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第24回目(2013年4月)の課題本

 

4月の課題図書は・・

累犯障害者

 

この本は自己啓発でもなんでもありません。

単にノンフィクションとしてものすごく面白くて、そして打ちのめされたので

つい選んでしまいました。


まさに現代社会の闇ってこういうところにあるんでしょう。


とにかく面白くて凄まじい事だけは保証します。


たまには出口の見えない、どんよりした結末の本も良いでしょう。

【しょ~おんコメント】

4月優秀賞

今月は28名の方がカキコをして下さいました。


で読み進めたところ、今回は候補が3つも出て来てちょっと困りました。


常連のBruceLeeさん、wapoohさんに加えて、新たにmagurockさんが残りました。


最初のお二方はいつもながら切れ味の良い文章でしたが、今回はちょっと反則

ですがお身内に障碍者のいらっしゃるmagurockさんのコメントが心に刺さりま

したのでこの方に差し上げようと思います。


なんと言っても、この本を読んで呼吸法と瞑想法(どちらも基本編で伝授して

いる技です)をやったところがスゴい。


多くの方が、幸せについて内省して下さった事で、この本を選んで良かったと

思いました。

 

【頂いたコメント】

 

投稿者 joyfull 日時

「累犯障害者」を読んで 

「累犯」。この言葉の意味が最初わからなかったので、調べて見ると「何度も罪を犯すこと。刑法上、懲役に処せられた者が、刑の終了もしくは免除の日~5年以内にさらに有期懲役に処すべき罪を犯したとき、刑が加重されるもの。再犯および三犯以上を含めていう」。
障害者犯罪の本とは、分かっていて読んでいきましたが、読み終えて何とも言葉にならない胸が苦しくなりました。それは、障害者犯罪の実態、裏側を垣間見て、根の深さを感じ、そして、今の自分に何が出来るだろうかと問いかけても、そういう方々と合う機会があれば、偏見なく接しようという、何ともヒトゴトなことしか、考えつかなかったからかもしれません。
本書の内容からは少しそれますが、大学時代に福祉関係の工学研究をしていたこともあり、多少は彼らを取り巻く環境というのを知っています。そして、技術的にどれほど高度のサポート(例えば義足、車椅子)が出来ても、障害者の人達が社会で生きていく為には、健常者と障害者、双方の価値観に大きな課題があると感じておりました。
健常者側は障害者への接し方というは学校では習いませんし、社会に出ても、障害者に接する機会があまりにも少ないため、どうしていいかわからず、過剰な接し方(障害者が出来ることまで全てやってしまう)となり、障害者側もその過剰な接し方が当然なものとして振舞うので、双方にストレスが溜まって行き、接触を避けるという悪循環に陥ります。
累犯障害者をとりまく環境をどう変えていくか。課題が山積みなテーマですが、まずは、現状を知る、そして現状がおかしいと感じるられる人を増やしていく。遠回りなようでも、根本はそこなのだと思います。そしてそれは健常者側からしか歩み寄れません。
私の母の田舎では、昔は障害児が生まれると、「私たちに変わりに苦しみを背負ってくれていると」いって大事にしたそうです。隠すのではなく、卑下するのもなく、支えることが普通な、そんな世の中にして行きたいです。

投稿者 kd1036 日時

累犯障害者

 本書を読んで次の事を感じました。それは、答えの出ない事でも考え続けるべき事は確かに存在するのだという事です。
 まず制度の問題があると思います。日本に限った事ではないはずですが、国家の制度は、誰にとって都合のいいように整備されているのでしょうか?
 健常者・障害者の括りだけではなく、人口構造における大多数・制度を決定し運用する側と従う側・制度の知識のある人ない人等、色々な立場がある中で、全ての人が幸福な人生を送れるようにというのが根底にはあると考えられます。
 しかし、それが全てにおいて痒い所に手が届くレベルで実行される事は、極めて困難であるのかもしれません。
本書で印象に残ったのは、
・刑務所の中が、登場する人々にとって、一般社会より暮らしやすい場合がある
・売春をしている女性は、そこで人とつながる事に生きがいを感じている場合がある
・聴覚障害者のコミュニケーションに、一般社会で都合のいいやり方はそぐわない
といった点でした。
 登場する人達にとって、良かれと考えるのは彼ら以外の人間であり、肉親にとって良かれという事はまた次元が異なります。第三者として関わる人達にとっても、個々の立場・考え方等で関わり方が異なります。その中で、登場する人達が必要としている精神的あるいは物質的な事項は満たされているのでしょうか。
 今の自分で幸せを感じる事が重要であり、それを出来るかどうかはスキルの問題だと教わった事があります。確かに大多数の人は、スキルがあれば幸せを感じる事は可能だと考えます。しかし、本書に登場する人達は、先に大多数と述べた人達の中には入らないと思います。彼らにとって、スキルがあれば同じように出来る環境が整備されているのでしょうか。この答えは今の私にはわかりません。
 本書に書かれている事は、私にとって「認識できないから見えていない部分」ではなく「認識しているけど見ようとしていない部分」です。そして、それに対して考えても自分には答えが出せないから考えないという振る舞いをしてきました。これは、本書のテーマに限った事ではなく、色々な事柄に対してそういった部分があったと思い返しました。これを無関心というのかもしれません。しかし、多くの人がそうなってしまう事が、何よりの問題なんだと思います。
 最大多数の最大幸福を求めると、最小単位の部分には目を瞑らないといけなくなるのかもしれず、そこをどうにかする事が難しいのはわかります。だから何もしない、では何一つ変わらないのだという事を痛感させられました。自分には、あまり身近でないなんて関係ありません。一人では大した影響は与えられないかもしれませんが、一人一人がほんの少しでもいいから何かしら持っていれば、何かにはなるかも、とは思います。皆が0であれば、何も望めません。
 私は、小学校の入学直前から1年生の2学期が終わるまでの期間、内臓の疾患により入院生活を送っていたことがあります。その時には、病院内の養護学校で就学していました。障害者ではありませんが、親元を離れた子供達だけで生活をしていて、表向きは皆明るくワイワイやっていました。重篤な疾患でおそらく一般の生活には戻れない同級生、その後全く交流はありませんでしたが、の事を少しだけ思い出しました。
 今までの私は、考えても答えが出ない事につては、何事につけ考えるのは無駄なので考えないという姿勢で過ごしてきました。本書を読んでからは、それでも思考だけはし続けるという態度に変えています。今はまだ明確な変化はありませんが、何となく今までよりも自分の枠を広げて思考・行動していける予感がします。

 書いていて、自分の立場から一方的に発信する内容で、不快に感じる方もいらっしゃるかと感じました。配慮の足りない点はご容赦くださいますようお願いいたします。

投稿者 akiko3 日時

「累犯障害者 獄の中の不条理」を読んで

 小学一年生が、見知らぬ、自分より強そう(威圧的)な大人に囲まれ、どうもその人達が自分に敵意を抱いているとしか感じられなかったら…、頼りの母親がいなくて、ああ、自分は一人ぼっちだ、せめてこの場から逃げ出したい、でもそれもできないことがはっきりしていたら…、目の前が滲んで、胸がグッと締め付けられた。
刑事裁判中の被告人が、かつて母子二人で暮らしていた家に入ったという“住居侵入罪”の罪を問われ、不安と恐怖で泣き、失禁したとしても、たとえその被告人が40代の男性だとしても、実は6-9歳の知能(の中度知的障害者)だと知れば、なんとなくわかる。少なくとも、デパートの迷子預かりだったら、迷子の子から少しでも手がかりが引き出せるような問いかけをするだろう。こんなやり取りで、真相を探った上での裁きが可能なのだろうか?でも、これは実際に行われた刑事裁判の一場面なのである。
ちゃんとした裁きを受けられず、罪を償う方法も与えられず、人生をリセットするチャンスも方法も与えられず、ただ罰として一定期間自由を拘束される。しかし、皮肉な事に、そんな不自由な罰でさえも、社会にさまようように生き、被害者になりがちだった娑婆での生活の自由よりは、安らぎが感じられるとは…この人達にとって生きるとはどういうことなのだろうか?

