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第92回目(2018年12月)の課題本

 

12月課題図書

 

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来


今月はこの本です。前著に『サピエンス全史』という面白い本がありまして、去年はこの

本にドップリハマったんですよ。でもこの本を理解するには歴史、文化、文明、神話、科

学の基礎知識が必要でして、それは難しいんじゃないかと思って、これまでご紹介してい

なかったんですよね。

その続編が本著でして、前作以上の面白さでして、ものすごく読み手を選ぶのですが、理

解出来る人にはこれほど面白い本は近年そうはないだろうという名著です。

おまけに今回は下巻を課題図書にしたわけで、そうなると本気の人は上巻も読みますよね。

ま、下巻だけ読んでも面白いですし、むしろ上巻よりも下巻の方が色々考えさせられる内

容になっているんです。上巻を読まないでいきなり下巻から読んでも、話は理解出来るは

ずですから、時間が無い人はそうして下さい。

たまにはこういう骨太の、知的好奇心を掻き立てられる本を読むのも良いと思いますよ。

ただし、年間の読書量が20冊以下の人が読んでも、基礎知識が足りず途中で投げ出してし

まう恐れがあります。

厳しい言い方をすると、この本を読んで「面白かった!」と言える人は現代社会に於いて

教養ある人といえると思います。何だかよく分からんわ、何が書いてあるのか理解出来ん

わ、ページをめくるのが辛いわと言う人は、知識レベルで劣っているということです。そ

ういう人は一念発起して、勉強することを強くオススメしますし、それが出来る人がこの

メールマガジンの読者にふさわしいのです。

 【しょ~おんコメント】

12月優秀賞

 

今月は半ば予期していたこととは言え、選考に難儀しました。

今月一次審査をクリアしたのは、audreym0304さん、masa3843さん、

BruceLeeさん(この方は本書とはほとんど関係無いことを書いたのですが、書かれたこと

が私の言いたいこととかなり被ったので選びました)の3名ですが、残念ながら今月は該

当者無しとします。理由は以下の通りです。

課題図書の感想文は、課題図書のコンテンツについて書くモノです。

課題図書の内容について何をどう受け取ったのか、という視点で書いて欲しいわけですよ。

例えば、著者が「○○はAなのである」と書いたのなら、Aについて深掘りするとか、気付

きを書くとか、類似の事柄を体験したとかを書くべきなんですよ。ところが、いきなりこれに

正面から反論する人がいるんですね。つまり「○○はAだというのは間違いである」という

書き方をする人が毎月たくさんたくさん(今回はホントにたくさんいました)いるんですね。

それはAについて語っているのではなく、非Aについて語っているのです。異なる集合に

ついていくら語られても、それは本書についての感想を書いたことにはならないのです。

今回はこういう人が多かったので、選考不能としました。

 

【頂いたコメント】

投稿者 akiko3 日時 2018年12月27日


日々、情報に埋もれ読み切れないジレンマを感じていたが、それらの情報の多くが無意味な物と自覚させられた。また、何事も前向きにとらえようとしているが、身の毛のよだつような経験(例えば戦争)でさえも、天国への入口的に美化していたかも。具体的に知り(想像し)、感情を動かさないと理解には近づかないと気付かされた。考えられないことは思考停止で誤魔化しがち…。考えられない=無知なら、読書などで勉強しないといけない。

  「歴史は繰り返す」「歴史から学べ」とは聞いていたが、人類の歴史に遡って学ぶ必要があり、学ぶとはどういうことかを著書を読み、音声ファイルを聞きやっと理解した。
あまりに知らずに生きていて、知らないうちに情報の1部に取り込まれている自分なのに、現世は便利で自由で幸せだと平和ボケしていたことに呆れた。
以前、中村文則さんの『R帝国』を読み、未来に起こりうる戦争や薬の開発に恐怖を覚えたが、小説だからと思考停止をしていたことを思い出した。
ITやAIの比率が人口より増えるかもしれない、人間はロボットに乗っ取られるかもしれない、まさかと思いつつ、「スイッチを切ればいい」と言われてもためらう。北海道であったブラックアウトで電源がないと誰がどう困るか、命に係わる事例も新聞で報道されていたが、知らずに当たり前に便利に使っているもののなんと多いことだろう、使っていると思っていたロボットに依存している現実は簡単には切り捨てられないかも。
便利な物との付き合い方を自分がどう意識するか?に気をつければいいだけではない。人生にはなんらかの問題が発生し、それを日々自分が選択して解決して生きているが、その人間の営みにじわじわ便利な物は入り込んでいるらしい。その結果、人間が内から徐々に崩れていくとは、ホラー並みの恐怖ではないか!
右脳がパニックになりそうなので、左脳を使おう。
“アルゴリズム”とは辞書によると、『問題を解決するための方法や手順のこと。問題解決の手続きを一般化するもので、プログラミングを作成する基礎となる。アルゴリズムは1つの問題に対し、複数ある場合が多い。』
“複数ある場合が多い”から簡単に“これです”と提示してもらえると人は“快”を覚えるのかも。そんなことが積み重なると、脳も心の使い方も衰え崩れ…やっぱり恐怖だ!

『一生を通して学び続け、繰り返し自分を作り変えるしかなくなる』自分を変える方法として、感覚器官を鍛えることが浮かんだ。
どんなにITが進化しても、香りだとか味は今のところ届けられないが、人は思い出しただけでも香りが蘇ったり唾がでたりする。その能力はITが持っていないもの。少数民族達の感覚器官を知ると現代人のなんと劣っていることかに気付かされたし、障害を持つ方の感覚器官は、残っている器官がより発達する例からも鍛えることが可能だと思う。感覚器官は“快”に繋がることが多そうだし、“楽”や”幸“をより感じられそうだ。
夢に対しても寝ている間の幻としてではなく、人生の同じ時間軸と捉えて意識や感情を動かす必要を感じた。(夢さえもAIはスキャンして選択肢の1つとして提示するようになるのだろうか?)

「歴史から学ぶ」とは、『学んで過去から解放され、新たな可能性を見つけて欲しい』と著者は言う。視野を広げ、様々な選択肢に自分で気づけるようになる為に、読書は欠かせないし、Inputしたものの解釈も自分の判断基準が虚構の影響を受けている前提で、逆さメガネをかけ捉えようと肝に銘じた。

今年最後の本は頭がクラクラしました。これまで参加することに意味あり的に上っ面な読み方しかできてなかったけど、音声ファイルの解説のおかげで読書の仕方、面白さがわかって参加しててよかったと思いました。
まだ入り口ですし、サルレベルなので大きなことは言えませんが、自分を作り変える小さな1歩として来年も続けたいと思います。
ありがとうございました!

投稿者 toshi121 日時 2018年12月28日


「ホモ・デウス」を読んで

 ここ一年課題図書に取り組んでいるが、読み進めていくのに最も苦労した本である。現時点の私の読解力では、この本を理解し思考するというのは難しいというのが悲しいかな、現実である。なお課題は下巻であるが、当然ながら上巻から読んだので、一部上巻の内容にも及ぶことをお許しいただきたい。

 読解に悪戦苦闘したものの、いくつかの気づきがあり、考えさせられることがあった。まずは『人間至上主義は過去数世紀の間に世界を征服した革命的な教義だ』ということである。『人間至上主義』という単語に馴染みはないが、なるほど現在の世界で最も普遍的な共通認識となっているのは、個々の宗教ではなく、また共産主義のような政治的イデオロギーでもなく、『人間至上主義』だというのは真理であると悟った。
 
 次に印象深かったのは、人間の都合だけで生きている人間以外の生き物の生き様である。特に養豚場の豚の例示は、考えうる当然の結果ではあるものの、あまりにもリアルで、衝撃的ですらあった。征服される側の恐ろしい現実を感じた。
 
 もう一つは、『どんなアップグレードも当初は治療として正当化される』、『いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードの応用を完全に禁止することは不可能だ』という部分である。確かに、これも間違いなく発生しえる恐ろしい事象であることを強く感じている。

 『コンピューターがあなたのすべてを把握する』というのは、技術的には既に大部分が可能となっており、また近いうちに間違いなく技術的にすべてが可能となるだろう。ただ、すべての人がコンピューターにすべての情報を提供することを許すのか、また提供することにより利便性は高まるものの、それが幸せなのかということに疑念を持つ。

 『データ至上主義にとって見通しはとりわけ明るい。なぜなら現在、データ至上主義は科学の全領域に広がりつつあるからだ』というのも、十分に理解できる。ただ、そうした中で、我々は何を目指して、何に取り組むべきなのかが全くイメージできていない。

 とりとめのない思いの連続しか書けず、大変恐縮です。引き続き理解力の向上に取り組んでいく所存です。

投稿者 jorryjorry55 日時 2018年12月29日


上巻および下巻の前半はなかなか読み進めることが出来ず、かなり苦労しました。下巻の後半になってやっと普通に読み進める事が出来ましたが、イコール読書量が足りないってことですね。とは言え、一つのことを説明するのに話が長く、しかも著者独特の展開のため最初のうちは苦痛以外のなにものでもありませんでした。飢餓、伝染病、戦争を克服したってことですが、未だに餓死する人や、伝染病、日本では感染症か?で死ぬ人、内戦なんてまだあるし、どこが克服されたのか?と、上巻の出だしで既に読む気が失せてしまい、その後も1言えばいいところを100にも1000にも話をわざと複雑に説明しているのかってぐらい回りくどい例え話で説明しているので、私の拙い知識、想像力からはイメージするのがかなり難しく、読み進めるのに非常に苦労しました。しかしながら、第3部からは同じ作者が書いたのか?というくらいサクサク読み進める事が出来たのですが、結局知識量によるんですかね。同じ本でここまで違うのは初めてです。

3部以降ですが、途中で「A.I.」という映画が昔あったのを思い出しました。AIが、インプットされたデータを満たすためだけに行動する姿を見て、全く共感出来ず物凄く嫌な気分になったのを思い出しました。スティーブン・スピルバーグの話題作って事で期待していただけに、あまりのギャップに落胆したのですが、その時は単に、AIは万能で臨機応変に行動できると思い込んでいたからこその嫌悪感だったのでしょうね。今見返したらどんな感想を持つのでしょうか。あまり変わらないと思いますが、興味はあります。また、「マトリックス」という映画もふと頭に浮かびました。データ至上主義が行き過ぎて、何でもかんでもアルゴリズムに判断を委ねてしまうと、将来的にはああいう世界になってしまうのでしょうか。
それから、A.I.について考えていた時、そう言えば「ターミネーター」も与えられた仕事を全うするためだけに行動していましたね。アルゴリズムを突き詰めるとそうなってしまうのでしょうか。そんなので、生きているって言えるのでしょうか。

そもそも、単純にデータのみに頼って楽しいのでしょうか。現在はSNSでアップした内容をもとに自動で広告やらオススメ情報が表示されますが、それが本当に正しいのでしょうか。一部のデータしかアップしていないのに、私の全てがわかるのでしょうか。個人的には鬱陶しいだけで、広告内容には一切興味がなく、私にとっては全くオススメでもなんでもないです。
ただし、スマホ依存症である事は自覚しているので、そういう意味では私もデータ至上主義になっていると思います。Facebookでも、自分がアップした投稿に「いいね」が付けば付くほど嬉しいですし、人の投稿へも積極的に「いいね」をしています。人間をシステムのチップに例えた歴史の過程は物凄く納得しました。確かに!と。しかしながら、だんだんSNS疲れしているのも事実で、来年以降は考え方を改めようかと思っているくらいです。

話は飛びますが、人と他の生物の違いってなんでしょうか。なぜ人間だけが言葉を喋るのでしょうか。犬にしても猫にしても鳴きますが、人が理解できないだけで、彼ら的には喋っているんですよね。なのに何故人間だけが二足歩行で道具を使いこなせて文明を築く事が出来たのでしょうか。単にデータ処理の方法が違うだけというだけではなく、どう違ったのか、については言及がなかったと思います。
人と動物が違うという前提のもとに本書は論じられているが、スタート地点で既にバイアスがかかっているのではないでしょうか。ここで、手塚治虫さんの「火の鳥」ではナメクジが文明を築いて世界を牛耳っていた内容を思い出しました。理論的には我々がナメクジだった可能性もあったって事ですよね。

科学者は単に科学的事実だけに基づいて論じていますが、突然変異も単なるアルゴリズムの結果なのでしょうか。DNAもアルゴリズムに基づいて出来上がったのでしょうか。生命の元は一体なんでしょうか。そもそも太陽は何故宇宙空間に浮かぶ事ができるのでしょうか。太陽系は何故存在しているのでしょうか。いくら考えても私には全く想像もつきません。国立科学博物館に何度も行った事がありますが、

本を読み終わった段階で何となく違和感があったのですが、この感想文を書いていてその違和感が何だったのかがわかりました。著者の考察にしろ、着眼点は純粋に凄いなとは思いますが、結局種の起原を全く解明する事なく、現状が当然という前提で話を進めているので、要は中途半端なんだなと気付きました。それだけ生命というのは神秘的であり、杓子定規に科学的事実だけでは計る事は出来ないと気付かされました。

ありがとうございました。

投稿者 str 日時 2018年12月30日


ホモ・デウス“テクノロジーとサピエンスの未来”

・進化の行く末
こういったテーマの本や映画に触れて時折思うのは「そもそも進化って何ぞや?」という事だ。一口に“人類は進化している”とは云っても、何を以て進化と呼べるのだろう。

知能の進化によるテクノロジーの進化であるならば納得はいく。それらは紛れもなく人類が創りだした力である事には変わりないだろう。けれどその力を同種族である人類に向け、平気で攻撃出来る人間が大勢存在している以上、知能の進化に知性が追いつけていないのではないかとも感じられる。

身体については様々な健康法や栄養学、医療技術の発展により進化しているように見えるが、衣食住に加え、生活面を支えるあらゆる機器や弱者を保護する規則のようなもの。それらのお陰で得られる快適過ぎる環境が、却って適応力や免疫力を弱らせ、近年耳にする”現代っ子の体の弱さ”へと繋がってしまっているのだろう。(まぁ快適さを受け入れているのは私も同じだが)いずれにしろ、地球上で暮らす一生命体としてみれば、むしろ弱体化してしまっているのではないだろうか。知能の進化と肉体の退化が徐々に進行しているような感覚になってしまう。

・サイエンス・ノン・フィクション化
所謂SFモノの作品というのは、それこそ私が生まれるより前には多数あって、初めて観た頃はまさに”空想上の夢物語”というイメージだったものが、着々と現実化されてきている。空飛ぶ車は登場するのに携帯電話すらなかったりと、順序に違いこそあれど人類はフィクションでしかなかったものの現実化に成功してきている。

AIという単語を耳にしても違和感など全くない程に定着され、日々進化を続けている。今のところは「人類にとって代わってこの世界を支配してやろう」といった思考・行動をするAIはいなさそうではあるが、ここまでSFだったものが現実化されてくると、AI搭載の機械が自我を持ち、人類に対し何らかの敵意を向けたとしても不思議ではないかもしれない。

・人類は何処を目指すのか
本書にも記されていたように、多くの職業がヒトではなくアルゴリズムへと移り変わっていく可能性を示唆している。確かにヒトより速く・正確に、更には時間まで選ばないとなってくるのであれば願ったりかもしれない。面白くないのはそれによって失業してしまった当事者だけとなるだろう。

では、これから人類はどこまでをヒトの頭脳で行い、どこからをアルゴリズムに委ねていくのだろうか?その線引きが曖昧なまま、競い合うように技術ばかり先行させてしまって大丈夫なのだろうかという心配もある。近年の技術発展の急激な速さを目にしていると「まだまだ未来の話だからダイジョーブ」とは軽々しく言えないだろう。電脳世界で神様っぽい存在が誕生してしまうのか、または人体をベースに改造・アップグレードを施し、神格化した人類を創造してしまうのか。仮にそうなったとしても、唯一無二の存在でない以上はどこかで対立が起こりそうではある。

いずれにせよホモ・サピエンスである我々人類も、太古の時代から幾度もの進化を経て現在の姿になっているが、ここが進化の終着点であるとは限らないという事だろう。進化を続けていけばヒト型ですらなくなっていくかもしれないし、現在はこの星のカーストトップに属しているであろう人類が、別の存在によって降格させられているかもしれない。進化を追求し続けた挙句が、人類の存在意義否定に辿り着いたりすることもあるのだろうか。


・本年最後の課題本は、私の知識レベルでは読み切るだけで精一杯(汗)となりましたが、ここで紹介されていなければ手に取る事もなかったと思います。今年も様々なジャンルの良書を紹介して頂き、ありがとうございました。

投稿者 audreym0304 日時 2018年12月30日


感想―ホモデウス(下)

長い歴史を考えると、人類史始まって以来、現代が一番人類同士の格差が小さい時期なのではないだろうか、とさえ思わされた。本書でも書かれているが、人類の上位数人の資産が下位半分の人類の資産にも匹敵し、今後資産やお金を基準にした格差はどんどん広がるとさえ言われているのだから。
 その人たちは今後世界の支配者となり、やがて神になることを望むのだろうか?

 本書では人間を含めた生命はアルゴリズムで、コンピューターによって私たちは把握されていくという未来を予測しているようだが、それはどれくらいのスピードで進んでいくのだろうか?

