まぐまぐ大賞を受賞して考えてみた。

本日のメールマガジンでご案内したように、なんと弊誌がまぐまぐ大賞の「ビジネス・キャリア部門」で大賞を受賞してしまいました。

まぐまぐ大賞ビジネス・キャリア部門大賞

苦節6年、もうそろそろ7年、最初の半年は読者が2桁という状態から、今では5万部を超える配信部数になったおかげかと喜んでいたのですが、どうも事情はそんなに簡単では無さそうです。私は粘着質なせいか、この受賞リンクをあれこれほじくって、他の方が書いているメールマガジンをチェックしてみたんです。そうしたら総合大賞という私が受賞したのより一段グレードの上の賞を受賞したメールマガジンをチェックしてちょいとビックリしました。総合大賞と総合2位は分かる。私も数年に亘って購読していますから。読者数もそれなりですし。ところが総合3位のメールマガジンは聞いた事も無かったんです。で、さっそく登録をしてみたらなんとこのメールマガジン、読者が6000名程度だったのです。こう言っちゃ失礼ですが、たったの6000名の読者数で総合3位って、読者がどれだけアクティブなんだって話です。

まぐまぐ大賞の告知をしてから一定期間で読者がお気に入りのメールマガジンを推薦するんです。ここまでは分かっているのですが、そこから先の選考方法は公開されていませんから推測するしかありません。もちろんこの推薦人の数は重要でしょう。推薦コメントも重要だと思います。たぶんノーコメントで推薦するよりも、熱いコメントを書いた方が受け手としてはプラスにしたいはずですからね。たぶんIPアドレスのチェックもして同一人が繰り返し投票しないように(そういうのは除外する)しているはずです。そしてその推薦数の多寡によって受賞メルマガを決めるのだろうと思うのですが、総合大賞の読者数が14万人、総合2位が27,000人まではまだ分かる。特に2位のメルマガは朝と夕方の2回配信があるので実質日刊54,000部だから。これらのメルマガのコア読者が本気で推薦すればこういう結果になるのは分かるんですが、ここの6000部のメルマガが食い込んでくるとなると、この読者さんはさぞやみなさん推薦されたんだろうなあと思ったわけです。これが前述した「アクティブ」という意味です。

今日言いたい事はそこじゃなくて、この流れで他の受賞メールマガジンをチェックしてみたんです、特に読者数に注目して。この賞は全部で17の部門に分かれていて、それぞれで大賞(1位)から10位までを受賞メルマガとしているんですが、とりあえず1位から3位をザクッと調べてみると読者数が少ないんです。多いところで3万人くらい、少ないと1600とかです。ここでふと思考してみます。そうすると、この現実を消化させるにはふたつの仮説が成り立つ事に気付きました。

ひとつは、先ほども書いたように『人数は少ないけど、コアの読者がアクティブに投票した結果受賞した』という論理が成立します。もうひとつは、『そもそも少ない読者しかいないところで、たまたまごく少数の人が行動(推薦)して、どんぐりの背比べ状態で順位が付いた』という考え方です。前者なら発行者および配信スタンドとしては嬉しい限りですが、もし後者ならこの賞の意味というか意義がなくなっちゃうような一大事です。だってこれって、メールマガジンという媒体はもうオワコンだよ、という事ですから。

このまぐまぐ大賞って2008年を最後に中止になっていたんですが、今年6年ぶりに復活しました。この背景にメールマガジンをもっと活性化させてパイを拡大したいという想いがあったのは間違いないでしょう。みんながもっとメールマガジンを読んでくれれば、発行する人も増える、そうしたらそこにビジネスが成立するという流れが生まれるのですから。ところが現実にはこの流れが逆向きになっていて、パイは小さくなって来てるんじゃありませんかね。それは発行者としてヒシヒシと感じます。以前に比べて反応率が下がっていますから。だいたい今回受賞した事でどういう変化があったのかというと、読者が2名増えただけですから。(笑)メールマガジンという媒体の勃興期なら軽く2000人くらいは増えたと思うんですけどね。私がメールマガジンを書き始めた当時って、ちょっと広告を打つだけで週に5000人とか増えましたから。今じゃ5000人増やすのは至難の業、しかも反応率が下がっているから5000人の価値も半減してますし。

スマフォとスマフォアプリによって、欲しい情報がワンクリックで手に入れられるとなると、メーラーをいちいち立ち上げて文章を読むというやり方が面倒だと感じるのも仕方ないんでしょう。しかもほとんどがテキストメールで、文字飾りも、スタンプも、写真も載せられないとなると見栄えもイマイチ、それを文章で補うために分量が増え、ただでさえ日本語力が低下している若年層には読み切れないわけで、その結果見向きもしなくなった、という流れが容易に読み取れます。

ではどうしたら良いのか?

この問いはメールマガジンでご飯を食べていた人にとっては切実です。でもビビる必要は無いんです。見向きもされなくなったのは、メールマガジンという媒体であって、そこに書かれたあなたのコンテンツではないんですから。コンテンツが輝いていて魅力的なら、媒体を変えれば良いだけです。実は私もこれを考えていて、来年以降徐々に軸足を移動させようと思っています。

ひとつはスマフォアプリの作成。メールで受け取るのではなく、アプリを起動させる事でコンテンツを表示させるというやり方に変えていきます。これが最も時間切迫性が高いタスクです。なぜならスマフォのホーム画面に登録出来るアプリの数には上限があるからです。今はまだホーム画面に空きスペースがある人がたくさんいますが、あと3年もしたら空いているスペースは無くなるでしょう。そうなると新規アプリを登録してもらうためには、今持っているアプリを何か消さなきゃならなくなるわけで、このハードルはスゴく高いのです。だからこれは一気にやらないとダメなんです。

もうひとつはオウンドメディアによるブログ化です。メールマガジンというのは登録しなきゃ配信されないという弱点があるんですね。知らない人が検索で見つけてくる、SNSから流入するという事が難しいんです。なんたって配信登録をするという一手間のハードルが高いですから。しかも登録という行為自身が、自らを縛るというニュアンスを持っていて、「これからこのメールマガジンを読むぞ」という気合いが必要だったりするんです。お気楽ご気楽にテキトーに読み飛ばすという雰囲気とはちょっと違うんです。ところがブログは読み手にそんな心的負荷を与えません。読みたい時だけアクセスしてサラッと読める、気分が乗らなきゃ読まなくても良い、そういうメディアです。メールマガジンはそれに比べると重いのです。毎日発行者が有無を言わせず送りつけてくるわけですから、これって「読んであげてる」よりも「読まされている」という表現の方が近かったりします。その意味でブログでコンテンツを公開するというのもひとつの手段だと思います。私のところでも来年は日々のメールマガジンと同じコンテンツをウェブサイトで見られるようにしようと思っています。

最後はLINEの活用です。LINEに登録してもらいグループ配信でコンテンツを届ける。これが現時点で最も即効性、即配性、開封率、反応率が高い手段でしょう。ただしこれにはある程度の資金が必要です。これは私も検討中です。私はプライベートでもLINEをほとんど使っていないので、まずはここからかなあと思っています。そもそもほとんど外出をしないのでLINEを使う機会が会社員時代に比べて激減しているのが原因です。それでもこのメディアが独り勝ちをしつつある現状は理解しているので、この波に乗っておかないとマズいという自覚を持っています。

おまけで、これは私はヤル気がありませんが、自己顕示欲の強い方はYouTubeを活用するのも手でしょう。やっぱり動画ってインパクトがあるんですよ。情報を動画で配信するというのはこれからもっと増えるはずです。反対に音声データしか扱えないポッドキャストのようなものはシュリンクしていくんだと思います。

これからはこうやってメディアを多面的に運用出来るようにしておかないとダメだと思います。投資の世界の格言に、『たまごをひとつのカゴに盛るな』というのがあるんですが、これと同じでひとつのメディアだけに依存していたら、そのメディアがこけた時に打つ手がありませんから。そしてそれぞれのメディアには強みと弱みが明確にあるのです。ビジネスコンサル的に言えば、SWOT分析をしてみる必要があるくらいのテーマだと思います。

