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第131回目(2022年3月)の課題本


3月課題図書

 

絶対貧困の光景: 夢見ることを許されない女たち

 

この本はインドで物乞いや売春で生活をしている女性たちを取材したルポなんですけど、

同じ地球にこのような生き方を余儀なくされている人達がこんなにもいるのかと思うと、

暗澹たる気分になります。しかもそんな国でも核兵器をもっているわけで、おカネを使う

ところが違うだろ!と叫びたくなります。

 

日本にも様々な格差や差別が残っているワケですが、このインドに比べれば、不謹慎です

が誤差範囲みたいな感じもします。それくらい彼の国で生きることは大変なんですね。日

本人に生まれたことのありがたさを噛みしめながら読みました。

 

 【しょ~おんコメント】

3月優秀賞

 

今回は一次審査がバラけました。投稿者による選考で、2票を取った人が、BruceLeeさん、

akiko3さん、tsubaki.yuki1229さん、daniel3さん、LifeCanBeRichさん、sarusuberi49さ

んと6名もいまして、これ以外にCocona1さんが1票獲得しました。

 

この7名の投稿を読み直しまして、今月はakiko3さんに差し上げることにしました。おめ

でとうございます。前半は非常に良く書けていると思います。


【頂いたコメント】

投稿者 daniel3 日時 
本書では、著者の鈴木傾城氏がインドを放浪した際の体験談が綴られています。表紙デザインから編集まで全て著者自身が手掛けていることもあり、他の編集者によるブレーキがかかっていない、非常に生々しい内容となっています。インドの底辺社会に巣くっている貧困が圧倒的な臨場感で襲い掛かってくる本でした。

インドと言えば「フラット化する世界」でも取り上げられているように、ITと安価な労働力を活かし、システムの開発拠点や業務アウトソーシング先としての成長が著しい国です。また、近年の世界富豪ランキングにもインド人が数名ランクインしています。豊かになりつつある印象があるインドですが、本書が執筆された2014年頃においても、社会の底辺にこれほどの貧困が広がっているという事実を知ると、その闇の深さに衝撃を受けました。インドで生きる困難に比べれば、私が生きる中で経験してきた人生の浮き沈みも、安全なプールの中での出来事としか思えませんでした。

そんな本書を読んで考えたのは、

貧困には自力では決して抜け出すことができないラインが存在する。

ということです。そのように考えたきっかけは、本書に登場する人物に2種類の人間が存在すると気づいたからでした。

1種類目の人間は「今を生きる人」です。このタイプの人間としては、強引に著者を売春宿に引きずり込んだり、他の売春婦と少し話しただけで激怒する女性などが該当します。彼女たちは今この瞬間の出来事に一喜一憂し、その行動が将来どのような影響を及ぼすか、お客に嫌われるかもしれないといったことにほとんど配慮していません。本能に従って生きる獣のように、生きることへの執着を強く持っています。

もう1種類の人間は「未来を諦めた人」です。関わってくる人に関心を持たずに自分だけの世界で過ごす人や、虚空を見つめ続ける人などがこのタイプです。そのようになってしまう心境は、彼女たちの人生を考えると非常に理解できます。家族が生活するために人身売買のブローカーに売られ、売春宿で働いても宿のボスに稼ぎを毟り取られ、安い賃金で働かされ続けます。やがて売春婦として働けなくなった時には、娘を売春宿で働かせないと生きていけず、貧困のループから抜け出すことができません。

そうした彼女たちの一生を見据えると、未来を考えることができる人間には絶望以外は見えません。人生を良い方向へと変えるためには、思考の時間軸の長さが重要であることは、しょーおんメルマガ読者であれば理解していることだと思います。しかし、インドの貧困社会において思考の時間軸を長くすると、貧困地獄から抜け出すことができない事実を悟り、未来を諦めてしまうことになります。

以上のように、自力では抜け出すことができない貧困のラインの存在を意識したことで、絶望的な貧困の外側に生まれた私たちには、未来を考える責務があると思いました。絶望的な貧困の渦中に生まれた人には、今を生きる以外に方法がありません。未来を良き方向に変えるためには、長期的な思考が許される程度の社会に属する必要があるのです。

日本もバブルをピークに、平成の30年を経て、徐々に貧しい国になりつつあります。何か抜本的な対策や制度変更ができなければ、日本という国のベクトルの向きが変わることはないと思われます。そんな状況ですが、数年単位の長期的な思考軸をしても絶望することがない社会であることは事実です。

将来日本が、本書で語られるほどの状況に落ち込むことは、現状では想像できません。それでも、貧困には抜け出すことができないラインの存在があることを今認識することは重要だと思います。日本をこのような貧困地獄にしたくないという思いを持ちつつ、絶望的な貧困の外にいる私たちだからこそ、未来のためにできることがあるのではないかと考えた本でした。

最後に、個人ができることには限りがあり、今すぐ社会から貧困をなくすことはできません。それでも、数年前の課題図書である「FACTFULNESS」でハンス・ロスリング述べていたように、

「世界は基本的に良くなっている。」

という前向きな事実があります。読書を通じて自分が属する以外の社会状況を知り、長期的な思考を続けることに、改めて意味を見出した書籍でした。
 
投稿者 Cocona1 日時 
本書を読むまで、私にとってのインドの印象は、途上国を抜け出しつつあるイメージでした。というのも、IT分野で世界中で活躍しているエンジニアがいたり、その年収が新卒でも2,000-3,000万を超えるなどのニュースを見ていたからです。しかし、本書によって、それがインドの光の一面だけで、まだまだ影の部分が大きいことを痛感しました。

読み始めてまずは、表現のリアルさに圧倒しました。特に臭いに関する文言が多く、初めは意外に思いました。しかし、それぞれの土地の惨状を表現するのに、臭いが一番強烈な印象につながることが、読むほどによく分かります。あまりのリアルな描写に、本から臭いがしてくるのではないかという錯覚に襲われ、電車内で読んでも大丈夫なのか、心配になったほどです。

読了し、まず初めに、なぜ彼女たちはここまでツラい状況でも、自殺を選ばず生への執着を持ち続けられるのか、疑問に思いました。もし私だったら、この状況では、自殺を選んでしまうのではないかと思います。しかも本書からは、インドの貧困層が自ら死を選ぼうとすれば、日本よりも簡単に実現できることが想像できます。なぜなら、町には生きるのを諦めた人がたくさん存在している記述があり、死はすぐそばにあることが分かるからです。ただあきらめるだけで、死を迎えることができる環境。それでも、彼女たちはひたすらにお金=生への執着を持ち続けています。

どうしてこのツライ状況でも、彼女たちは生きることをやめないのか、本書の中の記述から、私はその理由を2つ考えてみました。

まず一つ目は、宗教上の理由です。本書の中で、彼女たちの宗教観が何度か表現されています。輪廻転生を信じる宗教において、自殺は来世をより苦しくするという教えを聞いたことがあります。つまり、今がどんなに苦しくても、来世を思って耐えるだけの生活です。著者も、「こんな地獄のような境遇に堕ちても、純真に神を信じていられるのが私には不思議だった」と書いている通り、無宗教の日本人にはなかなか理解しにくい行動かもしれません。

二つ目に考えたのは、家族や故郷への影響です。彼女たちの多くが、家族や故郷のために都会に出てきて、売春やバクシーシをする生活を送っている記述がありました。そこから、彼女たちが逃げ出すことで、家族や故郷に被害が及ぶことが簡単に想像できます。守らなければいけないもののために、自分を犠牲にする人生とも言えます。

以上の二つの理由を考えてみましたが、どちらにしても、現在の彼女たちの人生では、逃げ出すこと・人生をあきらめることすらも「見ることが許されない夢」なのかと思うと、悲しみを感じずにはいられません。

本書の最後に著者は、インドと日本の状況を対比して締めくくっています。私も読了後、登場した女性たちと、昨今の日本の若い女性たちについて思いを巡らせました。しかし、本書発行当時に著者が心配したよりも、今の日本の状況は、残念ながら悪化しています。

コロナ禍において、日本では10-20代の若い女性たちの自殺件数が上がっているニュースを見かけるようになりました。本書に出てきたインドの女性たちと比べると、日本の若い女性はまだまだ恵まれているとは思います。きっと、インドの女性から見たら、日本の女性の状況は天国に思えることでしょう。

それでも、日本の若い女性は、ささやかな生活をコロナ禍で奪われ、自ら命を絶つ人が増えているのです。その理由として、宗教や、家族・故郷への影響が自分の死へのブレーキとなっているインドの女性たちと対照的に、日本の若い女性はこれらのブレーキが限りなく少なく、絶望死を選びやすいのではないか考えられます。インドに比べて、日本の貧困層の女性たちは、無宗教が多く、生活も孤立しがちだからです。