 最近、自動運転トラックのデモンストレーションに参加させてもらった。自動運転トラックの導入は、世界的に物量が増えたせいで長時間労働の進み、かつ、慢性的な人手不足に悩む運輸業界から一刻も早い導入が求められているが、実はそう簡単に「今日から自動運転トラックが一般道を走ります!」とはならないそうだ。
様々な道路規制はもちろん、一般道はとにかく人間による不確定要素が多すぎて、AIに判断をゆだねるには時期尚早だという。導入する場所は、トラックが移動するルートが決まっていて他のトラックの動きを管理しやすい人間による不確定要素の少ない港湾、工場、鉱山というところからだ。
 また、人間が目で状況を確認し、ハンドルやアクセル、ブレーキを操作することで自動車類を動かしているのを、まずは運転手を載せたまま、自動車の動きを人間とAIがシェアする段階を経なければいけない。台風での倒木や事故があったらどう動くかといった不確定要素のデータを何パターンも積み重ねないと、完全に自動運転に移行するのは現時点ではかなり困難なようだ。
 これらの話はまだ予測しやすいという港湾や工場、鉱山での導入の段階なので、一般道で起こりうるあらゆるパターンの出来事、事件、事故、不確定要素をデータ化するには途方もない時間と労力がかかることは想像に難くない。
 途方もない時間と労力がかかるのは間違いないが、データを集積すること、そのデータを全ての車で共有させること、自動運転は間違いなく近い将来のことだ。

 生命をアルゴリズムというのはわかる。生命は自分の遺伝子を次世代につないでいくというプログラムを持っているのだから、ある程度パターンを持っているだろう。だけど、生命には内的要因や外的要因に左右される不確定要素も多いし、それらをアルゴリズムで理解しようとするのはかなり困難なことだと思う。
  本書では鼻が利かないや夢を見ることがなくなるといった人類の将来を予想している。猿だったころからの能力の多くを人類は失い、失った代わりに技術やテクノロジーを手にしていることも同意する。失った能力も手に入れた能力もアルゴリズムで説明をつけられるのだろうが、感情の揺さぶりや鼻や夢はどうなのだろう。
 同じものを見たり、聞いたり、触れたりしたときに、誰しもが同じ感情を抱くことはない。絵画、音楽、文学と言う芸術はその最たる分野だ。仮に何度も同じものに触れたとしても、その時の体調や気分で異なる感情を抱くことだってある。
 女性の鼻には強い遺伝子を後世に残すことができるかどうかを知るため近づいてくる異性のフェロモンをかぎ分ける機能がついているという。その鼻が利かなくなるということは、これは人類の生存に直接関わってくると考えられる。
 多くの社会で、寝るときの見る映像と将来の展望を「夢」というのだから、夢を見なくなるということは、やがて人類は将来の展望をもつこともなくなってしまうのではないだろうか?
 感情の揺さぶりもない、鼻も利かない、夢も見ないのであれば、それは人類なのだろうか?
 故スティーブン・ホーキング博士は「人類はあと100年で絶滅する」という預言を残したようだが、それは地球環境や資源の問題だけでなく、人間そのものの根源的な能力の低下によるところも大きいかもしれない。

 現生人類はホモ・サピエンスと一般的には呼称されるが、正しくはホモ・サピエンス・サピエンスと言って、亜種名も持っている。サピエンスというのは「知恵のある」という意味であり、サピエンスを2回繰り返すほど他の亜種との違いを明確にしたかったのだろう。現生人類が生き延びた大きな要因に神を恐れる「想像力」があったと言われている。想像力が他の亜種との徹底的な違いとなった「サピエンス」であり、感情の揺さぶりや鼻が聞くことや夢を見ることに結び付くものであり、現生人類たる最たるゆえんではないか。

 今後、サピエンスの一部がデウス(神)と名乗るものに進化するにしても、従来の神同様信ずる者がいなければ始まらない。
ならば、サピエンスをAIによってデータ化し管理し奴隷化するのではなく、迷えるホモサピエンスたちにAI(愛)をもって、み恵みを与えることできる知恵、知性、理性、品性を兼ね備えた神であってほしい。

投稿者 shinwa511 日時 2018年12月30日


本書の著者ユヴァル・ノア・ハラル氏は、現在の人間は人間至上主義から変化してきていると書いています。


人間至上主義とは人間性を崇拝し、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だという考え方です。さらに現在の人間至上主義には、自由主義的な意味も加わっています。個人の意思や感情を重視し、個々の自由意志を権威に据えて世界を動かしています。


しかし、近年の研究では自由意志という存在を根本から否定するような結果が出てきています。


『タルワー教授がリモートコントロールのスイッチの一つを押すと、ラットは左に曲がることを望む。だから左に曲がる。教授が別のスイッチを押すと、ラットは梯子を上ることを望む。だから梯子を上る。突き詰めれば、ラットの欲望は発火するニューロンのパターンに過ぎないのだ。』(ホモ・デウス 下巻P110)


『ホモ・サピエンスに行われた実験は、人間もラットも同じように操作でき、愛情や恐れや憂鬱といった複雑な感情さえも、脳の適切な場所を刺激すれば生み出したり消し去ったりできることを示している。アメリカ軍は最近、人間の脳にコンピューターチップを埋め込む実験を始めた。この方法を使って心的外傷ストレス障害に苦しむ兵士を治療できればと望んでのことだ。』(ホモ・デウス 下巻P110)


何かを選択する際に、私たちは自らの欲望に従い、主体的に選択したのだと思っています。しかし、実際は生科学的なニューロンの発火反応に従って選択し、後付けで欲望のままに選択したと、感じているだけに過ぎないとしています。


存在すると考えられていた人間の意識や、自由意志は存在しなかった。「自分」という意思は存在せず、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だという人間至上主義の考え方も根本から否定してしまうものです。


さらに「自分」という拠り所を無くしてしまった人間に代わって、世界を支配していくのはデータであると書かれています。


『データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。』(ホモ・デウス 下巻P209)


近年、AIや遺伝子解析などの科学技術は制度を高め、個人や社会の未来を高精度で予測することも可能になりつつあります。さらに、本書で書かれている通り、生命活動がアルゴリズムであるならば、アルゴリズムにすべてのデータ判断を委ねることで、人間は将来に向けてのリスクを軽減する選択を得ることができます。


コンピューターやセンサーが身の回りに溢れる世界では、私達の行動はや思考はデータに置き換わり、AIなどによって分析されることによって、意思決定の主導権は人間の思考ではなく、データ側に委ねられていきます。


ショッピングサイトで購入した履歴から、その人が興味を持ちそうな製品が出てくるのも、データを基にしてできていることです。今後はそれを購入するかの判断も、アルゴリズムに委ねられていきます。


著者は私達が巨大なアルゴリズムに自己の権限を委ねて一体化したとき、個々の人は全体に吸収され、ホモ・サピエンスは消滅すると予測しています。そのとき、私達は個というものを消失し、全体で共有された情報に基づいて行動パターンを選択する、ホモ・デウスとなっていくのです。


本書で書かれていることは、あくまでも未来の可能性の一つであるとしていますが、自分も含めて堕落しやすい人間は、便利で正確であれば判断でさえも、他に委ねてしまいそうです。


それでも判断を委ねない選択を未来でするならば、人間至上主義とデータ至上主義は上手く共存できないかと考えてしまいます。


将来、データに基づかない人の判断はバグとして処理されてしまうようになるのか。判断には人それぞれの意思や多様性があった方が、未来にはより良い可能性があるのだと考えます。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2018年12月30日


『ホモ・デウス』を読んで立てた、三つの問と考察を、今月の感想文とする。

(1)誰が生命を計画しているのか?

 世の中には、子供が欲しいのになかなか授からない夫婦がいる一方で、若い未婚女性が予定外の妊娠をし、「できちゃった婚」やシングルマザーの道を選ぶこともある。
 かねてから疑問に思ってきたが、なぜ私達人間は妊娠をコントロールする能力とシステムを持たないのだろうか。

 小野不由美のファンタジー小説『十二国記』の中の世界では、夫婦が「子供を授けて下さい」と神に熱心に祈ると生命の木に果物が実り、その果物を「もぐ」と中から赤ちゃんが出てくる。
このシステムは、現実の私達のシステムに比べ非常に合理的である。
望まれずに生まれてくる赤ちゃんは事実上存在しなくなるし、子供を心から望む夫婦は必ず子供を授かれるではないか。

 「どの家族に子供が何人誕生する」「どの高齢者が何歳で病気になり、死ぬ」という計画図は、誰が描いているのか。人間のみならず、あらゆる動植物の生命の運命を定めている(もとい、弄んでいる)存在。それを神と考えれば、納得・証明はできなくとも説明はしやすい。

 歴史学者の著者ハラリ氏の指摘によれば、近代以降の人類は、中世の「神を絶対的権威とする価値観」を捨て、人間至上主義へと移行した。神への絶対的服従に縛られていた中世に比べ、人間至上主義社会はより自由で生きやすいと私は考えていた。だが、人は心の奥底で神を必要としており、たとえ神を知覚・理解できなくとも、本当に困った時には神に祈らずにいられない存在であり、人と他の動物の決定的な違いの1つに「神を崇拝するかどうか」という点が挙げられる、という考察に至った。
 筆者は神の存在有無に触れていないが、本書を読みながら、歴史には神の手が至る所に見え隠れすると感じた。

(2)人類は本当に進化しているのか?

 9月の課題図書で、狩猟民族のプナン族と、現代日本人が対比されていた。
 一般的に、現代日本人はプナン族より高度な文明を持つと考えられる。だが文明が発達するにつれ、人類が退化した部分も少なくないと、本書は気づかせてくれる。

 第一に、農業の発達が貧富の差と身分差を生み出した。貨幣経済が確立し、派閥争いが戦争に発展するようになった。同じ種同士で殺し合い、自ら絶滅に向かうとは、進化どころか愚か以外何物でもない。
 第二に、文明に頼りすぎたせいで、人は本来持っていた「身体能力」を失った。古代の人類は体内時計が機能していて、朝が来れば日光と共に自然に目覚めていたのに対し、現代の文明人は目覚まし時計に起床を頼り、機械に体を管理されている。また、古代の狩猟民族は文字を持たなかったので、生活に必要な知識は全て暗記していた。ところが文明人は文字情報に依存し、ネットやマニュアルの情報に助けてもらう分、暗唱の能力を使用せず退化させている傾向にある。

 明治時代、「アイヌ族は大和民族より劣る」というのが通説だった。文字を持たないアイヌ人は、伝えたいことを書物に書き残して後世に託すことをしなかったからだ。しかし、アイヌ人は神話を暗唱し、口伝で次世代に伝えた。彼らには驚異的な暗記力があり、文字は必要なかったのだ。私達現代日本人は文字を持つが、アイヌ人に比べ暗唱能力や語り手としての能力に乏しいことは間違いない。

 心理学者ジュリアン・ジェインズが提唱する学説「バイキャメラルマインド」によると、数千年前の人間の脳は、神の声を聴く部分と、普通の人間としての部分に二分されていた。しかし、言語による意識の発生により、二つの脳の部分が統合され、その代償として、人は神の声が聞こえなくなったという。
この説がもし本当だとしたら、言語の発達により、人は神の声を聴く機能を失ったことになる。

 これらの観点から見つめると、人類は古代から進化してきたとも言えるし、退化しているとも言えると気付かされた。

(3)なぜ戦争や差別が起こるのか?

 ユダヤ人のホロコースト。アパルトヘイト。広島長崎原爆投下。黒人奴隷貿易。人類の歴史上の残虐な行為を数えたら枚挙に暇がない。このような酷いことが起こる意味は何か。神がもしこの世に存在するなら、このような悲劇を私達人類に与える神の意図は何だろうか。
 
 「愛がある限り、戦争はなくならない。」
-この鋭い指摘をしたのは、学者でも政治家でもなく、ダンサーの菅原小春さんである。(NHK「SWITCHインタビュー達人達」より)
 彼女は続けた。「人間が全てAIになれば、戦争はなくなり、平和な世界がやってくるでしょう。でも、AIしか住んでいない地球に存在意味があるでしょうか?」

 彼女の言葉は大ショックだった。ならば、人に愛がある限り憎しみが生まれ、戦争をやめさせる方法は皆無なのだろうか。
 著者のハラリ氏は、従来は人間のやっていた仕事がAIにとって代わられる近未来の到来を示唆する。これにより人が担う仕事の種類や質が変容することはもちろんである。ただ、AIが人類と決定的に違うことは、愛と生殖機能を持たないことだ。

 筆者は最後に問う。「生命は本当にアルゴリズムとデータ処理に過ぎないのか?」私の答えはNOだ。
 また、知識と意識のうち、意識すなわち神の意志が強く、意識が上に立って知識を使うべきだと考える。生命を司る神の存在を、私達に証明することはできない。しかし「神は我々、あるいは私個人に何をさせたいのか?」を問いながら生きることは、意味があると思う。

 最後に、著者はイスラエル出身のユダヤ教徒で同性愛者である。様々な意味でマイノリティに所属するからこそ、世界の支配者であるマジョリティの白人の西洋人と違う視点で、社会を分析できた。
アウトサイダーであることを、弱さでなく強さに変えているしたたかさは、見習いたい。

投稿者 ktera1123 日時 2018年12月30日


(1)まずは、本の題名の「ホモ・デウス」から。

扉の文章に『飢餓と疫病、戦争を克服しつつある。三つの問題を克服した我々は、今後不死と幸福、神性の獲得を目標とするだろう。』とありました。西洋的な考え方と東洋的な考え方で相違はあるかもしれませんが、「ホモ・デウス」の意図するところは「神人合一」なのではないかと感じています。宗教が戒律等で束縛することに対して、鬼神の如く自由気ままに振る舞えば、「自然破壊」や「対立」につながる「悪の道」になってしまうので、人間の理性の束縛から脱して、「知の道」となる神を目指していかないと破滅が早くなるだけかもしれません。神になるのは今のところは難しいかもしれませんが、神の望む生き方を考えて、良い人間として心の腐敗を防ぎ、浄化していくことは可能でしょうか。

(2)本文の中で一番印象に残ったこと。

本文で一番印象に残ったことが、『最も偉大な科学的発見は、無知の発見だった。人類は自分たちが世界についてどれほどわずかしか知らないかに気づいた途端、新たな知識を追求するべき実にもっともな根拠を突然手にし、それが進歩へ向かう科学の道を開いたのだった。』(下巻23ページ)になります。(下巻でよかった。)
以前、国立天文台で伺ったことのある天文学の世界を見てみても、通常の目に見える(観測されている)物質は全体の5%で、残りは未知の物質(ダークマター)と、ダークエネルギーと呼ばれる正体不明のものであるとされています。未知の物質を知ることが、新しい物理と宇宙の謎の解明につながるとされています。
このことは、日頃いろいろな媒体を通じて言われている「世の中では科学で割り切れていないことが多々ある」につながってくるのでしょうか。「科学で割り切れないこと」が「テクノロジーとサイエンスの科学的なこと」で解明される日は近いのでしょうか。また、わからないことがあることを知ることにより、新たな知識を日々の勉強や経験、体験を通じて追求することすなわち「知的好奇心」が、自分自身の成長につながってくることにつながってくるのでしょうか。

(3)未来について

ホモ・サピエンスがホモ・デウスに進化した未来はどのようになっているのだろうか。「ドラえもん」の世界か(aiboやpepperが進化すれば可能か)、「ナイト2000」の世界か(自動運転の目指しているのはこれかな)、「銀河鉄道999」の世界か(機械の体を手に入れる、シンギュラリティが実現するとオリンピックよりパラリンピックの記録が上回るのではないかと考えられている)、はたまた「ガンダムのニュータイプ」の世界か(現時点では人間のDNAを操作することは倫理的な面での課題はあるが理論および実験上は可能で、実現不可能なのは細胞を作成することだけなので、将来は細胞も作成可能になるのではないかと考えられている)。
いずれの世界にせよ「思考は現実化する」の法則に従えば、どの世界もいつになるのかわかりませんが、実現はすることになるのでしょう。
近い将来か遠い未来かはわかりませんが、実現した技術が「知の道」に使われるのか、「悪の道」につかわれるのか、すべては「人類の進歩と調和」(1970年の大阪万博のテーマ)にかかっているのでしょうか。

(4)著者からの問題提起について

・生き物はアルゴリズムとデータ処理にしか過ぎないのか。
・知能と意識のどちらに価値があるのか。
・人工知能が人間を超えたとき、社会や日常生活はどうなるのか。

の3つが最後に著者からの重要な提起として記されている。
「ホモ・デウス」を読了した現代社会で教養ある人の頭の中の片隅を問題提起が占めることができれば、「集合的無意識」で近い将来、結論がでるのかもしれないし、方向性が示されるのかもしれない。
その結果は、新しい宗教がそれ以前の宗教の問題点を改善して来たように、新たな宗教として成立するのかもしれないし、それとも「原点回帰」して「アニミズム」の世界に戻るのかもしれない。もしくは、「マトリックス」の世界のように、「この世界はVR(仮想現実)であり、ゲームである。」世界なのかもしれない。

投稿者 kayopom 日時 2018年12月31日


地球の「幼年期の終わり」は近いのか?

本書を読み進める中、数々のSFが頭をよぎった。すぐに思い出したのは、もちろん『マトリックス』。
人類がが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実で、本当の現実は別にあるとの設定だ。
人間と機械との戦いによって、機械は人間を支配下に置いたためであるが、そもそもは人間が機械を酷使したから、機械が反乱を起こしたのだった。
機械の反乱、今となってはその発端は可愛く思えるものだ。

それに対し本書では「人類はアルゴリズムに主導権を取って代わられる」とあるが、p240に「偉大なアルゴリズムはどこから生じるのだろうか?これがデータ至上主義の謎だ」とある。どうやらアルゴリズムの最終的な担い手は、GAFAのような世界を制する巨大なデータを収集する企業でもないらしい。
一時的には一部のアップグレードされたホモ・サピエンスなのかもしれないが、エリート層さえも超越した存在にそのうち支配される可能性があるとのこと。
欲望の行き着く先が「世界征服」ならまだ分かりやすいが、アルゴリズムの来るべき支配者たる存在は謎だし、目的はもっと謎だ。
ホモ・サピエンスを支配して、何のメリットがあるというのだろうか。
戦う相手の狙いもわからない以上、ホモ・サピエンスに自衛の手段があるのだろうか?

