第28回目(2013年8月)の課題本
8月の課題図書は、
十七歳の硫黄島
です。
敗戦記念日という事で、今次大戦に関する本を選ぼうと思ったんですよ。
で、いくつか読んでみたんですが、どうもピンと来なかったのでずいぶん昔に
読んで、衝撃のあまり倒れそうになった
十七歳の硫黄島
を課題図書にします。
17歳といえば高校生ですよ。
そんな歳で沖縄戦に次ぐ激戦地で戦った少年が見たモノ、体験したモノとはな
んだったのか?
著者は戦争が終わり、帰還してもお腹いっぱいご飯を食べる事が出来なくなっ
ていたと言います。
硫黄島の塹壕で10日あまりも飲まず食わずで戦い続け、最後は栄養失調で意識
が混濁したところをたまたま米兵に発見され救助されたという苛烈な体験が、
食欲という生理現象までもねじ曲げてしまったのかも知れません。
この島は未だに自衛隊により管理され、一般人の立ち入りが禁止されています。
それは一般人には見せられない、素の戦争の姿がまだ島にハッキリと残ってい
るからでしょう。
日米合わせて26000人の兵士が死に、アメリカではノルマンディー上陸時を上回
る戦死傷者が出た激戦地の姿が、今も手つかずで残っていると聞きます。
日本軍の兵力のうちたったの4%しか帰還できなかった戦いを生き残った少年兵
が見たモノの中に戦争の本質があるのです。
あれから68年目の夏がもうそろそろですが、この一月くらいは祖国を守るため
に立ち上がり、命を賭した人達に思いを馳せるべきじゃないかと思います。
【しょ~おんコメント】
8月優秀賞
最近マンネリのメンバーになってきたんですけど、それでも毎月カキコして下さる方
がいらっしゃるのはありがたいモノです。
今月も真剣に読み比べをしたんですが、そうするといつものメンバーが残ってしまう
んですよねぇ。
これは全員のカキコを読めばみなさんも納得されると思います。
という事で今月は、『wapooh』さんに差し上げる事にしました。
【頂いたコメント】
投稿者 omieakanat 日時 2013年8月15日
十七歳の硫黄島 秋草鶴次 今年で敗戦から68年が経ちますが、私自身この本を読むまでは、硫黄島での戦いがこれほど壮絶、且つ生き地獄だったなんて知りませんでした。 これは、これまで「硫黄島が太平洋戦争の中でも元も凄惨な戦場だった」、「名将で栗林忠道中将という人が凄かった」という表面上の知識はあっても、そこでの本当の現場状況を伝え知る資料に今まで出会ったことが無かった為だと思います。 読みながら、食料も武器も飛行機も補給が無い中で闘っても、物資の量で完全に上回る米軍に太刀打ちできないじゃないか!こんな無意味な戦い、誰が始めたんだ!?と怒りが込み上げてきました。 計画性も、成功する見通しも無い中で、もう弾も腕も無いのに、軍刀を振り上げて「撃てーッ」と言っても弾が出ない様は、少し不憫に感じてしまいました。これこそ無知、無計画が生む産物である、根性論の行きつく所だろうと思いました。戦後も日本は学校の部活などにおいて、そうした名残は多くあったと思います。(今でも体罰など残ってますし) 但し戦場ではそれは死ねということなんですね。手足が無くても、「出来るやつがやれ」という状況。そして、そんな戦場でどれだけ戦果を挙げても、労いも表彰も無いんですね。一体彼らは何を自分を奮い立たせる動力源にしていたんでしょう。まさに人間耐久試験、分かりやす過ぎる人間破壊試験場。こんな世界が時が違うとはいえたった68年前に存在していたんだと思うとにわかには信じることができません。 現在の、”のほほん”とした世代ではまず想像 が及びませんが、この本のように戦争の本質を嫌という程(正直途中で吐きそうになりました)精密に描写した資料を通して間違いなく疑似体験が出来ると思います。こういう痛みこそ、私たちが現代をのほほんと生きる際には必ず土台に持っておかなければならないものなんですね。 この時戦って亡くなった人たちの上で自分が生きているんだという事をこの本を読んでしっかりと認識することが出来ました。じゃないとこの平和をもたらしてくれた人達があまりに不公平だし、失礼ですよね。しょ~おんさん、今回も良書のご紹介を本当にありがとうございました。
投稿者 whockey51 日時 2013年8月15日
8月15日。この本を読んだからではないが、私は靖国神社へ参拝してきた。68年の月日が、長いものなのか短いものなのかはわからない。ただ、戦後の焼け野原からこうして豊かさを享受できるまでになった事実だけは忘れてはならない。
靖国神社にはそれぞれの思惑が渦巻いているように感じられた。事実は命をかけた戦った英霊が眠っているだけなのに、それすらも何かの道具にしかなっていない気がする。
本書に戻って、私は17歳の時、毎日部活に明け暮れていた。ただ自分のやりたいことを追求することが出来ていた。それが可能なのは戦後だからだろう。時代が違えば、自分も戦地へと駆り出されていただろう。それを思うと、いまの豊かささえ幸せに感じることが少なくなっていることに違和感を覚えてしまう。
17歳で壮絶な経験をしていたらと考えると、精神が崩壊してしまうのではと考える。水もない、食料もない、最悪の環境。そして目の前には常に死の影。この環境に耐えうる人物は今の日本に存在しているのだろうか。そんなに柔じゃないと自負しているが、到底及ばない気がする。
つまり、いま私たちが経験していることなんて、この本の著者秋草さんから見ると、すべてが生易しいことでしかないように思える。68年前、命をかけた戦ってくださったからこそ、繰り返しになるが豊かに生きている。
だとするなら、命をかけて。とまではいかないかもしれないが、それだけの覚悟で仕事や人生を生き抜いていけば、大抵のことは硫黄島には及ばないといえる。
英霊に感謝して、今日を大事に生きていきたい。
投稿者 Yozart 日時 2013年8月24日
「この世にいらない人間なんて一人もいない。誰だって生きる権利がある」
「俺の心は別の世界を旅している」
秋草さんの文から生きる勇気をもらいました。
私は数年前から病気で左腕を上げることが出来ません。
しかし「左腕が上げられなくたって生きる権利はあるんだ」
「病気になったおかげで、私の心は別の世界を旅している。知ることが出来るんだ」
大げさかもしれませんが、改めてそう思うことが出来ました。
秋草さんは生きることに挑戦し続けました。蛆を食べ、虱を食べ、そして還ってきました。
17歳の若さでこのような経験をされたことに、私は思わず頭が下がりました。
自分のことを振り返って見て、情けなくなるやら恥ずかしいやら複雑な心境でした。
祖母からいつも教えられていたことですが、同じように祖母の兄も太平洋戦争に召集されました。
