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第130回目(2022年2月)の課題本


2月課題図書

 

もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート: 近代~現代

 

です。歴史を複眼的に見るための教材として、そして歴史の穴を認識するための教材とし

て、非常に良く書けている本だと思います。バランスが取れた歴史認識ってこういうこと

なのだ、ということを感じて欲しいと思います。


 【しょ~おんコメント】

2月優秀賞

 

2月の投稿者による一次選考で名前が挙がったのは、 sarusuberi49さんが5票、

masa3843さんが4票、daniel3さんと、Cocona1さんが各1票となりました。

 

一次審査を突破した方の投稿を読み込みまして、今月はsarusuberi49さんに差し上げるこ

とにしました。おめでとうございます。



【頂いたコメント】

投稿者 Cocona1 日時 
本書を読んで私は、通説や教科書を疑うことから始まる、『もう一つ上の』学びの楽しさを気づかせてもらいました。

そもそも、今月の課題図書が紹介された時の私の第一声は、「歴史かぁ。。。」でした。というのも、私は学生時代、歴史が苦手で成績は赤点。そのままこじらせて、完全に歴史アレルギーになっているからです。そんな私が歴史の本を読んで感想を書くなど、将棋のルールを知らない人間が、藤井聡太さんの対局に解説するようなものじゃないか、と考えつつ、本書を読み始めました。

予想通り、まったく内容は分からず、自分の知識の無さを改めて恥ずかしく感じながらも読み進めていきました。しかし、どうにか辿り着いたあとがきで、衝撃を受けます。

「歴史教科書の登場人物は、それまでまるで映画や舞台の主人公のようにしか思っていなかった」

そこに書かれていたのは、小学生時代の著者の、歴史についての考えを書いた文章ですが、まさに私も同じことを思っていたからです。

歴史なんて、浦島太郎と同じ作り話かもしれない。ホントかどうかも分からない出来事について、年号という数字をセットにして覚える作業に、意味も楽しさも見いだせない。これが、私が歴史アレルギーになった理由です。本書のあとがきを読み、歴史の専門家と自分の考えが思わぬところで一緒だったと知って、驚きました。

しかし、歴史に対して似たような考えを持ちながら、かたや歴史の専門家になった著者と、かたや歴史アレルギーを抱えることになった私とを比べてみて、大事なことに気づきました。私は、競うために暗記する歴史が苦手なだけでした。そして、教科書を疑ってみる考え方は、そんな私にとってとても新鮮で魅力的でした。

著者と私の違いは、歴史を複眼的に考える楽しさに早くから気づけたことと、そのきっかけをくれた同級生の女の子の存在です。しかし、それはどちらも、とてもささいなことに思えます。つまり、歴史好きと歴史アレルギーの分かれ道は、小さなきっかけだけだったと感じるのです。

そうだとしたら、私はこの数十年、なんてもったいない人生を過ごしてきたのでしょう。歴史アレルギーになる前にこの本に出会えていたら、または同様の考え方に気づいていたら、私にも歴史専門家の道があったかもしれない。それは言い過ぎかもしれませんが、教科書に書かれたことを疑うことで、複眼的に歴史を楽しむ道が開けていたら、歴史アレルギーにはならずに今回の本ももっと楽しんで読めたのではないかと想像すると、残念な気持ちでいっぱいです。

ただ、歴史を複眼的に見る楽しみをもっと早く知っていたとしても、学生時代の赤点は避けられなかったかもしれません。なぜなら、学生時代は他人と競うための勉強であり、いちいち教科書を疑っていたら、テストで点数はとれないからです。

となると、複眼的に歴史を検証するのは、大人にぴったりの学びの楽しさなのだと思えます。この複眼的な考え方を、本書のタイトルでは「もう一つ上」と表現しています。競うための学生の勉強から、もう一つ上の、自分のための大人の勉強へ、学び方の成長です。大人になったからこそ、成績を気にせず、色々な角度から歴史を見て、納得したり発見したりできます。もっと視野を広げると、歴史に限らず、一つの正解を求めない学び方こそ、大人の勉強の面白さなのです。つまり大人の学びはすべてが自由研究なんだと考えると、胸が高鳴りました。

そもそも学生時代の歴史の成績が赤点だったから、今でも歴史が苦手だと考えていること自体が、単眼的な考え方だったと反省しました。昔の成績と、今楽しむ対象は別ものです。さらに言えば、たとえ今楽しいと思えないことでも、いつかは興味がわくかもしれません。つまり人生って実は苦手なことなんてなく、面白い面を見つけられないものごとを苦手だと感じるだけなんじゃないか。何事も複眼的に見るように心がけることで、人生はいつまでも学び続けられるし、いつまでも楽しめるんだという考えに、最終的に行きつきました。

自分を振り返ると、苦手に感じて避けてきた分野は、歴史以外にもまだまだたくさんあります。本書を通じて、自分のための大人の学びの魅力を教えてもらえたので、まずは、自分の興味を複眼的に見直してみたいです。そして、真新しい気持ちで、苦手だと思い込んでいることにも、別の角度から取り組みたいと思います。
投稿者 daniel3 日時 
 本書は百田尚樹氏の「日本国紀」で展開される独自の歴史観について、歴史的事実に照らして誤りがある点を指摘した解説本です。百田氏と言えば「永遠の0」などの代表作を筆頭に、稀代のストーリーテラーとして、人を魅了する小説家としての才能はあると思います。しかし「日本国紀」について言えば、その才能が誤った方向に発揮されてしまったと言えるでしょう。

 「日本国紀」は日本の通史という位置づけと出版されています。そのためそこで解説される内容は、歴史的事実に基づいたものであるべきです。しかし「日本国紀」の中では、百田氏の歴史観をサポートするのに都合の良い歴史上の出来事の一部を切り貼りしつつ、その主張に沿わない出来事は取取り上げず、憶測などで事実関係をぼやかしつつ持論を展開しています。通史と言いながらも、自身の解釈と整合しない出来事がいくつも挙げられる場合には、某ひろゆき氏の言葉で言えば、

「それはあなたの感想ですよね。」

と論破されてしまうことになります。

 ここまで「日本国紀」の問題点について見てきましたが、歴史研究には自然科学分野の研究とは異なる難しさがあります。それは、歴史は自然科学分野の研究に比べて、ある解釈を説明する客観性の担保に、より慎重にならないといけない学問であるという側面があるからだからです。

 「歴史は繰り返す」と言われながらも、全く同じ条件で特定の歴史上の出来事が起きることはなく、再現性を担保することが困難です。また、ある人物の発言や行動の真意は、明確に記録として残らないこともあり、少なからず推測せざるを得ない要素が出てきます。そのため歴史では「解釈」を支持する資料の存在と、それに反する資料が存在しないかを慎重に吟味する必要があります。

 以上のように歴史研究特有の難しさはありながらも、「日本国紀」で百田氏が犯してしまったミスを、他山の石とすることは出来ないかと考えました。

 一つには、人間は自分が見たいものだけを見る傾向があることを認識しておく必要があると思います。よく知られている『カラーバス効果』のように、ある商品に意識が向くと、同じ商品を身につけている人をやたらと見かけるようになる現象があります。主義主張についても同様に、自身の主義主張を補強する情報というのは、自然と集まってくるものです。それは、Twitterで同じ志向のユーザーが自然とフォローしあうことからも見て取れます。

