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第134回目(2022年6月)の課題本


6月課題図書

 

歴史とはなにか (文春新書)

 

目に見えた少ない事実から歴史解釈をするのではなく、もっとたくさんの事実を拾い集め

ることで、自然に説明できるのではないかと考えたところがユニークで、その結果として

の解釈も非常にユニークなモノになっています。本書を読んで感じたのは、結局歴史って

どれだけの事実に裏打ちされているか、という見方がある一方、当時の文化、風習、民俗

学的に、常識とされたことだったために、事実としてあえて記録されないこととの綱引き

なのだなということです。

 

前者はこの課題図書ですし、後者は井沢元彦さんが得意とするやり方です。これに右寄り、

左寄りの解釈が加わるわけで、実は日本って歴史学の幅の広さに於いて無双の国家なんじ

ゃないかと思ったわけです。

 

 【しょ~おんコメント】

6月優秀賞

 

今回投稿者による一次審査を突破したのは、sarusuberi49さんが5票、vastos2000さん

2票、Cocona1さんが2票、Liesche333さん、H.Jさん、masa3843さんが各1票でした。

 

この6名の方の投稿をじっくりと読みまして、今月はsarusuberi49さんに差し上げます。

今月は文句なしで仕方ないでしょう。


【頂いたコメント】

投稿者 Liesche333 日時 
「歴史はビジネスパーソンに必要な知識である」「歴史は面白い」その必要性を聞いて、なるほどその通りだと思う。その面白さを聞いて、そうかもしれないと思う。例えば、歴史を学ぶことで、過去にあった出来事と現在の出来事を、類比的に解釈して先読みをすることができる。どこまでがアジア圏共通の文化や価値観で、どこからが日本の独自性なのかを認識することができる。そうすることで、他国の主張と日本の主張の違いを認識し、更に自分の思考の偏りを修正することができるだろう。また、自分の目標となるロールモデルを見つけ、自分の成功に役立つ情報を得ることができる。歴史を学ぶことのメリットはたくさんある。そこから歴史を面白いと感じることができるのだろう。

しかし、そういったメリットを知っても、私は歴史が好きではないし、面白みを感じることもあまりない。好きでないものに興味を持つのは難しい。学生の頃に好きになれなかったのは、歴史が暗記科目になっていたせいかもしれない、メリットや「面白い」といわれていることを知らなかったせいかもしれない。そう考えて、社会人になってから学び直しもしたのだが、結局好きになることができなかった。なぜなのかを考えてみると、いくつか理由があり、その理由はどれも「違和感」であった。この「違和感」に対し、私はこれまでうまく言語化できておらず、そのせいで歴史に興味を持つことができなかったのだと、本書を読んで気付くことができた。それら私の違和感について、本書によって気付いたことを三つ、次から述べる。

一つ目は日本史と世界史を、それぞれ学ぶ際に違和感があったことだ。日本史は日本の歴史を深く掘り下げて学び、世界史は多数の国の歴史について横につなげて学ぶ。スケールや学び方に違いがあるのは当然なのだが、何かもっと根本的なところで違いがある気がしていた。それは本書でいう、歴史は中国文明が「正統」を、地中海文明が「変化」を語るという、歴史の枠組みと記述方法の違い、であることだった。元々違う枠組みと記述方法のものを、同じように記述したことで、歴史は分かり易く学び易いものになったのだと思うが、そのせいでそれぞれがこれまで保有してきた歴史観や主張が分かり辛くなり、結果、違和感として感じられたのだと思う。

二つ目は、時代の区切り「古代・中世・現代」に違和感があったことである。もちろん、こういった区分が恣意的に決められていることは分かるのだが、特に「現代」という名前に違和感があった。現代という言葉を調べてみると、現に今進行している時代、ということなのだが、何をもって「現代」とするのか、いつまで「現代」が続くのかなど、そういうことが気になっていたのだ。それに対し、本書では現代と現代以前についての分け方を、史料のありかたの違いで説明している。また歴史の記し方について、現代では細部を、現代以前では全体の流れを記す、という性質の違いで説明している。学生の頃、歴史は得意ではなかったが、それでも何とか理解できていたのだが、現代史になった途端、理解が難しくなりとても混乱した。それに伴い歴史が嫌いになったのだが、私が混乱したのは記述方法が変わったことに気付いていなかったからなのだと、本書を読んで気付くことができた。

三つ目の違和感は、歴史は不変の事実ではないのにそのように書かれていることだ。例えば聖徳太子の記述は、私が学生の頃と現在では記述が変わっている。根拠史料の分析や研究が進み、事実が明らかになることは良いことだと思うし、それにより内容が変わることに対して違和感はないのだが、そもそも最初に使用した史料に根拠がなかったのではないか、と考えてしまう。歴史を学ぶ時に、小説やマンガは面白くて分かり易いので勧められることも多いが、史料に根拠がないのであれば、小説やマンガと歴史は何が違うのか。本書ではそれを、『歴史は物語であり、文学である』と言い切っている。そして何が歴史になるのか、ということについても説明している。立場の違う人が作った史料を基に、別の立場の人が歴史を書いている。それぞれの立場で、矛盾なく説明できるものが、歴史であるという前提が私に分からなかったから違和感があったのだろう。

一口に歴史と言っても、記述方法も枠組みも、それぞれ歴史の内容によって変わる。そういった、いわゆる「お約束事」について、本書では詳しく説明されている。それらを読んだことで、ずっと感じていた違和感について言語化することができ、私の記憶にある歴史は形を変えたように思う。とはいえ、すぐに歴史を好きにはなることは出来ないだろう。けれど「歴史とはどういう約束事で書かれているものなのか」が分かったことで、再度、歴史の学び直しに興味を持つことができた。その視点で学ぶことは、歴史の新しい理解につながり、いつか歴史を好きだと、面白いと思えるようになるのではないだろうか。そう思えた一冊だった。
 
投稿者 daniel3 日時 
本書では、著者が長年歴史を研究する過程で、「歴史とはなにか」という根源的な問いを立て、著者なりの独自の歴史観を説明しています。そして、「自前の『歴史』という文化を生んだのは、地中海文明と中国文明だけだ(P.32)」と説明しています。本稿では字数の制限のため、2つの文明の内、より日本人に馴染みのある中国と、日本の歴史の利用のされ方を振り返ります。そして、中国文明で発明された歴史が、本書中の表現である「悪い歴史」として使われているため、弊害が出ていることを解説します。次に「悪い歴史」の解決策となる「よい歴史」が、どうして必要なのかについて、考えたことを説明していきます。

本書によると、中国文明において「歴史」を初めに記したのは司馬遷の「史記」であり、「皇帝の正統の歴史(P.36)」を説明するために用いられたと解説しています。「歴史」という情報を駆使することで、権威を示すことができ、武器になることに気付いた中国人の頭の良さに感服しました。一方、歴史を用いた中国の支配に対抗するために、日本人は「日本書紀」を編纂し、秦の始皇帝よりも伝統がある王朝として、独立国の地位を確保しました。このように東洋においては、歴史は当初から単なる記録ではなく、「正統」を示す武器としての利用が行われていました。

しかし、自分たちの正統を証明し、自身を守るための武器として利用してきた歴史が、自分達の利益を確保することによる弊害が出ていると、著者は警鐘を鳴らしています。その一例として、中国と日本の間には、「沖縄の帰属問題(P.126)」があります。14世紀当時の中国である明王朝と交流があった琉球王朝は、代が変わるごとに明に使いを送り、王位継承の承認を求めていました。それと同時に日本の薩摩藩とも交流を持っており、琉球王朝はどちらの国にも帰属しない半独立の状態でした。その後、日本が19世紀に沖縄県として帰属させたため日本の領土となっていますが、中国は14世紀に琉球王朝と交流があったことを理由として、沖縄を中国の領土として主張しています。こうした自分たちにとって都合の良い部分を拾い取り、時に創作を交えながら正統を主張することを、著者は「悪い歴史」と言っています。「悪い歴史」の利用は、自国にとって都合の良い情報のみを取捨選択する情報操作につながるものであり、様々な国家間の衝突として弊害が現れています。

そうした「悪い歴史」の利用に対する弊害の解決策として、著者は「よい歴史」を書くべきと述べています。「よい歴史」とは、「資料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明のことだ。(P.220)」と解説しています。それと同時に、「『よい歴史』ほど、だれにも喜ばれない。だれにでも憎まれるおそれがある。(P.222)」と説明しています。この部分を初めて読んだ時、真実を求めることで誰にとってもメリットがないのであれば、歴史的事実を追求することに、それほど意味がないのではないかと疑問を持ちました。なぜなら、人間が関心を持つものについて考えを巡らせると、役に立つものや面白いものは残り続けますが、有用でないものはやがて淘汰されるのではないかと考えたからです。

しかし、一見有用と思えない「よい歴史」が、本当は人類にとって必要なものではないかと考えるようになりました。その理由は、著者が「書く歴史家の人格の幅が広く大きいほど、『よりよい歴史』が書ける。(P.221)」と表現した箇所について、自分なりに考察を加えたためです。その過程を説明すると、「人格の幅が広い」とは抽象的な表現ですが、いろいろな立場の人の視点に立って考えることができる、と私は解釈しました。これまで書かれた「悪い歴史」が問題となっているのは、特定の国家にとって利益となる一人称視点で、都合の良い情報ばかりがクローズアップされていることに原因があると思います。一方「よい歴史」は、ある史料を書き記した過去の人間が、どのような立場でそれを書き残そうとしたかを想像する、二人称以上の視点で書かれます。問題と視点の高さについては、アインシュタインの「問題が起こった次元でものごとを考えていては、その問題を解くことは出来ない。」という言葉があります。それぞれの国家の「正統」を主張する一人称視点では、国家間の利害を超えた解決策を見つけるのは困難です。これまでの「悪い歴史」よりも高い視点で世界を見ることができる「よい歴史」が、人類が国家間の問題を超えて、次のステップに前進するために必要なのだと考えるようになりました。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、中国史・モンゴル史・日本古代史を専門分野とする著者が、歴史の見方や捉え方について、豊富な世界史の事例紹介によって解説した本である。本書は、タイトルにもなっている「歴史とは何か」という問いに答えるところから始まる。私は、これまで歴史の概念について深く考えたことはなかったが、多くの人と同様に、歴史は基本的に「過去にあった事実」であると考えていた。そのため、歴史を解釈して説明する上で問題になるのは、史料が現存するか否かなのだと思い込んでいたのである。しかしながら、本書の最後に書かれているように、「史料はうそをつく」のが歴史家の常識だという。つまり、史料が現存していたとしても、史料に書かれていることが事実だとは限らず、創作かどうかも含めて歴史家は判断し解釈する必要があることになる。それ故に、本書では歴史は文学であると説明し、科学ではないと断言する。この考え方は、私の歴史に対する見方や考え方を一変させた。では、なぜ史料はうそをつくのか。なぜ、わざわざ歴史を創作するのか。本稿では、その理由を掘り下げることで、歴史を題材にして学ぶことの意味を考えてみたい。

