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第127回目(2021年11月)の課題本


11月課題図書

 

山口 周 の ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式

 

今の時代は、問いや問題に対する正解を見つけることは難しくなくなったので、正解を出

すことに価値はなく、むしろ何が問題なのかを定義することができる人に価値があるとい

うんですね。そしてそれは論理の積み重ねではなく、ある種の直感が必要になる。つまり

行き過ぎた科学原理主義の揺り戻しが既に起こっているというわけです。

 

そうなると戦い方や、人生に対する戦略がガラッと変わるわけで、これが本当なら地殻変

動くらいのインパクトがあるはずなんですよね。その意味で非常に考えさせられました。

 

 【しょ~おんコメント】

11月優秀賞

 

投稿者さんからの推薦を受けた方は以下の通りです。

 

LifeCanBeRichさんが3票、BruceLeeさんが3票、sarusuberi49さんが2票、mabelさん、mks

e22さん、eiyouhokyuさん、akiko3さん、masa3843さんが各1票でした。

 

この推薦を受けた方の投稿を何度か読みまして、今回は僅差でmabelさんに差し上げるこ

とにしました。おめでとうございます。

【頂いたコメント】

投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、過去に求められていた評価や価値観が社会の変化とともに変わって来ており、その変化を受け入れて対応する力が必要になるという事を改めて感じました。

特に重要だと思ったのは、提示されている問題を解くのではなく、間違っている所、修正が必要なところは何処なのか、発見する力が今後は必要になるというところです。

今までは、仕事や学校では与えられた問題や、課題を受動的に解決していき正解を導き出す、期待された課題を達成する事で評価をされてきましたが、今後は能動的に自分自身で問題点を発見する視点が必要になります。

大勢の人が同じ問題を解決するのではなく、大勢の人達が持つ多様な視点があるからこそ、独自の観点から問題点を探し出し、それぞれが課題に取り組んでいく事で評価されていきます。

さらに、他者の意見を聞き、自分と異なる他者にも耳を傾けて、異文化からも新しい学びを得る受容力と、過去の学びに固執しない考え方をリセットする力も必要になります。

同じ考え方に固執し続けるのではなく、自身の考え方を他の人へも話し、様々な意見や考え方を聞いて、自分自身の思考を変化していかなければ、周囲の変化に対応する事はできなくなります。

そして、話す人の立場に関係なく、意見をいう人を大事にするという事は、自分の考え方だけで進めていく事はしないという事です。

自分の考えだけで行動してしまえば、独断先行して仕事や課題を進めていくだけになり、広くどのような意見にも耳を傾けなければ、固執した意見を持ち続けて、変化を受け入れない人になってしまいます。

自分の見つけた問題点も重視しながら、他の人の意見も聞く両方の性質を使い分ける、変化に対応できる人が必要なのです。

このような二つの力の対比は、論理と直観の使い分けにも用いられます。役に経つという方面でパフォーマンスを高めたいなら、主軸となるのは論理的な考え方です。

一方、意味がある方向でパフォーマンスを高めたいのであれば、センスに代表される直観的な考え方が主軸になります。

問題に応じて主軸になる考え方を変えていく事が出来るのも、問題点を探すという最初に考える視点が今までと異なっているからです。

変化を受け入れ、変わる事が当たり前だ、という事を受け入れない限りは、このような複数の背選択肢があると思えなくなってしまいます。

変化に対応できるとは、選択肢を広げるという事です。どのような変化が未来に起きたとしても、それに対処できるだけの方法や、やり方を問題点の発見から行えるという事です。

社会の変化と共に、仕事の進め方や方法は変わっていきます。自分は周囲とは変わっていると思っていても、実際は周囲と同じような事をしている、という事はよくあります。

それを無くすためにも、周囲の人達と常に比較するという事を行っていく事で、自身の思考の矛盾や行動は是正されます。その為、人の意見を聞くという事が必要になります。聞いて耳が痛い意見こそ、自身の考え方を改め、新しい視点で物事を考える気づきの意見となる事もあります

新しい変化を受け入れていくためにも、常に他人との比較を行い、自分の考え方を新しいものに変えていくようにします。
 
投稿者 mkse22 日時 
ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式を読んで

「問題を解くより発見することに価値がある」
これをビジネス書で読むとは思っていなかった。

なぜなら、これは研究の世界でのみ当てはまる話だと思っていたからだ。
研究の世界では「問題を見つけるのが1流、解くのが2流」と言われており、
問題がみつかれば、それを解決するために新しい分野が開拓されていく。
そのなかでもインパクトのある分野を切り開いた人にはノーベル賞が
与えられるといった感じだ。

この考え方がビジネスの世界でも当てはまるようになると、
これからのビジネス環境はとても厳しい状況になるかもと感じてしまった。

なぜなら、解決すべき適切な問題を見つけることがとても困難だからだ。
具体的な困難の理由は以下の通り。
(1)そもそも問題を見つける能力がない(問題を見つけられない)
(2)見つけた問題が共感を得られない(見つけた問題が不適切)
(3)見つけた問題が実は解決済みである(問題ではない)

まず(1)について。
本書では、問題発見を「自分なりのあるべき理想像と目の前の現実を比較して、
そのズレを見出すこと」、問題解決を「ズレの解消」を定義している。

ここで、気になるのは、自分なりのあるべき理想像を持っていることが
問題発見の前提となっていることだ。
これは逆に言えば、あるべき理想像を持っていなければ、
そもそも問題を見つけることすらできないということを意味する。

この理想像を持つということが、現在日本においては意外とハードルが高い。
なぜなら、今の生活に満足している人が多い気がするからだ。

周りを見れば、安く品質のよいもので溢れかえっている。
例えば、吉野家の牛丼やユニクロの服、格安スマホなど。
これらを利用すれば、一定の生活水準を保ちながらも、生活コストを相当下げることができる。
格安スマホがあれば無料のエンターテインメントを大量に楽しむことができるので、
土日はこれでつぶしてしまう人もいるだろう。

今の生活に満足していたら、現実と理想のズレがないため、
あるべき理想像をもつことは難しい。

次に(2)について。
もし、あるべき理想像を持つことができたとしても、次に問題となるのは
その理想像が関係者全員の目指すべきものであるか否かいう点だ。

良い例は、私欲から生じた理想像だ。
例えば、「私の年収は現在500万だが理想は1000万だ」と考えたとする。
私の家族だったら年収1000万を理想像としてとらえ、現実との差を問題として共感してくれるかもしれない。
しかし、他人は私の年収が1000万であることが理想像というわけではないので、
そもそも問題と見做してくれないかもしれないし、仮に問題と見做してくれたとしても
解決のために私に協力してくれる理由はない。

従って、他人から共感を得られる問題を見つけるためには、私欲を超えた会社レベルや国レベルでの理想像が必要となる。
例えば、本書にあるピーチ・アビエーションのように、会社の理念として「世界平和」を掲げる必要があるわけだ。

最後に(3)について。
もし、他人と一緒に解決すべき問題を見つけたとしても、視点を変えれば、
その問題は実はすでに解決済みの可能性がある。

例えば、私のいるSI業界では、仕事のやり方として、協力会社と一緒に数名でチームを組んで顧客先に常駐し、システムの開発や保守作業を行うのが一般的だ。その際に、問題となるのが、参画メンバーのスキルと単価だ。、高スキルを望むと高単価となるため、これをうまく調整して、単価を抑えつつも一定の作業品質を担保する必要がある。

以前はこの単価と作業品質の調整が問題であり、重要な仕事だったが、今はクラウド技術の導入が進んだおかげで、構築や保守が自動化されてしまい、必要なチームメンバー数が減少したため、以前ほど調整が必要ではなくなってしまった。

単価と作業品質の調整という問題が、クラウド技術導入により、かなり解消されてしまったわけだ。ただ、別の問題(クラウド技術に通じた技術者の不足)は発生しているが。

なお、クラウド技術導入の当初は、導入推進派と反対派でもめていたことを覚えている。
これまで通りのメンバー数でチームを構成したいベンダーが導入反対派にいたような感じだった。

このように、視点を変える(新技術を導入)ことで問題が解決する可能性があり
実は問題ではなかったということも起こりえる。

こう考えると、問題発見はとても困難のように思えてしまう。
しかし、だからと言って、問題を探すことから逃げると、ビジネスマンとしての未来がない。
だからこそ、私たちも研究者も同様に自分の人生を賭けてもよいような
自分だけの問題を追い求めなければいけないのかなと思ってしまった。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 akiyoo5 日時 
 本書を読んで、気になったキーワード、『小さなリーダーシップ』、『意味がある』こと、『役に立つ』ことの3つについて考えたことをまとめた。

・『小さなリーダーシップ』
 『「自分には権限がないので」ということを口にする中間管理職がよくいるのですが、ではその人は権限を手に入れたら何か始めるのでしょうか?』にドキッとした。自分自身、逃げたいところでつい口にしてしまう言葉であり、また周りでもよく聞く言葉だ。自分には周りを変える力がないと潜在的に思っているから出てくる言葉の可能性がある。しかし、過去の歴史を紐解くと、大きな権限をもっていないのにリーダーシップを発揮し、世の中に変化を起こした人たちがいる。著書に書かれているキング牧師や、人類初の動力飛行を成功させたライト兄弟だ。他にも同じことを考えていたその他大勢の中で、なぜ彼らだけが特別な人になったのか?この疑問の答えは、著書にある通り、自分自身の夢を語り続け、自分たちの行動に意味を与えたということだろう。彼らは、著書が表現している『小さいリーダーシップ』を発揮し、周囲の人を動かし、世の中を変える大きな変化につなげたのだ。キング牧師がいた時代、黒人の多くは苦しんでいた。その中でキング牧師は”I have a dream”と自分の夢を語り、黒人、白人関係なく多くの人たちを動かし変化を起こした。ライト兄弟は、当時のライバルと比べ、ヒト、モノ、カネが足りない中、夢を熱心に語り続けた結果、周囲を巻き込み、偉業を成し遂げた。自分には権限がないと言い訳し、上司からの指示命令に従い実直にこなすのではなく、自分がやっていることに意味を与え、周りに理想を示し続けることが、これからの時代、大切になると気づかされた。