 そして、人間にはそうした傾向があることを認識した上で、ある主張に反する事実が存在するか慎重に検証するという、複眼的な思考を意識的に行う必要があります。百田氏の場合は意図的かはさておき、自身の主張と異なる出来事を切り捨て無視してしまったことに、「日本国紀」の問題の本質があったと思います。

 複眼的思考は、この課題図書感想文投稿についても必要な考え方です。課題図書感想文の投稿では、書籍の中で出てきた内容を自分なりに考え、意見として述べることを行っています。しかし、その意見を支持する事例だけでなく、その意見と反する事例は存在しないだろうかと立ち止まって考えることは、意識していないとなかなかできないものです。

著者があとがきで述べていた

『歴史「を」説明することと、歴史「で」何か説明することは違う』(P.480)

という言葉は歴史だけに限定されず、何か主張をする際に重要な考え方であると思います。本書を通して得た学びを意識して、これからも課題図書感想文投稿に取り組んでいきたいと思いました。
 
投稿者 mkse22 日時 
もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート: 近代~現代を読んで

本書の著者である浮世氏は、本当の意味での日本国紀の読者だと思う。
普通の読者はここまで読み込むことをしないからだ。
通常ならさらっと読んで終わるところを、自分の気になる点を調べ、
ブログにまとめ、さらには本として出版したわけだ。
批判的であるとはいえ、浮世氏のような読者を得ることができた
日本国紀は幸せなのかもしれない。

このように熱心な読者を獲得できた日本国紀だが、本書の引用を見る限り、
百田氏の感情が込められた文章が多く、さらにエビデンスが軽視されているように感じる。
浮世氏の言葉を借りると、『思想・信条のために都合のいい歴史を集めて』 (p.606)いるかのようだ。

例えば、日本国紀からの引用として以下がある。
①『日本史上において、これほど劇的に国全体に変革が起きたことは、これ以前にも以後にもない』(p.3)
②『江戸時代からわずか数年後の街並みとはとても思えない。』(p.57)

上記に対して私が疑問に思ったのは以下の通り。
①では劇的という単語が使われているが、これは適切な表現だろうか。
具体例と劇的と判断すべき基準が記載されていないので、
私には劇的という修飾が正しいのか判断できない。
②も、「わずか数年後の街並みとはとても思えない」のは百田氏の感想であり、
その変化は他の人から見ると実はたいしたものではない可能性がある。

読み手に百田氏と同じ気持ちがある場合には、気にならずにさらっとよみ流せるのかもしれない。
あまり深く考えないで読んでいるときにもさらっと読み流すかもしれない。
しかし、「本当にそうなの?」って思ってしまうと、そこが気になってしまい、
その先の文章がよめなくなってしまう。

ここで、エビデンス、例えば百田氏の主観を裏付ける当時の文書や写真などがあれば、
納得ができて読み進めることができるかもしれないが。。
しかし、仮にエビデンスがあったとしても百田氏のエビデンスに対する
解釈の妥当性が次の問題となるだろう。解釈が適切でなければ、エビデンスが有効に機能しないからだ。

このようなことを考えながら本書を読み進めていったが、次第に「日本国紀の問題点はわかった。
それで、結局どのようにかんがえればよいの?」と思う箇所が散見されるようになった。

例えば、以下の記載。
『「改憲」か「 護憲」か、といった 冷戦 期のような二項対立で、激変する国際情勢、国内政治を
理解しようとするのは、かなり無理があります。「左翼系」という言葉もこの二項対立を象徴する 表現で、
現在の言論 界、学者、そして若手の政治家たちの意識は、かつてのようなイデオロギー対立や右派・左派という表現ではほとんど括れない状況 になっています。』(p.603)

浮世氏の指摘はごもっともだとおもう。たしかに、自民党をリベラルと考える人がいる時代だ。
冷戦期なら、保守といわれていた党がである。ここまでは理解できる。
ただ、現在の意識を正確に把握できるような括り方については記載がない。
括り方が提示されていれば、その括り方が機能するかどうかが判断できるのだが。

ただ、本書の目的は、あくまで日本国紀に対する問題点の指摘であり、日本国紀に代わる歴史観や視点を提示することは目的外と思われるため、ここまで望むことは筋違いかもしれない。

最後まで読み終わって感じたのは、(当たり前のことかもしれないが)本書は日本国紀と一緒に読むべき本だということだ。
一緒に読むことで、日本国紀の問題点に気づいたり、カバーできていない部分を補完することができる。
さらに、歴史を学ぶには、バランスよく書かれた教科書だけでなく、特定の思想を前提として書かれた本も必要かもしれないと思った。(学術研究に裏打ちされたもっとレベルの高い日本国紀というべきものがほしい)教科書では、争点がわかりにくいからだ。争点がわかれば、なぜ争点となっているのかという疑問をもつことができ、
争点を通じて、歴史の理解を深めることができる。争点がわからないと、疑問にもつきっかけがなく、
歴史がただの暗記科目となってしまう。
さらに、都合の悪い部分のごまかし方のテクニックも身につけることができる。
私も、本書を読んで、これまで知らなった争点やごまかし方のテクニックを知ってしまった。。
これは特定の思想のもとで書かれた本を通じて歴史を学んだ副産物だろう。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、一方の極端な意見に性急に飛びついて、他の意見や主張を全否定してしまう、という安易な捉え方をしてはいけない、と改めて感じました。


学校で使われている教科書は、常に最新の知見を取り入れてアップデートされていますが、今までの教科書に書かれている、近現代史の定説について科学的批判をしていくと、本書のような膨大なページ数になります。


その背景にあるのは、歴史の中で起きた一つ一つの事象について、実証や検証を重視しようとする著者の地道な姿勢です。学校で新年度の教科書を作る際は、細かい一つの記述であっても、入念に専門家による検証が行われ、その根拠となる歴史学は、多くの人々が長い時間を掛けて築いた、学問的な営みが蓄積したものなのです。


しかし、日本の歴史は長く複雑で、日本史の内容すべてを学校の授業で行うと、覚える量が膨大になってしまい、授業を受けている学生から見ると、何のために学ぶのか、という目的が分からない教育になってしまいます。


さらに、今の生活認識にも直結するはずの現代史が、卒業や進学を控えた学年末の時期になり、終わりの方の現代史に近くなるに連れて、教える内容について省略する部分が増えてしまい、将来大人になった時に、ほとんどの人達にとって現代史の認識が曖昧なままになってしまいます。


そのような状況の中でも、もし現在の社会がどのような歴史を辿って来たのかが理解できれば、今を生きている自分達の政治や社会に対する考え方も、もっとしっかりと真剣に考えるようになると考えました。


また、本書の特徴として歴史はストーリーであると宣言している事です。著者が考える歴史とは、実証や検証を行う事実の集積である以上に、日本や日本人に意味付けのアイデンティティを与えるための物語であり、そちらの方こそが必要であり、有益であると考えています。


さらに、その中で歴史の定説に対するアンチテーゼが出される事で、歴史で起きた事象の一つ一つの内容について、何度でも見識や議論を深めていく事が出来るのです。一方だけの意見や主張を鵜呑みにして聞いていたのでは、歴史の事象について疑問を持つような、理解を深めることも出来なくなってしまいます。



