ログイン | 新規登録

第6回目(2011年10月)の課題本

 

完本 梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史

 

世界史的に見て、『日本の奇跡』と呼ばれる事がふたつあります。 ひとつは明治維新後の急速な近代化。もうひとつは戦後の急速な復興と経済大国化です。

この理由を論じたものは、書籍として刊行されていない雑誌の記事なども含めれば数千はあるでしょう。 しかし、これらの多くは視点が短期的、局所的で全体像が腹に落ちた気がしないのです。 その時に出会ったのが本書です。

日本人が書く日本人論で、ここまで視野が広いモノはあまりありません。 日本に生きているのであれば、日本の事をもっと知っても損はありません。 読めば読むほど、『日本人、スゲぇ』と唸らずにはいられませんよ。

 


【しょ~おんコメント】

今月は12名の方が投稿して下さいました。

「YS08」さんが先月同様、長文の感想でしかも他の文献をいくつも引用していて、本当に良く読み込んでいるなぁと感心しました。

ただ、論旨が感想と言うよりは本書の検証に偏っている気がして(特に富山の薬売りのあたりが)泣く泣く外しました。

で、全体的なバランス(文字数や内容の両方)を考慮して、「yamag」さんに差し上げる事にしました。

欲を言えばもう少し深掘りしてもらうともっと良くなったと思います。

 


頂いたコメント】

投稿者  nakajirou 日時

非常に多岐な内容に渡り、示唆も多い名本だと思いました。
私の印象に残ったのは以下の2点です。

1.日本人は人間関係、コミュニティに属することを重視する。西洋の個人主義の訴えるところは「エゴイズム」に近いものになり日本人に相容れなくなる場合が多い。

2.しつけや性教育といった、現代の教育機関が教えない最も大事な部分はコミュニティが一致して青少年の教育に当たっていたのが日本の歴史である。

本書を読んで、第二次世界大戦後の日本が進化したのは、敗戦国となった故に西洋のこれまでと違う思想を取り入れざる得なかったことと、会社というコミュニ ティに属することで経営陣と従業員が文字通り一つの家族となって会社の発展に協力してきたことではないかと思うようになりました。

新しい発想とこれまで培ってきた家族的な手法をうまくブレンドでさせたことで日本は戦後の奇跡とも言える成長を達成したのではないでしょうか。

逆にこの10年の日本は西洋の実力主義的な人事主義を取り入れ、リストラ・レイオフも当たり前、非正規の雇用を増やし、効率的経営の名をもとに家族的経営 要素をトコトン追い払ってきました。日本企業が活力を取り戻せない要因も自分たちの本質に合わない考えを取り入れ過ぎてきたからではないでしょうか。

後書きにも、日本は戦争に負けたのだからアメリカ人の食べているパン食の方が和食より優れていると科学者の間でも極端な考えになったことがあったが、後日和食の良さを認めたのが他ならぬアメリカ人であったとの記述がありました。
日本人には外来の思想をそのまま受け入れるのではなく、いい所を取り入れて自分なりのものを作り上げるのが得意な人種であり、西洋の思想をそのまま鵜呑みにしてはいけないのだなと感じております。

この本を読んで自分の行動にどう当てはめるのかは難しい点がありましたが、個人的に今東京に住んでいるのを、将来は田舎である関西に戻った方がいいのではないかと考えるようになりました。
特に子供が出来た際は、妻も関西出身の人間ですのでお互いの両親の近くで暮らしたほうがベターだと思っていたのですが、本書を読んでいよりその思いを強く持つようになりました。家族であれ何であれ、つながりなしには生きていけないのが日本人ですので・・・

 

投稿者  hira1223 日時

私の住んでいるところは田舎です。
いろんな村の風習や云われなどがいくつもあります。
風習や云われなどにどんな意味があるのか
わかる人は、村の中にもごくわずかです。
自分たちの世代は、
とりあえずやっておこう。
まわりがうるさいからやっておこう
ってぐらいしか考えていません。
こんな状態だから、忘れることもしばしば

この本をよんで、昔の人は
衣・食・住・風習など日本の風土に対応できるようなものを
作りあげてきたんだとわかりました。
最近では、新しいものが出て、ちょっと便利だと古いものはすぐに捨ててしまいます。                                                                                                      
本当に捨ててしまっていいのか。
それには、日本人の知恵が詰まっているはず。

西洋文化が浸透し、先進国になった日本だから、
東日本大震災であれほどの被害を被り、いまだに復興できていないのかもしれません。

東日本大震災が江戸時代に起こっていたどうなったんだろう。
被害はもっと小さいのか?
どれぐらいで復興できたんだろう??
そんなことを考えさせてくれる一冊でした。

 

投稿者  koro 日時

農耕民族が培った
求める前に、まず与えるという「相互信頼」

子供の頃(20年くらい前)、山で野菜の無人販売小屋を見たとき、
子供ながらに「盗られないのかな?」思っていた事を思い出しました。                                                                                                                      
「相互信頼」の考えは、だいぶ薄くなっているのかもしれません。

日本において「相互信頼」の意識が薄れてしまったのは、
敗戦後の資本主義によるプロパガンダだけでなく、
急激な人口増加によって、人口密度が高くなり、
人との付き合いが煩わしくなってしまったという事も
背景にあるのではないかと思いました。

世界との繋がりがより密接になりつつある現代に於いて、
国が閉じられていた時に構築された「相互信頼」の考えが
合理的であるとはなかなか考えにくいですが、
全世界で「相互信頼」をスタンダードにする事が
できれば素晴らしいと思いました。

