ログイン | 新規登録

第146回目(2023年6月)の課題本


6月課題図書

 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 

日本という国は、ドンドン清潔に、安全に、道徳的で、秩序ある国になっているのは間違

いないんですが、それって本当に我々の幸福に寄与しているの?なんだか昔の雑多な国だ

った頃の方が幸せだったんじゃないの?ということを、問題提起されて初めて気付く、し

かしその解が(なぜそうなのかということ)パッと思いつかない、それって今の社会に馴

致されちゃったってことじゃないの?

 

その結果、先ほどの、「むむむ、なぜこのようなことに・・・」となってしまうのです。

 

私はフツーの人に比べたら、それなりにモノを考えていると思っていたんですが、この本

で指摘されたことについては、ほとんどスルーしていまして、

 

 

  ■ こんな顕著な事例があるのに、何一つ考えてなかったのか!!

 

 

と背中から汗が出て来ました。

 

 【しょ~おんコメント】

6月分投票結果

 

6月課題図書の投票結果を発表します。

 

6月はCocona1さんが5票、masa3843さんが1票という結果になりまして、ここまでの

ポイント数は、Cocona1さんが5pts、3338さんが3pts、LifeCanBeRichさん、daniel3さん

とmasa3843さんが2pts、Terucchiさんが1ptsとなりました。

 

【頂いたコメント】

投稿者 kenzo2020 日時 
社会がきれいで美しくなればなるほど、住みにくい世の中となる。

自由を求めた結果、何々してはいけないと制約が生まれ、かえって不自由となる。

ネットの技術が進んで便利になっていると思いきや、相手がメールを読んでいるのか気になったり、すぐに返事をせねばと考えすぎて不自由な暮らしとなってしまう。

解決の糸口は、昭和のようなおおらかさを取り戻すこと。みんなが前を向いて上を向いていなくても良い、イレギュラーを容認する寛大さを取り戻すことである。
投稿者 h1107m1101 日時 
健康で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

たまたま最近令和(平成)と昭和の生活の違いに焦点を当てたYOUTUBEを見ることに嵌っていました。この本の冒頭に記載してある歩き煙草がその典型的な例の一つではないでしょうか。歩き煙草だけでなく、煙草を吸う人自体の減少、それは社会的な禁煙の推進や人々の健康意識、道徳観の変化が考えられる。
また発達障害というキーワードを昨今よく聞くようになった。私の小学生の娘のクラスにも落ち着きがない、暴力的、コミュニケーションに難がある児童の話を聞くことがある。今振り返ると私が小学生ぐらいの頃(30年前ぐらい)も同じような児童がいたように思う。いわゆる今で言うADHA ASD SLDの予備軍である。当時は変わった奴だな、とか個性で片付けられていたと思うが、今は秩序の変化やインターネットの情報量、子育てのプロセスの変化に伴い医療・福祉のサポートが増え、受診する親子が増えたのが原因だと思う。私はこの傾向は親にとっても子供にとっても良いことだと考えている。親にとっては何か他の子と違うなと思う子をただの個性と思える程単純ではないし、子供にとっても生きづらさを感じている子がいるならばその理由を病名という形で認知できることは、これからの人生において自分の短所と長所をどのように共存させて生活していくかを自分でもしくは親、先生と一緒に考えることができる。
SNSを含むインターネットの普及が秩序を変えたのは間違いなく、例であげた煙草や発達障害だけでなく、本書にかかれている、犯罪、虐待、いじめにおいても考えさせられることが多い。特に虐待においては30年前にはほとんど聞くことがなかったように思う。それは自分が小学生だったからというのもあるかもしれないが、現在はネグレクトという名で子を持つ親としては胸を締め付けれるニュースを聞くことが多い。ネグレクトや虐待は先ほどの発達障害と大きく関連していると考えている。よく聞く母子家庭における生活困窮が理由ではなく、親と子のそもそもの本質(特徴)が関係していると思う。はっきり言うと育てにくい子供、自分が生活に困った時にどんな選択肢や解決策があるか考えられない親、つまり発達障害もしくはグレーゾーンと言われる特徴を持つ人に対しての福祉が充実したようでまだ連動していなのだと思う。

今私は半年前から仕事の関係で中国・上海で生活している。普段生活している中で日本との違いを感じることが多々ある。本書に書かれている空間設計で大きな発展を遂げたとは具体的に何のことかなと考えて見たときに、街中に溢れる防犯カメラや携帯1台で完結する買い物、分かりやすい地下鉄、逆に例えば美観においては煙草は歩き煙草OK、どこで吸ってもOKみたいに昔の日本のようである。空間設計による効率的で安全・安心な生活の極めつけが去年まで行っていたコロナ対策による毎日のPCRと大規模隔離これが一番分かりやす例なのかもしれない。電話番号で管理されるこれは一見自由を奪っているように思えるが、逆に安全でかつ安心な生活を築く上で必要不可欠なことである感じるようになった。
中国のすごいところは何をするにもスピードが速いこと。コロナのPCRや隔離が難しいと判断したら一気に開放し、街中に至る所にあったPCR検査場が一気に撤去される日本では考えられないスピードと判断力で実行されていく。これが経済成長を支えている一つの原因ではないかと考えている。

