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第115回目(2020年11月)の課題本


11月課題図書

 

吉村昭の間宮林蔵 (講談社文庫)


江戸時代の末期というのは、乱世でしてそのためなのか非常にたくさんの面白い

人物が時代を彩ります。その中で、あまり知られていないのが間宮林蔵なんですが、

農民出身なのに、幕府の役人になって、おまけに蝦夷と樺太を探検してしまうんです

ね。そして彼の発見したとあることが、彼の名前を永遠のモノにしたのです。

本書には怪しい系としか思えないエピソードもありますので、楽しく読んで下さい。

 【しょ~おんコメント】

11月優秀賞

 

先月は分かりやすい歴史小説だったので、みなさん大きな破綻のない感想文を書けたようです。

そして多くの人が、間宮林蔵が持っていた怪しい系の能力についても見つけることができました。

 

その中で一次を突破したのは、akiko3さん、masa3843さん、tsubaki.yuki1229さんの3名

で、優秀賞はmasa3843さんに差し上げることにしました。この方の投稿は自説を説明する

際の参考になる、セオリー通りの書き方をしていましたので、投稿された方は一度じっく

りと読んでみて、どこが良い点なのかを理解してください。

【頂いたコメント】

投稿者 akiko3 日時 
頭の回転が早いとはいえ、農家の長男が、世界地図に間宮海峡と記される偉業を果たすとは!
間宮林蔵という偉人はどうやって出来上がったのか?
まるでビジネスの自己啓発本のように、人やチャンスに恵まれ、困難があっても乗り越えている。能力を高め、人脈も広げ、人称もあげ、我由ではなく国益に影響を与える重要な仕事に取り組む。思考も信頼も役職も収入も高めていく。
これだけでも、超一流の域だが、現代とは比べ物にならないくらい物や道具がない時代に、人の能力でやってのけたことが、人間離れした偉業に思われる。(林蔵氏の生きた時代の人の能力がすごいのか、現代人が退化しているのか…。)

では、林蔵氏はどうしてこんなに進化向上したのか?
どうして人に助けられたり、欲しかったものが入手できたり、運に味方され、ピンチをチャンスに変えられてきたのか?
また、どうして、シーボルトからの贈り物を開けようとして、“なかなか開かなかった”だけで、“第三の危機”とピンときたのか?

私は“歩き”が鍛錬になっていたのではないかと思う。
 林蔵氏が測量にでたり、隠密で全国を歩き回ったり、健脚は仕事上でも鍛えられただろうが、旅に出ない日常でも裸足で歩き、鍛錬を怠らなかった。
その歩きは独特で、師である村上氏が“測量の際、力まず滑るように歩き、体を上下に動かさず呼吸の乱れも、汗もかかない”ことに驚き、真似て身につけたものだ。
そのうえ、測量に道具が使えない際は、自分の足で測るのでその精度を上げる努力をして、五感が鍛えられ、より正確で精密な仕事になったのではないか。自ずと六感もより研ぎ澄まされていったのではなかろうか。

以前、私は健康診断の心電図検査で、胸の音(前年は心雑音と所見が書かれた)を聴いたドクターから「何かやってる?」と聞かれ、その時ランニングを少しやっていたのでそう答えると、「あ~それで」と納得された(何も書かれなかった)。
走る時は、吸って吸って吐いて吐いてとリズミカルな呼吸を繰り返すのだが、日ごろの呼吸が深くなっていたようだ。呼吸が深い時は、心が安定し、力が抜けていて、ふっとアイデアやひらめきを得られるように思う。

そんなこともあり、(林蔵氏の歩きは私の走るスピードと同じだったかも?!)歩き=呼吸法に通ずると思った。
基本編で呼吸法とは、山に登ったり、苦しい修行をする代わりに、家で座ってそれ相当の修行になるという説明を記憶している。
吐く時は苦しいが、力んでいたら秒数伸びないし、吐き切ったら脱力になるし、丹田にのみ力が入っている状態になれる。
林蔵が真似た歩き方も、肩の力が抜け、力が入っているのは丹田だけという状態だと思う。ちなみに、ウツとか過緊張は、気が胸とか頭にあり呼吸が浅い状態で、丹田にある状態が理想と何かで読んだ。


このような鍛錬の賜物により、林蔵氏は上役から重宝され、暮しも豊かになっていったが、親や敬っていた人達との死に別れに、自分の加齢や病気が加わると気力もうせていった。
人は右肩上がりのままではいられないのが人生なのだなと考えさせられた。
林蔵氏の生きた時代は、人生5,60年で、終活のない時代だが、令和に生きる人としては、自分の幸せを考えてもいいし、どう着地するか、終わり方を考え、準備する時間もあるのだから無駄にしないようにしたい。

最後に、林蔵氏は自分の成し遂げたことを誇りに思い、満足していたが、人の妬みや無責任な噂話、誤解に怒り、傷つき、孤独も感じていた。感性が鋭い人だからこそ、その傷は深かったのではなかろうか?
俯瞰して見ることができる人だったので、心が壊れることなく、ぶれずに自分の役割を全うしたが、甲冑好きで収集しては眺めていたのは、農家の出だから武士に憧れた部分と、自分を強くしてくれる、守ってくれるものとしての愛着もあったのではないか?
心安らぐことが少なかった孤高の人生を思うと、世界の○○になることと一個人として生きる幸せのバランスは、昔も今も難しいのかなともしんみり考えた。
 
投稿者 kenzo2020 日時 
「間宮林蔵」吉村 昭 (著) を読んで
この本から、物事を成功させる秘訣を2点学んだ。

1点目は依頼することである。例えば、ギリヤーク人の村長に、未開の地の奥へと連れて行ってもらうよう依頼した。あるいは、未開の地の生活を知るために、一度は故郷に帰らせたアイヌの方を連れ戻した。間宮林蔵ただ一人では、旅は成功しなかった。

依頼を引き受けてもらうためには、相手の立場を考えることが大切である。ギリヤーク人の集落では、女性の権限が強い。間宮林蔵はそのことに気づき、女性に気に入られるようにした。アイヌの方は、当時幕府の支配下にあったため、間宮林蔵の言うことを聞くしかない。間宮林蔵もつらい依頼だったろうが、依頼後のアイヌの方の長い沈黙をじっと耐え、一人のアイヌの方の協力を得た。

私は誰かに何かを依頼するのが嫌で、なるべく避けたいと考えている。間宮林蔵のように、成功するためには、相手の立場をよく考え、イエスと言ってもらえるよう依頼しようと考えた。

2点目は慎重に、しかしときには大胆にということである。例えば、未開の地の奥へと行く時、そこは外国領なので、立ち入ると幕府の決まりに違反し、罰せられてしまう。そのことを慎重に想定しつつ、幕府にとってプラスの情報を持って帰れるはずだと大胆にも旅に出発してしまう。以前に、ロシアと戦わずに逃げて、あやうくお咎めを受けそうになったにもかかわらず、である。

慎重に計算し、大胆に行動すると言うのは、隠密でも生かされている。藩の情報を漏らしたものは死刑になるという状況で、禁じられた物資を外国と取引しているという目処を立てて、俳諧師ならばよく旅をしているので関所を通れるはずだと潜入し、情報を持ち出してきた。間宮林蔵の慎重さ、それから状況を的確に判断し、成功する見込みならば躊躇ぜず行動するという考え、行動力が生かされた場面である。

私は慎重になりすぎて、行動に移せず、後悔することがままある。間宮林蔵のように、慎重になりつつ、行動に移せるようになりたい。

以上、2点が物事を成功させる秘訣として学んだことである。

最後に、間宮林蔵は、はたして幸せだったのかと疑問に思った。私は、仕事よりもプライベートに重点をおきたいので、間宮林蔵の生き方では幸せではないと考える。

半島ではなく島だったことを発見したこと、隠密も問題なく成し遂げたことから、仕事については成功したので充実感があり幸せだったのかもしれない。

しかし、プライベートについて散々たるものである。両親の死の間際に立ち会えなかった、故郷の家が竹やぶになっていた、嫁としてもらうはずだった女性が死んでしまっていたなど、充実からは程遠い。

仕事一辺倒にならないよう、プライベートも充実して生きていこうと考えた。
 
投稿者 BruceLee 日時 
本書で感じたのはスネ夫(スネ子)とスポットライトの関係。
人生って自分の願いと結果が異なるからこそ面白い、というのが私の読後感だ。どういう事か?以下にまとめてみたい。

「高橋は、樺太が島であることをあきらかにした世界地図を作り上げ、世界の地理学者の驚きと称賛を一身に集めるだろう。その作者のかげに、自分という存在があることは知られず、ただ一部の者にわずかに記憶されるにすぎない。かれは、拗ねた気分になっていた」