兄は還ってくることが出来なかったそうです。兄を早くに亡くしたその代わりに、祖母は農業を多く
したものだと言っていました。いつも「今は本当に良い時代になったよ」と話してくれます。
今までは何となく「ああそうだよなぁ」なんて、思っていたところもありました。
しかし、この本を読んだおかげで、以前より深く祖母が言いたいことが分かった気がします。
私は昨年、子どもを授かりました。子どもは重度の心疾患を持って生まれてきました。
私自身が病気で悩んでいることと同じように、子どもも悩むことがあるかもしれません。
その時こそ、どうやって私がそれを乗り越えることが出来たのかを伝えたいと思います。
もちろん、そこで秋吉さんのことも伝えたいと思います。秋吉さんが生きて還ってこられた理由を
子どもに気付いてもらえるように、私も忘れることなく生きていきたいです。
改めて、今の日本に生きていられることに感謝して終わりたいと思います。
重ねてありがとうございます。
投稿者 fingerxfrog 日時 2013年8月24日
とても凄まじい内容だ。筆者は「生きる」ことを覚悟と根性を持って選択した人物なのであると感じた。
作品の前半では刻々と苦境に立たされてゆく日本軍の戦況を、冷徹とも感じられる緻密さで淡々と綴られてゆく。そこには想像しただけでは筆舌には尽くしがたい、数多の兵士の最期を生々しく語っている。後半では投降せず抵抗せず、かつ自害をも選ばず生きることを選択した、筆者の彷徨いが吐露されている。活字と映像のみでしか戦争を知らない自分にとっては、本書を通して描かれている記録はむしろ不気味な程のリアルであった。
果たして「死んでたまるか!」という気概だけで戦死を避けられるかどうかは分からない。ただ本書の中で筆者は言う、「俺は、死んでくれといわれるか、殺してやるといわれるまで、自分で死のうなどとは考えない。生ある限り、生かされてみるつもりだ。」と。
ではなぜ、投降ではなかったのか。それは他人の救いをもってでなく、自らの力のみで生き抜いて死して行くことを選択したからである。なんと清い事か。戦争とは殉教精神ではない。
では、翻って自分が同じ地下壕に負傷した状態でいるとする。飢えと死臭と敗戦が目に見えている状態に、精神が押し潰されそうになった時、何を選択するであろう、、、。
仕事とはコミュニケーションである。日々の瑣末な外部刺激によって感情をコントロールされてしまう自分は、ある意味なんて恵まれた環境にいるのだろうと痛感した。比較対象ではないのかもしれないが、筆者の覚悟と根性から反省し学ぶことが大いにある。
覚悟・・・危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること
根性・・・物事をあくまでやりとおす、たくましい精神
本書に描かれている地下壕での惨状は、あまりにも惨い状態で、目の当たりにすれば間違いなく嘔吐を催し、正常な思考感覚ではいられない。自分がどう受け止めどう行動するかの、根本的資質を問われているようだ。それは我々日々の言動でも然りだ。モノも情報もあり過ぎるが故に、ココロの耐性が弱くなっていることが事実だ。ならば己に必要とされる事は何か、それは耐性が弱くなる状況に陥った時の思考パターンに”秋”のコトバを思い出せばいい。人生に於ける全ての出来事は、感情を伴った自分が選択をした事の結果なのである。
今回、先祖供養にあたり、母親から亡き祖父と祖父兄の戦時の話しを初めて聞くことができた(母は祖父にさんざん聞かされたと私には一切語っていなかった)。祖父は中国・西湖からの帰還兵であったが、瀕死の同胞に請われて、銃口を向けたそうだ。そして祖父兄は18歳にして志願兵となる。20歳以上が条件だったそうだが名誉と誇りを求めて陸軍に入隊、不運にもフィリピンへ向かう途中、船舶攻撃を受け海に眠ってしまった。
我々はこの日本が敗戦した歴史を一生涯伝えていかなければならない。何不自由なく暮らせる今があるのは、たった70年近く前の若者達の犠牲の上に成り立っているのだ。たむろしてネガティブな言葉しか出てこない若者、電車の中スマートフォンで必死にゲームばかりする人にこそ、本書を読んで欲しい。そして先祖供養と本書を導いてくれた、しょーおん先生に感謝のことばを述べたいと思う。
投稿者 HAL2269 日時 2013年8月28日
課題図書 8月
今回、初めての投稿になります。
どうぞ宜しくお願いします。
この本を読んで感じたことは、極限状態に置かれた時の人間心理描写が、どこかDr.フランクル著の「闇と霧」を彷彿させるものがありました。
どちらも、客観的に見て人生が完全に詰んだ状態に見えますが、希望を持って、絶望を生き抜いた点で共通しているかと思います。
そして、立場が違うだけで良心を持つ人間が人間を傷つけ、殺し、殺し合う、という行為が簡単に成り立ってしまうことの恐ろしさを、再認識しました。
私は硫黄島のような激しい戦場において、生きるか死ぬかを決定的に左右する一要因として「運」だと思います。
勿論、最後まで生を諦めなかったということも要因に挙げられると思いますが、やはり大前提として運が良かったことが土台にあったのではないかと思います。
自分がどれだけ運が良い人間であろうが、果たして秋草氏のようにあの硫黄島を生き延びることが出来たのだろうか…。
そう思うだけで、秋草氏やDr.フランクルのように、強烈な運の働きによって入手出来た、更なる「生」への切符を私のような今を生きる人々が既に手にしているという事実が、どれだけ幸運であり、喜びに満ちたことなのかを、身体に染み渡っていくように思い知りました。
自分は後世に何を残せるか。
そのことを深く考えさせる良い機会になりました。
ありがとうございました。
投稿者 BruceLee 日時 2013年8月30日
『あの戦争は何だったのか?』
違和感を覚えた。本書の「はじめに」に登場する短い一文にだ。
「だが、その記録は両親にはどうしても見せたくなかった。知ったらどれほど悲しむか、
それを思えば、隠しておかなくてはならないものだった」
確かに壮絶で凄惨な経験をされたとは思う。しかし、何にせよ著者は生き抜いて祖国に
帰って来た。指を失いはしたが命は落とさず両親の元へ帰って来た。それこそ最大の
親孝行であり、両親に限らず戦場を知らない人々に、戦場を経験した人間として何かを
伝えたくなるのが自然なのでは?と思ったのだ。しかし、戦争を実際経験した人は多くを
語ろうとしない、とはよく耳にする話である。すると別の疑問も出てくる。両親に見せたく
なかった記録を何故後年、大衆に公表しようと思ったのか?その間には何があるのか?