・『意味がある』に価値がある
 これからの時代は『役に立つ』より『意味がある』ものに価値があると著書では述べている。ビジョン持ち、これまでのラインナップを捨て、自分が欲しいと思う椅子を製作することに舵取りを変えたマルニから、私はバルミューダのトースターを思い出した。パンしか焼けないのに高額なトースターに販売当初、見向きもしなかった。しかし、ある時ホテルの朝食ビュフェでこのトースターに出会った。パン自体が美味しかったが、トースト前後で味を比較すると、トースト後のパンは、そのおいしさがさらに際立っていた。この体験ののち、同社のホームページをみた。そこには、なぜこのトースターを製作したのかを代表取締役社長自身の体験をもとに語った開発ストーリーがあり、そこで社長が感じた感動とホテルで食べたトーストの自分自身の感動が合わさり、すぐにファンになってしまった。こうなると、多機能なトースターや安価なトースターが気にならなくなり、バルミューダを買うことしか考えられなくなった。私自身の体験だけになるが、意味が与えられた製品は、価格や機能といった項目で比較されることなく、それが欲しいから買うといった自分の判断軸で購入を決めると感じる。これが著書のいう価格や機能といった『役に立つ』より自分がファンになったなどの『意味がある』ものに価値があるということだと考えた。

・『役に立つ』では生きられない
 著書では『役に立つ』ものの領域では相対評価が起こりやすく、長期的には市場に生き残れるのは一社だけと説いている。検索エンジンサービスは現状多数あるが、この市場はグーグルが独占的だ。『役に立つ』だけでは相対評価が起きてしまい、一番にならなければ勝てないことを意味する。この考えは、自分自身に置き換えることが出来る。これまで会社に『役に立つ』もの、つまりスキルだけを身につけてきた。これでは、相対評価が起こりやすく、その業界で一番にならなければ生き残れない。正直、スキルのみを身につけることの延長線上には、これからの時代を生き抜く方策は少ないと気づいた。マルニの椅子やバルミューダのように競合がいても、高い価値を示せる『意味がある』存在になる必要がある。自分の行動に意味を与え続け、小さなリーダーシップを発揮し、競争相手がいても高い価値を示せる存在にならなければ、この時代を生き抜くことが困難になることを著書から理解した。では、どうしたら良いのか?正直言いうと、その肝心の答えを見つけられていない。その答えを得るには、著者がいう『新しいことをして、大量に行動する』以外になく、これの言葉通りに行動し、自分なりの新しい人生の在り方を見つけていくしかない。

 自分自身が『役に立つ』存在であったことに気づき、『意味がある』存在にどうしたらなれるのか?を考えるきっかけとなった本となった。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「投資家目線で考えてみる」

そもそも論だが、何で正解が必要なのだろう?それは、かつて人生やビジネスでの成功に必要な要素だったからだろう。人が何事かを成し遂げたい!と思ったらまず金と時間という投資が必要だ。そして失敗せずに最小金額、最短時間で最大の成功を収めたい、と思うのが人の本音ではないか。故に事前に確度の高い計画(=正解)を求めるのだ。それはビジネスも同じで基本は投資=>回収だから投資するに値する信頼性の高い正解(成功確度の高いビジネスプラン)が無いと、会社上層部(或いはスタートアップ企業におけるエンジェル)は、投資に踏み切れないのだ。誰も無駄な投資はしたくないのだから。が、本書にはこうある。

「現在のように複雑で不透明なVUCAな世界にあって、予測の上に自分の身の振り方を考えようなどというのはオールドタイプのパラダイムでしかありません。ニュータイプは未来を構想し、構想した未来の実現のために意見を口にし、行動を起こすのです」

私がここで最も大事だと思うのは最後の「行動を起こす」だ。上記はつまり事前に正解を出すなんて無理!と言っている。だから開き直り、構想し、行動し、随時修正しながら前に進む姿勢が重要なのだ。故に思うのだが、本書の「オールド」の意味は昨今の「それって昭和だな~」的な、単に古い考えを指しているのではないと思う。ニュータイプは昔も存在したし、平成生まれのオールドタイプも存在すると思う。何故ならこれは考え方、姿勢の問題だからだ。私の解釈はニュータイプとは正解が無くても行動を起こす人であり、オールドタイプは正解が無いと行動を起こせない人である。が、オールドタイプは困惑するかもしれない。

え~、正解が無いのに勝手に進めてミスして怒られるの嫌なんですけど。明確な指示頂けますか?

確かにこのオールドタイプはミスしないかもしれない。が、ならばその仕事って他の人でも出来るんじゃない?つまり代替出来ちゃうんじゃない?そうではなく、ニュータイプには何が必要なのだろう?

「しかし、現在は『問題』そのものが希少になっているわけですから、ボトルネックは問題の『解決能力』ではなく『発見能力』に発生することになり、結果として問題解決者の価値が低減する一方で、問題発見者の価値が上昇することになります」

この問題発見者って何だろう?私が考えるにそれも「行動を起こす」人だと思う。「計画的な行き当たりばったり」でも良いから歩き出せる人。例えば初めての地に降り立ったとしよう。まず歩を進めなければ、どれが安全な路なのか、引き返すべき悪路なのかは分から無いではないか。ニュータイプとは行動を起こす事でいち早くGoodにもBadにも気付ける人だと思う。あの路はBadだと分かれば他の路に進むという決断が出来る。それを繰り返せば最後は安全な路に出会えるかもしれない。逆にオールドタイプは進むべき正しい道(正解)が分からないから止まったまま。本書に「クソ仕事」が出てくるが、そのクソ仕事も何も考えずに言われるがままタラタラ進めるのと「もう少し○○したら効率化できんじゃね?」と考えながら進めるのでは結果は大きく異なる筈だ。そして周囲からその○○に賛同が得られるのなら、それはそのまま現状の問題点を発見し、○○という改善点を発見した問題発見者となるのではないか?

過去のメルマガでコピーを取るような単純な仕事にも改善点を見つけ工夫次第で面白くなる、面白くする、というエピソードが書かれていたと思うが、まさにそれだと思う。たとえクソ仕事でも「もっと○○できない?」と考える事で問題意識となるし、その改善を実現する事自体が目標となり、その達成自体も喜びとなるのではなかろうか?それって必ず誰かが見てる気がするのだが。。。

幸いなことに(?)どんな会社もパーフェクトではない。つまり何らかの問題点は常にある。嫌な仕事、クソ仕事もあるだろう。そして重要なのは、その問題点に気付けるのは実は当事者だけなのだ。つまり逆説的だが快適で何も問題を感じない環境で働いてる人より、問題ある状況で働いている人の方が問題発見者になり得るのではないか?その意味では複数回のキャリアチェンジを余儀なくされる今の時代こそ、実はチャンスなのではなかろうか?そう捉えらるのがニュータイプ、そんな不安定は怖い、と委縮するのがオールドタイプ、と思うのだが、どうだろう?

さて、投資家目線で眺めた場合、オールドタイプとニュータイプ、どちらに魅力を感じるだろう?誰も無駄な投資はしたくない。ならば「ヒト・モノ・金のうち、ヒトにだけあってモノとカネにはない最大の特徴は、その『可変性』」とあるように、最後はその人に感じるものがあるか否か?ではなかろうか。私の考えは「行動を起こす人」である。そういう人って、たとえミスしても見てるだけで面白かったりするから~

以上
投稿者 daniel3 日時 
 本書で述べられているメガトレンドのいくつかは既に数年前から話題となっており、本書を読まれた方であればご存じの方も多いと思います。しかし、VUCA化する社会や、スケールメリットの消失などと並べられても、「さて何から始めれば良いのだろうか?」と途方に暮れた方もいらっしゃったのではないでしょうか。私自身も最初に読んだ時は、そのような思いが強かったです。現在、ビジネスで重要なKPI管理や生産性向上、綿密な計画といったものの価値がなくなると言われているのですから。特にこれまで真剣にビジネスに向き合ってきた方ほど、本書のオールドタイプに当てはまっているのかもしれません。

 本書では幅広いテーマを扱っており、どこから取り組むべきか難しいところのある本でしたが、第6章のニュータイプのキャリア戦略は、キャリアという個人に関する事柄を扱っており、比較的取り組みやすいのではないかと思いました。その中で私が考えたのは以下の2点です。
 (1)マーケターや投資家のように生きる。
 (2)お友達は大切にしましょう。

 第6章の冒頭で、「何が良いかは試さないとわからない」と説かれており、大量に試し、上手くいったものを残すことの大切さを説いています。その理由として、変化が激しく、私たちを取り巻く事物とその関係性が、新しいものに日々移り変わっていくからと説明されています。理由は若干異なりますが、最近実践しながら学んでいるウェブマーケティングでも試すことを重要視しています。その理由として、調査した結果顧客ニーズはありそうだけど、100%の確信がないため、いきなり詳細を詰めて最終商品化するにはリスクがあります。そこで、いくつかプロトタイプを作り、顧客の反応を見ながら、高評価のものを残してブラッシュアップしていき、最終版へと仕上げていきます。不確定な状況で試行錯誤しながら仕上げていくスタイルの類似性から、マーケターとしての視点は、ニュータイプとして生き残っていく人々に求められるのではないかと思いました。
 また先行きが不透明であり、変化を予測することができない時代において、何かひとつだけに重点を置いて取り組むことはリスクが大きくなります。このような状況は金融投資の分野においても言え、有名な格言「卵はひとつのかごに盛ってはならない」にもつながるものがあります。しかしいざ自身のキャリアについて置き換えてみると、安定した大企業で定年まで働き、退職金を得て年金を頼りに生活していきたいと考える人も少なからずいると思います。ただ、仮に一部上場企業に勤めていたとしても、投資の定石に照らして考えれば、リスクヘッジができていない生き方と言えるでしょう。前提が変わってきたのであれば、これからは投資家のようなキャリア形成の視点が必要です。つまり安定した大企業に勤めるよりも、複数の収入源の確保や、どこでも働けるようなポータブルスキルの重要性がますます高まっていくのだろうと改めて思いました。ここまでが、1点目の「マーケターや投資家のように生きる」と考えた根拠です。

 上記まででは、個人のキャリアについて主に考えてきましたが、個人のキャリアとは金融資本に対して、人的資本と言えると思います。そして橘玲氏の「幸福の資本論」によれば、資本には「社会資本」もあるとのことです。社会資本とは人とのつながりを資本ととらえた考えのことですが、私たちは、金融資本、人的資本に比べて社会資本を軽視する傾向があると思います(そもそもそ資本として認識している人が多くない)。しかしリスクヘッジの考えを推し進めるならば、この軽視しがちな社会資本についても改めて考えるべきであると思います。特に社会資本を意識していない人にとっては、親族や会社以外とのつながりを意識的に増やそうとしている人は少ないのではないでしょうか。しかし、社会資本の分散投資の観点からとらえれば、メインの仕事や家庭と関係がない人たちとのつながりこそが重要です。そしてそれは、本書でも述べられている「偶発性」を戦略的に取り入れるというところにもつながってくるのではないかと思います。日常生活には関係のない、同じ趣向を持った人とのつながり、例えばS塾のようなつながりが、ふとしたきっかけから自分を助けてくれるパルプンテの役割を果たすことになるかもしれません。つまり「お友達を大切にしましょう」と幼稚園で教えてもらったことは、VUCA化する社会で生き残っていくためにも、重要な考えではないかと思いました。
 
