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毎月1冊、しょ~おんが「これは!」と感じた本を、課題本として選んでいます。

その本をお読みになり、「感想文」を2000文字程度で書いていただくのが、「今月の課題図書」というプログラムで、この中から1名の方を優秀賞として選び、その方には10,000円分のAmazon商品券か、基本編セミナーの受講券を差し上げます。エントリーするには会員登録が必要です。会員登録はここからお願いします

 

優秀賞に選ばれるためには書き方にコツがあります。エントリーしようと思っている方はお読み下さいね。

 

この感想文は、「要約」コンテストではありません。このページに書き込む方はみなさん当該書籍を読んでいるわけですから、ストーリーやコンテンツを改めて説明する必要は無いのです。どうしても引用の必要がある場合にはその部分をカギ括弧『』で囲って下さい。

また、感想について主観的な感情を表す修飾語を多用される方が見受けられますが、小学生の読書感想文ではないので、「良かった」、「感動した」、「素晴らしいと思った」のような表現を使ったら無条件で落選すると思って下さい。ここで私が期待しているのは、この本を読んで、新たに気付いたものは何か?その気付きが内なるあなたとどういう対話をして、どういう思索を得たのか、その結果(可能なら)これからの人生でその思索をどう活かそうと思ったのか、という事を文字にするという事です。

初めてエントリーされる方は過去の課題図書からご自身がお読みになったタイトルを探し、その月にどういうエントリーが多かったのか、そして受賞した人はどういうコンテンツを書いたのかをお読みになる事をオススメします。

また、投稿に際しては、メモ帳などを使って清書してから、投稿欄にコピペをして下さい。投稿欄に直打ちで書くと二重投稿の原因になりますのでご注意下さい。

最後に、毎月二桁を超える方がエントリーされるという性質から言える事は、みなさん同じような目線で、同じような内容を書いてしまうという事です(同じ本を読んでいるのですから、似たような感想を持つのは当たり前です。)しかしこれでは選ばれません。だって他の人と同じならあなたが選ばれる理由がありませんから。

どこか他の人と異なるユニークな視点があるから、そしてそれが際立っているから受賞するのです。他の人と同じような事を書いても選ばれる事はないので、エントリーする前に他の人の書いたモノを読んでから構想をまとめて下さいませ。最後に、文字制限を大幅に超える投稿は選考の対象外になりますのでご注意下さい。

それではHappy Reading!

2017年4月の課題本

4月課題図書

 

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか

アーミッシュはアメリカに住むキリスト教の一宗派で、現代文明を拒絶して昔ながらの暮ら

し方を維持している、一見ちょっと変わった集団です。なんたって自動車もパソコンも携帯

電話も使用が禁止されていて、移動には馬車を使うという徹底ぶり。おまけに結婚も同じ

宗派内で相手を選ぶので血が濃くなってしまい、さまざまな遺伝病に悩まされているという

グループなんです。

彼らはキリスト教の中でも異端と思われているんですが、そんな彼らが全米の注目を浴び

る事件があったんですね。彼らの住む町にはアーミッシュの子供たちが通う小学校がある

んですが(驚く事に、学校に通って良いのは中学までで、それ以上の高等教育も拒否して

いるんですね)、そこで銃乱射事件が発生したんです。結局5人の子供が亡くなり、5人が

ケガをするという凄惨な話になったんですが、全米が驚いたのはその直後です。

なんと、被害者の親、つまり自分の子供を銃で殺された人たちが全員、その場で銃を乱射

した犯人を赦すと表明したんです。被害者の誰一人、犯人を非難しなかったばかりか、犯

人の親を抱きしめてその罪を全て赦すと言ったんですね。

これが現代のアメリカで起こったため全米が、アーミッシュの価値観に興味を持つことになります。

彼らは交通事故だろうが、強盗だろうが、殺人だろうが、どんな事件に遭っても、

その全てを受け入れ、犯人を赦し、可能なら助命嘆願までやっちゃうんですよ。

なんでそんなことが出来るのか、彼らの心の中ではどういう思考と感情が立ち上がってい

るのか、ここに興味出て来ません?実はこれ、幸せになるためのショートカットだったり

するんですよ。宗教の持つ別な一面に驚くはずですから。

投稿者 dukka23 日時
「ずっとずっと以前、人間はいい奴ばかりだったが、
恐竜の絶滅と同時期に、悪い奴が出てきた」というのは、
船井幸雄氏の有名な説ですが、
その話が真実味を帯びるように、
このアーミッシュは「いい奴」の生き残りではないかと思ってしまいます。

