田舎暮らしは食費が安い

今日は我が家から車で20分ほどのところにある産直マーケットに行って来たので、その模様を写真と共にアップします。

田舎暮らしの醍醐味って食材にあるんですよね。とにかく新鮮なモノが、ビックリするくらいの値段で売っています。というか今では東京のスーパーの値段にビックリするんですけどね。特に野菜系は、東京の人が見たら憤死するんじゃないの、ってくらいの値段とボリュームです。

お店に入って野菜のコーナーをテキトーに見ているだけで、

ピーマン

ピーマンが8個入って100円です。

しゅんぎく

 

お鍋のお伴、春菊がたっぷり入ってこれまた100円。

みずな

東京だと京水菜って結構高いんですが、これまた100円。

さつまいも

葉物だけじゃなくて根菜類もあります。デカイサツマイモが2本入って100円。

じゃがいも

ジャガイモも一袋ギッシリ入ってこれまた100円。100円以外の値札は無いのか?ってくらい100円が続きます。

さといも

 

と思ったらようやく170円の値札を発見。これはサトイモ。昨日掘ったばかりだから美味いと思います。

だいこん

これは田舎ならではの大根の間引き菜。葉っぱが大きくなっていないので、そのままザクザクと刻んでサラダにすると美味しいです。こういうのは東京じゃ見掛けませんよね。

とうもろこし

変わったところではトウモロコシ。3本入って300円は激安じゃありませんか。東京じゃ真夏のシーズン中でももうちょっと高かった記憶があります。

しいたけ

今日の目玉はコレ。今日はこれを買うためにここまで来たってくらいの原木シイタケ。これを食べちゃうとスーパーで売っている菌床栽培のシイタケは食べられません。オガクズに栄養分を散布して作ったシイタケと、原木の栄養をじっくり吸ったシイタケでは味も香りも違います。これ、都会に住んでいた頃は乾燥シイタケしか見た事がありません。銀座の松屋デパートの地下食品売り場にはあるんですが、3個入って450円でした(笑)こっちは10個入って150円。

もち

お買い得品は野菜だけじゃありません。本日つきたてのお餅(もちろん餅米は新米)も美味しいです。豆が入っているので炭火で炙って食べるとクッハーな気分になれます。

かき

果物だって地物があります。これは柿。4個で100円はこれまたリーズナブル。これ以外にもブドウや梨も安かったです。

本日はビニール袋3つが一杯になるくらい買って、お会計は締めて1650円でした。(我が家の畑は端境期で、収穫が少ない上に、葉物野菜が上手く出来ないので買うしか無いんですよね。でも東京で買うとこの2倍はすると思います。

畑を持たなくても、野良仕事をやらなくても、これだけ新鮮な野菜がこの値段で買えるのなら、ひたすら消費者として生きてみるのもありだと思います。明日は山陰の方に行って日本海のお魚を見繕ってきます。果たして魚はどれくらい安いのか?野菜と魚が安ければ、トータルの食費が安くならないわけがありません。統計データでも、生鮮食料品(野菜や魚の事ね)は季節変動が激しいので除外されるくらいですから。田舎でもイオンとかのスーパーでは、季節変動や天候不順によって大きく値段が変わるんですが、このあたりではその上げ幅もかなり小さいと思います。その点でもオトクなんですよね。

安くて、新鮮で、しかもボリューミーと来たら野菜好きには堪りません。

 

 

 

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冬こそお湯割りだからこれが便利

私が住んでいるところは、実は中国地方でもかなり寒いところだと分かったのはもちろん移住後です。雪はほとんど降らないのに、冬は毎日氷点下で寒い朝にはマイナス10度近くまで気温が下がります。
そのくせ夏は県内でも最高に暑くて、1日の寒暖差が大きくて本当は葡萄とかを育ててワインを作ったら(マスカットは有名ですが)良いんじゃないかと思っています。

そんなところですから、もうこの時期の朝晩はかなり寒いです。
ちょっと前まではお風呂上がりはハイボールか焼酎の炭酸割りしか飲まなかったのが、氷が冷たく感じて来ました。

そういう季節にドンピシャなのは焼酎のお湯割りです。

ところが現代人って文明に毒されているが故に、寒い時期にお湯を取りに行くのが面倒なんですよね。
我が家もご多分に漏れず、ポットは1階のキッチンにしかありません。
去年までは1杯1杯、階段を降りてお湯を入れに行っていたのですが、これが段々苦痛になって来た・・・

やっぱり暖かい部屋で、手元にあった方が便利だよねえ、という事で買ってみたのが電気ケトル。

容量は800ccとポットに比べれば全然小さい。でも一人でお湯割りを飲むにはこれで充分。

使ってみて何より驚いたのが、あっという間にお湯が沸く事。お水をセットしてボタンを押して3分もしないうちに沸騰しています。こういう電気ケトルってお湯が沸くまでにかなりの時間が必要で、待っていてイライラするんですけど、最近のヤツはものすごく改善されています。セットしてトイレに行って、ネットをちょっと見ようと思ったらもう沸いていますから。

これに対して電気ポットって、とにかく沸くまでに時間が掛かるんですよね。
ラーメンを作るのにスープをお湯で溶こうと思ったらお湯が空だったりするとかなり凹みます。
間違って満タンにしちゃうと、確実に15分以上待たされます。これならヤカンで沸かした方が早いんじゃないのって思うんですが、そういう時に限ってコンロがふさがっていたりね。

でもそういう時にこれを使うとあっという間に沸いてくれるからとても便利ですな。

これならポットで保温しないで毎回使う度に沸かした方が、電気代は安上がりじゃないの?って感じです。
しかもほとんど蒸気が出ないんです。
お店では、「蒸気70%カット」って書いてあったんですが、使った感じほとんど出ません。残りの30%はどこに行っちゃったの?ってくらい何事も無く沸いてくれます。

テキトーに選んで買ってみたんですがこれは買って正解でした。

で、ついでに買ったのが浄水器。
ウチのあたりは何気に水がマズいので、前から買おうと思っていたんですよ。
でも大がかりな工事が必要なのはイヤなので、ちょっとお試しで気軽に買えるヤツって事で選んだのがこれ。

早速これを使ってお湯割りを作ったり、お茶を飲んだりしたんですがやっぱり美味いわ。
2ヶ月に1回フィルターを換えるのが面倒というか、ランニングコストが掛かるのでイヤなんですが、それでもお水を買うよりははるかに安いのでヨシとしましょう。

これで今年の冬は楽しい晩酌生活を送れそうです。

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書評『私が最も尊敬する外交官』

先週読み終わった本について書評など。

 

著者の佐藤優という人は、元外務省のキャリア組であの鈴木宗男元衆議院議員の収賄事件でワイドショーに頻繁に登場した(というか本人が望んで出演したわけではなく、カメラが一方的に回っていただけですが)、あの強面の御仁です。彼もこの事件に連座して最高裁で有罪が確定し、外務省を追われる事になりいまでは作家として活動しています。

