第72回目(2017年4月)の課題本
4月課題図書
アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか
アーミッシュはアメリカに住むキリスト教の一宗派で、現代文明を拒絶して昔ながらの暮ら
し方を維持している、一見ちょっと変わった集団です。なんたって自動車もパソコンも携帯
電話も使用が禁止されていて、移動には馬車を使うという徹底ぶり。おまけに結婚も同じ
宗派内で相手を選ぶので血が濃くなってしまい、さまざまな遺伝病に悩まされているという
グループなんです。
彼らはキリスト教の中でも異端と思われているんですが、そんな彼らが全米の注目を浴び
る事件があったんですね。彼らの住む町にはアーミッシュの子供たちが通う小学校がある
んですが(驚く事に、学校に通って良いのは中学までで、それ以上の高等教育も拒否して
いるんですね)、そこで銃乱射事件が発生したんです。結局5人の子供が亡くなり、5人が
ケガをするという凄惨な話になったんですが、全米が驚いたのはその直後です。
なんと、被害者の親、つまり自分の子供を銃で殺された人たちが全員、その場で銃を乱射
した犯人を赦すと表明したんです。被害者の誰一人、犯人を非難しなかったばかりか、犯
人の親を抱きしめてその罪を全て赦すと言ったんですね。
これが現代のアメリカで起こったため全米が、アーミッシュの価値観に興味を持つことになります。
彼らは交通事故だろうが、強盗だろうが、殺人だろうが、どんな事件に遭っても、
その全てを受け入れ、犯人を赦し、可能なら助命嘆願までやっちゃうんですよ。
なんでそんなことが出来るのか、彼らの心の中ではどういう思考と感情が立ち上がってい
るのか、ここに興味出て来ません?実はこれ、幸せになるためのショートカットだったり
するんですよ。宗教の持つ別な一面に驚くはずですから。
【しょ~おんコメント】
4月優秀賞
今月は非常に面白い投稿が多くて選ぶのに苦労しました。
いつものように一次選考を通過した人を発表すると、
投稿順に「J.Sokudoku」さん、「lazurite8lazward」さん、「magurock」さん、
「jawakuma」さんの4名でした。彼らの投稿を再度読み直して今回は、
「lazurite8lazward」さんに差し上げることにしました。おめでとうございます。
【頂いたコメント】
投稿者 dukka23 日時 2017年4月24日
「ずっとずっと以前、人間はいい奴ばかりだったが、
恐竜の絶滅と同時期に、悪い奴が出てきた」というのは、
船井幸雄氏の有名な説ですが、
その話が真実味を帯びるように、
このアーミッシュは「いい奴」の生き残りではないかと思ってしまいます。
アーミッシュは物理的、肉体的には、
我々人間と同じかもしれませんが、
中身、精神や魂と言うのでしょうか、それは全く別物と思ったほうがよさそうです。
ですが、輪廻転生や前世があるとの立場をとったとしても、
一定数はアーミッシュのコミュニティーに馴染まず外部に出ていく人や、
犯罪に走る人もいることを考えると、
決して先天的なものだけではなく、後天的、
すなわち教育や日々の気持ちの持ちようによって、
中身に宿るモノが違ってくるとも考えられます。
それがわかっているから、
アーミッシュのコミュニティーは外部との情報をほぼ遮断し、
独自の教育プログラムを延々と続けているのでしょう。
そして、それは今の私たちでも、
行動や価値観の持ち方によって、
少しでもアーミッシュに近づける、という意味でもあると思います。
もちろんアーミッシュの行動に一縷の望み、人類(人間もアーミッシュも含めた人型生物を指す)
の最後の良心を感じない人などは近づきたいとは思わない人もいるでしょうが、
仮に近づきたいと思ったときの話です。
その時には、「赦します」の一言が言えるようになれば、
まずOKなんじゃないでしょうか。ハードルが低すぎると怒られるかもしれませんが。
あのアーミッシュだって、「赦す」ことは難しいことで、
重い重い赦しほど、長い間付き合っていく必要があるといいます。
それは、結局、赦すべきことが起こった瞬間には感情は揺れ動き、
また「赦します」と言った後も、感情がこみあげてきて、
その都度、しかも長い間、葛藤をしているということ。
(その感情をひとまず「憎む」で括っておきます。)
このように、アーミッシュだって、神のように常に穏やかでいるわけではないんだ、
とうことを認識すれば、凡人の私たちが、赦すと憎むを往来しても全然構わないと開き直れると思っています。
だから、私たちが少しでもアーミッシュのようにふるまえるように努力するには、
日常生活で腹が立つことや、嫌いな人を思い出してイライラしても、
一言、「赦します」ということを口に出して言うことがファーストステップなんだと思います。
そして、この一言を口に出すことができれば、
あれ不思議、心がスーッと落ち着いていき、パワーがみなぎってくるので不思議です。
そして、まったイライラしてきたら、気が済むまでイライラして、
最後には、「赦します」という。この繰り返しをどれだけ積み重ねられるか。
それを意識でき、行動するだけで、「いい奴」になるための、
まずは一つ目のハードルをクリアしていく過程に入ったと思ってよいと思います。
テーマは重たく、矛盾も抱え、でも考えさせられる内容でしたが、
精神面、肉体面としては爽快感も残る方法も教えられた一冊でした。
投稿者 u013 日時 2017年4月24日
宗教=恥
私の祖母は、とある宗教団体の熱心な信者だった。
その団体は、過剰な勧誘行為が目立つとして世間から批判される事が多く、事実、父と母が結婚する際に祖母が提示した第一条件も、父の入信だったという。そんな祖母の信仰心を、母は猛烈に否定していた。
その影響だろう。いつの間にか私の中にも「宗教とは、誰にも言ってはいけない恥ずかしいものであり、生涯関わってはいけないものだ。」という概念が確立したのだ。
そこへ今回の課題書籍。概要を読むだけで寒気を感じ、読書中もまるで苦行のようだった。
アーミッシュの赦しが賞賛される度、心臓を吐き出したくなる嫌悪感を覚え、「宗教の信者に純真な心など絶対にあり得ない。加害者を赦して抱き合う?気持ち悪い。」という黒く重苦しい思いが全身を取り巻いた。
何度も、「コメントを書くのも書かないのも自由なのだから、今回は見送ろう。苦しい思いをしてまで読むことはない。」と手を止めた。
しかし、その度に、しょ~おんさんの「幸せへのショートカット」という本書へのコメントが頭をかすめ、「幸せになりたい!」という本能がパンドラの箱を開く原動力となった。
そうして読み進めるうち、私の中にある問いが生まれた。
アーミッシュには、光と影の両側面がある。赦しという心と行動によって、神との約束を忠実に体現する光の部分と、閉鎖的コミュニティがもたらす家庭内暴力や隠蔽体質といった影の部分。
ならば、「祖母の信仰心は、私にとって恥ずべき、憎むべきことだけだったのだろうか?何か学ぶことがあったのではないか?」という問いだ。
目を背けていることにこそ、これまでの自分では得られずにいた何かがあるのではないか、という思いに駆られたのだ。
そうした視点で考え直してみると、
●発表会、入学試験など、緊張と不安に挫けそうなとき、「おばあちゃんが毎日祈っている。守ってくださいって。だから大丈夫。」と言われるだけで、不思議と安心した。
●毎朝毎夕祈りの言葉を唱える祖母。100ページほどの祈りの冊子をスラスラと暗唱する様子を見て、「何度も反復し、習慣にすることで、こんなにすごいことが出来るんだ!」と感動。
●毎夕、ご先祖様にお供えをするという行為を通して、「もう会えないけど、ご先祖様はここにいるのかもしれない。」と思え、目に見えない魂の世界があるのは当たり前として育った。
以上三点が、祖母の教えとして特に印象強い。逆に、今でも虫酸が走るのは、
■教団には階級制度があり、上位に就任するには、お布施の金額が重要であること。
■嫌がる人にも執拗に入信を進めること。また、その勧誘方法が(ここでは公表できないほどに)強引なこと。
■下位の人間は総じてボロ家住まいであり、金銭的に困窮していること。
以上三点だった。
ここまで考えて、気がついた。私は、宗教という文化が嫌いなのではなく、心と行動が合致していない人間に違和感を感じていたのだ。
そうすると、しょ~おんさんが本書を課題図書にされた意図と、日々のメルマガで心を磨く大切さを指導されていることも線で繋がる。
宗教とは、人間の心と行動の関連性を観察するのに、最適な文化形態なのかもしれない。
これらを踏まえた上で、これからの課題だが・・・。
熱心な信仰心を持つほど、心の重要性を理解しながらも、教団トップのビジネスモデルに取り込まれてしまった祖母。その不安で寂しい感情は、私にも受け継がれている。
今は亡き祖母の人生を振り返ると、心の力の強大さに怖じ気づいているのが現状だ。
最後にはなるが、まずはアーミッシュに倣い、そんな自分と祖母の人生すべてを赦し、存在を認めることとする。
宗教嫌いだった自分が、宗教関連の本で癒されることになろうとは、まだ少しむず痒い気持ちで、赦すという単語を打ち込むにも手が震えてる。
だが、「この本と出会えて良かった。出会えなければ、祖母の教えまで否定したままだった。」と思うのも事実である。
そうまでして幸せになりたいのか。おっとりしていると思っていた自分の貪欲さに気がつけたのも、本書からの大きな収穫だ。
投稿者 J.Sokudoku 日時 2017年4月26日
昨年メルマガで紹介されるまで、私の世界の中にアーミッシュは全く存在していなかった。その時、ニッケル・マインズ学校乱射事件においての彼らの行動を知り狐に包まれたようになったことを覚えている。彼らの価値観、文化や行動様式は今まで私の世界を構築してきたそれらとは掛け離れている。こんなにも違った世界に生きる人達が本当にいるのか…。
アーミッシュの存在を認識するということ。それが、私にもたらす気づきや変化は何か、本書を熟読し、思索にふけ、紐づけできそうな記憶を辿った。
1.赦しの持つ力
3年ほど前、私の価値観を決定的に変えた出来事があった。本書を読み、その出来事が“赦しの持つ力”と深く関係していたのだと気づいた。
“今、皆さんには『恨んでいる人』がいますか?”
