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第81回目(2018年1月)の課題本

1月課題図書

 

逆さメガネで覗いたニッポン

 

です。この本は物事を正面からだけではなく、上からも下からも、後ろからもと多面的に見ることで

今まで気付かなかった本質に気付けるようになる、そんな思考のためのヒントが満載の本です。

こういう本をたくさん読むと、多面的な思考習慣が身に付きますよ。

 【しょ~おんコメント】

1月優秀賞

 今月は締め切りを1日遅らせたのですが、投稿数は例月とほぼ同じでした。

そして一次を通過したのが、wasyoiさん、LifeCanBeRichさん、vastos2000さんで、今月

vastos2000さんに差し上げます。この方も優秀賞の常連さんですね。

 

【頂いたコメント】

投稿者 audreym0304 日時 2018年1月26日


感想-逆さメガネで覗いたニッポン

読んだ後の全体的な印象は

現代人は考えているつもりで考えていない、のか

だった。
たぶん、多くの人は考えている、と答えると思う。
その考えていることは社会の規範や学校や会社のルールに沿っているかいないかが、ほぼ100%を占めているんじゃないだろうか。
私たちが生きるこの世界はそこで存在できるルールや規則が実は決まっていて、その多くは学校生活や普段目にするテレビやSNSなどを通じて無意識に私たちの中に刻み込まれていくのだろう。
まるで、工業製品が金型で均一な製品を作るかのように、私たちは無意識に

みんなが同じ

という意識を持って日々生活し、そこから逸脱するものを見ないふり、知らないふりをするか、徹底的に排除するんじゃないかと思う。
工業製品といっても、まるまる金型を通して一発で作れるわけではなく、いろんな機能を持つ様々な大きさの部品を組み合わせて作るわけだが、その中には隣り合う部品とぴったり重なるものもあれば、隣り合う部品や周辺の部品と干渉しないようにわざわざ大きめな隙間を作ったり、部品ごとの誤差を考えた上で組み付けたときに上下左右に位置を調整できるような大きめな穴をあける部品もある。
たぶん、今の社会は工業製品における

必要不可欠な隙間

みたいなものがなくなっていて、その必要不可欠な隙間のようなものを見つけたり、意識するようになるのが本書で言う「逆さめがね」なんじゃないだろうか。

工業製品つながりで、先日自動車関連の大規模なエクスポに行って来た。
今話題の自動運転も広くブースが取ってあって、日本からも外国からも参加していた。その中で技術的にも実用的な面でもはるかに飛びぬけていたのはイスラエルの企業群だった。

え~、なんでイスラエルなんかにこんな最先端技術があるわけ~?

という声(日本語)が後方から聞こえてきた。
おそらく声の主は最近のニュースで取り上げられている自動車関連の話題から、別の国が最先端に行っていると思っていたのだろう。イスラエル企業が講演を行っていたので話を聞いてみたら、あるイスラエル企業の技術は

軍事技術の転用

だという。
なるほど、イスラエルの地理的位置も歴史的経緯も考えると、軍事力も軍事技術の日々の発展も必要なものだろう。経緯はわからないが、民間にその技術が流れてきて自動車の自動運転関連の技術にも転用応用されているのだろう。
ここでふと思ったのは、

技術大国ニッポンは過去の戦争で蓄積した知識や技術の転用応用で生まれたのか

だった。
こんなことを普段の生活で公言して歩いたら、あちこちから刺されて瞬く間に炎上しそうだが、実際に新幹線にそれまで培った航空技術を転用したと聞いたこともある。

事実はともかくとして、自分の周りにあふれている情報と異なる情報や耳障りの悪い情報をヒトは特に検証もせず、葬りたがるのかもしれない。その結果、情報を流したり、作ったりする人々や為政者からみれば流されやすい、何も疑わない、操りやすい、自分の頭で考えない妙な正義感だけをもった人間が出来上がるのだろう。
さらにいえば、

これって現代日本だけの現象なんだろうか

という疑問も沸いてくる。
歴史的にみても、どこの国においても国民のほとんどは流されやすくて、何も疑わなくて、為政者が操りやすくて、自分の頭では考えず、誰かが決めた社会のルールに忠実であろうとする妙な正義感を持っているんだと思う。そのせいで悲劇が歴史上あらゆる場所で何度も繰り返されたのだとおもう。
多くの人々はちょっとでも自分たちの意識や信じていることから逸脱しているモノやコトは無視し、関心を払わず、幼い子供のように

なんでだろう?どうしてだろう?

という疑問もあえて持つことはないのではないか。
疑問をあえて排除するから、自らの頭で考えることもなくなり、ただ周囲の情報を取り込み、それにあわせた言動をし、考えているようで考えてないヒトになってしまうのだろう。

一方で、自己啓発や成功哲学の中では周囲の型にはまって流されるのではなく、自ら考え行動を起こすことがいわゆる成功者を作り出す方法といわれている。ということは、日々の生活でちょっとでも周囲のルールから逸脱しているモノやコトがあれば、初めは強い抵抗を感じるかもしれないが、逆さメガネを持ってちょっとでも自分が信じていることとの対比をしたり、「なんでだろう?」「どうしてだろう?」とちゃんと考える癖をつけることでヒトは社会や為政者の思惑通りに流されず自らの足で歩き始めることができ、やがては成功者の仲間入りが可能になっていくのかもしれない。
逆さメガネで社会や物事をみることはヒトをちゃんとしたヒトと成す方法なんだろう。

投稿者 masa3843 日時 2018年1月29日


養老孟史氏著の『逆さメガネで覗いたニッポン』を読んで
まず一番に感じたことは、
ある事象や物事について考える際の、
意識して視点を変えることの重要性である。
私たちは、あえて意識しないと
多数を占める考え方や一般的に当たり前とされている
考え方をしがちである。

なぜならば、組織や共同体で生きている私たちにとっては、
多数を占める考え方をしていた方が楽だからである。
しかしながら、自分が組織の中で少しでも秀でようとしたい場合、
また人間として少しでも成長したいと思った場合には、
大多数と同じ考え方をしていても差別化は図れない。
差別化を図るために重要なことが、
意識して視点を変えることなのだと思う。
人間は、大衆迎合的になりながら、
かつ主観的に物事を考えてしまうクセがある。
そこに対して、
いかに差別化を図ることができる、客観的なものの見方を
加えられるか。
著者はそういったことを、
「逆さメガネ」という表現で著しており、
普段周りの考え方に合わせて八方美人に振る舞うことが多い自分としては、
大いに反省させられた。

また自分としては、視座を変えることの重要性についても再認識した。
視点と視座。
この2つを意識して変えることが、物事を客観視することにつながる。
視座を高くすることは、仕事において軋轢や対立を生んだ時に、
解決策を考えるうえで非常に有効だ。
先日も、仕事において担当間で考え方の違いが浮き彫りになり、
結論まで出せない事案があった。
しかし、組織長であればどう判断するか考えることで、
整合性の取れた答えに辿り着くことができた。

ただ一方で、この考え方を相手方に理解してもらうことは別の問題である。
視点を変えて、視座を変えて出た結論をどうアウトプットするか。
仕事などで成果を出すためには、こういった先のステップも必要になる。

他に、3点ほど感じた点について記す。

①現実とは何か
現実とは、自分の行動に影響を及ぼすことだと著者は言う。
全く同じものを見たとしても、
認識しなければそれは現実にならない。
つまり、現実とは、個々人の捉え方に過ぎないということだ。

今までも、同じ事柄が発生したとしても
それぞれの捉え方によって感じ方が違うという認識は持っていたが、
認識されないことが「現実」ではない、
ということは衝撃的な定義付けであった。

さらに、この定義に依れば、
ただ持っているだけの知識も現実ではないという。
私たちは、様々な知識や情報を現実として扱う。
なぜならば、科学で物事の説明をしようとする現代社会においては、
真実は1つであり、
それは誰にとっても不変の共通事項であるという思い込みがあるからだ。
こういった思い込みを外し、
実際の自己に影響を与える物事だけを「現実」と捉えるためには、
「逆さメガネ」で物事を見直す必要がある。

②よいことは人に知られないようにやりなさい
現代社会では、見返りを求めない
無償の行為をすることが難しい。
なぜならば、資本主義社会においては
結果が全てだからだ。
そして、その結果は貨幣価値で測られがちである。
ボランティアなどの無償と言われる行為も、
就職のためとか、徳を積むためとか、
「何か」のための行為になっている。
それでは、「無償の」行為ではない。

かくいう私も、毎週職場の掃除を
同僚上司が出勤する前に
自主的にやっているが、
誰からも気付かれないことや、
評価されないことを気にしてしまう。
我ながら、実に浅ましいと思う。
職場の掃除は、
自分の仕事を助けてくれている職場環境一切への感謝を思い、
始めたつもりだった。
だがすぐに、認められたい、評価されたいという
思いが頭によぎる。
もっと良い意味で自己完結できる
自分になるためには、もう少し考え方を改めていく
必要がある。

③脳からの出力が大切
知行合一。
今の自分には最も耳が痛い言葉である。
知識をいくら入れても、
行動しなければ意味がない。
ビジネス書を読んでばかりで
何かをやった気になる。
仕事で足りないところや難しいところを指摘して、
仕事ができた気になる。

これらのことは、
無意味ではないと思うが、
入力だけで終わっているという意味では
未完結だ。

行動し、反省し、改善し、
循環させなければいけない。
継続させなければいけない。
そのための仕組み化をどうするか。
そのための習慣化をどうするのか。
行動することの重要性は十分に分かった。
次は、そのための仕掛けを考え、実行に移したい。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2018年1月30日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで考えた3つのこと

1.日本人の心の風景に自然はあるのか?

 年始にクリスチャン(日本人)の友人と新年会をした時、
「なぜキリスト教って日本で流行らないのかしら?」と世間話になった。
 私は「日本は森の国だからじゃない?」と答えた。
森や川など、美しく豊かな自然の中に神の存在を見出す民族にとって、
「人間のキリストは必要ないのでは?」というわけだ。

 まぁこの論理では、安土桃山時代にキリシタンが多く存在した説明にならないので、説得力は不十分だが、ある意味当たっていると思う。
 そんな中、養老孟司氏の本書を読み、彼の指摘する

●近代日本の急速な都市化
●現代日本人は、(田舎在住の者も含め)頭脳の中は都会人」

・・・この主張の土台には、これまで(高度経済成長期より前の生まれ)の日本人の心の奥底には、美しい自然への畏敬の念、田舎と都会の鮮やかな対比が存在するのでは?・・・と考えるに至った。

 子供の頃、父と映画館で「となりのトトロ」を見た時、開始1分で父が号泣し始めたのは、このためであろう。トトロの舞台である所沢の森が、父に幼少時代を過ごした村を思い出させたそうだ。

 しかし、昔の日本を知らず、都会生まれ・都会育ちで、都会しか知らない若者たちが増えてきた21世紀、
都会と田舎の乖離が進み、都会が孤立しすぎていると養老氏は指摘する。
 都市の存在は田舎が前提(P.84)。にもかかわらず、あたかも「存在しない」かのように都会人に扱われる田舎。害虫(生態系のバランスに必要不可欠)や、生老病死(誰にとっても避けて通れない四苦)などは、清潔でシステム化された都会に暮らしていると、接する機会がほぼないことに、象徴されるように。

 同じ生命なのに、「美しい花は善。醜いイモムシは悪」というように、人間がレッテルを貼って分類し、視界から抹消してきたものは、意外と多いことに気づかされる。
 ニューヨークの若者には、生まれつき食べ物アレルギーに悩む人口が非常に多いという。これこそ、大都会で徹底的に自然を排除し、人工的な暮らしを実現させた結果の、歪みの最たるものだろう。
私達人間は、豊かな多様性を持った大自然の恩恵なくしては、健康に生存できない存在なのだ。


2.文献に描かれなかった歴史から学ぶもの

 存在するにもかかわらず、「なきもの」として扱われる代表例に、「性」がある。
 生命の誕生に直結する、崇高な存在であるはずの「性」が、現代都市文明で、なぜ「恥ずかしいもの」、時として「下品なもの」のように扱われるのか。

 身体感覚の話につながるが、『昔の女性はできていた』(三砂ちづる)という凄い本を思い出した。
 この本によると、「戦前の日本女性は、月経血を自分の意志でコントロールできたため、生理用品を使わずに生活できた」らしい。10年前に読んだ本で今まで忘れていたが、養老氏の「昔の日本人は、体の使い方を知っていた」の一節で、突然思い出した。
 著者の三砂ちづる氏によると「昔の女性は、月経時どうしていたか?」(生理用品など、当時なかったはず)
を紐解くための歴史的資料は、多く残っていないらしい。しかし、文献に記されていないからといって、それが重要でない事実とは限らない。私達は書かれていることだけでなく、書かれなかったことにも注目すべきだ。

 この一週間、戦前の日本の歴史人物の精神性をしょうおん先生が書かれている。歴史から学ぶとは、歴史書を読んで字面を追うだけでなく、その人物の魂を自分に乗り移らせ「彼/彼女なら、この場合どう考えるか?」とシュミレーションまですることだろう。想像力を生活の細部に至るまで発動させたい。

3.BelieveとTrust

 「信じる」を表す英単語には、believeとtrustの2種類がある。

 believeとは、実体のない、抽象的概念、つまり神や、愛、運命を信じることを言う。 
 この先どうなるか分からない未来に対し、希望と期待を抱くこと。
 科学では決して解明できず、信じたからといって、見返りが必ず返ってくる確証もない。
それでも、可能性を信じようとし、信じる行為そのものに意義を見出す。それがbelieveだ。
 両親が子供に対し「この子は将来、きっと立派に成長するだろう」と信じ、無償の愛を与えることは、believeである。

 一方trustは、自分より大きく具体的な存在に対して、身を任せられる状況を指す。
子が親を信頼する気持ちは、trustにあたる。
 先生や上司など、自分よりもはるかに上の人間に対する尊敬と信頼を言う。

 子育てにマニュアルはない。養老氏が指摘するように「未来は計算できない」。
だとしたら、「どうなるか分からないものを信じる」ことは、無駄だろうか?
・・・そうとは言い切れない。
 意味のわからない現象に意味を見出す、あるいは意味を作るのは、自分自身だ。

 私は呼吸法を続けて4年になるが、いまだに17秒を超えていない。
 周りの塾生が、1年以内に25秒を超えているのを見て、焦るばかりである。
自分はなぜダメなのか?とガッカリするが、
呼吸法をすると気持ちが良いので、未来が想像できなくとも、結果を求めず続けることにした。

 様々な哲学的思考の課題を与えてくれる、素敵な本でした。課題図書にしていただき、ありがとうございました。

投稿者 H.J 日時 2018年1月30日


逆さメガネで覗いたニッポン

結論から入ると” 環境は変えられないが、自分は変われる。 “
と本書から学んだ。

今の時代は、
 ” 一部の人たちが作った常識 “が世の中の常識になっている。
なのに、なぜその常識をみんな守らなければいけないのか?

そう聞くと
「常識を守ることが社会で生きるということだから」
と答えが返ってくるだろう。

逆に言えば「常識を破ってしまえば変人扱いされ孤立化する」からだろう。
みんな孤立したくないのだ。

では、なぜ常識を破ると孤立化するのか?
その正体こそ” 環境 “だ。

常識の本質も見ないまま、” 自分たちの常識を守ること “という行動が正しいとする環境こそが今の多数派社会を作っている様に感じる。
そして、今の時代の常識はどう作られるのか?
 みんなが正しいと思うものが常識
になっていないか。

みんなが正しいと言うから、正しいと思い込んでしまう。
その思い込みの集合体が常識になってしまっている。
それは、小学校の校長先生の話を始めとした本書に書いてある様々な事例が裏付けてくれる。

昔から決まってる事や、
多数派を正しいとする
“ 環境 “
それこそが我々を縛る見えない敵なのかもしれない。

そして、教育がその” 環境 “に縛られるための土台を作っている気がする。
歴史の勉強では教科書に書いてあるのは大筋だけで、
学校の先生の言う重要な点や人物や出来事を覚えていれば、テストで良い点が取れる。
偉大な人物が、どう育ちどういう考え方で行動したのか。の説明は殆ど無いに等しい。
もちろん、少ない時間で色んな考え方を持つ子供達に教えなければならないのだから、そう言ったことも理解できることは出来る。
しかし、上辺だけの知識を付けてれば良いということを子供の無意識に刷り込まれることは危険だ。

算数でいうと、今の教育では体積の計算で、縦x横x高さの順番を守らないと答えが合っていても減点になるらしい。
答えを完全一本化にしてしまっている。
大事なのは、答えにたどり着くまでの道は沢山あるよ。ということではないか。
教育現場という環境が子供達の考え方の柔軟性を奪ってしまっては元も子もない。

とは言っても、教育現場という環境を親が変える事は出来ない。
ならば、家での教育を工夫するしかない。

また、学校教育で教えていない大切な事もある。
宗教だ。
地下鉄サリン事件が起きた当時、私は小学校に入ったぐらいなので、記憶は曖昧だが
尊師のテーマの替え歌が周りで流行っていた事だけは覚えている。
尊師のテーマのキャッチーなメロディーや激安お弁当、テレビへの露出、大衆向け戦略を実践していた事は知っているが、
なぜ、エリート学生がオウム真理教に入信したのか疑問だった。
しかし、本書を読んで、一つの仮説が浮かんだ。

 日本の教育で宗教を教えないからではないか。

私もそうだが、宗教に関わる事は葬式や法事の時だけだ。
宗教への知識や理解がない状態でオカルトの流行っていた時代の雰囲気などの
洗脳しやすい環境であれば、容易に入信してしまうのではないか。
それに自分の知らない世界への憧れ等もあったのではないだろうか。

それから時は経ち、今ではオウムを始めとしたカルト宗教のイメージが強いのか、宗教=悪という風潮も見えている。
宗教のルーツも知らずにイメージだけで、宗教=悪という環境が作り上がろうとしている。