この本と通して今と過去、そして日本、中国と違いを考えるきっかけになった。日本の社会がこれからどのような変化をしていくのか楽しみである。
投稿者 daniel3 日時 
本書を読み、「完璧な状態などなく、常により良い状態を目指して変化し続けることが重要なのではないか」と考えました。本稿では、このように考える理由を解説していきます。

本書を読む前は、健康や清潔さといった面では、日本は私たち大人が子供の頃と比べて良い方向に向かっており、それが今後も続くのだろうと考えていました。なぜならば、健康に関する意識が社会に広く浸透して世界一の長寿国となっていますし、公衆トイレなど公共の施設も、子供の頃に比べ明らかにキレイに整備され、気持ちよく生活できるようになったからです。しかし、本書を読んでこの流れがもっと進展すれば、単純に社会が良くなる一方ではないのだと考えるようになりました。なぜならば、特にここ数年で、本書で述べられているような生きづらさを感じる例を顕著に見かけるようになってきたことに気付いたからです。次の段落でその内容を説明します。

前述の生きづらさを感じる例とは、ときたま流れてくるバイトテロ動画や、回転寿司店での醤油ペロペロ問題でSNSが炎上し、若者たちが社会的に再起不能な状態になっていることです。本書が書かれたのは2020年の前半にかけてのようですが、SNSの普及に加えコロナ禍で社会全体の衛生意識が向上した結果、本書で提起された問題をコロナ禍以前よりもクローズアップして扱う社会になったと感じます。もちろん、お店側や他のお客にとっては迷惑で、加害者の若者たちも愚かなことをしているとは思います。しかし、行動に問題があるからといって一般人の自宅が特定されてしまったり、何千万円もの賠償責任を負うという報道を聞くと、随分生きにくい世の中になったのだと改めて思います。こうした時代の流れがさらに進展した時に、社会全体がさらに暮らしやすくなるのか?と考えると疑問の余地があります。お店側は再発防止に頭を悩ませて余計なコストがかかり、仲間内の悪ふざけで社会的に再起不能になる若者は少なからず出てくると思います。人に迷惑をかけない行動を心掛けることは大切ですが、若気の至りといったたぐいの行動が過度に粛正される世の中の流れは、好ましくない面もあると思います。ここまでで、特にコロナ禍以降に、これまでにない種類の生きづらさを顕著に見かけるようになった例を説明しました。では、私たちは、これから社会が向かう方向をどのように考えるのが良いのでしょうか。

一つには、不快に感じる人たちの行動を徹底的に排除しようとする現状を反省し、その人たちの一時的な逃げ道となる場所を提供するべきだと思います。具体的には、問題の加害者や家族が社会の批判に晒されない一時的な避難施設を設けたり、報道やシステム面でも一定程度で規制するような整備が必要だと思います。また、私たち個人については、過度に不快な行動に反応している現状を反省し、寛容さを持つべきだと思います。その際に参考となるのが、易経の「乾為天」という卦です。易経は6つの線である爻の、陰陽の組み合わせで状況を判断する知識体系であり、占いにも用いられることはご存じの方もいると思います。そして、「乾為天」は、6つの爻が全て陽爻の卦であり、全ての陽がそろうため良い結果だと思われる方もいるかと思います。しかし、実際には6つの爻のどこに目印となる爻があるかで結果は異なり、一番上の爻が出た場合は、「こう龍悔いあり」と言われ、良くない結果です。すなわち、物事が行き過ぎ良くないことが起きるので、思い上がりや、やり過ぎを反省する時だということです。社会のどこかに陰の部分がある方が、実はバランスが取れ上手くいくのだと考えることを、社会としても個人としても考えていくべき時がきたのだと思いました。

また、英語で易経は「Book of Changes」と訳されるので、変化を表す書物です。易経において、全ての陽と陰が正しい位置にあり調和が取れている卦は「水火既済」と呼ばれ、良い内容だと思う方もいるかもしれません。しかし、「水火既済」に向かう時は調和が取れて良い内容ですが、最終的にはこれ以上変化することができなくなり行き詰まった状態のため、必ずしも良い結果ではありません。これを社会に当てはめて解釈してみると、仮に社会の調和が取れた状態になったとしても、それは一時的なことに過ぎません。やがて社会が立ち行かなくため、次の調和を目指して変化を起こしていく必要があるということです。その一例は、子供を持つことがリスクだと考え、少子化が進行していることに表れていると思います。この状態が続けば、子供の数はさらに減少し、日本の衰退はさらに加速することになります。すなわち、昭和の方が良かった、令和は生きづらいとって昔を懐かしむばかりではなく、完璧な状態などなく、常により良い状態を目指して変化し続けることが重要なのではないか、と考えました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、これからはそれぞれの人が考えて判断し、行動できる力をつけていく事が必要であると感じました。


コミュニケーションや経済的利益の追求が優先された結果、自身を振り返り、状況を見つめ直すことが疎かになっているのではないだろうか、と本書では問いているように感じます。


本書では、清潔で健康で安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのには、社会の進歩により当然のものとなった通念が、私達に「自由」を与えた一方で、個人の認識や行動を紋切型に嵌め込み、「束縛」をもたらしているのではないだろうかという、概念について書いているからです。


社会の進歩が与えた「自由」と「束縛」とは、社会の大きな変化が与えたものです。


例えば、1840年頃からイギリスでは産業革命の影響によって大規模な工場生産が発達し、地域共 同体とそこで働く労働者の生活を激変させました。工場制機械工業の導入により、工場で人々は一日中機械的に同じ作業の繰り返しを強いられるようになりました。


