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第145回目(2023年5月)の課題本


5月課題図書

 

悪魔とのおしゃべり

 

この本は、3月に福岡でセミナーをした時の受講生が、私のセミナーを聞いて、

 

 

  ● 似たようなことを書いている本がありますよ

 

 

って紹介してくれたのがこれ。

 

読んでみたらフツーに私がいつも話していることのエッセンスが詰まっていました。読ま

れる方は、どこが私の話と繋がっていて、どこが違い解釈をしているのかを確認しながら

読むと、深い学びを得られると思います。

 

 【しょ~おんコメント】

5月分投票結果

 

今回最も票を集めたのが、3338さんで3票、次に、LifeCanBeRichさんと、daniel3さんが2

票、そしてCocona1さん、masa3843さん、Terucchiさんが各1票でした。

 

【頂いたコメント】

投稿者 kenzo2020 日時 
今までの考えが180度変わる本だった。

というのは、今までは自分で全てを変えたい、コントロールしたいという気持ちがあったが、1歩ゆずって、流れにゆだねること、眺めることも必要なのかもと思ったからである。

例えば、相手に期待すると怒りが生まれるということから、相手に期待しすぎてはいけない。世界はどうしょうもないやつらの集まりということから、指導したらいい人になれるだろうという考えをやめて、割り切って考えること。もうコントロールできていると思うことからは、今のままで十分であること。

ただ、そのようにして考えて暮らしてみると、ちょっとつまらなくも感じる。楽しさがなくなる気がする。自分で自分を動かしている感がなくなるからであろう。

そのため、コントロールしたいという思いと、流れにゆだねるという思いのバランスが必要なのである。

いずれにせよ、世界の全てに感謝すること、これでいいのだと最終的には思うはずである。そのために、世界のいろいろなものを体験していきたい。
投稿者 daniel3 日時 
本書は「ありきたりの成功法則」では成功できず、それでも人生を変えたいと思う方向けに書かれた本です。そして、その内容については、しょーおんセミナーの中で話されていることと共通する部分もあり、既視感を覚えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、まるっきり同じかというと、そうではない部分もあります。本稿では、両者の共通する部分と異なっている部分について述べ、特に異なっていることから考えたことを述べます。

まず、本書としょーおんセミナーで共通している部分について述べますが、それは「自分が理解できる知識の外側に目を向けてみる」ことにあると思います。それを本書では、「理解できるアドバイスなら、そもそも聞く意味なんてないのさ(P.3)」と表現しています。同様のことをしょーおんセミナーでは、自身が理解できない知識体系について、「エポケー(判断保留)」をして取り入れてみるように推奨しています。世の中には多くの成功法則があり、そのいくつかを学んで実践している人はたくさんいると思います。しかし、一般的な成功法則を学んでもいまいち人生が上手くいっていないならば、これまでとは違う視点を取り入れ、価値観を改める必要があります。本書は、まさにそのような方向けの入門書と言えるでしょう。

一方の異なっている部分としては、人生を変えるためのアプローチに違いがあると思います。具体的に本書の場合は、「物事に対する認識を変えることで変化を起こす」のに対し、しょーおんセミナーでは「自らの能力アップをすることで変化を起こす」といった違いがあります。「物事に対する認識を変えることで変化を起こす」ことの一例として、本書では「運」はコントロールできないものとして説明しています。「第10章 運を悪くする、良くする方法」で、親鸞の「他力本願」の考え方を引用して解説していますが、自分にコントロールできるものなどないと認識することで、目の前の全てのものごとに対して「絶対感謝の境地」が開けるとのことでした。その他にも「第7章 イイヒマニア」では、日々の出来事の起伏に囚われずに、人生全体を振り返って「いい日」であることに気付くことの大切さを説いています。他方のしょーおんセミナーでは、「運」については良くすることができるという立場を取っており、いくつかの修行が紹介されています。例えば、呼吸法を続けることで身体感覚が研ぎ澄まされ、その効能の一例として、現代科学ではまだ説明できないけれども運が良くなるといったことがあります。また別のセミナーでは、読書が最も効率の良い投資であり、年間100冊の読書を続けることで人生が変わることを説明しています。このように身体感覚を研ぎ澄ましたり、知識量を増やすような「自らの能力アップをすることで変化を起こす」アプローチを取っています。

次に、両者の異なる点から考えたことを述べます。両者どちらのアプローチとも一定の効果はあると思いますが、効果が出るスピードには差があると思います。なぜそのように考えるかというと、本書のアプローチがどちらかというと受動的な方法であるのに対し、しょーおんセミナーは能動的な方法であり、変化を起こす機会がより多いと考えられるからです。例えば、本書の学びを取り入れ、全てのものごとに感謝できるようになれば、長期的には性格が良くなったというように周囲の見る目も変わると思います。しかし、自身の能力に大きな変化はないため、それだけで仕事上の大抜擢が起きるといった変化は考えにくいでしょう。こういった変化でもオススメできるのは、現在メチャクチャ困っているわけではないが、なんとなく日々の生活に満足していない人、まさに本書に出てきた大学生のような人向けの方法だと思います。対して、しょーおんセミナーは運や自身の能力が上がるため、自身の認識を変えるだけよりも早く大きな変化を起こすことができるでしょう。特にこれからの日本は、少子高齢化の進行と共に、国全体が貧しくなる方向に進みます。そんな中で「物事に対する認識を変えることで変化を起こす」ことを待っていられない人も出てくるものと思います。そのため、社会が急速に変化するこれからの日本では、しょーおんセミナーのアプローチが有効ではないかと考えました。
投稿者 fifteenlove1130 日時 
 本書を読んで、冒頭から目の覚めるような思いでした。
・正しさを疑え
 必ずしも世の中全ての「正しさ」が間違っているとは思えません。 ですが、本書は固定観念として植え付けられてきた「正しさ」の在り方を今一度疑う重要性を説いてくれているように思えました。
 以下に本書を読んで、私が身に着けていきたい思考について記載いたします。

・理解できない領域にしか、「新しい可能性」はない
 そうかもしれない、という思いと、果たしてそうだろうか、という思いが交錯しました。
 まず後者についてです。 日々、生活するなかでも新たな学びは多くあります。 その大半は理解可能なものになります。 セミナー受講では、分かりやすい説明に理解、共感することができます。その中に新たな可能性がないか、といえば答えはNoだと思います。
 ・自身が持っている知識で消化できることを「理解」という
 言葉としては理解できますが、自身が持っている知識でも本質を理解ができていない、という状態もあるのではないでしょうか。 他者に言葉にしてもらって改めて、その重要さに気づくこともあると思います。
 一方で、本書が記載している内容からは新たな気付きを得ました。 現状を変えるためには「理解できない話にこそ耳を傾けるべき」という言葉には説得力を感じました。 どうしても関心を寄せるのは、理解できる言葉や助言になりがちです。 理解できない話にこそ、挑む気持ちで取り組んでいかなくてはならないのだと感じました。

・人間が怒る、たった一つの理由
 怒りを感じる時、それは「相手に期待している時」。
 私が主に相手に怒りを感じる時は、相手が私を馬鹿にしている、あるいは攻撃してきていると感じた時です。
 ですが、それも相手は(私に対して)「馬鹿にしない、攻撃してこない」と期待しているということなんだ、と理解しました。 本書を読んでから、相手に対する接し方が大きく変わったように思います。
 寄り添う気持ちを持つ反面、相手に期待しないコミュニケーションが必要だと理解しました。

