投稿者 mkse22 日時 2020年9月30日
「銀河鉄道の父」を読んで
本書は、銀河鉄道の夜などで有名な宮沢賢治について、
父親である政次郎の視点から描いたものだ。
私にとっての宮沢賢治は教科書に載っている有名人というイメージしかなく、
銀河鉄道の夜も何度か読もうとしているが、未だにに最後まで読み通せていない。
性的な感じが全くしない、子供のときには誰もがもっていたと思われる世界観には、
強烈に引き付けられるのだが。まだ、私には読むべき時期ではないというべきなのか。
(ちなみに本には読むべき時期があり、読むためには必要な経験や考えを身に着けずに読むと最後まで読めない、読んでも何も印象に残らないと考えている)
大人になっても子供心を表現できた宮沢賢治が、本書ではお金持ちのドラ息子として描かれており、
それが彼の作品から想像できない人物像だったため、正直驚いた。彼の作品は俗世間に染まった人間には書けないと考えていたからだ。
その息子に振り回されながらも見守っている政次郎に、私は現代的な父親像をみた感じがした。
子供を成長させたがったり、仕送りを求められると甘いと思いつつ、つい送ってしまう。
このような親は現在にもいるだろう。むしろ、政次郎が生きた時代に、彼のような父親は珍しいのかもしれない。当時の日本は貧しく、子供の教育まで考える余裕がなかったと思われるからだ。
そう考えると賢治と政次郎は、現在的な親子関係なのかもしれない。
特に印象に残っているのは以下の箇所だ。
『お前は、父でありすぎる』 (Kindle の位置No.430)
ここから感じるのは、政次郎の賢治への精神的な依存だ。
父親の愛情とも感じ取ることもできるかもしれないが、この見方に私には違和感がある。
その理由は以下の通り。
病気にかかった賢治の介抱をした結果、政次朗は下腹の激痛が走り、高熱をだしてしまう。
しかし、彼にとって、賢治と無駄話をできたことに代償としての病気は安いものと考えている。
そんな政次郎を喜助は『…… 甘やかすな』(Kindle の位置No.441)と注意している。
もし、政次郎の行動が愛情に基づいているのであれば、「代償」とか「安いもの」という考えとは結び付かないはずだ。
なぜなら、愛情とは損得勘定とは関係なく相手に与えるものであるからだ。
高熱と無駄話の交換が成立した時点でそれは取引であり、取引には損得勘定がある。
以上より、政次朗は賢治と損得勘定で接しているため、彼の行動を愛情とはいいがたい。
それでは、政次郎の考えを精神的な依存の視点のみで捉えることで十分かというと
そうでもない。
政次郎は、家業を息子につかせようとしたり、息子が病気で苦しんでるときでも
息子の成長のためには悪人を演じることも厭わない面がある。
『父親の業というものは、この期におよんでも、どんな悪人になろうとも、なお息子を成長させたいのだ。(Kindle の位置No.4473-4474)』
ここから、政次郎の賢治への厳しさというか自分の願望を子供に押し付けている面が垣間見える。
ここには賢治への精神的依存は見られない。賢治の考えや行動に政次郎がふりまわされていないからだ。
このように、政次郎には賢治に依存している面とそうでない面がある。
なぜこのようなことになっているのだろうか。
思うに、政次郎が自分自身と他人(賢治)との境界を明確にできていないことが原因ではないだろうか。
少し調べたところ、心理学用語でいう境界線(バウンダリー)が引けていない状態に相当するのではないかと。
賢治は息子であるため、自分自身ではない。だからと言って他人というわけではない。日本語で言うところの身内である。ある意味、自分に限りなく近い他人である。
だから、他人だったら簡単に引ける境界線(バウンダリー)を引きにくく、そのあいまいな状態が
賢治への態度に表れてしまったのではないか。たしかに、賢治を自分自身と見做している部分があると考えれば、精神的な依存も願望の押し付けも政次郎にとっては他人でなく自分自身にしていることになるため、他人であれば起こりえないことでも成立してしまうのかもしれない。
以上より、現代的な父親像とは、境界線(バウンダリー)の引き方に苦労している人というべきなのだろうか。そんなふうに考えてしまった。
今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。