自分の知らない闇の部分が目の前に現われて、動揺している。よりよく生きよう、生きることは幸せ、頑張れば頑張った結果があるからって、前向きに生きようとする自分がこっけいにも思われた。
累犯障害者が問われた罪とそれに伴う刑罰を知る度に、罪とは?罪を裁くとは?と、自分の良心が揺すぶられた。
本当に自分の満たされない思いから、わざと人を傷つけたのだろうか?
自分が少しでも優位な立場でいたいから、人を蹴落としてでも得ようとしたのだろうか?
もっともっと自分に取り込みたくて、人を騙してでも奪ったのだろうか?
人が羨ましくて、妬ましくて、憎悪の感情を抱いたのだろうか?
自分を傷つけた仕返しに、当然の報いとばかりに攻撃したのだろうか?
日常生活の中で、気をつけていないと、自己保身の為に人を傷つけたり、自己中心的な行動を取る自分と違って、累犯障害者となった人達の中には、疑うことや恨むことなど知らず、穏やかな性格で生きてきた人達もいた。なんとかならなかったんだろうか?多くの人が抱くもどかしさだろう。
社会のルールに反した事実がある限り、罪を問わない訳にはいかないが、犯した罪の背景にあるものを考えたり、真実がはっきりしない話や、ただやっかいものを一定期間遠ざける為に“隔離する”という罪滅ぼしというだれにもなんのメリットもない理不尽さなどに、心が重くなる。 
実際の事件の被害者を考えると、心身に与えられた苦痛を少しでも軽減する為に、なんらかの罪滅ぼし、再犯防止の徹底がなされないと不幸の連鎖のままである。
しかし、世の中には理不尽なことが存在する。紛争地域での子供兵士や貧困地域での誘拐・拉致、臓器販売用の子を産ませる現実を知ると、息が止まるような恐怖を抱く。
生きているのも辛いはずなのに、そういう環境では自殺は少ないそうだ。皆、なんとか生きようとするらしい。累犯障害者の人達には、そういう生き抜こうとする力って沸いてくるのだろうか?平和ボケした日本社会の病んだ部分で、できるだけ被害者にならないように、漂う波のように静かにさまようしかないのだろうか?衣食住を満たす為に、罪を繰り返すしかないのだろうか?どうにもならなくなったら、体が絶える(餓死)のを待つしかないのだろうか?

やりきれない思いが増すばかりで苦しい。この苦しさを少しでも軽減させられる思考はないかと思いを巡らせ、飯田先生の「生きがいの創造」を思い出した。“魂は経験を積む為に自分で選んで生まれてきている”のならば、この理不尽さも自分で選んできている。だからといって社会的に守らないとか、法を問われないというのではないが。
でも、やっぱり情としては、すっきりしない。
もう1つ、14世ダライ・ラマ法王が、講演会の質疑の中で、“悲しい事件などが絶えないのは、慈悲の心を学ぶため“と説かれていたことも思い出した。”人間の究極の本性は慈悲と利他の心である“とも説かれている。この言葉の意味がボンヤリとしかわからなかったが、人としての慈悲の心に、少しでも近づけるように、身近に存在する認知症の母やたまにボランティアでお邪魔する老人施設を利用される方達を尊重し、労わろうとすることで、自分の学びを深めていきたい。
また、自分の中に芽生える加害者的な思いを1つずつ潰していくことも忘れてはならない。(子供の頃、干支どおり犬猿の仲だった弟に対して、優しい姐に、もとい姉になるのが先だ…)。

重い重い現実の最後に、やっと岩戸の扉のような古臭い監獄法に意識が向けられ、少しずつでも、法や組織体制が変わりつつあることは、わずかなわずかな希望の光であった。生きる思考と知恵と術を身につけて、少しでもよりよく生き延びて欲しいと切に願う。
無知は罪つくりである。今回、こういう現実もあることを学ばせていただき、少しは罪に気づき、悔い改める機会が頂けたことに感謝申し上げます。

投稿者 nakajirou 日時

日本には競争社会という言葉を嫌う人が多くいます。小泉内閣以降「競争社会=格差社会」というイメージに捉われる方が多くなって、競争という言葉を使うだけで、競争社会>格差社会>弱いものいじめ の連想を持ち毛嫌いする人が多いように思えます。

ただ私自身の考えは、人間は自分が優れた存在でありたいという心は常に持っているものであり、自信を切磋琢磨する為の競争は必要なものと思います。ただそれは競争を出来る条件が整った人である事が前提で、前提条件が整っていない人には、社会全体で保護する必要があると考えています。

今回の本を読んで感じたのは、先程書いた前提条件である条件が整っていない知的障害者の方に対する、セーフティネットが日本では全く働いていないことが分かり愕然としました。

ただその事実が広く伝わらない現実の要因のひとつとして、マスコミが障害者の起こした事件に対して報道する事に及び腰になっている点があると書かれているのを見まして、またひとつ日本のマスコミを信頼できない点が増えた感を受けました。

事件の容疑者が障害者と点を報道しますと、障害者への差別のような意味合いでマスコミを非難する個人や団体は確かに存在するは間違いありません。ただそれは報道の仕方を、障害者だから悪いといった構図にするのではなく、何故障害者の人が犯罪を犯さざるえない環境になったのか、本書のように日本においては、障害者に対するセーフティネットがまともに機能していない遠因や要因をちゃんと解析すれば立派な主張になり、ここまで追求した内容で報道を行えば場違いな非難を行う人は大きく減少すると思います。

そうした労力や表面的な批判を恐れ、問題そのものを隠蔽してしまうマスコミの姿勢は、責任感を放棄したその場しのぎの対応にすぎない事であり、もともとマスコミの報道姿勢に感じていた疑問を本書を読み更に深めるきっかけになりました。

マスコミの批判論はさておき、本書に書かれた障害者の問題に対して今後私が何か出来ると言いますと、正直何も出来ないと思います。私にはこの問題を根本解決出来る知識も資力もありませんので、問題の根本解決を図る何かをする事は出来ません。

そうなりますと、この問題に関して何か出来る事をするのがまず第一歩と思いました。例えば、選挙の際に障害者のセーフティネットの強化を訴える政党や政治家がいれば(いるのでしたらですが)そこに投票を行うのもひとつでしょう。今までそういう視点で政治を見る事が出来ませんでしたので、新たな視点を設けれた事は大きなプラスと思います。

また問題を共有化されていない点が問題だと感じたのであれば、本書を自分のブログ等で紹介し問題が存在する事を共有するするのもひとつの手段だと思います。

原発問題にしろ今回の件にしろ自分ではどうしようもない大きな問題の存在を知った時は、無力感は感じますが一隅を照らす意味で自分に今出来る事はやりたいそんな気持ちになりました。

投稿者 gizumo 日時

大変ヘビーな内容でした。
知らなかった世界が広がり、知るべきなのか、知って良いのか?
私はどう対処したら良いのか?
疑問符ばかりを浮かべています。

さらに、このような世界が無くならないと理想の世界は訪れないのか?そもそも「理想の世界」が何?…

健常者と同じように裁かれ、誤解や無知から正しく調べられる事もない事実があるという。
想像をはるかに超えた、考えの及ばない事件・事実が起こっている現実。

いかに自分が見えていることだけで生活していたのかを実感しました。
正確に言えば見ていなかったと言うべきなのかもしれません。

今後も自分の狭い視野で生きて行くことになるのですが必ずそれは一部である事を肝にめいじて判断する事、できるだけ視野は広げて行くべきだと考えさせられました。

いつも以上に、課題図書でなければ読まなかったこの機会に深く感謝いたします。
(正直、読了は出来ませんでしたが…)

投稿者 BruceLee 日時

実に厄介な本。それが率直な読後感であった。何故か?

