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ハイグレード課題図書のページへようこそ。

ここでは毎月1冊、しょ~おんが「これは!」と感じた、難易度高め、または分量多めの本を、課題本として選んでいます。

読書好きを自認する方のみを対象としたページです。ここに書き込みをするめたには、会員登録が必要なのでここから登録をお願いします

 

締め切りは毎月月末最終日で、翌月1日から2日に掛けて、投稿した方による推薦が行われます。これは自薦も他薦もOKで、推薦人1名につき、1ポイントの獲得となります。推薦はこちらからメールでお願いします。推薦された方については、メールマガジン上で発表すると共に、毎月の課題図書でもお知らせします。

このポイントを半年間で多く獲得した方に、佐藤しょ~おんより、プレゼントをお贈りする予定ですので、奮ってご応募ください。

このページに書き込む方は既に課題図書を読まれている方ばかりなので、本文の要約が多い投稿は推薦されにくいと思われます。課題図書を読んで、何を感じ、何を考え、それがご自身の人生や生活にどのような影響を与えたのかということを書いて頂くと良いと思います。また分量は2000文字程度を上限としてください。

他者や著者への中傷や攻撃的な言葉を使われる方については、こちらで投稿を削除することもありますのでご注意下さい。

それではHappy Reading!

2023年10月の課題本

10月課題図書

  

「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か

 

です。日本で風評被害が起こる土壌というか、メディアの偏りというか、彼らの論理を理

解した方が良いと思うんですよね。これは完全に人災で、多くの人が彼らの問題点に気付

いて、糾弾するという姿勢を持たないと、

 

 

  ● 安倍元総理について、一番印象に残っていることはなんですか?

 

 

という質問に、「モリカケ問題!」って答えてしまう人になってしまうんですよ。いくら

なんでも暗殺された政治家の印象に残ったことが、根も葉も見つからなかったスキャンダ

ル(もどき)って、メディアの悪いところに毒されてしまったとしか思えないんですよね。

 

ま、これを読んで眼が覚めるような人は、メディアにやられることは無いと思うんですけ

どね。

 

【感想】

投稿者 shinwa511 日時
本書を読んで、自分が得る情報は他の情報と比較して選択する事ができる、という事を改めて感じました。

確かに本書で書かれている通り、報道機関自身が判断する主体として矢面に立たず、「○○による風評被害が懸念される」と表明して、記事を読んでいる読者に「○○は悪いものなのか」と何となくぼんやりした印象を与え続ける行為は、間違いなく風評加害の行為です。

多くの読み手の中には、ぼんやりとした悪いものなのかという印象を受ける読み手もいれば、悪いものだという不安を感じ、過敏に反応を示す人々もいます。人々は不安を感じる事によって、対象を排除しようとする差別者が生まれるのです。

科学的根拠をいくら説明しても頑なに納得しないのは、ネガティブな情報を受けた側が、不安という感情に翻弄され、正しく理解することを放棄してしまうことも理由の一つと考えます。

恣意的に間違った情報を流す人は、さらに質が悪いですが存在します。過去の歴史でも、第2次大戦中のドイツが行ったプロパガンダの情報で国民を扇動したり、旧日本軍でも大戦中に報道管制を敷いて、日本軍が連戦連勝をしているかのような情報を流すなど、得られる情報が一辺倒のものであれば、出される情報を信じようとする人達はどんどん増えていきます。

また、今でも自分が正義だと信じて疑わない人々や国は、自身の正しさを他者に強要します。それが宗教や、過去の歴史認識が基となる紛争や戦争へと発展してしまいます。
中東のイスラエルとイスラム組織ハマスとの紛争は絶えず、ロシアがウクライナへ始めた戦争もまだまだ終結する見込みは立っていません。

与えられる情報が間違った情報が含まれるのだとしたら、正しい情報とはどのようにして得れば良いのでしょうか。そもそも、正しい情報とは何かを考えなければ、正しい情報を得ることは出来ません。

