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第136回目(2022年8月)の課題本


8月課題図書

 

東大生の論理 ――「理性」をめぐる教室

 

本書は東大で論理学の講師をすることになった著者が、東大生に教えることを通じて感じ

た、リアルな東大生、等身大の東大生の姿を考察した本です。堅物ばかりかと思われた東

大生の多くが流行のアニメを見ていたり、進振りや恋愛、社会的ジレンマに悩む姿が、身

近な感じで伝えられ、東大生もフツーの人間じゃんと思わせられる一方、知性や教養の高

さ、勉強に打ち込む時の集中力など、ここが並みの人間と違うところねと感じるところも

あって、純粋に読み物として面白い本に仕上がっています。

 

講義のテーマはあくまでも論理学なので、各講義は論理学をテーマに進められるのですが、

これをじっくり読むだけで、論理学の入り口を通過してしまうように書かれているところ

が面白いです。東大生の風俗や指向性を見ているつもりだったのに、与えられたテーマや

課題につい真剣に取り組んでしまい、東大生と自分との違いを感じることもできて、バー

チャルに講義に参加しているような感じになって面白かったです。

 【しょ~おんコメント】

8月優秀賞

 

まずは課題図書の優秀賞を発表します。今月は投稿者による推薦が固まりまして、Cocona

1さん、masa3843さん、tsubaki.yuki1229さん、sarusuberi49さん、vastos2000さんが各1

票、LifeCanBeRichさんが8票と、圧倒的多数となりました。

 

これを一次審査として、今の方々の投稿をじっくり読みました。

 

そうしたらびっくりすることに、みなさん課題を勘違いしているみたいな書きっぷりです。

この課題図書の投稿というのは、本書の内容と関係があることを書かなきゃダメなんです

よ。例えば今月は、「東大もしくは東大生について、エッセーを書きました」みたいなの

が多かったんですよ。書いたことが、本書の内容とどこかでリンクしている、関係してい

ると言えないのであれば、それは課題図書の投稿としては不適切なんですよ。

 

 

その観点で読み直すと、masa3843さんとLifeCanBeRichさんだけが残ったのですが、各段

落に於けるロジックの的確さ、結論に対して各段落が果たす役割の適切さと建付けの明快

さから、2ヶ月連続ですが、masa3843さんに優秀賞を差し上げることにしました。おめで

とうございます。


【頂いたコメント】

投稿者 mkse22 日時 
「東大生の論理」を読んで

本書は、2009年に東京大学で記号論理学の講義を担当した著者が、各回の講義の概要とともに、その講義を受講していた東大生の反応をまとめたものである。本書の特色は、東京大学教養学部の教育水準を大まかに把握できるだけでなく、東大生の考え方も把握できることにある。
 本書を読む限り、講義内容は記号論理学の標準的なテーマを扱っているようで、正直東京大学以外でも受講可能な内容のように感じた。教養学部で開催されている講義であることから、幅広い教養を身につけることが目的であるため、極端に専門的な話をしにくいのかもしれない。
 しかし、受講した学生の反応においては、他の大学ではなかなか見られない点がいくつもあった。特に注目すべきは「自主レポートの提出」で、著者に触発されて、6回目の講義から学生が提出してきたのだが、その内容が非常に独創的だった。
例えば、自主レポートのひとつである「アヒルの餌とナッシュ均衡」においては、理系の1年生が考えたアルゴリズムをもとに、シミュレーションプログラムを作成、実行したうえで、その結果をまとめたものであった。
 理系1年生がプログラムを作成できるだけでなく、それを使って研究をすることができることは驚くべきことである。なぜなら、中学や高校では研究のやり方を身につける機会はほとんどないため、大学1年生の段階で自主的に研究のできる学生はほとんどいないからだ。1年生の段階でプログラム作成する能力だけなら、東京大学以外の学生でもいるだろう。しかし、それを使って研究するとなると、一気にハードルが上がる。
 研究は、通常、大学3回生で所属するゼミの中で、担当教授の指導の下、2年程度かけて身につけるものだ。なお、研究指導については、共通のやり方といったものがないため、担当教授ごとに異なるといったことが実態のようだ。だから、学生の自主性に任せるといってほとんど何も指導しない教授もいれば、研究テーマについて具体的に指示する教授もいるといった感じだ。
 本来であれば、所属大学や学部問わず、研究の進め方を関係者全員で共有して、それを磨き上げることで、日本の大学全体の研究水準を上げる方が効率的だとおもうのだが。
 それはさておき、自主レポートを提出した理系1年生の例からもわかるように、東京大学には、入学の段階ですでに次元の異なる能力をもった学生がいる。本書にも記載されているように、高校時代に数学オリンピックに出場し満点を獲得した学生や、中学時代から原書で文学書や哲学書を読んでいる学生が存在している。そういった学生が入学後にさらにその能力を伸ばそうと互いに切磋琢磨しているわけだ。

ここからいえることは、東京大学は、次元の異なる能力を持った学生がさらにその能力を伸ばす場としては有効に機能していることだろう。

逆から見ると、世間からみると十分優秀であるが、とびぬけて優秀とはいえない学生にとっては、東京大学はかれらが能力を伸ばすために適切な大学でない可能性がある。なぜなら、平均的な学生では希望する学部に進めない可能性がでてくるからだ。東京大学独自の制度である進学振り分けにより、突出した能力を持つ東大生が特定の学部に集中したら、彼らでその枠が埋まってしまうため、平均的な能力の東大生はその学部に進むことが困難となる。希望の学部に進めなかった学生は3回生以降も勉学に情熱を傾けることができるのだろうか。少なくとも私にはできない。

このように考えると、東京大学は平均的な学生にとっては厳しい大学だ。平均的な東大生が東大で能力を開花させた例があるのだろうか。そのような例があれば知りたいと思ってしまった。もし、東京大学が平均的な学生の能力向上について不得手であるなら、彼らが東京大学から他の大学に移ることが可能なように制度化する方がお互いにメリットがあることだとおもうのだが、いかがだろうか。

上位5%の学生を成長させるために残りの95%の学生を切り捨てる。これが東京大学の強さの秘密とおもってしまった。
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
『東大生の論理』を読んで考察したことを5点、順番に述べる。


1.論理学=数学・哲学の道具

これまで自分は論理学という学問に対し、数学の証明問題に似たものだと漠然と想像していた。そのため今月の課題図書を読み、第1回講義の章で、著者の高橋先生が東大の論理学の授業で「男女関係の問題」を提示し、学生達が議論し始めたあたりで臨場感に一気に引き込まれ、「あれ?ひょっとして論理学は数学より、哲学に近いのでは?」と驚きを感じた。

辞書には「論理学とは、正しい思考過程を経て真の認識に達するために、思考の法則・形式を明らかにする学問」(デジタル大辞泉)とある。数学や哲学を紐解く道具として、論理学が必要不可欠であることも、後に調べて分かった。確かに、論理学を学ぶことで思考の手順を身に着ければ、学問のみならず生活の全てに応用が効くので実用的であろう。

そして疑問が生じた。論理学とは果たして、文系科目と理系科目、どちらに近いのだろうか。


2.東大教養学部の意義

ここで、高橋先生の論理学の授業を受講している東大生達について、改めて捉え直すことにする。
他大学と異なり、東大は教養学部を設けている。東大の入試は、文系と理系で分けて行われる。だが入学者は全員、文・理に関係なく2年間の教養学部に入るので、専門的な学問を学び始めるのは3年生になってからとなる。

なぜ東大だけが教養学部を設けているのか。それは、文系・理系の壁を取り払い、両方の学問を融合・活用する能力を育てる-いわゆるリベラルアーツ教育こそが、東大の目指す所だからだろう。
将来の政治界やビジネス界で、日本を背負って立つ人材を育てるためには「短期間で習得できて、社会に出てすぐに役立つ即戦力的なスキル(資格や試験のスコアなど)」でなく、長期間でじっくりと大きな課題に取り組み人生を生き抜くための、人間力(数値化できないもの)が必要なのだろう。

論理学は文系科目か、理系科目か?―その問いに対して、私なりに出した答えは「どちらにも応用が効き、文系と理系の両方を融合させる素晴らしき道具」というものだ。


3.大学で学問をする意味

ここで思い出した個人的なエピソードがある。20代後半の頃、高校時代の友人同士である私(英文科卒)、友人A(経済学部卒)、友人B(法学部卒)の3人は、自分たちの受けた大学教育について話していた。

私と友人Aの意見は

●大学で学んだことは、今の仕事にダイレクトに役に立っているとは言えない。むしろ役に立ってい
るのは部活動やアルバイト/資格取得のため通った予備校の方だ。
●大学の法学部で学んだ法律の知識を、実際に仕事で使っているBは、羨ましい。

というものだった。

だが、友人Bは別の角度からこのように述べた。
「それは違う。例えば人生で大きな壁にぶつかったとするでしょう。失恋したり、災害にあったり、家族の病気や死を迎えたり。そういう時、一体何が、私達を立ち上がらせる原動力になるの?決して、仕事で役に立つスキルや資格じゃないでしょう。
それは、学問とじっくり孤独に向き合う中で、自分の中に芽生えた自尊心。あるいは、クラスメートと一緒に切磋琢磨して研究しながら培った根性かもしれない。あるいは、文学を読んで琴線に触れた、たった一つの美しい言葉や、何気ないひとときに先生がくれた助言の言葉なども、含まれるかもしれない。
リベラルアーツという曖昧なものは、一見何の役に立つか不明だけど、じわじわと人生で生きてくるのよ」

友人Bが20代後半の若さでこの見解を述べたことは、今考えると驚きに値するが、確かにリベラルアーツ(日本語で「教養」と訳される)の一部である論理学の基礎を学んでいれば、人生で絶体絶命のピンチに陥った時も、絶望せずパニックにならず、手順を踏んで落ち着いて思考し、解決策を導くことができるだろう。
「本当に役に立っているの?」と疑問を感じていた自分の大学時代の教育内容を、反省しながら見直すことにした。


4.論理学の歴史

古代ギリシャには「自由人にふさわしい教養」の概念があり、それが反映された中世ヨーロッパの大学には、自由七科と呼ばれる7科(文法・修辞学・論理学の3学と、算術・幾何・天文学・音楽の4科)があったという。論理学がソクラテスの時代から受け継がれてきた歴史があるのに対し、中世の自由七科に「科学」は含まれていない。科学は新しい学問なのだ。(※天文学のみ含まれているが、物理・化学・生物学の名前はない。)

古代ギリシャでは文系・理系の概念は存在せず、自由七科には文系・理系学問が混在していた。塾講師の自分は日頃から「この生徒は文系科目が得意で、理系科目が弱い」などと言いがちだが、このような文系・理系という分類法は時に思考の幅を狭め、世界の見方に限界を作るのでは?と危機感を覚えた。

第一回講義の「XとJとKの男女関係の問題」で、東大の学生達の発想の自由さに驚いた。枠にとらわれず、与えられた選択肢に縛られず、柔軟な発想で最善の解決策を導き出そうと探究する姿に、彼らが東大生たる所以を見た。賢くなるとは、単なる知識の蓄積を指すのでなく、知識をフル活用し常識にとらわれない発想をする「自由さ」を意味するのだろう。教養を意味するリベラルアーツの “liberal”の真の意味が初めて分かり、学び続けることで、より自由に生きられる限りない可能性を感じた。


5 愛を科学で説明できるか?