また、日本はこれからも自動販売機を設置できる国で
あって欲しいと思います。

 

投稿者  akiko3 日時

「完本梅干と日本刀」を読んで

著者紹介の写真の目元が、なんともいえない優しさがにじみでていて、でも、そんな中に鋭く光る眼光も…(気のせいか?)
読んでいて、何度となくすごいな、すごいなとその着眼点とか、柔らか頭に感心した。単にあれ?と思うだけでなく(実際にはそう気づくことが一番出来そう で、出来ないことと思うが)、疑問に思ったことに仮説をたて、とことん調べて裏をとる緻密さ。素晴らしい!学問とはかくあるべきという姿勢も学べ、本当に 奥深い本だった。その上、読み終えると、なぜか晴れ晴れとした気分ではないか。あー日本人のDNAが流れてるんだ、そんな自信のようなものが沸々と湧きあ がる。しかし、トラの毛皮をきた羊にならぬよう、DNAに恥じない生き方をせねば…
他にも、元気が出た理由は、この本が出された頃、(信じられないが)「米の飯を食えばバカになる」という迷信が科学者の口から語られており、西洋に傾倒し つつあった多くの日本人に日本の習慣が深い英知に支えられた民族文化であったことを教え、文化的閉塞感を打ち破ってくれていたからだ。このことは、樋口先 生こそが、日本人としての魂、子孫に対する深い愛情をお持ちだからだ。先生がこの本を書いた心が、まさに本に書かれていた強い共同体の中の一人として、自 らの利益(知りたいという探究心)、共同体の利益(先祖に対する敬意と自己に対する敬愛の心を育む)を大切にしているからではないか。なんだか幸せだなー と受け継がれていることの温かさに心が開放的になった。

以前、宮沢賢治さんが、友人などに書いた手紙をまとめた本(「賢治の一生」という本だったと思う)を読んだ。それを読むと、宮沢賢治=偉大なる童話作家 ではなく、音楽や詩や童話や生徒や近所の人たちを愛した一人の青年が、理想に燃え、親にも反抗して家出したり、挫折も味わいする成長の過程で、もがきなが ら自分の中の大切なものを問い、一生懸命生きた一人の青年という当たり前の事実に気づかされた。自分の中から出てくる思いを音楽や言葉に表現するのが楽し くて、謙虚を意識しつつも、時には抑えがたい我が才能に対する高ぶりを抱きつつ、恥じ入る。病に伏せながらも、自分の持てる知識が周りの農民の為になるな らと農業指導をする。その心がまさに「雨ニモ負ケズ」に込められ、“そういう人に私もなりたい”という叫びを抱いて生を全うした人。その足跡が、人々の心 にいつまでも色あせることなく響き続けている。決して彼が童謡作家になろうと、100年のちまで評価される人になることを意識して生きていた訳ではない。 それは目から鱗の感覚だったのを覚えている。
現在、私が存在しているのは、多くの恩恵ゆえ、歴史という帯の上に刻まれている何億という魂の連鎖。本の中に生き生きと描かれた時代、時代を生きた人 達、一人ひとりが自分の人生を生き、生み出していった知恵や文化。特に日本の文化の多くが、負から苦労して生み出されたものだと知ると、ますます過去に歴 史に対し、感謝の気持ちが沸き起こってくる。
感謝は、人に対してだけでなく、何か偉大なものに対しても向けられる。特に日本の歴史の不可能を可能にした背景には、運命という応援が入ったからだと思 う。一心不乱の努力、自分(道徳)に対する誠実さ、それが他力の応援を引き寄せ、神業という結果になった。それは、本の中で紹介されていた本居宣長の考え “神、人間、自然と人間、上下関係がなく、それは日本人が持ち続けた自然観”からも確信した。神業をなしえたのは、そういう神、自然との一体感があったか らではないか。
そこで思い出した。以前、詩人の石垣りんさんが対談番組中、自分は布をはった太鼓のようなもので、天から言葉がぽーんと降りてくるから、いつでもいい音で響くように、自分はただ布をぴーんと張って待っているだけという話をされていた。
私も、まずは、自然体(きれいな心)で生きていきたい。なかなか難しいけど…。

心を磨いて、「何を必要とし、何を学ぶか」自らちゃんと選んでいきたい。そう思うとつい周りをキョロキョロしてしまいがちだが、以前、ホクレア号(伝統的 航海術でハワイから日本に来た)の乗組員と話した時のことを思い出した。航海中、彼女は何十日も海ばかり見て過ごしていた。そうすると、陸にいる時は外に 外に情報を求め、自分に足りない、足りないと思い必死に取り込んでいたのに、海の上では、不思議と玉ねぎの皮をはぐように、今が120%なんだ、今が満た されている、今の自分が自分なんだという沸きあがるような気持ちに気づいたと言っていた。陸で生きているといろいろな情報に惑わされる。自分の人生なの に、人マネになっているかもしれない。自分は自分、今がパーフェクトという思いを常に再認識しておこう。
身土不二的暮らし
今が自分のパーフェクト!と自己満足、オタク的幸せ実感法。いろいろ表現はできるが、昔の人が自然と共存し、助け合って生きていたように、私も出来るだけ 季節や旬を味わい、昔からの知恵を活かした暮らし、身近な人達との共存共栄をしていきたい。そういう自分の中からの思いは、興味深い人達との交流へと楽し く導いてくれている。歴史や人生を振り返り、反省すべきもあるが、全てが学びとして、とにかく、今に感謝という思いだ。いい本に巡り会えたこともこれまた 他力が導いてきたご縁。本当にありがたく思います。

