次第である。

投稿者 H.J 日時 2017年10月31日


脳が壊れた

 本書を読み私が思った事。

 こんな事を第三者が書くと不謹慎かもしれないが、鈴木さんは病気になった事で見える世界が沢山あった。
病気になった事で、自分を見直し、周りの人への感謝や何よりも実の父や母との関係修復の一歩を踏み出せている。
今まで落としてきた大切なものを拾い集める様なそんな感覚。
これは言葉で書くと軽いが、実際すごい事だし、このきっかけは病気が鈴木さんに残した一番の宝物ではないかと思う。

 同時に鈴木さんから教わったこと。

  ・分かった振りから始めてみよう。
  ・自分にはない視点を持っている相手の立場から見る事の大切さ。
  ・困難な状況に陥った時こそ冷静に受け止め、そんな時にしか経験できない事や発見したものを大事にする事で人は成長できる。

 3点に絞ってみた。

 まず最初にまえがきを読んだ時、
印象に残ったワードが「分かった振りをしてきただけ(p10)」だった。
私は「そうだよね。正に”知っている事しか知らない”なんだよね」と思った。
だが、読み続けるとこの言葉が私の心に突き刺さっていく。
どんどん重く深く突き刺さる。
そうか、私こそ本で得た知識を片手に「分かった振りをしてきただけ」なんだ。

漁に行った事も漂流した事もないのに、海の過酷さを知ったつもりでいた。
鋸山(330m)ぐらいしか登った事ないのに、山登りの過酷さを知ったつもりでいた。
戦争を経験した事がなければ捕虜になった事もないのに、戦争の過酷さを知ったつもりでいた。
今回も脳梗塞になった事ないのに、脳梗塞の辛さを知ったつもりになりそうになった。

経験してもないのに、本からの知識をインプットしてアウトプットして、知ったつもりでいたのだ。
本当の過酷さは経験しなければ、わからない。
同じように理解出来ない相手を知るには、同じ高さに立たないと見えてこない。

それでも知識が有るのと無いのでは全然違う。
経験した人の視点を取り入れることは、自分の知らない世界を教えてくれる。
見ようとしなかったものを見える様にしてくれる。
理解しようとしなかったものを理解しようと思える原動力になる。

 大切なのは、自分がその知識をどの様に活かすのか。
そして、知識を活かすときに、自分の視点だけではなく相手の視点に近い位置から考えられるか。

例えば、p218の様に身近な人が困った時に助ける事ができるのか考えた。
今までの私はきっと、鈴木さんの言う通り相手に決断を委ねるだろう。
家族ならば有無を言わさず動くが、友人や知人が相手の場合「大丈夫?」から入るだろう。
本当に辛かったら助けてと言うだろう。と考える。
お節介なんて思われたくない。そう思ってしまうだろう。
結局は自分の視点でしか判断していない。
相手の視点を自分の視点で解釈した上で自分の都合に合わせてるだけだ。


とは言え、本人にでもならない限り、相手の気持ちは分からない。
なら少しでも近づく努力をすれば良い。

 そのために「相手の立場を分かった振り」つまり同じ高さに立ってみる振りから始めようと思う。

私が彼だったらどう思うのか。本当は何をして欲しいのか。
万が一、身近な人が困った事態になった時に「行動」して助けてあげられる事が出来た時、鈴木さんへの恩返しになるだろう。

 また、”自分の立場からの視点”ではなく、”相手の立場からの視点”で見ることは、相手のためだけではなく自分のためにもなる。
イライラしそうな時に、相手の立場からの視点で見れれば、自分の怒りや不満を制御出来るのだ。
自分の立場からの視点を増やしただけではどうにもならない事がある。
相手の立場に立った視点も大切だと勉強させられた。


 最後に話が少々脱線するが、今話題のセ・リーグ代表DeNAベイスターズのラミレス監督のインタビューで本書の鈴木さんと繋がる話があった。
”日本球界で長く続ける秘訣”について聞かれた時のインタビューだ。
ラミレス監督が日本で学んだ事は
1.しょうがない
2.わかりました
3.頑張ります
らしい。
日本で野球をプレーする外国人選手にとって受け入れ難い事が必ずあり、それを変えようとしても変えることは難しい。
だから、「しょうがない」と気持ちを切り替え、「わかりました」と事実を受け止め、その上で「頑張ります」と前に進む。
とのこと。
この記事を読んだ時、鈴木さんが病気と闘った時に類似していると思った。
もしも自分が、”当たり前のことが当たり前でなくなった状況”に陥った時、生き抜くために、好転させるためにこの3つも覚えておこうと思った。

 知識だけではなく、私の経験したことのない経験や想いを伝えてくれる本は実に有難い。
私も成長していくに連れて、知らず知らずに大切なものを落としてるのかもしれない。
この機会に自分をもう一度見つめ直してみよう。