決められた時間に工場へ出社し、決められた規格製品を、決められた数を製造する毎日です。規格に合わない製品は廃棄されていきます。そこには人々が想う、労働に対する喜びはありませんでした。


また、現在のコロナ禍によってもたらされた社会の変化は、第4次産業革命ともいわれています。第1次から第3次は石炭、石油、IT革命、原子力と、物による革命でした。今回の革命はソフトによる革命です。


コロナ禍を収束させるためには、物理的な交流は行わずに孤立することが推奨され、交流はバーチャル空間やインターネットに限ることが求められました。コロナ禍が始まり数年以上が経過した現在、ほとんどの会議はリモートで行われるようになり、それで仕事や私生活の交流が事足りるということを多くの人が認識しました。対人による接触は必要ではない、ということが立証されたのです。


交流が便利で簡単に出来るようになるという事は、簡略化や簡素化が進むという事です。
画面を通してビデオ通話をすると、実際に目の前で人と会った時に相手の状態や顔色を窺うというような、察するという事が必要では無くなります。画面越しでは、そこまで相手の状態が見えるという事が出来ないからです。結果として、仕事では必要な情報のやり取りだけに終始するという事になります。


水清ければ魚棲まず、ということわざがあります。あまりにも水が清く澄んでいると、魚の餌になるプランクトンも育たないし、魚が濁った水の中に隠れることも出来なので、ますます棲みつかなくなってしまいます。


全員が同じ方向を向いて物質的豊かさを追い求め続け、その欲求が満たされた現在、今もそれぞれの個人が想う精神的な豊かさや理想とは何か、という問いに答えを探し続けています。


しかし、社会の変化に身を任せて漂うままでは、益々変化する社会の状況に流されていくだけになります。


コロナ禍を経験した今、物理的な交流はせずに孤立することが推奨されたことで、個人としての行動の責任や考え方というものは、より重要性を増してきたからです。


自身がそれを行う事で、どのような変化が起きるのか、どのような影響があるのかを自分自身で考えて、答えを出していく力が必要になります。


自分も含めた各々が、考えて判断し行動できるだけの力をつけていく為にも、自分の外に存在する様々な人や物に多く触れて、考える機会を増やしていくようにします。
 
投稿者 Cocona1 日時 
本書を読み、「私はずっとこの本を待っていたんだ」と感じた。なぜなら、私はまさに本書に書かれている理由で、子どもを持たない選択をしたからだ。

私は本書の通り、子を持つことにリスクしか感じられず、合理的な「子育ての意味」を探し続けている。親や周りの人に相談もした。しかし、犬や猫ですら、「最後まで責任を持てるかよく考えて飼うように」と言われる中、子どもだけは「産めばかわいいから大丈夫」という言葉しか聞けず、リスクを越えた納得できる「意味」は誰からも出てこなかった。

その結果、子どもを持たない選択をしたのだが、本書で書かれているほど、マジョリティ側でいられた気持ちではない。自分の決断は、特に親世代には全く理解されず、否定されるたびに生きづらさを感じた。また、何気ない言葉に居心地の悪さを感じ、距離を置いた知人もいる。振り返ると、自分と意見が合わない人とは分断とディスコミュニケーションをしていた。これもまた、本書の通りだ。

だからこそ、本書を読んだとき「私はこの本の言葉が欲しかったんだ」と思った。「今の時代に合理的な子育ての意味はない」そう考えても大丈夫なんだと、安心できた。自分の思いを理解してくれる人がいたことが本当に嬉しい。それはまるで、砂漠の中でオアシスを見つけたような気分だった。

一方、本書から別の学びもあった。それはこの世の中が、誰かが自由になった分、反対側の誰かが不自由になっていることだ。例えば、公園や学校の子どもの声がうるさいと感じるのは、一昔前だったら神経質でノイローゼ気味な人だと思われていただろう。しかし、本人にとっては不自由さを感じていたに違いない。それが今や、子どもの声をうるさく感じることがマジョリティになりつつあり、気にしていた人にとっては自由で快適な時代になった。私のような子どもを持たない者にとっても、数十年前と比べれば今はかなり自由さを感じられる。ところがこの変化のために、子どもとその親がどんどん不自由になっていることを本書は教えてくれた。

正直、私は本書を読むまで、自分の自由の裏側で、子どもやその母親が不自由で生きづらくなっていることを、想像できていなかった。なぜなら、今でも自分のような子どもを持たない選択をする人はマイノリティで、疎外される側だと思い込んでいたからだ。疎外を感じ、分断とディスコミュニケーションで自分を守ってきたが、本書を読み、むしろ私が疎外する側になっていたのかと考えさせられて、はっとした。自分が感じた居心地の悪さ・生きづらさの反対側に、子どもを一生懸命に育てながら私よりもさらに不自由さを感じている人がいることを、想像できなかった自分が恥ずかしい。

本当は、誰もが生きづらさを感じずに、自由に生きられる世の中が理想だろう。しかし、著者が言うように、それと引き換えに秩序を失うようでは、東京のような都会は機能しなくなる。さらに私は、全ての人が不自由を感じない社会の実現は難しいと思う。なぜなら、本書でもたくさんの例が書かれているように、いつの時代も、誰かが生きやすくなる分、誰かが生きづらくなっているからだ。

