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第13回目(2012年5月)の課題本

 

 いのちの食べかた


これは同名のDVDを以前何度かオススメした事があります。


いのちの食べかた [DVD]


今回は課題図書という事で、書籍の方を選びました。
改めて読んでみて、しみじみ良い本だなぁと感じました。
この本、すべての漢字にルビが振ってあるんですよ。つまり、著者や出版社の
意図としては、小学生あたりに読んで欲しいと思っている本だという事です。

ところが内容は強烈ですよ。
我々が肉を食べるという事はどういう事なのか、その背後で(一般には知らさ
れない、隠されている)どういう事が起こっているのかというテーマから始ま
り、最後は人種差別や戦争にまで話が広がって行きます。

普通に歴史を勉強している人や、日本史に関する書籍を読んでいる人にとって
は、今さら言われるまでもない当たり前の事実なのですが、こうやって小学生
向けに語られると、こころに刺さってくる度合いが変わるんですねぇ。

元が小学生向けで、120ページしかない薄い本ですから、さらりと読んでじんわ
りとこころに届かせて、こころが発する返信を文字にしてみて下さい。

【しょ~おんコメント】

先月分課題図書の優秀賞の発表です。


5月分優秀賞 今月は、『お父さん視線』でストーリー仕立てで書いて下さった、

『BruceLeeさん』に差し上げます。

小学生向けに書かれた本ということで、自分に子供がいたらどう伝えるかと

考えながら読んだので、共感できるコメントでした。

我々は、他者のいのちを食べることでしか、生きながらえる事って出来ないわけで

(野菜だって命ですから菜食主義者も免罪されないのです)、そんな命を

口にする尊厳さを、日常での『いただきます!』というセリフに込めて欲しいと思います。


おめでとうございます。5000円分のAmazon商品券をメールでお送りします。


 

 


頂いたコメント】

 

 

投稿者 makefuturebetter 日時
読後、真っ先にある環境保護団体が頭に浮かんだ。
その名は「シーシェパード」。海洋生物の保護を名目に、海をテロる人たちだ。
彼らはこう口にする。「クジラは頭がいいから殺してはいけない」「クジラを食べるのは野蛮だ」
しかし、それと同じ口で彼らは牛やカンガルーの肉をほおばっている。

なんて無知で欺瞞的な人たちだ。あなた方も私も、命あるものを食べなければ生きていけない、罪深い生き物だ。そんな当たり前のことをまず「知らない」。
クジラは殺してもいいが、牛やカンガルーはいいというのか。それは差別だと彼らは自覚しているのだろうか。

そんな神経で反捕鯨をされては、たまったものではない。我々日本人は食事前に「(命を)いただきます」と手を合わせる習慣があるのだ。死んだものに感謝する伝統があるのだ。そりゃ、下らない根拠で下らない差別をしたりすることもあるけれども。

話がそれたが、やはり無知は罪だ。毎日口にするもの、身につけるもの、すべてに命があると知れば、すべてにやさしくなれると思う。接する態度は変わると思う。
月並みだが、この本をすべての国の言語に翻訳して出版してほしい。(江戸時代云々の歴史の部分は、その国ごとに変えて)

 

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投稿者 mmnn 日時
これが小学生向けの本か、と思うくらい衝撃的な内容でした。

肉を食べるために、牛や豚は殺される。
当り前の事実でも、詳細は我々はきちんと理解しているわけではない。
魚市場や魚をさばく人はよく知っているけど、牛や豚の卸市場や牛や豚をと殺する人のことは
あまり知らない。牛や豚をと殺する仕事の歴史的背景に、差別や信仰宗教などの
問題が絡んでいるなんてもっと知らなかった。

じゃあ、これからは可哀そうな牛や豚のために、肉を食べなければいいのか、というと
現実問題、そんなわけにはいかない。日常生活のいろいろな場面で牛や豚の一部分が
使われているからだ。これらを全く使わないで生活するのは非常に難しい。

我々の生活は、知らない世界で働く人や、犠牲になる牛や豚、これらのお陰で成り立っている。
好むと好まざるとに関わらず、無関係に生活するわけにはいかないのだ。
だから、感謝の気持ちをもって、無駄にしないで生活していくことが必要なのだと思う。

我々には、まだまだ知らないことがいっぱいあるでしょう。
知らないから仕方がないとか、私には関係ないという態度はこれから止めた方がいいと思う。
自分の無知が、知らない誰かや何かを傷つけ、犠牲にしてしまうことは避けられないからだ。
何事にも感謝の念を持って接するように心がければ、犠牲にしてしまった人達や何かに
せめてものはなむけになるかもしれない。

「何事にも感謝の念を持つ」最低限、これから私はこれを心がけていきたい。

 