せめてもの自衛手段として、ホモ・サビエンスは自らの存在意義について、もっと考察を重ねるべきなのだろう。
本書の最後に提示された課題で、「生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?」とあるが、これが一つ自分たちの存在意義を考えるきっかけとなろう。
自分はそれに対しはっきり「No」と言いたい。そんな数字的なものではない、生命とはデータ処理ではなく神聖なものだ、解き明かされない神秘だ、と。
しかし筆者はその考え方を単なる「人間至上主義」の思想に過ぎないというだろう。

確かに人間の社会的営みを見ていると、食べるためにあくせく働くアリとなんら変わらないように思える。
通勤時間帯のターミナル駅から巨大なビルへ吸い込まれていく人々を見ていると、自分も含め単なる社会を形成するパーツだな、と虚しく感じる。
もっと俯瞰的に見れば、地球上の生物の営みなど、所詮命を次世代へつないで種を残そうとしていくことで共通してるだろう。
その営みを「アルゴリズム」と言ってしまえば、生物は「アルゴリズム」に基づいて「データ処理」をしているに過ぎないかもしれない。

ただホモ・サピエンスは、単なる命をつないでいくこと以上に、生きることに意義を与え続けていた。
生活の利便性を向上させるための様々な学問、日々を彩るための芸術や文化、娯楽としてのスポーツなど生み出し続けている。
約4000年前の縄文時代ですら、人々は土器に道具以上の美を求めていた。
人間は太古の世界から日々の生活に意義を見いださずにいられない存在であり、営みを向上させることを精進し続ける存在なのだ。
常に発展を求めていく存在、それがホモ・サピエンスだ。
だが、図らずも発展が行き着いた先が、情報科学に頭脳部分を明け渡し、解を求めることになったは皮肉だ。
このアルゴリズムの発展のために、ここまでの人類があったのだろうかと思えてくる。

では頭脳部分はさておき、肉体部分はどうだろうか。
私はホモ・サピエンスの存在たらしめる鍵は、「身体」と「意識」の連携にあると思う。
「身体」こそが、生物そのものであり、「身体」こそが「意識」を司る存在のような気がしている。
最近、呼吸法やスワイショウを続けていると、「身体」は「意識」と別のものに思えてくる。
身体が意識とは別に動き出し、妙なポーズをとらせて不調を解消してくれたり、
自分の意思決定とは異なる回答を、インスピレーションで与えてくることがある。
「身体」こそが自意識と、さらには潜在意識との交信をはかっている気がすしている。
身体からの声にもっと耳を傾けることができれば、ホモ・サピエンスは違う発展を見せるかもしれない。

しかしこれら全ても「アルゴリズム」のなせる技、とも考えられなくもない。
実は「潜在意識」こそが高度なアルゴリズムそのものなのかもしれない。
やはり、生物は単なるアルゴリズムなのだろうか。回答はどうしても堂々巡りとなる。

ここでどうしてもSF小説『地球幼年期の終わり』が頭をよぎる。
この作品では人類の行き着く先はと、支配者の正体にとんでもない結末が用意されている。
この小説のようなホモ・サピエンスの終焉は十分ありうるということだろう。

本書はSF的な人文書、と片付けて終わりたいのに終われない衝撃的な内容で、解や感想を考えているうちに本年が暮れてしまった。
来るべき世界に向けてせめて出来ることはなんだろう?
残りの問いについても考察を重ねながら、人間至上主義的だろうが、個人の幸せを日々見出すことなのかな。

明るい希望は捨てずに、来年も臨んで行きたい。

投稿者 mmnn 日時 2018年12月31日


このまま科学技術がどんどん発展していくままに
任せていたら、まずいんじゃないの、
と著書は警鐘を鳴らしているのではないか。

読後感を一言で言うとこうなるであろう。

昔、人々は、
政治的権威、道徳的権威、美的権威などを
天や神、自然に求めていた。

しかし、時代が進むに連れ、人々の多くは
自分自身の内面の声に耳をすませるようになってきた。

これは人間至上主義の始まりである。

私はこう思う。
私はこう感じる。
私はこれを選択する。

観察により集めたデータと数字から導き出された知識

これを重要視することによって
科学技術は発達してきた。

科学技術の発達は経済成長を生み出した。

だから、自分たちの選択も
データと数字に任せるのが間違いない。

こうして、人間至上主義革命が起こり、
人々は自分の内から起こる意識や経験に
拠り所を求めるようになった。

現在流行りのAIもビックデータもまさにこれだ。

生き物はアルゴリズムに過ぎず、ビックデータなどの
データ処理に過ぎない、著書には書かれている。

私はここで違和感を感じた。

セミナーや今まで読んできた課題図書などで
触れられた価値観、
「この世は目に見えるものだけでできているわけではない」
である。

科学技術で論理的に導き出されたデータや法則は
確かにテクノロジー的には役立つであろう。

しかし、この世の中はまだまだ科学技術だけで
割り切れないことも多いし、説明がつかないこともある。

著者は最後に私たちに問いかけをしている。

知能と意識はどちらの方が価値があるのか。
意識を持たないが、高度な知能を備えたアルゴリズムが
私たちのことをより深くしるようになったら、社会や政治や
日常生活はどう変わるのか。

知能はデータとして数値等で目に見えるものである。
しかし、意識は個々人の内部に浮かぶものなので、少なくとも
他の人の意識は目に見えるものではない。

ここで般若心経の世界観を思い出してみた。

この世は全て空(無)。

そして、私たちは自分が観たい世界を自分自身が
勝手に描き出しているだけであった。

知能と意識、どちらの方が価値があるかという問いには
私はどちらも同じく価値があると答える。

知能(知識)がなければ、意識を意識することもなく
(意識の存在すら気づけない)、
意識への理解を深めることもできない。

著書でGoogleのAI、cortanaやアップルのsiriが
私たちの、度を超えた(と私には思える)生活指南役に
今後なるであろうと書かれている。

これこそ、知識の暴走ではないだろうか。

適度な知能は私たちの生活、人生を豊かにしてくれるであろうが
度を超えてはいけない。

人間として生まれて幸せな人生を全うするには
意識の理解も必要であると私は考える。

自分の理想の社会、現実を描くために、
そして、過度な知能(知識)にはストップをかけられる
倫理観を保ちつづけるためにも。

ここで、過去の課題図書のワンフレーズ
「罪人にならないため」というのを思い出した。

知能(知識)が暴走するから、頭の良い人ほど
ずる賢い犯罪を犯してしまう。

意識(感情)が暴走するから、頭の弱い人ほど
カッとなって犯罪を犯してしまう。

だからこそ、意識も知能も両方のバランスを取るのが
大事なのではないだろうか。

意識を持たないが、高度な知能を備えたアルゴリズムが
私たちのことをより深く知るようになったら、社会や政治や
日常生活はどう変わるのか。

まず間違いなく、今の私達の想定を超える問題が
浮かび上がるはずで、実際に起こるであろう。

しかし、悲観することはないと私は考える。

行き過ぎた知能に対して、
意識の重要性に気づく人が必ず現れるからである。
この課題図書の著者のように。

意識と知能のバランスの取れた社会が理想である。

一時的に片方だけが暴走し続けることはあるかもしれないが、
いずれ元に戻るであろう。

少なくとも私の信じる世界ではそうありたい。

投稿者 soji0329 日時 2018年12月31日


「ホモ・デウス(下)」を読んで



下巻だけ読んで感想文を書くのは、初めてのことだ。読み終わり、あまりにも内容が衝撃的だったので、あらためて上巻を読んで気がついた。この本のエッセンスは下巻にあるのだ。

下巻の始まりに、いきなりこうある。『人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する』と。近代以前では神が提示する人生の意味に縛られ、支配下にあったわれわれ人間、ホモ・サピエンス。しかし資本主義やテクノロジーという『力』によって、地球上の全生物の上に君臨し、史上最強の文化を手にしたのだという。

神を超えた、人間至上主義。人生の意味は神からの提示ではなく、われわれの内なる感情によるものなのだという。このあたりでは、著者はホモ・サピエンスを賛美してくれている。人生の経験を通じ、うちなる感情に注意を払うことで、道徳的な感性が研ぎ澄まされ、倫理的意識の源泉となって、自分たちは何者か、その存在意義がわかると。人間至上主義における宗教戦争はあったけれど、自由主義が生き残った。これはまさに現在、われわれが生きる社会である。

私は最初「ホモ・ゼウス」というタイトルを見て、ホモ・サピエンスが神の領域までアップグレードされた明るい未来を描いているのだと思っていた。確かに紆余曲折はあれど、途中までは人間賛歌の話であった。しかしホモ・サピエンスの力の源であるテクノロジー。特にバイオテクノロジーとコンピュータアルゴリズムが、逆にホモ・サピエンスの存在自体をも消滅させかねないことを指摘され、将来への不安が一挙に膨らんだのだ。

著者の提示する事例。ニューサイエンティスト誌の記者、サリー・アディー氏の20分の経験や、分離脳研究の逸話では、われわれの意識とはいったい何なのか、大いに考えさせられる。経験する自己と物語る自己。私も頭の中で、天使と悪魔に声をかけられて迷うことがよくある。ところが、天使も悪魔、両方とも他者ではない、自己の意識のなせる技だとは驚いた。そして自己における意識と知能が分離され、知能ばかりがテクノロジーによって大いに発展した結果、人間の意識はかえって邪魔なものと認識され、われわれホモ・サピエンスは消滅してしまうというのだ。

人工知能の発達。チェスや囲碁で人間に勝つレベルならまだ良かった。しかし『すべてのモノのインターネット』につながれようとしている現在、我々のプライバシーデータは、われわれの意思に関わらず、どんどん抜かれ、蓄積されている。自分にとって有益な情報を提示され、その便利さを享受している一方で、人間が単なるアルゴリズム化されつつあるのは事実だろう。中国では電子決済システムが日常化し、個人情報がすべて筒抜けになったしまった結果、信用度を落とさないよう、かつての傍若無人な態度が改善されつつあるという。やがて日本もそうなるのは火を見るよりもあきらかだ。著者の説は、具体的な事例に基づいて強大な説得力で自分に迫ってくる。

著者は読者に問う。『意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか』と。まるで誘導尋問のような問いかけに絶望しかかったとき、訳者のあとがきにあるこの一文が目に付いた。『私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ』と。私はあらためて、これまでの話の流れの中に虚構が含まれていないか読み返してみた。何かしら大きな要素を敢えて無視して話を推し進めていないか、という視点も含めて。そして一つの仮説として、日本における国家的な大災害に着目してみた。

2011年の東日本大震災以降、日本はしばしば大きな災害に見舞われている。特に今年は「災」の字が選ばれるほど、その数は多かった。大都市への機能集中が加速度的に進行している現在、もし直下型地震や火山の噴火、大津波などが起こったらどうなるだろうか。さらに突飛的過ぎる考え方だが、例えばインフラを破壊するような生物の発生や、高知能のハッカーによるサイバーテロも決して絵空事ではない。こうした災害に対して、現在のテクノロジーはどこまで対応できるであろうか。『意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズム』は、おそらく壊滅的な打撃を被るに違いない。そこであらためて見直されるのは、ホモ・サピエンスが培ってきた道徳的な感性や倫理的意識ではないだろうか。

歓迎することではないが、私は近い将来、人間の歴史の上で大きな巻き戻しが来るのではないかと考えている。先端テクノロジーとはいいながら、その実、あまりにも脆い基盤の上に立っているのではないかと思う。ホモ・デウスを志向する前に、ホモ・サピエンスとしての良さ。テクノロジーでは完全に補えきれない多種多様な経験を、今一度見直すべきではなかろうか。テクノロジーに完全に依存してはいけない。われわれの持つ「人間としての力」をあらためて磨くべきだ。こう考えさせられた本であった。

投稿者 sujiemon 日時 2018年12月31日


■欲望感情

人の個性を、畑の土壌のようなものだと考えると、湧いてくる欲望感情は畑に生えてくる雑草のようだと感じます。

人が生きる為に最低限必要な環境があまり整備されていなかった社会では、
飢えや貧乏さの解消を願う欲望感情は、肥料を得て、畑の中で成長していた強い幹のある樹のようなものだったと思います。

世界的な経済発展と共に人の課題が解決されていくに従い、畑の樹に肥料がまわらなくなり、
幹は細くなって倒れ、代わりに、畑には雑草が生い茂るようになってきている。

周囲の人より少しでもよく見られたい、人と人との関係を上手に保ちたい、といった欲求が、
不安やプレッシャーやストレスとなって人を悩ませている状況と重なって見えました。

そんな感情など目立つこともできないくらい、生き抜く欲求で精一杯だったのに、
雑草のように湧いてきた感情をコントロールすることが、今、一番解決したい注目の課題となっていると感じます。


■欲望のスカウターとコントローラの必要性

この課題については、意識と感情の分離という話で、研究と実用化が進みつつあることも知ることができたので、
個人的には、人の欲望を上手に分析でき、そして人の欲望を上手に制御できる必要性を強烈に感じます。

ぶっちゃけ会社の上司なんて、この2つの性能を備えたロボットで事足りるような気がします。

好き嫌いやエコヒイキしたいなどという感情にも左右されないだろうし、
組織を、共同体かつ機能体としてうまくまとめるには、感情の統合は重要なポイントであるようにも感じます。

部下の強み弱みも把握し、組織の成果を最大化する為の指示も適宜出すには、AIが最適な気がしますし、
リーダー・マネージャーのAI機器を創るベンチャー企業がもしあったら、
どうしようもない高揚感でワクワクしてくる自分がいます。

人の欲望を上手に分析でき、そして人の欲望上手に制御できる。
欲望スカウターと欲望コントローラを開発してみたい・・・


■成功法則の困難さすら容易に思えてしまう

先月の課題本を読み、私なりに感じていたエッセンス、

「何かを習って、理解して、実践して、継続することって本当に難しい・・」

ですが、その原因と対策もクリアになった気がします。

頭では理解しているエッセンスを実践し、継続することを妨害している、私の内面から立ち上がる様々なネガティブ感情。
成功を、心の底から本当に必要と感じる危機的状況に陥っていない私の怠慢な感情。
これらさえ、データアルゴリズムだと考えてしまうと、ものの見方が大きく変わってくる気がします。

欲望スカウターと欲望コントローラにより、人が成功するために必要な行動さえも、
再現可能なパターン事例の一つかもしれないと想像するものの見方です。

運動性能についても同じ衝撃を覚えます。

若い時からテニスやサッカーなどのスポーツをしている時、
心の状態によってパフォーマンスが大きく変わることの事実を実感しつつも、
そのフロー状態をどうすれば毎回再現できるのかをよく悩んでいました。

それさえも、もし自由に制御可能だとしたら、、

仕事をする際、重要な交渉の場や局面で、緊張したり、恐怖感や劣等感を覚えず、
目的達成をブレずに目指し続けることに、どれだけの労力を割いいるか数しれず、、、

成果を出すこと直結しない欲望感情をもし制御でき、成功までの最短ルートを通るに必要な感情状態に
自己を整えることが本当に実用化できるとしたら・・・

本書でも紹介されていたこの手の研究や実用例に、もの凄い期待感と渇望感を覚えました。


■自分はデウス側に回れるのか?

きっと、メンタルによりパフォーマンスを下げた覚えのない方には無縁な話かもしれませんが、
こういったネガティブ感情(ただの自己愛的なエゴ・欲望の塊ではあるのですが)に、
私は大きく影響を受け、大きなストレスを感じる、俗にいう「社会不安障害」に近い、典型的な引きこもり型人間なので、
外部からでもいいので、早く制御してもらいたいし、できることなら、制御する側に回りたい!

なので、私にとってのデウスとは、人の欲望を上手に分析でき、そして人の欲望上手に制御できる、
欲望スカウターと欲望コントローラを駆使し、サピエンスを思い通りに操れること

もし、自分自身が、少しでもそのデウス側に回りたいと考えるのであれば、
人の欲望とは何かを考え、自身を弱めるような負の欲望感情(煩悩)からどうすれば解放されるのか?
人の欲望を上手に満たして幸福だと感じてもらうには何をしてあげれば良いのか?
この辺を意識しながら、日々、生きてみること!
残念ながら、今はこれしか思いついていませんでした。


■自分はダメでも子どもらには・・

この年の瀬、車や家の掃除ひとつで面倒くさがる自分が居ます。
「ゆっくりしてたい」「ラクして片づけたい」「明日に延ばしたい」
そんなネガティブ感情を果たして自由に操れるのか?
いや、きっとうまく操れたとしても、本書に書いてあるとおり、AI以上にうまくはできないでしょうから、
本書の予測どおり、私のような典型的なサピエンスは、地球上で不要な生き物になっていくかも知れません。

ただ、私は要になっても、自分の子どもらにはデウス側にアップグレードさせてあげたい。
その為に何かできることはないか?を考えると、少しだけ、ネガティブ感情を制圧できてる自分がいる気がして何とも不思議です。

投稿者 gogowest 日時 2018年12月31日


『ホモ・デウス』を読んで

 最新のテクノロジーが進んだ先にある戦慄すべき近未来の世界が予測されています。著者ハラリ氏の論の進め方は、とても合理的で、たしかに今後の世界の行く末は、いまのままでは、この方向に進んで行くのかなと思います。本書で挙げられているような最近のテクノロジーの進化が、人類の今後を決定的に変えてしまう可能性があるということに、驚愕しました。テクノロジーの進化は人間のためにあるべきであるのに、これからは、価値を持つのは人間ではなくて、アルゴリズム自体になるという価値体系に移行することはショッキングな話です。

 チェスでも囲碁でも、AIがプロに勝ち、自動運転が実用化され始め、最後の聖域と思われていた音楽などの創作の世界でもAIがプロ以上の仕事をしてしまうという技術レベルに人類は至りました。それにより、今後、社会が大きく変わっていくと考えられます。今後はAIの能力がさらに上がって、必要とされる仕事が大きく変わり、並の能力の人は居場所がなくなる恐れがあります。それにとどまらず、人間の価値体系までの変えてしまうというのですから、今は人類史の中で、重要な曲がり角に来ているのかもしれません。

 旧来の人間至上主義の人間の立場からすれば、価値のヒエラルキーとしては、個人の価値が最上位に来てほしいし、宗教的な人であれば、最上位の価値は『神』あるいは宗教上の至高の存在にあるとおもいたいところです。しかし、テクノロジーの進化が、今持っている価値体系をひっくり返してしまうことに、そのシステムの中に浸かってしまっている人間は、気が付くことができないのです。今の人類は、先が全く見なくて、目先の欲望で生きているので、こういうことになってしまうのだとおもいます。

 結局、個人の価値体系とその構成である人類の価値体系がどの原理に依っているのかということに収斂するのではないかと思います。最下層の物を中心にしたプリンシプルなのか、至高の一点を中心にしたものなのかということです。

