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第113回目(2020年9月)の課題本


9月課題図書

 

銀河鉄道の父


これは2年半以上前に読んだ本ですが、課題図書にしていなかったので、今回取り上げ

ました。宮沢賢治の父親が、賢治という息子をどう見ていたのか。これは私はかなり誤解

していました。賢治って、カネ持ちで地主の跡取り息子として生まれたのに、詩だか小説だ

か分からない物書きを目指しちゃう困った困った息子なわけですよ。それに苦々しい想い

でいたんだろうなと思っていたんですが、これが見事に裏切られました。あの親爺愛は

かなり異常です。あの当時、子供にこういう向き合い方をした人ってそんなにいなかった

と思います。

 

お子さん(特に息子さん)をお持ちの方にオススメする本です。ま、直木賞を獲っている

作品ですからつまらないわけがないんですけどね。

 【しょ~おんコメント】

9月優秀賞

 

今月はなかなかハイグレードな投稿が多くて、読み応えがありました。毎月こうだと楽しい

のですが。全員分を読みまして、一次審査を通過したのは以下の4名となりました。

 

 

shinwa511さん、masa3843さん、sarusuberi49さん、H.Jさん

 

この4名の投稿を読み返し、今月はsarusuberi49さんに差し上げることにしました。おめ

でとうございます。

【頂いたコメント】

投稿者 kenzo2020 日時 
「銀河鉄道の父」(門井慶喜 2017年9月12日第1刷発行 講談社)を読んで

理解したこと、考えたことは以下の通りである。

①子どもにとって、父親はとても大きな存在であることをあらためて知った。「……おらは、お父さんになりたかったのす」(p.268)というセリフから伺える。

私も父を、偉大であると感じている。今でも強い、怖い、近寄りたくないという気持ちがある。友人の中には、父親と仲が良く、ギャグも言い合うことができるという人がいる。私にとっては信じられない。しかし、羨ましい気持ちはある。そのため、私の小学生の息子に、たまにギャグを言うことがある。ただ根本的には、私の父がそうであったように、政次郎のような父の尊厳を示せる父親になりたい。

②家族の中で、大黒柱という父親の役目を知った。一家を守り抜く姿勢が伝わってきた。政次郎がトシや賢治の遺言を聞く場面では、どんなにつらい時にもやらなければならないことを率先した。
私の家族は共働きのため、正直なところ私は大黒柱という気持ちは薄い。父親として、強い気持ちを持つこと、どんな時にも動揺しない心をもつようになりたい。

③賢治の人となりをつかむことができた。1つのことをとことんやり続ける集中力は並大抵ではない。石を集めたこと、文章を一気に書き上げたことなどがその例である。

ただ、その集中力も裏目に出てきてしまったときもあったのだろう。賢治が会社で仕事が遅かったのは、一つのことを気にしすぎるあまり、なかなか次の仕事に進まなかったのではないだろうか。

④当時は、家庭の事情から学問の道を諦めざるを得ない場合があることを理解した。

父から、昔は大学はおろか、高校にも満足に進学できなかったと聞いたことがあった。農家の手伝いをせよということだった。調べたところ、賢治の時代、中学を卒業するのは10人に一人か二人。高等学校を卒業するのは、ほんの一握りのようだ。今は、二人に一人が大学に行く時代。私は大学を卒業し、就職してお金を得ている。平凡に思えたが、特別なことだと気づいた。親に感謝するとともに、日々の仕事を大切にしていきたい。

⑤父親が子を思う、無上の愛を知ることができた。賢治が子どもの時、こんにゃくを使って看病したこと。それから、「あまったれるな」(p.376)と頬をたたいて、成長を促すものの、「わるかった」(p.378)と頬をなででやったことにそのことが表れている。

私の息子も、小さい時は高熱を出し、救急病院によく連れて行った。おでこにのせたタオルを冷やしてやったり、座薬をいれたりしたが、一日中ずっとつきっきりで看病ということはなかった。薬を飲んでいれば安心だろうという気持ちもあった。これからは、よりいっそう大切に育てていきたい。

⑥言葉のもつ強さを知った。トシが遺言を伝える時、政次郎とトシの間に賢治が割り込んできた。また、賢治の死の間際、イチが遺言を聞きたくないと耳をふさぎ、筆などを持ってこなかった。いずれも遺言を聞いてしまったら、死が確定してしまうと思ったからであろう。賢治はトシの遺言を妨害したにもかかわらず、自分の遺言については政次郎に伝えている。政次郎は賢治の遺言をかなえたことで、賢治をより身近に感じることとなった。賢治もトシの遺言の続きを捏造であったにせよ、文章にして表すことでトシを身近に感じることができたのであろう。

 私も亡くなった恩師の言葉を思い出すことがある。言葉を思い出すことで、その人の人柄を思い出し、もし生きていたならこう言うだろうと想像する。人は亡くなることは避けられないが、言葉は生き残るのである。これは、賢治が亡くなって、作品が注目されたことにも通じる。  

⑦避けられないものと、自分でなんとかできるものの2つがあることを理解した。避けられないものとしては、賢治が質屋の息子として生まれてきたこと、トシと賢治の病気が治らないものであったこと、出版しても売れなかったことである。自分でなんとかできるものとしては、石ころ拾い、学業、お経を唱えることなどである。この二面性は、「雨ニモマケズ」の詩の中にも現れている。前半部分に自分でなんとかできるものが示され、後半部分に避けられないものが示されている。

人生、うまく行くときと、行かない時がある。自分でコントロールできることに集中し、人からの評価にいちいち気を揉まないようにしようと考えた。

以上、本の内容は、私自身の経験と重なることが多かった。
政次郎は上座・下座を気にしなくなった。また、改宗という言葉まで出てきた。1つのことにこだわるという、賢治と似ていた部分が薄れてきた。これを成長とよぶのなら、私自身が、これからどのように成長するのか楽しみだ。また、これからも息子の成長を楽しみにしている。夜中まで議論することはないことを願う。
 
投稿者 BruceLee 日時 
父親が息子に出来るのは「人生の選択肢を増やしてあげる事」ではなかろうか?

自分にも2人の息子がいるからか、本書は実に深く感じながら読み進める事が出来た。父親と息子の関係は微妙だ。幼い頃は自分の子供なので純粋に可愛い。が、成長するにつれ息子たちにも自我が芽生え、特に父親とは距離が生じるのは、自分が若い時に経験済だ。が、息子の将来に関心の無い父親などいないだろう。そして支援したくなるのだが、経済的支援(食費、学費、その他息子たちが成長するために必要なコスト)以外に、どこまで踏み込んで良いか戸惑うのが一般的ではなかろうか。

賢治の祖父喜助から「お前は、父でありあすぎる」と指摘を受ける程、政次郎は甘い部分がある。一方、喜助の「質屋には、学問は必要ねぇ」や「本を読むと、なまけ者になる」という当時の常識を考え直し、賢治の学問への意欲をどこまで叶えるべきか戸惑う政次郎も感じ取れる。恐らく、政次郎自身も時代の変化と後に重要となる要素を感じていたのだろう。半面、政次郎は賢治に店番をやらせ「この子は商売には向かない」と悟った。結果、教師や物書きへの支援はするが、賢治が興味を持った怪しいビジネスには一切金銭的支援はしない。

政次郎は父親であると同時に一人の社会人でもある。父親として何かに賛成/反対するのも、ある意味、賢治という青年がまだ知らない世の中の一部を人生の先輩として教えているとも言えるのではないか。一方、政次郎自身は教師や物書きについて教える事は出来ないが、賢治が経験出来るよう支援はする。それは政次郎が賢治に世の中を知る機会を与えたとも言える。話を書き、俸給を得るようになった政次郎は(ふつうの、大人になれた)と目がしらを熱くする。父親として子供が稼ぐようになったのは嬉しい事だろう。それは世間が賢治を認めたという事だからだ。負けてもペンを離さない賢治を見て(こんどこそ賢治は人生をはじめる)と政次郎は思う。この小説ではこのカッコ(  )の中に本音が表れる。政次郎は安心したのだと思う。

私自身の場合はどんな事が出来ているだろう?

長男(大学2年生)の場合
長男の大学の卒業生の就職先は民間よりも公務員が多い。長男はまだ何も決めていないようだったが、就職先の選択肢の一つとして公務員を狙うのも手だと提案してみた。私自身は長男の就職先が公務員でも民間企業でも構わないが、前者の場合は準備が必要だからだ。大学生の息子はまだ世の中を充分には知らない。知らない部分を教えるのも親として出来る事の一つだ。だが、私は公務員の仕事内容を教える事はできない。よって、仕事で知り合った経産省で勤務する人にお願いし「公務員になるには?」と題として息子とメールのやり取りをお願いした。二人をつないだ後、私はその内容に関知してないが、その後息子は興味が増したようで、来年から専門学校に通う事も考えているようだ。

次男(高校3年)の場合
次男はラグビー部に所属しているが、その保護者会の会長を担当している。会長と言っても世話役の雑務なのだが、先生や他の保護者とのやり取りは自然と次男の目に入る。そこで次男が感じる何かもあると思う。また、受験生でもある次男の塾の進路相談には私が行き、先生と話をしている。時代や手法が変わっても、受験のキモは変わってないのは長男の時に確認済だったので、他の科目の受講、必要な参考書があれば支援する、また模試はどんどん受けろと言ってある。自分のポジションを知るにはそれが一番の方法だからだ。その結果、更に頑張るのか、目標を変えるのか、は本人次第だ。私は勉強は教えられないが、
情報を入手した上でのアドバイスや支援は出来る。

父親の出来る事なんて位だろう。私は息子たちが世に出る時、選択肢を増やしてあげたい。勿論、最終的な選択は息子たちがすれば良い。だが。。。ふと、自分は何故こんな支援をするのだろう?と考えてみる。我が子だからというのもあるが、「息子たちはご先祖様から受け継いだ命」であり「しっかり育てて世に送り出す責任」が自分にはあると感じているからだ。本書の賢治や姉のトシのように、時に親より先に我が子が逝ってしまう場合もある。だから、我が息子たちは今現在、生きているのだから、精一杯支援するのが自分の仕事だと思うのだ。

本書の最後に政次郎とシゲの子供である孫たちの場面が微笑ましい。トシや賢治は亡くなってしまったが、生きている孫たちに賢治の詩を読み聞かせることはできる。そして宮沢家の血は続く。いや血だけでなく、賢治の仕事は、今では日本人で知らない人はいない功績となった。

さて、政次郎は賢治をどう評価しているだろうか?
 