・「幸せになりたい」と願う人ほど、「幸せじゃない」現実を引き寄せてしまっている。
 これは、しょーおん先生のセミナーでも教えて頂いた話と共通するところだと思いました。
 当初この教えに、違和感を覚えた、というのが率直な意見です。 ですが、何度も考えてようやくその意味に納得がいきました。 おかげで本書に記載されている内容は、すんなり頭に入ってきました。
 今では、教えて頂いた通り、「願い方」を「なりたい」から意識的に「なっている」に変えています。
 おかげで、なっている自分を想像することで、何をすべきかが見えた気がします。

・執着に気づき、それを捨てろ
 何かをなくしたら不幸になる、という思考だと分かり、自らのことを指摘されているような気分になりました。
 現在の生活を維持できなくなることが不幸、だという意識が少なからず自分の意識としてあったことは否定できません。 そしての考えは知らず知らずのうちに自分を追い込んでいたように思います。
 「元に戻るだけ」という考え方は、切羽詰まった気持ちをすごく軽いものにしてくれた気がしました。
 
 本書は自分も含め、これまでの常識や価値観にとらわれていた人にとって大きな救いになる本ではないかと思います。
 本書の示す、「正しさを疑え」は私の思考に新たな視点を与えてくれました。
 
投稿者 fifteenlove1130 日時 
 本書を読んで、冒頭から目の覚めるような思いでした。
・正しさを疑え
 必ずしも世の中全ての「正しさ」が間違っているとは思えません。 ですが、本書は固定観念として植え付けられてきた「正しさ」の在り方を今一度疑う重要性を説いてくれているように思えました。
 以下に本書を読んで、私が身に着けていきたい思考について記載いたします。

・理解できない領域にしか、「新しい可能性」はない
 そうかもしれない、という思いと、果たしてそうだろうか、という思いが交錯しました。
 まず後者についてです。 日々、生活するなかでも新たな学びは多くあります。 その大半は理解可能なものになります。 セミナー受講では、分かりやすい説明に理解、共感することができます。その中に新たな可能性がないか、といえば答えはNoだと思います。
 ・自身が持っている知識で消化できることを「理解」という
 言葉としては理解できますが、自身が持っている知識でも本質を理解ができていない、という状態もあるのではないでしょうか。 他者に言葉にしてもらって改めて、その重要さに気づくこともあると思います。
 一方で、本書が記載している内容からは新たな気付きを得ました。 現状を変えるためには「理解できない話にこそ耳を傾けるべき」という言葉には説得力を感じました。 どうしても関心を寄せるのは、理解できる言葉や助言になりがちです。 理解できない話にこそ、挑む気持ちで取り組んでいかなくてはならないのだと感じました。

・人間が怒る、たった一つの理由
 怒りを感じる時、それは「相手に期待している時」。
 私が主に相手に怒りを感じる時は、相手が私を馬鹿にしている、あるいは攻撃してきていると感じた時です。
 ですが、それも相手は(私に対して)「馬鹿にしない、攻撃してこない」と期待しているということなんだ、と理解しました。 本書を読んでから、相手に対する接し方が大きく変わったように思います。
 寄り添う気持ちを持つ反面、相手に期待しないコミュニケーションが必要だと理解しました。

・「幸せになりたい」と願う人ほど、「幸せじゃない」現実を引き寄せてしまっている。
 これは、しょーおん先生のセミナーでも教えて頂いた話と共通するところだと思いました。
 当初この教えに、違和感を覚えた、というのが率直な意見です。 ですが、何度も考えてようやくその意味に納得がいきました。 おかげで本書に記載されている内容は、すんなり頭に入ってきました。
 今では、教えて頂いた通り、「願い方」を「なりたい」から意識的に「なっている」に変えています。
 おかげで、なっている自分を想像することで、何をすべきかが見えた気がします。

・執着に気づき、それを捨てろ
 何かをなくしたら不幸になる、という思考だと分かり、自らのことを指摘されているような気分になりました。
 現在の生活を維持できなくなることが不幸、だという意識が少なからず自分の意識としてあったことは否定できません。 そしての考えは知らず知らずのうちに自分を追い込んでいたように思います。
 「元に戻るだけ」という考え方は、切羽詰まった気持ちをすごく軽いものにしてくれた気がしました。
 
 本書は自分も含め、これまでの常識や価値観にとらわれていた人にとって大きな救いになる本ではないかと思います。
 本書の示す、「正しさを疑え」は私の思考に新たな視点を与えてくれました。
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、今まで自分が相手へ抱いていた期待は、するものではないという事を改めて理解しました。


特に本書を読んで共感した事は、人が人に怒るのは、相手に期待しているから起きるという部分です。自身の欲求を満たしてくれると相手に期待していたのに、自分の期待値以下の結果が示されると、相手に対してなぜ出来ないのか、と怒りの感情を向けてしまうのは当然の結果です。


確かにそうした怒りは、相手の所為ではなく自分の所為です。なぜなら、相手が自分の思う通りの結果を出してくれるのかどうかは、本当は分からない事だからです。


人が人に依頼する事は、相手が自分の期待通りの結果を示してくれる、という期待感から生まれます。その感情が増長してしまうと、自分の為に相手が何かを与えてくれるのは当然という、ある種の傲慢な態度になってしまいます。


例えば、今世界中で起きている戦争や紛争も、対立する相手を自分の武力を用いて言う通りにさせる、という目的の為に起きている事です。このくらい痛めつけたら相手側も言うことを聞くだろう、という思惑が互いに大きくなり、戦闘は泥沼化して長く続いていく事になります。


他国から正義や悪と仕分けられた戦争の指導者たちも、自分の理想と信じる世界が創れると世界に期待しているのです。それがなかなか叶わないとイライラが募り、自分の意見に反対する相手への攻撃は、より凄惨さを増していきます。


相手の理解を得て自分に何かを与えてもらうという行為とは、お互いの意見を伝え会う会話から生まれるものです。


それが日常生活の中で難しくなった原因は、自身の欲求が簡単に叶うようになった便利な社会となり、対面で接する関係にも、ネットを介して人と接することが出来る手軽な気持ちで、自身が求める欲望を解決してくれるという期待感であると考えます。


例えば、あらゆる情報にアクセスすることが出来る現在、自分が欲しい物や好きな情報は、スマホやタブレット端末でネットにアクセスすれば、望みのものは何でも手に入れることが出来ます。



また、24時間開店しているコンビニや無人販売店などで他人を介さなくても、お金を支払い求めるものをいつでも購入する事が出来き、欲しいという欲求はいつも満たされてる状態です。


便利さに慣れて、何でもできる事が当たり前になると、人は我儘になっていきます。自分とは異なる価値観や考え方の人達と接し、自分自身が気づかなかったり、思いもしなかった事に触れる事で、人は変化していく事が出来るのです。


リアルな新しい気づきや発見とは、必ず自分の外にある現実世界に存在しています。それが自分にとって良い結果を与えてくれても、悪い結果を与えてくれても、自身を変化させる気づきのきっかけとなるのです。


自分の中だけの想像で完結した世界だけでは、外の世界にいる相手への期待だけに終わり、自分が求める欲求が果たされなければ、一方的な相手への失望で終わってしまいます。


もしも、相手への失望だけで終わってしまうのが嫌ならば、自分の外の世界にいる相手と、交流をして、お互いが求めるところを話す必要があります。


そして、話し合いの結果、自分の求める事を相手がしてくれたのなら相手に対して、ありがとう、と言う事も大切です。相手と話し、自身が理解を示し、それに対して感謝を伝えることで、相手との相互理解は一層進み、より良い関係を築くことが出来るようになります。


勿論、相手の考え方を自分の考え方に変化させる事をお互いに話し合うので、相手との対話には大きな忍耐と、長い時間がかかる事になるかも知れません。もしかしたら、相手は自分の求めるようには変化しないかも知れません。


それでも、相手と会話をせずに一方的な怒りや失望で終わるよりも、以前よりもお互いの理解は深まる筈です。便利な社会になったとしても、以前と変えてはいけない必要なプロセスは、残していく必要があります。