それが自分には謎だった。
本書の後、たまたま「永遠のゼロ」を再読した。第九章「カミカゼアタック」に登場する
武田の言葉に感じるものがあった。
「(特攻の話は)誰に話しても理解して貰えないと思っていたし、言葉足らずで無用な
誤解をされるのは耐えられなかったからだ」
「私の苦しみや悲しみを知ってもらいたいと思う反面、お前だけには知って貰いたくない
という思いもあった」
もしかしたら、武田の言葉のように、この著者にも自分でも整理も納得も出来無い矛盾と
葛藤があったのではないか?だとすれば、本書を読んで大凡を理解したつもりになっている
浅はかなメンタリティの自分は大きな勘違いをしているだけではないか?やはり当事者と
そうでない人間とには絶対的な乖離があるのではないか?こんな事を言っては元も子もない
のだが、どんなに明瞭な言葉で明確に説明されようと、この人たちを心底理解するなど
不可能なのではないか?
そうかもしれない。しかし、そんな自分にも出来る事があるとすれば、そういう心底理解
出来無い事も確実に存在しているいう事実を受け入れる事。そして貧弱な想像力しかない
自分でも思いを馳せてみる事。勝手な想像ではあるが、戦後、戦場を生き抜いた人々ほど、
あの戦争の意味と解釈について悩み苦しみ続けたのではないだろうか?端的に言えば、
「あの戦争は何だったのか?」
という疑問。何故かと言えば、本書にもあるが硫黄島の時点で圧倒的物量の米国と精神論の
日本とで、既に勝てる戦争でない事に彼ら自身気付いていたから。しかし、当時お国のために
身を捧げるのが英雄視されていた彼らにはそれも「アリ」だったかも知れない。
だが、生き抜いたが故に、振り返る時間を持ったが故に対峙せざるを得なくなった課題。
それは「戦後」にあるのではなかろうか。2つの問いかけがあったと推測する。
1)何故、生き残ったのか?
自分が生き残ったののは何故か?何故、戦友の影は死んでしまったのか?終戦直後、
著者はその解のない問いに苦しめられたのではないか?お国のために身を捧げることが
英雄視されていた時代だったが、結果的に自分は生き残ってしまい、先に死んだ戦友たちに
申し訳ない、という気持ちがあったのかもしれない。とても「生き残って良かったぁ」では
ない複雑な心境であったと想像する。ただただ自分の命は死んでいった戦友たちの犠牲の上に
ある、という思いで一杯だったのではないか。だったら、無理に何かを発するのではなく、
ただひたすら沈黙して亡くなった戦友に敬意を表そう、という思いもあったかもれない。
2)これが自分たちが守りたかった日本なのか?
必死に戦い、命を落として消えた多くの戦友。それは何のためだったかと言えば日本のため
だった。しかし、戦後日本は彼らをどう扱ったか?鬼畜米英が一転してアメリカ万歳、
民主主義万歳の世の中。平和への流れは勿論大切だが、戦争全てを悪とし、戦時中の英雄は
戦争犯罪人、戦犯のレッテルを貼られる。著者のような戦争体験者はどう感じただろう?
「オイオイ、ちょっと待て!」と叫びたかったのではないか?戦場で命を落とした戦友が、
あの大事な友だった影が戦犯?あの時代、皆が俺たちにそれを強いたではないか。それが
戦後一変して「解釈」が変わった?俺たちがやった事は何も変わってないのに。
その時々の解釈で、そんな扱いをされるのか?ふざけるなっ!という思いに駆られたのでは
なかろうか?自分ならそう思う。その時、著者は「今、書いて残さねば」と強く思ったのかも
知れない。平和はいい。けれどあの戦争を風化させてはいけない、戦争で亡くなった人たちの
犠牲の上に今の平和があることは絶対に忘れてはいけない、それを伝えるのが自らのミッション
であるが如く、著者を掻き立てたのではなかろうか。
と、考えてみたのだが、やはりこれも私の勝手な、頭の中の想像でしかない。著者或いは
戦場で亡くなった方々の本当の苦しみなど理解出来はしないだろう。しかしそれでも思う
のだ。こういう先人がいたからこそ今の日本があり、今の自分がいるのだと。この人たちが
いなかったら、硫黄島はより短期間に奪われていたのでは?そしてより早期に、広範囲に
本土爆撃が進んでいたのでは?その際、もしも自分の祖父や祖母が亡くなっていたら?
ハイ、その時点で自分という人間は生まれてないし、ここに存在していないのだ!