と、本書では時折、主人公林蔵の拗ねた気分が叙述される。これは考えてみれば当然かもしれない。今と異なり、当時は身分制度があり、基本的に人はその身分で一生を送る前提の時代であった。故にどんな偉業を成し遂げようが農民は農民であり、それ以上の存在にはなれないのが基本。個人的な想像だが、当時はそういう人がそれなりにいたのではなかろうか?身分不相応な事をしてもスポットライトを浴びる事は無いのだから最初から諦める人。自分の身分では差し出がましいと萎縮してしまう人。そしてその考え方が行きつく先は、後でガッカリするのは自分なのだから必要以上の努力などする必要がないという捉え方。結果的に余計な行動なんかしてやるもんか!みたいなスネ夫的人間。。。
あれ、こんな人って現代でも結構いるかも(笑)

そこをどう考えるかだが、その違いは林蔵のようにチャンスに遭遇した際に表れるのではないか?林蔵が命を賭けた冒険に旅立つ事を決意した時、恐らく彼は立身出世など考えていなかったのではなかろうか。故に「水腫病を避けるためには食物をはじめアイヌの生活そのものに従うべきで、それが、蝦夷地で生きぬく唯一の心掛けだ」と謙虚に思えたのだろう。それまでの生活を送っていたら、恐らくそのような捉え方は出来なかったのではないか?様々な苦難の後、林蔵は事を成し遂げ、その際の林蔵の気持ちはこう表現されている。

「かれは、満ち足りた気分であった。世界地図の上でただ一つ不明であった樺太北部の地理が、自分の手で完全に解き明かすことができたことに喜びを感じた」

これは経験した人は分かると思うが、与えられた、決まりきった仕事だけをしている人には絶対に味わえない、仕事の達成感・快感ではなかろうか?そしてその功績は自分だけのものではなく、

「林蔵の得た知識は、地理学上のみならず、幕府の北方経営に多くの利益をあたえることは確実だった」

とあるように、幕府の、日本の、いや総じて世界の人の役に立ったのだ!そして与えられた士分としての地位。その時点で「拗ねきっていた気持ちは消えた」とあるが、ここで綺麗に終わらないのが人生の面白いところと言える。そのキッカケとなるのが「シーボルト事件」である。人間が何故拗ねるのか?と言えば「そもそも願っても叶わないんだから、願うだけバカみたいじゃん」という気持ちが根底にあるからだろう。それが素直になれない人間、つまりスネ夫であり、ひねくれ屋なのだ。

ただ、そのひねくれ性(物事を素直に受け入れずまず疑う)が、林蔵の第六感となり好結果をもたらしたのが、シーボルトから送られて来た小包の扱いだ。「危い、と思った。過去の記憶がよみがえった」とあるが、その際、そう感じずに小包をそのまま開けていたらどうなっていただろう。過去、ロシア件襲来事件、鎖国令にそむいたことへの極刑の危険に合うも、生き抜いてきた経験が沁みついていたから「第三番目の危機」と察知できたのではないか?

結果、彼は小包を開けず勘定奉行に届けた。が、それが要因で周囲からは密告と疑われる。これまた人間を素直にさせない、逆に言えば林蔵を更にスネ夫化させる要因にもなった。その後、林蔵は幕府の隠密となる訳だが、隠密とは端的に言えばスパイである。これぞ周囲をそのまま信用しないスネ夫的性格人間には最適の仕事ではないか!そして自分が収集した情報を信用してはいけない奴ナンバーワンであるシーボルトによって流出された訳だが、それが要因で林蔵の名は世界に知られる事になった。そしてMamiya-seto(間宮海峡)という名が付けられた。林蔵が生前この事実を知ったら、これをどう捉えただろうか?恐らく盗まれた情報で自分の業績が世界に認めらるのなんてまっぴらだ!と拒絶したのではなかろうか。

本書で林蔵の一生を俯瞰できる我々は諸々考える事が出来る。林蔵自身がどう考えようと、世界は彼の業績を認めたのだ。身分など関係なく、一人の人間の業績として世界は認め、それが間宮海峡という名称になったのだ。ある意味、運命の皮肉ではあるが、自分の願いとは異なる形でスポットライトが当てられたのだ。それもまた人生の面白みである。

結論。身分制度の無い現代に生きる我々はチャンスの宝庫の中にいる。拗ねてる場合では無いのである。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、間宮林蔵の他人に迎合しようとしない意志の強さを感じました。
この林蔵が持つ自分の意志の強さが、過酷な樺太調査を可能にしたと言えるかも知れません。

蝦夷地を探検した林蔵は、鍛錬によって異様なまでに鍛えられた物凄い脚力で歩き回り、厳しい寒さにも耐えて見せます。過酷な環境や山丹人の暴力、荒れた海の苦難を乗り越えて、樺太が半島ではなく島であることを明らかにします。

本書で紹介されている林蔵の残した偉業は確かにすごいものでしたが、後半生は孤独でした。

北から南まで全国を歩き回った林蔵は、両親の死に目に立ち会えませんでした。妻子もおらず、放置していた故郷の家は朽ち果ててしまいます。幸福な家庭生活と孤独な成功が両立しないこの構図は、測量の師匠にあたる伊能忠敬にも共通する点があります。

晩年の伊能忠敬も家庭的に不遇であったため、林蔵は忠敬の家に住み込んでその死を看取り、葬式も出したといいます。伊能忠敬という人は、林蔵にとって唯一心を交流できる存在だったのでしょう。その後、林蔵は伊能忠敬の遺志を遂げるべく、再び蝦夷地をくまなく回り、海岸線だけでなく川を遡り内陸部まで調べあげます。

強い意志を持ち、脚力を鍛え、仕事を忠実に行う林蔵の姿勢は、自分の職務にひた向きに努力する真面目な人であったと考えます。ただし、一人で黙々と鍛錬によって鍛え抜かれた脚力は、林蔵の成功を支えていると同時に、世間からの乖離を象徴しているように思えます。

シーボルト事件では、世間の誤解から密告者としての噂が広まり、蘭学者と周囲の人から白眼視されることになります。世間からは密告者と批判されますが、外国人との交流は国禁に触れると理解していたからの行動であれば、自身の職務に忠実で真面目な人という印象が浮かびます。

密告者という噂も、実際には結果として露見したことであり、林蔵のような群れることなく厳密にルールを守ろうとする人間は、世間からはどうしても疎まれた存在として扱われてしまうものなのかも知れません。

夏目漱石の小説「草枕」の冒頭に、”智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”という言葉がありますが、林蔵も世俗を離れ、前人未到の蝦夷地を自分の脚力と意志で探検したことが契機となり、後の隠密活動などの危険な任務に就き、命を賭して働くことを、自身の使命のように感じていたのかも知れません。

蝦夷地探検での功績は後世に高く評価され、林蔵が発見した海峡は日本では、間宮海峡と呼ばれるようになりました。また、忠敬の死から3年後の1821年に完成した、「大日本沿海輿地全図」は、伊能忠敬と間宮林蔵の魂の合作になりました。

林蔵は孤独な人生を後半生は送ったのかもしれませんが、彼が生きている間に残した偉業には頭が下がる思いです。これほどまでに、自分のやるべきことを突き詰めて行動した林蔵に、尊敬の念を抱かずにはいれません。

人に迎合せずに行動することや、自分の意志と体力だけを頼りに、今まで本気で取り組んできたものが自分にはあるのか、と自身に問うと疑問が出てきます。怠けてはいないか、他人の意見に迎合し、惰性で他人と同じ選択をしているだけではないか、と考えさせられます。

孤独と共に生きることを恐れず、自分自身の意志で考えて行動するようにしていきます。
投稿者 tarohei 日時 
 本書は江戸時代後期の農民出身でありながら探検家であり測量家でもあり、後半生では幕府の隠密として活動した間宮林蔵の伝記小説である。
 間宮林蔵の功績で最大のものはやはり間宮海峡の発見であろう。当時、樺太は未知の地とされており、大陸の一部としての半島なのか島なのかは定かではなく、その未知の地に赴き、過酷な気候や現地民族の驚異に見舞われながらも、樺太が島であることを突き止め、後世に樺太と大陸の間の海峡の名前に自らの名を残した人物である。また単に探検家としてだけではなく測量術も学び、蝦夷地などを測量し地図を制作したりしている。さらには人生の後半では幕府の隠密として活動するなど謎多き人物であった。探検家・測量家としての間宮林蔵と幕府隠密としての間宮林蔵の間にギャップを感じていたが、本書を読了するにあたりそのギャップは解消され、人物像が明らかになった。