おまけ(文化の融合?!はたまた猿知恵か?!)
熟柿は、ぐちゃっとなって食べにくいのだが、日本人のDNAが閃いた?!ちょっと凍らせて、凍りかけに十文字の切り込みをいれ、オレンジリキュールをかけ、スプーンで食べたら、食べやすくオツでした。お試しあれ♪

 

投稿者  BruceLee 日時

「国際人に、今だから必読の書」

ポイントは2点あります。1点目:国際人として。
私は日本企業の海外営業出身で、また現在は外資系グローバル企業に勤める者ですが、外国人との会話の際、日本の事を知っているようで知らない自分に気付か される事が幾度かありました。その度に勉強してきたのですが、その意味本書は目からウロコです。日本人やその文化・社会・教育、経済等の知られざる(?) 素晴らしさの数多が、詳細・背景と共に一挙に吸収出来るからです。「もっと早く読みたかった」と何度も思ってしまいました。私の周りの外国人だけかもしれ ません(?)が、この本に出てくるような話、皆興味津々で聞いてくれる筈です。
よって、国際化の波の中で生きる人は勿論、まだ国際経験の少ない若い人も必読と思います。真の国際人とは自国を理解した上で世界と語れる人だからです。 「国際人なんか目指してない」という声もあるかも知れませんが、好むと好まざるに関わらず、今後のビジネス界で国際感覚の無い人は淘汰されます。ユニクロ や楽天を始め、現在国内主流の業界でも活路を求めて外に出で行かざるを得ないからです。また今後アジアを中心とした観光客が更に来日するでしょう。その 際、言語以上に大切になるのが日本人としてのアイディンティティ、つまり中身だと思うのです。
反面、本書の「まえがき」にあるように「欧米に対する劣等感から、非欧米的な形をとるものは、なんでも価値低きもの、したがって、日本特有とか、日本伝統 とかいうものは、全て前近代的で低価値のものと錯覚する傾向もある」という面も日本人は持っています。ただ、個人的にこれからは(私としては既に)、その 感覚は通用しないと思います。世界的視点で、良いものは良い、悪いものは悪い、とされるようになってきたからです。だったら日本の良い部分を吸収して、そ れを武器にしちゃいましょう!と思うのです。

2点目:今だから。
このタイミングで読み始めたからか、ずっと頭から離れない一文が最初に出てきました。「私たち祖先が、生きていくための知恵の原点としたのは、まず“自然 の力は征服できない”ということだった」です。先人は台風や地震を避けられないこの島国で、どうすれば快適に暮らせるかを考え、「自然に順応していく方法 を探す」とあります。翻って現在、真逆をやっている事がありますよね?そう、原発です。地震を避けられない国に絶対的安全など有り得ず、自然の力を軽視し た現代人の慢心である事が東日本大震災で明らかになりました。それでも、是が非でも事実を認めようとしないからゴマカシになり、ウソになり、挙句の果ては 情報隠しになる。そして本当の被害が明らかになるのは福島を中心とする子供達が成人してから。そんな事をやっているのが今の日本です。震災後、多くの海外 の同僚から放射能について心配されました。世界の方が敏感、ではなく我々に情報が来なかったのです。海外の一定の知識層からは「カワイソ~な国民」と見ら れているのかも知れません。
それら含め今後日本は注目を浴び続けるでしょう。明治維新後の近代化、戦後の経済大国化、そして次は「今」のような気がしています。何故なら国力=日本民 族の団結が必要な時だからです。だから日本の凄さ見せましょう!一人一人が国際人としての視野を持ってこの素晴らしい国を再生しましょう!元々素晴らしい 国なのは本書が証明してくれているのですから。

追記:あちゃ~。過日、広瀬隆さんの講演拝聴したばかりなんで・・・2点目、やけに力入っちゃいました。

 

投稿者  whockey51 日時

まず、これほどまでに私たちの住んでいる日本という国が
叡智に富んでいるとは思ってもみなかった。この素晴らしい
智恵や道徳観を未来につなげていくことこそ、いまを生きて
いる日本人の役割ではないかと思う。

いまの日本は古来から持っていた自分たちの叡智を否定し
て、外にある良いと思わされているものを必死になって得よ
うとしている。教育に関しても英語を習得しなければ、論理
的思考を身につけろ。などと、あくまでも自分たちが劣って
いるからこそ貪欲に身につけていかなければならないとされ
てきている。はたしてそれが正しいのか。

それをこの本を読むまでは疑問に思っていたが、読み終え                                                                                                                            
ると、そうではなかったことに気づかされた。

例えば著者が主張している点で共感できるのが以下の3点である。

1、日本人の精神構造の奥深くに定着した相互信頼感、共
同体意識は、たとえ共同体そのものが崩壊しても根強
く残るほどになっている。
日本人がこれを失ったら日本は崩壊すると思う。

2、子どもは一組の夫婦の子どもというより町の子どもと
いう意識が強かった。いたずらがすぎると、他人の家
の子どもでも、厳しく叱る。そうすることで、子ども
が社会から脱落するのを未然に防ぐのである。

3、上がってはいけない、使ってはいけないという一見、
ムダに思える床の間は、それを居住空間にとりこむ
ことによって、精神的なゆとりや、思考の”間”を
育てた。


1に関して、3月11日に起こった震災によって、日本
人にとって相互信頼感と共同体意識があるからこそ、この
国難に立ち向かっていくことが出来るのだと思う。

震災直後の混乱の際にもきちんと列をなして買い物をす
る。こういった様を見ると、こういった概念をなしている
からこそ、日本という国をなしているのではないかと考える。