 私が以前から注目していた人物にフランスの思想家ルネ・ゲノンがいます。ゲノンの現代西洋文明批判の著書に「世界の終末」があります。この著作で、特に西洋文明の崩壊を1920年台の時点で予告しています。この現代文明批判と今回の『ホモ・デウス』はかなり共鳴し合っているところがあります。西洋文明は現時点では東洋の文明も大部分飲み込んでいるのでこの問題は地球規模のものになります。ゲノンの『世界の終末』では、『原初の原理』からの乖離が世界の終末、特に西洋文明を終焉させることを言っています。その表れの一つは、価値として人間の下層にあるはずのアルゴリズムやテクノロジーが人間の上位に置かれ、君主の立場に立つということです。こんなことはルネ・ゲノンの見地からすれば、西洋の現代文明に蔓延する逸脱の現れです。

 「人間主義」の問題点をゲノンも指摘していました。一般的に現代文明では人間主義は好ましいものと考えられていると思いますが、その中にある毒気、人工的要求の再生産構造のプロセスは止めることができないのです。

 人間至上主義が世界観を人間中心に作り変えてしまったように、データ至上主義が世界観をデータ中心に変えることで、その結果として人間を価値の主役から外して、アルゴリズムが最上の価値を持つ世界になるとハラリ氏は予測しています。

 本書では「命そのもの」と「現象としての生命」を同一視したうえで、論理の進め方は「現象としての生命現象」を対象に考察しています。その帰結として、生命がアルゴリズムであると、結論付けられています。しかし、私は「命そのもの」は現象としての生命の表現とは別であると思っています。ゲノンの表現では、純粋形而上学でいう「原初の原理」のことです。そのポイントがあるために生命全体をアルゴリズムに還元することには、無理があります。この一点でもって、旧世界が終焉を迎えても、もう一度、新しい世界が創造可能であると私は思っています。東洋の伝統では、そのように指摘していますし、ゲノン自身も旧世界の終焉は新たな世界の始まりと考えていたようです。

 クラークのSF「地球幼年期の終わり」のなかで、不完全ながらも次の意識段階に突入できる人類と、論理的には完璧でありながら次の進化はできない宇宙人の対比が描かれていますが、次のレベルに種として進化できるのは、アルゴリズムに還元できるものではなく、原初からの至高のプリンシプルにつらなる存在だけということです。

 ハラリ氏は、最後に、決して決定論としてではなく、可能性として考えたうえでの従来とは違う行動を呼びかけています。ハラリ氏の最後の三つの問いかけは、人としての価値体系を確認することを結果的に呼びかけているように思います。アルゴリズムに支配権を渡したデータとしての人類になるのか、一段階上に進化した言葉通りの「ホモ・デウス」になり、新しい動きや価値観を人類側が生み出せるのかは、認識の重心がどこにあるのか依るのです。それは自分の日常の行動原理がどこに根差しているかを、日々、自らの内面に問いかけることだとおもいます。

投稿者 masa3843 日時 2018年12月31日
読了直後は、その内容の広さと深さに圧倒され、消化不良というのが正直なところでした。
その後、課題図書感想文を書きあげるため、気になったところを中心に2回、3回読み重ねると、著者が持つ見識の広さとその洞察の秀逸さに改めて圧倒されるとともに、いろいろと考えさせられました。

この10年間において、インターネットやAI等のテクノロジーが凄まじいスピードで社会に浸透したことで、多くの人達が漠然とした不安感や焦燥感を感じています。
そんな中、現代社会が抱える課題を整理し、未来予想と問題提起にまでつなげた本書は、これからの人類が目指すべき方向性を考えるうえで、大いに参考にすべき良書だと思います。

私が本書の中で強く印象に残ったのは、私達人間には単一の分割不能な自己があるという思い込みを否定した、「経験する自己」と「物語る自己」についての考察です。

空間的情報の把握や情感を司り、出来事をそのまま受け取る右脳が「経験する自己」。
発話と論理的推論を司り、内なる解釈者となる左脳が「物語る自己」。
私達の中に同時に存在するこの2つの自己は、完全に別個の存在ではなく、緊密に絡み合っています。
物語る自己が何か決定を下す時には、重要な原材料として私達自身の経験を使って物語を創造し、さらにその物語によって経験する自己が実際に何を感じるか決めています。
右脳と左脳は絶えずやり取りをしながら、経験し、解釈し、感じ、それを判断につなげているというのです。

ということは、私達の自意識は、論理的な判断を下しているように思い込んでいるだけで、経験を都合よく取り出し、解釈し、物語ることで、判断ありきの説明材料を作っているだけの可能性が高いのではないでしょうか。

成人した大人、特に30代以降にもなれば、どんな些細なことでも自分が間違っているとは思いたくないものです。
今までの自分の行動が間違っていた、正すべきだという経験や情報があったとしても、それを自動的に補正して都合よく解釈してしまうのだとすれば、人間は抜本的に反省し学ぶことが不可能だということになるのではないでしょうか。

本書では、サンクコスト・バイアスに関する記述もありますが、これも同様です。
「我が国の若者たちは犬死にはしなかった」症候群に陥ったイタリアも、うまくいかない事業に何百万ドルも追加投資してしまう企業も、破綻した結婚生活や将来性のない仕事にしがみつく個人も、決定主体としての過去の自分を正当化するため、解釈し物語ってしまうのです。

本書で提示される、人類はデータ至上主義に移行していくだろうという予測は、こうした誤謬や不幸を乗り越えるための必然と捉えることもできます。

データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、全ての現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされています。
人間も多くのアルゴリズムの集合体に過ぎず、個別には前述したようなエラーを発生させてしまうのであれば、この地球全体のあらゆる事象をデータ化し、アルゴリズムを組むことで、最適な選択をしていくことが最も合理的になるのは当然の流れと言えるでしょう。

女優のアンジェリーナ・ジョリーは、自身の美しいバストを残すために都合良く物語る内なる声ではなく、内なる遺伝子の声に耳を傾け、乳房切除手術を受けることを決めました。
その決断が賢明だったかどうかは分かりません。
人は2つの人生を生きることはできないからです。

ただ、データ教がより良く生きたい人達にとって、人生の指針になり得るのは間違いないことでしょう。
著者が予想するように、データ教は広く信者を増やしていくだろうと思います。

本書では最後に
「生命は本当にデータ処理にすぎないのか?」
という問題提起をしています。

私は、生命は単なるデータ処理ではないと思っています。
瞑想を実践する著者も、科学では説明がつかないものの存在を感じており、根本的には同じような考え方をしているのではないでしょうか。

少なくとも現段階では、科学では説明がつかない数々の事象が存在することは間違いありません。
アルゴリズムの詳細がブラックボックス化していくデータ教やAIのアドバイスと、現代科学では解明できない潜在意識や直感による指針。
どちらを信じた方がより良い人生を生きることができるか、結論は出ません。

ただ1つだけ言えるのは、地球上の営み全てがデータ化され、そのデータに指南された生き方を世界中の人達がするようになれば、それが平均的な生き方になるでしょう。
情報のフラット化が加速度的に進むこれからの世界では、ますます「逆張り」することが重要になるはずです。
データ至上主義の世界だからこそ、右脳や潜在意識を鍛え、データ化されないものを重視していくことが重要だと再確認しました。

この結論も、私の中で都合よく解釈され物語られたものなのかもしれませんが(笑)

今月も素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございました!

投稿者 H.J 日時 2018年12月31日


まず、本書を読み終え、著者の圧倒的な考察力に驚いた。
予め全世界をターゲットにしたのか、西洋、東洋問わず、世界の歴史を基に考察し、
歴史というデータを基に未来を予測している。
少し無理矢理押し通した感を感じた部分もあったが、事実として起こった事を基に伝えるため、説得力もある。
「GAFAスゲー!」 「AIスゲー!」 「自動運転ってエラー起きないの?」 「今はデータが命!」 「ファー〇ェイ、やっぱりそういう事してんのね!」
だの、世の中の進化やニュースにありきたりな感想しか持てないテクノロジーの利用者の一人として、平和ボケしている私の頭をハンマーで殴られて、少し先の未来を見せられた。
そんな感覚だ。

サピエンスが繁栄し、豊かになるための技術が、サピエンスを一歩ずつ破滅に導く現実を作っていくとは、とても皮肉な話だ。

殴るだけでは終わらない。アメもしっかりと用意してくれている。
下巻P245とP246の3つの動きと読者への問いかけ。
この3つの問いかけこそ、著者の予測を実現させないためのカギとなるだろう。
あえて、問いかけで終わったあたり、著者自身のこれからのテーマでもあるのかもしれない。

では、この3つの問いかけにどう答えるか。
今の私に言える事は、

”本書は科学的な視点にしか過ぎない。”

ということだ。

なぜこう思ったか一例を出すと、
アルコリズムを端的に言うと、「こうすればこうなる。」ということ、正に科学的な視点の言葉である。
型にはめ込んで説明する辺りも、とても科学らしいと感じた。

事実を基に仮説を立てる。
この辺りも科学的なアプローチだ。

であるならば、非科学的な事にこそ希望の光がある気がする。

10月の課題図書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で学んだ様に、物事の片面だけでは一方に偏ってしまう。
だから、科学的な事と非科学的な事の対となるものの両方を学ぶ事が新たな可能性に繋がると考える。
かつてのSFなどのフィクションがノンフィクションになりつつある様に、虚構が現実になりつつある。
著者の言うように気に入らないものがあるなら、その可能性が実現しない道を考えればいい。
ただ、テクノロジーは物凄いスピードで発達する。
資本主義経済の名の元で、市場にとっての利益が最優先される。
市場にとっての利益となりうるテクノロジーの発達は、自由主義も手伝い、これから更に加速するだろう。

そう考えると本書の現実化はそう遠くない未来とも考えられる。
だが、現実化したとしても、受け入れるでも排除するでもなく、その現実と共生する道を考えたい。
物事の両面を見る事で、そのヒントが見つかる様に思える。

以上を踏まえた上で、3つの動きについて、逆に問いかけてみたい。
生命をデータ処理にすぎないとは、科学的な視点に偏りすぎではないか?
知能と意識の価値に優劣を付ける必要はあるのだろうか?
意識を持たない高度な知能を備えたアルゴリズムが私達より自分自身のことを知るようになった時、その結果を私達は受け入れる事しか選択肢がないのか?
この問いが今の私の答えだ。

今後の自分への課題として、いかに非科学的なアプローチができるか。
知識を付け、理解を深めた後に再読して、考えて答えを出したいと思う。
著者の予測した未来でなくとも、全く人類の役に立たなかったとしても、私にはプラスになる。

さて、話は変わるが、テクノ人間至上主義とデータ至上主義という二つの新宗教。
この新宗教の怖さは、人々の意思とは逆流し、オートマチックに浸透しえるというところだ。
先進国の人々の多くが、既にこの2つの新宗教に無意識に片足を突っ込んでいる。
テクノロジーの発達に頼りきり、現代人のほとんどはスマホで完結する。
連絡、写真、検索、決済、記憶の保存、読書など。
電車の中を見渡してもそうだが、
若者のほとんどはスマホに時間を取られている。
それだけなら良いが、使い方を誤り、命を奪うケースもある。

データ至上主義についても、便利さと引き換えに、個人情報を企業に流し、管理を任せるところから始まり、お金すらデータ化している。
最新の話として、日本でも食べ物をデータ化し、遠隔地でロボットアーム型の3Dプリンターを使い、食用ゲルキューブで味や栄養素を完全再現する研究が進んでいる。
既に、日本からアメリカへお寿司のデータを転送し、実際に食べるところまで成功したとのこと。
食べ物までデータ化して、ダウンロード出来てしまう時代がすぐそこにまで来ている。

テクノロジーやデータは現代人を豊かにする。
素晴らしい事だ。
ただし、なんでもかんでもテクノロジーやデータに頼ってしまう事が怖い。
オートマチックに飲み込まれるなら、尚更。

しかし、飲み込まれるのは「思考停止し、流れに従っている」状態の時だ。
著者の言う様に「自ら決断し、なすがままになるのを避けるべき」を実践すれば、悪い結果にはならないだろう。
むしろ、自らの意思で考え、決断し、テクノロジーやデータを”利用出来る”人になることこそが、ホモ・デウスに近づくカギなのかもしれない。

投稿者 dandandaniel 日時 2018年12月31日


ホモ・デウスを読んで

◆初めに
 課題図書は数年前から毎月読んでいますが、その中でも一番の衝撃作でした。
まず著者の幅広い分野の見識に圧倒されます。専門の中世史や軍事史だけでなく、
最新のIT技術動向にもかなりの知見を有していることに驚かされました。
本書では、ホモ・サピエンスがなぜこれほどまでに世界を支配するようになったか
様々な事例で人類史を振り返りながらも、その優位性が永続的なものではないと
警告しています。

◆「虚構」を使いこなすホモ・サピエンス
 十数万年前にアフリカの大地で誕生したとされるホモ・サピエンスが、
高度な認知能力を駆使して、地球の時間軸のごく僅かな期間に大きな繁栄を
成し遂げました。その高度な認知能力の中でも決定的な役割を果たしたのが
著者が「虚構」と呼んでいる人類の共通概念でした。例えば「神」、
「文字を用いた管理体制」や「貨幣」など、自然界に存在しない「虚構」を
運用することで、自然界のサイクルを逸脱した成長を続けてきたことに、
改めて驚かされました。
 様々な事例を読み進めるだけでも知的好奇心をくすぐられたのですが、
著者がこれらの概念を「虚構」と表現していることが印象に残りました。
以前読んだ「ビジネスゲームから自由になる法」の中でも現実がホログラム、
本書でいうところの「虚構」であることが説かれていました。「虚構」に
惑わされることなく、所詮はホモ・サピエンスが運用している共通概念として
向かい合うことで、束縛から自由になれるのだと改めて納得しました。

◆「知能」の分離抽出が行われつつある時代
 本書では「生き物はアルゴリズム」であるという衝撃的な表現で上巻から
論が展開されていきます。知能を有している人間の行動でさえ、ある統計的な
範囲内に収束し予測できることは、「データの見えざる手」や「ビッグデータ
ベースボール」でも述べられており、この考え方はそれほど違和感なく読み
進めることができました。
 私が働いているIT業界では「働き方改革」の政府方針ともマッチし、RPA
(ロボティック・プロセス・オートメーション)などホワイトカラー労働者の
生産性向上がトレンドになりつつあります。本書ではさらに論を進め、人間と
他の生物を分けるものであった「知能」さえ凌駕してしまう実例を幾つも
見せつけます。例えば本書で語られているように、車を所有するのではなく
使用する時間帯に迎えに来てもらいシェアする流れが広がれば、これほど多くの
自動車は不要になるでしょう。自動車メーカーの統廃合が進み、車体を設計する
だけのハード屋になり下がる日が来るかもしれません。さらにドライバーと
言われる職業の人の大半は職を失うでしょう。そんな日が私たちが生きている間に
実現することをリアルに感じることができ、恐ろしくなりました。
 上記のように、今まさに人間の頭脳から「知能」を分離抽出しつつある時代である
ことを様々な事例で見せつけています。そんな社会ではこれほど多くのホモ・
サピエンスは必要とされず、多くの「無用者階級」が出現すると、著者は警鐘を
鳴らしています。

◆ポスト ホモ・サピエンス社会
 ホモ・サピエンスの絶対的優位な「知能」が模倣されるようになった時代において
私たちは何を目指していけばいいのでしょうか。産業革命の時のように産業構造の
劇的な変化が起きるのは間違いないでしょう。
 そんな不透明な変化の時代において、一つのヒントとなっているのが、「知能」が
分離抽出された後に残る「意識」ではないかと思いました。本書の中でも人間の頭脳には
「知能」と「意識」があり、今の世界の科学技術は「知能」を作り上げることを
目指しています。一方で「意識」は現代でも不明確なことが多く、コウモリやクジラは
人間が知覚している世界の外側に別の感覚を持っていることが述べられています。
さらに「心理学」がサンプリング対象としているのが、ごく限られた調査層に偏っていて
不完全であることも指摘されていました。つまり人間が知覚することのできない未開の
領域に、世界の関心が移っていくのではないかと思いました。

◆終わりに
 本書が扱っているテーマは多岐にわたるので、今までの書籍との関連からの気づきも
多く、頭の中で多くの火花が散る感覚がありました。とはいえ、この本の奥深さを
まだまだ拾いきれていないとも感じています。もっと成長して来年の年末に読んだら
どんな気付きが得られるのかを楽しみに、今後も読書に邁進していきたいと思えた1冊でした。
 2018年も素晴らしい読書体験をありがとうございました。

投稿者 tomooku 日時 2018年12月31日


ホモデウスを読んで

過去に見たAIと人間が生き残りをかけて戦う映画やコンピューターを使おうと思って開発していたのに最終的にはコンピューターに支配された人間の姿を想像して漠然とした恐怖を覚えた。今までは想像、作り物の世界だと思い現実的ではないものとしてみていたが、この本を読んでその恐怖の世界が現実味をおびて感じられた。
ドラえもんに出てくるのびすけの生活を想像してみた。自然の木々や空き地はなく、人間が働かなくても便利な世界。人々は幸せそうに生活していたが、自分がその場に行ったらどうなるのだろうか?
本の最後に出てきた問いの3番目「意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?」まず仕事は…と考えてみたが、何を想像してみても自分がそう考えて行動したと思っているのにそれが何者かに支配された状態で、そのことに気がつかないなら…気がつかず幸せに暮らしているならいいのかと思ってみたり、支配しているモノの利益のみが追求されているのはおかしいと思ってみたりした。

脳への電気刺激によってうつ病の治療を行う部分や兵士の集中力を高めるヘルメットや脳への電気刺激によっての行動や感情のコントロールができるという部分では「その科学があなたを変える」とういう本でも同じような事が書いてあった。楽しいから笑顔になるのではなく、笑顔になるから楽しいという感情が湧くのだと。本を読んだときは自分の感情が表情を作る事でコントロールできるのは良いことだと思ったが、外部からの刺激でコンロトールされるとなると恐ろしい。

本を読みながら基本編セミナーと共通することが多いとも感じたので整理したいと思う。
現代の人間は研究・発明・成長が1番大切だと考え「邪魔になる生態系の中の動植物の生息環境・社会構造・伝統的な価値観は排除されたり破壊されたりする」というとことでは人間は目に見えることのみを大切にして自分たちが1番偉いと思い、森羅万象のトップだと思っている。故に自分たちの都合の良いことばかりを優先し他の生物や自然環境を大切にしないし、目に見えない世界を信じない人が多い。