しかしこれはあくまでも『メディアの選択』というテーマに過ぎず、『コンテンツのクオリティ』とは全く相関関係の無い次元の話です。そしていつの時代も、メディアの変遷に拘わらず質の高いコンテンツを作れる人は生き残れるのです。その意味で、コンテンツ力を高める事が主で、メディアの選択はあくまでも従であるという位置づけがグラついてはならないと思うんですよね。

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世界がフラットになればなるほど

税金不払い批判は収まるか?アマゾン経済圏に消費税の網

こういうニュースを見ると、世界のさらなるフラット化に税制が振り回されている事がよく分かります。もともと税制というのは各国固有の制度で、よその国がどうだろうが関係無かったんですよね。日本だって私が子供の頃ってこんな感じだったんですから。それにしても昭和49年の最高税率75%って凄まじいなあ。これに18%の住民税が加わると、5億稼いでも3500万しか残らないって事ですから。

これが今では最高税率が所得税、住民税を合わせても50%になっているわけです。その結果なのかどうか分かりませんが日本の財政は赤字が続いているわけです。そしてもうひとつこれは間違いなくその結果なのですが、貧富の格差が広がりつつあると。それなら昔のようにお金持ちにジャンジャン課税すれば良いジャンと思う人がいるでしょうが、これが出来れば苦労はしないのです。それが世界のフラット化という事なんですから。

そもそも日本がなぜ所得税率を下げたかというと、欧米各国が同じように下げたからです。ここにアメリカとイギリスの所得税の推移が出ているんですが、やっぱり昔はスゴく高いわけです。これが段階を経て税率を下げているのが良く読み取れます。それと日本がどう関係するのか?と言えば、かつては関係無かったの。だって税金が高かろうが、その国に住み続けるしか無かったんですから。隣の芝生は青いよなあと思っても、隣の庭においそれとは行けなかった、そういう時代だったんですから。

これが世界がフラット化し、人や情報が世界を飛び回れるようになると(しかも簡単に、安く)、状況が一変します。人々は税金が安いところに移住しちゃうわけです。何も高い税金のところに住む必要はありませんから。そしてこういう税制って高額所得者から徴収する金額の方が、ビンボー人から集めたものよりも多くなるのがフツーなのです。ところがそんなお金持ちの人ほど情報を早く手に入れますし(だからお金持ちになれるのです)、アクションをするのに心的、物理的障害が無かったりするんです。

こうなると行き着くところは国家間の競争にならざるを得ないわけです。他が安くすれば自国もそうせざるを得ないわけです。そうしなければ富裕層がジャンジャン脱出しちゃうんですから。最近でもフランスでそういう事が起こりました。ヨーロッパなんて地続きですから、さらにお気軽に移住出来そうです。そういう競争の結果、日本の税金も安くなり、その埋め合わせをするために消費税(付加価値税)を導入したわけです。

ここまでは個人の話でしたが、同じ流れは法人(会社)にも押し寄せているようです。この記事は日経新聞の有料会員でないと読めないんですが、ヨーロッパ各国で、法人に対する課税を強化する流れになっているんです。特に消費税については、税制を変えて根拠地課税(本社やインフラがある場所に課税するやり方)から消費地課税(買った人が住んでいる国で課税するやり方)へ移行しつつあるんです。冒頭の記事もまさにこれの日本版というわけです。

ここまではニュースの解説プラス毒にも薬にもならない話をしました。ここから毒のある話をします。税制も法律の一部なんですね。所得税法とか法人税法という法律によって規定されているわけですから。これが世界のフラット化によって世界標準のようなものが徐々に出来上がり、各国がなんとなくこれに準じるようになるとするなら(すでに税制はそうなりつつあるという事を前段までに解説しました)、他の法律だってそうなるはずなんです。特に人権や命に関する法律については、徐々に横並びになって来るんじゃ無いかと思います。

具体的には、中国が自国民にやっている人権抑圧政策、言論統制を嫌がって中国のお金持ちたちがドンドン国を脱出すると、最終的にはこういう政策を止めざるを得ないのではないかと思うわけです。すでに中国の金持ちたちは香港、シンガポール、オーストラリア、カナダのような比較的移民の受け入れに寛容なところに絶賛脱出中だったりするわけです。この記事を読むと役人たちが真っ先に逃げ出しているみたいですから。国ってどこの国でも、一部の富裕層、一部の超絶に頭の良い人たちが運営しているようなもので、ビンボーで頭が悪い人たちだけがいくら集まってもまともになる事は無いんです。日本が明治維新後に急成長したのも、当時の知識階級だった武士層と、江戸の頃から資本家だった財閥が設計図を描いて国を育てたわけで、95%の百姓農民はただただそれに振り回されただけだったのです。(残り5%の中にいた優秀な人たちは刻苦勉励してこの上位層に潜り込んだんですけどね)

中国でも金持ちや、頭の良い人たちがドンドン国外に逃げ出すようになると、国力はドンドン低下します。為政者がそれに気付いたらこれは政策つまり法律を変えざるを得ないのです。それが世界のフラット化の行き着くところです。

同時に日本もまた他の国から見たら特殊だと思われている政策、法律は変えて行かざるを得ないでしょう。そのひとつが農家保護であり(これはTPPが進む事によってガラッと変わる可能性があります)、ひとつが医療であり、さらには教育、年金と言った社会保障制度は間違いなく世界標準に合わせようという流れになると思います。

ここのところ「小学生の英語教育」についての議論がやたらと喧しいのも、既に他国でこれが一般的になっているからなのです。その辺りはこのサイトを見てもらうと分かるんですが、日本以外のほとんどの先進国で小学生から英語教育をやっているんですね。これで日本だけがやらないとなったら世界のフラット化に逆行することになるんですから、為政者はやりたくて仕方ないと思います。

そして最後は、刑法に関するところも世界標準化に従って変更があるのかも知れません。もっと具体的に言うと死刑制度がこのまま維持出来るのかという話です。日本人の多くは死刑制度の廃止を求めていませんが、世界の流れは明らかに廃止です。そのうち、死刑制度がある国は野蛮だというプロパガンダが瀰漫して、日本もなし崩し的に廃止するようになるんじゃないかというのが現時点での私の読みだったりします。

世界のフラット化って、ここまで広い範囲に影響を与えるのです。そしてこの流れを止める事は誰にも出来ないのです。

 

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選挙に絡めて若者にアドバイスでも。

衆院選が公示されたわけですが(ちなみに衆参院のフツーの選挙は公示、これ以外は告示だそうです)、今回は投票率が50%を切るレベルにまで落ちるんじゃないかと思っています。過去の投票率推移は、
http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/
こうなっていて、前回は59%と過去最低だったんですね。

そうなると組織票を持っている某宗教団体や、労組のバックアップが期待出来る某政党に有利ですね。でも低投票率という事は、投票した人間の意志が反映されやすいとも言えるわけですから、ここは逆張りをした方が良いと思います。

そんな投票率ですが、このグラフを見ると60代が最も高く、次いで50代となっていて意外な事に70歳以上は第三位なんですね。これってやっぱりもう歳を食っちゃって投票所に行くのすら大儀になっちゃったって事ですかね。それでも分母が多いから彼らがヨダレを垂らす政策を止めるわけがありません。

これまた言われているように、20代はダントツの最下位でオマケに人数も少ないんですから、どの政治家も若者が喜ぶような政策をやらないわけです。でもこういう人たちも歳を取るわけです。じゃ、彼らが相応の年寄りになったら選挙に行くのか?というとこれはもう期待薄だと思います。これはこのグラフの多くで右肩下がりになっているのを見れば分かると思います。

つまりこれから10年、20年と時間が経てば経つほど、投票率は低下しその結果、ごく少数の投票に行く人たちの意志を付託された政治家が跋扈するという事です。それはいつの時代も、何らかの利権を背負った団体であって、そこに属さない人々に恩恵が降りてくる事は無いのです。

民主制の欠陥って、こうやって個人の幸福ではなく組織、団体の幸福を優先して実現させる事を推し進めるというところで、しかもタチの悪い事にここに異を唱える事が制度上出来ないというところだと思います。これは、前提としてあらゆる個人は必ずどこかの団体に所属して生きていると考えられたからなんでしょう。

