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第123回目(2021年7月)の課題本


7月課題図書

 

脳死 (中公文庫)

 

今月は別の本をご紹介するつもりだったのですが、突然の訃報が飛び込んで来たので予定を変更しました。

訃報とは立花隆氏のことで、元祖知の巨人と呼ばれたジャーナリストです。

私はこの人の本をずいぶん読みまして、勉強の面白さを理解し体験することができました。

本好きになった切っ掛けのひとつがこの人の本に出逢ったことです。

その中で、一冊完結で、素人にも読める本ということで、この本を選びました。テーマは難解ですが、これくらい

の本を読めないと知識人にはなれませんので頑張ってください。

 

 【しょ~おんコメント】

7月優秀賞

 

今月のみなさんの投稿を読んで、今回は課題図書が難しすぎたかなと反省しました。

結果、みなさん同じような視点で、似たようなことしか書いていないので、選考不能でした。

その中で、一次審査を突破したのがBruceLeeさん、vastos2000さん、H.Jさんの3名

ですが、優秀賞のレベルには達していないので今月は該当者無しとします。

 

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、著者は脳死という事象を取り上げることで、人が生きている、死んでいるとはどのような状態なのかを問題提起し、本書を読んだ人に対して、脳死についてだけではなく、生きている事や死ぬという事について、意志をもって考えて欲しいと、言っているように感じました。


そもそも、脳死が認知される以前の社会においては、息を引き取り心臓が動かなくなった状態を死であると認識してきました。


しかし、技術が発達した現代において、生命維持装置を外せば臓器の機能が止まるとしても、とりあえず心臓が動いている状態を死んでいる状態だ、と認識するには抵抗があるという意見が出てきます。


基本的に治療方針については、医師の裁量に任されているため、医療に関わる各国の医師や、同じ日本国内にいる医師によっても脳死についての捉え方は、それぞれ異なっています。


このようにして、脳死は生であるか、死であるかどうかがという議論が出てきたのです。


脳死になったとしても、身体に必要な酸素や栄養素を供給する生命維持装置があれば、脳以外の身体は脳が機能していた時と同じように機能します。


自分の意志で手足を動かせない状態になり、生命維持装置に動かされているのであっても、臓器が動いて人が生かされるという事実は、確かに存在しているのです。


さらに、脳死が他の死に方に比べて特に、論じるべき問題として取り上げられるのが、臓器移植との関わりが深くあります。


もし、脳死を人の死として認めれば、脳死状態の人から臓器を摘出し移植することは可能になりますが、脳死が死ではないとするならば、脳死状態の人から臓器を摘出し移植する行為は、入院している患者を医師が故意に殺した、と受け取られることになってしまいます。


それを無くす為に、生前に死んだ後に自分の身体を他人のために役立てたい、と考選択ができる事を考慮すると、違った見方をすることもできます。


人生の最後にできるボランティアとして、臓器移植の目的で臓器提供を希望することや、遺体を人体解剖学の教育・研究のために大学へ提供する行為があります。


それらの選択は、自分が死んだあとに他の人の為に役立てるという事に対して、純粋な喜びに繋がる人もいます。


これらの意見や考え方を含めて、脳死になった時に或いはなる前に、何を選択するのだ、と著者は問題を提示しています。


様々な意見が出てきますが、最後には、自分がどう考えて選択するのかという事を自分で行動を選択できる、今から考えていく必要があると考えます。


本書のような脳死の状態になってからではなく、今考えて行動できる状態の時こそ、自分の身体をどうしたいのかを含めて、脳死について考えなければいけません。


ドナー登録など、自分の意志で先に選択できる事について、しっかりと考えていくようにします。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「ゾンビだからって殺しちゃうのは正しいの?」

本書を読みつつ私の中で沸いた疑問がコレ(↑)である。一体どこからこんなアホな疑問が沸いたか?それは以下からだ。

「人間において心臓移植を可能にする唯一の条件は、心臓は生きているが、その人は死んでいるという脳死者の存在ということになる。『生きた心臓を持つ死体』という摩訶不思議な存在があってはじめて、心臓移植が可能になる」

ん?「生きた心臓を持つ死体」って「ゾンビ」もそうだよね?ゾンビに襲われると元の人間性は失われ、家族、恋人、友人に関わらず、周囲の人を次々に襲いゾンビ化してしまう。故に自分がゾンビとならないよう、ゾンビと戦い殺していくのが「バイオハザード」に代表されるサバイバルホラーゲームだが、それってホントに正しいの?

・・・というアホな疑問はさておき、本書の核は「脳死の判定基準は何か?」だ。本書の著者は知の巨人として知られるが、著者の知に対する姿勢が次に集約されている。

「ともかく、これから脳死問題について知り、かつそれについて自分の意見を持とうとしている人は、ここに書かれたことをまず頭に入れてからそうしていただきたいと思う」

つまり曖昧で不確かな知識で物事を語って欲しくない、という知に対する厳しくも真摯な姿勢が前提にある。そもそも脳死判定が必要な背景はそれが臓器移植と結びつくからだ。仮に臓器移植を法律で全面禁止にしたらどうか?以後の議論は不要となり危険を冒してまで判定基準を設ける必要も無くなる。が、必要な臓器さえあれば助けたい命がある、というのも人としての真摯な姿勢だ。そこで論点となるのが「脳死の判定基準」であり著者には厚生省のそれが曖昧と映った。これが著者が本書を書いた動機だろう。実際、誤診もあり得る。

「脳死判定における誤診とは何かといえば、生きている人を脳死だと判定してしまうことである。脳死と判定されると、その人は、判定時には生きていても臓器移植のために、心臓などの臓器が切除される、人工呼吸が外される、或いは加療水準の切下げなどによって、結局は本当に死んでしまう。従って、それが誤診であったことは、永久に誰にもわからないのである」

脳死の誤診に死者は無力ということだ。「まだ生きてんのに殺しやがって、このヤロー!」と文句も言えないのである。また、以下も重要だ。

「近い将来確実に死ぬということと、すでに死んでいるということは全く別のことである」

そりゃそうだ。そもそも「近い将来確実に死ぬ」って人間は必ずいつかは死ぬ。なら「近い将来」ってどのくらい?「若い人間は駄目でも100歳超えた人は良いんですか?どうなんですか、ソーリ!」みたいな面倒臭いツッコミも出てこよう。そんなレベル〇憲〇主党な議論じゃなく、もっと人の命の重みが重要だろ?という姿勢がある。読み進めると次第に論点は絞られ「脳幹死か全脳死か?」に辿り着く。両者の違いは判定基準のみで「使える臓器で他の命を助けたい」という姿勢は同じだと思う。が、著者の主張は全脳死でその根拠が記述されている。

「もし、私の首が切断されて、首から上だけが生かされていたとしたらどうか。首から下の全肉体を失っても、そこにいるのは私自身であり、私はそこに生きているのである。私の首が他人の肉体に移植されとしたらどうか。そこにいるのは、私か、それとも肉体の旧所有者か。むろん、それは私である。ではその逆はどうだろうか。私の首から下の肉体のみがそこでいかされていても、その肉体にひとの首が移植されても、そこにいるのは私ではない。他の臓器すべて死のうと、私の脳が生きている限り私は死なない」

この一文から「私を私たらしめているのは脳である」と著者は考えているのだろう。私も考えてみた。「自分とはどこまでが自分で、どこから自分で無くなるのか?」。その意味では本書は脳死が主題だが、実はその背後で「あなたが生きているとはどういうことか?」を我々に問いかけていると感じた。あなたは何をもってあなたと言えるのか?何もってあなたではないと言えるのか?個人的にはメルマガでよく話題に出る「習慣」だが、その起点となるのは意思だ。「毎日○○をする!」と決め、その○○を実行するのは肉体かも知れないが、その肉体を動かす命令を出すのは意思であり、その意思が発せられるのは脳である。故に、私=脳という考え方に私は同意する。

さて、最後に私のアホな疑問に戻したい。本書を読んでの(いや、高尚な本書を読まずとも明瞭なのだが)、私の答えは「正しい」だ。理由は簡単で「ゲームだから」だ。故にそこに罪悪感を持ったり「人としてどうなの?」的な倫理観を持ってふと立ち止まった瞬間、プレーヤーはゾンビに襲われ、ゲームオーバーとなってしまうからだ。

この答えも、私の肉体からではなく、私の脳が考え出した答えなのである。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、ジャーナリストの著者が、1985年に厚生労働省が発表した脳死判定基準への反論を軸に、脳死問題の本質に迫った本である。私は、脳死や脳の構造について予備知識が全くない状態で読み進めたが、脳死を巡る議論について理解を深めることができ、著者の主張に強く共感した。著者の主張が強い説得力を持つ要因は、丁寧で論理的な説明と、分かりやすい言い換えと例示にあると思う。特に、分かりにくい他者の主張を事例で説明して論破する手法は、秀逸だった。では、強力な説得力を持つ著者の主張は、反論が不可能な立論なのか。本稿では、敢えて著者の主張に対する反論を論理的に考察することで、本書と脳死への理解を深めてみたい。