本書を読んで反省させられたのは、自分の歴史認識は多くのフィクションによって形成されていた、という事です。歴史小説作家の司馬遼太郎の書籍や、映画やドラマ等の様々な第二次世界大戦を描いたフィクションによって、歴史の事実を知っている気になり、虚構のイメージを抱き、それに基づいて自分が考える、良し悪しの判断をしてしまっているのだと感じました。


どの主張が正しいのか、どちら側の意見が正しいのか、という事ではなく、様々な意見や主張の選択肢も存在するという事が、これから歴史を学ぶ人達に自由な視点を与えてくれると思います。


別の意見や主張が出てきた際は、どちらの意見も聞き、議論を深めながら、今後も歴史について興味や関心を持ち続けていくようにします。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書を読んでまず最初に感じたことは、「日本国紀」というのは歴史書というより百田尚樹氏の執筆した所謂"歴史小説"なのであろうということである。司馬遼太郎や山岡荘八、吉川英治などの歴史小説と同じ類である。それを日本通史の決定版とか現代版日本書紀などと世間が評するから話しがややこしいのである。
 百田尚樹氏はその著書や言動から察するにかなり右よりの人と思われる。日本国紀もその傾向が覗われるし、困るのはこれを読んで日本史の真実はこういうことだったのかと思ったり、間違った歴史観を植え付けられてしまうことである。
 これに対して、日本国紀に書かれている百田尚樹氏の偏った歴史観、世間一般に流れている俗説・デマや雑学レベルのエピソードの類、読み手が陥りやすい勘違いについて、一つ一つ指摘して訂正している本書は本当に心地よかった。
 ちゃんと歴史を知っている人からすればそれってちょっとおかしいよねとか、もう少し詳しく調べてみようかなと思えるのだろうけど、歴史を知らない人から見るとなるほどそういうことだったのかと間違った歴史観を持ってしまう恐れがある。

 ではこのような間違った歴史観を持たないようにするにはどうすればよいのか?少し考えてみた。

 端的に言えば、歴史をよく勉強するしかないと思う。情報ソースは一つではなく複数から得るようにする。歴史教科書をよく読み、歴史小説を読み、原資史料にあたる、TVドラマや歴史ドキュメンタリーなども見る。ありとあらゆる角度から歴史を学び、自分なりの歴史観を身につけるしかないのだと思う。
 具体的にはどうであろうか?
 まず、歴史史料を読み解く、次に史実・歴史像をイメージする、そして自分なりの歴史観を編み出す、ことだと思う。更にここで重要になるのは正しく知っていることとよく考えることだと思う。

 もう少し考察してみる。
 インターネットが普及する前までは、情報を入手するのは大変困難な作業だった。しかし最近ではインターネットが発達していて、スマホをちょちょっと操作すれば、必要な情報はそれほど苦労なく得ることができるが、それでもその情報の信憑性を見極めるにはすぐには調べがつかないだろう。正しく知っているということは単に知っていることより大切なことだといえる。
 次に人は困難や問題に対峙した時、どうしたらよいかを考える。考えることについては、自分が知っていることの知識や経験を総動員して、それを材料として思考を紡いでいくことであり、大切なことであり、正しく知っていることと密接な関係にある。例えば、よい食材がなければおいしい料理ができないように、正しい知識がないとよい考察は成り立たない。
 正しく知っていることとよく考えることはどちらも大切なことではあるが、どちらかといえば重要なのはよく考えることである。なぜなら、知らないならばどんなに時間がかかっても調べればよいし、自分が勉強不足であることを素直に認め、有識者に教えを乞えばいいだけのことなのである。正しく知っていれば、正しく考えられる。正しく知っていることは、よく考えるための素材となるのである。

 それでも、正しく知ってよく考えても、日本国紀と本書のように歴史観の違いや歴史解釈の違いは生じてくる。なぜであろう?そんな時の打開策になるのが史実解釈の論理性なのではなかろうかと考えてみた。歴史解釈や意見の違いの溝を埋めるのに論理を追及することである。一貫した論理には説得力があり読みやすいし面白い、論理が破綻しているとやはり読みにくいし面白味もない。
 些か乱暴な仮説ではあるが、この観点で見直してみると、確かに日本国紀の中で矛盾した記述が散見されて読みにくい、一方本書ではなるほどと腑に落ちることが多いし、なにより読んでいて面白い。
 
 さて、いろいろ述べてきたが、間違った歴史観を持たないためには、正しく知ることは言わずもがなだが、知っている/知らないではなく、よく考えることが重要であり、歴史解釈の論理性を追及することなのだと考えた次第である。

 最後に、知ることには限りがあるので、考えることを基本として歴史像を生み出していくことが歴史を学ぶ上での達成感や喜びになるのであろう。一つの極端な意見に振り回されて他者を否定しないこと、双方の意見をよく聞き、自分なりの結論を出すことが重要なのである。
 そして、歴史エセ本に惑わされないように、物事の真贋を一発で見抜くような歴史観
を身につけたいと思った。

 以上のようなことをつらつらと考えさせられた一冊であった。本書を読了しての読書感想としては、正直そんなところである。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“自身の認識を疑う”

本書は、百田尚樹氏が著した『日本国紀』内の事実誤認箇所を著者浮世博史氏が指摘、訂正するという内容だ。浮世氏は、高校で社会科教諭であり、また膨大な時間をかけて歴史研究に取り組んでいるため、彼の歴史に関する知識量は圧巻である。私は、本書を読むことで今まで知りもしなかった多くの史実を目のあたりにした。と同時に、私も百田氏と同じように多くの歴史的な事実を間違って認識していたことにも気づいた。例えば、日露戦争において日本海軍が撃破したバルティック艦隊が当時最強という評判であったというのは事実ではなく、戦後に行われた日本政府の情報操作による虚像であったこと。また、先の大戦は欧米列強諸国からのアジア諸国の解放という大義名分が第一に日本にはあったというのは私の思い込みであり、侵略、収奪という側面の方が強かったこと等々、本書を読むことで判明した私の間違った歴史認識は挙げればきりがなく、私自身の認識の甘さ、不正確さをほとほと痛感したのだった。では、私のこうした誤った歴史認識はどこで、どのように形成されたのか?そして、歴史の誤認はどのような問題を生み出すのだろうか?