2に関して、いまの子どもたちは知らない人と話をしては
いけません。と、なっている風潮がある。だから、たとえ毎
朝見かける人であっても何らかの接点を持っていなければ、
それは彼らにとって知らない人になってしまうのである。

そうすると、彼らに関わるのは非常に難しくなってくる。
叱るという道義上、正しいことをしたとしても、子どもたち
にとっては知らない人から受けた指摘として、たんに流され
てしまうことになってしまう。今日の報道ニュースを見ても、
より社会とのつながりを持たない子どもが増えてしまったが
ために起こってしまっている問題が多いのではないだろうか。

3に関して、社会全体で合理化が推し進められている中で、
美意識と呼べるものが欠如していっているように思える。ム
ダなものも含めて美意識とするならば、それを捉える事がで
きなくなっている私たち日本人の心の豊かさが低下している
ことが原因ともいえるのではないか。

最近でいうならば、断捨離が流行したが、ムダなものを置
いておいたスペースに生まれるムダなスペースこそが心の豊
かさを取り戻すために必要なことなのかもしれない。

全体として3つの点を挙げさせていただいたが、私自身、
教育サービスという仕事にさずさわせていただいている中で、
感じたことを挙げさせていただいた。

いまを生きる子どもたちと接していて、何をなすために生
きるかをわかわないまま大人になってほしくないという思い
からである。

政治は混乱を極め、経済は停滞し借金は1000兆円にも
上り、毎年3万人近くの方が自ら命を絶っている。そして、
歴史上例を見ない大震災に見舞われた中で、それでも明日の
日本を創っていくために生きていかなければならない。

日本人として何をしていかなければならないのか、日本と
いう国は今後世界で、どういったリーダーシップを発揮して
いかなければならないのか。

それをこの本を読んだことによって見えてきたことを確信しました。

 

投稿者  minoru 日時

日本人はいつから日本の文化の素晴らしさを正しく認識できなくなったのでしょうか?かくゆう私も、最近までは、その一人でした。

ビジネス書を始め様々な本を読んでも、テレビを見ても日本の素晴らしさは私には伝わってきません。アメリカを代表とする欧米の文化やシステムがすばらし い。それを模倣することが最もよい選択肢だ。そんなメッセージを受けながら成長してきた私は、次第に日本に対する失望と欧米に対する憧れを持つようになっ た気がします。

自国の文化を客観視するには、海外の文化を知る事が重要だと良く聞きますが、確かにその通りでした。最近、仕事で海外に行く機会があり、外国の文化に触れ、その違いを肌で感じることで初めて日本の良さが見えて来ました。

少しずつ日本の良さに気づいてきた。まさにそんな折に、この「梅干しと日本刀」を読んで、思わず「日本人ってすげぇ」と唸ってしまいました。(まさしく、しょ〜おん先生のいう通り!)

例えば、伊能忠敬や登呂の古代人などのすばらしい測量技術。日本刀や様々な食品の開発から江戸という町づくりまで。本当に昔の日本人はすごい技術と知恵を 持っていたことに感服しました。今の私の心境は、いうならば世界で活躍している日本人プロスポーツ選手(イチローなど)を応援し、誇りに思っているような 心境に近い気がします。人間は不思議な物で、自分と同じ国の人が世界で活躍すると、自国に対する誇りや自信が芽生えるものだと思います。(韓国がスポーツ 選手の教育に熱心なのも、そんな人間心理を活用して国の活力を上げることが目的の一つだとか。。。)日本の歴史を勉強する意義がようやく分かってきた気が します。

「重層的な人間関係」を育み、「相互信頼」によって支えられていた、古き良き日本の社会。欧米に憧れを抱き、そんな日本の良さを捨ててきた私たちに残されたのは、孤独な社会のような気がします。
尊敬の眼差しを向けていた欧米の社会も、いまや崩れ落ちる音が聞こえてきてる気がします。今一度、日本人一人一人が自立して今後の日本をどうするか考える必要があるのではないでしょうか?

江戸時代の百姓や町人が救済制度や教育制度を自ら作っていたように、為政者の力に頼る事なく、自分たちの必要なシステムは自分たちの力で作り上げなければ いけないと強く思います。今まで何度も何度も激動の時代を乗り越えてきた日本人。同じ日本人である私たちにできないわけがありません。

誇れる国を作るのは、自分たちの世代だと自覚することができました。

 

投稿者   YS08 日時

完本 梅干と日本刀を読んで


今を生きる我々には様々な権利もあれば義務もある。

この日本、ひいてはこの人類をどのようなベクトルに向かわせるかという課題に対して真摯な心持で臨む事は我々が持つ大きな義務の一つである。

極論すると、自分たちの代でこの人類が終わりなのであれば、人類がどんな愚行を繰り返したとしても気にとめることはないが、そうではない。
自分の人生おおよそ80年間の事だけであれば、世の流れを敏感に感じ取りながら、目の前の選択に対して判断をしてゆけば良いが、100年、200年後の世界にとって良い選択をしようとすれば、判断の難易度は当然高くなる。

井沢元彦氏による本書のあとがきにも書いてあったが、今、理にかなっていると評価されている考え方、学術が後年になってトンデモないものとして認識される例は珍しくない。
現世ではごくごく自然に受け入れられている事が、100年、200年後に大きな過ちだったと指摘される可能性は十二分にあるのである。

後世に悪影響を及ぼすような選択しない為にはどうすればよいのか?