これは、私が参加したVU編セミナーで先生が受講生に投げかけた質問の中の1つである。
“悲しみや怒りは消えるけど、恨みや憎しみは消えません。その感情を持っているうちは幸せになることは難しい”
と、続けて先生が教示されたことを今も鮮明に覚えている。何故ならば、その時、確かに私には『恨んでいる人』がこころの中に居たからだ。私は、その人物に私の人間性や自尊心を踏みにじられたことに恨みを持っていたのだ。
そして、セミナーの数日後、通りかかりの神社で何気なく参拝をした時のことだ。拝殿でいつものように親族と親近の人達の健康を長々と手を合わせて祈願していたその時、なんとその『恨んでいる人』が脳裏に思い浮かんだのだ…。一瞬迷ったが、神前ということもあり、気持ちを落ち着かせてその人の健康も心を込めて祈願をした。
そして、神社を出たその時、それまでに経験したことの無い不思議な至福感に覆われたのだ。それは、心がス~ッと軽くなり、目の前がパ~ッと明るくなるとても開放的な感覚であった。正に本書にある
「赦しは、それを与える者を癒し、より大きな活力と全体感をもった生に向けて開放する」(P.277)
という、こころと身体が癒される感じそのものだったのだ。
この出来事以来、その人物に対する恨みという感情が無くなってしまい、身の回りの物事が格段に上手く運ぶようになった。
「大切なのは、恨みを抱えないこと」(P.205)
これと同じことをそのセミナーで先生が仰っていたのを覚えている。本書を読むことで、この神社での出来事と先生の教えの意味するところを明確に理解することが出来た。
2.アーミッシュの存在の意味
今回、「アーミッシュの赦し」を通して彼らの世界を知ることは、私にとっては全くの未知の領域に踏み込んで行くことであった。殆ど事前知識を持っていなかったため、本書を読み進めている間は、驚きの連続であった。この感覚は、「こんな夜更けにバナナかよ」で鹿野さんを通して障害者の世界を初めて知った時と同じである。この2冊は、私にこんな世界もあるのだよ、こんな人達も存在しているのだよ、と教えてくれたのだ。
そして、アーミッシュについて考えを巡らすと鹿野さんとの間に2つの共通点があるように思った。1つは、アーミッシュも鹿野さんも非常に不条理な状況に身を置かされたという点である。あんなにも、キリストの教える「赦し」という行為を純粋にそのまま倣うアーミッシュの人達をあのような惨事が襲うという不条理。
「神はなぜ我々をこんな目に遭わせるのだ」(P.240)
という疑問をアーミッシュの人達が持つことには頷ける。また、鹿野さんは生得的に障碍を持ったが故にとてつもない困難と同居しながら生きなければなかった。
『神様が僕に与えた試練は時に残酷に思う。神様が僕に与えた仕事は何かと思う』
鹿野さんが、そんな不条理な状況の中でこの疑問を持ったことも尤もだろう。
そして、これらの疑問への答こそ、アーミッシュと鹿野さんの2つ目の共通点だと思う。それは、“アーミッシュの存在の意味”と“鹿野さんの存在の意味”が共に
“関わった人、知った人の人生を変えるため”
引いて言えば
“この社会を、この世界を変えるため”
に思えてならないからだ。
ニッケル・マインズ学校乱射事件とそれに対するアーミッシュの赦しは世界の人々は驚愕させた。何故ならば、アーミッシュの“悪意”への対処法である“愛情”が、その外の世界の“悪意”に対する対処法である“報復”という手段とはあまりにも掛け離れていたからだ。この衝撃は、事件を知った人達に何かを感じさせ、考えさせ、そして行動に何らかの変化をもたらせたのではないだろうか。
「乱射事件も悪だが、そこから生まれた善は、たくさんの人に影響を与えている」(P.253)
3.知ることは素晴らしい
「アーミッシュの赦し」を例にしても全く知らなかった世界を自分の中に取り入れることが、必ずしも心地良いとは限らない。むしろ、こころの中に動揺が起こり、また暗い気持にさせられることも少なくない。しかし、その感情と向き合い、思考を重ねることで、新たな自分の世界を構築することができる。今回は、アーミッシュの存在を知ることで私の世界の中の愛情の質量が確実に多くなったはずだ。
最後に、アーミッシュを伝えてくれた著者の方々、そして本書のご紹介に深く感謝します。
~終わり~
投稿者 lazurite8lazward 日時 2017年4月26日
強烈な衝撃と違和感と気付きを受ける書籍。
まず、乱射事件の直後に自分の子供を殺害された親が赦すと表明している点について強い衝撃を受ける。自身に置き換えた場合、仮に自分の子供が同様の事象に遭遇したならば許容できる余地は微塵もない。故にどのような価値観を持つと赦すという行動に繋がるのか、全てを理解することは難しいかもしれないが深堀りして考えてみる必要があるように思う。
読み進めても、事実は理解できるものの何故か違和感が払拭できない。なぜ違和感が払拭できないのか、暫く考えてみた結果「赦す」という言葉と書籍の全体の流れが少し合致していないのではないかという結論に至った。そこで原理原則に立ち戻って、原文を読んでみるとまずタイトルが違う。日本語版では『アーミッシュの赦し』となっているが、原文は「AMISH GRACE」となっている。「GRACE」は確かに赦すという要素も持っていると思われるが、語源を調べるとGRACEはラテン語のpleasing(喜びを与える/心地よい)という形容詞からきているようなので、GRACEの和訳としては「赦す」というよりも、「恵み」という要素の方が妥当なのではないかと感じる。仮に「AMISH GRACE」というタイトルを「アーミッシュの恵み」と訳すと合点がいく。この書籍のメイントピックの1つとなっている銃乱射事件でのアーミッシュの赦しは確かに重要であり興味深い事象なのだが、本書全体を通して著者が言いたいことは”赦したかどうか”ではなく、「アーミッシュの価値観と日々の習慣が彼らの幸せな生活の原点なのだ」ということにあると感じた。故にに赦したのはなぜかということに着目しすぎる事には違和感がある。
更にサブタイトルも和訳と原文で違う。和訳は『なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』となっているが、原文は「How Forgiveness Transcended Tragedy」であり直訳すると「(彼らは)どのような赦しをもって(その)惨劇を超越したのか」となる。原文と和訳の差という視点では、この原文のサブタイトルで2つ着目すべきだと思う。
まず「克服する(conquer)」や「乗り越える(surmount)」のような表現を使わずに、「超越する(Transcend)」を使用している点。この用語からも、本文中にもあるとおりアーミッシュは乱射事件があろうとなかろうと、既にその惨劇に囚われない価値観を持っていると著者が言いたいことがわかる。
次にサブタイトルの「Forgiveness」に着目すべきだと考える。Forgivenessには確かに赦すという意味があるものの、赦すという単語にはpardon、remit、excuse等もある。自身はpardonのようなイメージで本書を読んでいたが、forgiveが使われているとなると話は違ってくる。forgiveは語源をたどると「for:完全に」と「give:与える」が組み合わさったもので、完全に与える=赦す(or許す)という解釈になっている。つまり、「与えなさい、そうすれば与えられますよ」という意味が含まれている用語を使ったことになる。
実際に原文を読み進めると、アーミッシュが乱射事件の当日に殺人犯の家族に向けて『We forgive you』と言ったと記載されている。原文を読むことで、和訳を読んでいたときの違和感は「赦しとforgiveという言葉の背景情報の差」にあるとわかった。和文では赦すという言葉はどうしても、乱射事件という出来事がおこり、それを関係者がインプットした時点でその怒りと憤りを受動的に赦したと受けとってしまうが、forgiveという言葉が使われているとなると解釈は少し異なり、関係者が乱射事件をインプットして立ち上がった怒りと憤りに対して「赦しを(犯人とその家族に)与えた」という解釈になる。従って、著者が真に本書で着目したのは、アーミッシュの「赦し」ではなく、「赦しを与えた行為と価値観」にあると考えられる。
アーミッシュは聖書軸に置き、「まず自分から与えなければ、何も与えられない」という価値観の下、率先して家族を助け、隣人を助け、友人を助ける。与えることが幸せの第一歩だということを知り、アーミッシュ全体がそれを愚直に遂行している。従って当然アーミッシュ全体が幸せになる。本書乱射事件の奇異性とアーミッシュの独特な価値観及び赦しの文化が突出し、本書の本質をつかむのは難しいが、幸せの第一歩は常に”与える”ことからはじまり、それは常に神羅万象の法則であるということに本書を読んで気付かなければならないのではないかと思った次第。
投稿者 akiko3 日時 2017年4月27日
「アーミッシュの赦し」を読んで
社会に揉まれ、多少の悪態もつき、嫌なこともあったがのど元過ぎれば…で環境が変わるとそんな負の感情も段々薄れていくが、数年前の人間関係は理不尽だなと、かつて経験したことのない苦しみを味わった。その人にも親がいて家族がいる。そう思い、負の感情にエネルギーを足さないようにはしてきたが、好きと問われるとノーコメントだろう。“私はその人を赦せるのか?”人生の大先輩は「赦すというと上から目線でちょっと違うと思う。(赦すではなく…と続けて話されたことは思い出せない)数年後に絶対によかったと思うから」と言われたが、その言葉は空に浮いていた。だから“赦し”というタイトルで自分の中の蟠りを推し量りながら読み、アーミッシュのようには赦せてないな、相手を非難したり復讐する思いはないが、愛情を注いで歩み寄ることはしてないし、関わることがない現在にあえて関わりたいとも思わないしと悶々とし始めた。
だが、赦すとは訓練であり、時間とハードワークが必要と話すアーミッシュもいて、「赦して忘れる」ことではなく、「赦したことがいかに癒しをもたらしたか記憶にとどめておく」と読み、相手に癒しが与えられるかよりも、主体は自分でいかに癒しが自分にもたらせているかが大切なのかな、だったら「数年後に絶対によかったと思う」という言葉も(発言者の意図は違うかもしれないが)自分の中にすっと入ってきた。あの頃よりも今の生活が断然心地よいし、“苦”“悲”に対する許容量も広がった(だからといって苦や悲に浸りたくはない)。何より自分が心地よい環境に自分を置く、人生を切り開く知識のインストールの大切さに気づけた、今の環境はあの頃の自分が“変えよう”と思った時点から続く変化の結果、過程にある。そんな風に、いかに自分に癒しや新たな出会い、経験が引き寄せる価値観が構築されているのかを振り返り、よりよいことを記憶に留めていくことと理解した。それは自分の意志で決めていく。
心ひとつの置き所、折に触れ、ポジティブに生きることの大切さは目に触れてきたが、ネガティブな出来事、背負いきれないと感じる課題に出くわすとお釈迦様が説く“慈悲”やイエス・キリストの“愛”を試されているとは思いつつも、出来ない自分に悶々としてきたが、よりよいものへと想像力を働かせ、慈悲や愛を出す方が希望を引き寄せ、心軽やかに生きられると、しっかりと自分に刷り込み、幸せな人生を歩んでいきたいと思いました。
今回も良書との出会い、置かれている環境の良さに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
投稿者 yashu50 日時 2017年4月27日
-アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか-を読んで
また少し世界が広がった事に感謝。本書との出会いをいただきありがとうございます。
"赦し"、人生の難題ではなかろうか。些細な事が許せず諍いを起こしてしまう。わが家では少し振り返っただけで程度差はあれど両手両足で数えても足りないほどよくある話だ。"許し"ではなく、許容しがたい出来事を認め消化しきった状態とでも解釈しようか。些細な事ではなく、私にとって全く許容できない事とは何だろう、そんなものあっただろうか。振り返ってみると、正直ない気がする。ただ忘れっぽいだけという事もあり得るが。。。そのお陰か今の私はとても幸福であると実感している。これから先もずっとこの幸福は膨らんでいくものと決まっている。だが仮に将来悲しむべき出来事が起こってしまったとしよう。その原因が憎悪の対象になるような事・ものであればこの幸福は萎んでしまうのだろう。その時に赦せればどうだろう。きっと膨らまなくても萎む事はないだろう。恐らくかなり難易度が高いスキルである。しかしスキルである以上、更なる幸福を求めるのであれば少しずつでも磨く必要がある。憎悪に転嫁せず、消化して赦す。難題だなぁ。
投稿者 audreym0304 日時 2017年4月27日
今回、日本語版が手に入らなかったがために「どうしても読みたい」という気持ちが先行し、英語で読んで深く考えさせられました。
アーミッシュの学校で起きた事件、そのごのアーミッシュが加害者やその家族に対し赦しを表明したことが世間の驚き、アーミッシュの行動や信仰に対し研究をしたりコメンテーターが意見を述べたりにつながったということは、私たち、ノン・アーミッシュには「赦し」という行為自体が稀有なもので、その価値観をもっていなかった、持っていても薄かったということではないか、と気づかされた。
加害者家族に向けた「赦し」という行為がどれだけ加害者家族を深く癒したかは想像をはるかに超えるものである。アーミッシュが事件後訪れた時、加害者家族はどんな罵倒をされるか、どんな復讐をされるか戦々恐々としたに違いない。ところが一転、「赦す」と伝えられた時、加害者家族はアーミッシュのなかにまさしく「神の慈悲」を見たことだろう。
信教は問わず、人間にとったら大きな悲劇の被害者になったとき、「赦す」という行為はそもそもの選択肢にはあまりあがらないのが普通なのかもしれない。裁判等で加害者や犯人を「赦すことはできない」という被害者が大半だろう。