まず、著者の主張を整理してみよう。著者は、脳死における重要な問題として、脳死及び死の定義、脳死の判定基準の2点を挙げている。特に最重要となるのは、脳死とは何なのか、人の死と認められるのかという点であり、そうした問題意識を出発点に、厚労省が発表した脳死判定基準への疑義を掘り下げている。そして、著者の主張には前提となる原則的な考え方がある。それは、脳死が問題になるのは臓器移植との結びつきにおいてのみであり、誤った脳死判定後の臓器摘出が殺人行為にあたることから、定義上も判定基準上も、より慎重でより確実な脳死判定が必要になるという考え方である。つまり、脳死者を生きていると誤診することは許されるが、生きている人を脳死者と誤診することは絶対に許されるべきではない、ということだ。

その上で、著者は脳死の定義を器質的変化、すなわち器質死とすべきだと主張する。脳波学会の定義である「回復不可能な全脳における脳機能の喪失」という考え方自体を否定しているわけではないが、喪失した脳機能が「回復不可能」であることを確認できる方法が存在しないため、生体の組織が壊死し始める器質死をもって、脳死とすべきであるとしている。そのため、回復不可能という不可逆性の担保として、器質死の入口となる脳血流の全面的な停止確認を脳死判定基準にすべきだと主張しているのである。著者は、脳死判定基準によって脳死の必要条件だけでなく充分条件も満たすことの必要性を繰り返し主張しており、前述した生きている人を脳死者と誤診する確率を0%にするためには、不可欠なアプローチであると説明している。

この著者の主張に対しては、反論する方法はあるのだろうか。まず、著者と同じ前提条件に立てば、著者が主張する器質死をもって脳死とし、脳血流の全面停止をもって脳死判定を行うべしという主張を否定することは、困難であると言わざるを得ない。繰り返しになるが、著者の主張の大前提は、臓器移植の文脈において、生きている人を脳死者と診断するリスクを極小化することである。この前提に立つのであれば、脳死後に発現する自己融解に限りなく近付いている状態で脳死判定を行うことが要請される。なぜなら、生きている人の脳死判断リスクをゼロにするためには、より確実な方法を選ばざるを得ないからである。よって、著者の主張する脳血流の全面停止確認による脳死判定は、正当化されると考えられる。

そのため、著者の主張に正面から反論するためには、前提条件を否定するしかない。脳死者の生命を最優先しないという前提に立つのだ。つまり、脳死者、正確に言うと脳死が疑われる患者は、時間経過によって脳も心臓も死ぬ確率が限りなく高いので、その命よりも臓器提供を受けるレシピアントの命や治療を優先するという考え方である。早期の脳死判定によって助かる命がある、もしくは助かる確率が上がるということが、著者の主張に反論できる唯一の道筋になるのではないだろうか。なお、著者はこの考え方を本書の中で明確に否定している。序章の中で、脳死を死として認めることで心臓移植の道が開かれ、心臓病で苦しんでいる人が助かるという話は二の次であると述べているのだ。しかしながら、脳死が臓器移植の文脈によってのみ問題になるのであれば、間もなく完全死を迎えるドナーと回復の見込みがあるレシピアントの生命のどちらを優先するかという議論は、そこまで優先順位が低いとは思えない。

これは、所謂トロッコ問題である。トロッコ問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題である。功利主義とは、結果を重視する立場で、結果的に多くの命が助かることを正しいことだとする。一方義務論とは、結果とは関係なく、その行為それ自体が道徳的に正しいか否かを重視しようとする立場である。脳死判定において、功利主義的立場が正しいというコンセンサスを得られないのであれば、著者の主張が拠って立つ前提条件を崩すことは困難である。そして、いかなる理由があっても、殺人を法的に認めることは不可能であり、生きている人を誤って脳死判定するリスクを社会的に許容することは難しいことから、著者の主張を論理的に反論することは難しいと私は考えた。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 str 日時 
脳死 立花隆

脳死というものの定義や、心臓死との扱いの違いをどのようにすべきかを訴えている。脳死と植物状態を同じような状態のことを指すものだと思い込んでいた私にとっては、難解な一冊だった。

個人的にはやはり脳死に対する判定基準を明確に設け、基準を満たしていれば例外なく脳死判定とするべきだとは感じたが、本書にあるように医学的には“死”であると判定されながらも奇跡的に回復し、自らの救命措置を俯瞰的に観ており、その際の記憶すらも残っているような症例があったりもするので、まだまだ医学だけでは説明できない要素が多様に絡んでくるのだろう。

また、見た目的には眠っているようにしか見えないのであれば、家族や親しい人間の立場なら“脳死”という結果を受け入れがたいことも理解できる。

生存か死亡かの二択で判別することができないのが難しいところなのだろう。

脳が機能を失っても身体だけは生かし続けることができるのなら、逆にSFモノさながらに、培養液のようなものの中で脳だけ生かしておき、空いた身体があれば移し替えるなんてことが実現されるかもしれない。

必要としている人の為に臓器提供・移植を行うことには大いに賛成だが、機械のパーツのような扱いになる世の中になったら正直嫌である。

脳死として誤診されてしまったとしたら当人からすればたまったものじゃない。ただ、そう判断できるだけの条件が揃ってしまい、且つ生命維持装置なくしては心臓も停止してしまうところまできてしまったとしたら、それはもう天命として、心臓死だろうと脳死だろうと、“死”というものを受け入れるしかないのではと感じた。

奇跡的な蘇生など、稀有な例も取り上げて基準としていくには、人体には未知な部分が多すぎると思う。
投稿者 mkse22 日時 
脳死 (中公文庫)を読んで


ここ5年の間にテレビをみる習慣がなくなったため、現在はわからないのだが、以前は脳死に関する報道をたまに見かけた。それら報道の多くは、「本人やその親の了解が得られたため、脳死になった患者から臓器移植をする予定。これが国内で〇件目の事例だ」という感じだ。ポイントは、報道の内容が脳死だけではなく、脳死した患者からの臓器移植と組み合わせとなっている点にある。

その理由は本書に記載されているように、臓器移植を前提とした場合に、厚生省の脳死判定基準には問題があるからだ。具体的には、厚生省の脳死の判定基準は、脳死であるための必要条件であるため、脳死と判定してもその後生き返る可能性が残ってしまう。したがって、医師としては、脳死判定後に臓器移植をした場合でも、結果として、殺人を犯してしまう可能性があるわけだ。

なお、ここで同基準が問題視されているのは、臓器移植を前提とした場合のみであり、それ以外の場面で同基準を採用しても実際上の問題はない様子である。このことは、私にとっては意外なことで正直驚いた。

そこで、臓器移植を前提とした場合の脳死の判定基準については、社会的合意が必要であると本書には記載されていた。しかし、私はこの合意は現状では困難ではないかと考えている。なぜなら、日本にはゼロリスク思考が浸透しているように思えるからだ。ゼロリスク思考とはリスクをゼロにする、つまりリスクという好ましくないことが絶対に発生しない選択をする考え方だ。

このゼロリスク思考に従った行動例としては挙げられるのは、新型コロナのワクチン接種だ。2021年7月もあいかわらずコロナ禍ではあるが、コロナウイルス向けのワクチンがようやく完成し、ワクチンの接種も開始した。ところが、このワクチンの接種率があまり伸びていない様子だ。接種が2回必要だが、1回目ですら40パーセントを超えていない(2021年7月31日現在)。接種率が低い理由として、ワクチンの数が不足している可能性もあるが、やはりワクチンの安全性や副反応に関する懸念だろう。

ワクチンには急いで開発されたこともあり、ワクチンの安全性や副反応に関して懸念を示す人がいる。ここで、ゼロリスク思考に従うと、この懸念をゼロとするためにワクチン接種をしないと決断するわけだ。
このような決断をした人が相当数いるから、接種率がなかなか上がらないのではないかと思われる。

なお、副作用とは言わずに副反応といっている点も興味深い。副作用にはマイナスのイメージが浸透しているから、表現を変更したのだろうか。もし、そうだとしたら、ここにも国がワクチンに対するマイナスイメージを払しょくしようと苦心しているように見える。

話はもどるが、ゼロリスク思考のもとでは、脳死判定基準を作成するためには、生き返る可能性がゼロとなるような基準が必要となるが、これは本書にあるように現時点で作成するのが困難である。仮に作成できたとしても、条件が厳しくなることが予想されるため、その結果、臓器移植などできなくなる可能性があり、同基準を緩和したい(と思われる)移植医の思惑と正面からぶつかってしまう。そもそもだが、この話の前提となる脳死と死に関する定義についても専門家のなかでも合意が取れていないため、この観点を加えると、問題はさらに複雑化する。

脳死判定基準にしろワクチン接種にしろ、ゼロリスク思考に縛られている人がいる限り、議論は進展しないように思える。この思考に縛られているひとの背景には何があるのか。
おそらく、リスクとリターンにはトレードオフがあることに明確に気づいていないのだろう。トレードオフがあることに気づいてないから、リスクやメリットのみに注目してしまうわけだ。リスクにのみ注目するのが、ゼロリスク思考で、メリットにのみ注目するのが楽天家とでもいうべきか。

私の経験則だが、ひと昔前の終身雇用の年功序列型の企業で何十年も過ごした人の中に、こういった発想をする人が多いように感じる。あとは学生にも。毎日同じような生活や仕事を長年続けていると、リスクコントロールの経験を積めないため、こういう発想になってしまいがちなのだろうか。

ワクチン接種のトレードオフは、コロナ感染時の重症化回避と副反応といった感じでわかりやすいが、脳死判定基準の社会的合意のトレードオフを考えてみると、リターンは移植用臓器を提供可能になることや医師が合法的に臓器移植を実施可能となることだろうか。ただ、臓器提供者である脳死と判定された患者へのリターンが思い浮かばないため、この状況だと、患者が社会貢献といった崇高な精神の持ち主でない限り、メリットを感じないかもしれない。