それでも、こんなにも子どもを持ちにくく、子どもが不自由を感じる世の中は確かにおかしい。その解決案として著者は、「ディスカッション」を提案している。「ディスカッション」と聞くと身構えてしまうが、不自由を感じている人が生きづらいと言えることと、それを聞いてくれる人がいること。それが著者の言う「ディスカッション」の第一歩だと、私は考える。私が本書を読んで感じたように、自分の不自由さを「分かるよ」と言ってくれる人がいるだけで、救われる人はきっといる。まずは自分の秩序の外側にいる人に対して、SNSで「いいね」を押すように気軽に、知ってあげること・分かってあげること。そんな小さな行動から始めたいと思う。

ちょうど今月、マンションの隣の部屋に小さな子連れの家族が引っ越してきた。私の住む東京には珍しく、引っ越しの挨拶に来て「子どもがうるさくしてご迷惑をおかけするかと思いますが」と丁寧に何度も頭を下げていた。「ここのマンション、壁が厚いので全然聞こえませんよ、気にしないでくださいね。」と私は伝えたが、それなりに子どもの声が聞こえてくる。

著者の言う「儀礼的無関心」が徹底しているこの東京でも、やはり顔の見えるコミュニケーションは大事だと実感する。というのも、引っ越しの挨拶がなく子どもの声だけ聞いていたら、マイナスの感情を持ったかもしれないからだ。しかし、挨拶に来てくれたからこそ、子どもの声とともに、申し訳なさそうな母親の顔を思い出す。さらに本書を読んだため私は、部屋で生きづらさを感じている親子を想像し、胸が苦しくなる。どうか少しでも隣の家族の不自由や生きづらさが減りますように。私は日々、「大丈夫だよ」と隣室にエールを送っている。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“来たる不自由さについて考える”

本書の内容は、資本主義、個人主義、社会契約のロジックに沿って、健康的、清潔的、道徳的になった秩序ある日本社会に生きる現代人の生きづらさ、不自由さについて考えてみようというものだ。例えば、現代人は、健康が人生の手段ではなく人生の目的になっている、清潔を実践する負担に個人差がある、イエや身分や地域共同体をつてとして仕事や人間関係を獲得できなくなったなどの不自由さを被っていると著者は言う。その他にも、制度的な進化、技術的な進化によって現代人が享受している自由さの裏に潜む不自由さを著者は指摘する。ただ、私としては、これら著者の主張にあまり同意、共感ができないのというのが、実直な感想だ。それは、なぜか?おそらく、その理由の1つは、健康的、清潔的、道徳的さが増していく社会の変化に、過去から現在までの私は、順応ができてきたからであろう。もう1つの理由は、現在と過去を比較した時に、著者の述べる現代の新しい不自由さは、致し方ない程度のものと感じるからだ。では今後も、新しい秩序が形成されていく社会の中で、私は不自由さや生きづらさを感じることなく、生きていけるのだろうか?正直に言えば、時間軸を未来に延ばして考えた時に、私は一抹の不安を感じるのである。

年齢を重ねるごとに、生きづらさや不自由さを感じる場面は増えていくのではないだろうか?このことは、別段に本書で言及されているわけではないが、世の中や身の周りを観ていて、私はそう感じる。特に、時代や世の中の変化とともに道徳観や倫理観、対人コミュニケーション方法が変化していく場面においてそう思うのだ。例えば、会社における業務指導やコミュニケーション方法が、過去には問題にならなかった方法が、現在ではパワー、モラル、セクシャルなどのハラスメントという新しい概念に当てはめられて、職務注意や人事降格や退職勧告などの社会的制裁を受ける場合さえある。その他にも、ハラスメントまではいかないが、過去には当たり前のように行われていた社内飲み会などは若い世代を中心に敬遠されはじめている。これらの状況に直面し、戸惑い、やりづらさ、不自由さを感じている高度成長期世代の人たちは少なくはないのではないだろうか。一方、現在のところ私は新しい流れについていくことができていると思う。なぜなら、高度成長期世代の人たちと違い、前時代的な価値観にどっぷりとは浸かっていなかったし、年齢的にも未だ柔軟に新しい価値観を受け入れることができているからだ。ただ、これから年齢を重ねていく中で、頑固さや意固地さが強まり、柔軟性が失われていくようだと、私も新しい価値観の受け入れは徐々に難しくなるのかもしれない…。

ところで、日本社会は今後も、より清潔で、より健康で、より不道徳の少ない社会になっていくのだろうか?おそらく、未来はこれまでの過去の延長線上にあるのだろうから、この問いへの回答は、概ねYesだろう。では、そのような社会の変化の中で、著者が言うように、清潔や健康や道徳に私たちはより囚われるようになるのだろうか?より敏感に、より不安に、より不寛容になるのだろうか?と言われれば、それは各人次第だと思う。と言うのも、現時点では私の場合、過敏に不安にも、不寛容にもなっていない。そもそも、私の持論は上述したとおり年齢を重ねるごとに頑固さや意固地さが強まり、柔軟性が失われていくことが変化への対応を鈍らせる。つまり、生きづらさや不自由さを増やすというものだ。では、自らの加齢に対しては、どのように対処をすれば良いのだろうか?私が考えるのは、物事への感性や感度を鈍らせない、新しい価値観への順応するために、様々な価値観に触れることだ。例えば、今までに行ったことのない場所に行く、したことのない体験をする、新しい出会いをするなどである。さらには、これまでに自身が培ってきた知識や経験に、必要以上にこだわりを持たないことである。なぜなら、そうすることで、頑固さや意固地さが緩和されると思うからだ。