 ここでは、なぜ間宮林蔵が幾多の困難を乗り越えて後世に偉大な業績を残せたのか、間宮林蔵を突き動かしていたものは何だったのかを中心に感想を述べていく。

 樺太探査について、幕府から何がなんでも任務を全うせよとか失敗すれば処罰されるという状況ではなかったはずである。ではなぜ間宮林蔵は幾多の困難を乗り越えて事を成し遂げられたのであろうか?なぜ命を懸けてまで樺太探索をやり遂げることができたのであろうか?さらに、幕府からは樺太の探索のみを命じられていたにも関わらず、異国の地となる対岸のアムール河口まで足を踏み入れ実情を調査しようと思い立ったのはなぜであろうか?人並み外れた行動力と脚力の源はどこからきたのであろうか?
 これらのことはおそらく責任感や使命感などもあるにはあったことであろうが、間宮林蔵自身なにがなんでも探索を完了させたいという強い意志、もっと奥深く探索し真実を突き止めたいという探求心から来ているのだと感じた。このことは、『しかし、東韃靼へ入りたいという欲望は、つのるばかりであった。樺太調査を完全なものにするには、東韃靼へおもむき、その実情を把握する必要がある』と書かれていることからも覗える。当時、幕府の許可なく異国の地に入る事は厳罰が処せされることがわかっていたのに、それにも関わらず間宮林蔵の探求心はそのような懸念をも遥かに凌駕して、結果として想定以上の功績をもって樺太探索を完遂成したのだと感じ入った。
 間宮林蔵の強い意志は、択捉島シャナ会所へのロシア船襲撃においても覗える。他の武士たちは見知らぬロシア人に恐れをなして逃げ出てしまう。ところが、間宮林蔵だけは抵抗するように強く訴え、それを証明するように要求する。不甲斐ない武士たちと同一視されることを嫌い、軟弱な者たちと迎合しようとしない意志の強さ、間宮林蔵のこのような性分が過酷な樺太探索を可能にしたと言っても過言ではないと思う。

 シーボルト事件でも間宮林蔵の人生に対する覚悟、なにがなんでもまっすぐにやり遂げるという意思の強さを垣間見ることができる。シーボルトは最先端医学を日本に伝授した後、帰国するにあたって滞在時にお世話になった人達に贈物をした。その贈物が間宮林蔵の上司を通して間宮林蔵にも届いたのであるが、当時幕府の規則として外国人が贈物を受領してはいけないという規則があるため、その規則を厳格に守り従順に実行し、上司から受け取ったことや上司の行動を幕府に報告したのが契機になり発覚したものである。これにより間宮林蔵は世間の誤解等もあり密告者としての噂が広まることになるのである。弱い者たちと迎合することをせず、他人に左右されることもなく、厳格に規則を守る生き方は相応の覚悟と意思の強さがないと成し遂げられないことだと感じた。

 以上のような間宮林蔵の探求心、意思の強さ、尋常とは思えない行動力、信念の拠り所はどこからきたのか考えてみると、呼吸法にあるのではないかという考えに至った。測量のための一定リズムでの歩行法や驚くべき速さでの歩行能力、過酷な環境や厳しい寒さにも耐え得る体力、何事にも屈しない強靭は意思の強さなどは呼吸法を身につけていなければ成し得ないことだと感じたためである。
このような呼吸法は自然に身についていたのであろう。今の時代の人たちは意識的に訓練しないと身につかない呼吸法だが、おそらく当時の人たちは野山を駆け巡ったり徒歩での長距離移動や武道の鍛錬などを通して呼吸法の基礎は自然に身についており、これに人並み外れた探求心や尋常ではない意思の強さという性分が加わることによって、偉業を成し遂げる原動力となったのではないかと考えたのである。

分からないことは自分が納得できるまでとことん追求する探求心、なにがなんでも最後までやり遂げる意志の強さ、前半生の功績にも関わらず後半生は密告者という悪評にも耐え、一途に己の人生を生き抜いた姿に感銘を受けた。久しぶりに読み応えのある一冊であった。
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
本書を読んで驚嘆するのは、樺太探検に対する間宮林蔵の人並み外れた情熱である。危険を冒して単身で樺太に渡り、飢えや寒さにより死にかけ、天候に行く手を阻まれても全くめげない。なぜ林蔵はここまで頑張れたのだろうか。私は彼のモチベーションの源泉は「身分制度への幻滅」であったと考える。なぜならば江戸時代の身分制度では、どんなに優秀であっても貧しい家の子供には出世の道が開かれないのが通常であり、それに自分の努力で立ち向かおうとした林蔵は、世間の壁に生涯苦しめられたからである。

もともと貧しい農民出身の彼が、世界的偉業を達成することとなったきっかけは、利発さを買われて幕府の普請役雇である村上島之允の使い走りとなり、従者として一緒に蝦夷地へついていったことにある。転機となったのは、林蔵が択捉島に移って仕事をしている最中に2隻のロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った事件である。会所には230名もの武士がいたが、彼らはわずか十数名のロシア水兵に恐れをなし、ろくに戦いもせず退却してしまう。これにより、先祖の武功による家録で恵まれた暮らしをしている武士は、太平の世が続き武士らしさを失っていることが露見したのだ。それに対して農民出身の林蔵は抗戦を主張するが、身分が低いため聞き入れられず退却を命ぜられてしまう。逃げ惑った挙句、自害してしまう上役の情けない姿を目の当たりにした林蔵は、こんな上役に仕えるしかない低い身分に心底幻滅したのではないだろうか。さらにロシア艦が去った後には、林蔵も会所の役人たちとともに、江戸で厳しい取り調べを受けることとなってしまうのだ。私はこの時の無念が、樺太探検をやり遂げる林蔵の原動力になったのではないかと考える。

しかし私は、この状況下における林蔵の思考と行動に驚嘆した。林蔵は必死に思考を巡らせて、江戸に送られる前に、函館の奉行所に「ロシアへの潜入調査」という大胆な上申書を提出したのだ。「お咎めなし」と決定した後、この上申書が取り上げられ、林蔵は樺太北部の探検を命ぜられることとなる。つまり樺太探検は、林蔵の当初からの夢というよりは「敗走者の汚名を挽回したい」という切羽詰まった上での行動だったとも言えるが、その後の林蔵の運を大きく切り開いてゆくきっかけとなったのだ。こうして考えると、悔しい経験こそが自分と向き合うチャンスであることが分かる。つまり、苦境を切り抜けようと必死に思考する時、真の願望や才能が浮かび上がってくるということだ。言い換えるならば、不遇こそが分岐点であり、そこから何を思考し行動するかは自分次第であるといえる。

念願叶って樺太探検を許可された林蔵であったが、それは死を覚悟するほどの過酷な旅であり、なぜ生きて帰ってこられたのか不思議なほどである。私は、樺太探検が成功した理由として、林蔵が人を大切にしたことが大きいと考える。林蔵は、当時未開人と思われていたアイヌに敬意を払って教えを請い、雇い入れたアイヌたちに対しても心を繋ぎとめようと細やかに気を使って協力を仰いでいた。滞在させてもらったギリヤーク人の村では、下働きをしたり女性に贈り物をしたり涙ぐましい努力を続け、ついに村人と良好な関係を築くことに成功する。それもこれも全て目的達成のためであるが、貧しい農民出身の林蔵だからこそ可能だったともいえる。もし林蔵が士族の出身で、日本の役人だからと上から目線で彼らに命令していたならば、何度も命を救われるような助力は得られなかったであろう。林蔵の謙虚な献身と努力が功を奏し、東韃靼までの探検に成功し、帰路にて樺太が島であることを自分の目で確認するに至ったのだ。つまり、林蔵は身分や民族の分け隔てなく人に好かれ、応援されることで運を引き寄せ、目的を達成し、奇跡の生還を果たしたと言える。

帰国した林蔵は名誉を得て世間の賞賛を浴びるが、やがてシーボルト事件が起こると密告者の噂を流される。私はこれを、農民出身でありながら立身栄達を果たした林蔵への嫉妬ではないかと推察する。以前、ロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った事件の際は、かなり正確な情報が噂として伝わっていたからだ。周囲から人が離れてしまった晩年の林蔵は、隠密として活躍した。正体がばれてしまえば命の保証すらない過酷な仕事であるが、身分にとらわれない生き方を、自分の才覚で新たに切り開こうとしたように思われる。林蔵は、身分制度の中で焦りや悔しさを感じながらも、定められた運命を変えるべく懸命な努力を続けて状況をひっくり返し、望む人生に近づこうと生涯もがき続けた。すべてが思い通りではなかったとしても、悔いのない一生だったのではないだろうか。

現在コロナ禍により日本も厳しい局面にあるが、今置かれた環境に満足できないならば、今こそ人一倍の努力で相当なエネルギーをかけ、新たな環境を切り開いくことを目指すべきである。そのためには、出会った人との関係や、お世話になった方へのお礼をおろそかにしてはならない。コロナ禍を生き抜くにあたって、林蔵の生き方は見習うべき点が多いと感じた。
 
投稿者 str 日時 
間宮林蔵 吉村昭/著

生涯を調査に費やし、樺太が島であることを証明した漢の冒険譚。

現代であれば正規の手続きに多くの人員、多額の資金や支援・設備等々が用意され、加えてメディアが追っかけ、日本中が注目する大調査になっていても不思議ではない。勿論、そういったものが在るはずもなく、命を落とす危険と隣り合わせの中で、己の健脚と精神力、算術を武器に踏破する。当時でさえ『人間業ではない』と言われるのだから、超人の域だったのだろう。

しかし、異なる文化であるアイヌの教えにも従い、寄り添うことで多くの協力を得ているし、それらに対する感謝の念も忘れていない。晩年は病に伏してしまうものの、看取ってくれる人が傍に居てくれたところからも、決してただの堅物でもない林蔵の人柄が伺えた。