圧倒的大多数である(潜在的な)臓器提供者のメリットがあまりなさそうなため、リスクとリターンにはトレードオフを意識したとしても脳死判定基準の社会的議論は進みにくいだろうなと思った。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 tarohei 日時 
 脳死問題が世間の脚光を浴びるようになって久しい。本書では、現在の脳死判定基準では不十分で、臓器移植のために脳死判定を行うのであれば判定基準を見直すべきだという。
 本書を読了して、脳死とはなにか、脳死判定はなんのために必要なのか、脳死判定にあたって自分自身はどういう行動を起こせばよいかを考えさせられた。

 まず、脳死について。脳死とはどういう状態であろうか。一言でいえば、脳は死んでいるが肉体だけが生きている状態である。通常はまず心臓が停止するか呼吸が停止するか内臓臓器などが機能しなくなり、脳へ血液が送られなくなってやがて脳が死に、人としての死を迎える。順序が逆になり、先に脳が死ぬことがある。これはどういうことかと言うと、例えば脳卒中とか脳疾患、事故による脳障害などであり、仮に脳が先に死んだとしても、やがて心臓や肺、臓器などが機能しなくなり、やがて肉体も死に至る。
 では、脳は死んで肉体だけが生きている状態とはどういう状態であろうか。おそらく自然の状態では脳だけ生きているというのはあり得ない(脳幹だけが生きている所謂植物人間状態でも自然の中ではやがては死に至る)。機械の力により人工的に肉体だけが生かされている状態のことである。
つまり脳死とは、見かけ上死んでいるように見えており、自律的には心臓や肺を活動させることができず、機械の力により心臓や肺を動かしている状態のことである。

 次に、なんのために脳死判定は必要なのであろうか。それは人工的にでも肉体だけが生きている状態で(つまり脳死状態で)、臓器移植したいからに他ならない。脳死とは上述したように機械の力を借りてかろうじて生きている状態で、自然の中では発生しない稀なケースである。近代医学の進歩により、脳死状態でも肉体は生命維持することができるようになり、それにより多くの臓器が移植可能になった。肉体が死んでからでは移植できる臓器に違いが出てくるためである。例えば、心肺停止後では腎臓・膵臓・眼球しか移植できないが、脳死後では心肺停止後の移植可能臓器に加え、更に心臓・肺・肝臓・小腸が移植可能臓器となる。
 つまり、脳死判定は臓器移植のためにあると言える。

 そうなると、脳死状態かどうかの判定が重要になる。ただ目を覚まさないだけで、機械の力を借りているとはいえ、息もしている、心臓も動いている、まだ生きているように見える人間から臓器を取り出そうというのである。間違いがあってはならない。本書で言うように厳密・厳格な脳死判断基準が必要である。
 本書ではその脳死判断基準は不十分であると言う。確かにそのように思う。本書でも述べられている臨死体験にもあるように、実際に意識はあるのに臓器を取られる事態は絶対に避けなければならないのである。
感情的な問題もある。まだ生きているように見える、もしかしたら意識を取り戻すかもしれない状況、残された家族の気持ちを考えると、やはり明確な判断基準が必要となる。

 上記を踏まえて、脳死による臓器移植を自分自身の立場に置きかえて考えてみた。自分は臓器提供には賛成だし、脳死による臓器提供をしてもいいと思っているが、果たして子供や家族に対してはどうであろうか。自分は子供たちの脳死判定を受け入れられるだろうか。
 脳死は人の死とは言うものの、心臓は動いている、体だって温かい、まだ若い、人生はこれからである、臨死体験のようにもしかしたら意識はあるのかもしれない、脳死判定基準は本当に妥当なものなのだろうか、そのような状況で脳死を受け入れられるだろうか、臓器移植に同意できるであろうか、臓器移植は本人の希望であるかもしれないが、自分は同意できるのであろうか。人の役に立つからと本人は言うが、臓器提供じゃなくても人の役に立つ事は他にあるよね、って言いたくなる。臓器移植によって誰かの命は助かる、頭ではわかっている、でもおそらく心がついてこれないだろう。
 立場を逆にして考えてみても同じである。子供から見れば親が脳死状態になったとする、まだ生きている、医者から小難しい説明を受ける、人助けになる、頭ではわかっている、でもやはり心はついてこれないだろう。

 だからこそ、本書で言うように明確な脳死判定基準が必要なのである。だれでも納得できる客観的な事実に基づいた判定基準が必要である。
 本人の意見を尊重するのも大事だが、残される家族の気持ちも考えなくてはならない。自分の命なのだから最後に判断するのは自分である。そこには家族の気持ちも考慮した上での判断になるべきだと思う。
 臓器提供した人もその家族も、そして臓器移植された人も皆が幸せになるためにも。。。

 そして、脳死判定による臓器提供について、上述したような脳死とはなにか、なんのための脳死判定かを踏まえて、家族全員で話し合った。すぐに結論は出なかった。何日もかかったが、最後には家族全員が納得できるものを得ることができた。更にこの話し合いを通して家族間の絆も深まったように思う。自分自身の覚悟もできた。

本書を読んで感じたこと、考えたこと、実践したことは以上である。
 
投稿者 tarohei 日時 
 脳死問題が世間の脚光を浴びるようになって久しい。本書では、現在の脳死判定基準では不十分で、臓器移植のために脳死判定を行うのであれば判定基準を見直すべきだという。
 本書を読了して、脳死とはなにか、脳死判定はなんのために必要なのか、脳死判定にあたって自分自身はどういう行動を起こせばよいかを考えさせられた。

 まず、脳死について。脳死とはどういう状態であろうか。一言でいえば、脳は死んでいるが肉体だけが生きている状態である。通常はまず心臓が停止するか呼吸が停止するか内臓臓器などが機能しなくなり、脳へ血液が送られなくなってやがて脳が死に、人としての死を迎える。順序が逆になり、先に脳が死ぬことがある。これはどういうことかと言うと、例えば脳卒中とか脳疾患、事故による脳障害などであり、仮に脳が先に死んだとしても、やがて心臓や肺、臓器などが機能しなくなり、やがて肉体も死に至る。
 では、脳は死んで肉体だけが生きている状態とはどういう状態であろうか。おそらく自然の状態では脳だけ生きているというのはあり得ない(脳幹だけが生きている所謂植物人間状態でも自然の中ではやがては死に至る)。機械の力により人工的に肉体だけが生かされている状態のことである。
つまり脳死とは、見かけ上死んでいるように見えており、自律的には心臓や肺を活動させることができず、機械の力により心臓や肺を動かしている状態のことである。

 次に、なんのために脳死判定は必要なのであろうか。それは人工的にでも肉体だけが生きている状態で(つまり脳死状態で)、臓器移植したいからに他ならない。脳死とは上述したように機械の力を借りてかろうじて生きている状態で、自然の中では発生しない稀なケースである。近代医学の進歩により、脳死状態でも肉体は生命維持することができるようになり、それにより多くの臓器が移植可能になった。肉体が死んでからでは移植できる臓器に違いが出てくるためである。例えば、心肺停止後では腎臓・膵臓・眼球しか移植できないが、脳死後では心肺停止後の移植可能臓器に加え、更に心臓・肺・肝臓・小腸が移植可能臓器となる。
 つまり、脳死判定は臓器移植のためにあると言える。

 そうなると、脳死状態かどうかの判定が重要になる。ただ目を覚まさないだけで、機械の力を借りているとはいえ、息もしている、心臓も動いている、まだ生きているように見える人間から臓器を取り出そうというのである。間違いがあってはならない。本書で言うように厳密・厳格な脳死判断基準が必要である。
 本書ではその脳死判断基準は不十分であると言う。確かにそのように思う。本書でも述べられている臨死体験にもあるように、実際に意識はあるのに臓器を取られる事態は絶対に避けなければならないのである。
感情的な問題もある。まだ生きているように見える、もしかしたら意識を取り戻すかもしれない状況、残された家族の気持ちを考えると、やはり明確な判断基準が必要となる。

 上記を踏まえて、脳死による臓器移植を自分自身の立場に置きかえて考えてみた。自分は臓器提供には賛成だし、脳死による臓器提供をしてもいいと思っているが、果たして子供や家族に対してはどうであろうか。自分は子供たちの脳死判定を受け入れられるだろうか。
 脳死は人の死とは言うものの、心臓は動いている、体だって温かい、まだ若い、人生はこれからである、臨死体験のようにもしかしたら意識はあるのかもしれない、脳死判定基準は本当に妥当なものなのだろうか、そのような状況で脳死を受け入れられるだろうか、臓器移植に同意できるであろうか、臓器移植は本人の希望であるかもしれないが、自分は同意できるのであろうか。人の役に立つからと本人は言うが、臓器提供じゃなくても人の役に立つ事は他にあるよね、って言いたくなる。臓器移植によって誰かの命は助かる、頭ではわかっている、でもおそらく心がついてこれないだろう。
 立場を逆にして考えてみても同じである。子供から見れば親が脳死状態になったとする、まだ生きている、医者から小難しい説明を受ける、人助けになる、頭ではわかっている、でもやはり心はついてこれないだろう。

