第74回目(2017年6月)の課題本
6月課題図書
ぼくはお金を使わずに生きることにした
この本は5年程前に読んで、えらく感銘を受けてメールマガジン
でもご紹介したんですが、当時は全く食い付かれず話題にもなりませんでした。別に敗者
復活を狙っているワケじゃないんですけど、金運編を受講した人にはスゴく参考になると
思うのでこれにしました。
過去、マネーマネジメントと金運編を受講した人は読んだ方が良いですよ。これだけでお
カネに関する価値観が引っ繰り返りますから。なんだ、おカネが無くても充分に楽しく豊
かに暮らせるじゃないか!という感覚こそが金運を育てるんですから。なぜなら、現代と
いう時代は未来に於けるおカネの恐怖で作られているんですから。
失業するかも知れない恐怖、年金がもらえないかも知れない恐怖、貯金が無くなっていく
恐怖などなど、「将来経済的に困窮状態に陥ってしまうかも知れない恐怖」がゼロになる
人ってそんなにいないんです。ところがここで、「別におカネは要らんもんね。それでも
充分豊かだし」というライフスタイルが存在するのだと知ったら、これは未来に対する価
値観が変わりますよ。
実は私はこの本を読んでから、田舎暮らしに対する恐怖が無くなったんです。最初は漠然
と「このやり方でも行けるんじゃないか」と思っていたのが「たぶんもう大丈夫」となっ
たのはこの本のおかげです。
【しょ~おんコメント】
6月優秀賞
そして先月の課題図書ですが、昨日あれから2回読み直したんですが一次選考を突破した
のが、satoyujiさんとBruceLeeさんだけで、今回は久し振りにsatoyujiさんに差し上げる
ことにしました。
【頂いたコメント】
投稿者 saab900s 日時 2017年6月15日
平成29年6月度 課題図書/「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで
装丁は、上半身裸の男性が自然に囲まれながら使い古された手作りコンロの隣でコーヒーを飲んでいる画である。オビで「真の豊かさ」を問うているが、この時点では困難に満ちたゼロ円生活の中に辛うじて光る豊かさを探しながら、これこそが正しい道だと信じて疑わない、ある種独善的な生活なのだろうと想像した。これは、私が考える「お金を使わない=不自由な生活」という近視眼的なレンズを通していたからである。
私がこの本を読んで得たことは、お金という妄想ラットレースを俯瞰してみることができたこと。コミュニティの持つパワーの大きさ知ることができ、情報発信の波及効果と潜在的賛同者の顕在化の大切さとその方法である。
私にとってお金とは、基軸の交換基準であるという経済システムを盲信していたために、無くては困るものであり、そして、優先順位が高いものだった。しかし、そもそもの経済は物々交換でありその代替手段であったお金が独り歩き、いや、暴走しており、それに必死にしがみ付いているのが私であった。今や交換の対象は、モノだけではなく、コトも、情報も当てはまる社会をゼロ円生活で実現していたことにも驚いた。衝撃的だったのは実在しているお金以上の空想の価値を銀行が信用を元に創出するというカラクリ、アメリカ原住民族の価値観が、白人兄弟が押し寄せて以来一変したという2点である。本来は生活を便利にするためのモノだったお金に振り回されているという自分は知ってはいたものの、代替手段を知りえなかったためにしがみ付き続けるほかに選択肢がなかったのだ。確かに収入はあるに越したことは無いが、収入が増えると支出も比例して増える。勿論、支払う税金も比例して増えていく。1日24時間という限られた資本を、効率化を追求して生産性を上げ、最少の工数で最大の付加価値を作り上げるのも良いのだが、一見すると妄想ラットレーサー・消費マシン・納税マシンに堕してしまってはいないだろうか?ゼロ円生活で味わえる豊かさとはベクトルが違うのだが、五臓六腑に染みわたる豊かさは間違いなく後者だろう。
似たような疑問を持っている人、この指とまれー!! をWEBで行った結果、そういった価値観に賛同する人が集まった。しかも世界中から。集まった人は、潜在的に同じ価値観を持ってはいたものの、実際にゼロ円生活を実行するまでには至らない小さな「声なき声」であるが、それらの小さな一声を集めると大きな数になり、世論の一角を形成するようになる。
そして、人の根本的な特徴である「みんな得手不得手が違っている」をうまく活用し、困っている人が助けられる人を募集し、本文中の問題を見事に解決していっていた。たった一人でお金を使わずに生活するのと、価値観が同じコミュニティを活用しながら実現させていくのとでは、主観的な難易度が低く感じる事だろう。
何事も数が揃えば質に転換される良い例である。最も肝心なのは数を集める事。自分の頭の中ではマイノリティだと思ってみても、日本語の壁の中で1億人、言語の壁を超えることができた場合74億人を分母として考えることができるのだ。この時、自分が思った以上に似た考えを持つ人はいるということを目の当たりにするだろう。その方法はインターネットという世界規模のインフラを使うのだが、この指とまれー!!といって人差し指を高らかに突き立てる事。つまり、情報を発信し続けることこそが潜在的な賛同者を顕在化させる唯一の近道であろう。
「ゼロ円生活」という概念も、現在のインフラを活用しながら手出し費用ゼロ生活であり、社会の無駄をかき集めるという時代に即したゼロ円生活と言える。ここで一度立ち止まって考える必要があるのではないだろうか。果たして本当に継続的な経済成長は必要なのだろうか?と。資本主義経済とはうまく付き合うといいが、程よい距離感を保たないと妄想ラットレーサーに仕立て上げられるので注意が必要だ。
本文中で印象的だったフレーズは「りんごの木は無条件で果実を与える」という一文であった。何かした場合、必ず対価が発生するというのがこれまでの考えであったが、自然の理に沿っていくと、自分の役割を果たすだけ。イマココ、中今に集中することの大切さを再度認識することができた。どうせ同じ時間を使い生きていくのであれば、私と関わるご縁を頂いた人へ何か与えることできる側に立ち、りんごの木のように無条件で何かを与えていきたい。もうひとつ「睡眠なんて死んだ後にたっぷりとれるんだから」という表現も心に残った。その時は取材攻勢から電気の限られたPCを使ったメールでの返信やゼロ円生活と非常に時間が無い中で、その状況を俯瞰することにより憂うことなくウィットに富んだ解釈・表現をすることができるのも、とても柔軟な発想の持ち主なのだなと感じ入った。
ゼロ円生活に限らず、コミュニティがあり、ちょっと泥臭くても頼り頼られる人間らしいコミュニケーションを乗り越えれば、心も精神も豊かになるという示唆に富んだ本だったと感じる。
投稿者 hiroto77 日時 2017年6月24日
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでの疑問と自答
この本を読んで生まれた疑問と、自答を述べていきたいと思います。
最初の疑問
「なぜ、お金を使わないで生活するという試みに、これほどまでの注目と感心が集まった
のか?」
世界中に「お金を使わないで生きている人々」は存在していて、どの国にも、どの街角にも、「実質的にお金を使わないで生きている人たち」は存在するのに、なぜ、普通の青年がそれを実践するという発信が、これほどまでの注目を集めることになるのかは、考えるべき疑問だと感じました。
注目したのは、背景にある、この著者が経済学を学び、地球環境を知り、問題意識をもつ「インテリ」であること、自発的な選択、意思により「金なし生活」を実践したこと、その2つの点です。それは、他に多く存在する「自発的ではない、金なし生活実践者」と異なる点であり、それが求心力となったのだと考えました。
さらに、この著者が最初から「注目されること」を意図し、それが目的であった点も要因であることを、確認しました。
情報発信において、「平凡な青年」であることを強調し、ルールの制定、そこに至る意識、動機の表明には、他人の関心を惹きつけるためのメソッドが、駆使されています。
誰もが抱く不安や疑問に対して、アプローチする姿勢を明確に打ち出し、ストーリーとして発信しているのは、「目的として注目を集める」ことが意図されていると、解釈しました。
2番目の疑問
「ほんとうに、金なし生活は実現できるのか?」
半自給自足の生活をしながら、世間との関わりをもち、文明と物質の恩恵を受けながら、完全に経済活動から離脱することが、本当に可能なのか疑問でした。
その疑問から確認できたのは、事前ルールの巧みさと、そこに折り合いをつけた行動でした。
金なし生活の現実化に際し、矛盾がないように、決定的な批判を受けないように考慮されながらも、重要なメッセージを発信するための表現と内容には、驚かされました。
柔軟でありながらも、なかなか真似できないという境界線の見極めがあり、多くの人が関心をもつトピック、ノウハウを織り込み、惹きつけながら、「人々が認める金なし生活」を実現していることを、確認しました。
さらに、エネルギーの転換、食の転換、お金という幻想に対する認識の転換の必要性を伝えるという「使命感」が著者の原動力となり、著者が決めたルールの上での「金なし生活」は実現したのだと考えました。
それは、それに共感をもつ人、それを支持する人々の「お金を使った協力」が前提であり、その点では、「街角で金なし生活を実践する人々」のほうが、「真の金なし生活者」であるようにも思えますが、残念ながら彼らには「使命感」がなく、「求心力」はありません。
3番目の疑問
「では、自分にもできるのか?」
この本を読んで、ほぼ全ての人が抱く疑問だと思います。
森でキノコを採り、ソーラー発電でPCを動かし、支持者の人たちと「新しい文明の在り方」を実践することができるか、自問してみたくなります。
この本で紹介されている通り、金銭を介さない物々交換や物品贈与のコミュニティーは存在していて、そこではお金を使わずに、モノを手に入れることが可能です。
食についても、この著者のようなビーガン主義から自給自足、あるいは都市型採取も、使命感があれば乗り越えられなくはないと思いました。
自転車での移動も、自然豊かな土地では魅力的ですらあり、1年の期間を超えてなお、続けたいと感じた著者の気持ちは、共感できました。
さらに「便利、不便」という基準を見直すことにより、金銭を使用する基準が変わり、お金に依存しない生活も、魅力に感じます。
もちろん、エネルギー問題、地球環境の変化に対する影響からも、経済至上主義の終末を感じ取ることができますし、それに対するこの著者の行動力と、コミュニティーには感服しました。
しかし、それを知っても、私は、金なし生活を選択することはないだろう、という回答となりました。
その理由は、「お金が存在する時代に生まれた意味を、理解したい」という想いです。
生まれてから40年以上経ちますが、いまだに「お金」という存在を理解できていません。
常に身の回りにあり、社会の構造を支える存在、ツールであり、幻想であるという解釈、交換と贈与と純粋贈与がもたらした経済構造を具現化したものという解釈、あるいは感謝を可視化するための基準という解釈など、様々な解釈があることを確認し、今回の本では、使用しなくても生きていけるものという解釈も、得られました。
しかし、いまだに、お金は私にとって神秘であり、不可思議であり、追求し続けたい存在なのです。その神秘を超える存在は、おそらく今生では発明されないと、考えています。
また、多額のお金を使わなければ得られない「体験」、それがもつ「求心力」を支持しています。「お金」は人生を謳歌する意欲を可視化するツールだと、考えているのです。
【了】
投稿者 Nat 日時 2017年6月26日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで
この本のタイトルを見たとき、「極貧生活」、「ホームレス」のような考えが生まれた。なんだかこんな辛そうな生活を送ったんだぞ~そんな自叙伝のような気がしたが、読んでみるとそうではなかった。
工夫次第でこんなに生活できるのか。しかもパソコン所有でインターネットまで使えてしまい、最終的にはコミュニティまで作ってしまうのだから、人間やろうと思えばなんでもできるんだなと思った。よくよく考えるとしょーおんさんオススメ?の闇金ウシジマ君の中にもipodを持ったホームレスが描かれていたのだから、先進国の中では探せばなんでも手に入るんだろうなと感じる。探す労力と時間を考えればやってみようとは思わないが。。。