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投稿者 wapooh 日時
この本を読み終えて再読して、心に残ったことは2つです。
一つ目は本の通り「いのち」を大事にしようと言うことです。
食べることにおいて、「いのち」をいただくとともに、「いのち」を
食材として提供してくださる仕事をする方々の存在=「いのち」がある。
よく何かで、『あなたは自分ひとりで生きてきたと思っていたら大間違い。
生きていくには肉や野菜を食べて生きているでしょう』と言う例え話が
出てきますが、その場合お世話になっている対象は、本を読む前は
ほとんどの意識が『食材のいのち』に向いていました。けれども、この本を読み終えて、
お世話になっているのは『食材のいのち』『食材にしてくれる方々』
『流通の人』・・・もともとあるけれど、自分の無知ゆえに見えなかった部分が
照らし出されて見えるようになりました。
で、全てひっくるめて「いのち」を大事にしよう。
まずは、日々の料理で食材を大事にあつかい、料理しよう。
食事は一口でも残さず大事に食べよう。気持ちよく食べて体に取り入れよう。
無駄にすまい、と心がけよう。と意識し続けることだと思って生活する。
食の「いのち」を大事にすることはゆくゆく、同じ「いのち」の人を大事にすることに
つながるのだ、と思えました。
差別については色々とこれまでの教育や周囲の環境の中で聞かされていた話のさらに奥の事柄を
学びました。なんとなく歯切れの悪かった親たちの態度に自分なりに整理をすることが
出来た気がしています。
「同じいのち。差別をしないと心に決める」意識し続ける、行動したいと思いました。
【想像しよう。自分自身をきちんと主語にして。差別されることの痛みや苦しみを。
できるだけ、傷つけないように努力すること。生を受けて誰も傷つけず、生きる人はいない】
のだから。

もう一点は、少し自分の世界に引き込んでしまったのですが「思考停止」と言う言葉。
本を読みながら、一つの記憶がよぎりました。
しょうおんさんのセミナーの懇親会でのことでした。
美味しいお刺身か甘くて美味しいお肉を食べていたときのことです。
『DVD「いのちのたべかた」を観た?このお肉がどうして美味しいか、分かる?』と
しょうおんさんが聞かれたのです。幾人かに混じり私も[見ました。]と答えました。
『あの映画を見れば、分かるよね。牛のシーンで、ばたっと倒れたよね。万が一急所をはずせば
暴れまわって大変なことにるよね』と、しょうおんさんは続けられました。
[そうそう、衝撃的なシーンでした。真正面から銃で撃たれるんですよね]と私は答えたのですが、
あの時、私は知らなかったのです。
あれが、命を絶つ一撃ではなく、いのちを生かして意識を失わせるだけの一撃だと言うことを。
牛や豚、果ては魚まで、死んでしまっては放血できず、美味しいお肉は得られない。
暴れまわって肉がかたくなってまずくなるから、おとなしく死んでもらうわけではなかったのです。
本書には「知ることは大事」と言う一節が何度も出てきますが、「知る」作業は思うよりもはるかに
簡単なことではない、と今は感じています。
自分の中のイメージで納得したらそこでストップ、言葉を捉えて意味が通じたら知った気になる、
誰かの説明でなるほど、と思ったり疑問もなく吸収して当たり前と思ってストップ。
知ろうとして知りえるまでは底が深い、とことん突き詰めなくては見えてこないし知りえないことも
自分の世界に沢山ある、と言うことなのかと。
今回もまたDVDを見ても、本書を読まなければ知らなかったわけです。

「思考停止」。差別の問題もそうですが、サラリーマン生活も「思考停止」に陥りやすい要素が
ごろごろあって、知らず自分もその穴にはまっているな、とまた思いました。
たとえば、差別ではないけれど、最終学歴で人を区別して、実際の仕事ぶりも見ずにいる。
当初の学歴で人を見下げて自分の立場を精神的に守ってほっとしてみたり、
パックのお肉のように、サラリーゆえに毎日の就業時間に職場に存在するだけで給料が得られる
と思ったり、年数が経てば昇給するものと思っていたり(今はほとんどないですが)
安心が成長を阻んだり、思考をとめてしまうところが知らず知らず時々あった。

子供の頃『大学へ行けば出世コース』という親に叩き込まれたものさし。これも
「思考停止」のくいになっていたと思うのです。
大学に行ったから何かが出来るわけでも保障されるわけでもないのに、キャリアのある高卒のひと
を前にしても、自分の方がやればできるそうならなくてはというような気になっていました。
しょうおんさんのブログのタイトルがすでに「思考停止」のサラリーマンを砕いているなと。
実の部分で仕事を果たす自分でありたい。そうなれているか?。