 だからこそ、本書で言うように明確な脳死判定基準が必要なのである。だれでも納得できる客観的な事実に基づいた判定基準が必要である。
 本人の意見を尊重するのも大事だが、残される家族の気持ちも考えなくてはならない。自分の命なのだから最後に判断するのは自分である。そこには家族の気持ちも考慮した上での判断になるべきだと思う。
 臓器提供した人もその家族も、そして臓器移植された人も皆が幸せになるためにも。。。

 そして、脳死判定による臓器提供について、上述したような脳死とはなにか、なんのための脳死判定かを踏まえて、家族全員で話し合った。すぐに結論は出なかった。何日もかかったが、最後には家族全員が納得できるものを得ることができた。更にこの話し合いを通して家族間の絆も深まったように思う。自分自身の覚悟もできた。

本書を読んで感じたこと、考えたこと、実践したことは以上である。
 
投稿者 M.takahashi 日時 
「脳死」を読んで考えたこと

本書では、厚労省の定めた死の定義や竹内基準への論理的で説得力のある批判がなされている。そして、発行から30年余り経た現在でも立花氏の批判に対する論理的な回答はなされていない。それどころか、脳死判定後の視床下部からのホルモン分泌、20年以上の長期脳死症例、脳死者による出産など、脳死の定義および竹内基準の不完全性や矛盾を示すデータは増え続けている。しかし、国の方針は臓器移植の促進ありきで、判定基準は見直されることなく、逆に脳死臓器移植の規制は段階的に緩和されてきた。1997年には臓器移植法により臓器移植をする場合のみ脳死を人の死とすることが定められ、本人による提供の意思表示を条件に脳死者からの臓器移植が合法化された。さらに2010年の改正では家族の承諾があれば本人の意思表示は不要とされ、これを契機に脳死臓器移植の件数は大幅に増加してきた。

しかし、脳死臓器移植が増加する一方、国民の理解や関心は依然不十分だ。あるアンケートでは脳死の簡潔な説明の前後で、脳死臓器提供を肯定する者の割合は60.3%から39.7%へと大幅に低下した。また、意思表示をしている者でさえ、その大半が脳死と植物状態の区別がついていないという結果もある。さらに、健康保険証などによる意思表示をしている者はわずか1割程度とされる。このような状況下では、本人の事前意思や家族の決断が十分な理解に基づいているとは考え難い。臓器移植法を「死の自己決定権」「死生観の尊重」などと評価する向きもあるが、脳死に対する理解なくしては有名無実であろう。私自身、本書を読むまで脳死と植物状態の違いも説明できず、脳死状態でも内意識が残っている可能性があるなど想像すらしていなかった。それにもかかわらず、健康保険証の意思表示欄に、漠然としたイメージに基づいて気軽に回答を記入していたのだ。当然、その回答が自分の死生観に沿っていると言えるわけもない。このような重大な問題は本来、様々な情報をインプットした後に、熟慮の上で決めるべきである。

ここで注意を要するのは、脳死に関する考えは識者間でも意見が分かれているため、幅広い情報源に触れるのが重要となることだ。もし白紙の状態で偏った情報のみを入れてしまえば、簡単に染まってしまい、その真偽を疑うことすらしない危険があるためだ。例えば、本書を読んでも明らかなように、厚労省の脳死判定基準は不完全であり、脳死の定義とも矛盾しているが、厚労省側の意見だけしか聞かなければ、「脳死というのは脳が完全に機能喪失している状態」という誤った理解を基に「そんな状態なら臓器提供で誰かの役に立ちたい」という結論に至る可能性がある。
このような事態は家族に決断が委ねられた場合において特に憂慮される。家族に対応するコーディネーターは、日本のすべての臓器移植を斡旋している日本臓器移植ネットワークから派遣されるが、そのホームページには「脳死とは、脳の全ての働きがなくなった状態です」「法に定められた厳格な脳死判定を行い、脳死であることを確実に判定します」などの厚労省と同調した記載が見られる。当然、派遣されるコーディネーターの説明はこのような記述に沿ったものとなり、批判的な立場からの意見に積極的に言及するような公正性は期待できないであろう。さらに、脳死は一般的には偶発的な事故などが原因となり、転機も急であるため、家族は精神的動揺を抱えながらも性急な決断が求められるという厳しい状況に置かれるためことが多い。このような状況では、正確な理解に基づいての判断というのは難しいだろう。

しかし、臓器提供の選択権があるというのは裏を返せば自己責任であり、誰も教えてくれなかったなどというのはなんの言い訳にもならない。脳死に関する公的な情報は、移植臓器の供給源確保というプラクティカルな目的から、理論的な矛盾、科学的に測定不可能な内意識などの問題は無視される傾向が見られる。国やテレビの言うことが正しいという思い込みを捨て、自ら情報を渉猟し、常に異なる立場の意見と天秤にかけて自分で考えることが重要なのだ。このような行動をできる者のみが死生観に基づいた意思決定をすることが可能で、「死の自己決定権」を享受できると言える。当然、現在の脳死判定基準の矛盾などを知ってもなお、臓器提供を望む人々はいるだろうし、そのような人々から臓器を摘出することに反対する気は全くない。

現代は何事においても情報リテラシーが物を言う時代であり、脳死臓器移植もその一つに過ぎない。与えられた情報を鵜呑みにする者は多くの場面で不利益を被ることになる。今回のコロナ禍を例に取っても、多くの人が憶測やデマに踊らされているが、彼らは自分で情報の信憑性が判断できない情報弱者なのかもしれない。また、税金であれ補助金であれ、制度などを知らずに損をしていても、誰も親切に教えてはくれない。この変化の早い時代においては、自分で情報を集め、処理し、考える能力がより不可欠となるのだ。もちろん情報リテラシーは一朝一夕で磨くことのできるものではない。普段から情報にアンテナを立てて、自分の頭で考えることで徐々に身につくのだ。その意味からも、日常的に多読をすることで知識の蓄積・アップデートをし続けることは非常に重要となるであろう。本書は私にその気づきをもたらすきっかけとなった。
 
投稿者 Terucchi 日時 
この本は、著者である立花隆氏が厚生省の決めた「脳死」の判定基準に対して異議を唱えて、自分の考えを書いた本である。著者としては、脳死をもって死と判断することは問題なく同意としているが、脳機能が停止している理由で脳死と判断することは間違いだと述べている(p528)。それに対して、著者の案として、脳機能の停止では脳が死んでいることにはならず、脳循環の停止の確認すべきだということを提案した(p538)本である。

今回、私がこの本読んで学んだことは著者の論の進め方である。著者は不明なところや疑問に思うところを、どんどん深堀りして、医学的なものにも拘らず、一般の読者でもわかるように書いている。そして、それを書きながら、どこに問題があるのかを明確にしている。なぜ、このような進め方ができるのかを考えたときに、私が著者の考えを集約していると思うのが、p354の『わからないものをわからないものとして扱うことこそ科学的であると先に述べた。それはこの場合、どうすることを意味するのか。人の命にかかわることで、どちらにすべきかよくわからない事態に出会ったら、人の命を確保できるほうを選ぶべきである。これは医学に限らず、あらゆる場合に通ずる大原則である。』としている点である。そして、これより私自身が学んだこととして、次の2点取り上げたい。もし何かの考えを深める上では、①わからないことをわからないとして扱うことが科学的である。②大原則は何かを考える、という2点である。以下に、それらについて、私の思ったことを述べる。
まず、①わからないことをわからないとして扱うことが科学的である、ということについて書きたい。著者が本を書くために調べるに当たって、医学的なことは膨大であり、最初からわかっていたわけではないと私は想像するが、それを膨大なデータから一つ一つ明確にしていっている。この地道な作業を行っていく際に、もし私であれば、ある程度までは分かったとしても、どこかでわからない点やそれに対する不安が出てくるのではないか、と想像する。私は、そのような時に著者がどのように思っているのかと思っていたが、著者は『わからないものをわからないものとして扱うことこそ科学的である』ということとしている。私はこの言葉に対して、なるほどと思わされた。なぜなら、膨大なデータからわかるものとわからないものを整理していくに当たって、わからないところが出てくるのは当然だと思うからだ。確かに、当たり前の言葉かも知れないが、それをさらりと言い切っている。世に出そうとなると、適当なことを言えないため、余程詳しく調べた結果であると想像できる。そして、本を出版するに当たっては、医学のわかる人にその論を確認している。そのような中で、著者としては、わかった点とわからない点を整理して、わからないものがダメではなく、わからないものをわからないものとして扱うことが科学的だとしている。私の場合であれば、適当に自分の解釈で判断してしまうであろう。このわからない点をわからないこととすることが科学的だという点を私も見習っていきたい。

次に、②大原則は何かを考える点について書きたい。なぜ、著者がここまで厚生省の考えに反論してまで、本を出したのかを考えた際、私はこの『人の命にかかわることで、どちらにすべきかよくわからない事態に出会ったら、人の命を確保できるほうを選ぶべきである。これは医学に限らず、あらゆる場合に通ずる大原則である。』ということなのだと感じた。なぜなら、確かに脳が死んでいないことは生きている可能性があるのも関わらず、脳死として判断しているのはこの大原則に反していることだからだ。そして、もし脳死として判断され、臓器移植された場合は、人を殺していることと同じことを意味することを指している。著者は一貫して、このわからなければ人の命を確保するという大原則に沿って論を立てている。著者はこの大原則が間違っていたからこそ、本として世に出すことを考えたのではないかと考える。ところで、このことから学ぶに当たって、私の場合は、今回の例のように人命確保がどうかというのことはなかなかあることはないと考えるが、何が大原則なのかを考えることは大切であり、参考になると感じた。何を大原則として、考えるのか。確かに、この本は「脳死」かどうかのことを書いている本ではあるが、大原則に沿って考えている。これがブレていないから、最後まで論を通すことができているのではないかと私は考える。なぜなら、この大原則がなければ、そもそも脳が死んでいるのかどうか関係なくなってしまい、なぜ問題となるのかの論が立たないと考えるからだ。