この人については、初めはやっぱりワイドショーでの登場の仕方があまりにも悪役で、しかも容姿がそんなマスコミのシナリオにピッタリだったので、書店で本を見掛けても「どうせつまらん暴露話が書いてあるんだろう」くらいにしか思っていなかったんです。ところがある時(たしかブックオフで)彼の本を立ち読みしたらその文体のあまりの格調の高さというか、文章の裏から滲み出てくる教養というか、見識の高さにクラッと来て思わず買ってしまったのが始まりです。

ここのところ彼の本は読んでいなかったんですが、それでも有料のメールマガジンを購読していて彼の新著についてはウォッチをしていました。そんな彼の最新作がこの本です。

同時に、

も買って読んでみたんですが、今日ご紹介するこちらの本の方に知的好奇心を揺さぶられました。
この本で著者がインタビューをしているのが吉野文六という先輩の外交官で、この人の歩いた経歴が面白いんです。太平洋戦争勃発前に外交官になった氏は、船でアメリカに渡り、そこから汽車を使ってニューヨークを経由し、最後は同盟国であるドイツに赴任します。それからドイツ敗戦までの間、ずっとドイツで生活をしてドイツ敗戦後の混乱を命からがら抜け出し、シベリア鉄道を使って満州を経てどうにか日本に帰国する。この一連の赴任生活を著者がインタビュー形式で聞き取りをするというスタイルで書かれています。

この本でまず驚いたのが、日本の外務省が優秀な若手外交官に徹底的な教育を、時間を掛けて、手を抜かずにやっているかという事でした。当時既にドイツは第二次大戦を始めていて、そこに外交官として赴任しているのにも拘わらず、吉野氏は外交官としての通常業務をほとんどすることなく、ドイツ語の習得をするためにひたすら大学で勉強をする、ドイツ人との人脈を作る、そういう事に専念させていたんですね。日本に暮らす日本人には、国家総動員法による非常時という事であらゆるものが制限されていたのに、同じ時期にドイツにいた彼は、世俗と隔絶した優雅な留学生活を送っていた、正確に言えばそういう指示が外務省から出ていたという事です。

外交というのは極めて労働集約的で人に依存する仕事なので、人の教育については徹底的にやる、どんな非常であろうがそれは所詮一時の話で、戦争が終われば(いつか必ず終わるのです)また能力がある人が必要になる、その時のために投資として教育を施すという姿勢を貫いているところを見直しました。翻って民間企業を省みると、景気が良い時、業績が良い時には教育をし、これが傾くと真っ先に減らされるのが教育、研修費だったりします。

日米が開戦し、日本という国がどういう状況になったのかは多くの書物で詳らかになっていますが、同盟国であったドイツはどうだったのか、特にドイツ国内はどういう状況にあったのか、そしてこれを日本人が日本人の視点で綴った本ってほとんどありません。本書はまさにこの空白地帯を埋めてくれるモノとしてとても参考になります。ヒトラーやナチスがドイツ国内で圧倒的な支持を得ていたとは言えない事を振り返っています。例えば、ヒトラーやナチスが大嫌いな人が経営しているお店では、ナチス信奉者が、「ハイルヒトラー」と言って入ってくると露骨に後回しにする、こういう事が許される程度の自由が当時のドイツにはあったんですね。あのような全体主義の国でここまで大っぴらにそういう主義主張がドイツで可能だったという事実と、日本の当時の状況を対比させるとどちらが全体主義色が濃かったのか、また権力に抵抗せず付和雷同に流れやすい日本人気質にも目を向けると多くの学びがあると思います。

本書は外交官としての生活が軸になっていますから、これを読むと外交とはどういう事か、外交官とは何をやっている人なのかが分かって来ます。この中で驚いたのがドイツが敗戦した際に、ドイツの外交官が同盟国である日本の大使館に同盟の解消を告げに自転車で来たというシーンです。もう誰が見ても敗戦は明らかで、今さら告知しに来なくても良いようなものだと我々一般人は考えるのですが、空襲がヒドい中、自転車に乗って日本大使館までこれを告げに来たドイツ外交官がいた事を知ると、プロトコールと言われる外交儀典の重みを理解出来ます。

また氏が、ドイツの敗戦間近で空爆が烈しい状態なのに上司の命令で酒肴を届けに行かされるあたりは、日本の官僚組織の規律がよく分かります。上司からの命令であればそれがどんな事であれ、やる以外にないこれを遂行するというメンタリティーは私には全く理解出来ませんが、あのような極限状態でもそれを粛々とやる公務員って、戦場に於ける兵士とメンタリティーの上では全く相違がないのです。命じる方も命じる方ですが、それを受けて爆撃が烈しい市内を車で走り回る若手外交官(しかもこの酒肴は外交には全く関係無く、上司の享楽が目的なんです)を見たら、シニカルな意見のひとつでも言いたくなるのですが、インタビュアーの著者もまた元外交官でこの切なさというかやるせなさを同じ温度で共有しているところが、戦後もこの公務員魂が不滅であることを示しています。そんな業務命令には従順な彼らであっても、「国民に嘘をつく国家は滅びる」という歴史の教訓を心に刻み、そのポリシーを曲げずに業務をする事の葛藤が伝わってきて、読後感は爽やかなモノとなりました。

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自動運転はサーキットでやってみるべし

ここのところ、自動運転についての記事が多く出ていますね。
グーグルはずいぶん昔から取り組んでいて、すでに公道で48万キロもテストをしているそうです。

このあたりの話については、ちょっと前ですがこの記事がバランス良くまとまっています。
「自動運転」は破壊者か 攻めるグーグル、悩むトヨタ
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21016_R20C13A3000000/
でも、これが日本でやるとなったらかなり揉めそうです。
万が一事故があった場合に(グーグルではこのテストで一度も事故をしていないようですが)、事故の当事者が誰なのかが明確にならないからです。自動運転で乗っている人は、運転という行為に携わっていないのですから、たとえ運転席に座っていたとしてもただの乗客で、当事者とは言えず責任を問う事は出来ません。ではこのソフトウェアを作ったグーグルのような会社が責任を負うかというと、彼らは発売時に免責条項を必ず入れると思われるので、これまた責任を回避出来るわけです。

ではこの被害者は誰に損害請求をすれば良いのか?という法律の穴を塞がないと前に進まないんですよね。これが自動運転の実現にとって大きな壁になると考えています。
で、こういう現実の話は横に措いておいて、ふと思いついた事があります。

この自動運転ってレーシングカーでやったら良いんじゃないですかね。
どうせソフトウェアに運転をさせるのですから、プログラムを修正して、より速く走れる仕様にしたら良いんです。すでにF1ではドライバーの挙動、操作、その時の車の反応などが全部コンピュータ上に再現出来るように記録されています。どのタイミングで、どれだけの強さのブレーキを掛けたのか、コーナーの立ち上がりではギアは何速で、アクセル開度はどれくらいだったか、その時にサスペンションはどの程度沈んでいたか、ハンドルはどれくらい切れていたのか、なんてすべての情報が記録されているんです。