 宗教を正しく理解すること。

大人が子供へ教えるべきであり、そのために大人も知らなくてはならない。

以上の様に教育が“ 環境 “に縛られるための土台、
つまり環境に支配される考え方を無意識に作っている。

そこに気づいたところで、環境を変える?
それは「ああすればこうなる」を前提に考えてしまっている。
環境こそシミュレーション通りが効かない事だろう。

ならば、コントロール出来る自分の方を変えるべきではないだろうか。

人は自分の知識の範囲で見える視野から物事を判断する。
その視野を広げるためには、まず自分が知らないことを知る。
その上でもっと幅広い範囲で教養を付けよう。
それは本だけではなく、色んな体験も知識になる。

もう出来上がってしまった環境を変える事が難しいのなら、自分を変えれば良い。
では、どうやって自分を変えるのか?
その一歩が逆さメガネだ。

私は逆さメガネをかけた事がない。
でも、かけるとどうなるか想像はつく。
天に地面があって、地に空が広がる。不思議な世界だろう。
きっと慣れるまでに時間かかるだろう。気持ち悪くなるだろう。

だけど、適応してしまえば、きっと楽になる。

自分も同じだ。行動を変えようとすると最初は慣れなくて、どこか違和感があるだろう。
でも、慣れてしまえば、それが当たり前になる。

「些細な変化に気づかないならば、思い切って逆さに見てみるんです。
すると、嫌でも新しい発見が見えませんか?
その新しい発見が自分を変える はじめの一歩 になるんです。」
養老さんに言われた気がした。

投稿者 toshi121 日時 2018年1月31日


世の中の常識と思われている様々な事柄に対して疑問を呈しているが、「子ども」と「教育」がキーワードとなっている部分が多く、私自身もこの2つのキーワード関連について、特に考えさせられた。

 確かに今の世の中、特に都会においては、「ああすれば、こうなる」という合理性に基づいてほとんどの物事が動いている。自分自身が行う様々な判断の多くも、基本的には合理性を考慮して行っていることを痛感する。
 一方、「子ども」および「教育」は、そうした合理性とは一線を画したものであることを一定理解しつつも、実際にはやはり合理性を求めて、「ああすれば、こうなるはずだ」と考えてしまっていることが多いことに気付かされた。

 そもそも「自然」は、そうした合理性を超越したものでありながら、都会ではその「自然」を感じることが少なく、「自然」をも合理性の枠内で処理しようとしてしまうことが多い。都会に生まれ、ずっと都会で暮らしていると、そのことに違和感を感じること自体が少ないのが実態である。
 それが、本来「子どもは自然」なものであるにも関わらず、「子ども」に対しても合理性を求めてしまうことに繋がっているというのは正論だと感じる。

 ただ問題は、それを具体的にどうしていけば良いのかの解が見えないことである。合理的なものの利便性に慣れ切った都会人は、自分を含めて頭では「子どもは自然」であることを理解できても、実際の行動がついていかないのが現実である。
 合理性ですべてが割り切れることはないという前提に基づいて、いかに人生を生きていくか、子どもと向かい合っていくかを、自問し続けていきたい。

投稿者 ws0103 日時 2018年1月31日


1.都市化社会一辺倒への警鐘
著者が主張するとおり、都市化社会では同質が繰り返されるばかりで、変わらないことが評価されるだと思う。そうすると人は結局変わっていくことはない。本来はあるべき姿は学問をすることによって目からうろこが落ち、その結果内面から変えていくことが必要ではないかと思う。
 そのためには、都市至上主義ではなく、都市化社会と「田舎」の良いところを受け入れていくことが重要なのだと思う。私個人の生活を考えてみた時に、すぐに物質的な都市化社会の利便性を捨て去ることは難しいかもしれないが、精神面の「田舎」の良さを少しずつ日常生活に取り入れていきたい。どのようにしてというのはまだ整理できていないが、その一つのヒントが身体感覚を取り戻すということだと思うので、今後の課題にしたい。

2.共同体への回帰
 また、著者が述べているように、都市社会については、すぐに明確な回答が求められる。まさに、「ボタンを押せば、風呂が沸く」という明快さである。一方で、子育てには明確な回答がない。そうした社会の背景が子育てからの回避につながっているという主張は、まさにそのとおりなのだろう。
「明確な回答がないもの(=子育て)なんかしたくない」。「だから、子供を育てるのではなく自分達の思い通りになる生活をしたい」という意識だと思う。損得でいうなら、子供を産まなければ3,000万円がかからないという情報もある。
では、自分はなぜ子供を育てているのだろうか。打算的に言えば、将来老後に面倒を見てくれることを期待してということかもしれない。ただし、そもそも子育て自体は、見返りを求めて行うものではなのだろうか。自分の子育てが正しかったのかが分かるのは、それこそ20年後だと思う。そういう意味で、投資という面では非効率なものかもしれないが、たとえ思ったとおりの成果にならなかったとしても、精神的な満足感という見返りは十分に受けるのではないか。それは、子育てをすることによって得る果実ではなく、子育てする過程で自分自身が成長するということだと思う。
上記のとおり煩悶した結果、月並みであるが、子供に過度に見返りを期待するのではなく、子供とともに自分も成長するという意味で家族という共同体の価値があるのではないかという結論に至った。

3.最後に
著者が言う通り、本で読んだだけでは、「知識が増えても、行動に影響が出なければ単なる知識にとどまる。」だけだと思う。本書読了後の行動として、まずは最小の共同体である家族との時間を大切にしたい。具体的には4歳の子供と同じ時間に就寝し、早朝に日課の訓練及び読書に時間をあてることをこの半年間の目標としたい。
 軽快な口調で面白く語られすらすらと読めてしまったが、常識を疑って考えることの重要性を考えさせられる良書だった。

投稿者 wasyoi 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポンを読んで
この本はとても軽いタッチで書かれていて読みやすいのですが、タイトルにある通り「逆さメガネ」を持っていなければ覗く習慣も持って無い私にとって、何度も何度も「ん??」と頁を行きつ戻りつしてしまったなんともお恥ずかしい本でした。それだけ、見方が一方的になっており、考え方が1つに囚われているのでしょう。そこに気づけた点だけでも読んで大変良かったと言えます。

最初に『この本は教育についての試論です(p7)』とあります通り、教育についての見方・考え方の本になります。

まず子供の前提としては「自然」、つまり意識的に作ってないもの、という意味で子供は自然に属すると言っています。自然の反対は人工で、いま世の中は人工な物で溢れている。その中にあって、自然なものは「あってはならない」となります。

また、現実と自然について話が出てきます。
この世に実存するものが現実、とふつうは考えますがそうではない、それが現代人の大きな錯覚だと言います。『現実は知識とは違う、知識が行動に影響するなら「その人にとっての、現実」です。だから現実は「人によって違う」んですよ(p34)』という話が出てきます。知識が増えても、行動に影響しなければ、現実にはならないというわけです。

そして現実と価値の関係について、自然そのものには価値がない、といいます。
例えば、土地は地面に価値がある。更地に価値を置いているから、その上にある木には価値がない。だから現実においては、自然そのものには価値がない、と考えます。

したがって子供は自然に属し、現実においては自然そのものには価値がない、つまり子供そのものには価値がない、という事になります。都市化によって、やむを得ない、『必要悪』(p41)とすらなっていると言います。

また別の切り口からも同様の答えを導いています。都市化、つまり意識的に作ったものばかりという合理的な世の中に、子供という自然で不合理な存在は、どうしても価値がない、といいます。合理的な社会に合わない子供は持ってもしょうがない、となると少子化につながります。都市化から教育問題が起こって来ると考えると、なるほど論理的にわかりやすく展開されて頷かされます。

例えば、一人二千万円教育費にかかるからたくさんは子供産めない、二人までにしよう、なんていう考え方はまさに合理化に考えて少子化に向かう典型的な例です。
ここについても著者は明確にしています。『頭で考えて、こうしたらいいなと思えることは、たしかに実行できるんですけど、頭て考えてもかならずしも答えが出ない事を、どう評価するか。つまり自然をどう評価するか。それについては、現代人はまったく弱い。弱いどころか、面倒臭いからって、「ないこと」にしちゃうんですな』(p48)
だから、少子化や教育問題が起こってしまう。子供の教育についても、自然つまり無意識なものを、意識だけで完全にコントロールできるわけがない。そこは子育て真っ最中の身としてはひしひしと実感できます。

次に意識の話ですが、『意識とは自己同一性そのもの』(p154)といいます。「同じ」という言葉は外の世界には無く、外からは出てこない。毎日目が覚めて「同じ自分」だと認識する時に出てくるものであるといいます。これは本当にそう思いますね。
そして、『個性は身体、身体は自然、都市社会は意識の世界、同じ、同じを繰り返す世界。』(p169)だから、同じを尊重する都市という世界において、個性は認められない、ということ。だから、個性を求める自分探しは意味がない。見つけても仕方がない、報われないということです。これはなるほどと腑に落ちました。
『「都市こそ進歩」という思想を変える』(p218)という話が出てきます。
意識だけでは全てのことを理解することはできないということを科学のカオスの例を挙げて説明しています。

本書では著者は、教育について明確な回答を明示していません。『自分で考えろっていうのが、いつでも私の解答です』(p218)が、
子供に対する認識はガラッと変わり、そもそもこの自然と都市化の考え方自体がいろいろな所に応用できるのではと考えております。
新しい視点が手に入りました。

最後に私がこの本を読んで、一番なるほど!と思った所は、『「女は女らしくしとやかに」「男は男らしく元気で活発に」と、それが教育ですな。放っておいたら、どうなるか。今のようになるわけです。男がおとなしく、女が元気で活発。放っておいたら自然にそうなるものを「教育する」必要はありませんからな。(p228)』という箇所でした。
男らしく、女らしく、ということは教育しないと身につかない、なんて、言われてみるとなるほどと思いますが、これまで考えても見なかった事だったので素直に驚きました。

子供の教育についてとても考えさせられるとても良い本をご紹介いただくありがとうございます。

投稿者 sunao929 日時 2018年1月31日


「日本人よしっかりせい!より良い社会に変えていこう」という熱いメッセージでした。

1.常識と思われていること、言われていることを疑う。
 自分の頭でよく考えていこう。最近、メディアなどの情報をそのまま受け入れる風潮があり、よく考えず、自分事として考えていないのではないかと感じられることが多い。
 「どうしたらいいんですか」とすぐ聞くとは、耳の痛い話で、自分の頭でよく考えず、面倒くさがりの典型である。
 物事の答えは一つとは限らないので、中庸を目指していくとよいということであろう。
仕事でも、他の人に聞く前に、なぜそうするのか、そうなっているのかを自分で考えてから聞いてみる。 腹落ちさせてから自分の言葉で話すことが大切である。伝わらないと伝えたことにならない。共通の言語である日本語を介しても、意思が伝わらないことがある。会社でも同じことを話していると思っていると、どうも言葉の定義が違うようだと思うことがある。
 知行合一について、出力型の学習が大切であるということで、畑村洋太郎先生の講演を思い出した。
 「子供の事故防止のためには、自分が危なさを感じて避けるようにさせる。わかっているだけではだめだ。」
 防災訓練も抜き打ちでやり、自分でどういうことが起きるのが想定されるか、その対策を考えていかないと、いざというときには全く役に立たないものになる。
 事故も自分自身や身内など親しい人に起こったと想像するだけで自分事になる。

2.今の社会を変えるには教育をしっかりやっていく。
 戦前・戦後を通じて、都市化による進歩を是とする考え方が変わらなかったため、将来の予測ができない子供の教育をおろそかにしてしまった。
 先日、子供が通う中学校の授業参観に行った際に、ふらふら歩きまわっている子供がいて、よくよく聞いてみると、授業についていけずにどうしたらよいかわからないとのこと。
 教育の基本は独学であるが、まずは、教える側が熱意をもって、勉強に興味を持たせることから始めていく必要がある。これをやるとどうなるかということが考えられない人間が増えれば、犯罪者をつくることにつながるので、よい社会を作るために、教育をしっかりやっていくことが大切である。
 併せて、大きくは共同体の再構築を図ることで、いろいろな世代の目が行き届き、社会が少しでも良い方向に変えていけるのではないか。気心の知れた仲間とコミュニティーを作れないか考えてみる。

3.これからどうしていくのか
 長期間教育に携わってこられた先生として、いろいろな視点で考えるネタを提供して、あとは自分たちでしっかり考えるようにとの宿題をいただいたと思う。
 「本当の私とは、今ここにいる私だけ。人の一生は変化の連続。」とは、行動さえ起こせば、いくらでも変われるよ。さあ行動を起こそうとのメッセージと理解しました。
 これから、幸せになると決めて行動する。→どうやったらよりよいか考える。→行動する。このサイクルを回していく。成果を求めず日々の小さな行動を積み重ねていきます。

 なお、地下鉄サリン事件のエピソードには、鳥肌が立った。いつも乗っていた地下鉄を回避するとは、永年教育に携わり継続してきたからこそ、身体感覚が研ぎ澄まされ危機を回避させたのであろう。違和感や気づきを大事にしていきたい。

投稿者 satoyuji 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポン 感想

恥ずかしながら、逆さメガネというものを本書で初めて知った。
言葉通りにいつも見ている風景が逆さまに見えるメガネらしい。そんなメガネをかけると、違和感があって混乱してしまうように思える。しかし、実際にはすぐに適応してしまうとのこと。そうした人の適応能力はすごい。恐ろしいのは適応し過ぎて、適応した事実を忘れてしまうことである。今の感覚が当たり前になった時、それはその人の現実になる。逆さメガネをかける前の当たり前は、逆さメガネに適応した自分からすれば、非常識で受け入れがたいものになる。新しい当たり前は、間も無く昔からある当たり前になってしまう。そして、自分だけの当たり前から、他の人にとっても同じ当たり前があるかのように勘違いし始める。

進化論を提唱したダーウィンは、生存に必要なのは「強さ」ではなく、新しい変化への「適応」であると喝破した。人間は適応力の高さから、逆さメガネの視界にすら適応できてしまう。しかし、本書を読んでいると適応にはどうやら2通りあるようである。それは主体的な適応と被害者的適応である。積極的に変わっていこうとすることが主体的な適応であり、環境に流されるままに受けいれることが被害者的適応である。主体的適応は、自らの意識を以って自分の状態を把握し、意図して変化を起こす。だから新しく適応した状態とそれ以前の状態を分けて認識することができる。それに対して被害者的適応は、その場その場の印象だけで物事に対応し適応してしまうので、適応した後に自分から変化を起こせなくなってしまう。できる事は、その時にある不快感に文句を言うぐらいである。

主体的適応は被害者的適応より優れていると思えるかもしれない。しかしどちらにも注意恐ろしい点がある。自分の当たり前が、他者・社会・世界でも共通の当たり前思い始める事である。これはどうしようもない人の意識の習性である。この習性自体をなくすことはできない。できないが故にこれを自覚したほうが良い。そうしなければ自分の当たり前と他人の当たり前がぶつかることになる。ぶつかれば不信が生まれる。不信は誰も信じないということであるゆえに不幸しか生まない。

主体的に適応する事は大切だ。それ以上に大切なのは各々が自分の「当たり前」を通して世界を見ている事を認識することである。それは受け入れるべき事実だ。その上でどうしたらいいのかを考えなければならない。そう考えると、正しさの押し付けは幼稚な選択である。できる唯一つの選択は相手の当たり前を認めことだ。それを学ぶ以外に方法はない。世界の多様性を知ることである。お互いが出会う前に作り上げた異なる価値観で物事を見ている。それを共有する事はできない。しかし、その前提に立つことで、今この瞬間から共有できることを作り上げることができる。だからこそ時には、逆さメガネをかけることで自らの当たり前を壊し、変化していくことが必要なのである。

ここまで逆さメガネを簡単に外せるように書いてきたが、そう簡単に外せるのだろうか。私たちが今この瞬間にもつけているメガネは、実際のメガネのように外せるのか。私にはそう思えない。アロンアルファで接着してあるよりもはるかに強力にくっついているように思える。メガネを外せばどうにかなるという安直な考え方では、眼球を抉り取っても自分の当たり前は変わらないのではないか。全く違うアプローチが必要だ。そうすることで簡単に変えられると今考えている。

そのアプローチの鍵となるのが、自分にとっての自然を問うことである。言葉としての「自然」ではない。腑に落ちる感覚としての自然である。メガネを通して得る情報は目を通して得る情報である。自然とは目だけでなく、耳、鼻、口、肌など全身全てを使って感じ得ることである。こうした自然を得ることで私たちの偏見は目だけに偏った情報では得られない膨大な情報にぶつかることになる。その結果として価値観の多様性、世界の多様性を全身で学ぶことになる。思い込みが思い込みであることにすら気づけない状態を抜け出すには全身で感じることを行う必要がある。身体ではなく豊かさのある「軆」を取り戻すことでしかそれ得られない。現時点で持っている当たり前は偏った当たり前であると考えるべきである。社会で言われる当たり前も、自分がやりたいことができない理由としての当たり前も全て当たり前ではないと考えるべきだ。全身が参与しないで得た情報も行動も全て改善できると本書から考えた。

もし人に強い適応力があり、どんなことにも適応できるとしたら、自分がなりたい自分に適応できないはずがない。願望が叶っていない時点で「当たり前」を書き換える必要がある。その書き換える作業を教育と呼び、教育は自らを深く見つめる独学なくして成り立たないことを本書は教えてくれている。

投稿者 guntank 日時 2018年1月31日


1、『逆さメガネ』というタイトルだけを見て思い出した事

過去に逆さメガネを用いたワークショップに参加した事があり、その事を思いだした。
逆さメガネをかけて迷路を解くという単純反復作業の達成時間の推移を計測する
というもので、結局のところ、人間の認知には柔軟性と可塑性があるという事を
検証するものであった。
しかし、私が参加した際には期待していた数値結果が得られなかった。