以上から、今回、この本から学んだこととして、私はわからない点はわからないことして明確にしながら、自分なりの大原則が何かを考えて、それを基にして、論を立てていく書き方を参考にして行きたいと考える。

最後に、著者が当初は医学的には素人だったにも関わらず、ここまで調べ挙げて、更に本として世に出し、国としての基準を出している厚生省に異論を唱えたことに感服する。
投稿者 ynui190 日時 
「脳死」は、どんな状態の時に人は死んでいるのか、または生きているということはどういうことかを考察したノンフィクションである。

初版が1988年の為、特に医療に関する内容が古いのではないかと危惧しながら読み始めたが、それは全くの杞憂に終わる。
そもそも普段私達が認識している死は”心臓死”と呼ばれる死であり、改めて脳死とは?と問われるとその定義すらまともに言えないことに気づくのではないだろうか。
本書では、主に医学的見地からどういった状態を死と定義づけるのかを一つ一つ丁寧に説明していくのだが、読み進めるうちに”脳死”の定義がいかに難しいか、また遠いようでいて身近にある”死”という概念がずいぶん偏っていることにも気づくことになる。

本書を読んで改めて感じることは、”死”というものが非常に個人的な問題であること。
人間の数だけ、”死”の概念があると思っても良いのではないだろうかとさえ思える。

本書を読むまでは脳死判定が難しいのは、死を受け入れるための精神的な面が大きいのかと思っていたが、医療の面からも判定基準には大きな問題が残る。
脳は、身体の中で唯一他に替えが利かない臓器であり、他の臓器や筋肉とも関連しているがゆえに、その判定が難しい。
例えば、心臓死であれば、心臓の機能は血液を身体全体に送るポンプの役目を果たしている心臓の鼓動が止まれば、己の目で死を確認できる。
だが、脳は違う。脳波計と呼ばれる機械で確認することはでき、脳波が動きを止めたとしても、そこから生還した人の話は世界に多くある為、どうしても本当に死んでいるのか疑問が残ってしまう。

では、なぜそんなに判定の難しい脳死を個体別の死と受け入れなければならないのか。
一点目は医療が発展した現代では、仮に脳死となっても機械の力を借り、心臓や肺その他の臓器を動かし生命活動が維持できる。そのため、人とは何のために生きているのか問うこととなり、それに伴う事件なども多く引き起こされることが予想される。
二点目はこれまた医療が発達した為、脳以外の臓器を臓器を必要とする他人に移植し、寿命を延ばすことが出来るということだ。
大きくこの二点ではないかと思う。

人類の寿命を延ばす為、医療は大きく発展してきたが、その為に死を改めて問うことになるとはなんと皮肉なことだろう。
医療が発展するまでは、病気やケガによりなす術なく死を待つだけだった人類が、現代ではどのように死を向き合い受け入れるか、より自分らしく死を迎える為にはどうしたら良いのか考えるようになっている。
その中の一つに脳死があるのではないかと考える。
もちろん、脳死状態になる多くの人は、そのようなことは予想しておらず、突然迎えることになる。

だが、今現在、ほとんどの人が携帯している健康保険カードまたは運転免許証の裏面に、臓器提供に関する意思表明を出来るようになっている。
文章を少し引用してみよう。

”1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。
 2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植のために臓器を提供します”

全部で3つの選択肢があるが、この2つについては解釈を間違えないよう死の条件について下線がついている。
これを読む限り、脳死判定は医療機関で定めてはあるが、一部個人に委ね本人の意向が尊重される形となっているように感じる。
脳死とは個体死の定義でありながら、それを考えることにより、死の迎え方それ以上に自身の生き方を再考するチャンスではないだろうか。
 
投稿者 daniel3 日時 
 本書の読むまで、脳死という言葉くらいは学校、ニュースなどで聞いたことがあるものの、植物状態との違いやその判定基準などはとても説明できないくらいの知識レベルでした。おそらく多くの一般読者にとっても、脳死は日常生活には縁がない単語であり、正しい知識を持ち合わせていなくても生きていくことに不自由はないでしょう。そんな脳死がどんな状態であるかさえわかっていない状況で、P.63のようにメディアが世論調査を行っても、なんとなく良い・悪い以上の答えは出てきそうにありません。正しい前提にたった判断でなければ、脳死者を延命するか、移植者を生かすかというトロッコ問題を論じることはできないでしょう。本書を読むことで立花氏の徹底的な調査から、脳死とは何か、日本脳波学会の脳死判定基準のどこに問題があるのかまで一通りのことを理解することができました。しかし日本人の平均読書量程度であった数年前の自分であれば、本書の情報量に圧倒され最初の数十ページで脱落していた可能性があります。そう考えると継続的な読書習慣は、新しい問題について議論、判断するための入場券のようなものかもしれません。

 そもそも脳死とは、人工呼吸器という文明の利器が生み出した比較的新しい状況であり、脳が機能停止した状態でも、心臓など各種臓器をしばらくの間生存させられるようになりました。これは心臓死を前提としていた死の定義からはみ出したものであり、新しい死の基準を決めるには広く情報を集めた上で判定方法を設定すべきです。しかし、脳死自体は1万人に1人の確率でしか起こりえないため、十分な症例を集めるのが難しい状況にありました。そうした中で集めた症例の中には、とても深昏睡状態ではなく、脳死としての十分条件を満たしていない症例も含まれていたといいます。その上、人の脳は未だ解明されていないことが多い器官です。生命の全てを解明できていない以上、それを探求する医学は帰納的なアプローチを取らざるを得ないですが、最も謎に包まれた脳という器官について、現在の機器で測定できる範囲で脳の機能が停止した状態であっても、それが一時的なものなのか、不可逆的なものなのかは医師でも判断がつかない場合もあると言います。ただ、脳死判定基準を満たしたものは、概ね近いうちに心臓死に至る傾向があるということですが、傾向があるというだけでその時点で人の死として決めてしまってよいかは別の問題と言えます。こうした早すぎる死の判定は、臓器移植が関係しているからこそ起こりえることです。 高額かつ機器数の少ないSPECT検査を行えば、脳死判定において重要な判断指標となる脳血流を確認することができるとのことです。しかし優秀な医者でも十数%の誤診が起こりえる状況において、コンマ数%以下の誤診率を下げるために(数年に日本全体で数名)、移植臓器の鮮度を下げることを避けたい移植医師の立場も理解できます。臓器移植を推進したい立場の医師が、ほぼ確実に死にゆく患者のコンマ数%以下の誤診精度を下げることを追求していくことは、立場上難しいと言えます。こうした事情を踏まえてみれば、医師という権威者が決めたからという理由で、盲目的に従うのは危険である言えます。新しい基準を決めた背景には、基準を決めた者の意図が関係しています。その基準を設定した人は何を意図しているのかをいうことに考えを巡らせる必要があるでしょう。

 脳死のような、今までの前提が変わる新しい事例について、つきつめて考えて答えを出していく立花氏の姿勢は、まさに変化の激しい現代の私たちに求められるものだと思います。立花隆という「知の巨人」を失ったことは日本にとって大きな損失ですが、氏の著作から得られるものは個々の分野の知識はもちろん、新しい問題への普遍的な向き合い方が含まれていると思いました。これからも起こり続けるであろう新しい問題に関わる入場券を獲得していくためにも、読書を続けていこうと改めて思いました。
 
投稿者 mahoro 日時 
立花隆『脳死』を読んで

もし仮に、この本が刊行されていなければ、1980年代以降の日本において、脳死と臓器移植手術をめぐる問題が大きな国民的な議論を巻き起こすことはなかったかもしれない。それが、この本を読み終わった直後に抱いた感想である。

この本が刊行された当時、臓器移植手術をめぐって世界中で活発な議論が繰り広げられていた。

とりわけ、臓器移植の積極的な推進したいを目論む側から、その倫理面での問題を解消する目的で、「脳死を人の死と認めるべきだ」という主張が強く展開されていた。

この趨勢のもとで、日本でも1985年に、当時の厚生省によって脳死の判定基準が制定された。責任者の名前をとって「竹内基準」と通称されているこの診断基準は、1968年以来途絶えていた日本国内での臓器移植手術の再開に道筋をつける役割を、実質的には担っていた。

著者の立花隆氏は、その竹内基準の内容と、その基準が依拠している「脳幹死説」という考え方に疑義を呈して、この著作を通じて敢然と批判を挑んでいる。

医学については全くの門外漢であったはずの立花氏が、ジャーナリストとして培った鋭い問題意識と高い調査能力に裏打ちされた綿密な取材にもとづいて展開する骨太のノンフィクションは、いま読んでも刺激的で、当時の社会に強い影響を与えたのもむべなるかな、と思えた。