「歴史にifは無い」と言うけれど、こういう思いの馳せ方だってある。そうする事で、
今ここに息をしながら生きていられる事を感じながら生き抜いた人、或いは無念にも亡く
なった人々と「繋がり」を持てる気もするのだ。これもまた日本人として大切なひと時であり、
自らを見つめ、見直し、考えるきっかけを与えてくれる機会なのではなかろうか。
投稿者 akiko3 日時 2013年8月30日
「十七歳の硫黄島」を読んで
「俺は自決はしない。野垂れ死ぬまで、生きることに挑戦するんだ」
何度も死と隣り合わせで、負傷し、飲まず食わずで生きているのが不思議な状況下にあって、何度も生きることに挑戦するよう自分を奮い立たせ、“ただできることをするしか、生かされる道は転がっていない”と努力する。思わず、15歳の秋草少年の写真を見直した。
数日前、しょうおんさんがメルマガで、“生きる”ということについて考えていると書かれていた。生きていくってどういうことなのか、抽象的に具体的にどういうことなのか…。
はっきりとした答えがないまま、自分の中で宙ぶらりんになっていたこの問いかけに、奇しくも、秋草少年が手記の中で力強く答えてくれた。“生きることに挑戦するんだ”それも、あんな況下にいる、あんな重症を負っている、まだ17歳なのに…。
20代後半に、初めてネパール・インドに行き、物乞いやストリートチルドレンを目の当たりにし、カルチャーショックを受けた。手足がひん曲がっていたり、片足なかったりする物乞いの人達は、物乞いになれば、食べ物にありつけるかもしれないから、わざと親が鉈で手足を切り落とすんだという話を聞いた。そんなことをしてでも生かそうとする親心、そんな状態でも、日本人旅行者だとわかると、物乞いをしようと必死に近寄って来る、その生き生きとした表情にも圧倒された。本当にただ、ただ“生きる”力強さに圧倒された。また、貧しくとも分け与え、片寄せあって生きている人達からも多くを学んだ。帰国した時には、日本での生活がなんて幸せなんだろうと素直に思え、それまで何かしら抱いていた不平不満も消えていた。そして、明日からまた頑張ろう、いい仕事したいなとワクワクしていた。
数年後、人生の貧乏くじをひいてしまったかと思うような状況下におかれた時、眉毛も真っ白で、でも目が少年のように明るく、いつも穏やかな老人から色紙にワープロ打ちで纏めたラバウルやカダルカナルでの戦争体験記をお借りした。あまり過酷な戦闘シーンは書かれず、夜空に見た月や星の輝きに故郷を重ねたことや、休憩時間に仲間と相撲をとって戯れたエピソードも書かれていた。しかし、その手記の大半は、その方が負傷し、仲間とも死に別れ、怪我した足を引きずって、原住民や米兵から身を隠しながら、たった一人で、数ヶ月、日本兵の屍の倒れている方向を頼りに、蛙や蛇や昆虫で飢えをしのぎながらジャングルをさまよい、日本兵の陣地に辿りつき、帰国できるまでのことが書かれていた。今でも冬になると撃たれた足の傷が痛むと言われていた。自分は地雷を踏むような日々だったが、帰宅の途に読む体験記に助けられた。
あの体験記には書かれていなかったが、あの方も戦いに行っていたのだ。穏やかなおじいちゃんという風貌だが、鉄砲構えて戦っていたんだ。少年時代を遊んで過ごさず、生死をかけて、国や家族の為に、生きて帰る為に戦っていたのだ。
実家の居間には、祖母の写真と並んで軍服をきた青年の白黒写真がある。生れた時からいなかった祖父の存在感は薄かったが、祖父もまた守る為に戦い、母親や身重の妻や6歳の子を残して死を受け入れざるを得なかったのだ。
以前、認知症の初期の頃、母に祖父の写真を見せて「あれだれ?」と聞いた時、母が懐かしそうに話してくれた。「出征するという朝、お母ちゃんと面会に行くと、“お前らが来るって言ってたから”とお父ちゃんが、朝のあんぱんをくれたんよ」嬉しそうな子供の顔だった。
夏休みなどで田舎に帰ると、土手の防空壕の跡を指して、「お母さんも子供の頃、ここに逃げたんよ」と聞いたことはあったが、祖父の事は、3度目に戦死したとしか聞いたことはなかった。というより、最初からいなかった祖父がどんな人だったとか、関心を抱かなかった。親に対してでさえ、どんな子供だったのか、どんなことを考えて生きてきたのかとか思いをはせてこなかった。そうか、母も戦争で悲しみを背負った子だったのだ。祖父もまた、ひもじい時でも、我が子の為にパンを食べずにとっておく若い父親だったのだ。こんなに身近な人達も、貧しさに我慢をしたり、戦争の悲しみや苦しみを肌で感じたり、それでも頑張ってそれらを乗り越え、今の自分の命に繋いでくれた。平和の中で、幸せに生きられる人生をくれた。
“あの戦いはなんだったのか”戦後もずっと問い続け、戦争の痛みとともに生き続けてきた秋草氏。白髪の老人も死んだ祖父も、あの戦時下にあって、“命を精一杯活かして生ききった”。
今の平和に、豊かさに感謝、生きていることに、生かされていることに感謝。そんな自分の命を大切に活かし、目の前の事に一生懸命取り組む。どんな状況であっても、自分に勝つのだ。
“ただできることをするしかない。”
どんな状況下におかれても、自分ができることを精一杯するのみだ。
人生は、自分との戦いなのだ。
人生に“もし…”はないけれど、戦時中のあの時代を生きた人達が、人と戦わず、自分と戦いながら、もっと生きる喜びや豊かさを味わえたらよかったのにと、幼さが残る写真を見ていると写真がぼやけた。
合掌
投稿者 grantblue 日時 2013年8月31日
「十七歳の硫黄島」を読んで
8/15 敗戦記念日の前後にこの本を読みました。
言葉では言い表せられない、凄まじい描写の連続であり、このようなことがあったのかと、想像することすらできない程でした。
太平洋戦争については、過去に親、親類縁者から聞かされたこと、本や新聞で読んだこと、学生時代の歴史授業で学んだこと、TV番組等で目にしたこと等から、悲惨な状況であったという知識は持っているつもりでしたが、本書の内容はそのようなものをはるかに凌ぐ内容でした。
日本の国のために、天皇陛下のため、との教育を受け、勝利を信じて硫黄島に赴いたものの、そこで遭遇したのは生死を分けるギリギリの日々でした。17歳という年齢でありながら、死を半ば覚悟しながら日々を過ごすという突きつけられた運命のなか、多くの仲間を失い、自らも重傷を負い、生きていることが不思議とすら思われるなか、秋草さんはどのような気持ちだったのか、読んでいてとても苦しい思いでした。