「いつか誰かが解明するだろう」「いつか誰かが発明するだろう」前人未踏だとか偉業として語り継がれる歴史を創ってきた人たちは“誰か”を“自分”に置き換え、それがお上からの役目でも、自らの野望だとしても、自分が成し遂げるという以外の選択はしないものかもしれない。

才能というより努力や精神力、探求心といった部分の人並外れた強さを感じた。
 
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投稿者 masa3843 日時 
本書は、下級幕吏の間宮林蔵が、樺太は島であることを確認し間宮海峡を発見するまでの探検行を中心に、この偉大な探検家の半生について記した本である。本書を読了して最も印象的だったのは、林蔵の卓越した判断力と決断力である。樺太という未踏の地を進むにあたり、林蔵は文字通り命を賭けた判断を幾度となく迫られるが、その「進むべき時」と「退くべき時」を見極めた的確な判断が、この探検行を成功させたのだと思う。本稿では、この判断力と決断力が、林蔵のどのような気質によって発揮されたのか考えることで、この大事業の成功要因をさらに掘り下げてみたいと思う。

林蔵の気質でまず特筆すべきは、その意思の強さである。頑固さとも換言できる林蔵の意思の強さは、冒頭のロシア軍艦来襲のエピソードから分かる。会所の責任者である戸田又太夫が、戦いらしい戦いをする前から立ち退く判断をした際に、自分だけ反対したことを認めさせて証文まで書かせようとしており、林蔵の意思の強さをよく表している。また、東韃靼への探検にあたり、ギリヤーク人酋長のコーニが東韃靼に行けば必ず殺されると善意の忠告をした際に、迷うことなく「殺されるかも知れないが、私は悔いぬ」と断言する場面からも、林蔵の強い意思を窺うことができる。こうした林蔵の態度からは、やるべきことをやるという強い意思力を感じ、この思いの強さが探検行における「進むべき時」の判断に一役買っていたのだと思う。

次に林蔵の気質として印象的だったのは、その慎重さである。東韃靼までの探検行を終えて、その偉業を多くの者が称える中にあって、林蔵は東韃靼への渡海が鎖国政策を守る国法に背いたことになり、幕府から極刑に処せられる可能性があるのではないかと疑い続けている。松前奉行の荒尾但馬守から昇進を伝えられ、老中の間で評判になっているという話を直接聞くまでは、疑心暗鬼の状態で慎重な姿勢を崩さなかった。また、シーボルトからの小包が届いた際の行動も同様である。林蔵は、高橋作左衛門経由で届いたシーボルトからの小包の開封を躊躇し、小包の紐をとかずに上司まで届け出ている。東韃靼への渡海は杞憂に過ぎなかったが、シーボルトの小包については、届け出ることなく黙って受け取っていれば、当事者としてシーボルト事件に巻き込まれ、投獄の憂き目に遭っていたのではないだろうか。この慎重さが、探検行における「退くべき時」の判断を助けたのは間違いないだろう。

そして最後に、困難な樺太への探検行で、的確な判断と決断をするうえで最も重要だったのは、周囲の協力者の意見や態度を尊重する謙虚な姿勢であろう。林蔵は、樺太への探検行にあたって、ともに進む協力者のアイヌやギリヤーク人の意見やアドバイスに対して丁寧に耳を傾け、彼らの意に反することは決してしなかった。例えば、松田伝十郎とともに進んだ1回目の探検の際に、林蔵は松田が引き返したラッカまで進み、自身は東韃靼まで少しでも近づきたいと思ったものの、同乗するアイヌの「帰りましょう」の声に、それ以上進むことを諦めている。また、2回目の単独行においては、樺太北端のナニオーまで進んだ際に、林蔵自身は東海岸までまわって樺太を一周することで樺太が島であることを確かめたいと考えたが、同行するアイヌの戻りたいという強硬な態度に、諦める判断をしている。北樺太の状況をさらに調べるためにノテトに留まった時も同様で、ラロニ以外のアイヌが生地に帰ることを許している。このように、林蔵は自身の目標達成のために少しでも先に進みたいという思いを持ちながらも、同行し協力してくれるアイヌ達の思いを無下にせず、彼らの感じる不安や恐れを受け入れ、その意見を汲みながら探検を進めている。強い意志力と慎重さに加えて、この周囲の思いを尊重する謙虚な姿勢が、この難事業を成功に導いた最大のポイントだと思う。

こうしたバランスの取れた林蔵の気質は、全く前例のないプロジェクトをマネジメントするリーダーに求められるものではないだろうか。例えば、会社における新規事業立ち上げや、起業によって全く新しいビジネスを開始する時などである。こうした新しいことを始める時には、「進むべき時」の判断以上に、「退くべき時」の判断が難しい。なぜならば、新しいことを始めたリーダーは、自身の強い思いを推進力に変えて事業を進めることが多く、「退くべき時」の判断にはその推進力が大きな障害になってしまうからだ。ましてや、リーダーが事業のリスクや失敗の可能性について言及する周囲の意見を素直に聞くことは難しく、そうした反対意見を言う側近を遠ざけてしまうことが多いのではないだろうか。だが、林蔵は違った。アイヌやギリヤーク人の恐れや忠告を受け入れ、今が「進むべき時」ではないと冷静に判断し、次に訪れるチャンスを待ったのである。林蔵の強い意思、慎重な姿勢、そして周囲を尊重する謙虚さというバランスの取れた3つの気質が、優れた判断と決断を生み出し、世界史上の偉業を成功させたのだと私は思う。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 soji0329 日時 
「間宮林蔵」吉村昭著を読んで



間宮林蔵は幸運な人物だった、と私は思います。

樺太が島であることを発見し、世界地図に日本人唯一の名前がついた業績もさることながら、その後、隠密という危険極まりないミッションを完遂。死を覚悟し、生前に墓まで建てたにもかかわらず、畳の上で死ねただけでなく、時の将軍までメッセージをもらうほどの出世を果たしました。かれがなぜここまで幸運を手にできたのか、考察してみました。


1)人並みはずれた向上心を持っていたから

農民の息子と生まれながら功成り名を上げようという思いは、身分制度がない現代では想像し難いものがあります。武士でないというだけで、出世の道が閉ざされていた江戸時代。村上島之允に見出されて後、幕府に役人として取り立てられたことに対する恩義はとても大きなものだったでしょう。エトロフ島でロシア船の襲撃に遭うものの、戦わず逃走した上司への怒り。幕府への忠義心は、身分の高い武士に比べ人一倍だったと推測されます。

一方で、向上心の根本にあったのは、幕府に対する恐怖心でもありました。シーボルト事件で引っ立てられた容疑者の獄中で取り調べにあう様や、死罪はもちろん、家や私財を没収され所払いにされる描写を見るにつけ、栄誉よりも罰せられる恐怖が、かれを動かしたのだと理解しました。誤解を恐れずに言うならば、こうした恐怖を上手に活用できれば、自分も強い向上心も養えるのではなかろうかと考えた次第です。


2)現地と同化し、そこのルールに則ったから

恐怖は様々なところに潜んでいます。蝦夷に渡ったものの、本土とは比べものにならないほどの厳しい自然への恐怖。水腫病にかかってしまってからの死の不安。アイヌはもちろん、ギリヤーク人、オロッコ人など、自分と文化も風習も違う他民族への戸惑いと恐れ。これらに対しかれは、同じ言葉を話し、同じものを食べ、同じ服をまとうことで民族の風習に同化し、恐怖に打ち勝ち、蝦夷や樺太で生きていく能力を身につけました。

また、上司の意見に反論はあるものの、決して逆らうことなく従順に従うことで、無用の諍いを回避しました。雇い入れたアイヌに対しても山丹人への恐怖にかられ、行きたくないと懇願するかれらに無理強いをすることは決してしませんでした。過酷な環境で生き残るためには、現地のルールに則り、できるだけ人の心を乱さないことが不可欠であると教えてくれます。


3)観察力による危険回避に優れていたから

かれは身につけた測量技術を駆使して調査を進めていくかたわら、状況をつぶさに観察し、文章に残し、絵に描いたとあります。この観察力が幸運を呼ぶカギだと私は理解しました。象徴的なのが、ギリヤーク人の村に世話になった時のこと。女性上位の風習を見て取り、女性に取り入る一方、男性の嫉妬心を素早くキャッチし、諍いを回避した判断は、観察力とそれによる危険回避のたまものでしょう。

さらにこの能力は、高橋作左衛門から送られたシーボルトの手紙を開く前にも発揮されました。結果、かれはシーボルト事件に巻き込まれずに済んだのです。ルールに則る気持ちがあったからこそ、ともとれます。さらに隠密行動を無事遂行できた幸運もまた、この能力によるところ大であったと考えられます。