日本の今と昔の「合理性」の変化について、本書の内容を基にもう一度考える事を
この感想文のテーマとするが、これらの考察を行いながら、100年、200年後の後世に
恥じない判断をする為には何が必要かという事も併せて考えていきたい。


P224 津波のエネルギーから街を護った堀川の知恵

この章では、江戸を高潮の被害から守った堀川が紹介されている。
江戸時代には江戸が高潮に襲われた際に、少しでも早く海水が抜けるように様々な堀川を作り、海水の抜け道として機能させていたが、現在の東京ではこの堀川は姿を消し、代わりに東京湾の防波堤が江戸時代より3メートル高くなっているという事実が記されている。

水害に対する取り組みとしては、「100年、200年に一度といういつ来るかわからない大津波の為に、大規模堤防を建設するなんて、事業費の無駄遣い」と して、事業仕分けで某国会議員が大規模堤防の建設事業を廃止した事も記憶に新しいが、江戸の堀川が姿を消した事とこの大規模堤防の建設案廃止の件を併せて 考えると、古今の「合理性」に対する考えの違いがよく分かる。

まず堀川について、これは水害対策として疑いもなく優れたものであり、水害対策の観点から見て非常に合理的なものと言える。
江戸から東京に変わり、その堀川を土地の不足などの理由から埋め立てたという事は、水害対策として合理的な堀川を遊休地としている事が経済的に不合理と考えられたからであろう。
堀川を埋め立てて一般の土地として活用する事による経済効果と、堀川を埋め立てた事による水害被害の経済損失を天秤にかけ、埋め立てたほうが経済的に合理 的であるという判断が下されたからこそ、堀川は姿を消したものと思われるが、先の大規模堤防建設の件においても根底には同様の理論があり、我々はこのよう な理論を目にする事が少なくない。

ところが、この理論には三つ落とし穴がある。

一つ目は変数についてである。
災害の起こる間隔を変数として用意せねばならず、この変数を10年とするのか、50年とするのか、100年とするのかで不等式の解は全く異なってくる。
しかし、人間には大災害が何年後に来るのかなど知る術もない。
つまり、本来は変数が定まらない為に解なしとするところを、無理やりそれらしい変数を当てはめて、解が出たように見せかけているのである。

自然災害という不確定要素が変数としてある以上、堀川を埋め立てたほうが良い、大規模堤防は作らなくてよいという断言はできない筈である。
土地に窮してしたのは江戸時代も同様であるが、それでもあえて堀川を新たに作り、水害に備えた。
そこには自然災害は人間の想像を超えるもの、予測できないものであるいう自然への畏敬の念があったように思える。

二つ目は人命を経済的に見積もることの妥当性についてである。
堀川を埋め立てる事による経済効果と堀川を埋め立てた事による水害被害の経済損失を天秤にかけるには、堀川があれば助かるであろう人命の経済価値を見積もらなければならない。
しかし、人命を経済価値に置き換える事は妥当なのであろうか。
人命を経済価値に置き換えたとすれば、それは人命を客観視している事に他ならない。
言い方を変えれば、「天災によって亡くなる人命は、自分以外の誰かのものである」と想定しているという事である。
もし人命を一億と見積った人の目の前に一億と一円が差し出され、これらのお金とあなたの命を交換しましょうと言われた時に、「分かりました。経済的には私が一円得をするので喜んでこの命を差し出しましょう」と言えるのであれば、その人は人命を客観的に見ていると言える。
しかし、そんな人はどこを探しても存在しない。
言うまでもないが、人命は主観の最たるもので、決して客観的には見る事の出来ないものなのである。

百歩譲って変数に無理やりそれらしい数字を当てはめ、人命を客観視できるものとして堀川について経済的な比較をしたとしよう。
その変数(=大災害が何年後に来るか)が、10年、20年という自分たちが生きている時代の範囲に収まるのであればまだ良い。
しかし、変数がその範囲を超えたものであれば、一体誰の承諾を得て経済的合理性の判断を下すというのか?というのが三つ目の点である。

堀川でも大規模堤防でもいい、仮に変数を200年として経済的な比較を行ったとしよう。
その結果、堀川あるいは大規模堤防を不要としたほうが経済的であるという結論を下したとする。
それは一体誰にとっての経済的合理性なのだろうか?
1~199年後までを生きる人にとっては経済的合理性があるに違いないのだが、200年後を生きる人にとっては経済的合理性のかけらもない。
水害対策設備を無くしたほうが経済的に合理的であると主張する人は、一体どのように200年後を生きる世代から了承を取り付けたというのであろうか。
堀川を一度埋めてしまい、その上に建物が建ってしまえばもう二度と子孫は堀川を作り直せないだろう。
これは、結局のところ、自分たちの世代が経済的合理性を享受する為に、勝手に子孫に勘定のツケを回しているという話である。
これを経済的合理性による判断と呼ぶにはあまりにも乱暴で無理がある話である。
確かに今を生きる我々は、目の前の問題に対して何かしらの決断をしてゆかなければならない。
堀川について恥ずかしながら不勉強な為、埋め立てたという行為が正しい判断なのかどうなのか確たる意見を述べる事は出来ない。
しかし、仮に堀川を埋めるにあたり、邪推した通りの経済的合理性の比較が行われていたとすれば、やはり先に述べた落とし穴を認識した上で、判断をすべきであると私は思う。

この手の経済的合理性の比較は本当に多く蔓延しており、原発問題も然りである。
目の前で起こっている経済的合理性の比較に落とし穴がないかを見極め、その上で意思表示をする事が今を生きる者としての定めであると考える。