満足に食事もなく、乾燥米を2~3粒口に入れ、最後は木炭や、蛆、虱までも食べて命をつなぐ、極限状態においても、人が生きようとするその想いの強さに頭が下がる思いでした。
どんなに克明に記述された内容であっても、その時の体験、経験されたことを100%理解することなどできないですが、それでも、戦争経験のない我々世代にとっては、その一端でも知ることが大事なのだと思います。
8/13-16にかけての、しょうおんさんが発信されたのメルマガの戦争に関する内容で、「本当に戦争をやりたくないと思っているのなら、なおさら戦争について勉強しなきゃいけませんし、戦争から学ばなきゃダメなんです。」という言葉にもあるように、もっと積極的に戦争というものに向き合うことが必要であることを教えて頂きました。
「戦後60年日本が戦争をしなかったことが、硫黄島で多くの兵士が生命を落とされたことの意味がある」
と秋草さんが最後に記載されている意味を噛みしめ、本書を通じ今まで感情的に、'戦争は嫌い、怖い'
と目を背けてきた自分の態度を改めていこうと思った次第です。
歴史から何を学ぶのか、何を学ばねばならないのか、を考えた時、手始めに、良書リストにある戦争に関連した本が手つかずということもあり、その読破を進めようと考え、今回これに併せて「責任 ラバウルの将軍今村均」も読んでみました。自らの極刑を望み、多くの戦犯部下の責任を全て自らのものとして行動した司令官がいたことはこのような本を読まない限り分からないでしょう。
当時の軍にあっては、この人の考えを表面に出すことは不可能であったのでしょうが、こういう考えの人が軍の上層部の多くを占めていたならば、そして”生きて虜囚の辱めを受けず”のような考えを持つ人間が軍の上層部にいなかったら、先の大戦の結果は違っていたかもしれない、或いは今回の硫黄島のような事態まで至らなかったのではと考えてしまいました。
「戦争を起こさないために歴史を勉強する。」そのためにも、こういった良書を1人でも多くの人が目を通し頂けたらと思いました。ありがとうございました。
投稿者 tractoronly 日時 2013年8月31日
十七歳の硫黄島を読んで
よく戦争に関する書物では日本がアジアや有色人種を白人の植民地支配から救ったのだという美談の部分にフォーカスした論調を目にすることが多いですが、それはマクロレベルの話で、今回このミクロレベルでとらえられた本のご紹介と考える機会を与えていただき感謝いたします。
私の家では祖父と祖父の兄が出兵し、祖父の兄は戦死して祖父のみが帰ってきました。
また、隣の家では3人もの若い命が失われたと聞いています。
毎年、盆と正月に我が家で親戚が集まるときには戦争の話になりますが、祖父の兄弟は口を揃えて「戦場で何があったのか、何をしてきたのかは一言も喋ったことがない」と言い、私自身も違和感を感じていましたが、今回、秋草さんの体験を知ることによって、祖父が口を閉ざしている意味やその理由が垣間みれました。
やはり戦争はするべきではないですし、そのためには過去に何が起きたのか、その際にどう振る舞ったのかを学び、未来にわたって戦争を回避する努力を怠らないようにしなければいけないと改めて思いました。
また、秋草さんが「あの戦争からこちら六十年、この国は戦争を市内で済んだのだから、おめえの死は無意味じゃねぇ、と言ってやりたい」とおっしゃっていましたが、これほどまでに悲惨な体験や多くの犠牲の上に今の平和があるのは事実として認識し、ご先祖様に深く感謝をしなければいけないと思いました。
投稿者 morgensonne 日時 2013年8月31日
『十七歳の硫黄島』を読んで
今の時代では学生の年代の方々の多くが戦地に行って、日本という祖国のために命を賭けて戦ってきたと、教科書などを通じて、私たちは勉強してきました。
しかし、実際の戦地がどんな様子だったのか、どんな気持ちで戦地で戦っていたのかについて、細かいところはあまり表には出てきていないと思います。(自分の勉強不足もありますが)
秋草さんは、この本を通して、その激戦地の硫黄島で体験したことを、戦争を知らない私たちにもわかりやすく描写し、伝えようとしたのだと感じました。
想像を絶するような状況で、傷を負いながら、空気も満足に吸うことのできない中で、どうやって、生き残るという意思を貫くことができたのか。
それは、ただ単に祖国のためだけではないと思います。
もちろん家族のためでもあると思います。
人間としての本能かもしれないとも思いました。
「野たれ死ぬまで、生きることに挑戦するんだ」という言葉にもあるように秋草さんの生きることへの強い意志を感じました。
秋草さんは、これからの日本のためにもテレビの取材に応じ、この本を出版されたのではないかと私は思いました(もっと複雑な心境であるとも思いますが)。
そして、自分たちが今、幸せに生きることができているのは、当時の方々がこの戦争を乗り越えてきたからでもあるとも改めて感じました。
この本を読んだ後、NHKの「硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言」を見ました。戦争を戦った方々にとっては、まだ戦争は終わっていないと、よく聞きますが、その時の記憶や感情などを一生背負っているからであると思います。
そのためにあまり語られることもないのかもしれません。
しかし、勇気を持って、それを語っていただいた事は、歴史としてまず受け止めていきたいと思いました。
最後の「おわりに」を読んでいる途中に、なぜか目に涙があふれてきました。
ありがとうございました。
投稿者 magurock 日時 2013年8月31日
『十七歳の硫黄島』を読んで
戦場では「死」がすぐ近くにある、ということを、改めて思い知らされた。
瀕死の兵に話しかけ、間もなくその兵がこと切れたあと合掌し「俺ももうすぐ後から行くから、遠くへ行かずに待ってろよ」との知り合いであろう兵の言葉に、あまりにも身近過ぎる「死」の存在を感じ慄然とした。
穏やかな語りかけだからこそ、余計胸にせまってくる、たくさんの「死」を見てきた故の覚悟。
戦争は本当に地獄だと思った。