それを元にプログラムを作ったら、レーシングカーで自動運転が出来るはずなんです。

今まで人間の方が優れていると思われたチェスや将棋の世界にもコンピュータが入り込み、しかもこれが日に日に強くなっていき、今や人間は太刀打ち出来ない状態になっています。であれば、レースの世界にも登場してもらおうじゃないかと思うんです。

100%コンピュータ制御をするなら操作ミスは起こりません。ハードウェア(F1の車体とエンジン)が同じならば、あとはプログラムの性能が結果を左右するんです。で、このコンピュータ制御のF1がベッテルを抜き去るなんて事になったら面白くないですか。もうF1レーサーって人間がやる仕事じゃ無くなっちゃいますよ。だって車の性能を完璧に引き出すプログラムを作ったら良いんですから。リアルタイムで車体やエンジンからのフィードバックが摂り込まれて、それによってプログラムの修正が自動的に行われて、速度の調整が出来るようになったら本当の自動運転が完成です。

自動運転の最後の砦は思うに、自動車というハードウェアに何か不測の事態が起こった時に適切に対応出来るのかというところなんです。走行中にタイヤがパンクしたら、人間はそれに気付けば速度を落とし、路肩に寄せて車を停止しタイヤを換えるでしょう。そのようなフィードバックをどこまで広く、深くやるかが乗員の安全性に影響してくるわけです。現実にはほとんどあり得ませんが、高速道路を走行中に石が飛んできてラジエータのホースを破損させて冷却水が漏れてきた。(知り合いで本当にこれが起こった人がいました)
人間なら、ガツンと何かが当たればそこであれ?と思って調べるんですが、コンピュータにそのような不測の事態をキャッチする入力システムが無ければ、今までのプログラム通り淡々と走り続けるだけです。

譬えていえば、ルンバが毛糸の玉をタイヤに引っかけたまま家中をグルグル回って、部屋中毛糸がグチャグチャになったようなものです。

そういうテストって市販車はあまり向いていないんですよね。だってなかなか壊れないから。壊れないように作ってあるのが市販車です。自動車は耐久消費財ですから、多少の事をやっても10年やそこらは動くように作ってあるんです。しかしレーシングカーは違います。こっちは極端な事を言えば、チェッカーフラッグを受けた直後に止まってしまっても構わないんです。レースを完走する最低限度の耐久性さえあれば、残りは速度を高める事に振り向けるんです。例えば、最高速を300キロまで上げると200周で壊れちゃう、でも今日のレースは150周でおしまいだから、あと5キロ最高速が伸びるようなエンジンの設定をする余力があるな、と考えるのがレースなんです。150周で終わるレースなら、200周も走れる必要はないんです。その50周分の余分な能力をもっと速く走るために振り向けるのがレースです。

だからF1ではやたらとマシントラブルが起こるんです。そういう車に自動運転をやらせるとフィードバックシステムって劇的に進化すると思うんですよね。それが最終的には市販車の安全性に活かされると。

こんな車がトップレーサーをぶち抜いたりしたら痛快じゃないですか。しかもそこにはF1パイロットに不釣り合いな体型をした開発者がスーツを着てコクピットに座っているなんて事が実現してもおかしくありません。だって自動運転なんですから、誰が乗っても良いんですよ。F1レーサーと同じくらいの体重の人であれば、どうせハンドル操作も何もしないんですから。
なんて事を考えていたら、ふと、これってビジネスになると気付きました。

誰が乗っても良いんなら、私が乗っても、あなたが乗っても良いんですよ。一定の体格と、Gに耐えられる体力があれば、この自動運転F1カーに私が乗ってチェッカーフラッグを受ける事も可能です。はい、この搭乗券ハウマッチ?世界の金持ちは競ってこれに乗りたがるんじゃありませんかね。だって安全なんですから。

さすがにホンモノのレースだとやり過ぎだというのなら、レースをやっていない日にサーキットを借り切って乗せてあげたら良いんですよ。「あなたもF1を体験出来る」って言って、その自動操縦車に乗ってサーキットを走れるようにしたら、お金を払っても乗りたい人ってたくさんいると思うんですよね。

これスゴくないですか。
ビジネス的にスゴく面白いと思うんですよ。

だって私これに乗ってみたいですモン。
自分でレーシングカーを運転するのは私の運動神経では100%ムリですが、自動運転なら操縦席に座っているだけで良いんですから。それでF1ドライバーの体感している速度や、Gや、コーナリングの感触を味わえる、しかも100%安全に。

鈴鹿サーキット10周走って5万円くらいなら払います。

これ、プログラムのパラメータを変更すれば、ミハエル・シューマッハとセバスチャン・ベッテル、ジェンソン・バトンの走りの違いだって再現出来るはずですよ。ま、再現出来てもそれを味わって違いを知覚出来るとは思えませんけどね。

自動車はタイヤが4つ付いているため、バイクと違って体重移動が不要で、転ぶ事もありません。シートにキッチリと縛り付けるように座っていれば安全を保証する事は簡単でしょう。それでも不安なら、安全のためのマージンをちょっと高く設定すれば良いんです。それでも気分は充分にF1パイロットを満喫出来ると思います。

ホンダあたり本気でやってもらえませんかねえ。

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都会に人が集まりすぎてるから車が売れないんじゃないの?

今回書くエントリー、実はちょっと前にツイッターで書いたのがそれなりに回ったので、改めてここで書き直してみようと思ったわけです。

ここのところ、若者の車離れが目立ってきたと思います。

以下を見てもらうと分かるように、確かに若者を中心に車に乗らない、車を所有しないという人が増えているようです。

若者の車離れについて
Wikipedia若者の車離れ

若者だけがそうなのかというと、そうでもなく国内での販売台数が全体的に右肩下がりになっている様子が以下のグラフからも読み取れます。

国内販売台数の推移

そもそも日本の総人口がピークを迎えて、これからは人口減社会が訪れる事は確実なのでこれからもこのトレンドは続くモノと思われます。それを見越してか、マツダなどは車を運転する人を増やそうとこんなメッセージを発信しています。

Be a driver.
http://www.mazda.co.jp/beadriver/

つまり、車を売る前に運転する人を増やさなきゃという事なんでしょうね。
(個人的にはこれは一企業ではなく、自動車業界全体でやったら良いと思うんですけどね)
世間では、ではどうしたら良いのかと?いう議論も喧しくてネットメディアなどでは多くの原因が挙げられています。

曰く、

▼ 若者の年収が下がったからだ

▼ とにかく保有するための経費が高すぎる

▼ ワクワクする車が発売されない

▼ 都会は公共交通機関が便利で車は必要ない

▼ 渋滞が多くてイライラする

こんなところに理由を見出しています。
これはこれで正しいと思うんですが、それ以前に振り返らなきゃいけない現実があるんじゃないですかね。
それは、

● 都会への極度の人口集中

ですよ。
ここでの都会って、首都圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)と大阪府の中心あたりを指しています。