1997年に制定された臓器移植法が、脳死の判定や臓器移植に概ね慎重な態度をとる内容となったのは、この本の影響が大きかったのだろう。竹内基準が一般に知られないまま臓器移植法が制定されていたら、もっと移植推進派にとって都合の良い内容になっていたはずだ。

もっとも、国の定めた診断基準を批判しているとはいえ、立花氏とて臓器移植手術そのものを否定しているわけではないし、脳死を一元的に人の死と認めることに反対してもいない。脳死判定の誤りは、殺人を容認することになるという倫理的な見地から、判定基準の問題点を具体的に指摘しつつ批判しているにすぎない。

しかし、この著作が刊行されてから30年以上が経過した現在、臓器移植の実施について日本以上に積極的な態度を示していた国においても、臓器移植そのものを懐疑的にとらえなおそうとする動きが出始めているらしい。

脳死状態にあるはずのドナーが、どう考えても生きているとしか思えない反応を示したり(ドナーが出産した事例さえある!)、臓器の移植を受けたレシピエントが、手術が成功したのにもかかわらず手術後ほどなくして死亡してしまったり、免疫抑制剤の副作用が、レシピエントの術後の健康を過剰に侵害するといった事例が、数多く報告されているというのだ(本稿末尾の「参考文献」による)。

さらには、iPS細胞を活用した再生医療が実現した暁には、臓器移植手術そのものが過去の遺物になってしまう可能性も高い。

精神医療の世界で、20世紀の中頃まで行われていたロボトミーと呼ばれる脳の一部を切除する手術は、現代の医学からは非人道的で誤った治療法だったと認識されている。もしかしたら、未来の医学からは、現代の臓器移植手術も、このロボトミーと同じように、ドナーの尊厳を無視した残酷で野蛮な過去の治療法として扱われることになるのかもしれない。

それにしても、この本を通読するのは簡単なことではなかった。

それは決して内容や文体のせいではない。内容は一貫して刺激的だったし、医学の専門用語が頻発する反面、この本は文体については一貫して平明であり、専門的な記述についても、素人でも理解できるように配慮されている。

原因は、本の読み手としての自分の能力の「退化」にある。この本の本文には、見出しがほとんどないので、どのページにも活字がびっしりと並んでいるし、図版があっても専門書に掲載されていたものがそのまま転載されているだけなので、図の内容が一般の読者向けにわかりやすくアレンジされているわけではない。そうなると、途端に読みにくく感じて拒絶反応を起こしてしまうのだ。

だが、現代のようにコンピューター上で製版や作図などのデザインが行われるようになる前の時代には、これが当たり前だったはずだ。旧字や旧仮名づかいで書かれている本ならまだしも、昭和の末期に出版された本を、そのレイアウトやデザインに違和感を感じて読みづらいと感じるようでは情けないと自嘲せざるを得なかった。

ちなみにこの本の初出は、月刊誌の『中央公論』に、1985年から1986年にかけて連載された記事だ。その『中央公論』の発行部数も、当時は18万部くらいあったのが、昨今では2万5千部程度になっているというから、およそ7分の1に減ったことになる。この本のようなノンフィクションジャーナリズムが成り立っていたのは、当時の出版業界の隆盛に負うところも大きかったのだろう。

情報通信技術の発達と普及で、「知」のありようは今後も大きく様変わりしてゆくと予想される。そのなかで過去の出版文化が生み出した成果への敬意も忘れないように心がけつつ、せめてこの程度の本を「読みにくい」などと思わないように精進してゆきたいと思った。 

[参考文献]
書誌
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I023587297-00
本文へのリンク
https://core.ac.uk/download/pdf/236176314.pdf
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“分からないことに対して謙虚になる”

本書の中で、「知の巨人」と謳われる著者・立花隆は論理的、倫理的、そしてセンチメンタリズムを一切排除した論法で、当時社会的議論となった脳死問題についての主張を展開する。その主張の内容は、これでもかと言うほどに、広遠、深々に展開されるため難解だ。例えば、「脳死者をならべて血液製造工場」(P.497)という未来予測の話の中で「そうして生かしておいた身体を血液を採取する資源として使ってはどうか」(P.502)という場面を読んだ時は、脳死に紐づく問題の奥深さに言葉を失った。しかし、そもそも脳死と心臓死の関係も分からず、脳死と植物状態の違いも分からなかった私にとって、本書は脳や脳死についての知識を得るという面において大いに意味があった。さらには、私が普段考えることもなかった死の概念という重大なイシューを明示してくれた。誰にも訪れる死、その死と生の境界線はどこにあるのか、人はどのような状態をもって死と判定されるべきなのか。また、印象的だったのは本書で展開される著者の主張の背景にある、分からないということに対する謙虚な姿勢や科学のあるべき姿に対する信念である。

著者の脳死に対する立ち位置は、脳死は死と認めるが、臓器移植が行われる場合では脳死判定の基準はもっと厳しくすべきだというものだ。なぜならば、もしも誤診で生きている人の臓器を切り出してしまうような事態が起きれば、それは殺人となるからである。しかし、当時はどのような状態をもって人は死と判定されるのかという、人の最も重要で基本となる生物学的側面において、そもそも医者の意見が一致していない状況であったという。そして、脳死者からの臓器移植によって助かる人がいる、幸せになる人がいるという実利性に主眼をおいて考えるべきではないとも著者は主張する。ここで私が驚いたのは、脳死の定義や脳死の判定基準に対する意見、判定方法が医師によって違うということである。脳死の定義においては全脳死説と脳幹死説に分かれ、脳死の判定基準においては臨床医学の立場はよりプラクティカル、理論医学の立場はよりエッセンシャルであるという具合に分かれ、さらに判定方法は医療機関によってまちまちなのである。このような状況を知り、私は困惑した。なぜならば、脳死となる兆候のある患者は診療にあたる医師の立場によって違った定義や基準で、生と死の状況を判断されてしまう可能性があるからだ。特に、私がゾッとしたのは本書で紹介される心肺の機能が一旦止まった患者が蘇生したという話を読んだ時である。

本書の中では幾つかの臨死体験が紹介される。例えば、舌の痺れによって言葉がもつれ、半身が動かなくなった患者の容態が急変し、完全に死んだような状態になった時に「私にはちゃんと意識があった」(P.35)という話や、膠原病になり病状が悪化して意識不明の重体に陥った時に「病気の自分がベッドに寝ている姿を、もう一人の元気な自分が見ている」(P.163)という話である。これらは共に、外的意識は確認されていないが、内的意識はあるという状況である。外的意識とは覚醒状態を通して外部に発現される意識で、内的意識とは夢をも含む純粋の意識のことである。そして、私がゾッとしたのは臨床医学では、外的意識の有無を持ってのみ、生と死の判定をするという事実だ。つまり、上述した2つの例で脳死判定がされれば心肺停止や瞳孔の拡大などが確認された脳幹機能の停止状態であり、脳波の残存以外は脳死の判定基準を全て満たされている状況なのである。つまり、もしも臨床現場で、脳波検査がおこなわれていない(実際に少なからず起きている)状況で脳死判定が下されて臓器移植が行われた場合、上記の蘇生体験者たちのように内的意識がある状態で自らの臓器が取り出されるという事態が起こり得るのだ。もしも、自身がそのような状況になったと想像した時に、ゾッとしない人はいるのだろうか。そして、著者はそのような状況が生まれる可能性が「厚生省判定基準」にはあるのだと主張する。

本書が出版されたのは1986年のことであり、その後の脳死問題はどうなっているのか。実は1997年に『臓器移植法』が施行されたことにより、脳死後の臓器提供が可能になっているのである。そして、脳死判定基準とその測定方法は上述した「厚生省判定基準」が殆ど変更されずに適用されているのだ。私は、この事実に少なからず驚いた。なぜならば、本書の中で展開される「厚生省判定基準」への疑義は至極正論だと考えていたからだ。ただ、それは私のような脳死に関して無学の者の単なる意見とも言える。そこで、私は本書に対する医学者からの反論をネットで探してみた。が、そのような論文や記事は見つからなかったのである。この事実を見ると、脳死問題に関する著者の主張は無視されて、当時の「厚生省が積極的に音頭を取って、脳死をもって人間の個体死と認める方向に社会の合意を取りつける」(P.50)という目論見が達成されたように受け取れる。なぜか?もしかすると、本書の一部、つまり上述した臨死体験の例を持ってして展開した論述が神秘主義的、非科学的であるという建前で、科学原理主義者かつ臓器移植の実利に主眼を置いた政策者達によって却下されたのかもしれない。現に、脳幹死論者の大権威であるクリストファー・パリスは、脳波有意味論を神秘主義だと批判している。が、私は著者の「神秘を神秘のままに、本質的に検証し得ないものはわからないものとして扱うことこそ、むしろ科学的なのである。有意味か無意味かわからぬものを、無意味であると断じてしまうほうが非科学的なのである」(P.353)という謙虚な姿勢と科学のあるべき姿に対する信念に賛同する。なぜならば、分からないということに対して謙虚になる姿勢こそが、「知の巨人」と呼ばれるまでに著者を成らしめた原動力である、尽き果てぬ知的好奇心の源泉だと考えるからである。

~終わり~
 
投稿者 vastos2000 日時 
死生観が問われる一冊だった。
「自分が脳死状態となったら」、「身内が脳死状態となったら」、などと考えずにいられない。
脳が機能しなくなっているので、思考することも意思表示をすることもできない状態で、ただ肉体が生命活動を維持させられている状態を耐えられるのか?(自分の身に起きれば「耐える」という認識もできなくなるが)