本書の中で語られている事例で分かりやすい例が、中国文明の歴史である。司馬遷が『史記』で創り上げた中国文明の歴史観は、「正統」の歴史観だ。司馬遷が『史記』で書いてるのは、皇帝の正統の歴史であり、世界史でも中国史でもないという。中国における史実を残すことが目的ではないのだ。そのため、この正統の歴史観で叙述された中国の正史は、本書によれば、史実との矛盾が大きくなってくる。現皇帝は「正統」な天子である、ということを歴史書編纂の至上命題にしているが故に、中国の理想の姿を描き、天下や世界に変化がないものとして語らざるを得ないのである。一方、地中海文明の歴史は、その語られる目的が違う。最大の目的は、「世界は変化するものであり、その変化を語ること」である。その上で、「2つの勢力が対立して抗争が起こり、最後には正義が勝つ」という歴史観で叙述される。地中海文明においては、これが歴史の書き方の基本となっているのである。地中海文明の歴史書が史実と異なっているかどうかについては本書に記載されていないが、定式化された型がある以上、それに沿った叙述になる可能性は十分にある。

では、歴史書が編纂される過程で、特定の目的のもとに、現実と矛盾した内容がしばしば記載されることになる原因は何であろうか。中国の事例のように、時の権力者が事実の記載よりも自身の正統性を証明することを優先し、そのように命じたから、というケースは多そうだ。都合の良い事実だけをつなぎ合わせ、語りたい筋道に合わせて話を創作するのである。しかしながら、そのような強制力が働いて、事実と異なる歴史が語られる場合ばかりではないだろう。地中海文明においては、時の権力者が「2つの勢力が対立する構図」で歴史を語るよう強制したわけではない。時代はかけ離れており、歴史書とは言えないが、百田尚樹氏の『日本国紀』も、内閣総理大臣から戦中の日本を正当化するよう命じられたわけではない。それでも、事実とは異なる内容が語られることがある。

では、なぜ強制されたわけでもないのに、時に事実を曲げてまで歴史を語るのか。著者は、歴史というものが成立する前提条件の1つとして、「ものごとの因果関係の思想」を挙げている。また、P145では「人間にとって、なにかを理解する、ということは、それにストーリーを与える、物語を与える、ということだ」と主張し、「物語がないものは、人間の頭では理解できない。だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ」と言う。本来は筋道のない世界に、筋道をつけるのが歴史であるならば、歴史書の中で拡大解釈や事実の曲解、創作があるのは必然だと言える。なぜなら、歴史は時代を超えた情報収集が必要になるが、過去であるが故に情報不足になりやすく、不足する情報だけでは、筋道を通すことが極めて困難だからだ。遠すぎる点をつなぐためには、点を大きくし、位置を動かし、新しい点を打つ必要があるのだ。

考えてみれば、「文章を書く」という営みが、歴史の本質に近いものだ。もちろん、文章の中には事実を羅列したものもあるだろう。ただ、文章を書く目的は誰かに何かを伝えることだ。理解してもらうことだ。そうであるならば、前述したとおり、筋道が必要になる。論理のつながった構成が求められるのである。この論理構成を分かりやすくしたいがために、人は事実を創るのである。課題図書の感想文に悪戦苦闘する中で、自戒を込めて今一度自分自身にも言い聞かせたい。私は、事実を創っていたりはしないだろうか?私達は、事実としての「歴史を学ぶ」のではなく、背景や語り手の意図も含めて「歴史に学ぶ」必要があるのかもしれない。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、中国史・モンゴル史・日本古代史を専門分野とする著者が、歴史の見方や捉え方について、豊富な世界史の事例紹介によって解説した本である。本書は、タイトルにもなっている「歴史とは何か」という問いに答えるところから始まる。私は、これまで歴史の概念について深く考えたことはなかったが、多くの人と同様に、歴史は基本的に「過去にあった事実」であると考えていた。そのため、歴史を解釈して説明する上で問題になるのは、史料が現存するか否かなのだと思い込んでいたのである。しかしながら、本書の最後に書かれているように、「史料はうそをつく」のが歴史家の常識だという。つまり、史料が現存していたとしても、史料に書かれていることが事実だとは限らず、創作かどうかも含めて歴史家は判断し解釈する必要があることになる。それ故に、本書では歴史は文学であると説明し、科学ではないと断言する。この考え方は、私の歴史に対する見方や考え方を一変させた。では、なぜ史料はうそをつくのか。なぜ、わざわざ歴史を創作するのか。本稿では、その理由を掘り下げることで、歴史を題材にして学ぶことの意味を考えてみたい。

本書の中で語られている事例で分かりやすい例が、中国文明の歴史である。司馬遷が『史記』で創り上げた中国文明の歴史観は、「正統」の歴史観だ。司馬遷が『史記』で書いてるのは、皇帝の正統の歴史であり、世界史でも中国史でもないという。中国における史実を残すことが目的ではないのだ。そのため、この正統の歴史観で叙述された中国の正史は、本書によれば、史実との矛盾が大きくなってくる。現皇帝は「正統」な天子である、ということを歴史書編纂の至上命題にしているが故に、中国の理想の姿を描き、天下や世界に変化がないものとして語らざるを得ないのである。一方、地中海文明の歴史は、その語られる目的が違う。最大の目的は、「世界は変化するものであり、その変化を語ること」である。その上で、「2つの勢力が対立して抗争が起こり、最後には正義が勝つ」という歴史観で叙述される。地中海文明においては、これが歴史の書き方の基本となっているのである。地中海文明の歴史書が史実と異なっているかどうかについては本書に記載されていないが、定式化された型がある以上、それに沿った叙述になる可能性は十分にある。

では、歴史書が編纂される過程で、特定の目的のもとに、現実と矛盾した内容がしばしば記載されることになる原因は何であろうか。中国の事例のように、時の権力者が事実の記載よりも自身の正統性を証明することを優先し、そのように命じたから、というケースは多そうだ。都合の良い事実だけをつなぎ合わせ、語りたい筋道に合わせて話を創作するのである。しかしながら、そのような強制力が働いて、事実と異なる歴史が語られる場合ばかりではないだろう。地中海文明においては、時の権力者が「2つの勢力が対立する構図」で歴史を語るよう強制したわけではない。時代はかけ離れており、歴史書とは言えないが、百田尚樹氏の『日本国紀』も、内閣総理大臣から戦中の日本を正当化するよう命じられたわけではない。それでも、事実とは異なる内容が語られることがある。

では、なぜ強制されたわけでもないのに、時に事実を曲げてまで歴史を語るのか。著者は、歴史というものが成立する前提条件の1つとして、「ものごとの因果関係の思想」を挙げている。また、P145では「人間にとって、なにかを理解する、ということは、それにストーリーを与える、物語を与える、ということだ」と主張し、「物語がないものは、人間の頭では理解できない。だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ」と言う。本来は筋道のない世界に、筋道をつけるのが歴史であるならば、歴史書の中で拡大解釈や事実の曲解、創作があるのは必然だと言える。なぜなら、歴史は時代を超えた情報収集が必要になるが、過去であるが故に情報不足になりやすく、不足する情報だけでは、筋道を通すことが極めて困難だからだ。遠すぎる点をつなぐためには、点を大きくし、位置を動かし、新しい点を打つ必要があるのだ。

考えてみれば、「文章を書く」という営みが、歴史の本質に近いものだ。もちろん、文章の中には事実を羅列したものもあるだろう。ただ、文章を書く目的は誰かに何かを伝えることだ。理解してもらうことだ。そうであるならば、前述したとおり、筋道が必要になる。論理のつながった構成が求められるのである。この論理構成を分かりやすくしたいがために、人は事実を創るのである。課題図書の感想文に悪戦苦闘する中で、自戒を込めて今一度自分自身にも言い聞かせたい。私は、事実を創っていたりはしないだろうか?私達は、事実としての「歴史を学ぶ」のではなく、背景や語り手の意図も含めて「歴史に学ぶ」必要があるのかもしれない。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 Cocona1 日時 
著者は本書にて、「歴史とはなにか」をテーマに、様々な歴史の見方を紹介しています。歴史のある文明・ない文明、武器としての歴史、正統の歴史観による中国文明の歴史、変化を語る地中海文明の歴史。

その歴史のとらえ方は、私にとってはどれもが意外なものでした。というのも、今までの自分の人生で触れてきた歴史の見方とは大きく違っていたからです。歴史はたった一つだと考えていては決して気づくことのできない視点を読むほど、私の中で歴史への興味がどんどん沸いてくるのを感じました。

本書のように、学校では教えない違う見方で歴史に触れられると、新たな歴史の魅力に気づけます。それはきっと、歴史嫌いの処方箋になるはずです。私みたいな歴史音痴にならないために、歴史を苦手に感じている学生たちにこそ、ぜひ読んでもらいたい一冊だと思いました。