この本を読んで得たことはお金=信用という社会以外の社会も存在するという気づきである。僕は社会人になって一人暮らしをするようになって都会に住みだした。それまでは実家暮らしで田舎ではないがいわゆるベッドタウンと呼ばれるところに住んでいた。
この間そんな実家に久しぶりに帰ったが、隣のおばちゃんが作りすぎたからと梅酒を持ってきてくれた。僕は都会で一人暮らしを始めてから今まで梅酒をもらったことなどない。なんならマンションに住んでいるが隣の人がどんな人が住んでいるか知らない笑。ただ不動産を探している時にもらったアドバイスは「あまり安いところに住まない方がいい。安いところには変な人が住んでいるから」というものであった。つまりお金を持っている→お金をたくさん払ってくれる→信用なのである。
更に地方の田舎に住めばお金以外が信用に結びつくのでないかと想像する。例えば地域の行事に参加するとかが信用に結びついたりするのではないだろうか。
お金を使う生活が悪いわけではない。ただお金がないと生活できない!信用が得られない!という考え方からは脱却すべきだなと感じた。
この本を読んでお金を全く使わずに「文化的な暮らしができる」ということを知ってしまったので人生のなかでの選択肢がふえた。選択肢は増えたが、もうしばらくはお金を使う生活を続けてみたいと思う笑
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2017年6月26日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」から学んだ3つのこと
原始、人はお金なしで生きていた。なぜ現代人はできないのか?-長年抱いてきた疑問である。
高学歴・高収入のマーク・ボイルさんが、大企業での安定した職業を捨て、自給自足の無銭生活を送るという本書は、「誰もやらないことをやる」というワクワクする挑戦である。
しかもボイルさんが自分と同年生まれなのも手伝って、憧れの眼差しで応援したくなった。
残念ながら私には彼の生活の全てを真似できないが、学べることはあるはずだ・・・と読み始めた結果、
冒頭の問いを3つの観点から見直すことになった。
1.便利な生活を、お金が肩代わりしてくれている
ボイル氏の無銭生活は、水と火の調達、食用植物とキノコ摘みから始まる。これだけで重労働。
読みながらシュミレートしたのは
「私なら今この瞬間この場所で生活しながら、お金を使わずに、どうやって一日生きていけるだろう?」
という問いだ。
結果、文明の利器を使わずに済むことは、一つもなかった。歯を磨くため洗面台に立てば、蛇口から水を出せる。お茶を飲みたければ、コンロで火をつけ湯を沸かせば良い。何でもスイッチ一つで楽にでき、原始の人から見れば夢のような生活を、自分は当然のように思い、無意識に暮らしながら状況に流されていたと気づいた。
時間と手間の削減のため、私達現代人はお金で便利な設備を買った。結果、表面の便利さの「裏の苦労」を読み取る努力を怠ってきた。
例えば食卓に魚料理が出てきて「どこで獲れて、漁師はそのためにどんな苦労をしたのだろう?」と想像することなど、ほぼない。自分で育てた野菜が美味しいのは、苦労を知っているからだ。
本書を読んだ後、炊飯器や電子レンジのスイッチを押す度に、その機械のメーカーの苦労を思い、
感謝を感じ、自分がいかに幸せか噛み締めるようになった。
2.現代人は事を複雑化し、私達はそれにお金を払っている
「水洗トイレは、ものすごい手間をかけて、水を飲料水並みに綺麗に濾過し、排泄物を流している」
とのボイル氏の指摘。言われてみればその通りだ。
文明生活にはこのような矛盾が多い。
害虫対策で農作物に農薬を撒く。獲れた野菜は農薬まみれで、そのままでは食べられない。だから加熱調理をし、スパイスを大量にかけ、防腐剤を用いて保存さえする。少し虫に食われていても、天然の野菜を食べれば美味しいのに、私達は化学薬品を使って、その弊害を消すために別の化学薬品を使って・・・といったように、化学薬品を上塗りする。現代人は生活を複雑化し、結果として野菜の値段を高くし、自らの首を絞めているにもかかわらず「これが文明です」と誇っているのだ。
つい最近、私のプリンターが故障したが、機械に詳しい弟に「修理するより新品を買った方が、早くて安い」と助言された。何ということだ、これこそ資本主義の闇ではないか。
「企業は消費者に次々と新品を買わせるため、故障しやすい製品を安い値段で売り叩く」というブラックジョークは、現実らしい。
せめてもの償いに、心を込めて身の回りの物を大切に使おうと決めた。自分のためだけでなく、地球環境のために、手のエネルギーを大切に活用させていただこう。
3.お金は、「人との付き合い」の面倒を肩代わりしている
本書で最も印象的だったのは、「人生は不完全なもの」と著者が認めていたことだ。(P.263)
YouTubeで、ボイルさんがTEDやその他テレビ番組で、スピーチしている動画を数本見たが、彼は繰り返し
「真の自給自足はありえない」
と述べていた。確かに、彼の無銭生活は、ロビンソンクルーソー
のような完全な孤島暮らしではない。お金を使って生きている普通の人々と関わりながら、共存してい
くタイプのものだ。
この事実からもわかるように、彼は
① 出来ることは自分でやる
② 無理なことは他人に頼る
③ 与えられるものは他人に与える
・・・この3つをバランスよく徹底している。自分に限界があると認めるからこそ②が可能となり、何といっても、②には親しい家族・親友の存在が不可欠だ。
③については、人に何かを贈る時、必ずしもお金で買った物でなくとも良い。
手料理、道端で摘んだ花、美しい景色を見せる、歌をうたう、家事や日曜大工の手伝い。
もっとすごい贈り物は、目に見えないものだ。
知識、お祈り、感謝の念は、いくら他者に捧げても枯渇することなく、無限に続く。スーパーで買い物をする時、レジの人に「ありがとう」の一言を、心を込めて言えば良い。病気で寝たきりになっても、人の幸せを祈る仕事は続けられるというのは、心強い。
人間関係は、上手く行けば幸せ、上手くいかないと面倒で逃げたくなる。誰とも関わりを持たない「引きこもり」の人も、日本に多いと聞くが、これはお金があるからこそ可能なのだ。お金が人付き合いの煩雑さを肩代わりしてくれているという観点は、持っておこうと決めた。
最後に、ボイルさんは静かに無銭生活を続け、周りの人に「考えさせる」という意味で、影響を与えている。
彼を批判・糾弾する人の多さにも驚かされたが、それさえも彼にとっては想定内なのだろう。
イギリス人・アイルランド人は、ベジタリアンほか食のスタイルがバラエティに富むと聞く。
LGBTへの寛容性などから見ても、多様な生き方に対する許容量が大きく、これは自分も見習いたいと感じた。
今回も良書をお薦めいただき、ありがとうございました。
投稿者 audreym0304 日時 2017年6月27日
感想-ぼくはお金を使わずに生きることにした
読み終わって感じたのはお金を使わないで生きることとお金を使えないで生きることはまったく違うということだ。収入や貯金がなくてお金が使えない、もしくは収入や貯金は十分あるのに将来を悲観して必要なお金が使えない人間は非常に卑屈で不健康、人間嫌いな印象を与える場合が多いに対し、著者のように世界に何人も存在する積極的にお金を使わないで生活する人々は朗らかで健康的、友好的にみえる。同じ「(使う)お金がない」という状態にもかかわらず、ここまでの差が生まれてしまうのは、お金を使わない、使えないと決めたのが自発的要因か受動的要因かの違いなのだろう。そして、人間の性質にも大きな影響を与えてしまうかに思える。
自発的にお金を使わずに生きることを選んだ著者の一年にわたる実験と「豊かに生きられる」という証明は著者や同じ志を持つ人々に大きな自信と確信をあたえると同時に冷ややかに見守っていただろう周囲の人間やお金がない生活など想像もできない人間には驚きと興味を持たせたかもしれない。それでも冷ややかな態度や否定的な態度を崩さない人も多いだろうが。
著者は原価数十円で作られる現代の貨幣は幻想だという。これには否定しようがないが、貨幣制度は人類がその歴史の中で生み出した非常に利便性の高いシステムだということも否定できない。貨幣制度が発達しなければ、古代日本でいう租・庸・調・防人という複雑で重い税制度や不便な物々交換が文明の発展を阻害したかもしれない。歴史上帝国の滅亡や革命などもお金が原因で起こっているし、文明が発展したことによる弊害も大きい。環境問題、貧困格差、食糧危機など数えればきりがないし、これらの問題は地球規模に密接に絡み合っているからどれかだけを解決することもできなければ、どれかが悪化すれば全てに影響する。そのかわり、全てをちょっとずつ良くすることは可能なのかもしれない。
「地球のために」環境を守ろうというスローガンは偽善的だとおもう。なぜなら、温暖化しようが氷河期を迎えようが、地球の歴史で繰り返されてきたことだからだ。大きな環境変動はそのつど、大量絶滅を引き起こしているから、地球だけでなく人間以外の動植物には環境問題は問題ではないんじゃないかと思う。現代われわれが直面している環境問題は文明の発展で現れ、人類と食料になる植物や動物が生存できる環境を脅かすいわば因果応報である。因果応報だからといって全てを受け入れるほど人類は達観していないし、豊かな暮らしがしたいという欲望はこの先も変わらないだろう。だからこそ、お金を使わずに自分の身の回りにある食べ物や物品を採集や交換、廃棄物の再利用すること、資源を最大限に有効活用することに大きな意味があると思うのだ。
人類の長い歴史のなかで植物や動物、資源も循環できることができ、無駄になったものはほとんどなかったに違いない。一方で資源を消費し無駄を生み出す資本主義は人類最大の負の遺産と将来称されるかもしれない。人間はその資本主義の中のお金という存在にとらわれてしまっている。
正直言えば、私はお金が大好きだ。原価数十円でもお金そのものが大好きだ。金貨や太平洋の島々で用いられている宝貝のようなそのものに価値がある貨幣はほんとうにすばらしいと思う。
誰しも同じだろうが、いくらお金を好きでもお金を得るためだけに長時間労働をしたり、極端な節約をしたり、違法なことをしたり、お金だけにとらわれる人間になりたくないし、資源を消費し続けるだけの生活を送りたくない。そういう生き方では資源や自然環境だけでなく、自分の時間も肉体もそして、魂も磨り減る気がするからだ。
「豊かに」生きるという点で見た場合、金銭で全てを解決できる豊かさと著者のように自分の体と時間を精一杯使いながらお金から離れて生きる豊かさのどちらもあるように思う。どちらが間違っている、正しいではない、選択肢としての豊かに生きる方法だ。
将来、AIがさらに発達したばあい、仕事を奪われると悲観的なことばかり言われるが、たとえばベーシックインカムのような制度の出現で、お金に対する価値観も今とは変わるかもしれない。テクノロジーを維持しながらも自然に回帰し、お金から離れる豊かさを求める人も増えるだろう。もちろん、お金を今以上に稼ぎ、すべてをお金で解決することを目的とした人々も一定数存在するだろうし、その中間のバランスを取りながら生きていく人も多く存在するだろう。
多種多様な価値観があることは人間の思い通りにならない自然の中で暮らすような驚きと発見を与えてくれ、その気づきだけでも人生を豊かにしてくれるだろう。お金も資源も食料も無駄にせずに持てる範囲で最大限活用できること、そして、「豊かに」生きることを次世代にも引き継ぐことが求められ、実現することがヒトとしての矜持だとおもう。
投稿者 kwbtakr 日時 2017年6月27日
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んで
まず題名から一般社会と断絶した生活の記録と思ったのだが、実際はもっとユルい社会環境での実践だった。だからこそ普通の人にも取っ付き易い内容でもあると思えた。
著者のようにお金を使わない生活とまでは云わないが、ある程度自給自足の生活に憧れる人には参考になる内容であると思った。そしてこの生活を実践する環境は都会ではなく近くに自然環境のある田舎暮らしが適していることも明白であると思う。
しかし、この本を読んで最も感じたことは、やはり人は一人では生きていくことは難しく、何らかのコミュニティに属する必要があるということ。実際に著者も自身で設立した「フリー・エコノミー・コミュニティ」というコミュニティがあり、また著者のお金を使わない生活に共感、理解をしてくれた家族、友人の助けがあった訳で。
では、どのようなコミュニティが自分自身にとって良いものか?