投稿者 andoman 日時 2017年10月31日


脳が壊れるという事は、こういう事だったのか。。。
本書を読みながら、ウンウンと頷けるシーンがいくつかあった。

10年ほど前になるが、働き過ぎてドクターストップが掛かかり、3ヵ月ほど休職したことがある。
この時は、適応障害と診断され、心というよりも、脳に強い疲労を感じていた。
筆者が売店で計算が出来ないシーンがあったが、私も同じ様な体験があり、コンビニで昼食を購入した時に、通常なら、ある程度は購入前に計算が出来るが、この頃は計算が一切出来ず、1000円札を出して店員が足りない様な表情をしたら、もう1000円出すといった事をしていた。
自分自身の意識は正常なのに、なぜか計算が出来ない。
レジの数字も見えてはいるが、なぜか認識ができていない状態だった…。
また、会話においても、1度聞いただけでは理解出来ず、2回3回聞いて、ようやく理解して受け答えが出来る…。
といった、まさに「脳が壊れた」状態だった。
『本当に追い込まれた人間は、助けての声が出なくなる。』とあるが、これもまたその通りで、当時、助けて欲しくても、出る言葉は「ダイジョウブ、ダイジョウブ…。ナントカ、ヤレマス」と、思いとは反対の事を言っていた…。
そして、深夜1人になった時に、「俺が皆を助けるから、だから、誰か俺を助けてくれ…」とつぶやいた事を、今でも覚えている。
筆者が脳梗塞になった原因は自身にあると述べていたが、私の場合も同じである。
「自分じゃなきゃ対応出来ないから、自分がやらなきゃ。後輩たちを守らなきゃ。他人に任せてたら遅くなる。やり遂げられなかったら周りにスキルが無いと笑われる。」と常に思っており、自分で仕事を抱え込み、そして自身にプレッシャーを与え続け、追い込む形になっていた。
まさに『見栄とプライド』である…。
今の自分から見れば、非常に脳筋で愚かな考えだったと思う。
その結果、脳が筋肉疲労から、筋肉痛を通り越して、肉離れを起こした様なものだ(笑)
私の病より、筆者の方が比べものにならない程、重い病だが、原因が非常に良く似ている。
自分で自分の心と身体を攻撃していた訳だ。
恐らく、私の場合はまだ20代だったから、この程度で済んだものの、もし今なって起きていたら、ひょっとしたら、筆者の様な事になっていたのかもしれないと思うと、軽くゾッとした。。。

本書を読み進めて行く中で、筆者自身の人柄が分かる内容がいくつかあるが、文の要所要所に性根が良い人の感じが伝わって来る。
妻の悪い点を挙げつつも、深い愛情が感じられ、周りの人々について触れる時も、感謝の言葉が絶えない。
それが証明されたかの様な内容が、筆者の妻による読者へのコメントで、『夫の最初の感情失禁は「喜」だったと思います。』という一文だ。
感情失禁というと、最初に思いついたのが、「怒り」や「罵倒」だ。
恐らく、「何故自分がこんな目に…。」という思いと、思い通りに会話や行動が出来ず辛酸な思いが、一気に膨らみ、爆発するのでは無いかと思った。
しかし、筆者は予想に反して「喜」であった。
私の経験だと、こういった状態の時は、本当に感情が隠せない。
考える前に、感情が出てしまう。
そういった中で、「喜」が出たのは、筆者の性根が本当に良いからなのだろうと思える。
また、筆者は本文で「内観」という言葉を2回使用していた。
普通の人であれば、自身の内側ではなく、外側や他人に原因を探す所を、筆者は自身の内側に原因を探した。
自身の内側に答えを探す事で、本来辿り着く事の出来ない様な答えに辿り着き、結果として、今回の病は黒字面という、プラスに捉える事が出来たのだと思う。
もし、外側に答えを出していたのであれば、「何で俺がこんな目に…」となり、ほぼ間違いなく赤字面だっただろう。。。
ここが、普通の人との大きな差であり、神様もエコヒイキしたくなると思う。

筆者の脳梗塞を、「人生の必須イベント」という視点で、一歩引いて俯瞰してみると、筆者と周囲の人は、筆者が脳梗塞を起こして、そこから本書にある事を学ぶ事こそが、今生の人生課題のメインだったのでは無いかと思えてしまう。
そうでなければ、脳腫瘍からの奇跡的な生還を果たしたユニークな筆者の妻。
過ぎる程のおせっかいをやいてくれるお義母さんの存在。
陰ながら支えてくれるF川夫婦等…。
キャスティング(ご縁)が非常に出来過ぎている。。。
彼らはきっと、上手くこの大きなイベントを乗り越えられ、多くの報酬を得る事が出来たのでは無いかと本書の内容から思う。
(特に、筆者のご両親との和解?については、誰もが得られる事が出来る訳ではない、非常に大きな報酬だったと考える)
脳梗塞という恐ろしい病気の話ではあったが、最期はどこか安堵感を感じ、身近な人や、人との繋がりそのものの大切さを教えてくれる、爽やかで素晴らしい内容だった。
筆者なりの脳梗塞の原因の追究と警告についても、大いに参考になり、今後の自分の生活習慣を見直す際の良い指標にもなった。

今月も素晴らしい課題図書をありがとうございました。

投稿者 vastos2000 日時 2017年10月31日


脳が壊れた


本書を読んで妻の事が心配になった。妻は鈴木氏と同じように家事(特に掃除)が自分の基準が満たされていないと怒る。家事以外にもいろいろとマイルールがあり、そのルールに抵触することがあるとその都度怒る。
私はと言えば、結婚のおかげで人間が磨かれ、おそらくソクラテスのような哲学者に髪の毛2,3本分くらい近づいただろう。独身時代よりもはるかに穏やかになり、怒りを感じることもぐっと減った。血圧も低すぎるくらいなので、このままいくと脳や血圧関連の健康トラブルに関しては妻の方が先に発症しそうだ。