浮世氏が指摘する通り、上述したバルティック艦隊の戦力誇張やアジア諸国解放という大義名分が教科書に載っていないとすれば、おそらく私が過去に読んだ歴史小説や漫画、または観た映画やTVドラマから得た知識や情報なのだろう。そして、それら見たもの聞いたものの中から、私自身にとって好ましいものや聞き心地がいいもの、例えば日本人的な美談や正義を切り取って事実として誤って認識し続けていたのだ。この歴史の誤認は、著者が指摘するように、「誤った事実に基づいていたなら、生まれる歴史観も評価も誤りになります」(P.43)という事態を生み出す。よって、正しい事実に基づいて歴史に対する価値観や意見を形成することは重要なのだと、本書を読んで痛切に感じた次第だ。そもそも、浮世氏が百田氏の『日本国紀』の内容を正す形で、本書を出版したのも、世間に大きな影響力を持っている人の間違った歴史観や評価が広がってしまうことを危惧し、問題視してのことなのだろう。なぜなら、それら誤った歴史観や評価がデマやヘイトまがいの話と成りかねないからだ。

浮世氏の目論見とおり、本書を読むことで私は公式な歴史資料を根拠とした史実を多く知ることができた。それはそれで、本書を読んだ意義は大いにあったと私は思う。ただ、同時に私の中に湧き上がった疑問は、歴史に限らず普段私自身が認識している知識や情報はどれくらい正確なのだろうか?ということだ。言わずもがな、現代は知識や情報が無数に溢れかえり、インターネットを使えば簡単にそれらにアクセスできる時代である。私は日々、スマホやPCを通して知識や情報を得ているわけだが、それらの正確性は果たしてどうなのか?信憑性のありそうなウェブサイトに掲載されるフェイクニュースと呼ばれる記事、さらにはテクノロジーの進化で映像や音声を編集して緻密に作られるディープフェイクと言われる嘘情報。もしも、これら誤った知識、情報を基にして自身の思想、意見を形成しているとしたら、それはどのような事態を引き起こすのだろうか?

誤った知識や情報を基に誤った思想や意見を述べてしまっているとどのような事態を引き起こすのか?百田氏の場合で言えば、彼は世の中が持っていた彼に対する信頼を多分に失ったのではないかと私は思う。そのように思ったのは、現在世界の注目を集めているロシアとウクライナの二国間情勢について、私がニュースサイトやSNSで最新情報、または両国間の歴史的経緯などを調べている時だ。ツイッター上でロシアとウクライナの歴史について百田氏が自身の知見を述べるツイートが流れてきた時、私はそのツイートを読むことなく流し見送った。以前であれば、読んでいただろう百田氏のツイートを。それは、本書を読むことで百田氏の歴史に関する知識がかなりあやふやなこと、知るに値しないというように半自動的に反応したからに他ならない。要するに、本書を読む前まであった私の百田氏に持っていた信頼は、こと歴史に関して言えば、全く持って失われてしまっていたのであった。

この問題は、決して他人事で済ましてはいけないと考える。なぜならば、会社でも家庭でも誤った知識や情報を基に誤った思想や意見を述べてしまうことで、私が周囲から信頼を失うことは十分にあり得るからだ。では、このような事態を招くとこを防ぐにはどうすればいいのだろうか?それは、積極的に自分自身の認識を疑ったり、他者の思想や意見に柔軟に接したりすることで、自身の持っている知識や情報をアップデートすることだと思っている。

~終わり~
投稿者 masa3843 日時 

本書は、ベストセラー作家の百田尚樹氏が書いた『日本国記』について、史実に基づいて丁寧な解説・修正・反論を行った本である。多岐にわたる詳細な指摘が続く本書を読んで、その緻密さに驚かされるとともに、私自身初めて知る内容も少なくなかった。本書を読みながら、私は3年前課題図書になったハンス・ロスリング氏の著書『ファクトフルネス』を思い出した。なぜならば、著者がファクトをベースに『日本国記』の内容に切り込む様は、『ファクトフルネス』で推奨された情報への向き合い方そのものだったからだ。さらには、これだけ史実と異なることが書かれた『日本国記』が、65万部を超えるベストセラーになっている理由についても、『ファクトフルネス』で語られている人間の本能と無関係ではないと感じた。本稿では、『ファクトフルネス』で解説されている人間の本能を、『日本国記』と『もう一つ上の日本史』に当てはめて考えることで、『日本国記』がここまで売れた理由を考察してみたい。

『ファクトフルネス』は、公衆衛生学者であるハンス・ロスリング氏が、人間の持つ認知バイアスについて10の本能により分かりやすく解説した本である。この本は、思い込みを乗り越えて、データや事実を基に世界を正しく見る方法について教えてくれる。『ファクトフルネス』で解説されている10の本能の中に、「犯人捜し本能」というものがある。これは、何か問題が起きた時に、特定の人や組織を唯一の犯人として責めてしまう本能のことである。人は、何かあった時に自分の責任を回避するために、原因を外部に押しつけたいと考えてしまう傾向があるのだ。『日本国紀』では、太平洋戦争の開始にあたって、当時のルーズベルト大統領が日本を敵視し、日本から戦争を仕掛けさせるために石油の全面禁輸を行ったと説明している。アメリカやルーズベルト大統領を悪者にすることで、日本の開戦を正当化しているのだ。しかし実際は、日中戦争の状況が深刻化する中で、日本と植民地に利権を持つ欧米各国の利害と思惑が複雑に絡み合ったことで、太平洋戦争が始まったのであって、アメリカや時の大統領を悪者にして黒幕化するのは乱暴だと言えるのである。

また、『ファクトフルネス』で解説されているバイアスの中に、「単純化本能」というものがある。「単純化本能」とは、ある一つの事象にひとつの原因や回答を当てはめてしまうことである。人間は、1つの視点で物事を理解し説明したいと考える傾向にあるのだ。『日本国記』では、世界大戦前後の世界情勢を「欧米先進国 vs アジア後進国」という対立構図で説明しようとする。そのため、日露戦争当時ロシアが日本を「マカーキ(猿)」と蔑み見下していたという記述があり、そんな低級有色人種として見られていた日本が初めて白人を破った戦争として、日露戦争を賞賛しているのである。しかし実際は、ロシア皇帝のニコライ二世は日本が大好きだったというから驚きだ。皇帝自身が記した日記が残されており、大津事件で自分を襲撃した犯人は憎んでいるものの、日本人全体とは分けて考えていることが分かるという。

さらには、『ファクトフルネス』では「パターン化本能」というバイアスについても説明されている。パターン化本能とは、ひとつの例が全てに当てはまるという思い込みのことである。人間は、自分が理解しやすいように物事を無意識にパターン化してしまい、本来は関係ない事象もそのパターンに当てはめて考えてしまうのである。『日本国記』では、インドのネルー首相が日露戦争における日本の勝利に勇気づけられたと発言したことや、ビルマのバー・モウが日本の勝利によって誇りを与えられたと発言したことを受けて、日本がアジアのヒーローであったかのような記述が重ねられている。これが、太平洋戦争はアジア解放のための正義の戦争だったというロジックにも繋がるのだが、実際は、日露戦争後の日本の振る舞いは欧米各国のそれと変わらず、新しい帝国主義国家が生まれただけだとして、アジア各国を失望させた事実があるという。

百田氏は、こうした人間の本能を巧みに利用することで、『日本国記』を日本人が受け入れやすい物語として作り上げたのである。『もう一つ上の日本史』に限らず、史実と異なる記述が各方面から指摘されても、多くの人は歴史書としての『日本国記』ではなく、物語としての『日本国記』に惹かれたのだ。『もう一つ上の日本史』の発行部数は判然としないが、恐らく65万部を発行した『日本国記』の足元にも及ばないであろう。それだけ百田氏のストーリーテリングが秀逸であったと言えるし、本書の中でも少し触れられている司馬遼太郎の小説についても同じことが言える。史実かどうかはそこまで問題にならず、人は信じたいことを信じ、面白いものに惹かれてしまうのだ。百田氏を批判することは容易いが、これだけの史実誤認がありながら、『日本国記』がここまで売れることになった事実から目を背けてはならないだろうと思う。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。