自分自身の価値観と同じ人達の集まりであることと。そしてそのコミュニティに寄生するのではなくなんらかの役割に従事すること。そしてそのコミュニティの中で頭として、まとめ役として存在できればより楽しく(思いのままに?)過ごせるものと感じた。
振り返って自分自身が属している各コミュニティにおいて、自分はどんな存在、立ち位置かを再認識し、どのコミュニティを育てていくべきか検討することが今後の人生において必要なことになっていくものと思った。まずは一番身近なコミュニティである家族を、、、
投稿者 akiko3 日時 2017年6月28日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで
“シェアリング”ボランティアに参加していた頃、途上国の持たざる人達に対し、多くを持っている自分は取りすぎなのではないか?と感じ、必要とされる技術を持たない自分は『寄付』をした。ご年配の方たちは昔の生活の知恵や身に着けた技術を駆使し具体的に貢献されていた。生活に役立つスキルが欲しいと思った。
生活力がある、それをシェアし合えるって素敵なことだとロハス的な暮らしにも憧れたが、スイッチ1つの便利な生活に慣れ、給与が毎月入る安定の上での現実逃避でしかなかった。日々の給与も経済優先社会の歯車から生み出され、衣食住はお金があってこそ満たされていると思っていた。お金で幸せは買えないとは思っていたが、便利さを買うことは必要と思うことはあった。でも、特に食事がおろそかになると人生を空しく感じるタイプだったので、買うより作って、自然界の循環の歯車になれる喜びの方がつよかった。それは生活のほんの一部であって、著者のような生活は絶対無理と思っていたが…。
でも、それも思い込みであった。『お金は1つのやり方』として何かに貢献できることや、自分や周りの幸せにつながることなら上手に使うことが大切なのだ。お金を持たない生活を具体的に学び、これなら自分にもできそう、これは無理とジャッジしながら自給自足生活を妄想して楽しんだが、読後はそんなHow toじゃなく、いかに生きるか人生を楽しむかを問われた。
特に“ゆだねて生きる”とはどういうことか、頭で考え、ゆだねているように行動、取捨選択していた。真面目に“ゆだねて生きるぞ”と自分に言い聞かせているという、かわいいっちゃかわいいけど、未熟さ丸出しと笑えた。
だから、カネなし生活から著者が身に着けた「人生を信じる」、「ゆだねると心地よい」には勇気づけられたし、「必要は与えられる」や「与えるほどに多くを受け取る」という世の仕組みにも説得力があった。そして、大切なのは心身の健やかさ、自然環境・人との共存であり、衣食住に関わるスキルはその次なのだということ。ボランティアも具体的に何ができるとか大切だが、まずは自分が豊かであり、幸せの中でともに生きようとシェアする精神からスタートだなと足元を見つめ直せた。
シェアの手段としての社会に対してや自分の暮らしの糧としての労働も、そこに“楽しさ”を忘れないようにしよう。“はたを楽にする”仕事か?折にふれ自問している言葉だが、単なる作業にせずに、ちゃんと労働となるよう、人生となるよう“目的”や“手段”をごっちゃにしないように気をつけよう。そんな積み重ねが人生の充実や平和を築くことになるように思った。
最後に意外だったのが、沈黙の一週間の試みだ。“言葉”に制限をかけるとは!面白い人だなと感心したが、「自由にできる何かをみずからに禁ずることによって、気骨が養われる」これまたとても説得力があった。孤独感もなくなるんですね。何か不安を感じて、それこそゆだねることが出来ていない時、何かを禁じてみよう。
非常にユニークな世界を垣間見れ、でも決して自分の生活とかけ離れた世界でもないんだなと、読む機会を与えて下さったことに感謝いたします。
投稿者 H.J 日時 2017年6月28日
ぼくはお金を使わずに生きることにした
本書を読み終えて、私は気づかされた。
“時間はお金で買えないものを手に入れる事ができる。”
マークさんは「カネなし生活」で、お金を使う自由と時間を引き換えに、スキルや新しい発見・知識、さらには交友関係、新しい目標などを手に入れている。
無論、今の時代、スキルや知識や人間関係もお金で買える場合もある。
しかし、お金を使って手に入れられるものは限られている。
マークさんの手に入れたそれらは、まさにお金では買えないものだ。
私も自分自身、時間と引き換えに手に入れたもの(お金で買えないもの)を考えると、この課題図書だ。
本自体はお金で買えるが、中身の知識を自分に落とし込むには時間が必要だ。
読む時間、書き出す時間、自分との対話の時間、まとめる時間、文章にする時間、修正する時間、読み直す時間、投稿してる方々の感想を読む時間。
時には、最初から書き直すこともある。
1ヶ月の内に課題図書に使っている時間を計測したら驚くほど使っているだろう。
しかし、消費した時間以上のものを手に入れているのだ。
私も、まさにお金では買えないものを手に入れている。
ここから更に時間を効率的に使い、新しい有効なことに時間を回すことができれば、同じ消費時間でもっと沢山のものを手に入れられる。
これから、とても楽しみだ。
それと同時にお金の魔力への危機感も感じた。
いつの間にか私たちはお金に頼りすぎて、依存していた。
ただの紙切れに価値が付いただけで、生きるために必須のアイテムになっている。
生きるためにお金が必要。お金を稼ぐために仕事をする。仕事をするために時間を消費する。
それ自体は悪いことではない。
時にはお金への切望を持ち、大成功を収める人だっている。
他方、時には命の奪い合いに発展したり、交友関係を壊したり、人の心を狂わすことだってある。
良い面もあり悪い面もある。まさにお金の魔力。
マークさんの言う通り「人間がお金の僕になったのだ。(P15)」という言葉が胸に突き刺さる。
私も思い返せば、知らず知らずにお金によって選択肢が絞られていた。
お金の魔力から解放される手段として、「断捨離」が一つの最重要キーワードになるだろう。
「金なし生活」は「断捨離」の考え方と通ずるところがある。
「不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。」(wiki pedia引用)
マークさんは、私たちの生活の大半を占めているお金という概念を絶ち、お金に頼る生活を捨て、お金への執着から離れることで、文字通り「身軽で快適な生活と人生」を手に入れたのではないだろうか。
お金という概念に縛られなければ、選択肢は増える。
私も何かを選択する時にお金以外の部分に目を向けること、「本当にお金を優先していいのか」や「ここでお金を使うべきなのか」そう自分に問いかけるだけでいい。
まずその行為をすることで良い選択肢が増えるだろう。
最後にもう一つ思ったことがある。
万が一、大震災が起こり、生活に必要なツールが止められ、物資も満足に供給されない場合、
この様な一時的にお金の価値が発揮出来ない状況下で必要なものは、やはり知識や助け合いだろう。
お金は活用してこそ、その価値を発揮する。決して私たちの生活の全てではないし、お金の僕になってはならない。
マークさんの「金なし生活」から、そう学んだ。
お金の使い方を見直す良い機会になりました。
ありがとうございました。
投稿者 J.Sokudoku 日時 2017年6月29日
私も含め、近代化社会に身を置く人々の生活とはかけ離れた「カネなし生活」の1年間を記した本書から溢れ出てくるのは、マーク・ボイル氏の“感謝の気持ち”と“学習する力”だと感じました。ボイル氏は、この「カネなし生活」の中で、家族に、友人に、同志に、自然に、食物そして時間に多大な感謝を捧げているとともに、これらとの触れ合いから多くのコトを学び取っています。私は、この“感謝の気持ち”と“学習する力”が、お金が生み出す便利さに馴致された現代人の多くが失いつつあるものではないかと思いました。
“モノに対する情のなさ”
これは、半年程前に受け取った、あるメールマガジンに書かれていた一文です。私にあった後ろめたさから、この一文はこころの中にス~ッと入り込んできました。それ以来、捨てられているモノ、または、無駄に溢れているモノを見かける度に、この一文がこころの中に現れます。
確かに、大量消費社会の真っただ中の現代に生きる私自身もモノを粗末に扱っています。例えば、100円ショップで安価をいいことに本当は必要ではない物まで気軽にまとめ買いをして結局使わず仕舞いで、ゴミ箱行き...。自宅のクローゼットを開ければ、数年前に買った新品同様の数回しか着ていない衣服...。
この一文を読んで以来、確かに無駄買い行為を無くし、出来るだけ長く物を使うことを意識するようになりました。でも、何かが足りないような...、そんな違和感が私につき纏わっていたのがこの半年間でした。
そんなさ中に出会った本書にある、お金は
「消費者と消費される物との極端な断絶を可能にしたもの」(P.18)
というボイル氏の主張に、私自身に欠けていた価値観を明確に認識させられました。それは、
“モノの背後にある価値に対して感謝をする”
です。
人間はお金という便利性を生み出す道具を創り出し、それを使うことで多くの豊かさを手に入れてきました。しかし、いつしかお金の生み出す便利性に執着するようになり、そして便利性を与え過ぎられた結果、その便利性と引換に感謝する機会を奪われている。そう思ったのが、1回目の通読が終わった6月の半ばのことでした。
ん?でも、ちょっと待ってよと。これって、昨年2月の課題図書“物欲なき世界”で得た学びじゃなかったっけ?
そんな時、あるツィートが流れてきました。
“「物を大切に」 100回言われるより、1回つくる方が、身につく(ボンド 木工用のCF)”
この一文は突き刺さりました。人は読書から多くを学んだ気にはなるけれど、その学びを何かしらの体験(アウトプット)に変換しないと本当の学びにはならない、そして、どんどん忘れてしまう。まさに、これが私だと(笑)
そして、本書を読み返すと、学んだ知識を体験に変換し、生き生きと輝きを放つボイル氏がそこにいるのです。お金を使わないという状況に置かれることで、発想力や工夫の仕方等の“学習力”も養われ、多くの難しい局面を打開しています。お金の使えない状況は、学びの機会を与えてくれ、更にいつも何気なく手に入るモノの本当の価値も見出させてくれるのです。
「自分が使うものを自分の手で作るようになるにつれて、あるいは自分で作らないまでも、作る人との距離が縮まるにつれて、物の本当の価値に敏感になる」(P.275)
近代化された社会に生きる多くの人は、物質的豊かを与えられ過ぎることで、精神的豊かさである“感謝する気持ち”や“学習する力”を失い始めているのではないでしょうか。
では、学びを体験に変換する重要性を学んだ私(笑)がこれから行動に移すことは、
【1】家庭菜園を始める
【2】一人での食事中に物読みをしない
です。
【1】は、今週末にホームセンターに行って後戻りできないように立派な鍬でも購入します。娘達も喜ぶだろうし、良い学習の場、そして共有できる良き思い出になってくれれば幸いです。
【2】は実践してから2週間が経過しています。一人での食事中は、目の前に集中します。
“その食べものが目の前に来るまでの過程を想像する、具材を凝視する、調味料を考える、匂いを楽しむ、よく噛みその音を聞く、そして気持ちを込めて関わった全てに感謝する”
そうすると、食べ物が以前とは比べ物にならないくらい美味しく感じられるようになりました!今まで無意識的に怠っていたこれらのコトに気づけたのは大きな収穫です。
最後に、上記“ボンド 木工用のCF”が流れて来た際のツィート文を引用して終わりにします。
“与えられる立場にいる限り決して解らない。愛もモノの大切さも”
~終わり~
P.S.今月、花さんの“片づけセミナー”を偶然にも受講(奥方の代講)できた私はツイてました。セミナーの内容が、本書にシンクロして理解が本当に深まりました。また、半年前からの胸の突っかかりも取れました。今回の感想文は、花さんのセミナー、メルマガ、ツィートを多々参考にしています。これが、「必要な物は必要な時に手に入る」(P.270)なのかなとも思っています。
しょ~おん先生、花さん、いつも本当にありがとうございます。 m--m
投稿者 gizumo 日時 2017年6月30日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」マーク・ボイル著を読んで
「お金を使わない」というタイトルで、思ったのは「自給自足」。それも、“食”に関してのみ。「テレビでやっている『0円食堂』みたいな食事」で修行僧のような生活だと。読み始めると、とんでもない。予測は大いにハズレ、普通の生活を有意義に過ごす著者の姿にびっくり。改めて、「衣食住」すべてにお金を使わない生活が可能でしかも楽しめるのだと知らされた。日本でも「稲垣えみ子さん」という女性が有名で活躍されているが、彼女も同じように楽しげに生活していらっしゃったなと。
「お金は、道具」と、理解しつつも、「やはり便利」。「たくさんほしい」というのが本音。何かあった時、お金が解決してくれる。または、守ってくれるものだと。しかし、その考えは自分の能力や人のつながり、を理解できていないためだと気づいた。彼が1年間の生活で問題が生じたとき、必ず解決策が見つかり、また何らかの手助けをしてくれる人や協力者が見つかって乗り越えられた。頭で考えるだけで問題を大きく複雑にし、自分の敵を創っていたのかもしれず、目的をもってことにあたれば解決の方法は必ず見つかり前に進んでいけるのだろう。動くことが大切で、その動けない理由を「お金」に肩代わりしてもらっていることがなんと多いか・・・。
本書で語られていた「フードマイレージ」の件は、飲食の世界でも語られることは多い。、また特に「食品の廃棄」に関しては大きな問題であると実感している。実際に、信じられないような(絶対に食べられる)状態の食品を破棄することもあったし、それを目的に来られる方々への対策を行っていた経験もある。そのうちに「破棄」することに麻痺し、食べ物をぞんざいに扱った経験を深く反省させられた。豊かさが数の多さを競うことになったことや、行き過ぎた鮮度信仰、など見えないが深刻な問題を含んでいると考えられる。
そのほかでは自分なりのポリシーとして、それなりに地球環境を考え暮らすことに気を付けてきたつもりである。節電、節水、汚れを流さないなど些細なことだが、自分のものでない地球のためにと取り組んできた。最悪、地球が滅びる場合、私の行為で何億分の1秒でも滅びる時間が伸ばせたらの思いでやってきました。「ハチドリのひとしずく」という話に感化されたからではありますが・・・。
彼のような生活が、できるかできないかの前に、する必要があるかないかを考えると、個人の価値観の問題であり、やはり正解はないかもしれない。今後は「お金は道具」との事実をさらに深め、その道具と仲良くかつ上手く使いこなせるようになることを目標としていきたい。もちろん自分なりの「ハチドリのひとしずく」も続けていこうと思っている。
投稿者 sakurou 日時 2017年6月30日