本書の中でも特に印象に残ったのが、歴史は科学でなく文学である、という記述でした。なぜなら、私の頭は学校教育の大きな影響を受け、歴史はたった一つしかないと信じ込んでいたからです。

文学には正解はありません。だからこそ、誰が何を何のために書くのか、によって、すべてが違う作品になります。そして、著者の意見では、歴史もまた文学であるため、書き手によって変わってしまう、というのです。この主張には、かなり驚かされましたが、強い説得力があるため、納得せざるを得ませんでした。今後は、歴史が書き手によって変わるという考え方を忘れず頭に入れて、歴史に向き合っていかなければと思いました。

さて、本書は「歴史とはなにか」がメインテーマです。しかし、今回の課題図書の投稿にあたって、メインテーマは歴史に詳しい方にお任せし、私はサブテーマと考えられる、「だれが歴史を書くか」について論じたいと思います。

著者は、結語にて「だれが歴史を書くか」について記しています。それによるとまず、よい歴史を書くには、書き手である歴史家の普遍的な立場が必要である。さらに、そのためには、書き手の豊かな個性が大切だと。このような歴史の書き手によって書かれた「よりよい歴史」は、多数の人を説得できる力が強いというのです。

この主張を読んだとき、私は違和感を覚えました。なぜなら、普遍的な立場と、個人の豊かな個性は、相反すると認識していたからです。

例えば、豊かな個性と聞いて私がイメージするのは、アートなどの芸術です。本人以外には創造できないような芸術は、個人が自分と向き合って生まれるものに違いない。普遍的な立場をとると、個性は生まれにくそうだと考えていたのです。

しかし、掘り下げて考えると、矛盾はなく当然のことだと理解できます。普遍的な立場が分からないと、自分の個性も認識できないからです。井の中の蛙は自分が個性的かどうか、分かる方法がありません。そこに気づくと、豊かな個性を発揮するには、何が普遍的かわかっていることが大事だと、著者の主張をよく理解できます。

私は、この結語の理論を読み、これは歴史に限らず、自分の考えを主張するのに、だれでも当てはまると思いました。つまり、他人に自分の意見を伝えるには、本人のたくさんの経験に基づいた普遍的な立場と、その元になる豊かな個性がまず基礎として大切だと言えるのです。今後、文章を書くとき、人に何かを伝えたいときには、この2点を忘れないようにし、説得力のあるよい意見を目指したいと思います。

さらに、いろいろな人と気持ちを通い合わせることができたたくさんの経験が、普遍的な個人の立場を作れる、という意見も興味深かったです。

この記述を読み、まるで「光の3原色」のようだと頭に思い浮かびました。

光は、赤・緑・青の3色がバランスよく混ざったときに初めて白が作れます。物事の真実を照らす色である白を作るには、3色のバランスが大切です。人間も、いろいろなことを経験して、バランスよく重ね合わせたときに、色で言う白にあたる普遍的な立場に立つことができる。本書を通して、この考え方を改めて認識できました。

自分を振り返ると、意見を人に伝える際、何が普遍的なのか、自分の考えと一般的な意見とのズレはあるのか、など考えたことがありませんでした。むしろ自分の考えだけが正しいと信じ込み、とにかくその正しさを訴えがちだったと思います。しかし、それでは説得力のある主張にはならないことを、本書から学びました。これからは、まずは普遍的な立場に自分を置き、そこから自分の意見を発信していくように努めたいです。さらに、普遍性のもとになる豊かな個性を身に着けるべく、光の3原則のようなバランスの良い思考の下地を目指して、食わず嫌いをせずに積極的に色々な経験していくことを心掛けたいと思います。
 
投稿者 mkse22 日時 
「歴史とはなにか (文春新書)」を読んで

本書を読んで、頭の中がすっきりした感じがある。歴史や国民国家といった基本的な概念をここまで詳細にわかりやすく説明した本というのは、私が知っている限りではあまりないからだ。基本的な概念を説明している本の多くが抽象的で難しく、読了後に「わかった」という感じになりにくいが、本書はそれらの本とは一線を画している。

歴史の定義とは何か。本書では『歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営み』(P10)であるとし、その本質は『個人の範囲を超えた認識』(P16)にあるとしている。

たしかに高校で習う日本史や世界史には個人の認識は記載されていないように思える。例えば、江戸時代に徳川家康自身がどのような考えで江戸幕府を創立したのかというようなことは教科書に書いていなかった気がするからだ。徳川家康は200年以上前に亡くなっているため、直接質問して彼の考えを聞いて書くことができないという事情もあるだろうが、個人の考えをそのまま載せても、それがそのまま歴史となるわけではないから教科書には記載していなかったわけだ。

さらに、歴史として成立するためには、いくつかの前提条件を満たす必要である。それは「直進する時間の観念」「時間を管理する技術」「文字」「因果関係の観念」(P14)が存在することだ。これらの概念は、多くの日本人にとって当たり前のこと過ぎて、成立しない可能性があることなど思いもしないことだ。疑問に思っているのは一部の哲学者や物理学者くらいだろう。ただ、これらの概念は本書に記載されているように決して自明なものではない。歴史は曖昧なものの上に成立している不安定な概念なわけだ。

同様のことは国民国家にもいえる。
本書によると、国民国家は「歴史の法則」などによって必然的に生まれたものではなく、戦争に勝つという目的実現のために生まれた政治形態である。これは国民国家が成立するための前提条件として戦争の存在があることを意味する。もし戦争がなくなれば、国民国家はその存在意義をなくし、自然と解体してしまう可能性があるからだ。このことは国家存続のために戦争を意図的に起こす誘因があるともいえる。国民国家と戦争は切っても切り離せない関係である。

このように、歴史や国民国家といった概念が成立するためには、いくつかの前提条件となる概念が必要である。そして、この前提条件が決して盤石ではなく、さらには思考を制約する作用があるのだ。例えば、日本の歴史を考えるときには時間が存在することがあたかも当然と考えてしまうように。日本などの国家を軸に考えると、戦争をすることもやむなしという結論になりやすくなるように。

前提が思考を縛りつけ、特定の結論に誘導する。思考している当人がこのことにはなかなか気づきにくいだろう。思考が誘導されていることに気づくためには、前提を明らかにする必要がある。前提の概念が明らかになれば、その概念がどの方向に誘導しようとしているのかがわかるからだ。

以上より、概念の理解のためにはその概念の前提にあるものを明確に意識すべきである。といいたいところだが、前提を明確に意識することはメリットのみだろうか。デメリットはないのだろうか。実はデメリットも存在する。

例えば、殺人罪で考えてみる。
殺人罪は殺人が悪いことであることが前提にある。多くの国民が殺人は悪いことであると判断しているからこそ、国民の代表である国会議員が刑法の中で殺人罪を設けることができるわけだ。

ここで問題となるのは、殺人がなぜわるいのかという疑問に対してだれもが納得する回答があるのかということだ。これは、いまだに答えがでていない難問だったはずで、結局、殺人は悪いことだから悪いとしか言いようがないというのが答えだった気がする。

もし、そうであれば、殺人罪の前提を明確化することは、殺人が本当にわるいことなのかという疑問を持つきっかけを与えることになる。みんな何となくダメだと思っている殺人には実は明確な理由がないことが周知されてしまうわけだ。そうなると、殺人を抑止できなくなり、結果として社会を不安定化する可能性がある。社会の安定化のために、疑ってはいけないことがあるわけだ。

みんなが疑問に持たないから、上手くいっていることもあるのだなとおもってしまった。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで特に興味深かったのは、中国の正統のように長い歴史に裏打ちされた国は、歴史を武器として使うものである、という事でした。


本書で書かれている歴史の定義とは、世界を時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みが岡田氏の考える歴史の定義であり、個人の範囲を超えた認識であるということです。


個人の範囲を超えた、歴史を構成するのに必要な要素とは、「直進する時間」、「時間を管理する技術」、「文字」、「因果律」であり、この4つが揃わないところでは歴史はない、という事になります。


その例として、インド文明では時間が直線的でなく輪廻転生を信じる円環的時間の流れとなっています。イスラム文明では特殊な時間観念と因果の観念を持ってはいますが、地中海文明の対抗文明として後継者であるヨーロッパ文明の後塵を拝しています。


なぜ、歴史を国家が重視するのか、それは歴史の効用とは、自国の正当性を主張し、他国のマウントポジションを獲得するための道具としての機能を持つからです。


日本と関わりの深い中国を見てみると、第2次世界大戦後、中国は日本に歴史の反省を強いてきました。
我が身を省みる為の、道徳的な意味での反省ではなく、中国へはずっと頭を下げたままでいろ、という押さえつけを意味しています。


約4,000年と言われる歴史と長く関わりのある国であり、歴史の発明家でもあるので、歴史の使い方は堂々としたものです。


本書で書かれている、司馬遷が行った偉大な仕事と言うのは、正統の観念を発明した事です。『「正統」の歴史観では、どの時代の「天下」(いまで言う中国)にも、天命を受けた「天子」(皇帝)がかならず一人いて、その天子だけが天下を統治する権利を持っている。その「正統」は、五帝の時代には「禅譲」によって、賢い天子から賢い天子へと譲られて伝わった。』P35


中国文明の根本には、正統というものが存在し、国の統治は一人の天子或いは、一党の代表者によって行われるものであり、司馬遷が史記を編纂した時代から、中国の本質は現在まで受け継がれています。


日本はどうかと言うと、本書でも書かれている通り、日本書紀は日本文明が中国文明とは独立して発展した文明であることを証明するために天智天皇の命で作られたものであり、史実を正確に記載するのではなく、天皇が正当であることを説明するためのお話であり,中国に対して自国を正当化するための武器でもあったのです。


つまり,日本文明とは本質的に鎖国の文化が根本に存在しており,中国の天下には含まれない別の天下としてあることがアイデンティティであることを意味しています。


日本史の戦国時代によく使われる天下という言葉は、国内の事を指しますし、隋・唐以外には中国の皇帝に使者を派遣する事もありませんでした。


他国に依らない自国の存在する正統性を主張する、という点を見ると同じですが、先に歴史を発明した中国の影響を受けて作り出した、と言えます。


現在の世界情勢が過去からの自国が置かれた歴史が影響しているとも考えられ、自国の正統性ばかりを主張するだけでは国内は治められても、他国との関係は悪化していく事になります。