脳梗塞について調べたところ、脳卒中を含む脳梗塞は、国内で年間約50万人が発症して、患者数は約150万人。日本全体の医療費の1割を占めるとあった。単純計算、3年で患者が入れ替わっていくことになる。脳血管疾患まで範囲を広げれば、約800万人もいる。
恐ろしい。自分が発症する可能性ももちろんあるが、親が発症する可能性もある。発症したらおそらくは程度の差はあっても介護ないし介助が必要になるが、誰が担うのか?
先の総選挙では「介護離職を0にする」と言っていた党首もいたが、まだまだその状況には程遠い。(介護士も施設も需要に追い付いていなし、元をたどれば財源不足)
幸い両親ともに健在なので、仮にどちらかが要介護と判定されても、私が離職する状況ではない。だからこそ、今のうちに備えておくという考えがあるかもしれないが、一体どう備えればよいのだろうか?事前準備は難しい。災害と同じように、微かな兆候はあるのかもしれないが、いつ来るかわからない。

本書の内容に話を戻すと、まずは、医療・健康面からの学びとして、
〇脳梗塞の前兆を見逃すな
〇仮に脳梗塞・脳卒中を発症しても、早期対応で命は助かる。
〇取り戻せない能力もあれば、リハビリで回復できる能力もある。
〇発症前とは全く同じには戻らない
〇発症から6か月で症状は固定されるというが、その後もわずかだが回復は続く。
といったところだろうか。

この本の著者、鈴木氏と同じように脳梗塞(脳卒中)を起こし、そこからの回復過程を記した『奇跡の脳』(J・B・テイラー著)も読んだが、発症後から回復に関し、共通する部分が多かった。

どちらの場合も支える人間が周囲にいたことが大事だと繰り返し述べられている。
わが身を振り返ると、今から10年後、20年後、介護が必要になった時に家族が支えてくれるだろうか?
20年経てば当然子どもは成人しているが、もし大学院進学なんてことになっていたら、まだ学生だ。
さらには、介護人材の不足・少子高齢化社会が解消されているとも思えないし、なかなかAIやロボットが活躍できる分野ではないので、いわゆる老人ホームで、プロの介護を受けられるのは限られた人になっているかもしれない。
老後のことを考えて結婚したわけではないが、老後のことを考えると軽々に離婚はできない。もちろん、どちらが先に倒れるか、どちらが先に逝くかはわからないが。

ただ、もし実際に、どちらかが介護が必要になった時にどうなるか?私がそうなった時、症状にもよるだろうが、介護してもらえる自信はなし。妻は自分が当然のようにできることが他人(子どもでも)ができないと非常にイラつくタイプなので、本書のようなリハビリ生活になったら、共倒れか離別になりそうだ。
早いところ、妻にも東洋思想を学んでもらったり、『アーミッシュの赦し』を読んでもらったりして、怒りの沸点を高いところにしてもらいたいと思っている。(他人を変えるのは難しいが)
脳も肉体の一部であるので、年齢を重ねれば認知症の症状も出てくるであろうし、本書でも書かれていた感情をコントロールする能力の低下なども避けられないだろう。
今は、脳が(おそらくは)正常に働いてくれているので、大きなトラブルなく社会生活を送れるし、認知機能もしっかりはたらいているので本も読める。つまりは幸せである。
自分自身も、どこまでできるかわからないが、心穏やかに過ごし、最低一日一度は笑うように心がけたい。


話が個人的なことにそれてしまったが、医療・健康面以外に、脳の機能としても非常に興味深い箇所が本書にはあった。
特に次の2カ所で、
『本当に、所詮人間なんて、電気信号で動くものすごく高精度の機械に他ならない。』(p.56)が一つ目で、もう一つは
『実は人間とは、動物とは、視聴覚嗅覚をはじめとしてとてつもなく高度なセンサーの塊だが、そこで感知するほとんどの情報を「無視」することで、活動が可能になっているとされている。』(p.97)の箇所。
どちらも、脳科学とともに認知心理学の分野にも関係するが、普通に生活していて飛び込んでくる(知覚する)情報や刺激を、脳はうまいこと取捨選択してくれている(ほとんど捨てている)。
タッチタイピングをしたり、箸を使って食事をするのに、手の動かし方を意識することはないし、金(Gold)に関心を持つまでは、金色のものが身近にあったことも記憶していなかった。(いつのまにか自宅の東の窓に金色の招き猫が置かれていた)

本書を読み、特に不自由なく暮らせていることの幸せをあらためて噛みしめた。こういった刺激がないと日常の幸せに気付けないのが反省点だ。
さらには、自分の最期ついては、「だんだんモノを食べなくなり衰弱して死ぬ」というのが理想だが、そんな死に様が許される人生を送りたい。
それには、妻と結婚生活をもう一度やり直すくらいの覚悟が必要だろう。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2017年10月31日


「脳が壊れた」を読んでの感想

『41歳、脳梗塞になりました』と大きく書かれた帯を見て、あと5年後に自分もこうなるかもしれないのか!?と思ったら背筋がゾクゾクしたのが本書を見た最初の印象。
しかし、読み終えて感じたのは【必要なセーフティーネットを構築しておけば、万一何かが起こって倒れたとしても何とかなるんだろうな】という安堵感だった。