4)ロマンと信念を抱いていたから

これまで考察を進めて来ましたが、幸運を得られた最大の要因は、かれが抱いたロマンと信念ではないでしょうか。エトロフ島からの逃亡の責めを回避するための樺太志願でしたが、やがて、前人未到の地にたどり着きたいとの思いが強くなりました。その根底にあったのは、ロシアから日本を守ろうとする使命感です。当時は、日本という国体を意識する人はまれでした。支配層の武士でさえ、せいぜい藩単位でしか考えられない中、日本を守りたいというロマンや信念を語り、嫌がる人を説得する。やがてアイヌのラロニやギリヤーク人の酋長コーニのような信奉者が生まれ、皆が協力的になっていく。リーダーシップの基本を見た思いがいたします。

そして樺太からの帰還後、多くの人が話を聞くためかれを訪れ、かれの話に魅了されました。伊能忠敬もその一人です。日本地図を作る共通のロマンを持った二人。しかし考え方は対照的でした。自分の知見を息子に継ぎたいと腐心した忠敬に対し、かれは自分の技能は誰にも真似できないと、縁者に家督を継ぐことを固辞しています。孤高を貫いたかれの最期は幸福だったかは疑問ですが、少なくとも伊能家のような諍いは生みませんでした。うつろいやすい他人の評価にも揺るがない信念は、幸運を呼び込む重要な要素ではないかと考えた次第です。


その後、ロシアをはじめイギリス、アメリカと次々に日本を脅かし、やがてペリーが来航、日本は大混乱となります。国防の意識の芽を日本に植え付け、その栄光の中、開国を巡る政争が起こるわずか10年前に、人生の幕を閉じることができた間宮林蔵。まるで日本という国体を考えさせるために、天から遣わされたと思うのは私だけでしょうか。

幸運とは一体何だろうか。間宮林蔵の生涯を読んで、そんなことを考えさせてくれた、有益な一冊でした。ご紹介、ありがとうございました。
 
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
1 間宮林蔵は幸せだったか?

 本書を読み、「間宮林蔵は成功者か?」と考えた。その答えはYESだと考える。
 一方、「間宮林蔵は幸せだったか?」と考えたら、よくわからなかった。

 農民出身にもかかわらず、樺太調査の功績を認められて高級役人に昇進。晩年は水戸藩主の徳川斉昭に重用された。身分制度がカースト制並みに徹底していた江戸時代、これほど大抜擢されたのは、彼の不屈の闘志と努力、それに強運のお蔭もあるだろう。一方、プライベートでは両親の死に目に会えず、親の決めた嫁には生涯一度も会えず、子供もおらず、ほとんど孤独死に近い最期を迎えている。
 間宮林蔵と対比しつつ並行して描かれるのが、先輩の測量家、伊能忠敬。間宮自身が「伊能忠敬は仕事面では抜群に優秀だが、厳しすぎて子供に嫌われ、温かい家族がいない。プライベートでは幸せとは言えないのでは?」と疑問を持つ。そんな間宮も、昇進して以後は両親と一緒に暮らす道を選ばず、キャリアに人生を捧げる。
 別の本で、伊能忠敬が50歳を超えてから日本地図作成の大プロジェクトに取り掛かって完遂させたことを知り、尊敬の念を抱いていた。その本は「遅咲きの成功者」としての伊能をフィーチャーし、「人生に遅すぎることはない」と読者を励ましていた。もちろんそういう見方もアリだろう。だが、輝かしい成功の裏に「普通の人間としての幸せの欠如」をきちんと描き切った作家・吉村昭氏の人間観察眼に、複数の角度から立体的に物事を見る意味を学んだ。
 間宮林蔵も伊能忠敬も、普通の人間としての幸せではなく、「自分の身体が朽ち果てて亡くなった時、どんな証を残せるか?」を最重要視して生き抜いた人物だと思う。
 二人とも見事に「樺太探検」そして「日本地図作成」という、数世紀後も教科書に載るであろう偉業を果たした。おそらく彼らは
「たとえ個人的な幸福を犠牲にしても、誰も成し遂げなかった偉業を成し遂げる」
「自分の生きているうちに評価されなくとも構わない。未来の日本国のために、自分の人生を捧げる」
という決死の覚悟ができており、肝が据わっていたのだと思う。その迷いのない断固たる決意には、武士道精神を感じ、畏敬の念を覚える。


2 時代の流れを読む力

 間宮林蔵の柔軟性、臨機応変さは、見ていて好感が持てた。
 樺太探検にあたり、アイヌの村の人々の懐に飛び込み、彼らと良好な関係を築き、謙虚に頭を下げて案内を頼む。凍傷に強くなるため、アイヌの人々と同じ食生活(魚中心)をすべきだと気づいて、いち早く実行。結果、寒さに強い体作りに成功する。
 また、樺太探検と調査のついでにロシア本土に足を踏み入れたことについて、幕府にばれたら「鎖国令違反」で罰を受けるのでは?それを回避するにはどうすれば良いか?…と先回りして慎重に考える、現実主義的なクレバーさを持つ。かといって、行動基準を幕府や上司に設定しているわけではなく、法律と身分制度、社会のルールを順守しつつ、権力を妄信しているわけでも、周りに流されるわけでもない。己が正しいと信じ、天に恥じない行動をとろうとする「ブレない自分」を貫く強さがある。
 シーボルトから手紙をもらってもすぐ開けず、勘定奉行に報告しに行くが、その馬鹿正直さと真面目さが災いして、後日、人々に「密告者」と陰口を叩かれることになる。一見気の毒だが、この時もし林蔵が、役人に報告せずにシーボルトからの手紙を受け取っていたら、後日シーボルトから不利な証言をされたかもしれず、もっと林蔵の立場は悪くなっていただろう。結局彼は、とっさの判断で最悪の事態を回避したように思う。

 現代を生きる自分が最も学ぶべきだと思ったのは、間宮林蔵が「異国船打ち払い令や鎖国体制が、そろそろ通用しない世界情勢になっている」と、時代の変化を見抜いていたことだ。
 私達もまた激動の時代を生きており、今まさに、これまでと同じ仕組みでは世の中が回らなくなってきている。新しいことをやるのは誰でも怖い。現状維持のまま、逃げ切ろうとする者も多い。しかし、鎖国中で海外の情報がほぼ皆無だった江戸時代、得体のしれないロシア人と戦うなど、並大抵の恐怖ではなかっただろう。その恐怖に比べたら、私達がポストコロナ時代に迎えるであろう新世界は、まだ予想がつくし事前対策できる気がする。

 未来を予測する最も確実な方法は、それを発明することだと、アラン・ケイが言っている。時代の変化や世界の動きに飲み込まれて無難にあわせるのでなく、自分が未来に向けて意味のあるものを創造できる生き方をしたい。およそ150年前、激動の時代に立ち向かった間宮林蔵の人生を学び、勇気を与えられた。

3 異文化理解

 アイヌ人の登場人物が出てくる小説を読んだのは、本書が初である。中国人とモンゴル人が、国境を接していながらも、文化や言語が全く混ざらなかったのは、両民族の生活スタイルが全く違ったためだと聞く。日本人とアイヌ人もまた、生活スタイルが全くため融合しなかったことが、本書を読んで推察された。
 一方、林蔵が漢字を書いただけで、中国人の役人の目が変わった場面も印象的だった。日本と清国では文化が全く違うが、漢字を書く文化だけは両者で共通していた。文字の持つ力を実感したが、アイヌ民族が優れた文化を持ちつつも弱体化したのは、文字を持たなかったためかもしれないと残念に思った。
 お互いの言葉が全く分からず、日本人とイギリス人と身振り手振りで会話をする場面など、どれだけ大変か、想像するだけで疲れた。グローバル化が進む現代、そんな時代の苦労など忘れかけていたので、想像力の良い訓練になった。
 
投稿者 vastos2000 日時 
一読後は、苛酷な探検から生還してすごいなぁ、遠い地に旅をして宝を手にして生還する物語を地でいった人なんだなぁ。そして極寒の樺太に住んでいる人がいるってこともすごいなぁと思うにとどまりましたが、地球儀をくるっと回してみれば緯度的にはデレンがあった場所とハンブルグやマンチェスターは同じくらいであることに気づき、なんでイギリス人やロシア人は樺太が島であることを確認できなかったのか?と思いました。
きっと、緯度だけでは計り知れない地理的条件や気象条件があってこの土地の探検を困難にしていたのでしょう。

では、日本人より寒さには強いはずのヨーロッパの人間が、樺太が島であることを確認できなかったのに、なぜ間宮林蔵は樺太が島であることを確認することができたのか?
この疑問をもって読み返しました。

その問いに対する自分なりの回答は、「林蔵には体力と覚悟が備わっていただけでなく、よく観てよく考える力があったから」というものです。


樺太の探検は寒さが最大の敵であり、それに伴う食糧難(野菜や果物などの食料が乏しい)がより一層厳しい状況をつくっていたと想像します。私自身、つい先日オリエンテーリングに似たイベントに参加した際に、(テントの中で)寝袋で一晩過ごし、5時間の間に未舗装路含め16kmほど歩く体験をして、寒さは気温5度でも体に応えるし、16kmも歩けば(普段サッカーやフットサルをやっているのに)日常生活であまり使わない箇所が筋肉痛になることがわかりました。(幸い、食料調達は困りませんでした)
その体験の後に本書を再読したのですが、いまよりも防寒具の性能が劣っていたであろう時代に、舗装されているわけでもない道を徒歩で進み、モーターや蒸気機関のついていない舟で海を進んで樺太の北端にたどり着いた事にあらためてその苛酷さを感じました。