投稿者 vastos2000 日時 
本書を読み、改めて時代は転換期を迎えていると感じました。オールドタイプとニュータイプを比較してあることで理解が進みました。ここしばらく、目の前の仕事に追われ、変化に対するアンテナの感度が鈍っていたようです。
そして、もう一つ感じたことは、過去の課題図書のいくつか(『世界のエリートはなぜ~』、『革命のファンファーレ』や『ティール組織』など)は表現や着目点は異なれども同じ方向を向いているということです。

本書では24の思考・行動様式においてオールドタイプトニュータイプの比較がされていますが、これらのうち印象に残ったのは、
「正解を探す」→「問題を探す」
「経験に頼る」→「学習能力に頼る」
という2つです。


私自身は今後の世界で活躍したいと思っており、加えて、私の子どもにもこれからの世界で活躍する人材になってほしいと思っています。
子どもに関しては、家庭内の教育と学校の教育の両方が重要であると考えています。
家庭内の教育は本書を参考に、子どもが自分で問いを立てられるよう働きかけることを心がけ、子どもに対する発言に注意していくつもりです。そして学校の教育ですが、少しずつですが新しい時代に対応すべく、変化が表れています。
文科省は、人工知能(AI)やIoTの進展を背景に社会構造は大きな転換期を迎えているとして、それに応じて求められる学力も変わり、学校教育も変化していかなければならないという方針を打ち出しました。
2020年度からの新しい学習指導要領では学力の3要素(「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「主体的に学習に取り組む態度」)を伸ばすことを狙っています。
この流れのなかで、昨年度ニュースで取り上げられる機会が多かった共通試験の話が出てきます。具体的には英語の民間検定(英検やTOEIC)の導入や記述式問題の一部導入ですが、採点や公平性の観点から頓挫しました。
この騒動に対する私の考えは、「やり方と手段はまずかったけど、目的は良いんじゃないの」というものです。今回のやり方はまずかったし、国民の過半数(オールドタイプ?)の感覚では、一点刻みの「公平な」入試が受け入れられやすいと思います。知識(暗記量やパターン認識能力)を問う試験は点数がつけやすいので、受験生が何千人、何万人となる試験では有用な方式でしょう。
しかし、今後は子どもの数が減っていく(=受験者数が減っていく)ことは確実ですので、実施方法や試験方式をしっかりと考えて、学力の3要素のうちニュータイプの時代に必要になると私が考える「思考力・判断力・表現力」を判定する入試制度になると良いと考えています。

大学入試の実態はどうかと言うと、2021年時点で、主に知識を問う筆記試験から、だんだんと思考力や表現力も問う推薦型入試や総合型選抜と呼ばれる入試(旧AO入試)の合格定員枠が増えています。
東大でも推薦型入試、総合型選抜が導入されニュースになりましたが、国内の大学全体では従来からあった一般入試(筆記試験)での入学者数は約50%までに下がっています(残りの約50%は推薦や総合選抜での入学)。
知識が問われる入試形式から思考力や表現力が問われる入試に形式に少しずつですがシフトしています。


暗記している知識をどれだけ仕事で活かせているかを私自身の状況で見てみると、今の仕事は経理・会計・財務が中心で、次年度予算立案時に事業計画も加わってくるといった内容です。ベースになる簿記の知識や財務諸表の知識は頭の中に入っていますが、勘定科目の選択や税金計算の方法、エクセルの関数、他社(他校)の事業計画の例など、ネット検索無しにはやっていけない状態です。
社会人になってから本格的にPCを使うようになった私でもこのような状態であるので、物心ついたときにはスマホやPCが身近なところにあった子ども(小学生)は、計算を早くできるようになることや漢字を覚えることの意味が見出しにくいと感じます。
親の立場として、中学レベルまでの国語と算数(数学)は、私の子ども時代と同じように身につけてほしいと思っていますが、もしかしたら、正確な漢字を書けなくても、素早く計算ができなくても困らない世の中になるかもしれません。(すでに漢字は手で書くよりもPCやスマホで“打つ”機会のほうが多くなっています)

漢字の正確性や計算はコンピュータや電卓に任せて、人間は別の部分に脳のリソースを割くべきかもしれません。「Garbage In, Garbage Out」という言葉がありますが、どのようなデータをコンピュータに入力するかは、いまのところ、人間の判断や感覚によって行われます。

本書を読み、世界の変化を実感しましたが、その変化が子どもの進路選択どのように影響するかについて大きな不安を抱いています。一部の中学・高校では、従来の知識詰め込み型、演算スピードアップ型のスタイルから脱していますが、高校教員(特に公立)はまだ一般入試(筆記試験)を重視する教員が多いと感じています。どのタイミングで勢力図が変わるかはわかりませんが、私自身も子どもも変化に対応できるような力を蓄える必要があると知らされた一冊でした。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、独立研究家で著述家の山口周氏が、VUCA時代を生き抜くためのニュータイプの思考・行動様式について、解説した本である。私が、本書を読んで深く考えさせられたテーマは、「クソ仕事の蔓延」である。というのも、私自身が日々仕事をする中でも、組織の中には「本当に意味があるのだろうか?」と疑問に思う業務で溢れているからだ。私は、1,000人規模の公務組織で働いているが、「この仕事をやらなくても、大勢に影響はないのではないか?」と思うことが、1日に1度や2度ではないのだ。あらゆる仕事は、10年前、20年前と比べて劇的に生産性が向上したはずだ。ワープロがなかった時代には、公文書も手書きで作成していたという。そんな時代と比べれば、パソコンや各種ソフトウェア、システム等の活用で圧倒的な効率化が図られている。それでも、人々の労働時間は変わらない。なぜこうした事態が起こっているのか、私は長年疑問に思ってきた。本稿では、「クソ仕事」の正体に迫りながら、「クソ仕事」を生み出さないビジネスマンになるためのヒントについて、考察する。

まず、「クソ仕事」の定義をしてみたい。「クソ仕事」とは、簡単に言えば無「意味」な仕事のことだ。本書の中でも、仕事に「意味」を持たせることの重要性については繰り返し触れられているが、分かりやすいのはP128で説明されているドフトエフスキーが挙げた例だ。それは、「バケツの水を他のバケツに移し、終わったらまた元のバケツに戻す」というもので、このような「全く意味を感じることのできない仕事」こそが「最も過酷な強制労働」だとドフトエフスキーは言う。また、本書のP215に載っている探検家アムンセンと軍人スコットによる南極点到達レースの例も、参考になる。この例は、南極点到達という仕事内容が同じ場合でも、その仕事にどういった「意味」を付与するかによって、全く異なる成果が生まれることを教えてくれる。南極点到達という偉業も、明確な「意味」を持たせることができなければ、過酷な「クソ仕事」になり得るのだ。

では、こうした「クソ仕事」が増える要因は何であろうか。表面的には、組織において一度始めた仕事をやめることが難しいという現実が挙げられる。人間には、サンクコストバイアスがあるからだ。サンクコストとは、既に支払ってしまい、その後どのように改善しても取り返せないコストのことである。そしてサンクコストバイアスとは、すでにお金や労力、時間を支払ってしまったという理由だけで、非合理な判断をしてしまう心理的傾向のことだ。つまり、時代の変化によって「意味」がなくなった仕事であっても、それまで当該の仕事にかけてきた労力や費用が無駄になることを恐れて、やめるという合理的な判断ができなくなってしまうのである。

ただ、私が考えた「クソ仕事」が増える真因は、別にある。私の仮説は、自分達の価値が失われることを恐れたオールドタイプが、無意識に「クソ仕事」を作っている、というものだ。人工知能が安価で手に入るようになる中で、オールドタイプが得意とする「正解を出す力」の需給バランスが急速に崩れており、極端な過剰供給状態になっている。ところが、「構想」力のないオールドタイプには「意味」のある問題を作り出すことができない。そこで、無「意味」な「クソ仕事」を大量に生み出すことで、自分達の存在する理由を創り出しているのである。際限なくボタンの数が増えるテレビのリモコンも、その好例ではないだろうか。また、P80で著者が解釈したケインズの予測からも、同様のことが言える。生産性の向上によって1日3時間労働が実現すると、余暇に耐えられない多くのオールドタイプによって、余った時間を埋め合わせるための「クソ仕事」が生み出されるというのだ。ここからも、オールドタイプが能動的に「クソ仕事」を作っていることが分かる。

それでは、こうしたオールドタイプの暴走を止める術はあるのだろうか。本書の中では、「多くの人がどんどん逃げる」ことが、「クソ仕事」を生み出す経営者や管理職を駆逐し、社会全体の健全性を高めることにつながると説明されている。著者の言うことも一理ある。しかしながら、私も含めた世の中の大半の人がオールドタイプであることを想定すると、片手落ちであると言わざるを得ない。逃げた先でも、「クソ仕事」が量産され続けることになるからだ。そうであるならば、やはり自分自身が仕事に「意味」を付与できる存在たらねばなるまい。そのカギを握るのは、やはり「構想力」であろう。高邁な理想を掲げ、目の前の仕事を、理想につながる道程の途中であると認識すること。そして、それを自分だけの「妄想」に終わらせることなく、周囲の人間も共感できる「構想」に昇華させること。無意識に「クソ仕事」を量産し続けるオールドタイプが、問題意識として強く持ち続けなければいけない視点だと思う。

今月も素晴らしい本をご紹介くださり、ありがとうございました。
 
投稿者 str 日時 
ニュータイプの時代

便利な仕組み。便利なモノ。そういった“便利さ“が過剰になってきている今の世の中では、問題を探すことそのものの方が難しくなってくる。かつては”問題解決能力”に長けた人こそが重宝されていた時代から、そもそも問題自体が解決され尽くしてしまったような現代では、新たな問題を見つける“問題発見能力”に長けた人の方が重宝される傾向にあり、そういった人々が『ニュータイプ』と呼ばれる存在なのだという。

これまでの“問題解決能力”に長けたオールドタイプは、正解を探し当てるという点については優れていたのだろう。結果として所謂“流行りモノ”や“最新”に分類されるモノに関しては、どれも機能性やデザインが似通った傾向になりがちだ。勿論、それらの恩恵を存分に受けている立場からすれば、否定をするつもりは一切ない。それがその時代のニーズに沿った“正解“であり、同質化してしまうのも致し方ないと思えるからだ。

しかし、そうして流行りモノに乗っかる形で次々と参入があれば、ありふれたモノによって飽和してしまう時期が訪れるのだろう。「未来はどうなるか」ではなく「未来はこうあるべきだ」「自分はこうしたい」と考える人が出てこなければ同種の企業は平行線を辿ることとなる。