日本の歴史に対して真摯に向き合い、他国に対しての武器や道具として使うという愚行は行わず、日本だけではなく、様々な他国の歴史を読む事を楽しみたいと思います。
 
投稿者 kzid9 日時 
本書を読んで「国民」や「国家」という概念が19世紀からのフレームだということ、民族」にいたっては、20世紀に入ってからの観念と知った。さらに、本書P164で『国民が話すべき公用語という意味の「国語」は19世紀の日本で新たにつくられたことばだ。「民族」という枠組みは、「国家」や「国民」よりさらに新しい。しかも、「民族」は20世紀に入ってから日本でできた観念で、ヨーロッパのどこの国語にも、日本語の「民族」に当たる語彙は存在しない。原語がないのだから、日本語の「民族」の定義もあいまいなままだ。』と記述されている。これにより、国語という概念も日本でつくられたことや、「民族」に至っては20世紀に入ってから日本でできた観念であることを知った。もとより「国民」や「国家」、「民族」という観念はそもそも当たり前と思っているので改めて考えることもない。民族については、アイヌ民族についてニュースを見聞きすることで「民族」というものについて考える程度であった。最近では、前々回課題図書の「ドキュメント戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争」にて、「民族浄化」のキャッチコピーにより、世論を動かしボスニア紛争の結末を大きく変えたことを学んだ。そこで、本書及び前々回の課題図書から「国民」、「国家」、「民族」という観念に非常に興味を持ったことから、以下に述べていく。

なぜ、「国民」、「国家」、「民族」という観念に非常に興味を持った興味をもったかについて、一つは先に述べたとおり新しい観念であるということ。もう一つは影響力が強いことである。本書のP199ページで書かれているように、日清戦争に敗れた現代中国は日本型の国民国家になることを目標とし、日本では、国境の内側の住民は全員が日本人だというのになぞらえて、『国境の内側の住民は全員、中国人(漢人)であるべきで、同じ中国語を話すべきだ』とある。そもそも、日本文明は中国文明の対抗文明であり、中国文明の影響を大きく受けていて、古代においては中国のほうが格上というイメージがある。さらに、著者によれば、P199ページにあるように、『チベット人を残酷に弾圧して、チベット文化を根絶しようと試みている』とされており、この理由も、チベット人はほんらい、悠久のむかしから中国の領土の一部である土地に、たまたま住んでいる少数民族にすぎず、れっきとした中国人でもあるにかかわらず、自分が中国人であることを否認し、中国の文化に同化されることを拒否しているのは、祖国に対する反逆だという認識になるわけだ』とある。これらのことからも、「国民」や「国家」、「民族」という観念がいかに異質なものを排除し、同一化を強要するのかということを窺い知ることができる。

現在、ロシアによるウクライナ侵攻における大義も、昔はソ連を構成し同じルーツを持つ兄弟国と認識しているからで、プーチン大統領が2021年7月に発表した論文ではロシア人とウクライナ人は同じ民族だと述べている。なぜ、これほどまでに人は「国民」や「国家」、「民族」に同一化するのであろうか。やはりアイデンティティ(帰属意識)にあると考える。たとえば、私はウクライナ人だというアイデンティティはある面では、ものすごいエネルギーを発揮する。それは、当初は劣勢が想定されたウクライナ軍が善戦しているように、自分たちの国を守るという強い思い、愛国心がエネルギーとなっているからだ。

けれども、一人の人間としての人生、生き方を考えたとき、この「国民」、「国家」「民族」という考え方に同一化するのは非常に危険だと思った。なぜかというと、アイデンティティは他者や社会との関係の中で作られるものであり、他者との関係性や集団というものは変化していくものであるからである。よって、無意識に自分が所属する集団に同一化していないかということを振り返ることが必要ではないかと感じた。
それ以前は、○○村の一員、△△島の人間といった意識しかなかったのが、いまは「国民」「国家」「民族」に変わり、今後は新たな観念がつくりだされつつある。それが、本書のP176にあるように、『国民国家という形態の有効期限がきれようとしている。国際連合やヨーロッパ連合のように国家の主権、国家の所有権を制限しようというこころみが出てきている』とすれば、歴史の流れを考えると観念の範疇はより大きくなり、ヨーロッパ人、アジア人といった括りになるのではないかと考える。こうなると単一民族であることが必要なくなると考える。つまり、ロシアのウクライナ侵攻に際してのプーチンの同じ民族という大義や中国がウイグル自治区でおこなわれているチベット人を残酷に弾圧するなどの行為そのものが水疱に帰すこととなる。ロシアや中国はなんて無駄なことにエネルギーを浪費しているのだろうと思うとともに、そのために犠牲になられた人がいることに胸が痛む。

本書を読んで、歴史を学ぶことは、一人の人間として生きていく上でとても大事だと思った。何を自分の判断基準とするのか、アイデンティティも他者との関係性の中で移ろうものである以上、「国民」「国家」「民族」といった、なにかに同一化することなく、自己を確立することが必要ではないかと感じた。
投稿者 tarohei 日時 
 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、一個人が直接経験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである、と本書では定義している。
 そして、歴史を成立させるには四つの要素があるという。一つ目が時間は直進するものだという直進する時間の観念、二つ目は一定不変の歩調で進行する時間に一連番号を振って時間を管理する技術、三つ目が文字で記録を書き留める技術、四つ目がものごとには原因があるから結果があるという因果関係の思想だと本書では述べられている。
 さらに、世界中で自前の歴史文化を発明した文明は中国文明と地中海文明の二つだけであるとし、それ以外の文明、つまりインド文明やイスラム文明などは歴史という文化要素を、これら二つの文明から借り受けて、歴史叙述を行なうようになっただけだという。

 以上を踏まえて、歴史のある文明とない文明があると言うがそれについて考えてみた。
 独自に歴史という文明を誕生させ発展させたのは、中国文明と地中海文明だけであるという。中国では司馬遷が史記を約2100年ほど前に記述してから近世まで、中華の歴代の王朝は前代の歴史を編纂してきた。「古きを温めて新しきを知る」という諺があるが、過去の歴史に学ぶことは現在と未来を指し示す羅針盤のようなものだと考えられてきた。しかし、その根底に流れているのはその時代の王朝や皇帝の正当性の証しであり、歴史の変化の流れを組み入れるものではなかった。そのため、史記以降の中国史では、史記の枠組みが固定化し、歴史に変化があってもそれを認めてはいけない、変化を記録してはいけないことになってしまったのである。そんな歪な歴史観をもった文明でも歴史のない文明と比べれば歴史のある文明といえるのであろう。

 さて、もう一つの歴史のある文明とされる地中海文明に目を向けてみると、地中海文明のオリジナルの歴史の叙述は、ギリシャ人のヘロドトスが紀元前5世紀頃に記述したヒストリアイが元祖になるという。ヘロドトスはペルシャ大帝国の歴史を紀元前480年にギリシャ軍に敗北するまでを記述したが、そこでは、世界は変化するものでその変化を語るのが歴史、世界の変化は政治勢力の対立抗争で起きる、ヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力だ、と述べている。この世界は変化し続け変化には因果関係が有るとした歴史認識が重要なところである。中国文明の史記とは考え方が全く違った枠組みの異なる歴史観である。そして、その後ヨーロッパ地域で発展した近代歴史観は全てこの影響下に置かれ、中華の歴史思想感とは異なる発展をしたところが興味深い。

 一方、歴史のない文明としてインド文明があるという。インドはインダス文明と呼ばれる世界4大文明の一つに挙げられる古代文明が誕生した土地で、インド独自の数学や文字を生み出したが、歴史は生み出さなかったとされる。インドで歴史が記述されるようになったのは、13世紀に入ってからでイスラム教徒の国が成立してからである。きちんとした歴史記述は19世紀にイギリスの植民地となって西洋文明が入ってきてからである。なぜインドに歴史文化が生じなかったのか。仏教でもヒンドゥー教でも同じであるが、インド文明に特有の輪廻転生の思想があるからだという。これは生きとし生ける物の寿命が尽きると肉体は滅びるが魂はそこから抜け出し、次の生き物に生まれ変わるという思想で、どんな生き物に生まれ変わるかは前世の生き様次第、再び人間に生まれ変わるとも限らず、人間界の因果関係だけで成立しているわけではなく、歴史叙述は意味のないものと考えられてきたからである。

歴史文明があるなしに関わらず、侵略したりされたりしつつあるが、ほとんどの人々は数百年かもっとあるいは数千年前以上も前からずっとその土地の住民であり、その土地に根差して生活をしてきている。
 たらだらと書き綴ってきたが、つまり何が言いたいかというと、歴史というのは普遍的な流れの中にあり,因果関係は途切れることなく、ある出来事とある出来事の間には必ず因果関係があるということである。そして歴史を学び深掘りすることで様々な出来事の本質が見えてくるのではと考えた。
 昨今、テレビや新聞、インターネット等で様々な事件が報道されている。特に、政治問題や国際紛争、政治家の不祥事など、マスコミは一方的に批判したり、構造改革などを訴えるが、政治事件や事象は偶然や突発的に発生するものではなく、それを生み出す国民性やその土地に差した因果関係が原因するものがあるはずである。現在に起きている事件や事象は歴史を紐解くことで、何が本質的な原因か、どう構造改革をすればよいかが見えてくるのではなかろか。

 歴史に因果関係が叙述されてこそ歴史と言える。逆に因果関係が記述されているからこそ、歴史を紐解くことで現在の問題を解決するヒントを得ることができたり、事象の本質が見えてくる、という学びを得ることができた。まさに、「古きを温めて新しきを知る」である。
 