この「正しい」とは、「正しさ(正義)」の意味ではなく、情報の「正しさ(正確さ)」の事を指します。

得られた情報が正確かどうか、を判断するには発言された意見の中に、矛盾があるかどうかが判断する為の材料となります。
もしも発言した意見の中に矛盾があるならば、正しくないと判断してよいと考えます。

例えば「科学的見地に基づいた、理性的で冷静な判断をしている」と公約を掲げた政治家が実際には、科学的に基づいた意見に対して反発し、食い違う発言を行い、誰かに我慢を強いる政策を実行するとするならば、その言論や行動は矛盾していると言えます。

或いは、OOという人の発言を信用するというのも、正確な情報なのかどうかを判断する際には一つの判断材料となります。

実際に全てのデータの正しさを個別に一つ一つ検証するのは不可能なので、自分以外の誰が発言し検証したことなのか、という事も選択する際には、判断材料の一つとして含める事ができます。

あまり過信し過ぎてしまうのは禁物ですが、デタラメばかり言う人の主張に賛同せず、他の情報よりは多少信用してみるという使い方をしていけば、他人の意見に翻弄されることもなくなる筈です。

物事を正しい正しくないと判断する際には、根拠としている情報があるはずです。

自分が得た情報と矛盾する情報が出てきたならば、自分が正しいと判断した情報と、自分が得た情報と矛盾する情報のどちらかに間違いがあるという事です。どちらの方がより正しい情報なのか、比較と検証する必要があります。

人は簡単に間違えますし、騙されます。正確な情報に基づいた正確な判断を下していくためには、情報を得る自分自身が注意して、比較を進めていくしかありません。

現代の無責任な発言が拡散され、支持されて、現実に実害を生みがちなネット社会において、正しい情報なのかを他の情報と比較していくしかありません。安易に情報を鵜呑みするのでなく、冷静に検証を行い正確な情報を得る判断をしていくように注意します。
投稿者 LifeCanBeRich 日時
“情報災害を低減させるために”

本書を読み終えて、まず私は猛省した。なぜなら、私は2013年に国連科学委員会からの東日本大震災後の福島の安全性に関連する報告を知らなかったからだ…。つまり、放射能の被曝と甲状腺がん発生との関係が科学的に否定されている事実を知らなかったのだ。さらには、処理水問題についても、科学的な見地から安全性が認められていて、実際、福島から放水される処理水の幾倍もの量が世界の各地で既に放水されているという事実を知らなかったし、調べようともしていなかった…。私は、このような無知、無関心さが情報災害の低減を妨げる理由になっているのではないかと思う。なぜなら、私は本書を読むまで、福島という地域に対して、放射能汚染されているという偽情報から福島産の農水産物に少なからず負のイメージを抱え、買い控えをしていたからだ…。ということで、まずは福島県民の方々に深い懺悔と謝罪の意を持った。そして、本書が執筆された目的である“情報災害をいかにして低減させるか”(P.160)について真剣に考え、行動しなくてはいけないという思いに至った。なぜならば、情報災害は福島県の震災風評に限らず、今後は身の周りでも日常的に起こり得ると考えるからだ。

情報災害とは“風評などの人々の内心の不安やデマ、それらが伝搬する流言によって生じるものであり、災害本体に勝るとも劣らない人的、物的被害を発生させる”(P.279)ことだ。例えば、1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺事件が有名だ。これは、大地震後の混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた、放火した」などの偽情報が流れ、それを信じた人々が多数の朝鮮人を虐殺したのである。近年では、2004年の新潟県中越地震の際、柏崎原発から放射能漏れしているという偽情報により、新潟県内の宿泊施設のキャンセルが相次ぎ観光産業が多大なダメージを被った。そして、本書中でも、著者の知人が体験した震災離婚や福島からの転校生が受けたイジメなども耳目を疑うものだ。上述した例は、どれも偽情報に振り回され、人を殺したり、風評を流布したり、陰湿なイジメをしたり、被害者側に精神的、身体的なダメージを与えた。どれも差別的であり、非人間的な行為で許されるべきではない。ただ、私は加害者側の心理と振る舞いもよく観察し、注意を払う必要があると思うのだ。なぜならば、人々は(マスコミも含めて)不安に陥った時、日常では理解できない、尋常とは思えない、考え方や振る舞いをすることがあるということを教えてくれるからだ。