「過去何千年にもわたって、その時々の支配的な体制は、自らの必要性に応じて私たちの心を形作ったり、作り変えたりしてきた」というところでは、昔から時代は為政者によって作られている。庶民は自分が決めたように思っているが国に都合のいいように動かされている。それに気づかなくてはいけない。

「社会を支配するシステムがダウングレードされた人間を好む可能性があるのは、そういう人間が超人的な才覚を持つからではなく、システムの邪魔をして物事の進行を遅らせる、本当に厄介な人間の特性の一部を欠くことになるからだろう」ところでは現代人の身体感覚が昔の人に比べて鈍くなっている。良書リストの本には感覚が優れている人が書かれているが、その感覚が信じられないほど現代人は鈍っている。まずはそんな人間がいたことを人間にそん能力があったことを知った方が良いし、自分も近づけるように鍛えて行った方が良いということ。
現代人の身体能力の鈍化は便利になった現代に必要のない能力は退化していったと捉えていたが為政者が自分たちの考えの邪魔になるから鈍らせようと思っていたのだったらと考えると逆らって身体能力を鍛えようという感情が立ち上がる。

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」というところでは
現代の人は考えない人が多すぎる。自分の名前を書くということひとつでも考えずに前の人にならえという人が多い。人生は選択の連続で頭を使って考える事で考えない人生とは未来が変わっていくということ。

この本を読んで人がコンピューターより優れている部分はなにかと考えてみたが感情とか情緒をもっていることくらいしか思い浮かばなかった。知能と意識に関してもどちらが価値があるのかという問いに関する答えも使う側から考えれば意識が無い方が便利だとは思うがそうでない場合は…答えがでなかった。
コンピューターに支配されない方法も今のところ思い浮かばない。
しかし、セミナーで「答えが出ない問でも考えることが大切」と言われていたので自分が考える怖い未来が実現しないよう考え続けて行きたいと思う。

今回は本を読み始めてなかなか読み進められず、自分の知識や読解力のなさを痛感した。しかし、目次やまとめに著者の言いたいことがまとめられているという先生の教えを思い出し始めて本をまとめから読むことをしてみたところ内容が入りやすくなった。

毎月のことですが、本を読み考えるという貴重な経験をするきっかけを与えていただき、ありがとうございました。

投稿者 whockey51 日時 2018年12月31日


人間至上主義が、人類の歴史において全てであることがわかった。

何か目安になるものが存在しないと、人は生きられないと考える。
戦争、経済、宗教、営みは全てにおいて計算された各個人の意見を反映しているに過ぎない。そこで出てくるのが、何が正しくて何が間違っているのか。この疑問点に行き着くと言える。

キリスト教か、イスラム教か
、仏教か。目的は恐らく同じでも、それぞれの手段が違ってきてしまう。自由な選択をしているつもりでも、実は制限された選択をしていることに気づいてないのかもしれない。しかし、選択は自分自身で行なっていると錯覚させられている。自分が何かを選んだつもりになっているが、実は何も選んではいないのかもしれない。

では、選んでないとしたら、責任はどこにあるのか。作ったほうか、選んだ方か。無人運転自動車は作った人か、買ってのってるひとのどちらが責任を取るのかにもなる。この選択肢に正解は果たしてあるのだろうかと思ってしまう。子どもが悪さをしたら、親の責任か、子ども自身の責任か。言葉で言うのは容易いが、どちらにも責任は発生すると考える。
選択した結果が間違っていたら、それを誰かに押し付けたい衝動にかられるだろう。

その選択をどの様に決めるかも、一因としてあると言える。人はもしかしたら、判断を下したくないのかもしれないと仮定してみるのも面白い。責任を負いたくないのではなく、そもそも決断するのが嫌だとしたら、話も変わってきそうになる。

選択を下すために集めた情報も、ある意味制限があることに気づく。インターネット、新聞、テレビ、本、人と大まかに分類するとこの5つに分けられるだろう。ここに指向性を組み合わせれば、私たちの思考は、読まれて、方向をきめられてしまうだろう。未来の選択肢はもはや無いに等しいのかもしれない。人の指向性は、果たして変わるのだろうかと考えてしまう。子供の頃食べたものが、食べ物の指向性として決定してしまうのなら、もはやそれ以外を食べないのと同じようにだ。

全ての行動が定義づけ出来るなら、もはや決断もせず、決めることを人間は辞めてしまう事になるだろう。そこに、人間至上主義を組み合わせれば、立派な人類が誕生した事になるからだ。

となると、誰が最終的に得をするのだろうか。自由が無くなったものを見て、何か得るものはあるのだろうか。
ただ、出来ることはあるといえる。思想としての方向性ともいうべきものだ。自分自身や世の中を知ることで、どうあるべきか、どう進むべきかを見つけ出すことは、出来るだろう。自分でそう決断できるが、最後のカギになるといえる。

投稿者 sakurou 日時 2018年12月31日


本書を読んで、今と将来の世の中をこれだけ的確に表したことに、正直打ちひしがれた。まだ頭の整理がついていないが今思うことを纏める。

1.心と体のアップグレードとダウングレード

本書ではテクノロジーによる心のアップグレードについて書かれている。この記述を読んで、先日テレビで1億円をかけて遺伝子治療を行い、20歳の若返りに成功した女性の話を見たことを思い出した。つまり、(若返り=アップグレードとすれば)テクノロジーは心だけでなく、体をアップグレード可能となっている。一方、203ページに『(体や脳をアップグレードすることで心を失い)テクノ人間至上主義は人間をダウングレードさせるかもしれない』とも書かれている。確かに分からないことがあるとすぐにgoogleに頼っている。いきなりとりとめのない話になるが、これからの私達の心身は一部がアップグレードされ、一部がダウングレードされる。その差が体のパーツなり機能での差が大きくなるだろう。また、それとも誰でもプチ若返り治療が受けられるようになると良いが、いくら安くなるとはいえ若返り治療を誰もが受けられるということではないだろう。個人差(格差?)も大きくなるだろう。少なくとも言えるのは、アップグレード法を知らないことには話にならないのでテクノロジーを使いこなせる人とそうでないと確実に広がるということだ。

2.「意識」とは?

これも本書を読んでふと思い、かつ分からなくなったのだが、「意識」の定義というかあり方が変わってくるのではないか、ということだ。本書9章では知能と意識を分離し、知能はアルゴリズム(AI等)で置き換えられているとしている。しかし実は意識もアルゴリズムで置き換えられるのではないか、と思う。というのも、昔読んだユング心理学の本を思い出したからだ。ユングによれば、意識には本人が意識している「意識」の他に「個人的無意識」、さらに「集合的無意識」があり、意識はいわば氷山の一角でしかない、という。これをGoogleキーワード検索で置き換えると、「意識」→本人が検索したキーワード、「個人的無意識」→おすすめ等で表示されるだろう検索結果、「集合的無意識」→検索アルゴリズムにより収集される膨大な情報となるように思う。だとすると、人しかできないことは何か?人に残るのは何か?一瞬創造のようなことと思ったが、本書に書いてある通り、AIが作曲もできる。だとすると?データの裏付けなどが全く無い、ある意味突拍子もない妄想のような発想しか残らないのではないか?と何とも言えない気持ちになる。

3.GAFA教とこれから
言うまでもなく、今は本書でいうデータ教が広まっており、また、今年の流行語を使うと「GAFA教」の熱狂的な信者となりつつあると言える。GAFAではないかもしれないが、我々は今後もプラットフォーマー、大きな括りで言えばデータ教の熱狂的な信者であり続けるだろう。GAFAは既に膨大な情報を保持し、加速度的に収集、処理し続けている。彼らが当面テクノロジーの進化を握るのは間違いないだろう。ではテクノロジーの進化とどう付き合えばよいのか?
有り体に言えばテクノロジーに流されないように、前述したようにテクノロジーの進化をキャッチアップすることだと思うが、それだけで良いのかとも思う。キャッチアップするだけでなく、流れを俯瞰することも大事だと思う。其のときに重要な視点は何かというと、科学で割り切れない世界があることだと思う。192ページにスペクトルの図があり、私達の心の広さを表してるが、同様にテクノロジーのスペクトルで表現できない世界がある。データ、テクノロジー至上主義が進めば進むほど、逆に(テクノロジーを疑う訳ではないが)テクノロジーと距離を置いた冷静な視線が求められると思う。

以上、感想を纏めた。

本書の内容が深すぎて生煮えになってしまったが、本書は書店に平積みされていたので以前から少し気になっていて、今回、話題の本を読む機会ができ、また一年の締めくくりに読めて本当に良かった。
日々の生活に即座に活用するのは難しいのかも知れないが、遅効性肥料のようにじっくり活かすには最適だ。来年に活かしてきたい。

投稿者 BruceLee 日時 2018年12月31日


今月の課題本の紹介欄には、次のしょうおんさんコメントがある。

「何だかよく分からんわ、何が書いてあるのか理解出来んわ、ページをめくるのが辛いわと言う人は、知識レベルで劣っているということです」

本書を読んだ後「これ違くない?」と感じた。しょうおんさんにケンカを売っている訳ではない(笑) もし自分が本書を理解出来なかったら「知識レベルで劣っている」という生易しいレベルでなく、知識が無い事に戦慄を覚え「脅威」と感じると思ったからだ。

本書はサピエンスの歴史を辿り、今を見つめ、この先の未来を予想をする。故に本書を楽しむには歴史背景や現在世の中で起こっている事象に関し、著者と同等或いはそれに付いていける程度の知識が必要となる。そして著者の未来予想に対し賛同するのか、或いは別の未来を描くのか、読者各人が思考出来て初めて面白い本となる。何故なら著者の未来予想は的確ではあるが、本書で最も重要なのは最後の「三つの重要な問い」であり、この部分は「あなたはこの未来で良いの?」という読者への問い掛けであり、著者から読者に対する挑戦状でもあると感じるからだ。

大前提として、本書を理解するには幅広い知識が求められる。その知識や経験レベルにより、時に同意し、時に疑問を抱き、理解も深まるのが本書の醍醐味だ。自分も難解な部分がありつつも、読み進められたのは知識があったからだ。では、その知識は何処で得たのか?と反芻してみると、これまでの人生経験や日常の情報も勿論だが、それ以上にこれまでの読書経験なのだ。様々な読書体験による知識が本書理解を助けた。つまり本書を理解出来る人とは、日頃一定の読書量があり情報を入手している事が条件となる。その意味で、本書は読む以前に読者を選別する。読書してる人としてない人。その上で本書を理解し考えられる人とそうでない人。だとしたら「脅威」ではないか?

本書を理解出来なければ本書の内容に基づき考える事も出来ない。結果、考える事が出来る人と比較し、人間的な総合力で差が付く。自分の場合、ここ数年は年間100冊以上の読書量だが、それでも難解な部分はあった。そして過去の自分を思い出し想像してみたのだ。推理小説を中心に年間20-30冊の読書量の時代の自分であったら、本書は理解出来なかったであろう。それは自分で気付く事も無いまま、本書を理解する他者に差をつけられているという事で、それはやはり「脅威」だ。

反面、本書で感じたのは自分の無知である。自分が知らない事、理解してない事はこんなにある。それを知る事で「自分はまだまだ」という事が分かり、それは自分を謙虚にさせる。人は年を取る程、周りの人は叱ってくれなくなると言うが、だからこそ自分で自分の実態を知ろうとする姿勢は必要だと思う。他者比較ではなく自分比較してみれば分かるだろう。本書を読み、自分なりに考える事が出来る自分は、それが出来ない自分と比較し、日頃の視点、思考、問題意識という点で、より優れた自分である筈だ。それはその分、自分の人生全般を有利に進める事が出来る事を意味する。仮に本書がよく理解出来なかったとしても、それは自分の知識が不充分な事に気付けたという事でもあり、それはそれで有益となる。読まなければそれさえも気付く事は無かっただろうから。だから本書のような骨太な本は自分の知識度合いを測る試金石として捉えるのもアリだと思う。誰でも人生はより有利に進めたいだろう。であれば、話は簡単で本書にトライし、理解出来たら堪能すれば良いし、知識が不充分と感じたら、より多くの本を読めば良い。その意味しょうおんさんが日頃言う「年間100冊読まなければサル」というのは一つの指標となる。

そして、以上の事から最大の「脅威」が明確になる。それは「知識レベルで劣っている」事、それ自体ではない。「知識レベルで劣っている」事にさえ気付いていない事なのだ。具体的に言えば、今回の課題本が提示されても本書を手にしなければ自分の知識量の有無を測り、それが充分か否かは永遠に分からない。つまり「知識レベルで劣っている」自分の実態に気付く機会さえも失っているという事であり、その状態をより厳しく表現すれば「サルは自身がサルである事にも気付いていない」という事で、それは当人は自分が何者なのかも理解していない事の証明ともなる。そのような人が人生を有利に進め、結果的に幸せになれる訳はない。故に「サルは一生サルのまま」という実態に帰結する。そんな人生でいいのか?もし嫌ならば、読書なのだ。ここでもやはり求められるのは行動なのだ。

■ でも、一体どんな本を読めばいいの?

なんてアホな質問をする人はこのメルマガ読者にはいない筈だ。「死ぬまでにこれだけは読んでおけ」という一文を日々目にしているのだから。

以上

追伸:今年も毎月有難うございました。また来年も宜しくお願いします。

投稿者 sikakaka2005 日時 2018年12月31日


「生き物はアルゴリズムである」

この言及にはドキッとさせられた。どの生き物にも習性があり、規則的な動きがあるため、それをアルゴリズム化するのは可能だ思う。人間にも習慣があり、パターン化できる部分があるので、同様にアルゴリズム化として解析できると思う。そんな人間の習性をパターン認識し、適格に人間のことを理解するため、人間がアルゴリズムに判断すら任せて、政治も社会も不要な世の中が来る予感はした。

しかも、パターン認識の結果が思いもよらない答えを導きてくれる技術はすでに実現されている。以前の課題図書であった「データの見えざる手」では加速度センサーの計測結果から、カスタマーサービスセンターの女性たちの生産性には、休憩時間のおしゃべりが関係していたという研究結果を知って驚いた。そんなことが生産性に関係あるの?と思った。全く予想できなかった結果である。女性たちが無自覚にしていたことが生産性に影響するとはとても意外だった。アルゴリズム化により、人間には想像もつかないようパラメータを抽出し、人間がアルゴリズムを信頼することはあると思う。

しかし、完全に信頼するにはまだまだ先に未来だろうし、生き物は完全にアルゴリズム化できるとは到底思えないからである。なぜなら、生き物を完全にアルゴリズム化するには、生き物に影響する膨大なデータと採取せねばならないからだ。先ほど紹介した「データの見えざる手」では、加速度センサーの結果を導いており、加速度センサーが検知できる範囲での導いた結果であり、データの取れる範囲がとても限定的である。もっと別のセンサーを付けていたら、別の答えを導きだし、もっと有効な答えを導き出す可能性は十分にあり、デバイスによる制約が必ずある。

さらに、どんなデータを採取するかを決めるのは人間である。人間は目に見えるところしかデータを取得しようとせず、範囲が狭くなることが予想される。光のスペクトラムが本書でも紹介されていて、可視光線のおよそ10兆倍の幅がスペクトルにはあるのである。それを可視光線のみの領域の情報だけから、アルゴリズムを抽出したところでどうなの?と思う。部分最適ができてたとしても、生き物全てに通じるアルゴリズムを導きだすのは不可能だと思う。

人間を知る学問において、占いも心理学も、人間の全容解明には至っていない。ある程度機械的に分かっていることはあるものの、どうしても最後は占い師やカウンセラーに委ねられている。たとえば、心理学ではカウンセリングの技術はある程度手順化されて、手順を知れば誰でも、カウンセリングを再現できる。しかし、人によって明らかに効果が違う。カウンセリングを受けたことがあるが、人によって受ける印象は異なっていた。占いもそうで、どうしても言語化できない無意識レベルの気付きがあり、それをどう言葉にするかで、当たる当たらないの評価につながっていると思う。だからこそ、非言語を言語化する職業はどんなにテクノロジーが進歩してもなくならないだろう。

つまり技術や言語化できるレベルでは表現しきれない感覚でないと捉えられないものあるのだと思う。そこはどんなにテクノロジーが進歩しても、解明できないと思う。パターン認識により、今よりも解明されることはあるだろうが、人間の無意識を言語化した時点で、たくさんの情報が失われているために、それをテクノロジーで解明しようということは無理だと思う。

もし万が一、解明できたとしても、人間がそれを受けれるかは微妙である。テクノロジーの進歩した世界はとても便利ではあるが、変化に人間が耐えない。人間が変化を受け入れられるスピードが1年うちで20%未満だと言われているために、テクノロジーの進歩に一般人の理解がゆっくりなために、遅々として進まない。

また、データ至上主義に思うように、データがオープンなった方が、便利な世の中になることは間違いないと思う。しかし、全体の利益が個人の利益を犯すと思うと人は急に臆病になり、NGを出すと思う。特に日本はそうだろう。自分の会社のグチになるけども、うちでは組合があり、組合新聞が毎月紙で郵送され、組合の委員を決めるとき、紙の投票用紙に「○」をつけるように言われる。電子化やシステムで十分に代替できることはみんな気付いているのに・・・。既得権益を持つ人がそれを阻む構図は、この先も形を変えて残り続け変わらない。

と思うと、アルゴリズム化に対しては、楽観的に見ていていいと思うのである。

(なんとも面白みない終わり方。。。)

久しぶりに、自分の将来が危うく感じ、脅された気分になりました。
追い詰められるような問いだからこそ、人間の本当の価値に少し近づけたような気がします。
今後どんな職業を目指すべきかも見えてきました。
今月も気付きの多い書籍を推薦いただきありがとうございます。