その原因を紐解くと、うまくいかない人が途中で作業をなげだしてしまったり
逆うまくやろうとし過ぎる人がずるをしたり。そういう排除すべき要素が見事数値に
反映されてしまったのである。結果として、私はうまくできた、私はうまくできな
かったというような、よく分からないコンテストになってしまった。


2、『逆さメガネで覗いたニッポン』を読んで

ニッポンの都市化や脳化等の視点から、特に教育について常識や前提が逆さまに
なっている事例をいくつも示しているが、いや待てよ、常識が逆さになっている、
という事ではなくて、その事に気がついてさえいない状況は逆さメガネで覗いて
みないと分からないでしょ、という提案と受け止めた。

中でも、心の個性への批判に及んでいるところはそそられた。心や知識に個性がある
と信じていた。私には、身体の個性に影響が及ぶほどに昇華させらた、学びや教育が
果たしてあっただろうか(ない)。この時点で私は知らず知らずの間に(ずっと田舎に
すみながらも)都市化や脳化の影響を受けているのかもしれない。
実に、所謂仕事という点では、ロジックだったりをPCとかいう機械で表現さえ
できればほとんどが事足りてしまい、また足りていると勘違いしたりするわけである。
もし本当にそれで足りるのならば、この世の中や少なくとも私の身の回りは、私の求める
状況により近くなっていなければならないと思うからである。
残念ながらの現状は、逆さメガネをかけていることすら気がつかないまま、
私は良くできた、できていないという話の世界に私は生きているという事になる。

んじゃどうするか?という事についてはすぐに答えを求める事自体を筆者は批判して
いるが、正しい答えではなくさまざまな問いの仕方についてを、多くの事例で多くの
角度で多くの切り口や方向性を示してくれた。

んで、結局私はどうするか?
についての案としては私にとっては逆さアクションから試してみたい。
①身体にフォーカスがあたる事を何か一つはじめてみる
逆さメガネだけに、苦手な体操(ヨガ等)でもしてみようか。
何が分かるか分からないものから分かる事があるのではないだろうか。
②うまくいっていない学び(教育)の棚卸し
やめる、知行合一するように見直す。
③娘を自然に育てる
自然の中にではない。社会や親の個性や都合という人工的なものを排除する
と言う意味である。
④都市化していないところに行ってみる
そこでどのような教育がなされ、どのように生活に生かされているのかについて
感じてみる。


3、『逆さメガネで覗いたニッポン』の投稿を読んで

私には本書の内容が多角的過ぎて、筋を通して理解できたか不安になったが、他の方の投稿を見て
こうも思考・視点がばらつくのかと驚きとへんな安心があった。と感じた時点で、私自信の思考が
都市化していることに気付かされた。多様が自然。

投稿者 rarara 日時 2018年1月31日


『逆さネガネで覗いたニッポン』を読んで

『「肌でわかる」つまり意識ではない。』
無意識。暗黙の了解。
その積み重ねが、信頼、安心感になっていくと思う。

先日、駅のホームで、前に立ってた女子高生2人が
「ねえ、なに聴いてるの?」
「ジョジョ」
「ジョジョ?」
「ジュジュ!
たとえ、そう聞こえたとしても、わかるじゃん!
いるよね。そういう人。」
(この2人の表情を見てないので、たぶんニヤリと笑っいあってたと思う。そう願う。)

時間がない時の買い物で、店員さんがマニュアル通りに ご丁寧にレジをして、梱包する。

こちらが、小銭を探しているのに、店員さんがSHOPカードを手渡ししようとする。

電車の乗り降りで、乗る人が降りる人のスペースを作らない。

ここ数年、すごく感じる。
心の通ってない マニュアル対応
自分のことしか考える余裕がない状況

どうなんだろう。
他者との関係性。
家族、友人、同僚、顔見知り、通りすがりの人。どの辺で、この対応を分けているのだろう。
それとも、誰に対してもだろうか。

例えば、常日頃の行動、習慣が、外に出た時に、
つい、でてしまう感じ。
手にお茶やら本やら持ったまま、足で障子を空ける。
よく叱られたものだけど。
外では、よそいきぶって、していないつもりが、とっさの時に出てしまい、自分自身にハッとする。

体が覚えてしまってる。手が無理なら足。
ひどいときは、手を離したくないから足。

無意識だったり意識的だったり。

モヤモヤしたり、不快に思うことを、いったん飲み込んで、そのあと、どうするか。

接客7大用語は、便利だなと思う。

いらっしゃいませ
かしこまりました
恐れ入りますが
少々お待ちくださいませ
お待たせいたしました
申し訳ありません
ありがとうございました

その言葉に、笑顔だったり、申し訳ないという表情と 感情をのせて。

お互いに その5秒の間にブレイクダウン出来る。
多少なりとも、気がおさまる。
そうか、そのための用語だったのか。

駅の雑踏のなかで行き交う人々。
われ先にと。
お互いによけあいながら。
たまに、よけたら、その分寄ってくる人とか。
嫌な気分である。損した気分である。
でも、そこで、どうぞ!と立ち止まると。
相手も、さすがに。どうぞ!と、譲ってくれる。
お互いに会釈しながら、通りすぎる一瞬。

みんな、いい気と悪い気を持ち合わせて生活している。
いい気を引き出し合う瞬間を作れたらいい。

その瞬間の積み重ね。まんざらでもないなという感情が、信頼、安心感になる。

投稿者 ishiaki 日時 2018年1月31日


今、世の中ではかなりのスピードで
様々な情報が飛び交っていて世間は追いつくのに精一杯な感じがします

著者が述べているように「逆さメガネ」で覗くのなら一度、テレビやインターネットの情報を
遮断して自分自身の考えを信じて行動することが大事なように感じました

また、戦後より日本は都会化を目指し何でも簡素化にしてしまいましたが
自分はこの状態が当たり前という感覚になっていて今更、毎日キャンプをしているような
火を熾してお湯を沸かしたりの生活は出来ないのでちょっと無理ですがそのくらい
人と違うことをしても動じない自分らしさを持ててば時代の流れに飲まれる
ことはなく自分自身で情報の取捨選択が出来ると感じました

投稿者 akiko3 日時 2018年1月31日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

「はげらしー」とは、そこでは当たり前に使われる言葉。新聞の子供向け方言コラムで紹介されていたが、毎回楽しみにしている。単純に違いが面白いのもあるが、暮らす場所は違うけど、こうして人と人がコミュニケーションしている変わらない日常が思い描かれ安堵感を抱く。
同じ/違うを意識するのは共同体感覚からか?ネットのおかげで遠くの情報でも普通に日常に存在していて、その数が多いとつい同じようにした方がいいのかと流されてきた。それまで無意識でいられたことも、これっておかしい?と不安になったり、自分がどうしたいかより人と違っていないかと基準がすり替わっている。
子供の頃、「皆が買う時に一人だけ買えないって時は言いんさいよ、お金あげるから」と言われたが、これは親が戦争で父親を亡くして寂しい思いをして、人と同じ状況がいいという価値観があったからか、同級生でお弁当を持ってこられない子が教科書で隠すように空のお弁当箱を食べるふりしていた姿の切なさを経験しているからか、はたまた子供の素行を案じて先手を打ったか?だけど最低限、皆と同じ、平均値は与えたいという親心を思えば、多くを失った祖母から受け継ぎ、中流を目指して頑張っていた両親から受けた、私が肌で感じてきたものだ。
親や周りの環境から多く影響を受けているのはもちろんだが、ネットから受けている情報の多さにもこんなにも影響を受けていたとは無意識だからこそ怖いと思った。情報とは思わず体や思考に沁み込んでいたことも著者の指摘で気付いたぐらい。情報にのっかって情報に一喜一憂して、システムを作るということはしてこなかった。自分で考えるという訓練をしてこなかった。かろうじて、親が何事も経験とホームステイやキャンプ、一人暮らしをさせてくれ、カルチャーショックやホームシック、一人で解決せざるを得ないきっかけが与えられたことに感謝した。
社会人になってからは、仕事を通して自分を自分で育てていかないといけなかったけど、幸せさがし、自分さがしをしていたなと苦笑してしまった。最近の若者の中には、社会起業家と言われる人も出てきて、素晴らしいと思う。グラミン銀行やTFTの活動など、今までになかったシステムを作って社会をよくする、自分の成功ではなく、人と喜びをわかちあえる成功を求め作りだしている。
OL時代はマザーテレサさんとか人生をなげうって奉仕する姿に自分にはとてもできないと“尊いけどムリ!!”と思考停止し、何もしない言い訳にしていた。社会で生活・仕事をしながら奉仕する姿が増えていることは素晴らしいと改めて思った。(マザーテレサさんも活動費捻出する為、知恵を発揮されていたようですけど)

「肌で感じる」とは大切だと思った。核家族だと経済的なことや生活感は感じられても、死生観、人生は身近に感じることが少なかった。離れて暮らす祖母が老衰で他界し、数日喪に服したらまた日常にどっぷり。(“寂しくなりますね”という言葉の意味も初めて実感できたけど)一緒に暮らしていた当たり前の存在がある日消える、反対に生まれる、そんな変化を肌で感じ、心が動く経験がなく、仕事と自分の生活だけだと世界が狭いよな…。
また、グローバルに活躍する人達の姿にも感心するが、彼らも日本をでて肌で感じたからこそ、日本の常識の壁でなく自分の限界に挑戦し続けることができ、結果に繋がっているのだろう。

「出来の悪いやつが皆の為になっている」著者の心の広さを感じた。落語の与太郎への情、現在では切り捨てがちな都合の悪い部分を切り捨て楽をしようとする非情さに気づかされどきっとした。相手ではなく、受け取り方を変えたり、引きづらない自分の柔軟性の訓練とかにしないと!

自分が情報に取り囲まれていて、答えを考え出すのではなく見つける悪癖があると気づいたら、物事は逆さに見て“おかしんじゃない”と疑うぐらいがいいのかも。目指せ、いじわるばあさん?!
世間で活躍している人達はまばゆいばかりだが、共同体で暮らす一員として幸せになるには、無から有を生み出すスキルアップ!と表向きに。現実的なのは迷惑かけないように自己鍛錬と、老いても人から乞われる生涯現役でいられるものをもっていたい。

今月も目から鱗の良書だったが、「各章で感心しているだけじゃだめっていったでしょ、ちゃんと考えてそれを書いてよ!」との一蹴を受け“はげらしー”思いをするんだろうな…。
もうお解りでしょうね、「くやしー」、残念だという意味の宮崎弁でした。

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2018年1月31日


 “未知なる変化を楽しむコト、それが人生を豊かにする”

 昨年末に私は、“1年の振り返り”を行った。その時は特に、嬉しかったコトや楽しかったコトを思い出すことに努めた。嬉しいコトで真っ先に頭に浮かんだのは、会社の業績がぐ~んと上がり、自身の年収もぐ~んと上がったコトだった。その他にも色々と嬉しかったコトや楽しかったコトを思い出すことが出来た。その中で、家族全員が健康で1年を過ごせたコトが何よりも嬉しいコトだった。
 年末に去り行く1年をじっくりと振り返る事自体がそもそも昨年初めてのコト。ただ、もし仮に“数年前の私”が昨年末に“1年の振り返り”を行ったとしたら業績、年収云々を何より嬉しいコトに挙げたはずである。なぜなら、具体的で分かりやすいからだ。本質的だけれども特別感の無い家族の健康云々には意識が行かなかっただろう。
 そして、本書で著者の言う日本社会が抱える多くの問題の根本も同じではないかと思ったのだ。多くの人が、目の前の分かりやすい現象に意識が直ぐに向かってしまう現在社会。なぜなら、分かり易い方向に、周囲と同じ方向に流されるのは楽だからだ。思考を止めて、本質的な事を見逃したまま、その流れは加速して偏った大勢が形成されていく。
 例えば、相撲界の暴力事件は貴乃花親方の行動や格好が良い悪い云々ではなく、日本の伝統的社会構造である村社会の負の部分が表象化されていることに多くの人の意識は行っていないように見える。

 “見えやすい目の前の現象だけではなく、その背後にある本質が見えるまで考えなくてはいけない”

本書の1つの大きな主題は、ここにあるのではないだろうか。以上が、“1年の振り返り”と本書を結びつけて得た私の1つ目の大きな気づきである。

 そして、以下に書く2つ目の気づきは、私にとってはもっと大きく、そして重い。
 そもそも、“数年前の私”は、恥ずかしながら家族の健康云々が嬉しいコト、大切なコトだと意識していなかった...。本質的なコトが見えていなかったのだ...。
 それは、数年前までは健康が当たり前という前提で生きていたことに起因するのかもしれない。生命に関わる大病を患った経験のない私は、健康云々を軽んじていたのだ。
 「起こらなかったことは評価されない」(P.186)
まさに著者の言う通りなのである。
 ただ、今ここに“数年前の私”とは違う私がいる。確実に何かが変化してきた私がいる。そう、ここ最近、私の思考が変化したコト、私の行動が変化したコト、そして私の世界の捉え方が変化したコトに気づく機会が驚くほど多いのだ。では、その変化は、一体何によってもたらされたのか。

 それが、今月の感想文書きの本題である。

 昔の日本人が行き着いた人間の本質、「文武両道」。古くは、平家物語に「文武二道」という似た言葉の記述があるようだ。我々の知る現代科学など無かった遥か昔、先達の日本人は、どのようにしてこの人間の本質に行き着いたのであろうか。昔の日本人の知恵、そして身体感覚の水準の高さには只々舌を巻くしかない。
 ちょっと脇道に逸れると、第6回課題図書の“完本 梅干しと日本刀~日本人の知恵と独創の歴史~”に書かれる発酵食品の発明や様々な湿度対策などを見つけ出した数々の話しにはおっ魂消の連続は請合いである。兎にも角にも昔の人は凄かったのだ。

 そして著者曰く、脳へ入力し脳から出力をすることも「文武両道」なのである。
 脳への入力とその出力、今まさに取り組んでいる課題図書の感想文書きも「文武両道」に他ならない。本を読み「知識」を脳に入力し、思考という出力で「現実」に変える。著者曰く、「現実」とは、「行動に影響を与えるもの」(P.33)である。
 それでは課題図書に取り組み2年半が経つ私は、数々の課題本から「知識」を取り汲むことで、どのような新しい「現実」をつくってきたのだろうか。その内の幾つかを列挙する。

 〇以前は、障がい者の方を見かけたら目を伏せて通り過ぎていた私が、今では障がい者の方々の人生に思いを巡らせる。

 〇以前は、価値観が対立する人たちを忌み嫌い、恨み、憎しみまで持っていた私が、今では、認めるコトや赦すコトをこころから進んでする。

 〇以前は、健康でいることが当たり前のことだと考えていた私が、今では認知症や脳梗塞なのどの防止対策を実践している。

これらは、私の“内なる変化”のほんの一部に過ぎない。

 速読セミナーをきっかけに始めたこの課題図書感想文書き。感想文書きは、あくまでも速読ができるようになるためであった。私は、上記のような“内なる変化”が私自身に起こることなど予測も想像も殆どしてはいなかった。しかし、この

 “予測も想像もできない変化が脳の中に起こる”

というコトが課題図書の醍醐味だと本書を読むことで気づかされた。「自然」である「身体」の一部の「脳」に起こる変化を、前もって「人工」である「意識」が全てを捉えきれる事などないのだ。そして当初は、正直苦行だったこの感想文書きも今では月次の楽しい取り組みになっているのだから分からないものだ。

 「教育の根本は独学である。さらにその根本は学ぶ気持ちである。それさえあればどうにでもなる」(P.4)
私が、今月の感想文で言いたいことは大よそこの抜粋文にある。著者が嘆いているように、
 「知るということがまさに技法、ノウハウに変わった」(P.143)
傾向にある現代日本において、世の中を立て直すためには「文武両道」的な学びの方法を教育に取り入れる必要があるのだろう。
 ある事象を捉えたら、考えて、考えて、本質が見えるまで考えるのである。これが、本当の学びではないだろうか。学ぶこととは、自身がどこにいるのか、どこに向かうのかを見つけ出す冒険みたいなものである。そして、この冒険とは、これから何が起きるのか、何が待ち受けているのかが正確には分からないものである。
 
 ”未知なる変化を楽しむ”

だから、学びは面白い。これからも私は、読書で学び人生を豊かにして行くのだ。

~終わり~

投稿者 sumio 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポン 感想

教育という切り口で、現代の実態をわかりやすく活写。
「男は男らしく、女は女らしく」なのは、放っておいたら、男はおとなしく神経質に、女が元気で活発になってしまうというから、という指摘は、なるほど、と思った。
だから「教育」で矯正するのだろう。

「教育」は、伸び伸びと自然のままに伸ばすことではなく、一定の方向に教え、矯正することなのだ。

子どもという生の材料を大人という建築物に作り上げる。人間の教育を建築に置き換えると、事態が良く見える。
「教育」とは、為政者の都合の良い大人にすることかも、と思った。

子どもは昔は「授かりもの」。いまは産む産まないは親の勝手「意識の産物」。
いまの人は何でも意志の力で自分の思い通りになると思っているようだ。

その結果、現代は、自我(=自分のモノサシ)を疑わない世の中。
しかし、世の中は自分のモノサシ通りにならないことのほうが多い。

思い通りになったらいいなぁと日々、思い、生きているのが、私たちだ。
自分の都合良く生きたいという思いが、人間を苦しめている。
全部、自分の都合。そんな人が一億何千万人もいる。

現代は価値を全部、お金、経済においている。
社会の変化この数年間、特に凄まじい。確実に家族解体してきた。人間と人間の関係性が非常に薄くなっている。
教育しているのに。教育してきたからか。