本書や上記中で分かるように情報災害は大地震のような自然災害時、社会に不安が蔓延することで起こる傾向にある。では、私たちは、本書の命題である情報災害の低減を考える時に、大きな自然災害発生時についてのみに心構えをしておけばよいのだろうか。そうではないだろう。情報災害は対岸の火事のような遠くの出来事ではなく、もっと身近で起こり得るものだと、私は考えている。なぜならば、情報災害が社会の不安定期に起こるのであれば、現在のVUCAと呼ばれる激しく、複雑で、不確実性を含んだ時代は、十分に社会を不安に陥れ、情報災害を起こし得ると思われるからだ。繰り返しになるが、そのような状況下で人々は(マスコミも含めて)、日常では理解できない、尋常とは考えられない振る舞いをすることもある。例えば、SNS上で出回った偽情報が誹謗中傷を生み、最終的にいわれのない人が自殺に追い込まれたりする事例が散見される。もっと身近な事象でいえば、職場内でありもしない偽情報が蔓延し、精神を病んだり、離職を余儀なくされたり、時には自殺に追い込まれるという事例を耳にしたことはないだろうか。私は、これらも情報災害だと考える。なぜならば、社会が不安に陥っている時に、人々がスケープゴート的に第三者に対して集団的に追い込みをかけるという、関東大震災、新潟県中越地震、そして東日本大震災で見られた側面と同じことが露見していると思うからだ。

では、上記を踏まえ、情報災害を低減させるために、被害者にも加害者にもならないために、今後我々はどのように考え、どのように振る舞っていけばよいのだろうか。まず、被害者にならないために、被害的な状況に陥ったら、偽情報に反対声明を上げて抑え込みを図るべきだろう。これは、福島県が“寝た子を起こす論”(P.48)を恐れ、風評被害の抑え込みに失敗したことからも明らかだ。次に、加害者にならないためにはどうするか。ここでの加害者は、意図的に他者を傷つけようとする人々ではなく、冒頭で述べた私自身のように無知、無関心であるために偽情報を信じ込み、実質的に情報災害に加担している人々を指す(私の場合は、福島の農水産物の買い控え…)。確かに、この情報過多の時代に事実を突き止めるのは骨が折れる。ただ、知ろうとするという小さな行動が積み重なることで、情報災害が少しずつでも低減されていく、助かる人が増えるというならば、手を動かして調べるべきではないだろうか。これから、日本は自然災害だけではなく、戦争を含んだ国際情勢や弱体する経済、治安の悪化など社会不安は否応なく増していく。その中で、我々はどう考え、どう振る舞うかを各々が熟慮するべきだろう。


~終わり~
投稿者 vastos2000 日時
『はじめに』で取り上げられている、毎日新聞と社会調査研究センターが東京五輪後に実施した全国世論調査の質問(p3)、『五輪の開催が新型コロナウイルスの感染拡大に影響したと思うか』。実際にこの調査結果が掲載された紙面を見たわけではないのだが、その後の本書の文脈から、実際は五輪による感染拡大はなかったとする研究結果も併記されていたものと推測するが、毎日新聞社はどのような意図でこの質問をしたのだろうか?
「思っていることと事実は違いますよ」と訴えたかったのだろうか?朝日新聞や毎日新聞と聞くとそのような意図ではなく、「東京五輪は開催すべきではなかった」と訴えたかったのではないかと勘ぐってしまう。(これも正しい見方ではないかもしれないが)