投稿者 kokchamp 日時 2018年12月31日


年末最後に私の成長を問うような課題図書で読むののかなり苦労しました。やはり、まだまだ知識が足りないなと痛感する年の瀬となりました。懲りもせずなんとか提出を試みます。
著書の示す、「サピエンスは自らをアップグレードし、神のような力を持つホモ・デウスとなることを目指すがかえって墓穴を掘る結果になる」という予測は、最近見たマーベルのドラマ「エージェントオブシールド」のシーズン4を思い浮かべました。プログラムされた仮想現実を生きていくというものでしたが、ひとりの科学者が別れた恋人と永遠に一緒に居られるようにと作った世界でした。科学では倫理を超えて進化は進んでいき、治療のための医療も進化すると違う用途で使われる未来は本当にあり得るのだなと感じました。
著者は過去の人類史を丁寧に振り返り、一つ一つの切り取られた事実をつなぎ合わせて一つの方向性を示しているのですが、それぞれにはなるほど思うものの、全体として何か違和感が拭えない進め方ではないかと感じました。そこには通常あまり直視しない現実をあぶり出すという意図が感じられ、最後の、このままでいいのかという問いにつながっていると感じました。
著者の提唱する人間至上主義つながってついても、歴史の事実から確かにとは思うものの、その延長線上にヒトがホモ・デウスを目指すという全体としての方向性には違和感しか感じませんでした。それは私の理解が浅いのかもしれません。
ヒトが神を目指すのは、「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」で学んだ、倫理観と論理性の整合性を問うているように思えます。ヒトが他の動物と大いに異なる点は大勢で柔軟に協力できる点だと言っていますが、まさに科学の進歩に歯止めをかけられるのもこの柔軟な協力であるといえるのではないでしょうか。
人が進化するということは、どういう意味を持つのか?「有難うもごめんなさいもいらない森の民」で進化と引き換えに私たち現代人は色々なものを失ったということを学びました。私たちも動物の一部であるということを忘れてはいいけないとこの本を読んでもまた痛切に感じました。その部分を忘れると、やがて著者が示す超人が現れ、動物の役割を私たちが演じることになりかねない。
人も動物も生き物であり、同じ生命を持っている。生命は科学だけで語れるものではない、それは生命はただのアルゴリズムではなくデータだけではわからない存在であるということだ。

今年一年なんとか課題図書のアウトプットを目指し取り組んで来た。学びの多い一年であったとともに言語化の難しさを感じる一年でもありました。最後のアウトプットがこのようなものでお恥ずかしいが、アウトプットしたということを良しとして締めくくりたい。
良い学びを一年間有難うございました。

投稿者 whockey51 日時 2018年12月31日


人間至上主義が、人類の歴史において全てであることがわかった。

何か目安になるものが存在しないと、人は生きられないと考える。
戦争、経済、宗教、営みは全てにおいて計算された各個人の意見を反映しているに過ぎない。そこで出てくるのが、何が正しくて何が間違っているのか。この疑問点に行き着くと言える。

キリスト教か、イスラム教か
、仏教か。目的は恐らく同じでも、それぞれの手段が違ってきてしまう。自由な選択をしているつもりでも、実は制限された選択をしていることに気づいてないのかもしれない。しかし、選択は自分自身で行なっていると錯覚させられている。自分が何かを選んだつもりになっているが、実は何も選んではいないのかもしれない。

では、選んでないとしたら、責任はどこにあるのか。作ったほうか、選んだ方か。無人運転自動車は作った人か、買ってのってるひとのどちらが責任を取るのかにもなる。この選択肢に正解は果たしてあるのだろうかと思ってしまう。子どもが悪さをしたら、親の責任か、子ども自身の責任か。言葉で言うのは容易いが、どちらにも責任は発生すると考える。
選択した結果が間違っていたら、それを誰かに押し付けたい衝動にかられるだろう。

その選択をどの様に決めるかも、一因としてあると言える。人はもしかしたら、判断を下したくないのかもしれないと仮定してみるのも面白い。責任を負いたくないのではなく、そもそも決断するのが嫌だとしたら、話も変わってきそうになる。

選択を下すために集めた情報も、ある意味制限があることに気づく。インターネット、新聞、テレビ、本、人と大まかに分類するとこの5つに分けられるだろう。ここに指向性を組み合わせれば、私たちの思考は、読まれて、方向をきめられてしまうだろう。未来の選択肢はもはや無いに等しいのかもしれない。人の指向性は、果たして変わるのだろうかと考えてしまう。子供の頃食べたものが、食べ物の指向性として決定してしまうのなら、もはやそれ以外を食べないのと同じようにだ。

全ての行動が定義づけ出来るなら、もはや決断もせず、決めることを人間は辞めてしまう事になるだろう。そこに、人間至上主義を組み合わせれば、立派な人類が誕生した事になるからだ。

となると、誰が最終的に得をするのだろうか。自由が無くなったものを見て、何か得るものはあるのだろうか。
ただ、出来ることはあるといえる。思想としての方向性ともいうべきものだ。自分自身や世の中を知ることで、どうあるべきか、どう進むべきかを見つけ出すことは、出来るだろう。自分でそう決断できるが、最後のカギになるといえる。

投稿者 2345678 日時 2018年12月31日


「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」を読んで

著者の3つの問いに関連して感じたこと。

以前に読んだ本で、AIの危険性を指摘する本があった。シリコンバレーでベンチャーを立ち上げている起業家であるジェリー・カプランが、AIに法的な人格を与えるべきかという法的問題、そしてAIが人間のスキルを無価値化してしまうことによる雇用の問題そしてAIをコントロールする一部の裕福層とそれ以外の人々の間に広がる格差を問題として取り上げていた。現実になりつつあること、近未来に起こりうることが共通している。

AIやロボットにとって替わられるようになると一度身に着けたスキルで一生稼いでいくという事が現実的でなくなり、学校で勉強する、そして社会でそのスキルを活かすという従来モデルでは対応できなくなる。

終身雇用制度が崩れているにも関わらず、新卒一括採用をいまだに継続している多くの日本企業で雇用されている限り、この従来モデルは生き残る余地はありそうですが、人材の流動化をより進める法制度が整い、就業形態が多様化し出すと社会に出てすでに働いている人が、別のスキルを身に着けるために学び直すことが、個人単位だけでなく、社会の仕組みの変更や新た制度作ることをAIが後押しすることが考えられる。

またAIと人間との比較において、たとえば競馬予想士とAIとの比較において、現状では勝率は人間の方が上になっているが、様々なアルゴリズムを取り入れ当日の気候条件や馬場の状況などをAIが取り入れるとAIの方がより勝率は高くなる。

AIがより正しい意思決定が出来ると人々が受け入れるようになると、重要な道義的決定や、個人的な決断すらAI任せになる可能性は大いにある。

つらくてきつい仕事は機械がやってくれるようになると、怠惰に流されやすい人間は、自由な時間や余暇に没頭することになる可能性がでてくる。経験から物語を生み出し、その経験から感じるものが、このことを進歩ととらえるか?

自分自身を知るよりもよく私のことを知るようになったなら、すべてのことは自分のために奉仕してもらっている感覚になりそうな自分がいる。傲慢ではなく安易に流れる自分は家畜化され、ペット化されているにも関わらず、そのことに少しも気づいていない。そう感じると現状のままで良いと過ごしていることが、いかに危険な状態になっている。この意識を強く持ち続けることが今の自分にとって必要だと感じた書籍です。

投稿者 wasyoi 日時 2018年12月31日


ホモ・デウス を読んで

この本は、上下巻でなかなかのボリュームだったので、まさに年末に相応しい時間のかけ方をして読み終わることが出来ました。年末の課題図書としては最高でした。ありがとうございます。
なかでも下巻はとても展開が面白く、スムーズに読み終えることが出来ました。
文中にも著者が述べているように、本書は予言ではなく可能性を述べるものであり、しかも二十年、三十年というスパンの近未来の可能性であるという事。そして人間が生み出したものに人間が取って代わられる世界、というものを想像するだけでドキドキします。

生命としてのアルゴリズムと意識との兼ね合いが今後、どう結びついているのか解明されるどうかが一番の焦点なんだろうと思います。

それにしても、普段全く考えることのない世界を垣間見せてもらえる本はそうそう無いので、とても学びになりました。気にはなっておりましたが踏ん切りをつけてくださりありがとうございます!

あらゆるモノがつながるインターネット(lo T)が一時期騒がれていたように思いますが、そもそもこの考え方、先々は大丈夫なのか?と不安視してしまいました。
というのも、(p209)『データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。これは突飛で傍流の考え方だという印象を受けるかもしれないが、実は科学界の主流をすでにおおむね席巻している。』とありますが、あらゆるものがインターネットにつながり、自然のアウトプットがデータとして処理できるようになることで、データ至上主義がより進むと思われます。というかそれを狙っているわけですよね。
たしかに便利にはなるとは思うのですが、
それが進む事で(P188) 『もし科学的な発見とテクノロジーの発展が人類を、大量の無用な人間と少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、あるいは、もし権限が人間から知能の高いアルゴリズムのてにそっくり移ったなら、そのときには自由主義は崩壊する。』ということになりかねません。
そうなると(p235)『自動車が馬車にとって代わったとき、私たちは馬をアップグレードした。せず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない。』と人類は大きな波の中の小波に過ぎないものだったのでしょう。故アルビントフラーの描いた「第三の波」をさらに進めた話のようですね。

とは言え、(p244) 『本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動して欲しい。』と希望的観測を見せつつ、最後に3つの問題提起をしてきます。
そのなかでも一番心に残ったのが、

『2.知能は意識から分離しつつある。』と言うところ。

これからは著者の提言のように「意識とは何か」を考えて、本を選び読書してみたいと思います。その点でも読書リストをまずは来年で全て読めるようにしたいです。(まだ三分の一程ですので)
いつもメルマガで刺激をいただき感謝いたします。また来年も宜しくお願いいたします。

投稿者 collie445 日時 2018年12月31日


以前、課題図書で読んだライフシフトでは、一人ひとりの人生についての未来を人生100年時代になると予測し、どう生きるべきかが語られていました。ライフシフトを読んで、これからの自分自身の明るい未来を目指した生き方の指針が得られたと、私は感じていました。そんな私にとって、本書は、私に大きな課題を突きつけました。本書では、その一人ひとりの人生の集合体である人類の歴史を振り返った後、人類の未来を予測しています。筆者が予想する人類の未来は、私にとって大変衝撃的でした。

私の子どもたちは高校生なので、高校の進路講演会で先生方の話を聞く機会がよくあります。先生方はこれからAIが発達していき、AIによってなくなる職業もあるので、AIに使われるのではなく、AIを使いこなす側を目指さなければならないというようなことも言われました。ライフシフトでも、これからAIやロボットが発展していく未来における仕事についても語られています。これらの議論を根底からひっくり返すような未来が本書では、予想されていました。

何も考えずにだた目の前の道を歩いていたら、自分で気が付かないうちに、とんでもないところ、例えば、車が行き交う交差点のど真ん中にいたというようなことになってしまうかもしれません。SF映画の世界のフィクションと思っていたことが現実になるかもしれないという恐怖を覚えました。目の前の課題を解決しようと、AIやロボットやアンドロイドを一生懸命開発していたら、AIやロボットやアンドロイドに世界を乗っ取られそうになり、人類が征服されてしまうという恐怖です。

AIパーソナルアシスタントのコルタナ同士が、持ち主の人間たちがまったく知らないうちに、判断して物事をすすめてしまう。コルタナの性能が求人市場や結婚市場での成功が左右される。その時に、コルタナが誰の利益のために働けばいいのかという問題はたしかにとても厄介だと感じました。また、自分自身のコントロールに関する議論も、非常に難しい問題であると思いました。

筆者の繰り広げる議論は、幅広い視点から行われており、このような観点で物事を考えたことがなかったので、大変勉強になりました。人類が取り組んでいることは、ホモ・サピエンスがホモ・デウス、つまり、人間を神にアップグレードに変えることを目指していることになるとは考えもしませんでした。本書を読んで、思いついたことは、クローン羊「ドリー」です。クローン羊「ドリー」をめぐる論争などは、本書の予想する未来で懸念されていることの先駆けであったのかもしれません。

筆者の予想する未来は、私にとって人類の幸福につながる未来とは感じられませんでした。現在人類が歩んでいる先の未来が幸せなものとなるためには、一人ひとりが考えるだけでなく、全世界の人々が色々な視点から議論することが必要となると思います。

しかし、その議論は、困難なものとなると予想されます。なぜなら、地球上に暮らす様々な人種は、それぞれ異なる価値観を持っているからです。例えば、最近のニュースで気になったのは、捕鯨問題です。牛や豚や魚を人間が食べることが問題とならないのに、クジラを食べることが問題となるのか。捕鯨問題だけでも、世界の議論は混沌としています。人類の目指す未来に関する議論はさらに難しいものとなるでしょう。それでも、人類の未来を幸福に溢れたものとするために、本書を契機に全世界で考えることが必要となるでしょう。私自身のためにも、子供たちのためにも、私もこれからの人類の未来を考えていこうと思います。

新しい世界を教えてくれた本書を紹介してくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2018年12月31日


 “辿ってきた道の先にある道はどういうものなのか?”

 著者が人類の歴史をつぶさに検証し、提示した人類の未来とは、極一部の進化した超人(ホモ・デウス)がテクノロジーを操りその他多数の無用者階級である人間(ホモ・サピエンス)を支配するというものだ。その超人と人間の関係は、農業革命以降の人間と動物の関係に相当するという。想像しただけでゾッとするこの恐ろしい未来も、本書を読めば人類が取り得る選択肢の一つなのだと頷けてしまう。
 ただ、著者が望んでいることは彼の見識をもとに人類が彼の予測とは違った歩みを取ることである。ちょうど、19世紀にマルクスが提示した経済学的見識をもとに人々が歩みを変えて、そのマルクスの予測とは違った未来を作ったようにだ。
 であるならば、本書を読み、著者が提示した未来を知った者たちがすることは、

 “違った未来を構想し、その未来の到来を信じ、動き始める”

ことなのだと思う。では、違った未来を構想する上で鍵となるのは何か?超人を誕生させないために必要なことは何か?私が着目しているのは、

 “人間が持つ学習能力と自制心”

である。


 私が本書の中で最も引き込まれ、考えさせられたのは、「進化論的な人間至上主義」についてである。その理由は、もしも超人が誕生するのであれば、それは「進化論的な人間至上主義」の延長線上であり、そして、この思想は「ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差している」という点で蓋然性を強く感じたからである。

 『変化に最も対応できる生き物が生き残る』というダーウィンの進化論が、現在でも頻繁に引用されるのはビジネスの世界だろう。確かに、環境の変化に対応できない企業は淘汰され、対応できる企業だけが存続する。例を挙げれば、対応できた企業が富士フイルムで、対応できなかった企業がシャープだろう。
 ただ、我々の身の周りでダーウィンの進化論にあてはまるのは、なにも企業だけではなく、歴史を見れば国家にも、法律にも、さらには今後の貨幣の行方にもあてはまると思う。これらは、時代の変化にそぐわなければ消えて無くなるか、その姿を変えるしかないのだ。そして企業、国家、法律、貨幣に共通するのが、全てが人間の共同主観的な幻想で成り立っている点である。すなわち、これらは勝手自然的に生まれたモノではなく、人間が必要性の上で構想し、そうなると望み、信じた結果として姿を現したのである。
 では、“人間の持つ価値観”や“人間性の定義”など人間自身のことについてはどうだろうか?これらも人間の共同主観的な幻想で成り立っていて、その時代、時代であるべきカタチへと変化をさせて来たに違いない。それが如実にあらわれているのが、「飢饉」、「疫病」、「戦争」から「不死」、「幸福」、「神性」への移行なのだろう。だとすれば、もしも現代人が未来において超人の誕生を信じれば、その考えが共同主観的な幻想となり現実化する可能性はあるということになる。しかし、私はそのような未来が訪れることはないと信じている。

 かつて、人間は欲望を追い求めて、お茶、コーヒー、砂糖、たばこ等という嗜好品を生産するがために奴隷制度を作り出したという暗い歴史を持っている。

“人間の持つ学習能力と自制心”

私は、歴史という過去を振り返り、反省をしながら、新しい未来をつくることが出来るのが人間であり、また、それを出来るのは人間だけだと思っている。これは、いくら知能が高いコンピューターでも、自制心という意識を持っていないのであればできないことだろう。

“違った未来を構想し、その未来の到来を信じ、動き始める”

私は、ユヴァル・ノア・ハラリが21世紀のマルクスになることを切に願っているし、彼もそれを望んでいるはずである。

~終わり~

投稿者 rarara 日時 2018年12月31日


自分という名の車のハンドルを自分でにぎる。

ハンドルをにぎって、前方向、並走する車、反対車線を猛スピードで行く車、同乗者も観察しながら慎重に真剣に生きていかなければいけない。
そんな気持ちになる 時代の変わり目にいるんだなあと、改めて怖くなった。

とはいえ、
謝辞を読むと、データ至上主義だけでは表せない著者と周囲の人との心の通った時間がみえる、
著者から読者へのメッセージにも思える。

データ至上主義には、便利で、何かと不安になる事も多い人々にとっては、自分の事を何でも理解してくれている よきアドバイザー、頼りになる、そして依存させるパワーがある。

しかし、それに頼りすぎると 気づいた時には、自分で考えない。すぐデータを調べるか、人に聞くという時短、正確さばかりを追い求め、そして味気ない気持ちになるかもしれない。

自己啓発系の本ばかり読んでる時期も、そういう気持ちになる。

空気を読む。という行為も、頭の中から、今いるメンバーの特徴、表情、雲行きを計算したデータを弾き出している。
確かに そつがない けれど、常に自分の心と合致しているかというと、言い切れないものがある。

便利に頼りすぎて 気づいた時には、
それ無しではいられないほどの洗脳 、心のよりどころ。
次第に考えることを放棄する 。
出来事に対する反論だけ。
自ら見つけ出すことに及ばなくなる。

正しい行い、判断だけでは人の心は動かない。
時には、ツラい経験、切ない日々から、新たな感情が生まれ、他者との会話、小説やドラマも深く理解できるようになっていく。

人間には、データだけでは計れない複雑な物語があると思う。
そして、人は 日々いろいろな出来事を通して成長し、今までにない行動をする気分になるかもしれない。
決して、計れない。決めつけてはいけない。
と反省した。