死ぬほうも無念のうちに死んでゆき、生き残ったほうも、親にも話せないくらいつらい記憶と生き残った責任の重圧を抱え続けていく。
一生を通して「あの戦いは何だったのか。どうすれば死んだ者に報いることができるのか」と問い続けながら。
親を悲しませるから硫黄島での体験を綴った記録を見せたくなかった、と秋草氏は言う。
果たして親としたらどうだったのだろうか。
もし自分の子どもがこのような壮絶な体験をしたとして、そのことについて知るのは確かにつらいことだろう。
でも親なら、つらいことでも分かち合いたいと思うのではないだろうか。
そうすることで、本人の苦しみが軽くなることはないとしても、少しでも悲しみを一緒に背負いたいと思うのではないだろうか。
では、自分が秋草氏だったらどうだっただろうか。
こんなに極限の壮絶さに出会ったことがないから想像に限界があるだろうが、やはり話せない気がする。
親に話そうとしている状況を考えただけで恐ろしい。
きっと親は泣くだろう。
親の胸の痛みを思うと、自分も冷静さを取り繕えないだろう。
話したあと、きっと後悔するだろう…
親に話せないことを、なぜ本にするのか。
読み始めから湧き出た疑問だ。
第一に、死んでいった仲間の死を無駄にさせたくないことは大きいと思う。
それと、これは私の想像でしかないが、秋草氏は書くことによって「客観」を試みたのではないか、と思う。
客観で振り返るには、親の感情に引きずられてしまってはできない。
身内からすると、「秋草氏の」体験として心を痛めてしまう。
自分の身近ではない大勢の日本人に、「自分個人の壮絶な体験」ではなく、「戦争の壮絶さ」を伝えたかったのではないだろうか。
戦争を扱った作品が多く出回る8月には、平和な時代に生まれてきたことへの罪悪感を毎年感じてしまう。
でも、この罪悪感は払拭しきれないものかも知れないが、それ以上に感謝の気持ちを忘れないで生きようと思う。
戦争を体験しないでいられるありがたさを胸に、智の道を目指して。
投稿者 wapooh 日時 2013年8月31日
1308 『十七歳の硫黄島』を読んで
八月中、鞄に入れて持ち歩いた。なかなか読み進む気になれず、想像しても仕切れない壮絶な硫黄島での秋草さんの3ヶ月を思い続けた。
この夏の日本は最高気温が41℃に更新されて蒸し暑さは酷かったし、汗が出るのか体に当たって外気が結露したのかどっち?と思いながら満員電車に詰め込まれようとも、草津温泉の湯もみ湯の酸度と刺激と熱気がどんなに濃かったかを思い出そうとも、海辺の市で何千発の花火が一度に打上げられて浜辺と空が昼間以上に不気味に青白く照らされようとも、秋草さんの硫黄島の熱気、酸刺激、潮、人の汗、油、排泄物、死体の腐敗から生じる空気、喉の乾き、飢え、負傷、不衛生、作業の人モノとの関係からくる緊迫感、昼の明るさ夜の照明弾により島全体が容易に逃げ場も探せない程の下、情報を取りに外部を移動すること、何より、敵(後半は味方ですらも)の爆撃・攻撃による死の恐怖、危険がない、今の我が身の環境にあって慮れない。返ってこれだけの条件を並べていたらどれ程自分が今幸せで恵まれているか強く感じられてくる。
両祖父母は戦後も存命で両親が産まれた。父の仕事の関係で離れて暮らし、会うのは念に一度夏休み帰省時だけだったせいか、戦争の話は殆ど聞かずに終わってしまった。唯一母方の祖父が自分の掲載された新聞記事をいくつか見せて話をしようとしてくれたが、三秒もすると決まって手放しで泣き崩れてしまうから続きが聞けぬままだった。今年母に尋ねたら、祖父は赴任先でマラリアに罹りすぐに戻されたらしい。帰路の途中、負傷した友人や仲間を見捨てて来なければならず、その姿が思い出されて泣けてしまうのだと。祖父も戦争を背負い続けて生きていたのだ。そんな辛そうな祖父や戦争で傷ついた人々、体の一部を持ち上げる米兵・・・小学校でモノクロ写真を見て以来、恐怖と嫌悪と心が痛くて、歴史や戦争の記述・映画から逃げていた自分を今は申し訳なく思っている。
秋草少年だけではなく多くの人が、劣勢を承知で戦い続け命を守り、生きることを諦めずいたこと、止む無く死ぬ際は無駄に命を落とすまいと敵に被害をもたらし、仲間への攻撃を抑制し食い止めようと手段と覚悟を決めて向かっていったこと、その延長上に今の日本の世の中と命がある、それを知らずして言葉を発していた自分と世界の薄っぺらさ。最近なら『累犯障害者』の読後の数倍の波が立った。
今後は良書を初め戦争に関する記述にも目を向け、話を聴き、戦争中の命を無意味なものにせず、戦争が起こらないようにするにはどうすべきか意識し続けたい。
その先に、本書を読みながら問われている「恵まれたこの命、どう生きるのか」。。
地獄の生き方を強いられ生き延びた秋草さんが、健全な肉体のまま戻れたらなにをしただろう、否この世の日本人を見て何を思うだろう。秋草さんの命を思い返した。
①過酷な状況下でも自分の外の世界を意識し現状認識できるか?
秋草さんは常に誰かを思っている。友人の影、通信科の仲間、島で戦う同胞、離れた本当にいる家族、 祖母。自分と同じように懸命に戦う存在のために命を落とすわけに行かぬと、希望であり決意の素とし て大事に思っている。自分以外の者のためにも命があるという認識。夜と霧にも通じる心の客観性。
②状況判断力、情報把握・処理力、吸収力、危険予知力、創造力、身体感覚・意識の鍛錬
戦時中命がかかっているから当り前、では済まされない。
海軍通信学校での習得教科の内容をみても驚くが、硫黄島赴任後も半年にして十七の少年が、島の地 勢、群配備、構造、自・他国の兵器の知識、天候、もちろん通信科故暗号解読戦略把握をし、識別し、自ら判断もし任務を遂行している。死闘3ヶ月、刻々と変化する戦況にあって、学習し適応し工夫し任務をこなし仲間を助ける。
印象に残るのは秋草さんの機転の利かせ方。右手を負傷後有刺鉄線に右袖を絡めとられた際、鳥網にかかった知恵のある鳥を思い出し咄嗟に服を脱ぎ捨て脱出する、号の水攻め時、傷口からの感染を恐れて水際から身を引く、豚に与えた炭と塩の餌、錆付いた刀で開けた米兵の缶詰で口つなぎを教えて貰ったときの衝撃の仕方、秋草さんは日頃から日常をただやり過ごす生き方をしてこなかった人なのではないかと思うのだ。身体知覚感度をフルに繊細に使い、観察し発想し生きてこられたのではないか?
