投稿者 vastos2000 日時 2023年6月30日
本書の『ガキ大将も不良もいなくなった』のパートを読んで思い出したことがある。
90年代後半私は大学生だった。夜も出歩くようになり、何度か暴走族の集団暴走に出くわした。
その規模は150~200台と言ったところで、集団の後ろを何台かのパトカーがついて行くのがいつもの光景だった。
大集団であったからか、信号無視は当たり前で、当然ながらヘルメットをかぶっていない者が多数だった。
それに対し最近は、20台を超える集団暴走を見ることはなくなり、それらしきバイク(排気音がうるさく、シートやカウルが改造されている)を見ても、安全面では疑問だが一応ヘルメットをかぶっているし、信号も守っている。
先月も2台連なって走行しているのを見かけたが、その時の目撃現場は片側2車線の国道で、時間は22:00頃。交通量は少なく、信号無視したところで事故が起こりようがない交差点であった。
ここ数年思っていたことだが、「そんなナリしてるくせに赤信号は守るのか、なんの目的でそんなバイクに乗っているんだ?ここで信号無視したところで、パトカーも(見える範囲には)いないし、事故も起きようがないのに。」というものだ。
別に信号無視を推奨するわけではないが、この例にみられるように日本全体がエネルギーを削がれている気がしてならない。
私自身が目にした例を日本全体に適用して良いかはわからないが、上に書いた事に関連し、感じていることがもう一つある。
自分の子どもが小学校に通うようになってから、「今の社会は子どもに甘い」と感じる場面が増えた。例えば、二ヶ月に一回くらいの割合で旗振り(交通指導)の当番が回ってくるが、雨が降ると車で学校の近くまで送ってくる家庭の多いこと。かく言う私の子どもも、おばあちゃん(私の母)に学校まで送ってもらうことがある。昔は台風が来ていて、道路とドブの境目がわからないくらいの雨だったとしても、びしょ濡れになりながら学校に行ったし、多少の体調不良でも学校に行った。昔の親はあまり子どもにかまっている余裕が無かったのかもしれないが、少なくとも今の子どもよりはタフだった。おそらくは私の上の世代に行けば行くほどタフだったと思う。戦中生まれやベビーブーマーの世代のタフさには敵わない。良く言えば洗練されたのだろうが、どんどん日本は過保護になっていっているように感じる。
私が小学生のころですら、学校の教師にもサッカー少年団のコーチにもぶん殴られたし、それに対して「自分が悪かったのだから殴られるのは当たり前だ」と考えていた。また、練習中に水を飲むことはできなかった。高校時代はさすがに水を飲むことが許されたが、今の子ども達だったら(平均気温が上がったこともあるが)何人もぶっ倒れることだろう。
子どもに限らず、大人社会も同じかもしれない。今ではすこしキツい事をいうだけでハラスメンだなんだと言われる。それ自体は良いことだと思うが、ハラスメントを恐れるあまり、萎縮してしまっているのではないか。私も女性の部下の身体には触れないように気をつけているし、指導の仕方も注意している。それでもいつハラスメントを訴え出られるかわからない。最近ではスメハラなるものもあるようだし。八方向全方位に気を遣わなければ、どこから刺されるかわかったものではない世の中になってしまった。仮に私が独身だったとして、部下に好意をいだいて、プレゼントを贈ったり、食事に誘ったりすればセクハラだ、パワハラだと訴えられるリスクが生じる。これでは晩婚化やら草食男子の増加やらが進むわけだ。
それが良いか悪いかは判断できないが、きっと快適さや利便性と自由度はトレードオフの関係なのだろう。生活は便利で快適になったし、平均寿命も延びた。私が子どものころは70歳前後で亡くなる人は珍しくなく、私の祖父も祖母もともに7人兄弟だったが、80歳まで生きたのはどちらも二人だけと記憶している。いまは70歳を超えて働いている人が身近なところに数人いるくらい寿命は伸びたのに。
本書では子育てするには厳しい社会環境であることが書かれていたが、高齢者に対しては甘くなっている。甘くなったというよりは、高齢者が増えて対応が必要になったのかも知れない。30年前はいわゆる老人ホームはほとんど見かけなかったが、いまやあちこちに高齢者施設ができている。朝はあちこちでデイサービスの迎えの車を見かける。特養、老健、デイサービスが学区内だけで10はある。子どもの数はこの30年で半減して、そろそろどこかの小学校が合併するかもなどと言われている地区だというのに。
私も基本的には死にたくないが、認知症などでやりたいこともできず、世の中のことがわからない状態で生きるくらいならさっさと死んだ方が良いとも思う。死生観と呼べるほどのものはまだ身につけていないが、生きる目的がわからなくなったら生きている甲斐もないと思う。
健康のために生きるのではなく、この人生で成し遂げたいことをなすために健康でありたい。
健康は目的で無く手段であるので、体ではなく精神のために、たまにはアルコールも飲むし、活性酸素が増える激しい運動もする。
あまりお手本になるような人生ではないので、他人に対して影響を及ぼそうという高望みはしない。しかし、せめて自分の子どもには今の不自由な日本社会に気づいてもらい、自分で生き方を判断できるようになってもらいたい。いまの社会をつくったのは私を含めた大人の責任であるので、親の責任として子どもがまっとうな判断力をつけられるよう批判を恐れずに教育したい。ありきたりな言い方だが、強い人間になってほしい。最も“強い”ことが価値を持つかはわからないので親のエゴかもしれないが。