これまで、ふと弱い心にやられて時間をやり過ごしてしまった就業中のすき間時間、
学卒じゃないから、と外側だけで自分のほうがえらくて仕事していると思い込んでいた
恥ずかしい自分。
今月は気づいた上記の意識を持ち続けて行動してみようと決めました。
そして意識が変わり始めると、嫌一辺倒だった上司に対して感謝ができました。
これまでの自分の頑固な(不器用な)学ばなさ、それでも折にふれ繰り返し何度も指導してくれた
上司のありがたさと情けない自分。
そんな自分を認められていない、と上司が若手をほめただけで自信喪失、いじけてみたり。
今までは自分が見えていなかったのだと思えた結果、気がつくと上司に
これまでのお詫びと感謝を口にしていました。直接ではないですが暖かな言葉が返ってきました。
それから少し世界が違って見えてきて、仕事への意識と体の動きが早くなってきました。
まだまだ上司には及びませんし、気がつくと新人に近い若手の成長にいじけたりくりかえしていますが。

自他共に大事に生きる。
今後意識して続けていこう、他の照らされていない部分を照らしだして
世界を広げるためにも、読書の習慣を続けて身に着けていこうと思えました。
今回も、すばらしい本を紹介くださって有難うございました。

 

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投稿者 take0125 日時
7月1日は息子の誕生日。
もうすぐ9歳になる。最近、少し本を読む習慣も付いてきたと
思う時もあるけれど、まだまだ外で友達と遊びたい盛り。
性格的にはおとなしい方だと思うけれど、集中力がチョット足りないかな。
片付けも苦手。得意な科目は体育かもしれない。。。

そんな息子だけど、この本はいつか読んでもらいたい。
今は心に響かないかもしれないが、少しずつでも良いから
気付いてもらいたい。

いのちの尊さを。

差別って、とても悲しい行為だってことを。

自分が食べるお肉がどういう経過をたどってきたのかを。

自分たちの習慣に潜む「穢れ」って、何かを。

歴史を知ると、世界観が広がることを。

大切なことって、「知ること」なんだよって。


いろいろ感じることがあって、混乱するかもしれないけれど、目をそむけないで
欲しい。疑問に思えば、父さんに聞けば良いよ。一緒に考えよう。そして、
読書が好きになってくれると嬉しいな。

 

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投稿者 TBJ 日時

「いのちの食べかた」を読んで


本を読んで、普段食べているものが全て動物や植物の命であること、その命を
食べて生かされていることを再認識し、感謝しなければならいと思いました。
そしてそのことは子供たちにもきちんと教えていかなければならない。

しかし、この本を読んでそれ以上に印象に残ったのは、「世界は回っている。
動物たちも循環している。しかし、人間はその循環から外れている。そして、
人間がその循環から外れたのは知性を持ったから。」ということです。
主旨からずれますが、そのことについて書きたいと思います。

言われてみると、人間は動物や植物を食べて生きていますが、死んだら骨と灰にな
って終わりです。動物や植物の循環の中にいません。
さらにその循環から外れるだけでなく、人間の都合の良いように生きることで、本来
あるべき動物たちの循環をも崩してしまっています。生きる環境を破壊しています。
人間の都合で森林を伐採することも、汚水を垂れ流すことも、道路を舗装することも
飛行機で遠くに行くことも、電気を使うために原発を作ることも全て、人間にとって
都合の良いことであり、それ以外の命を奪う行為だと思います。

人間はたくさんの命を頂いて生きています。そのことに感謝することももちろん大切
ですが、人間の都合によって、無駄にその命を奪っていることにも向き合わなければ
ならないのではないかと感じました。
他の動物たちに比べて高い知性を持ったこと自体は素晴らしいと思います。しかし、
それを人間たちの都合にだけ使うのは無能のように思えてきました。

考えてみると、人間の社会でも同じようなことが起こっています。
より知性の高い人が、自分たちの都合の良いように世の中を動かしています。知性の
高い人にお金や食べ物など、多くのものが行くような仕組みを作っています。
これは、資本主義であれ、社会主義であれ同じです。

こう書くと知性を持つことがダメなように聞こえますが、知性を持ったことがダメな
のではなく、知性と同時により深い欲を持ってしまったのがダメなのでしょうね。

この本に書かれていた差別や戦争、現代の経済や原発の問題なども、知性を持った人
の深い欲によって起こったものだと思います。
もちろん人間社会の場合は、他の人たちもそれを受け入れ活用しているから成り立って
いるのだと思います。

動物の生態系の中でも、人間社会でも、人は知性をどのように活かすかが重要であり、
自分たちが知性によってある程度世の中を動かせることを自覚した上で、常に「知の道」
を意識し行動をすることが大切なのだと改めて感じました。

 