さらに本書では、貧困層の女性たちから搾取し続け、助けようともしないインドの男性たち、ひいては社会について、何度も言及しています。そして、その悪しき考えのもとになっているは、カーストです。一方、インドのカースト制を、日本の年齢・もしくは投票数と置き換えると、驚くほど両国が似ていることに気づきます。若者から搾取し、高齢者を優遇するのが日本の格差です。若者の中でも、特に貧困層の女性は、インドと同様日本においても、さらに追い詰められています。例えば、日本のコロナ対策では、性風俗などの業種については、給付金の対象外となっていました。本書に出てきた、売春宿の女性たちに支援が向けられない状況とそっくりです。本当に苦しい思いをしていても、社会が目をつぶっている存在について認めない姿勢まで、インドと日本は同じなのです。

本書に出てきた貧困層の人々は、政府からの支援がないだけではなく、ほかのカーストの人からは人間扱いされず、旅行者からも見て見ぬふりをされています。しかし、本書を読んでただ同情するだけの自分も、見て見ぬふりをしている人と一緒ではないか、と気づきました。この書き込みが終わったら、インド・日本の貧困女性への寄付について調べなければと心に決めたところで、本投稿を終えることにします。少しでも貧困層の女性が這い上がれるように、夢を見ることができるように、思いを込めて、寄付をしたいと思います。
投稿者 mkse22 日時 
絶対貧困の光景 夢見ることを許されない女たちを読んで

本書はインドの絶対的貧困層について、著者の体験をもとに纏められたルポルタージュである。
物乞いや売春が行われている地域に何度も通いそこで筆者が体験したことや女性の生の声が赤裸々に描かれている。

インドの絶対的貧困層の女性にとって、生きていくためには物乞いや売春とした職業の選択肢がなく、
一旦入るとそこから抜けだすことは困難であり、さらには、職場環境の劣悪さを加えると
地獄と呼ぶにふさわしい状況である。

この背景には、カースト制度がある。カースト制度とはヒンドゥー教の身分制度であり、
現在ではかなり緩和されてきたとはいえ、これが長年にわたり継続されてきた。
この制度のもとで、低カーストやカーストにすら入れない身分で生まれてしまった人は
努力で這いあがるチャンスが全くない。

さらに、資本主義が絶対的貧困から抜け出すことをより困難にさせている。
資本主義のもとでは一旦格差ができると、数年で大きな差となってしまう。
絶対貧困層からみると、スタート地点でも一般層や富裕層と格差があるのに、年数が経つごとに、
その差は広がる一方となってしまうからだ。

本書の最後で著者はインドの絶対貧困層を通して日本を見ていた。
日本も格差が広がりつつある現在、インド貧困層は日本の将来の姿ではないかと。

日本でもインドの絶対貧困のような層が生まれる可能性はあるのだろうか。
もちろんその可能性はある。ただ、日本で絶対貧困を生み出す原因は、
身分制度ではなく、雇用制度だと考える。

日本の雇用制度の問題点は以下の2つ。
 ①雇用形態(正規社員と非正規社員)による待遇の格差が大きい
 ②新卒採用重視のため、再チャレンジしにくい

この2つの問題点が日本で絶対貧困を生み出している可能性があると考える。

①については、yahoo!Japanニュースに掲載されていた
「正規社員と非正規社員の賃金格差を年齢階層別にさぐる(2021年公開版)」
という記事によると、正規社員の方が賃金は高く、非正規社員の賃金は正規社員に比して7割前後とのことだった。
さらに別のサイトでは出世や昇給についても両者には差があることが指摘されていた。

②については、就職氷河期世代が良い例だ。
この世代はバブル崩壊後から景気の悪くなった時期に新卒での就職活動をしなければいけなかった。
当時は、新卒採用が主流のため、新卒採用にて正規社員の内定を手に入れることができなければ、
そのまま卒業すると非正規もしくは無職という選択肢しかなかった。
したがって、再度、新卒採用枠で就職活動をするために、意図的に留年した学生がいたほどだ。
さらには転職も一般的でなかったため、不本意ながらも新卒採用枠で内定をもらった会社で
正規社員として働かざるをえなかった。

実は、現在においては、問題点①②ともに徐々に解消される方向にあると考えている。

問題点①については司法から違法性が指摘されている。
2020年には日本郵便の格差是正に関する訴訟で、扶養手当や有給の夏休み・冬休みを
契約社員にも認めるような最高裁判決がでた。この正規・非正規の格差是正の流れは今後も進むだろう。

問題点②についても、2000年代以降、第2新卒をはじめとした転職市場が活性化しはじめた。
最近では、かつて困難といわれていた40代の転職市場もあるようで、人材の流動化が進みはじめており、
再チャレンジの環境は整いつつあるようだ。

しかし、この問題解消による恩恵を受けることができるのは、主に2000年代以降に就職活動をした学生や
現在、正規社員として働いているサラリーマンである。

就職氷河期世代で非正規社員や無職になった人達は、これらの恩恵を受けにくい。
なぜなら、彼らは既に40~50代になっているが、これまでのキャリアの積み重ねがないため、
現在、転職市場が存在していても企業からの需要がないからだ。
そのため、いまだに非正規社無職から抜け出すことができず、生活に困窮している人が多いようで、
国が彼らの支援をしているほどだ。
その例として「就職氷河期世代支援に関する行動計画2020」があげられる。

ここで、先ほどの疑問を改めて考えよう。
日本でもインドの絶対貧困のような層が生まれる可能性はあるのだろうか。

その解答としては、可能性はあるどころか、実はすでに日本でも絶対貧困の層は生まれていた。
就職氷河期世代で非正規社員や無職の人たちがそれに該当する。
彼らは生まれた時代が悪かったというだけで、求人が少ない時期に新卒での就職活動を行うはめになり、
さらには転職という再チャレンジのチャンスもなかったため、その結果として、非正規社員や無職となり、
その状況から抜け出すことが困難な状況に追い込まれている。

ここでのポイントは、絶対貧困層に入るかどうかは、インドではカーストという身分、
日本では生まれた時代に応じて決まるわけだ。
両者の違いがあるとすれば、カースト制度は長い歴史があるため、同制度に起因した差別をなくすことは
相当の時間がかかるのに対して、就職氷河期世代は100年過ぎれば、かれらはいなくなるため、
貧困問題は自然と解消してしまうことだろう。そして、転職が常識となったため、
今後、彼らのような世代は生まれにくい。

就職氷河期世代は、国からも企業からも他の世代からも見捨てられた世代だと思ってしまった。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、他国の貧困の問題にも目を向けなければいけない、と改めて感じました。


本書は、ノンフィクション作家である石井光太氏が直接貧困のある国の現場へ行き、取材や体験を通して、スラム・路上生活・売春の3つのテーマの内容について、伝える内容になっています。


テレビや新聞などのメディアは、貧困がそこで生活している人々にもたらす、苦しみや悲しみの感情を伝えています。


しかし、本書では貧困で苦しむ人々が日々をどのように暮らしているか、に焦点を当てています。それは日々メディアが伝える貧困についての問題提起よりも、もっと深く踏み込んだ生々しい内容になっています。


人々の笑顔をシャッターに収め、その表情の影に眠る素顔を映し出しています。また、貧困の奥に潜む組織や、生活している社会についても取材し、貧困を多次元で考えさせてくれます。


本書を読んで特に印象深かったのが、売春窟で暮らす人々の生活です。


インドの貧困層相手の売春街というのは、それこそ全世界の中でも最底辺のような場所で、セックスを1回10分で行い、コンドームをつけたら即挿入する行為で1回200円という行為が、日常の中で当たり前のものになっています。


さらに、そこで働いている女性はインド人だけではなく、ネパールやバングラデシュからの出稼ぎで来ている人達も生活しています。中には誘拐されて売春をさせられている女性も大勢いるのです。


長谷川まり子さんの著書『少女売買 インドに売られたネパールの少女たち』という本にも、インドの女性だけではなく、年間約7000人のネパールの幼い少女たちが、人身売買犯罪の犠牲になっている現状が取材されています。

売買された少女達は、性奴隷として日に数十人もの客の相手をさせられ、多くの少女がHIVに感染し、最後はエイズを発症して死んでいくのです。

さらに、インドの貧困は女性だけではなく、乳幼児にも影響が出ています。

石井光太さんの著書で「レンタルチャイルド-神に弄ばれる子供たち」の本にも書かれていますが、インドで乳幼児を抱えた女性が物乞いをしながら路上に立っています。

その中には、乞食の元締めが、物乞いする女に有料で乳幼児を貸し出すレンタルチャイルドというものもあります。貸し出される乳幼児の多くは、誘拐されて来たものです。

今年、世界幸福度ランキングが先進国で最低の54位と報道されました。日本だけに目を向けるのではなく、他国に目を向けると、貧困や困窮は日本の状況よりも、幸福を感じられないようなひどい状態の国も存在している、という事を知らなければいけません。