自分のモノサシを握りしめたら、最後は、絶望しかない。
苦悩とは、自我が現実に追いつかないこと。

今、機械と相手している時間の方が長くなり、人と人がふれあい感じ合うことできなくなり、どう人と接していけばよいかわからなくなってきた。
豊かで、便利なこと=幸せ と思っていたが、豊かになって、人間の関係性壊れてしまった。便利になると関係性が切れる。

自分のそもそものはじまりが、自分が生まれようと思って、生まれてきたわけじゃない。
自然とはどうなるかわからないもの、自然とは根本的に正体不明なもの、との著者の指摘は鋭い。繰り返し味わう必要がある。

「養老天命反転地」の画像で示されているように、すり鉢の中に居ると、傾いていることに気付かない。常識が、実は間違っていることがある。

もしかしたら「変な」世の中に生きているかも、と定期的にふりかえること。
自身の考え方のセンサーを磨き、鋭くして、メガネが曇っていることに気付くことが大事だ。

投稿者 shinwa511 日時 2018年1月31日


今まで当たり前としていた常識は、画一化された社会の決まりでしかありません。

普通や常識に囚われてしまうと、自分自身の行動を妨げる結果になっています。ネットで流れる情報もそうです。多くの情報から、自分の知りたい情報だけを信じて、他の意見には見向きもしない、ということもあります。

確かに、現代は便利になって、出来ることも増えましたが、それは機械がすることであって、人間が進化をしているわけではありません。人は現代の便利な世の中で生きやすいように、順応しているだけです。不便だった昔よりも今のほうが、出来ることは減っているはずです。

例えば、携帯電話の調子が良くないと、どのような原因があるのかネットで調べたり、それでも分からないと、最寄の携帯電話店へ持って行って店員に確認してもらいます。機械の操作は出来ますが、仕組みは理解していないのです。

使っている家電製品や自動車も、使うことは出来ますが、自分で全ての仕組みを理解し、組み立てたり、直したりすることは出来ません。これだけ物が溢れてしまった分、出来ることが、どんどん限られてしまいます。そうならないためにも、自分から理解しようとする努力が必要になります。そうしない限り、物に対する理解は深まりません。

また、現代の便利さとは時間の短縮です。それが出来ないとイライラする、不快だと感じるようになります。不都合があると、問題の原因を自分の外のせいにしてしまいます。
本当は感じる自分か変らないと周囲は変りません。

電車が事故や天候によって遅れているときも、現状を考えて今後どのように行動するのかを決めなければいけません。起きてしまった事に対して、臨機応変な行動を取ることが必要になります。

与えられる情報を鵜呑みにするのではなく、情報を参考にし、自分自身が考え行動することが、現代に欠けている事だと考えます。そして、自分ひとりのためではなく、様々な周囲の状況の中に自分が存在しているということを自覚し、その周囲に向けて自分の与えることが出来る、良い影響は何かについて考えて行動することが、社会の常識を正常にしてゆく行為だと思います。今後はそうなるように、見て考えて行動していきたいです。

投稿者 sakurou 日時 2018年1月31日


~「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで~

課題図書の感想文を毎月書いていて、つくづく、自分の無知に気付かされるのだが、今月のは特に日頃の行動に直結する指摘なので非常にきつかった。ストレートに厳しく指摘する本ならまだしも、養老先生は独自のタッチで、今の日本人に欠けているものをやんわりと、しかし着実に的確に指摘していく。今月は塾生仲間の「今月のは難しいよ。早めに読んどいたほうが良いよ。」というアドバイスに従い、早めに読んで良いて本当に良かった。(月末に読んでいたらここまで咀嚼できなかった。。。改めて塾生仲間に感謝(笑))

以下、感想を述べる。

本当に「あー、なんて僕は無知なんだ」とばかりに、養老先生は僕の知らなかったことをいろいろと教えてくれる。中でも僕の心に響いたのは「知行合一」「文武両道」の2つだ。「知行合一って何だっけ?」「文武両道って『スポーツも大事だけど勉強も大事だよ』じゃなかったの?」というのが僕の認識であった。あぁ、恥ずかしい。。。

本書を通じて感じたのは、最近のメルマガと関連するのかもしれないが、江戸時代の人がいかに優れていたところである。

例えば、疲れない体の使い方(最近、忍者走りのマラソンランナーの方もいるが、いわゆるナンバ歩きで飛脚は遠い距離を運んでいたと思うと頭が下がる。)であり、少ない情報から本質を見極める力(本書にある通り、私もそうだが、現代人は情報過多であるゆえに情報に流されて本質を見極める力に欠けているように思う)である。

本書のテーマはタイトル通りに取ると「常識を疑いなさい」ということであるが、3章にあり、僕が本書で一番気に入った「知行合一」「文武両道」という点で深く突き詰めてみると、「今手元にある情報でもいいから行動して新たな情報を★自分で★手に入れる」ということが大事だと思う。昔の人は当然インターネットなんてないので、自ら足を動かさないと情報が得られない。昔の人は自ら足を動かして様々な人と交流して、自分のアウトプットを出し他人からのインプットを得て、また新たな行動につなげていく。養老先生はこの3章でこのあたり前の行動さえも出来なくっていることを危惧している。振り返ると僕も頭でっかちになっていた点があると思う。行動すればプラスもマイナスも含めて何かが得られる。それが良かった点、反省点・改善点として次につながっていく。このサイクルこそが自分の人生(そして社会を)より良い方向に持っていくことにつながるのだと思う。

私は元々大河ドラマを見ないのだが、今年は林真理子原作、中園ミホ脚本というので「西郷どん」を見始めた。原作、脚本に惹かれたというものあるが、改めて今の時代、このタイミングでに幕末を見直してみるというのも良いと思ったのだ。年を取って改めて思うが、今の自分より遥かに年下の若者があれだけの激動の世界を生き抜き、近代日本、日清戦争、日露戦争で勝利するまでの日本の礎をいかに築いたのか、自分なりに勉強してみたくなったのだ。いろいろな人の思いが結束し、あのような形で明治維新という偉業に繋がったのはまさに幕末の志士達が「情報の本質を見極め」「自ら積極的に行動を起こした」結果なのだと本書を通じて改めて実感した。今まで幕末について教科書レベルでしか勉強してなかった自分が恥ずかしいのだが、明治維新は改めて学ぶべきことが色々詰まっている。幕末には養老先生が言いたい本質と通じるようなことがあるように思えてならない。ということで、毎月の課題図書と同時に、このドラマだけでなく、「幕末が近代日本に及ぼした影響について自分なりに考える」ことを今年の課題として考えてみたいと思う。

話が脱線したが、本書を通じて、改めて私は「情報の本質を見極める」「リスクを考慮しつつも積極的に行動(アウトプット)して情報(インプット)を得て、また自分の行動(アウトプット)に変えていく」ことの重要性を学んだ。これは日々実践できる。2018年は1ヶ月経つとは言え残りは11ヶ月ある。これを意識して今年を過ごしていきたい。

今月も良い本を選定して頂きありがとうございます。(遅くなりましたが)本年も宜しくお願いいたします。

投稿者 BruceLee 日時 2018年1月31日


以下3点、考えてみた。

1)メガネっていつ掛ける?
自分の場合は仕事の時、運転する時、テレビや映画を観る時。つまり裸眼では目的とする作業が出来ない時。逆に裸眼で支障無い時は掛けない。という事はメガネを掛ける/掛けないも事前の自己判断がある。その判断の基になっているのが自分の常識。メガネ以前に自分の常識で観てるのだと気付かされたのは本書の「行動に影響するものが現実」という捉え方。それ以外は存在していても現実ではない。その歪が生じた現代社会。で、登場するのが逆さメガネ。

2)逆さメガネって何だ?
逆さメガネって要するに世間の常識に対し「何か違くね?」と感じた時の視座の事だろう。ところで本書は展開が早く、本質を見失いがちになる(故に難しく感じる)が、そもそも著者が何を語ってるのかと言えば「教育についての試論」。故に著者は自身の見方・考え方を述べる一方、「私が書いているのは、議論の種であって、ご託宣ではありません」とも書いている。よって本書の正しい読み方は、正解を得ようとするのではなく、逆さメガネを用いた視座を学ぶ姿勢である。

で、「教育についての試論」であるが故、子どもについて書かれているが、個人的にはココが面白かった。何故なら書かれていた「世間の常識」が自分の考えと異なってたから。では自分も逆さメガネを掛けて述べてみよう。例えば自分は子どもを授かりものだと思っている。授かりものだから授からないケースもある訳で、どっちが良い/悪いではなく言ってみればそれは運命。で、授かっても「ともあれ子供の様に『どうなるかわからないもの』、それが実は自然というものです」の通り、ウチの息子達だって生まれてから中高生となった今でも「どうなるかわからない」。これは同感で良く分かる。分からなかったのは次。

「現代社会では、そういう先が見えないものには、利口な人は投資しないのです。だから子どもがいなくなる」

ん、何か違くね?だってこの考え方には人としての基本姿勢が欠如してるでしょ。一つは「あなたの両親が同じ考えだったら、あなたは生まれなかった」という視座。もう一つは「両親が生んでくれ、先が見えないのに投資してくれたから、あなたが今存在してる事」への感謝。神様、宇宙様の前に両親やご先祖様への感謝じゃない?そのご先祖様が脈々受け継いで来た血を「先が見えない」からと、あなたの代で断ち切る?それってご先祖様に対して実に身勝手で不遜な態度ではないかしらん?

勿論、人により事情は異なる。だから各人様々で良いと思う。だって子どもは「授かりもの」なんだから。例えば子どもを産むのが難しい年齢の女性に恋した男性はそれはそれでアリでしょ。だから色んな人生があって良いのだけど「投資したくない」が故に子どもを持たない姿勢は違う気がする。とは言え、自分もその点を熟慮し「子どもを持とう!」と大いなる決断をした訳でなく、「結婚したら子どもを持つのが当たり前」的感覚に流され、気付いたら生まれてたパターン(笑)

つまり「利口なバカ」ならぬ「単なるバカ」。なので偉そうな事は言えない。でも少なくとも自分は子どもに投資したくないと思った事は無い。それは何故?と考えると、子どもとの絆だと思う。この絆、我が子を持って初めて分かる、という鶏と卵の因果性ジレンマはある。そして自分的には、子育ては自分が今生きてる事に対するご先祖様への恩返しとも思っている。そう考えると子育てって「先が見えないのに投資」し、「ああしても、こうならない」を日々実感し、「結果はどうなるか分からない」で、傍から見たら馬鹿みたいな行為。でも自分的には、カッコ良く言えば絆を学ぶ修行とも感じている。これが現代の常識への自分の持論。多分、偏見も入ってる(笑)

3)逆さメガネがあると何が良いの?
逆さメガネがあると世間の常識に縛られずに生きられる。物事を多角的に捉え、様々な解釈が存在する事を知り、自分独自の考えを持てる。結果、狭い考えの自分とサヨナラ出来る。人生は人それぞれだし全ての物事には長短がある。だから「○○じゃないからダメ」と固執せず、幅広く捉える人生の方が幸せだと思うのだ。一方、メガネを掛ける/掛けないも自己判断と書いた。世間の常識に染まっていては逆さメガネを掛けるどころか「何か違くね?」と感じる事も無いだろう。では「何か違くね?」感覚を養うにはどうしたら良いか?自分が思うにその最適な方法が読書だと思うのだ。「今の自分」は自分の常識で構成されている。そんな自分を客観視する事って実は難しい。そこに距離や時間を超越して他者の見方、考え方をインプットし自分を客観視出来るのが読書の力ではなかろうか。時にそのインプットが今見えてる風景を変えてしまう、つまり人生を変えてしまう事もある訳だから。

以上

投稿者 ktera1123 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポン

鑑文にも「こういう本をたくさん読むと、多面的思考が身につきますよ。」書かれていますが、「さかさメガネで覗いたニッポン」以外にも、「養老孟司の」(奥付をみたら課題図書の元本だった。)、「バカの壁」、「遺言。」まで読んで、尚且、課題図書倶楽部にも投稿しましたが、新聞の文化面にまで養老孟司さんの記事が載っている、かつ朝、新聞をながめていたら「さかさまデニム」と、中の人も影響を受けているのか逆転の発想の記事まで載っている。以前知り合った人のFacebookの記事や、とあるツアーで出かけた時の懇親会の目前に座った人の出版された本まで関連することが書いてある。多面的思考の前に連鎖反応が起こっていて、整理がつかずモヤモヤしているこの感覚はなんでしょうか。

文庫版まえがきに「教育の根本は独学である。その根本は学ぶ気持ちである。」とありましたが、なにも考えないで日々を過ごすのと、本をたくさん読み、日々Facebook、Twitter上や通勤、外出途中で目にすることに気をつける。また、いろいろなセミナーとその後の懇親会に出席することにより、自分以外の他人の考えていることを学ぶ。年齢や立場に関係なく、目の前の相手を尊重し不足していることを「受動的に教わるのではなく、自発的に学ぶ」ことが大切なのではないでしょうか。そのような機会および切磋琢磨する皆様方とリアル、バーチャルの違いはありますがお会いすることができて幸せと感じています。

追伸
養老孟司さんは左利きとのこと(遺言。より)。自分も左利き(字を書くのだけは右)ですが、病院や店舗で左利きの人にあたる可能性が高いのは何故だろう。また、会社で毎週水曜日に会議室でランチ会があるのだけど、参加している人の左利きの割合が多いのも何故だろう。このようなところにも同質結集だけでなくなにかあるのかな。もしかしたらそこが「逆さメガネ」なのかもしれない。

昨年(養老改元1300年)4月末に投稿されている人と名古屋でご一緒させて頂いた翌日に「養老の滝」と「養老反転地」にでかけたました。その時の感想は「常識(先入観)がある人は楽しめない。童心(ピュアなこころ)をもった人には楽しい」ところでした。

以上

投稿者 diego 日時 2018年1月31日


入力としての課題図書と、出力としての課題図書

この本では、いくつかの現象、社会問題などに対して、
すぱっと語っているように見えて、提言はあいまいなままで、
自分でもっと考えるように言われ続け、読後に収まった感じかしなかった。
それは、私自身が考えながら読んでしまっていて、ちゃんとこの本を読んでいないせいかもしれない、そう思って、再読した。

一度全体を読んでからの再読で気づいたことがある。
全体像が見えている先生が、ぽそっと一言、何か付け加えてくれるのだけれど
もちろん、生徒は、先生の見ている全体像なんてわからなくて
はじめは「?」と思いながら聞いていたり、
聞き逃してしまったりする。

そして、先生と数年を過ごした後や、
先生のような経験をした後なんかに
「あれは、こういう意味だったのかな…」なんて思い返したり
「そうか!」なんて手を打ったりもする。
そんな言葉が随所にあることに、再読して気づいた。


だが私は、先生の発言から自分の都合のいいところだけピックアップして
「先生はこんなこと言ってた!すごい!」などと
誤解したりするこもあるのだろうなと思う。

でも、この本は、そんな迷いにも答えてくれていた。
『真剣に考えて』…『(仮の)答えを出して、それに対して手を打っていれば、その答えが間違っていれば訂正することもできる。』(p69)
『人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれてくると言ってもいいのです。それを繰り返すのが学問です。』(P160)
一生懸命学んだら、考え方がすごく変わって、「以前の自分の発言は間違いでした、すみません」と言う、
本当に真剣であれば、それでもよいのか、と。

例えば、私は課題図書を提出し続けて、28回を経過している。
早めに、もしくはぎりぎりに感想を書いても、うまくまとまらないことも多い。

もちろん、実際に感想を書く前に、課題本について「これはすごい」などと、誰かと話をすることは、ある。
一読目の途中と、読了後と、再読後では、本の内容についての意見や把握が、変化していく。
一回目で読んで読み込めたらいいのだが、なかなかどうして、そんな簡単にはいかない。

もちろん、課題本を読むだけでなく、それに関連する本を読んだり、
日々の生活の中で、課題本から得た視点で考えてみたりということがある。
立ち止まって考えてみたりもする。トライ&エラーを繰り返してみたりもする。
これはすべて、課題図書の感想文を書いて、アップするためだ。

課題図書にアップするまでに、
何かすごいことが起これば、と思ってしまうところもある。
だがしかし、仮の答えでも、真剣に考えたものであれば、それでよいのだ。

自分の子供には、そんなふうに言ってあげられるけれど
自分自身には、そうは言ってこなかったのか。そんなことを思い、また驚く。
誰が見ても完璧にはできないけど、とにかく続ける。
その時の自分の完璧まで、本当に真剣にがんばり続ければいいのだ。

確かに、一冊の本を読了してさえ、そこから充分に深く読み取れないことさえある。
充分に深く読み取れたらいいのだが、今の経験と知識では難しいと感じることもある。
そんな時は、本の言及する分野をもっと知ってからでなければ何も言えないとも思うが、
感想を書けないという訳ではない。
すべてを知ることはできないのだから、今の時点で真剣に書けばよいのだ。
ふう。納得できても、実践はまた別のステップである。自分の教育は、なかなかに難しい。

だから、視点の転換、逆さメガネなのか。
教育論だから、教育する側の視点で考えてしまうが、
教育されたりしたりは続くのだ。

本を読み、学んで、いろいろ試して、新しいことを知り、
また試して、考えて、読んで、学んで。
そういうサイクルが、時に苦しみながらも、楽しそうに回転していることを
きちんと体感しているのは、すごく恵まれていたのではないかと、今にして益々思う。
(課題図書の場に、いつも感謝しています。みんなもっと、投稿したらいいのに。)

本を読んで、知識を実践に結びつけて、更に感じたことを書き、また本を読む。
そうすると、知ること、知って脳の中の知識同士がつながりあったり
急にわかるようになったり、わからなくなったり。
環境に対して感じることもどんどん変わってきているし、
他者への反応もきっと、変わってきているんだろう。