③『言葉は大切だ』
秋草さんは通信兵だからか、文章の表現が多様で、読むだけで光景が温・湿度、明暗度、軟硬度、刺激、臭気、感触、衝撃にいたる大小加減までイメージが浮かんでくる。他人に見えないものを具現化して説明できる能力。 (勿論聞き手側で完全な再現は不可だが)壕に響く振動で爆撃の規模、戦車なら大きさ、方向性を推量し、業務上では指の配置と敗戦の他ぶりの按配で安定した受信を確保したりする。モノ、環境だけではなく仲間・上層部・敵への心や情報と現状把握でも繊細に感受し表現されている。燐光に取り巻かれ、意識を失い文殊菩薩に会いに行く、怪しいくだりでさえも。
人は経験を規定するのも状況をスケッチし記憶するのも言葉が必要だと教わった。その人の言葉の裏づけにある世界(=経験)が重要であることも。感受したものを言葉で結晶化する。発せられた言葉は、今度受け取られる側の人間がいる。今は読者である私。まだまだ乏しい。言葉と世界を充実させるためには、①や②で感じたことを現実の生活で味わいつくすことだ。自分の体を使いきれるように意識することだと思う。戦時中多くの方が制限を受けたが、民主主義の今、基本的に個人の思想・表現は自由なのだ。
④運命を引き受ける
生きる選択=運命?真剣に命を使うことは問いかけられた人生にyesと言うことと同じではないか。その覚悟が出来た人には、文殊菩薩との問答のような不思議な時が来る。ただ、不思議の前の日常で既に運があって、認識しているかどうかなのかもと微かに思う。秋草さんの祖母の存在、父母の姿、影と言う友・・・何気ないことも宝として感謝して受け止められるか。
本書を読み、今まで避けて来た時代に深く感謝しました、同時に日常の自分を振り返り、まだまだだと感じさせられました。
毎月しょうおんさんからはメルマガ、セミナー、課題図書を通して、自分だけでは開けない世界を教えていただいています。このコーナーで言えば他の方の感想を通じてまた感じるところ気づかせてもらっています。頭だけではなく、体と感情すべてをフルに生かして『生きる』、勿論、ひとりよがりではない幸せのためにはどうして行くのか考え続けたいと思います。
今月も沢山の学びとアウトプットの機会を与えてくださいまして感謝致します。
投稿者 gizumo 日時 2013年8月31日
「17歳の硫黄島」を読んで
映画や本であまりにも有名な「硫黄島」。戦争を語るうえで有名な島だと理解はして
いたが、その場所も戦いの内容も知らないままでした。
8月は「永遠の0」とこの「17歳の硫黄島」を立て続けに読んで、「戦争なんて何も
理解できていない」ことを改めて知ることとなりました。
『坂の上の雲』にすら挫折した私は、知ろうとしていなかったのが正しい表現だと
思います。
なぜ、知ろうとしないのか?
悲惨な状況の現実を直視できなかったから、というのが答えかもしれません。
「銃撃」「爆破」「墜落」「死」などをただただ、恐れていたのです。
今回、この本が課題図書となって「今、読まなければ、ずっと避けたままだ」と思い、
本当にがんばって読破しました。
この本には秋草さんの実体験が書かれており、前線の現実がリアルに切々と書かれて
いて、そのあまりのリアルさが小説のように果てしなく残酷に描かれていました。
それはやはり事実であり、体験者にしかかけない文章だったと思います。
残酷な状況に生きた彼らを知ることで、改めて「生きる」ことを考える機会ともなり
ました。
「何のために生きるのか?」「平凡でよいのか?」。
彼らは、彼らの時代を精一杯生き、時が流れていきました。
自分は自分の時代を生き、時は止めることができない、という事実は把握できました。
「あの戦争は何だったのか。どうすれば死んだ者に報いることができるのか」という
重い問いかけをしながら書き続け、私たちに伝えてくださった秋草さんと島で一緒に
戦った仲間の皆様のおかげで今があることも充分に感謝の念と、その使命感に少しの
尊敬を感じました。
残念ながら、現状も戦争が地球上からはなくなっていません。
これだけの、体験者の訴えを活かしきれていないのが人間の愚かさだと・・・。
投稿者 koro 日時 2013年8月31日
自分が硫黄島の存在を知ったのは、
イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」という映画を観た時でした。
当然かもしれませんが、
現地での闘いを体験していない者が監督した映画作品と、
体験者本人が綴った文章とでは、受け取る印象が大きく変わりますね。
現地の地形、起こった出来事、生々しい当時の状況等が細かく書かれていて
激化する闘いが描かれた中盤あたりからは、すっかりのめり込んでしまいました。
敵艦隊が周囲を埋め尽くし、
勝てる見込みがない戦場で戦っていた方々の心境とは
一体どのようなものなのか、自分には想像もできません。
Google Earthの写真で見る硫黄島は、
緑が生い茂り、穏やかな風景ながらも、
朽ちた戦車等の戦いの爪痕が今も残ったままとなっている。
投稿者 naru 日時 2013年8月31日
本来感じる、考えるべきことからずれているかもしれませんが・・
秋草さんの体験以上に、空気の怖さというものを強く感じました。
米軍からすると5日間で墜ちると踏んでいた硫黄島。
しかし米軍の被害は、つぎ込んだ兵士6万人のうち、
太平洋戦争開始以来最悪の2万8000人の死傷者が出た(死者は7000名ほど)
戦場での勇気を讃える名誉勲章は、第二次世界大戦の4年間を通して、
84個与えられたそうですが、そのうち、硫黄島の戦闘で授与されたものが27個。
硫黄島での戦闘がたった36日間にも関わらず、勲章数の1/3を占めることから、
いかに硫黄島戦闘が壮絶だったかがわかります。
日本軍にとって、戦う前から見捨てられた戦地だった硫黄島。
米軍に東海岸から攻め込まれ、早々に南北に分断される。
飛行場が奪われ、南の摺鉢山に星条旗が立ち、北方が陥落するまでの流れ。
とくに、日本軍の戦力が落ち、地上戦がまともに行えなくなってからは、
米軍が、地下壕を片っ端からガスや火炎放射やブルドーザーを用いて、
つぶしていく凄惨な状況が描かれていて言葉がなくなりました。
このような状況で、秋草さんが5月まで耐え、また生き残ったことは、
何か意味があって選ばれたのだとしか思えません。
振り返って、日本軍の状況は、総指揮官の栗林中将が50代、
かり出された兵士は、学徒と30~40代のサラリーマンや商店主など一般人も多い。
秋草さん含め学徒の方々にとって同年代以外が、おじさんばかりの状況に戦闘前から
戦況の行方に感じるものがあったのではと思います。
硫黄島での生活ですが、
灼熱の島で地下壕を掘りながら、2万人以上がそこに住むということが、