インドは後進国で身分制度があるのだから貧困や困窮があり、そこで暮らす人々の生活が厳しい事は仕方がない、と諦めてしまうのではなく、このような貧困の中での生活の実状を知った上で、先進国の日本は、そこで暮らしている自分は何ができるのか、を考えなければいけないと感じました。


自分が、今日本にいる恵まれた環境の中で、他国の人達がどのような状態なのかを知り、他国の人達の為に自分にできる事は何なのか、を考え続けていくようにします。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「日本人として生まれた最大の恩恵、それは何にでも挑戦できること!」

まず本書で最もキョーレツだったのは以下のインド人イメージだ。

「人の話はまったく聞かない。自分の主張だけを一方的に訴える。配慮はしない。人の気持ちは読めない。自分の都合の良いように考える。自分さえよければそれでいい。わがまま。異常に嫉妬深い・・・インド人の欠点は、すべて『利己主義が突出している』という部分にある。全員がそうだとは言わないが、そういったインド人が異様なまでに多い」

私は直接インド人と関わった事が無いため、著者のこのイメージで偏見を持ちたくはないのだが、多くのインド人と直接交わって来た著者イメージが大きく外れて無いとすれば「こんな利己主義の人間はそもそも幸せになれないのでは?」と思ったのだ。例えばこんな人が日本や他の先進国にいたら周囲から相手にされず爪弾きにされるだろう。だから以下の一文にも疑問があった。

「それでもまだ身分差別は残っており、貧困層は教育でも職業でも差別を受けている。ある意味、『這い上がることが許されない』社会がここにある」

本当にそうか?「這い上がることが許されない」のではなく、利己主義過ぎて周囲と上手く付き合えず、這い上がる機会を自ら失っているのではないか?だが、暫し考えそれは厳し過ぎる見方かもと反省した。確かに日本にこのような利己主義者がいたら周囲から相手にされないだろう。が、彼女たちは日本ではなくインドにいるのだ。そしてそもそも何故利己主義者が多いのか?と考えてみると、利己主義者でいることで自尊心を保っているのではないか?と思い至ったのだ。生まれながらに身分の低い自分の尊厳を守るために必要なのが自尊心であり、結果的に利己主義にならざるを得なかったのではないか?だから彼女たちは周囲に対し常にギラギラしており良く言えば逞しい。そして底辺に生きていても悲壮感が無い。これは何故だろう?

それは、もしかしたら悲壮感は「他者との比較」により生じるからではないか?例えば日本には基本、身分差別が無く選択の自由があるが、考えてみるとそれが逆に苦しみを生む場合もある。選択の自由は、結果の平等とイコールではないからだ。例えば「プロ野球選手になりたい」という夢は、今の日本なら男子でも女子でも持てる。そのための努力も本人次第だ。が、誰もがプロ野球選手になれる訳では無い。結果的に諦め、プロ野球選手になった人と比べ絶望感を持ってしまうケースもあるだろう。そう考えると身分差別があることで最初から夢など抱かず、他の階級の人と比較などせず、自分を惨めと感じる苦しさから解放されて生きる方が楽、という考え方もアリのような気もする。悪いのは「前世」であり自分ではない。でも前世が悪いから自分では人生をコントロール出来ない。結果、利己主義者だが心は自由に生きられる。一方、自分より下の人間はトコトン見下す。それも自分の尊厳を守るためではないか。何れにしても彼女たちは精一杯生きているのだろう。そう考えると暗い気分になってしまうのだが・・・。

と、本書でインドの暗い部分を知ったからこそ日本に目を向けてみようではないか。私が本書から感じた日本人として生まれた最大の恩恵は「何にでも挑戦できること」だ。上記の野球選手のたとえ話ではないが、結果的に夢を実現できない場合もあろう。が、そこに挑戦できること自体が尊いし、仮にインドに生まれたら挑戦できることは当たり前でないのだ。そして挑戦した結果、悲喜交々あるだろうが、そこにこそ人間を成長させるモノがあるのではないか?仮に成功は無くとも成長は出来る。挑戦できないインドの身分差別はその成長の機会さえ奪っているとは言えないか?

私事だが、この春私の次男が志望校の難関私大に合格した。次男の高校のレベルや当時の次男の学力から「何でそんな偏差値の高い大学を目指すん?」と疑問だったのだが、本人の希望を尊重したのだが、一年前の現役時の結果発表の日には、悔しそうに「○○落ちた、浪人させて!」と言ってきた。その時は何の保証も無かったが、親的には「挑戦させてやりたい」と思った。そして、その1年後の同じ日に「やった!合格した」と叫んで来た。この1年、コロナ禍の不安の中、毎日毎日予備校に通った当人の努力はある。が、親的には合格したこと以上に今回の努力と結果の実体験から学んで欲しいのは、

「人生なんてたった1年の頑張りで変えられるチョロいもの」

ということだった。だから今後の人生でも嫌なこと、辛いことがあっても今回の経験を武器に逞しく生きてくれと伝えた。。ここはインドでは無く日本という常に挑戦できる国なのだから。

PS.
いやしかし今回親として良かったと思うのは子供の挑戦を経済的にサポート出来たこと。失業中で金無いよ~なんて状態で無くマジ良かったわ(笑)

以上
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“情報を受け取り、考え方と行動を変える”

本書を読み終えて、真っ先に頭の中に浮かんだのは、著者鈴木傾城とは何者なのかという疑問だ。アジアの売春街を旅して回る、性行為にこだわるわけでもなく売春街に足を運ぶ、売春婦の身体についた妊娠線を見て感慨にふける。これらの行動を繰り返す著者が、私の目には異様に映ってならない。本書裏表紙の著者紹介を見ると作家でアルファブロガーとある。本書以外の著書は、「ボトム・オブ・ジャパン」、「どん底に落ちた養分たち」、「ブラックアジア」とあり、要は貧困の底辺に特化したルポライターのようだ。また、著者のYouTubeの番組タイトルを見ると、日本の低所得者、不安定就労者、ギャンブル中毒者などであり、日本国内の貧困の底辺に直結するものが多い。YouTubeの番組と本書の内容に共通して感じたことは、著者が発信する情報は知るだけでゾッとするような恐怖が襲って来るという点である。おそらく、本書の読者の多くが絶対貧困の光景を知り、またYouTubeの番組の視聴者の多くが貧困没落の身近さを感じて身の毛がよだつ感覚に陥ったと想像する。鈴木傾城とは何者か。その答えは情報発信者。そして、世界や日本国内の貧困を徹底的に調べ上げ、世の中の人々に知らせることで、彼らに問いを持たせ、彼らの考え方や行動を変える機会を与える役割を担っているのだろう。

まず、本書を読んで私は2つの問いを持った。1つは、自身の境遇に対する問い、そしてもう1つが、身の周りの出来事に対する時の私自身の猜疑心の少なさに対する問いである。まず、自身の境遇に対する問いについて述べる。本書の中には、私の全く知らない世界が広がっていた。昨今の日本では、親ガチャや上司ガチャなど、自らの意志ではどうにもならない『〇〇ガチャ』が色々と話題になっている。が、それらなど全く問題にならないくらい強烈で過酷な“出生地”ガチャが本書の中には描かれている。本書の中に描かれる貧困の光景は、どれも想像を絶するものばかりだった。その中でも、私を最も絶句させ、やるせない気持ちにさせたのは、親が物乞いや売春を生活手段としていれば、その子供も同じ道を歩むことになっているというインド貧困社会の暗い現実だ。ただ生まれたところが違うだけで、こんなにも人生が違うのか。日本に生まれたことがどれほど恵まれ、どれほど有難いことかを本書を読んで痛感する。そして、その恵まれた環境で、もっと精一杯生きるべきではないのか。そんな思いを私は持ったのである。

次に、身の周りの出来事に対する時の私自身の猜疑心の少なさについて述べる。猜疑心とは、相手の言動や行動を疑う気持ちのことである。私はもっと猜疑心を持つべきではないのか?そう思ったのは、本書で、物乞いをする者たちが、どのように旅行者たちを騙しているのかが描かれる部分を読んだ時である。全く持って耳目を疑うくらいに信じ難いのが、旅行者の哀れみを引くために赤ん坊をレンタルで他人から借りて物乞いをしている話、騙す手口は物乞いたちの間でシステム化されていて、物乞いから雑貨屋までが、すべて旅行者から金を奪い取るために一致団結しているという話である。日本にも詐欺はある。オレオレ詐欺や給付金受取詐欺などに、私が騙されることはないが、世の中にはもっと巧妙で誘惑的な詐欺があるはずである。例えば、投資による儲け話など、傍から見ているぶんにはなぜ騙されるのか理解ができない話も、いざ当事者になると甘い話に目がくらみ判断を誤る可能性があるのではないだろうか。上述した物乞い詐欺の話からの教訓は、私は相手の言動や行動を疑う気持ちを持たないことで痛い目にあうのではないか?であり、もしも投資による儲けなど誘惑的な話を持ち掛けられた際は、しっかりと猜疑心を持って十分に調査、吟味をする必要があると思った次第である。