生きていく上で、他者と同調していくことの方が楽ではあるのだろう。多少不便に感じたり、気に入らないこと、やりたいことがあったとしても、波風立てるよりは従順に過ごすことの方が、精神衛生上にも良いと考える人の方が多いのではないか。何かの切っ掛けでバズったり、評価される機会に恵まれなければ浮いた存在となり、異端者のような扱いを受けることにもなるだろう。

しかし、そんな希少性の高いニュータイプの人たちがこれからの時代に必要とされるということは、同調意識を持ちながらも、そういった存在がもたらす何かに期待しているのかもしれない。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“分かったつもりにならない”

本書は新時代を生き抜くための指南書である。今後、価値を失うオールドタイプと価値を増やすニュータイプの思考・行動様式の対比は殊のほか刺激的であった。特に目から鱗だったのは、オールドタイプが「『容易にわかる』ことで新しい発見を見失っている」ことについて書かれた箇所である。著者は、我々はオールドタイプの思考方法である「『要するに○○だ』とパターン認識し、自分の過去のデータと照合すること」を戒めるべきだと言う。なぜなら、変化が激しく、複雑で、曖昧で過去の延長線上にはない未来の訪れが多発するだろうVUCAの時代では、「要するに○○だ」は、既に古くて使い物にならない過去の解決方法を引っ張り出すおそれがあるからだ。これまで私は、物事を一般化してパターン認識することが有効的な思考方法だと信じて疑わず、「要するに○○だ」というまとめ方を意識的に使ってきた。それ故に、この点は省察するところであった。ただ、その点よりもいっそうと「『容易にわかる』ことで新しい発見を見失っている」について私が感じた大きな弊害は、更に一歩先に進むための新たなものの見方、世界観を拡大する機会を奪ってしまうということだ。つまり、「要するに○○だ」という分かったつもりになることは、思考が停止した状態とも言えるのだ。

本書の中で著者は、望まれる人材はその時代における社会の構造やテクノロジーによって規定されるとした上で、オールドタイプからニュータイプへのシフトを促す6つのメガトレンドがあると述べる。そして、それら6つのメガトレンドが炙り出すオールドタイプの問題点を探し見つけ出し、ニュータイプというあるべき姿を構想、提示している。これは、「問題を探す」、そして「構想する」というニュータイプの思考・行動様式を著者がそのまま実践し、本書を書いていると言える。ここで私が思ったのは、著者が読者に求めるのは何か?ということだ。まず私が考えたのは、読者はあるべき姿として提示されたニュータイプと読者自身の現状とのギャップを認識し、そのギャップを埋めるための行動をすることではないかということである。確かに、本書を通読すると私自身もオールドタイプ的な思考・行動様式を取っていることが多々あることに気づく。例えば、会社経営において、私は常日頃から生産性の向上について口酸っぱく言っている。が、このオールドタイプ的と言われる思考・行動様式だけでは、スタッフのモチベーションに負の影響を与えている可能性がある。ならば、著者が指摘するような遊びを盛り込むという発想も必要になってくるかもしれない。このように、自身のオールドタイプ的な部分を修正していけば、私もニュータイプになれるのかもしれない。がしかし、ここで改めて私が持った疑問は、本書の読者としてするべきことは本当にそれだけで良いのか?または、本書の内容を私は安易に分かったつもりになっているだけではないか?ということだ。

繰り返しになるが、本書は「問題を探し、見出し、提起する」というニュータイプの思考・行動様式がそのまま実践され書かれた問題提起本である。対して、私が考えた本書の読者に求められること、即ち、ニュータイプと読者自身の差分を認識し、埋めるというのは、単に本書の問題提起に対する解決方法を探しているだけとも言える。なぜならば、上述した「要するに○○だ」を使って「要するに理想とするニュータイプと現在の自身の差分を埋めればいいのだ」とは、巷によくある願望実現のパターンを採用し、結論づけているだけと言えなくもないからだ。つまり、私の思考・行動様式は、「問題が与えられるのを待ち、正解を探す」という何一つ問題を見出していないオールドタイプそのものだということである。であるならば、逆説的になるが本書の内容を理解し、実践するだけではニュータイプにはなれないとも言えるのではないかという疑問が生じる。更には、本書に書かれるニュータイプになるためには、その他にやるべきことがあるのではないか、そもそも、ニュータイプはあるべき姿なのか、という疑問も生じる。では改めて、読者に求められることとは何か?それは、本書の内容を無批判で受け入れて、分かったつもりになって思考停止になるのではなく、批判的に著者の主張に考察を加えることで本書の内容の理解を深め、更なる疑問や問題を探し、見出し、自身のあるべき姿を構想、提起することだと思うのだ。

本書を繰り返し読み、理解を深め、私が構想する新時代を生き抜く人材の理想像は、オールドタイプとニュータイプという2つの思考・行動様式を行ったり来たりするというものだ。なぜならば、著者の解説は、オールドタイプは無価値であるというスタンスに必要以上に偏りがちというか、自身の立場、立ち位置を考えたポジショントーク的な部分が随所にあると感じるからだ。例えば、物事の変化が激しく、複雑で、曖昧なVUCAの時代は「経験が無価値化」するが故に「経験に頼る」のではなく、「学習能力に頼る」と解説される箇所がある。著者は「経験に頼る」ことと「学習能力に頼る」ことを二項対立の様に解説する。が、ニュータイプに必要とされる直感力は蓄積した経験や知識があるからこそ養われるのではなかろうか。また、蓄積した経験や知識を時代の変化に照らし合わせて振り返り、アップデイトすることこそが重要ではなかろうか。よって、本書に書かれることを鵜呑みし、分かったつもりになり、思考停止になるのは危険だと思うのだ。だとすれば、著者のようにオールドタイプとニュータイプを二項対立にして、単にニュータイプを目指すのではなく、オールドタイプの有用さを取り入れる、柔軟に2つのタイプの思考・行動様式を行き来する、それが私の理想像なのである。

~終わり~
 
投稿者 Terucchi 日時 
次の時代はワクワクする意味を持った製品が造られるニュー・メイド・イン・ジャパンの時代の到来

この本を読んで、時代の変化に差し掛かっていることを目の当たりにした。今の私の仕事はメーカーで生産性をアップさせる業務である。生産性を上げるために、合理化やコストダウンを追い求めている。ここで、利益は、(利益)=(売上げ)-(コスト)と計算されるが、この不景気の中、売上げ増加が期待できないため、メーカーにおいてはコストダウンが必要となる。コストダウンをすれば、会社の利益となり、その利益が各人の給料となることは、当然と言えば当然である。しかし、時々、このコストダウンが行き過ぎているのではないか?と考えることが多々ある。何のために、コストダウンが必要なのか。そのような無理なコストダウンを行なって、意味があるのか。実際は目先のことばかり追い求めて、数字を合わせているのが実態である。日本の製造業はかつて大量生産によって、メイド・イン・ジャパンとして、安くて良い物で世界の中を生きてきた。しかし、今は物に溢れた時代となり、その意味を考えさせられる岐路に立っている。今回、この本を読んで、かつての成功体験である大量生産のやり方に固執することはオールドタイプであり、新しい時代の変化に付いて行けないということに納得させられた。

今、日本のメーカーでは、新しいものづくりを目指して、試行錯誤している。この本を読んで、私は自動車メーカーであるマツダのものづくりが非常に似ていることを思い出した。私は実際にそのセミナーに参加したことがあり、その中の話を取り上げてみたい。マツダでは過去に倒産の危機があった。バブルが弾けてからの1990年代及び2000年代前半は、いろんな策を投じるも、結果は良くなかった。内容は他のメーカーとの安さ合戦になっていた。コストダウンを追求し、無茶な安さや値引きによって疲弊していた。その中で、コストダウンが本来の自分たちが目指す先にあるものであるのか、本当に売りたいものだろうか、と疑問を持ち、気づいたのだった。そもそもメーカーで勤務する者にとっては、子供の頃や学生の若い頃に、車に憧れて、夢を持っていたはずが、会社に入ってみると、現実は夢とはかけ離れた状態であった。そのような中、このままではいけない、夢を提供するメーカーになろう、と立ち上がったのだった。マツダのキャッチフレーズである「Zoom-Zoom」という言葉はその時に生まれた(ズーム・ズーム:子供の時に感じた動くことへの感動。「ブーブー」というクルマの走行音を表す英語の子供言葉)。これを社員にわかってもらうために、イメージビデオを作って見せて、目指す目的を共有したとのことであった。そして、2010年に発売したCX-5でそれを実現した。妥協しない技術でスカイアクティブのエンジン、マツダらしい流線型のボディや、コストアップしても職人による高品質な塗装などに至る。流線型のボディは、日本らしい和を目指して、禅を意識してデザインしたものであるとのことである。マツダにとって、マツダらしさとは何か、お客様に売りたいものは何かと追求した結果が、この形なのだと話していた。もちろん、あれもこれも良いものにしようとなったら、高くなり過ぎてしまう。そのため、万人受けを狙わずにターゲットを絞り、何に力を注いで、何を諦めるか、マツダらしさとは何かの意味を明確にして取り組んだのだった。その後のマツダは黒字を取り戻しているだけでなく、マツダらしさの車がブランドとして次々と出されている。このマツダの例は、この本の中のマルニ木工と同じく、メーカーの目指すべきことが、とにかく安くではなく、「自分たちが何を作りたいか」の意味を考えることが大切であることを思わされた。

では、このようにどこの会社も上手くいくのであろうか。私は、できると考える。なぜなら、目指すかどうかであり、事実日本の会社は目指しつつあると考えるからだ。例えば、最近の会社のコマーシャルなども、ひと昔前の製品説明だけでなく、イメージ戦略をしている。単なるイメージかも知れないが、これが将来的には現実化に繋がっていくと考える。ところで、ひと昔前であれば、このようなイメージだけ言うことは「所詮、絵に描いた餅」と言われたであろう。確かに、それを現実化していくのは大変かも知れない。しかし、それを実現しようとしている世の中になりつつあるということを私は感じる。例えば、先のマツダのセミナーだけでなく、それ以外に最近の企業向けのセミナーは意味づけを考えさせるものが多く、参加者もどの企業も危機感を持って取り組んでいるからだ。そして、大きなものを造ろうとする場合、個人では限界があり、やはり企業でなければ造れず、企業が鍵になると考える。ここで、前向きに、もし今後そのような意味を持った製品があちこちで造られるような日本になったら、どうなるであろう、と想像してみる。もしそうなれば、生き残ったメーカーは、何を造っているだろう。そう考えると、何かワクワクするような日本になっているであろうと想像する。古き成功体験を捨てた新しい時代の日本のメーカーは、新しい意味を創造することも兼ね添えた「ニュー・メイド・イン・ジャパン」の世の中になっていることが想像でき、そのようになると私は信じるのである。今の私はその現実化を目指して会社生活を過ごし、試行錯誤しながら、その実現の途上を体験していきたいと思っている次第である。