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投稿者 whockey51 日時
「いのちの食べかた」

肉から始まった話が、ここまで世の中のことについて語られているとは
想像もしなかった。

私の故郷である北海道は、牛や豚などを育て、それを出荷して生計を立
てて来られた方も大勢いらっしゃる。

そういった方々の苦労を知らずに育った自分としては、今回この本に出
会えたことは人生において大きな意味があると思っている。

いのちって何だろうと考えたとき、答えはまだ見つかりませんでした。

ただ、自分自身が他の命を頂くことによって、生きていられるのは明白
な事だけはいえます。

その命を感じることなく、日々を過ごしてしまっている自分自身を反省
しなければとも感じた。

小学生の時、初めて身近な人である祖母が亡くなった時、ただ単に悲し
みに明け暮れていた私を思い出したりもした。

しかし、火葬場で骨だけになったのを見ると、何だか納得が出来たりも
した。いのちって終わりあるのもだと感じることが必要なことなのでは
ないだろうか。

「いただきます」を食事の前に言うことで、私たちはいのちを頂いてい
るという事に対しての、一つのけじめを見せているのではないだろうか。

それによって、そこから広がることに目を向けて生きていく。そんなこと
も出来てくるわけだ。

世の中には知らない方が幸せだ。なんてことも考える人がいますが、やは
り知った上で、どういった行動を取っていくか。を逃げずに考えていかな
ければならないと思う。

考えるだけではなく行動すること。これに意味がある。

著者の主張には賛同できない点もあるけれど、肉を通して、見ることが出
来た世界には、感謝したい。

 

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投稿者 takuro2411 日時
本書を読んで気が付かされた事、それは我々が毎日生きているという事は、
他のモノのいのちを食べているという事。
他のモノのいのちを食べないと我々人間は生きていけない。
このとても大事な事を、知らなかったわけではないが、
いつの間にか当たり前のことのように考え、
そしていつの間にか意識しなくなっている事でした。

著者の言葉を借りれば、まさに「目の前の現象や今の環境に馴れてしまい思考停止状態」

人間は生きていくために他のモノのいのちを食べ、
便利に快適に暮らすために自然を壊し道路やダムを造り、
人間の薬を作るために動物実験を行い、
さらには世話ができなくなったからといってペットを捨て、
人間にとって迷惑ということだけでゴキブリや蚊などの害虫を殺す。

人間の生活は多くのいのちの犠牲の上に成り立っている。
言い方を変えれば、人間が快適に生活するためには、
多くのいのちを奪わないと成り立たない。
この事実を当たり前の事として考えていいのだろうか。

人間が生きていくために、毎日他のモノ達のいのちを奪っているのに・・・

いつの間にかなにも感じなくなっている・・・

そう考えると、「馴れる」という事は、

ある意味でとても恐ろしく、残酷な事だと思う。

だからといって、今の生活を辞めることができるわけではなく、
自分が何かできるわけでもない。
ただ、本書にも何度出てくる事が、そういう事実を知り、
忘れないようにすること。
また、他のモノのいのちをもらって自分が生かされているという意識を持ち、
そのモノのいのちを無駄にしないよう、
自分も大事にすること。
そういうことを心がけていこうと思う。

ありがとうございます。

 

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投稿者 nagi1123 日時
「いただきます」という言葉、これは食材となった生き物に対して感謝の念を込めて「いのち」を「いただく」という意味・・・ということは知識として知っていた。
しかし、自分が食事の前に「いただきます」という言葉を発するとき、それは完全に形骸化してしまっていることに今更ながら気がついた。
知識は意識に結びついていなかった。

スーパーでパック詰めされて売られている「肉」は、もともと生きた牛や豚だったなんて誰でも知っていること。しかし、その「肉」を選ぶとき、意識を向けるのは「価格」に対する「品質」の比較だけ。そこで思考は停止する。
お金と交換した途端、それはただの「肉」としか認識されず、世界から切り離された「モノ」となる。

日頃、しょーおんさんのセミナーで習った「呼吸法」を実践し、自分自身に静かに意識を向けるトレーニングを積み重ねてきたつもりでいたが、こんな身近なことに全く気付かないでいた。
物事の表面だけを見て本質を理解していなかった。

そこで、物事の表面だけを見て理解した気になり、思考停止してしまうのは何故かと考えてみた。

最も影響力の強いメディアとしてTV番組に着目してみる。
最近のドラマ等は、感情剥き出しで刺激的な表現が多いと感じる。
泣いたり叫んだりブチ切れたりをストレートに表現できる演者が、優秀な役者という評価をされているかのようだ。
ドラマやバラエティなどの娯楽番組はともかくとして、ニュースなどの報道番組に関しても、最近は感情に訴えるような手法が主流になっているように思えてならない。