アーミッシュは物理的、肉体的には、
我々人間と同じかもしれませんが、
中身、精神や魂と言うのでしょうか、それは全く別物と思ったほうがよさそうです。

ですが、輪廻転生や前世があるとの立場をとったとしても、
一定数はアーミッシュのコミュニティーに馴染まず外部に出ていく人や、
犯罪に走る人もいることを考えると、
決して先天的なものだけではなく、後天的、
すなわち教育や日々の気持ちの持ちようによって、
中身に宿るモノが違ってくるとも考えられます。

それがわかっているから、
アーミッシュのコミュニティーは外部との情報をほぼ遮断し、
独自の教育プログラムを延々と続けているのでしょう。
そして、それは今の私たちでも、
行動や価値観の持ち方によって、
少しでもアーミッシュに近づける、という意味でもあると思います。
もちろんアーミッシュの行動に一縷の望み、人類(人間もアーミッシュも含めた人型生物を指す)
の最後の良心を感じない人などは近づきたいとは思わない人もいるでしょうが、
仮に近づきたいと思ったときの話です。

その時には、「赦します」の一言が言えるようになれば、
まずOKなんじゃないでしょうか。ハードルが低すぎると怒られるかもしれませんが。

あのアーミッシュだって、「赦す」ことは難しいことで、
重い重い赦しほど、長い間付き合っていく必要があるといいます。
それは、結局、赦すべきことが起こった瞬間には感情は揺れ動き、
また「赦します」と言った後も、感情がこみあげてきて、
その都度、しかも長い間、葛藤をしているということ。
(その感情をひとまず「憎む」で括っておきます。)

このように、アーミッシュだって、神のように常に穏やかでいるわけではないんだ、
とうことを認識すれば、凡人の私たちが、赦すと憎むを往来しても全然構わないと開き直れると思っています。

だから、私たちが少しでもアーミッシュのようにふるまえるように努力するには、
日常生活で腹が立つことや、嫌いな人を思い出してイライラしても、
一言、「赦します」ということを口に出して言うことがファーストステップなんだと思います。

そして、この一言を口に出すことができれば、
あれ不思議、心がスーッと落ち着いていき、パワーがみなぎってくるので不思議です。
そして、まったイライラしてきたら、気が済むまでイライラして、
最後には、「赦します」という。この繰り返しをどれだけ積み重ねられるか。
それを意識でき、行動するだけで、「いい奴」になるための、
まずは一つ目のハードルをクリアしていく過程に入ったと思ってよいと思います。

テーマは重たく、矛盾も抱え、でも考えさせられる内容でしたが、
精神面、肉体面としては爽快感も残る方法も教えられた一冊でした。
投稿者 u013 日時
宗教=恥

私の祖母は、とある宗教団体の熱心な信者だった。

その団体は、過剰な勧誘行為が目立つとして世間から批判される事が多く、事実、父と母が結婚する際に祖母が提示した第一条件も、父の入信だったという。そんな祖母の信仰心を、母は猛烈に否定していた。

その影響だろう。いつの間にか私の中にも「宗教とは、誰にも言ってはいけない恥ずかしいものであり、生涯関わってはいけないものだ。」という概念が確立したのだ。

そこへ今回の課題書籍。概要を読むだけで寒気を感じ、読書中もまるで苦行のようだった。

アーミッシュの赦しが賞賛される度、心臓を吐き出したくなる嫌悪感を覚え、「宗教の信者に純真な心など絶対にあり得ない。加害者を赦して抱き合う?気持ち悪い。」という黒く重苦しい思いが全身を取り巻いた。

何度も、「コメントを書くのも書かないのも自由なのだから、今回は見送ろう。苦しい思いをしてまで読むことはない。」と手を止めた。

しかし、その度に、しょ~おんさんの「幸せへのショートカット」という本書へのコメントが頭をかすめ、「幸せになりたい!」という本能がパンドラの箱を開く原動力となった。