最後に、本書の「おわりに」に書かれている著者の主張について考える。著者が憂いているのは、日本の未来である。なぜなら、日本の対極にあるインドの貧困の光景が似てきているからである。“将来に夢を見ることが許されない子供たちが生まれ、教育も満足に受けられず、病気になっても満足な治療を受けられない子供たちが増える”(P.265)であるならば、読者である我々は何をするべきか?これが、著者から読者への本書をとおしての問いであろう。そして、この問いを受けて、ゾッとするような恐怖を感じ、考えや行動を変えることが出来る人こそが、明るい未来を得られる可能性を広げるのではないだろうか。

~終わり~
投稿者 tarohei 日時 
 インドの貧困は救い難い。本書では、インドで生きていくことは暮らすことではなくサバイバルすることだといい、貧困層にとって絶対に這い上がることが許されない社会なのだという。これらの貧困層に対して政府も救済措置を行っているし、民間NGO団体なども救済のために活動を続けている。ただ単に支援するだけでなく環境整備をしたり職業訓練や教育を行ったりもしている。それでも貧困層は教育でも職業でも差別を受けているし、インド社会が貧困層を放置しているといってもよい。国内外、有名無名、政府民間問わず、多くの人々がインドの貧困問題を憂慮して、様々な援助と支援をしているにも拘らず、支援の手が回らず未だに多くの貧困者が存在している、これがインドの偽らざる現状である、という。

 本書を読んでわかったことは、インドの貧困は日本や諸外国の貧困とは種類が違うということである。いやむしろ、種類というような生易しいものではなく、何か得体の知れない根本的に違う異質なもの、貧富の差というだけでは説明がつかない何かが横たわっているのである。
 そのことを日本との対比で考えてみると、まず日本とインドは対極にあるという。さらに、日本はインドとは違い、いろいろな部分で秩序が保たれており、人々の中は信頼関係で成り立っているという。なるほど、確かに街の中は綺麗に掃除が行き届いており、ゴミなども落ちていないし、野犬もいないし、各家庭の水道の水は言うまでもなく公園の水道水ですら安全に飲めるし、夜中に女性が一人歩きできるほど治安は良いなどインドとは真逆の豊かさと生活環境の良さがあげられる。
 そして、本書では、日本は世界有数の経済大国ではあるが、経済が衰退し日本が成長を取り戻せなければ、経済格差がどんどん広がっていき、日本にも決して這い上がれない層が出現していく、そしてそれが無視できない数になった時、貧困地区が生まれ貧困社会となるという。

 しかし、日本はインドとは同じような救い難い貧困状態にはならないと思う。日本にはインドと違って宗教観に根付いた身分差別意識がないからである。日本では部落差別問題など身分差別はあるが、これは江戸幕府の政策による身分差別であり(これには諸説あるが)、宗教観に基づいたものではない。確かに、経済格差による貧困層は生まれるかもしれないが、インドのような本人の努力ではどうしようもない身分差別による貧困層の絶対固定化は起こらないと思うのである。
 それはどういうことかと言うと、本書でも書かれているように、インドでは長い間伝統的にカースト制度が信仰されており、身分が固定されたままというのが当然のように考えられ、貧困層に生まれた人間は一生貧困層のままであることをカースト社会が強要する時代が長く続いていた。そのため、いくら本人に才能があっても頭が良かったりしても、親の職業を引き継ぐしかなく、現世の境遇が悪ければ来世に望みを託すという輪廻転生が信じられてきているという。そうとでも考えないと貧困層の人たちは救われないのであろう。
 さらに悪いことにそのカースト制度の底辺層にも入れない不可触民という身分があり、カースト信仰者とって不可触民は人間以下の扱いである。それは人間ではなく人間の形をした何かであり、それが約1億5000万人も存在するというのである。インド社会では、前世で悪いことをしたから不可触民になる、不可触民が苦しんでいるのは社会が悪いわけではない、本人の前世が悪いのだから社会が助ける義理はない、という考えがはびこっているという。不可触民の人数の多さもさることながら、これでは彼らに救済の手が差しのべられることはない。インド社会そのものが彼らをなんとかしようと思っていないからである。これでは、いつまで経っても絶対貧困は解決しない。
 さすがに、日本はそこまで酷くはない。いざとなれば生活保護も受けられるし、親の経済状態で貧困を強いられることはあっても、そもそも生まれながらに固定化された差別意識はない。
 生きているだけで丸儲け、とはよく言ったもので、インドに較べれば日本は、日本に生まれただけで丸儲けなのである。
 米国やその他の国々でも同じことであろう。移民者や黒人はじめ有色人種に対する差別や貧困はあるが、法整備もある程度整い、差別に対する社会活動も活発である。少なくとも本人の前世が悪いから差別されるのは当たり前などという考えはない。それなりの差別・貧困はあるが、本人の努力ではどうしようもない、絶対に這い上がることができないほどの根強い身分差別はない。

 インド社会自体がカースト最下層や不可触民に対して放置している状況にはあるが、インド政府や民間支援団体も決して手をこまねいているわけではない。インドは未だに2億6000万人もの絶対貧困者を抱え、ホームレスが7800万人もいて支援の手が回らないというが、人数の問題ではない。
 宗教観に根差した考え方を変えることは容易なことではないであろう。なにか得体の知れない異質なものを変えない限り、彼らが救われることはないだろう。

 決して救われることのないインド社会特有の闇を見た気がした。
 
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
 今月の課題図書『絶対貧困の光景』を読んだ時、10年前に読んだある本を強烈に思い出した。キリスト教系ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーのドキュメンタリー『神を信じて何になるのか?』だ。
 著者のヤンシーは、アメリカで開催された「売春婦の救いと癒しのための国際会議」へ取材に行く。そこで出会った女性達は、3歳の頃に親に売られて売春婦で働き始めたコスタリカの女性達、生活のため仕方なく売春の仕事をしているタイの女性達など、世界各国の救いを求める売春婦達であふれていた。
 ヤンシーは、会議に集まった売春婦達に向かって質問する。「聖書には『取税人や遊女たちのほうが、あなた方より先に神の国に入っているのです』(マタイ21:31)とあります。イエス様はなぜ、当時の宗教指導者達より、売春婦のほうが神の国に近いと言ったのでしょう?」…すると、会議にいた売春婦の一人が答える。「宗教指導者達には、見下す相手がいました。私達は最下層にいるので、見下す相手がいません。人は、どん底にいる時に助けを求め、神を求めます。だから最もイエス様に近いのかもしれません」
 私はこの言葉を読んだ時、こんなにつらい思いをしている女性達がいるのかと、大ショックを受けた。

 だが、今月の課題図書『絶対貧困の光景』を読んで、『神を信じて何になるのか?』の売春婦たちよりも希望がなく、「最底辺」なのではないか?…と感じて、目の前が真っ暗になった。

 私がショックを感じた点は、主に二点ある。
 第一に、資本主義の中で搾取される人達の、絶対的な無力さを感じたからだ。
 『神を信じて何になるのか?』には、子供の教育費用を稼ぐために売春の仕事をする、フィリピンの母親たちが出てくる。「売春をしたいと思わない。だが、明日の子供の給食費や教科書代を払うため、今夜、売春の仕事に行けば、必ず給料がもらえる。売春は給料が高いから」と彼女達は涙ながらに語る。
 貧困が原因で、子供のために売春する母親…。こんな酷いこと、絶対にあってはならないと思う。
だが信じられないことに、『絶対貧困の光景』のインドの売春婦達は、売春の労働で給料など、もらっていない。彼女達の身体を買う客達のお金は、売春宿の主人の手に渡るのである。
売春婦に限ったことではないが、資本主義体制の中では、労働者達の労働への対価は雇い主に支払われる。
 雇い主達は、弱者側の立場にいる労働者達を、意志や人権を持たない「使い捨ての駒」のように扱う。同じ人間を当たり前のように見下し蔑む強者と、搾取される弱者が存在し、内部の人達はその理不尽さに疑問さえ持てない、持つことを許されない残酷さに、ショックを受けた。