その一つが相手への過度な期待をするのではなく、相手を知り、理解する事から始める事であり、自身の中での一方的な期待で終わらないように、使い分けをして注意していくようにします。
 
投稿者 3338 日時 
この本は今まで考えてきたことの答えがたくさん詰まっている。それがよりわかりやすく語られており、たくさんの回答に出会って答え合わせができたように思う。

私はこの本を読み始める前に、今の仕事を辞めたらどうなるのか考えていた。なぜなら、ある方から仕事を辞めて、副業に専念した方が良いというアドバイスを受けていたからだ。それは私にとって驚くべき提案で、なぜか私はこのまま現在の仕事と副業の両方の仕事を続けていくことを疑っておらず、片方を辞めることを全く考えていなかったためである。しかし、考えているうちに辞めたらどうなるのかという気持ちが芽生え「人がいないのにやめられるのか?」「忙しいからしばらくは辞められない今年いっぱい無理」などと全く建設的ではないことをただグルグルを考えていた。

そして、この本を読み始めてまもなく、p42の「理解できない話にこそ耳を傾けるのだ」という一文に出会い、頭を叩かれたような気分になった。この瞬間、私は仕事を辞めることを決め、すぐに担当者に話をするのだが、思いもかけずとんとん拍子に辞めることが決まった。すなわち、仕事を辞めるという流れに乗ったということになる。
その本にある通り、自分が理解できる範囲で考えていても、本当の意味で結論に辿り着くことは難しいことに気がついたのだ。この一文に出会った途端に私は辞めるという流れを掴んだのだ。そして、その瞬間なぜ辞めた方がいいかが理解できた。

恥ずかしいことに、私は現状を疑うということをしていなかっただけだった。「正しさを疑う」とはどういうことなのか。それは、自分がその状況を本当に理解しているかどうかを問うことに他ならない。私の場合は「わかった」と勘違いしていただけに過ぎなかった。全てにおいて「正しさを疑う」ことが必要だと気がついたため、これからは自分の現状を常に疑うということをしなければと思う。

話は変わるが、2年前に風の時代の生き方を模索するために、私は今まで「自分がしなかった選択をする」というゲームを始めた。例えばこのメニューを私は注文するかしないかという場面で、今までならしなかったものを注文するという小さなゲーム。
全てをすぐに変えることはできないので、気がついたときに「以前なら選択しなかったこと」をできるだけ選択するようにしてきた。

そんなことをしているうちに、私は自分の常識のほとんどが、常識でも何でもない刷り込まれた思い込みであることに気がついた。他人や家族にさえ迷惑にかからなければ、何をしても自由なのだという事実に気がつく。この2年間言ってしまえば正しさを疑ってきたつもりなのに、自分の今置かれた状況については、本当の意味で正しさを疑ってはこなかったことに驚いてしまった。


ところで、この本に書かれていることで、一番印象に残ったのはコントロールを手放したときに、初めてコントロールされていたことに気づくという点だった。この話はスピリチュアルの分野でよく言われていることで、何度も聞き試みてもなかなか実践できていなかった。全てに関してそうであるが、家族に関していえば、実践できなかった理由は私が家族を信頼することができなかったからである。うちの家族はとんでもないことをやらかすけれども、本当に人が良く人に迷惑をかけるなんて、これっぽっちも思っていない。それなのに私がいつも右往左往する羽目になり「なぜ私ばかり」といい加減ウンザリしていた。いつの間にか家族を大切だと思っていたはずなのに、客観視できず自分の目線でだけ判断するようになっていた。そのため、コントロールを手放すことができなかったと気がついた。なぜできないのか理由がわかれば、問題は半分以上解決する。

もし、本当にこの世の全てが一つで、人でさえももともと一つで善も悪も無いのなら、毎日の状況に対する不満や家族への不信は意味をなさない。本来は一つなのだから、どこから見るかで見え方が全く違い、それを認識するのが家族という存在の本質であると言える。家族一人一人を通して、いろいろな見え方を認識し、まとめることができたはずだった。しかし、いつの間にか本質を見失った私は、不平不満が先に立ち考えるヒントがそこここにあったにも関わらず、見え方が違うということを忘れてしまっていた。
おかげさまで、全てものが一つから別れたのであれば、善悪も右も左も何もないことを、以前よりも深く理解できたような気がする。しかし、ここでわかったと言うことはできない。なせなら、この上の理解がきっと存在するからだ。ここのところも疑いつつ次の行動に移りたい。

ところで、コントロールを手放すとはどういうことかというと、全てのイベントは私の状況に合わせてすでにコントロールされていることに気がつくだけということになる。これを簡潔に表現すれば「人事を尽くして天命を待つ」と言うのが一番近いような気がする。人としてやるべきことをして、行動した自分に信頼を寄せ、その上でその自分の状況に合った状態が用意されているということを認識するだけ。ただそれだけのことを感情にとらわれて、見出せなかっただけというのがなんとも情けない気がする。

いろんなことをやらかしてくれるが、私は家族を大切にしたいと思う。何を言われてもやらかしても、それはその人の考え方であり、その人の今までの生き様である。全て受け入れるところから全てが始まることを忘れないようにしたい。

だからこそ、これからも自分のやるべきことをして、それに対する天の評価を受け入れる、そんな気持ちを忘れないようにしたい。その評価がナイス!ならより良い流れが生まれるが、やはりそれには行動し続けることが前提となる。そして「納得」はするけれど「わかった」つもりになるのだけは避けたい。常にそれより上の理解や深い洞察があることを意識して、物事を俯瞰するようにしたい。
 
投稿者 tarohei 日時 
 読了後の感想を一言で表現すると、正しさを疑え、である。
 本書は、現代の常識や既成の価値観に支配され、八方塞がり状態になっている我々にとって、考え方を根本的に変えるきっかけを導くものであり、実際自分自身かなりハッとさせられたことも多かった。表面的なことだけでなく物事を根本から考える思考方法を教えてくれて、心と体が楽になった気がした。これまで会社や学校で教え込まれてきた常識や価値観がボロボロと崩れ去っていくのが読みながら感じ取れる一冊であった。

 一見、自己啓発系や怪しい系の解説書と思わせつつ、ただ単にそれだけに留まることはなく、現代科学に代表される量子力学、洋の東西や今昔を問わず宗教・哲学・思想を例に挙げ、怪しい系の話題に理論的な裏付けを与えている。
 よくもこれほど世界中の神話や宗教・哲学・思想を調べあげ、理論的にまとめ上げたものだと感心させられた。例えば、神道をはじめ世界中の宗教や哲学、ラスタ思想に至るまで各々に共通する本質を見い出したりしており、目から鱗が落ちる思いであった。
昔の人はどういう理由かはわからないが、量子力学など現代科学で解明されている事を当時からちゃんと知識として認識していて、昔の人のスピリチュアルなことも量子力学で説明できることも言及している。さらに、引き寄せの法則的なことも書かれており、まさに本メルマガで語られていることと同じことが書かれている、というのは腑に落ちた。

 たぶん、本書が10年前・20年前に発売されたとしたら、それほど売れなかっただろうし、注目もされなかったのだろうと思う。風の時代の今だからこそ、注目されるのだと思う。
 なぜなら、10年・20年前だとまだまだ土の時代の価値観が強く存在していて、例えば、一つの会社で定年退職まで勤め上げることがサラリーマンのあるべき姿だったし、男が家庭を顧みるのは野暮でモーレツに働いて稼いでくるのが当たり前、浮気の一つや二つは男の甲斐性、LGBTに至っては市民権などなくタダの変態扱い、という時代であった。ところが、現代では副業解禁、転職は珍しいことではなくなり、転職エージェント会社や転職サイトも右肩上がり、育メン・男の家事参加や育休休暇取得も当たり前、LGBTに至っては逆に批判する側がバッシングされる時代となった。これまでの価値観が一変し、多様性が受け入れられる時代に移行し、10年前・20年前では正しいと思われて価値観が、今になって揺らぎはじめたためである。
 言い換えれば、土の時代の価値観では受け入れられることはなかったが、風の時代になった今だからこそ受け入れるのだと思う。これまでの固定観念に染まってしまった正しさの価値観に少しずつ疑問を持ち始めた現代人だからこそ、本書はすんなりと受け入れるのであろう。