~ 「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで~
チャップリンは言った。「人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。」と。マーク・ボイル氏はその少しのお金さえも使わずに、1年間を過ごした。お金を使わない生活、というとホームレスのような食うのに困るような生活をイメージしていた。確かにモーターハウスを譲り受けたことはあるが、ロケットストーブ等、知恵を使い、どうすればお金を使わずに生きられるかという想像力を最大限働かせてこの1年間を生きたのだと思う。私は以前、断食施設で4日間過ごしたことがある。その時に感じたことと本書に書いてあったことが非常に類似していたので、それも触れながら感想を書いてみたい。
1. 入ってくる情報をコントロールする自制心
言うまでもないが、TVやWebでは様々な広告が流れている。断食が終わって帰る途中、2時間程車で走っていると、この世の中は広告で溢れていることに改めて気づく。特に、断食後だったからかもしれないが、レストランや回転寿司等、様々な飲食店のノボリが目につき、ここまで露骨な形で需要を喚起しているのか、とうんざりしたのを覚えている。また、Facebook上の口コミ情報もかなりクセモノで、つい買いたくなったり食べに行きたくなってしまう。コンビニや100円ショップ等、安易にお金を使いがちな店に行かないことが大事。特にコンビニは身近に有りながらも、ある意味、企業の新製品の実験場である。「期間限定」「あとxx分以内にお電話を」「タイムセール」等、判断する時間を与えない広告は数知れない。マーク・ボイル氏はこの中で自制心も含めて、生きていくための一次スキルとして重要性を説いていた。今は買わない、という選択、自制心が本当に重要だと思う。
2. 必ず誰かが支援してくれる
4日間の断食生活。聞くと大変そうだが、辛くなく、むしろ終わってみると楽しかった。私が4日間の断食生活をできたのは施設にいたみんなが同じような環境にいたからである。当然周りの人は挫折せず楽しく断食をしている。私よりより1週間等、長い期間続けていた人もいるが、みんな楽しそうだった。なぜか。もちろん食べ物の誘惑がない環境やヨガなど様々なリフレッシュプログラムがあったこともあるのだが、何より、みんな「断食を通じてより健康になりたい、自分を見つめ直したい、辛い断食生活を楽しく過ごしたい」という価値観を共有できた場があったからではないか。
マーク・ボイル氏がこのような生活が出来たのは元々フリーエコノミー運動に興味があったこともあるが、それだけではない。もちろん本人の勇気もそうだが、それを知った周りの人が応援してあげたい、バーターではなく、ペイ・フォワードの考え方で支援してあげたいという周囲の支援は「無葬社会」にあったサンガの考え方に近いのかもしれない。周囲、特に地域コミュニティが支援することでマーク・ボイル氏から何かを与えられる。お金以外のもの、スキル等、様々な価値をシェアすることで生活を成り立たせていくことは不可能ではないし、むしろこれからの社会では重要だと思う。
3. 改めて、「お金とは何か」を考える
課題図書では以前にも「物欲なき世界」や「この世でいちばん大事な「カネ」の話」等、お金に関する本が多いがまた違い側面を知ることが出来た。P177の「お金は幻想である。良くも悪いもない」というのは金運編にも通じるものがある。また、もっと納得して怖かったのはP211の 「増えれば増えるほど欲しくなる」お金の怖さである。「あればある程よい」という思い込みが生活レベルを上げ、下げられない原因となり、それが様々な足かせとなっている。先日お金でびっくりしたのはソフトバンクを退任した元後継者候補のニケシュ・アローラ氏に対する報酬である。支払総額は456億円とのことである。想像がつかない。また、就任時に私財を投じて600億円分のソフトバンク株を買ったとかいろいろあるが、もう彼にとってはただの数字でしかなく、生活とはかけ離れたものとなっているのだろう。食欲も際限ないところがあるが、金銭欲は食欲のようにお腹いっぱいにならないので、更に厄介だ。冒頭のチャップリンに戻ると「ちょっとの」とつけたところに奥深さがある。
身の丈だけではいけないところもある。今までは出来合いスーツだったが、最近、私はオーダースーツを買った。長く使えることを計算してのことである。長く持たせることで変わらないコストで物への愛着が増すことも知った。目先の安さにとらわれず、長期視点でお金の使い方を考えることは人生を豊かにすることにもつながる。
以上、本書の感想を述べた。心が汚れる、というと大袈裟だが、こういう考えは1年に1度など、定期的に思い出しメンテナンスしないとすぐ俗世間の誘惑の渦に巻き込まれてしまう。様々なお金関連の本を通じて、お金に対する考え方を考えていきたい。
投稿者 kakki 日時 2017年6月30日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで
自己実現したければ、自ら行動しよう
著者は、地球の為にお金を使わずに1年間過ごす事を決めた。
この時点で、誰にでも出来る事ではないとほとんどの人は思うだろう。
私もそのうちの一人だ。
なぜ彼はそこまでして、お金を使わない事にこだわったか。
一人でも多くの人に、現状の地球が人類によって破壊され
悲鳴を上げている事に気づき、行動して欲しいからではないだろうか。
でなければ、冬の過酷な環境の中で、一人でトレーラーハウスの中で
耐えようと思わないだろう。
世間が大騒ぎしているクリスマスに、金なしで過ごそうとも思わないだろう。
著者は、自分がこれから行うことを世界に宣言し、成功させた。
誰もが、お金を使わずに過ごすことは特別な事ではないと
気づいて欲しいのではないだろうか。
季節ごとのお金を使わない生活、その時々の感情、生きる為の知恵を解りやすく、記載している。
読者は、自分にもできそうな事が、一つや二つは見つかるはずである。
ところどころにあるコラムを読むだけでも、役に立つだろう。
ただ、金なし生活を続ける為に、恋人と別れる決断をしたのには驚きだ。
20代後半で恋愛がない生活なんて、耐えられないのではないだろうか。
少なくとも私は、20代で恋人とデートを定期的にしないなんて考えられなかった。
著者は、金なし生活のスタートにパーティ、ゴールにはフェスティバルを成功させた。
一人では絶対に実現できないイベントである。
友人、知人が複数人いて、協力してくれるからこそ成功できたと言えるだろう。
コミュニティを拡げて、育てることがこれからの世界で生き延びる一つの方法であると感じた。
私の母親は、ボランティアをしているが、何もしていなかった時期よりも生き生きしている。
無償で他者へ与えることで、健康にも良い影響がありそうである。
いま悩みに悩んでいる人は、本書を読み金なし生活を試してみるのもありかもしれない。
いまの悩みなど、ちっぽけなものだと気づくのではないだろうか。
悩んだら、他人に聞けばいい、教えて貰えれば良い。
利害関係のない人であれば、喜んで教えてくれそうだ。
著者の他にも、ネットで検索すれば世界各国で金なし生活を実践している人がいて驚いた。
もちろん、日本人でも金なし生活を経験されている方がいた。
ドイツには、15年も金なし生活をした女性もいた。
本書を読み終えて、地球に良いことをしたい。
良くないことを減らしたい。と感じた。
今年は、以前から始めようと思っていた、家庭菜園を始めた。
といっても、初心者向けのトマトとバジルだけなのだが、バジルはスーパーで
売っているものよりも明らかに、香りが良いし美味しかった。
農薬を使っていないし、何より自分で育てたので安心して食べられた。
他にも、色々な野菜を育ててみたくなった。
今年は、家族で国際無買デーも体験してみようと思う。
子供達へ、お金をなるべく使わないでも豊かな生活が出来る事を伝えたいし、
「いのちの食べ方」のように、他の動物を食べて、私たちは生きているのだから、
大切にする必要があると伝えたい。
『世界を変えたければ、まず自分が変化になりなさい。』という事を念頭に
少しの距離でも車を使うことをやめ、自転車にする。
加工食品に手を伸ばすのを減らし、自炊する。
夜更かしするのではなく、早起きする。
子供の紙おむつを無駄遣いしない。
今からでも、やれることはたくさんある。
投稿者 yashu50 日時 2017年6月30日
- ぼくはお金を使わずに生きることにした - を読んで
お金を使わない事、率直にその難しさを知った。定義によるところはあるもののお金を使わない、イコール現在の所有物全てをダストシュートしなければならないなんて、とてもそんな気にはなれない。
彼のその過ごし方は現代社会の無駄のうえに成り立ったのだと感じた。食事もしかり、トレーラーハウスもしかり。もちろん自家栽培等の努力まで否定するつもりはないが、以下に無駄が多いのかを知った。
世の中には廃棄食品の削減に力を入れている所もあるようだが、3年後のオリンピックでは多くの廃棄食品が出ること、しかもそれが不可避であるとの観測も知り少々やるせない気持ちでいる。何か対策が無いものかと。
翻って我が家の状況を鑑みると、更に無駄が多いように感じている今日この頃。冷蔵庫に入っている傷んだ食品。痛む前に消費すればいいものの、なかなか上手なやりくりが出来ない。
社会の事よりまず我が家。家計にやさしい食生活を。今月も良書をご紹介頂きありがとうございました。
投稿者 satoyuji 日時 2017年6月30日
『僕はお金を使わずに生きることにした』感想
「○○」がなければ生きられない。「○○」に思いつく言葉を入れてください。そんなアンケートがあったらどんな言葉を挿れるだろうか。「お金」とついつい挿れたくなる。しかしよく考えてみれば色々な答えがある。「空気」がなければ生きられないし、「水」だってないと困る。イタリア人なら、「愛」がなければ生きられないなんて言うかもしれない。実際に、「○○」に入る言葉は無数にある。それを一つに決めてしまうことが生き方を制限してしまう。本書の感想を一言にするなら、「生き方の選択肢を一つに決めてしまうのは、思考を貧しくしてしまう」ということである。
『僕はお金を使わずに生きることにした』。題名を一目した時に心惹かれた。それと同時に嫌悪感があった。生活のためにお金を稼ぐという義務感から解放されたい願望が心惹かれた理由である。お金を稼がなければ今ある環境を維持できないのに、それを守ろうとしないことへの苛立ちが嫌悪感の理由である。そして実際に読んでみて印象に残ったのは、作者がお金を使わない生活をする為の「準備」だった。
本書は筆者がお金を使わないで暮らした一年間の記録である。しかしお金に着目して見ると、金なし生活の前後とその一年間の筆者の周りではお金が普通に使われている。一年間お金を使わない生活をするために、その前後と周りではお金がしっかりと使われている。筆者がヒッチハイクをさせてもらった車のガソリンだってお金を払って手に入れたものだろう。まさか自分で石油を掘って手に入れたとは考えにくい。
お金を善悪で考えるのは非常に幼稚である。実際に筆者はお金の必要性を肯定しているし、善悪では考えていない。あくまでも、「自分はお金を使わない生き方を試している」という立場でこの本も書かれている。なので、本書を読んでどう感じるかは自分のお金への価値観による。
私が本書を読んだ当初に感じた羨望と嫌悪は、そのまま私のお金への価値観であることを認めなければいけない。そしてそれが今の現実だとしても、私は今の気持ちとしてはお金が大好きであり、大好きでありたいと思っている。お金があるから多くの人と繋がれる。自分が一人でできなかったことを諦めずにできる。今の私がこの文章を書くことができているのもお金のおかげである。私は鉛筆も紙も作れない。パソコンなんてもっと無理である。どれもお金を払って手に入れたものである。毎日30キロ以上離れている会社に通えるのもお金のおかげである。現代におけるほとんどの繋がりはお金によって取り持たれているものではないかと思う。私は今の生活を楽しんでいるが、お金がもう少しあればまた違う楽しみ方があると思う。
しかしお金がなければ何もできないかと言えばそんなことはない。筆者はこの一年間で新しい出会いもあったし、移動に不便していたが、行きたいところに行けていた。つまりお金ができることは「お金だけ」ができることではない。きっと何かがなければできないことなんてない。ただそれを使った方が早くできたり、簡単にできたりすることがあるだけである。お金は何かを「繋げる」ことは得意かもしれないが、「繋ぎ続ける」ことは不得意かもしれない。人と人を繋ぎ続けるのは気が合ったり、共通の何かがあることで場所や考えを共有し続けられたりするからである。それはお金でもできるかもしれないが、金の切れ目が縁の切れ目という言い方もある。
お金は便利である。あるお金持ちが人生の問題の9割はお金で解決できると言っていたが、そうなのかもしれない。金持喧嘩せずとも言う。しかしその便利さの隙間から、お金に頼らずにやってみた時に得られた体験や感性が抜け落ちることを本書は教えてくれている。お金がなくても生きられるし、紙もペンも作れる。ヒッチハイクなどで遠くへ出かけることもできる。時間がかかるがそこには体験や人との繋がりがある。お金がない生活も悪くはないのかもしれない。だとしたら、私が当初に抱いた嫌悪感は何だったのだろう。時間がかかるのが嫌だったのだろうか。それもある。よく考えてみると「お金を使ってしか生きられないし、お金がなければ劣悪な生活を送るしかない」という思い込みがあり、同時に自分がお金を通して得ていた学びが失われることを恐れていることに気づいた。もちろんお金がなくてもインターネット等で色々な人繋がれることは、筆者が証明してくれている。それでも私は不安に感じる。お金を使わずに生きる力が自分にあるのか。今の生活をしている限り、毎月お給料がもらえる。給料という形で自分が価値ある存在だと肯定してもらえる。
お金がないと生きていけない。だから疲れるけど働かなければならない。お金のために働くことは、全面的ではないにしても自分の存在価値を肯定してくれる。だからお金に縋りつきたくなる。自分のこうした価値観が本書の印象を決めたのだと思う。他の道具と同様にお金には善悪はない。どう感じるかはその人の価値観次第で選ぶことができる。そして如何に生きるかも自分で決めることができる。人は生き方を選ぶことができる、生き方を何度でも選択し直すことができることを本書は教えてくれている。
この本はずっと気になっていたけどなかなか踏ん切りがつかず、読んでいなかった本でした。
読む機会をありがとうございました。
投稿者 diego 日時 2017年6月30日
恐怖と不安の減らし方
人として生まれてから、必要なものがたくさんある。
育ててもらえるか。衣食住が確保されているか。
生きるために必要なことを学び、実践できるか。
そして、人の中で生きて、幸せであるか。
先達を見ていて、将来を考えて心配になるのは、働けなくなる、動けなくなる、
つまり自分のことが自分でできなくなる状態。誰からも相手にしてもらえなくなった状態。
んー?