P451 相互信頼の極限「富山の薬売り」

経済的合理性を商業の切り口で見てみると「富山の薬売り」も大変興味深い。
「富山の薬売り」は販売者が各農村を回って村々に薬を置き、一年後に集金するという相互信用の上に成り立ったシステムである。
一年のうち、364日はある家に対して営業活動をしていないにも拘らず、消費者の日々の置き薬の使用によって売り上げは着実に上がる。
しかも、決済方法も年に一度の集金により、相互信用に基づき使用した分だけ清算という形をとるから、販売者、消費者ともに事務的な手続きのコストが殆どかからない。
販売者から見れば、販売管理費が非常に少なく済むため、利益率も高く、その分、新薬の研究開発費に原資を投下する事が可能で、それが更なる顧客の増加に繋がっていく。
マネージメントの神様、ドラッカーは「マーケティングの理想は営業・販売を不要にすること」と説いているが、「富山の薬売り」はまさにそれを具現化しているビジネスであり、そのようなビジネスが江戸時代からこの日本で成立していた事は注目に値する。

著者は「富山の薬売り」を「隆盛の一途をたどっている」と表現したが、現在はどうだろうか。

日本能率協会総合研究所による「配置薬の市場規模の推移レポート」
http://www2.mdb-net.com/member/report/01380P.html
によると、配置薬生産高は2003年476億円、2004年442億円、2005年380億円と推移しており、現在配置薬市場は縮小傾向となっている事が分かる。

何故理想的な販売形態であった「富山の薬売り」は衰退の道をたどっているのであろうか?

その原因の一つとして、訪問販売のトラブルによる顧客離れがあると考えられる。

少し古い資料ではあるが、
1998年3月24日付の国民生活センター「増加する配置薬の訪問販売トラブル」
http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-980324_1.pdf
によると、消費生活センターが受け付けた配置薬の訪問販売に対する苦情件数は1987年が255件、1993年が344件、1997年が414件と右肩上がりになっている。

トラブルの内容を見ると、強引な押し売り、脅迫というケースが多く、一時的な売上の確保の為にそのような手法を使う輩がいるのであろうが、江戸時代にこれらの行為を行った事が明るみになれば、業界からの破門は免れないという下品な行為である。
これは配置薬業界全体の人格の程度が低下しているという事に他ならない。
いや、配置薬業界全体の人格の変化は氷山の一角だとすれば、大きくは日本国民全体の人格の程度が低下している可能性すらある。
配置薬の市場規模が縮小傾向にあるのは過去の数年にわたりトラブルの件数が増加していた事からも販売者側に責任がある事は確かなのだろうが、それでは一方の消費者側に責任は全く無かったのであろうか?

相互信用の上に成り立ったシステムが維持できていたのであれば、販売者が強引な押し売り、脅迫などを行わなければならない必然性は高いとは思えない。

またもや邪推になるのだが、相互信用の上に成り立っている事を良い事に、例えば使用した薬の数量を正しく申請しないなど、誠実な対応をしなかった消費者もいたのではないだろうか。
そのような消費者がいると、販売者は当然、そのような消費者による損失を事前に見込み、薬の販売価格に転嫁しなければならない。
そうすると当然、配置薬業界の競合力は他の販売形態に対して相対的に低下し、苦戦を強いられる羽目となる。
配置薬業界がそのような状況におかれた為、配置薬の販売員の中に強引な押し売り、脅迫などを行うものが出てきたと考えれば、合点がつく。
これらは推理の域を脱する事は無いものの、かつては確かに存在した理想的な販売形態を今の我々が失いつつあるのは、販売者だけではなく、消費者の人格の低下が原因となっている可能性は捨てきれない。

このような取引形態を失うのは販売者、消費者共に大きな損失である。
何故かと言うと、「富山の薬売り」は信頼コストが限りなくゼロに等しい、非常に優れた取引形態だからである。

一般的に、取引時に二者間の相互信頼が低ければ、販売者はリスクを販売価格に上乗せし、消費者は販売者が抱えるリスク分を余分に支払う事となる。
商品価格は需要と供給によって定めなければならない為、商品価格に上乗せできない場合は原価に上乗せせざるを得ない。
従って、信頼コストが高くなれば、販売者には粗利率の低下、消費者には購入価格の上昇という弊害が生じる。
逆説的に考えると、理想のマーケティングモデルの下で販売者・消費者共に利益を享受するには、取引における信頼コストをゼロに近づける必要があり、信頼コストをゼロに近づけるには販売者・消費者が共に高い人格を備えて誠実に取引する事が必須であるという事である。

信頼コストが限りなくゼロに近いということは、経済的合理性が極めて高いと言えることから、国民の人格の低下により相互信頼による販売形態を維持出来なくなったという事は、国民の人格の低下によって、国民が経済的合理性を失っていると言い換えることができる。

これは経済的合理性を追求する昨今の中で見失われがちな事であるが、国民の人格の向上が経済的合理性を実現する為に無視できない事である、と言う事が「富山の薬売り」の今と昔から読み取ることができる。


P63 味の分類は西洋四味、中国五味、日本は六味
P633 おふくろの味は”家”共同体の具体的表現

最後に、本書の題名は「梅干と日本刀」であるから、食生活における「合理性」についても触れたい。

上記の章を読むと、日本人は味を繊細に認識する事が出来て、その事が知能を高める事に一役買っていたが、現代の日本では食生活の崩壊が起きているという内容が記されている。

昔の家庭は保存食や発酵食品、例をあげれば味噌、醤油に始まり、漬物類、梅干類、魚や野菜の干物を蓄えていた。
これらの食品が主食である米を即時にエネルギーに転換してくれる非常に合理的な副食である事は本書の中でも詳しく解説されている。