 さて、本書を読んで、自分自身も陥りそうな過ちだと思ったことが、一つの会社で定年退職まで勤め上げるのがサラリーマンのあるべき姿という価値観に対して、例えば、サラリーマンは転職してなんぼだ、どんどん転職すべきだ、という新しい価値観を持ち出して、定年退職まできちんと勤め上げる人たちを攻撃し始めることである。
 これでは本末転倒で、単に中身が入れ替わっただけであり、何かを正しいと決めつけ、それに従わせる、同調圧力をかけるという意味では旧来の価値観と何も変わっていないのである。
 そもそも、そのような"間違った正しさ"そのものを疑え、そしてなんなら捨ててしまえというのが本書の言いたいことなのだと思う。
 もしかしたら実のところ、正しさなんて必要ないものなのかもしれない。正しさなんてものは、自分の意見をどうしても押し通す必要がある時に、その主張としての論拠として必要なだけであり、ある意味、方便としての正しさだけが必要なのではないかと思ったりもした。

 最後にまとめとして、本書を読了して今までの常識が崩れさってしまった。1冊の本でこれまでの自分の価値観や考え方まで大きく変化するとは思ってもいなかった。
 取り敢えず、今まで信じていた正しさは疑ってかかろうと思う。
ただ、今まで信じていたことを覆すことは難しいだろうし、そう簡単にできないと思う。それほど心の中に根付いた思い込みは強いのである。
 そして、正しさの呪縛から解放されて、自分らしく生きることの大事を知った。それを知った上で今後どう生きるかは自分次第なのである。
 
投稿者 flyhigh_matt922 日時 
佐藤みつろうさんの著作は前作の「神様とのおしゃべり」を読んだことがあり、その次作の「悪魔とのおしゃべり」も読むのが楽しみな本でした。

実際に読んでみて感じたことは「前の作品より内容が難しく感じた」
ということでした。

ただどちらの本も言っていることは同じなのかなと感じました。

おそらくですが、昔読んだときより自分の考え方が固くなっているのかもしれないです。

本の内容としてはこの世は全て思い通りになっており認識次第でなんにでもなれるし、なんでもできるということ。

そのなかでこの本では
・怒るのは人に期待しているから
・正しさなんてそもそもない。悪いことは悪くない
・〜したいという願望は全て叶っている

と書いているのは印象的でした。

実際に〜したいと思っていることは全て叶っているというのは、セミナーの中でもしょうおんさんが話しているし、メルマガでも度々出てくる考え方です。

だけれども聞くたびにそうだなぁと思うのですが普段の生活になると忘れたかのようにそれを言ってしまう自分がいるので本当の意味での理解はまだできてないんだなと思いました。

この本では認識を変えることができれば全てうまくいく自分に気づけるという話ですが、セミナーでは、今の自分を変えるには自分との約束を常に守り続け修行を続けることが大切とあります。

自分の今の考え方では修行は自分の肯定感に繋がるので続けていこうと思います。でもたまにどうしても今の自分ではうまくコントロールできない感情になる時があるのでその時にこの認識を変えてみるとう方法を試そうと思いました。

ちょっと内容をまとめきれていないですが、最近読んだ思想は現実化する関連の本とも似ておりこの考え方wp
 
投稿者 Terucchi 日時 
“正しさを疑う”

この本は、主人公が悪魔と会話をして、その悪魔から教えられたことを書いた、さとうみつろう氏の本である。ここで、悪魔と言ってはいるものの、その悪魔は全然悪魔らしくなく、しゃべっている内容は、なるほどと思わされるものが多かった。本書で、私が印象に残ったのは、正しさを疑うことである。今回、自分の正しいと思うことが本当に正しいのかどうかを疑ってみる良いきっかけになったと思うため、これについて書いてみたい。

まず、本書の中の『目の前にすでに、「金持ちになりたい」がかなっているのさ』(p113)の考えにはビックリした。これについて、疑ってみた。確かに、「お金が欲しい」と願えば、「お金が欲しい」と思っている自分の状態がそのまま叶っている。とんちのような話であるが、なるほどそういうことなのだ。願いが叶っていない状況が叶っているのは自分自身がそうしているからなのだ。では、自分が金持ちだと思うと叶うのだろうか?必ずしもそうなるとは思えないが、先のお金持ちになりたいと思うの方であれば、叶っているからそれ以上進まないというブレーキが掛かっているということであろうと私は考える。そうであれば、既にお金持ちだと思うことは、お金持ちに近づいているのであろう。

次に、自分が正しいと思うことが本当に正しいことなのか疑ってみたい。この本で言うと、自分を苦しめているのは自分ではないかということである。なぜなら、この本(p32)では『人間は「正しさ」以外の方法で、苦しむことなどできないのだから』なのだ。実は自分を苦しめているのは他でもない自分自身なのだ。例えば、私自身、会社の中ではいい人でいたい、家の中でもいい父親でいたい、などがそうである。もちろん、いいと思って取り組むことは大事なことである。しかし、自分で「会社の中であればこうあるべきだとか、父親であればこうあるべきだ」ということが、ときどき息苦しくなる時がある。この本で言うところでは、自分で自分へ期待してしまい(p60)、自分のハードルを上げて、こうあるべきに苦しんでいるのが自分ではないのだろうかと思うのである。ただ、自分に期待して、それを目標とすることは悪いことばかりではないと考えるが、行き過ぎることがいけないのであろう。

ところで、正しさとは何であろうか?この本にもあるが、物事は実は正しいも間違いもないのである。人が勝手にどちらが正しいと決めたものであるのだ。ここで、私は、正しさは前提条件によって結果が変わると考える。つまり、前提条件が違えば、結果が違うということである。例えば、パワハラなどは、一つ前の時代であれば、結果が出るのであれば、パワハラもやむなし、であった。しかし、今の時代は、結果が出るのであれば、何をやっても許される時代ではない。ひと昔前には当然であったパワハラについても、その時代の勝つためには、の前提条件に従えば、手段は関係なく、それも正解であったのだ。更にもっと昔であれば、奴隷制度や戦争が正しいなども同じことだと思うのである。時代によって、今はいろんな前提が変わっているから、正しいが違うのだと思うのである。

では、そもそも正しいこととは何であり、どうしたらいいのだろうか?私は結局自分と向き合って、自分を疑ってみることが必要だと思う。なぜなら、この疑うということは、反対することではなく、一歩下がって、第三者の視点で見ることを指すと私は考えるからだ。人は自分のことは正しいと思って生きている。しかし、それは自分の価値観であり、自分が勝手に思っているだけである。ここで、自分は前提条件となる情報をきちんと得ているのであろうか?確かに、今の情報化社会で自分の欲しい情報はネットで調べればすぐに得ることができる。しかし、その情報は本当の情報であるだろうか。疑うことが必要ではないかと考えるのだ。実は自分の調べた記事も、知らず知らずに自分の都合のいい検索結果に誘導され、バイアスが掛かっていることもあるからだ。なぜなら、人は自分が幅広く見ていると思うほど、実は見ていないからだ。その際、この疑ってみることが大切だと考える次第である。ただ、その時、疑った結果で、正解が何かを探すことではないと私は考える。ここで、正解はないのだ。結果があるだけで、自分が勝手に意味づけをしているだけなのだからだ。