最後に、今ちょうど時代が変化する真っ只中で、古き及び新しい、のどちらの時代も目の当たりにできることは、ある意味幸運であると考えます。今月も良書を紹介して頂き、ありがとうございました。
 
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投稿者 mabel 日時 
【漫然と経験を積むことへの危機感と今後の戦略】

本書は、今後の社会変化に伴って生じる望ましい人材要件の変化を論じたものである。

ここで論じられている変化がいつ訪れるかは不明である。しかし私は本書を読んで、今後のキャリアを主体的に見直していく必要があることを痛感した。キャリア戦略を持たず、漫然と職務経験を積んでいくならば、人材市場における自分の価値が目減りしていくことになりかねないからだ。

これまでは、豊富な職務経験が人材市場においてそのまま強みとなった。しかし、本書から、今後はそれが強みにならないばかりか、むしろ弱みになりかねないことが分かった。真面目な努力を積み重ねても、しかもそれがかつては正しいとされた『一所懸命』な方向の努力であっても、自分の人材市場における価値が下がるかもしれないということだ。これは、多くのビジネスパーソンがはまりかねない落とし穴ではなかろうか。

さらに、今後は年齢の若い人の方が価値創出適性が優れる傾向があるのではないか。本書にも『「大胆な直感」や「緻密な分析・論理」というのは、全般的に年齢の若い人の方が得意だということがわかっています。』とある。将来的には、学生から社会人になる時期の若手が最高の賃金をもらい、その後だんだん額が下がっていく逆年功序列も起こり得ると思った。しっかり職務をこなしていれば、年齢を重ねるごとに給料が上がっていくという考えは非常に危険と分かった。

そこで、本書から、これからのキャリア戦略、つまりキャリアを望ましい状態に持っていくために今から時間配分をどう変更するべきかを考察した。

まず望ましい状態とは何かを考えた。身に付けるべき能力は何か。本書では様々な角度からそれらが示唆されているが、私は『市場への貫通力』が大きい商品を作れる感性こそ、全ての能力の根幹ではないかと思った。感性こそが意味を生み、共感されるビジョンを生み、価値ある問いを生み、人のモチベーションを上げる根幹ではないか。一人のオピニオンから生まれた社会運動も、「それはおかしい」という一人の感性に、多くの人が共感したからこそ、大きなうねりへと発展したのだろう。

それでは、感性があるとは何か。それは「真・善・美」を具現化する能力がある、ということではないか。自分に内在する「真・善・美」が、世界のそれと一致した時、『市場への貫通力』の大きい商品やサービスとなって現れるのではなかろうか。マルニ木工の業績回復のきっかけは、「自社商品を自分が欲しいと思うか」という感性面での気づきがあったことだった。そして、有名デザイナーの協力も得られてできた椅子が、『デザインに関する目利きの厳しさで知られるアップルに大量採用され』た。一地方企業の商品がアップルに大量採用された理由は、この椅子に内在する「真・善・美」の世界観は世界レベルであり、それに対して同レベルの世界観を持つアップルが共感したからではないかと考えた。実際、この椅子の写真は、美しいと感じた。

そうだとすれば、望ましい状態とは、世界と共感できる「真・善・美」の世界観を自分の中に構築している状態、ということになる。この社会に「真・善・美」を表現できれば、『市場への貫通力』が大きい商品を生み出すことができる。あるいは、「真・善・美」と現状の差分から価値ある問いを発することができる。

この望ましい状態に持っていくために、多くの「真・善・美」に触れることに時間を配分したい。例えば、映画館や美術館で多くの芸術に触れたり、小説を読んで真なるものを探ったり、瞑想したりする。なお、瞑想することは、今日のビジネスシーンでも「マインドフルネス」としてパフォーマンス向上に効果的とされているが、もっと本質的なビジネススキルを磨くための方法として、見直される日が来るかもしれない。

これまでの自分は、職務において問題の答えを出すことに時間をかけてきた。その時間が経験となり、自分の資産になると信じていた。しかしこれからは、この時間を短縮し、上記のことに時間を割り当てたい。

最後に、自分の現職の性質もあって、明文化されたルールのない中でどう振る舞うべきかという問いにたびたび直面するが、ここでも「真・善・美」を拠り所にするという気づきを得られた。

良い本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
(1)時代の変化の考察
課題図書『ニュータイプ』が指摘する、20世紀後半から21世紀前半にかけての時代の変化の要所を、自分なりに再構成すると、次のようになる。

第一に、物と解決策の飽和である。日本は先進国となり、貧困に苦しむ人はほぼいなくなったが、平和で豊かな時代が実現されると「何のために頑張れば良いのか?」とゴールを見失い、生きる目的に悩む人々が多くなった。
また現代は「解決策過多の時代」である。例えば「ダイエット法」「子育ての方法」などの悩みの解決策を求めて本屋やネットで調べると、あらゆる情報であふれている。良い見方をすれば「安価(時には無料)で良質な情報が、簡単に手に入る恵まれた時代」、悪い見方をすると「情報過多で、どれを選べばよいか分からず、結局行動しない人の多い時代」。情報や解決策を、決断力と行動力のある人のみが使いこなせる時代とも言える。

第二に、寿命伸長とVUCA化によるスケールメリットの消失である。1980年代までは「大企業に長く勤めれば、将来安泰」の価値観がスタンダードであった。しかし、IT化を始め新しい科学技術が次々と開発され、時代が目まぐるしく変化する昨今、安泰な出世コースなど誰にも分からない先行き不透明な時代となった。一方、従来のビジネスが「大衆受けする無難なサービス」を王道とし、トップ以外は負け組とみなされたのに対し、マスメディアが大衆向けのテレビや新聞からSNSに変化したことで、「少人数に必要とされるニッチな商品サービス」も十分に勝ち残れる時代へとシフトした。大勢の顧客に売れるサービスは生き残るが、個性が見えにくい。逆に、少人数の固定ファンに必要とされる仕事は、規模は小さくとも立派な意味を持つ。意味を持つ仕事をして幸福感を高めた人が、顧客を幸せにするという好循環は、まさに智の道の体現である。現代は、ますます智の道を体現しやすい時代にシフトしていくと言える。

第三に、意味のない“クソ仕事”の蔓延である。上記の二つの変化には長所と短所の二面性があるが、第三の変化に関しては弊害しか見当たらない。なぜこのような仕事が蔓延するのか。
これまでの人類の歴史は「身を削り、時には自分を犠牲にして我慢し、苦労する=立派な生き方」という価値観の下に発展してきた。一日中、休む暇のない農林水産業、炭鉱、工場労働の仕事に従事してきた過去の人々を、私は立派だと思うし敬意を抱いている。だが豊かになり機械や道具が発達した今、歯を食いしばって仕事をする場面は消失したはずであろう。にもかかわらずクソ仕事が蔓延するのは、「自分も他者も、苦労をしなければならない。苦労しなければ尊敬される資格がない」という考えで自らを縛り、周囲に強要する者がいまだにいるからである。彼らが「自分の好きなことを仕事にして、経済的・精神的に豊かに暮らしている人達」に対して「快楽主義で根性がない。人生をナメている」と糾弾するのも、この理由によるだろう。


(2)ニュータイプ人類の時代を幸せに生きるために必要な考え方
従来の人々は、物を買う時「大企業/有名人が手掛けたサービスは、安心」という価値観で選んできた。だが物や情報があふれる現代、どれを選んでもそれなりに質が高く違いはない時代となった。では買う決め手は何かというと、最後は①売る人の人間力(魅力) ②運(縁と表現することもある)・・・という目に見えないものだと考える。人間力と運を高め、自分が幸福になりながら他者の幸せにも貢献するために、私達はどんな生き方をすれば良いだろうか。

(3)人間力と運を高める方法
これに関してヒントをくれたのは、メジャーリーグで活躍中の大谷翔平選手の言葉である。野球場でのゴミ拾いを習慣とする彼は、「ゴミを拾うことで、落ちていた運を拾っているんです」と自伝で語っている。この言葉から、「運は高い人格で高められる」と改めて認識した。人間力と運を高める方法には、次の2つがあると思う。

まず、自分の決めたルーティーンの継続である。日本語では共に「習慣」と呼ぶが、英語のhabitとroutineには明確な違いがある。habitが洗顔や歯磨きなど、何となくやるようになった習慣であるのに対し、routineは「自分のために決意して始めた習慣」を指す。このルーティーンを継続することは、自尊心を高め、自分を愛し認めることにつながる。これにより他者への余裕と思いやりが生まれ、人格が磨かれていくと考える。

第二に、芸術の趣味(仕事)を持つことである。芸術を鑑賞することは自分に向き合うことに等しい。何に魅力(時に嫌悪)を感じるかで、私達は自分の心の奥底の価値観に気づき、自らを客観的に見つめることができる。頭で考えた論理や世間の常識に流されず、自分が愛し信じるものに集中することを、芸術は助けてくれる。また、自らクリエイトした芸術作品は、他の誰にも意味を持たなくとも、自分には大きな意味を持つ。例えば私の場合、旅行中に工房で作った自分の陶器の茶碗で、ご飯を食べる度に幸福を感じる。あるいは、プロのミュージシャンではないものの、コンサートで自作曲のピアノ弾き語りをすることは、何にも変えられない幸福値を高めてくれる。人生は、どれだけ物を手に入れるかでなく、どれだけ表現し、幸せを他者とシェアしたかで決まると改めて感じている。


課題図書『ニュータイプの時代』から得た学びを一言で表現すると、「運は人間力で作る」に集約される。運は元からあるものでなく、自分で「運ぶ」から「運」と呼ぶのだろう。固定せず、新しい時代の変化を機敏に読み取りながら、自分の生き方を柔軟に見つめ直し、感謝を捧げながら、智の道を体現する人生を送りたいと決意を新たにした。
 
投稿者 msykmt 日時 
"「ありたい姿」を明確に描くことができない主体には、問題を定義することができない"

この本書の一文がグサリとささった。なぜささったのかというと、ぼんやりと日々感じていたことをピタリと言語化されたようだったからだ。では、どういうことを感じていたのか。それはこういうことだ。差し当たって今日を生きるのに大きな心配がないからこそ、一抹のものたりなさを感じながらも、このまま日常が繰り返されるのを是としているきらいが我々にはある。だから、自分の「ありたい姿」を明確に思い描いた上で、その理想と現実とのギャップを認識することで、そのギャップこそが解決するに値する問題であるのだと頭では理解しつつも、それに先立つ自分の「ありたい姿」を思い描くことを、ついつい日常に唯々諾々とかまけることによって、おろそかにしてしまうのだ、と。