私は幸いなことに、現時点では健康上の問題が無い。その状態だからそう考えるのかもしれないが、認知症や植物状態になって、知的活動が行えなくなったり、意思表示ができなくなってしまって生きている意味があるのだろうかと思っている。わがままを言えば、認知症になる前に脳溢血などで、ある朝冷たくなっていたというのが(周囲の人は困るだろうが)自分的には望ましい。
だから、脳死状態となったら延命措置はしてほしくないし、臓器提供もそれで助かる人がいるのならば心臓から腎臓まで提供してもよいと思っている。


脳死という状況は医療技術の発達によって生じた現象であろう。臓器移植もまた、医療技術の発達によって可能になった治療方法だろう。
以前であれば、脳が機能しなくなれば心臓や呼吸が止まり、肉体的にも死を迎えるのも時間の問題であったが、現代では人工心肺や人工呼吸器と言った医療機器のおかげで、その肉体を生かした状態で維持することができるようになった。

私の身の回りの起きた例では、つい最近、付き合いのある人が脳梗塞で倒れた。幸い、発見と処置が早かったため、大事に至らずに済んだ。これも医療制度や医療技術の発達によって助かったもので、以前だったら命を落としていた疾病も、運がよければ救うことができるようになった。

だがその反面、医療の発達がかえって人の死(脳死)をあいまいにしている面もあるだろう。
何しろ脳死状態にある人は、外から見ることができない脳は死んでいても、外から見ることができる肌ツヤや、呼吸は生きている状態のものなのだから。
例えば自分の家族が脳死状態となって、その家族の死を受け入れることができるだろうか?


私の希望的観測込みだが、脳外科医も心臓外科医もそれぞれの立場で患者のことを思って行動している人がほとんどだろうと思う。自分の出世のために難手術を成功させたくて臓器移植をしようとする医者はほんの一部であると思っている。
職業なので割り切っている部分もあるだろうが、苦しんでいる人を見続けていれば、自分の患者を助けられる方法があるのなら、実行したいと思うのは自然なことではないか。
ただそれが部分最適(自分の患者には良いこと)となっていて、全体最適とはなっていないのではないだろうか。
具体的には、臓器移植をしたいので、脳死判定の基準を米国などと比べると緩いものにしているのではないかと考えてしまう。
おそらく著者もそのように感じ、当時の厚生省に対して批判的な書き方になっていると感じた。

当然ながら、回復する可能性がある患者から心臓を取り出すようなことがあってはならない。和田移植事件ではこの点も疑義が残っているようだが、移植を受ける患者にとってよかろうと考えて行った行為が結果的に訴えられるようなことにならぬよう、この基準は世間が納得するものでなければならない。
本書は1985年から1986年に連載されていたものに加筆した一冊だが、刊行後、1999年から臓器移植が再開され、700以上の移植例があるようだ。今回の課題図書のように敢えてドナー側のことを考える機会がなければ、移植を受けたことにより命が繋がった側に注意が向けられるだろう。

以前目にしたテレビのスーパードクターと呼ばれる超絶技術を持った医師達を取り上げた番組で登場した心臓外科医は、太さの異なる血管(しかも子どもの小さい血管)を上手くつないで心臓移植を成功させていた。
他にも脳内の血栓を信じられないような器用さで除去した医師などが取り上げられ、いずれも助けられた患者にフォーカスされていた。
そのような番組で、脳死判定をくだす医師に注目が集まることはないだろう。
本書の著者が脳死について調べるきっかけにもなった番組はNHKだったように、このような重いテーマを取り扱う番組を民放が制作するとは思えない。
命が助かることは、無関係のわれわれ視聴者も「よかったね」とプラスの感情を持つことができる。民放の番組はそれで良いだろう。
しかし、それだけでなく、どちらかと言えば民放ではスポットを当てない暗い問題、例えばドナーとなった側や助からなかった人達に、いつ自分や家族がその当事者になるかわからない。
身内の大病や事故、あるいは今回の課題図書のようなものを読むといったことがなければ考えることもない生死の問題。本書を読んだ今、あらためて考えることができた。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
情報不足を補完する論拠の重要性

本書によれば、普通の死は99%までは心臓が止まり、そのあとで数秒から数分のあいだに脳に血流がなくなるために機能停止し脳死になる。ところが残り1%の場合、まず脳死が先に起こり、心臓死があとからやってくることがある。この場合、脳死が起こってから心臓が停止するまでの期間、脳は死んでいるが心臓は止まっていない状態が続き、これを脳死であるという。

脳死を人の死であると認めるかどうか、また、脳死を人の死であると認めた場合、それをどのように判定すべきかについての立花氏個人の見解は「脳死を人の死と認めてよい。ただし脳死の正確な判定は極めて困難で、究極的には不可能でもあるので、その判定基準は慎重の上にも慎重を重ね厳密なものとするべきだ」というものである。だが本書によれば、執筆当時の脳死の判定基準では、かなりの数の症例で、脳死以外の原因によって誤った脳死判定が行われている可能性があったという。立花はこれを殺人に等しいと批判し、当時の脳死の判定方法が恣意的で杜撰なものであることに疑問を呈し、早急な判定基準の作り直しを主張している。

私が本書を読んで圧倒されたのは、立花氏の緻密な取材による膨大なデータ量と、その知識にもとづいた論拠の立て方である。脳の複雑な機能や内容については、いまだに全貌が解明されているわけではない。しかし立花氏は、全てが明らかになっていない状況下でも、様々な専門家達への丁寧な取材を行うことで、自身の考えを読み手に理解させ、納得させるためのデータをコツコツと積み上げてゆく。人に理解される丁寧な論の立て方について、立花氏の姿勢に見習うべきことが多かった。私は本論において、限られた情報を有効活用して物事を考える際の、論拠の重要性について考えていきたい。

そもそも、心肺停止を死亡の判断基準としてきた過去に対して、なぜ脳死を死亡の判断基準へと変更すべきなのかを考えると、そこには二つの利害関係が浮かび上がってくる。一つ目は、臓器移植で助かるかもしれない患者による要望である。医師より、「もう医療では手の施しようがなくなってしまった家族の、唯一命を永らえることができるかもしれない最終手段が臓器移植である」と告げられたら、何としても移植を願うのが人情である。臓器移植については、命が助かった人の感動の物語として語られるケースも多い。しかしこれには逆の立場もあり得ることを忘れてはならない。もし自分の愛する家族が脳死判定された場合、限られた時間内に悔いなき判断をしなければならないのである。そのためには、その場の雰囲気に流されず、その時に得られるデータを元に自身で論拠を立てて結論を出すべきであると考える。

二つ目は、医療関係側からの要望である。公益社団法人日本臓器移植ネットワークの記事によれば、日本は臓器提供の割合が西洋先進国と比較して著しく低くなっている。人口100万人あたりのドナー(臓器提供者)数は、アメリカが33,32人であるのに対して日本は0,77人であり、これはアメリカやヨーロッパの諸外国と比較しても格段に少ない数字であるという。本書が発行されてから30年以上経つが、脳死について社会全体の理解が深まったとは思われない。私自身、本書を読むまで、脳死と植物状態の生存との違いを混同していたが、そのような曖昧な情報しか持ち合わせていない状態で臓器提供について意思表示をしろと言われても困ってしまう。自身が臓器提供に同意すべきか否かは個人の判断に委ねられているが、知識不足から判断できない人がほとんどではないだろうか。この問題は人命に関わることであり、軽々しく論ずるべきものでもない。実際には、哲学や宗教や死生感の違いなどによっても様々な意見が存在している。故に何をもって脳死であると考えるか、また脳死について何を判断基準と考えるかについては、個々人が自分の頭で考えるべきである。専門家ですら意見が分かれるのであるから、他人と意見が異なったとしても不思議はない。安易に他人の意見を鵜呑みにせず、できる限りのデータを集め、ロジックのもとに自説を立てるべきであると考える。

同様のことは新型コロナウイルスのワクチン接種についても言える。現在、ワクチン接種が進みつつあるが、mRNA(メッセッンジャーRNA)ワクチンである、ファイザー社やモデルナ社製のワクチンに関して、その仕組みについての知識を持たず、副反応やネット上の陰謀論などを見て不安視する人も散見されている。全貌が明らかにならない事象に対して、感情で流されてしまったり、諦めて思考停止してしまったりするのは後悔の元になる可能性がある。不安があれば納得行くまでデータを集め、得た知識をつないで論拠を立てて、自分なりの結論を導きだしてゆきたい。
 
投稿者 msykmt 日時 
死とは意識の死

人間の死とは意識の死であると考える。なぜならば、心臓や肺は、その機能もメカニズムも解明されているから、他者や人工のもので代替できるものの、意識の源泉となる脳はその機能もメカニズムも解明されていない上に、他者や人工のものでは代替できないからだ。ここでの意識とは、臨床医学上の意識だけでなく、本書でいうところの内的意識を含む。その意識がある状態を人間の死とみなしてはいけいない。だから、脳死の判定は、内的意識が消失したことをもってなされなければならない。つまり、脳死の判定は、脳機能の喪失ではなく、著者が主張するように、脳細胞全体の壊死をもってなされるべきだ。