投稿者 2345678 日時 
銀河鉄道の父を読んで


最初に驚いたのは、父(リーダー)でありすぎる。ことです。


宮沢政次郎は、現在の理想(良い)的な父親(リーダー)に該当するのではないか。なぜなら、

1、規範を示している2、尊敬、信頼されている3、「すごい」「そうなりたい」と思われている4、ビジョン、理念、方向性を示している からです。


 明治の時代、儒教の精神である「忠孝」を柱に教育勅語が明治23年に制定されています。政次郎はおそらく喜助には、そのように育てられたと思われます。しかし政次郎は自分が父親になって西洋の影響を受け子供(部下)を理解しのびのび育てようとしたのではないか。地域の中心となり、様々な著名人を招き会合を開いていることから推察します。


もちろん家長制の権威を揺るがすことはなかった。食事場面の座る位置が示しています。同じ食事の場面として考えるときにおまわずサザエさんの食事風景がよぎります。


 賢治が赤痢にかかって看病する際に、イチを押しのけ自ら看病に当たるその思いに、大きな愛情を感じました。ここは私の四男が生まれた場面と重なり毎日毎日、6か月近く県内の小児科センターに通ったことを思い出し目頭が熱くなりました。


また、政次郎は「春と修羅」を手にして親戚中を回る広報担当としても活躍します。営業活動を率先する役割を果たしています。



一方で政次郎は常に理想的な過程を求める父親ではなかった。質屋に学問は必要なしとして、賢治の要求をはねのけ憤怒する父親の様相を見せます。 また賢治がトシの死を詩にしたとき政次郎は怒ります。この場面での怒りは死への冒涜でもあり子供の死への父親の責任を感じます。


 賢治にとって大切な金の成る木でもあった政次郎は、大きな壁であり、また悩んでいたときには厳しく激励する鬼の一面を見せる存在。反発し、頑なに商家の後を継がず、自分は日蓮宗に突っ走る行動を見せます。
しかし東京で童話を執筆しているときに政次郎を想い「‥おらは、お父さんになりたかったのす」と言わしめます。


 賢治が成長してからは政次郎も賢治を「えらいやつだ」と言います。お互いがリスペクトしあう関係性は、チームとして仕事をする・家庭生活をする上でもこれは必要なこと。意見の衝突はあっても崩壊は免れる可能性があります。


 改めてチームの中での立ち位置や役割を考えさせれた書籍です。ありがとうございます。
 
投稿者 akiko3 日時 
「もううるさいねっ」っていうと、「お前の方がうるさい!」という
「電気つけっぱなし」っていうと、「気が付いたもんが消せ」という
こだまでしょうか?
いいえ、父と娘
 
 子供心に、宮沢賢治は教科書に載る素晴らしい童話を書き、雨ニモマケズという詩のような立派な人と思っていた。社会人になり、賢治生誕100年を祝うポスターが貼られていた頃、友人に勧められ賢治が友人にあてた手紙をまとめた本を読んだ。
それまで、賢治は学校の先生をしながら子供達に演技指導をしたり、童話作家として才能も発揮し、与えられた才を活かし日常を豊かに楽しく生きた人と思っていた。
また、利他の精神をもつ優しい人だから、病気になっても乞われれば農業相談にのり、病気にも負けない強い人になりたいと雨ニモマケズを書いた。そんな理想的な人に“なりたい”と願うような高貴な人間と思っていた。(この詩について、賢治の父が孫に伯父さんは言葉遊びをしていたのだという解釈は興味深かった。確かに年長者として賢治はいつも兄弟を楽しませるピエロ的なサービス精神を発揮していた。楽しむことが好きな陽気な性質だったのだろう。)
この本で紹介されていた友人への手紙に、賢治は“自分には才能があるのに(認められない)と傲慢に思うような人間なのだ、凡人なのに”と心のうちに思うことを打ち明けていた。 
そんな風にうじうじ悩む一方で、自分を貫き親に反発し2度も家出し、最後は病気の為1か月で家に連れ戻されたり、普通にもがきながら地方に生きる青年だった。童話作家宮沢賢治と賢治が名乗ったのではなく、のちの世がそう呼んだのだと思った。
 逆に人生って自分が意図しなくとも、何か大きな采配により普通の人が100年のちにも崇められるような人になるのか、いや、あのアルコールで体をふいて息絶えた賢治はやはりただ者ではなかったと感動したのだった。
この時、賢治の父親は金持ちの厳格な人と思っていたから、家の跡取りが童話を書いたり宗教にのめり込むことを苦々しく思い、威圧的な態度だったが、最後に病気の賢治を受け入れ、死を前にやっと折れて最後の願いで宗教の本をだしたと思っていた。
だが、最後どころか、この父親は何度も何度も息子を許し助けていた。家長として冷静に家族を見守り厳しく接しているが、実は子煩悩だった。その姿は時に滑稽なほどだ。笑ってしまったのが、盗人のごとく寝ている賢治の枕元の荷物を手に取り、”砂糖“を忍ばせた場面。非常時に心身の燃料だから多少の”つらさ“が減るだろうと、どこまでも子供をつらさから守りたい思い…。甘々ではないか!
そんな自分を『父親になることがこんなにも弱い人間になることとは』と持て余しているので、代りに泣いてあげたいくらいだった!

ふと、兄の結婚式の前日、とあるセミナー帰りの私を父と兄が車で迎えに来てくれた時の会話を思い出した。
その時、私は「子が大きくなるまでに親は3000万費やしているんだって」とそんな大金、親のおかげだね、感謝だねってニュアンスで言ったのだが、運転していた父親が「そういうことじゃないんじゃ、子を育てるってことは銭金だけじゃないっ」といきなり言うと口を紡いだ。その父の思い余って口にだした言葉の勢いと意味を私は図りかねたが、“親だから当然、金だけでなく愛情やしつけもいろいろ責任がある”ってことか?親になればわかるかと軽く受け止めただけだった。
あいにく、親の気持ちを体験しないままだが、銀河鉄道の父を読み、父親というものは子のこととなると、自分のことではないけど、自分のこと以上にどうしようもない葛藤の連続だったのかと思い、喉の奥が締め付けられ苦しくなった。

先日、お墓参りに父親と行った時、(墓地が怖くて一人では行きたくない…親が入れば違うとも聞くけど一人で行けるようになるか?)後期高齢者あるあるで、歩くときちゃんと足が上がらず、時々ズッズズっとひこずっていた。そして、前につんのめりそうになったので、「(すぐそばの水深10㎝くらい)川に落ちたら危ない」と袖をひっぱって「道の内側歩きんさいや」と言ったら、「へへっ」とその物言いがさも愉快という感じで短く笑った。かつては、ちょこまか動く子供達を注意していたのに、注意された自分が可笑しかったのか…。

銀河鉄道の父の終わりで、時代の変化もあるが、政次郎は孫に対して「こらっ」注意しかけてやめている。もし、賢治やトシが早世せず、老いていく政次郎を見守る立場になっていたら、父としての政次郎はどんな風だったのだろうか?あの世で会うために改宗しようと思うぐらいだから、“老いては子に従え”とばかりに心地よく甘えられたのだろうか?

それはそうと、びっくりした時は“じぇじぇじぇ”じゃなかったのか!
 
投稿者 mkse22 日時 
「銀河鉄道の父」を読んで

本書は、銀河鉄道の夜などで有名な宮沢賢治について、
父親である政次郎の視点から描いたものだ。

私にとっての宮沢賢治は教科書に載っている有名人というイメージしかなく、
銀河鉄道の夜も何度か読もうとしているが、未だにに最後まで読み通せていない。
性的な感じが全くしない、子供のときには誰もがもっていたと思われる世界観には、
強烈に引き付けられるのだが。まだ、私には読むべき時期ではないというべきなのか。
(ちなみに本には読むべき時期があり、読むためには必要な経験や考えを身に着けずに読むと最後まで読めない、読んでも何も印象に残らないと考えている)

大人になっても子供心を表現できた宮沢賢治が、本書ではお金持ちのドラ息子として描かれており、
それが彼の作品から想像できない人物像だったため、正直驚いた。彼の作品は俗世間に染まった人間には書けないと考えていたからだ。

その息子に振り回されながらも見守っている政次郎に、私は現代的な父親像をみた感じがした。
子供を成長させたがったり、仕送りを求められると甘いと思いつつ、つい送ってしまう。
このような親は現在にもいるだろう。むしろ、政次郎が生きた時代に、彼のような父親は珍しいのかもしれない。当時の日本は貧しく、子供の教育まで考える余裕がなかったと思われるからだ。
そう考えると賢治と政次郎は、現在的な親子関係なのかもしれない。

特に印象に残っているのは以下の箇所だ。
『お前は、父でありすぎる』 (Kindle の位置No.430)

ここから感じるのは、政次郎の賢治への精神的な依存だ。

父親の愛情とも感じ取ることもできるかもしれないが、この見方に私には違和感がある。

その理由は以下の通り。
病気にかかった賢治の介抱をした結果、政次朗は下腹の激痛が走り、高熱をだしてしまう。
しかし、彼にとって、賢治と無駄話をできたことに代償としての病気は安いものと考えている。
そんな政次郎を喜助は『…… 甘やかすな』(Kindle の位置No.441)と注意している。