アーミッシュの人々が言うようにこの世界で生きている以上、過去や未来を考えても神が与える数えきれないほどの悲劇に人間は見舞われることであろう。悲劇にあったときに私たちにはいくつかの選択肢が用意されていて、その両極に位置するものが「赦し」と大規模な破壊を伴う「復讐」になるのではないだろうか。そして、ほとんどの人が怒りや悲しみの感情に身を任せてしまうのだろう。国家間であれば神の名を借りた復讐とも戦争ともなり、さらに多くの悲劇をもたらすことになるのだろう。
赦しを行うアーミッシュが特別な存在なのかというと彼らも普通の感情をもった人間であり、悲劇に見舞われれば怒り、苦しみ、嘆き悲しむのは当然だろう。赦しは彼らの教育の中で「神に赦されるために赦す」のだろうし、マイナスの感情に飲み込まれ、時間を止めないように未来を見据え、向かっていく原動力とするために「赦す」のだろう。これがどんなに苦しいことかも想像を超えてしまう。赦しを行う過程で神の存在を疑うこともあるだろうし、キリストが磔にされた時に言ったとされる「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と問うことだってあるだろう。信仰の深い人々にとったら、神を疑うことは悲劇に見舞われること同様に辛く苦しいものだろうが。
自分が悲劇の被害者や被害者家族になった時に赦すことができるだろうか。どんな事情があれ加害者には社会的な制裁を望むし、加害者の家族も被害者という状況を考える余裕もないだろうし、なかなか赦すという段階にはたどり着けないのだと思う。
別の銃乱射事件の後、アーミッシュではない人々が赦しをおこなったことも聞いたことがある。この人々がどんな宗教に属しているかはわからないが、犯人を赦している。この人々は失った家族や起こった悲劇より未来を生きようと思ったのだろう。そして、27年もの間収監され一時は死刑宣告までされた故ネルソン・マンデラ大統領は歴史的背景で分裂しかかった国を統治する際に大統領自ら「赦し」を行っていることを思い出した。
歴史に名を残すような偉大な人だから赦すことができるというわけではないだろう。悲劇に対し、さらなる悲劇をもたらす戦争や報復を決める一国の指導者もいるのだから。歴史で大規模な「赦し」が行われていたら、戦争やテロや悲劇で苦しむ人は今よりも少なかったかもしれない。私たちにはいつでも「赦し」という選択肢は差し出されているのだから、できるだけ早く「赦し」を選べるようになれれば世界はよいほうに変わっていくかもしれない。
人々が赦しにたどり着くための方法はどんなものがあるのだろう。
信仰心のある人には神に赦してもらうため、教育により「赦す」ことを身につけるにということもひとつなのだろうが、アーミッシュは家族以外にも教会という組織があり、周りに共感してくれる人もいることも早く赦しにたどりつくことができる理由のひとつかもしれない。
信仰のない人や帰属するグループがない人には「私がわが運命の支配者、私がわが魂の指揮官なのだ」というマンデラ大統領が心の支えとしたといわれるある詩の一節が響くかもしれない。この詩はアーミッシュの人々が苦しみながらも前に進むために「赦す」にもつながるのではないだろうか。神が与えた悲劇に人間に裁量が与えられている部分で感情に任せず、自分を律し、赦す。そうすることで、きっと人は前に、明るい未来に進み、たくさんの人が「赦す」ことのできるより良い世界をつくることができるのだろう。
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2017年4月29日
『アーミッシュの赦し』の紹介文を初めて読み、心底驚いた。本書は、私が人生で最も大切にしている書『神を信じて何になるのか』(フィリップ・ヤンシー)の冒頭部と、内容が酷似しているのだ。
『神を信じて~』の第1~3章は、2007年4月、バージニア工科大学で起こった銃乱射事件を紹介している。精神に異常をきたした韓国人学生が、32人の学生と教職員を射殺し自殺。悲劇的な事件だった。だが事件直後のこの村では、被害者の墓だけでなく、犯人の墓にも手紙と花が捧げられた。ある手紙には「あなたの苦しみに気付けなくてごめんなさい。あなたが神様の愛を知っていたなら良かった」とあった。
クリスチャンの自分は、課題図書のアーミッシュの方々に代表される赦しの行為について、礼拝や文学を通じて何度も聞かされてきた。例えば、南アフリカで黒人初の大統領となったネルソン・マンデラ氏。彼は、黒人を迫害してきた白人達に復讐する代わりに、和平交渉を申し入れた。「自分を27年間投獄した白人を憎んだこともあるが、彼らを憎み続けたら、また拘束されると気づいた。私は自由になりたかったから、憎しみを手放すことにした」と彼は後に述べている。
日本人クリスチャンで言うと、娘のめぐみさんを北朝鮮に拉致された横田早紀江さんは「娘を拉致され感謝します。そのお蔭でイエス様に出会えました。北朝鮮を憎んでいません」と述べている。
一方、彼らと逆に、肉親を殺され、犯人に対する憎しみで心を蝕まれる人も、文学や映画などによく登場する。彼らとアーミッシュの違いは何か。考察の結果、2点に気づいた。
鍵の1つは、上記のマンデラ氏の言葉にある。敵を憎み続ける人は、憎しみという感情に拘束・支配され、憎しみの奴隷となる。一方で、敵を赦す者は主体性を持って自らの生き方を選び、結果として他者に影響を与える存在になる。赦せることは、その人が「より良い人間であろうと努力している」証拠でもある。だからこそ、赦す人は美しいのだろう。
もう1点は、神の存在を認めるか否か、という点だ。他の宗教も同様だと思うが、キリスト教では「神はどんな苦しみも益として下さる。人に理解できないことも、神には計画がある」という考え方が徹底している。アーミッシュ村の銃乱射事件は悲劇としか言いようがないが、人類全体の歴史を見渡せば、この事件がキリスト教信者・非信者を含め、世界に与えた影響は計り知れない。「彼らが殺人犯を許したのだから、自分も小さな憎しみを捨て、相手を赦そう」という思いを、少しでも持ったのは、(自分を含めて)世界中に多くいたはずである。
憎しみに囚われる者は、自分と同じ目線で世界を見るが、赦せる人は、神の視点の存在を知っている。神の計画と意図を理解していなくとも、「この世界には、人に理解できない神の意志が働いている」と信じ、神に畏敬の念を持っている。
主体性、そして神への信仰心。それが「赦す者」に共通して見られる要素だと私は考える。
そんなアーミッシュ村が、褒める点ばかりかというと、必ずしもそうではないことも本書で知った。
彼らの良い点は、支え合える村人、コミュニティの存在である。アーミッシュ村に孤独死やホームレスはないだろう。一方、悪い点は、行きすぎた閉鎖性と保守性だ。「村の外で良い印象を持たれていても、村の中で陰湿な意地悪がはびこっている」という実態は、アーミッシュ村に限らず、様々な組織や地方村などで、よくある話だろう。本書によると「性的虐待をされた妻が、夫を許さなければならない」という規則を押し付け、犯罪を正当化するアーミッシュ村もあるようだ。これは言語道断だと思う。
凶悪な殺人事件はもちろん、虐待やいじめなど、他者を傷つけた犯罪者に対する刑罰は、必ず必要だと私は思っている。たとえ被害者の方々がどんなに「許しましょう」と声をあげたとしても、だ。犯罪者に刑罰がなければ彼らは罪を繰り返し、それを見ている周囲の者も「許されるなら、自分もやろう」と考え、行動に移すだろう。この危険を防ぐため、懲罰制度・法の整備、行政の力で社会の安定を図ることは必要不可欠である。
しかし同時に、政治や法律の力には限界があるとも感じる。例えば、アメリカの黒人奴隷制は法により廃止されたが、黒人差別は今でも続いている。日本には男女雇用機会均等法があるが、それが守られているとは言えない。法律や行政でカバーできないこと、例えば思いやり、誠実さ、責任感を育てることは、宗教の力に期待したいものだ。
横田早紀江さんが「娘を拉致されて感謝します」と言ったことも、マンデラ氏が白人を赦したことも、私は素晴らしいと思うが、意味はいまだに良く分からない。アーミッシュの方々のように肉親を銃殺されても、犯人をすぐに赦せるか、確信はない。だが、何が彼らを突き動かしているのか、その正体を知りたい。そして、より良い生き方ができるように努力だけは一生続けていきたい。そのために、今後も先人や本から学び続けたいと思う。
今回も素晴らしい本を紹介いただき、ありがとうございました。
投稿者 hiroto77 日時 2017年4月29日
【この本から得られた気づき】
まず、自分の中で確認したのが「一神教ならではの事件」であることでした。
立てこもり、罪のない子供を射殺し、自らも死んだロバーツの行動原理は、神を唯一無二とし、神は絶対であり、全知全能であるとの定義から生まれた信仰であったことは、否定できない事実であったと考えます。
絶対的な神への信仰なくして「神への逆恨み」は芽生えず、「神への復讐」へと昇華することはありません。
この気づきの時点で、私は、「彼らとの共感や共通点を見出しながら、この事件を理解すること」を放棄しました。
だからといって、理解や考察を深めることを放棄するのではなく、彼らの価値観、彼らの世界感から読み解かないように注意しながら、読み進めることにしました。
次の気づきは「犯人の動機の矛盾」です。
彼は、彼の妻を愛し、彼の二人の子供を愛していた、にも関わらず、生後20分で亡くなった娘の死因を神に求め、神に復讐したとされますが、これは、事件の引き金にすらならない「こじ付け」だと感じました。
アーミッシュの共同体に入れない疎外感、嫉妬などの複合的な要因も描かれていますが、私にとっては違和感があり、これが本当の動機であったかどうか、疑問を持ちました。
そして、事件をめぐるマスメディアとアーミッシュの対応についての違和感です。
この事件がアメリカに与えた衝撃は、想像できます。また、このテーマが極めて強い「求心力」をもっていることも、理解できました。
しかし、ここまでセンセーショナルに、ドラマチックに扱われることに、違和感がありました。
その違和感からの気づきが、「アーミッシュへの共感を示すのか、違和感を示すのか。その解答によって、その人のキリスト教信仰そのものがセグメンテーションされてしまう」と言っても過言ではないほど、根本的な問いを含んでいることに気が付きます。
その問とは、「神は、人間になにを望んでいるか?」という問いです。
アーミッシュへの共感を抱く人は「神はなにも望んでいない」と答え、違和感を抱く人は「神は○○を望んでいる」(○○は人それぞれの価値観で異なる回答となる)と答えるのではないかと、想像しました。
その問いを抱えながら次に確認したのが「アーミッシュにおける赦しについて」でした。
ここで、冒頭の気づきが役に立ちました。
おそらく、価値観への理解を求めながら読んでいたなら、この本に書かれている一連の出来事の、部分的な感覚と理解である、
・信仰の絶大な影響力
・人間の価値観の多様性
・感情のコントロール
・プロテスタントとアーミッシュの対立点
しか得られなかったと思います。
今回は、そこから踏み込んで、これが現代の自分が暮らす同じ世界で起きた出来事であることが、どういった意味をもつのかまで、読む意欲をもって、読み進めることができました。
【読む意欲をもった上での気づき】
まず、アメリカにおいては、起こり得る事件であったということです。
人種の多様性、信仰の多様性とともに、急速に構築された社会の矛盾が育っていった結果、顕在化した現象のひとつではないかと、理解しました。
ほんの200年足らずで世界の覇権を握った多民族国家で起きた出来事として捉えると、犯人の狂気も、それを徹底的に赦し、キリストへと帰依する団体も、この矛盾と、歴史という支えがないことに対する、ひとつの回答だったのではないかと、感じました。
そこには、死者の無念や遺族の無念が尊重される隙間はなく、矛盾に対する怒りと、矛盾に対する赦ししか、存在し得ないのではないかと、推測します。
そして、そこから私が向かい合うべきテーマの一つは「集団としての赦し」と「個々人としての赦し」の違いについてでした。
理不尽な死を遂げた人、遺された人、その人々へ語る「赦し」について考えるとき、それが、アメリカという国家、宗教コミュニテイーとしての在り方は、慈悲、慈愛を賞賛するものとなり、親族や個人のレベルでは、悲しみに対する慰めとなる、この違い、この変化について考えるきっかけを、この本から得ることができました。
さらに、もう一点の大きな気づきは、キリスト教における「人間の罪」と「殉教」の学習の必要性でした。
この本を読んだ直後に連想した映画、『セブン』が挑んだテーマでもあり、幾多の先人が挑んだテーマですが、あらためて考えてみたくなりました。
もし、この犯人が『セブン』で描かれた犯人と同様に、殉教者になりたい、殉教者をつくりたいと望んでいた「信者」であったとしたら、という仮説です。
その場合、この犯人が、彼の抱く真の信仰を全うしようと計画した事件であることを、否定できないことに、気が付きました。
殺人の動機が「聖なる殉教者を生む者になる」というものであった場合、それをどう捉え、どう扱ったらよいのか。
信仰における殺人と聖者としての死について、です。
その問に挑むために、さらに学びたいと思いました。
(終)
投稿者 H.J 日時 2017年4月29日
アーミッシュの赦し
本書を語る上で、キーワードになるのは”意志”と”意思”ではないだろうか。
メインテーマの一つである「赦し」もアーミッシュとしての”意志”であり、同時にコミュニティーに属する個人個人の”意思”だと思った。
そして、それらは我々の世の中の仕組みを作ってる大きな要素ではないか。
上記の内容を語る上で、私の中で一番記憶に残った言葉が
『信仰の表現として最も大事な事として、イエスに”従う”というより、”倣う”事なのだ。』(139p)
である。
これこそが宗教だけではなく、国や会社や家族などの団体に大事な事なのではないか。
では、”従う”と”倣う”の大きな違いは何か?