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
「歴史は科学ではない。文学である。」-著者、岡田英弘氏のこの言葉は、このたった一言で歴史を鮮やかに定義し、私の目を開かせてくれた。本書からの学びを三点に絞って書きたいと思う。


1.歴史を重視しない三大文明

私が個人的に考える「歴史を学ぶ理由」は
(1)自分の生まれ故郷(祖国)の文化へのアイデンティティと誇りを築く 
(2)過去の過ちから学び、より良い生き方をする 
の二点である。

だが上記の考え方は、日本やヨーロッパのような「歴史ある文明」で一般的なだけであり、世界には「歴史のない文明」が存在すると著者は大胆に主張する。それについての考察を記述する。


(1)インド
インドは、四大文明の一つ「インダス文明」という高度な古代文明を築いてきたにもかかわらず、イギリスに植民支配されるまで歴史を意識しなかったという。著者はそれを、「インド文明は転生の思想を基盤とするため」とし、「仮に歴史家がインドの歴史を執筆しようとしても、来世や輪廻を含めた包括的な人間界の歴史を書くことは不可能だった」と説明する。


3月の課題図書『絶対貧困の光景』で、インドの最下層の女性達が描かれていたが、彼女達が「今、この瞬間」を生き抜くことに必死なのは「これが原因か」と思った。『絶対貧困の光景』の最終章で、著者が「(インド女性達の貧困の状況が)10年前から何も変わっていない」と絶望を吐露していたが、「歴史から学び、過去の過ちを是正する」という視点がなければ、国家の発展など不可能だろうと納得せざるを得ない。


(2)イスラム文明
イスラム教は、人生で起こる全てを「神の思し召し」と捉え、人間の歴史をそれほど重視しない。一方、他の文明との衝突・戦争などの軋轢の中で、自己正当化の武器として次第に歴史を持つようになった、その二面性を本書は指摘する。

これを読んで思い起こしたことがある。イスラム教のモスクで祈りを捧げる人達の映像を見ると、彼らの信仰の姿は数世紀前(下手したらイスラム教が始まった頃)から、全く変わっていないように見える。彼らにとって、7世紀に書かれたコーランの教えを誠実に守り、祈りや断食の習慣を続けることは、「人類の歴史から学ぶ」ことより大切なのだと納得がいく。

例えば「豚は不浄なので食べてはならない」のようなコーランの教えは、7世紀には信徒の健康を守るため適切だったのだろうが、現代はそんな教え、守らなくても良いのでは?という議論もあるようだ。しかし依然として、イスラム教徒達は豚肉を食べない生活を続けている。「時代の変化」よりも「神の思し召し」を優先する生き方が、彼らの根本的な基礎となっていることを学んだ。


(3)アメリカ文明

「現在と未来にしか関心がない」-この定義付けから、アメリカ人の底抜けの明るさの裏の姿が見えてきた。彼らは成功だけにスポットライトをあて、マイナス面(ネイティブアメリカンや日系人などを迫害し、黒人を奴隷にしていた歴史など)を見て見ぬふりをする。だがどんな人間(国家)も、強さと弱さ、光と陰の両面を持つ。陰を無視し続ければ、マイナス面の克服もさらなる成長もできない。過去の伝統にとらわれぬ自由さは発展を促進するが、歴史から学ばないことは危うさと脆さを伴うことを、心に留めておきたい。


2.神話と歴史の境界線は曖昧

著者は「古事記は日本書紀の後(平安初期)に書かれた」と主張するが、これは納得できる指摘だった。というのは、キリスト教の旧約聖書にも「歴史書的な部分が先に執筆され、神話は後で書かれたのでは?」という議論があり、それと似ているからだ。旧約聖書の冒頭の創世記は、前半が神話(天地創造、アダムとイブ、ノアの箱舟、バベルの塔ほか)、後半が歴史(アブラハム以降の人物史)の構成をとる。作家の阿刀田高さんは「神話が歴史に入り込むのは、王国が隆盛を極めた時ではないか」と述べている。

手元の中学生の歴史の教科書では「古事記は712年、日本書紀は720年に成立」と明記され、私の塾の中学生達もそのまま素直に覚えている。私もそれを子供の頃から信じていたし、古事記に書かれた日本の神話は「中国文明の影響は薄く、日本で生まれた日本古来のお話」というノスタルジックな印象を持っていた。

だが岡田英弘氏が指摘するように、当時ひらがなはまだ発明されておらず、古事記は漢文で書かれているという。現代の私達が持つ古事記のイメージは、「江戸時代に本居宣長が書いた(若干美化の入った)古事記伝に形成された」という説明も納得が行く。明治維新で列強諸国に対抗するため、日本人としてのアイデンティティを国民に持たせるため、本居宣長の古事記伝が大々的にフィーチャーされた時代背景もあるだろう。

神話と歴史書は一見全く違うように見えて、どちらも「読者を魅了し、感銘を与える」という点で高い文学性を持つ。神話は神が主人公の物語だが、書いたのは人間だし、歴史書は客観的に書かれているように見えるが、間違いなく歴史家の主観が入っている。今後、歴史書はもちろん、神話を読む際にも「著者がどんな意図を持ち、どんな時代背景で書いたか?」を深読みする視点を持ちたい。


3.地中海文明と中国文明の歴史観の違い

本書で最も衝撃的だったのが
●地中海文明…「世界は変化する。その変化を語るのが歴史」
●中国文明…「天下に変化はありえず、世界の変化を認めない」
という、真逆の歴史観を持つという指摘だ。

私達日本人は「矛盾」「圧巻」などの熟語や、「漁夫の利」「呉越同舟」などの故事から来る慣用句を日常的に使っている。これらは中国の歴史書が原典だと当然のように考えていたが、その中国の歴史書は、皇帝の正当性を主張することを最大の目的として書かれたので、往々にして真実が捻じ曲げられ切り捨てられているという、少し考えれば当たり前の事実を突きつけられた。

中国には古代から「易経」の教えが存在し、知識人達が「万物は常に変化する」という真理を認識していなかったはずがない。にもかかわらず「変化しない歴史」を執筆しなければならなかった歴史家達の葛藤とは、どんなものだったのだろう。

最後に、個人的な話になるが、今年、本を出版することになった。第1章を執筆したら、自伝のような内容になった。自分の人生のエピソードを厳選し、シンプルさを心がけ、最も伝えたい主題は具体的に描写し、要らない情報は切り捨てるという編集作業を行った。自分一人の短い人生でさえ、これだけ気を使うのだから、一国の歴史を綴るとなれば、想像を絶する多大な編集作業が必要だったであろう。本を読む際に、行間(書かれなかった部分)に思いを馳せることもまた、必要なことだと実感した。
投稿者 Terucchi 日時 
この本を読んで、今まで思っていた歴史というものが当たり前のことではないことに気付かされた。まず、世界各国で解釈が違うということを様々な事例で説明している。例えば、そもそも歴史という概念が存在しないアメリカやイスラム国を取り上げたり、中国や西ヨーロッパの歴史の考えも、その認識の違いを書いている。また、日本という国は反中国として神話の歴史を作った等、一概に歴史と言っても、国によって、こんなにも様々な捉え方や解釈の違いがあるのかと考えさせられた。

私は特にこの本の中で、『自己の正当化は歴史のおちいりやすい落とし穴である。どこの国民にでもそうだけど、自分にとってつごうのいい歴史が、本当の歴史なのだ』(p135)について、考えさせられた。なぜなら、人であれば自分の国の歴史は、良いものだと思いたいから、そのように考えてしまうこと避けられないからだ。現代の中国では「国恥地図(こくちちず)」なる地図がある。中国人が考える中国の領土の地図であるが、西はカザフスタンやウズベキスタン、北はモンゴル、東は韓国や台湾、南はタイやベトナム、マレーシアなども自国の領土としている。よく問題に挙げられる、チベットやウイグル、台湾などについて、なぜ自国であることにこだわるのかについて思っていたが、中国にとってはそもそも当然の領土だという解釈なのだ。この本の中(p202)では、中国は、歴史の中で、『中国朝廷に対して、手土産を持参して、皇帝に捧げる「朝貢」をしたら、中国に従う国である』と解釈している。とても乱暴な解釈であるが、この本によって、なぜそう考えてしまうのかの一面を見てしまった。中国にとっては、現世界の地図の領土がおかしいと思っているのであろうか。まさしく、この本の通り、自分にとって都合の良い歴史が本当の歴史であると思っており、自己の正当化が歴史のおちいりやすい落とし穴である事例だと納得させられてしまった。

ところで、この本を読んでいると題名のとおり、歴史が何なのか、よい歴史とは何なのかを考えさせられる。著者が考える「よい歴史」とは、(p220)『結局、史料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明のことだ。こういう説明が、いわゆる「歴史的真実」ということになる。』とある。では、そういう真実を書くことが可能なのだろうか。著者は、とても難しいことであることを、この本を最初から最後までを通して言っている。更に、『よい歴史が他人に歓迎されるとは限らない』とさえも言っている。しかし、『よい歴史があれば、対立はお互いさまということで、かなり解消できるであろう』と本書の結論で締め括っている。確かに著者が言う「よい歴史」は難しいとはいえ、だから諦めるのではなく、歴史家はそう信じて事実を精査しながら、本当の歴史は何だったのかを追求していくものなのだ、と言っていることが、ロマンのように思わされた。