それも、本書の根本にあるように、
人と相互に信頼しあおう、
どうすればうまくいくのかと大切な人たちや、みんなのために考えようとしているのなら、
どんどん考えて、どんどん話をして、仮でもいいから答えを出して、
それでも間違っていたら、訂正すればいい。

真剣に学問を続けていれば、過去の自分はいなくなっていて
新しい自分に変っていくのであり、それが育つということなら、
それが学ぶということであれば、
何が起こるか分からないと、常に心を開いて
また新たな本に向き合えるのではないか、そんなふうに思う。

本当は、この本については、たくさんのテーマがあって
まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが
今回は、学んで発表して、ということ(本書では、入力と出力)について。

自分だけでももちろん学び、言葉にして書き留めればよいのだが
心の中で感じたことを、言葉にして伝えて、
自分以外の誰かにわかってもらうおうとすること、それ自体が大事なことではないか。
一度だけ本を読んで、何となくわかった気になってしまうのは
とても寂しいことなのではないのか。

すばらしい出力の場所があれば
どう感じて実践して、何が変化したかを伝えたいから
いつもよりもっとがんばってみたい、
新たな課題として学んでいこう、
そんな意欲につながるのだ。
それをもっとみんなに理解してもらえたらと思う。

今月も、感想文の場がなければ、充分に味わえなかった書をいただきました。
ありがとうございました。

投稿者 eiyouhokyu 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポンを読んで

この本に触れて、自分の行動に影響を与えたことを下記に記載する。

1.仮説
私が自分のステージを上げるには、読書が必要である。読書をすれば、ステージを上げることができる。読書は、知識と情報のインプットである。たくさん吸収すれば、与えられる側ではなく、与える側になれるはずである。インプットした知識や情報は、アウトプットすることが大切なので、書いたり、人に伝えたりする場をセッティングすることでスキルアップにつながる。

2.実行
読書をしてみた。教育やら都市化に対する指摘の本だろうというのが最初の認識。読み終わったあとは、感想文を書こう。感想を書くのは初めての試みである。今までは月1冊読書のペースだったが、1週間で読めた。今年に入り読書は週1冊のペースで継続できているが、年100冊読むには、速読が必要だ。

3.検証
読書をすれば、自分のステージが上がるという仮説を立てたが、因果関係がわからない。読むだけで、上がるものなのか。100冊読んで情報と知識を得ると、自然とステージが変わるのだろうか。それともアウトプットのセッティングが重要なのだろうか。
それでは「ああすれば、こうなる」思考ではないか。どうやら「手順」を考える事を忘れているようだ。読書→〇〇→ステージが上がる。〇〇は何なのか。考えても分からなかったが、そもそも仮説が間違っているのではないかと、夢の中で気づく。
読書(読む行為)がアウトプットで、読書の内容を考察することがインプットなのではないか。手順が逆だったのだ。読むことは目で字を見ることだけの行為、考察は脳を動かす行為、使う場所が異なるのである。筋肉を使う場所が異なる事を意識すれば、読書の方法が変わってくる。結果、脳の使い方が変化して、ステージを上げることができるという仮説が成り立つ。
今回考察に2週間を要した。読書をして、自分で考えて意味を見つける。しかもこの考察は、ただ文字の意味を考えるだけでは、見てるだけと変わらないので、いつもと違う脳の使い方をしなくてはいけない。意味を見つけることにより、既成概念が変わって、行動が変わればアウトプットになる。アウトプット→インプット→アウトプットのサイクルが回転する。

4.改善
読書をした後に考察をする事で、アウトプット→インプットのサイクルを回すことができる。インプットが終わった上で、書いたり、話す事で、アウトプットとなり、連続回転となる。ちなみに、全ては筋肉の動きなので、例えば脳を意識と無意識に分けて働かせる事で、処理能力も増えるのではないかという気づきも得られた。実際に、意識して考察しても分からなかったことが夢で答えが出たように、脳を使う場所を変える事で、できるようになるということが気付けた。脳も筋肉だから、トレーニングして鍛えるしかない。部分的にではなく、偏りなく鍛えることがポイントである。幅広く脳を使うことで視座が広がり、判断も変わり、行動も変わり、結果としてステージが上がる。
書く行為まで入れると、トータル4週間かかったのが今の自分の実力である。あとは自転車に乗る練習のように、安定速度まで回転を早める練習が必要である。次回は、トータル3週間が目標である。

課題図書に挑戦して、気づきを得ることができました。ありがとうございました。

投稿者 smec 日時 2018年1月31日


誰がレールを引いたのでしょうか?学歴を取得し、大企業に就職し、定年を迎え、年金生活を送る。これが幸せだと。
この学歴を取るために、試験に通るための勉強を行い、出された問題に対して設定された正解に辿り着く努力をし、得られた正解の数で一喜一憂する。これが受けてきた教育です。
バブルが崩壊して、今もなお、この教育方法が捨てられず、ある事象に一つの正解を求めてしまっています。このフィルターの存在に気づくためには、この《逆さメガネ》が効果的です。
日本人は高度経済成長期を味わい、働けば働くほどマネーとなって返ってくるということを体験しました。この体験をこの《逆さメガネ》で見てみると、大した仕事をしてないということに気づきます。戦後、人口が増え、朝鮮戦争が起き、市場が拡大する中で、働けば働くだけ稼げる状況でした。その中で勘違いして作ってしまった方程式が、
 稼ぎ=労働時間×係数k
この係数kが一定だと思ってしまったのでしょう。その結果、出来上がったのが、長時間労働信奉。残念ながら、今の時代、この方程式は成り立たなくなってしまいました。正解がなくなってしまったのです。
なのに、今だ変わらない教育が受けさせる義務として行われています。(最近、変わってきたようなのですが、個性を伸ばすという良く分からない方向です。)
こうした中、救いなのは子供が自然だということではないでしょうか。私も育児本を何冊も買って試しましたが、我が子は決して本に書いた通りにはなってくれません。最初は嘆き悩んでいましたが、ふと気づきました。結局、親のエゴだってことに。今では、手入れをしながら、その変化を受け入れていけば良いのではないかと思っています。
ただ、その変化を受け入れ続けられるのか、自分の度量に不安を感じる時があります。対策は、自分が変化することしかないのでしょう。そのために変化を恐れず、読書やセミナー、人とのつながりに飛び込んでいこうと思います。
まずは、YLS14期をやり遂げます。

投稿者 andoman 日時 2018年1月31日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

本書を読み、大抵の人々は「考えている」ふりして、実はあまりよく「考えていない」という事が分かった。
世の中の「常識」1つにしても、これまでの教育やテレビ、周りの人々の言っている事を鵜呑みにして、なんとなくその時の自身の考えに近ければ、正しいと捉え、それを「自身の意見」と思い込んでいるのでは無いだろうか?

例えば、エピローグの「男と女は平等か」という題を目にした時、「当たり前じゃないか?今の世の中は男女平等に決まっているではないか!」と多くの人が突っ込みを入れたと思う。
しかし、なぜ「平等」と言えるのか?
それについては、大抵の人は「そんなのは、現代社会の常識だから」という答えだと思う。
本当に男女は「平等」なのかどうか?
それは、どのメガネで覗く(視点)かによって、答えは大きく変わると思う。
選挙権や、資格取得といった面においては、確かに平等だ。
しかし、身体面となると平等とは言えない。
筋力面に於いては、男性が有利だが、寿命面では女性が有利だ。
一重に「男女は平等か?」と聞かれても、それがどのメガネ(視点)での答えを求められているかを理解しなければ、マスの視点でしかモノゴトを考えられず、それは何も考えていないに等しく、その結果、考える事が出来なくなり、最終的には思考停止に行きつく。。。

筆者は、この本を通して、一つの物事に対して、「様々な角度から物事を見る事」を読者に教えてくれていたのだと感じた。
その理由として、P.143『現代の「知ること」、その大前提はなにかというと、自分は自分だという事です。』という文にあった。
自分自身という、何よりも自己の存在そのものに最も近く、不変な存在に対して、私たちは何を知っているだろうか?
意識と身体の話にもあったが、自己について、知ってるつもりでも、ほとんど知らない事ばかりだ。
例えば、「お金が欲しい」という願望について、簡単に考えてみる。
誰しも「お金」は欲しいだろうと思う。
しかし、何故「お金」が欲しいのか?
「お金」自体が本当に欲しいのか?
本当は、「お金」ではなく、「お金で交換する事によって得られる経験や体験」が欲しいのでは無いか?
自分自身、本当は何を求めているのか?
そこを掘り下げれば、自分が本当に欲しいモノゴトが判明し、お金で解決する必要があるかどうか?という事が視えてくるのでは無いだろうか?
ひょっとしたら、それは、お金では手に入らないものかもしれない。

例えば、本を買うのにお金が必要なので、アルバイトをしようと考えている学生がいるとする。
しかし、その学生が本当に欲しいものは、お金や本じゃなくて、とある本で得られる「知識」が欲しいのだ。
その事に気付けば、その「知識」が本によって得られるのであれば、まずは図書館を探してみると良い。
図書館にあるなら、お金をかけずに、その「知識」を得る事が出来る。
お金をかけないという事は、お金を稼ぐ為のアルバイト時間をかけずに済むという事に繋がり、ましてや、アルバイトそのものの時間よりも、本を読んで知識を得る時間の方が、短くて済む事もあるかもしれない。
これも、自分が本当は何を求めているか?という事と、「本は買うもの」という刷り込まれた考えに対して、メガネを掛け直す事で、簡単に導き出せる。
(私を含め)多くの人は、そこまでメガネを掛け直したり、深堀りしないため、目的(求めるモノゴト)と手段(お金で解決)が入れ替わってしまっている事が多い気がする。

自分の幸せについても同様だ。
自分の人生にとって、何が幸せなんだろうか?
その答えを、あらゆる角度のメガネを掛けて考え、幸せに対する自分なりのゴールと道を見出せた者は、その目標に向かって進んで行けるだろう。
逆に、一辺倒のメガネでしかモノゴトを視れず、何も考えずに他の人の意見に流され、日々只々生きているだけの人は、他人の都合の良い様に利用され、それこそ、ただ消費するだけの「人糞製造器」になってしまうのではないかと思う。。。

「自分自身を知る事」を続けて行った結果、いつしか「瞑想」に行きつく事になり、そしてその先には、自身の潜在意識と繋がる所にまで続く事となって、その人の人生があらゆる面で益々良くなってしまうのでは?と、ちょっとメガネの角度を飛躍して考えてみる。。。

今月も素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございました。

投稿者 str 日時 2018年1月31日


逆さメガネで覗いたニッポン

逆さメガネをかけるのなら自らの意志で。
ある程度覗いてみたら、逆さメガネは一旦外すことも必要なのではないか。
“かけっぱなし“が当たり前になってしまっては意味を成さないものだと思う。
そもそも現在自分が裸眼で観ているつもりのモノゴトだって、元々は逆さメガネを知らぬ間にかけさせられ、次第に唯のメガネになり、遂には裸眼=常識という流れに適応してきただけなのかもしれない。

常に起きている間、目に映るモノは“現実である“と疑わなかったが、1日のうち自分にとっての現実はそれほど多くなかったのだと『百円玉とヒゲボソゾウムシ』の件を読んでいて感じた。まずヒゲボソゾウムシが分からない。写真は掲載されていたが、白黒なのでググってみてようやく「あぁ、なんか見たことあるヤツだ」となった。ここでの例えで言うなら百円玉が私にとっての”現実”なのだろう。けれど仮にヒゲボソゾウムシのポジションがオオスズメバチだったとしたら、私にとって百円玉は現実でなくなる。目の前の凶悪なフォルムの生物がこちらに飛んでこないか。一目散にその場を離れたいが、刺激せずそっと離れるのが良いか。あれこれ考えて百円玉など目に入らないだろう。『行動に影響する』事象が現実であるのならば、目に映っていたとしても関心のないものは現実とは言い難く、いくつか選択肢があったとしたら、よりインパクトが強いもの・影響を受けたものから現実となっていくのだろう。

後述されていた『脳への入力と出力』の関係性。このサイクルが正しく機能していないものは“どうでもいいこと”として処理されてしまうのかもしれない。今回、私の脳に新たに入力されたであろう名前と姿。もし本書と同じシチュエーションに出会ったとしたら“現実“が入れ替わるかもしれないなぁ。

“逆さメガネで覗いてみるというコト“
それが言うほど容易ではないのは、やはり保身からくるものだろうか。
しばしば「様々な観点からモノゴトを見ろ」といった類の言葉は良く聞くが、せいぜい“斜めメガネ”くらいに落ち着いているように感じる。
中途半端に変えた視点と真逆の視点。どちらが面白く・どちらが話題になるか。時にはそういった思い切りが必要なのかもしれない。法律は守らなければ罰せられるが、常識は守らなくても説教を食らうか小馬鹿にされる程度で済む。あわよくば「これまでの常識を覆した!」なんて評価されるかもしれない。

勿論、“逆さメガネ視点”アピールのつもりが“ただの馬鹿”にならないよう、最低限のマナーと論破できるくらいの知識は持っておくことが大前提ではあるけれど。

投稿者 chaccha64 日時 2018年1月31日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

現代の日本は脳化社会。意識で、論理で説明できるもののみが信じられている社会。原因があり、その結果があるものだけが信じられている社会。社会が発展することが正とされる社会。そして、日本は発展していると考えられている。
それなのに、人々は幸せになっていない。将来も暗いと考えられている。
なぜなのか? どこかおかしい。正しいと考えていることが、常識がおかしいのではないか。著者が逆から考えるべきだと教えてくれます。

意識と無意識、現代は意識で説明がつくことが大事で、説明できることだけが正しい。意識は都市、人工、脳と結びつき、無意識は田舎、自然、体と結びつく。都市は、人間の営み、四苦(生病老死)を隠している。脳だけで考える。体で感じる、考えることをしない。そのため、おかしな大人が出来上がり、その人が育てた、自然と人工の中間の子供がおかしくなる。都市を目指すのではなく、村に目を向けよう。会社や官庁は機能体にし、その他で共同体を作り、目指そう。無意識を、心を、体を大切にしよう。

なるほど、なるほど、尤もだ。しかし、これも、意識で、脳で考えているのではないか? それでは、この考え方もおかしいのでは。
いやいやそんなことはない。だから著者は言う、一元論に陥ることがないように。
A、B、どちらかではない。常識が、脳で考えたことだけが正しいわけではない。そのために、逆からも考えないといけない。そして、いつもどちらか一方が正しいわけでもない。どちらも正しいこともある。世の中はそんなに単純ではない。
その通りですね。しかし、世の中の考え方に流されやすい自分としては、ぶら下がっている答えに飛びつかないように、ちょっと立ち止まって逆からも考えてみることをしないといけない。が、その上で出た考え方にも引っ張られないようにしないといけないのか。難しい。でも、やらないといけないことです。

投稿者 wapooh 日時 2018年1月31日


201801 【逆さメガネで覗いたたニッポン】を読んで
 恥ずかしいことだけれど、養老さんの書を読了したのは本書が初めてでした。積読が2冊ほどあります。余裕なく感想文を書き終えて、念のためにと今日買ったばかりの「バカの壁」を手にしました。速読編で教わった方法でざっと目を通して、書き終えた感想文を一から打ち直したくなりました。。