例えば、原発の放射能汚染に対する風評被害の報道。
放射能の危険性や放射能汚染の範囲および状況をデータベースで淡々と紐解いていけば良いと思うのだが、実際の報道は、被災地域で受け取ったお土産を高速道路のPAに捨てていく人達への感情的な非難や、風評被害を受けている人達の悲痛な叫び、或いは、放射能を恐れるあまり被災者を蔑視した言動や行動、廃棄物受け入れ拒否の過激な発言・・・そんな事ばかりがクローズアップされている。

あれ? 被災地住人とそれ以外の地域住人の感情的な対立の構図にすり替えられている気がする・・・。 なんで国民同士で感情的に非難の矛先を向け合っちゃっているの?
問題の本質とは異なったベクトルへ私たちの目は向けられている。なぜそのように仕向ける必要があるのか?

それは感情に訴えたほうが視聴率をとれるから・・・
感情に訴えるスケープゴートを立てると、国民を制御しやすいから・・・

情報が氾濫した現代においては、客観的なデータを並べられても、そこに意識を集中して正しい情報を吸収できる人は少ない。
めまぐるしく飛び交っていく情報の渦の中で、人々が最も関心を惹かれるのは「感情的な刺激」なのかもしれない。
だから、人々は情報を熟考することなく、刺激を受けたものを「反射的に」取り込むだけの状態に陥ってしまっているのではないか?

感情的な刺激に対し「これは可哀想」「あれはけしからん」などと、反射的に反応していった結果、物事の表面だけをみて本質を理解しない習慣が形成されてしまったのではないか。
そして、厄介事(例えば、被曝による健康被害)が自分に振りかかってきて初めて、政府が悪いだの専門家が悪いだのと自分が今まで丸投げしてきた対象へ文句を言う破目になる。

世の中に氾濫するメディアの表面的な情報のみに囚われて、政府は何もしてくれないと嘆くのではなく、自分から行動して与える人になりたいとおもう今日このごろである。

そのためにはどうすればよいのか。

こころにじんわりと響き、あたたかい気持ちにさせてくれるような番組が多くなれば、人々はもっと物事の本質に触れる能力を伸ばせると思う。
しかし、そんな番組は今の段階では視聴率を取れずにすぐに打ち切られてしまうだろう(→その理由は、感情的な刺激による反射反応を起こさないから)。

結局は、それを捉える私達側の問題なのだ。

私は物事の本質を見る目を育てていきたいと思う。良書を読み・咀嚼して、自分の世界観を広げていきたい。

『いのちの食べ方』を読んで、今まで自分がいかに物事の表面しかみていなかったということを痛感した。
と同時に、世界はとてつもなく広く・複雑で・奥深く、そして素晴らしいということを改めて認識できた気がする。
身の回りの当たり前と思っていた事象も、意識を向けることによってどこまでも繋がりが広がっていき、様々な関係性の上に成り立っていると感じる。

毎日の食事によって、数多くの命と繋がり、様々な命に支えられて今の自分がある。1回1回の食事で、摂取した命の繋がりは自分の血肉となる。
そう考えると、日々の食事に意識を向けることによって、自分がいかに多くの「いのち」に支えられているかが実感でき、その事を感謝することによって大きなエネルギーで満たされたような安心感を得られる。

意識を向けることで世界はどこまでも広がり、自分は世界と繋がっているということを実感した。

今回の課題図書からも多くの気付きを得られました。ありがとうございます。

 

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投稿者 nekonekomikan 日時
社会人一年目、品川駅の港南口を良く利用していた。
食肉市場というものがあるのは知っていた。
でも、何も考えることもなく、そこの前を通り、仕事をしていた。


覚えているのは、裏口の前を通ると、独特のにおいがするのと、
牛や豚が荷台に乗ったトラックをよく見かけたこと。
その時の僕は、その牛や豚がどうなるのかなんて考えてもみなかった。



それから数年がたち「いのちの食べかた」というタイトルから、
きっと内容は、命は命の上に成り立っているという、
単純なものだろうなと思って読み始めました。


ゴキブリは新聞紙で叩きつぶせるけど、カブトムシは叩きつぶせない。
その通りだなあ、なんて気楽に読んでいたら、この本に書かれていたのは、「知る」こと。
「知らない」ことによって、どういった歴史が生まれたかということ。


部落差別が生まれた一因に、知らない、知っていた事をいつの間にか忘れている
、さらに都合の悪いことから、目をそむけることにある、と書かれていました。
そして、国から押しつけられた身分や序列をいつの間にか信じ込む。