本書を読んで改めて気づいたのは「この世には数字で表せるものと、表せないものがある」という事実である。
P.158の「最近まで僕は、科学的に考えれば全てが説明できると考えていたが、それでは失敗する。愛は科学で説明できない」という学生のコメントには考えさせられた。確かにこの世には、科学で説明できるものと、全く説明できないもの(人の感情など)が存在する。例えば

●1人っ子と3人兄弟の長女。親からもらっている愛の量はどちらが多いか。数値化せよ。
●あなたにとって人生で最も大切なものを5つ挙げ、その重要度をパーセンテージで数値化し、円グラフで表せ。

…という問題があったとする。2つとも過去に自分が実際に取り組んで挫折したものだ。この問題に取り組んだからこそ、数学が俄然面白くなった。この世に存在する全ての「数値化できて、数式により必ず一つの解が導き出されるもの」が、素晴らしい存在に思えてきたからだ。


私の職場(学習塾)の偉人カルタにはアインシュタインの札があり、

「宗教なくして科学は不具であり,科学なくして宗教は盲目である」

と英語で書かれている。
この名言の意味を小学生に上手く説明できるほど、自分の教師としての人間力はまだ足りていない。そんな私に、この課題図書が「論理学」に触れるきっかけを与えてくれた。
「数字で表せる理数系科目も、数字で表せない文系科目も、両方大事で、両方を融合・フル活用できるのが本当の知恵」だと、自分なりに噛み砕いて生徒達に説明しようと決意できたのは、この課題図書のお陰であり、感謝している。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、論理的な思考には限界があり、それを補うためにも他の人達の意見を聞き、自分はどう考えて行動したいのかという、自発的思考を行う事が重要であると感じました。

そもそも、理性的であるというのは人間が理想とする姿であり、感情を持つ人間が常に無駄のない、理性的な行動ができるとは限りません。

第10回の講義の理性と神秘で書かれている通り、理性主義者である物理学者のファインマンが、亡くなった妻に宛てた手紙を一人で何度も読んでいたと言われています。

あるいは、小惑星探査機はやぶさが帰還する際に、もう論理的技術的に考えてもどうしようもなくなり、神頼みを精神的な支えにしていたという事例を紹介しており、理性的に結論を出したとしても、東大生自身が理性的に行動するかと言うと必ずしもそうではありません。

ここで重要なのは、学生に行った思考力を鍛える講義とは、全てを論理的な答えに導こうというものでは無いという事です。

『ともすると記号論理学は「頭でっかち」な人間をさらに「頭でっかち」に増幅する武器にもなりうる。だからこそ私は、論理の「完全性」(美しさ)と「限界」(危険性)の両面に関わる話題をディスカッションに加えてきたのである。ソクラテス風に言うならば、自分を「頭でっかちな東大生」だと知っている東大生は、もはや「頭でっかち」ではないことを誇りに思ってほしい!』(P.9)

理性の限界を示したものに、ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、アローの不可能性定理があります。

パスカルが記した『パンセ』には、理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにあると書かれています。

人は自分の興味がある事にしか興味を示さないし、自分にとって行いたくないのであれば、何かしらの理由を付けて行動する事を拒絶しようとします。

そのような人に何度、論理的な説明や、理論の妥当性を訴えたとしても、相手は耳を貸そうとせず、拒絶し続けます。

相手からの説得を受ける前に、自分の認識を変えて行動するという前向きな意志が無ければ、行動へと移すのは難しい事です。

環境、経済的状況は異なり、人にはそれぞれ感情がある人間であるからです。
それだけ、選ばれる様々な選択や行動が存在するのです。

社会に出れば、様々な立場の人達と話をし、相互の立場や事情に寄った話し合いの場が持たれる事が多くあります。

意固地に自身の立場ばかりの意見を主張をするのではなく、相手の意見も聞いた上での話し合いの重要性を、本書を読んで改めて感じました。
 
投稿者 Cocona1 日時 
『東大卒は使えないのか』

本書では、東大での論理学の講義をメインに解説しています。一方、学生との交流を通じて、東大生の以外に思える特性を筆者が見出していく内容にもなっており、大変興味深く読みました。

本書を読む前の、私にとっての東大生のイメージは、本書の扉に書いてある通り、「知的で理詰めでクール。論理的だけど頭でっかち」。そして卒業後は「使えない」社会人という認識でした。特に卒業後のイメージは、私に限らず一般的に持っている人が多いように感じています。というのも、試しにネット検索で「東大卒」と入力すると、予測変換で「使えない」と出てくるほど、東大卒の人材に対する悪い印象を目にするからです。

しかし私は、本書P195の東大生の10の志向性を読み、「東大生は優秀じゃないか!むしろ企業が今欲しい人材ではないか!」と素直に思いました。

そこで浮かんだのが、「東大卒はどうして使えないと思われてしまうのか」という疑問です。ネットでのこの手の発信を見比べてみると、理由はだいたい同じで、東大生のプライドの高さを挙げています。このプライドの高さは、著書が書いた東大生の長所が、短所として出てしまった結果だと考えます。東大生の10の志向性の中で特に、④負けず嫌いで再度チャレンジする奮発力と、⑧理解したと納得するまで諦めない忍耐力、が出過ぎてしまうと、プライドの高さとして映ってしまうのでしょう。

しかし私には、本書に登場する東大生は、プライドだけが高く、職場で使えない人材には思えませんでした。こんなにもやる気があり勉強熱心な、優秀な学生がいるのに、なぜ東大生は卒業すると「使えない」と言われてしまうのか。ここからはさらに、本書に登場した「囚人のジレンマ」の理論を用いて、論理学的にひも解いていきます。

「囚人のジレンマ」で登場する「集団的合理性」と「個人的合理性」の理論ですが、この2つの優先度が仕事と勉強との大きな違いです。例えば、勉強では自分が納得するまでじっくりと考えることで「個人的合理性」を満たせます。一方、仕事は、自分の意見を持って取り組む(個人的合理性)よりも、人に聞いてでも早く正確に仕上げること(集団的合理性)を目的とする場面が多くあります。つまり、学生時代の「個人的合理性」から、仕事に必要な「集団的合理性」へと切り替えられるかが問題なのです。

本書にも書かれているように、東大生は、自分で考え知的好奇心を満たすことに喜びを感じる志向があります。勉強を熱心にやってきた分だけ、「個人的合理性」をより求めるのでしょう。それが就職した途端に、「集団的合理性」を優先するように指示されても、「囚人のジレンマ」における「きわめて不安定状態」になってしまいます。その不安定な状態を解消するために、理性では「集団的合理性」を理解できていても、今まで慣れてきた「個人的合理性」に落ち着いてしまう。その行動パターンが、プライドの高さと見られ、「使えない東大生」と言われてしまうのだと考えます。

では、どうしたら「集団的合理性」を選んで仕事に取り組めるようになるのでしょうか。それには、勉強から仕事へと意識のアップデートを手伝ってあげる「教育」が必要です。

著者は教育の最も重要な目的として「いかに学生にその科目に興味を抱かせるか(P189)」と述べています。仕事においても、「自分の意見を必要としない作業的なものでも面白い」と興味を持ってもらえるように教育することがまず重要です。また、興味だけでなく、メリットも役立ちます。本書での一万円と千円を選ぶゲームのように、「集団的合理性」と「個人的合理性」のメリット・デメリットを比べやすい場合、東大生でも冷静にそれらを検証して自分の行動を決めているからです。

つまり、仕事に求められる「集団的合理性」に対して、興味を抱かせたり、メリットを感じさせることが大事だと考えます。その教育があれば、「個人的合理性」を求め続ける「使えない」人材になることを防げるのです。

このように、「使えない東大卒」について論理学的にひも解いていくと、東大卒を使えないと感じている人は、おそらく彼らが納得して「集団的合理性」を受け入れるような教育ができていないのだと推測できます。東大卒が使えないのではなく、「東大卒を使いこなせない人」が問題なのです。そして、それは東大卒に限らず、今の若者全般に当てはまります。

もし自分が職場で、やる気とプライドを持った若手を「使えない」と感じたら、まずは自分が使いこなせてないのではないかと考えること。そしてそんな若手が、仕事において不安定にならずに、「集団的合理性」を選んでもらえるように教育していこう。自ら掲げた疑問について、論理学的な考察を経て、私はこのように結論付けました。

今回本書を読み、身近な疑問について論理学を実践したことで、私も東大生と同じように論理学に興味を持ち、面白さを感じました。さすが生徒からの総合評価4.34ポイントの、人気教授の著書です。若手が仕事に興味を持ってくれるには自分はどう伝えたらいいのか、著者を見習い参考にしていきたいと思います。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「きょうかん!」

本書に登場するのは好奇心、探求心旺盛で、かつ恐らくかなり負けず嫌いな学生たち。そんな学生たちが著者のユニークな講義で様々な生態(?)を見せるのだが、この掛け合いや関係性がとても爽やかだ。東大生と言えどもひねくれた学生もいるだろうに、と思いきや次の一文でハッとした。

「一般に大学入学直後の最初の授業といえば、多くの学生が緊張気味に他の学生の様子を窺っているのが普通である。自分の望み通りの大学に入学できて嬉しそうな学生のいる反面、実際には第二志望や第三志望の大学や学科に入学してしまったため、不安そうに俯いている学生や、不満そうな顔で周囲を睨みつけているような学生も見受けられる。ところが、この教室に集まっている学生は、恐らく全員が晴れて第一志望の東京大学に合格しているのである」

そうか!基本的に東大生は志望校に合格した負け知らずの学生なのだ。本書を真似して整理してみよう。
*****************************************************
       東大合格者である    負け知らず
ケース1     〇           〇
ケース2     〇           ×   
ケース3     ×           〇
ケース4     ×           ×
*****************************************************

ケース2から説明すると、東大に合格しても不満な学生だ。レアケだろうが理3に入りたかったが理1でしか合格できなかったとか、現役合格したかったが浪人したとか。ケース3は東大では無いが、志望校に合格し満足している場合で、私自身も学生時代はココに入る。一方、ケース4は東大以外の大学に、しぶしぶ入った人間、そもそも大学受験をしてない人間。しぶしぶ入って不満度MAXな場合である。、世の中の多くがケース3か4で、つまり東大以外だがその現実をどう捉えるか、つまり幸不幸をどう捉えるかに通ずる話かもしれない(笑)

肝心なのはケース1で、ここに入る人間は、日本で一番の大学を目指し、結果を出して頂点にいる学生で、恐らく自信と好奇心に満ち溢れている点だ。勿論、ケース3にもそのような学生はいるだろうが、やはり日本一!という看板は輝かしい。ここで「偏差値的には他の大学の○○学部の方が高い」という反論もあるかもだが、大事なのはトップの志望校に合格したという自負なのだ。それは更に「負けたくない」という競争心を煽るのではないか?例えば以下。

「このレポートについて私がクラスで大絶賛したところ、その次の講義からは、毎週のように五、六人の東大生がレポートを持って来るようになったのである!」

著者の指示でなく、学生自ら行動した点が肝要なのは勿論だが、レポートを出すことで大きなメリットがある訳でもない事から考えるに、彼らのモチベーションは別にあるような気がしたのだ。それは例えて言えば、クラスで面白いことを言うヤツが居て、「オレはそれ以上に面白いことを言ってクラスをドッと笑わせたい!」みたいな、そんなレベルの負けず嫌いの感じがしたのだ。下らないけど重要!みたいな(笑) 一方、見事なのは著者だ。

「おそらく教育で最も重要な目的は、いかに学生に科目について多くを学ばせるかということではなく、いかに学生にその科目に興味を抱かせるかということに尽きるだろう。というのは、いったん学生が科目に興味を抱いて好きになってくれたら、結果的に学生は、こちらが思いもしなかったくらい科目について多くのことを自発的に学ぶようになるからである」

これなど、子育て中の親にも参考になる。子供に対し何かを強制的に押し付けるのは親のエゴ。そうではなく、どうやったら興味を持つのか?視点が大事なのだ。そしてコレは何も子供だけに有効なのではない。今時はレアだと思うが、例えばゴミ出しや掃除等の家事を全くしない旦那がいる家庭があるとしよう。それをやって欲しい奥さんはどうすべきか?「何で共働きなのに私だけ家事やらなくちゃいけないの?」という叫びが本音だとしても、それをそのままぶつけるのではなく、本当に旦那を動かしたいならゴミ出しや掃除をすることによるメリットを教え込む事が大事だろう。そう「それで運気が上昇するんだよ~ん!」的な。まぁそれもハードル高いし時間かかるかも知れないけども。最後に、本書の読者に対する著者のメッセージがまた秀逸だった。

「その意味で本書は、一クラスに集まった東大生たちの「天才・秀才・奇才的発想」を一教官サイドから描写したスケッチのようなものであり、その感覚で読者の皆様にお楽しみいただけたとしたら、誠にありがたいことだと思う」

学生を温かく見つめる教官。だから微笑ましい関係が構築できたのではなかろうか。集まって来た学生たちはそんな教官に共感したのだろうから。

お粗末さまでした~
 
投稿者 Terucchi 日時 
“論理をきっかけにして考える”

この本は著者が東大において、論理学の授業を教え、その時の東大生の反応を書いたものである。私が最初にこの本を読んだ感想は、率直に言えば、私は著者のような論理的な思考で考えていないということと、また東大生のような反応で考えていなかった。私の最初に読んだ感想を一言で言うならば、「へー、そのように考えるのか」であった。おそらく、私は頭の中は論理的に考えておらず、何より深く考えていない、おそらく表面的なことだけしか考えていないのであろう。しかし、もう一度よくわからないところを読み直して行くと、少しずつ理解できてきた。今回、この本を読んで、今後深く考えるきっかけにして行きたいと思うこととして①排中律、②ポップ・マーフィー③パレートの法則、に絞って書いてみたい。