そう、つまり現代人は徒党を組むという事が個人の利益を担保してくれる事になっているんです。今の派遣社員、非正規、ワーキングプア、母子家庭の貧困、待機児童問題などが解決されない(もっといえば放置されている)のは、彼らが純粋な個人の集まりだからです。これが何らかの集合として意思統一がなされ、上意下達的な動きが出来るようになると、日和見の政治家の流れはガラッと変わると思います。

マルクスが「団結せよ!」と喝破したのはまさに慧眼で、彼ほど民主制の本質を見抜いていた人はいません。(この言葉は共産党宣言の時のものですが、共産主義を実現させるために、既存の民主制を踏み台にしなければならなかったわけです。その意味では民主制の弱点を熟知し、ここを攻撃しなければ共産主義の成立はあり得なかったという点で、マルクスは相当程度民主制の研究をしたんだと思っています。)
つまり私が日頃説いている、「群れるな、孤高に生きろ」という生き方って、弱者には厳しい話なんですよね。本当はね、努力したくなくて、才能もない人はとにかくどこかに潜り込んで組織に助けてもらう、庇ってもらう必要があるんです。

ところがこのやり方にも問題があって、これをやると組織に中抜きされるというか、上前を撥ねられるというか、テラ銭を取られるわけです。大企業に於ける組合費の天引きなんてまさに典型例で、守ってもらう代わりに幹部になにがしかの付け届けや上納金、それに類する労働力を提供しなきゃならないのです。

ちなみに、日本人として生きているのなら最後のところ、我々は日本国という団体に所属しているわけですから、国家という組織が命や財産を守ってくれます。そのための上納金が各種税金なんです。その上納金をどうやって分配すれば公平になるのかというのを決めるのが政治で、そのメンバーを決めるのが選挙というわけです。

そう考えると、なぜ団結しなきゃいけないのかが分かりますよね。それは我々が日本国民という団体を構成しているからです。最も大きな枠組みのところで、団体という組織を作っているのですから、組織という呪縛から逃れられるワケが無いんです。

それは国家間の諍いを振り返れば分かりますよね。中国漁船が小笠原でサンゴを密漁しているというニュースを聞けば、日本人のほとんどは憤りの感情を持つはずです。それは我々が日本人という団体を構成していて、一人ひとりがそのメンバーだからです。殆どの人は、サンゴの密漁によって経済的不利益を被る事はありません。それなのになんでムカッとするのか。これはみなさんが日本という国家に属しているからなんです。自分に直接関係ない事でも、自分が所属する組織の誰かに不利益が起これば、組織を防衛しようという気持ちが働くのです。

これが官僚たちが省益の維持、拡大に躍起になる理由でもあり、宗教団体が他の宗教を攻撃する理由でもあり、究極的には国家間で戦争が起こる理由でもあるのです。この極少化された現象が、ヤクザの抗争だったりするわけで、我々は彼らの抗争を嗤う事など出来ないんですよ。だって構図としては全く同じで、違うのはスケールと手段だけですから。
で、話を戻すと、一生に於いて最も力や能力が無い時代は「若者時代」なんです。カネもなければ人脈もない、スキルもまだまだなら経験も積んでいない、そういう世代間競争に於ける弱者って、これはもうどう考えても若者なんです。そういう時代に、どの組織にも属さず生き抜くというのは、スゴく不利な戦いを選択したという事です。その意味で私は、学校を卒業したらまずはサラリーマンになるべきだと思っています。私が書いているメールマガジンは、そんな弱者である若手サラリーマンがどうやったらスキルや正しい知識を手に入れられるかという主旨で書き始めたのです。

だからいきなりスティーブ・ジョブズや、ビル・ゲイツ、スケールは小さいけどホリエモンみたいな起業家を目指しちゃダメだと思います。能力が無いヨチヨチ歩きしかできない、誇れるモノは体力だけという若者がいきなり起業なんてやっても上手く行くはずが無いんです。だってその人を守ってくれる組織は日本という国家だけになっちゃうんですから。国家が守ってくれるのは建前上、生命と財産だけで、後者の財産をまだ持っていなければ、守ってもらえるのは命だけですよ。しかもその守り方は、生活保護と国民皆保険制度が最後の砦なんですから。

これ以外の身を守ってくれる鎧というか傘というか、盾の役割をしてくれるのが会社という組織なんです。だからこれは最初のウチは絶対に手に入れた方が良いです。

でも都会の人は可哀想だよね。これくらいしか選択肢が無いんだから。これが田舎だと、集落、部落が手を差しのべてくれたり、場合によってはご近所さんがちょっかいをかけてくれたりするんですよ。だから田舎でその地域に溶け込んで暮らすというのは、これだけで新たなセーフティーネットを手に入れるのと同じなんです。もちろんここでも色々な形で上納金に類するモノを中抜きされますよ。でもこれは保険料のようなものですから。

こういう組織に属して、最初は自分を守ってもらいながら、徐々にスキル、ノウハウ、人脈を作っていって巣立ちの時を待つというのが良いと思うんですよ。

そう考えると、都会の若者は、会社以外に自分を受け入れてくれる組織を見つけてここに所属するという事をやった方が良いと思いますよ。一番受け入れてくれそうなのは、それこそ政治家じゃないですかね。親に見離されて、友達もいない若者が暴走族やヤクザの組織、場合によっては宗教になびいたりしますけど、それなら政治家の事務所を叩いた方が良いと思いますよ。

特に、非正規、ニート、ワーキングプアなんて人にはうってつけですし、こちらの方が勉強になるはずですから。しかも今はこの世界に飛び込んでくる人が、世襲を除いたら本当に少ないので、スゴくエコヒイキされると思うんですよね。

まさにこれが逆張りだと思うんですけどね。

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マイクロメディアの時代がやって来た

日々進化し続けるIT環境ですが、この進化のおかげで一般人が劇的な力を持てるようになりました。その力とは情報発信です。マスコミの事を第4の権力と良く言うのですが、なぜ彼ら報道関係者が権力者なのかというと、それは情報発信によって世論を作れるからです。過去、この権力を持つことは個人には不可能でした。取材し、文章に起こし、媒体に編集して、これを販売する。こういう仕組みを個人が持つ事など出来なかったのですから当たり前です。

ところがIT環境の進化がこの状況を変えてくれました。

今やフェイスブック、ツイッター、ブログ、メールマガジン、ウェブサイトを使えば誰でも自分の思うところを、思うがままに発信出来るようになったのです。さらにこのうちウェブサイトを除けば、初期投資は完全にゼロ(パソコンやネット接続環境を用意する必要がありますが)なのです。つまり、誰でもが自分のメディアを持てるようになったという事です。

第4の権力と言われた情報発信が、誰でも自由に出来るようになった。これが革命的変化で無くてなんなんでしょう。この変化により、マスメディア(多くの人に情報を届ける存在)だけではなく、マイクロメディア(少数のコアな人に情報を届ける存在)が数多く生まれるようになったという事です。このブログもそのうちのひとつです。これがどういう事をもたらすかというと、情報の供給過剰と、受け手の取捨選択能力の二極化、さらには新しいビジネスの創造の3つです。(範囲を広げればもっと論じる事が出来るんですが、プレゼンに於けるテーゼの最大値である3つに絞りました)

ひとつずつ解説をします。

情報の供給過剰とは、フェイスブック、ツイッター、ブログ、メールマガジン、Youtube、ウェブサイト(これらをまとめて以下マイクロメディアと呼びます)という情報発信ツールが広まり、タダもしくは安価で情報を発信出来るようになると、ここに多くの人が集まってきます。そうすると誰でもが、極端に言えば、「情報発信をしたい」と思っている人の数だけのマイクロメディアが乱立、林立する事になります。これが情報の供給過剰状態を作ります。