ふと思いました。これって、今の原子力発電所の問題と同じではないかと。


僕は、肉を食べる。だけど、どうやって牛や豚が、パックに入った肉に変わったか知らない。
知ろうともしない。何も思わないし、考えない。まさに思考停止。

僕の頭の中では、生きている牛や豚が、どこかにあるブラックボックスを通過すると、白いトレーにパックされて出てくる。
スーパーで、白いトレーに入った肉を見て気にすることは、まず値段。部位を確認して、賞味期限。
最近はもう、安全かなんて気にも留めなくなってる。
国産買っていれば大丈夫だろうなんて思ってる。


命を食べることに無自覚。
電気を使うことに無自覚。


原子力発電所の事故は、国と電力会社だけが起こしたわけではなさそうだ。
戦争がそうであったように。


今もまた、やっぱり歴史は繰り返している。
そして「知らないこと」が起こす構造は、なにも変化していないようだ。


「電気の使いかた」という本が出版されるのも、あと10年、15年後ぐらいだろうか。
僕には、今はもう、その本の内容は、容易に想像がつく。


少なくとも、僕は、ほんの少しだけ、この本で知るということを知りました。

 

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投稿者 akiko3 日時
「いのちの食べかた」を読んで

もしも、世界が自分と目の前の人の二人だけだったら、もっと優しくなれるだろうか?目の前の笑顔を見て共に喜び、相手の痛みや苦しみにもっとより添えるだろうか?相手が飢えているのを見て、自分だけが満腹でも満たされはしないだろう。
でも、つい人は自分本位の見方をし、相手の痛みに鈍感だ。選択肢が沢山あれば、目移りするし、比較をし、差別や保身に走りやすい。

金子みすずさんの「大漁」という詩では、“鰯の大漁に浜は祭りの賑わいだけど、海では何万の鰯のとむらいするだろう”という捕らわれた鰯に思いをはせている。人に対してさえも、相手の立場が想像出来ないでいるのに、みすずさんの鰯の命に思いをはせる視点に、本当に感嘆させられる。

ああ、だけどおなかが空いてきた。やっぱり食べないと生きられない。かけっこで1番を狙いながら、3番になっても、心の中ではドベでなくてよかったと安心している。単純な作業の繰り返しより、面白い仕事がしたいと思う。人より優位な立場で安定していたい。
“人は人を差別したい生き物。そういう習性だと知ることが大切。思い出すことが大切なんだ。優越感に浸りたい弱い生き物なんだ。”
著者の指摘どおり、例外なく自分も普通の人間だ。無意識に比較をし、惨めになりたくなくて自分を守ろうとする。そんな自分の心の動きをとらえて、本当の思いを見つめてみよう。慣れた日常の速さに感覚が麻痺するのか、スイッチを自動的に自主的に切ってしまうのか、ただ日々に流されてしまう。でも、その間には、自己満足の為に、無意味に人を見下したりしている。ただ空腹を満たしている。どれだけの人と関わって生きているのか。事実を見つめ、知ることを意識的にしないと。いつでも、何度でも。著者の言うとおり、きっと、知れば選択を間違えないだろう。
今日も自分の命が続いていることに、平和に日常が続けられることに、そして、自分を取り巻く世界の不思議に、繋がっているいろいろなものとのご縁に思いをはせて、心から感謝したい。

立ち止まって、目を見て話しかけられているようなそんな慈しみを感じ、少しは子供の頃の純粋な気持ちに立ち返って、素直に物事を捉えられた。大変示唆に富むお話をありがとうございました。

 

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投稿者 sumio 日時
「いのちの食べ方」 森 達也 を読んで。

1.「知ること」の大切さ。
判断は、「知ってから」はじめてできる。
自分の目で見ることの大切さを理解しよう。

「知ること」は大切。
「知ったら」忘れないように。
思うことを停めないないように。
何度でも深く心に刻もう。
差別、戦争、マスゴミメディア、だまされることの責任。

人間は無限大の傷つけ装置である。
「生きること」の宿業を否定するのでなく、受け入れる。
「やっちゃったこと」を認める。
人間は罪深い存在であることを認める。
「知って」、その上で生きていくしかない。

2.代理人(エージェント)。
食物連鎖の大きな輪から、人間だけはずれてしまっている。
人間の宿命。
だからそのことを「知ること」は大事。

と場で働く人々は、代理人である。
エージェントである。
本来、感謝するべき、尊敬するべき存在である。
それを差別の対象にしてきた人間のずるさ、を知ろう。
誤りを正そう。

世界には数え切れない「誰か」がいる。
「誰か」がいるから僕たちの生活は続いている。
「誰か」(エージェント)に感謝し、尊敬しよう。
そして、自分も誰かの「誰か」になるのだから。

いのちを食べることは、そのために犠牲にしてきた、
いのちをしっかりと見、その意味を知り、無駄にしないこと。
肝心なのは、目をそらさないこと。

重いメッセージいただきました。
ありがとうございます。

 