体力については、きっと、村上の元で働く内に鍛えられたのでしょう。人間、環境と訓練次第で能力を伸ばせるものです。ましてや、移動手段が基本的に徒歩しかなかった時代の人間ですら驚くような健脚をもっていた人間(村上)について働いていたのですから。
そして、覚悟のもととなったのは、名誉欲のようなものではないかと感じました。シャナの事件に巻き込まれ、危うく罪は免れますが、公式に罪人とならなくても、人の目が気になり、名誉挽回したいとの思いから北方探検の意欲・覚悟が湧いてきたのではないかと感じました。
覚悟があったからこそ、一定の成果を収めた最初の探検だけでは飽き足らず、二回目の探検にでかけたのだと思います。

観察力・思考については、林蔵は、探検中は随所でよく物事を観察し、よく考えていました。
例えば、ノテトでの過ごし方(女尊男卑の人間関係に気づき、女達に取り入る→男達からの嫉妬に気づき、女達との接し方に注意する)や、防寒用具の使用方法(コンチを使用したり、熊と犬の毛皮の違いに気づく)など、情報を収集しその情報をもとに考え、行動に活用しています。

伝記や評伝が残る人物は、幸運に恵まれるケースもよく見ますが、林蔵は樺太探検においては、特に幸運に恵まれたわけでもなく、逆に不運に見舞われたわけでもなさそうです。
測地に関心をもって、その技術を身につけたという点は、時代の後押しを受けたという事はありそうですが、探検をした年は凪が続いたという訳でもなく、特別暖かい年だったというわけでもありません。基本的には自力でこの偉業を達成しています。

また、最初の探検や二度目の探検でナニオーに到達した時など、これ以上は進めないと判断したとき、後ろ髪を引かれる思いであったと想像しますが、それ以上の探検を諦めています。冒険家は引き際を誤ると命を落とすので、この判断は結果的に正解だったいうことでしょう。


林蔵は生き延びるため、探検を成功させるためだけでなく、探検の目的や、クライアントである幕府の思惑についてもよく考えています。鎖国令を破ることになっても、北方経営のためには東韃靼の情報を得ておくことは有用だと考え、リスクを承知で海を渡ったり、その地でのロシアの影響や支配状況を確認したりと頭をよく働かせています。


以上のように、自分が疑問に感じた事に対する解を探して読み、出てきた回答が平凡なものですが、「その平凡なことがおまえはできるんかい?」と問われれば答えに窮します。
字面で理解することは難しくないのですが、実行するのが難しいといったところでしょうか。
であるからこそ、覚悟を決めると大抵のことは成せるのだと思います。
私の2020年はまさかの異動から始まり、釈然としない気持ちを抱きながらフラフラした気持ちで過ごしてきましたが、来年にむけて、あらためて身辺と頭の中をきれいにして、進むべき方向をしっかり決め、来年は何事か成し遂げる第一歩にしようと思いました。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
本書を読んで驚いたことは、間宮林蔵の持つ類まれな判断力であった。エトロフ島でロシアから思わぬ襲撃を受けたときや、第一回、第二回の樺太調査のときなどさまざまな場面で林蔵は命の危険にさられる。しかし、林蔵は不利な形勢であっても状況を的確に把握し、どのような手段を講じることが将来的にベストかを判断し、それを実行に移す高い能力をもった人物であることが分かり驚嘆したのである。

彼の冷静な判断力が分かる印象的な例を上げると、林蔵がエトロフ島に駐在中、ロシアに攻撃を受けたときのことである。役人や島民たちは、ロシアから攻撃に浮き足立ち、隠れるか、島から逃亡することしか考えなかった。そんなとき、林蔵は、戦わない選択肢はないと主張した。なぜならば、仮に敵襲から逃れても、幕府からロシアの攻撃について取り調べを受けた際に、敵前逃亡したことが知れれば、幕府の役人の怒りを買い、重い処罰を受けることが目に見えていたからだ。このまま逃げきれても重い処罰を受ける危険があるのだから、今は戦うべきだと訴えたのだ。さらに林蔵は、もしここで逃げるならば自分は戦うべきだと主張したと後に証言してほしいと上司に願い出たのである。この言動には正直驚いた。なぜなら、目前に迫る敵のことではなく、数週間先の心配を考えていたからである。その場にいた同僚たちと異なり、林蔵は先の先のことまで考えて、今何をするべきかを決断する、冷静な判断力を持っていることが分かるのではないだろうか。この後、幕府の取り調べにより、戦わずに撤退を訴えた同僚たちは、裁定の結果、重い処罰を受けたが、林蔵は戦うべきと発言したことが認められて逆に称賛されたのだった。

また、彼の能力の高さが分かる印象深いエピソードとして、第一回の樺太調査に際に林蔵が別行動を取っていた松田とノテトで合流したときのことである。林蔵は上司の松田から「樺太は島に違いない」と言われ動揺した。しかし、林蔵は松田に同じ情景を自分の目で確かめたいと訴え、林蔵はアイヌ人を引き連れて、松田が到達したという場所まで北上し、松田と同じ景色を見た。戻った林蔵は松田に「半島かどうかは分からなかった」と松田と異なる意見を述べて、松田が当惑させたことがあった。このエピソードでも分かるように、林蔵は上司の発言や解釈を盲信せず、主観で事実を歪めることをしないことが分かる。同時に、自分に都合良い解釈をせず、客観的な確証が取れるまで断定しない誠実な人柄でありことが分かる。ただ、松田が樺太は島に間違いと言ったことも理解はできる。極寒の地で長期間、探索を続けて、常に命を危険を感じながら調査を続けることは、精神的にも肉体的にも相当な負担と疲弊があったと想像する。そんなときに現状行ける最北端に到着して安堵し、到達できた偉業に満足し、樺太は島であっとほしいという思いから、島であると決めつけてしまった気持ちは分からなくもない。しかし、林蔵は、松田の同じくらい疲弊した状況であったのにもかかわず、島はまだ北に伸びており、北の様子が分からないのだから、安易に島と言い切るべきではないと松田にきっぱりと訴えたのだ。どんな状況に置かれてもブレることなく冷静な判断を下せる林蔵の能力の高さが伺える。

最後に、彼は同行する仲間に対しても高い判断力を十分に活かしていた。林蔵は二度目の樺太調査では、必ずや樺太の全容を明らかにすると決意し北上を続けた。行く先々でアイヌ民族を雇い、道案内と荷物持ちを頼み仲間を増やしていった。北上を続けていたあるとき、攻撃性の強い部族と遭遇して、一同は命の危険にさらされてしまうが、何とか助かることができた。しかし、同行していたアイヌ人たちが激しく動揺してしまい、家に帰りたいと訴えた始めた。北上を続ければ、また同じ部族に出くわすだろう。もう危機的な状況にあいたくないと言い始めのだ。アイヌたちのサポートなしに林蔵が調査を続けることはほぼ不可能である。こんな場面で林蔵が取った行動は、アイヌたちの不安に寄り添い、アイヌたちの話を繰り返し聞いて、不安が解消されるように彼らに共感したのである。もしかすると林蔵とアイヌの関係ならば、アイヌ人たちにムチを打って強制的に、調査を続けることができたかもしれない。しかし、力にモノは言わせるのではなく、彼らが心穏やかになるように努めたである。こうした行動は、できそうでできないだろう。なぜなら、こんな危機的場面であれば、林蔵もアイヌたちと一緒になって不安になり、林蔵がアイヌに怒りをぶつけることがあるからである。しかし、林蔵は冷静に状況を観察して、アイヌとともに北上を続けるために、何が最善かを適切に判断して行動して、結果として、誰一人欠けることなく、アイヌと調査を続けることができたのだった。こうした林蔵の持つ高い判断力が、結果として樺太調査の完遂という快挙を実現させたのではないかと思ったのである。
 
投稿者 mkse22 日時 
間宮林蔵 を読んで

本書を読んで、間宮林蔵はまず直感力が高い人物であるとおもった。

「魚を食べているアイヌは水腫病になっていないから、
かれらをを見習って魚をたべるように」という老人からの助言に
素直に従い、嫌いな魚でも食べようとする姿勢は
なかなか真似することはできないだろう。(少なくとも私には難しい)
なぜなら、魚を食することが水腫病にかからないために有効であることは
当時医学的に証明されておらず、したがって、その根拠がアイヌが水腫病になっていないという
経験則だけだからである。経験則だけではなかなか人は動かない。
同じく蝦夷地にいた足軽が水腫病にかかって亡くなっていたことがよい例だろう。

後年、その能力はさらに冴えていった様子で、シーボルトからの贈り物が届いたときには、
瞬時にこれを受けとると問題になる可能性を見抜いた。

さらに、彼の分析能力の高さも垣間見える。
他人から自分がどのように見られているのかを自己分析したうえで
自分の不利益にならないように行動しているようだ。

普段は船を課さないコーニーが林蔵には貸してくれたことや
女尊男卑の激しいノテトで、まず女性から好意を持たれるようになり、
さらには、林蔵に嫉妬していた男性とも親しくなることができた。