ところがこれを受け取る側の人間の可処分時間は増えていません。つまり情報収集に掛けられる時間というのはゼロサムゲームなのです。過去、新聞、雑誌、テレビにラジオというマスメディアを使って何らかの情報収集をしていた人が、マイクロメディアが生まれた事によってさらに情報収集に掛ける時間を増やすという事は、もうこれ以上は起こりにくいんです。だって今よりもスキマ時間が増えたり、自由になる空き時間が増えることなんて想像出来ませんからね。その状態で、供給元がこのような形で激増すると、当然の帰結として過去の媒体つまりマスメディアと新興のマイクロメディアとの間で、お客さんの時間の奪い合いが起こるという事です。
私はこれがここ最近のテレビ離れ、雑誌離れ、新聞離れ(ラジオはずいぶん昔から右肩下がりになっています)の主原因だと考えています。つまり旧来のマスメディアは、マイクロメディアとの競争に敗れつつあると言うのは言い過ぎですが、もともとマスメディア100対マイクロメディアゼロだった関係が、マイクロメディアの広がりによって80対20くらいになって来たという事で、ここに加えてマスメディア側の失策(電子媒体へのシフトの遅れ、オンデマンド化の遅れ、コンテンツのマンネリ化、信憑性に対する信頼の失墜などなど)によってその差がさらに縮んで来たという事なんだと思います。この競争はこれからはゼロサムゲームですから、新しいモノが生まれて広がれば、当然既存のモノが食われるのは当たり前で、これこそが時代の変化そのものなのです。

ですからこれからも旧来のマスメディアにとっては辛く厳しい時代が来るのは容易に予想出来るわけで、特に雑誌はよほど際立った個性と、差別化がなされないと壊滅状態になると思われます。

ここに雑誌の販売動向が出ていますが、月刊誌は10年で33%、週刊誌に至っては10年で46%も落ち込んでいます。

もちろん新聞もヤバい状態になっています。

新聞の推定購読者数の推移と今後予想

確実に減っていますね。この要因のひとつとして人口減が挙げられるのですが、人口減だけが原因ではありません。

10代4%足らず、20代でも新聞購読率9%…主要メディアの利用状況

これを見ると、新聞は10代で3.6%、20代で9.2%しか読まれていません。さらに新聞離れでは40代でマイナス11.1%、50代でマイナス8.4%、60代でもマイナス7.1%とこちらは中高年の新聞離れが際立っています。つまり、若者についてはそもそも新聞を読まなくなり、さらに過去新聞や雑誌を情報のソースとしていた中高年層が確実にネットへとシフトしているというダブルパンチに見舞われているという事です。これら若年層がこれから中年層、高年層になって行く時に、突然変異のように新聞を読み始めるという事は極めて考えにくいので、新聞というメディアも時代が進めば進むほど厳しい状態になるかと思われます。

このネットへのシフトのうち、どれくらいがマイクロメディアに流れているのかを示すデータは見つかりませんでした。マスメディアのほとんどがウェブサイトを持っている現状から推測するに、マスメディアが持つ電子媒体にも相応の流入があるはずなのですが、これらの有料読者数が紙媒体の減少を補っているという報道は目にしたことがありませんから、やはり一定数はマイクロメディアに流れている(つまり食われている)と考えて良いでしょう。

対するマイクロメディアも、

総務省調査、国内ブログ数は1690万。アクティブブログは約300万

日本の主要なSNSのアクティブユーザー数を調べてみた

を見るとまさに林立状態。これだけの数があると1日24時間全てを使っても追いかける事が出来ません。つまり、今という時代は情報と名の付くものが世界中に溢れかえっているという事です。

これらのマイクロメディアと旧来の紙媒体を中心とするマスメディアの大きな違いは、マイクロメディアが基本的に無料であるというところです。同じ情報を手に出来て、片や有料、片や無料となれば当然後者に人は集まります。テレビというのはNHKを除けば一見無料に見えますから、マスメディアの中でテレビの減少幅が小さいのもうなずけます。
さて、このように大量の情報が、いつでもどこでも手の届くところにあるという状況になると何が起こるのかというと、皮肉な事に情報の受け手が二極化するようになるのです。情報源が乱立、林立すると、当然ですが情報の質差は広がります。特に無料のマイクロメディアでは、取材力に雲泥の差がある上に、自らがメディアを運営しているという矜恃を持たない人が大多数ですから、ここには殴り書き、デマ、事実誤認という便所の落書き状態のものが多数混じってきます。だってそんな情報だって発信するのはタダなんですから。それ以外にも、主婦の書いているブログのように、日常のどうでも良いこと(今日はどこに行った、何を食べた、誰に会った、どこで買い物をしたなど)ばかりを公開している、どうにも「情報」というカテゴリに入れるのは憚られるようなものも存在しています。

ところがこうなると質が高いモノ「だけ」が生き残り、他は淘汰されるのかというとそうではないのです。悪貨が良貨を駆逐するの譬えよろしく、悪貨である質の低い情報もまた一定の規模で拡大し、再生産を繰り返すようになるのです。実はこれ、旧来のマスメディアの時代から変わっていないんです。正しいモノ、良いモノ、質の高いモノだけが生き残るというのならば、東●ス●ーツなんて新聞はとっくに駆逐されていなきゃおかしいですし、名誉毀損裁判でしょっちゅう敗訴している一部のゴシップ週刊誌なんて何十年も前に廃刊になってなきゃおかしいのです。ところがこういうモノが消えることはありませんし、いつの時代にも一定の比率を維持して存在するんです。

そしてこれだけマイクロメディアが乱立しているという事は、「メディア」というパイが拡大しているという事で、その結果、パイの拡大に伴って質の低いメディアもまた数的拡大を果たす事になるんです。

そうすると読者つまり情報収集をしている側というのは、有料無料に拘わらず質の高い情報を、適切なタイミングで入手出来る上位層と、どうでも良いような情報ばかりを手にして人生を振り回されてしまう下位層に分かれる事になるのです。というか、すでにこの現象は起こっているのです。ここ数年、誰が言い出したのか分かりませんが、「情報弱者」なる表現が市民権を得たようで、まさにここでいう情報弱者が下位層に分類されるべき人たちなのです。これが受け手の取捨選択能力の二極化という現象です。

ここで下位層にフラグされる人は、流されてきた情報を咀嚼、検証する事無く、他者を性善説で受け止め、さらにちょっとした善意も併せ持つというタイプの人で、街で出逢えば決して悪意を感じる事は無い人たちなのですが、無邪気というか無知というか、直接顔の見えないIT環境を使った情報社会ではでっぷりと太った牙も角も持たないジューシーなヒツジになる可能性が高いのです。かつてもこういうタイプの人たちは一定数存在していたのですが、既存のマスメディアには自制心も良心も、そして規制もあるのでこういう人たちを食い物にするという事は無かったのです。そういう時代が長く続いた結果、彼らに警戒心が芽生える事も無く、無防備且つ無邪気に時には自らの善意を拡散させる役割を担い、また時には自らが餌食となりお金を詐取されるという状況が生まれたのです。

そのような人たちが増加し、彼らへのアクセスが誰にでも簡単に出来るようになると、これをビジネスにしようという人たちが生まれるのは、古くからの習わしのようなものです。フィッシングサイトやニセモノサイトでの買い物被害、、LINEやフェイスブックの乗っ取り詐欺、宝くじや馬券が当たるというニセモノ情報商材の被害、やたら高額なセミナーの類の、アングラビジネスの氾濫と言って良い状況は、実はマイクロメディアの拡大と歩調を合わせているのです。

これが3つめの項目である、新しいビジネスの創造にも繋がるのですが、今紹介したのは下位層向けの、ほとんど犯罪と言っても良いようなアングラビジネスです。私がここでお伝えしたいビジネスの創造とは、これとは反対に位置している上位層向けの話です。

上位層に所属している人たちは、目的に合致した情報を自らのスキルで見つけ出し、これを精査し、バイアスの修正作業を行い、この情報を血肉に変える事が出来る人たちです。こういう人たちは、複数のソースを持つ事で複眼的な眼で情報を鳥瞰出来るため、情報を鵜呑みにする事がありません。つまり情報によって自らが操作されるというリスクを減らす事が出来るのです。彼らはネットに出ている情報つまりマイクロメディアが発信した情報に対して、情報の真偽、書き手が無意識に持っている価値観が影響を与えるバイアスの度合い、引用するソースの信頼度などを確認し、総合点を付ける事でその情報を取り込むかどうかの判断をしています。