それこそが”意思”であると私は考える。
力のある者に”従う”仕組みを作っている国や宗教や会社には、いずれ綻びが生じる。
”従う”や”従わせる”とは自由を奪う行為と同義であり、下の者達の”意思”は尊重しないケースがほとんどだろう。
「影響力の武器」に書いてある様、人は自由を失うことに無意識に抵抗し、反発する。
我々にとって最も身近な家族においても同じ事が言えるだろう。
そして、それは内部的に満足するだけの閉鎖的な行為であり、外部からの新しい風が入り込めば、脆く崩れ去る。
日本でも明治維新が良い例ではないか。
また、上手くいくケースの場合も短期的であり、絶対的な指導者がいなくなれば間も無く終焉を迎えるだろう。
その点、”倣う”そこには”意思”がある。
意思があるから、属する組織への愛や感謝の感情も生まれるのだ。
逆に言うと自分の意思で反発することもコミュニティを抜けることも出来るのだ。
しかし、アーミッシュはほとんどの人が反発しない。
その要因は、小さい頃から家庭や教会の教育で培ってきた教育、
即ちアーミッシュとして受け継ぐ”意志”が属する人達個人個人の”意思”となっているのだ。
一見内部的に見えるが、外部の者に変えられるものではないのだ。
自分の”意思”だけは自分自身で裏切れるものではないから。
人の罪を赦す事は出来ても、自分自身の”意思”を裏切る事は誰も赦す事が出来ない。
アーミッシュの人々はそれを知ってるから、外からの影響を受けてもコミュニティーを守っているのだろう。
また、本書と少しだけ離れるが、世の中ではAIによる自動化が人の仕事を奪うと言われている。
人件費削減や効率アップなど、良い面にばかり目が行くが、大変危険な事だと気付いた。
人の仕事を奪う事は、”意思”のない仕事を量産する事であり、上記で述べた”従わせる”だけの世界だからだ。
コンピューターに”意思”はないし、自由を失う事に反発する事はないが、”意志”と”意思”無き組織に未来はない。
アーミッシュの人々が『大切な伝統を失わないためにテクノロジーを警戒する』という背景には、
このような面が持つ脅威を警戒しているのかもしれない。
私にできる事は”意思”を持ち、属する組織の”意志”に倣い、新しく入った人々と共有する事だ。
この基本を受け継ぐ事、その結果、組織の活性化へと繋がっていく大きな要因になるだろう。
それは何十年も何百年も組織に属する人々の幸せへと繋がっていくはずだ。
投稿者 vastos2000 日時 2017年4月30日
本書を読み、考えました。
まずはモノゴトのとらえ方について。他の課題図書や推薦図書でも目にした、「出来事⇒解釈⇒事実」という流れの中での「解釈」の部分です。
そして、さらに考えたのは、その解釈のあとの「事実」と幸福感についてです。
本書で触れられていた、怒り・恨みを手放すことが自らのためにもなっているという部分が該当します。
一つ目のモノゴトのとらえ方に関しては、本書では宗教を通じて考えさせてくれます。今までも宗教について考えたことは何度もありますが、今回新たに思ったことは、「宗教(考え方・価値観)とはOSのようなものだなぁと」いうことです。
私(ヒト)というハードウェアに宗教というOSがインストールされ、日常の行事やイベントに対応したアプリケーションが走っているというイメージです。
アーミッシュンのほかの信仰ではこのような場面でどのような反応、対処をするのかを考えましたが、報復を是とするものもあれば、アーミッシュと同様に赦しを推奨するものもあるでしょう。
私が今まで生きてきた数巡年では、多くの人が、加害者に対しては報復的措置をとる価値観を持っています。
著者も十三章で『人間が理不尽な悲劇に遭ったときの気持ちの切り替え方は、文化的に形成されるということだ。(中略)我々のほとんどは、復讐を煽り、恵みを嘲る文化で育ってきた』(p.278-279)と書いています。
生まれ育った場所や時代によって、その人にインストールされるOS(思想・宗教・価値観は異なります。ただ、おそらくこのOSは自分の意志で別のOSをインストールしなおすこともできるし、今もっているアプリケーションとは違うけど、同じイベントに対処できる別のアプリケーションを追加することもできるはずです。本書を読んだことで、否応なく今後、自分で何を選択するかが問われている気がしました。
次に、「事実」に関することでは、本書では、赦し・恵みを与えることで、自分にとってポジティブな結果が得られることが書かれています。(p.206)
知識としては、アーミッシュのように自分が被害者となったとき、加害者を赦すことが自分のためにもなるということを得ました。
しかし、現時点では私には無理です。犬の糞を踏んだとして「排泄してくれてありがとう」とは咄嗟に思えないくらいなので、身内が殺害されても加害者を赦すことは非常に困難です。
本書で最終的に著者は次のようにまとめています。
『宗教が怒りや復習の正当化にではなくて、善意と赦し、恵みを導くために使われたということである。そしてこれこそが、これこそが、宗教と国籍を問わず、我々すべてが受け止めるべき大事な教訓なのである。』(p.281)
ニッケル・マインズ事件のようなケースでも、加害者とその家族をすぐに赦すことができる人間の可能性を示しており、また、良かれ悪しかれ、出来事に対してどのように思うかは完全に自由であることを再認識させてくれました。
解釈の選択肢を増やすことで、今後の自分の人生も周囲の人の人生もより良いものになっていくように努めねばならないなぁと改めて感じました。
2年ほど前から少しずつ考え方が変わり、今では他人に対して腹を立てる機会は減っていますが、まだまだ瞬間的な怒りを抑えることができない場面もあるので、せめて憤りを維持しないよう、今後も自分をバージョンアップさせていこうと思いました。
幸運にも、本書のような赦しが力を発揮する場面には遭遇していませんが、東日本大震災のようなヒトの力ではどうにもならない悲劇にいつ遭遇するともわかりません。今後の人生、いざその場面で本書のことを思い出せるよう、精進していきます。
投稿者 nishimikado 日時 2017年4月30日
それほど映画に明るいというわけではない自分でさえ、頭の中に思い浮かぶ映画のいくつかは復讐劇である。いわゆる「恨の文化」が最も極端な例だとしても、ひどい仕打ちを受けたときの不満の気持ちを誰もが共有できるからこそ、恨みや復讐はエンターテインメントになる。巧妙な作戦で成功する報復の物語に対して、多くの者は痛快さを感じる。
制約の中で生きることで幸福を追求するというアーミッシュに以前から関心があったので本書を手に取った。しかし、ニッケルマインズ乱射事件の詳細を読んでいる間、「この赦しの行為は、アーミッシュの精神衛生上まったく問題ないのだろうか?」という疑問がどうしても消えなかった。自分がこの事件の被害者遺族であったなら、決して加害者を赦すことができなかったと予想できるし、まったく過失のない加害者の家族に非難の言葉を浴びせかけたかもしれない。もし第三者から「怒りを捨てよ、相手を赦せ」と強制されたとしたならば、復讐エンタメとは真逆の不快感でいっぱいになったことであろう。
本書で語られるアーミッシュの赦しとは、復讐行為の放棄である。とはいえ、アーミッシュ自身に怒りや悲しみの感情が起きないわけではないので、この赦しとは自然な感情を抑圧する、つまり「痛みを伴う自己放棄」とのことである。大切なことは、自分を捨てて神の意志を受け入れることであり、その文化的な土台にあるのは「神に赦されたければ、赦したことを行為で示す」という新約聖書の教えである。
まるで内容は違うが連鎖的に思い出したことは、学生時代に「なぜ殺人は認められないのか」という問いに対して講師が語った「他人を殺害することが認められる世の中ならば、自分もまた他人に殺害されることを容認しなくてはならない」という言葉であった。つまり所属するコミュニティの規範により「他人を赦す」「殺人を犯さない」というように行動が制限されていく。
加害者を赦す行為が信仰という規範によるものであるならば、なるほど無宗教のわたしに受け入れられるものではない。「自らの罪を赦されたければ他人を赦す」、理想的ではあると思う。でも、それを実践するのが「自分だけ」であるならば、ひたすら損害を被るだけなのではという損得勘定のような考えが頭をよぎる。泣き寝入りを避けたい気持ちは、誰しもほぼ共通に持ちうる感情だと思う。
しかし、恨む心と共に生きていく姿は果たして幸福といえるのか。恨みは復讐行為のエネルギーにこそなれ、ポジティブな行動の原動力となることはありえないのではないか。起きてしまった悲しい出来事を無かったことにはできないが、このときたった一つコントロールできるものは、出来事の解釈のしかたとそれに伴う自分の行動である。アーミッシュに倣うまでもなく、少なくとも恨む気持ちは手放せる自分でありたいと思う。
アーミッシュにとって、この赦しの行為は彼らなりに幸福を追求する行為であるといえるが、では、「赦すこと」の模倣は可能なのか、また、そもそも我々が模倣に値する行為なのか、と本書の問いは続く。
アーミッシュは赦しに価値を見出す環境を作っており、そこからわかることは、理不尽な悲劇に遭ったときの気持ちの切り替え方は文化的に形成されるということであり、非アーミッシュの我々は、我々がもつ資源を活かし、初期反応としての復讐を思いとどまらせる文化を創造することが課題であると提示される。
先ほど、赦しを実践するのが「自分だけ」ならば損なのではと書いたが、これは現在、自分が所属するコミュニティにおいて赦しの文化が醸成されていないことによるものである。
例えば、誰にとっても身近な言葉の実践としては「罪を憎んで人を憎まず」ではないだろうか。罪そのものに対する怒りの感情は抑制できないが、裁きは司法へ委ね、罪を犯さざるを得なかった加害者の背景に思いを馳せることが、210ページの「決意された赦し」へのごく小さな、しかし確実な第一歩のように思える。
ごく最近、家庭内に大きな不利益をもたらした夫に対して怒りの感情がおさまらずにいたが、そうせざるを得なかった事情を憐れみ、まずは夫本人を否定せずに赦すことから始め、あとは共に建設的な対応策を考えていきたいと思えた。
投稿者 Nat 日時 2017年4月30日
アーミッシュの赦しを読んで
なかなか昔から宗教というものに、どうしても抵抗感があります。色々と理由がありますが、高校生の時に世界史を選択したときから更に加速した感じがあります。世界史の中で記述されている宗教というのは、信じる者以外に排他的で、彼らの教義の名のもとに戦争を起こし他文明を攻撃する、異端と称して文化の破壊を行う事が多いからです。こういった知識から宗教=自分たちの以外の存在を認めない排他的で怖い連中という図式が出来上がってしまい、私の現在の抵抗感に繋がっています。
そういった抵抗感があったため、この本を読むモチベーションというのは、なかなか上がらず感想を書くのも月末ギリギリになってしまいました。
キリスト教の一宗派であるアーミッシュに焦点を当てたこの本ですが、改めて人の「解釈の仕方」の多様性を感じ取ることができました。アメリカ国民の多くはキリスト教徒でしょう。ですが殺人者に対するアーミッシュの赦しは驚き注目する内容だったわけです。「聖書」という同じ経典を使用する宗教にも関わらず、です。
アーミッシュの人々はこの聖書に対して忠実に生きたい、それを幼いころから日常生活のなかで教えられ、最後大人になるとこのコミュニティで生きていくか「自分で選択」するのです。このコミュニティで生きていくと最後は自分で選択したという意識があるからアーミッシュの人々は心の底から殺人者を赦し、殺人者の家族に対しても援助することができたのではないでしょうか。
人間一人一人に自分で定めたルール、信じたいものがあるんです。そしてそれは多くの場合、他人によって否定され、攻撃されたくありません。
それを普段の生活のなかで自分以外の人も持っているということを認識できれば、自然と相手の価値観、考えに寛容になれるし他人に対して優しくもなれるのではないでしょうか。
まだまだ修行中の身で、感情に振り回され寛容になれない場面も多いですが意識していきたいと思います。
投稿者 magurock 日時 2017年4月30日
『アーミッシュの赦し』を読んで感動する一方、この赦しは果たして健全なのだろうか、という疑問を抱いた。
赦しが身近にある日常を送っているとはいえ、アーミッシュの人々も、さまざまな葛藤の中で赦している。銃乱射事件のような強烈な悲劇に際しては、赦した後も、何度も赦しなおさなければならないほどだ。
そうまでして赦そうとするのは、信仰に基づいたものだから、アーミッシュの人にとってはほかに選択肢はないのだろう。
でも、これは抑圧ではないのか?
隔離されたコミュニティで日々行われている、洗脳の一種ともとることができる。
なのに、この本はなぜこんなに、読む者の胸を打つのだろう?
彼らを「健全か?」と問いながら、自分のほうこそよっぽど汚れてしまっている気がするのは、なぜなのだろう?