本書を読んで最も強く印象に残ったのは第8章「原因は僕自身だった」の内容。著者は自分で作った勝手なルール(食事の準備や家の整理整頓など)で自分だけでなく奥さんまで巻き込んで、生活環境を悪くし、結果的に脳梗塞になった。
私はかつて仕事で求められている成果を出せず、誰にも助けを求める事が出来ず行き詰まって休職した事がある。その時を振り返ると、病状は違うものの病気に至ったプロセスは非常に酷似していたと感じた。私も著者の鈴木さん同様、全て自分で解決しようとして仕事を抱え込んだり、自分の枠の中でしか物事を考えられず、勝手に生きづらい環境を作って自滅したんだなぁという事を改めて感じた。
何事も真面目に一生懸命やるのはもちろん大事だが、糸やゴムも張りすぎたら切れてしまうように、車のブレーキに遊びがあるように、人生も多少の余裕が無くては色んなものを失ってしまうという事なんだと感じた。
優しさや余裕を持って日々を過ごす、結局は自分の気分次第で、嫌なこと・悪い事が起こったとしても長い目でみればこの経験がプラスになるんだと考えられるようになれば、ある程度のことは大した問題では無くなるのだろう。

また、万一に備えて家庭内の関係を出来る限り良い状態にしておく事がとても大事なんだと改めて感じた。
我が家は夫婦共通の趣味(フットサルやキャンプ、DIY、フェスへの参加など)があり、様々な会話をするので夫婦関係は良好だと思っているが、今以上に会話や一緒に過ごす時間を大事にすることが、人生のQOLを高める一歩だということを本書を読んで感じたので、今後実践します。

投稿者 str 日時 2017年10月31日


脳が壊れた

知識や記憶、人格など、脳とはまさに自分そのものである。脳が壊れるということは自分自身が壊れるに等しい。けれど“壊れた“のであれば修復していくことも決して不可能ではなく、未然に防ぐことも可能であるということを教えてくれた。

無茶な生活習慣はどこかできっちりオフにする事も必要で「自分は大病にはならない」といった勘違いは持たない。身体が発する異常のサインを感じたら無視しないこと。著者の言うように『生活習慣』だけでなく『性格習慣』にも目を向け、身体と心の両方からストレスを軽減していかないとなぁ・・と思う。それまで当たり前に出来たことが出来なくなるという恐怖は想像を絶する。もっとも中には年齢や生活習慣を問わず「何の前触れもなく」といったケースもあるだろうし100%防ぐことは不可能だ。けれど我が身にそれが起きた時に「脳が壊れたか・・」と、もしも自覚出来たのであれば、抗えるだけ抗いたい。過酷なリハビリを乗り越えたとはいえ、鈴木さんのように回復している人もいるからだ。本書を読んでユーモアのセンスもさることながら、強烈な奥さんのキャラも相まって到底『脳が壊れた』人が書いた文章だとは思えなかった。

相手のことを想うのならば“問い合わせない”ということ。“まず動く”ことが本当に大切なのだと強く感じた。自分には大病の経験はないが、風邪などでも「大丈夫か?」と聞かれれば「大丈夫」と答えるだろう。半ば条件反射的であり、挨拶のような感覚になってしまっているような気がする。正直言ってその時は高熱や激しい頭痛で辛くとも、そう答えるだろう。その延長で本当にヤバイ症状になったとしても同じ返答をしてしまいそうだ。我が家でも昨年末に、母親が自宅で意識を失い自分の目の前で倒れたが、呼びかけで少し意識が戻ったところで救急車を呼んだ。到着を待つ間に「もう大丈夫だから救急車はいい」という本人の訴えで仕方なくキャンセルしてもらったが、やはり心配なので車に乗せ、救急医療センターへ連れて行き検査をしてもらった。結果的に問題はなかった訳だが、今にしてみると反省。有無を言わさず救急車に乗せておくべきだったと思う。結局根拠のない“大丈夫“の一言でなんとなくその場の安堵感を得ていただけだったのだろう。

なにか問題があっても、一刻でも早く発見できたのならよかった。
なにも問題がなかったのなら、それはそれでよかった。

どちらにせよ“よかった“と思える行動を取るべきだし、取ってもらうべきだ。

P.219『「助けてほしい」の声を待つのではなく「大丈夫?」と聞くのでもなく、その人がしてほしいだろうことを黙ってやってあげてほしい』

これは人命救助に限った事でなく、本当の意味で相手への気遣いや思いやりがあるのならば、半ば強引であろうとサプライズ的な行動であろうと、行動で示すべきだと感じた。自分の身に万が一の事が起こった場合に備え、また家族の身に何かが起こった時「次にヤバそうなときの”大丈夫“は無視するからそのつもりで」という意味合いも含め、家族にも本書を渡して読んでおいてもらおうと考えている。