次に、では私たちは歴史をどう捉えて考えていけば良いのだろうか、また日常生活もどう活かして行ったら良いだろうか、について考えてみた。先日の課題図書に「もう一つ上の日本史」があったが、この本においても、歴史を考える上では、まず事実をきちんと捉えることが必要であった。今月の課題図書では、歴史には都合のよい解釈が含まれていることを書いてあり、その都合よく書かれていることも考慮しながら、歴史というものを考えていかなければならないであろう。誰が、どのような視点に立っているのか、どのような解釈で捉えているのか、についても考えなければならない。ところで、このように考える必要性は、歴史を考える場合だけであろうか。実は、日常の生活についても、知らず知らずのうちに、自分の視点に陥っていると考えなければならない。なぜなら、人はそれぞれの知識や経験になどのフィルターを通して考えてしまうため、偏りが出てしまうものであるからだ。だから、普段から、自分自身で注意して、偏りが出ていないかどうか振り返って、それらを考慮することが大切である。そのためには、様々な意見を取り入れて考え、それぞれの立場から見て、善悪の視点もなくして、事実と意見を分けて、その事実を素直に見るべき目を養うことが必要であろう。例え、それが難しいとはいえ、様々なことを取り入れていく過程で、本当のものが何なのかを見極めていくことは必要である。その時、必ずしも正解と思うものを見つけることができないかも知れない。もしかすると、教えてもらった方が楽かも知れない。しかし、正解を考えていこうとすることが、自身の思考を深くして、判断する力を養うことにつながっていく。そのような力を得ることができれば、例え、間違っていたとしても、自分で考えたものならば、自分で間違いに気付いた時に、間違ったことを修正するのが早いと考える。なぜなら、自分自身で納得するからだ。反面、自分自身の一人よがりの考えに陥いる危険性はある。しかし、他人の考えに流されるよりも、自分の尺度を持っているため、間違いに気付いたときに、他人の責任にするのではなく、謙虚になぜ間違って、どう修正していけば良いか考えることができ、それがPDCAにつながっていくと考えるのだ。そうやって、自分自身の思考を高めていけば良いと考える。

以上、この本が歴史をどう考えるかの本ではあるが、この本の考えを参考にして、日常生活においても、自分自身が都合よく考えていないかどうかを振り返りながら、自分自身で考えて、思考を高めていくことを大切にしていきたい。
 
投稿者 str 日時 
歴史とはなにか

『歴史は物語であり、文学である』
繰り返し実験の出来ない一度きりの出来事としてみれば、科学の対象にはならないことがわかる。しかし、歴史を“書く人”も“読む人”もそれぞれ立場も思想も好みも異なる。立場・思想によっては書き手側が自らを美化し、正当化したイメージを植え付けるべく語られるだろうし、相手を貶めるべく語られる場合もあるだろう。読み手にしても好みに合わなければ受け入れようとせず、好みであれば都合の良い方向へ解釈し、不足している部分は自らの妄想で補完していくだろう。正史とされるものも、自叙伝であっても、その場に居合わせた当人の体験やその目で見たものだけに限るならともかく、そうでない部分に関しては結局のところ記述する人にとっても、他から聞いた話を真実とし、想像で補うしかない。“歴史”として後世にまで残るような出来事に“関わった全ての人”を記述するなど現実的でないのも分かる。だから殆どの場合、物語の“主人公”や“中心人物”とされる人が存在する。偉業でも悲劇でも、偉大な人物でも残忍な悪人でも、インパクトの大きいものほど後に残り、幾多の考察がなされる。けれど過去の出来事を確認する術がないのであれば、想像の域を出ない。そういった意味で『歴史は物語であり、文学である』という一文に妙に納得してしまった。

もっとも、国史を強く主張し過ぎることによって争いの火種となることもあるだろう。それぞれの歴史・文化・ルーツを知ることが互いに良いことばかりではない。にわか知識で歴史を語らず、デリケートに取り扱っていかなければならないと感じた。
 
投稿者 3338 日時 
この本は世界の主な文明について、その文明の歴史観を抽出してタイプの違いを比較している。ちなみに日本の歴史観は第二次世界大戦後以降、GHQから提示ものである。日本人はその観点でしか世界史の中の日本を認識していない。その歴史観は自虐史観としかいえないものとなっている。

歴史とは何か?と問われれば、それは「誰が、いつ、どこで、なぜ、何を行い、その結果どうなったかを国家の歩みとして記載すること」だといえる。そのためには過去から今までまっすぐ流れる時間という観念の中で、正しい年月日を認識し、それを文字で記録し、その因果関係を物語る観念を持っていなければならない。これが著者のいう歴史が書かれるための、4つの定義となる。逆に言えば、この4つの定義を満たしていないものは、歴史のない文明ということになる。

インド文明とイスラム文明は因果関係の枠を超えてしまい、歴史として成り立たない。また、アメリカは歴史を引き合いに出す時、必ずヨーロッパから引用している。これは自国に歴史がないことを自覚しているからに他ならない。
そして歴史のある国、中国ではひたすら正統性を書き連ね、自らが皇帝として立ち王朝を開いたのは天命だと主張する。

ところで、1949年に成立した中華人民共和国が、1912年に国民国家として成立した中国という立場で、過去から続いている歴史を引き継いで中国という国家となった。1949年に成立した中華人民共和国は 、1912年に成立した中国と全く別の国家にも関わらず、略称中国という名の元に、全ての歴史を継承したという、泥棒なような状態になっている。しかも日本はGHQの指示で過去に使っていた「支那」というお隣の国の呼び名を、全て「中国」に書き換えたため、この中国の歴史泥棒を間接的に後押しすることになってしまった。

余談だが、江戸時代全般を通して「藩」という言葉は使われておらず「領」と呼ばれていた。また、幕府の直轄領は「天領」と教科書に記載されているが、当時は「御料」と呼ばれることが多かった。藩も天領も明治時代以後に一般的に使われるようになった言葉である。「支那」→「中国」の書き換えの既視感もちょっと見過ごせない気がする。

世界史の流れから見れば、日本が世界史に登場したのは日清戦争からになる。ここで注目したいのは、大日本帝国は悪役で登場し、悪役として満洲から追い出されたことだ。1894年から始まった日清戦争で日本に負けたシナは、その後明治維新を見習って政治改革をし、日本語を通して近代化を推進していく。その過程で、日本を認めたくないあまり、満州から撤退した日本を悪者扱いした。撤退した日本は悪事を働いたが故に、天命を失い、いま現在大陸を支配している中国こそが正義だというのが中国人にとっての「正しい歴史認識」である。ある意味歴史は勝者の都合の良いことと、正統性を書き記したものであるが、これはあまりに偏っている。結局自国の政治が立ちいかない責任を、日本を悪者にして押し付け、反日感情を煽ることで不満を抑えたに過ぎない。結果的に日本は自虐史観を刷り込まれ、教科書にまで記載されることとなった。日本の自虐史観は中国に植え付けられたと言っても過言ではない。これについては、アメリカ、韓国なども同罪である。

ではその自虐史観をどう取り除いていったらいいのだろうか。やはりこれは正しい歴史を知ることしかない。今まで故意に隠されて来た歴史の真実を紐解き、日本人がアジアでどれほど重要な役割りを担って来たかを知る必要がある。台湾は、今でもそれを恩義に感じている国であるが、悲しいかなそれは公には認められていない。

今でもアメリカは、戦前に大日本帝国がアジアを侵略した軍国主義の国であると主張し、国際連盟から統治を委任されていた太平洋地域でも、悪行の限りを尽くした日本に原爆を落としたことは正義だったと主張している。
さらに、韓国がこだわる従軍慰安婦の強制連行も、中国が史実だと主張する南京大虐殺も、本当は事実無根であり、大日本帝国が韓国、朝鮮半島、満州に国家の総力を挙げて投資したことや、現地を近代化したことを認めてしまえば、自分たちが誤っていたことを認目ざるを得ない。彼らは、史実かどうかではなく自分たちにとって、都合の良い説明しか受け入れたくないのだ。だからこそ、これからは日本人が自分たちの歴史を紡いでいく時なのだ。自虐史観は敗戦国であった日本が全て戦争責任を押し付けられた結果であり、歴史ではなく政治であることを認識するべきである。

自虐史観の囚われ、日本人が日本人の立場で書いた歴史を世界に向けて提示しない限り、今の状況は変わらない。歴史はなんらかの立場で書かれているのなら、日本人からは世界はこのように見えると発してもおかしくはない。せっかく世の中が変わろうとしているのだから、この機会にそんな発信をしてみたらどうだろう。あの時歴史は動いた(どこかで聞いたことがあるけど)日本人から見た〇〇の軌跡!そんなシリーズを発信できたら日本人として冥利に尽きるのではないか。もうちょっと、いやかなり文章力がついたら書けるだろうか。そうしたら日本も世界も、少しづつでも変わって行くのではなかろうか。
 
投稿者 vastos2000 日時 
「歴史とはなにか?」と聞かれたら、本書を読む前は「過去に起きた事を記録したものだよ」とでも回答していただろう。
私の場合、歴史をどうやって学んだかと言えば、主には学校で受けた教育からということになる。中学生や高校生のころは、教科書に書かれていることが誤っているなどという発想は持っていなかったので、主には受験のために太字で書かれている部分を中心に暗記したものだった。
歴史から思考の材料となるようなものを学ぼうという考えを持ったのは大学に入ってからで、年号を暗記することは時間軸をつかむという点で無駄ではないけれど、それよりは「何が原因で何が起きたか」を知ることのほうが重要だと考えていた。
その因果関係から、人の行動パターンや思考パターンを学ぶことができ、それを思考のための材料にできると思っていたからだ。

本書を読み終えても、歴史を学ぶ理由は上述のもので良いという考えは変わらなかったが、歴史に対する認識が変わった。
本書は前書きもなく、第一部が『歴史のある文明、歴史のない文明』であり、いきなり「歴史とはなにか?」という問いが投げかけられる。そしてそれを受けて『なにが歴史かということは、なにを歴史として認識するかということなのだ』とある。
ここでいきなり衝撃を受けた。「えっ、認識によるという事は、人によって歴史は違うの」と。
だが落ち着いて考えてみればそんなことは結構あるなと思い至った。NHKの大河ドラマにしても、従来は悪人のように思われていた人物が、実はいい奴だったんじゃないかというような描かれ方をしている作品もあるし、信長や家康も作品によって受ける印象が異なる。
現在の出来事でさえも切り取り方や編集によってずいぶん受ける印象は変わるから、今生きている人間は誰も見たことがない過去の出来事を、正確に、子細漏らさず記録するのは無理があると納得。