もし、政次郎の行動が愛情に基づいているのであれば、「代償」とか「安いもの」という考えとは結び付かないはずだ。
なぜなら、愛情とは損得勘定とは関係なく相手に与えるものであるからだ。
高熱と無駄話の交換が成立した時点でそれは取引であり、取引には損得勘定がある。
以上より、政次朗は賢治と損得勘定で接しているため、彼の行動を愛情とはいいがたい。

それでは、政次郎の考えを精神的な依存の視点のみで捉えることで十分かというと
そうでもない。

政次郎は、家業を息子につかせようとしたり、息子が病気で苦しんでるときでも
息子の成長のためには悪人を演じることも厭わない面がある。
『父親の業というものは、この期におよんでも、どんな悪人になろうとも、なお息子を成長させたいのだ。(Kindle の位置No.4473-4474)』

ここから、政次郎の賢治への厳しさというか自分の願望を子供に押し付けている面が垣間見える。
ここには賢治への精神的依存は見られない。賢治の考えや行動に政次郎がふりまわされていないからだ。

このように、政次郎には賢治に依存している面とそうでない面がある。

なぜこのようなことになっているのだろうか。
思うに、政次郎が自分自身と他人(賢治)との境界を明確にできていないことが原因ではないだろうか。
少し調べたところ、心理学用語でいう境界線(バウンダリー)が引けていない状態に相当するのではないかと。

賢治は息子であるため、自分自身ではない。だからと言って他人というわけではない。日本語で言うところの身内である。ある意味、自分に限りなく近い他人である。
だから、他人だったら簡単に引ける境界線(バウンダリー)を引きにくく、そのあいまいな状態が
賢治への態度に表れてしまったのではないか。たしかに、賢治を自分自身と見做している部分があると考えれば、精神的な依存も願望の押し付けも政次郎にとっては他人でなく自分自身にしていることになるため、他人であれば起こりえないことでも成立してしまうのかもしれない。

以上より、現代的な父親像とは、境界線(バウンダリー)の引き方に苦労している人というべきなのだろうか。そんなふうに考えてしまった。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 gizumo 日時 
「銀河鉄道の父」門井慶喜著を読んで

宮沢賢治と言えば「銀河鉄道の夜」ですが、なかなか読む機会がなく、教養のため?という理由で、電子書籍が手に入れ読んだのがここ最近。
タイムリーだなと課題本に取り組んだわけです。

自分の場合はアニメの「銀河鉄道999」もよく見てないため、アニメになるような、なんかそんなファンタジーなのかなと思い読み始めたら大間違い。「銀河鉄道の夜」はものすごいインパクトでした。独特な言葉遣い、表現?!と設定、展開、意外に残酷な部分もあって、「ないわぁ~」と。ただ、それでもそのぼくとつとした素直な表現が不思議としっくくる不思議な感じで「大人の童話」なのかなと感じました。

その宮沢賢治のお父様のお話、しかも一説には「宮沢賢治は"宇宙人"だ」とか"シスコン"だったとも見聞きしていて、それだけの宮沢賢治の知識しかない自分にはちょっと向き合うのが苦痛でした。

実際に内容的には、現代ともほとんど変わらない「父親の子供に対する愛情を通した家族」の作品でした。
「子供が生まれて"親"も一緒に誕生する」と言うようなことを聞いたことがあります。多くの経験を通していままでと違う自分と対峙してお互いに成長していく過程は、体験者でなくてはわからない醍醐味かと思います。(醍醐味とわかるのは後々でしょうが…)

さらに、政次郎の性格的なものに加え時代背景や宮沢家を取り巻く環境が、オプションとして"親になる"ということに更にハードルをあげています。賢治もいろいろ無茶しましたが、やはり家を父を頼ることは、親として父として政次郎には幸せだったのだろうと思います。"溺愛"に見えて実は愛情表現が下手なため行動が両極に振れがちな政次郎が、事件の起こるたびに、またトシの死を乗り越えて、親として人間として変化していく様は、妻のイチにも反映され家族を成立させて行きました。

昨今問題になる育児放棄や家庭崩壊など悲しい出来事が起こってしまうなか、"家族"を改めて考えさせられた読了でした。また、血が繋がっているだけではない集団も"家族"として考えていくいく必要があるかもと感じました。

そう言えば「家族になる…」ってキャッチコピーの映画?ドラマ?がありましたが、何だったかな…?!探して見てみたいと思います。
 
投稿者 eiyouhokyu 日時 
「銀河鉄道の父」を読んで

 この本を読んで、真っ先に感じたことは「親の愛」とか「政次郎の愛情深い行動」がすごいと言った漠然としたことだった。親の愛は素晴らしい、ちゃんちゃん・・・では、課題図書に選ばれた理由にならないと思い、あれこれ思考を巡らせてみた。政次郎から学ぶ、親としてのあり方は以下の通り。

その1 政次郎の親としての胆力

 子育てをしていると、子供の将来が不安になることが多々ある。なぜ不安になるのかと考えたところ「何かあったら自分が(親として)対応できる自信がない」からだと気づいた。子供に習い事をさせる時、勉強ができないと子供が困るから・・・、英語が話せないと将来困るから・・・、プログラミングができないと仕事で困るから・・・という宣伝文句で親の不安を煽ることが多い。しかし、よく考えてみるとこれらの困るという言葉の主体者は、子供ではなく、困っている子供に対応する親の方なのだと気づいた。そうなって欲しくないから先取りをする。子供が躓くことを親が恐れているのが、現代の子育てではないかと思った。

 一方政次郎は、子供に将来の判断を委ねている。賢治が学校に行きたいと言った時も、トシが学校に行きたいと言った時も、清六が新しい商売をやりたいと言った時も、子供がやりたいことをやらせてきた。何があっても親が責任をとるとでも言うようなどっしりとした気構えが、子供がやりたいことに力を注げる環境につながるではないか。政次郎の子育てから、そう学び取ることができた。
 
 さらに、政次郎自身が勉強家である。黙って子供を支えるだけではない。毎年講演者を変えて勉強会を開催するなど、積極的に世の中をインストールしている。世間から一歩抜き出た人たちと触れることで、将来の不安や、予想できない子供の困りごとに対処する生きる知恵を身につけている。もちろん、本書の中で政次郎の親としての不安な心の内が出てきている。しかし、その気持ちを持ちつつも、子供には不安を見せずに支えるのである。これこそが、親としての政次郎の胆力であり、私も含めた現在の親にはないところだと思った。

その2 政次郎の豊かな情
 
 政次郎は、当時の社会の父親像(威厳がある・一家の大黒柱)を意識しながらも、賢治が病気の時は付きっきりで看病するなど、子供に対する情に深いところがある。入院中の子供を泊りがけで面倒を看るなど、今の時代の父親でもなかなかできることではない。賢治の病気を看ることで、魂を分かち合うほどの深い愛情を見せたそんな政次郎だが、仕事では客に情をかけることはご法度だと賢治に説いている。店を守り、家族を守るため客への哀れみの気持ちを持たず、親しい人へ愛を表現し、自分の感情と正直に向き合う。政次郎は、たくさんの情を持っている人だと思った。
 
 誰にでも良い顔をするのとは違う。今、自分は親しい人へ情を表現できているか。政次郎の生き方は、世間を気にせず親で居続ける情熱が溢れていた。

その3 政次郎の親子関係

 母と子、父と子で子供との距離感は異なると思うが、最近は子育てを積極的に行うイクメンパパも増えていることから、父母と子の距離感は、差が縮まってきたように思う。しかし、政次郎のいた当時は家庭内に序列があり、それは食事時の座る位置の描写にあるように、父>長男>子でしっかりと表現されていた。これだけ溺愛している政次郎だが、親子の距離感は保っており、躾もしっかりと行っている。父親は、身近にいる畏敬の念を持てる存在だった。

 しかし今の親子関係は、友達のような親子であったり、子供がいつまでも親離れができなかったり、その逆もしかりで、関係性が変わってきている。畏敬の念を持てる対象の父親像は薄れてきているように思われる。昔は父親がその家庭、世界の全てだったと言えるくらい存在感があったが、今は母親が家事を担い、子育てを担い、学校関係や習い事、はたまた子供の進路に関しても母親が中心に判断をする家庭もある。このような世の中では、育児で関わることが、父親の存在感を増す効果的な方法なのだと感じたし、母親として父親が関われるようなサポート(パートナーをいたわり、感謝する)をすることは大事なことだと思った。


 親の愛情とは、何か。今自分が親になって考える愛の形と、子供の時に受け取った愛の形が違うな・・・としみじみ思う。1日1日愛を注ぎ、親として子供に生きる知恵を授けられる、そういうヒトに私はなりたい。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、宮沢政次郎が息子の賢治に対する父親の愛情は、本当に深いものであると感じました。

賢治の父親の政次郎は、花巻の名士で、まじめな性格で、規律正しく、厳格な性格をしています。祖父の代から続く稼業が質屋だったので、お金の管理に厳しいために、そのような性格になったのかもしれません。

しかし、本書で書かれているのは、政次郎が時折見せる優しい父親の姿です。例えば、賢治が7歳の時、高熱が出て入院しますが、「看護師には任せられない」といって、政次郎自らが付きっきりで看病します。

明治時代の家制度が強く残っている時代に、一家の家長が付きっきりで看病するのは当時としては、傍から見ると過保護な父親です。それ程、政次郎は自分の子供を大事に考えていたのだと思います。

中学を卒業する際、賢治の「進学したい」という意見に対して、「質屋に学問は必要ねぇ」と、進学するのを止めさせてしまいます。

しかし、質屋を継がせようとした賢治が、だんだん神経衰弱状態になっていくのを見かねて、ついに、高等学校への進学を許してしまいます。厳格だけれど子供に甘い父親というイメージがぴったり合います。