そんなことを考えながら読み進むうちに、以前の課題図書『ピダハン--「言語本能」を超える文化と世界観』を思いだした。
ピダハンには信仰する特定の宗教はなく、あるのは精霊への畏れのみで、死後のことより今を大事に生きている点は、アーミッシュとは
異なる。それなのに、信仰を中心として生活し、現世より死後のやすらぎを重要視しているアーミッシュの本を読んで、ピダハンとの共通点を見出してしまうのだ。
あの本にも、酒に酔って自分の犬を殺した兄弟を、悲しみにくれながらも赦す場面が出てきた。まるでほかに選択肢がないかのように。
そして、キリスト宣教師さえ無神論者に変えていく、強烈な美しさを持った、敬愛すべき人々。
ピダハンも、アーミッシュも、現代文明から隔離された生活の中で、私たちより幸せそうに暮らしている。再び、幸せとは何か?と問わずにはいられなくなった。
文明の利器の恩恵にどっぷり浸かった私は、憧れを抱きつつ、今さらアーミッシュにもピダハンにもなれない。その事実に一抹の寂しさを覚えながらも、一方で安堵する気持ちがある。
アーミッシュの生活が描かれた珍しい映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』でも、主人公のジョンはアーミッシュの女性を愛しながら、も
との生活に戻っていく。
生まれた場所を離れて都会に慣れてしまえば、故郷は遠きにありて思うもの、となるが、一度現代文明に触れてしまった者には、アーミッシュの文化も同様なのかも知れない。
と、ここまで書いて、この特殊感は、戦前戦中の日本にも通ずるところがあるかも知れないな、とふと思った。天皇を神と崇めて忍び難きを忍んできた日本国民や、「天皇陛下バンザイ!」と自分の命も顧みずに敵に突っ込んでいく日本兵は、アーミッシュの殉教者と重なる。
連合国側はそんな日本兵が心底怖かったようで、天皇を排斥したら日本人は何をしでかすかわからないからと、ポツダム宣言前にはすでに天皇制の存続は決まっていた、と東京裁判の弁護団副団長であり東條英機氏の主任弁護人だった清瀬一郎氏が『秘録 東京裁判』で書いている。
連合国側が抱いた畏れは、現代社会を生きる者がアーミッシュの人々に抱く感情と、どこか似ている。当時の抑圧的な空気を敬遠しながらも、日本人として誇りに思っているのは、私だけではないだろう。
そして、多くのアメリカ人が、アーミッシュの赦しのニュースに際して、尊敬・共感を寄せる一方、そこに不健全さ・気味悪さを感じる
人たちも、少なからずいたということ。
本当に理解できない、という人も中にはいるとしても、アーミッシュに対しての感情は、畏敬やノスタルジー、喪失感、自己嫌悪、ジェラシーなども仄かにブレンドされた複雑なものではないだろうか。
人間は、自分にできないことをしている人を、特殊なものとして捉えてしまう傾向がある。
それを自覚しつつ、見習えることは見習っていきたいものだ、と思う。
投稿者 sakurou 日時 2017年4月30日
~「アーミッシュの赦し」を読んで
この本は非常に重かった。乱射事件の内容そのものもさることながら、アーミッシュの被害者の家族がすぐ乱射事件の犯人の家族へも思いを馳せられることに驚いた。この本を読んで、アーミッシュの教えを読み解いていくと、我々の考え方とかけ離れているかというと、実はそうではなく、むしろ、アメリカ人よりも、元々日本人が持っていたものに近いのではないかと思ったし、これからの日本で重要になると思う。もちろん、アーミッシュの教えのとおりに生きることは出来ないのだが「救われるためには赦さないといけない」というアーミッシュの教えは非常に重要だし、自分の人生でそういうことが起こったら、そう考えたほうが先々の人生をより良くできるではないかと思った。
以下、思った点を纏める。
1.生きる上で不可欠なコミュニティ
アーミッシュの行動様式でまず参考になったのは190ページにある口を利かなくなる関係にはならないようにする、という点である。単純に「喧嘩するほど仲がいい」というわけではないのだろうが、話をすることで、お互いの意思疎通を円滑にできる。もちろん、アーミッシュとしての赦しの基本が根底にあるので、怒りや憎しみというのは出てきづらいだろう。我々も日々何らかのコミュニティに所属しているのだが、一つ気付いたことがある。
私自身、しょ~おん塾生コミュニティの他、地域コミュニティや各種同窓会を運営、参加している。もちろん悩みみたいなのもあるが、アドバイスや赦し、ならぬ癒やしのようなものも有り、私にとって生きていくには重要なものとなっている。これからはこういう特に地域、同窓会等、会社以外のコミュニティの重要性が高まっていくし、逆にそういうコミュニティを持っていない人は生きづらい人生を送ることになるのだろう。
2.アーミッシュと日本人の共通性
262ページに 「アーミッシュの信仰で赦しが重視される背景には来世で救済されるには人を許していることが不可欠という考え方がある。」という一文があった。これを読んで、アーミッシュはまさに日本人でいう輪廻転生の考え方を持っていること、また、この考え方は一般のキリスト教徒の考え方ではないことも知った。アーミッシュは赦すことで、怒り、憎しみの連鎖、特に世代を超えた連鎖を防ごうとしているのだ。
自分の経験で改めて思うのだが、怒り、憎しみは自分の中で残り、増幅し、また周りにも伝搬させてしまう。伝搬した怒り、憎しみは共振でさらなる高い波となってしまう。(大統領戦で起こった怒りの波で、アメリカは完全にその域に達してしまっているように思える。)つまり、怒り、憎しみの波は早いうちに押さえることに越したことはない。アーミッシュがコミュニティの人と口を利かなくなるほど仲を悪くしないのは、こういう考え方をしないといずれアーミッシュコミュニティが崩壊してしまうことを知っているためなのだろう。よくよく考えたら日本にも日本にも「罪を憎んで人を憎まず」という諺がある。実はアーミッシュの考え方や行動様式は日本と非常によく似ているのかもしれない。
3.「大きな善」
本書を読んでいて、(メルマガ的な表現となりますが(笑))一番ぶったまげたのは253ページの 「アーミッシュの多くはより大きな善をもたらすために乱射事件を起こるにまかせたのだと信じている」という点である。この考え方をしかも多くのアーミッシュがしていたというのは非常に驚きであり、逆にこういう価値観を持っていないと心底赦せないし、事件直後から加害者の家族に思いを馳せることができない。この考え方は到底真似出来ない。本書に記載の通り、「赦し」というところに着目しすぎて、アーミッシュの考え方を浅はかに理解すると危険ということがあったが、この考え方がまさにアーミッシュの価値観の根本を伝えているように思える。
相手を赦せるのはこの行動を起こしたのは相手ではなく神であるという考え方であり、ある意味神が与えた試練ということなのかもしれない。(とは言え、自分の子供が殺されたらそうは思えないと思うが…)
以上、感想を纏めた。この本にある赦しやその裏にあるシャニング等の懲罰メカニズムも含めて、人間関係を良好に保つための知恵であり、グリーフケアや災害時のケアはもちろんのこと、身近に活用できるところは多いように思う。震災はこれからも起こり得るし、戦争も文字通り対岸の火事とは思えなくなってきた。もちろん(本書にもある通り)戦争は赦せないが、個人レベルでのケアには十分活用できると思う。日本人としてこういう考え方を知っておいて絶対に損はないと思う。
今月も良い本を紹介いただき、ありがとうございました。
投稿者 BruceLee 日時 2017年4月30日
私が本書を読んで考えた事は以下2点である。
1)そもそも何故アーミッシュの人々は赦そうとするのか?
自分が被害を受けたら加害者に怒りをぶつけたい、復讐したい、と思うのは人間の自然な感情ではなかろうか?では何故アーミッシュの人々は赦そうとするのか?「神に赦されるかどうかは、他者をどれだけ赦せるかにかかっている」というフレーズが何度も出てくるが、つまりアーミッシュの人々の根底には「自分が神に赦されるためには他者を赦さねばならない」という前提があるのだろう。が、ここで逆説的に考えてみたい。神に赦されなかったら一体どうなるというのか?「来世で救済されるには人を赦していることが不可欠」とあるが、正直ピンとこない。救済されるとはどういう事なのか、逆に救済されないとはどういう事なのか、を私は実感として理解していないからだ。この辺りは宗教の領域かもしれず、深く理解してない自分が考えても呑み込めないのかもしれない。「彼らに大方の人と違う点があるとしたら、それは、彼らには、敵を愛し、加害者を赦すよう教えてきた300年の伝統があるということだ」とあるように、長い歴史で培われたものを部外者が1冊の本を読んで理解するのはおこがましいのかもしれない。が、ヒントらしきものはある。
「あなたを赦しますよ。あの子が死んだのは神の思し召しです」
「あんなに怖ろしいことを誰かにさせるのは神のご意志ではありません。でも、神があれを起こるにまかせた以上、きっと私たちの精神にとって善いことがもたらされるのです」
「アーミッシュの多くは、神はより大きな善をもたらすために乱射事件を起こるにまかせたのだと信じている」
つまり、神の配下にある人間社会で起こる事の根本には必ず神が存在するのだから「起こった事を赦さない」イコール「神を赦さない」事となる、という理屈だろうか?そう考えると腑に落ちる気もする。つまり赦しという行為こそ、個人の感情を押さえ神を信じる力強さが試される行為だと、アーミッシュの人々は考えているのかもしれない。
2)赦すとはどういうことか?
本書を読んだ後「自分が被害者となった場合その加害者を赦せるか?」と考えてみたのだが、私は過去に大きな犯罪被害に合った事はなくイメージが沸きづらかった。であればと、例えば我が子が被害者となったら、と考えようとしたが、そんな事は想像したくも無い事なので躊躇してしまった。結果、失礼とは思いつつ、自分が記憶してる中で最もおぞましく、戦慄する事件をベースに思考実験してみる事にした。事件当時も、ご両親は胸をかきむしる思いだったろうと感じたその事件とは1988年に発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。事件内容は悪辣、不快極まりないので敢えて触れないが、事件内容を思い返し「もし殺された女子高生が我が子だったら犯人を赦せるか?」と考えてみたのだ。が、何度考えても同じ結論しか出なかった。
絶対に赦せない!
ただただ、怒りと悲しみに包まれ、何故我が子があんな目に?何故自分にこんな事が降りかかる?と、途方に暮れ苛まれるのだ。そして犯人を決して赦さない、赦したら我が子に申し訳ない、犯人を苦しめたい、出来る事ならこの手で八つ裂きにしてやりたい、あらゆる限りの拷問を与え、苦しみ悶えさせてやりたい、一生犯人を呪い続けてやる!と思ったのだ。我が子への愛情が強ければ強い程、犯人への憎しみが大きくなるのは当然だ、と正当化して。しかし、暫らくして我を振り返りふと気付く。自分の中の毒性と残虐性に。自分はこんな事を思う程醜い人間だったのか?と。いや、そうではない。これも犯人達が我が子をあんな目に合わせたからだ!こんな残虐な事は考えず、平穏無事に笑って暮らしたかった。が、犯人達にそれを破られたのだ!どうしてくれるんだ!何故自分がこんな目に会わねばならない!何故なんだ、何故なんだ!この事件にどんな意味があるんだ?神はいないのか?いるなら何故こんな災いを与えるのだ?ふざけるな!と、一人堂々巡りし、何度も何度も、怒り、嘆き、落ち込み、考え込んでしまう。一方、これはあくまで思考実験であるが故、もう一人の冷静な自分が客観視すると、一つの事実に気付く。「意味など無い」のだと。だから考えても納得行く結論など出ないのだと。勿論、被害者当人がそう考えるに至るには相当な時間が必要だろう。そして全てを包括して頼れる、縋れる何かが必要だろう。「人生で理解できないことに出会ったときは、それを司っているもの、つまり神の御手にゆだねようではありませんか」と本書にある。これこそ宗教の存在価値なのかもしれない。故に私は本書にある次の短い言葉に全てが含まれていると感じるのだ。
「赦しは、それを与える者を癒す」
以上
投稿者 BruceLee 日時 2017年4月30日
私が本書を読んで考えた事は以下2点である。
1)そもそも何故アーミッシュの人々は赦そうとするのか?
自分が被害を受けたら加害者に怒りをぶつけたい、復讐したい、と思うのは人間の自然な感情ではなかろうか?では何故アーミッシュの人々は赦そうとするのか?「神に赦されるかどうかは、他者をどれだけ赦せるかにかかっている」というフレーズが何度も出てくるが、つまりアーミッシュの人々の根底には「自分が神に赦されるためには他者を赦さねばならない」という前提があるのだろう。が、ここで逆説的に考えてみたい。神に赦されなかったら一体どうなるというのか?「来世で救済されるには人を赦していることが不可欠」とあるが、正直ピンとこない。救済されるとはどういう事なのか、逆に救済されないとはどういう事なのか、を私は実感として理解していないからだ。この辺りは宗教の領域かもしれず、深く理解してない自分が考えても呑み込めないのかもしれない。「彼らに大方の人と違う点があるとしたら、それは、彼らには、敵を愛し、加害者を赦すよう教えてきた300年の伝統があるということだ」とあるように、長い歴史で培われたものを部外者が1冊の本を読んで理解するのはおこがましいのかもしれない。が、ヒントらしきものはある。
「あなたを赦しますよ。あの子が死んだのは神の思し召しです」
「あんなに怖ろしいことを誰かにさせるのは神のご意志ではありません。でも、神があれを起こるにまかせた以上、きっと私たちの精神にとって善いことがもたらされるのです」
「アーミッシュの多くは、神はより大きな善をもたらすために乱射事件を起こるにまかせたのだと信じている」
つまり、神の配下にある人間社会で起こる事の根本には必ず神が存在するのだから「起こった事を赦さない」イコール「神を赦さない」事となる、という理屈だろうか?そう考えると腑に落ちる気もする。つまり赦しという行為こそ、個人の感情を押さえ神を信じる力強さが試される行為だと、アーミッシュの人々は考えているのかもしれない。
2)赦すとはどういうことか?
本書を読んだ後「自分が被害者となった場合その加害者を赦せるか?」と考えてみたのだが、私は過去に大きな犯罪被害に合った事はなくイメージが沸きづらかった。であればと、例えば我が子が被害者となったら、と考えようとしたが、そんな事は想像したくも無い事なので躊躇してしまった。結果、失礼とは思いつつ、自分が記憶してる中で最もおぞましく、戦慄する事件をベースに思考実験してみる事にした。事件当時も、ご両親は胸をかきむしる思いだったろうと感じたその事件とは1988年に発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。事件内容は悪辣、不快極まりないので敢えて触れないが、事件内容を思い返し「もし殺された女子高生が我が子だったら犯人を赦せるか?」と考えてみたのだ。が、何度考えても同じ結論しか出なかった。
絶対に赦せない!