~終わり~
投稿者 masa3843 日時 
本書は、精神科医である著者が、令和時代の日本で蔓延している不自由さについて解説した本である。本書を読了して、今の日本社会に漂っている閉塞感の要因が、本書で指摘されている数々の不自由さにあるのではないかと感じた。特に印象的だったのは、第4章で語られている子育てについての考察である。今の日本では、子育てのハードルが高い。夫婦共働きが当たり前の今、仕事をしながら子どもを育てることは、難易度の高い一大事業と化しているのだ。とある調査では、子どものいる既婚女性の幸福度は、子どものいない既婚女性の幸福度よりも有意に低いという結果が出ているという。つまり、子どものいることが女性の幸せにつながっておらず、子育てが女性たちの重荷になっていることを表している。本書では、なぜ子育てがここまで大変なことになってしまったのか丁寧に解説しており、私自身その解説に深く納得させられた。本稿では、本書で主張されている「リスクとしての子育て」について整理したうえで、少しでも子育てが楽になる方法について考えてみたい。

まず、本書では子育てをどのように捉えているか、整理してみよう。第4章で著者は、子育てを「際限のないリスクを強いる」ものだと断じている。なぜなら、秩序の行き届いた現代社会では、子どもがリスクを想起させる存在であり続けるからだ。大声で泣く赤ちゃんは公共スペースで邪魔者にされ続け、幼児以降小学生ぐらいまでは危険な行動をとらないか監視し続ける必要があり、思春期以降は他人に迷惑をかけることがないか注意しなければならない。また、第1章で解説されているように、現代日本ではコミュニケーション能力が低い人は働き手として1人前として認められず、人口の1割程度は存在すると言われる境界知能と呼ばれる人達も社会的に疎外されることになる。そのため、もし自分の子どもがこうしたケースに該当する場合は、成人以降もフォローし続けなければならず、場合によっては経済的支援も必要になるだろう。さらには、子育てには多大なコストも伴う。典型的なのは、教育コストである。少しでも偏差値の高い学校に入れてようと思えば、幼稚園や小学校から私立に通わせることになる。習い事や塾などに係る費用も家計を圧迫する。子どもを育てるために必要なコストは、際限なく必要になる。

最大の問題は、こうしたリスクやコストを親が一手に引き受けていることだ。かつてはそんなことはなかった。子ども達は、祖父母世代を中心とした地域共同体の大人達によって見守られていた。祖母や兄弟をはじめとする親族が親とともに子育てを担っており、地域の人々をそれを様々な形で手助けしていたのである。では、なぜ子育てのリスクやコストを親が集中的に引き受けることになったのであろうか。それは、親達が地縁・血縁から逃れることを望んだからであろう。祖父母や地域共同体も一緒になって子育てを行うということは、様々な場面で介入されるということを意味する。教育方針に口を出されることもあるだろうし、親としては距離を取りたい娯楽を勝手に与えられることもあるだろう。かつて親達は、自分の子どもでありながら、子育てを自由にデザインすることを許されていなかったのである。しかし現在では、3世帯同居で暮らす家は圧倒的少数だ。ハイレベルな自由が与えられた私達は、当たり前のように人間関係を選んでいる。そして、それは親でも例外ではない。価値観が合わなければ、血のつながった親であっても距離を取ることを厭わないというわけだ。

こうして親たちは、個人の自由を追求したことで孤独になり、過度な負担を強いられることになった。そういう意味では自業自得であり、親や地域が助けてくれないことを嘆く資格などないのかもしれない。そのことが分かっているからこそ、若い夫婦達は黙って子どもを産まないことを選択するのだ。ただ、こうして自己責任の中で淡々と少子化が進んでしまってよいのであろうか。私は、こうした状況を黙認すべきではないと思う。著者も言うように、今さら地域共同体の子育てに回帰すべきということにはならないだろう。ただ、もっと子育てで他人に迷惑をかけてはどうだろうか。もっと、他人を頼ってみてもいいのではないだろうか。多くの親達は、自由であるために借りを作ることを嫌う。そして、社会に迷惑をかけることを心底恐れている。そこで、資本主義と社会契約のロジックで、子育ての負担を軽減しようとする。つまり、ベビーシッターや家事代行を利用するというわけだ。こうしたサービスが悪いと言っているわけではない。ただ、もっと迷惑をかけながら、借りを作りながら、人を頼ってもいいのではないかと思うのだ。その相手は、祖父母かもしれない。友人かもしれない。または、地域のボランティアかもしれない。金銭的な対価を支払わずに、子育てのコストを分け合うことが、新しい可能性を切り開く。「お互い様」の精神で少しずつ価値観の枠を拡げていくことが、子育てそのものにも好影響を及ぼすと私は思う。
 