成人した賢治は父親に甘えつつ、このままの状態ではいけないと苦悩し葛藤しつつも、自分の文学の才能を信じて、突き進んでいきます。

父親は子供に、何かしらの影響を与えます。親子関係は誰もが悩み、後年に偉大と言われる偉人達にも、親がいたという当たり前のことを、改めて考えさせられました。

賢治からしてみれば、父親は地元の名士であり、自分を支えてくれる経済力があり、賢治にとって父親の政次郎は偉大な存在であったからこそ、自分の意見と対立するとその存在を時には、疎ましく煩わしいと感じたかもしれません。

しかし、宮沢政次郎は父親として全力で息子の賢治に愛情を注ぎ、それを賢治自身も愛情を感じており、賢治にとって父親とは、複雑な存在であると感じていました。

「尊敬とか、感謝とか、好き嫌いとか、忠とか孝とか、愛とか、そんな語ではとてもいいあらわすことのできない巨大で複雑な感情の対象、それが宮沢政次郎という人なのだ。」(p337)

父親の政次郎を巨大で複雑な感情の対象としたのも、自分を見捨てずに、支援を惜しまず、自分のわがままを見守ってくれる父親の存在がいたからこそ、自分が自由に行動できることを、息子の賢治は理解していたのです。

賢治の死後、文学の才能が人々に認められ、偉大な作家のようなイメージが強い宮沢賢治ですが、父親の政次郎からすれば病弱で、家業も継いでくれず、自分が熱中したものには、異常なまでにこだわってしまう変わり者で、お金を無心して来る困った息子という存在だったのかも知れません。

それでも、父親の政次郎にとって息子の賢治は、かわいい自分の子供でした。自分の息子の幸せのために真剣に考えて行動し、愛情を注いでくれる存在がいたからこそ、後に偉大な存在となった宮沢賢治という人間が出来たということが、本書を読んで分かりました。
 
投稿者 tarohei 日時 
『銀河鉄道の父』を読んで。

著名人の自伝や伝記は数多あるけれど、父親から見た著名人の伝記小説はそれほど多くはないのではなかろうか。
これまで宮沢賢治といえば学校の授業で習った小説や詩、宮沢賢治伝など本人視点のものがほとんどであったため、父親目線での宮沢賢治像は斬新であった。なるほど父・政次郎からは息子・賢治はこう見えていたのかと改めて宮沢賢治像を思い描き直された。そして政次郎の賢治に対する愛情は溺愛を通り越して異常とも言えるところもあり、果たして自分はここまで我が子に愛情を注ぐことができるのかと、心の中での葛藤が止まなかった。

本書は父・政次郎の視点から描かれた宮沢賢治の物語である。しかし、単に父親の視点でみた宮沢賢治の伝記物ということにとどまらず、喜助の息子としての政次郎、宮沢家の家長としての政次郎、そして賢治たちの父親としての政次郎があり、平次郎の心の機微を時代の移り変わりとともに伝えている。そして本書でもっとも伝えたかったことは親子関係のあり方の葛藤、つまり父親としてどうあるべきか、理想の父親像と息子への愛情表現の狭間での葛藤であろう。根拠を以下に述べる。
まず、喜助に対しては世の中のご多分に漏れず、むやみやたらに反抗口をきいた時期があったと言う。これは賢治に対しても同じで長すぎる反抗期があり、「太古のむかしから人類が無限にくりかえしてきた親子関係の一段階にすぎず」と表現されているように21世紀の現在でもいまなお続く親子関係の葛藤なのであろう。また、喜助は「質屋に学問は必要ない」の一言で、政次郎に対しても賢治に対しても進学を反対するのだが、政次郎は喜助の反対を押し切って賢治の進学を許可する。これは商人にも学問が必要になってきたという時代背景の移り変わりもあるのかもしれないが、喜助の考えに対する対立と自分が成しえなかった夢(進学)を息子には叶えてやりたいという葛藤と愛情が伝わってくる。
次に、家長としての政次郎の葛藤は、「家長たるもの、つねに威厳を保ち、笑顔を見せず、嫌われ者たるを引き受けなければならぬ」との信念のもと、トシの臨終にあたり賢治の怒りや、イチや娘たちの悲しみを差し置いてでも遺言を書き取ろうとすることからも覗える。残される家族のために敢えて憎まれ役をやり、家族の恨みをかってでもやらなければならない家長としての覚悟と葛藤は、家族への愛情の裏返しである。
そして、賢治に対する父・政次郎としては、例に漏れず賢治にも長すぎる反抗期があり、激しい口論を繰り返しイチや家族にも迷惑をかけることになるが、政次郎の思いは「このんで息子と喧嘩したがる父親などいないこと」、「このんで息子の人生をふさぎたがる父親などいないこと」を賢治にも気づいてほしい、父親としての心の葛藤である。また、2度も病気の賢治に付き添い、挙句の果て自分自身も2度までも病床につくまで献身看護する姿は賢治への無償の愛の表れであろう。少し穿った見方をすると次男の清六が病に倒れたとして、果たして同じように献身看護したであろうか。そこにも父親としての葛藤があったのではなかろうか。

以上を踏まえて、本書を読んでどう感じてなにを考えたかというと、両親に対してはよい息子であり子供に対してはよい親でありたいということである。言い換えれば、子と共に成長し、親と共に思慮を深めていくような生き方をしたいと思った。そして政次郎のように厳しい中にも子供には溢れんばかりの愛情を注ぎたい。既に自分の父親は他界しているが、父が病床で語ったことは、“早くに父親を亡くしたため父親と一緒に過ごした経験がなく、親として子供へどう接してよいかわからなかった、厳しくすることしかできず、それだけが心残りだ“であり、自分にとっては厳しいだけの父親だったが、このような思いを自分の子供にさせないためにも、単に厳しく接するだけでなく、子供へは愛情をもって真摯に向き合っていくことの重要性を学んだ。

しかし、政次郎は賢治を甘やかし過ぎの面もある。もはやここまでくると愛情とは言えないことも多い。例えば、賢治が一人暮らしをしている時、何度もお金の無心をしてくるが、その度心の中で叱責はするが、言われるままに送金してしまう。賢治本人のためには厳しく接し、送金すべきではないと分かっていても、行き過ぎた愛情のため止めることができず、賢治の自立を阻害してしまう。親の愛情が悪い形で出た例であろう。このあたりを通して反面教師として、愛情を注ぐだけではなく時には心を鬼にして厳しく接することの必要性も学ぶことができた。

まとめると、父親としてのあるべき姿、理想の父親像を心に抱きつつ、時には厳しく時には溢れんばかりの愛情を注いでいきたいと思う。当たり前のように思えて改めて思い起こすと奥深いものがある。そしてこのような思いを胸に子供には向き合っていきたい。父親から見た宮沢賢治伝と思いきや学ぶべきものが多い一冊であった。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、国民的詩人で童話作家である宮沢賢治の父、政次郎の葛藤を描いた物語である。政次郎は、愛息・賢治に対して、介入すべきか介入せざるべきか、生涯を通じて葛藤し続けた。その様子が、賢治の幼少時から死別の時まで繰り返し本書の中で描かれている。ただ、どの場面でも、結局政次郎は賢治の望む通りに手助けを続ける。例えば、尋常高等小学校時代に「石っこ賢さん」と呼ばれるほど石集めに熱中した賢治に、500もの標本箱を買い与える。また、客との談判を嫌って質屋の仕事から逃げ出した賢治に、盛岡高等農林学校への進学を許す。さらに、盛岡高農卒業後に関教授の手伝いとして働く際には、給金の少なさに不安を感じた賢治に仕送りを継続する。政次郎は、賢治の放蕩息子振りに翻弄されながら、豊富な財力によって援助を続けたのである。

ただ、この政次郎の葛藤は、世間体を気にしたものではない。それは、7歳の賢治が赤痢にかかった時の心理描写から分かる。賢治が赤痢にかかったことを知ると、「世間で当然とされる家長像、父親像がまるで霧のように消え去っ」て、政次郎は自ら賢治の面倒を見るために行動を起こし、そのことを父・喜助から「お前は父でありすぎる」と非難されても、「悪いこととは思われない」と意に介さない。つまり、家父長が絶対的な存在で、子供の病気に付き添うことがあり得なかった明治という時代において、世間や実父からの目を気にして、介入すべきか介入せざるべきか悩んでいたわけではないのである。政次郎は、純粋に賢治のためになるか否かという点で、葛藤し続けた。このことは、「石っこ賢さん」のために標本箱を購入した後に、こうした援助が将来の賢治のためになるか否か、真剣に自問自答して思い悩む政次郎の姿からも分かる。

こうした政次郎の葛藤を掘り下げたことで、私は元陸上競技選手の為末大氏がブログで書いていた内容を思い出した。為末氏は、「先生とコーチ」というブログ記事の中で、競技指導において人生にまで踏み込む過度な介入は、生き残れないはずの選手を生き残らせてしまう結果になるため、選手がどう生きるかまでは介入するべきではないと論じている。なぜならば、選手の生き方にまで介入することで選手は指導者に依存することになり、そうして作られた誰かのせいにできる状況は、選手を成長させることがないからだ。私は、親子関係においても同じことが言えると思う。つまり、親子を別人格の他人として見れば、親が子の人生に踏み込んで過度に介入することは、子のためにならないのである。なぜなら、過度の介入は子が自分自身の責任で人生の苦難に立ち向かう機会を奪ってしまうことになり、結果として子が成長できなくなってしまうからだ。政次郎も、そのことを分かっていたからこそ、介入と不介入の間で葛藤し続けたのだと思う。

では、競技指導の関係と親子関係で決定的に異なる部分は何であろうか。それは、親子関係においては、親が介入すること自体に楽しさや喜び、幸せを感じるという点だと思う。本書のP95に、「ひょっとしたら質屋などという商売よりもはるかに業ふかい、利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった」とある。父親が「利己的で利他的な仕事」であるという表現は、子という他者に与える行為が父親自身の喜びに直結していることを意味している。つまり、子への介入そのものが強い自己満足につながっているということに他ならない。

