今年のノーベル物理学賞が3名の日本人(正確に言えばうち一人はすでにアメリカ国籍を取得していて日本人ではありません)に決まったという事で大いにニュースになっています。
しかも中村氏はその青色LED関連で、かつて在籍していた会社を訴えたりしていますから、特に注目が集まったようです。
ネットでも、「このままじゃ日本の会社には優秀な技術者は集まらない」という中村氏寄りのコメントと、「実はあの発明は日亜化学の別な社員がブレークスルーを成し遂げた」というような氏をDISる内容のものまで幅広くアップされていて面白く読みました。
その代表的な意見をふたつ紹介しておきますので、詳しく知りたい方はどうぞ。
中村氏の言い分はこちら
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_1.html
日亜化学の言い分はこちら
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_2.html
でもね、この問題はそういうおばちゃん目線で見ていたらダメなのよ。
いつもメールマガジンで書いているように、一歩引いてメタレベルで事象を見つめないと本当の問題は見えてこないんです。どっちが正しいかなんて話は論点にすらならないんですよね。
問いの次数を上げて、「なぜ中村氏は会社を飛び出したのか(飛び出さざるを得なかったのか)」と考えないと問題の本質は見えてきません。
こう考えると、実は日本という社会が持つ普遍的な問題が見えてくると思うんです。
日亜化学が自ら報道しているように、合計で6000万円の特別報酬を出して、年収2000万という田舎の(失礼!)サラリーマンとしては高額の給与を払ったのにも拘わらず、裁判になるくらい問題がこじれてしまったのは、突き詰めると日本の社会では一人のスーパースターを認めるという文化が合意されていないからだと思うんです。
日本では未だに(それが良いか悪いかは措いておいて)、会社というのは一人の力で大きくなるのではなく全員がそれぞれの役割分担をキッチリこなす事で育っていくというものなのだという信仰にも近い価値観を持っています。日亜化学でも、青色LEDを発明した中村氏が一人で全部をやったわけではなく、そこには彼をサポートしたチームや、特許をまとめた法務部やら、それを製品化した製造部門、そして販売した営業部もいた、それらの集大成が事業の拡大を成し遂げたのだ、という考えがあるんでしょう。
もちろん彼の成し遂げた役割の大きさは認めなきゃいけませんし、それは出来る範囲でやったというのが会社側の言い分でしょうし、それは客観的に見ても(日本の会社の常識で振り返ると)「やった」と言えるレベルだったと思います。
ところが中村氏の方は、「アホ言え、そんなもんじゃ足りないだろう」って思っていたわけです。なんたってLED発明前は売り上げが180億しかない会社だったのが、発明後はこれが10倍になっているんですから。この増分の1割をもらったって150億くらいになるじゃないかと氏が考えても無理な話じゃありません。
この言い分が全世界で非常識扱いをされるというのなら、氏もどこかで折れたでしょうが、世界ではこれを認める価値観を持つ国があるのです。それがアメリカという国です。かの国では、CEOを始め経営幹部が巨額の報酬をもらうのが半ば常識になっているのは各種の報道で耳にした事があるかと思います。ヒラ社員の100倍の年収なんて少ない方で、かつてのGMのように赤字で潰れそうになっても経営幹部は使い切れないほどの報酬をもらうのが当たり前だという考え方が一定のコンセンサスを得ています。
ここではこの考え方が正しいかどうかの議論はしません。ただ、そういう考えをする人が日本に比べてかなり多くいるという現実を述べているのです。
そういう考えを許容するというか、当たり前だと思う国があるのなら、オレだってその権利があるのだと考え、これを行使しようとしたのが中村氏なのです。
ではなぜアメリカを初めとする白人社会ではこのような考えが一定の支持を得るかというと、ここには2つの理由を認める事が出来ます。ひとつは白人文化は狩猟文化であること、もうひとつは彼らの精神的バックグラウンドに一神教があることです。