このように非常に合理的であった日本人の食生活、別名「おふくろの味」が、近年は化学調味料やインスタント食品により崩壊している。

化学調味料やインスタント食品を使えば確かに手間もかからず、今まで調理に費やしていた時間を大幅に短縮するなど、一見すると確かに「合理的」と捉える事も出来る。
主婦を家事の重労働から解放するという名目の元に、化学調味料やインスタント食品や冷凍食品の販売は隆盛の一途を辿り、今や昆布と鰹ぶしから出汁を取った味噌汁にありつける事などごくごく僅かである。
この潮流は止むどころか更なる加速の様相を呈しているが、今の日本人が選択している食の「合理化」の背景で何が犠牲にされているのかもよく考えなければならない。

まず本書にも書かれているように、化学調味料やインスタント食品の画一的な味に舌が慣れることで、家庭の味というものが無くなり、下手をすると外食のほうが口に合うという事が起こる。
そうすると家はもはや単に寝泊まりする場所となってしまうと筆者は書いている。

家が寝食を楽しむところではなく、寝る場所としてしか認識されないという事は、すなわち家庭からもたらされる幸せが半減しているという事である。
家庭崩壊という言葉を耳にして久しくなったが、家族が揃って寝食を共に楽しめる家庭であれば、崩壊のしようがあるだろうか。

さらに食による労働や健康への影響についてはどうであろうか。
昔の家庭で蓄えられていた保存食や発酵食品と、今の日本人が合理化という名のもとに好んで消費する化学調味料やインスタント食品を比較して、どちらが米のエネルギーを体内に取り込む手助けをしてくれるかと言えば、当然、前者である。

人間の物理的なインプットは飲み物、食べ物、空気くらいしかなく、食べ物の人体への影響力は計り知れない。
再三繰り返すが保存食や発酵食品が米を即座にエネルギーに変えてくれるのだとすれば、前者と後者を口にする人では、その人自身の体内に宿るエネルギー量が全く変わってくる。

ビジネスをするにしても健康を保つにしても、エネルギー量は非常に重要である。
昔ながらの家庭料理を毎日食べてエネルギーにあふれる人が、インスタント食品ばかり食べて粗悪なエネルギーしか吸収できない人に比べて、ビジネスにおいて圧倒的なパフォーマンスを出したとしても何ら不思議ではないし、これを大病をするかしないかに置き換えても同様である。

旦那さんがビジネスで高いパフォーマンスを上げれば、給与が上がり、家計が潤う。
家族が大病をしなければ、家計から無駄な出費が無くなる。

こう考えると、化学調味料やインスタント食品を家事を手軽にしてくれる「合理的なもの」と好んで用いるより、工夫をしながら家庭料理を作り、家族に食べさせることのほうが真の意味で合理的なのではないかと思えてくる。


以上、本書を読みながら今と昔の「合理性」の捉えられ方について、自分なりに振り返ってみたが、今と昔を比較するからこそ気付く事がたくさんある。

今の世で皆が考える合理性だけを見ていてはそこに疑いを持つことも無いし、我々は歩んできた道を後戻りする事が出来ない為、昔の日本のほうが全てにおいて優れているという固定観念を持つこともナンセンスである。

重要なのは、我々の今の物事の考え方、人類の歩み方が過去と比べてどのようなバランスにあるのかと振り返る事である。

大きな歴史の流れの中の現世という小さな点は、大きな歴史と比べて左にブレすぎてはいないか、右にブレ過ぎてはいないか、ここからさらにドライブをかけるべきか、はたまた一度ブレーキを踏むべきか。

100年後、200年後を見据えながら、この日本、この人類をどのようなベクトルに向かわせるのか、一人一人があらゆる面でしっかり自分の意見を持つ事が 大切であると冒頭で述べたが、より良い判断をする為には、歴史を紐解く良書を数多くインプットして、過去と現在を自分の視座で比較する事が何より重要であ る、と本書を読んで痛感した次第である。

 

medal1-icon.gif投稿者   yamag 日時

「完本梅干と日本刀」に出会えたことに、まず感謝します。
梅干先生のひた向きで、日本人を愛し、信じている姿勢が、
見過ごされてしまいそうな、様々な真実の姿を照らし出し、
日本人のスゴさをこんなにも素敵に伝えてくれたのだと思います。
読み進めるごとに、日本人であることがなんとも誇らしくなる、
そんな爽快な感覚が、なんとも心地よかったです。

本書は、自分の根っこの要素である日本人とは、何かということを
科学に始まり、人間関係、教育に至るまで、数え切れないほどの例を
通して、多角的に吸収できる、まさにアイデンティティの教科書の様に
思えました。
他人と交わる前に、自分が誰であるかわからないと話ができないと
うちの会社の国際交流の担当者に言われたことがありますが、
外国に限らず、他者と交わるためにも、己を知るのに適した本に思えます。                                                                                                          

そんな本書のさまざまな例を通して、一貫して、
西洋の文明に対し、論理的、科学的でないとされ、切り捨てられてきた
日本文化が決して劣っていないこと、それどころか、数々の知恵に、
懐の深さを感じ、偉大ささえ覚えました。
理屈で攻めずに、今ある状況を活かし、経験と実践を重視しながらも、
大げさに扱わず、縁起や習慣に知恵を紛れ込ませ、
後世の人にまで配慮したような考え方には、驚かされるばかりです。