今後、風の時代になって情報は増える一方であると考える。正直、私は今でも情報の渦に巻き込まれていると思うのだが、もっと情報量は増え、振り回される気がする。しかし、私はその時に「正しい」に振り回されないことが必要であると考えるのだ。例えば、真言宗の般若心経の一説で、「色即是空」という言葉がある。調べてみると、現世に存在するあらゆる事象や現象は実体ではなく、空無である、との意味である。結局、色を付けているのは自分自身であり、元々は色など無いものなのだ。つまり、そもそも「正しい」かどうかも自分が作っているものなのだ。であれば、「疑って、正しいに振り回されない」ということが、今後の情報溢れる風の時代を乗り切るためのキーになって来ると私は考えるのだ。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、大人気ブログ「笑えるスピリチュアル」を運営し、全国各地で講演を行うさとうみつろう氏が、常識や価値観を疑うことの重要性について説いた本である。本書は、著者と同じ名前の主人公と悪魔の対話により物語が進む。悪魔からのアドバイスという形で語られる数々の金言は、既存の価値観を壊したつもりでいた自分にも強く響いた。価値観というものは、何も考えずに生活をしていると、大多数の人間が信じているものに染まってしまうものだと改めて痛感した。特に、冒頭の第1章で語られる「苦しみが生まれる原因は『正しい教え』があるため」という考え方には唸らされた。インターネットの普及により、私達はいつでも「正解」を知ることができるようになった。それによって、私達は苦しみ続けることが宿命付けられるようになったと言っても過言ではない。では、この苦しみから逃れる方法はないのだろうか。「正しさ」を疑い「悪」を実践する具体的な方法は何なのだろうか。本稿では、「正解」を求めずに心安らかに生きる方法について探ってみたい。

「正解」から離れる方法を考えるにあたり、重要なヒントが本書の第12章に書かれている。第12章によれば、誰もが「悪いこと」をしており、どんな行動にも「良い」と「悪い」が全く同量ずつ含まれているという。なぜなら、この世の全ては「結果」の世界であり、結果の原因を辿ることなどできないからだ。永遠に続いている「結果」という現実の中で、唯一であり原初の因子を特定することなどできないというわけだ。しかし、現実世界には「正解」が蔓延しているため、「正解」以外を批判する風潮が作られる。本当は唯一絶対の「正解」など存在しないのに、自分の外側に「正解」の判定基準を求め、妄信してしまうのである。本書の中で悪魔は、このように「判定基準」を自分の外側の世界に求めている状態が、生きづらい社会を生んでいると説く。つまり、量産され拡散される「正解」によって、「正解」に依存する人が増えて「正解」を求める需要が増大する。それによって、さらに多くの「正解」が供給されることになるわけだ。「正解」で溢れかえった現在の社会では、あらゆる行動が型にはめられて息苦しい生活を送ることになるのだ。

では、個々人が「正解」を求めないためにできることは何であろうか。それは、「判定基準」を自分の外側に求めないということになるだろう。換言すれば、物事の判断基準を自分の内面に持つということだ。自分の行動を他人に決めてもらうことなどもっての外であり、自分で決めるとしてもその判断基準を自分自身で創りあげていかなくてはならない。そのために有用なのは、物事を「良し悪し」を判断せずに、「好き嫌い」で判断するという考え方だと私は思う。例えば、飲み会の場で昔の自慢話ばかりする年配の上司がいたとする。年長者が若者と話す時に過去の栄光について偉そうに語ることは、「不正解」だと断じることもできる。ただ、そんな場面に遭遇した時も、『この人は自慢話をするのが好きなんだな。自分は、自慢話をするのもされるのも嫌いだけど。』と思えばよいのだ。『飲み会の場で自慢話をするなんてあり得ない』などと文句を言って批判する必要などないのである。

「良し悪し」ではなく「好き嫌い」で物事を判断できるようになれば、他人との付き合い方が圧倒的に楽になる。本書の第2章では「怒り」の発生原因について書かれている。悪魔は、「怒り」の発生原因は「期待」にあるという。相手に「正しい」行動をとってほしいと「期待」するから、「怒り」が生まれるのだという。そのため、自分にも他人にも社会にも「期待」しないことが、「怒り」をはじめとした負の感情を生み出さないコツだというわけだ。このような全てに「期待」しない生き方を実践する場合にも、「好き嫌い」軸の判断が活用できる。他人のあらゆる行動を「良し悪し」ではなく、「好き嫌い」で考えるのだ。例えば、そば屋でかつ丼を頼んだ友人に対して、怒りを向ける人はいないだろう。昼食に何を食べようとその人の「好き嫌い」でしかないからだ。それを「良し悪し」に置き換えて「期待」するから、怒りが生まれる。『そんな太った体型でかつ丼を食べるのはおかしい!もっと太るぞ!』などと言うことは、余計なお世話なのだ。

このように、ランチで何を食べるかぐらいであれば、「好き嫌い」で受け流せる。ただ、これが仕事や生活の話になるとそう簡単ではない。適当な仕事や怠惰な生活をしている他人に対して、人は「良し悪し」で評価をしてしまうものだ。なぜなら、今の世の中には「やるべきこと」と「やってはいけないこと」が溢れすぎているからだ。世の中で増え続ける「正解」を消すことはできない。しかし、そうした「正解」を考えなしに妄信しないことだ。「正解」を知識としては吸収しながらも、主観的な「好き嫌い」という軸で判断するよう心がける。こうした習慣を身に付けることで、自分にも他人にも優しくなることができ、生きやすくなるのではないかと私は思う。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
本書を読んで、しょ〜おんさんがこれまで話したことや、セミナーで言っていたことに似ている箇所が複数あった。そのうち、気になった3点を紹介したい。

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第1章「正しさを疑え!」を読んでいて、P40の図を見たときに、基本編セミナーでまさに同じような図をホワイトボードに書いていたことを思い出した。そして、本書で言わんとしていることと、基本編での話はほぼ同じだった。基本編での内容はこうだ。もし人生に行き詰まりを感じているのであれば、それは今持っている知識では、行き詰まりを解消することができず、現状を打破できない状況にあるということ。だから、今持ってない、今は知らない知識にこそ、人生の行き詰まりを解消し、人生を好転させることができる可能性が眠っている。ゆえに、人生がうまくいっていない人は、新しいことを学べ!といった趣旨だった。そのことを思い出して非常に懐かしくなった。

基本編では、新しい知識として、怪しい系の入門を教わった。それを繰り返し実践して修行すれば飲み物の味を変えられると知り、自分もその力を得たい!と思って、秒数を長くする修行に懸命に取り組んだ。そして、次にセミナーで、実際に味を変えることができたとき、怪しい系の存在に対する理解に腹落ちしたことを覚えている。

私も当時は重めの体調不良が続いていたが、この修行をするようになって、体調をコントロールできるようになった。そして、健康問題を一気に解消させることができて、人生を好転することができた。まさに、自分が持ってない、自分が知らない知識にこそ、現状を改善させるヒントが埋まっており、それは見つけることができることを身を持って理解したのである。

◆◆◆◆◆

また、第1章「正しさを疑え!」のタイトルそのものが、基本編での話に通じていることを思い出した。それは、我々が正しいと思う価値観は、変わってきてるということだ。どういうことかというと、正しさは決して、絶対的なものではなく、対外的な状況から影響を受けて、容易に変えられてしまうものだということ。その例として、我々日本人は、徳川幕府以来、価値観が複数回大きく変わっていることを教わった。しかも、それは、権力者の都合ではあるものの、日本という国を存続させるために、その時代には必要だったことが分かった。この短期間に変質を続けている日本人の価値観を、未来永劫絶対的なものとして扱うことは危険だということだ。さらに言えば、我々が今正しいと思っていることは、あくまでこの時代の一時的な価値観にすぎないということだ。それを信じすぎることは危ういし、変化の早い時代に置いていかれるリスクを高めるから止めようということだ。そんな話を本書を読んでいて思い出した。