奥さんや親しい人達との強い絆や愛情に多くの感動をもらい、そしてたっぷり笑わせていただきました。
ありがとうございました。

投稿者 wapooh 日時 2017年10月31日


201710課題図書【脳が壊れた】を読んで
「性格習慣病」。この単語が印象的だった。
鈴木氏が脳梗塞で倒れたのには、『自身による原因』との解説を読みながら、先月の「信じていることを疑う勇気」というフレーズが木霊をする。自分が信じてきた常識や正しさによって、人は行動をしており習慣となり性格を形成している。
鈴木氏は、脳梗塞により身体機能を喪失することで、強制的に習慣的な行動を変えなくてはならなかった。病に倒れる以前の鈴木氏の思考と行動習慣は、「できるビジネスパーソン」そのもので、先を読みマルチタスクで効率的、高生産的なものだと感じさせられる。それに対して、病後の機能回復のリハビリに苦しむ鈴木氏の身体と能力は、対照的な行動しかとれない。まるで、彼が取材をしてきた「社会に適応することが困難な生活弱者」のそれに近いものであり、コミュニケーションに難を覚えたり、非効率的で、生産性の低い、非合理的な行動。端的に言うと、『自分の状況を言語化して把握できず、優先順位付けが出来ない』ゆえに、仕事や生活行動において、目的に対する集中力や選択力がない状態ともいえるのではないか。
読みながら、他人事ではない気がしてきた。自分の中で日々の生活の種々の局面で能力の不足を感じる部分について、鈴木氏の解説により原因と結果が言語化されていて、なぜ弱いのかが可視化されていると思えてならず、付箋を貼っていたら、かなりの量になった。
『発達障害』の中に「環境的発達不全」という言葉が出てくるが、程度の差はあれども、自分の不足した能力=無自覚な未発達な部分、と捉えると、脳を含めて身体的損傷がないのなら、訓練を重ねることで発達することが可能であるのではないか。
 話が少しそれるが、手指の機能障害の認定基準に『用廃』と言う言葉がある。言葉の意味は『関節の他動可動域が、健側の他動可動域の2分の1以下に制限され、かつ筋力が半減しているもの』と言うものだが、自分の中で『(身体機能は)用がないと、退行する』と言う言葉として実感した経験がある。
 以前、右手中指の第一関節と第二関節とを曲げる筋肉(腱)と神経を、ガラス器具の処分中に切断し、縫合手術を受け3か月リハビリのために入院をした。詳細は割愛するが、指の腱は手首の筋肉から5方向に枝分かれをしている熊手のような構造であり、中指だけを固定しておくことは出来ない。縫合した腱をすぐに動かすと再切断の恐れがあるため、全ての指をグーの形にギプスで固定して、3週間は専門の療法士さんに動かしてもらう以外は自分で勝手に動かすことが出来なかった。使用を制限された右手は、あっという間に筋肉がやせ衰えて細くなり自分の意志で動かすことが出来ない状態にまでなった。ギプスから外れて、再切断のリスクがほぼなくなった1か月後、驚いたのは、中指だけではなく、親指以外の他の健全な3本の指も動きが相当に悪くなっていたことだ。療法士さんの介助があれば曲げ伸ばしはできるのに、自分が脳で命令しても右手の指が曲がらない。物理的な体はほぼ正常なのに機能していない。
 教えて貰ったリハビリは指の体操のようなもので、何度も訓練しても上手くはいかなず、結局目覚ましい回復が出来たのは、自分で右手に『用事を頼む事』だった。安全な動きを意識しながらあえて、『使う』。紐を結ぶ、小さなはさみで手仕事をする、、、見る見るうちに健全な親指+ほかの3本の指は回復した。
 『用事が大切』だと思ったのだが、常日頃から繰り返す習慣により身体機能も性格も発達するのだと、鈴木氏の様々なリハビリによって再認識させられた。鈴木氏も、妻にリハビリメニューという使命を作り出してもらい『応える』ことを繰り返していくうちに回復している様子を見て、痛切にその時のことを思い出した。『脳は、使命を与えられる=感情が連動すると、身体が機能する』
そこで、上記の『発達障害』とまではいかないまでも日常に不得手を感じる生活能力に対しても同様にタスクを認識させて何度も繰り返せば、少しでも克服の可能性はあるのではないか。自分の主観の感想に傾倒しすぎたので、この辺りにするが、何度も読み返しながら自分の中で腹落ち言語化できるように、またなにか習慣化して進歩していたい。
自分は今45歳であるが、自分や家族が今脳梗塞で倒れた場合のリスクアセスメントについて考えてみた。まず、備えとして『既往症等のリスト』『連絡先リスト』を用意しておく時期なのかもしれない。以前母が倒れた時には、彼女が作成したこのリストを近所の方に見つけていただいたのでとても有効だったのに、他人事になっていた。
常日頃の食事や運動量も、30代のそれとは違ってきている事や場合によってはスローダウンが必要であることも教えられる。健康診断の結果を斜め読みしてきたが、返却後すぐ位は一度じっくり目を通して日頃の生活に照らし合わせてみるのも一考だ。
もしも倒れてしまったら?機能を損傷し、リハビリが必要な場合に気づいた教訓は、『じっと回復を待たない』と言う事だった。上述したように機能は日常のタスクによって大きく回復するし、何度も繰り返すことでしか回復が出来ない。大病の経験のない健全な人は、風邪と同じく医師の言う事を聞き治療をすれば治ると思うかもしれない、それは思考停止に繋がるのだ。その時は、諦めず工夫をして自分の心と体を使い続けることを忘れないことだ。自分でも家族が倒れても『現状を受けて入れつつ、完璧な回復は望まないとしても、諦めない』助走者としてあれるように。
そう、最後に考えさせられたことは、人は一人では生きていないということ。
家族として友人として大切な人と人生を過ごすには、『互いに諦めず前向きについていられること』『自分の常識だけではなく相手の常識、自分の望みだけではなく相手の望みを聴いているか、そのためにコミュニケーションを怠らないようにする』と言う事。見えないものは感知できないのだから、弱さ至らなさを認めて聞いていくことだ。これは智の道だなぁと、いつもの結論にはなってしまったが、新書とはいえないほどの内容のつまった重い一冊でした。
今月も貴重な一冊と出会わせていただき、有難うございました。