「希望」が無いのだ。

例えて言うなら、隔絶された2つの部屋があり、その一方に自分はいる。
目の前には別のもう一つの部屋があるが、その部屋とは分厚いガラスで
隔てられており、向こう側に自分の声は届かない。その部屋の真ん中には
テーブルがあり、その上には美味しそうなケーキがたくさん並んでいる。
そこに見るからにお腹を空かして衰弱した幼稚園児くらいの子供たちが
現れる。ケーキを視界に捉え、一目散にテーブルに近寄る子供たち。
そこで子供たちはケーキの前にプレートが置かれているのに気付く。
そこには「ヒ素入りケーキ」の文字。

食べたら即死する訳ではない。だが体内に入れば少しずつ、確実に肉体を
蝕む毒入りケーキ、という訳だ。自分はガラスを叩き声を張り上げる。

「ダメ、それは食べちゃダメだ!」

でも自分の声は子供たちに届かない。時折その純朴な顔をこちらに向けるが、
その目はすぐにケーキに奪われる。そして子供たちにプレートの意味は理解
できない。その知識は無い。一方、食欲という名の、人間の根源的な欲求は
ある。それに突き動かされるように、子供たちの手はケーキへと伸び、
毒入りケーキを掴むやいなや、一気に食べ始めてしまうのだ。その表情に
浮かぶのは人間が美味しいものを食べる時の歓喜の色。じわりじわりと
自分たちの肉体が蝕まれる事は理解していない。そんな光景が自分の前で
延々と繰り返される感覚か。自分の無力さを思い知らされる感覚。この状況で
どんな希望を見い出せというのか?ただ、不条理。。。

自分は健常者であり、障害者と縁が薄いため、本書に書かれる事実に、
日常的に触れる事はほとんど無い。よって、目を背けようと思えば背け
られる内容であり、知ったからといって直ぐに何かに役立つ訳ではない。
そして、読んで愉快になった訳でも、心地よくなった訳でもない。
障害者にもっと優しくしよう、新たにボランティア活動を始めよう、
と更に思いを強くした訳でもない。

ただ衝撃だけがあった。こういう闇が自分の知らないところで、恐らく
今日も起こっているだろうという衝撃。ならば本書をどう扱えばいいのか?
自分の内側でどう処理すればよいのか?再度暫く自問して、ふと湧き出て
きた言葉。

「知らなかった事を知った」

それでいいんじゃないか?本書を読む前、自分はこれらの事実を知らなかった。
何となくどこかで聞きかじった程度の浅く稚拙な理解しかなかった、だが今は
それを知り、考えている。少なくとも世界人口71億分の1人が「知らない」から
「知ってる」に変わった。自分と累犯障害者たちの距離感は掴めないけれど、
少なくとも昨日までの自分とは違う自分の存在は認識できる。だからと言って
世の中は何も変わらないし、障害者の数が減る訳でも、障害者の犯罪が減る
訳でもない。

でも。。。

本書に登場する障害者が生きる社会と同じ社会に自分は生きている。そして自分は
その社会の一員。もしかしたら自分の心の中にあったかもしれない、世の中の事など
もう大体分かってる、などという傲慢さは吹き飛ばされた。そしてその気付きは、
自分を謙虚にさせる。その謙虚な目で周囲を見渡せば、障害や犯罪とは縁がない
家族たちに囲まれ、穏やかな日々の生活を頂いている事を改めて実感できるのだ。

であれば、まずは自分ができる事として周囲に優しくしよう、そう思えた。
この穏やかさを大切にしよう。大それた事など出来ない自分の、それが素直な
想いであり、少なくともその先には見える気がするからだ。

「希望」という光が。

投稿者 saab900s 日時

今までは「どうすれば成功するか?」「エグゼクティブの習慣を身に着けよう」「成功までのストーリー」といった明るい未来を目指してガンバロウ!! という方向性の本ばかりと触れ合ってきた結果、頑張れば、運があれば人生なんてどうにでもなるといった楽観さえ覚えるようになりました。
だからこそ、様々な書籍や勉強会に努めて参加するようにし、明るい未来を自分の手で掴み取るぞと固い決意にまでつながっていたのです。

この本に出会ったとき、人生ってあまりにも不公平なんだなと言うことを突きつけられ、大きく魂が揺さぶられ、これまでに感じたことのない脱力感に似た感覚を覚えました。

それは、自分も良し、相手も良しという「智の道」の考え方に立ったとき、私が考える相手も良いの中に書中にあった人も含まれることを認識することによって、如何に自分が他人の事に対して安直に考えていたかという無知さ加減に驚愕したからです。言葉では簡単に「自分を含めみんなが幸せに♪」とは言えるものの、物理的に明らかに「幸せとは程遠い」環境に身を置かざるを得ない人々もいるのです。

私は「成功」という二文字を追いかけているのですが本当にこれでいいのか?という疑問が湧いてきました。本当の成功とは? 智の道を具現化するには? 私の成功によって何か世の中が良くなるのか? ただ単に自己満足で終わってしまうのか? 

しかし、現時点において私のこの悩みはあまり大きな意味を成さないという結論にたどり着きました。「シアワセ」という定義そのものが私の主観によるものであり、すべてに当てはまるものではないからです。逆に自分の傲慢さに気付かされるというなんとも後味の悪い気づきを得るに至りました。つまり、彼らにも彼らなりのお役目があり、その中でもシアワセがあるのだと思います。

かといってこの状況を知ってなお、自分の成功だけを追い求めるのも智の道を歩む者としてしこりが残ります。そこで考えたのは自分のお役目をしっかり果たすことと、少しでも自分に関係する環境の改善に取り組むということです。まず、自分のお役目については与えられた環境や仕事、今この瞬間を無駄にせず、苦しい中にも楽しみを見出し前向きに捉えて実行していくこと。環境については、電車でとなりに座った人、会社の同僚、家族、1cmでも1mmでも幸せに感じてもらえるようにすること。努めて笑顔で居ることによって代えたいと考えました。

ドラスティックに世の中を良くする力を持ち合わせていませんが、良くしようと思わなければ前には進みません。周辺の環境を良くするとは、おそらくマイナスのエネルギーを自分で吸収してプラスのエネルギーを与えるということでしょうか。相当な体力を消費することは容易に想像できますが、だからこそ瞑想や呼吸法で整える術を学んだのかなと考えております。論語にも「人知らずして恨みず、亦君子ならずや」とあります。人知れず小さくても実践していきます。

振り返ると、成功とは結果であり、何を成功とするかは自分に決定権があるのですね。ちょっとでも環境が良くなればそれもまた成功です。今回のことで私にとっての成功の定義が変わりそうです。

また新たな自分の価値観に出会えたこと、自分と向き合えたことに感謝します。

投稿者 ntotheg8 日時

獄中記は結構読んでいるほうだと思うのですが、
これだけいたたまれない気持ちになったものはありませんでした。

実際、私の甥も先天的に耳が聞こえにくく
言葉を十分に話せない状態なのですが、
ろう学校に行けば、手話とか読唇術とか教えてくれて
就職も世話してくれると思っていたのですが、
そもそも、手話は教えてくれないし
先生が手話が理解できない人もいるというのに驚きました。

障害を持っている人にかぎらず、
日本の世の中はストライクゾーンで結構狭くて、
自分がストライクゾーンにいるときは、あまり感じないけど、
ストライクゾーンから外れると、とたんにはしごを外された状態となって、
転落していくんだなぁというは、最近うすうす想像していました。

もちろんそうならないために、必死に頑張らないといけないんでしょうけど、
すこし、ストライクゾーンから外れただけで、
生活保護か刑務所かという現状がおかしいのは事実ですし、
おそらく、行政的なコストも掛かると思うので、
もう少し、中間的なクッションが必要だなぁと感じさせられました。