 第二に、ヒンドゥー教とカースト制の特異性である。
 『絶対貧困の光景』に描かれたインドの売春婦達の多くが、休み時間に敬虔に神に祈りを捧げている。しかし、はっきり言ってこんな神、一体何のための神なのだろうか?彼女達をここまで苦しめておいて、祈りを捧げられる価値などあるのか?と何度も疑問を感じた。「遊女達は神の国に近い」と聖書に記したキリスト教の方が、(若干偽善的にも思えるが)まだ貧困の最下層の女性達に希望を与えているのでは?とやるせなくなる。
 ヒンドゥー教には経典も開祖も存在しないため、「立派なヒンドゥー教徒として、このような振る舞いをしましょう」という行動規範がないという。(参考文献『池上彰の世界の見方 インド』)売春宿の主人たちには、「弱者の女性達に売春をさせて、自分は裕福に生きる人生を送って、来世で良いカーストに生まれ変われると思っているのか?」と質問したいが、もしかして彼らは、自分の生き方を邪悪だとさえ気づいていないかもしれない。
 外国に住む私達から見れば、カースト制ほど理不尽な制度はないにもかかわらず、インドでは数千年もの間、カースト制が続いてきた。これには「疫病などが流行らないように、同じカースト同士で生活させ、他カーストと交わらないようにした」などの便宜上の理由もあるだろうが、根本的には、「上位カーストが下位カーストを蔑み、彼らを搾取することで得をしたい」という心理が働き、社会全体がカースト制の維持に貢献してきたのだろう。
 「低いカーストに生まれたのは、前世で悪いことをした結果だ。仕方ない」という「あきらめ、絶望、無力感」が、ヒンドゥー教徒の間には蔓延していると思われる。苦しくても出口がない。夢や希望を持つことも許されない。そんな国が同時代に存在し、その国が核兵器を持って、将来人口世界一の国に発展する可能性があることが、ショッキングだった。

 もちろんインドには、カースト制の理不尽さに気づいて自力でヒンドゥー教徒から改宗したアンベードカルのような政治家や、猛勉強して海外に移民し、トップ企業に務め長者番付にランクインするような優秀なエンジニア達もいる。また、『絶対貧困の光景』の中にも、「売春の仕事だけは、自分はしない」と決断し、たくましく物乞いの仕事に徹している女性達も出てきた。
だが、幼い頃に売春宿に売られ、教育も経済力も与えられず、売春宿で労働させられ、それ以外の生き方を知らず、搾取され続ける絶対的弱者の女性達が、信じられないほど多く存在する。

 『絶対貧困の光景』の著者は、現場を取材し克明にリポートするという仕事をなしとげたが、HOMEDOORを起業した川口さんのように、インドの女性達を救うための組織を立ち上げるなど、問題解決に向けての具体的な活動を始めたわけではない。「え?この本を書いて終わり?」と、若干の失望も感じないではない。
 かといって私個人が何か出来ることがあるかといえば、たかが知れている。(発展途上国の女性支援の団体に定期的な寄付を始めたことくらいだろうか)
 自分の無知と無力さをかみしめ、恥ずかしく思いながら、「弱者の方々に貢献がしたければ、まず自分が強者となるしかない」と決意を新たにした読書体験となった。
 
投稿者 Terucchi 日時 
私たちは恵まれた国に生きている。

この本は著者が旅で訪れたインドの貧困街において、そこでの人々や売春宿での売春婦との触れ合いを通じて、見て感じた日々を書いた本である。そこでの女性は肉体的にも、精神的にもボロボロの状態である。そして、人々は貧しく、その貧困から逃れることもできず、将来に対する希望も未来もない状態である。貧困者の家庭に生まれた子供はやはり将来的にも貧困に成らざるを得ない。著者はそれを貧困から逃れることができない絶対貧困として見ており、もし神様がいたとしても、その神様から見捨てられている光景だと捉えている。

この本を読んで、今の日本に住む私たちはとても恵まれた世界に生きていると思い知らされる。私は日本という国に住んでいて、日本の状態が当たり前であることを知っているから、比較して、インドの貧困街よりも日本が良いと思える。もし今の日本人がそのような環境に生まれたら同様に生きて行けるのであろうか?当然の答えであるが、生きてはいけないだろう。もし今の日本が嫌だと言っている人間に対して、このようなインドの生活と代わっても良いかと尋ねてみても、誰も代わりたいなどとは言わないであろう。では、インドの貧困街の人はどう思うのであろうか?そのようなことさえ、考える余裕はないであろう。なぜなら、一日一日を生きることで精一杯であり、余裕がないため、そんな日本のような世界があることも知らないからだ。そして、著者がインドで生きることはサバイバルだと言っているが、人は自分に余裕がなければ、他人に対して救う気持ちになれないと考えるのだ。

ところで、日本が恵まれていることはわかるが、果たして、今後も恵まれた国であり続けるであろうか?私は、この本の中の著者の言葉(p 265)である『インドで見てきたのは、日本の過去か、それとも、日本の未来か。今でも私はそれが分からない』が印象的である。その理由は『家賃が払えなくなって・・ネットカフェを渡り歩いて生きる日本女性と・・・インドの貧困女性と何が違うというのだろう。・・・格差が広がって・・・這い上がれない層が出現していく可能性はとても高い』が印象に残った。確かに、日本もインドのような状態に転落していく可能性は十分にあるのだ。

ここで、インドと比較して、なぜ日本がこれほど恵まれているのか?を考えてみたい。日本でもこのインドのような貧困があるのかどうか。そもそも、日本では幸運にも生活保護という制度がある。インドのような貧困な生活に陥る前に、その制度に頼ることもできるのである。ここで、なぜそのような制度が維持できるのであろうか?それは、やはり日本が経済大国であるからだ。なぜなら、経済的に余裕があるから、貧困者を助けることができるからだ。だから、当たり前の話であるかも知れないが、日本の経済が大事であることを改めて思い知らされた次第である。もし日本が今後経済的に余裕がなくなったら、同じように貧困者の助けることができるのだろうか?この場合、経済的に余裕がなければ、この制度を維持できるとは、私は思えない。なぜなら、まずは皆自分のことを守ることに必死にならざるを得ないと考えるからだ。すなわち、他人のことなど構っていられなくなり、人を救うことまで考えられなくなると思う。だから、経済的に余裕があることは必須の条件である。だから、経済を大切にする政策は、当然重要な位置付けであると私は考えるのだ。今、少子高齢化によって、経済成長は望めないため、将来は明るくはない。日本はかつての高度成長期のようなものは夢であり、正直期待はできない。しかし、経済対策を打っていかなければ、本当にもっと悪い未来となって、最悪はこのインドのようになってしまうかも知れないと私は考える。今のコロナ対策では、緊急事態宣言やまん防などの経済を麻痺させてしまうことばかりで、それによって飲食業や旅行業などの業界では、失業者が増えている。協力金などの対策はあるが、結局過去に貯めたお金や借金を流出させているだけであり、経済が循環せず、今後税負担を増やさなければ手が回らず、どんどん悪い流れに行ってしまうであろう。もし、今、真剣に手を打たないと、失業者がどんどん増えてしまい、手遅れになってしまうかも知れない。まずは経済の優先的な立て直しを期待する次第である。

以上、私たちは恵まれた日本に生まれているが、そのようにいられるのも経済大国であるからこそであり、余裕があるから恵まれているのだと実感する。そして、もしその余裕がなければ、他人のことまで考えることはできない、ましてや、智の道のような自分の幸せと他人の幸せを考えることなんてできやしない、と考えさせられる次第である。
 
投稿者 str 日時 
実に救いのない現実もあるものだと感じた。私自身インドには行ったことがないが、タイやインドネシア、シンガポールなどでこのようなビジネスが行われている地帯を見たことはあるが、正直言って全くの別物のようにさえ思える。

派手なネオンもアップテンポな音楽も冷えたビールもない。観光客を相手取ったビジネスと呼ぶには程遠いものだろう。「単純に儲かるから」「夢や目標の為にお金が必要だから」「欲しいものがあるから」「家族に楽をさせたいから」そういった動機付けの類は一切なく、「生きていく上でそれしか術がない」か「逃げられない」かの二択でしかない。

例えば日本であれば古くは“花魁”、現代なら“No.1”とか“女王”といった称号を努力して獲得することも不可能ではないだろう。そうすれば界隈での地位や収入のキャリアアップも夢ではない。しかしカースト制度が未だ残るインドではそういった出世に繋がる道が完全に断たれている。病気になるか心をやられるか。身体か精神のどちらかが壊れるまでその生活を余儀なくされるというのは想像を絶する。

『現在の生まれが悪いなら、来世に望みを託す』という考え方は、努力したところで報われないどころか、努力できる環境や機会すら与えられることのない人たちの辿りつく答えとして仕方のないことなのかもしれない。と、同時にそのような状況下でも自死を選択することなく生き抜いている彼女たちの強いエネルギーも感じ取ることが出来た。