投稿者 Terucchi 日時 
温故知新。故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る。

この本「もう一つ上の日本史」は、著者である浮世博史が、百田尚樹の日本の歴史について書いた「日本国記」に対して、その内容が間違いだらけだとして、批判した本である。どの部分がどのように間違っているかについて、周到なエビデンスを基に、その基準を現代の教科書に書かれている歴史観で、百田氏の書いた本の内容を詳しく解説している。

この本を読むと、百田氏の「日本国記」は明らかに事実と違っており、解釈も誤りが生じている。例えば、有名な南京大虐殺(p231)においても、百田氏においては、フィクションとして捉え、事実がなかったこととしているが、浮世氏にとっては、事実のエビデンスを元に、事実あったとして反論している。また、大東亜戦争(p268)においても、百田氏は、侵略戦争ではなく、日本を主導者として共存共栄で立ち上がったと解釈しているが、浮世氏は、もし共存共栄を掲げているのであれば、なぜ資源を収奪するのか、という矛盾で反論している。他に、GHQの問題(p346〜)についても、百田氏は、『WGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)として、戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けること』としている。しかし、浮世氏としては、何も書かれたものが残っていないし、様々な解釈によって、百田氏のようには言い切れないと言っている。浮世氏は、百田氏のさまざまな意見に対しての反論をエビデンスや歴史的な背景を元にして、それぞれ詳しく説明している。

ここで、百田氏にとって、自著の日本国記は、単なる歴史小説かもしれない。だから、どう解釈しても個人的な見解であって、それで良いと言うかもしれない。しかし、果たしてその間違った解釈を伝えて良いのであろうか。もし歴史を伝えるのであれば、間違った事実や見解を伝えることは否と言わざるを得ない。なぜなら、読者にとって歴史とは正しいことを認識させなければならないからだ。「温故知新」(おんこちしん)という言葉がある。これは、論語を由来とする言葉で、「過去に起こった出来事をよく調べて学び、そこから新たな知識を得る」という意味を持つ。歴史というのは、歴史は繰り返すと言われるように、人は戦争なども含めて何度も似た歴史を繰り返すものである。また、P.ドラッカーの言葉を借りると、「未来は過去の延長上にある」と言っている。もし過去の解釈を間違って捉えると、未来も間違った方向へ行ってしまう。それ故に歴史は試行錯誤の財産として大切であり、過去の叡智である。それを大切にして、新しい未来へ活かしていくためのものである。また、著者はp480で『歴史「で」思想・信条「を」語るのは自由ですが、思想・信条のために都合のいい歴史を集めてしまうと、本来の姿が歪む』と言っている。歴史は個人の感想ではなく、事実を客観的に見ることが必要である。更に、著者の歴史に対する考えは、『歴史、それ自体には右も左もない、ど真ん中』(p481)だということである。歴史は様々な利害関係の上で、その結果で事実が出来上がっている。確かに、百田氏の考えも一部あるかもしれないが、様々な考えがぶつかり合って、結果が歴史となる。正しく知らず、あたかも百田氏の話を正と思ってしまうのは危険なことなのである。だから、この著者である浮世氏もこの百田氏の「日本国記」の内容を批判せざるを得なかったと考える。更に、浮世氏は高校の教師であるが故に、生徒に対して、歪んだ歴史を伝えることはいけない、正しく判断する力を養って欲しいという思いがあるからこそ、百田氏の歴史観が許せなかったのであろう。

ところで、ネットを調べていくと、百田氏にとっては、維新の会が提唱する日本が武装するための憲法改正の支持者を増やす目的のための手段として、この本を出したと言われている。だから、注目を浴びることが目的であり、実はネット右翼などの間では賞賛する人も多く、それを達成して満足していると言われている。だから、百田氏にとっては批判を受けることを何とも思っておらず、更に版を増やす際に、平気で修正することを厭わず、自身の目的以外の指摘も実はありがたがっているかもしれないと私は思う。実際に改訂したところは、百田氏にはどうでもよい部分で、先の大東亜戦争やWGIPのところなどの解釈は武装のためにつなげる目的のためには必要であると判断して、その解釈は改訂せず、自説を貫いている。この百田氏の太々(ふてぶて)しさは、氏の著書の題名である、まさしく「鋼のメンタル」であると思ってしまう。これらのことも含めて、歴史を都合よくねじ曲げて解釈してしまうことは、この本同様に、やはり許せないことだと私は考える次第である。
投稿者 3338 日時 
浮世氏の世界観に学ぶ

本書は百田氏の「日本国記」の誤解を生む表現を指摘して、正確な事実と事実を認識できる書き方にこだわって書かれている。史実を詳細に検証し、より正確な表現で歴史を伝えたいという作者の想いが伝わって来る。
歴史の記述は事実を正確に伝えることが必要だが、それについても浮世氏の姿勢は真摯で学ぶべきものが多い。歴史だけでなく、他の分野でも大枠を把握しつつ詳細なところまで理解させるには、様々な表現があり一つ一つの項目に対して深い理解がなければできない。

今回の百田氏の日本国記は極端な例としても、自分の主張を歴史を通じて語ることの難しさを思った。たとえ、全て検証された事実を並べても、書き方によって読み手に与える印象を左右することができる。極端に言えばわざと誤解するように書くことができる上に、正しいことを書きながらも、誤解が生じるように書くこともできると感じた。

たとえば
p45の百田氏の文章では鉄道が完成した速さを驚異的であるとしているが、それに対して浮世氏が丁寧に反論している。p46に鉄道の解説で鉄道に関しては、開通の速さではなくその運営が評価されるべきだとある。

まず、鉄道建設は日本の「自前」ではありません。資金も技術もイギリスからの提供でした。建設の設計指導もイギリス人、車両は全てイギリス製ですし、…
中略…、国産は枕木の木材くらいでした。とあり、
 
これを読むと全てイギリスから提供されて、イギリスは日本の鉄道の支援に力を入れていると信じたくなる。
しかし実際は、イギリスでサイズを間違えて作られた失敗作を、レールごと日本に押し付けたという事実がある。これも教科書には載っていないが、昨年テレビでも放映されていた。そのテレビ放映を一緒に見ていた歴史に詳しい主人も知らなかったので、知る人ぞ知ることであったと思う。

ここで言いたいのは浮世氏が、本書に上記のように「まず、鉄道…木材くらいでした。」と書いてあれば、誰もがそのまま受け止めるということ。ここにこれ以上の物語りがあるという事実はなかなか知り得ない。イギリスは確かに日本文化水準を評価し、この時商売相手として認めて経営を任せたのも事実であるが、そこにはけっこうえげつない金銭の動きがあり、日本政府もそのやり口に呆れて、交渉人を変えるなどしている。