この例に限らず、テレビ局・新聞社が劣化しているような気がする。(個人の感想です)
インターネット、さらには常時接続サービス、スマホが普及したことで、かつてはあったテレビや新聞の価値が下がったことが原因であると思う。かつては個人が情報発信することは不可能に近かったが、今では(どこまで届くかは別として)個人で情報発信、意見の発信ができるようになった。
そのため、文章については訓練を受けたこともなければ、自分の各文章に注意を払わない人の文章を目にする機会も増えた。内容はともかく、新聞紙に掲載されている文章は一読してその言わんとするところは理解できる文章だが、ネットにはそうでないものが溢れている。
 上でも書いたように、インターネットやスマホ、SNSの普及により、一般的な市民が(低コストで)入手することができる情報量が爆発的に増加した。「タイパ」を気にする若者が増えていることも、情報量の増加が要因の一つだと考えるが、見聞きする情報が増えたことにより、一つ一つの情報(報道内容)について考える時間が減っているのが、マスメディア劣化(と感じる事)の要因と考える。
限られた資源である電波を使って映像を放送しているテレビ局、なぜか軽減税率が適用されている新聞はいまだ大きな影響力を有しており、テレビ放送、新聞紙面だけでなく、ネットを通じても情報発信し、その考えやニュースを広めている。であるからこそ「第四の権力」や「公器」などと言われていたのだが、ここ10年ほどはとてもそのようには思えない。
私は、特にテレビの劣化が激しいと感じ、数年前からテレビ放送は見ないようになった。そのようなテレビや新聞であるが、まだまだ影響力は大きい。知り合いの会社がローカル局でテレビCMを1年前から始めたが、その効果は確かにある(知名度があがり、取引量や問合せが増えた)とのことだ。先日も人気の定食屋の前を通りかかった際に、いつも以上に行列ができていたので、その事を同僚に言ったら「昨日テレビで紹介されていたよ」と教えられた。
このように影響力があるのだから、放送(報道)内容には注意を払ってもらいたいのだが、民放はその構造上、視聴率を気にしなくてはならず、そのためインパクトのある内容に編集が振れてしまうのだろう。テレビ局にカネを払っているのは視聴者ではなく、知り合いの会社のような広告主なのだから。
おそらくは、そのような編集方針であるので、時に、ある特定の層にウケる偏った内容の報道を行い、結果、本書のような風評加害を行ってしまうのだろう。
「偏った内容」と書いたが、個人的には別に偏っていても構わないと思っている。ただし、自らのスタンスを明らかにして、視聴者や購読者がそれを承知している場合で、だ。
中立の立場であるかのような顔をして偏った報道をするのは誤解や風評加害のもとだ。
民放局はどうしたってスポンサー様のことが気になるので、右にも左にも偏らずにいることは難しいだろう。日清食品やマルちゃんがスポンサーについている番組で、保存料や添加物の害を取り上げることはできないだろう。

そんな背景があるよということを意識していないと、自分も加害者側になってしまうかもしれない。公共の場での発言は注意しているつもりだが、それでも意図せずに誰かに害を加えていることがあるかも知れない。コロナウイルスが感染拡大している時も、いろいろと思うところはあったが、同僚に対してもあまり自分の考えを話さずに過ごしていたが、それでも意見を聞かれれば答えていたので、どう捉えられていて、その人にどんな影響を与えたかを正確に知ることは難しい。
 すでにテレビと新聞は見ないようになっているので、情報源はラジオとネット中心になっているのだけど、ネットについてはどうしてもフィルターバブルからは逃れられない。その点は注意が必要だ。私のPCでYahoo!Japanのトップ画面を見るとサッカーと将棋関連のリンクが多い。それらの多くは大手出版社や新聞社配信のものだから、テレビでも放送されているであろうものが含まれるわけだから、試合や対局の結果を知るだけならともかく、貼られたリンクは注意してクリックしなければならない。
とはいえ、常に注意をしていることは難しいので、ネットに触れる時間自体を減らすのがよいのかも知れない。
 そしてもう一つ心がけているのは、自分自身の考えにも偏りがあるという点だ。右寄りな傾向があるし、飲み食いするモノに対するこだわりも強いし、いくつかのナショナルブランドは嫌いだし。
 いつ自分が被害者になるかということのコントロールはできないだろうけど、加害者になることに関してはだいぶコントロールできると思うので、極力、風評加害者にならないように生きていきたい。
投稿者 tarohei 日時
 本書は、東日本大震災後の福島県に対する情報災害(風評加害)の実態と経験を中心に据えて、現代に蔓延するデマやフェイクニュース、陰謀論といった問題のメカニズムを解き明かす内容となっている。
 "普段から弱者の味方の如く振る舞う知識人とそのシンパ、報道、学者、政治家、芸術家や伝統宗教の関係者" と本書でも述べられているように、マスコミは事実とは違う被害者の声やありもしない架空の被害を報道し、いわゆるフクシマと言われる実際の福島とは異なる幻影を作り上げ、ありもしない恐怖を煽ってきた。
 そして事実を都合のいいように作りかえ、切り取り、真実を歪めて報道してきたマスコミに対して、現場の立場で繰り返し真実を主張してきた著者の怒りを肌で感じ取ることができた。