とにかく全国からこのエリアに人が集まりすぎているんです。
東京都だけで1300万人って、日本の総人口の10%を超えています。これに神奈川の900万人、埼玉の700万人、千葉の600万人を合計すると3500万人以上が住んでいます。

これらの地域の面積が日本全体のどれくらいを占めるかというと、東京都は0.57%、神奈川は0.63%、埼玉はちょうど1%、千葉は1.36%と合計しても3.56%しかありません。

関西でもこれは同じで、大阪府なんて880万人も住んでいるのに、面積は香川県に次いで全国で2番目に小さいんですから。

これって本当に異常だと思うんですけど・・・

田舎に移住してこちらの風景に慣れてしまうと、たまに東京や大阪に行くとドン引き状態になるんですよ。何がって、家と家、ビルとビルの間がほとんど無くて、オマケに庭も無い状態で建物がビシッと密集している光景ですよ。電車に乗って街並みを眺めるとひたすら建物が並んでいるんですよね。こんな狭いところになんで家を建てるんだ?ってくらいの間隔で、満員電車のような密度で。

これに加えてマンションのような集合住宅があるわけです。

これだけの人たちが車を運転したらそりゃいくら道路を作っても渋滞しますがな。
いくら高速道路を整備しても、これだけ人がいれば追いつくわけがありません。
そりゃ駐車場代が、田舎の賃貸マンション代くらいするわけです。

そんなところで車を買っても全然車としての機能は果たせませんし、ましてやドライブする楽しみなんて郊外に行くか夜中に走るくらいしかありませんよ。
しかもこういうところは公共の交通機関が極めて発達しているので、車を持たなくても全然困らないんです。

ここに追い打ちを掛けるかのように、昨今の年収減少トレンドがかぶさると、そりゃ若者が車を買わなくなるのも分かります。

そもそも車を所有するというだけで、なかば懲罰的なコストが掛かるわけで、これを補って余りあるメリットが無ければ所有する価値が無いんです。そしていま、都会に住んでいる若者たちは、その価値を見出せないと判断した結果自動車を買わなくなったのです。

つまり大胆に言うと、都会に人が集中するという事は、自動車の販売にとってはネガティブ要因になるんです。
自動車販売という意味では、都会から人がドンドン逃げ出して田舎や地方都市に分散する方が売れるという事です。
これ、田舎の状況を考えてもらえれば分かります。

田舎ってバスも汽車(電車じゃ無いよ)もとても不便で、ハッキリ言って役に立ちません。そうなると必然的にみなさん車で移動するわけです。コンビニに行くにも車、買い物も車、ジジババが病院に行くのも車、子供の送り迎えも車、通勤も車、野良仕事に行くにも車、ご近所に行くのだって車で移動します。

そうすると、一家に一台じゃ足りません。フツーに免許を持っているオトナ一人につき一台の車を買う事になります。これ、年収の低い若者だって買いますから。どう考えても、田舎の人の年収の方が、都会の人よりも安いわけですよ。それなのに必要に迫られて買うわけです。私だって移住後もう一台買い足しましたから。

で、田舎では車庫用の駐車場代ってほとんど掛かりません。みんながこれだけ車に乗れば、家に駐車場があるのが当たり前です。ですからどんな安いアパートにも駐車場は付いています。そしてほとんどの場合、駐車場代は家賃に含まれているんです。ちなみに一軒家の場合にはそれすらかかりません。だって田舎って家の敷地が広いですから、車の一台や二台、駐車する場所には困りません。

車庫用だけではなくて、有料の一時貸しの駐車場(コインパーキングね)も都会に比べれば激安です。岡山駅前でも1日停めて700円とかありますから。だいたい1時間200円とか高くて300円くらいが相場です。これなら車で移動するのをためらう必要がありません。

さらにさらに、田舎では渋滞も少なくて信号の数も少ないですから、必然的に燃費が良くなるんです。私の乗っているエコカーは、横浜時代にはリッター10キロちょいだったのが移住後はフツーに14キロとか走ります。もちろんその分距離は行くんですけどね。しかしここには車が車として快適に機能する環境があります。仕事で東京に行ってタクシーに乗ると本当に驚きます。走っている時間よりも信号待ちをしている時間の方が長いんですから。しかもこの信号が進行方向見渡す限りズラッと立っている風景は、見ていると胸が悪くなります。かつてはそれが当たり前だと思っていたんですけどね。
ここまで読んでもらえば分かるように、田舎というか地方都市というのは自動車にとって有利なんです。つまり、都会から田舎に人が移ってくれば、なかば自動的に自動車を買う人が増えてくるという事です。だとしたら自動車メーカーが採るべき施策は、会社を挙げて若者の移住を促進する、人口を都会から田舎、地方都市へ移転させるという事なんです。

今どき都会の若者にコマーシャルを流しても車は売れませんよ。

自動車メーカーがやるべきなのは例えば、

▼ 農業法人を作って耕作放棄地を買い、そこで農業研修をやったり

▼ 事あるごとに田舎暮らしの良さをアピールしたり

▼ 逆に都会の生活をDisったり

▼ 自らの本社を田舎に移したり

▼ 工場を田舎に作り、そこでの給与を都会よりも高くしたり

▼ キャンペーンや新型車の試乗は田舎を中心でやったり

▼ CMはすべて田舎で撮影し、田舎の風景をフィーチャーしたり

▼ 部品メーカーや系列会社も丸ごと田舎に移転しちゃう

▼ マスコミでの広告も田舎ネタに手厚くおカネを落とし

▼ EVの充電所は田舎から配置する

なんて感じで、田舎の人にアピールをする施策を通じて、グループ会社を挙げて田舎への人口移動を図る事だと思うんです。

もちろんこれは政治とも絡めてやらなきゃダメだと思います。(自動車会社は基幹産業ですから相応の発言力はあるはずですし、何よりカネを持っているんですから力が無いわけがありません)つまり、

▼ 都会への一極集中を促進するあらゆる政策に反対し

▼ 都市部へのさらなる道路インフラへの投資に反対し

▼ 逆に都市部では車が不要になる政策に賛成する

って事をやるべきだと思うんですよね。

ここで追い風なのは、安倍政権が地方再生というスローガンを掲げている事です。
ここに自動車メーカーが乗っかったら強力な流れを作れると思うんですよね。

石破地方再生相と組んで都会から田舎、地方都市に人が流れるようにする。地方出身議員と超党派連合を作って取り組めばかなり色々な事が出来ると思うんですよね。だいたい今でも議員って地方選出者の方が多いんですから。例えば、自動車税や重量税の一部減免、地方の高速道路の無料化なんて、彼らがタッグを組んだら今すぐにでも出来る政策です。地方の道路なんてどうせガラガラなんですから、道交法を改正して田舎の制限速度、法定速度を10キロくらい上げたら良いんじゃないですかね。