ここでの浮世氏の鉄道での指摘と解説は、やはり大変バランスと取れた俯瞰図で説明されている。
そして、浮世氏の文章を読みすすめて行くと、氏の歴史観が見えて来る。

また、p247から語られている樋口季一郎氏に関しては、8月の課題本であったので記憶に新しい。
百田氏は確認すればすぐ分かることも誤って書いている。それに対して、浮世氏はただ丁寧に時代背景と状況を解説している。樋口少将の感情も汲み取り、全体の俯瞰図を見るように、非常に分かりやすく解説している。どの解説も図で解説されているような、分かりやすさがあり、これが浮世氏の歴史の世界観なのだと思うが、流れのあるフローが、目の前に展開しているように理解ができた。浮世氏は時代背景や登場人物のその時の状況も全て俯瞰図のように見えているのだと感じた。

百田氏の日本国記に対して、浮世氏は淡々とその違いを指摘している。特に避難めいたことも言わず、ただただ違いを指摘して、より事実に近い書き方を提唱している。「教科書の後ろには、さまざまな歴史がある」後書きにも書かれたこの言葉はあまりにも重い。

今回私が学ぶべきは浮世氏のこの姿勢だと思った。自分の主張を通すために、自分に都合いい事実だけを集めて語ることは危険だと浮世氏は警告している。自分があまり得意ではない分野では、特に気をつけなければならないと、この警告を真摯に受け止めたい。得意な分野でさえも、検証することには心を砕かねばならない。

しかし、個人がこんなことを考えていても、何の足しにもならない。浮世氏のこの真摯な態度は、マスコミや新聞社に見習ってほしい。
かつて、日露戦争で新聞社が日本の現状を伝えることなく、戦争へと新聞社が煽ったために、その後の日比谷事件を経て日中戦争や太平洋戦争へとつながっていった。

日露戦争の日本側の戦死者は、約8万4千人で、日清戦争の約10倍に当たる。
日露戦争で、日本は表面上は勝利したが、国力は疲弊し、莫大な借金を背負っていたにも関わらず、戦争継続とあおったのが、朝日新聞と毎日新聞だった。
これが社風なのか民衆をあおり、政府を批判し恥じることがない。現代のマスコミの記者や新聞の編集者は、歴史の勉強をしたのだろうかと聞いてみたくなる。
公の立場にありながら、自社の利益になることしか報じない体制は、未だに変わっていない。
もっと広く情報を集め、そこから何が見えて来るかを、しっかりと検証してニュースとして流してほしい。一方からだけ物事を捉えて、ろくに検証もせずに流される情報に価値はない。
コロナにしてもあまりに的外れな報道をして、謝罪どころか恥じるところがない。このマスコミや新聞社に浮世氏のスタンスをぜひ学んでほしいと思うのは私だけだろうか。
投稿者 vastos2000 日時 
最近の本は、余白も多めでわかりやすく書かれているものが多いと感じる。たまに学生時代にテキストとして使用されていた専門書や岩波文庫を開くと、活字の密度によって瞳孔が拡がる気がするほどだ。
本書は活字の密度はそれほどでもないが、上下巻ともページ数が多く、内容も緻密で、丁寧な指摘に驚かされた。
本書のような、マニアックで、多くの専門知識がちりばめられ、いかにも研究者が書いたという本はなかなか商業出版には至らないのではないかと思うが、それだけ百田尚樹氏の『日本国紀』が売れたということだろう。
著者の浮世氏は、もともとはWeb上で『日本国紀』内の事実誤認と思われる個所や、資料(史料)との食い違いがある点を指摘していたとのことだが、とにかくその量が多い。それだけ丁寧に根拠資料にあたっているということだろう。
百田氏は丁寧に資料にあたるとか、インタビューをしっかりするといったことが苦手なのではないだろうか?『殉愛』関連の裁判のてん末からもそう感じる。それに対して浮世氏の丁寧さは感心させられる。


さて、『もう一つ上の日本史』は『日本国紀』に対するツッコミで構成されているが、浮世氏はほとんどご自身の解釈は書いていない。きっと思うところやご自身の意見もあるだろうに。
モノの見方はひとそれぞれで、私たちは、おそらく無自覚に「自分のモノの見方」でモノを見ている。心理学でいうところの認知バイアスだ。親をはじめとする家庭環境、通った学校や職場の人々、目にするマスコミやSNSの投稿など、周りの人たちの思考や感じ方の中から、自分の感じ方に近いものを無意識に掬い上げて自分のものとしてしまってないだろうか。
もちろん、日常生活で見聞きするものを残らず丁寧に検証するのは認知能力的にも時間的にも不可能なので、脳のリソースを節約するためにも認知バイアスは存在するのだろう。だからこそ、重要な問題に取り組む時には、「自分を含めてヒトには認知バイアスが働いているが、意識すればモノの見方を自分の意志で選べる」ことを思い出したい。
そういった点で、今回の課題図書はモノの見方に関する注意を促してくれる一冊(上下巻だけど)と感じた。

事実を語るとしても、その語り方は一つでは無い。そして意見や感じ方も皆同じということにはなかなかならない。
同じ事象を見たとしても、どこから(どんな立場で)見たか?どこを見たか?いつ見たか?などの諸条件の違いで見え方や印象が変わる。それゆえに人によって、時には同じ人でもタイミングによって言うことが変わる。
なぜなら、生まれた日や場所、それまで見聞きしてきたものから構築される考え方や価値観が全く同一の人はいないからだ。

歴史や政治は特に、人によって見方や意見の振れ幅が大きいと感じる。もともと万人が納得する政策なんてないから、ベストではないがベターな方法をして民主主義が取られていると思うし、歴史は切り取り方で人に与える印象が変化するのでより難しい。『日本国紀』も歴史小説(フィクション)として書けばよかったのにと思う。
私はツイッターで左右両派の人たちをフォローしているが、同じニュースに対しても反応が分かれることがある。少し前なら安倍総理に対する意見。今なら新型コロナウィルスに対するスタンスやまん延防止等重点措置に対する意見が例として思い浮かぶ。
多くは「まぁ、そういう考えもあるよね」といったものだが、中には「いや、それはいくら何でも見方が偏りすぎでしょ」「思い込みが激しすぎじゃない?」と思うこともある。

ここ2年程の課題図書のいくつかでも言及されていたが、今はユニークな意見や適切な問い立てが価値を持ってきている。
インターネットとブロードバンドの普及に伴って、世界に流通する情報量は爆発的に増え、PCやスマホも一人一台の状況になりつつあり、ちょっとした調べものならすぐにできる状況で、確かに独自の考え方を持つことは価値あると思う。だけど同時に、その意見を他人に対して、「賛成反対は別として、なぜそのような考えを持ったのか」を納得させられなければ独りよがりで全く共感できないものになってしまうだろう。
その点、浮世氏はみっちりと根拠を示して百田氏の見解にツッコミを入れているので納得感がある。

賛成反対は別として、自分の意見を人に理解してもらうには、その相手に通じる言葉で語りかけなければならない。『日本国紀』よりも『ひとつ上の日本史』の方が納得感が高いのは、ほとんどの人が理解できて納得できる根拠を示しているからだろう。
その下地として地味な作業の積み重ねがあり、その地味な部分がないと思われる『日本国紀』は読み物としては面白いと思うが、歴史を学ぶ資料としては不適当だろう。