タイトルにある『夢見ることを許されない』とは決して大袈裟な意味でなく、同じ地球上で現在でも貧困に苦しみ、およそ人権なんてものもなく、酷い扱いを受けている人がいるのだということを改めて感じた。しかし2022年を迎えても差別や貧富の差がなくならないどころか、戦争すらもなくならない。日本が100%安全である訳でもないし、元々震災などの多い国でもある。今は“遠い国で起こっていること“だとしても、突然自身の身に訪れる可能性もあることは忘れないようにしよう。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、ブロガーである著者が、決して這い上がることの許されない、インド最貧困層の女性達について描いたノンフィクションである。私は、ページ数の多い本ではなかったにも拘わらず、本書をなかなか読み進めることができなかった。その理由は、率直に言って、読んでいて不快感ばかりが立ち上がり、一度読むことを中断すると、再度本書を手に取ることができなかったからである。この不快感は、本書で描かれている女性達のあまりに絶望的な情況に対して感じたものであり、同時に何とも言えない無力感も覚えた。本書で描かれているインド再貧困層の女性達が夢を持てない最大の理由は、インド社会にカースト制が根強く残っていることだ。最貧困層として生まれた人はその身分のまま固定されてしまい、這い上がることが許されないのである。本稿では、インドでカースト制が残り続ける理由について掘り下げ、こうした不遇の状況に立ち向かうための考え方について論じてみたい。

カースト制とは、ヒンドゥー教で規定された身分制度であり、現在のインド憲法ではカーストによる差別は固く禁じられている。しかしながら、本書の中で、インド再貧困層の女性が這い上がれない要因として、繰り返しカースト制の問題が指摘されている。こうした記述から、インド社会においては社会規範として国民の生活に根付いており、当たり前のように差別が行われていることが分かる。私は、最初なぜ現代社会でこのような差別を助長するような文化が残り続けているのか疑問だった。生まれた時の身分を固定し、かつその身分に明確な上下が存在する制度は、数百年前の貴族社会ならいざ知らず、現代では明らかに時代遅れであるはずだ。しかしその疑問も、本書を読み進める中で合点がいった。インドでは、現世のカーストが前世における行いの結果であると考えられているのだ。そのため、現世で下位カーストにいる人間は、前世で悪行を繰り返したものと見なされ、蔑まれる。反対に、現世で上位カーストにいる人間は、前世で善行を積んだものとして、尊敬を集める。つまり、現在のカーストは、その人自身の過去における行動が原因にあるので、下位カーストにいる人間の不遇の環境は、自業自得であることになる。

過去世での行いが、現世に影響を与えているかどうかについては、私は分からない。過去世を客観的に明確化する術もない。しかし、だからこそ、こうした因果応報の考え方は、上位カーストの人間が、自分達の身分を守るために生み出したものではないかと私は疑ってしまう。上位カーストの人間は、自分達の利権や富を守りたい。彼らにとっては、下位カーストの人間に、自分達の特権を脅かされることなどもってのほかだ。ただ、差別を正当化するには、それ相応の理由付けが必要になる。そこで、現世におけるカーストを、過去世における行動と因果でつなぐのである。そうすることで、恵まれた環境も、不遇の境遇も、全て原因者はその人自身になり、身分を固定化することが可能になるのだ。こうした身分の固定化で利益を得るのは、明らかに上位カーストの人間達であり、こうした人間の恣意性を感じずにはいられない。

ただ、過去世がどのようなものだったか、現世にどのような影響を与えているのか、確定的に調べることができないからこそ、発想を逆転させることも可能なはずだ。つまり、過去世で悪い行いをしたから、現世で不遇の環境を与えられると考えるのではない。過去世で大事を成した成功者であるから、現世ではその人であれば超えられるハードルとして、厳しい環境が設定されると考えるのである。逆に、過去世で良い行いをしたから、素晴らしい環境を与えられると考えるのではない。過去世で失敗続きでどうしようもない人間だったからこそ、現世では簡単に幸せになれるよう恵まれた環境が設定されると考えるのだ。このように考えると、下位カーストの人間であればあるほど、過去世においてはより大きなことを成し遂げた成功者であることになる。人は超えられるハードルしか与えられないと言うが、不遇の環境もその人であれば乗り越えられるハードルとして、敢えて設定されたものだと考えることができる。

私は、本書で描かれている女性達も、こうした発想の転換をしていくことで、必ず人生で這い上がれるとまで言いたいわけではない。私の想像を絶する厳しい環境に置かれた彼女らを前にして、そこまで無責任なことは言えない。ただ、彼女達にも希望が必要だ。本書のタイトルは、『夢見ることを許されない女たち』である。夢とは希望であり、前を向いて生きるための光だ。こうした光を一切感じることのないまま人生を歩むことは、あまりにも悲しい。せめて、不遇の環境も、過去世における自身の悪行が原因ではなく、自身の成功が招いた超えられるハードルだと考えることができれば、少しでも前を向くことができるのではないだろうか。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 msykmt 日時 
自分の人生を生きているという実感は、自分の人生における選択権が自分にあると認識できるからこそ得られるものなのではないだろうか。本書を読んでそう考えた。

とはいえ、そのような選択権がない人たち、すなわち本書に出てくるような物乞いや売春婦でも、今日あるいは明日食べるものを得るために活動することによって、生きているという実感は得られるのではないかという意見は否定できない。しかし、それは人間を、他の動物やモノのように、生まれたときからあらかじめ役割が決まっている本質的な存在ではなく、自分で自身の役割を決めていくという実存的な存在ととらえたときに、彼らは人間として生きているという実感が得られているとは思えない。したがって、自分の人生を生きているという実感は、自分の人生における選択権が自分にあると認識できるからこそ得られるものだという考えの反論にはならない。

では、本書のどの部分を読んでそのように考えるに至ったのか。それは、物乞いの女性が、羽蟻や、蚊、ネズミが身近にいる屋外で眠らなければならないという部分を読んだときに、それがもし自分であったならば、とうてい生きた心地がしないと感じたからだ。はるかに度合いは異なるものの、これまでに、私は似たような状況を体験したことがある。それはどういうことかというと、米屋の倉庫が一階にある、木造アパートの二階部分で暮らしているときに、ネズミが深夜に屋根裏や壁の内側を激しくかけまわることが多々あったのだ。そういう状況になったときに、その不規則で激しい物音により、ストレスで生きた心地がしなかったのをいまでも憶えている。また、先の物乞いの女性のような屋外での状況ではなく、屋内の状況であっても、例を引ける。それはなにかというと、本書で売春婦の家や部屋の状況を描写するときにたびたび登場する、カビ臭さや、アンモニア臭だ。このような状況にいたっては、想像を絶する。そのような臭いは私に頭痛をもたらし、物事を主体的に考えることなど、まったくできなくなるだろう。

前段で述べてきたものは、自分の外側の環境に関するものであったものの、自分の内側の、内面に注目するとどうだろうか。本書にもあるとおり、インドでは、いまだにカースト制度の考え方が根深く残るため、物乞いの子供は物乞いに、売春婦の子供は売春婦になりやすいという。彼らのように今日あるいは明日食べるものを得られるかどうかわからないほどに貧しくあっては、そのような輪廻を疑い、なんとか這い上がる手段を考える余地など、うまれようがない。やや縁遠いものの、似たような例を、私の体験から引き直すと、過去に仕事で、激務を強いられる現場に配属され、かつ、満員電車に乗って通勤しなければならない状況になったときに、毎日心はすり減っていく一方なのに、毎朝自分を奮い立たせた上で、通勤し続けたことがあった。いま振り返ってみると、私の人生においては、そこまでして通勤する意味はなかったものの、そのときには立ち止まって考える余裕も、その状況を変えようする余裕もなかったのだ。あのとき身体は生きていたものの、私の心は死んでいるに等しかった。

以上により、自分の人生を生きているという実感は、自分の人生における選択権が自分にあると認識できるからこそ得られるのだという学びを私は本書から得た。先に上げた私の仕事での例であっても、その仕事を選ぶか選ばないか、あるいは、満員電車に乗るか乗らないかの選択権は私にあったのだ。だからなんなのかというと、本書にあるようなインドの貧困層の状況とは異なり、ここ日本においては、生活保護というセーフティネットを選択することによって、少なくとも貧しさは回避できるのだ。だから、享受しているその選択権をぞんぶんに行使した上で、ときにはリスクをとり、それにより何度か失敗をすることによって、自分の人生を生きている実感を味わいつくさなければ、日本で生まれた自分の人生に対して失礼なのだ。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
日本ではインドは成長著しい新興国の一つであると考えられているが、実は世界的に見て貧困率の高い国でもある。本書には、そんなインドで史上最悪とされる売春街で生きる女性達の壮絶な日常が記されている。そこは、路上生活で風雨にさらされ、蚊や害虫の為ろくに眠ることもできず、泥水をすするようにして生きる最底辺の物乞いですら身を堕としたくないこの世の地獄であるという。元々インドにはヒンドゥー教の価値観をもとに設定されたカーストという身分制度があり、貧困家庭に生まれた人間は一生貧困のままでいる事を社会から強要される。つまり貧困層が這い上がることが許されない社会なのである。壮絶な貧困と社会の無理解の中、子供を売る親が後を絶たず、未成年の女の子にも売春をさせているケースや先祖代々売春をするしかないカーストまであるという。インド政府はカースト制の廃絶を目指しているものの、ヒンドゥー文明に基づく価値観のためなかなかなくすことができずにいる。しかしこの様な因習を実質的な意味で打破しない限り、貧困層の女性達が豊かになる夢を見ることなど到底叶わないだろう。