親子関係において、介入しない方が子のためであるにも拘らず、介入それ自体が親の喜びであるとするならば、親はどうすべきなのだろうか。私は、本書を読んで、自己満足であるという自覚さえ持つことができれば、介入してもよいのだと感じた。本書の中で、「愛情を我慢できない」「不介入に耐えられない」という表現がある。これが、政次郎の賢治に対する姿勢を最もよく言い表していると思う。子の人生への介入を絶対善と妄信するのではなく、子のためになるかどうか悩みながら、それでも愛情を我慢できずに介入してしまう。つまり、自身の価値観を押し付けることなく、謙虚に子の人生に介入しているのだ。この政次郎の賢治への向き合い方こそが、親の理想だと思う。

私も3児の父として、日々どこまで介入すべきか悩みながら子育てをしており、答えは依然として見えない。ただ、子の人生に介入しても悪くはないのだと思えたことは、愛情を我慢できない父親の1人として、救われた気持ちになった。


今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 winered0000 日時 
銀河鉄道の父を読んで

1、本書の効能(短期編)
 昔、宮沢賢治の小説「注文の多い料理店」を読んだときに、「なんでこんなに動物ばかり出てくるんだろう、宮澤賢治の小説はファンタジーなんだっけ?もっとお堅いのでは?」と何も知らない故に勝手なイメージを持っていました。その時は作風など調べることをせず、お堅いイメージのまま今回「銀河鉄道の父」を読むに至りましたが、宮沢賢治に対してのイメージがガラッと180度変わりました。親をこんなに心配ばかりさせる子はどこにでもいるではないか、これが日本の文豪だったのか、と。
 人の気持ちをわかっていないと文章で人を感動させることはできない、とか、小説家になるには子供の頃からずっと成績がよかったんだろう、とか、固定観念の塊で考えていた自分を恥ずかしく思います。宮沢賢治氏は現代のどこにでもいそうな少年であったし、そして、銀河鉄道の父を読んでから宮沢賢治氏の作品を読むと、「トシに聞かせていた童話」、「トシに後押しされて書いた童話」というトシという妹の柔らかさを感じ、身近に読めるようになっていました。

2、本書の効能(中期編)
 本著で政次郎はしきりに「世間体を気にして自分の子供を躾ける厳格な父」と「自分の子供を愛する父」を行ったり来たりしています。父親の存在というのは子供にとっては厳格なものでなくてはならないし、恐れられる存在でなくてはならないという役割があるというのが政治郎が生きていた時代の一般的な父親像です。
 今となってはおかしなことではありませんが、当時は病気の子供の看病を父親がするのは情けないことと捉えられていました。世間の目があることはわかっていても、もし病気で手遅れになる場合を考えると、息子を溺愛しているがために、やりのこしたことがあっては必ず後悔をします。自分ができることは全てやったのかと。そんな後悔をする前に、世間の目を気にせずに子供を看病することを選びました。なかなかできることではないです。〇〇は誰それの仕事だ、という型にはまった考えではなく、その時にできる最大限のことをやっているわけです。
 恥ずかしがらずにやりたいと思ったことを実行するこの行動力を見習いたいものです。

3、本書の効能(長期編)
 それでは、多くの人が人生に求める「幸せ」ですが、政治郎は幸せだったのかについて考えてみます。私には5歳の息子がいます。息子に対する愛情については、子供が小さいうちと、成長してからかける愛情は同じだと思っています。いつまでたっても自分の子供は自分の子供だと思うでしょうし、いつまでも成長するところを見ていたいと今は思っているからです。
 政次郎は幼い賢治が嘘をついているとわかっていても許し、子供の尻拭いのために親が責任をとりました。嘘を肯定するようなことを許してよいのかと思いますが、政次郎の判断は「未来に傷をつけるなどということは考えられん」でした。一つ間違えれば親の責任を果たしていないと言われる事例ですし、子供の教育の機会なのにそうしませんでした。これがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんが、相当の勇気がないとできないことです。親であればその場面で許すということは、「子供にとって社会のルールをわからないまま育ってしまう」と感じるからです。別の機会があったときに嘘は付いてはダメ、と教えることで社会のルールを教えるのかもしれません。本書の事例では結果として将来に問題にならなかったらたまたまよかっただけかも知れません。
 結果として、親の務めは果たしたとは思いますが、成人した子供たちを看取ることになります。それまで手塩にかけて育ててきた子供たちを看取る状況は、私には想像もつきません。しかし政治郎は死を受け入れています。孫に息子である賢治の詩を読ませたりするなどから死を受け入れていることが伺えます。極めつけは賢治の信仰する宗派への改宗を考えました。死してなおもっと賢治に近づきたいことの現れであると伺えます。死をまったく恐れておらず、死と向き合っている生き方、これを幸せでなくてなんといいましょうか。

以上
 
投稿者 str 日時 
『銀河鉄道の父』

宮沢賢治の父である政次郎の視点が主となり、我が子との接し方、父と子の関係やその苦悩など、所謂“子育て“の部分に多く触れられているので、賛否の分かれる内容だったのではないかと思う。

親バカにも見えるほど子に尽くし、厳格であろうとしつつも、つい甘やかし支援してしまう。感染リスクを度外視してまで看病するなど、昨今であればさぞ叩かれることだろう。そんな政次郎からの愛を受け続けてきたにしては、当の賢治は“親の心子知らず”といった印象が続いていた。決して仲が悪かった訳でも疎遠だった訳でもないとは思うが、最後まで単なる“仲良し親子”とはならなかったように感じた。

なぜ政次郎はそこまで子に対して献身的だったのか。
政次郎自身、父である喜助の跡を継ぐ形で質屋で生計を立てており、家業を継ぐというのはごく自然な事だっただろう。本人がそれに対してプライドを持っているのなら尚更だ。そんな折、子の誕生が切っ掛けかどうかは不明だが、家業を継がなかった人生の可能性がほんの少し見えたのかもしれない。父として、人生の先輩として指南しつつも、自分とは違う道を往く人生を、血を分けた子の成長と共に追体験してみたかったのかもしれない。

賢治からみた政次郎はどのような父だったのか。
親からの好意が唯々鬱陶しく感じてしまったり、少しでも否定や反対意見を受ければ激しく反抗してみたり。そういった時期というのは成長の過程で多くの人が通るものだと思うが、政次郎と賢治の距離感というものは独特なもののように感じ、感謝や尊敬の他にも様々な心理戦のようなものが垣間見られる。不測の事態に於いても父として、家長としての自覚を持ち、義務を務めようと毅然に振る舞う政次郎の姿は流石であるが、そんな偉大な存在である父と肩を並べたい。自分にやり方で超えてみたいという思いがあり、それらの感情が幾度かの衝突を招いたのかもしれない。最後の最後で臨終の瞬間を敢えて政次郎に見せないようにしたのも、そういった心境だったのだろうか。

当時の常識や風習以上に我が子の意思を汲み、尽くし続けた政次郎という父親あってこそ、今では誰もがその名を知る“宮沢賢治”が生まれたのだろう。しかし、病という致し方ない事とはいえ、親より先に逝ってしまうというのはやはり最大の親不孝であるとも思うし、残念でならない。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
宮沢家は親と子どもの距離が近いと感じた。ここで言う距離とは親と子が身近に一緒に居るという物理的なものではなく、心の繋がりという精神的なものである。例えば、政次郎が子どもの意を汲みながら進路を選択し、援助をする姿は、現代の親のそれよりも責任感や温かみがあるように感じた。また、宮沢家の子どもが親に対して向ける尊敬や感謝の念も、現代の子どものそれとは違う。要するに、宮沢家の親子関係を見ると、現代の親子関係は、心の繋がりが希薄になっているのではないかと思うのだ。

まず、私は当時の親子関係には、時代背景が大きく影響していたと考える。本書の舞台である明治中期、大正期は、まだ凶作による飢饉、赤痢や結核やスペイン風邪などの疫病、日清・日露戦争があった時代で、現代と比べると死というものが身近なものであった。特に、疫病は子を持つ親を深刻に悩ましたはずである。なぜならば、医療が未発達だった当時、死亡者数の約半分は幼年期、少年期の子どもで占められていたからだ。私は、この死と隣り合わせという現実が、否応なしに親が子を想う気持ちを強くさせていたと思うのだ。現に、政次郎と賢治の心の繋がりが急激に強くなったのは、政次郎が親の幸福の頂点を感じたという赤痢の看病体験以降である。また、私は当時の家制度も親子の心の繋がりを強くしていたと考える。家制度で家長は一家の中で絶対的な権力を持つと同時に、一家を養う責任を背負っていた。本書でも、政次郎は常に働き、一家を養う責任を全うし続けていた。更には、政次郎の子育てや父親像に対する革新的な信念、想い、行動が宮沢家の親と子の心の繋がりを一層強くしたと考える。政次郎は当時の常識に囚われることなく、流されることなく、自身で考え抜いた上で、父親として振る舞っていた。例えば、賢治の看病や中学進学、清六の意を汲んだ家業の廃業などは、どれも当時では常識外れであったに違いないが、政次郎は子どものためを想い、判断したのである。その姿を見ていた賢治やトシや清六が政次郎へ抱く尊敬と感謝の念はどれほど大きかったのだろうか。