そしてまた、必要な情報、役に立つ情報のためには時間を割く(その代わりに彼らは総合点が低いメディアを脱落させる事で、前述したゼロサムゲームのバランスを取っています)という姿勢を持っている上、自分という軸をしっかりと確立させた状態で情報の評価が出来るので、自分にとって新しいマイクロメディアに対する心的抵抗が低く、使えそうな情報は躊躇なく取り込んでくれます。逆に言えば、入り口を開けてもらうのは簡単ですが、すぐに追い出されてしまう可能性もあるという事です。彼らはこういう情報ソースの入れ替えを定期的にやる事で鮮度と確度を高めているとも言えます。これを具体的に言うと、「お、なかなか良さげじゃん」と思われれば、読者なり、フォロワーなり、場合によってはお客様になってくれる事もあり、そこまでの時間軸が比較的早いのです。ところが数回この情報に接してみて、評価を付けて総合点が低いと判断したら、あっという間に情け容赦なく切り捨てられるという事です。だってそこには無限と言えるくらいのマイクロメディアが氾濫しているんですから。

かつてのマスメディア全盛時代は、メディアの数が限定されていたのでとっかえひっかえソースを切り替える事が出来ませんでした。そもそも地方ではテレビでさえチャンネル数が少ないという時代が長く続いたんですから。そのためメディアには数少ない情報のソースとしての権威があったのです。マスメディアが、IT時代になってもかつての権威にふんぞり返っている間に、全く権威を持たないマイクロメディアが、情報の質と量だけを武器に切り込みをかけて来たというのが21世紀という時代なのです。しかもこのマイクロメディアが発信する情報は、幅が非常に狭くて深さがとてつもないという性質を持っていて、浅く広く出来るだけ多くの顧客を、テキトーなレベルで満足させるという生き方しか知らなかったマスメディアとは正反対の方向で勝負をしています。

狭くて深いというのは、ほとんどの人には見向きもされないが、ごくごく一部のニッチな指向性を持っている人には熱烈大歓迎状態になるという結果を生み出します。そしてマイクロメディアが数が増えてくれば当初は「範囲が狭くてニッチ」だったものも、マイクロメディア全体としてみれば、「広くて深い」という理想型を作る事が出来るのです。これはつまり、ネットのどこかをほじくればどこかに答えがあるはずだ(つまり範囲が広い)という事で、しかもここで見つかった答えがディープなものだと、もうマスメディアは要らないじゃないかという感情を持っても不思議ではありません。譬えていえば、家で食べるカレーがバーモンドカレーだけで育った子供が大人になって、カレー専門店にハマるようなものでしょうか。

これが即ちビジネスの創造に直結します。マイクロメディアという池では、ニッチだけどディープで役に立つ情報を欲しがっている人たちが釣り竿を持って糸を垂らしています。この釣り人が釣りたいと思っている魚の種類はほぼ無限です。人の数だけニッチの領域が存在すると言っても過言ではありません。ある人は鉄道に関する情報という釣り糸を垂れているかも知れません。その横では30年前の旧車の整備に関する情報を求めて糸を垂らしている人がいます。池の向こう側では、舅や姑との関係を良くしたいと思っているお嫁さんが竿を持ってウロウロしています。この状況を理解出来れば、彼らが欲しいと思っている情報を提供出来ればビジネスになると気付く人がいても不思議ではありません。

これが検索エンジンとはどこが違うのか。検索エンジンとマイクロメディアは親戚のような関係ですが、良く見ると別個の存在です。検索エンジンとはその都度、必要になる情報(魚)をウェブサイトを中心にしたマイクロメディアという池の中から探し出してくれる存在です。これは21世紀の最初の10年で極大化しピークを迎えました。このピークの直後に生まれたのがSNSを初めとするマイクロメディアです。これは新たな池で、ここにはある特定の種類の魚だけが泳いでいます。ここに行けばこのひとつの種類の魚しかありません。でもこの種類に関しては大きさや産地はどこよりも幅広く、数多くいるんですよという池なんです。人々がこの池には、この種類の魚だけがいると認識すると、この魚だけを求めて人が集まって来ます。ここに来る人は皆同じ種類の魚だけを獲りに来るという状況が生まれます。この池にどんな種類の魚がいるのかを調べるのに検索エンジンが使われるかも知れませんが、一度この池の存在が認識されれば翌日からは釣り人やギャラリーが自らの足で通って来てくれます。これが検索エンジンとマイクロメディアの違いなのです。

そしてこの池で何が起こっているかというと、自分の趣味、嗜好、価値観という特定の種類の魚に関する情報を捜し求めている人たちが釣り竿を持って集まって来たり、そんな釣りの様子を見に来るギャラリーが集まって来ているのです。彼らはそんな特定の種類の魚を共有、共感してくれる人々であり、ここでは彼ら独自のお付き合いが始まったりしています。検索エンジンとの違いを別な例で譬えると、検索エンジンは見知らぬ街に行った際にどこでお酒を飲むのが良いのかを教えてくれるツールです。たしかに美味しくて雰囲気の良いお店を紹介してくれるかも知れませんが、地元に帰ればもう行く事はありませんし、ましてや通う事などありません。SNSを初めとするマイクロメディアは、行きつけの馴染みのお寿司屋さんのようなもので、そこで食べるお寿司も目当てのひとつですが、常連さんたちとの交流もまた目的のひとつなんです。

つまり、このマイクロメディア時代では、自らが自分のカラーを前面に出したお寿司屋さんを開店出来るという事です。しかもほぼ無料で。あなたのお寿司屋さんで出すお寿司がユニークで、美味しければそれを目当てにお客さんが集まって来てくれる。場合によっては常連さんになってくれるという事です。問題は周りに無限と言えるくらいの競合がいるという事です。美味しく無かったり、ありきたりのネタだったりしたらあっという間に他のお店にお客さんを持って行かれちゃいますし、食中毒を出した日には店を閉じなきゃならないはめになります。

ところがここで生き残れるとステキな事が起こります。そもそも発信している情報(つまりあなたの池にいる魚の種類)はあなたの趣味、嗜好、価値観に沿っているわけですから、やっていて楽しいのです。仕事というと苦痛が伴うものですが、マイクロメディアを使った情報発信は、自分の好きな事をひたすらほじくってこれを発信していたら、知らぬ間に自分の周りに同じような趣味を持っている人たちが集まってしまったという事なんですから。いわゆる仕事の苦痛はここには存在しません。もうひとつのステキな事は、彼ら釣り人やギャラリー(寿司屋の例で言えば常連さん)が様々な形でマネタイズに貢献してくれるという事です。メディアでは書けないディープな情報を有料セミナーという形で購入してくれる人がいるかも知れませんし、アフィリエイトという形で応援してくれるかも知れません。人が多く集まり、その人たちの指向性が明確になればここには広告というビジネスが成立します。場合によっては本を出版するなんて事も可能でしょう。これを狙ってやっているのがプロのブロガーと言われる人たちで、中にはこれだけで生計を立てている人たちがいます。そこまで行かなくても、一定レベルの収入になればこれは事業ですから、確定申告をする事で経費参入、損益通算が出来る可能性があります。

ではここまでのハードルが高いのかというと、実はこれがそうでは無いのです。ハッキリ言えば、生き残るのはそれほど難しくありません。だって所詮はマイクロメディアなんですから。マイクロというのは、対象にしている人数が少ないという事です。あなたの作る池の性質にもよりますが、3000人程度のギャラリーが集まれば歯車が動き始めます。なんと言ってもディープでコアな情報を発信しているのですから、ここには冷やかしのギャラリーは集まらないのです。それなりに興味や関心を持っている人が集まって来るというところが、既存のマスメディアとは違うところなのです。マスメディアは特定の目的を持たずに、広く浅く情報を集める手段で、マイクロメディアは逆に徹底的に深掘りをした情報を集める手段なのです。ですからここに1000人とか2000人が集まればこれは大変な事なのです。そしてさらに、このギャラリーもあなた同様のオタクですから、彼らが感心するような情報をあなたが提供出来れば、これは口コミによって拡散し、放っておいてもギャラリーは増えていきます。