そうして読み進めるうち、私の中にある問いが生まれた。

アーミッシュには、光と影の両側面がある。赦しという心と行動によって、神との約束を忠実に体現する光の部分と、閉鎖的コミュニティがもたらす家庭内暴力や隠蔽体質といった影の部分。

ならば、「祖母の信仰心は、私にとって恥ずべき、憎むべきことだけだったのだろうか?何か学ぶことがあったのではないか?」という問いだ。

目を背けていることにこそ、これまでの自分では得られずにいた何かがあるのではないか、という思いに駆られたのだ。

そうした視点で考え直してみると、

●発表会、入学試験など、緊張と不安に挫けそうなとき、「おばあちゃんが毎日祈っている。守ってくださいって。だから大丈夫。」と言われるだけで、不思議と安心した。

●毎朝毎夕祈りの言葉を唱える祖母。100ページほどの祈りの冊子をスラスラと暗唱する様子を見て、「何度も反復し、習慣にすることで、こんなにすごいことが出来るんだ!」と感動。

●毎夕、ご先祖様にお供えをするという行為を通して、「もう会えないけど、ご先祖様はここにいるのかもしれない。」と思え、目に見えない魂の世界があるのは当たり前として育った。

以上三点が、祖母の教えとして特に印象強い。逆に、今でも虫酸が走るのは、

■教団には階級制度があり、上位に就任するには、お布施の金額が重要であること。

■嫌がる人にも執拗に入信を進めること。また、その勧誘方法が(ここでは公表できないほどに)強引なこと。

■下位の人間は総じてボロ家住まいであり、金銭的に困窮していること。

以上三点だった。

ここまで考えて、気がついた。私は、宗教という文化が嫌いなのではなく、心と行動が合致していない人間に違和感を感じていたのだ。

そうすると、しょ~おんさんが本書を課題図書にされた意図と、日々のメルマガで心を磨く大切さを指導されていることも線で繋がる。

宗教とは、人間の心と行動の関連性を観察するのに、最適な文化形態なのかもしれない。

これらを踏まえた上で、これからの課題だが・・・。

熱心な信仰心を持つほど、心の重要性を理解しながらも、教団トップのビジネスモデルに取り込まれてしまった祖母。その不安で寂しい感情は、私にも受け継がれている。

今は亡き祖母の人生を振り返ると、心の力の強大さに怖じ気づいているのが現状だ。

最後にはなるが、まずはアーミッシュに倣い、そんな自分と祖母の人生すべてを赦し、存在を認めることとする。

宗教嫌いだった自分が、宗教関連の本で癒されることになろうとは、まだ少しむず痒い気持ちで、赦すという単語を打ち込むにも手が震えてる。

だが、「この本と出会えて良かった。出会えなければ、祖母の教えまで否定したままだった。」と思うのも事実である。

そうまでして幸せになりたいのか。おっとりしていると思っていた自分の貪欲さに気がつけたのも、本書からの大きな収穫だ。
投稿者 J.Sokudoku 日時
 昨年メルマガで紹介されるまで、私の世界の中にアーミッシュは全く存在していなかった。その時、ニッケル・マインズ学校乱射事件においての彼らの行動を知り狐に包まれたようになったことを覚えている。彼らの価値観、文化や行動様式は今まで私の世界を構築してきたそれらとは掛け離れている。こんなにも違った世界に生きる人達が本当にいるのか…。
アーミッシュの存在を認識するということ。それが、私にもたらす気づきや変化は何か、本書を熟読し、思索にふけ、紐づけできそうな記憶を辿った。

1.赦しの持つ力
 3年ほど前、私の価値観を決定的に変えた出来事があった。本書を読み、その出来事が“赦しの持つ力”と深く関係していたのだと気づいた。

 “今、皆さんには『恨んでいる人』がいますか?”