そんなカースト制度に苦しめられているのは、女性達だけではない。カーストで格差が固定される社会では、低カーストの男性達の人生も絶望的である。出自を理由に貧困から逃れることが許されず、尊厳を踏みにじられた男性達は、お金のチカラを借りて女性を買い、あるいは暴力で女性を屈服させ、女性を見下すことでしか自信を回復することができない哀れな存在なのかもしれない。本書に出てくる女性達が筆舌に尽くしがたい地獄から逃れられないのは、背後に彼女達から搾取する以外に生きる術を持たない男性達がいることも一因であろう。

このような意見に対して「悪いのは女性を搾取する男性であるから、女性の労働場所である売春街を消滅させればよい」とする意見もあるはずだ。確かにインドの売春地帯はダーティー過ぎて到底許容できない社会の暗部であり、政府がその気になればいつでも破壊可能なはずである。しかしそれではうわべだけの解決にしかなりえない。女性がモノのように売買され、男性は女性を意のままに搾取して構わないという闇社会の構造が変わらなければ、何度潰しても壊しても、売春産業が衰えることはないだろう。たとえ売春産業が地下に潜ったとしても、貧困女性達が形を変えて搾取され続けることは想像に難くない。彼女達を呪わしい運命に縛り付けているのも、女性を支配する男性というよりは貧困を前世の報いとして放置するカースト制度だと言える。

この救いようのない事実を突きつけられ、何か出来る事などあるのだろうか?私は、まず日本国内における因習や差別から目を背けず、声を上げることが大切であると考える。なぜならば、インドの貧困地帯で起きている悲劇とは比較にならないが、現代の日本にも封建的な制度の影響は少なからず残存しているからである。例えば私自身は、家父長制度が根強く残る地方に生まれたため、男尊女卑の家系ルールから逸脱しようとする度に親のみならず親戚からも妨害され制裁を受けてきた。幸い私は故郷から脱出することができたが、途中で力尽きてしまった従妹達は人生を諦め現在ニートになっている。日本はインドよりはるかに豊かで恵まれた国のはすだが、本書に出てくる物乞い女性の「自分にはどうすることもできない」という想いには、私の従妹達と共通の諦めが感じられ、読んでいて身につまされた。私だって人生の歯車がほんの一つ違っていればどうなっていたか判らないことを思うと、インドの貧困女性達の悲哀は他人事とは思えず、背筋を冷たいものが流れるのである。従妹達とインドの貧困女性達の共通項の一つに「こうなったのは本人の自己責任」とされ誰からもサポートを受けられない点が挙げられる。つまりインドでも日本でも、一度転落したら二度とそこから這い上がることができない女性たちの不幸の根源は、弱い立場の女性から生きる希望を奪い、絶望へと叩き落としてゆくことを躊躇しない旧社会の因習なのである。

このように、一見豊かな日本においても男尊女卑的な家父長制度の余韻は暗い影を落としている。しかしそれらはあまりに日本社会に溶け込みすぎていて、男性はもとより女性本人も気づいていないことが多い。私も、女性であることを理由に自らを貶めていると他人に指摘されるまで気づかなかったことが過去数回あり、反省しきりである。私は、このような無自覚な刷り込みを自ら正してゆく努力を怠ってはならないと考える。なぜならば、問題を誰かのせいにして批判するだけでは何の解決の糸口も見えてこないからである。むしろ不運な体験をした側だからこそ、社会システムの歪みや差別の問題を提起し、対話の糸口をつなぎ続ける手間と労力を惜しんではならない。まず自分の身近な課題解決に向けて奮闘するプロセスが、いつしか世界の何処かで差別や貧困に苦しむ女性たちの一助になる可能性もあることを、自ら否定すべきではないと考える。
 
投稿者 vastos2000 日時 
自分はラッキーだ。この時代の日本に男に生まれたのだから。日本に生まれただけでもラッキーだけど、努力して勉強をすれば大学までいける環境と能力を与えられて生まれたことは、両親をはじめ祖先にも感謝すべきだとあらためて思わされた。
そして、勉強ができる環境だけでなく、頑強な体も与えられた。ここ3ヶ月ほど残業が続いており、寝床にたどり着く前に床やソファで寝落ちしてしまう毎日だが、風邪もひかないしコロナにも感染しない。子どものころから皆勤賞続きだったので、(多少は私の健康意識が影響しているかもしれないが)親が頑強な体に産んでくれたからだろう。

私はそのような環境にいるのだから、努力の影響の幅が大きいだろう。今までの経験や知見から、自分の努力次第で転職することももっと稼ぐことができることを知っているのだから、他人ではなく自分に対しては「願望を達成するには努力が足らない」と言うことができる。

日本に生まれ、努力する余地がある私に対し、本書に登場する女性たちは、タイトルに『夢見ることを許されない女たち』とあるように、そもそも努力ができる環境にいない。

仮に天才的な頭脳を持っていても、それを発揮する場がないし、そんなことは周囲から求められていないだろう。本家『実力も運のうち』よりも本書のほうがそのことを感じさせられるくらいだ。

インドで低カーストであったりカースト外に生まれた人間は、非常に過酷な環境で死ぬまでサバイバルしていかなければならないことは本書や『アンベードカルの生涯』からわかる。
日本国内においても「貧困の連鎖」や「教育格差」という言葉を耳にするようになって久しい。10年ほど前だったように記憶しているが、国内最難関の大学である東京大学の入学者は、高所得層の家庭の出身者の割合が多いという調査結果が週刊誌などで取り上げられた。正確な数字を覚えていなくて申し訳ないが、世帯収入で900万円以上の家庭が占める割合が6割を超えていたように思う。大学入試で高得点を取るには、高校中学は進学校にいくのが有利だし、進学校に合格するためには塾に通う方が有利であるので、学習に多くの費用を割ける高所得家庭の子が有利ということになる。そして(今のところは)高学歴のほうが給与が高い仕事につきやすいので、高学歴の親の家庭は所得が高いことになり、その子息がやはり高学歴を獲得しやすいという構図ができあがっている。その構図をより固定的にしたのがインドの階層社会ではないだろうか?

日本は相対貧困の割合は16%に達するとの調査も出ているが、今のところは絶対貧困の数はアジア諸国やアフリカ諸国に比べ少ない。インドでは本書執筆時点で2億人以上の絶対貧困者がいるが、それだけ大量だと著者の言う通り、とても支援の手が回りきらないだろう。私は日々の生活に困窮しているわけではないので、毎月定額を国連難民高等弁務官事務所に寄付しているが、やらないよりはマシといったレベルだ。

「本人の責任ではないのに貧困生活を送る人たち」に対して、私は何を思えばよいのか。
著者が感じるところでは、インド人は自己中心的な人の割合が高いとあるが、きっと彼ら彼女らは困窮していて自分のことで精いっぱいなのだ。日本人から見れば自己中心的だが、インドの特に貧困そうではそれが普通であるように思う。いわば日本人は相対的に彼らを見ているので、自己中心的とかんじるのだろう。
似たような話だと思うのは、うつ病やいじめが原因で自殺する人が無くならないことだ。第三者の立場で安全な場所から見れば、「うつ病になるくらいなら会社を辞めればよいのに」とか「死にたいくらい嫌なら学校に行くのをやめればよいのに」と思うが、それは外から見ているからだ。傍目八目とはいうが、見る対象から離れるほど視界に入るモノが増える。

きっと本書に登場する女性たちに対しても同じで、「今の環境から脱出する方法があるのではないか」とか、「10年経って暮らしがマシになっているのではないか」などと外から見ている人は思うが、本人たちはどうしても見聞きする範囲(視野)が狭くなってしまうし、今日も明日も昨日も大した違いはないので、そもそも「こことは違う世界がある」ことを考えられないのかもしれない。

著者も私も、本を読むことができ、インターネットにも好きにアクセスすることができ、知識や情報を得やすい環境にあるので、たまたま本書に登場する女性たちよりも広い視野をもつことができているから「貧困からの脱出」に考えが及ぶのだろう。


同様に、私よりも上位からモノを見ると、また違うこと(より大きな枠組みの解決手段)が思い浮かぶのかもしれない。
だが、今の私が思うことは上記のようなことで、実際に彼女たちによい影響を及ぼすことができない。家族や同僚といった自分の身近な人達に対してもどれほど良い影響を与えられているのかわからないが、少なくとも努力が良い結果を生む環境に生きていること、より高い視座を手に入れられるよう努力すべきであることを思い出しながら日々の生活を心穏やかに過ごしたい。
 