もし増えないとすれば、それはあなたが発信した情報が、ありきたりだったか、ギャラリーのこころを掴むレベルでは無かったか、あなた以外の誰かがすでに発信していたか、そのどれかなのです。つまりここでのキーポイントは、ユニークで、ギャラリーを喜ばせるコンテンツを最初に発信出来るかという事なのです。自分の人生でこの要素に合致するものが無いかをじっくりと考えてみると、たいていひとつやふたつは見つかるモノです。しかもこれ、自分の趣味、嗜好、価値観の範囲内にあるんですから。あなたが好きな物事、ハマっている事、人に負けないものを選び出してみたら良いと思うんです。これが見つかれば初期投資はほとんどゼロで、あなたの将来を変えるチャンスを手に入れる事が出来ます。

なんたってこのマイクロメディアという時代は始まったばかりで、これからさらに面白い変化が起こる世界なんですから。早くこの世界に飛び込んで、自分の池を作った方が良いのではないかというのが今の私の想いなのです。

 

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スマフォアプリはくせ者だと思う

遅まきながら、今年に入ってからタブレット端末を購入し、出張時に利用しているわけですが、これを使っているとドンドン『アプリ』というプログラムが増えてきます。これの正体は何かというと『特定の領域に於いて必要な情報を取捨選択するツール』と呼べるわけです。Yahooアプリなら、Yahooのページに書かれている事「だけ」を、一切のムダ無く表示してくれる。ANAのアプリなら全日空の飛行機に関する運行状況や予約、座席の指定という情報の操作、閲覧「だけ」をやってくれる。SmartNewsやアンテナなら自分の趣味に合いそうなヒマつぶしネタ「だけ」を集めて表示してくれる。乗り換え情報なら、地下鉄やJR、私鉄の路線案内「だけ」をやってくれる。共通しているのは、「○○だけ」をやってくれるという事です。

つまり、自分にとって不要なモノを排除し、必要なものだけを純的に抽出して最短の手順で手に入れられるようにしたのがこのアプリというモノなんです。これって一見便利なように見えますが、人間ってこういう情報だけに接していてはダメになると思いますよ。

欲しい情報、必要な情報「だけ」に接していると、あなたにとって新しい未知の世界は広がりません。欲しい、必要というのは、その領域について「知っている」という状態が前件になるからです。「知らない」のは箱の中身であって、箱自体は既知のモノなんです。ところが人間の成長というのは、未知の箱に出逢う時に起こるんです。いまみなさんが興味を持っている、必要としている、大好きである、そういう情報だけでは未来のあなたを構築する事は出来ないのです。

音楽でも文学でも同じなんですが、全然知らない、初めて聞く演奏家、作曲家、作家に触れる瞬間が最もワクワクするんです。なんだこれ、どうなってるんだ、これからどういう展開なるんだという不安と期待が綯い交ぜになった時のドキドキ、ワクワクする感覚を思い出したら良いんです。未知のドアを開けてドアの向こうに新しい風景が見えた、その時の喜びが人間のこころを刺激し成長させてくれるんです。

そもそもいまあなたが好きで、興味があるジャンルだって最初は未知の世界だったわけです。そのジャンルに出逢った時の事を思い出してみて下さい。偶然、ひょんな事から出逢ってしまった、でもそれに接していたら段々と味わいが深くなって気に入ってしまった、もしくは最初の出逢いの瞬間に打ちのめされてしまった、それが今ではこれなしでは生きていけないと思うくらいハマってしまったわけです。そうやって人は人生に於いて新しいジャンルを開拓して行くんです。

いま私が気に入っているモノとコトのすべては偶然の出逢いです。仕事も趣味も野良仕事も田舎暮らしも、好きな音楽や本のジャンルだって全部偶然そのあたりをほっつき歩いていたら、出合い頭のように私にぶつかってきて、初めはなんだこんなものと思っていたのが、いつの間にか私の人生で重要な位置を占めるようになったんです。スマフォのアプリで引っかかったわけでは無いのです。

まだGoogleの検索は良いんです。検索の結果、玉石混交色々なものが目の前に提示されて、それをあっちに行ったり、こっちに来たりしているうちに、未知のモノに出逢う可能性がたくさんありますから。フラッと本屋さんに入る楽しみは、興味も無い分野のコーナーでパラパラと立ち読みをしてみて「おお、これは面白そうだ」という本に出逢う瞬間です。CD屋で名前も知らない演奏者のCDを試聴して、「お、なかなか良いじゃないか」と感じる瞬間もオツなものです。

私は「目に見えるモノ」と「目に見えないモノ」という表現をしているんですが、最近の人は目に見えるモノにしか価値を見出せないように思います。そもそも目に見えないモノを認識出来ないか、認識してもそんなものは怪しいとか、非科学的だとか、たいしたものじゃないって考える人が多いんです。しかし物事には表と裏があって、これは表裏一体不可分の関係にあるんです。目に見える世界というのは目に見えない世界によって支えられているんです。特にこれから先の未来とか将来というのは、現在のあなたの目に見えない世界が材料になって作られるんです。

ですから、ここに一定比率で「知らないモノ」を混ぜ込んでおくと、人生が刺激的に変化して行くんです。こんなものに関わって何か良い事があるのだろうか、と感じるような事や、それって何?全然知らないんだけど、という事を毛嫌いせずにそのままの形でマルっと飲み込んでみる。そうするとそれが時間の変化と共に変質してきて、ある時あなたの滋養になったりするんです。だからサラリーマンで、本は読むんだけど全部仕事に関連する分野のものばかり、という人には新しい刺激的な事ってなかなか起こらないんです。そういう人生を続けていくうちに、刺激に対する感受性が失われてさらに同じようなルーティーンが繰り返されてますますいつもの代わり映えのしない毎日を送るようになるんです。

スマフォのアプリってそういうルーティーンを純化させる方向の圧力が強くて、こればっかりを使っていると、新しい未知なるモノが人生に占める割合がドンドン少なくなっていくと思うんです。今必要なモノ以外に価値は無い、必要なモノだけに接していれば良いのだという生き方って、「オレは世界の全てを知っているのだ」宣言しているのと同じです。もし、世界の全てを知っている人がいるのなら、その中から今の自分に必要なものを抽出する事も出来るでしょうが、もちろんそんな人はこの世にいないんです。むしろ世界のほとんどの事を知らない状態で生きているからこそ、そんな知らない世界のどこかに、あなたの人生を今より輝かせてくれるものがひっそりと隠れているわけで、そういうモノとの出逢いって冒険心を持って、エイヤっと未知の世界に踏み込まなきゃ手に入れられないのです。

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服が作れたら生活費はどれくらいやすくなるのだろうか?

先週仕事で東京に行きました。その最終日、家人のリクエストで日暮里の繊維街に足を延ばしました。ここはどういうところかというと、洋服などの生地を扱っている問屋さんが軒を並べている街なんです。食器類だと合羽橋が有名ですがあれの生地版というところでしょうか。家人はほんの少しですが洋裁をやるので、それ用の生地を買いに来たというわけです。

私はもちろん初めてだったのですが、駅からほど近いお店の店頭に、

ジーパン

ジーパンの生地がたったの1000円で売ってるんですか?家人に聞いたところ、2000円分も買えばジーパン1本くらいは楽勝で作れるとの事です。アパレルというビジネスもコーヒー同様水商売のニオイがして来ました。

そして家人お目当てのお店に入ると、あるわあるわ、生地のオンパレード。

生地

この1500円というのは1メートルの価格で、ちょっとしたスカートなら1.5メートルも買えば充分作れるそうです。ところがこれが製品になってお店に並ぶと15,000円とか20,000円になるんだそうです。

生地2

これなんてよく見掛ける柄なんですが、たったの500円。って事はこれでスカートを作ると原価は750円って事です。

他にはどういう生地があるんだろうと店内を探索すると、ギョッとするモノがありました。

スーツ

えーと、これ全部スーツ用の生地です。ネェネェ、スーツ1着作るのにどれくらいの生地が必要なの?と聞くとジャケットとパンツを作っても3メートルくらいじゃないかとの答え。って事は2400円で出来ちゃうわけですか?腕さえあれば。

スーツ3

この色をスーツに仕立てるとカッコ良くなりそうです。私はサラリーマン時代ずっとオーダーメードのスーツを着ていたから、生地を見ると仕上がりがイメージ出来るんです。これがたったの3000円か・・・