私は基本編を受けたころは、社会人になったらとにかく貯金をして家を買うことが正義だと思っていた。それは自分の親がそうやっていたからだ。そのために、住宅財形は可能な限り貯めて、子供のために学資保険にも入った。それらの仕組みが整ったとき、喜ぶべきところを何かが明らかに違うと思った。資産が貯まるスピードが親のときと比べて明らかに遅かったからだ。なにかやり方が間違っているのではと悶々としていたとき、ひょんなことから資産運用を勉強するようになり、現代のサラリーマンが行うべき資産運用の形を一つずつ学んでいった。その結果、親のときとは全く異なる資産の作り方をするようになった結果、今では精神面でも資産面でも安定した運用ができるようになった。そして、運用に対して自信を持てるようになり、幸福感を高めることができている。まさに正しさ(自分の親がやっていたことを何も考えずに踏襲すること)を疑い、今まで怖くて避けていたことにちょっとずつ手を出していって学ぶことによって、人生が良きものになったと強く思う。

◆◆◆◆◆

第2章のP64にある「自分にすら期待してはいけない」の箇所は、読んでいて、コミュニケーション編のコンテンツを思い出した。それは、ネガティブシンキングの良さを説明してくれたときのことだ。ネガティブには良い面がある。それは、ものごとを論理的に分析的に考えて同じ過ちを繰り返さない方法を考えるという点だ。ポジティブシンキングだと、右肩上がりにならなければ悪いことだと捉えられてしまう。しかし、ネガティブシンキングであれば、そもそも自分に期待しないし、悪いことが起きても現状が分かっただけだと考える。落ち込む必要も、無能感を感じる必要もないのだ。「自分にも、他人にも、世界にも、相手にも期待しない(P70)」から、日々心乱されることなく、落ち着いて、平穏に過ごせる。落ち込みそうなときほぼこの思考が大事だといった話を思い出した。

この考え方は、仕事で使うことで効果を発揮している。仕事で頑張ってもなかなか成果が出ないとき、落ち込んだり、自信を失ったりするのでなく、ただ、現実(数字やアンケート結果など)を見る。そして、不足点や未考慮な点を分析的に探し、仮説を立てて、試行し続ける。まるで実験を繰り返すように。そうして行動していると、パッと成果が出ることがある。それがめちゃくちゃ嬉しいのだ。なぜなら、狙って出した成果だからだ。そうやって、これまでプレッシャーを感じて避けていた仕事にも、淡々と取り組めるようになっている。これも、私にとって重要な教えである。

これら3つが読んでいて気になった点である。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“怪しい系の学び方について考える”

表紙にだまされた…。本書では、一般的に当たり前だと認識される、時間が一方向にしか進まないという時間の概念も、人間がモノを所有できるという所有の概念も、それらは正しくないのだと説明される。一方で、『人間スーツ論』などという一般的には正しいとは思われるはずもないトンデモ話しが、さぞ当たり前のように展開される。軽くて簡易な感じの表紙のイメージとは裏腹に、本書の内容は私にとっては重くて難解なものであった。おそらく、量子力学や怪しい系の知識に精通している読者以外は、私と同じような感想を持ったのではないかと思う。そうなると問題になるのが、内容が難解で腹落ちしないがために、読んで終りになることだ。つまり、紹介される教えやワークを実践することもなく、本書を人生の肥やしにするのではなく、本棚の肥やしにしてしまう人が出ることだ。現に、私も通読1度目の時は、頭の中が?状態になり、2度目では更に???状態になり、思わずそっと本棚の奥に本書をしまい込みそうになったくらいであった。しかし、それでも気を取り直して3度目に読み返した時、私は怪しい系の学びにおいて、とても重要なことを思い出したのだ。

3度目の通読時、ページをめくる手が止まり、しばし考えさせられた箇所があった。それは、P.41のイラストだ。そのイラストは、二重丸が描かれていて、真ん中の丸部分に、“「理解」=自分が持っている知識で消化できること⇒現状維持”とあり、その外側に、“「理解できない」=今までやったことがない⇒現状打破する可能性大”とあり、さらなる外側に、“可能性”と描かれている。要するに、このイラストで著者は理解できない領域にこそ、新しい可能性があると主張しているのだ。そして、この著者の主張について思いを巡らした時、私はフッと気が楽になったのだ。なぜなら、この本で私が理解していない部分にこそ、私にとっての現状打破となる新しい可能性が秘められていると考えることができるからだ。即ち、理解できないことは、決して悲観することではないのだと思えるようになったのだ。ただここで、本書には私が理解できていない領域があるという事実が変わったわけではないよね、と真っ当なツッコミが入ってもおかしくないだろう。では、どうするのか?どのような考え方、態度、行動を私は取ればよいのだろうか?そう考えていると、私はこの状況に既視感のようなものを得だしたのだ。そして、さらに考えていると、その既視感とは、私がS塾の基本編セミナーを初めて受講した時の出来事から来るものだと分かったのである。

ご存知のとおり、基本編セミナーの主旨とは、科学という枠組みでガチガチに固められた世間一般的な既成概念を抜け出して、その外側にある怪しい系の概念を知り、新しい価値観を手に入れようというものである(多分あっているはず)。上述したP.41の二重丸にはめ込むと、真ん中の丸部分が、“「理解」=科学で証明されている領域⇒既成概念”であり、その外側が、“「理解できない」=科学で証明されていない領域⇒怪しい系の概念”で、その外側が、“奇跡”といったところだろうか。要するに、怪しい系の力で、奇跡を起こそう!といったところだ。そして、言わずもがなになるが、セミナーの中では、科学で証明されていない領域について、史実や身体テストなどを基にして、ロジカルに理解がもたらされる。一方で、奇跡が起こるというところについては、なんとも腹に落ちしなかったのだ(あくまで10年前の私の場合)。例えば、呼吸法で花粉症などが治る、または、瞑想で病気を治すことができる、さらには怪しい系を学ぶと運が良くなるという話についてだ。これらは、どう考えても、その当時の私の頭の中では原因と結果が論理でつながらなかったのである。では、どうしたのか?答えは、同じくセミナーで説明されるエポケーをしたのだ。つまり、理解できないことについて、肯定も否定もせずに、一旦判断を保留したのである。ここで、おいおい、それと本書の関係は?を思われる方がいるかもしれないので私の考えを伝えよう。私が言いたいのは、本書で理解できないことも、正しい、正しくないといった肯定、否定をするのではなく、一旦判断を保留すれば良いということだ。

では、本書の理解できない領域について、一旦判断を保留した後はどうすればよいのか?それは、単純なことだと思われるだろうが、教えられたワークを淡々と実践することだと私は考える。なぜならば、基本編で教わった呼吸法も、瞑想も実践を地道に重ねることで、身体感覚で腹落ちするようになったからである。つまり、私の場合、呼吸法を続けることでアトピーが治り、瞑想をすることで肺に溜まっていた水が消え去り、怪しい系を学ぶことで運が非常に良くなったという体験をしたのである。そう、奇跡とは起こせ得るのだと実感したのである。よって、私は本書で紹介されている断食、神社参り、イメージングなどのワークを教えられたとおりに、とりあえず実践してみようと思うのだ。そうすればきっと、本書で説明される時間の概念についても、所有の概念についても、そして、トンデモ話しに聞こえる『人間スーツ論』についても、身体感覚で腹落ちする時がいつか必ず来るに違いないと思えるようになったのだ。また、淡々とワークを地道に実践して、身体感覚で腹落ちすることこそ、怪しい系を学ぶ上で、非常に重要な姿勢、態度であるのだと今回本書を読んで再認識した次第である。そのようなことが得られたということを鑑みると、私は本書と本書が課題本になったことに大感謝するのである。