投稿者 vastos2000 日時 
本書の『ガキ大将も不良もいなくなった』のパートを読んで思い出したことがある。
90年代後半私は大学生だった。夜も出歩くようになり、何度か暴走族の集団暴走に出くわした。
その規模は150~200台と言ったところで、集団の後ろを何台かのパトカーがついて行くのがいつもの光景だった。
大集団であったからか、信号無視は当たり前で、当然ながらヘルメットをかぶっていない者が多数だった。
それに対し最近は、20台を超える集団暴走を見ることはなくなり、それらしきバイク(排気音がうるさく、シートやカウルが改造されている)を見ても、安全面では疑問だが一応ヘルメットをかぶっているし、信号も守っている。
先月も2台連なって走行しているのを見かけたが、その時の目撃現場は片側2車線の国道で、時間は22:00頃。交通量は少なく、信号無視したところで事故が起こりようがない交差点であった。
ここ数年思っていたことだが、「そんなナリしてるくせに赤信号は守るのか、なんの目的でそんなバイクに乗っているんだ?ここで信号無視したところで、パトカーも(見える範囲には)いないし、事故も起きようがないのに。」というものだ。
別に信号無視を推奨するわけではないが、この例にみられるように日本全体がエネルギーを削がれている気がしてならない。

私自身が目にした例を日本全体に適用して良いかはわからないが、上に書いた事に関連し、感じていることがもう一つある。
自分の子どもが小学校に通うようになってから、「今の社会は子どもに甘い」と感じる場面が増えた。例えば、二ヶ月に一回くらいの割合で旗振り(交通指導)の当番が回ってくるが、雨が降ると車で学校の近くまで送ってくる家庭の多いこと。かく言う私の子どもも、おばあちゃん(私の母)に学校まで送ってもらうことがある。昔は台風が来ていて、道路とドブの境目がわからないくらいの雨だったとしても、びしょ濡れになりながら学校に行ったし、多少の体調不良でも学校に行った。昔の親はあまり子どもにかまっている余裕が無かったのかもしれないが、少なくとも今の子どもよりはタフだった。おそらくは私の上の世代に行けば行くほどタフだったと思う。戦中生まれやベビーブーマーの世代のタフさには敵わない。良く言えば洗練されたのだろうが、どんどん日本は過保護になっていっているように感じる。
私が小学生のころですら、学校の教師にもサッカー少年団のコーチにもぶん殴られたし、それに対して「自分が悪かったのだから殴られるのは当たり前だ」と考えていた。また、練習中に水を飲むことはできなかった。高校時代はさすがに水を飲むことが許されたが、今の子ども達だったら(平均気温が上がったこともあるが)何人もぶっ倒れることだろう。

子どもに限らず、大人社会も同じかもしれない。今ではすこしキツい事をいうだけでハラスメンだなんだと言われる。それ自体は良いことだと思うが、ハラスメントを恐れるあまり、萎縮してしまっているのではないか。私も女性の部下の身体には触れないように気をつけているし、指導の仕方も注意している。それでもいつハラスメントを訴え出られるかわからない。最近ではスメハラなるものもあるようだし。八方向全方位に気を遣わなければ、どこから刺されるかわかったものではない世の中になってしまった。仮に私が独身だったとして、部下に好意をいだいて、プレゼントを贈ったり、食事に誘ったりすればセクハラだ、パワハラだと訴えられるリスクが生じる。これでは晩婚化やら草食男子の増加やらが進むわけだ。

それが良いか悪いかは判断できないが、きっと快適さや利便性と自由度はトレードオフの関係なのだろう。生活は便利で快適になったし、平均寿命も延びた。私が子どものころは70歳前後で亡くなる人は珍しくなく、私の祖父も祖母もともに7人兄弟だったが、80歳まで生きたのはどちらも二人だけと記憶している。いまは70歳を超えて働いている人が身近なところに数人いるくらい寿命は伸びたのに。

本書では子育てするには厳しい社会環境であることが書かれていたが、高齢者に対しては甘くなっている。甘くなったというよりは、高齢者が増えて対応が必要になったのかも知れない。30年前はいわゆる老人ホームはほとんど見かけなかったが、いまやあちこちに高齢者施設ができている。朝はあちこちでデイサービスの迎えの車を見かける。特養、老健、デイサービスが学区内だけで10はある。子どもの数はこの30年で半減して、そろそろどこかの小学校が合併するかもなどと言われている地区だというのに。

私も基本的には死にたくないが、認知症などでやりたいこともできず、世の中のことがわからない状態で生きるくらいならさっさと死んだ方が良いとも思う。死生観と呼べるほどのものはまだ身につけていないが、生きる目的がわからなくなったら生きている甲斐もないと思う。
健康のために生きるのではなく、この人生で成し遂げたいことをなすために健康でありたい。
健康は目的で無く手段であるので、体ではなく精神のために、たまにはアルコールも飲むし、活性酸素が増える激しい運動もする。

あまりお手本になるような人生ではないので、他人に対して影響を及ぼそうという高望みはしない。しかし、せめて自分の子どもには今の不自由な日本社会に気づいてもらい、自分で生き方を判断できるようになってもらいたい。いまの社会をつくったのは私を含めた大人の責任であるので、親の責任として子どもがまっとうな判断力をつけられるよう批判を恐れずに教育したい。ありきたりな言い方だが、強い人間になってほしい。最も“強い”ことが価値を持つかはわからないので親のエゴかもしれないが。
 