これからは都会は公共交通機関で、田舎は自動車主体でという棲み分けをした方が国家運営としては投資対効果が高いはずなんです。

都会は人口の流入に道路の整備が追いつかずに慢性的な渋滞になっています。それでもこれからも人口が増えるのならジャンジャン道路を作らなきゃいけません。ところが都会の地価は高いですし、すでに余っている土地はありませんから、高架にするか地下にするかしか選択肢がありません。これがさらに建設費を上昇させるわけです。どこにどうやって作るんだと訊きたいくらいです。特に一般道については土地が余っていないんですからもう打つ手は無いんです。

これに対して田舎や地方都市って、まだまだ土地が余ってます。よしんば人が増えて渋滞が問題になっても、高速道路を作らなくてもバイパスを作るだけで十分対応出来ます。そもそも論でいえば、道路財源って地方にも遍くバラ撒かれていたわけで、そのおカネでもうお腹一杯ってくらいの道路整備は終わっているんです。ウチのあたりだってあらゆる農道にアスファルトが敷かれていますから。高速道路や有料道路だって同じです。北海道あたりじゃ有料道路の利用率が低くて(だって一般道でも混んでいないんだからおカネを払って有料道路を使う人なんてそんなにいませんよ)税金の無駄遣いだって言われているくらいです。つまり田舎を自動車優先に切り替える事について、新規のインフラ投資はほとんど要らないという事です。

田舎に人が集まれば、利用する人がいないのに、オラが村にも高速道路をなんてリクエストで作られた道路を有効活用出来るわけです。田舎のカーライフにちょっとだけエコヒイキをするだけで、田舎や地方への人口流入が起こって死産が資産になるというわけ。過去数十年掛けて投資をした分が活用されるだけなので、この政策に追加投資はほとんど要らないはずなのです。

ではどうやって田舎や地方都市に人を移転させるのか。そのためには自動車メーカーは率先して軸足を地方へ移すべきなんです。都会ではなく地方で経営する事で、自社だけでなく関連企業がゴソッと移転してきます。

日産なんて横浜に工場があるんですが、こんなのは売ってしまってそのおカネで地方に工場を建て直したらどうですかね。地価の差額を考えたら案外ペイしませんかね。工場が移れば系列の部品メーカーも移転するので一番良いんですが、工場がムリなら管理部門系をゴソッと移転させるとか。田舎に来たいという人はたくさんいるんですが、最大のネックは雇用なんですよね。これ、自動車メーカーが来ればガラッと話しは変わります。

これからデザインすべきなのは、都会と田舎、地方都市でのライフスタイルの棲み分けだと思うんです。都会では車なんて持たなくても便利に快適に生活が出来る。そのために公共の交通機関にもっと投資をする。そうやって個人の移動を公共の交通機関にシフトさせる。都会の道路は貨物のような商業物流とバスのようなマスの移動に特化する。そうやって自家用車が道路を占める率を下げさせる。道路が余ったら自転車専用道に切り替える。こういうライフスタイルが気に入った人が集まってくるようにする。

反対に田舎や地方都市は、都会に比べればそれほど便利じゃないけど、自動車文化としては使い勝手が良い、ランニングコストも安い、そして快適である。そういう街作りを目指していく。今でも田舎、地方は車中心の社会になっているんですから、このライフスタイルを人口流入に結びつける政策、施策を官民で考える。

結局今の流れが継続し、定着してしまったら、一番ガミを食う(損をする)のは自動車メーカーなんですから。これ以上都会に人が集まって、さらに道路が混雑して、空気が悪くなって、自動車が全然便利な存在じゃなくなったら、さらに自動車は売れなくなるんです。

ま、でも日本の自動車メーカーって海外売り上げ比率が高いから、日本の市場が凹んだ分海外で売れば良いんじゃないのって考えるんでしょう。だからこそ、本当はこういうのは政治主導でやらなきゃダメなのかも知れません。

なんてエントリーを書いた途端こんな記事を発見。

東京集中「望まぬ」半数=内閣府が初の調査

 

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一人のスーパースターを認めるか 中村裁判を振り返る

今年のノーベル物理学賞が3名の日本人(正確に言えばうち一人はすでにアメリカ国籍を取得していて日本人ではありません)に決まったという事で大いにニュースになっています。
しかも中村氏はその青色LED関連で、かつて在籍していた会社を訴えたりしていますから、特に注目が集まったようです。

ネットでも、「このままじゃ日本の会社には優秀な技術者は集まらない」という中村氏寄りのコメントと、「実はあの発明は日亜化学の別な社員がブレークスルーを成し遂げた」というような氏をDISる内容のものまで幅広くアップされていて面白く読みました。

その代表的な意見をふたつ紹介しておきますので、詳しく知りたい方はどうぞ。

中村氏の言い分はこちら
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_1.html

日亜化学の言い分はこちら
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_2.html

でもね、この問題はそういうおばちゃん目線で見ていたらダメなのよ。
いつもメールマガジンで書いているように、一歩引いてメタレベルで事象を見つめないと本当の問題は見えてこないんです。どっちが正しいかなんて話は論点にすらならないんですよね。

問いの次数を上げて、「なぜ中村氏は会社を飛び出したのか(飛び出さざるを得なかったのか)」と考えないと問題の本質は見えてきません。

こう考えると、実は日本という社会が持つ普遍的な問題が見えてくると思うんです。

日亜化学が自ら報道しているように、合計で6000万円の特別報酬を出して、年収2000万という田舎の(失礼!)サラリーマンとしては高額の給与を払ったのにも拘わらず、裁判になるくらい問題がこじれてしまったのは、突き詰めると日本の社会では一人のスーパースターを認めるという文化が合意されていないからだと思うんです。

日本では未だに(それが良いか悪いかは措いておいて)、会社というのは一人の力で大きくなるのではなく全員がそれぞれの役割分担をキッチリこなす事で育っていくというものなのだという信仰にも近い価値観を持っています。日亜化学でも、青色LEDを発明した中村氏が一人で全部をやったわけではなく、そこには彼をサポートしたチームや、特許をまとめた法務部やら、それを製品化した製造部門、そして販売した営業部もいた、それらの集大成が事業の拡大を成し遂げたのだ、という考えがあるんでしょう。

もちろん彼の成し遂げた役割の大きさは認めなきゃいけませんし、それは出来る範囲でやったというのが会社側の言い分でしょうし、それは客観的に見ても(日本の会社の常識で振り返ると)「やった」と言えるレベルだったと思います。

ところが中村氏の方は、「アホ言え、そんなもんじゃ足りないだろう」って思っていたわけです。なんたってLED発明前は売り上げが180億しかない会社だったのが、発明後はこれが10倍になっているんですから。この増分の1割をもらったって150億くらいになるじゃないかと氏が考えても無理な話じゃありません。