これは、私が参加したVU編セミナーで先生が受講生に投げかけた質問の中の1つである。

 “悲しみや怒りは消えるけど、恨みや憎しみは消えません。その感情を持っているうちは幸せになることは難しい”

と、続けて先生が教示されたことを今も鮮明に覚えている。何故ならば、その時、確かに私には『恨んでいる人』がこころの中に居たからだ。私は、その人物に私の人間性や自尊心を踏みにじられたことに恨みを持っていたのだ。

 そして、セミナーの数日後、通りかかりの神社で何気なく参拝をした時のことだ。拝殿でいつものように親族と親近の人達の健康を長々と手を合わせて祈願していたその時、なんとその『恨んでいる人』が脳裏に思い浮かんだのだ…。一瞬迷ったが、神前ということもあり、気持ちを落ち着かせてその人の健康も心を込めて祈願をした。
 そして、神社を出たその時、それまでに経験したことの無い不思議な至福感に覆われたのだ。それは、心がス~ッと軽くなり、目の前がパ~ッと明るくなるとても開放的な感覚であった。正に本書にある
 「赦しは、それを与える者を癒し、より大きな活力と全体感をもった生に向けて開放する」(P.277)
という、こころと身体が癒される感じそのものだったのだ。

 この出来事以来、その人物に対する恨みという感情が無くなってしまい、身の回りの物事が格段に上手く運ぶようになった。
 「大切なのは、恨みを抱えないこと」(P.205)
これと同じことをそのセミナーで先生が仰っていたのを覚えている。本書を読むことで、この神社での出来事と先生の教えの意味するところを明確に理解することが出来た。

2.アーミッシュの存在の意味
 今回、「アーミッシュの赦し」を通して彼らの世界を知ることは、私にとっては全くの未知の領域に踏み込んで行くことであった。殆ど事前知識を持っていなかったため、本書を読み進めている間は、驚きの連続であった。この感覚は、「こんな夜更けにバナナかよ」で鹿野さんを通して障害者の世界を初めて知った時と同じである。この2冊は、私にこんな世界もあるのだよ、こんな人達も存在しているのだよ、と教えてくれたのだ。
 そして、アーミッシュについて考えを巡らすと鹿野さんとの間に2つの共通点があるように思った。1つは、アーミッシュも鹿野さんも非常に不条理な状況に身を置かされたという点である。あんなにも、キリストの教える「赦し」という行為を純粋にそのまま倣うアーミッシュの人達をあのような惨事が襲うという不条理。
 「神はなぜ我々をこんな目に遭わせるのだ」(P.240)
という疑問をアーミッシュの人達が持つことには頷ける。また、鹿野さんは生得的に障碍を持ったが故にとてつもない困難と同居しながら生きなければなかった。
 『神様が僕に与えた試練は時に残酷に思う。神様が僕に与えた仕事は何かと思う』
鹿野さんが、そんな不条理な状況の中でこの疑問を持ったことも尤もだろう。
 そして、これらの疑問への答こそ、アーミッシュと鹿野さんの2つ目の共通点だと思う。それは、“アーミッシュの存在の意味”と“鹿野さんの存在の意味”が共に

 “関わった人、知った人の人生を変えるため”

引いて言えば

 “この社会を、この世界を変えるため”

に思えてならないからだ。
 ニッケル・マインズ学校乱射事件とそれに対するアーミッシュの赦しは世界の人々は驚愕させた。何故ならば、アーミッシュの“悪意”への対処法である“愛情”が、その外の世界の“悪意”に対する対処法である“報復”という手段とはあまりにも掛け離れていたからだ。この衝撃は、事件を知った人達に何かを感じさせ、考えさせ、そして行動に何らかの変化をもたらせたのではないだろうか。
 「乱射事件も悪だが、そこから生まれた善は、たくさんの人に影響を与えている」(P.253)

3.知ることは素晴らしい
 「アーミッシュの赦し」を例にしても全く知らなかった世界を自分の中に取り入れることが、必ずしも心地良いとは限らない。むしろ、こころの中に動揺が起こり、また暗い気持にさせられることも少なくない。しかし、その感情と向き合い、思考を重ねることで、新たな自分の世界を構築することができる。今回は、アーミッシュの存在を知ることで私の世界の中の愛情の質量が確実に多くなったはずだ。