投稿者 kakki 日時 2017年10月31日


『脳が壊れた』を読んで

脳梗塞の怖さを知った。
幸い、私の周りには、脳に障害を患っている方はいないので
自分にはまったく縁のない本だと思っていた。
ただ、脳梗塞の原因を調べれば調べるほど怖くなってきた。
運動不足、肥満に心当たりがあるし、コレステロール値も毎年高め。
自覚症状がないのが動脈硬化で、動脈硬化は脳梗塞の主な原因であると。
もう縁がないとは言えない現実を知った。

脳梗塞を患うと「チョキ」や道路を渡ることすら難しすぎるとは衝撃だった。
著者は、反復練習を大量にこなすのには自信があったそうだが
それでも、くじけてしまいそうになる程、身体がいうことを聞かないとは
想像を絶するほど大変な状態なんだろうと感じた。

ちょうど一昨日から、右目が腫れて眼科に行ったが
片目だけでの生活がこんなにも不自由なのかと体験して解った。
片目だけだと、すぐに目が疲れてしまい仕事のパフォーマンスに影響した。
普段当たり前に出来ていたことが、出来なくなるというのは本当にストレスが溜まる。
本書のなかで、小銭が上手く出せずに5千円を投げつけた方が出てきたが
本当に心の底から悔しかったのだろう。

・頑張り過ぎない
著者は、自分でもなんでもやってしまう性格であり、病気になることも
予想していた。そのため、奥さんに緊急時の連絡先も渡していたという。
奥様の病気の期間は特に、しんどかったんだろうなと感じた。
人に任せられることは任せていいんだと、教訓を得た。

・人は一人では生きていけない
人は誰かに支えられて生きているというのを思い知らされた。
どうしたって、大人になると弱い自分を見せるのに抵抗がある方が大半だと思うが
脳梗塞を患ったら、そんなこと言ってられない。
あとは、毎日健康で生きていられるだけで感謝しなきゃいけないと思えてきた。
家族や周りの人たちにも、感謝出来るときにしないと、いつ脳梗塞を初めとした病に
かかるかもしれないリスクは付いてくる。
それが年齢を重ねるとともに、リスクは増えてくるので
言いたいことは言っておき、やりたいことは躊躇せずやっていきたい。

・自分を客観視する
私も中高と6年間、陸上部で短距離を専門にしていたので
今でも、体力には自信があると考えていた。
ただ、もうすぐ40代に突入しそうな身体は、完全にメタボまっしぐらで
本気でトレーニングしなければ、全速力で50mも走れないのではないかと思っている。
先日、子供の幼稚園の運動会で30m程度走ったが、気持ちと身体がバラバラで
危うく転びそうになった。
やはり、普段から運動を心がけて、身体を無理させないようにしないとまずいと感じた。
過去の栄光、ちっぽけなプライドなんて、捨ててしまえと自分に言いたい。

トレーニングではなく、毎日続けられる軽いウォーキング又はそれに代わる
軽いエクササイズを取り入れてみようと思った。
普段デスクワークで、歩くこともほとんどしていないので、
自分の健康の為、家族の為、自分を必要としてくれている人たちの為にも
いつまでも健康でいたいなと考えさせられる一冊だった。
本書は、脳梗塞の実体験に基づく貴重な情報が詰まっているので広く薦めたい。

今月も、素晴らしい本をご紹介頂きありがとうございました。

投稿者 truthharp1208 日時 2017年10月31日


「脳が壊れた」を読み終えて。

著者、鈴木大介氏と同年代の私にとって、脳梗塞はもはや他人事ではないリスクの1つである。私は今日まで大きな病気をしたことはないが、これから歳を重ねるにつれて、何らかの対策を打たなければならないと感じていた時に、幸いにも本課題図書にめぐり逢えた。

1.もし、脳梗塞になったら?

脳梗塞についてはよくわかっていなかったが、脳の血管に血の塊が詰まって、脳細胞が損傷することで起きる障害の一部で、手足などの身体の麻痺とは別に様々な問題が発生する。
指の痺れ、激しいめまい、視界の歪みなど、これらの障害は脳からきている。更に、声を発する時には呂律が回らなくなる。
これらの障害に襲われたら、予備知識が無ければ私はパニックに陥り、生きる望みを失い、「家族や友達に世話になるくらいなら、死んだ方が良いのでは?」と考えてしまうかも知れない。

しかし鈴木氏は、脳梗塞の症状が出はじめた頃は絶望の淵に立たされたが、自身の経験から新たなミッションを見い出した。
心打たれたのは、P42のこの文面。
「ならばこの経験は、そうして面倒くさくて語る言葉を持たない社会的弱者の代弁者になりたいと思い続けてきた僕にとって、僥倖にほかならないではないか。四十一歳の若さで脳梗塞をやり、この当事者感覚を得つつ、感じ、考え、書く能力を喪失せずに済むなどという経験は、望んで得られるものではない。ならば書くのが僕の責任だ。僕らに代わってその不自由感や苦しみを言語化するのが僕の使命だ!」

私なら主婦予備軍として、少しでも段取り良く出来る家事の方法、使い勝手の良い家電や調理器具、キッチン等をインターネット等で探す。無ければアイデアを練り出し、メーカーに提案してみることを思いついた。

2.今からでも出来ることは?