①排中律
『PかPでないかのどちらか』(p42)であるが、ここでは一般的な、イエスorノーどちらかの二分法を取り上げている。それで考えると、3人の男女関係(p49〜)は、いろんな経緯があったとしても、『XとJとKの三者は、これら八通りの人間関係の組み合わせのどれかに必ず収束しているはずであり、「論理的」に言えるのはそれだけだ』とある。なぜなら、一つではイエスかノーしかなく、それが3つだから、2の3乗で8なのだ。途中がどうであれ、最後は一つ一つにとってはイエスかノーしかないのだ。私は、最初一つ二つの答えをごちゃごちゃ考えてしまったが、なるほど、結論から考えると、8通りしかないのだ。ここで、これを考えることの有効な点は、全部のパターンを網羅していることだ。人は可能性のないものは、頭から消してしまい、結果的に想定外として抜け落ちてしまうのだ。そして、著者が言いたかったのは、『私がXに伝えたかったのは、その全体像を意識することによって「大局観」を磨けば、最終的な選択の大きなヒントを得られるのではないか』(p52)である。全体を見れば、例え白黒のどちらかでなく、妥当性や全体の結果にも納得できるのではないか。この『排中律』のパターンを考えることで、自分に気づかない点や全体から見て考えることの大切さを思った。

②ポップ・マーフィーの法則』
本書では、『洗車したときに限って雨が降る』ということの例(p106)があった。これを先のように、『洗車する』『雨が降る』のそれぞれを⚪︎×の二分法にして、4パターンにしてみると、実は、『洗車するときに限って雨が降る』可能性は1つのパターンしかなく、他は3パターンもあり、明らかに可能性は少ない。これが、この方法の弱点だとしていた。すなわち、著者は『論理は「反例を示す場合には非常に強力な効果を発揮するが、「合致例」に対してはほとんど無力にならざるをえない』と言っているのだ。だからダメではなく、著者が言いたいのは、その視点も考えてものを見るということだろう。だから、著者も『何に使えるか、どのような思考に適用できるかを常に頭で考えながら』なのであるのだ。ところで、もし自分が洗車した時に雨が降ってしまうということになれば、とてもショックで、いつまでも後悔するだろう。では、なぜ人は悪いことはよく覚えているのだろうか?この答えとして、先日、テレビ番組「チコちゃんに叱られる」では、人は悪いことは繰り返したくないから、今度は同じようなことが起きないように覚えているらしい。なるほど、そのように嫌なことほど覚えていることにしっくりしたのだった。

③パレートの法則
アリの集団において、働きアリが2割の法則の話は有名だが、その話に派生して似た話がいくつかある。その一つにムカデの話がある。ムカデは漢字で書くと「百足」と書かれ、足が多い虫である。働きアリと同様に、前に進むのは2割が牽引し、6割はそれに従い、2割は全然働かないらしい。更に働かない2割の中には、アチコチに動き回っている足があると言う。このアチコチに動いてしまう足は、一定の法則はなく結局進むのを邪魔しているらしい。しかし、この通常では邪魔になる足も役に立つことがあるのである。それはどういう時か?それはムカデがひっくり返った時だそうだ。ぐいぐい引っ張っていく働き足は、ひっくり返った時、踏ん張る地面がないため、空回りしてしまう。しかし、アチコチ動く足は石などに引っ掛かって、そこを支点にして、体全体が起き上がるきっかけになるのだ。この話を聞いた時、普段役に立たない存在も、役に立つことがあるということで、何かホッとした気がした。この話は明治維新の時代が変わる時のような、江戸時代で明らかに役に立っていない2割の部分から、坂本龍馬などのきっかけが出てきたことを例えていた。もしかすると、この本の中でもあった経営の神様の松下幸之助(p101)がムダな2割をリストラするのではなく、それらの人も雇えるような余裕を会社が必要ということは、時代が変われば、むしろそれらの人も活躍することがあるということだろう。これからの時代はニュータイプの時代になると言われているが、今までの価値観が変わる時代にこそ、役に立っていないと思われている2割から、新しい考えが出てくるのかも知れない。

以上、論理で考えることは絶対でなく、論理的にならないこともあるが、論理はそれを切り口にして、考える範囲を広げて行くことにとても有効である。すなわち、論理とは物事を深く考えるきっかけにすることが大切だと思う次第である。
 
投稿者 daniel3 日時 
8月の課題図書「東大生の論理」では、論理学の授業風景から、東大生のリアルな姿を知ることができます。そして本書を通して、東大生が授業に臨む姿勢やその悩みを知る過程で、組織を魅力的なものにするために考えたことがあります。本稿では、本書を読んで考察した、東大という組織のメリットとデメリットについて述べます。そしてそこから、S塾をより魅力的な組織にするために考えたことを述べます。なぜS塾について考えたかと言うと、ある事例を他の事例に応用できるか思考することは有益であり、かつ課題図書投稿者に共通した組織として、S塾が適切と考えたためです。

まず東大という組織のメリットは、能力密度が高まった組織の中で、さらに能力を高める機会が得られることです。その理由を詳しく説明していきます。能力密度が高まった組織とは、以前の課題図書「NO RULES」で述べられていた内容で、ある組織に属する人の能力の平均値が高く、凡庸な人が少ない組織のことです。ネットフリックスでは経営危機に直面し、やむなく凡庸な社員の1/3を解雇しました。しかし、残った2/3の優秀な人員だけで仕事を進める方が、組織全体のパフォーマンスが上がったことが述べられていました。東大のクラスについても、全国から優秀な学生が集まった能力密度が高い組織のため、組織としてのパフォーマンスが上がった状況だと考えました。その考えは、第五回講義『「「ナッシュ均衡」と「アヒルの選択」』の章を読んで確信に変わりました。第五回講義の中では、ある東大生が、記号論理から自動車と歩行者が最も効率的に通行できる方法を考察したレポートを、自主的に作成していました(P.109)。そのレポートを著者が授業中に絶賛したため、負けず嫌いの別の東大生は、2つの池に餌を投入する間隔を変えたモデルを設定し、プログラムでシミュレーションした結果を提出しました(P.111)。その他にも負けず嫌いかつ優秀な東大生たちは、学期末までに42%の学生が自主レポートを提出したとのことでした。1人くらいは前述のような優秀な学生がクラスにいるかもしれませんが、半数近い学生が自主的にレポートを作成して提出するクラスがあることを、私は聞いたことがありません。東大生は元々優秀だと思いますが、周囲の東大生に負けないために、学生が自主的に学習を進める能力密度の高い環境となっていることに気付きました。

一方の東大という組織のデメリットは、学力偏重の組織で、他の東大生の人間性に対して不満を抱きやすいことです。このように考えた理由を説明します。本書の中で東大の学生が優秀なことは繰り返し語られていますが、東大生の人間性については、あまりフォーカスされていません。しかし学力の高さが際立つ一方で、人間性の面で未熟な学生がいることが、東大生へのアンケート結果の中で記されていました(P.199)。さすがに個別具体的な内容までは記載されていませんが、東大生はその優秀さのために傲慢になり、人への思いやりを欠いた人間になりやすいのかもしれません。

以上までで、東大という組織に属するメリットとデメリットを説明してきました。そしてメリットとデメリットをS塾という組織に照らして考えてみました。先に東大という組織のデメリットが、S塾に該当するか考えましたが、私は当てはまらないと思いました。なぜならば、「智の道」を実践して他者への思いやりを持つ方が多く、私自身も他の塾生との交流の中から、人として学ぶことが多かったからです。一方のメリットについては、取り入れることができる要素があると思いました。なぜならば、私自身の人生を振り返った時に、激変アンケートで文字通り人生を激変させた方と比較すると、まだまだだと思うことがあるからです。もちろん、ここ数年の努力の継続のおかげで、私自身も人生が好転した感触はありますが、さらに飛躍した人生にしたいと考えているS塾生は、私だけではないと思います。そのため、組織の能力密度を高めるような施策が必要なのではないかと考えました。しょーおん先生も同様のことを考えていると思われ、その施策の一つとして最近Twitterで、「成果を出している程度によって塾生をクラス分けする」という発言があったのではないかと推測しました。この推測通りであれば、東大生たちが互いに刺激し合い高めあっていたように、私自身も良い刺激を与える存在になる必要があると思いました。そのため、まずはこの課題図書投稿を通じて文章力を上げ、成果を出せるように精進していきたいと思います。
 
投稿者 aguroig 日時 
 本書は、東大生の気質というか物事の考え方・捉え方、学問に対する姿勢・価値観を考察した側面と、論理学への入門・手引書という側面の2つのテーマがあると思うが、ここでは東大生の気質を中心にして感想を述べていきたい。

 まず、東大生には学問を自ら進んで探求しようしたり、自ら楽しんだりする気質があるのだと思う。もちろん、東大生全員が全員そういった気質を持ち合わせているわけではなく、一つの母集団としてみた場合、そういう傾向があるということである。他の大学でもそういった層はそれなりに存在するだろうが、これだけ層が厚いのは東大生の特徴ではなかろうか。
 それで感じたことは、”東大生ってこんなに凄い集団だったのか”、である(それとも、この講義に出席している東大生だけが特別に優秀なのであろうか・・・)。
 と言うのは、自分が知っている東大生は一人を除いて所謂普通の人だからである(その一人はめちゃくちゃ優秀で、しかも性格も人間性も申し分ない)。東大生と言えど、ごく稀に飛び抜けて優秀な人がいるかもしれないけど、母集団としては他の大学生とそれほど変わらない、と思っていたからである。
 例えば、東大卒の知人は現役で東大へ合格し、サークル活動に精を出し、可もなく不可もなく平凡な成績で卒業し、都内の企業に就職、特に際立って出世するとか目覚ましい成果を出すわけでもなく、淡々と仕事をこなし、人間的にもごく普通の常識人であり、本書で言うように取り立てて分析力とか洞察力あるいは独創力などに優れているわけでもない。また、別の東大卒の知人は論文など素晴らしく立派なものを次々と執筆できるのに、ウンとかスンとかの会話しか成立せず、こういうのも東大生の志向性の一つなのかと思った次第である。
 本書を執筆した意図として、実際の東大生が何を考えているのか、東大生は授業中どのような反応をするのか、などを著者は挙げているが、確かに本書を読み進むうちに東大生の実態を具体的なイメージを伴って掴むことができた。それと同時に、自分が今まで抱いていた東大生のイメージを払拭されたのである。
 具体的に言うと、やはり東大生とは言え、せっかく大学に入ったのだからと、ちょっとハメを外して学内の広場でストリートダンスを踊っても本気でハジけることができず、傍から見ているとイタさしか感じられないとか、付き合っている彼女がいるにも関わらず、彼女の友達に恋してしまったらどうするという悩み事相談(それに対する解決案が東大生らしくて秀逸)、コメントシートに1万円か千円かを書いて1万円が20%以下なら書いた金額プレゼントするという教室内実験(東大生の負けず嫌い傾向は納得)などである。
 さらに言うと、著者が講義を通して把握した学生の志向性、特に、状況を整理して図式化する分析力、与えられた条件全てを満たす方法を発見する適応力、解の一般化を見いだす洞察力、理解できたと納得するまで諦めない忍耐力などは、読んでいてなるほどなるほどと感じ入ることばかりで、東大生のイメージをアップデートするには十分であった。

 さて、冒頭で東大生は自ら進んで探求しようしたり楽しんだりする気質があると述べたが、これは今まで知らなかったこと、気が付かなかったことに対して、新たな知見を得て自分のものにすることを意味する。言い変えれば、自分の中の世界を見る窓を増やす、ということでもある。これは大きければ大きいほど、多ければ多いほどよい。
 日常生活や社会生活を営む上で、意外とこの世界を見る窓の広さが幅を聞かせることが多かったりするものである。記号論理学もその一つだと思うし、世の中の状態を論理的に記述できる知識・能力を身につけるというのは、実社会を生きていく上でも幅広く応用が効くことなのである。尤も学問を究める上でも重要な要素であることは言うまでもない。