スーツ4

この茶色の生地なんて仕立てたら1着最低でも50,000円、たぶん70,000円くらいはしそうです。これにブランド名が着いて伊勢丹メンズ館あたりに並ぶと130,000円とかになるんですよね。

もちろんスーツを作れるようになるには、相応の修行期間が必要なんでしょうが、でも一度身に付けたら一生モノですよ。IT業界の勉強なんて5年もしたら廃れちゃうんですけど、それに比べたらこっちのスキルの方が役に立つんじゃありませんかね。だってこれって売値のほとんどが手間賃なんですから。この生地を使って仕立ててあげて20,000円とかなら注文来ると思います。自分でお店を持ったりしたらリスキーですが、ヤフオクで注文を取って仕立ててあげるというビジネスならノーリスクです。特に標準体型に収まらない方々にとってはオーダーメードは仕方が無いところなんですが、高すぎて二の足を踏んじゃうわけですよ。これが生地代プラス手間賃でやってくれるのなら流行ると思うんですよね。しかも今のご時世、こういうスキルを持っている人って減ってきてますから。

家人が洋裁にトライしたのも、既製品だと背丈の問題で着られないので自分で作るしかないという事情があったからなんですが、今では自分が穿くスカートくらいならなんとか作れるようになりました。この延長線上に面白い未来がありそうですよね。

スーツは作れなくても、シャツやパンツがチャチャっと作れると、外出用のオシャレ着以外は手作りで充分です。そうなると家計にとってどれだけメリットがある事か・・・こういう手作りスキルってものすごく威力があると思うんですけど、なんで流行らないんでしょうかねぇ。

 

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コーヒー豆が値上がり中?だからどうした?

昨日NHKのニュースを見ていたら、ここのところコーヒー豆が値上がりしている云々という報道を眼にしました。

その結果、コーヒーチェーン店でも値段が騰がってきているらしいです。

こういうニュースに触れたらちょっとだけ頭を働かせなきゃいけません。こういう報道を鵜呑みにすると都合が良いように誘導されちゃいますから。誰にって、あなたをある方向に誘導することで利益を得ている人たちにですよ。

という事でちょっと調べてみると、色々とウラがあることが分かって来ました。

まず、本当にコーヒー豆は値上がりしているのか?
この記事を読むと確かに値上がりしています・・・が、直近の1年では1ポンド(450グラム)で150セント(1ドル50セント)だったのが200セント(2ドル)になっただけですよ。

もうちょっと詳しく見るには、やはりコーヒー豆の先物取引のチャートを見るのが良いので検索してみます。そうすると、
http://jp.investing.com/commodities/us-coffee-c
(チャートのレンジを「1M」にすると2010年からの推移が見られます)
確かに今年に入って値上がりしてはいますが、3年前よりも安いじゃないですか。っていうか、去年の年末あたりがここ数年で底値だっただけでしょ。

おまけにこの値上がりって、笑っちゃうような金額でしょ(1ドル50セントが2ドルですから)。これで値上げが必要って一体どういう感覚をしているのか理解に苦しみます。ちなみに私が買っているコーヒー豆は、コーヒー専門店で買っていて100グラム400円くらいします。ま、これはごく平均的な値段です。我が家では毎回カップ3杯分のコーヒーを淹れるんですが、これに使う豆が15グラムです。(フツーはもっと入れるんでしょうが、ネルドリップだとこれで充分なんです)という事は、1杯あたり5グラムですから、金額換算をすると400÷100×5で20円にしかなりません。これが33%上昇したって(1ドル50セントが2ドルになるというのは33%値上がりしたという事です)26円ですよ。

しかもこの試算って、家庭で買えるコンシューマ価格であって、大量に仕入れをしているコーヒーチェーンではもっと安いはずなんです。たぶん、先物取引で表示されるような価格とほぼ同じ金額で買っているんじゃありませんかね。450グラムで2ドル(200円)という数字を使って、先ほどの計算をすると1杯あたり200÷450×5で0.2円ですよ。まさにジャブジャブ儲かる水商売ってこれの事です。豆を奮発して1杯10グラム使っても0.4円。これが50%値上がりしても0.6円です。これでも値上げが必要なんですか?日本のマスゴミがこういう真実を報道せずに、『コーヒー豆の価格が高騰しているから値上げもしょうがないよね』というトーンを作ろうとしている意図が全く納得出来ないんですよね。

日頃からニュースを鵜呑みにするなと言ってるんですが、こういう計算をしてみると意味が分かるでしょ?

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本当に公平な選挙にする簡単な方法はこれ

今回のエントリーはずいぶん前にメールマガジンで書いたんですけど、ここのところまたぞろ政治家とカネの問題がクローズアップされて来たのでブログにまとめてみました。

 

第二次安倍政権になってから、政治家のカネ問題が表面化せずちょっとはマシになったのかと思ったらやっぱりそういう事は無く、今回は改造内閣の目玉だった小渕優子氏で問題発覚、あっという間に辞任という結末になりました。

これはこれで書きたい事がたくさんあるんですが、今回は措いておきます。

それよりもネットを見ていて驚いたのがこれでした。

世襲議員リスト
世襲議員家の一覧

 

日本って本当に世襲議員ばっかりなんですね。
政治家って商売は世襲したくなるほど、世襲させたくなるほど美味しい商売だって事なんでしょうか。
こういう時にはググるのが一番。あっという間に結果が出て来ます。

なになに、月給130万円にプラスして文書通信交通滞在費として非課税で毎月100万もらえて、さらにボーナスが500万円、これに所属している党に一人あたり月65万円の立法調査費がもらえて、公設秘書2名と政策秘書1名分のお給料も税金で賄ってくれます。

さらにさらに、党には政党助成金が議員全体で319億円使われているようで、これを衆参両院の定数(717人)で割ると一人あたり4400万円という巨額になります。隠れたところではもう廃止されましたが議員年金という制度がかつてあって、引退後に庶民の数倍の年金をもらえたんですよね。
現金以外にも、新幹線のグリーン車を含むJRが乗り放題のパスに加えて国内線の航空券がもらえ、議員宿舎という名のマンションが使えて、衆参両院で200台のハイヤーがあって、海外視察と呼ばれる海外旅行には年間200万円まで無料で、往復ファーストクラスが使えるんです。
これがしょっぱい商売だという人はいないでしょう。もう笑っちゃうくらいボロい商売ですよ。
これで会期中に昼寝をしていても文句を言われないんですから、息子や娘がやりたくなってもおかしくありません。
しかもこれ、選挙以外には知性や常識、道徳心などを確認する試験が無いんですから。
ここで問題になるのは選挙です。とにかくこのハードルが高いので誰でもが立候補出来るわけじゃない(正確に言えば立候補するわけじゃない)のです。昔から良く言われるように、「地盤(選挙区の支持者)」、「看板(知名度)」、「カバン(選挙費用)」の3バンが必要で、これが揃わないと当選は覚束ないんですから。

ところがこれ、世襲議員には最初から具わっているわけですよ。
親が長い事地盤を開拓していれば、知名度が低くても地域の結束が固ければどうにかなります。自己資金が無くても(カバンが無くても)パパが持っているお財布(政治団体)を相続すれば問題ありません。
日本は法の下の平等を謳った国だったはずなんですが、最も美味しい商売をやろうとした際に出自によって大きなアドバンテージがあるというのは、これってある種のカーストじゃないんですかね。政治家の子供に産まれたら、それだけで一般平民に比べて極端に低いハードルを跨ぐだけで半ば自動的に政治家になれるわけですから。

しかも、この相続には相続税がかからないというオチまで付いています。

いくらなんでもこれってやり過ぎじゃ無いですかね。

これだけの巨利を受け継げるわけですから、相続税くらい払ってもらわにゃ釣り合いがとれません。
世襲議員は相続税代わりに、同じ地盤から出馬する場合には永遠に議員報酬半額とかね。

でもこういう制度変更は、まさに国会議員が立法化しないと実現しないんですが、自らの既得権益を無にするような変更を彼らがやるわけがないのです。
国会議員については、一票の格差問題というのがこれと同じ理屈で解決していません。
同じ理屈というのは、定員が減らされそうな選挙区(高知とか鳥取とか)で当選した議員が強固に反対しているからです。つまり、これもまた既得権益を守ろうとする争いなんですね。
つまり日本の選挙って、ドロドロの不公平さを制度として内包しているんです。
この不公平さが戦後70年近く正されなかったために、世襲議員が与党にも野党にも雁首並ぶようになったのです。
これ、予言出来ますがこの制度が変更されなければ、あと50年後には世襲議員が過半数を超える事は間違いありません。この状態は与党も野党も同じなんですよ。政権交代しようがこれだけは変わらないんです。

それで良いんですかね?この国は?