本書では史記や日本書記などが取り上げられているが、これも著者(編者)の見方や都合で書かれているので、プロパガンダのような一面がある。中国の歴史書は書かれた目的がその時代の王朝の正統を訴えるものであったから、その時代の文字を読める人々に対するプロパガンダだったのだろう。

4月の課題図書『戦争広告代理店』で学んだことだが、現代の出来事であっても、編集の仕方で視聴者や世論に与える影響は変わる。それは歴史書でも同じことが言えるだろう。なぜなら、その時代(過去)に行って、直接その出来事を確認することができないからだ。
司馬遷がどれだけ意図的にウソをついたり辻褄あわせをしていたか、私は知らないが、目的に沿って書いていたのだろう。(現実的に一人の人間が見聞きした出来事すべを記録するのは不可能)
史記も含めて、史料は意図的かどうかにかかわらず、ウソが紛れ込んでいるものだから注意が必要だと学んだ。
それを踏まえると、歴史から学びを得る際の姿勢が変わる。多少、ウソや誇張・省略があったからと言っても、どの出版社にも書かれているような史実は実際にあったことがほとんどだろう。そこから今も昔も人間の行動原理は大して変わらないことが学べると思う。
近年は欧米では戦争が起きていなかったが、ついこの間、ロシアがウクライナへ軍事侵攻した。出典は忘れたが、紀元後、地球上で都市や国家単位での戦争や紛争がなかった時期は、圧倒的に戦争が行われていた時期に比べて少ないということを読んだ。確かに日本国内だけ見ても、江戸時代を除けばしょっちゅう戦争をしていたので、それは本当だろうなと思う。つまりは、戦争が起きることは歴史を学んでいれば珍しいことでは無いとわかる。
ただ、心がけたいのは、教科書でさえも内容が訂正されるくらいなので、「ある史実や人物について学ぶなら、複数の資料を読むべき」という事だ。有名なものでは、鎌倉幕府の成立が、以前は1192年とされていたが、今は1185年とされている。

ある史料がプロパガンダを目的に書かれたものであっても、それを踏まえた誰かが研究した成果物であれば、それを読む我々も歴史を学ぶ意義も効果もあると思う。
特に、歴史を学ぶ目的が考える材料を増やすためであれば問題ない。『わが闘争』を読んでも、「ヒトラーはこういう考え方をしていたのね」と学びを得ることができる。
一方の立場から書かれただけを読んで「これが絶対の真実だ」と思うのは危険だが、それがプロパガンダである可能性を頭に入れて読めば「これを書いた人はこういう見方・考え方をしたのね」と解釈すれば良いし、同じ史実について異なる立場から書かれたものを読めばより良いだろう。


本書を読んだ事で、歴史書も人の手により書かれたものである以上は多かれ少なかれバイアスがかかっていることをハッキリと認識できた。
言われてみれば当たり前のことだが、言語化できていなかった。日中韓で歴史認識にズレがあることは承知していたし、国内に限っても右と左では太平洋戦争に対する考えが異なることを知っていたのに、上述したような事に思い至らなかった。本書から新たな見方を得ることができたので、今後は歴史に関するものを読む際は今までよりも良い吸収ができるだろう。感謝。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“色メガネについて考える”

本書を読んで改めて痛感したのは、私の当たり前は、必ずしも世の中の真実ではないのだということである。まず、日本書紀は民族の起源を語っていたわけではなく、皇室の君主権の起源を語っていたに過ぎないという解説は目から鱗であった。なぜなら、国家や国民という概念を前提にしている現代日本人の私は、日本書紀は当時の為政者がこの国の起源や民族の起源を記すことで、未来の日本国や日本人のアイデンティティなるという壮大、大局的な目論見が含まれているのだと思い込み、更には彼らに対して敬いや感謝の気持ちを抱いていたからだ。ところが、著者はそんな訳はないという。国民国家や民族という観念は十九世紀から二十世紀に発生したものなのだから、彼らに日本国や日本人という大それた意識は持ち得ないというのだ。また、本書中の元々西ヨーロッパには国境はなく、近代に人工的に引いた国境のこちら側とあちら側に、親戚が別々に在住するという状況は不思議なことではないという解説には思わず膝を打ったのである。なぜなら、現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻や先々月の課題図書で解説されたボスニア内戦は民族分布が大きな原因となっていたにもかかわらず、海という国境に囲まれた、同一民族が当たり前の日本人である私には民族分布の問題が腹落ちしていなかったからだ。こうして見ると、私は自身の当たり前という色メガネをかけているがために、時として世の中の真実が見えなくなっていたのである。

まず、自身の当たり前という色メガネは何かというと、それは一人の人間が持つ価値観のことになる。そして、価値観は、往々にして学校教育や家族、友人など、一個人を取り囲む環境や社会常識から構成、醸成されていくのだ。例えば、上述した日本の起源や西ヨーロッパの民族分布に関する私の間違った認識の背後には、学校で教わった歴史や地理の知識、または親や友人の歴史観や思想、さらに社会常識を統合し、構成された価値観があるのである。そして、言わずもがなであるが、生まれ育った環境も、現在いる環境も、人それぞれなのだから、自身の当たり前という色メガネもまた人それぞれなのである。そのことについて地球儀を俯瞰するように、タイムマシンで歴史を遡るように時間と空間を広げ、想像し、思いを馳せた時、その無数の色メガネの存在に名状しがたい気分になるのは私だけであろうか。そして、この人々が各々の色メガネをかけていることが、著者の述べる『よい歴史』即ち“史料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明”(P.220)が生まれてこない証左なのではないだろうか。なぜならば、自身の当たり前という色メガネを通して世界を見ることで、真実を見誤り、論理の一貫性を保てない状況は事も無げに起り得るからだ。

それでは、色メガネによる真実誤認は大きな問題になり得るのだろうか。本稿の冒頭で述べた遠い過去の日本書紀や遠い場所の民族分布について、真実を見誤ったところで大きな問題にはならないだろう。せいぜい無知をさらけ出すことで、恥をかく程度ではないか。一方で、もっと身近に起きている日本の社会状況の変化、例えば、円安が象徴する国力の低下や押し寄せるインフレなどの現状について、色メガネが原因で真実を誤認し、未来に向けて従来とおりに振舞っていればどうなるか。おそらく、海外旅行にも行けなくなる、物価の継続的な上昇で生活が苦しくなる、更には所有する資産価値が激減する状況にさえ陥るという大きな問題になり得るのではないだろうか。ならば、このような惨事に陥らないためにはどうすれば良いのだろうか。それは、自身の当たり前という色メガネが、時として真実を誤認させるということを認識し、注意を払うことだと私は考える。なぜならば、その状況に気づくことさえすれば、その後は対処を考え、振る舞いを変えることができると思うからだ。ただ、ここで自身の価値観である色メガネがどのような時に真実を歪めているのかに気づくのは難しいことではないかという意見があるかもしれない。譬えれば、隠し絵である「妻と義母」の中から1人の女性に囚われず、もう1人の女性を見つけるということを普段の日常でできるものなのかと。

私の答えは是だ。従って最後に、色メガネが真実の誤認を生んでいる状況に気づくための2つの方法について述べる。まず1つめの方法は、私が本書を読むことで日本書紀と西ヨーロッパの民族分布に関する真実の誤認に気づいたように、良書を読むことだ。読書好きな人であれば、良書を読むことが如何に自身の見ている世界を拡げ、様々な気づきを与えてくれるかは合点がいくところであると思う。やはり、多くの本を読み、良書と出会うことが人生を豊かにするための王道なのだ!そして、もう1つの方法は、人格の幅が広く大きい人の行動を観察したり、考え方から学んだりすることである。このような考えに至ったのは、本書の『結語』で、「よい歴史」が書ける人の解説を読んだ時だ。著者は「よい歴史」を書ける人とは、多くの経験を積み、色々な人の立場に立つことができ、そして豊かな個性を持っている、即ち、人格の幅が広く大きい人なのだという。この様な人は道徳的価値や功利的価値に惑わされることなく、憎まれることも恐れずに「普遍的な個人の立場」になって物事を一貫した論理で説明ができるのだという。私は、このような人こそ観察し、学びの対象にすることが人生を豊かにすることだと思うのだ。自身の色メガネは誰しもが持っているものであり、そして時として、真実を誤認することで問題を起こす。ただ、自らがどう行動するかを選択することで対処はできるのである。

~終わり~
 
投稿者 wapooh 日時 
歴史とは何か -岡田英弘著-を読んで

『歴史とは物語である』
物語である以上、読み手となる人々が興味を持ち、愛着を育て、周囲の人間と共有し、代々伝え次ぎたいと思うものである。それは仲間意識であって、守るべきものがあって、共通の益があり、自分や家族の命(存在=アイデンティティ)に誇りが持てて、かつ自分たちの外側から身を守るための安心安全となる物語。
世界で一番のベストセラーは、「聖書」と言われている。
聖書が歴史であり、古い美術は聖書を表していた。
音楽も、医学も、天文学も宗教と関連がある。

冒頭で、『インド文明は歴史の無い文明であり、イスラム文明も、基本的に歴史の無い文明である』と記載があり、え?と驚いてしまったのだが、著者によるとその理由は、転生の思想によるという。また、命の繋がりに人間と動植物が入り乱れたり、人間界と魔界が入り乱れて、どれが現実か混とんとしてしまうからだとある。
確かに、『歴史』の教科書といえば、まずは年表。時系列を一直線に引く。そして、言葉で埋めていく。

著者によれば、歴史が成立するための前提条件として、『直進する時間の概念と、時間を管理する技術と、文字で記録を作る技術と、物事の因果関係の思想の四つ』という。
これを読んでふと思ったのは、イギリスと日本。どちらも小さな島国から成り立ち、長い歴史を持つ王室を持つ。地続きではないから攻められにくく、国を閉じることが可能。
記録を守ることも可能。長い間使われた言語は多様な表現と単語数、文法を成熟させることができるから、多様な事象について、表現が出来る。多様性は、多様な人間の感情(=背景に文化や宗教があるだろう)に適応することが可能なツールとなりうるだろう。