 本書を読んで、印象に残った一節は、45ページ目の『・・・都会の人は・・・「シミュレーションが利かない状態がある」と言う事を、絶対に認めないんです。答えをいっときますが、そういう状態になったら、努力・辛抱・根性しかないんですよ。じつは。だけど都会の人はこの三つが大嫌いなんだから。何とか楽な方法がないかいと思ってる。』だった
しょうおんさんのセミナーに参加するようになり、しょうおんさんや花さんや塾生の皆さんの日々の発信、加えて、人間的に目覚ましく成長されていたり、ビジネスの世界で活躍されていたり、とても豊かであこがれる日々を過ごされている多くの様々な姿に出会っていくうちに、スマートな社会を悠々と泳いでいる陰で、立ち上がりまでの下支えの日々の淡々とした努力と時間の蓄積が基礎となり、確かな実力の土台となっているかを感じさせられることが良くある。
前向きな「努力・辛抱・根性」はやはり大切なのかもと、力強く一番大きなしおりを挟んだと同時に、自分はまだまだだからしっかりせねばと褌を締め直した。
 そもそも、タイトルの『逆さメガネ』ってなんだろう。単純に世の中を逆さに見ようという呼びかけだけでは無かろう、と試しにamazonで入力をすると、掛けると左右が反転するメガネが10万円で販売されている。買う気にうならなかったので、『逆さ眼鏡』のキーワードでヒットした論文(pdf)と単行本を入手したが、読み終えられなかったが、真意を知らなくても本書の内容を理解するには影響無い様に思えた。
本書では「物事を一つの見方=現状の常識を覆し、逆の視点で世の中を見る→世界の認識が書き換わる」ための切り替えのスイッチのサインとして『逆さメガネ』が使われているように感じた。    
なぜ、逆さ眼鏡をかける必要があるのか? 本書でも紹介されているが、「バカの壁」にはもっと分かりやすく書かれている『「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と方丈記で想像できるように日本はもともと一元論ではなく八百万の神の国である。ところが、近代になって一元論が主流になっている。一元論と二元論は、宗教で言えば、一神教と多神教の違いになる。 一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教である。
 都市宗教は必ず一元化していく。それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓には、土地がついているからものすごく強い。
 江戸時代でも稲生厚相と支配階級を固定化して、武士だけに武器を持たせ、徹底的に有利にしておいて、やっと百勝とバランスが取れていた。それくらい、都会の人間と言うのは弱い存在なのです」その弱さに漬け込むのが一神教、と説いている。「バカの壁」には本書と同じエピソードがいくつも出てくるが、2003年出版時の世の中と、2018年の今とでは経験した事象が異なるものの、基本的な警鐘はさらに効果的に響いているように感じる。
「バカの壁」でも『逆さメガネ』でも、自然と都市、意識と無意識、脳と身体との2つの対立軸で解説されて、「AならばB」「科学で証明されていることは絶対で原理で、ほぼ全て。不変」と考えられているが、本当は違う。
戦後、『食うに困らない社会』を目指して頑張ってきた日本人は今、教育を無くし、信心を無くして生きる意味を失いかけているか、金そのものに執着をしてしまっている。
金についても、二元論。実の経済と虚の経済。お金を使えばモノが手に入るのが実の経済。石油や石炭、天然資源のようにお金使って増えるかめぐるかして実体経済は消費されるが、ビットコインの様に虚の経済では、数値のやり取りのみが大きな動きになっている=金を使う権利。先月、西野さんの本を読んだ際に『腐る経済と腐らない経済』とあって記憶に引っ掛かっていたのだが、養老氏の経済二元論を読んで、なんとなく納得できるところがあった。そして、虚の経済=脳の世界といえる。
『脳と身体』これも二元論。教育は身体を通した学習に基づき、出力を伴ってこそ成り立つものである、と言う。(このコーナーも学習の一貫だ)。世の中は変わると言う不変を学ぶ。なぜ脳が発達するのか?といせば、人間が生きると言う事は、他人と共生する世の中に身を置くことであり、必要なのは『共に理解する事』そのために、日々変化する人間をつなぎとめるツールとして「意識」という共通了解が必要なのだ。自己同一性に基づく「意識」の世界。
先ほどの経済で言う所の虚の経済=意識の世界。繋ぎとめるのはお金。なるほど1円や10円玉は昭和の時代からずっと市場で流通しているもので『腐らない経済そのもの』。『これからの金稼ぎは、共感と信頼が重要』と言うのは、これまでの実経済を超えた電子マネーの世界=金の世界=脳の考えた世界。だから、物ではなく思考を保証する不変なもの、または、西野さんの言う「信頼」が紐づいている。お金には2種類あって、どちらが人間を豊かにするか?というと、今まではお金の多寡=数値=虚の経済が主流だったけれど、食うに困らない消費者は物語や経験=目に見えない価値を感じて、お金を出している。お金=幸せ、と言う一元論メガネをかけて固まっているだけだろうか。
見えないものを予測し、期待し、時間をかけて淡々と絶え間なく「努力・辛抱・忍耐」で蓄積し醗酵させて、豊かなものを見出していく。お客様を出し抜くことはせず、まっとうな商売で勝負する。消費者も、まっとうな気持ちで頑張るのが大事だと思うから、弟に手渡そうと思う。
「バカの壁」では、『夜と霧』の著者ビクトール・フランクルのエピソードが度々書かれている。そこから学んだことは、我々は絶えず『生きるための人生の意味を問われている』けれど、最近の都市の生活に使った現代の日本人は、『ああすればこうなる』と言う科学で解明されたシステムで構築された世の中に身を置いて、大抵のことが身体の経験もなく頭で分かったつもりであり、くらうぃを済ませられる。『生きるための意味』の質問の答えは簡単には見つからない。答えの出ない問は、思考停止の元、抹殺される傾向にある。養老氏はそのことに警鐘を鳴らしている。疑問に思えやすいように、『逆さメガネ』を出して、常識を覆しいごこちの悪い思いを味あわせて、「考えろ」と言っている。
本書もバカの壁もどちら共通のエピソードがあるが、今自分たちが目の当たりにしている脳=意識優位の情報化社会における特徴や時に事件(技術革新のメリットだけではなくて漏えいや改ざん等のデメリット含む)のおかげでより刺さる教えとなっている。
では、自分はどう生きるのか?
カギはしょうおんさんのセミナーの教えの中にあるなぁと思う。科学で説明できないNotAの世界の認識、淡々と継続することの価値、自分の体の意識(日々の小さな差異に気づく)の鍛錬、お金への意識、自分OK周りOKの智の道、仲間とうまくコミュニケーションを図り幸せを共感共有する(ビジネス)スキル、楽しさ、文化を知ること、、、。
 こう書いてみると、一つ一つをしっかり体現できたなら豊かな毎日だと、噛みしめられた。
本書を読みながら、先月の課題図書やこれまでの課題図書を思い出していた。先の収穫を見越して、長期的な戦略行動を積む。目先はただ、淡々と着実誠実な行動のみ。それが遠い日に信用となり多くの人と共有し喜びと豊かさに変わる。時間をかけた収穫について考えるとき、いつも頭の中には昨年6月の課題図書の一文『『自分の生きているうちにオークの木陰で休めるようにならないからと言って、ドングリを植えるべきではない』がこだまする。一年後を楽しみにじっくり取り組んでいこう。
 今年もまた、素敵な本を教えて下さって有難うございます。最近紹介される本は一冊ではなくて類書または同じ作家の別の作品を読むことで理解が深まることが多くなった。12x2=24冊で、20冊は読めそうだ。100冊のうちの5分の1はアウトプットに絡めて読めそうだ。
本年もまたよろしくお願いいたします。有難うございました。

投稿者 kayopom 日時 2018年2月1日


「意識は同一化する」?「我思うゆえに我あり」ではないのか?
考えることや、個別の意見を持つことが自己主張と思っていた自分には、本書で理解しがたかったポイントはここ。
意識は同一化しているから、同じ単語で同じようなイメージが持てるのだ。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。
著者が言う「逆さメガネ」をかけてみるのは、かなり骨が折れる作業であった。話題も多岐にわたるので、今回は日々考えることの多い「教育」についての部分で感想をまとめてみた。

◆大きく頷いた点=教育と子どものあり方
身体と学習の在り方については、自分でも昨今「知行合一」を実感している。
昨年英語を集中的に学習しなおす機会があったのだが、文章を読んだり、リスニングだけでなく、ひたすらシャドーイングや暗唱を行った結果、聞く能力も、話す能力も上がったとの認識がある。
これはまさに脳への「入力」を、身体を通じて「出力」した結果がもたらした学習の成果だったと思う。

小学生の我が子も未だに学校の宿題は漢字の書き取りは一文字半ページは書いている。音読もやるし、食育や農業、商店街のインタビューなど体験的な学習も、我が時代よりははるかに多い。
1分間スピーチの時間もあるし、自己の考えを発表させる機会も設けられている。相変わらず掃除は雑巾掛けもやるようだし、また、体幹を鍛える体操を定期的に行い、学習時の姿勢を良くすることで、学習効果を高める実験も行われている。
これらの内容は小学校にもよるだろうが、アナログスタイルの学習が残されている点で、義務教育においての「知行合一」は、それなりに継続され、時代への適応もしていると言えよう。

ただ次第に学力が数値化され、個々での差が開く段階に来ると、我々親世代というのは、やはり「いい学校に入って、いい会社に入ったら安泰」との考え方を切り替えられないのか、高学年にもなると私立中学受験のために塾通いを始める子が多数派になってくる。私立中学合格にはできれば4年生から、5年からはマスト、6年では遅すぎ、なのだそうだ。
つまり小学校の後半大半は、放課後を塾で過ごす子どもが増えることになる。

この時期の子ども=もっと外で遊んだり、体を動かすべき時期にペーパーテスト攻略のための、思考の負荷を与えることが、その後の脳力も能力も伸ばせるものなのか、著者の言う「知識が行動に影響する」ものかは、自分は甚だ疑問である。
もちろん名門校にはそれなりの質の高い教育は用意されているのだろうが、中学受験とは親側の論理で決定されることが多く、子ども側に選択肢はあまり用意されていないのではと感じる。

親の理屈では「ああすれば、こうなる」。価値観はいわゆる学歴社会のもので、変わっていない。
とはいえ多数決の論理で、「我が子が落ちこぼれてはなるまい」と親が焦りを感じて教育投資に躍起になるのは仕方がないことだ。
実際自分も、我が子が学力的に落ちこぼれになることには危機感を覚える。

IT革命後の世の中において、それまでの人生における「ああすれば、こうなる」モデルは、絶対ではなくなった。
けれども「いい学校、いい就職、安定した人生」モデルでの足場は確保しながら、一方で子どものなりたい職業が「ユーチューバー」ならば、「ユーチューバー」になるための学習塾に通わせる、といった全方位戦略が必要となっている。学歴に加え、「先行者」利益を享受するための投資も求められている。(親業、マジ疲れるな。。)
しかし、今やってること焼き直しても、今更先行者にはなれない。新しいものって、もっと泥臭い感じで生まれるんじゃないだろうか。
かつてのジョブズやゲイツのように、おたく的な気質の元に。与えられるというよりは、子どもたちが見つけて選び取るんじゃないか?
ちょっと道が用意されすぎな気がする。

◆教育とこれからの社会へのヒント
養老先生のこの本から、これからの教育と社会へのヒントとなりそうなのは「個性とは身体にある」部分。
「個性とは身体そのもの」、「心とは共通性そのもの」。でも共通性、否定しているよね、大人が!
幼児時代は子どもに善を教え、小学生に上がると悪を教えなければいけない。見知らぬ他人を信用してはならない、話しかけてきた人を疑ってかからなければいけない。。この悲しさ。
大人の論理で価値観をコロコロ変えちゃってる。
顔の見えない都会では仕方ないこととはいえ、もっと共感力を鍛えて、社会のつながりを大事にするべきでは?

1.身近な共同体への参加
学校や地域コミュニティとのつながりを強化していくこと。
都市部では個々の顔が見えなくなってはいるが、地域との関わりを持ち関係性を強化していくことだ。
せめてご近所両隣とは挨拶を欠かさず、安否を気遣うようにしたいところ。
学校関係は深く立ち入るとPTAやらなければいけないかもしれないが。。

2.実物に触れる機会を大事にする
ここは親世代が大いに文学や芸術など、人間の感情に訴えるものをたくさん触れて、子どもにもその機会を与えることが必要と思う。
一緒にハイキングしたり、博物館に行ったり、本物を見る機会をつくり、身体から、脳への刺激を与えることだ。
いつ何に興味を持つかはわからないので、何でも貪欲でいいように思う。

3.身体への視座を高める
我が子の友人女子は、筋肉質でスポーツ万能、親がその性質を見抜き、地域の相撲大会に出場させたところ、なんと優勝してしまった。
別にスポーツではなくとも、手先が器用とか絵が上手とか、子どもの身体の動きがどういったときに能力を発揮しているかを観察をしていくことだろうか。

というわけで「情報」に偏りが無いような、泥臭い体験をもっともっと作っていこうと思った次第である。

蛇足ではあるが、「天命反転地」と荒川・ギンス夫妻の作品はどこも面白いので、ぜひヘンテコな身体感覚をみなさんに体験していただきたい。
他には三鷹の天命反転住宅(体験宿泊もできる)、岡山は奈義町に作品があります。

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投稿者 vastos2000 日時 2018年2月1日


この本の内容はあくまで問題提起。
どうしろ、どうすべきか、ということは(あえて)言っていない。著者本人も、「自分が言っていることが正解とは限らない」と言っているように、ある部分は同意できるけど、ある部分は同意しかねて、また別のある部分はよくわからない。

書かれている単語や文章自体はそれほど難解なものではないけれど、その文章が示しあらわしているコトは理解が難しい。たまにはこのような難解な本を読むのもよいものだ。自分で選ぶとどうしても<わかりやすく>書いてあるビジネス書や、自分の嗜好にあった分野の本ばかりになってしまうから。四の五言わずに課題図書を読むことを自分に課してよかったと思う。

さて、今回の課題図書『逆さメガネで覗いたニッポン』の感想をまとめるべく、何回か読み直してみたし、養老先生の他の著作も読んでみたけれど、おそらく<今の私>が何度読んでも、これ以上は理解が深まらないと思ったので、著者の意見に対し、自分なりの「こんなこと考えたらよいんじゃないか」という点をピックアップした。

●『子どもは人間が意識的に作ったものじゃないということ、つまり「自然」だということです。』(p.26)
妻が小学2年の娘を大人扱いしていて、思い通りにならなく毎日イライラしている。
本人は、今のところ学校の勉強にあまり価値を見出しておらず、興味を持っていない。たとえば国語。娘は、漢字に関してはまだ習っていない字も含め読むことはだいぶできるようになってきたが、書く時にちょくちょく間違える。
職場にPCが普及し、大人でも<漢字を書く>機会が減っており、漢字がわからない時はPCやスマホで調べて書いているこのご時世に、子どもが「漢字は読めればいいじゃない」と考えるのは自然な成り行きの気がする。
今の大人たちがこのような状況にしておいて、子ども達に昔と同じように、「何も見ないで漢字を正確に書けるようになれ」と言うのはやや無理があるかもしれないと、あらためて思った。
幸い、娘は理科や社会などの、身近なものの不思議や謎の仕組みには興味を持っているので、その謎を究明するために、まずは自分で本なりネットなりで調べるようになればしめたものと思っている。
著者も勉強の根本は独学と言っており、やはり本人の学びに対するやる気が最も大事なのだろう。


●『これをむずかしくいうと、「ない」というのは「現実ではない」ということなんです。皆さんは「現実」という言葉を、私のようには使わない。それはよく知っています。面倒な話かもしれませんが、まあ、聞いてください。~(中略)~知識と現実はどう違うか。だから行動に影響するモノが現実だ、と言ったじゃないですか。逆に知識が行動に影響するなら、それは現実なんですよ。ただし「その人にとっては」、です。だから現実は「人によって違う」んですよ。』(p.33~34)

ここは逆さメガネとは少しずれているとは思うが、少し前にかじったフッサールと通じるところがあったので面白いと感じた。
私の職場からは富士山が見える。私は視覚を通じて富士山の存在を認識できるが、仮に新種のペストのような致死率の高い感染症が世界的に流行して人間が絶滅して、観察する人間がいなくなっても富士山はなくならないだろう、と私は思う。
しかし、フッサールやバークリーはこの常識的なものの見方に「ちょっと待った」を書ける。
要は、「リンゴがそこにあるからリンゴが見えるのではなく、リンゴがそこに見えるからリンゴがあると思う」という、直感的には違うでしょと言いたくなるような思考法。
普段の生活において、そこまでさかのぼって思考するのは時間と労力の確保が困難なので、そこまでやらずとも、普段は深くも考えずになんとなく「こうすべき」と思っていることを改めて考えるようにしたい。
この点について、この本のテーマは教育なので、自分の子どもの教育について考えてみる。
・今は大学進学率が約50%に達しているが、大学は行った方がよいのか?
・2021年の大学入試の改革をはじめ、学校教育が今後大きく変化するが、その変化に対応すべく、塾や教材を準備すべきか?
・2020年度からは小学校でも英語が教科化されるが、英語を読み書き話せることがそんなに大事なのか? など。

もちろん、子ども本人が最終的に決断すべきであるが、親の立場ととして、判断材料を提示したいと思う。だが、私が学校教育を受けた時代と今の学校教育は状況が異なる。私の祖父、父、兄弟のいずれも大学に行っており、私は大学に行くのが当た前の家庭に育った。私の常識を押し付けることなく、子どもの教育を行うことなど可能なのだろうか?
まあ、完全に私の価値観を排除するのは不可能だろう。だから子どもには判断力を大いに涵養してもらいたい。そのための努力は私もしよう。本棚の一画を「父から子への推薦本コーナー」にするのもよさそうだ。その時のツールとして、「逆さメガネ」は役に立つのではないか。


●『ところがその中にいる人は、型に嵌めて強制されていることに気が付かない。自分のメガネがものごとを正しくとらえていると思い込んでしまうんですね。いまの日本も同じかもしれないのです。いや、おそらく同じでしょう。だから「ああすれば、こうなる」だけが高級な思想、近代合理主義思想だと思っています。』(p.50)

つまりは、他のメガネも試してみろ、あるいはメタ認知せよという事か。自分の置かれた環境を比較する時に歴史(過去の社会状況)や地理(他国の状況や制度)を学んでいると役立つわけか。
私が東洋思想に関心をもっているせいか、最近は明治維新以前の日本を評価する動きが出てきたと感じている。近代化、都市化に対して、それとは異なる価値観を示している本やらサイトやらを目にするので、<逆から見てみる>ことや、世間の常識(多数派)とは違う意見や考えを持つことが、おそらくは日本人の平均よりは多い。
中学生の頃に、担任教師から「お前は協調性がない」と言われたくらいだから、多少天の邪鬼なところはある。


と、今回、3つの箇所をとりあげたが、おそらく、プラトンのイデア論からソシュールの記号論あたりまでの存在や認識に関する哲学の流れをおさえてから再読すると新たな発見があると思うので、これらを勉強してから再読したいと感じた。

投稿者 kawa5emon 日時 2018年2月1日


書評 逆さメガネで覗いたニッポン 養老孟司 著

日本人、日本社会って、どうしてこんなに適応能力が優れているんだろう。
島国、鎖国的、ガラパゴス化など、全く世界に追従できていないとの論調も度々耳にするが、
当著書による特に戦後社会の時代変遷経緯を見る限り、少なくとも国際間経済競争に於いては、
短期間で日本国はまたもや先進国、いや先端国ポジションに居ると確信しました。

意識化世界での勝者。見事に都市化社会、脳化社会を実現しましたね。そういえば、
文明開化から第二次世界大戦前までも、潔く前の江戸体制・それまでのスタイルを捨てましたよね。
今回はその敗戦で前体制をまた捨てて、特にアメリカ式近代合理主義思想を日本なりに改造して、
またもや短期間での先端国入り。そんなに短期間で適応するものだから、
その思想がカバーしない、本書でいう自然領域、無意識領域での問題がまた、
どの国よりも早く露呈してしまいました。その意味でもまたもや先端国(実験国?)入り。苦笑。
あ、そういえば江戸時代も後々の研究で、その時代では他先進国に劣らない先端国でしたね。
と、養老孟司製逆さメガネに、自分なりの逆さメガネを二重掛けしてみました。