ただただ、怒りと悲しみに包まれ、何故我が子があんな目に?何故自分にこんな事が降りかかる?と、途方に暮れ苛まれるのだ。そして犯人を決して赦さない、赦したら我が子に申し訳ない、犯人を苦しめたい、出来る事ならこの手で八つ裂きにしてやりたい、あらゆる限りの拷問を与え、苦しみ悶えさせてやりたい、一生犯人を呪い続けてやる!と思ったのだ。我が子への愛情が強ければ強い程、犯人への憎しみが大きくなるのは当然だ、と正当化して。しかし、暫らくして我を振り返りふと気付く。自分の中の毒性と残虐性に。自分はこんな事を思う程醜い人間だったのか?と。いや、そうではない。これも犯人達が我が子をあんな目に合わせたからだ!こんな残虐な事は考えず、平穏無事に笑って暮らしたかった。が、犯人達にそれを破られたのだ!どうしてくれるんだ!何故自分がこんな目に会わねばならない!何故なんだ、何故なんだ!この事件にどんな意味があるんだ?神はいないのか?いるなら何故こんな災いを与えるのだ?ふざけるな!と、一人堂々巡りし、何度も何度も、怒り、嘆き、落ち込み、考え込んでしまう。一方、これはあくまで思考実験であるが故、もう一人の冷静な自分が客観視すると、一つの事実に気付く。「意味など無い」のだと。だから考えても納得行く結論など出ないのだと。勿論、被害者当人がそう考えるに至るには相当な時間が必要だろう。そして全てを包括して頼れる、縋れる何かが必要だろう。「人生で理解できないことに出会ったときは、それを司っているもの、つまり神の御手にゆだねようではありませんか」と本書にある。これこそ宗教の存在価値なのかもしれない。故に私は本書にある次の短い言葉に全てが含まれていると感じるのだ。
「赦しは、それを与える者を癒す」
以上
投稿者 sanchuu 日時 2017年4月30日
アーミッシュの赦し
赦すとはどういうことか。
赦すことが最善の道か。
赦しの定義は、被害を受けた時に加害者を思いやり怒りを克服すること、であった。
アーミッシュが賞賛を受けたのは、この赦しを、被害を受けた時とほぼ同時に体現したからである。
私たちの感覚からすると、我が子の死に直面した怒りはすぐには癒えない。
そして怒りを感じている時に、加害者を赦すことが出来るなんて想像すら出来ない。
アーミッシュと私たちの違いはなんなのだろうか。
アーミッシュの赦しとはなんなのだろうか。
アーミッシュの赦しは、その独特の習慣から生まれていると言える。
毎日の祈りの中で、赦しを、主の赦しを得んがために赦すことを、意識するのである。
その習慣からアーミッシュは、怒りを感じた時にほぼ自動的に赦すことが出来ると考えられる。
たとえそこに葛藤や苦悶があったとしても、アーミッシュがアーミッシュであるが故に赦すという選択肢しかないとも思える。
アーミッシュの赦しを素晴らしいと感じる反面、なぜかその賞賛に異を唱えたくなってしまうのは、この宗教特有の強制力にあると思う。
やはり何ごとにもバランス感覚が無くてはならず、赦すべき時と赦さざるべき時があるはずだと考えてしまう。
アーミッシュにおいてこのバランスを保つ仕組みがシャニングでは無いかと思う。
赦すことを前提条件としたアーミッシュの世界において、赦されざる行為を働く者が排除されなければ、コミュニティは崩壊してしまう。
アーミッシュは実に、赦しを実践するには素晴らしい環境であると思う。
さて、私たちはアーミッシュから何を学ぶことが出来るであろうか。
赦すことしか出来ないアーミッシュとは違い、私たちは赦さないことも選択出来る。
むしろ、私たちの周りには、赦すことが出来ない人の方が多いのでは無いだろうか。
もちろん、私たちの世界においても、赦すことは賞賛されることに違いは無い。
それでも、私たちは怒りの感情に負けてしまう。
怒りにまかせて感情をぶつけてしまう。
たとえ感情を抑えられたとしても、アーミッシュのように、相手に施しを与えることはほぼ不可能に近い。
だからこそ、私たちは赦しを実践すべきでは無いだろうか。
怒りは怒りを生む。
復讐は連鎖する。
その連鎖は、誰かが受け止めなければ、無限に膨れ上がってしまうように思える。
そうであれば、そのことに気付いた私が、私たちが、その担い手の一人になれば、少しずつ世界は快方に向かうのでは無いだろうか。
誰かに定められたからでは無く、自分の意思で、赦しを選択する。
そのために、私は、彼らが祈るが如く、瞑想の時に赦しをイメージしたいと思う。
怒りに負けないように。
この世界の誰かに怒りを連鎖しないように。
本書からは大変大きな気付きを得られました。
ありがとうございました。
投稿者 AKIRASATOU 日時 2017年4月30日
【アーミッシュの赦し】を読んで
生きていく上でどのような価値観を持って日々を過ごすのか、それが自分の人生を幸せにするか、不幸せにするかを左右する。良い人生になるか否か、全ては自分の価値観次第である(というのは塾生にとっては当たり前の話ですが)。
本書に登場するアーミッシュの人々にとっては主の教えを守るのは当たり前であり、そういう価値観で何百年と生きてきたという歴史がある。赦すから、赦される。赦されるために、赦す。主の教えに倣うこと、それこそが幸せに生きるための近道であり、幸せになるために妨げとなるものは手放す。それが例え愛する我が子を殺されたという事実に対する怒りや憎しみの感情であっても手放す以外の選択肢は無いのである。幸せになるために赦すことが必要だというアーミッシュの価値観はわかるものの、子を持つ親としてそのように振舞える事に驚きやとまどいを感じずにはいられなかったというのが本書を読んで最初に感じた正直な気持ちである。
日々を過ごす中で腹が立つことや理不尽だと感じること、許せないことなど負の感情が立ち上がってしまうことは(どんな人であっても)恐らく避けられないだろう。もし努力や修行により負の感情を完全に無くすことができるとすれば、それはそれでとても素晴らしい事だと思う(味覚に苦味が必要なように、生きていく上でも負の感情が立ち上がるような出来事が多少はあった方が人生の彩りをより感じやすくなるのではないかとも思うが)。
とはいえ、その立ち上がった感情をどう処理するかは後天的な努力や物事の捉え方、考え方により如何様にでもできるのだいう事に本書を読んで気づいた。いつまでも負の感情を引きずって生きるのか、腹は立つし仕返しをしてやりたいという気持ちが強くあるがまずは手放そう・忘れようと努力して生きるのか、どう生きる方が自分の人生にとってプラスになるのか?答えはいうまでもないが、言うは易し、行うは難しで自分自身の行動を振り返るとまだまだ感情に囚われてしまっている事がある。
負の感情をいつまでも持ち続けることは、そこに自分の人生の主導権を握られてしまっている状態である。両手に荷物を持った状態でチャンスが訪れたとしても、そのチャンスを掴むことはできない。負の感情に囚われている状態は、両手が塞がっている状態と同じであり、その状態を続けてしまっては幸せに近づくことはできない。そのため、感情に人生の主導権を握られないよう、負の感情が立ち上がった場合はそれを手放し、次にやってくる何かを捕まえるための準備をしなければいけないというセミナーでの教えを改めて思い出し、自身の行動を改めなければいけないと改めて感じました。
投稿者 diego 日時 2017年4月30日
悲劇は超えられるか(果たして、それは悲劇なのか?)
例えば文学作品の中には、時間も空間も超えて感動する古典作品がある。
感動して、逆にその時代と地域を調べることがある。
作者と、その周辺について知り、何が可能だったのか、どうして生まれたのかを探っていく。
本書の手法で、どんな悲劇が起こったのか、それに対して何がなされたのか、それはどういうことだったのか、
なぜ特別だったのか、特別ではなかったのかが明確になっていく。
こうやれば、こんな短い書物の中で、とても特殊な出来事を、深く知ることができるのか。
その中で、私ならどう在ったのだろうかと、考えることができる。
なんと素晴らしい体験だろうか。
本書で学ぶのは、それはまだ10年ほど前の出来事であり、時代とエリアを考えても、とても特殊な存在が行ったことである。
まだ赦しは生きていて、まだ葛藤が続いている。
アーミッシュは特殊であるかもしれない。だが、先にみなさまの感想を読んで、「うーん。それぞれにみんな特殊かも…」と感じた。
自分の表現と同じという方がいらっしゃらない。
同じ時代に生きて、同じ星に生きて、それぞれが特別なんだと感じた。みんなが宇宙人のように感じる。
それでいて、「私は彼で、彼はあなたで」という、ジョンレノンの歌詞が頭に浮かぶ。特別だけど、みんな一緒。
それは、「表現や行動が異なっていても、存在としては、一体で、共鳴しあっている」という感覚なのかもしれない。
人や何かに憎しみを覚えると、嫌な気分になり、身体に反応が起こる。お腹が痛くなるとか、胸がむかつくとか。
同じような嫌な目に合うと、もう二度とそんな思いはしたくないと感じるし、また起こったと思う。
でもこれは、嫌だったことが平気になると、消えていく。身体症状も消えるし、新たな振る舞いに変わっていく。
つまり、感じ方が変わると、起こる出来事も変っていく。振る舞いが変わったから、当然のようにスムーズに変化する。
感じ方を変えると振る舞いが変わる、行動が変わる。でも、先に、行動を変えてもいい。
「赦し」というのは、物事や人に対して行動をおこし、感じ方を変える方法なのではないだろうか。
自分の中に起こっている感情を正当化しようとして、
悲しい理由や嫌な理由をとにかく考え続けて、苦しい感情を継続させていくことがあるように感じられます。
起こった怒りは、本当は正しいのでしょうか?理由は全部後付けなのかもしれません。
でも、明らかに悲劇の時、「当然苦しい…もう死にたいだろうな…」ということが起こります。
立ち直ることがない、ぐらいの悲劇がある。
でも、生きているし、生かされている。
だから、どんなにつらくても、行動規範があって、それに従っていれば、まだ楽な時があります。
やることがあって、例えば学校に行くとかがあって、そうしていくうちに、
つらいながらも、なんとなく日常に戻り、馴染んでいく。
それが行ないやすいコミュニティがどんなものか、
行動規範や、悲しみへの対応、人とどうつながっているのかが、とても参考になります。
また、「人知を超えた、理屈や理解を超えた存在を感じられると、人間強く生きることができるのだな…」と思いました。
自分の行動に、理由をつけられないところがあっても、「こうしたい!」「こうありたい!」を優先できる。
うまくいかなくても、そこに理由を探さない。自分が、誰かが悪いのだと思うのではなく、新たな行動に出る。
善悪や正しいとか間違いとかに基準を置くのではなく、行動と、起こる出来事に集中する。
そうしていると、自然にエネルギーが湧いてきます。
それに対して、多くの賛同を得られるときは、自然にエネルギーが集まってくるように感じられます。
理由がなくても「こうしたい」「こうする」がある時、すべての扉が開いているという気がするのです。
これは、幸せへの近道ってことかな。
この一か月、本書を読みながら、そう感じていました。
今月もありがとうございました。
投稿者 2l5pda7E 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」を読んで。
・赦す
“人を呪わば穴二つ“ということわざが通り、昔から人を赦す事が難しいことは周知の事実である。
どうやって赦す文化が浸透したのかは、子供達には決して強要していないという事だから、文化として根付いていると考える。子供たちは親や大人たちの背中を見て赦す事を学んでゆくのだろう。
・生活様式
便利な生活を禁止していることにより電気や電話などは一切使わない事や、自給自足で生活を行う事、エンターテインメント関連を許可されていない事で、コミュニティの結束が非常に強くなっているのではないだろうか。
・シャニング
周囲の環境とは違う、昔ながらの生活をしている中で、アーミッシュコミュニティの中から放り出されてしまうことは、とても強い強迫観念がある。だからこそ、シャニングされる者へのプレッシャーになる。
・文化が習慣形成した。
アーミッシュの文化が赦しを形成することができたことは驚愕。私たちも教養を得ることによって赦す事ができる生活習慣得ることができるという可能性があるという事だ。
しかし現代の概念を持っている個人が簡単に赦しを実行できない事は確かである。
電気を使うと、余計なものがついてくる。というのは、わかる気がする。目に見えない電気というものの原理を想像して使っているに過ぎない。目に見えない余計なものがついてきているとしたら、私たちもバッテリーを用いて機器を使う事ったほうが良いかもしれない。
投稿者 ktera1123 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し」を読んで
本を開いた瞬間「ぞくぞく」した。何故なんだろう。本を持った段階では購入した書店のカバーがついていたこともあり特に何も感じなかったのに。
行きの電車の中で断続的に読んでいたら、何故か「引き寄せの法則」が作動して、倉橋竜哉さんのの4/27のメルマガの修羅場のはなしのなかで「ゆるしの7ルール」の第1条が出ていて「『ゆるさない』ことはあっても、『ゆるせない』ことはない」とあり、「ゆるす、ゆるさないは相手が決めることではなく、自分の意志で決めることができます。」とありました。
「なんだこの野郎!むかつく!むかつく!キッー!!!」といつまでもヒステリック的に相手に支配されるのではく、こちらから主体的に「ま、いっか」と赦していくことが必要なのではないでしょうか。
以上
投稿者 rarara 日時 2017年4月30日
赦すことによって、誰が救われているのか?
この本を読んでいる間、シーソーのように、いろんな感情になった。
アーミッシュの人々は、信仰に忠実になりすぎて心を失ってるんじゃないか。
同じ被害者の親同士で話すことで癒されるなんて、人間っぽいね。とほっとしたり。
コミュニティーを出てく人を赦せないのは、ただ、うらやましいだけじゃないか。
読み進めていくと、普通の人間っぽい。
それなのに、なぜ赦せるのか?
一方、赦された加害者の両親は、救われたのだろうか?
もちろん、一時は、ほっとできたと思う。
普通なら、雨戸も開けられない、引っ越さざるおえなくなったり。
他にも想像を越える不安や苦しみから逃れられたと思う。
でも、そのうち、虚無感のようなものが出てこないだろうか。
部外者だから、何をしても赦された、という疎外感。あてにされていない。存在を無視された。
赦されないのもつらいが、簡単に許されてしまうのもつらいと思う。
そうなると、救われたのは、赦したひとだけ。
それもこれも、来世で救済されるために。
投稿者 chaccha64 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し」を読んで
なぜ、アーミッシュは赦したのか?