私は大学で史学を学んだわけはないが文学部出身で、初年次に原典に当たる(しかも原書で読む)ことの重要性を教わった。ゼミではテキストの精読を行い、指導教員からは「学部生が自分の意見で卒論を書くなんてことを考えはいけません」と言われた。
実際、卒論はテーマとして取り上げた論の分析やまとめのようなものになり、自分の論はほとんど書かなかった(書けなかった)が、評価は高かった。
浮世氏と同列に論じるのはおこがましいが、原典などの一次資料をしっかりと読むことは何かを学ぶときの基本であり、その基本を踏まえて意見が分かれていくのが健全な姿なのだろう。
今の日本に流通する情報量に流されがちではあるが、自分で選択して読んでいる本に対しては、意識してそこに書かれていることに向き合い、歩留まりを高めるようにしたいと思えた。
 
投稿者 msykmt 日時 
"かたよりを減らすために他者へ発信する"

私の歴史認識はどれくらいゆがんでいるのだろうか。これが、本書を読むにあたり、事前に私が立てた本書を読む目的である。なぜならば、先生が書かれた本書の紹介文には、歴史を複眼的に見るための教材として本書は優れていると書かれていたからだ。そして、本書を読んだ結果、私の歴史認識は右側にかたよりすぎていたことがわかった。だから、もっと中寄せする必要があると感じた。本稿では、なぜそのように考えるにいたったのかを書く。

まず、本書を読む前の私の歴史認識がどのように形成されていったのかを書く。私の生まれ育った環境は、歴史認識のかたよりが非常に生じやすい環境だったといえるだろう。なぜならば、父親も母親も、日本共産党という組織に深く関与していたからだ。そのせいもあって、幼い頃から念仏のように「日本は戦時中に悪いこといっぱいしてきた。だから、二度と戦争を繰り返すことはしてはいけない」と母親からきかされてきた。だから、私は、他国の人がどうかは知らないけれども、我々日本人は窮すると愚行を行うものなのだ、と無批判に考えていた。また、家にある子供向けの歴史書も、左にかたよっているものばかりだった。しかし、大学生になってから、いわゆる「従軍慰安婦」は日本人によって捏造されたものである、などということを書籍で知った。そのことを母親に話すと、そのようなこと言う子供に育てたおぼえはないなどと、感情的に反応するばかりで、いっこうに会話にならなかった。そのことをきっかけに、母親の歴史認識が左に大きくかたよっていることに気がついた。だから、いわゆる「自虐史観」などといわれる、左寄りの歴史認識は、政権与党を失墜させることをねらった、自説に都合のよいものをひっぱってくる方便であるのだから、だいたいウソなのだと考えるようになってしまった。また、戦後になされた教育として、本書にも出てくる「WGIP」というGHQによる「洗脳」によって、日本人に罪の意識が植え付けられてしまったのだという説明を雑誌で読んだ。その結果として、戦前の日本は悪行の限りを尽くした、という説を述べる人の話はだいたいウソなのだと考えるようになってしまった。

つぎに、本書を読んで歴史認識がどう変わったのかを書く。まず、戦後にGHQによってなされた「WGIP」が罪悪感を日本人に植えつけるものではない、と断言している点におどろいた。なぜらば、本書を読むまでは、先に述べたとおり、そのとおりだと考えていたからだ。しかしながら、本書では、なぜそのような理解がいかに誤っているか、その根拠を筋道立てて説明し、また、そのような理解が広まった原因となる文献をも提示しているところから、その論に納得せざるをえなかった。さらに、戦後のGHQによるWGIPと、戦前の日本政府による軍国主義とを対比することにより、相対化をはかり、その論をより強固なものにしている。つぎに、類似の例では、日本国憲法はGHQによって「押し付け」られたものでないというとや、東南アジア諸国要人の「日本礼賛」が不正確であるということにもおどろいた。それらの主張についても、同じように、その根拠を筋道立てて説明しているところから、納得せざるをえなかった。よって、本書を読んだことで、生来の左寄りだった歴史認識が、それに対する反発心により、いくばくか右寄りにかたむきすぎていることを自覚した。

さいごに、この学びを今後の人生にどう活かすのかを書く。まず、これは歴史に限ったことではないものの、自分で学べる範囲や、自分で把握できる範囲には限界があるのだから、自分の認識はかたよりがちになるものだと自覚することが肝要だ。だから、ある時点の認識を、公の場にさらす前に、まずは少数の他者にむけて発信することにより、その他者からの賛成意見や反対意見などのフィードバックに耳を傾ける。そのことによって、よりかたよりの少ない認識に修正するができるのだと思う。したがって、ある程度、自身での認識をかためたら、それを少数の他者にむけて発信することにより、認識をアップデートしていく。そのことが、歴史に限らず、あらゆる学びに対して効率的な方法なのだと思うに至った。
投稿者 str 日時 
“単なる批判本にあらず”
本書の内容的には、確かに「大分批判しているなー」と読んでいて感じたのは正直な感想である。ただ、あくまで誤った認識を指摘し、正す。そしてそれらを裏付けるだけの膨大な知識量・情報量によってことごとく論破していく様は、途中から清々しさすら覚えた。

ある程度日本史に対して理解のある人からすれば認識を改める一つの切っ掛けとなるだろうし、私のように歴史に疎い人からすれば誤った情報をインプットしてしまうことなく、正しい情報を仕入れることができるお得な一冊であるとも言える。

もっとも、百田氏がこれまで習ってきたこと。学んできたこと。本書に於いて指摘・訂正された箇所の全てを本当に百田氏は誤認していたのだろうか。中には“分かってはいるけど、敢えて歪んだ表現方法”を取っているという部分もあるのではないか。自身の抱く思想や理想、それらの影響で贔屓目になり、御都合主義な解釈が生まれ偏向した歴史が世の中に発信されてしまったのだと感じた。

書籍だけに留まらず映像化された作品も多く、知名度もある作家であるが故に批判の的になってしまうのかもしれないが、私たちは日頃からネット上で、職業どころか顔も名前も知らない人からの情報を膨大に目の当たりにしている。それこそ何の信憑性もないにも関わらず。しかし、全てのことに対して懐疑的に捉えていては何も信じられなくなり、同時に自身も何も発言することが出来なくなってしまうだろう。だからせめて一つだけでなく複数の情報源を調べ、肯定派・否定派双方の意見を汲み取りながら、自分なりに信憑性を上げていくようにしたい。
 
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投稿者 sarusuberi49 日時 
【誤情報に惑わされない思考力を鍛えるべきだ】

稀代のストーリーテラーとも呼ばれる作家、百田尚樹氏の「日本国紀」は2018年に刊行され、65万部を売り上げる大ヒットを記録している。「愛国心が満たされ感動した」との熱狂的なファンがいる一方、内容の矛盾、ウィキペディアやYahoo!知恵袋等からのコピペ疑惑が指摘されてもいる。本書の著者である浮世博士氏は、中学高校で教鞭を執る歴史教育者の立場から「日本国紀」の誤りに注釈を入れているが、それだけにとどまらない。ネット上に蔓延するデマ情報を鵜呑みにしてしまう人々を危惧し、日本の歴史教育の課題についても論じている。