 最後に、論理学というと恐らく理系の教養課程としては避けては通れないと思うが、如何せん小難しい無味乾燥な教科になりがちである。ところが、学生との講義のやり取りという切り口で分かり易く伝えられていて、論理学の入門書としては持ってこいである。この講義のテキストに指定した「理性の限界」という著書もあるとのことだが、断然これも読みたくなった。論理学の入り口の入門書として、本書とセットでこれも併せて読むと良いと思う。早速、Amazonでポチっとやっている自分がいた。
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投稿者 masa3843 日時 
本書は、論理学・科学哲学を専門とする著者が、日本の最高学府・東京大学で論理学の講義をする中で感じた、東大生の内面について記した本である。本書の中で最も私の関心を引いたのは、東大生の人物像である。東大生といえば、真面目なガリ勉で、学校の勉強ばかりしているために、実社会では使えないという偏った見方もある。しかしながら、本書に登場する東大生は、そういった面白味のない人物像とは無縁である。本書の中で「天才・秀才・奇才的発想」を披歴する東大生達は、魅力的で尖った思考をしている。本稿では、本書の中で紹介されている東大生の特徴を掘り下げてみることで、最高学府に通う学生達の内面について考えてみたい。

まず1点目として印象的だった東大生の特質は、主体性だ。私の勝手なイメージとして、東大生はやりたいこともやらずに我慢をして、親や先生に言われた学校の勉強ばかりをしているという印象があった。つまり、受け身の姿勢だ。ところが、東大では教員が質問攻めにあって、講義終了時刻を大幅に過ぎることもざらだという。最終の5時限目は、時に1時間以上も講師が拘束されるというから驚きだ。また、P109では自主的にレポートをまとめてきた東大生の事例も紹介されている。それは、「交差点内の信号の理想的な状態を考察する」という著者も驚く内容で、レポート用紙5枚に亘る大作である。こうした東大生の姿勢は、大学をただ単位取得が目的の場所としては捉えておらず、自ら望んで主体的に学んでいることの証左だと言える。

次に2点目として印象的だった特質は、負けず嫌いであることだ。多くの読者が印象的だったであろう本書のエピソードとして、「志願者のジレンマ」の実験がある。この中で私が最も気になったのは、実験の結果について著者が解説した直後の東大生の発言である。その学生は、裏切者の比率を相対的に見れば、東大生の方がアメリカでの実験よりも少ないと主張する。さらには、クラスが「負けた」要因は、ペナルティがなかったからだと発言する者や、リスクを加えるのであれば自由参加にすべきだと言う者も出てくる。結果的に、ルールを変えて再チャレンジすることになるわけだが、「勝つ」ためのロジックや方法を考えるその執着心に恐れ入った。P139で紹介されている講義後に質問を繰り返す学生からも、負けず嫌いの姿勢は感じることができる。なぜなら、この学生から「理解できたと納得するまで諦めない」という姿勢が見てとれ、彼は理解できないことが「負け」であるかのように行動しているからだ。自分の思った通りに物事を進めようとする推進力が、東大生の「負けず嫌い」気質であるといえよう。

最後に3点目として、東大生は思考をとことん深める。例えば、P94で紹介されている東大生のコメントだ。集団の中には必ず強欲な人と謙虚な人がいて、その割合が一定という事実を知ったこの東大生は、昼食後にラーメンを食べるという自身の意思を疑い始める。一般論から自分自身の、それも「自由意思」の問題と関連付けて思考を深める様に、私は舌を巻いた。また、P125で功利主義についてコメントする東大生も興味深い。この学生は、穴がある「最大多数の最大幸福」という論に対して、「最大多数の最小不幸」という考え方を主張する。これは、ロールズの「正義論」にもつながる重要な考えであると著者はいう。さらにP128では、ミンスキーの提唱した「心社会論」に近い発想まで辿り着いた東大生が紹介されている。3つの事例とも、東大生自身が知識として知らなかったであろう考え方に、独力で到達していることが分かる。新たな知識に接した時に、「そうならば、これはどうだろう?」「一般化するとどうなるのか?」といったように、思考を縦横に広げることが日常化しているのだろう。こうしたことから、東大生は思考を深める習慣を持っているのだと思う。

以上の3つの特質から私が思いついたキーワード、それは「知的好奇心」だ。東大生は、知的好奇心が旺盛で、それを満たすことに強い執着を持つ。知的好奇心は主体的な感情である。人から指示される好奇心など存在しない。負けず嫌いということは、勝利という目的のために手段を選ばないということにつながる。自分の望む結果を得るために、あらゆる方法を試すと言ってもよい。そして、知的好奇心は「知る」というだけではゴールに到達しない。なぜなら、知識として得たとしても、新たな疑問による好奇心が湧いてくるからだ。そうなると、思考を際限なく深めることになる。東大生は、溢れる知的好奇心を満たすために、主体的かつ貪欲に学び、そして学んだことを深めるのである。では、こうした東大生の特質は、知能指数が高くないと発揮できないものだろうか?そんなことはないだろう。私のような凡人でも、知的好奇心は存在する。ただ、それを放置し、忘れてしまうだけだ。そうであるならば、私達がやるべきことは、知的好奇心を心ゆくまで探求することだ。そうすれば、いずれは東大生のような日本最高の知性に、近付けるのかもしれない。
 
投稿者 3338 日時 
毎年東大に入学する学生は3千人以上いる。故にいろんなタイプの東大生がいるにも関わらず、東大生のイメージは一様にあまりよろしくないようだ。曰く社会性が無い、人を見下す、仕事がしにくい、頭の良さを鼻にかけるなどなど。私のイメージは非常に論理的な学生が多く、知的好奇心が強いイメージであった。

本書には、普通の大学生たちが生き生きと学ぶ姿が描かれている。様々なタイプの学生が、知的好奇心を満たすために、楽しげに学ぶ姿が目に浮かぶ。多分著者の高橋氏の目にそう映っていたから、私もそんな姿を垣間見ることができたのだと思う。読み進めていくうちに、特に東大生の思考について見習いたいと思うことが3つあった。

高橋氏の描く東大生は、知的好奇心が強い上に自分で学ぶ姿勢が前面に出ている。そして表題にもある通り論理的な思考をする学生が多い。その思考を繙いてみれば、どんなことでも抽象化してそこからルールを導き出し、自分なりに応用できるスケールを作るのが上手いのだと思った。そう、一つ目は抽象化するということ。

では抽象化する能力とはどんな能力なのだろうか?それは具体的な事象から特定の性質や共通の性質を抽出して概念化すること。そしてその概念で色々な事象を図り、自分なりの理解を深めていくことに他ならない。また、概念化するために必要なのが、論理的思考ということになる。ということは結果的に抽象化のための工程は、論理的な思考に支えられていることになる。

二つ目は、直観力を養うこと。特定の性質や共通の性質を見極めるのは、自分自身の直観によるところが大きいので、抽象化の内なる物差しは、論理を超えた次元にあることになる。つまり、抽象化をうまく行うには、直観能力を高める右脳トレーニングが必要ということになる。しかし、また逆説的に言うなら、直観力を高める方法として有効なのは、論理的思考力を高めていくことでもある。この関係は卵が先が鶏か先かと言う話になるが、要は車の両輪のように左脳も右脳も鍛えることが、より論理的で抽象度の高い考察が行えるということになる。

さてここで、論理的に思考を展開するにはどうしたらいいのか?私なりの答えは、「問い」の形で問題提起を設定し、その「問い」に「答え」を出し、なぜそう考えたのかという理由(=根拠)を明確にすること。この形で書くことで、それなりに論理的に文章をまとめて書くことができるようになる。東大生は問題が提示された時に、自分に対する問いの立て方が上手いのではないかという仮説が成り立つ。現にp35では恋愛問題にも拘らず、自分が思考できるレベルに落とし込み、数式として思考して自分なりの解を導いている。やはり、自分に合った問いを立てるのに慣れていると思う。

ちなみに書いているうちに私は「理論」と「論理」がごちゃごちゃになって仕切り直し。理論は「個々の現象を、法則的・統一的に説明できるように、体系化したもの」という意味を改めて確認。論理は理論の上位概念であり、そのため理論は論理の要素といえる。

そして3つ目が物事を俯瞰して見るということ。
p180に「駒場の大学生の現状」を評して、「周囲を冷静に観察し自己を洞察した成果が現れていて、実に興味深い」とある。ブログを書いた彼に限らず、全般的に視野が広く、常に冷静に自分を含めた周りを観察しているという印象を受ける。何を議論にするにしても、議論するためのデータベースの多さと、活用の仕方の汎用性の高さが伺える。元々知的好奇心が旺盛で、知識を多く蓄えていることもあり、そのデータベースの活用の汎用性の高さは他の大学の学生に比べても、群を抜いて高い学生が多いという印象を受けた。

自分の子供のように若いにも関わらず、視野が広く俯瞰して物事を捉えられる彼らを、かなり憧れの目で見ている自分がいる。今まで優秀な人間と自分の違いは何かということを、突き詰めて考えたことがなかったように思う。漠然と優秀な人はこんなふうにものを考えるのか?すごい!で終わっており、私にできるという視点はなかった。今回の課題図書で見えたのは、一部ではあるが東大生の何気ない思考のあり方。パターンはいろいろあるけれど、自分なりに分析して論理的に思考して解に至っている。「この自分なりに」が個性になり、結果的に真逆の解になることもあるけれど、その過程は同じであることが理解できる。

でも、今までの立ち位置より一歩でも引いて物事を見られたら、それはそれで自分の成長につながる。俯瞰して物事を見て分析するだけで、今までとは違う思考ができる。意識して少しずつでも身につけたいところ!

最後に、145名の20%で一万円と書いた学生が28人までなら、全員書いた額面がもらえたはずなのに。やっぱり負けず嫌いが高じて、一万円と書いた学生が多かったのは、なんともご愛嬌で思わず笑いがこぼれた。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“A cool scientist with a warm heart という生き方”

本書を読んで、すげぇ~!と心底驚いたのが、アヒルの実験だ。なぜなら、アヒルの集団は餌を食べるための最適な集団行動を自然体で行っているというからだ。一方で、その学力の高さから、日本で最も論理的、理性的ともいえる東大生は、著者との賞金ゲームにて、集団としての最適な行動を成し得ない。なぜなら、個人的合理性と集団的合理性が相反した時に、個人的合理性を優先する学生が多々出たからだ。個人としての利得と集団としての利得が相反した時、人間の理性は揺れる。そして、そこに感情や思惑が入り混じりながら判断を下さなくてはいけないのが人間だ。著者は、上述の賞金ゲームの他にも男女関係の問題、功利主義、科学者倫理などを通して、論理の重要性を確認すると同時に、論理や理性の限界を本書の中で提示する。この世界は、単純に黒か白の二元論では割り切れない、万人にとっての正しい答えがないことが多々ある、もっとグレーなものなのだと、著者は教えているのだ。そして、そのグレーな世界で生きていく上で、著者からの東大生への提案が“A cool scientist with a warm heart”になることだ (P.171)。本稿は、私なりに“A cool scientist with a warm heart”という生き方について考察する。

まず、“A cool scientist”の意味するところは、簡潔に言えば、論理的、理性的な判断ができる人といったところだろう。「『論理的思考力』くらい現代社会のあらゆる局面で求められている能力は珍しい」(P.25)と著者が述べるように論理は、この世界を生きていく上で必要不可欠だ。そして、著者は「論理的に全ての可能性を考慮することによって、見解が広がること」(P.45)に気づいて欲しいとも訴える。ここで、上述の賞金ゲームに話を戻してみよう。ゲームでは、1回目で38.6%、2回目で27.9%の東大生が“一万円”と書いている。これらの東大生の思惑は、“一万円を貰って幸福になる”ということなのだろうが、果たして、“一万円を貰って不幸になる”という可能性を考慮した学生はどれ程いたのだろうか。“一万円を貰って不幸になる”とはどういうことかと疑問に思うかもしれないが、自己犠牲で千円と書いた人から軽蔑されたり、顰蹙や恨みを買ってしまったりする可能性もあるということだ。事実、現実の世界では、自身の利得だけを考えて周囲はどうでもよいという様な他者を出し抜く方法でお金を稼げば、軽蔑や顰蹙だけでなく、恨みを買って手痛いしっぺ返しを喰うこともある。なぜならば、その生き方は“悪の道”だからだ。世の中で金銭事のもつれから起こる殺人事件などは、そんな生き方の最悪の結末ではなかろうか。