刑務官とか生活保護の担当の人も、これだけ
いろんな不幸を見ると心が折れそうになりますよね。

それにしても、最後の章で
お母さんが亡くなったのに、出所後、
一緒に暮らしていた家に戻ってしまって
警察に捕まったシーンは、切なすぎました。

投稿者 sakai 日時

この本の世界は初めて知りました。
印象的だったのが、売春行為をしている時がチヤホヤしてくれるので幸せだったという箇所です。
たいてい、その世界の人はお金のためにしょうがなく働いているのだと思っておりましたので、衝撃を受けました。まさしく人それぞれです。

そもそも、人は同じ空間に生きていながら、違う世界で生活していると考えています。
たとえば、家族にしてもそうです。兄弟、夫婦では表面上では同じ世界に生きているとえると思いますが、世代が違えば、明らかに違う世界に住んでいるのではないでしょうか?同じTVを見ていても感じることが違うからです。2世代違うとその差が大きくなるのは歴然です。孫が好きなゲームに関して、ちんぷんかんぷんなおじいちゃんがほとんどです。世代間の違いは分かりやすいですが、突っ込んで考えると、多くの時間を共有している夫婦間でもそれぞれの経験、知識、立場などによって世界が違います。

このことから、自分の知らない世界は星の数ほどあります。なぜ、あの方たち(本の中の方たち)はその世界の住人なのか?障害者だからか?その世界に行きたかあったのか?行きたくないけど行ってしまったのか?考えれば考えるほど疑問です。ほかでもない自分の理想の世界と言うのも人それぞれ頭の中に存在します。理想の世界のことを絵空事のように思っているだけの人。行けたらいいなと思っている人。どうしたらいけるのかと考えている人。絶対に行くと心に決めている人。さまざまでしょう。理想の世界に行くために日々精進です。

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投稿者 magurock 日時

極めて個人的な感想

累犯障害者を読んで、
「石にかじりついても長生きしてやろう!」
と強く思った。ヨタヨタになった状態でも、彼のために。
できれば一日だけでも彼より長く。

我が家にも知的障害を持つ息子がいる。
成人して作業所で働いている。
育つ過程ではいろいろあったものの、重度ではあるが、情緒的に安定している。
それでも、この本を読み進むのはとてもつらかった。
私の心が拒否しているという感じだ。
でも、こうした現実があることはうすうすわかっていた。
そこから目を離してはいけない。

本を読んだ後、日課の呼吸法をしていた。
服役中に母親を亡くした障害者が、出所後家に帰ったら不法侵入で逮捕されたというエピソードが頭をよぎる。
きっと彼は、母親が死んだということもちゃんと理解できず、母の待つ懐かしい家に帰っただけなのだ。
自分の家と思っていたところには知らない人が住んでいて、騒がれ、警察に突き出され、どんなに混乱したことか。
裁判で詰問され、どうしたら良いかわからず母親の姿を探し泣きだす彼。
彼の心が休まる日はくるのだろうか…もし彼が自分の息子だったら…
胸が痛い。苦しい。
いつもは軽く過ぎる秒数で、息をつきたくなる。
「こんなのちょろいはずでしょ!」
と、自分をなだめ、手を見つめながら、なんとかいつも通りの秒数をこなした。
次に瞑想をした。
心のざわつきが、いつもと違う方へ私をもっていこうとしている。
映像が頭に流れ込んでくる。
やばい!集中しろ!
毎日の積み重ねのおかげか、時間はかかったものの、いつも通り戻ってこれた。

数日間そんなことを繰り返し、やがて普段通りのペースに戻った。
麻痺したり慣れたのではない。
ショック状態を乗り越え、真剣に考えられる姿勢になったのだと思う。
最善を尽くして行こう。それしかない。
親が子より先に死ぬほうが、自然なことなのだ。
そのときにひどく心を残さないように、やれるだけのことはやっていこう。
もちろん、できるだけ長生きはしてやろう!
半年前から成長を始めた私は、今も変化し続けている。これからだってどんどん変わっていくだろう。
それに家族が共鳴しないわけがない、と思う。

呼吸法や瞑想を続けていなかったら、ショック状態から抜け出すのに、もっと時間がかかっただろう。
ショック状態ということにさえ気づかなかったかも知れない。
今まで、心の弱い人が宗教にすがるものだと思っていた。
宗教の存在意義がわかったような気がした。
日々の積み重ね、それを続けていくこと、そのための信心が、私にも必要なのかも知れない…

読み始めからずっと考え続けていること。
この問題について、なにか自分にできることはないだろうか。
自分の子どものためだけではなく。

すでに自分の中に、それに貢献できる具体的な夢がある。
今の自分には壮大過ぎる夢だが、実現不可能なわけではない。
ひそかにもう第一歩は踏み出している。あきらめずに進んで行くのみ。
それと並行して、まずは身近な作業所の利用者さん・指導員さんと対話をしに行こう。
そしてこれからもずーっと考えていこう!

投稿者 sumio 日時

累犯障害者 山本譲司著 感想文

命ある人間にとって居心地の良い居場所とはどこか?の物語です。

健常者から見てよかれかしと思ってやっていることのいくつかが、
実は障害者にとっては苦痛、不愉快以外の何物でもないことがわかりました。

コミュニケーションとは何か?について考えさせられました。

実は障害者ネイティブには通用していないのに、現行の手話を
それで良しと信じ、推進している福祉関係者。

無理矢理「言語もどき」を教え込まれることは、辛いですよね。
しかも相手は善意と来ているから始末が悪い。

「社会」「理解」「寛容」そして「多様性」という言葉が浮かんできました。
表向き結構うまく機能していると思っていましたが、
この国は弱者が弱者のまま放置されていることを知りました。

障害者、健常者の線引きも、実はどっちがどっちなのか怪しいものです。

現在我々が生活している世界はどんな世界なのか、わかりました。

「つながり」なしには人間は生きていけません。
刑務所の中が一番暮らしやすい、と知的障害者の方が実感込めて言われてます。
悲しい現実です。

犯罪者がらみですので、トピックとして防犯の3原則に
1.固定観念を持つな
2.臨機応変に動け
3.想像力を働かせろ    があります。

これを、人はみんな違っていい、違って当たり前にオーケーを出せる社会、
共生社会の3原則にしたらよいと思います。

固定観念を排除し、柔軟性を持ち、想像力を働かせること。
居心地の良い場所を各自が作り上げていくのにはどうすればよいのか。
日常生活で意識します。

ありがとうございました。

投稿者 wapooh 日時

累犯障害者を読んで
 言葉は大切だ。
というのが本書を読み進めるにつれて強く感じたことだ。
はじめに言葉ありき(聖書の冒頭)と、セミナーで何度か伺う機会があったが、極端かもしれぬが今月の課題図書はそこに行きついた。
先月の課題図書からふつふつと感じていたことの源でもあると思う。
言葉は物事を定義し、人の気持ちを表現し、個人が世の中を理解するための道具であり、文章となり思考を表し、他社へと発信され、理解され、社会へと通じる。
言葉を持てぬことは共通の善悪のルール、生活の規律を理解できないということにもなるのではないか。
これらのことが、判別できない障害者が、犯罪を犯罪と自覚できずに犯してしまう、繰り返す、自分の幸せを誤解して人に利用されたり、塀の中や犯罪組織の中が最も安全な場所となる。「累犯障害者」とは、著者が法の定義とは異なり、『次から次に犯罪に結びついてしまう障害者たち』という意味合いで使用した言葉である、とあとがきにある。
「幸せは自分の心が決める」 読み始めた時に頭に浮かんだこの言葉だけれど、その心が描く幸せが命にとって本当の幸せを表しているのか?と何度も思う。自分に対しても。
また、言葉を覚え使えても、ベースの認識が違いすぎて、他者と相互に理解し共通認識が得られない場合、幸せに結びつかないこともある。
「そもそもいったい常識とは何なのだろうか。人間というのは皆、おかれた立場によって、おのずとその常識も変わってくるはずだ」と本文にあるように、言葉の背後にあるその人の世界が重要になる。例えば、七章のろうあ者が聴者の世界で求められてきた困難さ、特にろうあ者にとって有効な手話ではなく聴者にとって便利な口語でのコミュニケーションを求められるろう教育の矛盾やそれにより生ずるろうあ者の文化と聴者文化との違い、「理解しようとしない聴者」と「理解していないろうあ者」、前者が優位の社会の中で悲劇が起こるという文章を読んだ時に、頭の中が揺らぐのを覚えた。
山本氏は手話を覚えて使うことでろうあ者の世界を聞くことができたが、ろうあ者の本当の手話と聴者の手話が異なること、両者の間で真の理解はできず、実際の警察での調書や法廷においてもそれが為に障害者が不合理な目に合ってしまうのは苦しい。

