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毎月1冊、しょ~おんが「これは!」と感じた本を、課題本として選んでいます。

その本をお読みになり、「感想文」を2000文字程度で書いていただくのが、「今月の課題図書」というプログラムで、この中から1名の方を優秀賞として選び、その方には10,000円分のAmazon商品券か、基本編セミナーの受講券を差し上げます。エントリーするには会員登録が必要です。会員登録はここからお願いします

 

優秀賞に選ばれるためには書き方にコツがあります。エントリーしようと思っている方はお読み下さいね。

 

この感想文は、「要約」コンテストではありません。このページに書き込む方はみなさん当該書籍を読んでいるわけですから、ストーリーやコンテンツを改めて説明する必要は無いのです。どうしても引用の必要がある場合にはその部分をカギ括弧『』で囲って下さい。

また、感想について主観的な感情を表す修飾語を多用される方が見受けられますが、小学生の読書感想文ではないので、「良かった」、「感動した」、「素晴らしいと思った」のような表現を使ったら無条件で落選すると思って下さい。ここで私が期待しているのは、この本を読んで、新たに気付いたものは何か?その気付きが内なるあなたとどういう対話をして、どういう思索を得たのか、その結果(可能なら)これからの人生でその思索をどう活かそうと思ったのか、という事を文字にするという事です。

初めてエントリーされる方は過去の課題図書からご自身がお読みになったタイトルを探し、その月にどういうエントリーが多かったのか、そして受賞した人はどういうコンテンツを書いたのかをお読みになる事をオススメします。

また、投稿に際しては、メモ帳などを使って清書してから、投稿欄にコピペをして下さい。投稿欄に直打ちで書くと二重投稿の原因になりますのでご注意下さい。

最後に、毎月二桁を超える方がエントリーされるという性質から言える事は、みなさん同じような目線で、同じような内容を書いてしまうという事です(同じ本を読んでいるのですから、似たような感想を持つのは当たり前です。)しかしこれでは選ばれません。だって他の人と同じならあなたが選ばれる理由がありませんから。

どこか他の人と異なるユニークな視点があるから、そしてそれが際立っているから受賞するのです。他の人と同じような事を書いても選ばれる事はないので、エントリーする前に他の人の書いたモノを読んでから構想をまとめて下さいませ。最後に、文字制限を大幅に超える投稿は選考の対象外になりますのでご注意下さい。

それではHappy Reading!

2017年5月の課題本

5月課題図書

 

漂流


私は冒険ものとか、危険をかいくぐって生還するたぐいのノンフィクションが

好きなんですが、本書もまさにそんなノンフィクションでなんと37日間太平洋を漂流して

助かった人の話なんです。

これだけなら、似たような話がいくらでもあるんですけどここからがスゴい。なんとその

8年後にまたまた海に出て、今度は帰って来られなくなっちゃうんです。一度漂流するだ

けでもレアな体験なのに2回もやっちゃうとは・・・っていうか、よく2回目の航海に出よ

うと思ったよなぁというその心境を味わいながら読んで下さい。

投稿者 hiroto77 日時
【考察・本村実が再び漁に出た要因について】

この本のテーマであり、この著者が追求した「遭難から救出された本村実が、なぜ、再び漁に出たのか」について、抽出したキーワードをもとに、追想しました。

・キーワード1「漂流」
海での遭難にはいくつかの種類がありますが、航路を見失い、自立航行により帰港および陸地への到達が不可能な状態を意味するのが「漂流」であると理解しました。
このルポの対象となった本村実氏は、通常では生還が難しい極限状態から戻った経緯と、再び行方不明となっている現状の特異性から、題材として選ばれています。
今までの「漂流もの」と、この本との相違点は、「漂流による惨状と奇跡の帰還」に焦点があるのではなく、「壮絶な経験と記憶を乗り越えて、再び漁へ出た動機と、現在行方となっている事実」に焦点があることを、このキーワードから確認しました。
そのうえで、「漂流した極限状態の検証」を追究するのみでなく、そこにあった「再び漁を出た動機」を強く意識しながら、読み進めることとしました。