脳梗塞は予防が難しいようだが、しょうおん先生のメルマガで紹介されていた、脳ドックを受ける。

その他生活面で心がけることは、自分の定めたルールや思い込みに固執し過ぎていることは無いか問いかけて、固執し過ぎないようにする。あとは物事を背負いこみすぎず、時には誰かにお願いする。結婚したら、パートナーとよく話し合い、家事を手分けして行うようにする。

しょうおん先生のメルマガやこれまでの課題図書でも謳われている「人とのご縁」を大切にする。私が与えられることで、相手が喜ぶことは惜しみ無く与える。イライラすることも沢山あるが、まずは心穏やかに過ごすようにしよう。

今月も良書をご紹介頂き、ありがとうございました。

投稿者 kawa5emon 日時 2017年10月31日


書評 脳が壊れた 鈴木大介 著

脳が壊れる。そのリアルな恐ろしさを疑似体験できたのは本当に有難い。
前半は脳が司る機能の凄さに、もし自分がそうなったら・・・と身震いばかり。
人間としての活動で脳が司る範囲の広さ、その棚卸しの一部を知れたことは万死に値する。
出来ていたことが出来ない。普段無意識領域で、知る事が難しい本書に記載の内容は、
目立った脳機能障害が無い自身の現在に、これ以上無い感謝と内省を得ることになった。

後半は自身の癌発症とその後の内省に、どストライクの内容であった。
術後6年経過の現在、それを糧にした思考、行動の変化もある反面、
日常生活に戻れたが故か、その際の内省を活かしきれていない問題点も発見出来た。


自身の癌は本書のような苦しみ、その後も続く後遺症などはなかったが、
内省には十二分な出来事で、その癌に対する自身の結論も著者と全く同じ「自業自得」。
脳梗塞は心から発した病ではないように前半は思えたが後半でそれは払拭された。

自身の場合、内省を活かしきれていない問題点の一つが、著者も自省の性格である。
つまり本書で、自分も脳梗塞予備軍だと気付くことが出来た。
術後数年はまだ内省の最中で、考え方、物事の捉え方を改めねばと思っていたはずが、
術前から変化していない性格のその傾向は著者が列挙の通りで、端的に表現すると、
せっかちで完全主義者。一人でとことん突き詰めてしまう性格である。
これでは血管も詰まるだろうに・・・。心の状態が血液の状態も決めてしまうのか。


思い返せば術前も術後も、事ある毎に妻は口にしている。
「貴方の考え方は偏っている」、「もっと広く違う意見にも耳を傾けたら?」
「何をそんなにイライラしているの?」、「他人が出来ないからって他に当たらない」等々。

その気付きに於いて、本書内の妻、千夏さんの言動は多くの学びをくれた。
脳梗塞発症前も後も、その夫、大介さんにとって非常に絶妙なポジショニングである。
自身の場面に重ね、何度も内省した。千夏さんも大介さんに会うべくして会ったのかなと。

そもそも自身の耳下腺癌は良性腫瘍であっても発症率自体が低く、
更に悪性率となるとその確率はもっと下がる。そんな中、
手術及び術後治療、経過観察を任せられる病院と医師の捜索、選択は簡単ではなかった。
少なくとも発症時に居住していたシンガポールには人口比でも専門医は居なかった。
ここに日本の某有名女子医大で勤務経験があった妻の人的ネットワークがフル稼働した。
日本で一番該当癌の手術数が多い病院と医師の情報を得たのであった。
インターネットでは無理だった。今から考えてもこの時の妻の熱意とこの奇跡には背筋が凍る。
妻に拾ってもらったこの命と言っても過言ではない。この妻と会うべくして会ったのかと。


そんな奇跡を目の当たりにしているのに、自身の内省はまだ足りていなかった。
理由は前記した妻の事ある毎の指摘である。その指摘を自分はほとんど受け入れていない。
もっと妻を大切にせねばと改めて痛感した。耳を傾ける相手は一番近くにいるではないか。
多くの価値観の違いで喧嘩も絶えないが、だからこそ、そのような人物からの、
特に自身の耳に痛い指摘は聞く価値がある。

もっと妻の声を素直に聞こう。
もっと妻とのコミュニケーションに量と質を求めよう。
もっと妻を労わらなければ。(してほしいと思っていることをやる)


自身の術後内省により、しょーおん塾との出会いから呼吸法による身体改善や、
瞑想などに依る相当な価値観多様化、そして一日一食などで生活習慣変革も図れた、
と思っていましたが、その変化出来た自分に拘っていることも発見出来ました。