この言い分が全世界で非常識扱いをされるというのなら、氏もどこかで折れたでしょうが、世界ではこれを認める価値観を持つ国があるのです。それがアメリカという国です。かの国では、CEOを始め経営幹部が巨額の報酬をもらうのが半ば常識になっているのは各種の報道で耳にした事があるかと思います。ヒラ社員の100倍の年収なんて少ない方で、かつてのGMのように赤字で潰れそうになっても経営幹部は使い切れないほどの報酬をもらうのが当たり前だという考え方が一定のコンセンサスを得ています。

ここではこの考え方が正しいかどうかの議論はしません。ただ、そういう考えをする人が日本に比べてかなり多くいるという現実を述べているのです。

そういう考えを許容するというか、当たり前だと思う国があるのなら、オレだってその権利があるのだと考え、これを行使しようとしたのが中村氏なのです。

ではなぜアメリカを初めとする白人社会ではこのような考えが一定の支持を得るかというと、ここには2つの理由を認める事が出来ます。ひとつは白人文化は狩猟文化であること、もうひとつは彼らの精神的バックグラウンドに一神教があることです。

その前に、『アメリカを初めとする』という記述について注釈を入れておきましょう。この国は元々、今は『ネイティブアメリカン』と呼ばれるモンゴロイド系の原住民が司る大陸だったのが、コロンブスが偶然にもこの地に辿り着き、紆余曲折を経て、当時本国で食い詰めた下層イギリス人が定住し、原住民を殺戮しつつ本国イギリスから独立を果たし、独立後はこれまたヨーロッパを中心とした移民が流れ込み(彼らもまた本国では職にあぶれた下層民)、国家として発展してきたという歴史を持っています。ですから本稿で『アメリカ』とか、『アメリカ人』という場合には、モンゴロイド系の原住民ではなく、ヨーロッパから移民してきた先祖を持つ白人という意味でご理解下さい。

アメリカ人に於いては先祖がこのようなヨーロッパ系が多いわけですから、必然的に農耕民族と対になる存在としての狩猟民族的価値観、思考がマジョリティを占める事は言うまでもありません。そして狩猟民族は、基本的に独りで、自分の才覚と能力で獲物を仕留めるわけです。もちろん仕留めた獲物は全部自分のモノになりますよね。どこに行けば獲物がいるのか、というのも自分で考えなければなりませんから、孤独ではありますが自由でもあります。彼らは他人からあそこに行け、この弓矢を使わなきゃダメだ、何時までに帰って来いという指示は受けません。なんの保証も無く、全部自己責任で生きているわけですから、手にした果実を全部自分のモノにするのは当たり前です。

対して農耕民族はどうかというと、これは共同作業の文化、価値観を持つのです。今は農作業のほとんどが機械化されましたからかつてほどではありませんが、農作業というのは集落、部落の民が集まってみんなで力を合わせてやるモノだったんです。独りで1反の田んぼの田植えをするよりも、5人で5反を分業してやった方が効率が良いのです。自分の田んぼを他人に手伝ってもらう代わりに自分も他人のところの田植えをやってあげる。そうすると牛や馬を各世帯が所有する必要も無くなるんです。そういう文化の下では、個人の意見を主張する事は許されません。何事もみんなで合意をして、それでも合意が出来ない事は長老に決めてもらう、そして決まった事は全員が守る。収穫も分け合う事でイザコザが起こらないようにする。こういう知恵が必要になるんです。

さらにもう一つ農耕民族の特徴を挙げると、これが完全に気候に依存するという事です。みんなが田植えをする時期というのは、今がベストなタイミングだという事です。ここでオレはオリジナリティを主張したいからひと月遅らせるよ、なんて事を言う人は農耕民族として生きていけないんです。つまり、ここでも『自分だけが』という価値観は通用しないという事です。

この対比だけでも、アメリカでは経営者が巨額の報酬をもらう事が認められ、日本ではそうではないという理由が見えてくると思います。

ここに一神教と多神教の対比を重ね合わせるとさらに彼我の違いが明らかになります。

一神教というのは唯一絶対の神を持ち、この神との契約をする事で生きていく、そしてひとたび契約をしたら他の神を崇める事が出来ないという、日本人から見たらとても狭量な宗教です。このような宗教がなぜ成立したのかについては、

森林の思考・砂漠の思考

という名著に詳しいのですが、かいつまんで言うと一神教が成立した地域の気象が砂漠的だったからなのです。ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教もどれも成立したのは砂漠地帯ですね。砂漠というのは雨が降らないわけで、ところが人間は水がなければ死んでしまいます。そこでは絶対的なリーダーが生まれて彼が、『あちらの方向に行けば水があるはずだ!』と告げる事でグループが移動を開始するんです。幸運にも水が見つかれば、それは私が神様と交信をしてオアシスの場所を教えてもらったからだというロジックが成立してしまいます。そうなると今度はリーダー自らが、自分は神と交信出来るという証明をしなければならなくなります。これが奇跡の創出であり、キリストが一切れのパンを増やしたり、水をワインに変えたり、病気の人を触るだけで治したりというエピソードに発展するというか、このようなエピソードを挿入しなければ絶対的リーダーとして認めてもらえないという話になるのです。

ところが中国や日本のような多神教文化というのは、気象条件がマイルドなんですね。日本なんてオアシスを探す必要すらありません。何もしなくても雨が降ってくるわけですから。さらに気温も植物が生長するのにちょうど良く、狩猟をする必要すらありません。言い忘れましたが、狩猟民族というのはそもそも彼らが暮らす地の気候条件もしくは、土壌条件が農耕に適していないため、農耕だけでは生きていけないから生まれたんですよ。ところがアジアの多くの国は、農耕にはピッタリの条件が重なっています。こういうところでは絶対的なリーダーを必要としません。誰でもテキトーに山の中を歩けば、山菜は採れるわ、果物は樹になっているわ、上手くすれば松茸だって見つけられるかも知れません。こんな環境で、右の方に行けば食べ物があるぞ!と叫んでも、じゃあお前が勝手に行けや、って言われておしまいです。

この2つの『狩猟民族vs農耕民族』という対比と、『一神教vs多神教』という対比を重ね合わせると、白人社会ではなぜ強烈なリーダーシップが求められ、そして時代時代でそのようなリーダーが出現するのかが分かりますし、一握りの成功者が巨大な富を所有する事が許される理由も分かりますよね。アメリカンドリームなんて、まさに一攫千金、バクチか宝くじで大アタリを引くようなものです。それを求めて人がやって来るという事は、それがなかば制度化されて、このような突出した人間を受容する価値観が具わっているという事なんです。

そう考えるとノーベル賞を受賞した中村氏は、日本人でありながら白人的な気質を持っている事に気付くはずです。前述した氏のコメントを読んでもらえれば氏が、『この発明に最も貢献したオレの取り分が一番多くなるのが当たり前だ』と考え、それが日本社会で受け入れられないという挫折を感じている事は明白です。かつての日本でもこのような人はいたんですが、当時の世界は今ほどフラットになっていませんから、そのような人たちが取れる選択肢は『この状況を甘んじて受け入れてガマンする』しかなかったんです。ところが今はそんなガマンをする必要はありません。海をはさんだあちらの国では、むしろこのような人を大歓迎してくれて、優遇してくれるわけですから。そうなれば、何も日本でガマンする必要なんてありません。あっちに行って白人的価値観で活躍すれば良いだけなんです。