次に、“with warm heart”の部分については、詰まるところは配慮する気持ちや思いやりを持てるようになろうと著者は言っているのだろう。思考ゲームに限らず、個人的合理性と集団的合理性が相反するケースは身近な日常生活でも起こる。例えば、コロナ禍で起きたマスクの買占め騒動だ。あの時、マスクを買占めた人たちは、自身の生命を最大限に守るという個人的合理性に則れば正しい判断の上での行動と言えるが、勿論それが原因でマスクを手に入れることができない人が出てくるのだから集団的には合理性がない。言うまでもないが、ここで周囲に配慮をして、その時自身に必要な分だけマスクを買って、他は後に譲るというのが他人を思いやる気持ちであり、これが“with warm heart”な行動だと言える。つまり、個人的合理性と集団的合理性が相反した時、問われているのは理性ではなく、人間性なのである。ただ、もしもここで(いないと思うけど)、自身はコロナに罹患しても構わないからマスクを全く買わず、他者に全てを譲るという判断をすることはよろしくはない。なぜならば、それは“善の道”の生き方だからだ。そんな考えで世の中に出れば、悪人に骨までしゃぶられかねない。私がここで述べたいのは、“with warm heart”は大切だが、それだけでは駄目なのだということである。

最後に、“A cool scientist with a warm heart”という生き方の考察をまとめる。著者の言うところの“A cool scientist with a warm heart”とは、論理と感情を両立する生き方なのだと思う。即ち、論理的に考えて、物事を俯瞰する視野の広さを持ちつつ、他人を思いやる心を持つということだ。本書に登場するリチャード・ファインマン博士や川口淳一郎教授が良いロールモデルになる。ただ、それだけでは実際に個人的合理性と集団的合理性が相反した時に、どのように振舞うかの具体的な参考にはならないと私は思うのだ。そこで、私が参考にしたいのが、先月の課題図書の著者である荻田氏の過程を重視する考え方である。『考える脚』の中で、荻田氏があと少しで北極点へ到達できそうな状況で引き返すことを決断する場面がある。そして、その決断の裏にあったのは、荻田氏が結果よりも過程を重要視したことであり、また「このまま北極点に着いた時、嬉しいだろうか?」という自身の気持ちの在り方であった。私は、この荻田氏の考え方に深く感銘を受けた。従って、もしも私が冒頭の賞金ゲームに参加したら、間違いなく千円と書くだろう。なぜならば、勝つのか、負けるのかという結果ではなく、他者を出し抜かずに千円と書いたという過程で既に、私は清々しい気持ち、幸せな気分になっているだろうからだ。そして、もしもゲームに勝てれば、それが“智の道”になる可能性もある。なぜならば、千円と書いた私が幸せであるが故に、その他のゲーム参加者も幸せになっているという状況が生まれているからだ。

ただ、現実の世界では個人と集団の合理性の間に挟まれて、もっと厳しい判断を迫られる状況があるだろう。その時に重要なのは、著者の言う論理的に全ての可能性を考慮して、見解を広げることだ。なぜならば、結果として、たとえ個人的合理性に順った行動を取ったとしても、同時に集団的合理性についても考えを深めていれば、そこには他人を思いやる心が育っていると思うからだ。今回、“A cool scientist with a warm heart”という生き方に思いを巡らすことができたことに私は幸運を感じる。そして、この幸運に至った理由が論理的には説明がつかないことが、また面白いところなのである。

~終わり~
 
投稿者 Liesche333 日時 
本書は東大生に論理学を教えることになった著者が、講義を通して感じた東大生の姿を考察したものである。書かれている講義の内容は、著者いわく「さわり」ではあるが、論理的に考えることの大切さを学ぶことができる。それら講義の中での東大生とのディスカッションを通して浮かび上がった「東大生の論理」だが、読んで私が感じたことは、東大生は知識が多いだけでなく、思考の幅がとても広いということだった。なぜなら男女関係の問題を不等式に図式化したり、与えられた条件を全て満たす方法をあっさり発見するなど、まさに「天才・秀才・奇才的発想」で、本書中のコメントにもあったとおり「東大は、恐ろしい所」だと思う。一方で、彼らのような考え方や発想をすることができれば、自分の人生の様々な場面で役に立つだろうと思う。そこで本書の「おわりに」でまとめられた「東大生の10の論理」をじっくり読み返したところ、東大生は抽象的な思考と具体的な思考を行き来するのが上手なのではないか、という考えにたどり着いた。

なぜそのように考えたかというと、まず抽象とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して一般的な概念を捉えること」である。例えば、野球という具体的なものから「スポーツ」「アメリカ発祥」「チームワーク」「娯楽」などの属性を抜き出すことが抽象である。それに対して具体は、一つひとつの個別なもので、すべて特殊なものである。具体レベルでは世界に80億近く存在する「すべて特殊な個人」も、抽象レベルでは「人」と一般化することができる。抽象化は、すればするほど単純な表現になっていくため、抽象レベルでは一つの公式で表されるものが、応用レベルの具体になると膨大な数の実例になる。つまり「東大生の10の論理」の「①状況を整理して図式化」や、「③解の一般化を見出す」は抽象的な思考だろう。また、抽象化することで具体化した時の選択肢が増えるため、思考の自由度が上がり、「狭い具体例だけでは浮かばなかった世界が見えてくる可能性」がでてくる。具体化した時に「②与えられた条件すべてを満たす方法を発見」したり、「⑤想像力が豊かで発想を転換できる」のは、彼らの思考が自由だからだろう。本書に書かれた「男女関係の問題」で、XはKに告白すべき・告白すべきではない、という意見に当てはまらない第三の意見に、東大生のクラスで個性的な意見が多かったのは、抽象的な思考と具体的な思考を行き来した結果だと思う。

では抽象と具体を行き来するメリットについて考えてみる。例えば自分の業務について、これまでの経験や知識などの学びから仕事のコツや業務フローを考えるには、手順書に落とし込むための言語化やフロー図の作成などの図式化が必要となる(抽象化)。それらを実際に使って業務を行う(具体化)ことにより、より効率的に業務を行うことが可能となるだろう。また、プロジェクトやチームの状況を正しく理解するために、現状をデータとして収集(具体化)し、それらを分析・俯瞰(抽象化)することで、問題の改善策(具体化)を考え出すことができる。その他、商品開発などで、ヒット商品の事例(具体化)を分析して法則性を導き出し(抽象化)、新商品を開発する(具体化)こともできる。これらは「東大生の10の論理」の中では前述の論理①②③⑤に加え「⑥自主的に応用し研究をすすめる」ことが当てはまると考えられる。

では、抽象と具体を行き来できないとどうなるかを考えてみる。まず抽象だけを行う場合だが、抽象化とは属性を抜き出して一般化することであるため「一言で表現すること」である。膨大な情報量をもつ具体を短く集約するので、特定の属性を抜き出すことになるが、その際、目的の正当化のために事象を都合良く切り取ってしまうことが考えられる。例えば前述した野球をいくつか抽象化した中で、目的のために一部のみを強調してしまい、結果問題解決に至らないという事態が考えられる。また抽象化する対象によっては、話が大きすぎて理解しづらくなったり、机上の空論になってしまう。次に具体化だけの場合は、直接的で分かり易いが、内容が細かすぎて伝わりづらい、言われたことをそのまま実行するだけで応用が利かない、応用が利かないため環境の変化に対応できない、などのデメリットが考えられる。抽象化のみの場合は頭でっかちな理論主義、具体化のみの場合は思考停止した作業者と言えるだろう。特に今後、タスク化された作業は機械に置き換わっていく可能性が高いため、具体思考のみのただの作業者にならないよう、抽象思考を取り入れることは非常に重要である。

最後に、本書の中で「頭でっかちな理系東大生」という言葉があったが、それを読んで思ったのは、頭が良すぎる人の話は分かりづらいということだった。どうしてなのか考えてみると、彼らは抽象化が得意、もしくは意識しないまま抽象化を行っている可能性があり、言葉の抽象度を下げていないからではないだろうか。そうであれば、そこに注意を払い、丁寧に具体に落とし込むことにより、他者にも理解可能なものができると考えられる。話の上手な人は、相手の理解度に合わせて抽象度を下げ、具体的に話す。そのように意識的に抽象的な思考と具体的な思考を行き来することにより、僅かなりとも東大生のような考え方や発想を身に付け、自分の人生に役立てたいと考えた。
 
投稿者 str 日時 
東大生の論理

実に難解そうで読むのを躊躇してしまうようなタイトルではあったが、実際は想像していた内容とは異なり、易しく書き記されていてストレスなく読み進めることが出来た。

とは言ってもそこはやはり東大生。あらゆる角度から可能性を提示し、数値化し、分析を行っていく様は流石の一言に尽きる。本書の終盤にある『東大生の10の論理』“分析力・適応力・洞察力・奮発力・独創力・行動力・批判力・忍耐力・倫理力・機転力”といった要素が如何に複数備わっているかどうか。更にそれらが人より優れているかどうか。という点が東大生が東大生たる所以なのだろうなと感じた。もっとも、「東大生全員がこれらの発想すべてを兼ね備えているわけではない」と著者の高橋さんも語られているが、それでも単純な知識量だけではない総合力が他より秀でているのだろう。

ところが確率の高い千円が手に入る可能性を選ばず、なんとか自分は少数派の一万円が手に入る枠に収まろうと画策する生徒がいたり、三角関係の中に更に第三者を介入させようと提案する生徒がいたりと、そういった意味では東大生も他と何ら変わらないのだと、少しの親近感を覚えた。それと同時に一見すると“しょうもない”ように見えることでも、真剣に、論理的に追及することで幾らでも可能性を見出し、考察する余地がある。重要な課題も、くだらない出来事も、本当に頭の良い人ほど区別することなく同じ目線で分析し、取るべき行動を選択できるのではないだろうか。

さて、本書では“ケース1”から“ケース4”など、大まかに現状を分類した上で、そのいずれかを選択した場合にどんな結果をもたらす可能性があるか、表を用いて分かり易く解説してくれている。例えば『洗車と雨』の関係性などは、決して東大生でなくても分類できるようなものだと思うが、日常的にそこまで考えているかと言われるとそうでもない。幾つかのパターン整理を自身の私生活にも落とし込み、取捨選択に活かしていきたいと思う。
 
投稿者 kzid9 日時 
本書を読んでの感想は、東大生は博学で、知的好奇心が旺盛だということである。東大生といえば、勉強だけをしているのだろうと思ったのだが、本書を読んで認識は一変した。悩み多き普通の学生と変わらない一面について知ることができた。ただ、他の学生と違うなと感心したのが熱心さである。熱心さが伝わるのは授業終了10分前に配ったプリントに黙々とコメントを書き込み、すぐには退席しないことや教壇周辺で入れ替わり立ち替わり質問をすることである。東大生と一括りにすることは学生一人ひとりの個性が見えなくなってしまうが、最後の学生が退席したのは授業終了から2時間を経過していたという。これだけの熱心さがあったから東大に入学したのかもしれないと感嘆した。この熱心さは没入していると言い換えることができるかもしれない。この感覚はゾーンに入るというが、勉強でもスポーツでも芸術の分野でも成果を出している人に共通している要素ではないだろうかと感じた。

また、本書では著者がテーマごとに優れた学生のエピソードを載せている。どれもが東大生の優秀さを印象づける内容だ。特に、感心したのは「最近まで僕は、科学が最強で、科学的に考えればすべてうまく説明できると考えていたが、それでは逆に失敗することがあることもわかった」との学生のコメントである。この学生は2年生とのことだが、論理の授業を受け、自ら科学は万能ではないことに気づくことができることがすごいし、これまで大事にしてきた価値観を手放すことは簡単ではない。そもそも自己と同一化した価値観に気づくことが難しいからだ。さらに、東大生は負けず嫌いであり、本書において、「交差点内の信号の理想的な状態」に関する自主レポートを提出した学生について、大学1年生としては驚異的な着想と大絶賛したら、その次の講義から、毎週のように5,6名が自主的にレポートを提出するようになったとある。学期末までにクラス169名のうち、72名(42.6%)もの学生が自主的にレポートを提出したという。このように優秀な学生がさらに切磋琢磨しており知的好奇心が増幅されるような集団であると言える。

人は無意識に周囲の環境から影響を受けている。それは、周囲の空気を読んで行動を変えたり、周りの意見に同調するなどの行動からも言える。また、あなたの周囲5人があなたの平均であるとか、付き合う人によって自分の年収が決まるとか、自分と仲のいい知り合い10人の平均年収が自分の年収などとも言われる。このように無意識に周囲の環境から影響を受けるとしたら、よい環境に身をおいたほうがいいのではないかということである。そして、東大で勉強する学生は博学で、熱心で、負けず嫌いで、行動力があり、感受性が高い学生が集っており、東大に通う学生にとってその環境を満たしていると感じた。