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medal1-icon.gif投稿者 BruceLee 日時
「小学生の息子たちへ、3つの大切なお話」

数年前だったかな~。

「うちは学校の給食費をキチンと払っているのだから、
子供に『いただきます』って言わせるのはオカシイ!」

と学校に文句を言ったお母さんがいたらしいんだよ。本当に
そういったかどうかはパパも良く分からないけど、まあ、そういう
人がいるかもしれない、とは思う。

でね、チョット聞きたいんだけど、そもそも「いただきます」
って、何のために言うんだろうか?お前たちもご飯を食べる時、
「いただきます」って言うよな?それって誰に対して言ってんだ?

さっきのお母さんは、給食費っていうお金を払っているのだから、
「いただきます」という必要は無い、つまり「いただきます」は
タダでご飯を食べさせてもらった時に言う言葉、だと言ってるように
思えるね。まあ、もしかしたらこのお母さんは今問題になっている
給食費を払わない家庭に対して、「自分の家はキチンと払っている」
という事を強調したかっのだけかもしれないね。。。

まあ、それはそれとして、その意味であれば、外食の時も一切
「いただきます」と言わなくて良い、という事になるよね。
何故って外食の時は、いつもお金を払うんだから。

でも、そうじゃないよね。お前たちも外食する時「いただきます」
って言うよね。何故なんだろう?
料理を作ってくれた人へ言うんだろうか?テーブルへ運んでくれた
店員さん?或いは日々ご飯を食べられることに対する、ありがとうって
気持ち?でも、それなら「ありがとう」で良いよね。
なぜ「いただきます」なんだろうか?

どう?チョット考えてみてよ・・・・。
そっか、分かんないか。

パパは思うんだけど「いただきます」の本当の意味って、

「生命(いのち)を頂きます」

なんだと思うんだよ。ん?よく分かんない?よ~く考えてごらん。
人間が日々食べてるもの、それらは元々、全て人間以外の動植物の
命なんだよ。人間と同じように神様が与えてくれた命なんだよ。

肉や魚は勿論、米、野菜、お前たちが好きなお菓子だって元々は命ある
生き物だったんだよ。それを人間が食べるためにその命を頂いてしまった
んだよ。

つまり、「いただきます」は我々人間の食材になってくれた、全ての
動植物に対する「ありがとう」の言葉なんだよ。だから、お金を払ってる、
払ってないなんて関係ないんだ。命を頂いてるから「いただきます」なんだよ。

これが大切な教え1。次に大切な教え2ね。

この「いのちの食べ方」って本にこう書いてあるんだ。

「草や微生物を食べる小さな虫は、少しだけお大きな虫に食べられる。
少しだけ大きな虫は、鳥や小さな動物に食べられる。鳥や小さな動物は、
もっと大きな鳥や動物に食べられる。そして大きな動物の死骸は、小さな
虫に食べられて、微生物に分解されて草や木の栄養となる」

これ、分かるか?つまり全ての生き物は小さいのから大きいのまで
含めてそれぞれ食べたり、食べられたりしてるけど、総合的な関係
としてはつながっていて、回ってるってことだ。

でも、人間はどうかな?様々な動植物から栄養を貰って生きているんだけど、
人間は得た栄養を人間以外の何かに与えてるか?例えば人間が死んだら何か
他の動植物の餌になるかな?栄養になるかな?

・・・ならないよね。だって例えば日本では人間は死んだら焼いて骨に
なっちゃうからね。ってことはさ、折角頂いた動植物の栄養は人間を頂点
として、そこで途切れてしまうってことなんだ。

人間は万物の霊長と言うけど、ドンだけ偉いんだって?
そんな偉くはないんだよ。だって動植物がいなかったら
人間は生きていけないんだから。やっぱり持ちつ持たれつ
なんだよね。これを忘れちゃいけない。

時々、お前たちが食べ物を残してママに怒られるだろう?
あれはね、命を残してるからだよ。命を無駄にしちゃうからなんだ。
神様が創った命を無駄にしたらきっと神様も怒る。
そして神様はママよりも怖いぞ~きっと。

でも、こういうことを知って、忘れなければ食べ物を残して無駄に
するなんてことできなくなるだろう?最初から食べれる分量だけ貰えば
いいんだからな。だからね、いつも何気なく「いただきます」って
言ってるけど、本当はね、

