投稿者 vastos2000 日時 2023年5月31日
創造主、Something Great、Godなどと呼ばれるもの(以下”神”と表記)は、どのような存在なのか?意思をもった存在としての神はいるのか?あるいは自然法則の中身を解明できていない人間が様々な出来事の因果関係を説明するために神という概念を作り出したのか?私個人の考えは、神とは意思を持った存在ではなく現実世界を成り立たせている法則(ルール)であると考えており、ギリシア神話のように人間や動物を模した概念であると考えている。だが、神がこの世界を創造し、人間を含む森羅万象を造ったという考え方もそれはそれでアリだなと思う。
神の存在について考えるのは形而上学に任せるとして、現実問題、願望実現のためにどのように考え、どのようにすればよいのかを考えたい。
仮に自分がせかいの創造主だったとして、せかいの中に存在する人間の願望をいちいちヒアリングして叶えるようなことをするだろうか?
私はイマジネーション力がいまいちであるので、多人数同時参加型オンラインRPGの製作者・運営管理者に例えて考える。もしその立場だったとしたら、
1.参加している多数のプレイヤーからあげられてくる要望を一つ一つ聞いていくだろうか?
2.また、プレイヤーによって行動やたどる経路は異なるのに、全てのプレイヤーが同じようなエンディングを迎えるように設定するだろうか?
1も2もしない。
上記の1については、時間や労力といったリソースは有限であるという前提だが、全部の要望は聞いていられない。公式の問い合わせ窓口に寄せられるものに対しては、要望に応える、ほっとくなど、何らかの意思決定・対応する他、掲示板やそのゲームのコミュニティなどで話題となっている事項をみてユーザー(プレイヤー)の不満や要改善点をつかみ、より良いゲームにするために必要であれば改良するだろう。
現実世界で言えば、公式の問い合わせ窓口は神社や教会でのお願いだろうか。
また、2について、全てのプレイヤーが同じ結末を迎えるのはつまらないと考える。色々なパターンがあるから面白い。せっかく自由に設計できるのに一つだけに絞るのはもったいない。自分が観察者の立場であるからなのかもしれないが、ハッピーエンドもあればバッドエンド起こりえるようにするし、ハッピーエンドだけではすぐに攻略意欲がなくなってしまうと考える。
このように考えると、理不尽な試練や不幸が身に降りかかった時「神はいないのか!なぜ神は奴を裁かない!」などと言ったりするが、神がいるからこそ、そのようなプログラムが組まれているのだ。ランダムに良いイベント、悪いイベントが発生するように設定してあって、
そのイベントに遭遇したプレイヤーがどう反応するかを見ているのだ。
だから、そこで神の興味を引くようなリアクションをすれば注目されるわけだ。
神が慈悲深いとか優しいとは正義の味方であるというのは、人間が勝手に思っていることだ。証明できないし。
それが証拠に、宗教によって教義が異なるし、時代によって「正しさ」は変化する。キリスト教代表の十字軍がやった事なんて、現代の視点からすれば許されないだろう。
「やさしさ」だって、立場が異なれば何がやさしいのかも異なる。
例えば、中学生が宿題を忘れて困っているとする。ある人はその中学生に宿題を移させてあげることが優しさだと考えるかもしれないし、別のある人は「宿題を忘れて困る」という経験を学生のうちにしておくことが本人の将来のためだと考えて、あえて放っておくのが優しさだと考えるかもしれない。
神は慈悲深くもないし正義の味方でもないと想定した場合、いかにすれば願望実現につながるのか?
本書では『一なる者』や『I&I』といった表現がされるが、ここが要点だと考える。おそらくは今回の課題図書『悪魔とのおしゃべり』のシリーズ前作にあたるのが『神さまとのおしゃべり』であろうが、前作では「感謝」ということが述べられている。
本作では「願いが叶っていると信じる」ことが願望実現の方法として書かれている。
日本語で書かれているわけだし、字面では理解できる。だが実行するのは難しいと感じる。それこそ今までの人生で「正しい」ことをさんざん刷り込まれてきたので、これをリセットしてカタチのないものとするのは困難だ(と、思ってしまっている)。
『ホログラフィック ユニバース』よりは平易に書かれていると感じるが、どちらも「わたし」(観察者)がいるから「せかい」(観察対象)が発生するといっているように思うが、わたしはどのような思いでせかいを観察すればよいのだろうか?
結局本書を読み終えても明確な答えが出せなかったが、人間の思いや考えは願望実現において中心となるものであると、ありきたりなところに着地してしまった。
今後も願望実現は追及していくことになる、という願いが実現してしまった。