これまでは「お金がないと老後が不安、○○円くらいあれば豊かな老後」と
聞いて、納得して、がんばろうとも思ってきた。
年を追うごとに、どの程度準備が出来てきたのか、振り返ってきた。
所得を引き上げる工夫もしてみたけど、
むしろ、あまりお金を使わないでいるにはどうしたらいいかを考えてやってきた。
予算管理をし、食事はなるべく自分たちで作る、低価格でもよいものを手に入れる、
長いスパンで使うものは、きちんとしたものを手に入れる、
よいもので使われていないものをもらって大事にする。
そうしているうちに、意外に健康でシンプルで豊かな生活に落ち着いてきた。
手元にあるものを大事にしているうちに、
自然と日々の生活を大事にする習慣が身についてきた。
でもね。周りを見回してみると、私など全然大したことなくて
すごく不安で心配になって、お金がない老後になることを思い患っていました。
本書を読み始める前に起こったことは
野菜だけを重ね煮るレシピに出合ったこと。
これまでも野菜をたくさん調理し、いただいてきたし
作ってもらったおいしい野菜をいただいてきたけれど、
本当の野菜のすばらしさが是ほどのものだったとは、と感動しました。
あらためてレシピをよく見たら、マクロビでした。
野菜の皮もなるべく食べる、だけでなく、それかあるからよりおいしく、豊かになることが感じられるという、本当に素晴らしい体験を重ねています。
ゴミがぐぐっと減りました。
本書を読みすすめ、食生活について、本書の著者が書いていた
「その地で採れた野菜をいただく」「野菜を食べていて体調がいい」は
すでに骨身に染みていました。
近くの土地からの恵みをなるべくまるごといただき続けていくうち、
天地と、自然の循環と調和しているような感覚が自然になりました。
まだいらいらすることもありますが、全体的に性質がマイルドになって
細かいこと、自分だけのことに気持ちを向けすぎることが少なくなっているようです。
地球環境のことを考えて「持続可能な」資源の使い方をしよう、
お金という余剰を生み出すのではなく、今ある恵みをもらったら
それで充分だという感覚は、とてもすんなり身体に入ってきます。
また、自分たちの「本当にこれでいいのか?この世界を続けていて大丈夫とは思わない」という思いに対して戦うのではなく、
「使わない」「こうしていこう」という決心を積み重ねていくことだけで、
それを共有していくだけで、こんなに生き生きできるのか、ということによろこびを感じます。
徹底して実践してみるアイディアとユーモア、いかに心が解放されていったかの過程と
自分の信じる道を歩み続けることの心地よさ。
やはり、自然と調和していることのよろこびと、
大事な人たち、たくさんの人たちとのつながりに支えあって生きている幸せこそが
人を本当に生かすのだなということを感じました。
実はこの本を読んでいる時期に、
会社を一つ任せたいというオファーがありました。
自分が大切に思っている音楽、その音楽関連の会社だったので心か動きましたし
お金を動かすこともできるし、うまくいけばキャリアアップで収入もアップするので
以前の私だったら迷わずに受けたでしょう。
でも、「持続可能」という面で言えば、そんなにやりたい訳ではない。
その会社で経営や営業をし、人脈を作るというのは、私のしたいこととぴったりと一致はしていない。
私にとって今の大切な家族や友達とのつながりは、優先ではなく、必須でした。
それが維持できる感じではなかったので、今の仕事のままに留まることにしました。
お金がない不安な老後というものを考えると、しんどくても「チャレンジ」といって経営者としてがんばったかもしれない。
ですが、不安にかられた自分が生む世界なんて、まやかしが入り込むことでしょう。
純粋な幸せとよろこびがあるからこそ、豊かになれる。
「お金なしで生きられるんだ。
じゃあ、何をして生きていきたい?
それでも仕事はしたいな。そして大切な人たちと幸せな時間を過ごしていたいな。」
たくさんの人たちの幸せを考え、みんなが幸せになるようにと祈り、
どんな世界が「持続可能」かを考え続けることは、
現在という面を網羅し、そして、未来に渡って時間軸を網羅するという
最強な願望なのではないか、だからこの本はこんなにも面白くてキュートで自然体なのでは、と思います。
人生の転機を、本が支えてくれました。
たくさんの人たちに、本の恵みが訪れますように。
そして、毎月課題図書を続けることで、転機がたくさん訪れ、
それに対してどんどんと人生が豊かに広がっていくのを感じます。
今月もありがとうございます。
投稿者 andoman 日時 2017年6月30日
「ぼくはお金を使わずに生きる事ことにした」を読んで
本書の題名から、「お金が必要ない世界」について触れる本かと察したが、その予想は見事に的中した。
(しかし、まさか1年以上もの間、お金を一切遣わずに、実際に生活するとは思ってもみなかったが…。)
著者の行動については、しょうおんさんのセミナーやメルマガで教わる、様々なエッセンスが取り込まれている。
考えや行動、実現までのスケジュールをノートに「書き出す」事に始まり、人や物の「引き寄せの法則」、動くと起きる「乗り越える為の障害」、「感じること」は「知っていること」よりもずっと真実に近いという事。そして最後に人を想う「智の道」。
筆者の素晴らしい所は、自身の考えを信じて行動を起こす事も素晴らしいが、その行動の根本にある「マインドの設定」だと思う。
本来、多くの人々の頭には「お金を使わない=未開文明人の生活」という式が浮かぶだろう。
しかし、それは1か0の極端な話で、そうしなければならない。という事は決してないと私は考える。
筆者の場合は、化石燃料を消費するという、現代科学からの脱却であり、本人のエコ魂から来る選択によるものだ。
そして、それは洞窟に還る事では決してない。
現代の科学技術で、利用できるものは利用する。
その中で、化石燃料やお金を使用しないで生活する方法を選択する。
非常に柔軟で、ハイセンスな思考の持ち主だ。
また、この選択には、これまで人類に大きく貢献してくれた偉人達への敬意も含まれていると考える。
多くの偉人は、人々の生活が便利になって欲しい。という願いから(そうじゃない人もいるかもしれないけれど)、その人生を賭して、便利なものを発明・開発してくれている。
その技術を捨てるのではなく、出来る限り知恵を絞って使用する事が、その技術を発明した偉人達への敬意と思いやりになっている。
それがあるからこそ「お金を使わない=未開文明人の生活」ではないという事で、より多くの人々からの支持を得たのだとも言える。
そう、お金を使わない生活でも、利用できる「正しい科学技術」は最大限に利用して良いのだ。
また、筆者は、お金を使わない生活の中で、とても素晴らしい発見をしている。
それは、『皆が見返りを一切期待せず、その日のために自分のできることをしている姿には、非常に心を揺り動かされた。
人間が「どれだけ得られるか」ではなく「どれだけ与えられるか」を考えて生きる事にしたならば世の中こうなるだろう、という最高に美しい例を見せてもらったのだ。』という箇所である。
人間誰しも、自身の考えや行動が、他者に認められたい。という欲求が強く、それを求めている。
それを見返り(お金)を求めない事によって、より大きく得る事が出来ている事が証明されている場面だ。
本当の幸せは、決してお金によって得られる訳ではない。
(そうなら、日本は世界で有数の幸せ国家の筈だ…)
「本当の幸せ」というものは、他者の為に「何かを与える事」により、「喜びを得られる事」なんだと考える。
(決して、怖がられたり、強制するものではない。)
「得られる喜び」というのは、相手からの言葉かもしれない、笑顔かもしれない、行動かもしれない…。
その時に「お金」を貰う事では無い筈で、それは無形であり、自分が感じる事で得る事が出来るものである。
特にそれが自分が「愛している相手」であれば、尚更だ。
(ここで「愛している相手」というのは、特定の個人ではなく、もっと広い意味で、家族、恋人、友人、知人を含む)
我々の人生は、その「愛している相手」の人生に、いかに喜びを与えられるか、そしてそこからどれだけの喜びを得られるか。に価値を見出す事が重要なのだと思う。
もし、世界が「お金を必要としない社会」を実現するためには、上記の考えが「基本」であり「総て」なのだと思う。
今の私は、あまり広い「愛」は残念ながら持ち合わせていない。
だから、他者から得られる喜びも、まだまだ少ない。
けれど、本書から得られた今の考えを大切にして、「狭い愛」を少しでも「広い愛」に広げて行きたいと考える。
いったい自分には、今の人生を通して、どれだけ多くの人に愛を与えられるのだろう…。
最期に、本書はお金を使わないで生きる事がスポットになっているが、お金では無く、人の心の繋がりや愛って素晴らしいんだよ。
というメッセージを強く受けた。
世界の人々により多くの「愛」が広がり、お金が必要のない、「愛」を基本法とした高度な道徳心と、地球と共存共栄が出来る科学技術が発展して行く世の中になる事を願います。
(あ。願うだけじゃダメなんだ。何か行動しなくちゃ…。)
今月も素敵な課題図書をありがとうございます。
投稿者 BruceLee 日時 2017年6月30日
「それでもやっぱり大事な『カネ』の話 (サイバラふう)」
あのね、わたしはこの人がカネ無し生活に挑んだ気持ち、すごく分かるのよ。こう書いてある。
お金のせいで、自分たちが消費する物とも、自分たちが使用する製品の作り手とも、完全に無関係でいられるようになってしまった。
つまりね、カネが媒介する事でわたしたちは「実態」に触れなくなってしまった。日々カネで買えてしまう物の本当の価値が分からなくなってしまった。今はカードや引落しでカネ自体と触れない事も多いよね。それって、同時にカネの重みやありがたみも変ってくるって事。この人はそんなのオカシイし、違うだろ?ってそんな世界に歯向かって、カネなし生活にはっちゃけちゃった。それはそれで気持ち分かるし、決めた事を最後までやり遂げたのは凄いと思う。でもね、わたしが感じたのは、
この人、カネは使ってないけど、時間は使ってる
ってことなの。食うために食材を探しに行く時間、火を起こす時間、調理する時間。何かを作るにしても、材料集めの時間、作り上げる時間、作り方が分からなければその知識や技術を習得する時間も掛かる。物々交換って手もあるけど交換したい物を持ってる人を探す時間、会いに行く時間、交渉する時間。でもこの人、不思議と欲しい ものをゲットしちゃってるよね。それはもしかしたらこの人特有の価値感で、願望が低いと言うか人間が謙虚だからかもしれないけど。だって、キャバクラ行きたい!って男はやっぱりカネ使わないと行けないもんね。
要するにわたしが思ったのは、時間を使いさえすれば大抵の物は得られるんだなって事。そりゃそうなのよ。食えなきゃ死んじゃうんだから誰でも必死になるよね。でもきっとそこに何かあるとも思うの。この人書いてる。「みずから与える精神を持って日々を生きれば、必要な物は必要なときにきっと与えられる」って。わたしは貧困経験は一杯あるけど、カネを使わない生活は経験ないからね。「カネのない生活」と「カネを使わない生活」は似てるけど全然違うしね。でも、これ何となく分かるのよ。人が必死になって欲しと思ったらカネを使わずとも大抵のものは手に入る。時間さえ使えばね。だからわたしは思うのよ。
日頃私たちがカネで買ってるものって、実は突き詰めると時間なんじゃない
って。自分の時間を使わず欲しい物を得ることを「便利」と呼んでるんじゃないっ。だとすれば、その便利さが不便となる事を受け入れて、時間さえ掛ければ大抵のものが得られるとしたら、カネの必要度、依存度って少なくて済むんじゃない?て思うのね。だからこそ勘違いしちゃいけない。カネは手段であって目的じゃない。自分の時間を使わず欲しい物を得る交換手段だけど、それ自体を追い求めちゃ本末転倒だから。
でね、一方考えてしまうの。この人みたいに時間使えば、カネ使わずとも物理的には生きられる。でもね、わたしたちは何のために生きてるんだろう?この人もカネなし生活でヒッチハイクやったりネット経由で色んな人と出会って人生の彩を感じてるけど、そういうのが人生の喜びなんじゃないかな?そう思わない?でね、じゃカネなし生活を簡単には実践出来ないわたしたちが、それをどこで体験出来るんだろうって考えると、それは仕事なんじゃないかと思うのよ。仕事って一般的にはカネを稼ぐ手段だよね。でも同時に、生きてる喜びを感じる活動でもあると思う。そりゃ良いことばかりじゃないよ、嫌な事も少なくないし、つまらない仕事に嫌気さす事もあるだろうさ。でもね、その中で自分で楽しい、嬉しいと感じる仕事をやってる自分の喜び、人に喜んで貰えた時の自分の喜び、自分が成長出来たと感じた喜びは一度でも働いた事がある人なら分かると思う。
でね、面白いのはカネを使わずに生きるのに一番使うのが時間だとしたら、人がカネを稼ぐため仕事に一番費やしてるのも時間だって事なの。だって、会社員や公務員は1日最低8時間は時間を捧げてるでしょ。そう考えると実はカネと時間の関係ってもっと深いものかもしれない。だからわたしは思うのよ。
time is money
という多分、世界で最も有名な格言には、わたしたちが気付いる以上のもっと深い真理が込められてるんじゃないかって。
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投稿者 magurock 日時 2017年6月30日
便利な暮らしの中では、いつも小さな罪悪感に包まれている。
戦時中の話や彼の地の紛争難民、被災地に関しての情報に触れたあとなどは特に、電気のスイッチを入れるときやトイレを流すときにさえ胸がチクリと痛む。うっかり食材を腐らせて捨てるときにも、これを口にできずに死んでいく人だっているのに、と自分を責める。災害用に買い置きしていたミネラルウォーターの賞味期限が切れてお風呂に使ったときだって、自分はなんて贅沢なことをしているのだ、と悲しくなってしまった。そして、ペットを可愛がり、動物園を楽しみながら、食肉を口にする矛盾。
本当は、そのすべての罪悪感から解放されたいのだ。でも、文明にどっぷりハマった自分にできることは限られている。
そんなふうにいつも言い訳をしながらも、解消されないまま圧縮された罪悪感が溜まっていく。
それなのに、そんな罪悪感から解放された青年がいる。『ぼくはお金を使わずに生きることにした』の著者、マーク・ボイル氏だ。
自分としては、お金を使わずに生きていけるということよりも、この罪悪感から解き放たれた生活を送れるということのほうが衝撃的だった。正直、ボイル氏がうらやましくてしょうがない。実際、とても幸せそうだし、時が進むにつれてどんどん成長しやわらかくなってきている。
でも家族がいる身では、子どもにまでボイル氏のような生活に付き合わせることはできないし、家族を置いて自分だけエコ生活に入ることもできない。とはいえ条件的に許されたとしても、自分にそこまでが覚悟があるのかどうか。
では、この状態でできることは?と考えてみる。
今住んでいる町に流れる汚れた川では、飲み水にするどころか洗濯することさえできない。雨水を溜めて使用したいが、隣の県の雨水利用施設の貯水槽で結構な濃度の放射性物質が検出されたという。プランターの野菜だって心配だ。そして豊かな実りのある森もない。
田舎に移住しない限りはできることは限られているが、今つながっているコミュニティをぶったぎって罪悪感解消の道をとることのメリット・デメリットを天秤にかけたとき、やはり今の生活をとってしまうのだ。
文明が進めば進むほど人類は幸せになれる、ということが幻想だと気づいてしまった現代に、ボイル氏が投げかけてくることは大きい。この罪悪感としっかり向き合い、自分ができることを探ってみようと思う。ボイル氏の幸福感の何分の一かでも、味わってみたいから。
投稿者 AKIRASATOU 日時 2017年6月30日
本書を読んで強く衝撃を受けたのは
・自分がいかにお金という幻想にとらわれていたか
という点です。
P19『負債として創造されるお金』で記載されている、お金というのは銀行が作り出してる架空のモノであるという箇所を読んだ時に、自分がいかにカネという幻想にとらわれているたのか点に衝撃を受けた。
言葉として、知識としての信用創造というものはわかっていたつもりだが、お金が幻想であることがP19を読んで腹落ちした。また、P211~P212の途中までに記載された『お金はあればあるほど幸せになれると思い込んでいます。?』というリチャード・イースタンの指摘(お金にとらわれてしまったが故にそこから抜け出せず不幸になる人々についての言及)があるが、この部分を読んで、自分にとっての幸せとは何を指すかを定義しておかなければ、お金という幻想にだまされてしまいお金を貯めることが人生の目的となってしまうと感じた。
お金というのは本来、人生を豊かにするために使うもの、人生を豊かにするための一つの手段であり、人生を豊かにする何かを購入する、サービスを受ける・体験するためにお金を貯めるというのが本来の姿だったはずである。それがいつしか手段が目的化してしまい、お金を貯めること自体が目的となり、お金が無いと不安だという幻想を人類自ら作り上げてしまった。この幻想によりお金に人生の主導権を握られてしまい、お金が無いと幸せになれない、お金があればあるほど幸せになれるという思考になってしまうのだろう。
そのような思考に陥らないためには、【自分にとっての幸せの定義】をあらかじめ決めておく必要があると思う。本書で著者がお金を使わないようにすると決めたのは、そういう生き方が自分にとって幸せな生き方だと定義したからだ。人間にとっての幸せとはお金が沢山ある事ではなく、そのお金を使って何をするか、どんな状態・環境に身を置くかということであり、お金の多寡が幸せを決める訳では無いという事を改めて感じた。
自分という器にどれだけのお金が入るのか、その器の絶対値はプラスだけでなく、マイナスになる可能性もある。それを含めてお金が欲しいという覚悟が無ければ、身の丈以上のお金が欲しいと願えば、お金という魔物に自分の人生を食べられてしまうという、とあるセミナーで聞いた話がここに通ずるのだなと思いました。
投稿者 kawa5emon 日時 2017年6月30日
書評 ぼくはお金を使わずに生きることにした マーク・ボイル 著
ここ数年、自身が現代社会へ持っていた疑問への回答が本書にはあった。それは、
資本主義社会、大量消費型経済社会で現代人、日本人が失ったモノは何か?