では、このまま日常が繰り返されるのを是とせずに、自分の「ありたい姿」を思い描くことによって、なにが得られるのだろうか。その答えは、本書にあるとおり、なんのために私は生きているのか、という自分の人生に意味を見出すことにほかならない。それはどういうことか、本書にあるほかの言葉で言い換えると、「WHAT=なにをするために存在するのか」と「WHY=それはなぜ重要なのか」という二つが定義できれば意味がその創出できるとあるように、自分の「ありたい姿」を思い描くことができれば、自分がなにをするために存在するのか、そして、それはなぜ重要なのか、を定義できるようになる。すなわち、自分の人生に意味を見出だせるようになるのだ。人生に意味が見出だせれば幸福感が得られるということは、ニヒリストでないかぎり、疑いの余地がないだろう。

では、どうすれば、自分の「ありたい姿」を思い描くことができるのか。この自分の「ありたい姿」を思い描く、という行為自体は、それこそ年始にその年の豊富を立てるときに定期に行っていることではあるものの、そもそも豊富が自分の思い描いたほどスルスル出てこないのが実状だ。これは、本書が指摘するとおり、なんのために私は生きているのかという哲学的な問いを考える脳機能、すなわち本書で言うところの構想力が萎縮・退化していることの証左なのだろう。では、その構想力を取り戻すにどうしたらよいのか。その答えはリベラルアーツの造詣を深めることであると本書にはある。そのリベラルアーツには、疑うべき既存の価値観を比較相対化する力があるという。その力を用いて、いまそこにはないのだけれども、本来はあるべきものを構想できるようになるというわけだ。

では、どうすれば、リベラルアーツの造形を深めることができるのか。その手段としてもっとも費用対効果が高いのは、良書を読むこと、そして、その内容を自分の言葉でアウトプットすることだ。これはまさに、ここで課題図書の感想文を投稿し続けることによって実現できる。ふりかえってみると、ここでの投稿を私が続ける理由は、自分の言葉で意味のあることを発信できるようになる未来を構想したことによるものだった。だから、毎回苦しみながら書いている現状ではあるものの、いつか楽しく書けるときが来るという未来を構想しながら、この場での課題図書の投稿という知的格闘を我々は続けていかなければならないのだ。
 
投稿者 tarohei 日時 
 本書では、これまで有能とされ高く評価されてきたが、旧態依然とした思考と行動様式を持つ人材を「オールドタイプ」と呼び、直感的でわがままだが好奇心が強く、これからの時代に必要な新しい思考と行動様式を持つ人材を「ニュータイプ」と呼ぶ。そして今後はニュータイプと呼ばれる人材が大きな価値を生み、評価され求められる時代になると言う。
 この中で、ニュータイプの時代として最も重要な要素は、「意味」を見い出せるかだと感じた。これからは、機能や役割重視だったオールドタイプの時代は終わり、仕事や自分自身の思考・行動に意味を見い出し、意義が問われるのがニュータイプ時代だと感じたのである。

 いまの世の中は、技術革新が進み、我々の暮らしを豊かにする製品や役に立つ製品など、物が溢れ返っており、コモディティ化し、製品毎の差別化要因も少なくなってきており、さらに低価格化も進んでいる。そのような時代背景の中、付加価値を付けて高価格帯でも売れ上げを伸ばしている製品もある。例えば、高機能なトースターや炊飯器など高級調理家電、ベンツやポルシャなどの高級自動車、AppleのiPhoneなどである。これらに共通していることは意味があるということだと思う。
 商品における意味は開発ストーリーなどと言われるが、BALMUDAというトースターにも開発ストーリーがある。普通の家電メーカーのトースターなら数千円も出せばそこそこのものが買えるが、BALMUDAは2~5万円と他社メーカーのトースターと比較して約10倍の価格差がある。それでも売れている理由はなぜであろうか。そこには意味とストーリーがあるからだと思う。大雨の中でのバーベキュー大会、どしゃ降りの中でびしょびしょになって焼いたパンが旨いこと旨いこと、その秘密は雨で濡れたパン、適度な水分。その謎を解き明かして製品化したのがBALMUDAのトースターなのである。
 Apple製品は他社製品と比較して機能・性能が優れているかと言えばそうとも言い難い。それでもなぜ売れるかというと、熱狂的なApple信者がいるからに他ならない。Apple製品が持つ世界観やストーリーに惚れ込んでいるからに他ならないのである。国内メーカーで例えるとSONY信者も同じ類であろう。
 一つ一つ例を挙げればキリがないが、このように他社との激しい生存競争を勝ち抜く上では、「意味」は重要な価値を持つと思う。ニュータイプの時代、役に立つとか機能や性能で他社に優れているなどの指標での差別化はなんの意味も持たず、製品やメーカーによる意味付けやストーリーに価値が置かれる時代になってきたのだと思った。

 意味を見い出すことは、製品だけでなく仕事に対しても同じことが言えると思う。本書では、クソ仕事が蔓延していて、クソ仕事には意味はないという。重要なことは仕事の意味を見い出すことであり、それはやりがいにも繋がることでもある。要するに、仕事に意味を見出すことができれば、仕事に対するモチベーションを向上させることができるといえる。例えば、上司からの指示によって動く指示待ち型人間と目的意識を持ちモチベーションによって動いている人間では、どちらがより多くの成果を出せるかと言えば、答えは自ずと明らかであろう。
 これまでの経験のことを話すと、顧客向け提案資料を作成する場合、概ね資料が完成した段階で、フォントが微妙に違うとか、文体の体裁が整っていないなど資料の内容には直接関係のない細かい指摘をされる場合がある。その時、内容が分かりさえすればいいのに細かい体裁なんてなんの関係あるの?と思いながら、言われたままに資料を修正した場合と、資料の体裁が整っていないことが顧客からの信頼を失うことに繋がったり、きちんとした資料作成が継続的な活用や効果的な利用につながるかも、などと意味を見い出しながら資料を修正した場合を比べると、圧倒的に後者の方が結果を残せていたのである(おそらく前者がオールドタイプの思考法で、後者がニュータイプの思考法)。更に意味が見い出せていた場合、資料の細かい体裁とかを指摘されても、もっと効率的にきれいな資料を作成できるフォーマットを作ろうというようなアイディアも自然に浮かんだりしていたのである。
 このように、資料の体裁の修正など些細な業務と思われることでも、言い換えるとどんな仕事においてでも、そこに意味を見い出すことは、仕事の成果や価値を見い出す上でも自分自身の成長においても意義があることだと思う。こんなことやっても意味がないと考える前に、自ら意味付けをしたり、最初は手探りでもいいので意味を捉えようとしたりすること自体が、己の成長につながり、仕事上の成果を向上してくれるのだということを学べた。更に、言われるがままに取り組むのか、それをチャンスと捉えて意味を見い出して取り組むのかは自分自身の捉え方次第だと思っていたが、本書を読んでその裏付けを取ることができた。
 
 ニュータイプの時代に求められる人材像を「意味」を持つことに観点を当てて感想を述べた。コロナ禍でテレワーク勤務などに業務形態がシフトする中、これまでの価値観が変わってきていると感じる中、どんな視点を持っていれば良いのか、他にも思慮すべき多くの目指すべき道筋を与えてくれた。ニュータイプを目指して精進していきたい。
 
投稿者 3338 日時 
これからのビジネスマンに求められるもの

この本は「モノが過剰で、意味が希少な時代」に変わったにも関わらず、今までと同じやり方で仕事をするビジネスマンが多数存在しており、ニュータイプと呼ばれるやり方にシフトしなければ、生き残れないことを説いている。「モノが過剰で、意味が希少な時代」では、論理的な戦略が通用しないと説かれており、思考ややり方が論理的であることが、数々の弊害を生むことが、すでに分かっている。例を挙げれば

1差別化の喪失
2意思決定にかかる時間の長期化、あるいは膠着
3意味の市場における競争力の減退

これを防ぐには、論理に加え直感力が必要になるという。なぜ理論と直感なのか。

それは、論理的なアプローチと直感的なアプローチの、正反対と思われる二つのアプローチで、課題に取り組んでいくことが、課題の早期解決に繋がるからだ。なせならば、全く違うアプローチで常に二つの方向から、課題解決を模索することで、論理的に考えるだけでは見えないものが見えて来るからだ。これで論理が取りこぼしたことを直感が広い、直感が掴みきれないことを論理が補うことができる。

それにより、あまりに不安定で、不確実なことも多く、複雑で曖昧であるという4つの要素から、予測不可能であっても、直感という閃きがあれば、経営戦略は立てることができる。 

全ての直感が正しいとは言えないが、ある程度の確率で直感で閃いたものが、的を得ていることも多い。
そのため、直感力を鍛える必要がある。これについては「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」で解説されているが、例え失敗してもそこから学ぶものもがあれば、失敗とは呼ばれない。
また、p236から語られている様に、試してみなければ「良さ」は分からないし、成功の8割は偶然であるとも語られている。つまり、優れた経営者は運が良いということが語られている。ついでに、優れた経営者は賢者であり、人生を楽しむことができる器であるとも語られている。ここに至っては、経営者の素質も時代と共に変わり、直感力に優れた人でなければ生き残れないということになる。

経営者も経営戦略を磨くと共に、感性を磨くことと教養を身につけることを求められる時代になったということだろか。教養が品性を生み出し、全ての土台となる思考力に品性が加わり、市場で戦う際の戦略にも品性がものをいう時代になるのは、一般人にとっても喜ばしいことだと思う。

ここで浮かんできたのが、「成功曲線を描こう」で崇峻されていた成功者のイメージだった。ここではボトムアップとトップダウンを時に応じて使い分けることが、成功の秘訣と語られていた。これも二つの正反対のアプローチを時に応じて使い分け、その課題に対して最適な行動を取るための指針だと言える。少なくとも課題を解決するための正反対の二つのアプローチを考えることが前提となる。

ここでネックとなるのが、正反対のアプローチとなる。論理的であることと直感力に代表されるが、これはその課題に対して、ベクトルの違うアプローチを試みることに他ならない。例えば、資産を貯めたいときに、プラスの要素とマイナスの要素から資産の構築を考える様なものだ。プラスは収入を増やすことであり、マイナスは支出を減らすこととなる。意外にも、支出を10%抑えることができれば、10%で資産を運用するのと同じ効果が得られる。
経営者のセンスは問題解決のセンスであるならば、問題に対して解決策は多ければ多いほど早く解決する。どんな課題にや問題に対しても、一方からだけではなく、多角的な見方をして多くの解決策を見出す。または、常に反対から物事を見て、見落としている視点はないか模索する。素人の意見にも拾うべきところはありる。結局は、誰に対しても何に対しても、その中に解があるかもしれないという、謙虚さが一番必要なのではないかと考えた。
 