これは、基本は新約聖書の赦しから来ている。聖書の中のあちこちに赦しの話がある。アーミッシュは新約聖書を赦しの書と捉えている。これを、小さいころから、家庭での祈りで、教会での祈りで、そして、学校の教育で教えられ、生活の中に自然と溶け込んでいる。そして、『赦すことが当然』のこととしてアーミッシュの心の中にある。
また、赦すことは個人の判断ではなく、アーミッシュという集団としての行いだと受け止められている。これにより、個人の責任とは別のものとして捉えている。
罪を犯した人に対して、咎めず、非難せず、復讐せずに赦すということは難しい。
赦すための理由を考えていると、論理的な回答はなくなってしまう。というか、なかなか出て来ない。逆に、咎める理由、復讐するための理由が出てくる。この本の中でも、識者と言われるような方々がそれらの理由を挙げて、『アーミッシュの赦し』に批判をしている。
理由を論理的に考えてはいけない。論理的に考えると赦せなくなる。
アーミッシュのように『赦すことが当然』というようにしないと、赦すということは難しい。そうしないと、犯罪の大きさ、残虐性などの許せない理由が次から次へと出てしまい赦すことができなくなる。(アーミッシュも苦しんではいるが、赦すことが義務になっているので、表面上は比較的楽に赦しているようには見える。抑圧の問題はあると思うが)
また、個人レベルの赦しでないため、より『当然』だと考えやすいのだ。(集団主義的だと批判されるかもしれないが、個人に責任が転嫁されにくいので受け入れやすいのではないか)
また、アーミッシュの赦しは和解とは違う。和解を前提にしたもの、和解をするための赦しではない。相手が反省している、悔い改めているかどうかに関係なく、『まず赦す』ことが先にある。その後、和解しようがしまいが関係ない。
逆に、和解が関わって来て、決裂するような場合に問題があるのではないか。そのよい例がアーミッシュ内部のシャニングではないだろうか。相手の行動が悔い改めているとは納得できないために赦免ができない。赦してはいる(どんな罪も赦すものだから)。しかし、反省、悔い改めの基準が各自(または教区)でまちまちになるためではないか。そのために、悩んでしまい、余計に赦せなくなるのだ。
本書で『アーミッシュの赦し』は、贈り物、恩寵と表現されている。本当に、贈り物であり、恩寵だと思う。これは、犯罪者やその家族、関係者へのものだけでなく、アーミッシュ自身にとってもだ。ニッケル・マインズでの事件では、ロバーツの親族と和解し、新しい良好な関係を築いている。
それは、『アーミッシュの赦し』から始まったことだ。
アーミッシュは『赦すことが当然』という考え方を、家庭での祈り、教会での祈り、学校の教育で培っている。すばらしい考えであり、すばらしい教育です。
アーミッシュのように赦すことはなかなか難しい。『赦すことが当然』と考えることも簡単にはできない。そういう考え方にも馴染みがない。
しかし、赦すことは相手のためではない。赦しとは相手への、そして自分への恩寵なのだ。そう思い、少しでもアーミッシュに近づけるよう『赦すことは当然』と考えれるように努力していこうと思います。
投稿者 str 日時 2017年4月30日
アーミッシュの赦し/なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか
自分とは接点の欠片もない所で起こった出来事ではあるが、腹立たしい事件だと感じた。自分ですらそうなのに、実際に関わりのある・それも家族や親しい人たちの命を理不尽に奪われた彼らが奪った人物を“赦す“ということ自体が理解できなかった。「犯人の家族」だけを赦すというならまだ解らなくもないが・・宗教というものに対してやや恐怖を感じたのが正直な気持ちだ。
相手を「赦す(許す)」という行為そのものを否定するわけでないし、むしろ素晴らしい事だと思う。恨み・憎しみは負の連鎖しか生み出さず、死者が蘇る訳でもない。寛容な心で気持ちを切り替え過ごしていく事の方が、今後の自分の人生にとっても良いに決まってる。と、頭では分かっていても実際に自分の身の周りで起こったとしたらどうだろうか。日本は銃社会ではないけれど、刃物を使えば通り魔事件だって簡単に起こってしまう。何人も襲撃され、被害に遭った人達の中にもし自分の親しい人物がいたとしたら理性など全く役に立たなくなるかもしれない。犯人に対して強い殺意が湧くかもしれない。けれど、それがもし違う状況だったら見方が変わるのだろうか。例えば全く悪意など無い人が、ただそこを車で通りがかった時、急に意識を失い歩行者の列に突っ込んでしまい、多くの命を奪ってしまったとしたら。その場合、もしかしたら自分は赦してしまうかもしれない。「命を奪われた」という結果は同じなのに、結局はその過程や動機次第で抱く感情が変わってしまうような気がする。
『悪魔、悪に打ち負かされたんであって、悪人だったわけではない』
彼らは感情が欠落しているわけでもなく、当然“怒り“の感情も持ち合わせている。それでも”赦す”という結論に至るのはそれが“教え”だからなのだろう。それは自身の心を守るための暗示に近いものだと思う。
『癒しと希望によって悲劇を乗り越えること』
本書に触れ、アーミッシュの事を少し知った程度では彼らの事は理解しきれないし、もし自分の身に似たような出来事が起こったら同じ感情を持つことはやはり何年掛かっても不可能だろう。だけどその時、自分の精神は果たして無事なのだろうか。
決して赦せないけれど、赦す事でしか自分の心を守る術がないのかもしれない。
悲劇は起こらないに越したことはない。
けれど万が一の場合、負の連鎖を断ち・自己防衛のための備えとして。彼らの事を少しでも知ることが出来たのは決して無駄ではない。
投稿者 tadanobuueno 日時 2017年4月30日
救われるための準備を我々(非アーミッシュ)はできているのか?
本書から自分が問われた点はこの点だった。
この「救われる」を自分の中で「幸せに生きる」へ置き換え、幸せ
に生きる準備をできているか?との問いかけで感想を書いてみたい。
アーミッシュの方々は様々な制約(自己否定・情報・文明等)、
更にはその環境を保つ仕組み(厳格な規範・シャニング等)、長き
歴史により培われてきたコミュニティーの結束の強さで、日々の中、
その準備をしてきている(準備ができる環境を作り上げてきている)。
遠い昔の学生時代にアメリカを旅行した際、アーミッシュの方々を見て、
あの服装、馬車で「超守旧派の頑固な人たち」との考えで思考停止して
いた。
しかし、本書を読んで、以下の点から、人間の本質を理解した非常に
合理的な考えの方たちである事を知った。
・自分の弱さを理解し、怒りに支配されず、自分が救われるために人を赦す。
・赦すという困難な行為を乗り越えるために自分の周りの環境を整える。
・全てに答えを求めず、考えすぎずに行動を第一とする。
・技術と向かい合うことを続け技術に支配されることなく取り込み続ける。
上記に挙げた、アーミッシュの方たちの物事への向き合い方こそが幸せに
生きる準備として人類への教訓となりえるのではないか。
そしてこれらの点のエッセンスは自分がセミナー・メルマガで学んできた、
智の道であり、コミュニティーを作ることであり、エポケーであり、絶えず
学び・行動し続ける姿勢と考えている。
自分自身は子供を授かったことから子育てと向き合うようになり、
・自分の弱さ、できることの限界を自覚し
・妻や子供達の考え、ありのままを受け入れられるようする為
・家族以外の第三者の意見を得ることができるコミュニティーをつくり
・その中で自分が興味ある事、必要とすることへ取り組んできた
基本編に参加して5年たつが、好きなことを中心にだが、取り組み続けた
ことで自分が一生をかけて取り組んでいきたいことも見えてきており、
今まで動いてきたことが結実する時期にきているとも感じ始めている。
今後とも動き続けることで自分の分野を確立し、自分独自のコミュニティー
を作り上げていきたい。
良書との出会いを戴き、ありがとうございました。
投稿者 jawakuma 日時 2017年4月30日
アーミッシュの赦しを読んで
現在も米国において昔からの生活様式を守り続ける、アーミッシュ。
コミュニティの小学校を襲った凄惨な銃乱射事件。その直後に被害者家族は犯人を赦し、犯人の家族を抱擁し、家族ぐるみの付き合いを続けているという。
この話を読んだとき以前セミナーでしょうおん先生に聞かせてもらった、『ヨブ記』を思い出しました。どんなに辛い現実が目の前に表れても決して唇に神を犯す発言をしなかった、信仰心のあついヨブの話のことです。神との勝負のためサタンに財産を奪われ、愛すべき子ども達も奪われ、それでも神を呪わず、信仰を貫き通す。アーミッシュの被害者の家族も最愛の子供たちを奪われたところがヨブとかぶっています。そしてその後もやはりヨブと同じで、何者も恨まなかったのです。
なぜ自分に害を加えた相手を即座に許せるのでしょうか。米国のメディアがそれを感嘆に値すると騒ぎ立てますが、当人のアーミッシュ達は当たり前のことをしたまでと、悲嘆にくれる中ではありますが、非常に落ち着いた対応を取ったのです。
この事件に限らずアーミッシュは赦しの行為を行っています。その過程で怒りを抱いていないかというとそうではありません。我々と同じく怒りの感情はやはりあるのです。ただそれを誰か他人に対して恨みの感情で持ち続けることはしないということです。それは何よりも自分のためなのだということでした。その感覚の理解のためにはキリスト教とアーミッシュの信仰を理解する必要があります。表裏一体となる、赦しと救い。何度でも赦し続けることにより、救済を得られるということなのです。赦していないものはその罪を赦されず、天国には入れないというキリスト教の根源的な思考がアーミッシュの信仰にはあるのです。
アーミッシュには厳しい一面もありました。シャニング(忌避)と呼ばれるコミュニティを離れる決心をしたものに対する、勘当処分にも似た行為のことです。悔改める懺悔を行うことでまたコミュニティには迎えられるそうですが、聖書の教えに背く行為、彼らの生活様式を定めるオードヌングを破ったものに対しては厳しい制裁があるのです。なぜここでは赦しがおこなわれないのか?その違いは受け取る側の人の心に「怒り」や「恨み」の感情が生まれるか生まれないかの違いによるものだと理解できました。この件を読んでから、アーミッシュの赦しは自らの感情に対する赦しでもあるように感じました。人を呪わば穴二つというくらいなので、やはり自分の気持ちをしっかりとコントロールして穏やかに生きることが、幸せに生きるコツで結果的には天国へとつながっているのだと思いました。
また本書で驚かされたのが、自己犠牲の精神でした。アーミッシュでは教科書にも載っていて、300年前から語り続けられている、殉教者の話があるそうです。自分を貶める行為をするために追ってきた相手に対しても、その命を救い、自分が制裁を加えられる側になっても相手を赦し続けたのです。その行為が建前や精神論ではなく実際の行動として現れたのが、年長の女の子が 「自分を撃って」 と名乗り出た行為につながっていたのです。教育とはすごいものですね。先祖代々語り継がれてきたその価値観が小学生の女の子にもしっかりと根付き、咄嗟のその緊迫した状況でも行動として身を捧げる行為ができるとは。本当に驚嘆に値すると思います。私も読書や教えを通して知識や価値観を蓄え、ここぞの時にはそれが行動として発揮できるよう学びを続けていきたいと思います。
以前の課題図書だった無葬社会にて原始仏教の釈迦の教えに触れ、
今回はアーミッシュを通してイエスの教えと原始キリスト教の一面に触れることができました。
今月も良書をありがとうございました。
投稿者 akirancho0923 日時 2017年4月30日
『アーミッシュの赦し』を読んで
はじめに言葉ありき。
言葉はすなわち神であり。。
上記の文言は、新約聖書の第1章にある言葉、とのことですが
アーミッシュが何故赦すのか、赦すことができるのか
何度も何度も赦す為に向き合うことができるのか。
この文言がアーミッシュにとって揺るがない信仰の対象というべき
本質になっているからだろうと考えました。
また、優れている点は、一人に降りかかった問題であっても
関係の深いコミュニティみんなで考えよう、お互い助け合い
励ましあい乗り越えていこうという姿勢です。
この部分はとても共感が持てましたし
改めて、自身の会社組織において
真似できる行為として実践していかねば、と考えさせられました。
ふと、「女子高生サヤカが学んだ」の著者が浮かんできました。
相手を赦すことができず獄中生活を続けている著者が
この本書を読んだら(おそらく読んでいるのではないかと思うのですが)
どのような感想を持つのか聞いてみたいと。
同じ考えを持つコミュニティに属する人たちと
非コニュニティーの個人との生活を考えた時
客観的に捉えると、人生の満足格差が
今後ますます広がっていくのではないだろうかと。
智の道に通ずる、相手を思いやることで自分自身も
癒されるような生き方が(神を信じる信じないは、宗教の考え方として)
気持ちの良い、一度きりの人生を送れるのではないでしょうか。
投稿者 truthharp1208 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人その家族を赦したのか」を読み終えて。
<ニッケル・マインズの銃撃事件>
私はこの本を手に取るまで、恥ずかしながらアーミッシュのことを全くと言って良いほど知らなかった上、2006年10月2日に起きたニッケル・マインズの事件も記憶に残っていなかった。
チャールズ・カール・ロバーツ4世に銃撃されて、命を失った5人の少女の家族は、ロバーツを憎むどころか、事件の後に自殺したロバーツの未亡人と遺児たちも事件の犠牲者であることに気づいた。ロバーツがアーミッシュ学校への銃撃を仕掛けた根底に、長女ユリーズを亡くした悲しみがある。だからと言って罪の無い少女を5人も殺して良いわけではないが、犠牲者の家族が遺されたロバーツ妻子との絆を紡ぐことが出来たことにより、ロバーツ妻子はこれから世間の冷たく厳しい視線に晒されて、苦しみながら生きていかなければならない運命であるがゆえに、どんなに救われたことか。
<アーミッシュの文化>
最初は閉鎖的、保守的、あえて時代錯誤のことをしている、という印象だったが、コミュニティを大事にするところは孤独化、孤立化しつつある現代社会において、上手く取り入れられないか、と感じる要素。以前の課題図書「無縁社会」では人とのつながりが希薄になるがゆえに起こる孤独死を無くすためにもアーミッシュ文化の良い面をを知り、コミュニティを形成し、助け合い精神を養う必要があることに改めて気づかされた。
<自分ゴトとして置き換えたら?>
赦せない人は思いつかないが、与える精神や、自分より人の幸せを大切にする必要があると改めて気づかされた。私はクリスチャンではないため、本課題図書の内容を理解するのにかなり苦しんだが、自分の視野がまた1つ拡がったことは非常に良かった。
投稿者 haruharu 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し」を読んで
この書籍の紹介分を読んだ時、私にとって大事な本になるだろう!!