本書に於いてその問題解決を紐解くキーワードは何か?
そう、タイトルにある通り「お金」である。
お金が悪いのではない。お金はあくまでも社会生活上のひとつのツールに過ぎない。
寧ろ問題は、そのお金を使う人間側に問題があるのである。
現代人がお金で買ってきたモノは何だろう?
自身なりに抽象度を上げ要約すると、短期的便利さ、快適さだと考える。
故船井幸雄氏の著書、「本音で生きよう」で著者は、
【資本主義は「いまだけ、お金だけ、自分だけ」を追及するシステムである。】
と述べていた。本書の内容と見事にシンクロした。
あらゆるモノにお金を介在させ短期的便利さと快適さを追求した結果、現代人が失ったもの、
それは、生きている(生かされている)実感、共存共栄の思想、
有機的命の?がりの重要性、住環境に対する責任感などではないだろうか?
この辺りの解説は本書の通りで、ここからはそれらを感じさせてくれた自身の経験を述べる。
・実家の前のスーパーマーケット
大学時代から実家周辺のコミュニティを離れ、より都会へ都会へ移動してきた。
これが自身がお金というモノにより比重を(今思えば結果的に)置き始めた変換点だった。
実家生活の一場面、夕飯の準備前に母親が言う、
「野菜を買いにちょっとスーパーに行ってくるから。」
しかし、何十分経っても車が実家を出るエンジン音がしない。。。
そのうち、母親が家に帰ってきた。
(母)「今日もいい買い物が出来たわ。」
(私の反応)「は???車動かしてないけど・・・」
(母)「え?うちのスーパーって、目の前の畑♪最高のスーパーマーケットよ。」
(父が私をあざ笑うかのような満面の笑み)
自家菜園などをやっている方々にはこの会話にある価値感を理解してもらえるに違いない。
生きていることの実感、命をいただけることへの感謝を感じる瞬間である。
それらの価値観は現在のお金換算方式では表示されない。
その住環境を離れた今だからこそ失ったモノの価値がわかる・・・。
お金を介在させ過ぎるとその価値観への判断基準を手放すことになる、
それはつまり食品需給に際し食品供給側の都合へ従わざるを得ないことを意味する。
結果、その思考停止が食品廃棄などへ何の疑問も感じない感覚へと繋り、
大量廃棄を意図せずしても認めることへとなってしまうのである。
自分で食べる分だけを収穫した場合、そうなるだろうか?おそらくならない。
つまりお金を過度に介在させると自身の住環境に対する責任を放棄することをも意味する。
・陶芸体験
人生で初めて陶芸教室に参加した。以前参加の子供達はその食器を今でも異常に大切に扱う。
製作過程も十分に満足だったが、完成品が届いた時、その器をジッ~っと眺めてしまった。
製作の時も意識したが、その器には明らかに自分の命が吹き込まれていた。
元々の素材がいいのかもしれないが、角度を変え、光の当て方を変えると見ていて飽きない。
土(自然の恵み)に火と水を加え、自身の手で命を吹き込む。何とも言えない瞬間だった。
後々のとある日のメルマガ内容とリンクした。神(火;カ、水;ミ)が宿ったなと。
自然素材だけで造ることの出来る日用品。愛着感はもちろん、自然へ感謝せずにいられない。
・ジャンクフードへの家族の対応に変化
「食品における大手チェーン店のファストフードは買わないようにしている」
これが私の考えであり、今もその方針は変わっていない。
しかし最近、子供のそれに対する言動が変わってきた。自身が度々口にするせいか、
「○クド○ルドは体に悪い。食べたくない。」と言うようになってきた。
賛否両論あったとしても、我が家はこの方向性で行きたい。
金額表示のみで安さ、便利さを追求すると、そこには多種多様の感じ方が生まれにくい。
ジャンクフードはその最たる例でいつでもどこでも同じ味が売りモノなのだろうが、
それ故に、食べた時、食べた場所、その味に対する多種多様な感想が生まれない。
これは多種多様が前提の人間社会を許容する態度、更にはそこへと繋がる
コミュニケーションツール(話のネタ)を、奪ってはいないだろうか?
何故なら自身で家族の食事を準備した時の方が遥かに話題が膨らんでいるからである。
失敗作に因るマイナス評価も含め・・・。
お金には何の罪もないけど、現代人はお金を介在させ過ぎて明らかに、生身としての自分、
そしてその存在意義の位置付け方を失っていったのだと本書を通し痛感させられた。
本書を梃子にしたお金との付き合い方、日々の生活改善のネタは足元にめっちゃあるけど・・・。
今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
投稿者 vastos2000 日時 2017年6月30日
おカネについてあらためて考える ~豊かな暮らしとは?~
マーク・ボイル氏は一年にわたりカネなし生活を送った。資本主義体制の国で完全におカネを使わずに生きることができ、かつ原始的な生活ではなく文化的な活動も可能であることに率直に「スゲーな、マジか。」と思った。
この本を読み、あらためておカネというものについて考えた。そして実現すべき豊かな暮らしとはどんなものかを考えた。
●おカネってどんなものだろう。
例えば、カネなし生活を可能にするには何が必要か?
ひとつには、やっぱり田舎に住むことかな。都会は人口密集率が高いから、効率を重視しなければならない。で、あるならば、やっぱりおカネを使って効率化を図るのが一番手っ取り早い。中華料理屋でランチを食べる代償に皿洗いをやっている余裕はなく、ここはその料理につけられた金額を払うのが現代日本の都会というものだろう。
地方に住んでいると、都会よりもおカネを使わなくてもすむ。家庭菜園をやる土地も(わずか1畳だけど)あるし、食べ物で言えば無人販売。スーパーで買えば500円くらいする桃が100円から200円で買えるし(少し形が悪いが味の違いはわからない)、冬になると親戚から段ボール箱いっぱいのミカンをいただく(毎年数個は腐らせてしまいます。ごめんなさい)。
スーパーなどで買う食料品はどこかで誰かが労力を払って作り、誰かがそれを売り場まで運んで、店員さんがお会計をしてくれるわけだけど、これらの労働に対価が支払われているから価格に反映されるよね。
田舎の無人販売はそういった対価の大部分がカットされているから安いはず。無人販売所がある畑でとれたものを収穫してそのまま置いてあるだけのところが多いしね。生産コストだけで流通費や包装費が0円ってわけだ。
そして二つ目には自分に大利ない部分を補完してくれる人を見つける、あるいは見つけられる仕組みを作ることだろう。
これは課題図書の中で著者が書いている、フリーエコノミー・コミュニティーのようなものが相当するんじゃないかな。
この中に書かれているほどではないけど、高校時代の友人はそれぞれ異なる業界で働いているから、たまに会うと自分が知らない業界知識を仕込むことができる。これも一種のコミュニティー。
そしてもう一つはおカネがなくても生きていけるという信念、マインドだと思う。おカネの心配ばかりしていると病気になって死んでしまうからね。
自分でカネなし生活をするつもりはないけど、おカネを使わないで済むのであれば、おカネのためにする活動を減らすことができて、空いた時間を自分のしたいことに使える。これって豊かな暮らしかもしれない。
確かにおカネは便利なツールで、『いつどこで問題が起きても、これまではお金で解決しようと思えばできたが、今後はそうはいかない。』と本書のプロローグ内で書かれている。つまりおカネがあれば大抵の問題は解決可能だということ。
そしてこれは私の考えだけれど、おカネには欲望や権力などのエネルギーを交換可能な形にする一面と、そのエネルギーを数字で表せる面がある。
今回の課題図書の第1章におカネの起こりを寓話っぽく説明している箇所があるが、初めのころは、各人が創造した価値やエネルギーを効率的に交換するためのものだったと考えられる。
また、形態という面を考えると、野口悠紀雄氏が著書(『仮想通貨革命』)の中で書いている『貨幣は情報である。金属でない』という文がしっくりくる。確かにアマゾンや楽天で買い物をするとき、お札や硬貨は使わない。インターネットにつながったPCやスマホを通じて、決裁の日が来ると、銀行が持っている私の口座のデータの数字が減るわけだ。
今回の課題図書を読んであらためて思った。おカネは信用がなければただの紙切れや金属、あるいは電子データでしかない。それ自体に価値はないけど、みんなが「価値がある」と“思っている(信じている)”から価値があるんだ、と。
●では、自分はどうありたいのか?