そして、特に心に残ったのが、”あるがままを受け入れるという姿勢”についてです。

逆に、ベストセラーになった「これからの「正義」の話をしよう」に代表される様に、
アングロサクソン的な西洋の思考、文化に存在する限界を感じました
そこには、傲慢ともとれる、"排他の思考"と"論理という制約"があるように思います。
清濁併せ呑むではありませんが、白黒をはっきりつけきらず、すべてを受け止める考え方、
そして、思考のみにとらわれず、感覚も大事な要素にできることこそ、日本人の強みだと感じました。
相手を、受け入れられてこその「相互信頼」「地域のつながり」のように思います。

明治維新、そして戦後の高度成長は、"優れた"西洋文明を取り入れた結果、
発展の原動力となった、と習った覚えがあります。
確かに、その一面もあったと思います。
ですが、"優れた"という部分が先行してしまった結果、西洋文明を受け止め、
独自に手元に引き寄せて、発展させた日本の文化という軸を、"劣ったもの"として
切り捨ててしまったのではないでしょうか。
そこに、今の日本の腰の据わっていない弱さ、違和感があるように思います。

肝心の軸となる文化を削ってしまい、借り物の文化に自分を合わせようという現状は、
そこにゆがみを生じさせ、日本人の"おおらかな強さ"を殺してしまっているように感じます。
それを取り戻すことを、私は目指したいと思います。
はっきり割り切らずに、さまざまな存在を包み込める強さ、そして、最も良いものを感じ、見つけ出せる感覚こそ、
これから様々な思考、思想の人々が平和に暮らせる希望になると思うのです。

その為に、私ができることとして、すぐに物事に○や×つけ、決め付けることをやめたいと思います。
まずは、すべてのものに○をつけて受け入れ、謙虚に感じ考えていきます。
もちろん、これは決断を遅らせえるということではなく、まず全てに心を開くという表現が近いと思います。
これが、思ったよりも難しく、思い描くようには、なかなかできません。
ですが、私が本書で感じた日本人に、少しでも近づくことを目指して、取り組んでいきたいと思います。

 

投稿者  TBJ 日時

完本 梅干と日本刀を読んで

今まで「日本人」について深く考えたことがありませんでしたが、この本を読んで日本人に少し触れられたように思います。

日本人の良いところがいろいろと書かれていましたが、本を通じて感じたことは、日本人の学習能力の高さというか、改善能力の高さというか、とにかくいろい ろな経験から学ぶという姿勢です。そしてその姿勢や行動の積み重ねが逆境に立たされたときの強さや回復の早さに繋がっているのだと感じました。

まず、印象的だったのは、自然の力には敵わないので逆らわずに順応するということです。
日本は地震や台風などの自然災害の多い国だからこそ、その力の大きさを感じそのことと向き合いどのように付き合っていくかを追求したのだということです。
それは年貢の取立てでも見てとれ、取立てが厳しくなれば、品種改良して生産量を増やし自分達(農民)の食べる米を確保するといったところにも現れていると思います。
こういったことが、今の日本人にも受け継がれ、今回の大地震のような大きな災害にあっても、現状を受け入れ、次の行動に移す日本人ならではの強さとなっているのだと思います。

そしてもう一つ印象的だったのが、食べることに対しての工夫やこだわりです。
食品の保存や旨味などの日本独自の味、そして見た目の美しさなど、日本人の食への関心の高さには驚かされました。
最近日本の飲食店がミシュランで紹介されていますが、フランスの三ツ星レストランよりも日本の三ツ星料理店の方が多いのも頷けます。

何事にも学びの精神を持ち、どんな状況でも諦めずに工夫し対処するという日本人らしさを私も大切にしていきたいと思いました。

 

投稿者   tayuta 日時

読み進めていく内に、『へぇ~そうだったんだぁ』と思う回数が本当に多い本でした。

自身の中に、今まで無かった知識がインストールされる感覚ってこうゆう事なんだと、読んでいて読み心地がとても良かったです。

今後の生活に活かして行きたいと思えたのは、
普段あまり興味を持たなかった、地域の伝統行事に参加して、歴史に触れてみたいと思いました。

あと個人的にはとても雑食な日本人の説明の中にあった何気ない、普段の食卓にのぼる野菜の煮物に対して、たった一品の中になんて深い歴史があるんだと驚きました。

自分に刻まれているDNAをしっかり自覚して、昔の日本人の様に、異文化の良いところを貪欲に吸収し、より個性的に独創的に学んで行こうと思えた素晴らしい一冊でした。

 

投稿者  miwmt 日時

あたりまえのように食しているお米や、発酵食品。
昔からある建造物、道具。
都市、会社、そして地域という共同体から家族とのかかわり。                                                                                                                        
更には、精神的構造まで。

ありとあらゆる面で日本に、日本人に最適化されて
幸せな、快適な暮らしを営んでいたのだということを
感じることができました。

「過去は、悪いものとして捨て去るためにだけ学ぶものではない。
どんな国民にとっても、一番幸せになる方法が、一番の知恵だと、
私は思う」(P.353)

決して現代の便利な生活やツールを捨てるのではなく、
先人から受け継いでいる(であろう)、建て増し的な発想や
有から違った有を作り上げることに長けた日本人としての
遺伝子が自分たちにも存在しているということに気づかせてもらいました。

また最後に「和魂漢(洋)才」の和魂について作者のいう、
「他人の喜びを自分の喜びとしてとらえ、自分の喜びを常に他人の喜びの中に
見出していく視点を持つ」という箇所に、現在日本人の多くがが幸せでない、
不幸と感じる元があるのかと感じました。あらためて本書から
幸せを感じる心というものを、様々な環境や行事を通じて、過去の日本人は
育んでいたのだということを知ることができました。作者の言われるように
幸せになるために歴史を学ぶことを今後とも続けていきたく思います。


※タイムアップしてしまいましたが、コメント残させてもらいました。