しかし、上記のようないいことばかりではない。物事には必ず光と影があるように、光が強ければ影もまた濃くなるものだ。車輪の下になぞられる「車輪組」と言われる東大生もいるという。ヘルマン・ヘッセの小説になぞらえ、地方では神童でも東大ではただの人ということになるようだ。
東大を受験するということから考えても、それまでの成績は良いものであることは想像に難くない。優秀な人が集まり、またその中で競い合うことで、大学入学までに上位の成績しかとったことのない学生でも、なかには下位の成績となってしまう学生も出てくる。それが学力不足の部類に該当するとなると、光が強かっただけにその心中を察するに余りある。

また、「鶏口となるも牛後となるなかれ」ということわざにあるように、
やはり、集団のトップにいて自分の裁量で好きなようにできることが大事だという考えもある。しかし、自らの成長ということを考えると、上記に述べたように、人は環境の影響を無意識に受けることから、よりよい環境に身を置くことで成長のスピードが加速するということも言える。どちらを志向するのかは、個人の性格や価値観にもよるが本書を読んで思ったのは、多感な学生時代は優秀な集団の中に身を置き、周囲から知的な刺激を受けたほうが自身の成長にも役に立つということである。なぜなら、授業が終了しても黙々とプリントにコメントを書くほか、自主的にレポートを提出するなど熱心な学生が多いからである。そもそも、東大のような博学で知的好奇心が旺盛な学生が集う環境において学ぶことができるのはお金では買えない貴重な経験であり、たとえ、満足いく成績が得られなくても集団の中で努力していくことが良いと考える。
 
さらに、東大が良い環境であることの証左として、次のことが挙げられる。著者に東大での講義をすすめた野矢茂樹教授が東大を出ていかない理由の一つとして、「東大は学生に恵まれている」と言っていることだ。教える側からみても、学生一人ひとりの熱意を感じることができ、教える側も刺激を受けより良い授業ができる好循環が生まれているのだと感じだ。内容をしっかり理解して、質の高い質問をし、自主的にレポートを提出する学生が一人だけではなく多数いる東大は学生にも教える側にとっても魅力的な環境なのだ。以上のことから、自らの身を置く場所について自らの意思で選択し、その中で研鑽を積んでいくことが成長していくうえで大事だと感じた。
 
投稿者 msykmt 日時 
"リアルな問題にこそバーチャルな図式を"

本書の第一回講義にて、このような問題が提示されている。ある男性が、彼女がいるのにもかかわらず、その彼女の女友達に惚れてしまった。そのような状況にあって、その男性は、その女友達に告白するか否か。この問題に対して、自分なりの答えを熱く語る学生の例が多数紹介されていた。一方で、ある東大生の答えは、登場人物の愛情や友情の分量を不等式におこした上で、告白すべきか否かの判断基準をその男性に示す、というものだった。この意見には、虚を突かれた。というのも、他の学生のは、自分であったならばどう考えるだろうか、と自分事に引き直した上で、自分の気持ちを中心に導いた熱い答えであった。一方で、その東大生のは、他人事として、徹底的に自分から突き放したクールな答えであったからだ。このような、複数の人の気持が介在する卑近な問題は、直感的には複雑にみえる。しかし、このように図式におこしてみると、おどろくほどシンプルにみえるものだと感心した。

私自身をふりかえると、仕事の場面ではこうした図式をよく用いている。たとえば、顧客の問題を解決する手段を提案するときや、同僚に自分の知見を伝えたりするとき、上司に自分の考えを伝えるとき。このような場面で、口頭や文章といった言葉による説明だけでは、おたがいのバックグラウンドのちがいにより、話がかみあわない状況になったとき。あるいは、かみあわなそうと見込めるとき。そのようなときに、私は、その説明対象の集合関係をベン図におこしてみたりする。あるいは、A=B+Cみたいな数式に当てはめてみたりする。そのように、自分の伝えたいことがよりクリアに伝わるように、図式を用いている。とりわけ私の仕事は、抽象概念をあつかうシステム開発であるから、他の仕事と比べて、図式との親和性が高いのかもしれない。

一方で、プライベートの場面ではあまり図式を活用してこなかった。それはなぜなのか。ふりかえると、仕事とはちがって、プライベートな問題。それはたとえば、この人と結婚するか否か。あるいは、この仕事をこのまま続けるのか否か。このような問題は、リアルに感じすぎてしまっている。だから、そのことをクールに自分から突き放すのが難しい。だから、それらの問題をシンプルな図式におこすのを躊躇してしまう。ただ、そこまで重くない問題については、プライベートでも図式が活用できた事例が最近あった。それは、今年の夏休みの旅行先をどこにするか、家族と決めたときだ。それまでの数日間、旅行先をどこにするか、口頭でのやりとりでは、なかなか意見がまとまらなかった。それにしびれをきらした私は、決めるために、パソコンの画面を家族にみせた。そして、そこにマインドマップを書き始めた。まずは、旅先の選択肢を書き出す。そして、家族それぞれに、今回の旅行でなにをやりたいか、どういう気持になりたいか、をヒアリングしながら書き出していった。あとは、出た選択肢がそれらに見合うものかを判定。そして、より見合うものを優先、見合わぬものを劣後に分類していった。その結果、ものの30分ほどで、旅行先の合意にいたったのだ。よって、プライベートでも、図式化は有効なのだ。

では、プライベートでは、どのような場面で図式化を活用すべきだろうか。それはまさに、先に述べた、リアルに感じすぎてしまっている問題にこそ、活用すべきだ。なぜならば、リアルに感じすぎているからこそ、その問題を客観視できないがために、クールな判断を下すことができないからだ。だから、他人事として、徹底的に自分から突き放す必要がある。そのために、先の東大生のように、図式化を用いるのだ。たとえば、離婚や、家族の死別など、将来おこったら困るイベントを書き出した上で、その発生確率、優先度、そうなったときの軽減策を図表におこしておく。このような準備をしておくと、もしもそういう事象が起こったらどうしよう、という不安が不断にもたげることにより、今この瞬間、目の前のことに集中できない事態を回避できる。この手法は、仕事で用いる「リスク管理簿」というマネージメント手法そのものだ。

以上により、仕事で活用してきた図式化の技術を、これからは、プライベートでも活用したい。とりわけ、リアルに感じすぎてしまっている問題にこそ、客観視が必要だから、積極的に活用したい。言うなれば、リアルに感じすぎてしまっている自分事は、図式化によって自分から距離を置くことで他人事にする。ときに、本書の後半では、探査機「はやぶさ」を自分事にするために擬人化する、というクダリがあった。しかしながら、ことリアルに感じすぎてしまっている自分事においては、図式化によって、擬人化ならぬ、擬「事」化することにより、距離を置くことで他人事にする。そのくらいがちょうどよいのではないだろうか。
投稿者 kodaihasu12 日時 
東大生の発言には、基礎的学力の高さが伺える。授業中の意見や質問が様々な角度から幅広く思考され、興味があれば、C++言語のプログラムに書いて実際にコンピュータで実行したり、不完全性定理を自ら学んでみたりするするといった様々な学問に対して、前向きに取り組もうとする姿勢が素晴らしい。受験勉強から解放されて、ようやく遊べるという気持ちに流されがちな大学入学後すぐの授業であっても、また、理系の学生向けの授業で論理学という進路には直接関係のない学問であっても、さらに、全て英語での授業であっても、興味を持って前向きに取り組もうとする姿勢は、勉強をしなければ卒業できない欧米の大学に比べて、キャンパスライフを謳歌できる日本の緩い環境下の中では特に際立っている。筆者は、第一希望ではなかったかもしれない可能性がほぼない東大に入学した学生だからこその前向きな姿勢と捉えているが、筆者の授業内容の例え話の題材が興味を引く内容ばかりで、非常に引き込まれることも東大生の積極性を高めている。難解な題材でも、面白くする方法はいくらでもあることを教えてくれる。特に男女関係の心理描写を客観的に見ることにより、大学生は知識の習得と人間関係の向上にも役立つのではないだろうか。また、筆者は、生徒の発見や意見を何事も面白いと捉えており、このように思えることは一つの才能である。アメリカの大学で教鞭をとっていた筆者ならではの、生徒を飽きさせない面白い授業を行っている。

しかし、そんな素晴らしい東大生であっても、論理学の法則の例外とはならず、社会的ジレンマや、パレートの法則についても当てはまってしまう。どんなに優が多い生徒であっても、組織の中で上位2割に入らなければ、凡庸な存在になってしまう。それぞれの授業での論理学の実験がそれを物語っている。大学3年時にシンフリがある時に勝者と敗者に分かれてしまうことや、高校までは周囲に勉強で自分に勝てるライバルはいなかったのに、とんでもない秀才を目の当たりにすることで自分の限界を感じ取ってしまうことに直面する。

それでは、東大生であっても組織の中に埋没してしまうのだろうか。筆者は東大生の優れているところを最後に10項目あげている。筆者は東大生は論理学を超えた存在になってほしいと切に願っている。東大生は恋愛をしたり、お茶目なブログを書いたり、話題のアニメを見たりとある意味普通な生活をしている反面、物事を深く広く考える力が備わっていることを授業内容から知ることができる。

理性主義者ファインマンが、亡き妻への手紙を書いて一人で何度も読み返していたり、小惑星探査機「はやぶさ」を擬人化して、科学者がはやぶさの各エンジンに家族の名前を付けていたとのことである。亡き妻と話せないことを理解していても手紙を書くことで相手との交流を試みたり、はやぶさという機械に名前をつけることで親近感が湧き、機械に感情移入している。家族との交流は生きるパワーを与えてくれるといったような、人間として本来持っている気持ちや心の部分の大事さ、重要さは、科学至上主義の中で生きている現代では、こういう事例を通して、むしろ科学者の方がよく分かっていると言える。

このような、法則を超えた東大生、または新しい法則を作る東大生に教師として期待している。
例えば、第一希望である東大だからこそ、やる気が出るのであれば、アヒルの実験における最適化のように、現代での最適化とはどういう状態なのか。ベンサムの最大多数の最大幸福において、人を傷付けずに最大多数を得るにはどうすればよいのか、自分の自由意志でラーメンを食べるつもりなのが、本当は見えないダイナミクスに操られているのかについてどう判断するのかなどの解を導く可能性に期待しているのである。

読者はこの話を東大生だけでなく、当事者感覚で捉える必要がある。自分は上位2割に入っているのか、希望通りの職種についてやりたいことを楽しめているかなど、論理学でも最適化されたポジションにいるのか、または、どのようにすればそういったポジションにつけるかを熟考しなければならない。
 
投稿者 akiko3 日時 
OL時代、女性にも研修の機会が広がった時、「論理的な思考」を身につけたいと思った。
女性は感情的だからと揶揄されていたので、男性と同じように仕事をするのに論理的な思考力を身につけたら、常に正しい答えが導きだせ、できる人になれるのでは?と思ったのだった。自らビジネス書を読み研究する熱心さはなかった。

一方、東大生は18歳でも非常に幅広い知識を持っているだけでなく、それらを繋げ、自分で考え、新たな問を立て、探求・検証し、自分の知とし...を繰り返しており、能動的で論理的だと感心した。

それにしても、論理学の入り口が、かつての、月9の、鉄板の、三角関係?!
たったの8パターン?!急にドラマが味気なく感じられる。
だが、パターンに基づいて、キャラを作り、エピソードをつないでいけば恋愛ドラマがかけるってことか!
ま、それが如何に違和感のない、感情移入したくなるストーリーに紡げるかで実力の差がでるのだけれど...。
しかし、『事実は小説より奇なり』という人間が考えうる想定外のことが起こる現実の∞の可能性っていったい誰が…?


正直、数式の部分は思考停止だったが、これまでInputとOutputの大切さを痛感し、課題本に取り組み、ここ数年は『考える』ことも大切にしてきてよかったと思った。
ただし、正しく考えなければ、自分の思い込みや思考力の弱さが問題を複雑にしていたり、問題にして人を責めることになっていたと反省。
昨今のネットの炎上は、好き嫌いから発した自己主張に対し、それを様々な立場の人達が共感や反発をわざわざ反応することで生まれているように思う(まんまと巻き込まれていることもあるだろう)。

一方、「2001年宇宙の旅再論」シンポジウムで、第一線で活躍されている両科学者が「哲学的」な議論をされたエピソードは美しいと思った。
過去から未来までを見据えた広い視野での論を短絡的にいい悪いや好き嫌いでジャッジし遮断せず、間口が広がる可能性として論を交わす。
著者が「哲学デイベート」の重要性を紹介し、論理学がそのベースにあるということも説得力があった。
著者がいうように、論理学はあらゆる学問分野の基礎だと思った。
自分の人生を生きる上でも自問自答する問は大切だし、現代人に不足している『共感力』も育み直さないと、多様性の世界ではなく、分断の世界になるのではなかろうか?
 