現在、私は生活に困らない程度のおカネがあって、幸せだしうれしい。定期的におカネを得られる見込みがあるから家族が安心して暮らせるし、自分も家族もいろいろと学ぶことができる。
今後も人生で起きる問題の多くを解決する手段としてのおカネを(必要な分)持っていたい。
おカネという仕組み、とっても便利で今更これを手放すなんてことは世の中がひっくり変えるようなことが起きでもしなきゃ不可能でしょう。
私はゴータマ・シッダールタのような聖人ではないので、おカネに対する欲を断ち切るには至っていない。おそらく死ぬまでできない。
ただ、他人を不幸にしてでも自分が金持ちになりたいかというと、それは思わない(世間の大部分の人はそうだと思うけど)。
自分がいわゆる金持ちになったら、苦学生に対して奨学資金を援助したり、スポーツで世界にチャレンジしたい子どもをサポートできたりすると良いなぁと思っている。
おカネを“持っている”だけでは何の価値もないので、生きた使い方をするのだ。そしておカネがおカネを呼んできてグルグル回るサイクルの一部分に私が組み込まれると、なおうれしい。
そして、自分の肉体や知恵や知識を使って、直接的に人の役に立つのも良いのだけど、遠くにいる困っている人を助けるのにもおカネは使える。
私は毎月、自動引き落としでUNHCRに寄付しているから「オレって良いことしてるなぁ」と通帳を見るたびに思える。
自分が幸せであることはもちろん大事。だけど周囲の人やさらのその周囲の人、もっと広げて“みんな”が幸せになれるようなおカネの使いかたをできるようになりたい。それって豊かな生活といえるかな。
投稿者 str 日時 2017年6月30日
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』
職を失い、借金を背負い、遂には住む場所すらも失ってしまう。それでも生きていく為、社会復帰する為の繋ぎとしての『カネなし生活』ではなく、ボイル氏は自らその暮らしに『実験』と称して足を踏み入れる。なんのメリットがあるのだろうか。“実験結果を書籍として出版し、収入を得る“そういったタイプの人物でない事は序盤のうちから推測出来てしまった。彼は都心から離れての田舎暮らし、川辺や山中でのキャンプなど自然の中で暮らす”体験”をしたい訳ではなく、自然と共に・他者が作り上げたエネルギーを一切使わずに生活する事だった。
ボイル氏は自分なりのルールを設け、絶対にそれを破らない強い意志がある。『カネなし生活』に於いて際どい場面では葛藤し・自問自答するようなシーンこそあったものの、ルールに抵触しそうであるならばそれを拒否し続けた。「それぐらい良いのでは?」と感じた部分も多々あったが、「今日くらいは・・」「今回ぐらいは・・・」といったグレーな部分を許容しては、そのままズルズルといってしまうだろう。そう感じてしまった自分の駄目な面も痛感させられた。
環境保護団体やそれを訴える人は数多く存在する。しかし彼らは本当に水道を使わないのか?シャワーを浴びないのか?電気を使わないのか?移動に燃料が必要な乗り物に乗らないのだろうか?・・極端ではあるがボイル氏の生活と比較してしまうと“偽善者”のようにも映ってしまう。勿論彼らを否定するつもりはない。もし彼らを“偽善者”とするならば、訴えや行動すら起こしていない自分などは“悪”となるだろう。
とはいえ、衣類やスマホ・車など。自分はこれでもモノを大切に、長く使用している方だと思う。人からも「物持ちが良い」と言われる(買い換えられない程のビンボーというわけでもない)節水や節電など気付く範囲での節約はしているし、殆どの人も心掛けていることだろう。けれどそれも生活費、“おカネ”の節約が目的となってしまい、結局は自然の為、というより自分の為なのかもしれない。
『カネなし生活』といっても孤立無援という訳ではない。ボイル氏も多くの人と触れ合い生活し、素敵な関係を築いている。『他人を過小評価しない』ということ『得るのではなく与える』ということを貫き続けた結果、好奇の目を向ける者・ネタを求めるメディア関係者だけではない“仲間“が集まる。他者との”絆”との間におカネは不要なのだと改めて感じさせてくれた。カネあり生活では労せずして得られるモノも『カネなし生活』では当然そうはいかないし時間も知恵も体力も必要だ。だけどそれで同じモノが得られるとするならば、それらはおカネと同じ価値があると言えるかもしれない。なにより苦労して得たモノの価値や感動は普通に入手したものに比べて格別だろう。本書を読みながら・感想文を書きながら、いったい何杯のコーヒーと何本の煙草を価値も感動も感じずに自分は摂取してしまっただろうか・・
人は“知恵“と”助け合い“があればおカネが無くても生きていける。自然の怖さと素晴らしさ。そして人間の持つ素晴らしい一面も同時に教えてくれた一冊だった。
自分には『カネなし生活』は到底真似できないが、労せずして入手出来てしまうモノへの価値をもっと意識しよう。
投稿者 gogowest 日時 2017年6月30日
本書を読む前は、タイトルから、山中に一人籠ったりして、社会的生活やコミュニケーションが欠けた生活になるのではないかと懸念があったが、それは全くの杞憂であった。むしろ金銭を介在させることで、失われてしまったコミュニケーションを復活させることになっています。
金なし生活を始める前に、あらかじめ生活のルールを作っていますが、このなかで「フツー」の法則のバランス感覚がすばらしい。通常の生活をおくっている人々との関係を断つことなく、良い関係を維持しながら「金なし」を実践できるルールにしています。人から善意を受け取る時は受け取り、与えるときには与えるという自然体での取り組みは、とてもバランスのとれた考え方だとおもいます。
著者が企画したフリーエコノミーフェスティバルにかかわったボランティアの人が、お互いに、つながりをふかめていくことが興味深いです。金銭を介在させることで、失われてきたものが、今回の実験で、ひととひとの協力、シャアしあうという精神を呼び覚ましていることが興味深いです。一人の人の行動から発した磁力に感化されたかのように、多くの人、物がひきつけられ、協力し始めるというはなしが圧巻です。
本質的に価値があるのは、天の恵みや人の働きそのものにあるのに、交換手段の形態に過ぎない「金銭」が間に入ることによって、人と対象物が分断されて、モノが無駄に消費されていくという見方にははっとさせられました。25キロの麦の価値は決してスーパーマーケットの値札の金額で、手に入れられるものではない事実は、今まで、全く見えていなかったです。
一年間の実験の中で、周囲からの反対意見を著者は予想していましたが、結構周囲の人からは好意的な反応が多く得られています。同じアイデアをもっていた日本人もいたと思いますが、この本の著者のように実行する勇気のある著者がいること、それを受け入れられる素地のあるイギリス社会は、とても成熟していると思います。日本にはこういった勇気を好意的に受け入れられないところがあるように思いますが、自分も積極的に思うところを打ち出していきたいと思いました。
投稿者 gogowest 日時 2017年6月30日
本書を読む前は、タイトルから、山中に一人籠ったりして、社会的生活やコミュニケーションが欠けた生活になるのではないかと懸念があったが、それは全くの杞憂であった。むしろ金銭を介在させることで、失われてしまったコミュニケーションを復活させることになっています。
金なし生活を始める前に、あらかじめ生活のルールを作っていますが、このなかで「フツー」の法則のバランス感覚がすばらしい。通常の生活をおくっている人々との関係を断つことなく、良い関係を維持しながら「金なし」を実践できるルールにしています。人から善意を受け取る時は受け取り、与えるときには与えるという自然体での取り組みは、とてもバランスのとれた考え方だとおもいます。
著者が企画したフリーエコノミーフェスティバルにかかわったボランティアの人が、お互いに、つながりをふかめていくことが興味深いです。金銭を介在させることで、失われてきたものが、今回の実験で、ひととひとの協力、シャアしあうという精神を呼び覚ましていることが興味深いです。一人の人の行動から発した磁力に感化されたかのように、多くの人、物がひきつけられ、協力し始めるというはなしが圧巻です。
本質的に価値があるのは、天の恵みや人の働きそのものにあるのに、交換手段の形態に過ぎない「金銭」が間に入ることによって、人と対象物が分断されて、モノが無駄に消費されていくという見方にははっとさせられました。25キロの麦の価値は決してスーパーマーケットの値札の金額で、手に入れられるものではない事実は、今まで、全く見えていなかったです。
一年間の実験の中で、周囲からの反対意見を著者は予想していましたが、結構周囲の人からは好意的な反応が多く得られています。同じアイデアをもっていた日本人もいたと思いますが、この本の著者のように実行する勇気のある著者がいること、それを受け入れられる素地のあるイギリス社会は、とても成熟していると思います。日本にはこういった勇気を好意的に受け入れられないところがあるように思いますが、自分も積極的に思うところを打ち出していきたいと思いました。
投稿者 gogowest 日時 2017年6月30日
本書を読む前は、タイトルから、山中に一人籠ったりして、社会的生活やコミュニケーションが欠けた生活になるのではないかと懸念があったが、それは全くの杞憂であった。むしろ金銭を介在させることで、失われてしまったコミュニケーションを復活させることになっています。
金なし生活を始める前に、あらかじめ生活のルールを作っていますが、このなかで「フツー」の法則のバランス感覚がすばらしい。通常の生活をおくっている人々との関係を断つことなく、良い関係を維持しながら「金なし」を実践できるルールにしています。人から善意を受け取る時は受け取り、与えるときには与えるという自然体での取り組みは、とてもバランスのとれた考え方だとおもいます。
著者が企画したフリーエコノミーフェスティバルにかかわったボランティアの人が、お互いに、つながりをふかめていくことが興味深いです。金銭を介在させることで、失われてきたものが、今回の実験で、ひととひとの協力、シャアしあうという精神を呼び覚ましていることが興味深いです。一人の人の行動から発した磁力に感化されたかのように、多くの人、物がひきつけられ、協力し始めるというはなしが圧巻です。
本質的に価値があるのは、天の恵みや人の働きそのものにあるのに、交換手段の形態に過ぎない「金銭」が間に入ることによって、人と対象物が分断されて、モノが無駄に消費されていくという見方にははっとさせられました。25キロの麦の価値は決してスーパーマーケットの値札の金額で、手に入れられるものではない事実は、今まで、全く見えていなかったです。
一年間の実験の中で、周囲からの反対意見を著者は予想していましたが、結構周囲の人からは好意的な反応が多く得られています。同じアイデアをもっていた日本人もいたと思いますが、この本の著者のように実行する勇気のある著者がいること、それを受け入れられる素地のあるイギリス社会は、とても成熟していると思います。日本にはこういった勇気を好意的に受け入れられないところがあるように思いますが、自分も積極的に思うところを打ち出していきたいと思いました。
投稿者 truthharp1208 日時 2017年6月30日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」の読後の感想
お金を出来るだけ使わないないようにするにはどうしたら良いのか、と考えていたところ、ちょうど良いタイミングでしょ?おん先生に課題図書として紹介して頂いた。
マーク・ボイル氏の1年間のカネなし生活ぶり(移動手段は主に自転車、食料は植物を育てたり、スーパーから出るまだ食べられるが廃棄せざるを得ない食材を活用など)は、私には到底真似出来ないと感じたが、考えさせられることは多かった。
主な気づきは以下の3つ。
1.お金に関する新たな学び
4月に受講した金運セミナーで、最も衝撃的だったしょ?おん先生のお話が、
「1万円札は1枚ウン十円(製造原価)の日本銀行券で、たくさん印刷して価値があるものと洗脳されて?広められていること。
本課題図書で得たことでは、預金残高はほとんど誰かの借金ということ、現代の金融システムにおけるお金の大半は、借金として民間銀行で作り出されていることに驚いた。
お金は物々交換を少しでも楽にするために生み出された仕組みだったはずが、いつしか人の力を示す指標の1つになってしまった。
稼ぐことは社会貢献にもなるが、1つ間違えるとどんなに稼いでも心豊かになれない、負のスパイラルに入る恐れがある。
2.与えることと分かち合うこと
マーク氏のカネなし生活は、孤独なサバイバル生活になることを予想していた。しかしながら、人々との関わりや自然の中に身を置くことで、これまでの日常生活よりも多くの気づきと学びを得ることが出来た。ゆえに1年間のカネなし生活が終わっても、そのまま続けることに驚いた。
マーク氏の取り組みに比べたらまだまだ規模は小さいが、最近はしょ?おん塾生仲間を含めて読み終えた本の譲渡や交換が活発になり、喜ばれることが多くなった。
3.自己反省と自分なりの取り組み
かつての私は、買い物依存症予備軍と言えるくらい、ただ欲しいだけの理由で洋服や靴、化粧品等をデパートで買い漁ってはまた何かが欲しくなり、後先考えずに買い物を繰り返していた。
改めて振り返ると、その頃は自分を満たすことが出来ていない上、満たす方法も知らなかったし、買い物で現実逃避していたと改めて痛感した。
意識改革、自己規律の一環として、洋服を買う時に、本当に必要なのか考えるようにしている。その他、苦手だからと避けていた料理に取り組み、野菜を多く摂取するようにし続けているうちに、心身ともに調子が良くなっていった。
今月も良書をご紹介頂き、ありがとうございました。
投稿者 rarara 日時 2017年6月30日
世界を変えたければ、まず自分がその変化になりなさい。
最近、手にした本、DVDの登場人物が、
仕事を辞めて貯金だけで暮らしてる人、
仕事を辞めて節電もしてる人、
一度、部屋のなかの物、洋服を全て、トランクルームに預けて、一日ひとつずつ選び出すということを1年した人のエッセイや物語でした。
3人とも、縮小して、こじんまり、心を閉ざしていくのかと思いきや、全く逆で、伸びやかで、楽しげで、知人から、美術館のチケットをもらって息抜きしたり、エッセイを書く仕事が舞い込んだり、気になる彼女の自転車を直すのに奮闘したりと何やら充実しています。
極端に全てを変えてみる。
そして、ほんとに大事なものだけに
心や時間、ツールとしてのお金を
割くことをひとつひとつしっかり決断する。