 最後に、アーミッシュを伝えてくれた著者の方々、そして本書のご紹介に深く感謝します。

~終わり~
投稿者 lazurite8lazward 日時
強烈な衝撃と違和感と気付きを受ける書籍。

まず、乱射事件の直後に自分の子供を殺害された親が赦すと表明している点について強い衝撃を受ける。自身に置き換えた場合、仮に自分の子供が同様の事象に遭遇したならば許容できる余地は微塵もない。故にどのような価値観を持つと赦すという行動に繋がるのか、全てを理解することは難しいかもしれないが深堀りして考えてみる必要があるように思う。

読み進めても、事実は理解できるものの何故か違和感が払拭できない。なぜ違和感が払拭できないのか、暫く考えてみた結果「赦す」という言葉と書籍の全体の流れが少し合致していないのではないかという結論に至った。そこで原理原則に立ち戻って、原文を読んでみるとまずタイトルが違う。日本語版では『アーミッシュの赦し』となっているが、原文は「AMISH GRACE」となっている。「GRACE」は確かに赦すという要素も持っていると思われるが、語源を調べるとGRACEはラテン語のpleasing(喜びを与える/心地よい)という形容詞からきているようなので、GRACEの和訳としては「赦す」というよりも、「恵み」という要素の方が妥当なのではないかと感じる。仮に「AMISH GRACE」というタイトルを「アーミッシュの恵み」と訳すと合点がいく。この書籍のメイントピックの1つとなっている銃乱射事件でのアーミッシュの赦しは確かに重要であり興味深い事象なのだが、本書全体を通して著者が言いたいことは”赦したかどうか”ではなく、「アーミッシュの価値観と日々の習慣が彼らの幸せな生活の原点なのだ」ということにあると感じた。故にに赦したのはなぜかということに着目しすぎる事には違和感がある。

更にサブタイトルも和訳と原文で違う。和訳は『なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』となっているが、原文は「How Forgiveness Transcended Tragedy」であり直訳すると「(彼らは)どのような赦しをもって(その)惨劇を超越したのか」となる。原文と和訳の差という視点では、この原文のサブタイトルで2つ着目すべきだと思う。

まず「克服する(conquer)」や「乗り越える(surmount)」のような表現を使わずに、「超越する(Transcend)」を使用している点。この用語からも、本文中にもあるとおりアーミッシュは乱射事件があろうとなかろうと、既にその惨劇に囚われない価値観を持っていると著者が言いたいことがわかる。

次にサブタイトルの「Forgiveness」に着目すべきだと考える。Forgivenessには確かに赦すという意味があるものの、赦すという単語にはpardon、remit、excuse等もある。自身はpardonのようなイメージで本書を読んでいたが、forgiveが使われているとなると話は違ってくる。forgiveは語源をたどると「for:完全に」と「give:与える」が組み合わさったもので、完全に与える=赦す(or許す)という解釈になっている。つまり、「与えなさい、そうすれば与えられますよ」という意味が含まれている用語を使ったことになる。

実際に原文を読み進めると、アーミッシュが乱射事件の当日に殺人犯の家族に向けて『We forgive you』と言ったと記載されている。原文を読むことで、和訳を読んでいたときの違和感は「赦しとforgiveという言葉の背景情報の差」にあるとわかった。和文では赦すという言葉はどうしても、乱射事件という出来事がおこり、それを関係者がインプットした時点でその怒りと憤りを受動的に赦したと受けとってしまうが、forgiveという言葉が使われているとなると解釈は少し異なり、関係者が乱射事件をインプットして立ち上がった怒りと憤りに対して「赦しを(犯人とその家族に)与えた」という解釈になる。従って、著者が真に本書で着目したのは、アーミッシュの「赦し」ではなく、「赦しを与えた行為と価値観」にあると考えられる。

アーミッシュは聖書軸に置き、「まず自分から与えなければ、何も与えられない」という価値観の下、率先して家族を助け、隣人を助け、友人を助ける。与えることが幸せの第一歩だということを知り、アーミッシュ全体がそれを愚直に遂行している。従って当然アーミッシュ全体が幸せになる。本書乱射事件の奇異性とアーミッシュの独特な価値観及び赦しの文化が突出し、本書の本質をつかむのは難しいが、幸せの第一歩は常に”与える”ことからはじまり、それは常に神羅万象の法則であるということに本書を読んで気付かなければならないのではないかと思った次第。
投稿者 akiko3 日時
「アーミッシュの赦し」を読んで
  