林蔵は、直感力と分析力の高さで、人生の3大危機であるロシア艦来襲事や
清国領の東韃靼への立ち入り、シーボルトからの贈り物の受け取りで、
いずれも処罰を逃れることができた。

彼は、分析力を基礎にした慎重さと直感力を基礎にした大胆さを兼ね備えた人物ともいえるだろう。
これらは、現代のできるビジネスパーソンに求めれれている資質のように感じた。
この2つがあれば、ビジネスの世界でも成功しやすくなると思われるからだ。

しかし、その能力の高さが逆に仇となったようだ。
3大危機のひとつのシーボルトから受け取った小包を幕府に届けたことがきっかけで、
彼は密告者としてのレッテルを貼られてしまう。
林蔵は小包を幕府に届けたことをきっかけに作左衛門を陥れたと周囲から思われたからだ。

密告者としてのレッテルを貼られた林蔵は、周囲から白い目でみられつつ
幕府の隠密として生きていくことになる。

ここに、私は人生の難しさを感じた。
地位や評価が高くなるほど、他人からの注目をあつめてしまうせいだろうか、
その人の行動が思わぬ誤解を生んでしまうように思える。以前と同じ行動をしていてもある。

他人からの注目には羨望のまなざしもあれば、嫉妬もあるため、
どうしても隙あらば成功者の足を引っ張ろうとするものが現れてしまう。

だから、地位や評価があがればあがるほど、その人はより自らを律する必要がある。
そうしなければ、あっという間にせっかく築いた地位や評価を失ってしまうからである。

シーボルトの小包を受け取る前の林蔵は人生の荒波をうまく泳ぎ切っていたように見える。
自分の仕事が幕府から評価されて「一生無役」という恩恵まで受けた。

第一回樺太調査を行って地図を作成したときからだろうか、
林蔵は作左衛門に手柄をとられたくないという気持ちから生まれ、
最終的には私生活が乱れていることを理由に嫌うまでになっていた。
このことが、林蔵を追い詰めることになる。
林蔵が作左衛門を嫌っていることが左衛門を陥れた根拠となってしまい、
密告者としてのレッテルを貼られてしまった。

地位や評価を得る前の林蔵なら、注目されていないがゆえに
このようなことにはならなかっただろう。
作左衛門を嫌っていることを周囲の人間に知られてしまったことが
林蔵のミスともいえる。

さらに、成功するためには、代価が必要であるとも感じた。
林蔵は名誉を得た。しかし、その代償として故郷をなくしてしまった。
彼自身も故郷がなくなったのは故郷を捨てたからだ、両親を放置して生きてきたから
神仏の罰が当たったのだと思っている。

林蔵の人生はまちがいなく途中までは成功者の人生だった。
ただ、嫌いなひとがいることが彼自身の人生を捻じ曲げてしまった。
この点が私の心に残ったことである。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 3338 日時 
 日本地図と言えば伊能忠敬。そして間宮海峡と言えば間宮林蔵。この二人の偉業を日本史で学んでから、何十年と経っているのに、なぜか間宮林蔵のことは詳しく知る機会がなかった。伊能忠敬に関しては、本も読みドラマで見たこともあり、ある程度の知識がある。
 ところが間宮林蔵に関しては、今回この本を読んで初めて、華やかな冒険者としての半生と、隠密として人と関わることのない孤独な晩年を知った。あまりに違う冒険者と隠密の生き方に、当惑してしまった。なぜ彼はこんな違う生き方をすることになったのだろうか?

太平の世が続き、武士が戦うこともなくなった頃、思いがけず敵は海外からやって来た。怖気付いて逃げる輩を尻目に林蔵は、引かずに戦おうとする。それがきっかけになって、冒険の旅に出ることになるが、非常に運がいいと思った。その後もその強運は続いて行き、最終的に間宮海峡の発見に至る。
 ついで、東韃靼の冒険に挑み、幕府が知りたかった情報を得ることにも成功する。
どちらの行程でも、生きて帰れたことが奇跡のような運の良さがある。何か問題があるたびに、思いつくことを試して行くうちに、次の行程へと繋がって行くのも、不思議だった。

 ところで、伊能忠敬は最初から地図を作ろうとした訳ではない。ただ地球の緯度1度に相当する子午線弧長を求めることに興味を持ち、(一度が何キロが知りたかった)ひたすらそれにアプローチしていたら、卓越した測量覗い技術を身につけ、日本地図ができあがってしまった。間宮林蔵も同じ匂いがする。異文化に興味があって、それを追いかけていたら、間宮海峡を見つけ、半島ではなく島だということを証明してしまった。
 このように、好きなことをことこん突き詰めると、何故だかそれが偉業に繋がってしまう良い例だと思う。林蔵は敬愛する両親と離れ、妻帯もせず、冒険の旅に身を置くことに、この上ない喜びを見出し、ひたすら冒険に勤しんだ。これは人智を超えた努力をした者だけが、授かる神様のご褒美なのかもしれない。 
天才と呼ばれる人たちは、須くこのような人たちだと思う。

 その後、晩年に至って偉業を成し遂げた林蔵の人生が一変するのは、シーボルトからの接触がきっかけとなった。林蔵は嫌な予感覚え、それを避けようとしたことで、結果的に大きな事件を防ぐことに繋がる。本来ならば評価される手柄であるのに、あらぬ疑いをかけられ、周りの人々から白い目で見られることになる。
 しかし、林蔵はそれに対して、言い訳するでもなく、弁解するでもなく、一人耐え、黙々と自分の仕事を全うする。この姿には見習うべきものがあった。私の母は、謂れのない理不尽な扱いをうけたり、言われたりしても弁解したりせず、ありのまま受け入れて淡々と生活していくことで、業が取れると私を言い聞かせてきた。言い訳すると叱られるので、ずっと理不尽だと思ってきたが、このような本を読むと本当にその通りだと思えてくる。
 幼い頃から理不尽なことを言われても、それを淡々と受け入れて惑わされない。そんな自分になりたいと努力して来た割に、未だに到達できていないことが、この本を読んでよく分かった。他人から言われることは、別段気にならないのに、普段家族から言われることが気になって、心を掻き乱されてしまう。
 林蔵のように大義を持つ人間には、小事であるとしか思えないことで、惑わされることがなかったと思える。だから、これからは小事に惑わされないよう、もっと真剣に自分と向かい合って、大義と思えるものを目標に掲げたい。

 さて、何度かこの本を読み返すうちに、晩年隠密になった林蔵が、前半の冒険者としての林蔵と全く変わっていないことに気がついた。冒険者としての林蔵は、異文化に触れることが本当に楽しくて、そのために命も顧みず旅立つ。その結果、実績が評価され、密やかに林蔵に使命が下る。その使命は林蔵が積み重ねてきた実績があればこそ、解決に至る類の使命と言える。だから、晩年に隠密として密命を帯びた林蔵は、探索することを楽しんでいる。露見すれば命に関わるにも関わらず、自分が今まで培って来たことを生かして、己が信ずるところを全うする。

 浜田藩(島根県)が行なっていた密輸を摘発、薩摩藩(鹿児島県)の密貿易に関する内偵。潜入困難と評判の高かった薩摩藩に潜り込んだ時は、城下の職人に弟子入りし、3年の間身分を隠して、遂に城内に潜入することに成功している。林蔵は自分にしかできない仕事だと信じて、公儀のために尽すことに誇りを感じていたと思われる。

最後に病を得た林蔵を心から慕い、家族と思って看病してくれた人がいたことは、神様からの最後の贈り物かも知れない。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
『発見と探索を繰り返す』


間宮林蔵は奇跡的な出世、成功を収めたと言える。林蔵の生きた時代は、江戸中後期で厳しく身分制度が敷かれた封建社会であった。その中で、農民から武士になり、そして最終的には幕府の老中、奉行または大名の相談役的な存在までになった林蔵の出世は、当時異例だったに違いない。更には、海峡の名前となって間宮という字が後世の世界地図に載ることになったのだから、只々感嘆するばかりである。私は、その間宮林蔵の人生を一言で表すと“発見と探索”だと考える。なぜならば、間宮海峡の発見、蝦夷、樺太、東韃靼の探索の他にも、林蔵は日々“発見と探索”を繰り返すことで出世と成功を遂げたからだ。