 実際の福島原発事故の放射線被害は死者どころか健康被害をもたらすほどの被害はなく、既に2013年には今後これ以上被害が増大する事はないという報告がなされているにも関わらず、そういった真実を報道することがたびたび阻まれてきた。
 例えば、2019年に福島の現状を伝えるテレビCMを復興庁が作ったが、放送ができなかった。どういうことかというと、そのCMは福島原発事故から疎開してきた子供たちへの偏見や差別の解消を目的に作成されたものだった。しかし、放送局側からは、現段階では放射線の影響とリスクは完全には明らかになっていない、という理由により、止む無く差し障りのない内容に変更した。にも関わらず、復興はまだ終わっていない、避難者はまだいる、福島が元気だと報道するのは今苦しんでいる人への配慮を欠く、被災者感情に配慮すべき、という理由で、放送が拒否されたのである。
 ある意味、テレビ局側の忖度や独善ともいえる正義に拒まれ、真実の報道が妨げられた一例である。

 さて、本書のタイトルになっている正しさの商人とは死の商人と対比した表現であろう。正義の名の下に、売上を上げるため、政治に利用するため、競合他社を出し抜くため、様々な理由はあろうかと思うが、なりふり構わず、報道してきた。それにより、被災者の福島の人たちは、いわれのない偏見や差別を受け、どれだけ真実を伝えようとしても拒まれ妨げられてきた。
 本書では、それらが撒き散らすニセの正義をデマ・風評加害と言う。そして、そのデマ・風評加害を撒き散らす加害者たちが処罰されることはないともいう。

 このように、なぜ人々はデマ・風評加害をあっさりと信じてしまい、踊らせるのであろうか。それは、受け入れがたい現実や少ない情報、そこから来る不安、その不安を解消するための納得できる何かを求めるためだという。
 例えば、放射線に対する不安、福島の食品に対する不安、被爆するかもの不安などがある状況で、物知り顔で専門家気どりの有名人が危険であると報道する。前提知識も事実も知らない我々はなるほどそれほど危険なものなのかと納得し刷り込まれる。その後、いくら科学的根拠や調査結果が示されても、一度刷り込まれたイメージは払拭されないという構図である。

 この構図での類似例は、安倍元総理銃撃事件の陰謀論が挙げられると思う。安倍元総理が射殺された、受け入れ難い事実、犯人の信じ難い動機、あり得ない武器・殺害方法。そこには何か隠された真実があるはずだ、単独犯行であるわけがない、別の角度から狙った真犯人がいるはずだ、警察も政府も真実を公表していない、背後に暗殺計画を企てた闇の組織があるはずだと考え、心の安堵を得ようとする構図と同じである。
そして、このようなデマ・風評加害は鎮静剤のような役割を果すため、不安を払拭するため、心の安堵を得るため、どんどん広がっていくのである。