投稿者 SPICY8 日時 2018年12月31日


年末ということで、各ジャンルの著名人たちが来年の予想を書いているコラムが多く目に入ってきます。
2018年は訪日客数の初の3000万人越え、2019年からはインバウンドの消費を狙う企業が増えるとか、PayPayが始まった事をうけて、来年からは消費税対策もかねてキャッシュレスが加速するなど、
概ねどの予想も、過去から現在までの流れを踏んで、未来をその続きとして考えています。
近未来すぎると、ある意味計画とも言えるかもしれませんが、予想というのは過去をひも解く事で可能になるという手順は、今月の課題図書「ホモ・デウス下巻」でひも解かれているホモサピエンスの未来予想も同じです。
分析した過去が数万年分であり、地球上の人間全部(=人類)の歴史ですから、人類が進み行く未来予想が50年から100年ぐらい予想されたとしても短いかもしれません。
地球上の人間を国、文化、宗教等の違いでそれぞれに捉えず、ひとつにしてしまって、だってみんなホモサピエンスの子孫であることに依存はないでしょう?という目線がとても新しく刺激的です。新しい事を言って注目される人というのは、誰も言った事がないことを誰の依存も無い発想と独自の目線で語れる人なのだなと思い至りました。
しかし、ホモサピエンスの歴史として、それぞれ違う国、文化、宗教で生きていた人々をひとまとめにしてしまうことは、万人がすんなり受け入れられるというわけでも無い事であったりもするのではないでしょうか?
本書では、動物と人間はヒエラルキーの中で人間が上位であるという前提で説かれています。キリスト教では人間だけが神の似姿に作られているのですから、神、人間、動物の順に支配がされるものという考え方があります。しかし、日本人にとっては、ヒトも生物の仲間であるという考えが浸透していますし、神様は唯一というよりは、八百万おり、常にこの世界のあらゆるところで存在していて、我々と共にあり続けるという考えることもあります。果たして我々は人間として、かつて神を頂点としたヒエラルキーの中にいて、現代において「神を引きずりおろしたのだろうか?」と疑問が残ります。
もう一つの違和感としては、人間至上主義で言われている人間の欲望は個人的なものであるところです。我々のなかには、共同体の中で自然にそうなって行く物が正しく、それを求めるもしくは求めるべきという欲望もあると思うのです。
そういった違和感を乗り越えて著者のいう未来予想を読み進めてみれば、アッップグレードされたホモサピエンス、つまりホモデウスを頂点とした新たな階層社会が出来上がるという未来予想でした。
どこまで言っても人類はピラミッド型の構造しか作り上げられず、エデンの園が出来上がるという予想はないのかと、少々がっかりです。どんなに医療が進歩してもエリート層が無用な貧しい人々の健康を維持する事は意味が無く、一部の超人を水準以上にアップグレードする事に専心するほうが遥かに賢明だと考える可能性があり、誰もが死ななくなって、皆で生きて行くなんてありえないようです。
本書の最後は、データ主義が教義となり、多くの人間はアルゴリズムを提供するだけの存在となってしまうだろうとの結びです。近未来予測はある意味計画とも言えるのではと冒頭に申しましたが、本書の未来予想も、誰かの(為政者や富裕層)の計画だったら?と考えるとぞっとします。そしてその場合、これは警告の書なのではとも思ったりします。
それらの為政者やらエリート層、富裕層はこれまでお金を支配してきた人々かもしれません。人類が作り上げた虚構の一つがお金であるからです。データ至上主義になったときに「お金」にかわるものとして「アルゴリズム」が重要視されるようになるとしたらと考えてみました。
欲しいものを手に入れるため、生活のためにお金を手に入れようとするように、「アルゴリズム」をより多く提供しようとする人間が増えるのかもしれませんね。より優秀なアルゴリズムを提供する為に、遺伝子を操作するかもしれません。すでにバイオテクノロジーの面では可能となっている遺伝子操作も、裕福でなければ叶いません。米国プリンストン大学の分子生物学教授が言うには、将来的に富裕層と貧困層では遺伝子の種類が異なるようになる可能性もあり、その場合異なる層の男女がセックスしても子供が出来ないかもしれないそうです。そうなったときに、はじめて本当にサピエンスとデウスの違いが明確に線引きされるのかもしれないと思いました。

投稿者 kawa5emon 日時 2018年12月31日


書評 ホモ・デウス ユヴァル・ノア・ハラリ 著

本書帯にある佐々木俊尚氏コメント通り、「人類史と先端テクノロジーを、
見事に融合した傑作」であった。著者の歴史への切り口を存分に楽しんだ。

本書を読み終え、個人的に気になるのは意識領域、心領域と、本書が取扱う、
各種科学技術及びテクノロジー急速発展による社会構造変化との繫がり、バランスである。
前者を見えない世界、後者を見える世界とした場合、本書の取扱い内容は主に後者となる。
本書の所々で、コンピューターの意識は一歩も前進していない、データは意思を伴わない、
私たちは心というものを本当に理解してはいない、とあるように本書は、
前者(意思、思考とも言えよう)ではなく、後者(行動、現実世界等)に焦点がある点を
前置きして書評を進めたい。本書評ではその両方を軸に論を展開したい。


前者対応から述べると、第四次産業革命とも呼ばれている各種科学技術及びテクノロジーの
急速発展現状は、止める、避ける段階にはもう無く、寧ろ(部分的でも)積極的に受け入れ、
その前提で現実世界での生き方を考える方があるべき方向性ではないか?と考える。
つまり、その技術(ツール)に対抗するのではなく、利用するという考え方である。
もちろん短中期的には、現実世界に於いて多くの痛みが伴うだろう。影響がない個人は無い。
それは著者の切り口による人類史解釈の中でも多くの例が示されている。

医療技術であれ、自動運転技術であれ、この世(現実世界)での出来事である限り、
またその触手が自分の身体に浸食するとあっても尚、その対象は物質(データ)であって、
その意味で、生物のアルゴリズム化分析や生命のデータ処理化は有効な一つの方向性で、
データ化が出来る限り捕捉化、見える化され、AI技術等によって一気に効率化は進む。
移動手段で自動車が馬を葬り去ったように、現実世界での技術発展(効率化)は、
手段(ツール)を変えながら、その影響を受ける社会構造や制度までも否応無く変化させる。

となれば、人間が社会生活上で必要な事柄(政治や経済)も現実世界での出来事なので、
当然その触手対象範囲になり、一気に効率化の波に飲み込まれるのは想像に難くない。
第11章で著者が指摘、登場する新興宗教データ教が崇拝するデータの範囲内である。
そういう意味でデータ(情報)が力を持つのは、当然の帰結とも言える。
特に資本主義成功の秘訣が、経済をデータ処理という観点で捉えていたとは秀逸な切り口。
社会システムでも必要なデータポイントと数、その分析アルゴリズムが発達すれば、
効率化、最適化は時間の問題で、旧来のシステムは簡単に葬り去られるだろう。

データ化(0or1化)で表現されるモノはおそらく全て、モノのインターネットに乗る。
とある哲学マンガでの、「言葉にあるモノは全てある」を想起した。


しかしどうしても気にある点がある。データ化できない意識(心)である。
本書最後の問いに対する自身の反論、もがきかもしれないが、ここは個人帰属領域では?

現実社会メカニズム(生命も含む)が全てデータ化されたとしても、
果たして個人はそれを採用するか否かという点である。意思と言い換えてもいい。

広義の例を示すとすれば、その最新ネットワークに属さない選択であり、
極論だが無人島での単独生活がそうかもしれない。狭義の例では、進化した医療技術のみ、
又は自動運転技術を使ったシステムのみに参加するとか。ここは意思の領域ではないかと。
冒頭で述べたように本書は現実世界での大きな変化到来を示唆し、社会構造、制度、
人間個人の立ち位置も変わるだろうと述べている(極論は個人が1ビットの価値になる)。

自身の考えでは、人生の意味や価値観や現実世界とのバランス等は、その時代時代で変わる、
変えられるモノと考えているため(何故なら意味付けはいつも後付けだから)、
コンピューターが幾ら現実世界での対象物を効率化しようが、結局補足物は、
データ化できるモノ限定であり、また現実世界(物質世界)での出来事であるなら、
人間の本質を意識(意思、思考でも可)とした時、現実化手段(ツール)がどう変わろうとも、
身体が死を迎えない限りは、現実世界でのバランス(意識)はその都度最適化するしかなく、
ここ(つまり意識)が、最重要検討項目ではないか?(最も価値がある)と思うのである。
それは例えば、現実世界で生まれる場所(手段、ツール)を選べないのと同様に。
つまりこの考えは、著者の3つの問いの2つ目の質問への答えでもある。

パターン認識、データ化、アルゴリズム化が進み、効率化、最適化は時間の問題、
現実世界での社会、政治、経済、日常生活は必ず変わる。人間は最適化以外に手は無い。
しかしその手段、ツールをどう使うか、またどういう距離間で付き合うのかは、
やはりまだ、人間の判断に委ねられていると思うのである。


今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
来年も引き続き、宜しくお願い致します。皆様、良いお年を。

投稿者 sunao929 日時 2018年12月31日


「ホモ・デウス(下)」を読んで

サピエンスが、自らを神のような力を持つ「ホモ・デウス」にアップグレードすることで、墓穴を掘る。
科学とテクノロジーの進歩が、やがてAIを全知全能の存在にし、大多数の人間を「無用者階級」にして駆逐してしまう。まさにAIが進化すると人類は地球に不要だと映画「ターミネーター」の世界が現実化する。
AIが進化に進化を重ねた末に、人間の想像を超えたスーパー知性が、昨今の指数関数的な進歩により、2045年に起こるという予測もあるそうだ。
故スティーブン・ホーキング博士は、「AIが百年以内に人間の文明を終わらせる」として、物議を醸している。
あくまでも可能性の一つに過ぎないという話であるが、人間が「特大アリ」のような存在になりかねないとは、非常にぞっとする。
それならば、AIの発達を止めればよいのではないかとも考えられるが、開発に係る投資が世界経済のコアに組み込まれており、今やめてしまうと、莫大な損失が発生してしまうため、もはや止められない流れだそうである。

そうすると、未来に希望は持てないのかという悲観的な気持ちになるが、著者は、希望は残されているとして、「生き物はただのアルゴリズムではないのではないか」「生命はデータではないのではないか」「意識は知能より重要ではないか」といった点で、科学が絶対的に正しいのかを考える余地があることと教えてくれる。

また、これらはあくまで予測される可能性の一つであるとし、未来は変えることができるものであるという前提で考え、行動しようと問いかけてくれる。
そのために、今何が起こっているのかを理解し、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになるのを避けるべきと忠告してくれる。

その際、歴史の研究をするべきであるとする。歴史を学べば、祖先には想像できなかった可能性に気づくことができるかもしれないからだ。
歴史を学ぶことで、取りうる選択肢を増やし自由度が高まることになるということだ。
最近受けた研修でも、事業投資判断のエクセル操作に関する講義で、ショートカットキーについて、キーボートとマウスのどちらでも使えるということ、選択肢を増やすことが有利になるといったことを聞いたことが思い出された。

科学は万能ではないから、人間がどう行動するべきかを決めることができない。「正しい」判断というものは、最終的には人間にかかっている。
この先、生き延びるために最適な方策だからと、AIに判断を任せる選択は取りたくない気がする。
これから、適確な選択・判断ができるように、自分には何ができるのか、どういう行動を取りうるのかを日々考えながら、そのうえで行動できるようになる。
「無用者階級」に陥らないように流されずに生きようと強く思いました。

本書の「虚構と現実、宗教と科学を区別する能力は、かつてないほど重要になる。」という部分から、世の中の大半は、科学の範疇を越えた目に見えないものでできているのだという先生の発言を想起されました。

一年の締めくくりに当たって、このような良書をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 ws0103 日時 2018年12月31日


読了後の感想としては、何よりもまず、著者の博識度合いに脱帽したことである。終始、圧倒的な知識を持って論理が展開されることで、読書を飽きさせることなく結論まで読ませるのはさすがだと驚かずにはいられなかった。教養とはまさにこのようなことをいうのだと思う。

著者のメッセージとしては、人類がこれまで感じていた脅威(飢餓、飢饉、戦争)を克服したことによって、新たな問題に直面するのではないかということである。それを著者は、AIなどによりデータを分析・活用し、それらを運用する一部の人類が神のごとくホモデウスとなる時代と記載している。
著者の言う通り、すでにこの世の中は、多くのデータにより数値化される時代になっており、今後加速度的に置き換わっていくと想像される。最近では、例えば、年末の株価の乱高下も、アルゴリズムに従ってプログラムされた自動売買に因ると聞いた。
また、著書の中では、これから起こりうる具体的な例として、自分の結婚相手をAIが冷静に判断してくれるという事例を挙げていた。これは、SNSやLINEなどで個人の趣向などがデータとして残っている時代であれば、リアルに起こりうるだろうということが想像でき、面白くもあったが、同時に背筋が冷たくなるような気がした。
では、果たしてこのように、一部のスーパーエリートであるホモデウスによって人類がコントロールされるような時代が来るのであろうか。また、そうした時代が来た時に、私たちはどのように生きるべきだろうか。

確かに、過去その当時の科学で証明できなかったものは、全て人智を超えた神の仕業と考えられたことはあり、それらは文明が進むにつれて、証明されてきた。これからも、そうしたことが証明されていくということは想像できる。ただし、そうした時代にあっても、データだけでは測ることができない世界というのは残るのではないか。例えば、極端な例であるが、「この世」ではない、目に見ることができない「あの世」の世界についても、データ分析を行うことによってその存在を証明、または不存在の証明を行うことができるのだろうか。

この本を読んで考えるべきこととしては、日常生活の多くのことがAI等によって解決される世界になった時、私たちはどんな価値観としてもって生きていくのかという事だと思う。明確な結論は整理できていないが、一つの考え方として、データで測ることのできないものに価値観の重点を移動させていくことが必要なのではないかと思う。
ただし、この本から学んだ愕然たる事実として、AIやビッグデータが当たり前のように活用される時代が遠くない現実としてあるということだ。その時代が来た時に自分に何ができるのか。そのことを明確に想像して対策を講じておかないと、一部のホモデウスにより支配されるがままの状況に陥るのではないかと思う。

最後に、この書を読んで、間違いなく歴史への興味が沸くとともに、圧倒的な知識の欠落を痛感した。単なる知識の丸暗記ではない教養を身に付けるために、前者の「サピエンス全史」など関連図書を読み、今後も考察を続けたい。

今回も良書の紹介を有難うございました。また、一年間、メルマガを通して叱咤激励していただき感謝しております。少しでも体調が良くなるようにお祈りしております。

投稿者 ishiaki 日時 2018年12月31日


ホモデウス(下)を読んで

現在を生きる私たちからすると、昔の人たちの世界観には理解しがたい点が多い。

サピエンスは飢饉、疫病、戦争という人類を常に掣肘してきた脅威を、概ね克服したという認識を私たちに示す。これら3つの事柄はこれからも多くの人類を死に至らしめるだろうが、私たちは以前のように、これらを制御できない「神のみわざ」として受け入れ、恐れるだけの存在ではない。

飢饉も疫病も戦争も、もしこれらが発生、蔓延した場合、それは誰かが失敗をしたからだと考え、失敗の理由を詮索し、対処する事が可能だと考える。

遺伝子工学や再生医療やナノテクノロジーは急激に進歩しており、ピータ・ティールやグーグルなど、シリコンヴァレーの著名人や企業はこれらの産業に膨大な額の投資を行っている。

近い将来、不死は無理でも「アモータル」つまり非死が実現するかもしれないのだ。もし、人生を150年に延ばし、さらに遺伝子工学で、今までの人間には不可能だった超人的な能力を自分たちでデザインし、アップグレードする事ができたなら、社会はどのような変化が出来るだろうか。 

生命とはデータ処理に過ぎないと考えるこの宗教では、データ処理にどれほど貢献できるかが価値を持つ。例えば、20世紀に共産主義が資本主義に敗れたのは、資本主義が倫理的に勝っていたわけでも、個人主義が神聖だったためでもないとし、技術の進歩で急速に変化する社会では中央集権型のデータ処理システムだった共産主義はうまく対応できず、分散型のデータ処理システムだった資本主義の方がうまくいったためだという解釈をとる。

いま、こうした全てをデータ処理で捉えなおす価値観が科学のあらゆる分野に浸透しつつあるのだ。

投稿者 satoyuji 日時 2018年12月31日


『ホモ・デウス』感想
本書、『ホモ・デウス』は人類の歴史を振り返り、その歴史の変化法則から未来を予測した作品である。人類の発展は生存の妨げとなる病気、飢餓、戦争の克服ともにあった。しかし大きな問題ではなくなるにつれて、自分の欲望を満たすことに生きる価値を見出そうとした。そして欲しいこと、やりたいこと、知りたいことなど、想像できる欲望を満たそうとした結果その全ての欲が満たされた。欲望を満たすという価値を追求し続けたことで、テクノロジーは人類の能力を超えた。その結果、生きていることへの意味付けが不可能という結論に達してしまった。その時人類はなんのために生きるのだろうか。外部からの要求に応えた。自分の内側から出てくる欲求も満たした。その次はどうしたらいいのだろうか。より価値ある選択が自分の外でされるのなら、その人生には果たして価値があると言えるのだろうか。それが本書の提起している問題である。かつてあった長老などの他の人によって決められるというのならまだ受け入れられるのかもしれない。しかしそれが、人が自ら発明したAIやデータの蓄積によってなされるとしたら、それは生きていることに価値はないのではないだろうか。本書は人類の歴史をテクノロジーの変化から書き出している。テクノロジーの発明には人の願望が深く影響しているので、その時その時の願望があぶり出される。確かに人は生存維持という課題を抱えて生きてきたのかもしれない。自分の欲望を満たすために生きていたのかもしれない。その願望を実現するプロセスの中で全知全能に近づいているという感覚を獲得したのかもしれない。そして先人が知らなかったことを少しだけ多く知ることができるようになったのかもしれない。しかしそれが全知全能を実現し、人が全てを知り、なんでもできる存在になるという物語を現実できるというのは、あまりにも人の可能性を矮小化した世界観である。