本書は一般的な読み方をすれば、現代日本社会に於ける諸問題の病理解析、
そしてこのままでは日本の将来は先が見えていますよの悲観論なのかもしれませんが、
何度か反芻するうちに、反対の視点が浮かんできました。また逆さメガネ。。。


結論から言うと、ここまで病理解析が出来ていて、情報共有化も出来ているなら、
(前作から本もよく売れたようですし)、現代人は次のステップに行けるのでは?ということです。
昨今、多くの日本人が現代社会は何かがおかしいと、新たな道を探しているように感じるので。

著者が記載のように、行き過ぎた都市化の成れの果てに次なるお釈迦様が出てくるのだと思います。
それは必ずしも個人ではなく、集団心理だったり、日本人が好きな黒船かもしれません。
前者は既に昨今ブームの神社参拝などにその一端が垣間見えるような気がしますし、
後者はマインドフルネスとか、近代合理主義思想に疲れ、次なる拠り所を探す海外勢かもしれません。

いずれにせよ、日本人、日本社会の将来は暗いばかりではないと思います。
本書で行われた見事な病理解析への理解は大前提で、次ステップへ進むべきですが、
そもそも日本、日本人は都市化社会、脳化社会が無視してきた意識の反対領域、
自然領域、無意識領域を大切にしてきた文化がありましたよね。
行間を読むとか、機微を楽しむとかも数値化できない領域としてとても価値のある文化と思います。

とある方は近代合理主義思想を、人類独存思想と名付けました。今だけ、金だけ、自分だけの世界です。
それに対し、今後は万類共存思想で進むべきと唱えられていました。所謂、八百万の神の世界です。
あらゆる所に神がいる。全てのものに命がある、それを認め、畏怖する思想と解釈しています。
個人的な解釈ですが、スタジオジブリ宮崎駿作品はその思想で製作されていると思います。


正直、今回の著書内での幾つかの病理解析と解決策の提案は別口で教えをいただいていたモノでした。
そうです。しょーおん塾です。基本編は意識領域と無意識領域の話からスタートでした。
そこが私にとっての、本書でいう、都市化こそが進歩だという思想とのサヨナラでした。
例えば、呼吸法を継続していれば、本書でいう身体の無視は発生し得ないはずです。
左脳対右脳、西洋思想対東洋思想、数学対芸術など、しょーおん塾との出会いに本当に感謝です。


最後にこれまでの思索を経て、現在の自分の取組み棚卸しと目指したい方向性で〆たいと思います。
尚、ここでは近代合理主義思想での大きな問題点の一つ、人間らしい生き方欠如への補完も加えます。

個人ベース
・自然領域、無意識領域の更なる勉強。日々の生活で一定の空白を保留する。
・呼吸法を今後も継続する。その最中、身体の反応具体を見ながら内観、身体との会話を行う。
・自然の変化を出来るだけ肌で感じるために、今後もヒートテック下着は着用しない。
・知行合一。ネガティブ感情を簡単に言葉にしない(悪い現実を創造する行動)。
・日々の感謝儀礼や募金、エネルギーボール諸々の継続。

家族ベース
・テレビ等の被洗脳状態時間を少なくし、囲碁、将棋などのアナログゲーム時間を増やす。
・会話をもっと増やす。一緒に悩み、考え、行動し、苦楽を共にする。
・(トラブルがありそうな)トラベルを楽しむ。パック旅行は選択外。未知、変化を楽しむ。
・ふるさと納税などの活用で命あるいのちをいただく。
・キャンプ、体験型イベントなどで一緒に自然に触れる機会を増やす。

仕事ベース
・PDCA(P,P,P...)ではなく、DCAP(まず行動)する。
・関係者が幸せになるように仕事を進める(私のためではなく、公のために仕事をする)


今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 saab900s 日時 2018年2月1日


課題図書 逆さメガネで覗いたニッポン


「逆さ眼鏡」で覗いてみて今のニッポンの現状を俯瞰して見せてくれている。しかも「メガネ」ではなく「”逆さ”メガネ」なのである。ただのメガネをかけて論じた場合、一般的な私たちの感覚で見ることになりそれが常識という名の一般的な考え方になってしまう。”逆さ”メガネをかけて論じると、如何に私たちの常識がずれているかを見て取ることができる。つまり、私たちに盲目的な常識に従い惰性で決定をするのではなく、一度俯瞰し、本質がずれていないかどうかを確認する作業を入れなさいという警鐘であると考える。そして著者のウィットに富んだオチでクスっと笑いも残してくれるオマケまだついている。
私は今教育業界、殊に乳幼児関係の社会に身を置くため第四章に共感した。母親の役割と保育園の役割の境界線が曖昧になってきているのは、日々肌で感じることである。本来であれば子どもたちのケアをするのが保育園であるが、保護者の価値観を少しずつ変えていくのも「保護者支援」が存在している。しかも、その端っこにあったはずの「保護者支援」がだんだんと重要性を帯びてきているのはもはや本末転倒である。本にあるとおり、保護者から教育しなければならないのだ。むしろ、家庭で子どもたちが育つよりも保育園で育つ、言い換えると長い時間を過ごしたほうが様々な経験と教育をすることができると自負している保育士が多数を占めているのは面白い。
常識というのは、ゆでガエルのように少しずつ少しずつ変化をしており、その変化があまりにも微弱なため感覚としては無いに等しいが長い時間軸からみると大きく変化をしているのだ。この性質を認識したうえで、日ごろの生活のなかでもいつものメガネを外して逆さメガネで物事を見てみると、一度リセットして「考える」ことができる。
この本のおかげで、逆さメガネというアイテムをゲットすることができた。これはいつでもどこでも使うことができる。これからは、なんの変哲もない毎日ではあるが、そこに逆さメガネをかけると刺激に満ちた日を設定し、そして疑問の思ったことは調べて裏を取ることにより、常識のかすかな動きに敏感になることができるように、おれはなる。

投稿者 present0ghost 日時 2018年2月1日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

本書を総括すると 「価値観へのひずみの自覚」 について述べられていると感じた。

かけたメガネが逆さであれ、正しいものであれ、メガネの存在に気付ける自分であることが意味のあることだと思う。
大切なのはどんな世界が見えているかのその先の思考として、本来どんな世界が広がっているのだろうと思案する事であると思うからだ。

読んだ上で思ったこと気になったところ
・自分にとって「現実」と「自然」はなんだろう?→ひずみの自覚
 本書では自然と現実という対比が頻繁にでてくるが、行動に影響するものが現実という表現は言い得て妙だと思った。
 タイトル逆さメガネにちなんで、行動に影響するもの→どう見えるか何が見えるか変えるもの→レンズ、という見方ができると思うからだ。
 そして行動に影響するものがメガネのレンズであるならば、人が自然を見るときにひずみが生じてしまうこともまた仕方がないと思える。

・知のあり方の変化からみる「自己の不変」という歪んだ価値観について

 私は勉強と運動には、新しい刺激によって何かを生まれ変わらせるという点が共通すると考えている。
 運動による刺激は筋肉を壊し、新しく成長させる。勉強による新しい知識はそれまでの考えを壊し、生まれ変わらせる。
 けれど本書が指摘しているように、自分を「蓄積するデータベース」としてノウハウやハウツーを重視する側面があることにも思い当たってしまった。
 蓄積させているだけ、と気付いたなら、それを血肉にして自分を変えるための足がかりにできないか?を考えて実践してみようと思う。

・こうすればこうなる、という合理的な考え方←→自然への「手入れ」という価値観
 本書を読むまで、こうすればこうなるだろう、という考えは別に現代社会だから歪まされた考えだとも思わなかった。
 いまも現代社会で生活するにおいては、この思考も全く問題無いだろうと思う。
 けれど、こと自分自身の将来の目標達成などを考えたときに、「自然への手入れ」という見方も持っておくとよさそうだと感じた。

鈴木先生というドラマで最後に「先生のできちゃった婚の是非」を問う場面がある。
そこで各生徒は各々の意見・善悪観をぶつけあう。
それは各生徒の家庭環境という前提があって誰かを傷つけることもある議論として描かれる。
できちゃった婚は悪!と声を上げれば自分はできちゃった婚だった、という生徒がいる。
極端だが、本書で挙げられたような現代社会の歪みの一端を垣間見えるエピソードだと思った。
各々が考える前提、主義、正義は必ずしも正しくないと思えること。
自分のメガネ=価値観を絶対視しないこと。多様な見方が許されている社会なのだ、という認識。他人のメガネが逆さメガネだ!としても糾弾すべきでないのだと思えるだけで、一方的に歪められたまま生きないための行動になるのではないだろうか。

その考えをもった上で、同著者の本「運のツキ」で死をこう表現しているのをみてみたい。
「自分の死はどうでもいい」と。第三者の死も同様にどうでもよく、本当の死とは二人称(=親しい間柄)の死のみだ、と。
「あなたの行動に影響するものがあなたの現実だ」という本書からの引用をあてはめると、人にとって死は現実になりえず、といえるのだろうか。
死について実感できるのは死んだあとの自分だけで、自分にとっての死は考えても考えてもせんのないこと。
一方二人称の死は、その悲しみや悲嘆を想像でき、現実であるということ。
だから人にとって死を恐れ心配することは無意味なのだ、と結論付けた先は、一見何も考えないあっけらかんとした愚者にも似た態度になるだろう。
大賢は大愚に似たり。
そんな言葉を噛み締めながら、 価値観へのひずみを自覚しようと思考を回し続けたいと思った。

投稿者 kokchamp 日時 2018年2月1日


なにやら簡単そうで一筋縄ではいかないなと最初に読んでそう思った。読み返してみると、少しの、気づきを得た。
メガネとはその人のモノの見方である。今回は養老さんのモノの見方を通じて何が得られたのか考えてみる。
逆さメガネという言葉を通じて、対極な言葉の意味を、実はみんなが思っている暗黙の了解という常識は逆なんだと捉えたらどうなるかという頭の体操をしているのかなと感じた。
自然と都会、意識と無意識、個性と共通、身体と心、わかりやすい対比によって、そもそもの全体を疑ってみようということを提案している。
そもそもを疑うには深く考えなければならないし、学んで変わるのが当たり前という全体で知識と向かい合わないと、それができない。
そういう考え方をしていると、危ないオウム事件には遭遇しないのだ。
変わるのが当たり前なら、相手も勝手に変わるはずだから、型にはめてコントロールするようなことはしなくても良い。どう転ぶかわからないという楽しみを持ちながら子供に教育していくのだ。自分も日々変わるのだから。
このようなモノの見方を手に入れると、世の中から流れてくる情報に惑わされ踊らされることなく、古典からも最新のものからも良い知識を手に入れ、変わっていけるのだ。

今まさに我が子の受験に立ち会い、明日著者の母校を受けられるかどうかの戦いを我が息子はしている。これも何かの縁なのか。

投稿者 joyfull 日時 2018年2月1日


「逆さメガネで覗いたニッポン」 を読んで

 消化不良というか、何とも言えない後味の本でありました。端的にいうと、起承転結の「結」がない。グルメリポートで例えるなら、リポーターが、材料・調理法・食べ方などは解説してくれるが、それが「味」に対してどう影響を与えているのかがスッポリ抜けている、とでもいう感じだろうか。何でだろう?と思うと、本に答え(?)が書いてありましたP218『自分で考えろっていうのが、いつでも私の解答です。』
 そこで、本書の中で興味を覚えたフレーズについて考えて行きたいと思う。
①P33『現実とは皆さんの行動に影響するもの』
逆にいうと、行動に影響しないものは現実ではない。つまりは、事実(現象)→現実(個の認識)に至るには個々の価値観次第であるので、事実を何とかしようとしても、意味がない。例えるなら「この番組は子供の教育に良くないから見せない」といって番組を批判するは意味のないことだし、そんなコト言うなら、行動に影響を与える価値観を教育しろと言っていると思いました。
②P147『社会の前提は「変わらない私」』
 「世界には同じ物体は一つとしてない、そして人間は日々成長していく」この考えを否定する人は少ないと思います。しかし、皆、朝起きたた自分は自分とちゃんと認識する。
つまり、同じコト(同一性)と違うコト(個性)の認識を改めて考えないといけない。
 この先の論法に非常に感銘をうけたのですが、『脳には個性がある、心には個性がない』
脳=筋肉だから個性があって、心=意識なので、共感することが必要。「同じ」と認識するには、自己の中で同一と捉える必要があり、個性があっては成り立たない。
その観点いえば、『自分探しなんてあるわけない』と著者は痛快に言っています。
③P226『放っておけば、女は元気、男はおとなしく神経質』
筆者にとって「教育」というは何か、というのを面白く表現していると思いました。教育の本質というは、共同体として生きて行く上で、足りない部分を補うものであり、その本質の議論のせずに、教育方法や方針を決めても、現象が変わるだけで現実は(意図したところには)変わらない。
④まとめ
「逆さメガネ」というタイトルから、逆の視点でモノを見ようという内容を想像していましたが、そもそも、現代人は知らず知らずにメガネを掛けていました。そのメガネは自分では、掛けていることを忘れるくらいフィットしているので、無いように思えるけど、他の人がしているメガネとは違うんだよ、外すことは出来ないけど、そのメガネは実は自由にレンズ交換が出来るんだということを知って欲しんいだ、と言いたいのかなと感じました。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2018年2月1日


本書を読んで感じたこと

意識的に考えることと、無意識で考えることとのバランスが大事

P23、24で養老天命反転地という公園についての記述があるが、全体が傾いていると傾いている事に気がつけないように、私達は意識しなければ自分の頭で考えているようで考えていない、誰かの意見やフィルターを通して思考していたり、一般常識的な考え方をしてしまっている事が多々ある。
日々ルーティーンで行っている事は、習慣化され合理化されていく。最初は資料を見ながら、セミナーの記憶を辿りながら行っていた気功体操は、習慣化されると同時に次の動きにスムーズに進めるようになり、時間短縮、つまり合理化された。
どんな事に対しても意識的に考えながら行動を行うというのは非常に難儀であるから、こういった点については無意識で行えるようになるのは何ら問題が無いだろう。本書においては「知識を得る事で、自分自身が変化し、新しい自分になる。いつ・何時自分が変化するタイミングが訪れるかは予測できないから、いつでも対応できるように人生に空白を作っておく。それが無意識であるということ」といった趣旨の記述があり、意識と無意識を意識的に使い分ける事が重要なのだと感じた。
気をつけなければいけないのは、無意識で行ってはいけない事まで習慣化、合理化により、思考しなくなってはいけないということ。戦後の焼け野原から、JAPAN AS NO.1といわれるまで発展・成長を遂げることが出来たのは、「今やれる事は何か」ということを常に思考しイノベーションを生み出し続けた先人達がいたからこそ。現在の日本が以前と比べ落ち目になってきているのは、都市化が進み「ああすれば、こうなる」の信奉者が増え、与えられたレールの上で走る事が幸せに繋がると自分の頭で考えない一般人が増えてしまったからではないだろうか。
日常が習慣化されてしまうと、新たな刺激は生まれない。メルマガやセミナーで「会社に行くルートを変えてみる」「意図的にルーチンから外れる事をする」事によって自分に刺激を与える必要があるという話は何度も耳にしているが、本書においても同じ事を主張していると感じた。
先日(1/30)のメルマガの内容(2898号/こうやってスランプから立ち直りました)は、メルマガの執筆を始めてから10年かけて徐々に習慣化・合理化していたしょ~おんさんの原稿の作り方を意図的に非習慣化・非合理化したことで新たな刺激を生みだしたことで、クリエイティビティが発揮されスランプから脱出できたという直近の実例だろう。以上のことから、クリエイティビティを発揮しなければいけない物事については習慣化・合理化的取り組みは向かないという事を改めて感じた。

投稿者 mmnn 日時 2018年2月1日


私は、著書を読んで、般若心経の「無」の世界を
感じた。

全ての物事に、正解はない。

むしろ、正解という考え方、そのものが実は
傲慢なのではないかと考えた。

現代人の大きな錯覚の章で筆者が述べているように
何が現実かという問立てには答えることなんて
できないのではないかと考えてしまう。

第5章を読むと、筆者は身体と心について述べている。

まさに般若心経の物質(身体)と心(エネルギー)に
通じるのではないかと思った。

第6章のくだりに至っては、物質社会、科学主義の
限界を著者は述べている。

こう考えると、物質世界より精神世界の方が重要のように
思えてくる。

しかし、現実で精神世界を追い求めすぎると、
宗教を元にして、戦争などが考えられるので
必ずしも物質世界よりも精神世界の方が上だと言い切ることは
できない、と私は考える。

著書を読み通して、では何がいいのかと考えてみたが、
結局、バランスの取れた中庸がいいのではないかと
私は一応結論づけた。

この世は「無」なので物質世界と精神世界をその場その場に
合わせて、波動のように両方に振れていきながら中庸を
保つのがベターなのではなかろうか。

ベストと言い切れないのは、「正解」はないのであろうから
である。

逆さメガネをかけると、色々な物事を中庸に保てるのであろう。

稿者 whockey51 日時 2018年2月1日


変わらなくなった社会だからこそ、変化する人が生き残れると思う。
情報をいかに扱っていくかで、この先の未来が変わるのであれば、どんどん情報を集めた人が生き残る可能性が高いんだと思う。

どう情報を読み取るかで、この先の人生が変わるなら、どんどん体験を積み重ねていきたいと感じた。

投稿者 u013 日時 2018年2月1日


「だからか・・・。」
読後、落雷が頭に落ちた。

就寝前、明日も同じ自分であることを願いながら眠りにつき、起床後には、昨日と同じ自分であることに安心する。

それが普通だと思っていた。そうして、私は私であり続けることが、生きることだと。

しかし。だから、私は変われないのだ。

いくら「変わりたい!稼ぎたい!」と声高に叫んでも、しょ~おん先生のメルマガを何年読もうとも、

根底では、変化を拒否している。まるで、死に繋がるようだとすら感じている。ただただ、怖いのだ。

自分自身が、「自然」であることを完全に忘れていた。見ないようにしていた。生死こそ、究極の自然であるにも関わらず。

知行合一。

こうして感想を書こうとすると、言葉に詰まる。これまで、いかに意識の中だけで完結させていたか。読書ひとつ、満足に行えていない。

死ぬ気で臨んでいなかった。

死を無視しているから、いつまでも練習の気持ちでいるのだ。そのくせ、私の人生の本番は、いつか訪れるはずだ!と信じている。そうして自分を磨いているつもりになれば、人生の変化から逃れられるのだ。