投稿者 vastos2000 日時 
やっぱり東大生は頭が良いや。私が知り合いと言える東大卒は大学時代の教官を除くと一人しかいないけど、その人も頭が良かった。過去形なのは今は職場が別になってしまってしばらく会っていないからなのだけど、どのように頭が良かったというと、本書p195で言うところの『想像力が豊かで発想を転換できる[独創力]』と『感受性が鋭くユーモア・センスがある[機転力]』だ。会議の場で他の誰もが思いつかなかったアイデアを出す。そしてそれが予算的にも実現可能な案。きっと頭の中に収納されている知識や事例が豊富だから、それらをうまく組み合わせてアイデアを出していたんだろう。

私の考えでは、運動能力に生まれつきの優劣があるように、知的能力にも生まれつきの優劣はあるのだが、受験で求められる以外の知識や思考をしている学生はきっと、持って生まれた知的能力が高く、それを発揮できる環境で育ってきたのだろう。
だからこそ、ただ大学入試で求められる知識を詰め込むだけでなく、何かを考えること、今まで知らなかったことを知ることが楽しいと思える人が多く東大に入るのだろう。
中には、特別優れた知的能力ではないけれど、コツコツ勉強を続けることができる才能を持っていて、東大合格を目標にそれに必要な勉強を続けた結果合格した人もいるのだろう。だけど、そういった人ももって生まれた知的能力は抜群でなくとも、受験勉強を通じて膨大な量の知識を身につけているはずだ。

本書で取り上げられている東大生たちは、著者の記憶に残っている学生たちだから、思考力なり知識なり発想力なり、どこかしら目立つ部分があり、そしてその水準に達している学生が多かったのだろう。大学入学直後の理系の学生がラカンやゲーデルを知っていることに驚いたのは私も同じだ。さすが東大生。
このような優秀な学生は東大だけでなく、どこの大学でも必ず見られるものであると書いているが、同時にその人数(グループ)として考えると東大生は他に類を見ないとも書いている(p196)。確かに、私の通っていた大学にも「こいつはなぜこの大学にいる?」と思わせる人はいた。が、数は少なかった(二人いた。卒業後、一人はギター職人に、もう一人は心を病んで引きこもってしまった)。おそらく東大は優秀な学生がごろごろいて、「当たり前」のレベルが高い。だからお互いに刺激を受け、より高みを目指す学生が多いのではないだろうか。
みんながみんな、勉強に打ち込んで難関大学を目指すわけではないけれど、東大の入学定員が約3000人ということは、単純計算(浪人や社会人受験は考えない)で、その学年約120万人のトップ0.25%が東大に合格できるということになる。

そういった知的能力がトップ集団の人達が、論理学や哲学、心理学の知識を身につけたらますますその他の人達とは差が開いてしまう。便利なツール(思考方法)を使いこなすことができる能力を持った人に対してどんどん新しいツールを与えるようなものだ。論理学で扱う命題、裏、逆、対偶などを知っているだけでも物事を考える際は役に立つ。私自身、先日の会議である人の意見に対して対偶を使って反論をぶつけた。残念ながらロジックとは別の評価軸(パッション)によってその意見が通ってしまったが、その時の反論は有用だったと思っているし、私の意見に賛同する人も複数いた。論理や知識・技能だけでは、実社会で自分の意見を通せない場面もあるが、それらは必要なものであると思う。

高校を卒業するまでは学力というモノサシで測られることが多く、そのモノサシでは東大生というのは優等生であることは間違いない。だけど、社会人になると、学力以外にも求めらるものがあり、なおかつ、生きるフィールドも学校だけでなく、どのフィールで勝負するかは選択することができる。
私自身は今年になってようやく自分が生きるフィールドを決めることができたので、そのフィールで生かすことができる「○○力」を身につけていきたい。そのための積み重ねを始めたところだ。
 
投稿者 AKIRASATOU 日時 
本書は東京大学で記号論理学を教えることになった著者が、東大生の「天才・秀才・奇才的発想」に何度も驚かされたエピソードなどを授業内容を通して紹介したエッセイである。
東京大学という日本中の秀才が集まる大学で、東大卒アメリカ帰りの先生が授業をすると聞いて、難しい内容なのだろうなと思っていた。しかし読み始めるとそのようなことは無く、授業内容の一部が掲載されているだけだが、とても面白い授業であり私も大学でこんな授業があったら毎回出席したのに、と思った。私自身、真面目に授業を受けるタイプではなく本書でいうところの【大仏】的授業を狙っていた不真面目な学生だったが、それでも「面白そうな授業だから聞いてみたい」という気持ちが起こったのは、著者自身が楽しんで授業を行っていたからではないかと思った。そして、今の自分に置き換えて、部下や子供に仕事・勉強を主体的に取り組んでもらうためには自分自身が勉強や仕事を楽しんでいる姿を見せることが大事なのではないかと思った。そのように思った理由について以下で詳しく説明する。

本書では、著者が学生の意見や考えを授業中のディスカッションやコメントシートの記載内容を見聞きし、楽しんでいる描写がいくつも出てくる。具体的には、第三回講義のアンケートシートを活用した千円と一万円のプレゼントゲームの結果から、再挑戦を挑んできた学生の行動を喜んでいる場面や、第七回講義にて最大多数の最大幸福に対する反例を挙げたハリスの主張について【ハリスは極端な例を思いつくが、例え話なら自分でも作れる。学者になるなんてチョロい】というコメントを書いた生徒に対しても、その考え方は興味深いとして、肯定的に受け止めている場面があった。また、生徒からの授業評価に記載されたコメントとして【どんな学生のバカげた意見にも『面白い』と対応していて、そんな風に何でも受け入れられるからこそ、先生は面白い本を書けるのだろうし、学生たちもぐんぐん高橋ワールドに引き込まれていくのだろう】との記載されていたの記述があり、著者が授業を楽しんでいるからこそ、学生たちも授業が楽しいと感じるのだと思った。アマゾンのカスタマーレビューでも「こんな授業なら受けたい」「また勉強したくなった」と私と同様の意見の方のコメントがあったが、この楽しそうな様子が読者にそのように思わせると感じた。

この感想を書くにあたり自分の学生時代を振り返ってみたところ、似たような経験をしていたことを思いだした。高校1,2年の頃の話だが、Y先生という世界史と倫理を担当していた先生がいた。私が通っていた高校はどちらかというと進学校であり、受験に向けていかに知識をつけさせるかという点にポイントを置いた授業をする先生が大半だったが、Y先生は自作のプリントをメインの教材として使い、教科書に載っていない先生が感銘を受けたエビソードを熱く語りながら授業をする先生だった。例えば「ナポレオンは僕にとっての英雄なんだ。ナポレオンというのはこういう人でね、・・・」と言うような話だ。受験に必要な知識にも勿論触れるものの、知識を詰め込む・覚えさせることがメインではなく、先生自身が歴史のどのような点に面白さを感じたのか、感動したのか等について語っていた。いかにY先生が歴史を好きか、歴史を面白いと思っているかという事が良くわかる授業であり、先生の話を聞いているうちに自分がその人物になったり、過去を体験しているような気分を味わえる授業だった。他の授業では寝ていることが多い人も、Y先生の授業は起きて聞いていたり、世界史は好きではないがY先生のためにも頑張って良い点を取ろうとする人が何人も居たことを思い出した。このように、教える側が楽しんでいるとそれが伝わり「面白そうだから勉強しようかな」と感じ自発的な取り組みが促されるという体験が過去にあったことを思い出した。

この、楽しんでいる人を見ると面白そうだからやってみようかなと思うという点は、アメトークの家電芸人でも同じことが言えると感じた。アメトークというお笑い芸人が出てくるTV番組があるが、その中で家電好きな芸人が家電を紹介する家電芸人という企画がある。家電が大好きで家電量販店の店員になれるくらいの知識を有している芸人が目を輝かせながら家電の良し悪しや、どのようなシーンで使うと効果的か、家電に求める効果や機能に応じてお勧めする商品を瞬時に選ぶさまを見ていると、自分もその紹介されている商品が欲しくなってしまう。実際にTVで紹介された商品が売れすぎて製造が追いつかなくなったという例も過去にあった。

これらを踏まえ、自分自身が仕事や勉強を楽しんでいる姿を見せることが部下の育成や子供の教育に必要だと感じた。仕事熱心とは言い難い、集中力に欠ける部下が一人いて指導・育成に難儀しているのだが、険しい顔をして指導するだけでは仕事の面白さを感じてもらえないため、自分自身が日々の仕事をもっと楽しんでいる姿勢をみせられれば、部下の行動変容に繋がるのではないかと感じた。また、私の子供も自由な時間の優先順位はゲームもしくはYoutubeのどちらかであり、勉強は親に言われて嫌々やるものになりつつあるので、楽しんで勉強している姿をもっと見せないといけないなと感じた。
投稿者 wapooh 日時 
【202208月課題図書】東大生の論理-「理性」をめぐる教室をよんで

「知を獲得する喜び」は、その人の人生という時間を豊かにする。
例えば、道端に咲く花に対して考えてみる。
春、白い花が咲いている。「その花は、ハルジョオン」というのだよ、と母が教えてくれる。同じ白い花を見つけるたびに「ハルジョオン」と言って母が喜び、祖母が「すごいね」と感心してくれる。「あ、本当だ、ハルジョオンだね」と一緒に楽しむ友達もいた。
「似ているけれど、小さいのがヒメジョオン、というのだよ」教えられてさらに知識が増える。「お花が好きなの?では植物図鑑を買ってあげよう」父から本を与えられる。
ハルジョオン・ヒメジョオンが掲載されているページの他の花の絵を見て知識が増える。
散歩に出かけると道端に、図鑑で見た白い花が咲いている。あぁ、西洋タンポポだ。隣には、同じように小さくて、みずみずしい歯の白い花。これは、ハコベ。隣にいつも似たような花が咲いている。青いのはイヌノフグリ、赤いのは、ホトケノザ。
「懐かしいね」と言って先生が、となりに生えた草を取り、ちょっと折り曲げて「ピー」とならす。「スズメノテッポウだよ」。へぇ、鳥の名がつくのか。鳥の名前で図鑑を見ると「カラスのエンドウ」ってのもある。ホトケノザとはちょっと違うけれど、似たようなピンク。でも、エンドウと言うだけあって、エンドウ豆と同じ形の花だ。
気付くと季節は夏になり、沿道にはえんどう豆にも似たさやが付く。折って、豆を抜いたら笛になった。「ピー」・・・。知恵がつき、祖母が手入れする庭に目が行く。夏休み。朝顔が咲いている。学校で育てた朝顔。種をまいて、双葉が出て本場が出て、目が出た。花を摘んで、絞って青い色の汁をとった。筆で画用紙に絵を描く。レモンを落とすと赤くなる。レモン汁を付けた筆で紙に絵をかいて、火であぶるとそこだけが茶色くなって、絵が現れるよ。。。
子供のころの好奇心が、やがて学問となる。春の植物の属性、生育地域、図鑑による体系図、双子葉植物、単子葉植物。酸性とアルカリ性と、発色の変化。酸による触媒的なセルロースの酸化分解・燃焼反応の加速…。
 人が成長するに伴い、言葉・表現(文系)を学び、事象の法則、系統立て(理系)、仮説と検証(論理)を習得していく。学問は、受験のためだけではない。
 東大の問題を解いたことも受験したことも東大で学んだこともないが、本書を読んで触発されたのは、「知の楽しみ=人生を豊かにするQOLを味わう楽しみ」の心であった。
 と同時に、「論理」によって検証される物事の本質と状況把握と理解と検証と予測。思考筋が日本で最も鍛えられている学生の論理考証力はスマートで、著者の高橋先生の講義も面白いが生徒とのやり取りが、理解できるものもあれば、自分の力不足で消化できないものもあった。
 The university of TOKYO。日本で唯一、Theという定冠詞で呼ばれる大学。
友人(女子)の兄が東京大学に入学して自宅に同級生を連れてきたとき、母親が彼女にお茶とおやつを持って行くように言ったのだが、一言『ご挨拶をして、そしてよく見てきなさい。日本の頭脳が集まっているのよ』と。
その頭脳が将来を通して抱えていく社会ジレンマの講義が印象に残った。
プレゼント・ゲームをもう一度、と懇願した東大生の気持ちは、単なる負けず嫌いではなかったのではないか?・と自分は思っている。「理屈を理解したのだから、次は上手く行く答えを実証したい」という勉強癖、仮説を検証したい、正解を知りたい手にしたいという欲求があったのではないかと思うのだ。
東大受験に至るまでの全教科高得点をたたき出せる頭、短時間で政界に導ける学力と学習能力をもつ人間ならば、挑みたい山だと思う。単なる負けず嫌いと言っておかしがるだけではない、彼らの知的興奮がそこにあるのだと想像していた。
「頭がいい、を証明する性。職業病」かもしれない。仮説・検証。理系なら特に。