 社会に揉まれ、多少の悪態もつき、嫌なこともあったがのど元過ぎれば…で環境が変わるとそんな負の感情も段々薄れていくが、数年前の人間関係は理不尽だなと、かつて経験したことのない苦しみを味わった。その人にも親がいて家族がいる。そう思い、負の感情にエネルギーを足さないようにはしてきたが、好きと問われるとノーコメントだろう。“私はその人を赦せるのか?”人生の大先輩は「赦すというと上から目線でちょっと違うと思う。(赦すではなく…と続けて話されたことは思い出せない)数年後に絶対によかったと思うから」と言われたが、その言葉は空に浮いていた。だから“赦し”というタイトルで自分の中の蟠りを推し量りながら読み、アーミッシュのようには赦せてないな、相手を非難したり復讐する思いはないが、愛情を注いで歩み寄ることはしてないし、関わることがない現在にあえて関わりたいとも思わないしと悶々とし始めた。

だが、赦すとは訓練であり、時間とハードワークが必要と話すアーミッシュもいて、「赦して忘れる」ことではなく、「赦したことがいかに癒しをもたらしたか記憶にとどめておく」と読み、相手に癒しが与えられるかよりも、主体は自分でいかに癒しが自分にもたらせているかが大切なのかな、だったら「数年後に絶対によかったと思う」という言葉も(発言者の意図は違うかもしれないが)自分の中にすっと入ってきた。あの頃よりも今の生活が断然心地よいし、“苦”“悲”に対する許容量も広がった(だからといって苦や悲に浸りたくはない)。何より自分が心地よい環境に自分を置く、人生を切り開く知識のインストールの大切さに気づけた、今の環境はあの頃の自分が“変えよう”と思った時点から続く変化の結果、過程にある。そんな風に、いかに自分に癒しや新たな出会い、経験が引き寄せる価値観が構築されているのかを振り返り、よりよいことを記憶に留めていくことと理解した。それは自分の意志で決めていく。

心ひとつの置き所、折に触れ、ポジティブに生きることの大切さは目に触れてきたが、ネガティブな出来事、背負いきれないと感じる課題に出くわすとお釈迦様が説く“慈悲”やイエス・キリストの“愛”を試されているとは思いつつも、出来ない自分に悶々としてきたが、よりよいものへと想像力を働かせ、慈悲や愛を出す方が希望を引き寄せ、心軽やかに生きられると、しっかりと自分に刷り込み、幸せな人生を歩んでいきたいと思いました。
今回も良書との出会い、置かれている環境の良さに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
投稿者 yashu50 日時
-アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか-を読んで

また少し世界が広がった事に感謝。本書との出会いをいただきありがとうございます。
"赦し"、人生の難題ではなかろうか。些細な事が許せず諍いを起こしてしまう。わが家では少し振り返っただけで程度差はあれど両手両足で数えても足りないほどよくある話だ。"許し"ではなく、許容しがたい出来事を認め消化しきった状態とでも解釈しようか。些細な事ではなく、私にとって全く許容できない事とは何だろう、そんなものあっただろうか。振り返ってみると、正直ない気がする。ただ忘れっぽいだけという事もあり得るが。。。そのお陰か今の私はとても幸福であると実感している。これから先もずっとこの幸福は膨らんでいくものと決まっている。だが仮に将来悲しむべき出来事が起こってしまったとしよう。その原因が憎悪の対象になるような事・ものであればこの幸福は萎んでしまうのだろう。その時に赦せればどうだろう。きっと膨らまなくても萎む事はないだろう。恐らくかなり難易度が高いスキルである。しかしスキルである以上、更なる幸福を求めるのであれば少しずつでも磨く必要がある。憎悪に転嫁せず、消化して赦す。難題だなぁ。
投稿者 audreym0304 日時
今回、日本語版が手に入らなかったがために「どうしても読みたい」という気持ちが先行し、英語で読んで深く考えさせられました。
アーミッシュの学校で起きた事件、そのごのアーミッシュが加害者やその家族に対し赦しを表明したことが世間の驚き、アーミッシュの行動や信仰に対し研究をしたりコメンテーターが意見を述べたりにつながったということは、私たち、ノン・アーミッシュには「赦し」という行為自体が稀有なもので、その価値観をもっていなかった、持っていても薄かったということではないか、と気づかされた。
加害者家族に向けた「赦し」という行為がどれだけ加害者家族を深く癒したかは想像をはるかに超えるものである。アーミッシュが事件後訪れた時、加害者家族はどんな罵倒をされるか、どんな復讐をされるか戦々恐々としたに違いない。ところが一転、「赦す」と伝えられた時、加害者家族はアーミッシュのなかにまさしく「神の慈悲」を見たことだろう。
 信教は問わず、人間にとったら大きな悲劇の被害者になったとき、「赦す」という行為はそもそもの選択肢にはあまりあがらないのが普通なのかもしれない。裁判等で加害者や犯人を「赦すことはできない」という被害者が大半だろう。