予期せぬタイミングで発生する怒りという感情の処理を解決することへの期待を膨らませた。
「闘いだよ。赦しを拒む力と真剣に闘わないといかんのだ」
ああ、アーミッシュの人たちも同じ人間なんだなと思いました。
しかし、死に物狂いに真剣に幸福の道を全うしてる。
300年の伝統があるということは両親、その上の両親(祖父母)、そのまた上のそそのまた上の・・・環境の中で強力な力に育てあげられてきている。
たしかに恨みを抱えて生きていたら、被害者に自分の人生を一生コントロールされて終わってしまう。
ある著書にあったように
赦しには、「自らつくる物語の中で自分を被害者ではなくヒーローにする」
そして、
著者が言うように
我々がどんな習慣に価値を置き、どんなイメージを大切にし、どんな物語を記憶するかということ。
赦しとは、赦して忘れることではなく、むしろ赦したことがいかに癒しをもたらしたかを記憶にとどめておくことなのかもしれない。
癒しか・・・。アーミッシュの方々も果たして癒しが手に入っているのか。
だとしたら、今困っていたり悩んでいたりもがき苦しんでいる現状があれば、すぐさま自ら作るシナリオ
を書き直すか工夫しなければいけない。
投稿者 gizumo 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し」を読んで
あらためて「宗教」の人に及ぼす影響力の大きさを痛感した本でした。
恥ずかしながら「許す」と「赦す」の違いがわからず調べてみました。大きく、許可と贖罪の違いのように述べてあることが多かったが、「赦す」に関しては「何もなかったことにする」といった説明もあり、本書での「アーミッシュ」の考えとは違った意味合いも述べられていました。
「アーミッシュ」という言葉も知らず、いろいろと調べて画像などを見ていると、小さいころに見ていた「大草原の小さな家」のような雰囲気があり、あの生活が21世紀でも続いているのだろうなと想像した。実際の、今の時代で電気、電話、パソコン、学校さえもない生活はやはり、国の中に別の国家があるようなものかと理解しました。
幼い子供が犠牲となり、悲惨な事件を基に「赦し」に関して述べられた本書ですが、宗教に強く影響された価値観によって、その加害者を「赦し」、「赦し」に基づく行動ができる人たちに尊敬の念すら持ち、さらには「本当にそれでいいの?」と疑問さえわく部分もありました。「赦し」に関する思考の価値基準が直接の被害者のみならず、コミュニティとしての価値基準でもあり、また自然で自発的に、体に染みついている点は、宗教色の弱まっている今の日本ではなかなか理解しがたいと思われます。
本書を読む前は、長く苦悩の末、断腸の思いで「赦し」を決断したのだと考えていましたが、すぐに、しかも数時間後には行動が起こされていたという驚異の世界です。しかし、やはり苦悩もあったことに触れられる点もあり人間としての親しみと安心を感じました。
「開運するには・・・」等で「他人をゆるしなさい」などと言われ、自分自身を振り返ることもある。
表面的には許していても赦すことはできていないと気づくことがあります。その点で、本書にあった「恨みを一日抱えているのは、悪いことだ。二日抱えているのはもっと悪いことだ。一年も抱えていたら、あいつが僕の人生をコントロールしていることになる。それくらいなら、今すぐ恨みを捨てたほうがいいだろう?」という恨みを抱え込むことについて述べられた文章で腑に落ちました。
「コントロールされる」、なるほどなと・・・。自分の人生なのに人にコントロールされるわけにはいかないと、目の覚める読後でした。
投稿者 ken2 日時 2017年4月30日
「アーミッシュの赦し」を読んで
アーミッシュの人々は、恨みよりも赦しに高い価値を置いてきた。
罪(をもたらす悪)を憎んで人を憎まず、を何世代にもわたって実践してきたんだな、ととても重みを感じた。
本当の赦しとは赦したことを行為で示す、こと。言うは易く行うは難し、だ。
言葉としては理解できるが、実際に自分が被害当事者になったとき、実践できるかどうかわからない。
アーミッシュの人々は赦しの実践が習慣化されているが、それでも葛藤はあるという。
『赦しを研究する心理学者によれば、一般に、赦す人は許さない人よりも幸福で健康な生活を送れるという。』
われわれがアーミッシュの人々を見習うとすれば、赦すということを習慣化するよう努力することから始めることかと思う。
とても価値ある問い、をありがとうございました。
投稿者 kawa5emon 日時 2017年5月1日
書評 アーミッシュの赦し ドナルド・B・クレイビルほか 著
毎回の課題図書でそうではあるが、本書も相当考えさせられた。
自殺したとはいえ、殺人犯を赦す点はもちろん素晴らしく、
今のあなたにできますか?と問われれば、おそらく否ではあるが、
今回の一番の収穫は、その判断、行為に至る考え方、
そもそもアーミッシュが終生大切にしてきたモノ、
積み重ねてきたモノを感じることが出来た点である。
確かにニッケル・マインズ校での事件に関するエピソードは
人々の注目を一気に浴び、多くの議論を呼んだのであろうが、
自分の関心は、本書後半に多く出てくるアーミッシュの人生観、
死生観、神の位置付けなどの部分により引き付けられた。
何故か?端的に言うと、自身のキリスト教徒へのイメージを完全に破壊したからである。
一概にキリスト教徒と一括りにしてはいけないと本当に反省した。
それはアーミッシュが、全てに人間的な答えを求めない、つまり強いて言えば、
目に見えないものの存在に重きを置き、またそれに判断を委ねている点を知ったからである。
世界を牛耳ろうとする所謂西欧主義のようなグリグリ、ゴリゴリの感が全く無い。
寧ろ、無常を知る、仏教の悟りの境地を思わせるような思想体系を感じたのである。
それは、アメリカに於いて大多数を占めるであろうマジョリティとしての
キリスト教徒には衝撃が走ったに違いない。
そして、近年の日本に於いても、その反響は大きいだろう。
その時、先々月課題図書の「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」、
特に最終、第四章での佐々木氏の仏教解説を思い出さずにはいられなかった。
現代日本に於ける仏教、世界でのマジョリティとしてのキリスト教、
これらはより資本主義的になっていて、宗教本来の求心力を失っている。
逆に言うと、「無葬社会」での佐々木氏の解説や、今回のアーミッシュの例が
非常に快く(少なくとも自身には)感じられるのは、それらの思想が、
人間のあるべき姿の本質を突いているからと思えて仕方ない。
今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
投稿者 haya413 日時 2017年5月1日
「アーミッシュの赦し ーなぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」を読んで、キリスト教に対する思い違いに気付くとともに、自己本位な感情の解放について考えさせられました。
キリスト教に対する思い違いとは、アーミッシュの赦しと表現されている、他者に対する配慮の精神は、全てのキリスト教に根付く教えと思っていたことです。
聖書では、他者への配慮について述べられているのに、排他的な行動が起きるのか?という点について常々不思議に思っていたのですが、そもそも解釈が違っていたのか…と、自分の勉強不足、理解不足に気付かされ、また調べてみたいことが増えました。
自己本位な感情の解放については、本書を読んで、自己本位な感情を手放し他者への感謝や配慮を持つことは理想だと、あらためて思ったからです。
多神教の国に生まれているからか、アーミッシュの赦しは凄いと思いますが、神に赦されるためという出発点に違和感を覚えてしまいます。
神や他者からの視線に矯正されての行動ではなく、自発的な他者への配慮が理想で、それも自己犠牲を過ごさず、というのが知の道だなぁと読み進めていました。
赦しとは違いますが、些細な拘りはなるべく手放し、ムッとすることがあれば、どうしてムッとしてしまったのか? そこまで強く反応することなのか?ということを考えるようにしていたら、少しずつ腹立たしいことは減ってきました。
楽しい、嬉しいという感情を増やし、苦しい、悲しい感情を減らしていくことが目標の一つとして過ごしています。
とりとめのない感想を羅列してしまいましたが、今月も良書をご紹介いただき、感謝します。
ありがとうございました。
投稿者 satoyuji 日時 2017年5月1日
『アーミッシュの赦し』感想
私がこの本を読んで考えたことは以下のとおりです。
1. 人は起きたことに対する反応を自分で選択できるということ
2. 選択を作るのは日々の習慣や環境に拠るということ
3. 今の習慣や環境を変えたいなら、便利さをとの付合い方方を見直す必要があること
4. 人生で一度しかない貴重な選択を間違わないためには日々の生活をしっかりすること
この本は自己啓発本である。どうやったら自分がなりたい自分になれるのかをアーミッシュの事例をもとにして書かれている。そう書いてしまうと筆者たちの意図とは全く異なるメッセージを受け取ることになると思えわれるが、自らの同胞、自らの家族を殺した相手の家族を許させる態度の来た所を考えると、私は本書に『選択のレッスン-アーミッシュの事例から』という題名をつけたくなる。
本書では2006年に起きたアーミッシュ学校での銃撃事件を端にして、アーミッシュというキリスト教一派を紹介されている。もし一般的な銃撃事件であったのなら悲惨な事件と片づけられていただろうが、この事件では被害者であるアーミッシュに属する人々が犯人と犯人の家族を即座に赦したことで悲惨とは違った意味で注目をあびたらしい。
大切な人を殺した相手を赦せるのか。その問いに対して即答できる答えを、今の私は持っていない。憎むという非合理的行為をする気は私にはないが、憎むということが人の自然に持っている感情だとすれば、それが起こった時に私が相手を許せる境地に到れるかはわからない。仮に私の家族が誰かに殺されたとしたらどんな気持ちになるのだろうか。当たり前だが死ぬということはその人が自分そばからいなくなることである。言葉通りにその人の存在が無くなるということである。自分の心と空間を埋めていたものが一瞬にして消えてしまうことである。それが自然にもたらされたものでも悲しいのだが、他人によってもたらされたならば、行き場のない気持ちは何処に向かうのだろうか。多くの場合は怒りや憎しみとなっていくのだろう。だからこそ本書に書かれたアーミッシュの行為が注目され、絶賛されたのだろう。しかし仮に私がその事件に遭遇した場合を考えれば考えるほど、アーミッシュの行為に吐き気を感じた。
それは自分達がどうにもできないことへの洗脳的な選択のように思えたからだ。どうにもできないことが起きたらステレオタイプに許すと教え込まれているように思えた。しかし読み進めていくとアーミッシュにも赦しがたい事はあるらしく、同じように赦すことに苦しみを抱えていることがわかってきた。つまり彼らは赦すことの難しさを抱えながらも赦すことを選択しているということだ。ならば私たちも同様に選択し難いことを選択できるということだ。飛躍させるのなら、感情が起こり、当たり前に起こしていた感情や行動を自らの意思で選ぶことができるということである。
どうすれば反応を自ら選ぶことができるだろうか。アーミッシュは以前にも同様の事件に遭遇したことがないわけではないが、慣れていることでいつもそう選択しているというわけではなさそうである。そうではなく、日々の習慣の中で自らの価値観の中で大切なことを繰り返し繰り返し学び、当たり前にある日常の中で実践しているのである。人生の中で大きな選択を迫られることは限られている。つまり慣れることで選択を可能にすることはできない。そうではなく、自らの価値観を問いその価値観に沿う生き方を日常の中で実践していくことが無二の選択を間違うことなく行うことを可能にするのである。
しかし既に出来上がっている選択を変えることは、どうすれば可能なのだろうか。アーミッシュのようにコミュニティーを持たず、沿うべき宗教がない場合、何を頼りに選び直しをすればいいのだろうか。私はそのヒントがアーミッシュと外部との付き合い方にあると思う。携帯を持たない。インターネットを利用しない。便利さとの距離をしっかりと考えている。どうしてそうしているのかと言えば、その便利さが自ら選択する時間と空間を奪ってしまうからである。
大切なものを大切にすることは難しい。尊いと思うことを尊く扱うことは難しい。そして何よりもそう思っていることに気付くことすら難しいのである。それに気付くたったひとつの方法は自らの内なる声に耳を傾けることである。アーミッシュが便利さと距離を置くのはそのためである。では私たちが自分の大切なことに気づき、それを大切にするにはどうしたら良いのか。同じようにすれば良いのである。帰ってきたら携帯の電源を切ったり、移動するのにヒッチハイクをしてみたり、たまに自分で薪から火をおこしてみればいいのである。部屋を片付け、自分の時間を持ったりすれば良いのである。便利さとの距離を取り直して自らの価値観を問い直していれば良いのである。
日常の時間や場所の使い方を変えてみることで内なる声に耳を傾ける。大切なことを大切にするには日々の実践こそが大事であることを本書は教えてくれている。
今回も自分では出会うことのない本との出会いをありがとうございました。