投稿者 flyhigh_matt922 日時 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて


現在においてテクノロジーの進歩は凄まじく、世界中が繋がり全てのものが便利になっていく現代の社会。

もしその世界が逆に私たちを苦しませているとすればどうなのだろうか。


現在東京に住んでいる私としては、この本を読むまで全て便利で素晴らしい世界になっていると思っていたものがこの著者は逆の指摘をしている

昔は周りの人たちと一緒にしていた子育ても、東京のような都会では、それぞれの家の会話がなくなり困難になっている。


見たいものが見れるネットは、逆に企業が見せたいものを誘導しているだけ。

など考えたことのない視点で、かつ一種の説得力なる形で描かれていて読んでいて考えさせられることが多かったです。

自分の中で一番印象に残ったのは、子育てに関する部分です。


子育ては経済合理性はなく、今後はより子供を育てない人が増える。実際子供を持つ母親が持たない母親よりも不幸せになっっているという情報もあるというのは驚きました。

自分の感覚としては子供が欲しいかはあやしいですが、著者が言っているように経済合理性以外のところで満足感のあることと言っているのは一理あると思いました。
 
投稿者 3338 日時 
この本を読んで一番感じたことは、自由に生きているつもりでも、いつの間にか型にはめられていることに気がついていないということだった。

風の時代というフェーズは、今までの常識やしがらみから解き放たれて、どんなことにも囚われない時代なのだというイメージがあった。実際に私は常識という偏見から日々自分を解き放っている。世の中がどんな自由でも受け入れてくれるのに、自分で制約を作ってそこに囚われているなんて、損をしているとしか言いようがないからだ。

しかし、この本を読むとそれは見せかけに過ぎず、個人の自由な意志決定が制約を受けているということが述べられている。KindleのNO.2924にあるように、それは清潔で常識的で他人に迷惑をかけない、中産階級が主体のコミニュティを維持する上で必要な制限であるとしている。最初からそこには通念や習慣、法制度、空間設計などによって制限がかけられているため、一見自由であるように見えて、実は巧妙に制限されているようだ。

つまり、社会の規範や慣習、法律、社会的な環境設計などを乱さないように、個人の選択や行動を一定のライフスタイルに押し込め込ようとしているようだ。そして、この制約は社会の秩序や公共の利益を維持するために必要であるという大義名分の本、個人の自由な意思決定に対する制約としても働いているようだ。

では、それは「誰の意思」で行われているのだろうか?そして「なぜ」?何やら黒い影がチラホラ動くような気配がしたが、ここでそれを追っても意味がないことに気がついた。

そもそも、ゲームをするときに、ルールを作る側に回らなければ勝ちはおぼつかない。今更私が実際にルールを作る側に回ると言うのは非現実的な話だ。

しかし、私は自分の生きるルールを選べることを知っている。どんな状況であれ、ルールを変えたりルールの理不尽さに文句を言っている暇があれば、いかに効率よく泳ぎきるかを考えた方が得策と言えるからだ。これもまたゲーム

だから、このいやらしい見えそうで見えない隠された制約は無視することにした。環境が汚いよりは整っていたほうがいいし、人に迷惑をかけるよりかけない方がいいから受け入れてみる。最適化されたライフスタイルへとはめ込むものであっても、そこでどう自分らしく生きられるかを課題にしてみたい。

そして、もう一つ気になったのが、戦後の大家族から各家族への変遷であった。戦後の日本では地域共同体に基づいていた営みが、恐ろしいスピードで資本主義や個人主義に基づいたロジックに飲み込まれていった。その結果、子どもを育てるためのコストやリスクを負うのは非常に勇気のいることとなり、結婚や出産が難しくなりつつあるとこの本は説く。

やはり、その背景にはある種の意思が働いているようだが、今更それを言っても始まらない。現在進行形で地方でも核家族化は進み、新たな家族の形が展開されている。それはそれで大きな流れとして受け止めるしかない。

私の場合、子供を育てる過程で祖父母が一緒に暮らすことが望ましいと思ったので、同居することを選んだ。なぜならば、人間関係は多ければ多いほど多様性が学べるからだ。残念ながら、私が石井家に来たときにはすでに石井の姑は亡くなっており、その代わりに主人の兄が一時同居していた。今でも主人は「オフクロが生きていたら娘の誕生を喜んでくれただろうな」と折に触れては話をしている。娘が小さくて大変だったときは、おっとりしていたという石井の姑に、心の中で主人のグチをこぼしたりしたが、それはそれで私の心の平静に役立っていた。

いまだに4人で暮らしているが、主人と娘の3人で暮らすよりも、いろんな意味で豊かな経験ができたと思う。要は、核家族を選ぶのがスタンダードであっても、やり方次第ではそうではない選択ができるということだ。そこに、リスクもコストもあまり意味は無く、それ以上の経験が得られるという事実しか無い。私にとって主人の父と暮らすことは、メリットとデメリットという単純な問題ではなく、辛かろうが楽しかろうが付加価値があることであった。損得ではなく、その存在に価値があると思えば価値はあるのだ。そして、それを決めるのは自分。