~終わり~
 
投稿者 Cocona1 日時 
☆ 「正しさ」を捨て「感謝」を持って

本書を紹介された頃、私はTwitterのとある投稿が気になっていた。それは、「法律に従うと日本には『やっていいこと』と『お金を払えばやっていいこと』しかない」という内容だった。実際には、終身刑や死刑もあるので、「法律に従うと日本では、お金、時間、命を差し出せば何をやってもいい」となるかもしれない。どちらにしても、「犯罪を犯してはいけない」という「正しさ」は見事に捨てている。言いたいことは間違っていない。間違っていない=正しい、とするなら、「正しい意見」となる。しかし、正しいけれど気持ちが落ち着かなかった。そんなときに課題図書として紹介されたのが、本書だった。第1章のタイトル「正しさを捨てる」とはこういうことなのだろうか。私は疑問を持ちながら本書を読んだ。そして、このTwitterの投稿と本書の悪魔の教えとは、違いが2つあることが分かった。それは、「全ての正しさを捨てる」と、「感謝」である。

まず、「全ての正しさを捨てる」について考えていく。本書で悪魔は、「全ての『正しさ』を、捨てろ(P526)」と言っている。なぜ悪魔は、「正しさ」を捨てるように教えたのか。私は本書の中で、2つの理由に注目した。

まず、一つ目の理由は、「正しさ」は、別の「正しさ」とぶつかることにある。別の言葉では、「誰かの『正しさ』に従いたいあなたの『弱さ』が、世界の『悪い人』を必要としていた(P531)」とも書かれていた。「正しさ」を持つと「悪い人」が生まれる、この主張はまさに一般常識の「正しさ」を疑っていてかなり斬新で、さすが悪魔だと感心してしまった。ここで先ほどのTwitterの投稿をもう一度見ると、そちらは一般常識の「正しさ」は捨てているが、別の新たな「正しさ」を主張している。本書の悪魔の教えとは一見似ているが、別物だと分かる。「正しさ」を捨てるなら「全て」でなければいけないのだ。

「正しさ」を捨てる二つ目の理由は、「ちょー退屈」な「特異点」に戻ってしまわないことである。前述の「別の正しさとぶつかる」が他人との関わりだとすると、こちらの理由は自分との関わりと言えるかもしれない。まず、「正しさ」は魅力が大きい。なんといっても楽で安定していることだ。本書でも悪魔が「誰かの『正しさ』に従えば、楽だもんな(P528)」。と言っている。楽だからみんな「正しさ」を捨てたがらない。そして、中途半端に手放そうとしても、気づくと本書でみつろうが言っていたように「じゃあどうしたらいいんだ?」と外側に「正しさ」を求めてしまう。もしくは「正しさ」を捨てた結果、「何をやっても許されるなら悪いことをしよう!」と考え、「本願ぼこり」になってしまう。しかし、「楽」ばかりでは「退屈」につながる。というのも、人生の目的について本書で書かれている、「経験」をしたくて「特異点」から分離したのとは真逆だからだ。せっかくこの世界での経験を求めてきたのに、誰かの決めた「正しさ」に従ってまた「ちょー退屈」になってしまうのは、もったいないではないか。だから悪魔は「特異点」に逆戻りしないように、「正しさ」を捨てよと教えたのだろう。

それでは、悪魔の教えに従い「全ての正しさを捨てた」心の内側には何を持とうか。私は、本書で「正しさを捨てろ」と同じくらい何度も出てくる「感謝」だと、考える。ここでもう一度冒頭のTwitterの投稿に戻ると、この発言には「感謝」は見当たらない。なぜなら、法律が示す罰を受ければ何をやってもいいという考えは、どうせ救われるから悪いことをしようと考えた「本願ぼこり」に近いからだ。どちらも、「私のチカラで、生きている」と信じている者の行いだ。そこには、悪魔の教えである「目の前全てのものに対する感謝」はない。

ここまで書いてきた本書での学びを一言でまとめると、「『全ての正しさ』を捨て『感謝』を持って」となる。これが悪魔の教えの大事なポイントだと、私は受け取った。

少し話はそれるが、本書の登場人物「カデル」の名前が珍しかったので、ネットで調べてみた。すると、「かでる」とは北海道の方言で、「仲間に加える」という意味なのだそうだ(物語の舞台が北海道なので、ぴったりである)。そうか、この本は悪魔が仲間に加えてくれる、悪魔からの「招待状」だったのか。「正しさ」を捨てて「感謝」を持つ。この悪魔の教えに従うことは、なかなか難しく感じる。うっかり「本願ぼこり」になってしまわないか、心配だ。しかし、かつて「特異点」だった自分にとっては、やりがいのある課題である。私も悪魔の仲間に入れてもらえたからには、本書の教えを忘れずに、「正しさ」を捨て、どうやって今この瞬間に感謝するかを自分で考えて生きたい。さらに、本書の最後に著者が言っている、仲間を増やすことも大切だ。みんなが正しさを捨ててぶつからなくなった世界はきっとあたたかい。まずは身近な人から悪の組織に「かでる」ことも目指したい。
 
投稿者 msykmt 日時 
“ブランコを楽しむ”

いままでは、自分にとっての後ろ暗い過去、つまり、苦しい経験、悲しい経験があるということは、恥ずべきことだから、なるべく他者に知られないようにしよう。隠そう。そのように考えてきた。そのため、どこか後ろめたさを覚えるせいか、心の重荷になっていた。

ところが、本書を読んだことによって、その考えが変容した。そのような苦しみや悲しみを味わった経験があるからこそ、いまこの瞬間が幸せであることを感じられるのだ。だから、あれはあれでよかったのだ。いまの自分にとっては必要な経験であったのだ。むしろ、かけがえない経験であったのだ。むしろ、いまその経験をふりかえると、楽しかったとさえ思える。そのように肯定的に思えるようになった。

これからは、たけのこの皮を一枚ずつはぐように、自分にとっての後ろ暗い過去を、徐々にオープンにしていこうと思う。そうすることによって、もっと身軽な気持ちになれるように。
 
投稿者 str 日時 
悪魔とのおしゃべり

“この世界は勘違いでできている“
『「ない」と思っているから手に入れようとする』『「ある』と気付いている人は手に入れようとしない』お金だろうと幸せだろうと「ない・欲しい」と望んでいるうちは、仮に手に入っていたとしてもそれに気づくことができず「足りない・もっと」を一生続けていくことになるかもしれない。

だからこそ、「もう持っている」「もうなれている」という勘違いが必要になる。他者に対する怒りの感情も同じ。勝手に相手に期待し、それに応えてくれなかった相手に対して怒りの感情を抱く。相手に対する期待値を勝手に上げていたことによる自分の勘違いだったと気づくことができれば、そんな感情など直ぐに消えていくのだろう。もっともそれが容易でないことも同時に痛感できた。なぜなら『失ったものは、手に入れるまでは、手に入っていなかった』とは言っても、実際に失えば悲しくもなるだろうし、奪われたとすれば怒りや悔しさも感じてしまうだろう。『この世は全てが「結果」の世界』でも原因という妥協点を用意しなければ我慢ならない場面もきっとある。

閣下が親切丁寧に伝えてくれたことは、この『せかい』での真理なのかもしれないが“言うは易く行うは難し“でもあるのだろう。読みやすい文章とは裏腹に、非常に難解な一冊だった。世の中に染みついている『正しさ』に真っ向から反発することは現実的ではないが、せめて『疑う』こと。そして正しく勘違いをすることで、”なりたい自分“から”なった自分“の『せかい』を増やしていこう。
 