今後は性格の変化を軸として、周囲との距離感、接し方に、より意識を置きます。
それが著者の言う「資産としての人の縁」構築にもなり、智の道の実践と確信して。


今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 chaccha64 日時 2017年10月31日


「脳が壊れた」を読んで

著者は、脳梗塞で右脳の一部が死滅してしまい、脳の機能を取り戻すための闘病生活を綴ってくれている。そこには思いもしなかったこと、考えさせられることがたくさんあった。
まずは、脳梗塞で発症した後天的な高次脳機能障害は、先天的な発達障害、精神疾患、認知症等と同じ感覚、症状、当事者意識であること。そして、脳の機能を回復するリハビリは、発達の再体験・追体験であることがわかる。リハビリを通した発達の再体験・追体験で脳の機能が段々と戻っていく。ということは、「先天的」と言われていたものは、単に脳の機能を訓練することを環境によってしなかった、あるいは、できなかったためのものだということだ。これは、「自己暗示」(C.H.ブルックス、エミール・クーエ著)、「脳はいかに治癒をもたらすか」(ノーマン・ドイジ著)の中の、コフマン譲の障害があった子供の治療例、フェルデンクライスの脳の一部を欠いて生まれた少女の治療例から明らかだと思います。
そして、脳の機能は甦る。脳は一部の組織だけで機能を果たしているのではなく、全体として機能している。一部が壊れても、他の部分が補ってくれる。そして「治る」のだ。
それなので、著者は、リハビリの療法士が持っている知識や技術を高齢者だけではなく、これらの子供たちに使えないかと提案している。まったくその通りだ。この本を契機に、そのような治療を実施する医療機関や政策ができることを願います。
しかし、リハビリはつらい。自分のこんな状況になったことはないので実感できないが、「そうらしい」。できていたものができなくなっているという現実を認めることがつらい。そして、思い通りにならない身体がある。著者が書いているように、何度も訓練するができない、やっとできたかと思うと次はできない、そして同じことの繰り返し。それでもいつできるようになるのかわからない。その上、リハビリを続けていてもすべて元に戻るかどうかわからない。少しづつ機能が回復したのに、再発すると振り出しに戻るし、それ以上に悪くなることだってある。そうやって、寝たきりになった知り合いがいます。
ところが、この著者はリハビリを前向きにとらえて、この本を上梓するまでになっている。性格が反復練習重視型だったためだと言っています。しかし、それだけではないと思います。まずは、ルポライターとして「先天的な発達障害、または、精神疾患、認知症等々の人と同じ感じ方、意識ができるようになったことが僥倖だ」と思えるポジティブな考え。そして、著者の奥さん、義母、友人、知人がいたからでしょう。特に、著者の奥さんの「した方が良いこと」ではなく「してほしいことをしてくれる」という態度だったのでしょう。そこには、信頼と愛情があったと思います。そして、それを客観的に分析でき、前向きにとらえ、リハビリに応用できる能力。その他にも色々な原因があったと思います。
そういう性格、考え方、環境、能力があれば回復できるようになるのではないか。この性格、考え方、ひいては能力も脳が行うものならば、脳を訓練すればできるになるのではないか。クーエやフェルデンクライスはそれを実行していたのではないかと思います。といことで、また再読してみます。

投稿者 haruharu 日時 2017年11月1日


「脳が壊れた」を読んで

タイトルだけで何となく後回しにしてしまいましたが、読み終わってみると
私宛へのメッセージが至るところに鏤められていた。

「人と物に頼りなさい」
「家事は分担するものだけど、やらせるじゃなくてお願いする」
「頼んだ家事の仕上がりには絶対文句を言わないのが基本ルール」
「夫婦でお互いに譲れないものを出し合って、お互いにそれを許容する契約を結びなさい」

私の働いている町の中の小さな小さな仕事場でも通じる内容でした。

時間内でいかに早く沢山出来るか?
絶えず必死なのだ。時には量が沢山あってそれでも時間内に仕上げたいので息を止めて
必死超えてる感じなのに対して、周りの人は余裕顔だったりする。

伝票整理や領収書整理なども時々溜まってしまってみんなと一緒にやる時も、同じ関係先を4,5枚まとめる場合は四隅をきちんと揃えてホッチキスしないとダメで結局最終的にはまた一人でやり直す場合があったりするから自分でも嫌だなと思ってしまう。
そういう事の積み重ねの影響があちらこちらに表れているのではないだろうか?
と思うことが多々でてきているような気がします。
今改めて危ない私と思ってしまう。

『少ない人数でキャパいっぱいなのに何でもかんでも私に言ってくるのは何故だろうか?』
『どうやったら自発的にやってくれるのだろうか?』
『定番商品が切れる前になぜ仕入れないのだろうか?』
『仕入れや注文がしやすいようにファイルにまとめたのになぜやったりやらなかったりするのだろうか?』
といつも疑問が多かった。

週末に来ている学生アルバイトさんの状態も2、3年前と凄く変わってきたような気がする。
仕事を覚えたら仕事の量が増える・・・みたいなことを呟いているのがわかる。
こちらがケチケチしてるつもりは毛頭ないつもり。品物が余ればあげるし、しかもお客様やご近所や親戚などからの戴き物が凄く多いので(さつまいもや大根や人参などの野菜にお米など)を分けて持って帰らせるから、家に持ち帰った物をご家族の方が見て、菓子店で働いてるって聞いたのにいったい何屋さんでバイトしてるのかと言われるというくらいだから、大丈夫なんじゃないかと錯覚に陥っているのかもしれない。

しかし、自分の何かが反映しているんだろうと漠然と思っていた。

著者の奥様が車の運転のことでちょっと言われたら、もうやらないとひねくれてペーパードライバーになってしまった。
だが、いまは立派に運転して毎日病院に通ってくる。
こういうことなんだろうなと思いました。

忙しいことを理由に毎日来てくれる方たちとのコミュニケーションや今求めていることを聞いてなかったりフォローが足りなかったりしていることに気づかせていただいた。
もっと遊ぼう。奥様見習ってもっとノーテンキもたまには必要必要。

ただオンオフ切り替えていかなければ。