そういう時代になってしまったら、ビンボー人が這い上がる事がスゴく難しくなると思うんですよ、戦前のように。日本が軍国主義になったひとつの要因に当時の格差社会を挙げても良いくらいなんですから。(当時は累進課税が今ほど厳しくなくて、富裕層はひたすら富が増え続けてたんです。そのあたり、このサイトが詳しいです)

このような政治に関する問題を解決させるために一時期「政治改革が必要だ!」ってスローガンが流行ったわけですが、結局中選挙区から小選挙区比例代表制になっただけで、肝心の問題は一切解決しなかったばかりか、今度は死に票が増えちゃって民意が反映されにくくなっちゃったんですね。だいたい消費税だって民主党政権も自民党政権も増税に賛成したわけですから、庶民はどっちに投票しても政策を変えさせられなかったわけです。こういう政治状況がドンドン亢進するだろうというのが、世襲議員が今よりも増える世の中だという事です。で、これは彼ら政治家には解決させる意欲も意志も無いのです。つまり何度も言うように泥棒に自分を捕まえる縄をなわせてもダメなんです。

こんなのやる気になったら1円も費用(税金)を掛けずに、根本から直せちゃうんですけどね。

そのひとつの方法は、立候補する選挙区を毎回抽選で選ばせる事です。もうこれだけで今の政治にまつわる諸問題のほとんどが解決します。まず世襲議員の大半が落ちるでしょう。地元ではおぼっちゃまかも知れませんが、選挙区から一歩外に出れば世間知らずのバカボンというのが良くあるパターンですから。一票の格差問題もキレイになります。そもそも選挙区が固定化されていないのなら、既得権を持つ政治家にとってこの変更に抵抗する理由は無くなります。苦労してオラが選挙区の定員を維持しても、もしかしたら次回は都会が選挙区になる可能性があるんですから。そうなったら地方の議席を減らして都会を増やしておけば良かったって話になっちゃいます。

そもそも、こういう制度ならば親の方だって連続当選は難しいと思いますよ。今のように知性も教養も無くて寝技だけで政界を生き抜いてきた人が、何の実績もなく他の選挙区で当選するとは思えません。まじめに政策調査をして、議員立法をして、ソーシャルで自らの意見を発信し続け、そこに一定の支持者を全国規模で持てるようにならないと当選は出来ません。逆に言えば、そういう能力を持っている人には、公平なドアが開かれる事になります。つまり政界の人材が活性化するのです。

あらゆる組織は、人が一定のレベルで入れ替わる事で組織としての発展、成長が促されるのです。新しい人たちが入って来て、その分淘汰されいなくなる人たちもいる、そしてそこに競争がある。こういう状態はそこに所属する全ての人に危機意識を植え付けますし、その結果一人ひとりが成長し、よって組織も成長するのです。これと全く逆の構造になっているのが今の国会議員なんです。与党も野党も親から議員資格を受け継いで、同じ選挙区で何度でも労せずして当選出来ちゃう、おまけに当選するとカネも権力も思いのままとなったら、国を良くしようなんて想いが逓減してしまうのは当たり前です。その結果、日本では国債残高が1000兆円を超え、医療費は増え続け、年金は破綻寸前、それなのに何一つ有効な解決策が見つからないという袋小路に陥ってしまったのです。

日本の政治の問題は議員の定数でも、歳費の金額でも、世襲制でもなくて、根本の問題は議員が頻繁に入れ替わる事を阻害する制度になっている事なんです。長くやればやるほどその地位に留まりやすくなる、そしてそれをそのまま子供たちに譲る事が出来る、彼らはさらに楽にその地位に留まれる、ここに問題があるのです。それを抜本的に解決させるには、現職議員については毎回選挙のたびに、立候補する選挙区を抽選で決めるという方法が最も簡単で効果があるやり方だと思うんですよ。

 

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稲刈り完了です

今日は天気も良かったので稲刈りをやりました。

稲刈り前の我が家の田んぼはこんな感じ。

稲刈り前

お米が黄金色に輝いています。

黄金色

で、これをガシガシと刈り取り、稲藁で縛っていきます。

稲刈り中

稲藁で縛って、これを稲架にかける。こうやって天日で1ヶ月くらい乾燥させるのです。今では温風を吹き付けて乾かすのが主流ですが、天日で干すとお米が美味しくなるのです。

稲架にかける

まさ、ザ・田舎の風景って感じです。そして最終形がこれ。

最終形

ずらりと並んだ見事なお米たち。ところが今年は夏場の天候がイマイチで、去年に比べて3割くらいは収量が減っています。お米の粒も小さめです。ご近所さんも今年はダメだって嘆いていますが、野良仕事って天候に左右されるのでこればっかりは仕方ありません。ま、我が家は自家用ですから全く問題無いんですけどね。

来月はここに足踏み脱穀機を持ってきて、家族総出で脱穀をします。稲が出来ても食べられるようになるまでには、まだまだ仕事が必要なんです。88回手をかけるって言われていますが、本当に手間が掛かるんですよね。

 

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田舎暮らしは食費が安い 海産物編

今日は来客があるので、ちょっと奮発して山陰地方に魚の買い出しに行って来ました。山陰地方はどこも海産物が美味しいんですが、今回立ち寄ったのは鳥取県の琴浦町にある道の駅「ポート赤碕」です。

いりぐち2

ちなみに偶然ですが私はこの琴浦町にふるさと納税をやっていて、ちょっとした縁を感じています。ここに初めて来たのは去年の秋、たまたまバイクで通りがかってトイレを借りたらここの直売センターを見つけたのです。(ちなみについでで言えば、琴浦町に16,000円のふるさと納税をすると松葉ガニが2ハイもらえます)その時に買った一夜干しが信じられないくらい美味しくて、機会があったらまた来ようと思いつつ1年が経ってしまいました。なんたって我が家からここまで車で2時間かかりますから、そんなに気軽には来られません。でもとっておきという時には来る価値があるところです。

いりぐち1

中に入ると今日漁港に入って来た魚がずらり。あまりの品揃えに目移りがしますが、私的に目玉だと思われるものをいくつか撮ってみました。

めばる

カサゴバルが一盛り1000円って事は1匹250円です。

はまち

お次はハマチ。なんと1本500円。これを3枚に下ろしてもらえばすぐにお刺身になります。これは無条件で買いでしょう。

ばいがい

貝類も種類が豊富です。これはバイガイ。これだけの量があると大家族でないと食べきれないかも。

さざえ

ついにサザエ発見!今日はこれを買いに来たのです。このサザエを囲炉裏テーブルで炙って食べるとクッハーになれるのです。しかも10個で1200円って激安ですよ。

かに

ふと後ろを振り返ると紅ズワイガニが。ボイルしてなければ買ったんですがね。でもこのサイズで800円は安いです。お隣の境港に行くと3割くらい高いですから。

しじみ

そしてシジミは貝の大きさが違います。プリプリに身が詰まっていてひとパック500円。これは明日のお味噌汁用に買っておきました。

のどぐろ

最後本日の秘密兵器は、ノドグロの一夜干しです。しかも開いていないので、炭火で炙っても油が閉じ込まれたままで美味しいんだそうです。これ8匹入りでなんとビックリ1400円。桁間違っていませんよ、壱千四百円也ですから。ノドグロって高級魚なんですけど、これは一体どういう値付けなんでしょうか。

もし移住前にこの町の事を知っていたら、もしかしたらこっちを選んだんじゃないかってくらいの安さと品揃えです。魚は日本海に限りますなあ。

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