つまりこの問題は、価値観がベースになっている軋轢なんです。ですからどっちが良い、悪いという結論を求めるものではありませんし、そのような思考は事象の認識を歪めます。日亜化学にしたって、心情として中村氏にもっとエコヒイキをしてあげたくても、そんな事をしたら他の社員を納得させる事が出来ません。日本の文化では、いくら突出した貢献があろうとも、一人で100人分の報酬をもらう(裁判で決着した8億円って200人分の年収です)なんて事が許容される事は無いのです。それを要求するという事は、そのコミュニティから出ていく覚悟を必要とするのです。

このような優秀な人を流出させる日本社会に未来は無い、という論調も多く耳にするのですが、日本という社会では、特に会社という多数の人による共同作業で成果を上げる環境では、一人のスーパースターによる突出した成果よりも、数多くの関係者による連係プレーによる成果の方が情動を動かされるのです。これは、少し前までやっていたNHKの『プロジェクトX』という番組のヒットぶりを見れば分かるでしょう。そして日本はそういうやり方で戦後奇跡の復興を遂げたのです。バブル崩壊後急に路線変更をしたのでは無いのです。中村氏のような人材を海外に流出させる事が日本の未来を暗いモノにするというのなら、(創業社長を除けば)さしたるスーパースターが生まれなかった日本がなぜこれだけの経済成長を遂げたのかを説明する必要があるでしょう。

ここで創業社長を除けばと書いたのは、戦後はスーパースター的社長がきら星のように生まれ、彼らが日本経済を牽引したからです。すべて故人ですが、松下幸之助氏、盛田昭夫氏、井深大氏、中内功氏、本田宗一郎氏、出光佐三氏などなど軽く十指に届きます。彼らと中村氏の違いは、創業社長であったかどうかという事です。現代日本でも、孫正義氏、柳井正氏、ちょっと前のホリエモン、ブラック企業と叩かれているワタミ、すき家、ヤマダ電機などの創業者も故人に勝るとも劣らない個性を持っていますが、彼ら経営者はいくら飛び跳ねていてもコミュニティから追い出される事はないのです。ここが雇われのサラリーマンと大きく違うところです。なんたって自分が作ったコミュニティ(会社)ですから、ワンマン的振る舞いが許されるんですよね。だから本当は中村氏は日本でベンチャーを作れば良かったんですが、残念ながらベンチャーを取り巻く環境も、日本よりアメリカの方が進んでいるんですよね。そりゃそうです、中村氏のような思考を持って、実際に行動に移しちゃうような人の数は日本よりもアメリカの方が多いんですから。

ということは、これから日本がグローバル化をしていけば、そして中村氏のような人が数多く出て来れば、日本の内部環境もそれに従って変化してくると言えるんじゃ無いんですかね。ただし、その事が日本により多くの(そして大きな)幸せをもたらすかというと、それは別の話だと思いますけどね。

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私の生涯で、本当に買って良かったもの

いま振り返れば、大人になって良かった事って自分で稼いだおカネで誰にも文句を言われずに好きなモノを買えるようになった事だったりします。子供の頃って、おカネが無くても親が色々必要なものを買ってくれたりするわけですが、大人になると自分で稼いで買わなきゃならない、ここが大きな違いで、つまりは広義で言えば人生とは何を買うかという事で語れるような気もしています。

とは言え、高いモノばかりを買えるわけもなく(買う必要も無く)、買い物の多くは生活必需品で衣食住に直結するものが大半です。その中でも趣味の延長線上にあるものってそれなりに大事にするし、そもそも思い入れがあるから買った時のシチュエーションを覚えていたりするモノですが、何気なく買ったものってあんまり覚えていないんですよね。しかもそんな買い方をしたのに、「これは買って良かった!」と後から思うものってあんまり無かったりします。

しかし、何気なく買ったのに、使ってみたらこれはスゴく良い、買って良かったってこころから思うものに出逢う事がごくごくたまにあるものです。私にとってその筆頭に来るのがコレです!

いろり

これは何かというと囲炉裏テーブル。テーブルの真ん中がくり抜かれていて、そこに炭を置けるようになっています。これ、我が家のリビングに鎮座しているんですが、田舎に移住した時に本当に何気なく買ったんですよ。買った時には、リビングが広いから何かテーブルみたいのがあったら良いよなあというくらいの気持ちでとりあえず買ってみた一品です。

ところがこれ、これからの季節は大活躍なんです。夏は真ん中の囲炉裏部分にフタをしてフツーのちゃぶ台になるんですが、秋になるとこのフタを外してここにバーベキュー用の炭をおこして入れるとこれが立派な調理器具に大変身。

炭をおこしたらこんな感じになります。

いろり2

あらゆる食材がこの上で焼けるんですが、炭火で焼いたら何を焼いても奇跡のように美味しくなるんですわ。野菜だろうが、魚だろうが、肉だろうがなんでも美味しくなります。真冬はこの五徳に鍋を載せたらあっという間に鍋パーティがスタートです。蟹を生のまま炙って食べたり、ご近所で頂いた鮎を炙ったり。炭が食材の水分をちょうど良い感じで奪ってくれて、しかも遠赤外線で奥までキレイに火が通る。さらに部屋が暖かくなるので暖房費の節約にもなります。

あまりの手軽さ(なんたって食事の支度は食材を切っておくだけなんだから)と、その労力に反比例する美味しさ、そして部屋中に漂う炭の香ばしい香り。炭って消臭効果もあるので、部屋の中で焼いているのに翌日になるとそれほどニオイが残っていないのも良いところです。

ただし難点は一酸化炭素が出る事。これを使う時には換気に気を付けなきゃなりません。でも我が家の場合にはリビングの上に換気扇を付けているのでスイッチを入れるだけでOK。

これを買ってから色々なモノを炙りましたが、これまでで一番美味しかった食材は何かというと・・・蟹や鮎や松茸や松阪牛というメジャー食材ではなく、なんと

焼きおにぎり!!