-―――――――-
| [A]  | “Not A “の世界を信じるか、のベン図(のつもり)。
-―――――――― 
これまでは、Aが表わす世界=科学的に説明が付き頭で理解した世界とその外側の意味で用いてきたが、[A]が自分の言葉で説明できる世界、外側が自分の認識する常識の世界、その外側の枠外の無限の広がりが現実の世界とすると、外側の四角は他人のそれとはまったく違う可能性があると気づいたら、普段の自分のコミュニケーションにおいても矛盾を感じたり顧みたりするようなり、相手への見方が変わることが時々起るようになった。
まず相違の可能性を認識し、重なりを自覚するか作るかして、他者とのコミュニケーションを図ることなのだ。共通の認識を得るための手段として読書ってあるのだなだと納得できた。良書リストの価値を再確認。
先月の図書リバースイノベーションも先進国の過去の経緯から得た常識を途上国に該当し、成長を前提とするから、彼らを遅れてくるもの、と見下げることによる愚を解く部分があった。『安かろう悪かろう』を当てはめるては通らないのだ。これは自分のビジネスで痛感している。
 最後に、複数の知人から『障害者特別ホーム』が運営する工房が作るお菓子屋小物をもらうことがある。みなそれらに添えて『これは障害者の方が作るのからしょうがない品物じゃないの。『安かろう悪かろう』じゃなくて、ちゃんと素材を選んでいいものを丁寧に作っているので美味しいのよ(素敵なのよ)』と言葉をくれる。どこかで聞いた言葉の響き。
マザーハウスのバックと同じなのだ。障害者を、貧困の国にある人を、同じ人間として慈悲ではなく同等の能力がると認め尊重し、労働成果に対し自分達が日常と同等かそれに近い価値を認めて、お金を払う。
 私自身、本書の累犯障害者に対して直接何ができるわけではない。日常の心構えや見る目をもって心を開くことから始めていたいと思ったら、先週末オフィス前に上記のような工房を見つけた。お話をして焼き菓子を買い求め、友人と頂いたが、丁寧で美味しいものだった。また次の行事の時に、感想を添えて注文してみようと思う。これはつまらないおまけの話で、大事なのは誠実に丁寧にその人と相対する心なのだと改めて心がけたい。

今月も自分の生活に貴重な考える時間を与えていただき有難うございました。 

投稿者 tadanobuueno 日時

「普通の日本人」しかセーフティーネットには入れない、このことを改めて感じさせる本でした。
今までは派遣社員のワーキングプア報道でこういった思いをもっていたが、この本にでてくる事例はセーフティーネット(この著書の中では主に福祉)の保護から外れた人が直面する深刻な状況が描かれていた。

状況の改善には2つのことが必要だと感じた。

1地域のつながりの強化
刑務所にいる時、売春をしている時が、自分にとって一番満たされる場だった、との発言が著書にあった。
「普通の考え」では刑務所にいる・ヤクザ組織に入る・売春を生活の糧とする等の状況は過酷と考えるが、「普通」の社会では必要とされた事がなかったためこの状況が一番幸せだと思う。
たとえ、自分がヤクザ組織の鉄砲玉にされても、ヤクザが資金を稼ぐ手段として使われていても、この過酷な世界では自分が必要とされるから満たされる。

著者に対して障害者サポートの団体より、なぜ加害者・犯罪に手を染める人に焦点をあてるのか?と苦言があったことが書かれていた。
私は加害者に焦点を当てたからこそ、加害者が「普通」の社会から必要とされなかった・受け入れられなかった、ことで累犯への悪循環へ落ち、抜けれないことが浮き彫りになったと思う。
被害者の方のお話しだけでは、障害をもっている方はただ可哀想な、まもるべき存在との感想しか出なかった。

障害があろうとなかろうと、他人に必要とされる・受け入れられることは全ての人が求めていること。
障害がない人の自殺・うつ等、の根底にもこの欠如があると私は思っている。
受け入れる、必要とするには画一的な政策・対応で解決する事は難しく、個別対応が一番重要な点になる。
これを進めることを国だけに頼るのは難しく、より個が見える地域(自分の身の回り)で対応する事が求められる。
実際は地域にいる人々のつながりが薄れ、個が見えにくくなっているため、まずはこのつながりを増やす必要がある。

2.多様性を認める
地域のつながりを強める上でこえなければならない点は多様性を認めること、自分と違う事を認めること。
これがなければ、つながりが強くなっても排除・画一的な対応は変わらない。
「普通の日本人」という一億中流・成長が続く時代につくられたものが崩れ、様々な点で考えをひとくくりにできない状況がでてきている。
経済の世界で間接的に日本国内の影響しか受けない、ということは既にない。
この動きは更に進んでいき、文化・思考方法が異なる、より多様なものを受けいれ、ともに進んでいかなければならない。

この考えが異なる中、自分としては子供がいる事もあり、「地域のつながりが安全をもたらす」、「様々な負担を減らす」、という視点でつながりをつくろうと動いている。
実際、子育てをするうえで、地域の方が知り合いであれば、見守りにより不審者の侵入・子供への危険は減らせる。
これは高齢者の方の危険の低減にもつながり、様々な効果が見込まれる。

高邁な前提を話しているが、今現在は飲んでお互いのことを知り、助けられることを助ける程度しか出来ていない。
問題の解決がいっきにできる方法などないし、日々の積み重ねが大きな結果を産むと考えたいが、正直そこまで先をみているわけでもない。
今現在も子供の世話を多少でもシェアしたり、酒を飲んで悩みをいったり、その今が楽しいと思えている。
足元のこの楽しさがあるから自分の動きは続いていると思う。

著者は、出口である社会が変わること、累犯障害者を受け入れる事が一番のポイントと言っていた。
累犯障害者を受け入れる社会の人々が、まず自分達の周りにある地域の個々の違い・多様性を認め、それをあるがままに受け入れる事が累犯障害者の方達の不の循環を断ち切ることに最も良い影響を与えると考えている。
これは累犯障害者の方の為ではなく、今後我々が直面するより大きな多様性を許容しなければ生きていけない世の中に必要なことでもあると考えている。

最後に、自分の生活の中では知ることのない社会を見ることができた。
ただ、その解決でもやるべきことは自分にとって必要なことと変わらなかったことに気付けた。
貴重な気付きを与えていただきました。
ありがとうございます。

投稿者 take0125 日時

うちの家族では最近、米倉涼子が主演している『35歳の高校生』と云うドラマを見ています。
内容としては、いじめや不登校など、学校で抱える様々な問題を解決していくストーリー
なのですが、正直、9歳のうちの息子には見せたくない内容でした。

ドラマの世界とはいえ、小学生の子供に高校生の陰湿ないじめを見せたくなかったのが
本音です。
でも、それって、親のエゴであり、臭いものにはフタをしろ的な考えなんですよね。