ところで、仕事を辞めて約10日になるが、まだルーティーンができておらず右往左往することも多い。
せっかく仕事を辞めたのだから、もっと有意義に時間を使いたい。そのためにも、もっと自分と向かい合って自分の進む方向をしっかりと見極めたい。「行動すれば次の現実」行動した先に何が見えるのか楽しみながら行動したい。どうせ行動するなら、気合を入れてやれることはやりたい。たとえ、誰か思惑通りに行動したとしても、自分で決めて選択してアクションを起こしたのだから、誰かのせいにはしたくない。もう誰かのせいにできる歳でもないけど。

この本のおかげで、また一つ物の見方が身についたので、たまにはこの方向から考えてみるのもありですね。
 
投稿者 str 日時 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

“健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会”文面だけ見れば、なんと素晴らしい響きだろうか。しかし本書はそんな理想的ともいえる社会の在り方に対する“不自由さ”を取り上げている。たしかに現代において、特に私たちが暮らす日本という国は、世界的にみてもタイトルにある四つの水準は比較的高いのかもしれない。けれどそれは現環境に慣れ親しんだ若い世代や、移り変わる時代の変化に上手く適応・順応することができた人たちに限定されてしまっているのではないだろうか。

たとえば“健康的“とは、何をもってそう呼べるのだろうか。栄養価に気を遣った食事?日々の適度な運動?酒や煙草を摂取しないこと?健康診断の数値?・・定義は様々かもしれないが、反対に一切の運動もせず暴飲暴食の日々を送っている人がいたら「不健康な生活してるね」と言われることだろう。だが、仮にその人が唯の一度も病気に罹ることなく寿命を全うしたとしても「不健康」のレッテルは覆らないのだろうか。勿論、それらの不摂生が体に良くないであろうことは理解しているつもりだが、”健康を害するモノ=毒”といった風潮が広まったことにより、それらを嗜む人にとってはどこか負い目を感じてしまったり、または家族から止めるよう促されたり。不自由とまではいかなくとも、周りに合わせるための我慢や努力を強いられた人も少なからずいるのではないかと思う。

かつては“当たり前だったこと”、“許されたこと”が時代と共に変化してきている。それらには良い面もあれば悪い面もあるのだろう。かつてはヤンチャとかイタズラで済んでいたかもしれないことが、いまでは一歩間違えれば少年犯罪になり得る。昨今飲食業界で多発した迷惑動画の数々も、SNSは元よりスマホの存在自体が無ければ世に出回ることもなく、企業側の衛生面を問題視されることもなかっただろし、そもそも撮られてさえいなければ、あのようなアホな行動も取らずに大人しく食事していたかもしれない。また、「悪戯したらこっぴどく怒られた」という経験を幼いころに与えてくれる大人が減ったことも関係しているのではないだろうか。というより“あまり厳しく叱ってはいけない“という社会の風潮が原因かもしれないが、そういった教育方針すらも異端扱いされてしまう可能性すらある現代社会は”自由“とは言い難いかもしれない。

私も含め、結局のところ多くの人が同調圧力に支配されており、本書のようにいざ指摘されるまでその“不自由さ”に気づくことなく過ごしているのかもしれない。これからは“多様性の時代”なんて言葉もよく耳にするが、どのように変わっていくのだろうか。
 
投稿者 H.J 日時 
本書は「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」と言うタイトルである。
まず、タイトルからして惹きこまれる。
なぜなら、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」というフレーズだけ取り出せば、素晴らしい社会じゃないかと思えるからだ。
それ以上求めることは無いだろう。と胸を張って言えるだろう。
しかし、本書は理想的な社会の裏に潜む不自由さについて書かれた本である。
今までの時代と比べ、社会の進化と共に自由が増えた一方で顕在化した不自由。
今まで気にならなかったことが気になる世の中になった。
例えば、本書にも書かれている様な境界知能の人達、いわゆる軽度知的障がい者の様な人達も近年問題定義されるようになった。
ここについて、少々深堀する。
地域によっては、この場合でも障がい者手帳を発行され、ある程度の補助は受けられる場合もあるが、著者が言う様に全体的に見るとまだまだ補助が行き届いてないのが現状だろう。
本書では被害者としての一面を書かれているが、一方で過去の課題図書に「ケーキの切れない非行少年たち」という本に紹介されていた様に加害者となるケースもある。
代表的な共通点として、先を読む能力が苦手な場合が多いという特徴があり、本人が悪いと思わずに加害者になってるケースも耳にする。
本人は知らず知らずだが、ある程度先を読める家族にとってみれば不安のタネではあるのだ。
しかし、現状では相談する機関や企業も少なく、本や情報も少ない。
公的な補助はもちろん、そういったサービスを増やしていく必要もあるだろう。
なぜならば、裏を返せば、関係のない人も被害に巻き込まれるケースがないとは言えないからだ。
もちろん、そういった犯罪を犯すのが境界知能の人たちだけではない。
しかし、可能性をつぶすという意味では重要な要素になる。

そして、私の見込みではこの先増えると感じている。
なぜならば、子供向けのコンテンツとして、動画やゲームなどの娯楽が簡単に手の届く時代になっているからだ。
例えば、ネットで目にした話では、幼少期は物覚えが良く天才だと思っていたAくん。
親が学生時代を自由に遊ばせていた結果、大人になってから基本的なことがわからず、病院に行ってみた結果、学習障害と診断されたという話だ。
この話は、まさに本書や私の見込みとつながるが、社会の進化により娯楽が今までより手が届きやすい今、危機とも言える話だろう。
私も子育ての面で気を付けようと思った部分である。