本書で語られる人の願望は必要から欲望に移り、欲望から全知全能へシフトすると考えている。現代はテクノロジーの発達により、全知全能へと近づきつつある時代らしい。この願望の変遷は意思決定の中心も変化させてきた。宗教上の神から人間へ。人間からテクノロジーへと変化してきた。しかしどの段階においても共通していることがある。生きていること、人間という存在の価値の肯定である。意思決定の中心が神、人間の段階では価値は簡単に見つかった。しかしAIなどのテクノロジーが意思決定の中心になった時、人の価値は無価値へと墜落するらしい。なぜ無価値に思えるかといえば、どの段階でも人間はこの世界で最も優れているという思い込みが採用されているからである。宗教が力を持っていた時には、その存在が人を生んだ存在であるという物語を採用することで何とか精神的糊口をしのいだ。テクノロジーが発達し、必要を備えるのに苦労しなくなった時、欲望中心に生きることができるようになった。その生き方が正しいという物語を採用した。欲望を満たすためにより早く、効率的で、大量を実現する方法を外部に設けるようになった。最初は人主体の活動を補助する装置は、やがて自動化され、人より速く行える存在となった。そして人ができないことを行える存在になった。見下していた存在が自らより優れた存在になった時、かつて宗教上の神に採用した思い込みは採用できない。もし自らの優越感を今の価値観で保ちたいならどうしたらいいか。テクノロジーを操る存在になるしかない。しかしこの物語は採用できない。微細に見れば必要も欲求も全知全能も完全に実現された物語ではない。全ての物語には襤褸があるからである。人類は生きている価値を見出すためにこれらの物語を採用してきた。根底に優越感を置いて、これらの物語を採用してきた。しかしこれらの価値観と物語が自らを苦しめるのなら違う価値観と物語を採用するしかない。存在する価値が、優れていることにしかないのか。正直人類が地球上で最も優れているといのは幻想である。身体能力では他の動物よりも遥かに劣っている。それでも人類は他よりも優れているという物語を採用し続けた。さっさとその幻想に気づくべきである。人類は他の生物よりも優れている。人類は時代を経るごとに進歩している。そういう物語を愚直に採用するのは限界がきている。その現実を認める方がより良い未来を選べる。物語に襤褸があることを嫌でも気付かせられる。それが現代であるのなら、それを認める方が建設的である。同時に物語が人類の発展させてきたことも認めるべきである。その上で新しい物語を採用することが現代に生きる者の役割である。物語と現実の乖離を自覚して利用することがより良い生き方を作る。その結果として人の存在に意味を見出せるようになる。物語を自覚して編める。私たちはその転換点に生きている。

投稿者 kzid9 日時 2018年12月31日


 この本を読み進めていたとき、思い出したのが「水槽の中の脳」のことでした。映画、マトリックスの題材とも言われていますが、水槽の中に脳を入れてそれに電極をつなぐとどうなるのかという哲学の命題です。

人間の自由意志こそが、最高の権威だと息巻いてきたが、実は、私達は自由意志などなく、脳を電極に繋がれて電気的に刺激によって判断させられているだけではないか。
もし、そうだとしたらこのことをどのように考えますか。あなたは進化を諦めますか、それとも自己を探求し続けますかというのが、答えは簡単には出ないかもしれませんが問を持ち続けることが大事なのですというのが筆者の論ではないでしょうか。

本書では人類が長い時間軸のなかでゼロサム・ゲームの生存競争から飢饉や疫病を克服した資本主義の成長に至るまでを事例を加えて詳細に説明しています。
人類の進化は均衡状態を保っていたゼロサムゲームから他者を犠牲にしない経済成長の信奉を宗教とする世の中に進化してきました。そして、資本主義は人々がゼロサム・ゲームをやめて、あたなも幸せ、私も幸せという誰もが満足する状況を見るように促すことで世界の平和に重要な役割を果たしてました。
 成長のためにはこれまで原材料とエネルギーと知識が必要でしたが、新たな知識の獲得によって現在に至っています。そのため、生態系の破壊や環境問題を解決してきた科学に対する信頼が高い。
 そして、現代社会を崩壊から救ったのは人間至上主義の台頭で、特に、現代は自由主義に支配されており、自由主義が個人の自由をこれほど重視するのは「私という人間」がいて「私という人間に自由意志がある」と信じているからです。
 それは、結婚というものをとって説明すると、以前は神の定めた秘蹟と考えられていたのが、今では人は愛のために結婚するのが当たり前で、個人の感情が価値を持つようになりました。つまり、人間至上主義によって意味と権威の源泉が人へと移ったのです。
それと、同じ理由で、芸術も超人的な力の働きから、人間の感情へと源泉が移りました。成功体験を忘れることができないなどと聞くことがありますが、一度手にしたした勝利の方程式を自ら手放すのは勇気がいることです。

 しかし、私達があると思っている自由意志はそもそもないよというのが現代科学の答えです。私達は「遺伝子」「ホルモン」「ニューロン」しかないのです。
さらに、今後、私達はますますテクノロジーに依存する度合いが高くなる世の中になるとますます、知能の高いアルゴリズムに依存せざる得ない世の中になる可能性があります。
 心を持たないアルゴリスムが私達よりすべてのことを上手にできるようになったら、私達はなにをするのか。
 数年前であれば、将棋や碁のプロがコンピューターと勝負して負けるなんてことは考えもしませんでした。
 しかし、ここ数年での対戦結果を見るとそうではないことがよくわかります。
 これはものすごい大きな変化に直面しているのだと思います。これらのことから自動運転などの様々な活用がニュースなどで取り沙汰されるようになったと感じています。
 その結果、アルゴリスムに富と権力の全能を所有されるという映画やアニメの世界が現実化するのではないかという恐怖すら覚えます。

 私達は、すでに携帯のアプリなどでたとえば、脈拍や歩いた歩数、睡眠の質などのデータにより健康を管理しています。その頻度がだんだんと大きくなり外部データに依存する生活にズッポリとハマってしまうのではないでしょうか。
 では、はじめから全て外部に委託して諦観して与えられた環境の中で快適な選択をアルゴリスムに委任したほうがいいのか。
 無自覚に依存すると外部にある数値が人部の内なる声よりも力をもってしまいます。テクノ人間至上主義も、現在の科学では心の動きすら解明できていないし、光と音のスペクトルが人間に見えたり聞こえたり私達が知覚できる範囲が可視光線と同じくらいなのと一緒でわかっていません。よって精神状態のスペクトルを網羅するには程遠い状態です。あなたの感情はあなたの祖先が感じたものを引き継いでいるかもしれないのです。
 本書では、匂いを嗅ぐ能力や注意を払う能力、夢見る能力も失ってきているとあります。また、多くの文化では、夢の中で見たりしたりすることは、目覚めているときに見たりしたりすることに劣らず重要だと信じられていて、夢の世界での行動を制御したりする能力を訓練したりしていると書かれています。
 これに対して、現代では、夢はよくても潜在意識のメッセージ、悪くすれば心のゴミとして退けられています。
 この能力を失うことは、社会を支配するシステムを作ってしまう可能性を持ってしまいます。
 現代の科学では 生き物はアルゴリスムであり、生命はデータ処理であるという教義に収斂しつつあるようだが、それはあくまでも、現代科学の能力の範疇をでないのです。 
 私は、現代の科学で未だに解析できていないものの存在を大事にしたいと考えました。

投稿者 diego 日時 2018年12月31日


生命に、光あれー!

人として生まれ、言葉の音を感じ身体の躍動を感じ、楽器に触れて音を出し、色彩や線を感じつつ絵を観て、おいしいく豊かなものを味わい、読書や会話から、他の人が持つ感じ方に触れて吸収してみる。
そんなことをしているうちに、もっと深く感じて触れて吸収したい、知りたい学びたいという熱望が生まれた。速読セミナーに参加し、読書会や基本セミナーやバージョンアップなどにも参加した。一日で脳の状態が書き換わる感じがした。その後、復習し、時にはしっかりと、時には細々と、能力が向上することを何かしら続けた。それなのに後退した感じがすることも時にはあるし、自分の能力の及ばなさを痛感することもしょっちゅうあるが、現在ではとても幸せな日々を経験しており、毎日感謝が起ち上がる。
大変なことがある時、以前は「すごくつらいのに誰もわかってくれない」とか「あなたも大変かもしれないけど、私も大変だったのに」と思うことがよくあったが、ダメだと言ったら終わるよということをメールマガジンを読んだりして、その独り言を書き換えた。「こんなことぐらいでは絶対に負けない。」
「人間だから、弱いから、間違えるから、できないから」ではなく、「では、仙人になればいいのかな?なるためにはどうしたらいいのかな?」と考えるようになった。んんん?これってもしかして、ホモ・デウスの道なのでは?
おー!そうだったのーー??!!
ホモ・デウス、人は神性を目指している。それをはじめに読んだ時に、「何て尊大で傲慢なんだ…」と思った。だが、今の私の考え方の行き着く先は、そう…なんだ…。
「課題図書を読むときも書くときも、この経頭蓋刺激ヘルメットをかぶっていたら、もっといいのが書けますよ」などと囁かれたら、やってみたいとか、欲しい欲しいとか、私は平気で思うだろう。もっと強くしっかりと生きていくため、もっと脳内の情報がつながっていく瞬間を体験するため、もっとたくさんのことに気付くためだ。そんなことを、とても強く思ってきた。それは、すべての知につながりたいとか、あらゆることを知る全知全能の神になりたいとか、そんな大それたことではなかったはずなのだが、今が行き着く先がそこなのでは?と読み取り、愕然とした。
自由主義にしても、人間至上主義にしても、データ教にしても、自分の考え方が、それらにかなり染まっていたことに愕然とする。そして、それらが経た道を読み、それらが将来どんなことになるかを呈示され、再び愕然とする。そんな将来の可能性まで深く考えていなかった。あまりに莫大すぎて朦朧とする。自分の思考の至らなさにぐらぐらする。ただのデータに成り下がってしまったほうが、何も考えなくてすんで、居心地がよいのではと、一瞬心が揺らぐ。
この本を読んでいて、すごくおもしろいのに、何度も何度も眠くなった。これからも人として生きる責任の重さに耐えきれなくなったからかもしれない。そのために必要な覚悟ができていなかったからかもしれない。読んで眠って、読んで眠った。最終的には、大学院生の子供と交代でほぼ全部音読して、強制インストールした。子供が眠くなった時には私も眠くなり、私が眠くなった時には、子供があんまり聞いていない時だった。
人と居ると、時折そういうことが起こる。論理的思考が得意な人と一緒にいると、私は普段より論理的に物事を考えることができる。運動が得意な人と一緒にいると、普段よりもうまく身体を動かすことができる。何故かそんなことがある。コンピューターと仕事をしている時には、得られない感覚だ。コンピューターや情報ネットワークは、私の仕事を楽にし、知らない情報を教えてくれ、たくさんの可能性を呈示してくれる。私の好みを分かって、私の今を楽に、心地よくしてくれる。だが、やがては、適切な課題やプログラムも与えてくれるようになるのだろう。だが、人と居ると、嫌なこともつらいこともあるが、自分とは異なる感じ方や考え方、行動に触れて、触発される。我慢の限界を更に超えることがあっても乗り越えようという力が湧くことも、これまでの考え方を覆すようなことすら起こる。
コンピューターは高い知能を持ち、そんな経験すら与えてくれる日が来るのかもしれない。だが、人の判断力の実験や、右脳と左脳で質問への答えが異なる例があったことを考えれば、人と人とが共に居て起こることのほうが、不確実性が高く、驚くようなことが起こる可能性が高いのではないか。そういう出会いを繰り返していくうちに、意識が高まり成熟し、両脳はどんどん協調し、右脳の意識も左脳の意識も一致し、より全能に近づき、AIに優越する可能性もあるのではないか。この考えはただの妄想だが、意識を持ち、覚悟を持ち、全てをコンピューターに任せず例えば自分で記憶もしたりして、妄想を見直していきたい。
歴史学すごい。ありがとうございました。

投稿者 jawakuma 日時 2018年12月31日


ホモ・デウス ―テクノロジーとサピエンスの未来― を読んで

生物はただのアルゴリズムであり、コンピューターがあなたのすべてを把握する。
生物工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。

いきなりすごいこと言いますね。しかも著者はこの書の前半は独自性もない、あくまでも一般的な未来予測だと言っているのです。進化するテクノロジーやデータサイエンスがどうわれわれの生活に関わってくるかの本は多く読んできましたが、サピエンス全史とホモ・ゼウス上巻からつながるように、それが宗教と経済、そして人間の進化に対してどのように影響していくかまで踏み込んだ点が本書の評価されているところだと思いました。その未来予測の内容も過去に起こった、宗教改革や各国の革命、産業革命などになぞらえて複数の具体例をあげながら解説されるため、説得力が増しています。途中でシニカルなコメントが入る点も含めて、しょ~おん先生のセミナーのようでした(笑)。
この本を読み議論になるポイントとしては、 生物はアルゴリズムである。 ということをすんなりと受け取れるかどうかですよね。ここに私は非常に違和感を抱いていたのですが、本人が自由意志で無数の選択肢から選んだと思っていてもそれは環境とDNAからなるプログラムによってえらばされている、という話や、右脳と左脳の連携を断ち切った人達に対する実験結果などを読んでいると、本当にその通りなのかもしれないと個の生物として自分のアイデンティティに自信が持てなくなってきました。私が今まで生きてきた自分史も実は物語る自分によって都合よく解釈されているのだろうと思えてきました。(脳は痛みと苦しみの経験を平均値としてとらえるというピーク・エンドの法則のところは、子供の教育等には有効に活用できそうだとおもいました。)
87%の確率のところも興味をそそられました。アンジェリーナ・ジョリーの乳房切除の選択から始まる節でしたが、ネットにつながれた人々の全データが記録されていく未来ではGoogleやFacebookが結婚相手の回答を導くのはとても理に適っていますよね。その際は道路ナビゲーションの渋滞回避の予測のように、その国や全世界の人口推移や経済状況と照らし合わせて、その個人に対する最適解だけでなく、全人類から見て最も相応しいパートナーを紹介されるなんてことも出てきそうですね。例えば出生率の下がる日本では政府からの要請がGAFAに発信され、結婚適齢期にかかる人達により人口が多くなるようなマッチングを行うなんてこともできてしまうわけですね。より健康で知識レベルの高い相手を求める場合は、高スペックの相手の情報を富裕層がお金を積んで買うなんてことも普通に行われるとなるのです。AIに自分のルックスの好みを言い当てられたりすると、天邪鬼の私はあえて別の方を選びたくなったりもしますが、命にかかわるような重大な決断では、巫女から君主に格上げされたAIの指示に従わざるを得ないと思います。何しろ いいね! の反応の結果だけでも家族やパートナー、はたまた自分自身よりも自分の性格や好み傾向をFacebookが把握しているらしいですから。

そんな未来でどのように生きていくのか、非常に考えさせられました。
今月も良書をご紹介いただきありがとうございます。

投稿者 vastos2000 日時 2018年12月31日


ホモ・デウス

各章、各節、部分を切り取れば、「そうそう」、「確かにそうだ」と理解・納得することができるが、全体として何をどう受け止めれば良いかがいまいち消化できていない。

なので、本書の中に書かれていることで最もひっかかった「自由意志」の問題について特に考えた。

私はいまだ衆生であるので、意識の座に何も置かないことはできないし、自分の欲望が何であるかをコントロールすることはできない。幸福を感じて生きていきたいし、そのために健康でありたいしある程度の金銭的余裕も欲しい。

私は普段、「心理学はサイエンスである。」などと言っているが、本書の言い方を借りれば、生命はアルゴリズムで動いているので人間に関して心理学が成立するということになる。

地球に意志があるかはわからないが、ホモサピエンスは地球で生まれた。そのホモサピエンスが母なる地球を破壊している。そしてホモサピエンスはコンピューターやAIを生み出したが、そのAIがホモサピエンスを破壊するかもしれない。そう考えると、ヒト個々人はコンピュータープログラムのようなもの(アルゴリズム)であるというとらえ方も受け入れられる。
そう考えると、自分が自由意志だと考えていたものは実はアルゴリズムにしたがったものにすぎないのか。

仮にそうだったとしても、見かけ上は自分で選択することができるので、その中で寄り寄り選択をするためにん、教養が求められているのではないか。前の課題図書の内容と被るが、計算や物事の記憶(記録)は、コンピューターの得意とするところなので、われわれ人間はほかのところで価値を生まないと存在意義が薄れる。良い悪いの価値判断は今のところヒトでなければできない。しかし、注意せねばならないのは、ヒトは今までの自分の経験により善悪の色を付けてしまう点だ。時には善悪の判断を横において、とりあえずその事象を観察することも必要だ。(これは原始仏教からの学び)

私たちの寿命は長くなり、情報処理などの科学技術の進歩はスピードアップした。

ホモサピエンスを取り巻く環境、いわば外側はどんどんその進化のスピードを速めているが、内側はイエスやブッダの生きた時代から変わっていないのでないか?

生きている間に、欲望発生をコントロールできるようになっても、それを受け入れられるだろうか?そのような時代がくるということを覚悟しておけばよいのだろうか?

私たちは自分の欲望そのものをコントロールすることは現時点でできないが、今後できるようになる可能性がある。そうなった時は「何を欲することを欲するか」が問題となり、これはおそらくコンピューターテクノロジーでは答えを出せない。そこで求められるのが倫理や信仰、美意識といったものではないだろうか。

ここ1~2年ほどの課題図書、『ぼくはお金を使わず生きることにした』『LIFE SHIFT』『講義ライブ だから仏教は面白い!』『幸福の習慣』『ありがとうもごめんなさいも~』『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』などを読んできたうえで今回の課題図書に臨んだので、より理解が深まったと感じる。さらには少し量子力学も勉強したことで、「自由ではなくランダムである」ことの理解が深まった。

人類全体ではなく個人の立場から見ると、この世界は「どう解釈するか」によって成り立っていて、様々な情報や刺激を受け取って、それに左脳が理屈をつけて生きているのであると理解した。となると、解釈の仕方で幸福にも不幸にもなるという考えが成り立つのでないか。少なくともこの点は「自由」ではないか?
仮に自由でないとしても、幸福を感じることは技術的にできるはずであるので、しばらくはこのことを頭の片隅に置いて生き続けたい。