 アーミッシュの人々が言うようにこの世界で生きている以上、過去や未来を考えても神が与える数えきれないほどの悲劇に人間は見舞われることであろう。悲劇にあったときに私たちにはいくつかの選択肢が用意されていて、その両極に位置するものが「赦し」と大規模な破壊を伴う「復讐」になるのではないだろうか。そして、ほとんどの人が怒りや悲しみの感情に身を任せてしまうのだろう。国家間であれば神の名を借りた復讐とも戦争ともなり、さらに多くの悲劇をもたらすことになるのだろう。
 赦しを行うアーミッシュが特別な存在なのかというと彼らも普通の感情をもった人間であり、悲劇に見舞われれば怒り、苦しみ、嘆き悲しむのは当然だろう。赦しは彼らの教育の中で「神に赦されるために赦す」のだろうし、マイナスの感情に飲み込まれ、時間を止めないように未来を見据え、向かっていく原動力とするために「赦す」のだろう。これがどんなに苦しいことかも想像を超えてしまう。赦しを行う過程で神の存在を疑うこともあるだろうし、キリストが磔にされた時に言ったとされる「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と問うことだってあるだろう。信仰の深い人々にとったら、神を疑うことは悲劇に見舞われること同様に辛く苦しいものだろうが。
 自分が悲劇の被害者や被害者家族になった時に赦すことができるだろうか。どんな事情があれ加害者には社会的な制裁を望むし、加害者の家族も被害者という状況を考える余裕もないだろうし、なかなか赦すという段階にはたどり着けないのだと思う。
 別の銃乱射事件の後、アーミッシュではない人々が赦しをおこなったことも聞いたことがある。この人々がどんな宗教に属しているかはわからないが、犯人を赦している。この人々は失った家族や起こった悲劇より未来を生きようと思ったのだろう。そして、27年もの間収監され一時は死刑宣告までされた故ネルソン・マンデラ大統領は歴史的背景で分裂しかかった国を統治する際に大統領自ら「赦し」を行っていることを思い出した。
 歴史に名を残すような偉大な人だから赦すことができるというわけではないだろう。悲劇に対し、さらなる悲劇をもたらす戦争や報復を決める一国の指導者もいるのだから。歴史で大規模な「赦し」が行われていたら、戦争やテロや悲劇で苦しむ人は今よりも少なかったかもしれない。私たちにはいつでも「赦し」という選択肢は差し出されているのだから、できるだけ早く「赦し」を選べるようになれれば世界はよいほうに変わっていくかもしれない。

 人々が赦しにたどり着くための方法はどんなものがあるのだろう。
信仰心のある人には神に赦してもらうため、教育により「赦す」ことを身につけるにということもひとつなのだろうが、アーミッシュは家族以外にも教会という組織があり、周りに共感してくれる人もいることも早く赦しにたどりつくことができる理由のひとつかもしれない。
 信仰のない人や帰属するグループがない人には「私がわが運命の支配者、私がわが魂の指揮官なのだ」というマンデラ大統領が心の支えとしたといわれるある詩の一節が響くかもしれない。この詩はアーミッシュの人々が苦しみながらも前に進むために「赦す」にもつながるのではないだろうか。神が与えた悲劇に人間に裁量が与えられている部分で感情に任せず、自分を律し、赦す。そうすることで、きっと人は前に、明るい未来に進み、たくさんの人が「赦す」ことのできるより良い世界をつくることができるのだろう。
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