一方で、現代の親子関係はどうか?現代は当時とは違い、飢饉、戦争もなく、また、子を持つ親にとっては深刻な問題であった疫病や医療についても、心配をすることは殆ど無い。また、家制度は戦後廃止され、親子間の関係や空気は管理・封建・ピラミッド的なものから自由・民主・フラット的なものになった。確かに、安心、安全、平和な世の中、及び権力、権利の偏りの少なくなった親子関係は、人類の文明や文化、価値観の発展、進歩、進化が齎した賜物であり、喜ばしいことである。しかし、本書の中の宮沢家を見ると、現代の親と子の間で失ったモノがあると感じてしまうのだ。私は、それが親と子の心の繋がりだと思うのだ。ここで、時代の移り変わりや進歩により、現代の父親は仕事、母親は家事に従事する時間が減り、余暇の時間の時間が増えたことに伴って、親と子で一緒に居る時間も増えているという見方もある。確かに、私と自身の子どもの場合で言えば、一緒に家に居る時間は充分ある、食事に出かけたりもする、休日を利用して旅行に行ったりする機会もある。一方で本書の中では、その様な家族で過ごす描写が殆どない。しかし、それは単に一緒に居るという物理的な近さであり、心の繋がりという精神的な近さは、また別なのである。なぜならば、一緒に居ることが、必ずしも心の通い合いを生むわけではないからだ。例えば、レストランで、皆が各々のスマホを覗き込んで会話をしていない家族を見かけたことはないだろうか。その状況では、親子の間で心の通い合いがあるとは言えないと思うのだ。

では、その親と子の心の繋がりが希薄な状態が続くと、どのような深刻な問題を生むのだろうか?私はDV、育児放棄、引き籠り、介護放棄などの問題が生まれると考える。なぜならば、親と子の間に意思の疎通、互いに想いやる気持ち、愛情がしっかりとあれば、どれも起こりづらい問題だからだ。ならば、親と子の心の繋がりの希薄化を起こしている原因は何なのか?この原因に関しては、経済的状況、生活様式、社会的価値観の変化など様々な事が考えられるが、現在の我が家の場合で言えば、合理性、便利性、親の利己性に重みが置かれている“子育ての外注化”が、その原因となる可能性があるのではないかと本書を読んで考えるようになった。私の造語である“子育ての外注化”とは、例えば、学校外での学習を塾などに全て任せること、親が忙しい時、子どもにスマホやタブレットなどを玩具として与え、親自身の時間を確保すること等である。確かに、塾で学習した方が親自らで子どもに教えるよりも、子どもの理解度、進捗度は上がるので合理的と言える。また、ユーチューブを視たり、ゲームで遊んだりすれば、子どもは熱中するほど楽しめ、親も自身の時間を即席で簡単に確保が出来る。つまり、2つのケースとも親と子どもの双方にメリットが有るのだ。しかし、この“子育ての外注化”が度を過ぎると、親子間の心の繋がりが失われるのではないだろうか。なぜならば、“子育ての外注化”には、親と子の間で心の通い合いは無いからだ。

さて、本書を読んだ私は、今後親としてどう振る舞うべきなのか?私には、コロナに対して過度に恐怖することも、我が家に家制度を復活させることも出来ない。出来るのは、政次郎の様に世の中の常識に囚われることなく、徹底的に子どもを観察し、考え、子どもの立場になって想像し、正しいと思ったことを試行錯誤することである。例えば、自らで算数なり、国語なり、勉強を教えてみるのだ。間違いなく、私が教えることは塾での学習よりも、理解度、進捗度を測れば、効果的でも、効率的でもないだろう。ただ、そこには、今までには無かった親と子の心の繋がりが生まれるのだと思っている。


~終わり~
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
「銀河鉄道の父」を読み、印象的だった点は、政次郎と賢治の関係は、「親子関係にしてどこか歪んでいるのでは?」と感じたことである。どこが歪んでいると感じたか?それは、政次郎が賢治のわがままを聞き入れるたびに自己満足にひたり、賢治は大人になっても政次郎に甘え続ける関係性にあるように思ったことである。

政次郎は親として賢治に何度も期待をかけていた。期待とは賢治がいつか喜助の代から続く質屋の跡を継ぐことであった。しかし、政次郎の期待は賢治に裏切られる。政次郎が賢治に期待をかけると、賢治は質屋の道ではなく、別の道に進もうとするのである。それにも関わらず、政次郎は賢治のそういった行動を受け入れ続けたのであった。たとえば、賢治が小学校を卒業するとき、質屋の道に進むのではなく、中学に進学したいと言い出したときである。政次郎はきっと賢治が小学校を卒業したら、質屋を継ぐことを願っていたことだろう。親として、賢治に自分と同じ道を歩んでほしいと考えただろう。それはきっと学歴も同じで、政次郎は中学を卒業せずとも、立派に父親の家業を引き継ぎ、地元の名士として成功していることから、賢治もそうなることを望んでいただろう。しかし、賢治は中学進学を希望したのである。きっとショックだっただろう。賢治が幼い頃から、政次郎は喜助とともに立派に質屋の仕事をする背中を見せてきて、裕福な暮らしを子どもたちに与えることができ、賢治も自分と同じ質屋の跡を継ぎたいと考えていると思っていただろうから。

政次郎は賢治に中学に進学したいと言われたとき、もしかすると賢治を勘当することを考えたかもしれない。なぜなら、当時は明治末期から大正初期で、家は末代まで引き継いでいくものであり、家督は長男がつぐものであり、長男は親と同じ道を歩むことが当然と考えられていたからである。親の命令に背くことは、家から追い出さても仕方ないことであったのではないかと思う。賢治が親の反対を押し切って、自分の進みたい道に進みたいと言い出したことは、宮沢家では大問題だったのではないと思う。そんな状況であるにもかかわらず、政次郎は最初は反対していたが、最終的には政次郎が喜助に「これからの時代は質屋も学が必要だ」と進言し、賢治の中学進学にOKを出したのだ。なんて理解のある親だと思った。

しかし、歪んでいる感じた点はこのあとである。「自己満足が噴水のように脳ではじけた。(中略)自分ほど理解がある父親がどこにあるか(P111)」にあるように、政次郎は己の言動に酔っていたのである。他の家ではできないような決断が自分にはできた立派な親なのだと。賢治はそんな親の元に生まれてきっと幸せだろうと。この時代だったら、普通絶対できないような決断をできる自分はなんて器が大きいのだろうかと。息子のわがままを受け入れる自分はなんと寛大なのだと、自分にうっとりしていたのである。

政次郎のこうした自己満足はこのあとも繰り返されるのであった。賢治は中学を卒業したあと、家業を継がないとまた言い出し、高校に進学したいと言い始めた。賢治は、政次郎の期待とはまた別の道に進むことを望むのである。このときも、宮沢家では問題になっただろう。結局このときも、政次郎は最終的に賢治の進学にOKを出したのだった。このときも、政次郎は「自分はなんて理解のある親なのか」「賢治のような自分勝手な息子の希望を叶え続けられる自分は人格的に優れている」などと自己満足感に浸ったことだろうと想像する。こうしたやり取りは、賢治の同級生たちが社会人になって自立するような歳になるまで続くのであった。

政次郎と賢治のこうした関係は、見方によって、DV夫婦の関係と似ているように思ったのだ。DV夫は衝動的に妻に暴力を働いたあと、妻が自分から離れてしまうかもしれないという恐怖心から謝ったり優しい態度を取る。そうした態度を受けた妻は「普段は優しい夫がこんなことをしたのは自分が悪い」とか「自分が夫を支えなければいけない」とか「自分がいないとこの人はだめになる」と感じるようになり、DVを受け入れてしまい、DVを受け入れている自分に高揚感を感じるのだと言う。DV夫婦の関係は、政次郎と賢治の関係に近いように思う。賢治は子供として親に繰り返し甘える。それは子供だから当然である。政次郎は賢治が家業に入ることを願い続けるけれども、裏切られ続けて、賢治は常に別の道を探し続ける。政次郎はそんな賢治が見つけてくる新しい決断を最終的に尊重して、受け入れていく。受け入れるたびに、自分が賢治を支えなくてはいけない、自分が手を差し伸ばさなければ、賢治がダメになるといったことで、自己満足感を満たしていき、さらには、自分の存在価値を感じているように見えて、それが歪んでいると思ったのだ。

親子の関係性を改めて考えさせられる一冊であった。
 
投稿者 3338 日時 
「お前は父でありすぎる」この一言が大変印象的でした。読み終わってこの一文に思うことは、父であり過ぎたから、天才を育てることができたということです。

宮沢賢治は有名な童話作家で、元々は地質学者であることしか知りませんでした。この本を読んで父親の宮沢政次郎が愛情を注いで育てたから、天才が育ったのだと納得しました。この時代の一般的な父親とは、あまりにかけ離れた愛情の注ぎ方に驚きます。時代の価値観や常識、地域的な習慣などを全て飛び超えて、息子の全てを受け入れ愛情を注いで育てたから、宮沢賢治は宮沢賢治たり得たのだと思いました。
 
ではなぜ、政次郎は長男である賢治に対してこのような接し方をしたのか。それは息子が生きていることに価値を見出したからです。現に賢治は7歳の時に赤痢で命を落としかけ、政次郎の手厚い看護で快方に向かいます。  

時代背景としては、この時代の子供の死亡率は高く、7歳まで生き延びることが難しいのは常識でした。特に東北地方では、子供は5歳までは神様のものという意識もありました。流行病や麻疹で命を落とす子供も多く、今でも麻疹は命定めとも言う人もいるくらいです。
ちなみに、子供の死亡率のデータでもっとも古い1899年と、直近の2018年のものでは

乳幼児死亡率……15.38%/0.19%
新生児死亡率……7.79%/0.09%
      ※(1899年/2018年)

幸いにも賢治は回復しましたが、死んでもおかしくない状態でした。元々、可愛がっていた賢治が生き伸びたことに対する感謝の念が、その後の全てを受け入れ、見守ることにつながっていきます。

実際に妹のトシも成人してからですが、亡くなっています。子供たちがいる限り、すべてを受け入れ、あるがままの人生を歩ませたい。そのためには家業を廃業することも厭わないという、その政次郎の覚悟は、当時の人には理解されなかったと思います。死んでいたもしれない息子が、生きていることの有り難みが分かるから、あらん限りの愛情を注ぐことができたのではないかと思います。