どれだけ異常な空間か、想像程度では感じきれません。
地下熱の高いところでは、地下足袋の底が溶けたようです。
壕は絶望的な水不足と熱気と有毒ガスが充満している。
さらに害虫が沸いている状況は、戦闘が無くてもすでに地獄です。
米軍は、そこへ艦砲、火炎放射戦車、兵隊と進んでくる。
壕の入り口から、海水とガソリンを流し込み、
さらに火炎放射を重ねるのは、人の所業とは思えないと思いました。
地下壕に溜まった海水に浮かぶ死者の肢体片は、
鬼の胃袋状態だったと思われます。
このような状況でも、硫黄島での戦いに意味を見いだすとするなら、
本土空襲を少しでも遅らせるための手段だったはず。
しかし、硫黄島での籠城もむなしく、戦闘中の2月に本土初空襲が始まってしまう事で、
この報を最初に受けた時、兵士の士気は一気に下がっただろうと思います。
硫黄島で使用された火炎放射の写真を検索してみました。
これだけの炎柱の前ではなす術がないことがわかります。
火炎放射戦車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%82%8E%E6%94%BE%E5%B0%84%E6%88%A6%E8%BB%8A
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/yuojima/yuoujima05m.jpg
ここで、秋草さんが目の当たりにした散華していった方々の事を考えました。
軍規で自決も投降も許されない状況で何を思っていたのか。
どちらも禁じられていても、投降するくらいなら死を選ぶ。
それはどういう心境なのか。
苦労すればするほど、いま立たされている状況が理不尽であればこそ、
そこに理由を見いだしたくなるのが人間なのではと思いました。
これだけの苦労が無意味なことだったと認めるわけにはいかない。
客観的には、戦闘はもう事実上終わっていて戦う理由が無い。
軍規上、投降も自決も許されないにしても、まともな武器もないので、
戦ったとしても殺されるだけ。もう軍規をかたくなに守る理由が無い。
そのような局面まで追い詰められていれば、合理的な選択は投降となる。
しかし散華しようとする本人にとっては、自決を選択してしまう。
おそらく、虐待された子供が親をかばう事例と似ていると思います。
「あれはしつけだった。自分が悪かったんだ。」
そう考えることで、自分という存在が無価値で愛されていないという、
事実から目を反らすことが出来る。
つまり、個人としての投降の選択ができない理由は、
投降
=「皆で地下で耐え忍んできた苦痛の日々が無意味だった」ことを認める事
=「亡くなった同胞の存在も無価値」とつながってしまうためだと思います。
全体と個人が分けられず、全体の一部としての思考が強すぎるのかもしれません。
一兵士としては客観視できても、
一人間としての存在を客観視することを無意識に抑圧してしまうような
考え方に陥っていたのでしょうか。
裏返すと、だからこその連帯感の強さかもしれません。
日本人の美徳の一面を支える部分でもあると思います。
国として目指すゴールから、自分の投降を切り離して考えられない。
周りで仲間が死んでいる中、のこのこ自分だけ生き残るなんて選択が許されるわけがない。
そういった空気が支配していたのかと思います。
投降しようとする兵士を背中から撃つ兵士がいても、問題になっていなさそうなことからも、
個人の自由を許さなかった人が多くいたのだろうことがわかります。
国から切り離された離島で、世間の目があるわけでもない状況にも関わらず、
なお拘束力を維持する世間のスピンオフ版の空気という存在が恐ろしいと感じました。
しょうおんさんのメルマガにあった
「生きて虜囚の辱めを受けず」の縛りの強さだと思います。
そして、歴史はいまに繋がっているから、歴史を勉強する必要があるというくだりの意味深さを感じました。
ここまで書いて思ったのが、それは自分史に対しても言えることだと思い反省です。
投稿者 kd1036 日時 2013年9月1日
「生きる」ってなんだろう?
一番強く考えたことはこれでした。
生命を維持するために食物を摂り、呼吸し、排泄する。そんな当たり前だと我々が感じていることが、何一つ満たされない状況でも硫黄島を生き抜いた人たちがいる。今の自分は生きる意味というのを考えたりもしますが、そこにはただ生きる・生命を維持するということだけが存在していたように思います。糞尿と血の生臭さや死臭等が立ち込める場所で飲まず食わずで生命をつなぐ。自らの傷ついた体に湧く蛆を口に運び命の糧とする。想像はできるような気もしますが、それは当時そこにあった現実とは大きくかけ離れていることでしょう。自分の大便を思いっきり匂ってもみましたが、それだけで「無理っ!!」と叫びたくなります。お国のため・家族のため等大義名分は色々ありますし、生きて人の役に立つ等の目的もあるでしょう。でも何かを成したから、大きな功績を残したからその生に意味や価値が与えられるのではなく、ただ生きているその事だけで本当に素晴らしいことなのではないかと私は思います。人も動物も植物も生きてそこに存在しているそれ自体を大切したいです。
それにしても、日本軍とアメリカ軍の戦力の差はあまりにも違いすぎていることに愕然とさせられました。それでも1日でも硫黄島を守った時間が価値のあるものになるよう、我々は生きていかなければいけないと思います。戦闘をするための弾薬もなく、壕の中で相手の砲撃を反撃せずにただただ耐える、そんな時間を生き抜いた現場の方々は本当に凄い、人間という括りでは自分と一緒かもしれませんが、その精神は全くの別物なのではないかとさえ思えます。砲撃の最中ランチタイムだから敵さんは休憩している。こちらは息を潜め食うものもなくじっとしているだけ。そんなタスクはあまりにも切なすぎます。
前途有望な若い命を、回避する術はあったはずなのに、数多く散らしてしまった上層部の責任は言わずもがなですが、現場で戦った方々は真に称賛に値します。
またアメリカ側から見たら、あれだけの戦力の差がありながら、あれほどの苛烈な応戦をする日本軍には本当に恐怖を覚えさせられたことだろうと思います。いくら差があるとはいえ、戦闘になれば死傷者は出ますし、子供をあしらうような行動は取れないでしょう。自分の常識では考えられないような行動をする日本軍の兵士、凄惨な硫黄島はもとより、あらゆる戦場で同様の事が展開されていたことでしょう。そう考えると、日本は芯から骨抜きにして二度と歯向かってこないようにしなければいけないと考えたであろうことは、合点がいきます。
日本人であることに心から誇りを持ち、背筋を伸ばし、生かされていることの恩返しを常にしながら生きていこうと改めて心に刻みました。