・キーワード2「海洋民・池間民族」
私は長野県の出身なので、海で働くこと、漁業を生業とすることについての知識、感覚が全くありません。
今回、「海洋民」ついての認識、とりわけ沖縄の風土と民族としての歴史が結びついた「池間民族」の情報について、この本により、新しい知識を仕入れることができました。
そこから、海洋民としての冒険者たる血筋、DNAに刷り込まれている海と結びつきが「再び漁に出た」動機と無関係でないことを、連想しました。
通常、現代社会に暮らす私たちにとっては、日本の狭い島国の中で、祖先や民族の違いによるギャップや価値観の相違を感じなくなっているのですが、「仕事」や「生業」において、「その違い」が如実に現れることは、経験と学びから確認しています。
そして「農耕を基本とした先祖をもつか」、「狩猟を基本とした先祖をもつか」を根拠としたセグメンテーションは、仕事に対する認識だけでなく、思想や自己理解の深いところでも分岐が現れる要素だと、認識しています。
本村実氏は、明確に海洋民としてのDNAを備え、漁業を生業とする社会に生きている点で、再び漂流するかも知れないという恐怖よりも、海とともに生き、海に魅せられた民族としての本性が勝ったのではないかと、推測しました。

・キーワード3「マグロの時代」
動機の素地として、受け継がれてきた海洋民としての要素があるなら、次に来るのが現代社会での欲求、経済的欲求を満たす、「短期で儲かる」という事実です。
「一度出れば、半年は働かない」「金融機関が不正を手伝っても貸し付けたい」などの事実は、その経済的意味合いと、沖縄の風土と民族性に適した仕事であったことを、教えてくれます。
「南国気質」という言葉は安直ですが、仕事を生きる動機と考えるのではなく、生きる手段として捉え、酒と享楽を選択する気質は、北東の山の民よりも南西の海の民のほうが強い傾向にあると、考えています。
自分の命と家族の生活を賭けた一発勝負で「儲けた」記憶と感情は、その後の行動に強い影響力を持つと推測されます。
そこには「ギャンブル依存症」に近い感覚が、「遠洋漁業」には存在すると感じました。
これが、再び漁に出た動機として、存在したと考えます。

・キーワード4「サードマン」
最初の「漂流」で救助されたフィリピン人船員の証言のなかで、とりわけ興味を惹かれた言葉です。
遭難者が飢えと絶望の極限状態で見出す「第三の存在」を表していますが、この存在を確認したのは、このフィリピン人だけだったのかという疑問です。
脳の生存機能による作用であるという研究もありますが、今回、その現象は、本村実氏には現れなかったのか、現れていたとしたら、どういうやりとりであったか。
取材や証言からは、それは確認できませんが、本人が語らなかっただけかもしれない、という妄想は「隠された動機」を探る上では、面白いと感じました。

・キーワード5「最初に食べるのは船長」
同じく救助されたフィリビン人船員が明言し、本村氏自身も証言している「人喰い」ですが、この行為と、民俗学における「カンニバル」という習性が結びつきました。
王となり超越者となるための行為としての「人喰い」、飢えをしのぎ、生き延びるための「人喰い」については、動機や背景は全く異なりますが、行為そのものと「王を喰らう」「支配者を喰う」という点で、共通点があります。
海上において、船員の命に対し責任を負う「王」である船長を「喰う」という行為には、人間の太古の記憶が隠されており、その発露がこの行為だったと考えると、再び漁に出たのは、王として、再び君臨することを、本能に近い部分が望んだ結果だったのかもしれません。

この一連の追想により、極限体験をしてもなお、海に出た人間の動機を窺い知り、人間の不可思議さの要因を、学び知り、想うことができました。

【了】
投稿者 tsubaki.yuki1229 日時
『漂流』

これは、読まなければいけない物語だ。
 そう感じたのは、本書が「人間」と「自然」の関係を読者に考えさせ、圧倒的な力で、我々の意識を自然に対峙させるからである。
 自然の力は偉大である。地震にしろ台風にしろ、災害が起こる度、その巨大な力を前にして我々人間は為すすべもなく立ち尽くしてきた。もちろん科学技術の進歩により、ある程度は自然を人為的に操作できるようになったのも確かである。だが21世紀になってからも、本村実船長は漂流し、いまだ行方不明のままである。いかに文明が発達しようと、この先、自然の偉大さが変わることはないであろう。都会暮らしをしていると、自然の恐ろしさを忘れてしまう自分は、もう一度、自然に対し畏敬の念を掘り起こさないと危険だ。・・・本能的にそんな危機感を覚えた。