なぜ意識がある状態を人間の死とみなしてはいけないかというと、脳機能の喪失をもって脳死と判定された臓器提供者の家族の立場で想像すると、内的意識があるかもしれない状態、言い換えると脳循環がある状態で、臓器移植によって、その提供者が心臓死、全身死をむかえるのは耐え難いからだ。なぜ耐え難いかというと、先の家族の立場で提供者のことを考えると、意識があるのに自分の意思を伝えられないまま、他者への臓器提供のために死にゆくのは、無念でならないからだ。

たとえば、自分が仮に、脳機能の喪失をもって脳死と判定された妻ないしは子どもの、臓器提供のための心臓摘出の手術が終わるのを、手術室の前で待っていたとしよう。そのとき、もし彼女ないしは彼の内的意識がある状態だったとしたら、本人はどう感じるだろうか。おそらく、家族に囲まれるのではなく、手術室の中で、自分の心臓摘出にいそしむ医師や看護師に囲まれた状況で、心臓を摘出された上に、死んでゆくのはさぞ無念なことだろう。つまり、本人からすれば、内的意識が消失する瞬間、つまり息が絶える瞬間を家族に見守られない。また、その家族からすれば、その瞬間の本人を見守る、看取ることができないのだ。なぜならば、手術室から本人が出てきたとき、つまり本人と家族が再会するときには、手術が成功したか否かにかかわらず、本人は、なきがら、むくろとなった状態、すなわち全身死した状態であるからだ。一般的に、手術室から患者が出てくる状況というのは、その患者への生への期待をこめられるものであるものの、こと臓器提供の場合においては、死の一択しかないのだから、その家族にとってのやるせなさは計り知れないものがある。

したがって、脳死の判定は、内的意識が死んだことをもってなされなければいけない。つまり、脳死の判定は、脳機能の喪失ではなく、脳細胞全体の壊死をもってなされるべきだ。

一方で、脳機能の喪失をもって脳死と判定したほうが、より早期に臓器を摘出できるから、より損傷の少ない状態で、より多くの臓器を摘出できる。すなわち、少ない犠牲で多くの命を救うことができるから合理的ではないか、と異を唱える声もあるだろう。しかし、多くの命を救うのには異論ないものの、その犠牲が人間の死であるならば、多寡という合理で考えてはならないのは自明だ。だから、臓器を提供する側の本質的な死、すなわち意識の死が全うするのを待ってから、生き残った臓器を受容者が受け取る、としたほうがよい。それこそ、臓器提供者から受容者への命を引き継ぐという意味でのいわゆる「命のリレー」としてのあるべき姿にそぐうものである。
 
投稿者 H.J 日時 
本来、”脳死”をテーマにした本であるから、メインテーマである”脳死”について感想を書くのが筋であるだろう。
しかし、私は敢えて、メインテーマから外れて、著者について感想を述べたいと思う。
あくまで私の想像に過ぎないが、本書を完成させるまでの著者の姿に感銘をうけたからだ。

まず、本書を読んで驚いたことは”脳死”という難解なテーマを、脳死の概念から脳死における問題まで、たった1冊で万人に解りやすく伝えていたことである。
さらに驚くのは、このクオリティの本を専門的な医学者ではなく、ジャーナリストが専門的な医学者からの取材内容を基にまとめて伝えていることだ。
著者は、あとがきにて、取材前は医学に無知であったと記述している。
この本を読んだだけでは、俄かに信じがたい情報である。
しかし、そう思いながら参考文献のページを開くと、それは疑惑のままで終わる。
参考文献だけで物凄い量だった。
この参考文献の量と実際の現場への取材により、本書の土台が出来上がってると考えると納得できてしまう。
おそらく、取材をしながら、膨大な量の参考文献も読んでいたのだろう。ということが、ここからわかる。
本書の基となった連載自体は序章に書いてある様に10か月間ではあるが、情報収集にどのぐらい時間をかけたのだろうか。
本書をまとめるための土台作りにおける努力量が私の想像を超えていた。
言い方を変えると、一つの仕事に対するプロ意識が凄いことを物語っている。
ただ、プロ意識が凄いだけかと言われるとそうではないとも思う。
仕事だからという理由よりも、純粋な知への欲求を感じざるを得ない。
著者は、医学的な本書以外にも、宇宙や政治や臨死体験や環境問題等の幅広い分野のテーマに於いて著書を出しており「知の巨人」と呼ばれている。
そこで忘れてはならないのは、著者は何かの専門家かではなく、ジャーナリストなのである。
そんな著者が出した他の著書が同じように賞賛を受けているということは、他の分野についても本書と同じクオリティで完成してるからだと想像ができる。
つまり、取材前は無知なことについても取材しながら、膨大な量の参考文献を読んでいることが想像できるのだ。
これについて、プロ意識だけでやれる人はいるのか?
私は、プロ意識だけではできないと感じる。
なぜなら興味のないことに対して、無理矢理ここまで情熱をかけられたとしても、このクオリティにまとめあげることはできないと思うからだ。
著者の文章からは、純粋な知への欲求を感じるのだ。
例えば、序章では、脳死問題について客観的な内容を書きながらも、著者は脳死の本質部分を知りたいと書かれている。
上記のすぐ後に『立場のちがう医者の主張を聞き、自分でも勉強を重ねれば重ねるほど、これは一筋縄ではいかない大きな問題が幾つもはらまれた複合問題であることがわかってきた。(P18)』と言っている様に既に当事者として脳死問題を見ていることも見て取れる。
脳死問題は専門的な分野の人々に任せれば良いのにも関わらず、著者は敢えて脳死の本質部分を知りたいと明言しているのだ。
この部分だけ切り取っても、ジャーナリストとしてのプロ意識を超えてるような気がする。

私は本書に触れるまで著者のことを殆ど知らなく、唯一知っていたのは幅広い分野のテーマで著書を出しており「知の巨人」と呼ばれていたことだけだった。
そのイメージだけで「相当頭が良いんだなぁ」という浅い認識しかなかった。
本書を読んで、その認識は本当に浅いことを再認識した。
もちろん、頭が良いというのは間違いないと思う。
それ以上に、裏にある知への欲求と圧倒的なプロ意識に感銘を受け、他の著書も読みたくなった。
なぜ著者が世間的に評価を受けたかわかったような気がした一冊だった。
投稿者 msykmt 日時 
死とは意識の死

人間の死とは意識の死であると考える。なぜならば、心臓や肺は、その機能もメカニズムも解明されているから、他者や人工のもので代替できるものの、意識の源泉となる脳はその機能もメカニズムも解明されていない上に、他者や人工のものでは代替できないからだ。ここでの意識とは、臨床医学上の意識だけでなく、本書でいうところの内的意識を含む。その意識がある状態を人間の死とみなしてはいけいない。だから、脳死の判定は、内的意識が消失したことをもってなされなければならない。つまり、脳死の判定は、脳機能の喪失ではなく、著者が主張するように、脳細胞全体の壊死をもってなされるべきだ。

なぜ意識がある状態を人間の死とみなしてはいけないかというと、脳機能の喪失をもって脳死と判定された臓器提供者の家族の立場で想像すると、内的意識があるかもしれない状態、言い換えると脳循環がある状態で、臓器移植によって、その提供者が心臓死、全身死をむかえるのは耐え難いからだ。なぜ耐え難いかというと、先の家族の立場で提供者のことを考えると、意識があるのに自分の意思を伝えられないまま、他者への臓器提供のために死にゆくのは、無念でならないからだ。

たとえば、自分が仮に、脳機能の喪失をもって脳死と判定された妻ないしは子どもの、臓器提供のための心臓摘出の手術が終わるのを、手術室の前で待っていたとしよう。そのとき、もし彼女ないしは彼の内的意識がある状態だったとしたら、本人はどう感じるだろうか。おそらく、家族に囲まれるのではなく、手術室の中で、自分の心臓摘出にいそしむ医師や看護師に囲まれた状況で、心臓を摘出された上に、死んでゆくのはさぞ無念なことだろう。つまり、本人からすれば、内的意識が消失する瞬間、つまり息が絶える瞬間を家族に見守られない。また、その家族からすれば、その瞬間の本人を見守る、看取ることができないのだ。なぜならば、手術室から本人が出てきたとき、つまり本人と家族が再会するときには、手術が成功したか否かにかかわらず、本人は、なきがら、むくろとなった状態、すなわち全身死した状態であるからだ。一般的に、手術室から患者が出てくる状況というのは、その患者への生への期待をこめられるものであるものの、こと臓器提供の場合においては、死の一択しかないのだから、その家族にとってのやるせなさは計り知れないものがある。

したがって、脳死の判定は、内的意識が死んだことをもってなされなければいけない。つまり、脳死の判定は、脳機能の喪失ではなく、脳細胞全体の壊死をもってなされるべきだ。

一方で、脳機能の喪失をもって脳死と判定したほうが、より早期に臓器を摘出できるから、より損傷の少ない状態で、より多くの臓器を摘出できる。すなわち、少ない犠牲で多くの命を救うことができるから合理的ではないか、と異を唱える声もあるだろう。しかし、多くの命を救うのには異論ないものの、その犠牲が人間の死であるならば、多寡という合理で考えてはならないのは自明だ。だから、臓器を提供する側の本質的な死、すなわち意識の死が全うするのを待ってから、生き残った臓器を受容者が受け取る、としたほうがよい。それこそ、臓器提供者から受容者への命を引き継ぐという意味でのいわゆる「命のリレー」としてのあるべき姿にそぐうものである。