何故、冒頭に、こんなドラマの話をしたかというと「学校でいじめられている生徒」、と
「社会というコミュニティーにおける障害者」というのは、立場が似ているように感じた
からなのです。

ドラマの一話目で、友達がいないため、一人でトイレの個室に籠ってお弁当を食べる少女
が登場していたのですが、この状況が、刑務所の外よりも刑務所の中の方に居心地が良い
と感じている障害者とにタブって見えたんですよ。


また、いじめを見て、見ぬフリする教師と障害者の事件をタブー視するマスコミ。
これも同じです。

これは今回の課題本を読んでこそ、感じる価値観なのであると思うのです。


であれば、息子にもドラマで見たことで生み出される価値観があるのではないか。
その価値観を大切にしてもらうためにも、良い機会であると思い、家族で米倉涼子の
ドラマを見ることにしました。


ちなみに息子には学校における障害者のクラスについて、それとなく聞いてみることに
しました。普段、彼が障害者に対してどのように接し、どのように感じているのか、興味
があったからです。互いに知らないことを知る、良い機会であったのではないかと思います。


今後も色々な目線で物事を捉えていくように心掛けていきたいと思います。
ありがとうございました。

投稿者 Flair 日時

『累犯障害者』を読んで

居場所があることの幸せに気づかせてくれる内容でした。
そしてまた、人は居場所を求める生き物であるということを再認識した内容でした。

行為・行動はもちろん褒められたものではないにせよ、自分の居場所を確保するための行動の結果が
犯罪者または被害者というだけであって、本人にその善悪の自覚が無いところに、障害者の犯罪の
やるせなさ、切なさがよりいっそう浮かび上がり胸に刺さりました。

私は男ですが、売春をしているときが一番幸せ、私を抱いてくれた人はやさしかった、という言葉や気持ちは良くわかります。内容は別として人は人の役に立っていると実感しているときが、その居場所を感じ、また幸せを感じるものだと思います。彼女にとってはその時間がまさにそうであったのだと思います。
刑務所にまた戻ってきたくなる心理も、ある種気にかけてくれる場所であり、時間であったからではなかろうかと推察します。

人は居場所を求めているのです。
文庫版あとがきにある著者の活動が実りつつあるのが希望です。
犯罪を犯さない限り自分の居場所にいられないなんて悲しすぎです。

一人でも多くの障害者の方が、犯罪を犯すことなく、自分の居場所に居続けられますように。

最後に。
取材の結果が微細のためか、正直、殺害の描写を読むのはとても辛く、胸にどくんと来るものがありました。
自分の心の黒い部分を抉られ、掘り起こしだされ、見せ付けられるような感覚にもなりました。
自分や自分の周りで起こっていたらと思うとぞっとしていまします。
正直人には勧めませんし、読み返すこともあまり無いと思います。

しかしながら、このような機会が無ければ知りえることの出来無い世界であったことは確かなので、
そのような機会を提供いただきありがとうございました。

投稿者 takizawametal 日時

累犯障害者という聞きなれないタイトルの本を読み始め
て、すぐに思い出したのは「セックス・ボランティア」
という本だった。

障害者とその性について書かれたその本を読んだとき、
内容よりも今までに一度もその事実を想像もしていなか
った自分に呆れてしまった。

障害者=哀れみを乞う者

という勝手な図式が自分のどこかに、自分でも気づいて
いないどこかにあったのだろう。


この本を読み始めてすぐに、また自分は何も想像できて
いなかったのを知った。

セックス・ボランティアを読んで、障害者というくくり
を作らずに、普通の人と同じに扱おう、と誓っていたの
にもかかわらず。


この本を読んで全ての章でやるせない気持ちになった。

どうにもできない大きなうねりがあって、それに翻弄さ
れてどうしょうもない歯がゆい感覚。

拭っても拭っても拭いきれない重く暑くるしい汗にまみ
れて蠢いているような嫌な感覚。


ちょうどテレビのニュースで、どこかの動物園でゴリラ
の赤ちゃんが生まれたというニュースをやっていた。

生まれた時からみんなの人気者、ゴリラの赤ちゃんでさ
え祝福されて生まれてきているのに。


この本に書かれた累犯障害者たちのほとんどが、不幸な
生い立ち、幼少期を過ごしている。

中には読むのもはばかられるような性的虐待を受けてい
る女性もいた。

幸せに、普通に、ただ普通に愛されていたら、、、

月並みだがこんな感想しか抱けなかった。


最近では、NHKでバリバラなる障害者自身が障害者の
ために発信しているバラエティ番組もあったりするが、
あそこに出演している障害者の人たちは、本当に愛され
て育ってきたのだと気づかされる。

当たり前の愛を当たり前に教授する事ができなかった者
たち。

今度こそ、彼ら彼女らを特殊なフィルターを通さずに普
通に接しよう。ただ普通に接しよう。

それができる人間になろう。

二度目のチャンスをもらった。

投稿者 ichi 日時

累犯障害者を読んで

障害者の生活を垣間見ることができた著書であった。

障害者の経済状況に興味が沸いたので調べてみました。

軽度障害者に対しては、ネットで「障害者」+「求人」で調べると
結構な求人が出てるんですね。
専門の就職・転職紹介会社もいくつもあり、給与レベルは仕事によりますが年収300~500万。

企業は国から助成金がでるし、企業イメージ向上につながる。決して損なことではないのでしょう。

それに対して重度障害者に関しては検索しても出てきません。
場合によっては知能レベルが2~3歳ということで、
まず仕事を探すことすら難しく、無理からぬことでしょう。

重度レベルですと、年収50~100万。それに加えて障害者基礎年金が1級の場合99万、2級の場合78万。
生活困窮は目に見えてます。

じゃ、人間にとって大切な娯楽関係はどうなんだろうと考えました。
人間誰しも社会の中でストレスはたまる、そんな時は居酒屋に行って
ぱあっと飲んでいうこともあるよなと調べてみると、専門の居酒屋があるんですね。
まだまだ少ないですが。

今回気づいたことは、
障害者の方は、見目形は健常者と同じだが知能レベルに障害を持っている方も
想像していた以上にたくさん存在していること。

普段の自分の生活とはかけ離れているものと以前は考えていましたが
改めて日本の社会構造や、現実に気づかされた本となりました。

投稿者 ktera1123 日時

「類犯障害者」を読んで

題名からしてどう考えても、また本を触っても、ものすごい重いものを感じたのでずるずると読むのを後回しにし、なおかつ読もう、読もうとしても日中に読むには重すぎる、夜遅くなってからしんみりと読むものと感じたとおり、ものすごい重いものが伝わって来ました。

読み終わった感想は、自分はなんて恵まれているのだろう。なんて幸せなのだろうと感じました。

自分のことはさておいて、なにか役にたてることはないかと考えても、
なにか困っている時に手助けをすることぐらいしかできないけど、
困っている時に手助けできるよう、心、時間に余裕をもっていければと感じました。

投稿者 takuro2411 日時

『累犯障碍者』を読んで、自分の知らなかったディープな世界に触れ、何とも言えない遣る瀬無い気分になり、う~んと唸るしかなかった。
ある一定の枠(セーフティネット)から外れてしまうと、支援を受けるすべをなくし、社会から見放されてしまう。そのような状況になってしまうと、まともに働くこともできず、困窮した生活を送るか、犯罪に手を染め刑務所でお世話になるしか生きていくことができない。運が良ければ、再び枠の中に戻ってこられるが、一旦外れてしまうと、誰かが手を差し伸べない限り、一人では難しい。枠から外れてしまった障碍者が『累犯障碍者』となってしまうのは、彼らにとって罪を犯し、刑務所に入ることが生きていくためのすべであり、他に選択肢がないのである。本書で取り上げている事例はあくまでも一部であり、まだ他にもたくさんのケースがあるのだと思うと、表に現れてこない深い闇の存在を感じる。
こういう感情を抱くのは間違っているのかも知れないが、正直、自分は恵まれていることを実感した。身体に障碍がなく、何不自由なく働くことができ、人並みに給料をもらい、家庭を築くことができる今の環境に安堵感を持った。こうやって本の感想をアップロードすることもできるし、贅沢をしなければ食べる物にも困らないし、普通に生活することができる。
しかし、『累犯障碍者』となってしまう人たちは、普通に生活することができない環境にいる。そして、その状況になるに至るまでの過程は、自己責任の範疇を超えていると思う。