「論理を追い求めると、あの学歴のある人が?」と世間が驚くようなおかしなミスをするのも人間だ。東大生や諸大生が、オウム真理教でサリンを製造し、多くの命が失われた。
「論理」の正しさ=正解病にからめとられてしまったのではないか。
本書の「ある東大生の相談」で、思わず新興宗教に入信してしまおうとするように。彼が好きな彼女と自分だけの視野狭窄の中にある「論理的に正しさ=狭い最大幸福」にからめとられて、倫理をないがしろにしてしまうようなことは、ありえるのである。

アヒルや粘菌の小さな(もしくはほぼ無い)知性の存在が成せる「ナッシュ均衡」を人間は保てない。プレゼント・ゲームの東大生の確率がそれらよりも、愚かしい数字であることに、自分は人間としてのもどかしさを感じてしまった。

この意図もせず、本人も人生をかけて後悔するような愚かさをなぜ知者が犯すのか、本書以前からの問いに少し答えてもらえた気がした。そして、倫理を理性を誇示し、長い目で見て真の人間的な幸せを智の道を享受するために、今までの反省も踏まえて、取りうる道は何だろう、と考えた。

知性を磨く=理解力や表現力を修養するうえで、効率的に習得するには、論理的思考は必要だ。出来る限り多くの多面的具体例や選択肢を考えられること、そこから発展して一般化できる思考の発展性や、二極化と事例想定によってマトリクスを作成し、分類化すること、ルール化すること、他、まさに、P195の東大生の10の論理総合的に鍛えることで、頭の筋トレをした次。最後は、「正解主義ではない、問いの無い問題を多く解くこと」「人の立場に立って世界を物事を見る経験をすること(あるラジオでは「ごっこ遊び」と言っていた。「落語」でもいいだろう。)」「美しさ、芸術」を美しいと感じる心を養って味わうこと。だと思う。
あと2回。薄いのに分厚い本、読み応えのある一冊を今月も紹介下さり、有難うございました。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書のテーマである論理学とは、「論理」を成り立たせる論証の構成やその体系を研究する学問である。論理とは思考の形式及び法則であり、推理の仕方や論証のつながりを指す。つまり、よく言われる「論理的な文章」というのは、段落のつながりを明確にし、論証を過不足なく行った文章ということになる。

一般的な大学の「記号論理学」授業では、各種の論理記号を定義し、論証方法や公理系の構成や演習を行うとのこと。まるで数学の証明問題の解法を説明する高校の授業のようである。しかし、著者の授業では、論理学の必要性を喚起し、具体例を多用して興味を惹きつけ、どんな回答にも面白い論点を引き出し、エキサイティングなディスカッションを繰り返してゆく。著者を通じて無味乾燥な論理学に温かい人間らしさが吹き込まれた結果、多くの受講生が論理学に沼落ちしたことは、ハイレベルな自主レポートが多数提出されたことからも明らかである。

私は、このような血の通った論理学こそ、日本の将来を担う子ども達に学ばせるべきではないかと考える。現在日本ではICT教育が推進され、生徒1人ずつiPadが配られ、小学校でプログラミング教育が必修化されている。その狙いは「プログラミング的思考」を養うことであるという。しかし思考力を育てる目的ならば、いきなりプログラミングを教えるより先に、まず論理学の考え方を必修にすべきではないだろうか。

私がそう考える理由は二つある。一つ目は、思考力の基本を学べるからである。論理学は伝統的には哲学の一分野であり、古くから人類が探求してきた普遍的な学問体系の一つと言える。論理学の歴史はプログラミングよりもずっと古く、古代ギリシャまで遡ることができる。つまり、昔から人類の根源的なテーマとして議論されてきた領域なのである。変化が加速すると言われるこれからの時代において、様々な思考の土台となる論理力は益々重要になると考える。

二つ目は、日本人の言語能力の低下が進んでいるためである。経済協力開発機構(OECD)が2018年に実施した「生徒の学習到達度調査(PISA)の調査結果」によれば、日本の高校1年生の数学的リテラシーは世界1位、科学的リテラシーは世界2位、読解力は世界11位であった。つまり、日本の数学的リテラシーと科学的リテラシーは世界トップクラスであるが、読解力リテラシーは10位以下であり、前回の2015年度調査の平均点に比べると12点も低下してしまったとのことである。読解力分野の低得点層は増加傾向にあり、日本人の言語能力や情報処理スキルにおける課題が浮き彫りになっている。昨今では、動画の要約コンテンツが普及して活字離れが進んでいる一方、自律的に学問を学ぶ喜びや純粋な知的好奇心を掻き立てられる機会が乏しくなってきている。ゆえに、日本人の言語能力を伸ばすためには、数学的なプログラミングよりも、まず論理力の鍛え直しが優先であると考える。

そうはいっても、論理学のような難しい学問を義務教育で必修にするのは如何なものかという意見も考えられる。しかし、論理学の歴史はプログラミングよりもずっと古く、古代ギリシャまで遡ることができ、昔から人類の根源的なテーマとして議論されてきたのである。翻って現代の日本では、大学の学部を文系、理系に分けることが一般的である。理系学部では、人も含めた自然そのものが研究対象となり、自然界の法則性を見つけることが重要課題である。惑星の軌道も地球の異常気象も法則により説明可能であり、全てが必然であるからこそ、偶然を認めないことが大前提となる。それに対して文系学部では、人間そのもののありのままの姿が研究対象となる。人間は自然現象とは異なり、気まぐれを起こすこともあれば、感情的になり非合理的な判断を行う場合もある。よって自然界のような法則に一概に当てはめることができず、本来あってはならない態度や判断の間違いすらも想定の範囲内となるのである。論理学はこの2つの学部領域をまたいで人としての在り方を模索し、理屈と感情を科学することができる。そのため、子どもが文理の選択をする前に思考の土台としての論理学を理解しておくことは、人生の選択を豊かにしてくれるものと考える。

しかし、もし親として子供達に論理学を学ばせたいと願うなら、文部科学省の学習指導要領改訂をのんびり待っている時間的余裕はない。また子どもに勉強を無理強いするのではなく、大人が先に論理学を学ぶべきである。初回の講義から東大生を笑いの渦に引き込んでしまう著者の講義は流石であるが、そんな著者も日々たゆまぬ努力をしていることを忘れてはならない。著者は、学生と純粋な知的交流を楽しむべく思索を巡らせ、受講生の表情や会場の雰囲気を観察して心情を探り、未知のオタク文化にも歩み寄って理解しようとしている。そのような探究心旺盛な著者の授業スタイルから、我々子育て世代が学べることは多いと言える。論理に基づき相手の興味を引き出す質問力を身につけ、子ども達の豊かな発想を導き出したいものである。
 
投稿者 H.J 日時 

東大生の論理。
どんな難しい本なのだろう。と気構えてしまうタイトル。
さらに1行目は「東大で論理学の講義を担当してみないか」から始まる。
この時点で本書の内容についていけるか不安になった。
それは、東大生=頭の良い人たちであり、そんな東大生たち相手に論理学の講義をするということは、頭の良い人たち同士の論理のせめぎ合いが行われるのでは?という勝手な思い込みによって生まれた気持ちだろう。
しかし、そんな気持ちを払拭するかの様に解りやすい内容であった。
論理学という敷居の高いイメージの学問を例え話や実際のワークを交えることで理解が深まる形にまとめあげており、東大生は勿論のこと一般人にも解りやすい教義だった。
また、失礼ながら東大生と聞くと勉強が大好きな人たちが黙々と先生の話を聞き、ひたすらそれが続くという勝手な偏見を持っていた。
そんなイメージが先行していたので驚いた。
思ったことを自由に発言し、時にはアニメの話で先生が置いていかれたり、「楽な授業」を求める生徒がいたり、私の想像とは真逆である。
楽しそうな東大生たちの姿が浮かぶ様な表現力も本書というより著者の凄さの一つに思える。
文字だけで楽しそうな様子を表現するのは大変難しいことだからである。
楽しそうな様子は186、187ページの東大生による授業評価の満足度や度々記される東大生の発言からも見て取れる。
そもそも楽しくもない授業で積極的に発言するとも思えない。
私自身も実際の教義を受けてみたい!と思ってしまうほど、惹き込まれた。

さて、私なりに本書について考察してみると、まず2つの表テーマを持っている様に感じた。
1つはタイトルにもなっている「東大生の論理」である。
これはタイトルになってることと表紙に『本書は、そこから浮かび上がってきた「東大生の論理」について、私なりに考察を加えた結果である。』と記述されてること、最後に”東大生の10の論理”と題してまとめてることからも間違いないと言っていいだろう。
もう1つは”論理至上主義への警告”である。
こちらについても190ページに『論理至上主義』で理屈が世の中で最も強いのだと信じる頭でっかちな理系東大生に、理屈が万能でないことを伝えるためなのではという旨のコメントに対して、『ここまで私の真意を理解してもらえたなら、私も講義を行った甲斐があったというものである!』という記述からも伝えたいテーマの一つだと考えられる。
この2つについては著者がここまで記述しているので、表のテーマであると言えるだろう。

そして、この2つのテーマに隠れたもう1つのテーマが”興味を持たせること”である。
残りの講義の章で、このことについても触れられているが、このテーマに尽きるように感じた。
人に伝えたい事を伝えて覚えてもらうには大切な要素だ。
なぜならば人は興味を持たないことを積極的に覚えようとはしないからだ。
例えば、仕事で効率化のテーマについて打ち合わせをしている時に、
Aさん「〇〇みたいな機能があると効率化できそうだよね」
Bさん「いや、もう既にあるよ」
Aさん「え?そうだったの!?」
Bさん「メールと先日の朝礼で伝えたじゃん!ほら〇月〇日のメール見て」
ってなるケースがあったとしよう。
これは忘れていたAさんが悪い訳ではなく、その時には必要のない情報、つまり興味のない情報だったから覚えていないだけだ。
もっと身近な例で例えると、友達が熱烈な芸能人のファンだとして話を1時間以上聞かされても、興味がなければそのうち忘れてしまう。そんなものだ。
そのため、如何に興味を持たせるかというのは、何かを伝えて覚えてもらうために大切だと言える。

そこで、どうやって興味を持たせるか?という疑問が沸く。
その答えの1つが著者の口癖である「楽しい」であることだと思う。
楽しいからおもしろくなり、興味を持てるのだろう。
当初の私の勝手な想像の話に戻るが、私の想像上の東大生が先生の話を聞いてるだけで成り立つのは、そもそも興味があって、どこかで面白いと思っているからだろう。
そうでなければ退屈なだけと言っても過言ではない。
免許更新の講習会でのビデオ上映会の時、会場を見渡すと大体1人か2人は必ず寝ている。
楽しいと思っていなければ、そんなものだろう。
だからこそ、著者は信念という言葉を使って説明しているが、楽しく、面白いと思ってもらい、興味を持たせることを重要視している様に思える。
とは言っても、もちろん興味を持たせることだけが全てとは思っていない。
『(P015)私が東大に関心を持って調べてみたのは本書を執筆するためであって、昨年の今頃、実際に東大で講義していた際には、学生に関する知識も先入観もまったくなかった。』
と著者が言う様に「楽しい」がスタート地点じゃない興味の持ち方もある。
目的達成のために必要だからという理由の興味の持ち方だ。
つまり、「楽しい」は興味を持たせるの前では必須条件ではなく、手段にしかすぎないのかもしれない。
それでも、楽しいという前向きな気持ちで興味を持たせることは、本書の様に多くの人に向けた場合には適していると思うし、気持ち良い。
結論は少々感情的になってしまったが、これはこれで人間らしさというものかもしれない。