 では、デマ・風評加害を広めない、デマ・風評加害に惑わされないためにどうすればいいのであろうか?
 情報を報道する側、つまりマスコミ側は真摯に事実を報道し、それと異なるデマ・風評加害が広がったならば、それを否定する反論を根気強く続けていくことである。
 例えば、福島原発事故の場合、被爆の不安を煽るようなマスコミ報道に対して、科学的根拠を示して被爆被害は起こっていないことを反論する必要がある。それは被害者や一般人が行うのではなく、政府や自治体が行うべきなのである。しかし、実際には被害者や問題意識を持つ第三者が仕方なく反論してきたのが実情である。なぜデマや風評加害の反論を被害者側がやらなければならないのかと本書ではいうが、全く同感である。
そして何よりも、各自各個人が何事に対しても自分事・当事者意識を持ち、デマや風評加害に惑わされない判断能力を身につけることが一番大事なことはなのだと感じた。
投稿者 Cocona1 日時
「情報災害」。普段見慣れない言葉だが、改めて表現した本書を読み、間違いなく災害と呼ぶのにふさわしく、人災でもあることを痛感した。本書を読みながら私は、知らずに加害者になっている自分に怖くなった。なぜなら、福島の風評被害例を読んだ際、自分がきちんと根拠を確認していないばかりか、安全性を信用できず「じゃあ他のでいいです」と言う側だったことに気づいたからだ。

情報災害の加害者になってしまう心理は、自分が被害者にならないために、常に多数決で勝つ方を選んでしまうことが理由の一つに思える。それはまるで、学校でいじめられたくなくて、いじめに加担してしまう子どものようである。このような行動は無意識なことも多く、自分を守るための本能だとすら感じた。

しかし、自分が被害者にならないために、加害者になっていいわけはない。本能的に情報を選ぶのを避け、情報災害の加害者にならないためには、どのように情報と接するべきなのだろうか。その答えとして、「今後は常に情報の信憑性をしっかり確認したいと思います」と言うのは簡単だが、なかなかできない。なぜなら著者も言う通り、情報がデマかどうかを判断するのはプロでも難しいからである(P14)。

それでも著者は、情報の判断基準として科学的根拠が大切だと何度も訴えていた。実際、本書では膨大な情報を著者が調べて執筆したことがよくわかる。しかし、自分が日々接する情報について、著者と同じように徹底した調査をするのは、現実的ではないと思う。その理由は、判断コストがかかりすぎるからだ。

しかも、著者が信頼を寄せている科学も、万能ではないからまた事態は複雑だ。このことは、幻となった11月の課題図書「NOISE」から学んだ。一般的に事件の証拠として信頼されている指紋ですら、判断者によって判定に違いが出るというから驚きであった。

一方本書では、どの商人から情報を買うべきか、という問いも投げかけている。そして情報の信頼性を、発信者によって判断するのもまた、リスクがあるという。なぜなら、発信者の中には、自分に都合のいい「正しさ」を押し売りしてくる商人がたくさんいるからだ。むしろ、普段私たちが目にする情報は、何かしらの利益を目的に発信されていると言っても過言ではない。現在の情報発信者は、誰もが商人なのである。本書のP274から275にかけて、本来は情報災害を低減させる役割である政治・行政・マスメディアが、今や情報災害に加担する側となっていることが語られている。商人ではない情報発信者は、日本ではもう絶滅してしまったのかもしれない。

様々な方面から考えるほど、情報の信頼性を判断するのは難しい。しかし、信用できないからと、全てを疑うだけでは、情報災害はなくならない。科学も政治・行政・マスメディアも信頼できないとして、私たちはどのように判断したら、情報被害者にも加害者にもなることを避けられるか、さらに考えてみる。

著者は、情報災害を止めるためには、
・さまざまなリスクを公正に比較する
・それらへの向き合い方を誤らないようにする
・一度向き合い方を誤ったとしても、素早く修正していく
この3点が重要だと述べている(P285)。