その前に、『アメリカを初めとする』という記述について注釈を入れておきましょう。この国は元々、今は『ネイティブアメリカン』と呼ばれるモンゴロイド系の原住民が司る大陸だったのが、コロンブスが偶然にもこの地に辿り着き、紆余曲折を経て、当時本国で食い詰めた下層イギリス人が定住し、原住民を殺戮しつつ本国イギリスから独立を果たし、独立後はこれまたヨーロッパを中心とした移民が流れ込み(彼らもまた本国では職にあぶれた下層民)、国家として発展してきたという歴史を持っています。ですから本稿で『アメリカ』とか、『アメリカ人』という場合には、モンゴロイド系の原住民ではなく、ヨーロッパから移民してきた先祖を持つ白人という意味でご理解下さい。
アメリカ人に於いては先祖がこのようなヨーロッパ系が多いわけですから、必然的に農耕民族と対になる存在としての狩猟民族的価値観、思考がマジョリティを占める事は言うまでもありません。そして狩猟民族は、基本的に独りで、自分の才覚と能力で獲物を仕留めるわけです。もちろん仕留めた獲物は全部自分のモノになりますよね。どこに行けば獲物がいるのか、というのも自分で考えなければなりませんから、孤独ではありますが自由でもあります。彼らは他人からあそこに行け、この弓矢を使わなきゃダメだ、何時までに帰って来いという指示は受けません。なんの保証も無く、全部自己責任で生きているわけですから、手にした果実を全部自分のモノにするのは当たり前です。
対して農耕民族はどうかというと、これは共同作業の文化、価値観を持つのです。今は農作業のほとんどが機械化されましたからかつてほどではありませんが、農作業というのは集落、部落の民が集まってみんなで力を合わせてやるモノだったんです。独りで1反の田んぼの田植えをするよりも、5人で5反を分業してやった方が効率が良いのです。自分の田んぼを他人に手伝ってもらう代わりに自分も他人のところの田植えをやってあげる。そうすると牛や馬を各世帯が所有する必要も無くなるんです。そういう文化の下では、個人の意見を主張する事は許されません。何事もみんなで合意をして、それでも合意が出来ない事は長老に決めてもらう、そして決まった事は全員が守る。収穫も分け合う事でイザコザが起こらないようにする。こういう知恵が必要になるんです。
さらにもう一つ農耕民族の特徴を挙げると、これが完全に気候に依存するという事です。みんなが田植えをする時期というのは、今がベストなタイミングだという事です。ここでオレはオリジナリティを主張したいからひと月遅らせるよ、なんて事を言う人は農耕民族として生きていけないんです。つまり、ここでも『自分だけが』という価値観は通用しないという事です。
この対比だけでも、アメリカでは経営者が巨額の報酬をもらう事が認められ、日本ではそうではないという理由が見えてくると思います。
ここに一神教と多神教の対比を重ね合わせるとさらに彼我の違いが明らかになります。
一神教というのは唯一絶対の神を持ち、この神との契約をする事で生きていく、そしてひとたび契約をしたら他の神を崇める事が出来ないという、日本人から見たらとても狭量な宗教です。このような宗教がなぜ成立したのかについては、
森林の思考・砂漠の思考
という名著に詳しいのですが、かいつまんで言うと一神教が成立した地域の気象が砂漠的だったからなのです。ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教もどれも成立したのは砂漠地帯ですね。砂漠というのは雨が降らないわけで、ところが人間は水がなければ死んでしまいます。そこでは絶対的なリーダーが生まれて彼が、『あちらの方向に行けば水があるはずだ!』と告げる事でグループが移動を開始するんです。幸運にも水が見つかれば、それは私が神様と交信をしてオアシスの場所を教えてもらったからだというロジックが成立してしまいます。そうなると今度はリーダー自らが、自分は神と交信出来るという証明をしなければならなくなります。これが奇跡の創出であり、キリストが一切れのパンを増やしたり、水をワインに変えたり、病気の人を触るだけで治したりというエピソードに発展するというか、このようなエピソードを挿入しなければ絶対的リーダーとして認めてもらえないという話になるのです。
ところが中国や日本のような多神教文化というのは、気象条件がマイルドなんですね。日本なんてオアシスを探す必要すらありません。何もしなくても雨が降ってくるわけですから。さらに気温も植物が生長するのにちょうど良く、狩猟をする必要すらありません。言い忘れましたが、狩猟民族というのはそもそも彼らが暮らす地の気候条件もしくは、土壌条件が農耕に適していないため、農耕だけでは生きていけないから生まれたんですよ。ところがアジアの多くの国は、農耕にはピッタリの条件が重なっています。こういうところでは絶対的なリーダーを必要としません。誰でもテキトーに山の中を歩けば、山菜は採れるわ、果物は樹になっているわ、上手くすれば松茸だって見つけられるかも知れません。こんな環境で、右の方に行けば食べ物があるぞ!と叫んでも、じゃあお前が勝手に行けや、って言われておしまいです。