やきおにぎり

はい、今夜も焼きました。というか、これが食べたくて炭をおこすようなものです。玄米を炊いてそれを握って焼くだけですから、料理とも言えないレベルの料理ですが、炭火でほどよく水分が抜けて、表面がカリカリになったところにお醤油をちょろっとたらすと、その醤油が炭にのって部屋中に香ばしいカオリが漂うのですわ。もうこれだけで堪らないのですが、焼き上がったおにぎりはもう絶品のひと言。どんな高級食材もこの味には敵いません。しかもなんたってタダのおにぎりですから全然おカネが掛からないというのもありがたいところで、偶然にしろこれを買ってしまった自分を褒めてあげたくなります。

このテーブルさえあれば、都会でも出来るというところが素晴らしいと思いませんか?で、こんなのどこで売ってるんだ?って話になるわけですが、困った時にはアマゾンで検索してみろという格言通り(どんな格言だ?)、検索したらやっぱりありました。(画像をクリックすると詳細ページが開きます)

iroriamazon

設置場所が必要ですが、こたつが置けるスペースがあればどうにかなるはずですよ。一家に一台力一杯オススメします。

 

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我が家の畑はこんな感じ

ブログになって写真をジャンジャン使えるようになったので、畑に出て何枚か撮ってきました。

今までは文章で説明するしか無かったんですが、これでようやくイメージを掴んでもらえるかと思います。

まずは収穫間近のモノから。

サツマイモ

これは安納芋というとっても甘いサツマイモです。葉っぱが紫になっているのが新しい葉です。普通はそろそろ収穫期なので新葉が出ないはずなんですがどうなってるんでしょうか。収穫期には茎が黄色になると野菜作りの本には書いてあるんですが、まだまだ青々としているので芋掘りが出来るのはもうちょっと後なのかも知れません。ちなみにこれだけ葉っぱがあっても、植え付けた芋づるは3本だけです。(うち1本が途中で死んだので、2本の茎がここまで茎を伸ばして葉を作ったという事ですね)これで何本のイモが収穫出来るのか分かっていないんですが、希望的観測では10本くらいはいけるのではないかと思っています。

次はただいま絶賛生長中のヤツをご紹介しましょう。

 

ジャガイモ

この畝では2つの野菜を作っています。手前がジャガイモで、奥にあるヒョロッと伸びているのがタマネギです。これは植え付けてからちょうどひと月経っています。ジャガイモは一度土寄せをしたので茎が安定してきました。どちらも年内に収穫予定です。

お次は今すぐにでも収穫出来そうなヤツを。

さといも

縦に長い楕円形の葉っぱをしているのがサトイモ。これは茎の下に実を付けています。先日1本掘ってみたんですが、4つくらいの小芋が付いていました。化成肥料をたくさんあげるとこの5倍くらいの葉の大きさになるんですが、染色体異常の生物を観るようでちょっと怖いです。ご近所はみなさんそうやっているので、彼らから見たら私のサトイモは欠食児童のようで気味悪いと言うかも知れません。サトイモの葉の間にニョキッと尖った葉を伸ばしているのがショウガです。1本の茎には握り拳大のショウガが付いています。これを小さく切って豚肉で巻いて炙って食べると美味いんですよ。

お次も冬野菜です。

大根ねぎ

左奥に葉を茂らせているのが大根。その手前がチンゲンサイ、そして右側に垂直に葉を伸ばしているのが長ネギです。大根はこの葉っぱを刻んでサラダにするのが美味しいんです。スーパーではこの部分をなぜか切ってしまうんですが、なんで美味しいところを捨てちゃうんでしょうか。手前のチンゲンサイはかなり虫に食われています。それでも食べます。湯がいても、油でサッと炒めてもいけますよ。長ネギは8月の下旬、大根とチンゲンサイは9月の上旬に種まきをしました。

最後はこれ。

ニラ落花生バジルナス

ここはパッと見カオス状態です。左手前と右奥に茂っているのが落花生です。その奥に垂直に伸びていて上に花を付けているのがニラ、その奥で紫の葉を付けているのがナス、そして一番奥でナスよりも背が高くなってしまったのがバジルです。落花生は土を肥やすために別な場所に生えていたのをここに移植したんですが、5ヶ月でこの畝を占拠されてしまいました。豆はそれくらい大きく育ちます。ニラは去年の春に植えて食べきれなくてそのまま放置していたらドンドン大きくなってしまったんです。今年もせっせと食べたんですが(この1年くらいニラって買ってない気がします)食べ尽くす事は出来ませんでした。これも摘みたては香りが強くて瑞々しいんですよ。ナスは今年最大のヒット。去年はチョビっとしか実を付けなかったのに、今年は夏に米ぬかを撒いたらそれが良かったのか鈴なりになりました。良く見ると未だに紫の花を付けているのが分かると思います。つまりこれからも実を付けるという事です。さすがに食べ飽きたんですけどね。食べ飽きたといえばバジルです。これはトマトのコンパニオンプランツとして去年の春に植えて、秋には1年分のバジルペーストを作ってやれやれと思っていたら、今年の春に去年のこぼれ種が芽を出してこんな大きさになってしまいました。これも都会で買うと5枚で200円とかするんですよね。この感じだと来年もこぼれ種から芽を出すと思います。

実は上の写真、良く見ると落花生の間にピーマンの茎が見えるんです。これは落花生に囲まれてヤル気が無い感じなんですが、それでも今年は5つくらいの実を付けてくれました。

テキトーにやってもここまで育ってくれるのはスゴいと思います。命って生きているんだなと実感出来ます。

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Nexus7のWiFiの調子が悪いんだが

ブログ再開一発目にこんなネタでどうかと思うんですが、同様の障害を経験中の人には参考になるかと思って書いておきます。

 

私はNexus7の32GのLTEモデルを愛用しているんですよ。

Nexus7

これ、SIMフリーでMVNOが使えるんで通信費は激安です。私はIIJのSIMを入れていますが上限の2Gになった事がありません。ま、家ではWi-Fiを使っていますから。

 

ところが、このWi-Fiの調子がイマイチなんですよ。

SmartNewsを見ていても、リンク先が開かなかったり、FBのタイムラインが更新されなかったり、ツイートの取得が出来なかったり、明らかにこれネットワークの問題です。ところが同じWi-Fiを拾っているノートPCの方にはそういう障害は起こりません。ムムム、ちょっとイラッとしてきた。

 

こういう時にはとりあえずググってみるのが鉄則です。そうしたらやっぱりありました。同じような障害を体験している人が。

この方も私と同じく、セキュリティソフトをインストールしていたんですね。この瞬間に、「あ、これか」と気付いた人は経験値が高いです。セキュリティソフトってどこのヤツを使ってもなんかしら問題が起こるんですよね。まぁ、OSの深いレベルで動作をしているんで仕方が無いのかも知れませんが。

 

という事で、セキュリティソフトを導入してからWi-Fiへの繋がりが悪くなった人はこちらを見て下さい。

http://www.84th.net/today/2014/03/nexus7-wi-fi.html

といってもこれで直ったのかどうかは、あと1日使ってみないと分からないんですけどね。

 

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ようやく再開しました

ブログ再開します!

という事で、いきなり告知もなくブログを再開する事にしました。

再開というのは、ずいぶん昔「はてなブログ」で書いた事があるからです。

あれから6年が経過し、私もサラリーマンを辞めて田舎暮らしをするようになり、メールマガジンのタイトルとは微妙にマッチしないライフスタイルになって来ました。そのあたりを補足しつつ、時事ネタや政治、経済、野良仕事なんて事について書こうと思います。

 

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