投稿者 akiko3 日時 
『平和ボケ日本』の弊害
著者が「積み上げ型の論理思考よりも、大胆な直感が大事」と書いているのを読み、東日本大震災の映像で忘れられない場面を思いだした。
その映像が映す遠くに、おしゃべりしながら歩いて避難所に向かっている一団があった。
その一団に向かって屋上に避難している人達が口々に叫んでいる。
最後は「逃げて―逃げて―」と悲鳴に近くなった。
未曽有の大災害だったし、非難するつもりはないが、「まだ大丈夫」とか、周りが逃げていないからとの思いがあったのではないか?自分もつい周りと一緒に安心するかもしれないし、でも、平和ボケの弊害は大きいと背筋がヒヤッとした。

この本を読むまでの”平和ボケ”の概念は、世の中には戦争や貧困に苦しみ、今の日本の日常の当たり前がない人達もいるのに、そんな幸福に気づかず、努力もせず、安易な生き方をしていないか?という感謝が足りない的な思いが強くあった。
だが、『自分の頭で考えない』ことが、大きな弊害だと気付いた。
考えず、与えられた価値観を周りと同じだからと安易に受け入れる。孤独より皆と一緒が安心と同調する。
それではニュータイプの時代に淘汰される。

ちょうど、日本には「出る杭は打たれる」と人より抜きんでることを良しとしないところがあるが、「出過ぎた杭は打たれない、どんどん個性を伸ばそう!短所を治すよりも長所を伸ばす方が絶対的に飛躍する」という子育て中の親へのメッセージを耳にしたばかりだった。
確かに、短所を治したところで、それは平均になっただけだ。
長所をもっと伸ばせば、抜きんでるし、本人もその方が楽だし、楽しいだろう。
このことは、著書の「多様性の社会は豊かさを増す」にも通じると思った。

長所と短所といえば、「長所も短所も表裏一体。見方を変えれば、短所も長所だ」と親や教師が、短所に目がいきがちな自分を励ましてくれたが、これって陰陽図だなと気づいた。
最近、何かと陰陽図が自分の中でヒットする。
もうすぐ冬至だが、『陰極まって陽となる』冬至を境に昼と夜のバランスが変わる。
著書に経済学のポーター博士が、経済学では忌避する「独占」を、経営学では望ましい状況に転用したというのも陰陽図に当てはまる。
経済学と経営学と領域が違うものを融合させて思考し、新しい視点で物事を考えることが大切な時代というのも時代の変化の表れだと思った。
すでに、世の中はボーダレス、グローバルになって久しい。視野も価値観も境をなくし、自由に柔軟にしないと適応できない。自分で考えることができないと、混乱し、適応できず、淘汰されていく。
だから、「成功している人物はリベラルアーツ系」とあったことも納得できた。
いい悪いではなく、自然界は陰から陽に転じても自然界自体の完全性は同じように、変化に合わせて自分を適応していけばいいのだ。

豊かな現代はあらゆるものが進化し、成熟し、今は衰退期に入っているのかもしれないが、
「モノ、利便性が過剰な先進国では、
(サイエンス)役に立つ < 意味がある(アート)”
と、意味がある(アート)の方が社会に大きな価値を生み出す」とあったが、自分にとって意味がある人生とは?と改めて生き方を問うている。
この問いは、著書に「これからのよいリーダーは問題設定すること」ともあったし、よきタイミングでよき問いだ、なかなか深いなと唸ってしまうが、人の潜在意識は問いに対して答えを探そうとするものだと聞いたこともあるし、何か選んでいるようで、運ばれている感じもあるので、あとは楽しいと思えるか否か、それは見方を変えたり、行動を変えたり、調整しつつ、自分を楽しい方に合わせていこうと思う。

今年は親の介護が終わった年なので、介護をする為に仕事を辞めたことをこのタイミングで振り返るのも奇遇だなと思った。
親の介護の為とはいえ、自分の時間も欲しくワークライフバランスを考えた選択だったが、オールドタイプの価値観で社会からのドロップアウト?と後ろめたく思ったこともあったが、看取った時に後悔が少なかったのは、介護が自分にとって”意味がある”ことだったし、直観に従ってよかったと改めて思った。
また、介護の傍ら好きなことを学び、コンテンツ化して自分の引き出しを増やしてきたが、これまでどちらかといえば、”役に立つ”的発想をしていたから行き詰っていたのだなと気づいたので、”意味づけ”という考え方でアプローチを変え、結果を創造してみようと考えている。

振り返れば、オールドタイプの時代の価値観で自分をジャッジし、自己否定や不安を抱いたこともあったが、ここ数年の変化に、時代は変わるし、人生の終わりも実感した。
それでも、陰陽図のように自分の『完全性』は何も変わっていない。自分の中のバランスが変わっただけなのだ。

ちなみに、未曽有の大震災が起こったのは退職日。夜、ネットニュースを見ながら、”自分は何も失っていない”と何度も何度も思ったことも忘れられない。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
【これからの時代を生き抜くためには行動量を増やすこと】

本書には、これまで「優秀な人材」であるとされてきた、従順で、論理的で、勤勉なオールドタイプが今後急速に価値を失い、彼らとは正反対の、自由で、直感的で、わがままで、好奇心の強いニュータイプが評価され、豊かな人生を送ることができると述べられている。しかし、「このままではやがてオールドタイプはニュータイプに駆逐される」と予測するのは早計であろう。何故ならば本書では、「未来は予測するものではなく、構想するもの」であるとも述べられているからである。成功のために、これまで仕方なくオールドタイプを演じてきた人々は、喜んでニュータイプへと舵を切れば良いし、オールドタイプの生き方が幸せな人はそれを貫いて自身のレア度を高めれば良いのではないだろうか。私には、オールドタイプが希少価値となるような未来を構想することもまた、ニュータイプとしての一つの形になるように思えるのである。ニュータイプ達は声を上げ自ら社会を変革していくので、未来は予測不可能であり、時と場合によってはオールドタイプが見直される可能性すらゼロとは言い切れないからである。

以上のことから私には、青虫が蛹を経て蝶になるように、オールドタイプからニュータイプへと一気に進化を遂げることを夢見るのはいささか安易でインスタントであるように思える。オールドタイプとニュータイプを白黒はっきりと区別するのではなく、一人の人間の中に両方の要素を混在させて、時代のニーズに合わせて白黒の濃淡バランスを変えて行くのが賢明な選択なのではないだろうか。本書では、オールドタイプにしがみつくことで起こりうる悲惨なシナリオが書かれているが、それに煽られ、「私はオールドタイプなので、ニュータイプへと進化を遂げなければならない。どうすれば良いだろうか?」と発想すること自体がそもそもオールドタイプ思考なのではないだろうか。私が考えるニュータイプ思考は、「とりあえず行動」である。例えその結果がことごとく思う結果にならなかったとしても、得られた経験が、必要なセンスと直感を磨くトレーニングになると考えるからである。本書ではニュータイプはリベラルアーツを学び、疑う常識と受け入れる常識を見極める目を養っていると書かれているが、それを頭で理解するだけで到達できるものだろうか。私は実際に行動を起こし、そのことで生じた現実を五感覚で味わい、知らなかった世界を知ることが必要不可欠だと考える。何故ならば、差分を比較できるようになってこそ、あたかも玉ねぎの薄皮を一枚ずつはいでゆくように、自分にとって不要な思考の癖や思い込みを一つずつ捨ててゆけるからである。

私がそう考えるに至った理由として、個人的な事例を紹介する。私は最近、ココナラに得意なスキルを出品したが、知らない誰かに伝わるように自分を表現するのが想像以上に難しく、案の定、全く売れなかった。「緻密な調査と準備が整うまでは動いてはならない」という、オールドタイプの生真面目な価値観が染み付いた私には、「何が当たるかわからないのだから、とりあえず沢山出品しておこう」という、遊び心あるニュータイプ思考の売り方ができなかったのである。しかし、そんな自分をダメだと否定してしまえば、それこそオールドタイプ思考の拡大再生産と言えよう。むしろ行動したということは、少なくとも何らかの現実を生じたことには違いないのである。

これにニュータイプの考え方を当てはめれば、視点は全く別のものとなる。上手くいかないからとしょげるのではなく、それすらも面白がって次のヒントにすれば良いし、変更は何回でもOKだし、自分に合わないと思ったらいつ撤退しても構わないからである。苦痛なことを我慢して耐える必要はないし、自分の心の声に正直になって良いのである。そればかりか、失敗は恥でも悪でもなく、大きな成功の手前の通過点に過ぎないのであり、盗めるものをできるだけ盗んで次に活かすためのネタとなるという。このような考え方はあまりに衝撃的であり、以前の私であれば机上の空論として理解するのみであったはずだ。しかし、自ら変化を起こしリアルな結果を目の当たりにした今だからこそ、深く腹落ちできたのである。そう考えると、パッとしないチャレンジから得られたものは大きかったと言えるし、失敗への恐怖心を手放せたこともプラスになったと考える。

以上の経験から私は、オールドタイプの人間が、ニュータイプへと進化したいのならば、頭で思索するより、まず行動すべきと考える。頭でいくら緻密に思考を組み立てたとしても、実際に行動し、現実に起きた結果を目の前に突きつけられたインパクトには到底及ばない。早く、大胆に変わりたいと願うほど、変化に伴う痛みやショックは大きいものになるが、そんなヒリヒリ、ドキドキを五感覚で味わっている瞬間は新鮮で、否が応でも可能性が刺激され、色々なアイデアが湧いてくる。「ニュータイプになろう!」と100回決意するよりも、「とりあえず行動」をまず1個と提案したい。もちろん私自身も、1度や2度の失敗でめげることなく、今後も意味あるチャレンジを継続して行く。
 