 本村実が漂流から奇跡の生還を果たして8年後、再び漁に出たのはなぜか?
 ・・・本書で繰り返される問に、私が漠然と出した答えは「本村、もとい漁師達と、海の結びつきの強固さ」である。漁師達と大海原の切っても切れない関係は、まさに人間と自然の関係の縮図である。
本来、人間は自然を、好き嫌いや善悪で評価することはできない。我々は、自然の恩恵を享受し自然に生かされることもあれば、逆に自然に命を奪われることもある。海で生死の境を彷徨った本村実が、その経験が原因で海が嫌いになったか?と言えば、答えはノーだ。本村実が再び漁に戻ったのは、文字通り「海で生きる以外、生き方を知らなかった」からなのだろう。
 与えられても奪われても文句を言えず、縁を切りたくても切れない。この関係は、血を分けた親子の縁にも似ている。海で苦労をして文句を言っても、海に惹かれ、海に戻らざるを得ない・・・という感覚は、理性でなく帰巣本能に近いとも言える。

 だからこそ、彼ら漁師達は海に対して、私達「陸の人間」が信じられないほどに、恐怖や憎しみの感情を持たないのではないだろうか。
 アメリカ古典文学に『白鯨』という小説がある。これは、巨大クジラに片足を食いちぎられた過去を持つ船長が、その巨大クジラに復讐を誓い、憎しみを募らせ、数年にわたって船員たちを巻き込みその巨大クジラを捜索する、という話である。船長は結局、クジラと死闘を繰り広げた結果、破滅する。

 この船長と『漂流』に登場する漁師達は、何と対照的なことか。漁師達は、ダイナマイト漁のような危険な作業で大怪我を負おうとも、家族や仲間を海で失おうとも、「自然(海)がやったことだから、恨んでも仕方がない」と、ある意味達観した姿勢を貫いている。一方『白鯨』の船長は、クジラを悪魔呼ばわりし、復讐の鬼と化した狂人である。はっきり言って滑稽でさえある。このマインドセットでは、一生幸せになれないだろう。彼を見ていると、憎しみにとらわれて生きるのは時間の無駄だと感じてしまう。これが『漂流』の漁師達ならば、クジラに足を食いちぎられても
「クジラも腹が減っていたんだよ。お互い動物同士なんだから、生きるために仕方なくやったことだろう。恨んだって仕方がないさ」
と考えるのではないだろうか。文学とノンフィクションを比較するのは強引だが、このコントラストは、自然を征服しようとする西洋人と、自然との共生に努めてきた日本人の、精神性の違いを表しているようにも思える。

 最後に、『漂流』の最終章で、カニバリズムが言及されたことが印象的である。
 筆者は、例えどんな極限状態にいようと「人が自らの生存のため、他の人の肉を食べる」など、信じたくなかった。そのため、一度目の漂流の時、フィリピン人の8人の船員達が一瞬でも「本村船長を殺して食べよう」と思った、という事実が発覚した時、それが俄に信じられず、葛藤する。
 私自身には、筆者の角幡氏のような葛藤はなかった。「それは大いにあり得る」と思ったのだ。サンデル氏の『白熱教室』(しょうおん先生の良書リストの一冊)第二章にも、他の船員に食べられたリチャード・パーカーの実話がある。
 私達は、陸の文明人の常識に囚われ、海の漁師達の生き方や哲学について、自分達の価値観でくくって考えてしまう傾向にあると感じる。例えば私は「海亀を逃がしてあげたから助かった」と本村氏のインタビュー記事も、まるごと嘘とは思わないが、新聞記者がストーリーを読者ウケするように脚色したのではないかと疑ってしまう。

 私達は日頃から、あらゆる空想に、耐えておくべきだと思う。特に、自分と全く異質で過酷な世界こそ、常識を捨てて、素直な目で見つめるべきなのだろう。なぜなら、人生は想像を超える出来事の繰り返しだからだ。自らが身をもって経験できることは限られている。ならば、本を読んで自分の世界を広げることが、絶対不可欠である。

 最後に、一言で「沖縄県」といっても、沖縄県は多くの小さな島で成り立ち、一つ一つの島に少数民族が住み、異なった言語(方言)や豊かな文化を持っていることを知ったことも、非常に大きな収穫だった。素晴らしい図書をお薦めいただき、ありがとうございました。
投稿者 audreym0304 日時
感想-漂流

