投稿者 kayopom 日時 2020年6月1日
『インテグラル・シンキング』を使って思う事
本書『インテグラル・シンキング』でも予言のように語られていた「非日常」の時代を生きる私たちにとって、新たな対処やあるべき姿を検討することが必須となった。
統合的に物事を捉えるために、本書内ではすべての事象を
左上:個の内面
左下:集団の内面
右上:個の外面
右下:集団の外面
という四領域図を用いる事で、「認識」を深化させていき、問題解決を図っていくという。
そもそもこのフレームを使う事が、本で読むだけでは実戦と理解は難しかったのが正直なところで、その領域に当てはめる事象がこれで合っているかが、憶測の域を出ない。
多分きちんと概念を取得しているファシリテータの元で、ワークをこなす事が必要だろう。
合っているかどうかはさて置き、ここでは実践する事が求められていたので、今回は事例として「義務教育のオンライン化実現に向けた課題」を四領域図に当てはめてみた。
左上:個の内面
(生徒)学校に行かなくてもオンラインで授業ができるなら楽だが、理解できるかやってみないとわからない
(教師)今まで対面でしか授業をやった事がないので、IT機器操作も経験がない、生徒の対話が取りにくそう
(親)パソコン代や通信費は家庭持ちなのか、オンライン授業のセットアップが家庭でできるか、トラブルの対処はこっちがやらなければならない
左下:集団の内面
(生徒たち)友達に会って話したり、遊んだり出来ないのはつまらない、体育や図工、音楽も難しい
(学校側)授業全体のカリキュラムは変更が必要、行事を通じた集団行動など、集団生活の体験をさせられない
(行政側)教育課程やインフラまで従来型では対処できない、IT教育のスキルがある人材に乏しい
右上:個の外面
(生徒)テストとかはどうやるのだろうか、実技系授業の評価はつかなくなるのか
(教師)生徒の理解度チェックや、成績評価をどのように行えばフェアなのかがわからない
(親)家庭でもフォローしないと学習ができているかわからない
右下:集団の外面
(生徒たち)学校って何を学ぶためにあるのだろう?大人になって社会に出るための基礎的な知識ってこれでいいのだろうか
(学校側)人材、設備、ノウハウ、すべて手探りになる、在り方が問われる
(行政側)設備などの予算をどうするか、そもそも設備の対象はどこまでになるのか
と、あくまでも一例を挙げていったが、現在の議論に足りない部分を発見する一助にはなりそうである。
義務教育である以上、全児童への授業をもれなく行える事が前提になる。
が、 教育をオンライン化に切り替えることで、何があれば、どんな条件ならば成立するのか。
各プレイヤーと領域において、足りない部分が何かをあげれば課題は浮き彫りになりそうだ。
そもそも授業オンライン化とは、送受信ハードウェアと通信インフラがあって成立するものである。
教師・授業というソフトウェアはあるのだから、あとはハードウェアを揃えればスタートする事は可能だ。
だが、教師や行政のレベルでのそのスキルは乏しそうである。
設備においては、文部科学省ではパソコンを一人一台配布すればいいだろう、との事で法案も予算も通った。
しかし、通信のインフラは各家庭に依存する。そしてソフトウェアやハードウェアの家庭での知識は親に依存する。
前提として、生徒・家庭・学校・行政の各レベルにおける「オンライン」関係の知識レベルを合わせる事、そしてそのハードと通信設備のレベルを合わせる事も必要だと考えられる。
ここまでひとまずワークを実践してみたが、統合的思考の限界を感じる事があった。
一つには、個人の思考の枠から出る事が出来ないことだ。
本書内では、日常的に四領域のレンズを利用して物事を検討する習慣を持つことが推奨されている。
だが一人でやっている時は他人の視点を自らが想像することになる。そういった点において、個人のバイアスに引っ張られ、その個人の想像範囲を脱しない。
やはり集団の内面などを想像するのは難しく、同じ日本の社会と限定したとしても年代、性別、属性などで持つ意見は全く異なると思われる。
対処するには、特定のトピックについて、できる限りたくさんの意見を収集する事だろう。twitterのハッシュタグ検索を利用する事、ニューストピックの意見欄を見ることは参考になりそうである。
何よりも個人的なトピックでない限りは、他者の意見を取り入れて事象を俯瞰する事が四領域フレームを使うには偏りをなくすという点においては必須であると思われる。
二つ目には、集団で検討した場合に起こりうる意思決定の問題だ(あくまでも想像であるが)。
結局のところ、同質的な集団では、異なる意見は出にくい。実権や権威がある立場に対して、対立する意見を出して議論することは難しいと思われる。
例えば政府の諮問委員会などでは、それぞれの立場で意見が出されても、結局のところ「前例を見ない」ような意見は取り上げられにくい。まさに『シン・ゴジラ』の世界なのである。
意見は出されても、そこまで。最終的には元の木阿弥かもしれない。
三つ目にはノウハウの取得時間がある。
この四領域図を理解し使いこなすには「数年」いると書かれている。
残念ながら、このフレームを知ったところで、すぐに使えるものではないと思われる。
非日常を生きる私たちには、前例のないことは前提であり、困難な状況下でも最善を尽くすことが求められる。
今の刻々と状況が変化していく切迫感の中で、意思決定を下していくことは責任がある人ほど保守的なものになりがちであろう。
新しいもの、異質なものに対する柔軟性と、多様性を受け入れる土壌を、集団なり個人なりがどれくらい保持できるのか。
四領域図のフレームワーク取得よりも、常に走りながら考える事が求められているのが今の世界なのだ。