林蔵は逆算式に出世、成功を得たわけではない。逆算式とは、自己啓発、願望実現などの成功本によく書かれている、最初にゴールを決めて、そこからブレークダウンをして、やるべきことを見つけ出すという成功方法だ。例えば、3年後の具体的な転職目標を定め、そこから2年後、1年後のあるべき状態を割り出し、その目標達成に必要な資格、スキル、知識を考える。そして、それらを得るための具体的な行動を日々こなしていくという具合だ。一方で、林蔵が結果として使っていたのは積重ね式の成功方法だと考える。積重ね式とは、特に明確に目標を掲げる訳ではなく、好きなこと、出来ること、やるべきことを日々繰り返し、小さな成功を積み上げることが大きな成功につながるというものだ。例えば、林蔵は13歳の時に堰止め・堰切りの工事に関心を持ち雑用や使い走りを買ってでる、武士になってからは測地法の修得に一生懸命励む、そして蝦夷地では生き抜くためにアイヌの生活習慣、文化を深く学んだ。林蔵は、とにかく目の前にある課題に対して全力投球を行うのだ。そして、それらのことが有機的に繋がり、計算したわけでもなく樺太調査の成功を導くことになり、その後一生無役の恩典を授かり、果てには幕府要職者や大名のご意見番までに林蔵を押し上げるのである。何故、ここで逆算式と積重ね式の話をするかと言うと、私は現在の先行き不透明で様々な物事の前提が変わって行く、このコロナ下では逆算式の成功方法は有効性が低くなると考えるからだ。例えば、上述した例で言えば、具体的に転職目標を定めても、その職種が消えていくような事態になっているかもしれないのだ。であるならば、これからの時代は林蔵のように目の前のことに集中し、好きなこと、出来ること、やるべきことを発見し、探索し、それらを積重ねることが有効であり、より重要になるのではないだろうか。

では、林蔵のように好きなこと、出来ること、やるべきことの“発見と探索”を繰り返すことは、人生の中でどのように活かさせれるのであろうか。まず、改めてここでの“発見と探索”の意味を定義する。発見とは、純粋に今まで知らかった物事を初めて見い出すことであり、探索とは、その発見したことを探り調べるという意味である。そして、林蔵の特異なところは、見い出した物事に対する探索の意欲の大きさや打ち込む時の真摯な姿勢だろう。これが、人生を好転させる人との出会いに大きく影響してくるのだ。前段で挙げた例で言えば、まず、堰止め・堰切りの土木工事の手伝では、林蔵の旺盛な好奇心や献身的な行動が高橋島之允の眼に留まり武士の身分へと引き立てられた。次に、林蔵の人生の中で最も大きなターニングポイントになる樺太調査行きの手助けをしたのは、松前奉行所にいた高橋重賢である。その高橋も林蔵が実践的な測地法を修得していること、アイヌの生活習慣を身につけることで得た強健な身体、そして樺太探索への熱量に動かされたのだ。そして、アイヌやギリヤークの言語、生活習慣、文化、風俗を深く学ぼうとしていた林蔵の姿勢や熱量が、ノテトの酋長であるコーニやノテトに一緒に残ってくれたアイヌのラロニの胸を打ち、心を動かすことで協力を得る力になっていたことは間違いない。2人の現地人の手助け無しでは、林蔵の樺太においての偉業達成は考えられない。こうして見ると、これらの人との出会いによる運命の好転は、林蔵の“発見と探索”によって生まれたところが大きいと言えるだろう。

ここで、林蔵が出世、成功できたのは、元々彼の頭が良いからだという意見もあるだろう。確かに、幼少期に利発な子であったという記述があり、それが武士に引き立てられた理由ではある。しかし、私はそれ以上に林蔵の素直な性格と行動力がより出世と成功に繋がったと考える。例えば、蝦夷地で体調不良に陥った際、商家の主人の忠告を素直に聞き入れて、アイヌの生活習慣を直ぐに取り入れた時がそうだ。これは、私の推測ではあるが、おそらく林蔵と同じように現地の住人に忠告を受けながらも、聞き入れなかった者たちは多かったのではないだろうか。そうでなければ、毎年多数の派遣員たちが冬を越せず死ぬとは思えないからだ。おそらく、当時の蝦夷地のような未知に包まれた状況の中では、新しいことを試そうとはせずに、保守的、消極的になってしまった者が多勢を占めていたのではないか。であるならば、林蔵の素直さと、まずは試してみるという行動様式は、現在のコロナ下でも参考になるだろう。なぜならば、先行き不透明で未知に包まれた状況の中で、必要以上に保守的、消極的になるのではなく、林蔵のように積極的に自ら進み歩み“発見と探索”を繰り返すことが取るべき手段であると本書は教えるからだ。


~終わり~
 
投稿者 H.J 日時 
間宮林蔵。
本書を読むまでは、恥ずかしながら「誰?」という感じだった。
そんな私でも楽しめるほど面白い本であった。
農家に生まれ下級役人になった林蔵が、ロシア艦来襲事件の際には抗戦を主張しながらも敗走し、そのお咎めを受けるかもしれない状況で、その状況を変えるために皆がやりたがらないことに志願し、樺太調査に挑む物語。
当時、未開の地である樺太を島であると確認した功績をきっかけに有能な幕府の隠密活動を担うまでに成り上がるというストーリーはとても面白かった。
シーボルト事件という大事件に発展し、その評価が一変する様もまた史実としての深みを感じる。

さて、私が間宮林蔵という人に感じたのは、運という点を決断や行動で線にした人だという印象である。
たとえば、ロシア艦来襲事件の際に抗戦を主張した事実も久保田見達の証言が無ければ認められずにお咎めを受けていただろう。
このロシア艦来襲事件で生き延び、高橋重賢に出会わなければ、樺太調査の任も受ける事ができなかった。
そもそも、その樺太調査の任も林蔵の測量技術があってこその話であり、元を辿れば13歳の時に出会った村上という役人との出会いが始まりである。
勿論、このチャンスを即決でつかみ取るあたりも間宮林蔵という人の決断力や行動力を良く表してるエピソードに思える。
そう考えると、結果論であるが、点だった”出会いという運”を”決断や行動”で線にしている様に感じる。
村上に出会った時に村上の基で働くことを選択しなければ、測地術を学ぶこともなかっただろう。
なぜならば、林蔵の測量技術の基は、P80に記載している様に村上の脚力に興味を抱き、村上の地図作成を手伝ったからこそのものだからである。
また、ロシア艦来襲事件で責任者である戸田又太夫が証文を書く前に自害した場面の不運も点でしかなかったが、その際に抗戦を主張し続けなければ、久保田からの証言も出ずに高橋からチャンスももらえなかっただろう。
とはいえ、未開の地である樺太調査を即決で引き受けるあたりも凄いと感じてしまう。
この瞬間、命よりも敗走の罪を不問とされることの方が大事だったのかもしれない。
当時、人が為し得ないことを為し得てしまう人なのだから、さすがというべきか。
運だけの人でもないし、決断力や行動力だけの人でもない。
物語として読んでるからだろうか、私にはこういった点を線にしている印象が強く残った。

また、直感にも優れてる様子も読み取れた。
それは、シーボルトからの荷物を開ける寸前のところで鑑定奉行に届け出たエピソードだ。
小包の紐を解くシーンも普通であれば、そのまま開けてしまいそうではあるが、硬い紐を解こうとする場面で思いとどまる。
今までの経験からか、危機を感じたからである。
この危機を感じて思いとどまったことにより、罪になりうる行為を事前に防止した。
このエピソードは人によっては、林蔵の用心深さを象徴するシーンに映るかもしれないが、私には直感力が優れてるシーンに映った。
紐を解くのか困難だったこと、危ないと感じたこと。
この2つの偶然のうち、どちらかが欠けたら開けてしまっていたからである。
ここで開けてしまってたら、また違う人生だったのかもしれない。
そう考えると、直感は大事である。
 
投稿者 gizumo 日時 
間宮林蔵を読んで

いつの頃からか"名前"だけは知っている間宮林蔵。活躍した時代背景と共にその活躍が題材となる本書。内容は期せずとも登場人物は豪華で間宮林蔵本人に、伊能忠敬、遠山金四郎、シーボルト、横山大観、徳川斎昭、等々…。本書がドラマ化や映画化されるとどの俳優が演じるか興味津々で想像するだけで楽しめました。
しかしながら、読み進めながら「どこでとらえられ外国へ連れ去られるんだろう?!」「どうやって当時の異国に囚われた生活をするのだろう…?!」とワクワク?!…、そう私はすっかり「ジョン万次郎」と勘違いしていました。

何が彼をそこまで測量に向かわせたのか、出世も欲もそれほどなく、ひたすら打ち込む前半。過酷ななかで結果を手にし、そしてその栄光が時に敵にも味方にもなる後半。苦労の末に栄光をつかむサラリーマンの立身出世と俗世間のやっかみなど、考えてみると人間は当時から全く進歩していないのだなぁと改めて感じた次第です。
当時の北海道の過酷過ぎる自然とアイヌを始め地域土着の人々の暮らしぶりなど、大変貴重な描写と共に、意外と政治は組織として機能していたのだなぁとフィクションではあるが興味深く感じました。
時代背景もとくに日本にとってダイナミックな変化起きる時代であり、人としての生き方を考えさせられることも大きかったです。彼の人生が幸せであったかどうかは他人が決めることではなく、やりたいことをやり、親孝行はできずとも思い遣りと感謝を忘れず、仲間と交わし、人の恩義を大切にする…、自分にとって羨ましく、またそれでいいんだと力をもらえた読了でした。