本書を読みながら、会社の研修で中国に駐在しておられる先輩から聞いた言葉を思い出す。「彼らはもともと文字を持たないんだよ。全部口伝。何故なら文字に残すということは、敵が解読すれば、戦略も情報も知られることだから。」
文字に残せず、口伝ならば聖書の様に国を超えて広く伝わることはないだろう。やがては消えていく。

語り継げる内容があり、命の繋がりがあり(明確で)、持ち運んでどこでも目にして手にすることが出来て、伝播することができるということは、文字を介在させている。
文字を残すために、また世界中に普及させるためのトリガーは、紙と活版印刷だと思い出した。それは再現性という科学の世界に通じる産物だ。
紙も活版印刷も中国を起源としているが、取り入れて普及したのは西洋の文化というのも面白い。

科学が発展し経済が豊かになり、大戦もなく平和な国家があって歴史が生産されて普及して継がれてきた。
「はじめに言葉あり」その通りであり、「言葉を表す文字があり、現実を時系列に記録するとともに読み手にとって魅力的に記憶させる物語を記す書物あり。」

本書の後半で「今の我々にとって、自国が他国に制圧されて国が消失し、言葉が失われたとしても、「自分達の出自を新しい国がルーツだとは言わないだろう」というのは、国が書籍で一度は記録されたものだからなのではないか?と感じた。逆を言うと、文字として認識されない言葉は残らない。たとえば、携帯電話や掃除機、薬にしても、再現性のある物質に対して各国の言語で記されたマニュアルがある。
記憶されたものは、再現できる日が来れば、また蘇るかもしれないが、国として復活し普及するかと言えば、疑義がある。歴史は失われる。

有難うございました。
 
投稿者 H.J 日時 
歴史というものを俯瞰してみると、ここまで論を広げることができるのか。
と驚いた一冊だった。

最初に歴史というものを『人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである(P10)』と定義付けた上で、
歴史のない文明や中国文明、地中海文明等の世界の文明から日本文明、神話にまで話を広げ、最期に現代史や国民国家の話をまとめあげている。
これが僅か222ページの内容か?と思うほど濃い一冊だ。
これだけでも凄いと思いながら、背表紙の著者のプロフィールを確認すると専攻は中国史、満州史、モンゴル史、日本古代史。
確かに本書の中でも特に熱が入っていると感じた部分である。
中国文明が大切にしてきた正統の観念から丁寧に説明してくれてるので、中国文明に詳しくない私でも理解できた。

本書の中で繰り返し伝えられてることを抽象化すると”偏った見方をしない。”であると言える。
それは22ページの『歴史は、自分の立場を正当化する「武器」になる。』や107ページの『おもしろければ、ほんとうだ、あるいは心の琴線に触れるからほんとうだというのは、それだけでは、ずいぶんと危険なことだ。』のあたりからも言える。
そして、日本での馴染み深い三国志の例を出し、212ページに『外部の世界がない、内側だけの歴史などというのは、歴史ではない、と言ってもいいのではないだろうか。』と結論付けている。
本当にその通りだと思うし、長年歴史を研究しつづけた著者が言うと説得力が増す。
しかし、”偏った見方をしない”と言っても限度はある。
なぜならば、219ページで著者が述べている様に『人間というものは、自分の経験を書くとき、かならず個人の好みが入る。』であり、個人の好みが入った歴史を我々が確認するからである。
歴史というものがそういった特性がある以上、避けられない問題である。

では、その偏った見方をしないためには何をするべきだろうか。
やはり、沢山の歴史を確認し、自分の頭で考える。しかない様に感じる。
結局、歴史というものが個人の好みを反映されたものだとすれば、そこに微差が生じるはずだからである。
沢山の歴史を確認することで微差を発見し、自分なりの答えを出し続けることが大事な様に思えるのだ。
なぜならば、その歴史を直接体験していない以上、100%の真実を知ることは不可能であるからだ。
例え、その時代に生きてもその場にいないと真実などわからない。
それは、現代で言うところのウクライナ戦争を例に取っても言える。
マスコミやネット等の情報でいくら知っても、それが真実とは限らない。
結局は一個人が認識する程度の真実でしかないのだ。

つまり、歴史を学ぶことの目的は、真実を知るというよりも頭で考えた答えを出して自分なりの答えをアップデートするである様に感じる。
自分の頭で考えた答えと史料に相違点があれば、それは新たな発見となり認識をアップデートすれば良い。
それを表してるのが、著者が最初に定義付けした『人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである(P10)』である様に感じた。
そして、それが歴史の楽しみ方なのかもしれない。
 
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投稿者 sarusuberi49 日時 
本書によれば、歴史には、良い歴史と悪い歴史があるという。悪い歴史とは、イデオロギーの対立や民族紛争を生み、戦争を正当化してしまうものである。つまり、歴史が自国の立場を正当化するための便利な道具にされてしまうのだ。この悪い歴史こそが、最近の痛ましい国際情勢の要因の一つとなっている。例えばウクライナ侵攻を正当化しようとするロシアのプーチン大統領や、ウイグル人弾圧を続ける中国共産党が、国際世論から非難されているのも関わらず、自国民からは支持されている現実がそのことを如実に示している。

その一方、良い歴史とは、外部世界と切り離された国史ではなく、世界史の中で各国が相互に働きあい、関わり合う中で起きた偶発事件の積み重ねを、中立の立場で書き起こしたものである。そこに政治的な目的や時の為政者の意図は介在しない。そんな良い歴史には、文化や個人的な好き嫌いを超え、異なる立場の人々を互いに納得させることができる力があり、利害対立さえも中和できるポテンシャルを秘めているとのことである。

つまり我々は、悪い歴史に熱狂し、国家権力や時の為政者の狙い通りに流されてしまってはならない。悪い歴史の中に潜む権力者の意図を見破り、批判的に克服できるよう精進すべきである。加えて良い歴史を学ぶことにより、世界と調和する方法やより進化した社会の仕組みについて想いを巡らせるべきである。その為には、良い歴史の意図を正しく理解する必要があるが、単に知識として事実関係を学ぶだけでは不足で、心を豊かに広げ人格を磨く努力が必要であると考える。

私がそう考える理由は2つある。1つ目の理由は、良い歴史というものは、完全に公平な普遍的個人の立場から書かれており、個人的好き嫌いや国家の利害関係と衝突しやすくなってしまうからである。そのため、「良薬は口に苦し」と諺にもある通り、有益であるがゆえに痛みを伴うことは否めない。結果的に、世間からはさほど歓迎されないという性質を持っており、誰にでも理解できるものではないと考える為である。

2つ目の理由は、良い歴史を書く歴史家は、人格を磨く努力を怠らないからである。
著者によれば、個人の視点を超えた普遍性ある歴史を書くコツは、その歴史家が他人の経験にどれぐらい自分を投入できるかにかかっているという。どれほど博覧強記で文章の技巧に優れていたとしても、本人の人格を超えるものは書けないとのことである。これは何も歴史家に限ったことではない。それはすなわち、読み手側にも同じレベルの人格が求められるということになる。

しかしながら、我々読み手に対する著者の見解は手厳しい。本書には、「大多数の人間は、自分がしていることも自分でわかるだけの頭もなく、自分の生き方を自分で決める強さもない。つまり民主主義に向かない。」(p.172)という記載がある。これは耳が痛い指摘ではあるが、重く受け止めるべきである。そして、自分の意識を持たず周囲に流されていることにも気づけない大多数の集団から向け出して、良い歴史についてその成立経緯や歴史家の意図を読み解く知性を磨きたいものである。その為にも、我々は人格を磨く努力を継続すべきであろう。

著者は「人格を高めないと良い歴史は書けない」と断言するが、これは裏を返せば、良い歴史を理解するためにも、人格の高さが要求されるということになる。その為には、知識ばかり詰め込んで頭でっかちになってはならない。なぜなら歴史家というものは、手元にある記録を鵜呑みにするのではなく、なぜこんな記述にしたのか?書いてある文字の行間に潜む隠れた歴史家の意思を読み解かねばならないからである。為政者の命で仕方なく誇張した歴史を書かねばならなかった時代の歴史家達の、文字にならない心情を汲み取り、書かれたメッセージを鵜呑みにせず、根拠の信頼性を一つ一つ試しながら、自分の人間としての感覚に照らし合わせて、信じるべきものが何なのかを探りあてるのである。このような探求が人としての人格を磨く一助となっているのであるから、一読者としての我々が学べる点は大いにある。

著者は人格の幅を広げる方法として、沢山の経験を積むことと、多様な価値観を持つ様々な人と交流することの2つを挙げている。人格を磨く努力とは、歴史学者のみの課せられるものであるはずがない。夢を叶え幸せになりたいと願うなら、誰もが目指すべき高みであると言える。よって、我々も、同じ方法を取り入れるべきであると考える。具体的には、多くの経験をして自分とは違う人々と沢山交流し、人間同士というものがどれほど多様な異なりを持っていて、歴史として一括りにまとめることは到底不可能な程の振れ幅が存在することを知るべきであると考える。

つまり我々は、不断の努力で人格を磨かなければ、良い歴史を理解することができず、歴史からの学びを活かし、自分の意思で人生を選択することもできず、流されてしまうといえる。雰囲気に呑まれ権力者の意のままに操られてしまう国民の末路は、厳しいものになると言わざるを得ない。なぜならば、これまで200年続いていた国民国家が限界を迎え、時代遅れとなりつつあることが本書で指摘されているからである。その理由の一つが、人はもともと能力に差がありすぎることであるという。テクノロジーの進化により、誰もが容易に欲しい情報にアクセスできるようになった現在、人の能力差はどんどん広がりつつあ理、もはや国家という大きな傘の下で国民が一致協力し、国家のために奉仕するような価値観は受け入れられなくなりつつある。現在の国民国家体制の終焉がいつになるのかは分からないが、良い歴史を理解できるだけの人格と知性を磨くことで、危機に備えることができるのである。