しかし、現代よりも病気の治癒率が低くく、たとえ裕福であっても死亡率が高かった時代ですから、この時代の親は誰もが、我が子の死を意識して生きていました。それなのに、なぜ政次郎だけがこれほどまでに、子供に愛情を注ぐことに躊躇がないのでしょうか?子供は時に親の神経を逆撫でします。家業である質屋を営む父親を全否定する場面もあります。否定されて傷つかない訳がありません。それでも、その傷ついた状態でも、政次郎は賢治と関わり、全て受け入れること選びます。この時代では勘当されることもよくあります。どんな状態であっても、たとえ否定されても、関われることの幸せを政次郎は知っていたのでしょうか。

加えて、家が裕福であったことも根拠として挙げられます。お金があるということは、選択肢がたくさんあるということです。たとえば、働かなくても生きていけるほどの蓄えがあれば、無理をして家業を継がせる必要はありません。政次郎は父親の喜助の手前、取り繕うことはあっても、子供たちにお金を使うことに躊躇は無ありませんでした。その蓄えのほとんどは、自身の進学を諦めて作ったものですから、罪悪感も無かったと思います。

また、p89で『子供の意を汲み、正しい選択をしその選択のために金も環境も惜しみなく与えてやれる父親がどこにあるか。」とありますが、政次郎は賢治を始めとした子供たちに、同じような態度で接しています。子供たちの態度に、葛藤を覚えても、政次郎はこの姿勢を貫き通します。

それは、政次郎が父親としてあるべき姿を自分に課し、それを全うすることを決めていたのではないでしょうか。他人の軸で判断するのではなく、自分の軸をしっかり持って、子供たちと対峙していたのだと考えれば、いろいろと苦々しく思うことがあっても、態度を変えることなく、あるがままを受け入れ、愛情を注くことができたと思います。
 
ところで、読んでいる途中で羽生さんの話を思い出しました。「出されたものは全て食べる」
娘の全てあるがままを全て受け入れれば、娘は人並みになってくれるのでしょうか?と考えつつ読み終わりました。できそうもないことに思えますが、今まで「娘のあるがまま」を受け入れたことはありません。「こうあるべき」をやっとやめたところです。ですから、もう一歩進んで『あるがまま」を受け入れてみようか?できるのであればやってみたいのですが、自信がありません。なんとなくそうしてみたらと、誰かがささやきます。これからはその方向で、娘に向い合いたいと思います。

最後に宮沢政次郎という人は、息子の宮沢賢治のあるがまを無条件に受け入れるという、37年間もの偉業を達成しました。その行程が産んだリターンが、今の宮沢賢治の評価だとすれば、何倍のリターンであることか!とふと思いました。
そんなことはない、と反論されてしまいそうですが、天才を育てたという評価は親にとって一生をかけても悔いの無い、最高の評価ではないでしょうか?
 
投稿者 vastos2000 日時 
本作は「宮沢賢治の父である」政次郎が主人公であり、父の子に対する愛を描いた物語であるから、自分自身の父子関係を思わずにはいられない。

子に対する愛情とはどのようなものだろうか?
明治~大正と平成~令和では、時代背景が異なるので、父親の常識的な振る舞いや慣習は異なる。だが、普遍的な部分もあるだろう。

まずは自分が子ども(学生)だった時のことを思い出す。
今にして思えば、(父からも母からも)愛情を持って育ててもらったと感じる。過剰に甘やかされる事もなく、適度に行動(夜更かしやファミコンなど)も制限され、運動と睡眠と栄養をしっかりと取ることができ、丈夫な体を手に入れることができた。(中学と高校は皆勤。血糖値が高めの体質は受け継ぎながらも40歳すぎてからずっと健康診断はオールA、視力も両目とも1.2以上を維持。昨年の冬は一度も風邪をひいていない)。
また、無理に勉強させられることもなかったし、かと言って宿題を手伝ってもらうこともなく、自分から塾に行きたいと言うまで塾に行かされることもなかった。
逆に、塾を含め、やりたい習い事(サッカー、そろばん、英会話)はやらせてもらえた。中学3年の時は塾に行かせてもらったおかげで成績はかなり伸び、地元ではそこそこの進学校に合格することができた。
高校生の時はラグビーという、身体的に危険なスポーツをやらせてもらうこともできたし、高3の夏休みは予備校の夏期講習にも行かせてもらった。
そして大学は実家を離れ、私立大学(しかも文学部)に通わせてもらった。大学時代は自分で買いたいものを買うためにアルバイトもしたが、家賃と学費は親に出してもらった。今の大学生のおよそ半数が日本学生支援機構から奨学金という名の借金をして大学に通っていることを思うと非常に恵まれていたと思う。(今年度から高等教育の無償化制度が始まったので、今後この状況は変わるはすだが)
基本的にはやりたいことをやらせてもらった学生時代だった。

上記のような環境を与えられて育ったので、自分の子ども(娘と息子)にも同じように接したいと思っているが、少し甘やかしてしまっているように思う。

愛情と甘やかしの間に境界線を引くことは難しいが、私は「相手のためによかれと思ってするのが愛情、相手が困っている姿を見るのが(自分が)嫌だからするのが甘やかし」だと思っている。つまりは、相手のことが先に来るのが愛情で、自分の感情が先にくるのが甘やかしだと考えている。
ただ、私は将来のことを考えると子どものためにならないかもと思いつつ、子どもが泣く姿を見たくないというような感情から行動してしまう(正確には、子どもを甘やかす妻の行動を止めないこと)がある。


と、長々と自分自身のことを書き連ねたが、本作の主人公の政次郎は、私からすれば「容赦なく甘やかしとる」と思う場面が度々ある。失火を不問に付した時もそうだし、農学校に研究助手として残ることを認めた時もそう。
ただ、人工宝石のような怪しい商売に手を出そうとしたことを止めた以外は、賢治本人のやりたいようにやらせている点がなかなか真似できない。私だったらどうしても自分の考えを押しつけたりするような時も、政次郎は賢治をコントロールしようとはしない。
例えば、家業の質屋を賢治に継いでほしいとは思っていたが、割とあっさり諦める(質屋に向いていないと判断した?)。清六に対しても質屋にこだわらなくとも良いと告げる。
つまりは、政次郎は子どもを支配あるいはコントロールしようとしていない。
政次郎が『子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る』(p66)と思ったことには同意する。本当にこれは精神的な負荷がかかる。

政次郎のような、明治~昭和初期にかけては稀な父親あってこそ、童話作家・宮沢賢治が生まれたのだろう。
文化的な事業をするには金銭的な余裕がなければならない。賢治自身も畑仕事を手伝わずにすんでいるのは裕福なおかげであることがわかっていただろうし、創作活動、文化活動に充てる時間を捻出するにはどうしても命をつなぐカネが要る。
生きることで精一杯といった状況で、詩作や執筆活動をすることは困難だろう。
その点、宮沢賢治という才能を潰すことなく、作品を世に残した政次郎の功績は大きい。政次郎の異常とも言える愛情がなければ世に埋もれて終わっていたと思う。

以上のように、作中の政次郎の態度に考えさせられ、自分自身の父子関係を思い返し、「父の子に対する愛情」を考えてきたが、時代よって表出の程度や表現の仕方は異なれど、「自分の子どもは理屈抜きに可愛いし、子どもの栄達や成功を祈らずにはいられない」のが普遍的な親の愛情ではないだろうか。
ただ、本作の時代の父親達は(政次郎のような例外的な存在をのぞき)“常識的に”愛情を表に出さずに子どもと接していたのではないだろうか。
「表現する/しない」は異なったとしても、この気持ちは昔から変わらないモノであると、私は思う。
 
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書を読んで驚愕するのは、政次郎の常軌を逸した子煩悩ぶりである。例えば、賢治が病気になれば、家業を投げ打って病院に泊まり込み、献身的に看病する。意に沿わない進学であっても学費を出し、就職先の給金が少なければ仕送りをする。もちろん、賢治のためを思えば、壁となって立ちふさがり、嫌われ役を引き受けることも厭わない。しかし、そんな政次郎に逡巡がないわけではない。要望を叶えることで、賢治をダメにしてしまうのではないかという恐怖、こんなに手をかけているのに、なぜダメなのかという落胆。これらが痛いほどに胸を打つ。なぜならば、これらは私自身、子育てをしていて常々感じていることだからだ。私は一児の母だが、子供を親の思い通りに育てることなどできないと感じる。子供の持って生まれた性質を、親が選べるわけではないからだ。私の身近には、子供を理想の型にはめようとして、子供の生きるエネルギーを奪ってしまう、いわゆる毒親が散見され反面教師となっている。そういう意味では、子育てではいかに諦観できるかが大切なのかもしれない。ゆえに本書の政次郎は、私にとって、親としての手本を示してくれる貴重な存在となったのである。

私が、政次郎の子育てを素晴らしいと考える理由は二つある。一つ目は、政次郎が自己責任で支援を判断している点である。父である喜助に「父でありすぎる」と苦言を呈されようと、世間からとやかく言われようと、政次郎の献身は揺るがなかった。政次郎は、賢治の育て方に悩み、時に進路に反対し、逡巡しながらも、一旦決めれば、全力で賢治に愛情を注いでゆく。そんな一本筋の通った生き様は大変魅力的であるばかりか、子どもの精神の安定にも大切であると考える。私の経験上も、子の進路について、教師や専門家になんと言われようとも、本人の意思に任せたことがある。なぜならば、たとえ結果が思う通りでなかったとしても、誰かのせいにすることがなくなるからだ。親として、子どもの意思を優先すると覚悟を決めたことで、私自身も納得できた。