そこで、少し想像してみた。

10分後に設定された時限爆弾と密室に閉じ込められ、本書の中に解除の方法が記載されているとしたら。

私は、こんな姿勢で、こんなスピードで、読むのだろうか。「良い言葉だな~」なんて、呑気に付箋を貼るだろうか。

答えは、もちろん否である。

趣味としての読書を否定しているのではない。しかし、それとて、命を使っている自覚が必要なのではないだろうか。

なんとか、今日から出来る対策はないのか。考えた結果、何か行動を起こす際、心の中で「最後の」を付け加えることにした。

最後の朝食
最後の歯磨き
最後の通勤
最後の会話
最後の…といった具合に。

我ながら、笑ってしまうくらい、くだらないと思った。もちろん、劇的な効果は、まだない。

しかし。

身体を動かす度、「果たして、この動き方は最後に相応しいのだろうか。」と考えるようになった。ひとつひとつの動作を丁寧に、心と思考を込めて行うようになった。

これまでの人生を怠けてきた私には、たったそれだけの事でも、十分に効いた。頭はぐるぐる回り続け、ショート寸前。思い描いたようには動かない身体に直面した時には、相当ショックだった。

無意識の行動に、問いを投げかけ、意識を挟み込む。身体と意識を一本の糸で繋ぐ。

今日も明日も変わらず生きていることではなく、一瞬先の死を前提に生きること。私にとっては、その変化こそが「逆さメガネ」であり、自分自身への教育の始まりとなった。

投稿者 tadanobuueno 日時 2018年2月1日


本を読んで改めて思ったのは
お互いに分かり合うことが一番大切
ということ。

分かり合おうとすると自分で決めて、
分かり合いたい気持ちをより多くの人たちと共有する。
相手を不信ではなく信頼をして、
お互いの不足を補うチーム、共同体を作っていく。

前からこれに近い考えを持って動いてきたが、
これが自分のような「普通の人にこそ」必要な
生きる道なのだと確信した。

ただ、機能するチーム・共同体にまで行きつくには、
漠然とした目標(グランドデザイン)
の設定と共有が必要であることも強く感じた。

子育てをしていて、
・子供達が育たなければ人口が減る。
・そしたら、将来国を誰が支えるのか?
・支える人が減れば、将来の老人(現在の大人たち)は
 困りますよね?
・だから子育て環境を整えましょうよ!(怒)
と言いたくなることがある。

例えば、子育てがしやすい環境を整える為の
幼稚園の新設に対しても、
大人たちからの子供が邪魔・うるさいなど、
現在の、個人の感覚で反対され、
それが少子化につながり、未来にどんな影響を与えるか、
容易に想像できる未来さえも共有されていない。

都市化により個が重要視され、個への分断が進む中では、
・巻き込んでいきたい全ての人に、
・納得してもらえるグランドデザインを提示して、
・言動がそこに沿っているかを絶えず立ち返りながら、
・言動に落とし込んでいくことが
・チーム、共同体を機能させるのに必要
と感じた。

著者の言う、
現代人の考えない傾向(すぐに、いいねと言う、否定する)、
本質の議論がされない背景には、
・分かり合うという前提がない、
・共有できるグランドデザインがない、
ことが根本にあるのではないか。


私の考えるグランドデザインの例としては
「みんなが幸せに生きられる世の中にする」などがある。

このような曖昧な目的だからこそ、
多くの人(子育てしている、しいないにかかわらず)に
納得してもらえる。

納得してもらったうえで、
この目的に沿えば何をしても構わないとすることで、
目的に沿って自分は何ができるかを考え、
様々なアイデアが出てくるのではないか。

更に、分かり合うことを前提として、
他人のアイデアを理解ができなくても、
安易に否定せず、その背景に関して興味を持ち、
話をしてみることで、

著者の言う、多様性が高い社会が様々な能力を活かすことにつながるし、
そんな共同体が合理的な選択をして社会を変えていけると思っている。

過去、とある方とのセッションで自分の過去からの気持ちを整理して、
グランデデザインを考えたことがあった。
その際は「信頼できる温かい社会をつくる」という言葉で落ち着いた。
まずは、自分の言動、 自分の子育て活動で改めてこの言葉に立ち返って、
より多くの人と共有していく、前に進んでいこうと思う。
そして身の周りの社会から徐々に変えていこうと思っております。

投稿者 gizumo 日時 2018年2月1日


「逆さめがねで覗いたニッポン」を読んで。

 著者はベストセラー作家で有名な方ですが、今までどの著作も読んだことはありませんでした。時々テレビで鎌倉のご自宅で愛猫と優雅に暮らしてある姿をうらやましく見ておりました。“学者風”の言葉は悪いがどこか“変人っぽさ”がある感じが印象的でした。

 本書は「難解だ」との前評判でしたが評判どおり、読みながら“?”マークが沢山浮かび、最後までわかったようなわからないような。何度か読み返して少しずつ理解でき身に着くタイプの本でしょうか。近所のインテリなおじさんの話を聞いて、面白いけどわかったようなわからないような。そんな雰囲気が漂っておりました。

 本書の中で特に大学紛争の話は、生まれるちょうど前にそんなことがあり大変だっという事実は知っているものの、当時の大学は一般とは違い一部の人間の世界であり、エネルギーの溜まった若者が爆発した出来事だと考えていた。しかし、関係者からの経験談は貴重であり説得力があった。また、オウム事件にも直接ではないもののかかわりがあったという、どちらも身近であって直接は関わらない出来事として“野次馬”のような感想しか持てない自分を恥じつつ、その事件を引き起こした環境や要因について考えさせられた。

 教育者による教育論、現代日本人を憂う内容である。確かに、現代の各個人はいわゆる「頭はよくなった」かもしれないが大学紛争時の様な熱さや、エネルギーはないのかもしれない。何のための教育なのか、日本の特殊性など教育者として嘆くべきことは多いのだと思います。無垢に生まれた子供を傾いた常識に晒し、仲間を増やすことになってはいけない。また、自分自身も積極的に流れにのまれるだけでなくきちんとした意見を持たねばならないと改めて感じつつ、時々読み返して理解を深めフィードバックできるようにしていきます。

投稿者 haruharu 日時 2018年2月1日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

私は以前に読んだ、皇太子殿下浩宮様、礼宮様のご教育係をなさった浜尾実氏の書を思い出した。
浜尾氏も躾に関して著者と同じような見解を示されていた。
男女は同権だが同質ではないのだから、その特性に従って女らしく育てることこそが、真に人間的な躾であるはずだと。
そして、国の将来は母の手にある、母親となるためのきびしい国家試験を用意した方がいいとか。

『ボタンを押せば、風呂が沸く』
確かに手順が欠けてる現象は至るところで目につく。
ある神社の宮司さんが仰っていたことで印象的だったのは、例え現代の便利な物が無くなった場合、
何もわからない何も出来ないでは済まされないから、下がってきた鏡餅を数年に1回は職員で搗き直しするのだという。
搗き直しといえば、寒水に3,4日浸して表面を切り落してそれから蒸かして搗く。およそ一週間くらいはかかる。
スーパーで買えば、今時は底下のビニールシートを剥がせば中身は個別の切り餅になっているのであっという間に食べられる。
酢飯の寿司酢のように最初から合わさった調味料然り、今時はいっぱい陳列している。
それしかわからない、それが当たり前となった時、応用が利かないのではないか。

著者のいう、『その特性を生かすならどうすればいいか』

『男女七歳にして、席を同じうせず』の時代を参考に男女共学を止めた方がいいのでは。
剣道、柔道、書道、茶道、華道、ピアノに絵・・・などに取り組んでいく事で知行合一の世界にいくのでは。
師匠のそばで入出力の繰り返しで修練していく。メモなど取れないからその瞬間瞬間大切になってくる。
しかし出来たと思っていても、サマになってなかったりする。そしてまた稽古を積む。

他に、起こらなかったことは評価されないことが問題だと教えてくれたことに対して
もう何年も前になるが、いろいろと事件が起きた後、小さい刃物を持ち歩いている小学生を見つけるという番組があった。
何だか嫌な感じがずっとしていたのだが、ああいう事を放映すると、小さな子供たちは今度は自分も目立ちたいと思って奇抜な身なりや態度に移ってしまうのではないか。
それならば、持ってない子たちを思いっきり称賛してあげたほうがいいくらいだと思った。

ここまで書いて、大河ドラマ『西郷どん』の渡辺健扮する島津斉彬の『子は国の宝だ』という声が聞こえてきそうだ。

投稿者 yunyunpanda 日時 2018年2月1日


逆さメガネで覗いたニッポンを読んで

これから子供を育てていくうえで、世間・個性・男女などこれからぶつかるであろう問題を、いろいろな視点から見るきっかけとなった本でした。

1つあげると、今まで自分の個性は考え方や心の違いにあると思っていた。しかし、筆者は個性とは身体にあるという。
たしかに、自分の体と他人を比べると、同じところはないと思う。考え方や心に目を向けると、自分と同じことを思っている人は結構いることに気づきました。

今回読んだ本の内容をベースに、もう一度子育てについて家族と話し合う時間ができました。

投稿者 truthharp1208 日時 2018年2月1日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで。

「逆さメガネ」とは一体何なんだろう?
本課題図書を手にとった時、目的や意図を以下のように考え巡らせた。
現代の日本がおかしなことになっているからなのか、変化のスピードが速すぎて未来が予測不能なのか、はたまた視野を広げたり、物事の見方を変えるためなのか。

最も自分に関わりそうなのが第5章の「変わる自分、変わらない自分」だった。
その中で大学の研究室で飼っていたネズミの話が印象的で、エサや水を切らさないように与えられていたネズミは檻から出しても逃げもしない。
過保護に与え続けられると、たちまち怠け者になってしまう。自らが食料や情報、知識を得るための行動環境が必要だと改めて感じた。

年明けからかなり苦戦してしまったが、前回お休みした感想文の投稿を再開することにした。ちなみに2月1日は

《 天赦日 》
最上の大吉とされる日
《 甲子の日 》
物事をスタートさせると
運が良い流れになる日
《 一粒万倍日 》
お金や行動が万倍に大きく増える日

この3つが重なることで、かなり強力な日となり、2018年では今日だけとのこと。

今回も良書をご紹介頂き、ありがとうこざいました。

投稿者 jawakuma 日時 2018年2月1日


逆さメガネで覗いたニッポン

65歳にしてまだまだ学習中の道半ばさすがは養老孟司ですね。

●インプット、アウトプット
知行合一、文武両道
私は学生時代、剣道を10年程やっていました。始める際には父から「文武両道」という言葉を聞き、武士のように、体を剣で鍛え、座学で学問を行い、頭を鍛えるようにと言いつけられました。その言葉の通り、脆弱性の高かった私の身体は鍛えられ、暑さ寒さにも強く、メンタルも鍛えられ、勉強もそこそこできるようになりました。だがしかし、この本でまたまたウロコがポロリ。その本当の意味を知ることになりました。

“脳からの出力、筋肉への伝達が大切”
出力して働きかけ、変化を再入力してさらに出力していく。このサイクルが大切
この入出力に慣れてきてはじめて、脳の中で入出力を回す“思考”が行えるようになる。

教育の育は育つ。教えられて育つ、つまり自分が変わるということ。いままで私は知識を得ることを学習・教育だと思い、それこそデータベースを増やすことが勉強だとおもっていました。本書を読んで目からウロコが落ちました。現代人は、自分は自分で変わらないと思っている。それは情報化されているから。昨日の私も今日の私も、免許証の中の自分のように変わらないものだと思っている。顔(写真)も名前も住所も一緒だから。でもこの世のすべての物は移ろい変化していくもの。意識が見せる錯覚です。でもこれが共感力につながっていくんですね。
産業革命以降、エネルギー革命がおきたことで若者の社会的価値がなくなり、戦争→大学へと大勢がむかうことになった。これも聞いて納得です。年寄りもみんながんばっちゃって若者に仕事を譲る余裕がないですものね。


●朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり
この言葉も父から教わりました。本書にあったように、せっかく聞いたのにその日に死んじゃったら意味ないじゃん!とストレートに思ってしまいました。君子豹変す。変わる自分 学習は変身である。という言葉にようやく深意を理解することができました。

●知識が増えても行動には影響がなければ現実にはならない。現実は人それぞれ。あなたの行動に影響するものがあなたの現実だ。客観的な現実なんてありえない。びっくりしますね、本当に。あってもなくても一緒であればそれは現実ではない。目に見えないもの。怪しい系の技。奇跡の話。知識として知っていても行動に影響がでなければ、現実にはならないわけです。しかしいざ自分や周りの人が困ったときにはわらにもすがる思いで行動を起こします。その人にとっての現実は変化していくものなのですね。

●じゃあ、どうしたらいいんですか?
すぐに答えを求めてしまう。これはおおいに反省が必要。情報や効く技を聞いただけで満足してしまっている自分も同じ思考をしていました。こんなときはどんな技を使ったらいいですか?とかすぐに聞かずに自分で思考でき行動につなげ、入出力を繰り返し解決できる力を身につけねばなりません。

●問題は外にあるという誤解
近代合理主義は意識のみの世界を批判し続けてきた、自分の身体の小宇宙すら理解できないのに宇宙が理解できるわけがない。このあたりは腑落ちはわるいのですが、マイケルタルボットの投影された宇宙の件を思い出しました。一部にすべての情報がふくまれる、ホログラムの部分を。

●村社会に乗っかった民主主義
日本人は問題の本質を考えよく考えない。今の生活が壊れてあぶないから。これは島国の特徴かもしれません。大陸であれば、壊すことには失敗したら次の土地へと移動すればいいのですから。開戦問題も大学紛争も。いまの枠組みの中でいかに立ち振る舞うか、そこに終始する。気づけば移動を繰り返した、アングロサクソンたちに枠組み・ルールを軽く変えられて右往左往してしまうんですね。

●ナイフ小刀問題
現代人は身体を使わない。身体感覚が鈍る。行動が伴わない。行動しても変化を受け取る感覚すらにぶっている。そしてバカになる。悲しいかなこれもあたっていますね。子どもに対しても危険なものは遠ざけ、それを判断する基準が育たなくなってしまっている。焚火ができない、小刀が使えない。以下同文です。これじゃ知行合一、文武両道のサイクルは回りません。やはりバカになるのですね。


●子供は早く大人になれと言われているといってもいい。どう育つかはわからない。農家の手入れと一緒。
不確実性を嫌う。これは都市化・現代社会の特長ですよね。ロジックが通用しませんから。コントロールできるという錯覚。都市で働く時の原理は、ああすればこうなる。子どもはそうはいきません。どうなるかわからない不条理な存在。そんな子供を考え持ってもしょうがないんじゃないか?子育てよりきちんと結果につながることに集約しようということで、少子化で生まれた子は入試で大変になってしまう。
これも塾生はみんな反省が必要です。課題図書読んで感想文カキコしたって、どうせ優秀賞取れないし、何がどうなるってんだ。それより、今日も仕事疲れたし、確実に安易なやすらぎが得らえる缶ビールに手が伸び、時間を費やしてしまう。ということで、課題図書投稿は増えず、知識と技を無料で確実に仕込めるメルマガ読者が増え続けるのですね。
本来は読書ほど費用対効果の高い投資はなく、開くだけで違う人生を味わえる素晴らしいものなのに。ましてや課題図書ともなればしょ~おん先生のお墨付きでハイクオリティ間違いなしなのにもったいないですねー。


●個性は身体にある。心にあるのは共通意識。
物質、身体はどこまで突き詰めても同一性はない。これは本書の皮膚移植の話で納得しました。本当に親でも皮膚は異物と判断しますものね。その反面。心はリンゴといえば、万人共通でリンゴのビジョンがうかびますもの。心は、意識は通じているんですね。こころは共有化、最近よく言われる、共感力へとつながっていくのですね。昨日FIN‐TECHがらみの講演を聞きに行き、東大大学院教授の柳川先生のお話でも今後AIでも難しいことは、高いコミュニケーション能力だろうと言われていました。そのためにはベースに共感力が必要となると。これにはやはり人間としての経験になぞらえた、価値観がもとめられます。AIにっとってかわられないだけでなく、人を動かせる人間に成長するためにも共感力を磨いていきたいです。

今月も良書をありがとうございました!

投稿者 filefish 日時 2018年2月1日


「逆さメガネで覗いたニッポン」を読んで

「逆さメガネ」なぜ、逆さなのか?
「ずれているメガネ」や「色メガネ」ではない。
あえて真逆の極端な議論なのかと思ったら、違った。本書のテーマである「教育」については、現代はまさに「逆さ」であることを思い知る。

まえがきで著者は「六十五歳になったいまでも、自分の教育が続いている。」と言っている。
本を書くような方はスゴイなあ、などと思っていたがそうではなかった。
本来の「知ること」とは、知ることによって本質として別人に変わる事、これが「育つ」ということだと。だから、人間らしく「知る」ということは、自らへの「教育」なのだ。
ようやく、「一生学び続ける」という意味がわかった気がする。

また、「文武両道」の話。これも目から鱗が落ちた。
脳へのインプットとアウトプットの循環が、人間の知的行動にいかに大切かということ。

最後に、現実とは「その人にとって、行動に影響を与えるもの」だということ。
だから、現実は人によって違う。
「色即是空 空即是色」を思い出した。これも真理であろう。

以上