「(私のために生命をくれた多くの動植物の力を)いただきます
(有難う、大切な栄養として吸収します)。」

っていう、カッコ内の言葉が隠れているんだとパパは思うんだよ。
だからね、パパからお前たちに覚えておいて欲しいことはね、

「目で見ること、耳で聞くことが全てじゃない」

ってことなんだ。

そしてね、最後の大切な教え3はね、お前たちも好きなお肉が、
生きている牛や豚の状態からどういう流れでお前たちの口に入るのか、
そこにどういう人が居てどんな作業があって、これまでどういう歴史が
あったのか、について。だってそういう人たちが居なかったら人間はお肉
を食べられないんだからね。

但し、それに関しては、この「いのちの食べ方」って本を自分で読んで
知って欲しいんだ。お前たちには少し早いかもしれないし、チョット驚く
ところもあるかもも知れないけど頑張って読んでみな。途中で分からない
ところがあったらパパに聞いてくれよ。そして読み終えたらその感想をパパに
聞かせてくれ。その時またいろいろ話をしよう。

 

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投稿者 sishida 日時
「いのちの食べかた」を読んで

人間はつくづく業が深い生きもの
シンプルですがそれが読後の率直な感想です。

「業が深いものほど美味しい」

友人が言った言葉ですが、今回初めてその実態を本著で知ることになりました。 
牛や豚、鶏などの家畜は人工的に増やされ、人の役に立つためだけに作られた「いのち」
その終わりは生きたまま血を抜かれ解体されていく。。。
初めは残酷と思いましたが、ある意味いのちをいたわった、なんとも無駄のない工程に感心するばかりでした。

ただ、業が深いからこそ本著に述べられているとおり「思考停止」して真実を知ることをやめてしまってはいけないと切に思います。
思考停止してしまったがための差別、戦争・・・
いわゆる短絡的な思考に陥りがちなのが人間というもの。
今の日本の政治がこんな状況なのも有権者が思考停止してしまった結果ではないかと考えてしまいます。
意図的に隠されている部分にも気付ける力を持ち、真実から目を背けない勇気を持ちたいものです。

人間が生きるということは、日々業を積み重ねていくことになるのですが、「いただきます」が自分の糧となるいのちに感謝する意味であることはとても意義深いものだなと考えます。
そして、この言葉の姿勢がとても美しいのだと改めて強く感じることができました。
すばらしい本を紹介していただきありがとうございました。

 

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投稿者 koro 日時
物事を考えずに型にはめる事、悪く言えば「思考停止」、善く言えば「標準化」。

数年前、YouTubeで肉牛を屠る動画を見ました。
あまりの生々しさに僕はそれ以来、牛肉を食べる事ができなくなってしまった、
という事はなく今でもおいしく牛肉を頂いてます。
ただ、歳のせいもあってか、
最近脂身の多いカルビ肉は遠慮がちです。

 

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投稿者 yamag 日時
正直、心をざわざわさせる作品でした。

小学生に語るという平易さを持ちながら、作者の視点から
語られる言葉は、本人が言うように”作者の経験を通した”
見方であり、共感しづらい部分もありました。

心の表面を少し、逆なでされるような不思議な感覚。
うまく言えないけれども、違うように思う。
どう説明したらいいのか、考えてしまう。

しかし、それこそが作者の狙いだったのかもしれません。

誰かの決めた価値観に甘んじさせない。

それは、知らず知らずに借りている、マスコミの意見かもしれませんし、
世間の”常識”かもしれません。
言葉で、判断停止を指摘するだけでなく、この作品を通して思考が揺さぶられました。

最初は、タイトルから映画”ブタがいた教室”のように、命についての倫理観を動物にむけて
考えるものだと思っていましたが、人種差別や戦争にまで発展する視点の広がりは、得難いものがあります。

すべては繋がっているからこそ、知り、考えることが世界を広げていくと感じました。

タイトルは、”いのちの食べかた”でしたが、私には”いのちとの向き合いかた”の方が
ふさわしいタイトルに思えました。(面白そうではなくなってしまいますが)

”いのち”とは、食する”いのち”だけでなく、現在生きている自らの”いのち”も指している。
”いのち”が生きるために”いのち”をいただく、その行為を真剣に捉えよう。
その結果、生きているのだから”いのち”を真剣に生かす必要がある。

判断を止め、ベルトコンベアーの前に立つように物事に向き合い、借り物の価値観で、
知ったような気持ちになって生きるより、自分の目で物事を見ていこう。
そしたら、みんなが大切なことを考えられる、幸せな世界になるから。

作品を読んで、私にはそんなメッセージが浮かんできました。

”いのち”の意味について、私には明確な答えは、まだわかりません。
ですが、いろいろなことに目を背けずに、真剣に生きていく先に、
"自分の答え"があるように思います。
世界を広げるためにも、さまざまな物事に、目を背けずに向き合っていけたらと思います。

とても、思考を刺激される作品でした。
この作品をご紹介いただきまして、ありがとうございます。

タイムオーバーですが、投稿だけさせていただきました。

 

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