そういう限られた環境のなかで
選びとっていくことをコツコツと続けていくことで、自分の人生がキラキラとしてくるのかもしれない。
とはいえ、お金は、便利である。
例えば、極端なところ
お金を払えば、マッサージをしてもらえる。
今の私に、お金なしで、マッサージをしてくれる人が何人いるだろう。
私の仕事は、お客様に技術を売る仕事なのですが、中には、購入をやめる方がいます。
その際に、
たまに、こちらが、親身になりすぎて、自力で出来る技術を細かく教えてしまったりします。
(上司には、言えませんが。)
でも、全てのお客様にではないのです。
教えたくないなあ。って方もいるのです。
私も、前者の方のように、販売員の方から、お金では買えないものを受け取れる人でありたい。
お金のつながり お金を介さないつながり
半分ずつ、偏らないように大事にしていきたい。
投稿者 akirancho0923 日時 2017年7月1日
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んで
豊かさとは何か。お金がなくてもどうすれば豊かに感じることができるのか。
たくさんのエピソードを通して、筆者の価値観や信条に基づいた行動を確認しながら
こういうアプローチを実践する人がいるんだなぁ、と新鮮に感じました。
また、有名な「youtuber」もそうだし、しょ~おんさんもですが、
毎日、好きな何かを継続して情報発信するってことは
豊かさと繋がっているのかなぁ、と気づきました。
好きなことは毎日続くし、ノウハウとか役に立つ情報発信は智の道につながるんですよね。
おまけにコミュニティ作りにもつながる、おまけつき。
お金を得るために毎日何かを続ける、っている出発点ではなくて
毎日好きなことを続けることで豊かさを手に入れるっていう。
それが時にはおカネであったり、経験であったり。
だから自分自身が豊かだなぁ~と自覚している人は
自然と金運も良いんでしょうね。
メルマガにもありましたけど、好きなことを続けることで
自尊心が高まって、結果、周りに対しても見える世界が変わって
優しく接することが可能になって、結果、自分に返ってきて
幸せになるというサイクルも出来あがってくる。
資本主義経済がシュリンクしてる、とか
最先端の情報にどうしても振り回されてしまうのだけれど、
自分が豊かになりたいから、こういう生き方してますって
イキイキした表現っていうのは、お金では買えないし
まして、同じような考えの人たちが集まってきて
より一層充実した人生を送れるような気がしますよね。
本書を通して、幸せになる為の原点がハッキリ見えた気がします。
まずは好きなことを継続することで
変化を楽しみたいと思います。
ありがとうございました。
投稿者 haruharu 日時 2017年7月1日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで
本書から学んだこと。
愛情・敬意・気遣いをもう少しこの世界に注ぎ込んだら、それらの蓄積された世界から、皆が恩恵を被るに違いない。この流れに身をまかせているときが、人生はいともたやすく感じられ、抵抗することも、潮に逆らって泳ぐとこもない。
必要な物は人生が与えてくれると信じるようになってから、ぼくは何事にもとらわれなくなった。
私は、今まで生きてきて、人様に対して赦せず、返したいと思ったことは1度や2度の話ではなく、100回や200回の話でもないでしょうが、その気持ちは何とか心にしまってきた。いや、抑えきれずグチグチこぼしたりも沢山ある。
ここで自分が返してしまうことは、復讐の螺旋に足を踏み入れるということになる。きっと抜けだせなくなる。わざわざ相手がハマっている所まで降りて行き、余計な泥仕合をする必要がでてきてしまう。
何という苦しさでしょう。
著者は言う。ぼくは自分が住んでる世界と折り合いをつけていくしかない。理想の世界など存在しない。このままでいいとは思っていないが、今、現に生きているのはこの世界だ。
この言葉を自分の置かれてる環境に当てはめてみた。
全員が何十年同じ屋根の下に暮らしてきた大人数の中に、私一人だけがある日突然やってきて何か言っても全く通じない。今までの常識、世間一般の常識が全く通用しないのはなぜだろう?そう公私混同が激しい。
割り切るということや、折り合いをつけるということがわからなかった。
私のテーマが見つかった。
〇は〇足らずとも、◇は◇たれ。
◇には私がはいるのだが、立場で子が入ったり、妻が入ったり、上司や女将、姉や永遠に可愛い姪っ子が入ったりする。
薄皮一枚でいいから、上回ることをしようと思った次第である。
投稿者 tadanobuueno 日時 2017年7月1日
必要なことは1次スキル。
肉体的な健康、自制心、配慮・礼節、与え分かち合う力。
これを備え、信じる生き方を自らが持ち、考えが異なる人間を含めて全ての人間を巻き込み動いていければ、どんな願望は叶っていく。
その時、お金はもはや些細な存在になっている。
本を読んで改めてそう感じた。
結婚して子供が産まれ、世の流れを見ていて、自分自身、お金に左右されない為にどう生きて行けば良いのか?を、この数年模索し続けている。
お金に左右されない暮らしは、お金の為にやらなければならないことを減らす、に帰結する。
ただ、自分の仕事に対してやりたくない!と言えるには日々の食生活をどう支える、会社が納得する新たな軸が必要だし、仕事でやりたい事と会社の望むことを合わせるには時代の先を行き、こちらから提案するしかない。
動き始めて分かったが、日々の食生活をまわすのに必要な食材は地方で余っていることを知った。
自分が納得することを会社でできるかは、時代の先は沢山あるのだから、まずは自分の理想を突き進めることから始めてみる
地方に余剰な食材が余っており、企業は新たな考えを求めている。
自分としては子供達の食農体験とその費用を地方の農家の方に払うことで物の流れを作ろうとしている。
考えたことをすすめてみる。
まずそこから進めていきます。
投稿者 chaccha64 日時 2017年7月1日
「僕はお金を使わずに生きることにした」を読んで
お金を全く使わずに生活できるのか。それもイギリスで。
自給自足の生活ならば可能かもしれないと思っていたが、そんなことはなく、PCを使ったり、アイルランドやフェスティバルへ行ったり、フェスティバルを開催したりと普段の生活に近い生活をしている。そして、ついに著者は1年間お金を使わずに生活した。
本当にそんな夢のようなことができることを著者は証明した。
金なしの生活に必要なものは、大工仕事、野菜栽培のような技術だとばかり思っていた。著者も最初はそのように考えていたようだが、それよりも、肉体的健康、自制心、配慮と礼節、与え分かち合う力が必要だと言っている。つまり、人間同士の力、コミュニティの力、助け合いが重要だということなのだろう。
現代社会が大量生産、大量消費により地球の資源を必要以上に消費している。そして、地球環境を破壊している。それに嫌気がさして、地域コミュニティの再生を願い、金なし生活を始めたわけだ。なので、他人との助け合いが重要になるのは当然だったのだろう。
初日、最終日のパーティはそのいい例だ。
グローバルな世界でなく地域コミュニティを重視していけば、必要なものも少なくなり無駄も少なくなると思う。コミュニティで助け合えば無駄も少なくなる。そのコミュニティではお金を使う必要はなくなるのかも知れない。しかし、金なし生活、フリーエコノミーが最終的な解決方法なのだろうか。
地球資源を必要以上に消費し、環境を破壊するのを止めるために全くお金を使わなくするのが良いのかは疑問だ。お金はツールだと著者も言っている。ツールであればそれは使い方の問題だ。お金は便利なものだ。フリーエコノミーという極端に向かわなくとも何らかの解決策はあると思う。
自分にはい思いつきませんが。アーミッシュの人達は、地球資源を無駄にしているようには思えない。使うもの使わないものを決めていくという方向でもよいのかもしれない。
投稿者 2l5pda7E 日時 2017年7月1日
「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで。
私は今現在、お金を得る為の現代の常識によって労働を強いられている。
何もかも手放して自由になりたいと願ったことは幾度もあったと思う。農家になって、自給自足で暮らしてゆければ良いと考えていた。
・金なしという事
資本主義という、今お金と引き換えに生活するという二次的な生活が目の前に広がっていたのだ。
しかし、大昔から何かと何かを交換するという行為は続けられてきた、大昔お金は石だった。
資本主義社会の中でも、お金を必要とせず物と物を交換するコミュニティがあったり、本を貸しあうコミュニティもある。
お金を使わないという行為を俯瞰してみると、お金の価値を決めているのは何かという事になる。
例えばコンビニやマクドナルドのコーヒーは100円で買えるのに、スターバックスやドトールのコーヒーは400~500円くらいする。
現代の価値感によってきめられている。誰かが決めた値段だ。
・実際に自分でもやってみる
ソーラーパネルを買ってモバイルバッテリーを購入して実際にやってみた。
実際にやることはできる。小さいソーラーパネルだが、晴れている日に充電すれば、3~5日程度の電力を得ることができる。
通常使っている電力にロスがあることは、知らなかった。しかも原子力や火力に頼っている現在の電気の生産方法は、資源を失ってゆく。
・必要と不必要の境界線
必要なものを必要な時に使う、このスタンスでよいのだと思い当たる。現在生活している中で不必要なものが非常に多い気がする。
・実際にやり切れるか
たとえどんなに素晴らしい生活だとして実際にやろうと思う気持ちがあっても、簡単にできるものではない。
やり始めたところで、やり切れるかという保証もない。
しかし実際にやってみなければ知らない情報も多い。頭で考えることも重要だが、それだけではない。
金なし生活を選んだ著者の生き方は、人を呼ぶ。人類の発展に必要なものはシンクロニシティでつながってゆくものだ。私には人生を通して何ができるだろうか。考えてゆこう。
良書をご紹介いただき、誠にありがとうございました。
投稿者 wapooh 日時 2017年7月2日
201706【僕はお金を使わずに生きることにした】を読んで
『お金のために生きるのではなく、生きるためにお金を使う』ことを強く意識するために、「お金を使うことを無くして生きる」。一年間限定で、著者は独自のルールに基づいてこの命題を成立させた。本書を読みながらそれを認識し、自分の中の世界観も少し変化させられるのかもしれない、と考えた。
「お金はただの紙である」という言葉をよく耳にするけれど、強く意識してみると、確かにその紙の多寡が幸せに直結しないよな、と以前より深いところで納得ができるようになった。豊かさと所持金額や収入の数字とはイコールではないことは、これまでの課題図書でも意識させられていることであるが、時に腑に落ちない。最近ではボーナス支給時に、何の確たる根拠もなく気持ちが落ち着かない自分がいた。
読後に「今の稼ぎよりも少なくても収入でも、本書で学んだような考え方と生活スキルのベースを身に付けていれば、これまで自分が恐れていたよりも、また、お金を全く使わないと決めた著者の生活よりも便利で豊かな生活が送れるかもしれない。自分の意識と知識と方法論と行動次第で、収入が途絶えてもまたやり直せるだろう。」と安直にも意識してしまったのだ。ただし何の計画もなく、本書のような生活をすることは出来ない。著者も、初期投資と生活を分解し想定しうる消費活動について、重要度をリストアップし、取捨選択し、備えていた。思いを理解して支援してくれる仲間の存在やネットスキル、等何がしかのリスク対策スキルが必要だし、事前の備えが万能ではない事例が沢山起こっている。
『お金を使わない』と同時に『オフグリッド』の生活をする、という2つの軸に基づいて読み進んでいると、「マイレージ」という言葉が目についた。マイレージを小さくすること、身近なリソースを探して活用することでお金を使わずに済むことも多く見つけられる。人々のつながりは、消費文化よりも遥かに濃く、充実していて、人の心を震わせる(=幸せを感じられる)傾向にあることも。それは事実ではあるけれど、ふと疑問がわいてきたのだ。
だからと言ってお金というシステムが不要なわけではない。
現代の高度で便利な社会は、彼の言う「フリーエコノミー・コミュニティ」だけで実現可能なのか?今の世の中の物差しで言えば、ノーだと思うのだ。
お金、貨幣経済というシステムは凄いものだと改めて感じた。無から有を、ただの物質から人に有用な道具や栄養を与える。国(位置)も時間も超えることが出来る数字。これを可能にするのは人間の持つ「見えないものを見る力」なんだと。
見えないものを見る力、さえ見えないのだけれど、つまりは一人一人の思考によるものであるわけで、今更ながらに、マネーマネジメント編の解説を思い出した。お金=信用価値を表す数値、への信頼。資本主義、お金を準備してその信用を元手に工場を建て、労働力を雇用し、物を製造する。鉄の塊から自動車や飛行機、果てはロケットまで。世界中の人々が手にする携帯電話を作るのにどれだけの資本や資源やエネルギーが動いているのか。高効率な工業技術によって大量生産された結果、誰の手にも入るもの。そもそもこの考え自体が、根本から間違っているのだろうか。国益の無い途上国にも、車を走らせインフラを整えられるのは、カネの動きがあるからではないか?動くお金を考えると、果たしてマイクロコミュニティの概念で、同様の発展がかなえられたのかどうか。勤務先の田舎の化学工場とはいえ、工場一つ、装置一台を動かすお金や、生産により世界へと送り届けられる製品の流れを見ながら、感じるのだ。ただの紙きれとはいえ、二面性を持っている。
著者が問題提起しているのは、人間のお金に対する執着だと思うのだが、これは目に見える勝ちばかりを追い求めるからこそ生じるのではないだろうか。『クリスマスの熱狂』や『バーゲン会場での不幸』や『自分の生きているうちにオークの木陰で休めるようにならないからと言って、ドングリを植えるべきではない』というように。時間の積み重ね=この場で我々が日々の継続で植え付けているスキルなんだ。
「見えないものを見る力=頭の中の力を充実させる大切さ」と一口に言っても、実際の価値観や方法論は様々ではあるが、いつものことながら、心を込めて行動すること、経験すること、読書することに価値があること、そのうえで自分の日常にどう活用して行き、人生にどう投影してゆくのかが重要、と改めて感じた。著者のように、覚悟を決めた時、あらゆることが動くようになるが、覚悟を決めるのは本当に難しい。今月もとても貴重な一冊との出会いを有難うございました。