私は、この中で特に3つ目に注目したい。つまり、情報はどうやっても不確実なものとして、継続的に話題を追いかけ、アップデートがあったらそれを更新していく態度(P232)が大切だと考える。本書冒頭の津田大介氏の発言にも通じる主張である。情報を担保する絶対的な存在がない以上、発信者が新しい情報に対してどのように向き合っているか。過去の発信と反対の意見に対して、修正する思いがあるかどうか。その姿勢はきっと、一つの判断基準になるだろう。

また、情報の更新は、「情報の鮮度」と見てもいいかもしれない。今自分が目にしている情報は、硬直化した死んだ情報か。柔らかい生き生きとした情報か。本書で書かれていた福島原発の処理水の話でも、結局10年以上も前に言われていたリスクを、新しい情報を取り入れずにいつまでも訴え続けていることに問題がある。何年も同じヘイトスピーチしかしない議員の発言も同じである。移り変わりの早い今の時代には、受け取る側が情報の鮮度に敏感になる必要があるのだ。

ちなみに、継続的なアップデートの必要性について、これまた11月の課題図書「NOISE」にも書かれていた。こちらは、どうしても避けられないノイズの発生に対して、「永遠のβ版」を目指すという意見だった。いつまでも完成がない、発展途上を目指す。本書も「NOISE」も、どちらも根っことなる主張は一緒で、変化や間違いに気づき、修正を続けることの大切さである。

しかし、常に発信を修正していく姿勢も、やはり実現はなかなか難しい。過去の意見を否定するには、きちんとした根拠を示さなければ信頼をなくすからだ。しかし、それを乗り越えなければ、情報災害は止まらないだろう。発信者にはぜひ、情報災害の被害者のことを考え、堂々と過去の発言を修正してもらいたい。そして私は、これからはそんな姿勢の情報発信者を支持していこうと思う。
投稿者 str 日時
「正しさ」の商人

本書は悪質なデマや風評被害などを“情報災害”として取り扱い、それらが引き起こす危険性や、人間の持つ残酷な一面について警鐘を鳴らす一冊。主に東日本大震災が引き金となった福島の原発事故を切り取って語られており、後半に差し掛かるにつれ、復興が進み活気が戻ってきている現在の福島についての描写もあるものの、被災された地域の方に対する風評や差別は酷く、読んでいて気分の良いものではなかった。

私自身はSNSなどで叩くだとか、情報を拡散するなどの行為は一切行っていないが、溢れかえる情報、それがデマであってもデマだと気づかないまま信じ込み、「危ないモノ」だと認識してしまっていた時期もあった。『情報過多は情報不足と同じ』という著者の言葉通りの状態に陥っていたと言える。過激で衝撃的な内容であればあるほど数字が取れる。バズる。もしくは福島を悪者に仕立て上げておいた方が都合が良い、どこかの誰かの思惑かは分からないが、正確な情報と不正確な情報が蔓延する中で、当然被害者ではなく、加害者とも少し異なる、私の様な傍観者を大量に発生させた情報災害の構図にはゾッとするものがある。何よりこの風評、デマや誹謗中傷が外国からだけではなく、同じ国内で発生したことが恐ろしい。自身の無知さ故に、出回っている情報が正確か否かの判断は難しい部分もあるが、せめてメディアから報じられた情報だからといって安直に鵜呑みにしない。不確かな情報・知識を用いて拡散や誹謗中傷をしないことだけでも徹底し、加害者側になることは避けていきたいと思う。