常に最新の知見を取り入れアップデートされている教科書よりも、引用元のよくわからない俗説の方が受け入れられやすいのは、日本の教育制度にも問題があると浮世氏は指摘している。私自身を顧みれば、学生時代の歴史の勉強といえば暗記がメインで、私達の生活に過去の歴史がどのように影響しているのか、どんな歴史的変遷を経て社会が成り立っているのかを考えた事などなかった。俯瞰して大局的に考えるよりも、覚えやすさや分かり易さを好んでいた。つまり、学生時代に自分の頭で考える思考訓練を怠っていたツケを大人になって払っているとも言える。逆に、教科書レベルの基礎知識があれば、「日本国紀」は血湧き肉躍るエンタメ小説となるとも言える。実際、歴史上の人物をモチーフにしたゲームやマンガは人気がある。しかし「日本国紀」に関しては、「初めて正しい自国の歴史を学べた」と惹きつけられる読者が後を絶たないことが問題であり、これは退屈な学校教育に遠因が無いとも言い切れない。

百田氏の誤りを明快に指摘してゆく浮世氏は痛快であり、本書はまるで論破のエンタメのようでもある。しかし日本国民として、本書を純粋に楽しむだけで良いのだろうか?自国の歴史認識が曖昧で、専門家に指摘されるまで基本的な間違いにすら気づかなかった自身の未熟さを反省し、思考力を鍛える方法を模索すべきではないだろうか?

私がそう考える理由は2つある。1つ目は、現代社会では与えられる情報に対して受け身でいると、偏った情報ばかり取り込みがちだからである。例えばYoutubeやFacebookには自動的に「次のおすすめ」が表示されるし、Amazonで書籍を購入しても「おすすめ書籍」が表示される。これは、AIが本人の好みや思考の偏りを認識し、それをもとに喜びそうな情報ばかりを次々に提示していることを示している。もしその仕組みを見破らなければ、自分の情報源を知らず知らずの内にアルゴリズムに委ねてしまうこととなる。ゆえに、異なる価値観や意見をも満遍なく収集し、自身の思考の幅を広げる努力を怠ってはならないと考える。2つ目は、自ら思考する習慣を持たないと、周囲に流されやすい為である。例えば本書(P.80)には、日本の国内世論が軍国主義に傾倒していった時代の説明がある。「政府が都合よく世論を誘導しようと情報捜査する」「政府が思っている以上に世論が過剰に反応してしまう」「その結果、政府が想定していた以上の結果を出さなくてはならなくなる…。」と、同調性の高い日本人の姿が描写されており、これはのちに日本人が何度も経験し失敗する未来であるとも記述されている。戦後70年が経った今でも、判断軸を自分で持たず、周囲に同調してしまう可能性が自分にもあると歴史から学ぶべきと考える。

これらの課題について、私が考える対策は次の2つである。1つ目は、「自分向けではない情報を積極的に取り込む」ということである。例えば課題図書で紹介されるのは、たいてい私にとって未知のジャンルであり、そんな課題本と取り組んで感想文を提出するのは、毎月脳内に新規フォルダが増えてゆくようである。この習慣があればこそ、自分にとって馴染みのない情報や未知のジャンルに対する心の壁が低くなってきていることを日々実感しており、今後も自身を律し継続したい。2つ目は、「情報源から主観を省き、事実のみで判断する能力」を磨くことである。主観の入った情報の余計な部分を削ぎ落とし、事実しかない状態に加工して初めて自分で考える余地が生まれると考えるからである。これはつまり、情報の中の「事実」と「主観」を切り分け、正誤をジャッジできる判断力とも言い換えられる。この能力を鍛えるため、得られた情報から何を感じ取り、そこから何を考えたのかを言語化するという地道な訓練を継続したい。

今月の課題図書も良書だが、本書を盲目的に信じ込むこともまた危険なことと考える。何故ならば、今まで正しいとされてきたことが後の新発見により覆され、教科書が書き換わる可能性はゼロではない。有名作家だから、専門家だからなど、権威で信じてしまうのは、まるで飼いならされ野生の勘がさび付いてしまった動物園のライオンのようである。狭い檻の中に閉じこもり、与えられるものだけで満足していては思考力も衰えてしまうだろう。過去の歴史を踏まえ、これからの時代を生き抜く為に、自分の頭で考え続けるべきなのである。
投稿者 H.J 日時 
本書を読んで、歴史=事実と捉えないことが大切であると感じた。
こんな事を書くと「何言ってんの?」と冷ややかなツッコミを受けるだろう。事実を基にした文書や記録を書き残し、現実を変遷する様を言い換えたものが歴史の定義である以上、そう思われるのは当然である。私も本書を読むまではその様な認識だった。しかし、読後は本当にその歴史は事実なの?と問われた様な気がする。事実というより、認識として受け取った方が良いのかもしれないとも思える。なぜなら、国が違えば歴史認識が異なるのはもちろん、同じ国に住んでいても認識がズレるからだ。これは本書を読んで、著者の浮世氏が百田氏の歴史認識で作られた日本国紀に対して、客観的な資料・史料に基づいたツッコミを入れてる事からもわかる。あくまで歴史の当事者でない以上、事実とは言えないのだ。資料や史料を基に事実に近いことを認識することしかできない。

そう思った理由として、私の前提の認識を記載したい。まず大前提として、その国の教科書の歴史が公式である。なぜならその国の政府が認めた書籍であり、義務教育で必ずと言って良いほど目を通す書籍であるからだ。ただし、その公式である教科書が全て正しいわけではない。これは年々内容がアップデートされてる事が証明になるだろう。有名な例を上げると現在の日本の教科書では我々の義務教育で習った聖徳太子を聖徳太子と呼ばずに、厩戸王や厩戸皇子と呼ぶ。ただ、この部分については、本書でも指摘のある通り、年々教科書も進化しているため、当たり前と言えば当たり前である。歴史研究家たちが議論や検証を重ね、より厳密に資料・史料に基づいた記述を心がけられてるため、事実に近いものにはなっているのだろう。ただ、それが100%正しいかと言われると、答えはノーだろう。あくまで公式であり多くの国民がベースとして覚えるものではあるが、公式だからと言って全てが事実ではない。

その一方で本書や本書で指摘される題材になっている「日本国紀」は非公式である。書籍はもちろん、youtube等で挙げられてるノウハウ系の動画等も同じ分類として考えられる。これは教科書の様に義務教育で目を通す公式とは違い、興味のある人だけが触れる領域である。であるが故に、著者の考えを強く反映してしまう恐れもある。それが誤った情報や主観による認識でも事実として受け取ってしまう人が現れる。本書の著者、浮世氏もその部分を問題視している様に感じる。それはP446から続く番外篇6からそう考えられる。これまで「日本国紀」に対する鋭いツッコミを客観的な資料・史料に基づいて行ってきているわけだが、特にこの番外篇6では辛辣に感じる。『(P448)教科書の限界、問題点があることは確かですが、思いつきや陰謀論、都合のいい史料の一部のつまみ食いだけで反論・批判するほうが、はるかに問題です。』と、ここまで書いている。あとがきにも『(P480)昨今の書籍やネット上には、「歴史」といっても俗説やデマやヘイトまがいの話が溢れてしまっています。歴史教育にたずさわる一人として、とてもこのまま見逃せないな、と思い続けてきました。『日本国紀』という本はある意味、それを集約してくれました。』と記述している様に、主観的な認識が広まることを問題視している様子がうかがえる。
本書を読んで、私も認識と事実の区別をし、物事を考える癖をつけなければと思った。