二つ目は、一方的に与えるのみで、見返りを期待しないところである。それは与えたものよりも、与えることで得られたものに目を向けているためだ。例えば政次郎は、賢治の看病をしている時、「親の幸福の頂点」「これぞ男子の本懐」と無上の自己肯定感を得ていた。私の場合、つい与えたことばかり意識してしまい、「ここまでやったのに、なぜ?」などと恩着せがましく思ってしまうことがある。なので、この政次郎の発想に反省させられた。のちに賢治が執筆した「銀河鉄道の夜」のジョバンニのセリフに、「人間は他人のことを思いやって行動し、良い結果を得た時に、心からの喜びを感じるものである。その喜びこそ、人間愛に基づくほんとうの幸せなのである。」というものがある。これはまるで政次郎の生き方のようだ。私にとって子育ての毎日は戦場のように慌ただしくなりがちであるが、与えることで得ている「ほんとうの幸せ」を意識することで、親の人生が豊かになってゆくように思う。

とはいえ、政次郎の子育てについては、「賢治を甘やかし過ぎ」との否定的な意見もある。しかし、そうではないことが、お金の使い方に見て取れる。政次郎は、夏期講習会などの費用を負担し、地域に富を還流させていた。このような利他の姿勢が元からあったのであり、賢治一人を溺愛し、湯水のごとく散財していたわけではない。たまたま賢治が想定以上に手のかかる子どもであり、その分余計にお金もかかっただけである。これは、賢治の性質に応じた措置であり、いわゆる甘やかしとは一線を画すものであろう。生きることに不器用な子どもだからと切り捨てず、親としての支援を惜しまない姿勢と、田舎だからと諦めず、地域の名士としての貢献を惜しまない姿勢とは、同じ方向性であるからだ。

賢治は大人になりきれず、いつまでも子供のような人だったが、政次郎はそれを無理やり矯正しようとはしなかった。あのような厳格な家父長制がある時代、作家の才能が開花するかどうかも全くわからないうちから、深い愛情を注ぎ、支援を続けたことにより、数々の作品が生まれることとなったのだ。よって、宮沢賢治という作家が生まれたのは、父である政次郎のおかげであるといえる。言い換えるならば賢治は、政次郎によって創られた、美しい人造宝石であったのかもしれない。そう考えることで、辛いことばかりに目を向けがちな子育てにも、創造的な一面を見出し、心のゆとりが生まれてくるように思う。私はこれからも子育ての悩みは尽きないと思うが、同じ想いを抱いていた政次郎の存在を心に留め、悔いの残らないよう、子どもに愛情を注いで行きたい。
 
投稿者 H.J 日時 
宮沢賢治と言えば、学校の教科書にも載るほどの偉人で義務教育を受けた日本国民であれば、誰もが知る名前である。
ただ、私はその人物像について聞かれてると答えられない。
銀河鉄道の夜や雨ニモマケズの作者としてのイメージしかなかった。

そんな宮沢賢治を父である政次郎の視点から描かれた本書は、純粋に小説として完成度も高く、予備知識の無い私も楽しめた。
特に最初と最後の山場のシーンである政次郎による看病の場面には感動した。
7歳の頃の看病の場面では、この時代において異例中の異例と言える父親が病院に泊まり込みで看病する姿と、痛みに堪えながらも感謝を伝える賢治の描写が丁寧に描かれており、父と子の絆を印象付けたシーンである。
一方、賢治にとって最期の闘病の場面では、苦しい中でも自分の出来る事を世に残そうと懸命な賢治と、覚悟を決めて賢治に寄り添い尽くす政次郎の姿が印象的であった。

「お前は、父でありすぎる」
賢治の祖父、喜助の言葉はとても的を得ている。
同時に本書における政次郎という人を良く表す言葉だ。

先に述べた通り7歳の頃の看病の場面は、父と子の絆を印象付けるシーンであり、父親としての政次郎像が読み手の中で固まるエピソードでもある。
その後賢治が快復したところから、結果的に父親としては正しかった様にも思える。
しかし、別の視点から見ると疑問が浮かぶ。
家長として、この行動は正しかったのか?
万が一、看病の末に伝染った病気が原因で死ぬ可能性もあったはずだ。
賢治の妹、トシと幼きシゲも家にいる中、家長である政次郎が倒れてしまっては、宮沢一家はどうなるのだろうか。
短期間であれば、喜助がなんとかしたかもしれないが、長期的になると喜助が何とか出来る保証はなかったはずだ。
一般的にこの時代の男性の平均寿命は43歳前後と言われており、この平均寿命に子どもの死亡率が含まれることを除いても、当時63歳になる喜助が長く家を守れる保証はどこにもなかったのだ。
そう考えると、とてもリスキーであり家長としては正しい選択とは言えない。
逆に言えば、その可能性が視野に入らないということは、政次郎が賢治の死を恐れ、賢治を大切に思っていたことの表れでもある。
その後の腸カタルに罹り自分自身苦しいはずなのに賢治の快復を喜ぶ姿は、まさに父でありすぎる。

父でありすぎるあまり、賢治に甘い部分もたくさん見られる。
いたずらの犯人が賢治と知りつつも不問に付すこと、金の無心に応えてしまうこと等、少々甘やかしすぎではと第三者には思えてしまうが、これが親心なのかもしれない。
帯に書かれてる様に、やっぱりわが子はかわいいものだ!なのだろう。

そんな賢治が床に臥す最期の闘病場面、政次郎の想いは計り知れない。
一度目の看病で自身を省みれないほどに感じた賢治の死という恐怖。
その死が現実に迫ってきているのだ。
父でありすぎる政次郎でなくとも取り乱しそうなものだ。
しかし、この場面での政次郎はとても冷静だった。
むしろ、残された賢治との時間を大切に過ごしている。
何よりも賢治のことを考えていた。
思い出話と謝罪をした時に弱気になった賢治に対してあえて厳しく成長を促したり、稲熱病に悩む百姓の対応をする賢治を止めきらなかったことも、全部賢治を思うが故にやりたいことをやらせた様に映った。
また、最後の遺言を書き残すことも、家長故の覚悟は勿論のこと、何よりも父として息子の生きた証を残し、最期の願いを叶えてあげたかった様に思えた。
そして、死後、遺言である約束を果たすと共に賢治の一番の理解者になる姿は、やっぱり父でありすぎる様に思える。
なぜならば、生涯かけて信じてきた浄土真宗から息子の信じる法華経への改宗を考えるほどなのだから。
 
投稿者 jawakuma 日時 
「銀河鉄道の父」を読んで

童話作家で詩も得意な宮沢賢治。小学生の時、彼の童話集で「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」を読み、完全にファンになったのですが、父親の目線から見るとこんなにもダメ息子だとは思いもしませんでした。自身で農業を行い、結核で亡くなったことは知っていたので、岩手の貧しい農家の出身(「雨ニモマケズ」のイメージ)なのかと思っていたので、裕福な町の名家である質屋の出身とは思いもよりませんでした。

現代でこそダメ息子に対しても可愛がり、甘やかしてしまう父政次郎の心はわれわれ読者の共感を得るところですが、賢治が生きた明治末期~大正~昭和初期という時代において、その考え方は一般的とはいえないものだったことでしょう。その周りの反応が政次郎の父である喜助による「お前は、父であり過ぎる」P52の言葉にも表れています。

明治29年生まれと言えばちょうど私の祖父よりもさらに10歳程上になる世代ですが、祖父どころか昭和15年産まれの私の父でさえも“百姓に勉強は要らない”と進学を親から反対されたエピソードがあるそうです。賢治やその妹のトシはその時代において、中学校を出てさらに高等農林学校や女子大学(しかも今もお嬢様学校のポン女)を卒業しているとは、宮沢家はさぞや優秀な一門だったことでしょう。子どもに教育を授けた政次郎は進んだ考えの持ち主だったと思います。

ましてや、河原で石ころを拾い収集している我が子達の没頭する姿にうらやましがり、自らも雑誌を読んで知識をえながら、台帳の必要性を論じ、高価な標本箱を買い与えているのです。この時代どころか今でもただの子供の遊びに、ここまで投資できる親はなかなかいないでしょう。政次郎の心の言葉でもあったように(P102)、このような施しは賢治の肥やしになるかだめにするか、答えはこの時点ではわからないのです。

政次郎が地元の名家として、高僧を招き参加者の費用までをすべて賄い勉強会を後援して、利益の還元を行っていました。積徳の家には幸い訪れり、と平和に展開していけばいいのですが宮沢家の現実はなかなか難しいものです。政次郎の弟、治三郎の死にはじまり、桜の家での喜助の死、トシはスペイン風邪に罹患し、病に苛まれる生活を送り結局は結核により亡くなってしまいます。そしてその桜の家で、長男である賢治も無理な生活を送り、結核に罹患し亡くなってしまうのです。ちょっと亡くなり過ぎな気がしますが、人生50年の昔では病没も珍しくは無かったのでしょうか。 

 質屋の店番も務まらず、大人との会話もままならない賢治。国柱会に入り、布教のために太鼓を打ち鳴らしビラ配りを行い、製飴工場、人造宝石、山資源の掘り当てと夢見がちな事に固執する賢治。上京して国柱会にあしらわれ、ガリ版切りの生活で自分の身の丈を思い知りますが、そこで文章を書くことへの気づきを得るに至りました。農学生の頃もアザリアという文芸誌を刊行していたので、執筆活動は行っていたのですが、執筆に重きを置くに至るのには妹トシの存在が大きく影響していました。その後、農学校の教師に就き執筆活動や羅臼地人協会の活動などをしながら充実した日々を送っていたかに思えましたが、大人しくしていた結核が再度頭をもたげ、再発。最期は自分の著作が世に広まることも知らぬまま他界してしまいました。 

それでは政次郎の思い、教育は失敗だったのでしょうか?我が子に先立たれるその辛さは、筆舌し難いものがあったことは間違いありません。しかしながら、賢治のその生涯に多大なる影響を与え、厳格な父でありながら、甘やかしながら金の無心に応ずることによって、賢治の作品は初めてその形を表すことができたのではないでしょうか。その意味では政次郎は世界の文芸のための大きな施しを行ったといえると思います。
 
個人的には妹トシが生き永らえ小説家になっていたら、さぞや名作を残していたのではないかと惜しくてなりません。

 今月も良書をご紹介いただきありがとうございました。