 
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投稿者 akiko3 日時 
「比較は不幸の始まり」と聞いた時、なるほど!人が羨ましくなり、不平不満がでていた若いOL時代、人と比べることはやめようとガッテンしたのだった。
そして、観光付きのボランティアツアーでインドに行った。
そこで目にした風景は、同じ2000年代とは思えなかった。
ストリートチルドレン、水汲みが仕事の子供達。
観光地には、手足のない乞食(として生きていけるように親が鉈で切り落とすこともあると聞いた)や日本人価格で吹っ掛けてくる物売りにすぐとり囲まれた。
田舎では、地元の少年達がホテルまでの道のりを「学校に行きたいんだ、教科書買うお金くれない?」と英語で巧みにアピールしてきた。
この”生きる”ことにかけるエネルギーに圧倒され、日本に生まれてよかったと思った。

関空に降り立ち、チリ一つない、なんだったら寝そべることもいとわない清潔なトイレに大富豪になった気がした。(現地の空港トイレの入り口で悪臭で尿意が止まった。)日本で暮らせる幸せに、いい仕事していこうと超ポジティブ人間になっていた。

母にボランティアの話をすると、日本も戦後は(父が戦死してても)周りもそうだったから不幸に思わなかった(寂しさはあっただろうが)。それより、カラの弁当箱を教科書で隠すようにして食べるふりの同級生もいたと目をうるませ、話してくれた。
当たり前の幸せに、そうではない現実を見ないと気づけなかった...。

もっと底辺のインド人の暮らしを見てきた方から、雨が降ったらぬかるみの中で寝るような動物以下の生活を強いられている人達もいると聞いた。
でも、そんな生活しか知らないから不幸じゃないんだとも言っていた。なんだか禅問答のような、どう相槌を打っていいやら言葉に詰まってしまった。


こんな20年前のちら見しただけのインドを思い出しながら、「夢見ることを許されない女たち」とある副題が、”夢見ることを知らない”ではなかろうか?または”夢見ることを諦めた”だろうかとひっかかっていた。

夢は人生の目標や希望を創造することで生まれると思う。
この創造は、他者との比較やそれによって抱く憧れから派生することでもあるだろう。
比べるもののない、変化なくずっと続く当たり前の中にあって、当たり前でないことを創造できるものだろうか?
(そんな0→1を生み出せる人は抜きんでて、成功している。以前の課題本の不可触民の出身だったアンベードカルは奇跡の人だと改めて思った。)

ふと、ノミの実験が浮かんだ。2m飛べるノミを制限のあるケースに入れておき、2m飛べない体験が続くと、ケースから出しても高く飛べなくなっている(制限なく飛べるノミの姿を見るとまた飛べるようになるというオチもあった)。

インドにはカースト制度があるからと貧富の差の理由のように考えてしまいがちだが、職業を別々にして、交流しないジャーティーという集団概念があるからだろうとの思いが強くなった。
カースト制度は大きく分けて4つ。不可触民はその階級外の底辺。
生まれ落ちた集団で生を全うし、カルマを消化する。
階級の一番上であるバラモン(僧侶)がそんな真理を説き、カルマの消化という輪廻観があるから、底辺の底辺で生きる物乞いやビジネスウーマンは”夢見ることを許されない”女と表現したのかと腑に落ちた。

だが、ビジネスウーマンを毛嫌いしていたピアは、まだ夢を見ることができた。
ピアが著者に「インド人と結婚したら、3人でメイドとしてずっと世話する。」と持ち掛けた。(え?メイドでいいの?とちょっと不思議だった。もし、自分だったら、親しくなった豊かな日本人に期待してもっと多くを望むように思ったから、他の二人に対する遠慮で3人がwinwinになるメイドを落としどころにしたのだろうか?夢を見ることに慣れていないのだろうか?)
路上生活はきつい。でも、知り合いのメイド(著者から見てめいいっぱいのおしゃれをしているように見える)への憧れは、路上生活の一歩先にある豊かさなのだろう。
著者はメイドも見下されたり、雇用主によるセクハラや搾取もあるだろうと書いていたが...。

ピアはその夢が叶わないとわかっても、結局、元の当たり前に戻るだけでそんなに悲観はしないだろう。ただ、創造しただけなのだから...。

インドツアーから帰って、なんて豊かな暮らし、人生なのだろう、この豊かさを分かち合って生きていこうと思った。
それから、年を重ねる中、針の筵のような状況におかれたことがあった。一度、豊かで幸せな日常を味わった後、こんな苦境はきつかった。あと何年続くのか?とため息しかでないこともあった。でも、状況は必ず変化するし、不幸なだけではなくちゃんと豊かさや幸せもあると目を向けられた。変わらなければ、自分で変える。そんな選択の自由があり、この切り札は支えだった。

最後に、絶望の中にいても、自殺者が少ないことも不思議だった。
”神を信じ、生かされている”という死生観があるから?
”苦境もカルマの昇華”という輪廻の思想があるから?
”比べる当たり前がない”から絶望を感じてない?
インド人に限らず、人がどんな価値観で生き、幸か不幸かなんてわからないし、決められないけれど、自分の人生については、生かされていることに感謝して、いろんな人と交流し、いろんな価値観や感情を体験し、自分の器を大きくし、感情のひだを豊かにする。
まだ、他人と比較してしまうことはあるが、もう不幸にはならない。
 
投稿者 H.J 日時 
読書中、次々と感情が湧き立つ一冊だった。

本書の舞台インドのイメージは日本と同じアジアの国であり、多様の宗教が共存し、スポーツで言えばクリケットやカバディのイメージが強く、IT化が進み更なる経済成長も期待され、中国に次ぐ人口大国。近年では高所得者が増加しており、消費拡大しているというニュースも耳にした事がある。その一方で、貧困層というインドの抱える問題も勿論聞いたことがある。ただ、本書の様に経験談の生々しい状況は中々耳にすることはなかった。

「絶対貧困の光景: 夢見ることを許されない女たち」私はこのタイトルを見た瞬間はルポだとは思わなかった。現代の日本、資本主義社会に生きている私たちにとっては、”夢見ることが許されない”状況など夢にも思わないからだ。例えば、どん底にいる状態だとしても努力と方法次第で逆転の可能性が残っている我々の住む国に対して、本書に記されているインドの女性たちは身分制度が理由で文字通り”夢見ることを許されない”のだ。いや、夢見ること自体は許されるが、叶えられない夢なのだ。
P135に書かれている様にインドの身分制度は産まれた瞬間、才能に関わらず仕事が決まってしまう制度。それはインドで当たり前となっている「乞食の子は乞食」「売春婦の子は売春婦」という伝統に染まる教育により、親から子に、子から孫に受け継がれる負の価値観がそうさせているのだろう。同じ時代を生きてるのに、産まれた場所や環境や親が違うだけで、ここまでの格差が拡がる。日本では「親ガチャ」という言葉もあるが、本書を読んだ後では、そんな言葉が正に当て嵌まる国だと感じる。
本書前半で、インド女性が物乞いビジネスに子供を利用する姿の事実が描写された場面では、驚いたと同時に少なからず憤りを感じた。しかし、冷静に考えれば、そう言った感情が立ち上がるのは衣食住に困る事のない立場から見ているからである。彼女達に選択の有無はなく、正否も善悪も存在しない。ただ、今日を生きるために必要なことなのだ。もしも、私が彼女達の立場であったとして、子供を利用しない自信があるかと言うと、答えはノーだ。ある程度は我慢するだろう。しかし、空腹が続いたらどうだろう?空腹に耐えられなくなったらどうだろう?背に腹は変えられない。どうせ私が我慢しても、他の誰かに利用される結果は変わらない。そう言い聞かせて、彼女達と同じことをするだろう。そして、その生活を今日を生きる為に続けるだろう。日本で生まれ育って、日本で培った倫理観を持ち合わせた状態でもこんな答えしか出ない。現地で生まれ育って、現地の倫理観しか持っていなければ、この状況は当たり前と言える。

そして、衝撃的なタイトルやエピソードと共に記憶に残ったのが、著者の問いかけである。P265で『インドで見てきたのは、「日本の過去」だったのか。それとも、「日本の未来」だったのか・・・・・・。今でも私は、それが分からない』最後の最後でまた衝撃的な問いかけである。どちらかと言うと私は、一昔前の中国をイメージしていた。実際に中国の内情に詳しい訳ではないが、人口の数や貧困の差、IT分野の成長等、一見、少し前の中国に似ている気がする。それだけに、この著者の問いかけに「え?日本?」と思ってしまった。ただ、「そういう考え方もあるのね」とスルーするわけにもいかない。著者が復刻までした本書で伝えたかったことは何か?と考えると、インドの貧困の現状を伝えたいということと同時に、この最後の問いかけな気がしたからだ。