この2つの『狩猟民族vs農耕民族』という対比と、『一神教vs多神教』という対比を重ね合わせると、白人社会ではなぜ強烈なリーダーシップが求められ、そして時代時代でそのようなリーダーが出現するのかが分かりますし、一握りの成功者が巨大な富を所有する事が許される理由も分かりますよね。アメリカンドリームなんて、まさに一攫千金、バクチか宝くじで大アタリを引くようなものです。それを求めて人がやって来るという事は、それがなかば制度化されて、このような突出した人間を受容する価値観が具わっているという事なんです。
そう考えるとノーベル賞を受賞した中村氏は、日本人でありながら白人的な気質を持っている事に気付くはずです。前述した氏のコメントを読んでもらえれば氏が、『この発明に最も貢献したオレの取り分が一番多くなるのが当たり前だ』と考え、それが日本社会で受け入れられないという挫折を感じている事は明白です。かつての日本でもこのような人はいたんですが、当時の世界は今ほどフラットになっていませんから、そのような人たちが取れる選択肢は『この状況を甘んじて受け入れてガマンする』しかなかったんです。ところが今はそんなガマンをする必要はありません。海をはさんだあちらの国では、むしろこのような人を大歓迎してくれて、優遇してくれるわけですから。そうなれば、何も日本でガマンする必要なんてありません。あっちに行って白人的価値観で活躍すれば良いだけなんです。
つまりこの問題は、価値観がベースになっている軋轢なんです。ですからどっちが良い、悪いという結論を求めるものではありませんし、そのような思考は事象の認識を歪めます。日亜化学にしたって、心情として中村氏にもっとエコヒイキをしてあげたくても、そんな事をしたら他の社員を納得させる事が出来ません。日本の文化では、いくら突出した貢献があろうとも、一人で100人分の報酬をもらう(裁判で決着した8億円って200人分の年収です)なんて事が許容される事は無いのです。それを要求するという事は、そのコミュニティから出ていく覚悟を必要とするのです。
このような優秀な人を流出させる日本社会に未来は無い、という論調も多く耳にするのですが、日本という社会では、特に会社という多数の人による共同作業で成果を上げる環境では、一人のスーパースターによる突出した成果よりも、数多くの関係者による連係プレーによる成果の方が情動を動かされるのです。これは、少し前までやっていたNHKの『プロジェクトX』という番組のヒットぶりを見れば分かるでしょう。そして日本はそういうやり方で戦後奇跡の復興を遂げたのです。バブル崩壊後急に路線変更をしたのでは無いのです。中村氏のような人材を海外に流出させる事が日本の未来を暗いモノにするというのなら、(創業社長を除けば)さしたるスーパースターが生まれなかった日本がなぜこれだけの経済成長を遂げたのかを説明する必要があるでしょう。
ここで創業社長を除けばと書いたのは、戦後はスーパースター的社長がきら星のように生まれ、彼らが日本経済を牽引したからです。すべて故人ですが、松下幸之助氏、盛田昭夫氏、井深大氏、中内功氏、本田宗一郎氏、出光佐三氏などなど軽く十指に届きます。彼らと中村氏の違いは、創業社長であったかどうかという事です。現代日本でも、孫正義氏、柳井正氏、ちょっと前のホリエモン、ブラック企業と叩かれているワタミ、すき家、ヤマダ電機などの創業者も故人に勝るとも劣らない個性を持っていますが、彼ら経営者はいくら飛び跳ねていてもコミュニティから追い出される事はないのです。ここが雇われのサラリーマンと大きく違うところです。なんたって自分が作ったコミュニティ(会社)ですから、ワンマン的振る舞いが許されるんですよね。だから本当は中村氏は日本でベンチャーを作れば良かったんですが、残念ながらベンチャーを取り巻く環境も、日本よりアメリカの方が進んでいるんですよね。そりゃそうです、中村氏のような思考を持って、実際に行動に移しちゃうような人の数は日本よりもアメリカの方が多いんですから。
ということは、これから日本がグローバル化をしていけば、そして中村氏のような人が数多く出て来れば、日本の内部環境もそれに従って変化してくると言えるんじゃ無いんですかね。ただし、その事が日本により多くの(そして大きな)幸せをもたらすかというと、それは別の話だと思いますけどね。