話は変わるが、私の両親は共に障碍者の支援施設で働いていたので、私は幼いころから、彼らと接する機会もあったし、彼らの話を両親から聞かされることも多々あった。そこにいた障碍者の人は、当然支援を受けているが、数人でアパートを借り自立し生活していた。また、ちゃんと就業し、給料をもらっていたし、たまには旅行に行ったりしていた。皆それぞれ障碍はあるけれども、一所懸命に働いて、それなりの生活を送っていた記憶がある。
本書で取り上げている障碍者と私が知っている障碍者の人たちは、全く違う世界で生きている。そして、これは障碍者に限らず、我々健常者であっても同じことが言えると思う。人それぞれの生きている世界は似ている部分はあるかも知れないが、全く一緒ということはないのだと思った。
ありがとうございました。

投稿者 kenken 日時

「累犯障害者」を読んで

はっきりいって、無知でした。
この本を読んで、全く知らない世界が開かれたように感じます。

読み進めていくと、やるせなさを目の当たりにしました。

障害者の周りを取り囲っている歪んだ世界。

手話が通じない…
事実とは異なる内容の調書を作成…
マスコミは報じない…
聾教育現場での「九歳の壁」…

あげくのはてには、私たちと相いれないかのように、
閉鎖社会を作っていってしまう。

このようなことが起こっていることは知る由もありませんでした。

知ってしまったことで、
今後、どのように生かし、また、関わっていくか?

こちらから率先して、手助けするなんて、
向こうにとってみれば、もしかしたら余計なお世話になるのかもしれません。

だからといって、何もやらないし、相手のことに関心を持たないということも
違うのかもしれません。

今からでもほんの少しでも行動に移せるとすれば、
お互いがでよりよく過ごしていくことを
目指す心持だけは忘れないようにすることなのかもしれません。

投稿者 YOSHIKAWA 日時

山本譲司さん「累犯障碍者」

障碍者とどう付き合っていくかという問題は、国や時代を超えて繰り返し考えられてきた。
歴史の中で彼らは、社会の営みの中には組み込めない存在としてこれを遠ざけられたり、神に近い存在として祭り上げられたりして、それぞれの社会の中で折り合いをつけてきた。

彼らを助けながら生活するだけの豊かさがなければ、彼らはその社会で生きていくことができない。
そういった冷厳な事実を頭に入れたうえで、じゃあどこをどうやれば豊かさを確保し、世の中にいきわたらせればいいのかという問題に挑むことになる。

健常者と障碍者の境目は実はぼんやりしていて、だから重度の障碍者になされる手当が軽度の障碍者には至らないということがあるのだが、実は健常者だっていつまでも「健常」であるわけではない。豊かさの確保と配分は、「健常者」自身の問題として知恵を絞らねばならない。

福祉という言葉には国や自治体が採算度外視でせいぜい努力する仕事という印象があるけれど、それが社会全体の利益になることならば、商売として成り立つように工夫できないかを考えるのが知恵なのだと思う。

全盲のプログラマがIBMの役員になったり、デフのプログラマがディスプレイなしでソフトウェア開発をしたりする例がある。むろんこれは、周りで健常者がよってたかってサポートした成果である。また、障碍者自身が並々ならぬ精力を使って初めて実現できることだ。そういった幸福なめぐり合わせが増えるように根気よく活動するのが、読者に求められているのだと思う。

このような活動に要求される忍耐力は甚だ大きなもので、いわゆる無償の善意や正義感にこれを求めるのは困難だろう。商売として成り立つような知恵や仕組みができるまでの間は、政治や宗教の力を借りることになると思う。彼らが生き続ける場を作るためには、怪しくてもなんでもやってみるのがよいと思う。

投稿者 fjyrp198 日時

 読み進めながら、今までに出会った様々な障害者や彼らの周りの人たちを思い出さずにはいられなかった。貧困故に知的障害があったであろう小学校時代のクラスメート、幼少の頃から酒乱の父に暴力を振るわれ続け統合失調症になり強姦され自らの命を絶った大学時代の友、家庭の事情で高校を早々に中退し家出して西成に住んでいると言った中学時代の友、聾唖だが学歴は非常に高かった前の職場の上司、「不幸な家庭にさらに不幸が重なる」と喝破していた精神科の町医者。皆さん、今も元気にしているだろうか。幸せにしているだろうか・・・

 普段「自己啓発」に励み、所謂「決められた社会のレール」に何とか踏みとどまろうとしている自分が滑稽にすら思えた。第3・4章を読んで或る親戚のことを思い出す。精神病故の知的障害はあるが美人のため再婚し今は普通に暮らす叔母と、施設育ちではあるが既に結婚し自らの家庭を持つ従妹。この本に書かれている障害者のありようを知るにつれ、自らの世界の狭さを感じ価値観が揺さぶられ息苦しくなった。

 また、周りの人たちの苦しみも想い起こしていた。母は叔母の話になるといつも怒っていた。発達障害を持つ子どもがいる知り合いの大学教授も、息子の話になると怒ったような口ぶりになった。その様子から、当人たちへの深い愛情とやるせない哀しみを感じ、涙がこぼれた。

 この本で示されている「刑務所の福祉施設化」については、多分そういうことなんだろうなとうすぼんやりと思う。「健常者」たちが自分たちの暮らしを平穏に維持するために、福祉からも家族からも見放された人たちを刑務所に送っているという現実。しかし「文庫版あとがき」にあるように、こうした現実を変えようと既に行動している人たちもいる。私も…飛び込むにはまだまだ勇気が必要だが、そうした人たちにゆくゆくは加わりたいと思う。
かつて手を差し伸べられなかった友人たちに懺悔の気持ちを込めて。

投稿者 whockey51 日時

目をそむけて生きることが、こんなにも罪深い事なのかと考えさせられた。だからと言って、すぐに何か障害者の方に向けて事を起こせるわけでもない。
そんなジレンマに陥る。

しかし、知ることで自分の中での葛藤を見出すことができた。今までは考えもよらなかったことだ。自分自身が障害者の犯罪から目をそむけていたのか。それとも気づかなかったのかと言えば、単純に気がつかなかったと言える。

まずは目を向けること。

これが出来るようになっただけでも良しとする。そこから、小さな一歩が始まる気がする。
なぜなら、以前の自分もそうだったように気がつかなかったからだ。

小さな幸せもまずは気がつくことから。

そこからすべてが始まるといえる。

投稿者 sishida 日時

累犯障害者 を読んで

著者の言われるとおり、受刑者のような”詰んだ”障害者にフォーカスを当てたことで日本における福祉の実態、障害者が何を考え、それを健常者はどう捕らえているのか、また、それらが入り混じった社会構造がどれほど複雑で奥深いものかがとてもよく理解できました。

ただ、そのような状況を作っているのは大多数の健常者であることを思うと、障害者をそのように取り扱ってきた責任は重大です。
もちろん、タブーであることを恐れ口をつぐむマスコミや、障害者を厄介者扱いする裁判官のような人たちだけが悪いというつもりはなく、我々一人一人が大小の差こそあれ、常日頃から持っている意識からくるものではないかと考えます。事実、障害者人口の統計に表れているのですから。
自分自身、障害者の方を目にすることはあっても深く接することがなかったため、何の前提知識もなく障害者の方とかかわりを持ったなら、「可哀想だな」とか「面倒だな」なんていう感情を抱いていたと思います。