投稿者 vastos2000 日時 
創造主、Something Great、Godなどと呼ばれるもの(以下”神”と表記)は、どのような存在なのか?意思をもった存在としての神はいるのか?あるいは自然法則の中身を解明できていない人間が様々な出来事の因果関係を説明するために神という概念を作り出したのか?私個人の考えは、神とは意思を持った存在ではなく現実世界を成り立たせている法則(ルール)であると考えており、ギリシア神話のように人間や動物を模した概念であると考えている。だが、神がこの世界を創造し、人間を含む森羅万象を造ったという考え方もそれはそれでアリだなと思う。

神の存在について考えるのは形而上学に任せるとして、現実問題、願望実現のためにどのように考え、どのようにすればよいのかを考えたい。
仮に自分がせかいの創造主だったとして、せかいの中に存在する人間の願望をいちいちヒアリングして叶えるようなことをするだろうか?
私はイマジネーション力がいまいちであるので、多人数同時参加型オンラインRPGの製作者・運営管理者に例えて考える。もしその立場だったとしたら、
1.参加している多数のプレイヤーからあげられてくる要望を一つ一つ聞いていくだろうか?
2.また、プレイヤーによって行動やたどる経路は異なるのに、全てのプレイヤーが同じようなエンディングを迎えるように設定するだろうか?

1も2もしない。
上記の1については、時間や労力といったリソースは有限であるという前提だが、全部の要望は聞いていられない。公式の問い合わせ窓口に寄せられるものに対しては、要望に応える、ほっとくなど、何らかの意思決定・対応する他、掲示板やそのゲームのコミュニティなどで話題となっている事項をみてユーザー(プレイヤー)の不満や要改善点をつかみ、より良いゲームにするために必要であれば改良するだろう。
現実世界で言えば、公式の問い合わせ窓口は神社や教会でのお願いだろうか。

また、2について、全てのプレイヤーが同じ結末を迎えるのはつまらないと考える。色々なパターンがあるから面白い。せっかく自由に設計できるのに一つだけに絞るのはもったいない。自分が観察者の立場であるからなのかもしれないが、ハッピーエンドもあればバッドエンド起こりえるようにするし、ハッピーエンドだけではすぐに攻略意欲がなくなってしまうと考える。

このように考えると、理不尽な試練や不幸が身に降りかかった時「神はいないのか!なぜ神は奴を裁かない!」などと言ったりするが、神がいるからこそ、そのようなプログラムが組まれているのだ。ランダムに良いイベント、悪いイベントが発生するように設定してあって、
そのイベントに遭遇したプレイヤーがどう反応するかを見ているのだ。
だから、そこで神の興味を引くようなリアクションをすれば注目されるわけだ。

神が慈悲深いとか優しいとは正義の味方であるというのは、人間が勝手に思っていることだ。証明できないし。
それが証拠に、宗教によって教義が異なるし、時代によって「正しさ」は変化する。キリスト教代表の十字軍がやった事なんて、現代の視点からすれば許されないだろう。
「やさしさ」だって、立場が異なれば何がやさしいのかも異なる。
例えば、中学生が宿題を忘れて困っているとする。ある人はその中学生に宿題を移させてあげることが優しさだと考えるかもしれないし、別のある人は「宿題を忘れて困る」という経験を学生のうちにしておくことが本人の将来のためだと考えて、あえて放っておくのが優しさだと考えるかもしれない。

神は慈悲深くもないし正義の味方でもないと想定した場合、いかにすれば願望実現につながるのか?
本書では『一なる者』や『I&I』といった表現がされるが、ここが要点だと考える。おそらくは今回の課題図書『悪魔とのおしゃべり』のシリーズ前作にあたるのが『神さまとのおしゃべり』であろうが、前作では「感謝」ということが述べられている。
本作では「願いが叶っていると信じる」ことが願望実現の方法として書かれている。
日本語で書かれているわけだし、字面では理解できる。だが実行するのは難しいと感じる。それこそ今までの人生で「正しい」ことをさんざん刷り込まれてきたので、これをリセットしてカタチのないものとするのは困難だ(と、思ってしまっている)。
『ホログラフィック ユニバース』よりは平易に書かれていると感じるが、どちらも「わたし」(観察者)がいるから「せかい」(観察対象)が発生するといっているように思うが、わたしはどのような思いでせかいを観察すればよいのだろうか?
結局本書を読み終えても明確な答えが出せなかったが、人間の思いや考えは願望実現において中心となるものであると、ありきたりなところに着地してしまった。
今後も願望実現は追及していくことになる、という願いが実現してしまった。
 
投稿者 H.J 日時 
悪魔とのおしゃべり。
中々、衝撃的なタイトルだと思った。
そう思ったのは、無意識的に「悪魔」というワードに悪いイメージを持ったからだろう。
そして、その無意識的な感覚は開始数ページで覆される。
P29に書いてある様に『善だから、「良い」とは限らない。悪だから、「悪い」とは限らない』のだ。
私は生きていた中で培った”善=良い”、”悪=悪い”という式のもとで、正しさを無意識的にはめ込んでいたのだろう。
そもそも日本人の価値観では勧善懲悪が好まれる傾向がある。
それは時代劇から始まり、最近で言えば半沢直樹や鬼滅の刃など、正義が悪を倒すという勧善懲悪が分かりやすいものがヒットしやすい傾向にあることからも、そう言えるだろう。
そんな中で生きていけば、自然と悪に悪いイメージを持ってしまう。

ここで一旦、本書の内容を一言で要約するとすれば「正しさを疑う」ということだ。
前述した様に無意識で感じている”善=良い”、”悪=悪い”とは限らないのだ。
自分が正しいと思ってる事は、本当に正しいのか?そう疑うことが重要だと説いた本である。
そして、その正しさを疑うことをベースに人間スーツ論という興味深い論考に繋がる。
そういった内容をストーリー仕立てに読みやすくまとめられた一冊である。

その「正しさを疑う」ということは、これからの時代にはなおさら重要になっていく要素だと感じた。
言い換えると、これからの時代とは「風の時代」であるからだ。
「風の時代」とは変化の早い時代である。
つまり、過去に正しいと思ってたことが明日正しくない時代が来るかもしれない。
だからこそ、本書で書かれている様に正しさを疑う必要がある。
そもそも、正しさとは何か?
それは、本書の表紙に載っている様に「正しさなんて、ただの多数決」である。
多数決であれば、人々の考え方によって、すぐに変わるだろう。
時代や国によっても正しさは変わる。
例えば、戦争も今の時代の日本では考えられないが、先の大戦、わずか80年前までは普通に行ってきた。
軍国主義の日本において、戦争に反対していたら非国民扱いだ。
しかし、今の我々の正しさをベースに考えると非国民と呼ばれていた人が正しいとさえ思える。
であれば、著者の言う通り「正しさなんて、ただの多数決」である。
その中で重要なのは、正しさを疑えるかどうか。

そして、正しさを疑って、その後にどう行動するか。
著者が言うには『正しさを1つも持ってない者に、不可能なことは何もない。(P94)』である。
言うは易しではあるが、納得できる言葉である。
ただ、理論は判っても実行は中々難しい様にも思えた。
そこで出来ることを考えれば、P43に書いてある様に『理解できない話にこそ耳を傾ける』である。
言い方を変えれば、「未知のものに興味を持つ」とも言えるだろうか。
未知のものに興味を持つということは、自分にとっては新しいことである。
新しいことを始めてみる。
そう考えると、やはり風の時代の生き方にマッチしている。
そんな思いに至った一冊だった。