福島が被害となった“情報災害”も長い時間を経て、徐々に鎮静化してきているという。とはいえ、それまでの間に心を病んでしまった方、自ら命を絶ってしまった方々もいたことだろう。“時間が解決してくれる”のを待つばかりではなく、著者が訴えるように『正しい情報の普及』に加え『誤った情報の排除』が可能となるシステムや機関が開発されていくことを願いたい。
投稿者 H.J 日時
本書は福島在住ジャーナリストである著者の林氏が情報社会に於ける「正しさ」について、深くまで切り込んだ本である。
現在社会では通信の発達により、情報が手軽に素早く、それも処理できないほど多く溢れている。
メディアが流す情報もあれば、一般人が気軽に流せる情報まで多種多様だ。
そんな情報が、時には人々の命まで左右することもある。
この様に情報が引き金になって、被害に合うケースを著者は”情報災害”と定義している。
また、”風評被害”という言葉は良く聞くが、その対義語である”風評加害”という言葉を用いて、強く非難している。
論理的に「正しさ」の誤りを指摘し、時には福島県民の林氏だからこその怒りも感じる様な内容になっている。
特にメディアの報道の仕方に対しては怒りを隠すことなく批判している様に感じた。
それもそのはずで、風評被害者である福島県民だという理由はもちろん、友人が「情報災害による震災離婚で生まれたばかりの子供とも離れ離れになった」という経験も理由の一つだろう。
メディアによる無責任な情報災害による風評加害を止めることが出来ないのであれば、「”情報災害の被害者”や”風評被害者”となる人を減らす」という強い意志が伝わる様な一冊である。

さて、感想に入ると率直に言うと、この書籍を出版にまで持ち込んだ林氏はスゴい!ということだ。
なぜならば、政治批判やメディア批判と取られてもおかしくない内容だったからだ。
政治家の立場、メディアの立場から見ると、あまりに不都合な真実が書かれていると言っても良いだろう。
共産主義国家なら、まず出版できなかっただろう。
もちろん、日本では憲法21条により言論や表現の自由が認められているので、当たり前だろうとも思える。
しかし、その一方で”おわりに”の章で記述されている様に言論弾圧も当たり前の様に存在している。
実際に林氏も言論弾圧の被害を受けていた様だ。
それでも情報災害の被害者を減らすという信念のもと、出版まで持ち込んだのだ。
月並みの表現になってしまうが、スゴい!のだ。
何よりもこの”おわりに”にサラッと書かれている内容が、そのまま言論の自由の闇を証明している。
我々が触れている情報は情報操作されているものだと痛感する。
考えてみれば、ウクライナ戦争に於ける報道とイスラエル戦争の報道でも差が出ている。
ウクライナ戦争に於ける報道は「ロシアが悪でウクライナが正義」という報道だった。
一方、イスラエル戦争ではハマスを擁護する様な報道も見られた。
もちろん、国際社会に於ける日本の立ち位置も関係するだろう。
しかし、あまりに報道が一方的すぎると、”おわりに”に書かれている様なことを疑いたくもなってしまうものだ。

では、我々が情報災害の被害者にならないためにはどうすれば良いのか?を考えていきたいと思う。
私なりの答えは、
・世論に流されない。
ことだ。

まず、世論に流されない。ということは大切な要素である。
なぜならば、その世論の大元は大抵がメディアの流した情報である可能性が高いからだ。
本書で記述されている林氏の友人の元奥さんも世論に流された結果である様に思う。
「福島に留まってはいけない」という世論を信じた結果、震災離婚に至った。
もちろん、その決断に至るまで元奥さんなりの深い考えがあったかもしれないので、一概に世論に流されたとは言えないエピソードではある。
とは言っても、情報が溢れてる現代で全ての情報に対応していたら時間が足りない。
例えば、地域で起こった高齢者の事故の報道に対して、ブレーキとアクセルの踏み間違いなのか居眠り運転なのかを考えてたらキリがない。
というよりも当事者でない限り、どちらでも良いのだ。
しかし、せめて人生に関わる決断ぐらいは自分の頭で考えて答えを出す。ということが重要だ。
結果的に世論に流された答えでも良いと思う。
重要なのは、考えたというプロセスだ。
先ほどの林氏の友人の例を持ち出すと、「世論に流された情報で福島に住みたくないので離婚しました」と「色々調査したけど結果的に福島には住めないから離婚しました」では、結果は同じではあるが言われた方の納得は違うかと思う。
前者は怒りが湧いてくるが、後者は納得の余地があるのだ。
だからこそ世論に流されないことは重要であると思う。
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