しかし、本著の様々なエピソードからご本人達は不器用ながらもとても一所懸命に生きているのだと実感したことで、もしそのような場面に出会うことになっても、同じ人間同士尊重しあえるような関係を築けるような自信のようなものが芽生えてきました。

決して、障害者と真正面から向き合っているのは、反社会的なヤクザだけということにならないよう、まずは自分の周りから変えていき、障害者と健常者が手を取り合えるような未来が訪れることを切に願います。

最後に、自分では絶対に選択しないであろう本を読む機会を作っていただき感謝いたします。
ありがとうございました。

投稿者 koro 日時

「アルジャーノンに花束を」を読んだ時に、考えていた事を思い出した。
"軽度の知的障碍者と健常者の境界はどこにあるのだろう"

昔、新聞屋で働いていた時、同じ店で働いていた先輩。
(元々は、別の新聞屋で劣悪な労働環境の中、働かされていたところ、当時、自分が働いていた店の店長が見かねて、引き抜いてきたらしい。)
いつもニコニコしていて、たまにミスはするけれども普通に仕事をこなし、
店が借りたアパートで一人暮らしをしていた。
しかし、話をしてみると、他の人と比べてちょっとトロいような印象を感じる。

その彼が軽度の知的障碍者として認定されて、保障等を受けていたのかは、定かではないが、
健常者と同じ生活を送る事ができる以上、そのトロさも個性の一つとされるのだろうか。

自分が知的障害について知らなさすぎるだけなのか、
下記の掲示板の書き込みを見ると、知的障碍者とは一体何なのか、謎は深まるばかり…。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3166211.html

自分自身がIQ測定をした事がないので、自分のIQがいくつかは知りませんが、
質問者様はIQ52で中度(の知的障害?)という割には、自分自身よりも分り易い文章を書かれている気がする。
そもそもIQ(知能指数)という指標自体、自分の思っている"知的さ"を測るものでは無いのだろうか。

野生の世界であれば、ハンディキャップを背負った個体は淘汰されてしまう存在だが、
人間社会においては、支えられて生きる存在となる。それが、人間らしさという事なのだろうか。

「レ・ミゼラブル」や「ショーシャンクの空に」でも描かれていたように(時代背景は異なるが、本質的には変わっていないと思われる)、
出所後にまともな生活を送れずに、刑務所に戻ってしまうのは障碍者に限った話では無い気がする。

また、性犯罪に巻き込まれる女性知的障碍者の存在も衝撃的だった。
http://favorite.halfmoon.jp/blog/archives/10
某巨大掲示板がソースなので信憑性には疑問符ですが、読み応えはあります。

投稿者 omieakanat 日時

累犯障害者 山本譲司


私自身は、障害者と深く関わったことが

ありませんが、学校の特殊学級や、親戚

にいるダウン症の方を近くで見てきた経験上、

この本に書かれているような、方は一人も

いませんでした。


筆者は、獄中で真っ当な扱いを受けたことの

無い、本当に悲惨な障害者の方を中心に

していますが、かなりエグイ内容に書きたてた

という感想です。


健常者が起こしても大きなニュースとなる犯罪を、

障害者と結び付けてより刺激のある内容にする

ことでより刺激が増しています。


例えば、

 ・障害者と殺人

 ・障害者と不倫

 ・障害者と売春

 ・障害者と近親相姦

 ・親子で知的障害者


と、人間の本能をコントロールできない障害者と

性などショッキングな内容を結び付けており、

目をそむけたくなるような内容で読者をひきつけています。



私は昔から「かわいそうな人たち」と障害者を

扱ってしまうことには違和感を覚えます。

障害者にしても、ろうあ者のように独自の

文化をもって生きている人もいるし、

生まれながら障害を持っている人でも、自分は

幸福だと思って生きている人もいると思います。


別に障害者でなくても、世界には更に悲惨な

環境で生きている方もたくさんいますし、

その方にしてみれば、その世界が全てなわけで

同情される意味が分からないと思います。


障害者福祉の面からも、各国の取り組みや

日本との差を比べれば、良し悪しはあるでしょう。

日本は障害者にとって天国みたいな国と思う

人もいれば、差別的言動があり過ぎると思う人も

いるでしょう。

いずれにしても日本でも福祉の最前線で頑張って

いる人がいて、特にこれから高齢化社会に向かって

行く日本は、その点苦しみながらも前進していると

思います。


筆者の障害者福祉政策を前進させたいという

想いは良いが、想いが強すぎて、内容がストレート過ぎました。



筆者の目的は本来被害者である障害者に

対して、社会的に真っ当な評価をし、援助する

仕組みを作り、犯罪へ向かわせないことだと

思いますが、内容はかなり障害者の悲惨な

部分をあおっており、逆に読者を障害者から

遠ざけているな感じました。

投稿者 morgensonne 日時

「累犯障害者」

衝撃的な内容で引き込まれるように読みました。
テレビでは障がい者の特集は時々ありますが、
この本のような内容は、本当にテレビなどのメディア
には公開されることはないと思いました。
それは日本社会特有の隠すという行為が反映された
ものだと感じました。

健常者にとって普通に過ごしていたら知ることの
できない世界で、自分としては今回まずその世界の
存在を知ることができました。

そして、この本を読んで、自分が抱えている悩みは
大したことがないように思え、とりあえず現実を
受け止め、前に進むようにしたいと思います。

また、個人として、福祉についてできることは
微力かとは思いますが、
障がい者の雇用率も改定される中で、自分にできる
ことを考えていきたいと思います。

今回の課題図書でなかったら、知ることはなかった
かもしれない現実を知ることができて良かったと
思います。

ありがとうございました。

投稿者 filefish 日時

読みおわり、とてもやるせない思いになりました。
何故か?
障害者(個人的には、障がい者とは書きたくないです)が犯罪を犯してしまい、さらにそれを繰り返してしまうことに対し、全てがその場凌ぎの対応で、根本的な解決に繋がるものがないためだと思います。
行政のみならず、報道、司法までもが「臭いものに蓋」の対応では何の進展も望めません。
そんな現状を認識させて頂いた筆者としょうおんさんに感謝致します。
そこで、自分に何ができるか?と考えた時、正直なところ良くわかりません。
しかし、正しい福祉とは何か?という考え方には少し近づけたと思います。
例の「黄色いTシャツ」の番組は何だか胸くその悪さを感じていたのですが、その理由ははっきり分かりました。

投稿者 haruharu 日時

「累犯障碍者」 を読んで

こういう類の本は苦手である。
なかなか前に進まなく、課題図書というお陰で何とか読むことができました。


光と影。
企業に於いても、一家庭に於いても、影(闇)の部分があることで、
また、誰かが担っていることでバランスを保ってる場合がある。
光輝くところが大きければ、大きいほどそれに相反して影の部分も大きくなると思う。
光と影、自然界の於いて当たり前に存在するものだからだ。

この本を読んで、日本という世間という社会の枠組みで視たときに、
影の部分と片付けていいのかはわからない。


ただ今は今の自分に感謝しながら生きていきたい。

投稿者 haruharu 日時

「累犯障碍者」 を読んで

こういう類の本は苦手である。
なかなか前に進まなく、課題図書というお陰で何とか読むことができました。


光と影。
企業に於いても、一家庭に於いても、影(闇)の部分があることで、
また、誰かが担っていることでバランスを保ってる場合がある。
光輝くところが大きければ、大きいほどそれに相反して影の部分も大きくなると思う。
光と影、自然界の於いて当たり前に存在するものだからだ。

この本を読んで、日本という世間という社会の枠組みで視たときに、
影の部分と片付けていいのかはわからない。


ただ今は今の自分に感謝しながら生きていきたい。