投稿者 eiyouhokyu 日時 
ニュータイプの時代を読んで

 この本を読んで、ニュータイプの時代について大きく感じたのは2点ある。
 1つ目は、チャンスが広がる時代が来るということ。失敗してもやり直せるし、再度挑戦ができる。無理をして、嫌なことに我慢をしたり、耐えなくていい。嫌なら逃げてもいい。しかも、知識や経験がなくても、いつでも好きなタイミングで挑戦ができる。これから益々VUCA化が進むので、従来の知識や経験は足枷になりかねない。とにかく、行動して試して自分の得意なフィールドを見つけていけばいいんだ。そう、とても魅力的な時代だと感じた。
 知識や経験がなくても、成功できる。まさに、このことを実感した出来事があった。手前味噌で恐縮だが、子どものサッカーの試合で見た印象的な得点シーンだ。この試合では、トップの選手にパスがつながって、シュートをするチャンスが何度かあった。しかし、惜しくもボールはゴールに入らず0-0のままだった。そんな中残り5分で交代してグランド入りした我が子は、その試合で2点決めた。何と言ってもシュートをしたタイミングが独特だった。たいていサッカーはパスが回って、選手も観戦者も「今だ!シュートだ!」と感じるタイミングがあるが、誰もが今シュートをするとは思わないタイミングで決めたので、撮影するビデオもピントが合っていない状況だった。2点目も同様の状況だった。チームで1番下手でも、シュートを決めることができたという事実。そして2得点できたという事実。技術や練習量が多くなくても、結果がでたという事実。ボールがあって、良い位置にいて、タイミングよく足で蹴って、シュートをしたら、ゴールにつながった。これはビジネスにおいても同じことが言えるのではないか・・・と、この本に読む前からずっと考えていたことだった。
 サッカーのシーンをビジネスでたとえると、自分のいる位置と、身体を動かすタイミングと、ボールが来るというほんの一瞬のチャンス。技術があっても、いる場所が間違っていればボール(チャンス)はこない。経験があっても、ボールを蹴る方向が間違っていれば、ゴールに入らない。だけど、蹴る(行動する)には、とっさに動けるようにするには最低限の技術や練習は必要だ。
 あと、練習は型を作ってしまうが、あえて型にはまらないやり方が現状を突破することもある。そんなことも感じた。だからと言って、練習が必要ないとは思わない。まじめに練習だけをするのではなく、練習から外れたことに意識を向ける。この試合では、練習通りではない自分のタイミングが勝利のポイントにつながったと思う。サッカーでも、ビジネスでも練習(想定)通りではない部分が勝負のポイント。とにかく前例がない所で行動して切り拓いていく。ここがそれぞれオリジナルの見せ所だと感じた。
 ニュータイプの時代について感じた2つ目は、少し居心地が悪くなりそうだなという正直な感想だ。今、居心地が良いと思っている環境がいつ変わるとも限らない。自分のことをよく分かってくれている仲間、仕組み化された作業。楽なもの、このままでいい・・・は、オールドタイプでこれからの時代は通用しなくなると著者は言っている。予測不能な時代であり、多様化もますます進むので、他者との関わりは学びのチャンスである。それは、今までだと理解できないと排除していた他者を、理解しようとすることで得られる価値観があるという気付きだ。しかしながら、自分の価値観と異なる者を理解しようとすることは、心地よいものではない。不快な感情が伴うこともある。今いる心地良さから離れたくないという自分と、このままではオールドタイプになってしまうという焦り。この二つの自分がいる。
 結局、この心地良さが何かというと、自分がどう感じるかという主観からきている。感じるセンサー次第なのだ。ただ、この目に見えないセンサーを使って新時代を生き抜いていくならば、もっと精度を高めていかないと心もとない。狂ったセンサーにならないようにするには、本書では倫理とか直感と書かれていたし、美学やセンスともいえると思うし、塾生用語なら智の道という言葉でも表せられるこういった自分だけでなく人も幸せとなることを考えられることがセンサーの調整なのだと考えた。
 そのように整えたセンサーを持って、社会や自分の仕事を見たときに感じる違和感。このままでいいのだろうか?自分はどうありたいか?この仕事を通して、社会はどのように変化するだろうか?意味があるのか?この問に答えるには、内面(精神)に向き合うことと、社会を見て問題を発見することの両面からの思考の探索が必要だと思った。
 そして、今まだ私は問に答えることができない。新しい時代を生き抜くには、終わりない思考の旅をつづけていきたいと思う。

今月も良書をありがとうございました。
 
投稿者 H.J 日時 
「あれ?風の時代に関する本を読んでたっけ?」
読んでる内に、そう思ってしまうほど、風の時代に適したことを指摘している本だと感じた。
占星術の世界では2020年に新旧時代の節目の年と言われ、一部で話題になった風の時代という概念。
著者のことを詳しく知ってるわけではないが、過去の課題図書「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」や本書を読む限り、占星術に長けてる人であるような認識はできない。
勿論、本書内に「風の時代」というワードは出てこないし、内容もビジネス的な観点から指摘している。
にも拘わらず、風の時代を連想してしまった。
このことについては、最近私が風の時代を意識していることもあるとは思うが、ここまでリンクしているとは驚きが隠せない。

なぜそう思ったかの前に風の時代に関連する概念を確認すると
土の時代(2020年以前)とは、上を目指し増やし蓄えることを主に目的とした時代であり、組織や学歴やブランドが支配した時代を指す。
風の時代(2020年以降)は、それらは意味を失い、目に見えない部分、より本質的なところへと人の意識が向かう時代であり、情報やオリジナリティやセンスや波長が主軸になる時代と言われている。
(『「風の時代」に自分を最適化する方法』より一部抜粋)
上記を前提に考えると、著者が指摘するオールドタイプ、即ち「量的な向上」を無条件に是とする価値観は、ルールに従い、一つの組織に留まり、経験に頼り、独占する者たちが良い思いをした時代であり、これは土の時代の価値観でも同じ様に感じる。
対して、著者が提言するニュータイプは、自らの道徳観に従い、組織にとらわれず、経験をリセットし学習し続け、共有する生き方を是にするべき時代である。
これは、まさに風の時代の生き方である様に感じる。
細かい部分を指摘すれば、勿論相違はあるが、本質的なところは同じ様に感じるのだ。

このことから何を言いたいのかと言うと、占星術の世界で話題になった、言わばそういった世界に興味のある人だけが知っていた風の時代の概念は、ニュータイプとして形を変えてビジネス界にも浸透するのではないか。ということである。
なぜならば、ビジネス界で著名な著者が風の時代と本質的に同じことを情報発信をしているからである。
歴史やビジネス界の事例を具体例に出した説得力のある説明は多くの人を納得させるだろう。
その結果、著者の提言するニュータイプが浸透すれば、今後似たようなことを述べるビジネス書も増えることが予想できる。
書籍もビジネスである以上、多くの人が興味関心のある分野をテーマにした本を出していくというのが鉄則であるからだ。
これについては、書店に行くと同じテーマのものが溢れてることからも読み取れる。

話を元に戻し、ニュータイプの概念がビジネス界に浸透するということは、回りまわって一般の生活にも浸透するのも時間の問題である。
なぜならば、今までの流れ的にビジネスの世界で浸透しているものが徐々に一般に浸透していくからだ。
例えば、投資もそうであるし、直近ではSDGsもメディアで取り上げられて、一般に浸透してきていることからもそう思う。
つまり、風の時代の概念が浸透するのも時間の問題であるように思えるのだ。
そう考えると、ニュータイプや風の時代の生き方はこれからの時代を生きるマストになるし、時代に取り残されないために考える必要がありそうだと感じた。
 
投稿者 M.takahashi 日時 

本書では、従来良しとされてきた数々の手法・風習がオールドタイプとして断じられ、これからの時代には通用しなくなると主張されている。その中でも筆者が特に感銘を受けたのは、「努力のレイヤー」の項であった。

日本では「石の上にも三年」などと言われるように、とにかく継続することが美徳とされてきた。仕事を短期間で辞める人間は、その理由の如何を問わずに低い評価されることが多く、採用においても一つの会社での長期的な勤務経験がなく、職を転々としているような応募者は敬遠されがちだろう。また、西洋の諺である A rolling stone gathers no moss (転石苔を生ぜず)は、イギリスにおいては「職業や住処を転々と変えていると信用や財産はできない」と解釈されているが、逆にアメリカでは、職や住居を変え続ける人は時代に取り残されることがない、と解釈される。イギリスでの解釈は一箇所で踏ん張って努力をするのが良いと考えるオールドタイプ的なもので日本的な考えに近く、アメリカでの解釈はよりニュータイプ的であると言える。

本書は、日本の事情に特化して書かれているわけではないが、いくつかのオールドタイプの特徴、特に職業や業種などのレイヤーを変えることに対する否定的イメージは日本においては未だ強いように思われる。もちろん、自らの適正や資質に適したレイヤーにいるのであれば、あえてレイヤーを変える必要性はないかもしれないが、適性があるかどうかが分かるのは実際にある程度やってみてからなのに、一度始めたらそのまま続けるのがオールドタイプの流儀なのである。それによって「努力をしても結果が出ない(出にくい)レイヤー」で非効率的な努力を続ける被害者が出ることになる。努力しても結果が出ないばかりか、メリトクラシーの考えが組み合わさると、無力感や自己憐憫に陥る可能性すらある。

しかしここで注意が必要なのは、確かに努力は結果を出すための十分条件ではないが、一定量の努力は必要条件にはなるということだろう。分野によって異なるが、結果が出るまでにはある程度の期間が必要となるだろう。あまりに早く見切りをつけても、それはそれで結果を出すことはできない。ノーベル賞を受賞した山中教授も、整形外科医を向いてないと判断して辞めるまでに2年ほど費やしている。ティッピングポイントがいつ来るかはわからないし、来ない可能性もあるかもしれない。一定期間は懸命に努力し、その上で躊躇なく移転するのが良いのであり、ちょっとやってうまくいかないからと転々とすることは外見上は同じように見えるかもしれないが、その本質は全く異なる。話のスケールは多分にダウンするが、学生時代の部活動で薫陶を受けたコーチから、2週間やっても全くものにならないなら他の技にしなさい、と言われたことを思い出す。私を含めて部員一同は、一つの技がそんな短期間で習得できるものかと否定的だったが、今思えばコーチの言っていることは正しかったのかもしれない。

レイヤーを変えることのもう一つの利点には、専門性のある分野が増えるということがある。ある程度頑張れば何かのエリアで10人に一人の人材になれても、100人に一人の人材になることはなかなか困難だろう。しかし、2つの別々のエリアにおいてそれぞれで10人に一人のレベルになれば、それも同様に100人に一人の人材となるのだ。この要領で分野をどんどん増やせば、人材としての価値も高めることができるし、他分野で培った知見が常識にとらわれない発想につながるかもしれない。

最後に、いくらこのようにレイヤーを変えることの重要性や必要性を認識しても、実際に今まで培ってきたものを一度捨てて他のレイヤーに移ることは、多くの人にとっては簡単なことではないだろう。人は今自分が持っているものを過大評価するものだし、移転先で成功する保証も当然ないのだ。私自身、今いる業種が自分に適合していないのではないかと思うこともあるが、なんとかそれなりに生活もできているし、それを捨てて他の仕事をしようという勇気を出すことはできない。レイヤーを変えることが逃げなのだというオールドタイプの思考に対して、レイヤーを変えないで踏ん張り続けることこそが安易な努力への逃げなのだとする本書の指摘は心にズシリと響くものであり、自身が完全なオールドタイプであることを悟らされた一節であった。