 本書を読んでいるとき、イメージしたのは圧倒的な海の存在だ。それも砂浜や入り江ではなく、360度海しかない湾曲した水平線しかみえない海だ。
本村実氏が何を感じたのかを考えた。背筋が凍りつくような深い恐怖、その恐怖をもしのぐのは全てを超越した神の御許である海に抱かれて全てを運を天と海に任せ安心感にも近い気持ちだった。池澤夏樹氏の児童小説『南の島のティオ』にでてくる数百㎞離れた故郷に帰るため一人で手作りのカヌーに乗り海を渡った少年の後ろ姿がよみがえってきた。
 小説の中で一人海を渡った少年もしかり、本村氏をはじめ、自らを池間民族と呼び、先祖代々海とともに生きて死んできた人にとったら、常にそばにある海は生きる糧を与えてくれ、嵐や津波で与えてくれた恵みだけでなく命も生活そのものも奪い去ってしまう。人間の意志なんぞはるかに及ばない存在で、生きることも死ぬことも海があるからこそであり、男も女も大人もこどもも海があることで自分たちがあるのだろう。
 作家池澤夏樹氏が新聞のコラムで沖縄は東南アジアの最北端という記載をしたことがあった。地理的・気候的・文化的に見たときの特性を言い表したのだが、海洋民族が育んだあっけらかんとした感覚、思想、ある意味宗教的ともいえる死生観のつながりでも沖縄は東南アジアの最北端といえるし、池間民族には顕著のように思える。
 那智勝浦の海岸から出発した補陀落僧が生きてたどり着ける最南端が沖縄だったと考えると、海洋民族的感覚と西方浄土の思想からニライカナイという海の果ての楽園は生み出されたのは、いくら海洋民族でも海のほとんどが未知だったからだ。その海の向こうに浄土があるなら海で死ぬことは畏れることではないと思っただろう。考えてみれば、先史時代にすでに人類は大海原に漕ぎ出している。漕ぎ出した先にたどり着ける先があるかもたどり着けるかもわからないのに。それは補陀落僧にも冒険者にも似ている。
 本村氏がフィリピン人船員と違ってどこか達観したような雰囲気があったり、家族や親せきが「どこかで生きている」とおもうのにもニライカナイ思想と先史時代から受け継いだ遺伝子がが一役買ったに違いない。

 東南アジアやアフリカではいまでもダイナマイト漁は違法、危険と知りながらも続けている人たちがいる。昔ながらの生活を続けることができるのであれば、家族や地域で必要な分さえ取れればよかったのだろうけど、生活のすべてが経済社会に組み込まれている現代では魚を売って少しでも現金にするための生活手段なのだろう。それだって危険を伴う実入りの少ない割の合わない労働だ。
海洋民たるもの海の仕事に従事し、長期の漁に出ることも、長く家を空けることも、漁の最中に漂流し、命を落とすこともある意味仕方がないと思うかもしれない。今や遠洋に出ていく多くの海洋民が海に出稼ぎに行かなければ行けない事情が経済的な理由だし、それもオイルショックやさまざまな国際社会の事情と切り離せずにいることはきっと海洋民にとって大きなフラストレーションでありストレスだろう。

小説で多く書かれるように遭難者や漂流者が生き延びるために死んだ人間の肉を食べることや誰かを犠牲にしたことは昔からあるのだろう。本村氏も実際にフィリピン人船員から「あんたから真っ先に食う」といわれ、噛み付かれてはいるが、もし仮に、フィリピン人船員に襲われて食べられたとしても、海で生きる人間の本懐とおもえるのだろうか。食べられたとしても海洋民としての魂は海や食べた人に引き継がれるような気がしてならない。それは従来の意味の「死」とは違うように思う。
ウミガメを捕まえたものの食べずにひっくり返ってばたばたしているのを見て海に返したというエピソードも印象的だ。明日の生死もわからない人間がここでカメを食べても救助の確証もないのに生き延びることへの恐れがあったかもしれない。バタバタと必死で生きようとしているウミガメに強い生命力を感じて、死に近づいている人間には歯が立たないと思ったのか、このあと救助にあえず海で死ぬことになったらウミガメに申し訳がたたないとおもったのか。とにかくウミガメの生命力に歯が立たなかったのだろう。

本村氏をはじめ多くの漂流経験者がなぜまた海に戻るだろう。漂流だけではない、火事やその他の事件・事故が海の上の船という密室で発生すると船長のミスなのだし、そのミスをしてしまったのだから、海洋民としてのプライドは深く傷ついたにちがいない。海洋民だからこそ、海への畏敬の念は持ち合わせているだろうが、海に出ることは当然なのだ。だからこそ、海洋民である彼らは海がそばになければ生きていくことも生きている実感も持てない。陸では生きていけないのだ。あえて言えば、彼らが海に戻る理由は「そこに海があり、海でなければ生きていけない」からだ。
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